2012年05月27日

生涯現役に奇跡の夢をかけて

生涯現役に奇跡の夢をかけて 
                           2012年5月16日
 高橋育郎

1.8月26日開催の「日独文化交流交歓会」

ドイツ・カールスルーエ独日協会合唱団「フリューゲル」
2012年 夏8月26日(日)日独文化交流交歓会開催
開演13:00  終演16:30
於 日本橋社会教育会館(人形町)8階ホール
   国際親善で文化の交流を楽しみましょう。参加費無料です。

当館サークル団体のほかに栃木県上三川少年少女合唱団が参加します。
   新曲「日本橋音頭」高橋育郎作詞 江村玲子作曲が披露されます。
    
主催 心のふるさとを歌う会 協賛 中央区 ドイツ大使館 日独協会   
後援 日本童謡協会 日本生涯現役推進協議会 山岡鉄舟研究会

 昨年は日独友好協約締結150周年。これを記念してカールスルーエでは日本の桜を150本植えました。
 独日協会合唱団は、2002年3月に創設されました。日本文化をこよなく愛し さくらさくら わらべうた 日本民謡など幅広く歌っています。

 指揮者 有馬牧太郎 東京藝術大学作曲科卒、カールスルーエ音楽大学声楽科卒業 
 ピアノ伴奏 江村玲子 東京藝術大学作曲科卒業カールスルーエ音楽大学歌曲演奏科卒業。 お二人はご夫婦で、ドイツの各地で大活躍されています。

「心のふるさとを歌う会」は NPO法人ライフ・ベンチャー・クラブ(日本生涯現役推進協議会)から1992(平4)年12月に誕生しました。
 「笑顔と歌で元気なシニア」「思い出あたたかい」をモットーに
おかげさまで20周年を迎えようとしています。 
主催の 高橋育郎は 日本童謡協会会員で作詞作曲をてがけ、歌唱指導 歌の歴史や心を伝えています。
一昨年11月3日「五反田ゆうぽうと」にての「全国童謡歌唱コンクール・グランプリ大会」で「大きな木はいいな」が金賞になりました。 今回、ドイツとの交流は このことが きっかけになりました。  お問い合わせ 高橋 043・271・1513 

2.国際交流交歓会が実施されるに至る経緯

 2010,11,3に開催された「全国童謡歌唱コンクール・グランプリ大会」(於 五反田ゆうぽうと)において作詞の「大きな木はいいな」が東海北陸代表 宮内麻理さんによって歌われ金賞になった。会場に山本紀久雄氏がおみえで、この結果をドイツ・カールスルーエの独日協会合唱団に伝え、そのことが今日につながった。
 また、パリの日本人作曲家にもつなげていただき、これにより作詞の「きつねのよめいり」が作曲されて、宮内麻理さんが地元の各種コンサートで歌うにいたり、この2曲は交歓会においても宮内さんが歌うことになった。
 また、今回の交歓会を記念して「日本橋音頭」を作詞。独日協会合唱団ピアノ伴奏の
江村玲子さんが作曲。振付 館山市の里見香華さん。

3.生涯現役と私

 人の運命は最後の最後まで分からないもの。
 私は昭和28年国鉄に入社。 62年 分割民営化により JRとなってⅠ年後の63年に退職。これを転機ととらえて第2の人生を180度転換させた。
 第2の人生。音楽(歌唱 作詞作曲)をやって行きたい。 無謀な冒険に挑戦。
 世間の荒波に木の葉の舟で漕ぎだしたとき、遭遇したのが 生涯現役を唱導している
ライフ・ベンチャー・クラブだった。
 ここでイベントの仕事をはじめ、平成4年「心のふるさとを歌う会」をはじめることができた。日本橋社会教育会館。今年は20周年になる。
 異業種交流の場でもあるこの会で、幾多の人との出会いと支援により、今日ここまでやってこられました。

 「歌の会」を始めたことで翌5年、日本童謡協会に入る。作詞作曲に取り組むことができた。(協会に入る時「童謡に生涯現役の夢かけて」の論文が 啓蒙雑誌の懸賞論文に入賞)
 13年に「大きな木はいいな」が童謡祭で歌われ、翌14年の全国童謡サミットで、この歌が「21世紀の愛唱歌」になって、カワイの「みんなの童謡200」に収録。
 このことが、今回、グランプリ大会で歌われる元になった。
 今年9月の童謡祭で 参加作品は10曲になる。内、最初の2曲は作曲。あとの
8曲が作詞。 私はいい作曲家に恵まれました。

 国鉄在職中 作品の4曲がレコード会社から レコード化されて発売に。
 (国鉄団体旅行ソング「シャンシャンいい旅夢の旅」 お座敷電車「なのはな号音頭」
 房総の観光イメージアップソング2曲)日本音楽著作権協会に入る。こうした体験がイベント業に向かわせた。

4. 奇跡の作詞作曲家
 
人様から次第に作詞作曲家といわれるようになったが、私のような素養のない者には奇跡としか思えない。
 小学校に入学した年、国民学校に変わって、戦時体制に入り、戦後新制中学まで学校において、音楽教育は一切ないまま過ごした音楽コンプレックス世代。
 ところが歌好きは生まれた時からで、中学高校時代は美術部で通しながら、高校になって音楽に傾倒して行った。
 作詞は、2年生のとき「銀座の夜空はネオン焼け」を作詞。3年生で「冬が来た」を作詞作曲。 そして奇跡を起こした。絵を描いていた男が、コーラスの指揮者になっていた。

 高校卒後、国鉄に就職し 憧れの合唱団に入って、実地体験で音楽を学んだ。
 ここで楽譜が読めるようになったことが、作曲する上に大いに役立ち、ピアノもなかった時代に頭に浮かんだメロディーを五線紙に書きとめることをした。
 昭和40年 NHK「あなたのメロディー」で「機関士一代」が歌われアンコール賞。
この体験が,のちに生かされた。

5.夢を目標にする

 人生、生きて行くには はじめに夢ありき。その夢を目標にする。目標にするとエネルギーが発生して、夢を実現させる力になる。夢を叶えるには勇気も必要。
 誰でも知っていることだが あえていわせてもらった。
 私は今年 喜寿を迎えた。歳はとっても夢の灯は消さない。これからも夢の灯りを灯し続けて行きたい。
2008年に「ああ武士道」を作詞作曲。そこに「風雪道を阻もうと 耐えて忍んで 実をとる」と書いた。私の生涯現役は いっぽうで障害現役でもある。何か事をなす時、障害に見舞われる。その障害をはねのけるとき、その力が夢を広げる力になるような気がする。
 生涯現役は、自分の得意技に磨きをかけて世のため人のため生かすこと。学んだ知識をよく咀嚼して、自分のものにして社会貢献のため実践して生かしていく。実践力を身につけて、これを生きがいとしていく。実践は宝。生きがいを持ち、やるべきことをやることが若さを生みだす原動力となる。     
                               以上

投稿者 Master : 12:08 | コメント (2)

2011年10月26日

「活人剣(かつにんけん)」と「殺人刀(せつにんとう)」

「活人剣(かつにんけん)」と「殺人刀(せつにんとう)」
──「必勝の剣法」はある、それが《武士道》だ──

2011年10月19日
北 川 宏 廸

 

 本日、この山岡鉄舟研究会で是非お話ししたいのは、世の中には何ものにも負けない「必勝の剣法」が存在する、ということについてである。

 結論を先に言えば、山岡鉄舟がいう《武士道》とは、実は、この「必勝の剣法」のことをいっているのである。

剣法の実際の「理」と「技(わざ)」を《言葉》で表現するのは、大変むつかしい。

なぜなら、われわれが五感で認識し、判断し、行動(行為)する、剣法の「理」と「技」を表現する言葉の論理は非常に甘いし、また、われわれの認識には、事実から乖離したある種の思い込みやバイアスが含まれているので、実際に起きている事実をそのまま記述すること自体、そもそも不可能であるからだ。

 したがって、本稿では、剣法を《言葉》で説明しつつ、そのポイントとなる部分では、自然科学者が自然現象記述の手段として使用する「数式」の力を借りて、この「必勝の剣法」の存在を明らかにしたいと思う。

山岡鉄舟の剣法は
「一刀正伝無刀流」

 
山岡鉄舟は、自らの剣法を「一刀正伝無刀流」と名付けている。

 鉄舟の剣法は、一言でいえば、鉄舟自身が「剣法と禅理」( 明治13年(1880年)、鉄舟45歳のとき )のなかで述べているように、流祖・伊藤一刀斉景久の流れを継ぎ、当時、「一刀流」の達人といわれた師範の浅利又七郎義明から学んだ「一刀流剣法」の奥義を、そのとき、京都天龍寺の管長であった禅僧・滴水から鉗鎚(けんつい)を受けた「無相」の禅理───すなわち、「見性悟入」(太刀を用いないで天道発源の心理の極致に悟入すること)の禅理───に、帰一させたところにある、といってよい。

 鉄舟は、「一刀流兵法箇条目録」( 明治15年(1882年)、鉄舟47歳のとき )のなかで、次のように述べている。

 「 抑々 当流刀術を一刀流と名付けたる所以のものは、元祖伊藤一刀斉なるを以ての故に一刀流と云ふにはあらず。一刀流と名付けたるは、其気味(注、含むところ)あり。万物大極の一より始まり、一刀万化して、一刀に治まり、又一刀に起るの理あり。又曰く、一刀流は活刀を流すの字義あり。流すは〝すたる〞(以下、括弧〝〞は、筆者)の意味なり。当流〝すたる〞ことを要す。〝すたる〞といふは、一刀に起り、一刀に〝すたる〞ことなり。然れども其〝すたる〞の理通じ難し。於是か、さきより門前の瓦(かわら)と云へるたとへあり。瓦を以て門をたたき、人出で門開く、此時用をなしたる程に、瓦を捨つ可きを、其儘持て席上に通らば、かへって不用品とならん、是を捨てざるゆえなり。業(わざ)も亦然り、打つべきところあらば、一刀を打ちて用をなしたる故、ここに〝すたる〞ことあらば、またおこる、万化すといへども、みなしかり。打って打たざるもとの心となる、これ刀〝すたる〞の至極なり。」

 すなわち、鉄舟は、自らの剣法「一刀正伝無刀流」の理を、「一刀に起こり、一刀に〝すたる〞」ところにあるというのだ。

 ここで、〝すたる〞という自動詞は、「なきものになる」「あとに残さない」「終わる」「もとに治まる」「はじめに戻る」などの意味で使われている

 また、鉄舟は、「剣法邪正弁」( 明治15年(1882年)、鉄舟47歳のとき )のなかで、「一刀正伝無刀流」の極意を、次のように披瀝している。

 「夫れ 剣法正伝真の極意者(は)、別に法なし。敵の好む処に随ひて勝を得るにあり。敵の好む所とは何ぞや、両刃相対すれば、必ず敵を打んと思ふ念あらざるなし。故に我体を総て敵に任せ、敵の好む処に来るに随ひ勝つを真正の勝と云ふ。譬へば、箇(はこ)の中にある品を出すに、先ず其蓋を去り、細に其中を見て品を知るがごとし。」

 さらに、前述の「一刀流兵法箇条目録」のなかで、「一刀正伝無刀流」のポイントとなる点を、十二箇条あげている。

一、二之目付(にのめつけ)之事
   ( 敵を見るポイントは、太刀の「切っ先」と、敵の「拳」(こぶし)の2点にある )
二、切落(きりおとし)之事
   ( 自分の太刀を切り落とすと、何時の間にやら敵の「拳」にあたる、無拍子の拍子 )
三、遠近之事
   ( 敵の為には打つ間が遠くなり、自分の為には打つ間が近くなること )
四、横竪上下之事
   ( 横竪上下とは、真ん中のこと。上より来るものは下より応じ、下より来るものは上より応じ、横より    来るものは竪に応じ、竪に来るものは横に応じ、心はいつも中央に在って、気配自由なること )
五、色付之事
   ( 色付とは、敵の色(気配)に付くな、ということ )
六、目心之事
   ( 目心とは、目を見るな、心でみよ、ということ )
七、狐疑心之事
   ( 狐疑心とは、疑心を起こすな、ということ )
八、松風之事
   ( 松風とは、合気(拍子)を外せ、ということ )
九、地形之事
   ( 地形とは、順地(つま先下がり)逆地(つま先上がり)のこと。順地は敵を拳下りに打つため有利、    よって敵を逆地におけ、ということ )
十、無他心通之事
   ( 無他心通とは、敵を打つ一遍の心になれ、ということ )
十一、間之事
   ( 間とは、敵合いの間のこと。自分の太刀下三尺、敵の太刀下三尺、とみて、六尺の間。一足出さ    ねば敵にあたらぬ故、打つもつくも、一足一刀。この間合いが大事 )
十二、残心之事
   ( 残心とは、心を残さず打て、ということ。心惜しまず〝すたれ〞ということ )

 鉄舟が、このように、一ヵ条づつあげて、十二ヵ条目録を掲げたのは、剣法は、一刀よりおこって、万剣に化し、また、万刀一刀に帰す、と考えたからだ。

 これはちょうど、一年に十二ヵ月があり、一陽に起こって、万物造化し、陽中陰をめぐみて、万物生じ陰ここに極まりて、年月つくるものと見れば、陰中陽を発して、またいつか青陽の春にかへるようなに、自然の摂理は、必ず陰陽をくりかえす。

 したがって、「一刀正伝無刀流」の鍛錬や修業も、「一よりおこりて十二に終る、而してまたもとの一にかへりて、つくることなし、またもとの初心にかへり、またもとにかへり、無量にして極りなき心に至る」のだ、というのである。

 要すれば、鉄舟の剣法は、敵の好む処をよく見極め、敵の動きに随い、こちらが主導権をとって、敵の「切っ先」と「拳」に目をつけ、迷わず、間髪を容れず、無拍子の拍子で、心残さず、敵の「拳」を一刀両段に打ち据えよ、ということに尽きるといってよい。

 実は、鉄舟の剣法は、後でお話しする、上泉伊勢守を流祖とする「柳生新陰流」の剣法「活人剣」(かつにんけん)そのものだったのである。鉄舟は生涯一度も、幕末の混乱のなかにあっても、刀で人を斬ったことはなかった。

山岡鉄舟のいう
「武士道」とは
 

では、鉄舟は、兵法の道である「武士道」を、どのように考えていたのか。

 これが明らかになるのは、鉄舟が著した「武士道」( 万延元年(1860年)、鉄舟25歳 のとき)のなかの次の一文だ。

 「 わが邦人に、一種微妙の通念あり。神道にあらず、儒道にあらず、仏道にもあらず、神。儒。仏。三道融和の通念にして、中古以降専ら武門に於て、其著しきを見る。鉄太郎之を名付て武士道と云ふ。然れども未だ曾て文書に認め、經に綴って伝ふるものあるを見ず。」

 そして、鉄舟は、「武士道」を次のように定義する。

 「 武士道は、(中略)善悪の理屈を知りたるのみにては武士道にあらず、善ありと知りたる上は、直に実行にあらわしくるをもって、武士道とは申すなり。」

 そしてまた、

 「武士道は、本来心(道理、すなわち天地の心理)を元として、形(行為)に発動するものなれば、形は時に従い、事に応じて変化変転極まりなきものなり」と。

 すなわち、鉄舟は、「武士道」で大切なのは、起きている事の善悪を天地自然の道理に照らして判断する「判断力」だけではなく、その判断に基づき自分の目前で起きている事態の改善に向けて行動を起こす「決断力」の方にある。その行動は、これから起きる不測の事態に対して、常に「臨機応変」でなければならない、と考えたのである。

「必勝の剣法」
の二つの流れ

 剣法の歴史をみると、戦国時代が終わった1600年の関ヶ原の戦いを境にして、「介者剣法」(鎧をつけた兵士の剣法)から、「素肌剣法」(甲冑を身につけない剣法)への大きな流れの転換がみられる。
 すなわち、「殺人刀」(せつにんとう)の介者剣法から、「活人剣」(かつにんけん)の素肌剣法への移行だ。
「活人剣」の原形はすべて介者剣法の中にある。介者剣法から剣法のエッセンスを抽出したのが、「柳生新陰流」の上泉伊勢守であった。

 介者剣法は、重たい兜を被り、鎧をまとって戦った戦国時代の剣法だ。甲冑での戦いは重たい兜や鎧を着けているため、重心を低くした「沈なる身」での斬り相いとなる。
 この剣法の極意は、とにかく「相手の拳(こぶし)を斬ること」であった。なぜなら、甲冑から露出していて、こちらから一番近いところにあるのが、相手の拳であるからだ。

 介者剣法では、「切っ先三寸」(太刀の先端から三寸、約9センチ)で、相手の長さ三寸ほどの拳を斬ることを「三寸二つ」と教えている。

 さらに、相手の拳を斬るために、「十文字勝ち」をいう教えがある。たとえ敵がどのように打ってきても、敵と正対し、自らの《人中路》を、真っ直ぐ、一刀両段(新陰流では「断」ではなく、「段」という)に断つように斬ると、必ず敵の拳が斬れる、という教えだ。

 人中路とは、自らの身体の中心を貫くラインのことだ。敵の人中路と、自らの人中路を合わせて、自らの人中路を断つように斬ると、切っ先三寸で相手の拳が斬れるのである。

 介者剣法では、この刀法を「拳を見て拳に勝つ」と言い習わしてきた。

伊勢守の活人剣でも、やはり、自らの《人中路》のこの「十文字勝ち」が、剣法の「技」の根幹におかれている。

 しかし、介者剣法の「理」の根元は「殺人刀」にある。殺人刀は、自分の得意とする技に磨きをかけて、その得意技を生かしてスピードとパワーで敵に勝つ、という考え方だ。

 殺人刀の「殺人」(せつにん)とは文字通り、人を殺すという意味ではない。「殺」とはスピードとパワーで敵を威圧し、委縮させることをいう。

一対一の斬り相いは、相対する二つの存在の熾烈なぶつかり合いになるが、殺人刀で勝てるのは相手に対して自らの実力が勝っているときに限られる。

 つまり、殺人刀では勝つチャンスもあれば、負けるリスクもある。勝敗がどちらに転ぶかは、実際に剣を交えるまでわからない。

 しかし、江戸時代に入り、「大坂の役」を最後に大規模な合戦はなくなり、天下泰平の世となった。
 ここで剣法は、「介者剣法」から「素肌剣法」へと大きくパラダイムシフトする。剣法の「理」が「殺人刀」から「活人剣」に変わったのである。

 活人剣は、殺人刀の「殺」が、敵を威圧してその働きを殺す意味だとしたら、活人剣の「活」は、敵を働かせて、敵の働きを利用して、それに対応して勝ちを得る、という柔軟な考え方をとる。この考え方を突きつめていくと、自分と敵の関係を見極めて、自分と敵を共に生かす、という生き方につながっていく。

 敵を先に働かせて、そのスピードとパワーに応じて、無形の位から自由闊達に剣をふるって勝つ。相手は「斬った」と思っているのに、いつの間にか斬られている。これが活人剣が想定するところの《必勝の方程式》だ。

 実は、武士道は、「殺人刀」の介者剣法から「活人剣」の素肌剣法への移行期に、そもそも、剣法の「普遍的価値」とは何なのか───さらにいえば、権力を握りこの世の中を統治する《武士》という支配者階級に求められる「真実の道」とは何なのか───という重い課題を、真摯に追求するところからはじまったのである。

 すなわち、《武士道》とは、人間の生き方の、兵法における「真実の道」を発見することだったのだ。

 「真実の道」は、何も兵法にだけあるのではない。それは、およそ技術をもち、道具を用いて生きていく、あらゆる「人間」と「人間」の間に無数に存在する《 間合い=「時間」と「空間」 》において、極めて有効に作用しているところの語りがたき「理外の理」の働きなのである。

 だから、武士道は、人間の《観念》のうちにあるのではなく、人間の有効な《行為》のなかにある。
しかし、有効な行為の理論は、あまりに精妙で、これを観念によって極めることが不可能であることから、人は器用・不器用などという曖昧な《言葉》で済ませようとする。

これを曖昧にせず、《器用》という言葉の中に含まれる「理外の理」を突きつめること、これがまさに《武士道》だったのである。

「上泉伊勢守」
と「宮本武蔵」

 
この「介者剣法」から「素肌剣法」への移行期にあらわれたのが、柳生新陰流の流祖・上泉伊勢守と、宮本武蔵だった。

 伊勢守は室町時代末期の1508年頃生まれ、戦国時代の真っただ中を生き、75歳ほどで死んでいる。武蔵は、本能寺の変があった天正10年(1582年)、ちょうど伊勢守が死んだ頃に生まれ、1645年の乱世が収束した時代に死んでいる。

 面白いことに、「活人剣」の創始者である伊勢守と入れ代るかたちで、最後の「殺人刀」最強の剣客であった武蔵が生まれてきたことだ。

 伊勢守の偉大なところは、戦国期のある特異な時点において、その時期に形成された新当流(神道流)、念流、陰流の3つの流れを修め、なかでも陰流を最も重んじ、それに自らの工夫を加えて、「新陰流」という新しい「活人剣」の流儀を創造したことだ。

 伊勢守の「活人剣」の奥義は、伊勢守が著した秘伝書『影目録』(全四巻)の『燕飛』の巻に収められている。

 また、武蔵の剣法は、武蔵が死ぬ2年前の寛永20年(1643年)に書いた『五輪書』によって知ることができる。

 これを読むと明らかになるのは、両者の間に、剣法の「技」においては、寸分の優劣の差はなかったが、剣法の「理」において、両者の間に根本的な理解の差があった、ということだ。

 それは、「技」において優劣の差のない、相対峙する2つの存在が、〝いのち〞をかけて対決する「斬り相い空間」において、相対峙する2つの別々の太刀の、それぞれの回転運動を貫くところの「理」の違い──── つまり、2つの太刀のそれぞれに働く運動力学の違いをどう理解していたのか───という問題だ。

 武蔵の「殺人刀」では、太刀の運動力学の視点がまったく欠落しているのだ。

 「斬り相い空間」は、マトリクスで示すと、「空間軸」と「時間軸」の合成空間だ。「自分」の立ち位置は、両軸の交点0の空間軸上にある。相対峙する「相手」の立ち位置は、自分からみると時間軸上の《時間空間》のなかにある。
運動力学の理論に従えば、太刀に同じ力が加えられたとしても、太刀の回転速度(スピード)は、時間軸上よりも、空間軸上の方が、回転スピードが速い。

つまり、空間軸上にいる「自分」の太刀の方が、時間軸上にいる「相手」の太刀よりも、斬り下ろす太刀のスピードが速い。「自分」は、常に相対優位のポジションにいるので、十分注意深く、かつ、臨機に対応できれば、「自分」は自然の理によって守られているのだ。

 伊勢守が「活人剣」を編み出したのは、「空間軸」と「時間軸」の隙間にある、この「理」に気がついたからではなかったのか。

彼は、これを「理外の理」というかたちで認識し、どうも「空間」と「時間」の関係を相対的なものとみていた節があるのだ。

 現代物理学の立場から言えば、伊勢守はアインシュタインの「相対性理論」の力学に立っていたのである。これに対して、武蔵には時間軸が存在しない。彼は、ニュートン力学の立場に立っていたのだ。

柳生新陰流の
剣法の「奥義」

 柳生新陰流剣法の「奥義」とは何か。

 柳生新陰流を他流と隔てている柳生新陰流の奥義は、「性自然」と「転」(まろばし)という2つの理念を剣法の要においたことにある。

 一、「性自然」

 剣術では、心と身体、身体と太刀を自然と一体化させて、バランスよく動くことが理想だ。ところが人間は相手を斬りたいと気がはやると身体と太刀、手と足がバラバラになりがちだ。なまじ手が器用なため、手先のみに頼って相手を斬ろうとしたり、手が先に出て足が残ったりする。それでは自然の摂理から離れてしまう。

 新陰流では、「性自然」の状態を、「刀身一如」とか「心身一如」、また、「刀中蔵」、「神妙剣」あるいは「無刀取り」と教えている。

 「刀身一如」とは、太刀という道具と自分を一体化すること、「心身一如」とは、自分の心と身体を一つにすること、「刀中蔵」とは、相手から見たときに自分の身体を構えた太刀に隠す、という意味だ。

 「神妙剣」とは、「人知を超えた剣」という意味で、ありのままで滞りなく、怒りや怖れといった感情に左右されない純粋な心こそが、敵の千変万化の働きに対して自在に応じる太刀捌きの原動力になる、という教えだ。

 また、「無刀取り」とは、太刀を持って向かってくる相手に対して、太刀を持たない無刀の状態で立ち向かい、相手の太刀を奪って勝つ技だ。しかし、抜刀した相手に素手で立ち向かい、その太刀を奪取するのが無刀取りの目的ではない。

 太刀を持たない無刀のときに、人ははじめて太刀を持つ人の気持ちになれる。そのとき、本当に自分と敵が「自他一如」の状態になる。そうなると、必要以上に焦ったり、不利に思ったりせず、敵の気持ちになって、敵が斬りやすいように誘い出し、敵に斬り込ませて、これに対応することができる。

 無刀という究極のシミュレーションを介して、真剣勝負の本質を知ることができる、と教えるのだ。

 二、「転」(まろばし)

 流祖・伊勢守は、先にあげた秘伝書『影目録』のなかで、「転」(まろばし)の極意を、次のように説明している。

 「‥‥‥懸待表裏は、一隅を守らず。敵に随って転変して一重の手段を施すこと、恰も
風を見て帆を使い、兎を見て鷹を放つが如し。懸、懸に非ず。待、待に非ず。懸は意待に在り。待は意懸に在り。‥‥‥‥」

 ここに出てくる、「懸待表裏」とは、相手との「斬り相い空間」を構成する重要な4つの要素のことだ。
「懸」とは、先制攻撃を行うこと、「待」とは、敵の攻撃を待つこと、「表」とは、敵が構えた太刀の刃の方向あるいは前の方向から攻めること、「裏」とは、それとは逆に敵の構えた太刀の刃の裏から攻めること。また、「一隅を守らず」とは、いずれにもこだわらず、の意味だ。

 そして、伊勢守は、「転」とは、この「懸待表裏」の4つのいずれにもこだわらず、相手の出方に応じて柔軟に対応することなのだ、という。

 これは、水夫が潮風を見て船の帆を操り、猟師が兎の動きを見て鷹を放つのと同じで、攻めることは攻めることではない、守ることは守ることではない。攻めることは守ることであり、守ることは攻めることなのだと、伊勢守は看破したのである。

 柳生新陰流の「活人剣」は、この「性自然」と「転」という2つの理念を要においている。

 では、ここで新陰流「活人剣」の奥義を整理しておこう。

 新陰流の「活人剣」は、相対する2つの存在がぶつかり合う「斬り相い空間」において、まず、「相手」と「自分」の関係を見極め、「相手」を先に働かせて、相手の「転」(まろばし)を活かして、これを活用するかたちで、「一瞬の時間差」を利用して、後から「相手」に打ちかかり、迷わず、自らの《 人中路 》(自らの身体の中心を貫くライン)を真っ直ぐ、一刀両段に、斬り下ろせば、「相手」の太刀の上に乗るかたちで、必ず勝ちを治めることができる、というものだ。

一言でいえば、《 「後手必勝」の剣法 》ということができる。

 要するに、活人剣においては、こちらのシナリオに沿って相手を動かし、斬り相う前から、こちらが主導権をとり、相手が「勝てる」と思ってどう斬ってくるかを予測して、待ち構えて、これに打ち勝つのである。

柳生新陰流剣法の
「後手必勝」の数理

 では、後から打ってなぜ勝てるのか。

 新陰流の剣法では、先に働かせ斬ってきた相手に対し、後から打ちかかって、相手の太刀に乗って勝つ、という。普通に考えると、先に動いた方が有利で、それを見てあとから動くと、この「一瞬の時間差」で斬られてしまうはずだ。

 実は、「斬り相い空間」における、このほんの僅かな「一瞬の時間差」に、新陰流秘伝の「後手必勝」の数理が働くのである。

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(事務局からお詫び)
(数式部分が正しく表示できないため、該当部分をスキャンして掲載いたしました。見難いとは存じますがよろしくお願いいたします)

「生きる」とは
どういうことか

 生きものが「生きる」ということは、このe(時間軸)とπ(パイ・空間軸)の回転スピードの「一瞬の時間差」を利用して、「自分」のいのちを、「敵」から守ることなのだ。

 生き続けるには、《3つの条件》を満たす必要がある。

1、敵の「転」を観て、その働きを予測する。
2、敵の「転」に、臨機応変に応じ、その働きを封じる。
3、そのためには、普段の「習い」「稽古」「工夫」を欠かさない。

 「生きる」こととは、生存価値の善・悪・正・邪以前に、この世の自然の摂理に従うことであり、生きる価値は、生き続けること自体にある。

 野生のライオンはシマウマを食べて生きている。追われるシマウマは、ライオンから、15%の時間軸上のハンディキャップを使って逃げ切ることにより、食われない確率が五分五分になる。だから、シマウマは絶滅しない。

 生きものが自らの生存リスクを察知して、十分注意深かければ、この世の中で生き続けられる理由が、まさにここにあるのだ。

以 上      

 この内容についてお問い合わせは北川宏廸氏hirom-ki@js4.so-net.ne.jp
 又は山岡鉄舟研究会info@tessyuu.jpにお願いいたします。

(参考文献)

1、「英傑 巨人を語る」(勝海舟/評論、高橋泥舟/校閲、安部正人/編、日本出版放送企画発行、1990年)

2、「負けない奥義───柳生新陰流宗家が教える最強の心身術」(柳生耕一平厳信著、ソフトバンク新書161、2011年)

3、「五輪書」(宮本武蔵著、佐藤正英 校注・訳、ちくま学芸文庫、2009年)

4、「宮本武蔵 剣と思想」(前田英樹著、ちくま文庫、2009年)

5、「博士の愛した数式」(小川洋子著、新潮文庫、2005年)

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2008年11月08日

10月例会記録(1)

明治維新と西洋音楽事始 第3話
「唱歌の事始と十字架の影」
 高橋育郎氏

今日は第3話ということで、「唱歌の事始と十字架の影」というテーマでお話ししたいと思います。


唱歌の事始は、まさに生みの苦しみがあった。
近年1980年代に、フェリス女学院図書室長、手代木俊一氏により研究が始められ、それを受けて山口芸術短大の安田寛氏が世界中を歩いて手代木俊一氏との共同研究の形で研究をすすめ、1993年に発表した。暗黒の話だが、この発表によって、謎のベールは少しずつ解きあかされていった。

唱歌は賛美歌で使っているものが多かった。アメリカからメーソンという音楽教育の大家を日本に呼んだ。メーソンは本音をいうと、日本に賛美歌を教えて、日本をキリスト教の国にする野心があった。メーソンは日本から要請されたときに内心非常に喜んだ。あわよくば日本をキリスト教の国にする絶好のチャンスを与えられたと思った。しかし、おおっぴらにしたら帰されるので慎重にしていた。

明治維新になって、世界に門戸を開放し、来年は開港150年目。西欧文化は急激に吸収され文明開化がもたらされたが、こと宗教に関しては鎖国時代と同じような考えで、特にキリスト教に対しては警戒の手を緩めなかった。アメリカなど西洋の列強にとってはキリスト教の国にしようと野心があった。そういった目には見えない戦いがあった。

明治4年に岩倉使節団が列強の各国を見てまわって見聞を広めた。
小学校を見て驚いた。中学校があり大学があり、教科もあり、音楽も体操もあった。音楽に合わせて体操するなんてものは日本にはない。教育の進み具合は日本では想像もつかない教育だった。刺激が強くて日本も教育の近代化をしなくてはならないと思った。

明治5年、学制が布かれ、学校を作り、寺子屋方式ではなく近代化しようとした。
明治19年に(森有礼文部大臣)学校令が布かれて小・中・高・大学といった学校が揃って、教科もほとんど確立した。
学制が始まった頃には師範学校を作り、先生を出さないといけない。師範学校の中に師範学校の付属の小学校を作る。小学校の教育はそのくらいに始まった。明治19年に小学校も全国的に広がった。その中に音楽を入れたようだった。教科の名前は「唱歌」、中学は「奏楽」と名前を変えた。しかしどういう風に教えていいかノウハウが全くなかった。

近代音楽の生みの親は先に話した伊沢修二であり、ボストンから招聘したメーソンであった。伊沢は政府の要請で米国の教育学と学校の実態をみるためボストンの師範学校に留学した。伊沢はほとんど教科をクリアしていたが、音楽だけができなかった。なぜ難しいかというと音階が日本のものとヨーロッパのものでは違う。音が聞き取れなかったり、音程が取れなかったり苦労した。「日本は地球の裏側で環境がまるっきり違い、音楽を理解するのは大変だから免除する」といわれた。伊沢は非常に悔しがった。なぜなら、伊沢は長野県の高遠藩出身で5歳くらいから西洋音楽の鼓手をやっていて、行進曲など練習した。
第一、日本を代表してきている身だ。簡単に引き下がるわけにはいかない。そんな気概があった。
伊沢は音楽を身につけるのに苦労していた頃、メーソンと劇的に出会った。偶然なようだが、実は森有礼によって内々、道筋はつけられていた。

伊沢はメーソンと出会って、音楽を理解すると、文部省に唱歌が重要な学問になると答申を出して、認めさせた。文部省に音楽取調掛が設立された。伊沢は帰国すると掛長になった。音楽取調掛は東京芸術大学の前身になる。音楽取調掛にメーソンを招聘し、伊沢と組んで教科書をつくり、つぎに師範学校で音楽を教える役割を担った。

教科書の選曲に非常な苦労があった。明治13年に唱歌集第一集を出した。小学校の教科書といっても和綴じの和紙で、文字も毛筆で草書体であり、今の人には読めないようなものだった。
まずは、おたまじゃくし・音階に慣れるように単純な歌から始まった。ドとレとミだけの狭い範囲の音階練習が繰返され、子どもは一向に興味はそそられない。「唱歌校門を出ず」とまでいわれた。家に帰ってきても学校で習った歌はやらないで、あいかわらずわらべ歌で遊んでいた。第一集半ばあたりからメロディらしいメロディが出てきた。「蛍の光」「庭の千草」「美しき」などのいまも愛唱歌として歌われている歌が出てきて、広く歓迎されるようになった。

日本の音階はドレミソラの5音(5声)、西洋はドレミファソラシドの7音(7声)で、5声音階の日本の歌に近いのはスコットランドやアイルランドの歌に多かった。
表向きはアイルランドの「民謡」などが「日本人の耳に親しみやすいだろう」とアイルランドの歌を取り入れたが、実は教会で歌われている賛美歌であり、これをカモフラージュしながら歌集に入れたのだ。

しかし、愛唱歌といわれた「見わたせば」「結んで開いて」「あまつみくには」「うつくしき」などは賛美歌だった。唱歌の編纂者は、賛美歌であることを隠した。賛美歌であることを気づかれないよう、大変な気苦労をしたのである。歌詞は儒教の教えにして、賛美歌であることをカモフラージュしていた。

メーソンは日本をキリスト教の国にしようと宣教師と手を組んで企んでいる、地下活動のように宣教師と時々会っている。そうした密告があった。そして15年、第2集の唱歌集の編纂を始めた時、突如解任され、志半ばで帰国を余儀なくされた。しかし唱歌集は16年に第2集、17年に第3集と続き、伊沢の手で編纂発行され、第3集をもって完結した。勿論,メーソンの意向は残っていた。

唱歌集が出たころ文部省を牛耳っていたのは田中不二麿で、彼も貢献者のひとりだった。13年、唱歌集が出たあと、田中は旅行中に突然解任された。

森は留学生のとき洗礼を受けており、伊沢も洗礼を受けた。伊沢ら留学生の監督官、目加田種太郎も、唱歌にたずさわった関係者の多くはクリスチャンだった。留学して外国で近代的なものを身につけて洗礼を受ける。そういう人は開明派、洋学派と呼ばれた。

それに対して日本の教育の中心は儒教、宗教は神道と仏教でこれは明治維新後も引きずっている。儒教派の最高位は元田永ざねだった。元田は明治天皇の侍従であり、開明派を嫌った。(元田は、井上毅と23年発布の教育勅語を起草 鉄舟との関わりは表面には二人の関係が出てこない。明治天皇に日常的に接触しているから教育勅語のはなしなど、これからの研究でわかってくると良いと思っている)

森有礼が文部大臣になった。元田は森を政敵とみて、任命した時の総理、伊藤博文に森みたいなも激しく詰った。

森有礼も伊沢修二も目加田も、儒教の教育をうけて育った者で、根は立派な日本人であり政治家であったが、元田が思うような売国奴などで決してなかった。多分に誤解を受けていたといえる。

そして、1889(明治22年)2月、大日本憲法発布の日の朝、森有礼は自宅の玄関を出るとき、壮士西田文太郎に刺され、病院に運ばれ、翌日死去した。
横井小楠(よこいしょうなん)も同じような理由でその前に刺されている。
新聞には数行の記事に止まり、こんなにもセンセーショナルな事件にも関わらず、闇のうちに葬られ、真犯人は黒幕に覆われ分からないまま今日に至る。

唱歌の大部分は賛美歌だったのだ。である。

最近になって分かったのが唱歌集第五十三番の「仰げば尊し」は伊沢修二が作曲したといわれている。ほかにも第四十四番の「皇御国」(すめらみくに)が伊沢である。
以上

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9月例会記録(1)

「明治維新と西洋音楽事始」                 
高橋育郎氏

来年は横浜開港150年、この開港は明治維新に通じる大事なものです。井伊直弼が開いた。西洋の列強に追いつけ追い越せと西洋文明を積極的に取り入れた。
学校を開いて、教育を重要視した。国民誰しも文字が読めて、計算ができるようにやっていこうというのが大きな前提だったんですね。明治5年、学制を発布します。小学校、中学校を全国津々浦々、ものすごい勢いでつくっていったんですね。


カリキュラムの中に、唱歌という教科を入れたんですけど、西洋音楽を誰も知らないんですね。教え方のノウハウを知っている人もいなかった。中身がわからないから、「当分これを欠く」とした。いつ唱歌が始まるのかわからない状態で学校が始まった。
小学校は唱歌、中学校は奏楽という名前になった。どちらも音楽です。唱歌がいつ頃始まったのかというと、伊沢修二という優秀な人が現われた。残念ですが、あまり名前が知られていません。日本の音楽界に貢献した、忘れてはならない人物で、私にいわせれば「日本の音楽の父」です。彼は高遠藩出身で、1867年に藩の貢進生に選ばれた。大学の南校(現在の東京大学)に学んで、卒業してすぐに文部省に入って、愛知師範学校の校長になりました。学校を作っても教える先生がいなくては仕方ない。そこでいち早く師範学校をつくった。
そしてフレベール(幼児教育)に傾倒した。伊沢修二は、師範学校取調べが第一の目的で留学。目賀田種太郎(勝海舟の娘が奥さん)が監督官でアメリカ・ボストンのブリッジウオーター師範学校に入った。
優秀でしたが、こと音楽は難しい。理由があります、異文化ですよね、日本の音楽と西洋の音楽は根本的に全然違う。音の構成が7つの音階、それに対し日本は、ドレミソラで「ファ」と「シ」がない五声音階。それがアメリカに行ってドレミファソラシドを、いきなりやらせられるので難しかった。
全然違う環境で育ったのだから、習得するのは無理だろう、特別に免除してやろうと校長に言われて、彼は非常に悔しがった。彼は5歳くらいから軍楽隊に入って鼓手(たいこ)をやっていたので、音楽の素養はあるとプライドもあった。日本を代表して行った留学生ですから。目的は全般的な学校の教育学というものを学ぶためではあったが、音楽に特別興味を抱きはじめ、音楽の効用に気づき、重要視しはじめ、何とか習得したいと思った。
そうした熱意を持ち始めているとき、メーソンという、アメリカの小学校の教材を作っている音楽教育学者の第一人者と会う。会うについてはいろいろ話がありましてね。森有礼がアメリカに行っており、音楽は誰が優れているか事前に調べるとメーソンの名前が出る。
実はメーソンも日本人に音楽を教えたかった。伊沢も音楽を身に着けたいと熱意があって、その熱意が偶然という遭遇を生んだといえる。これらの話しは来月にまわします。このメーソンとの出会いは、日本の音楽界には実に画期的な重大なことだった。
伊沢は毎週メーソンの家に通って、「ドレミファソラシド」も音がとれるようになった。当時の人は苦労したんですね。「ファ」の音が少し上ずったり、しっかり音程がとれない。現代人には信じられないような話ですね。

留学が終わりに近づいた明治11年4月に目加田と連名で「学校唱歌ニ用フベキ音楽取調事業ニ着手スベキ見込書」という見込み書を作って、文部大臣の田中不二麿に送った。そこに音楽の効用を熱心に書いている。
帰国後すぐに東京師範学校の校長になる。文部省に音楽を教える先生を要請する学校を早急につくるよう要請。すなわち音楽取調掛の設置を上申して認められ、彼は御用掛に任命された。これが後に東京音楽学校、今の芸大に繋がる。
・東西二様の音楽を折衷し、新曲を作る事。
・将来国楽を興すべき人物を養成する事。
・諸学校に音楽を実施する事。この2項を核にした。

唱歌は児童から始めることを最良・最速の方法と言っている。子どもの頭は柔軟で、集中力があって、記憶力がある。そういう年頃に教え込むのがよいといっている。

今日は時間がすごく短いので、あまり話せませんが、唱歌集を作って、そこから音楽を学校教育に導入する。そのあと音楽の専門学校である東京音楽学校の設立し、日本の音楽を世界に共通する水準まで高める。そのために、一つひとつ段階を踏んで積み上げ、理想を実現していく。そうした目的意識をもって望んだのだ。
1880(明治13年)メーソンを日本に呼び、学校での実技の指導、教科書作りから始めた。選曲はメーソンが伊沢修二の協力のもと、これに宮内省楽人、上真行、奥好義、辻則承、芝葛鎮らが、文学者では稲垣千頴、佐藤誠実、加部巌夫らと組んで、「小学唱歌集」3部作を明治14、16、17年にわたり刊行した。ところが明治15年にメーソンは帰国してしまう。それはなぜだろうか、これはまた来月に回したいと思いまして、今日は半分まで行ったところで時間になりました。ありがとうございました。

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2008年10月17日

2008年10月例会の記録

2008年10月15日
時代の変化が京都で現出化した
山本紀久雄

1.ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館(V&A)で「山岡鉄舟書展」開催

日本コーナーに25福の書が並んでいます。見事なものです。写真撮影自由ですので、撮影してきました。この書はすべて二松学舎大学の寺山旦中先生の持ち物です。
2001年にもこの博物館で寺山先生が書を書くプロモーションをされました。

2.筆禅道・・・故寺山旦中先生が主唱された筆で禅を行ずる意味

由来は鉄舟が大悟され「余、剣・禅の二道に感ずる処ありしより、諸法皆揆一なるを以て書も亦其の筆意を変ずるに至れり」と覚他されたこと、つまり、剣と禅で自覚するところがあって書の筆勢が変わったことから。

山岡鉄舟も国際化されているということですね。鉄舟の書は宇宙ですから、文字は我々にも読めません。でも力強さはイギリス人でも他の国の人でもわかります。常に前向きな勢いのある生き方が書からわかります。

山岡鉄舟のホームページに「山岡鉄舟の書を訪ねる」というページを作成しました。最初に自宅から近いさいたま市常泉寺に行きました。

明日から広島と大阪に出張し、帰りに静岡県の富士市「鯛屋旅館」に行きます。鉄舟と次郎長がしょっちゅうきて泊まって酒飲んだ旅館だそうです。
12月にお話したいと思います。

世の中変わりましたね。時代は現実状況として出てきます。新聞の報道にあるように1,000円も株価が上がって、その前は下がって、ようやく止まりました。これが世界中で起きています。
この代表例として、アイスランドのお話をいたします。
アイスランドは、人口が30万人です。20年くらい前は25万人でした。GDPが1兆2千億円で、日本の1/400です(日本のGDPは500兆円)。アイスランドでは主要な銀行が国のGDPの6倍もの資産を持っており、他の銀行の資産もあわせると10倍くらいになります。
ところが、このアメリカのサブプライム問題で、銀行のお金が回らなくなりました。アイスランド政府は、国のGDPの10倍も資産がある企業の面倒を見られません。面倒を見ようと思ったらお金を借りなくてはなりません。アイスランドの首相はあちこちに交渉し資金注入を行おうとしています。今はロシアと交渉しています。

このアイスランドの問題を世界に置き換えてみましょう。
世界全体のGDPがあり、その中で実体経済が行われています。例えばリンゴ1個を100円で買う、といったことです。
実はこれの6倍も7倍もお金の世界が広がっています。実体経済とお金の世界がイコールなら問題ありません。昔はこれらはイコールでしたが、実体経済の市場とお金の市場のバランスが崩れました。これが、サブプライムをはじめとする今の問題です。
どうしてそうなったのか。
それを説明するのは大変です。例えば、パソコンの中にどうしてメールが入ってくるか。どうしたらキーボードで「A」と打つと画面に「A」が表示されるのか、これが説明しきれないように、そういうものだと理解してください。
金融が大きくなりすぎて、金融の信用収縮が起き、世界中に問題が起きて、今のようになっています。

時代はいつか具体的になっていきます。一番分かりやすい例がアイスランドで説明できます。その点において、日本は蚊帳の外です。日本は全体のGDPよりも金融の世界の合計金額が少ないのでリカバリーすることができたのです。

余談ですが、ローンというものをどう考えていらっしゃるでしょうか。
この中にもローンがある方もいらっしゃいますよね。ローンを払えないと家を差し押さられるでしょう。家を出て、差し押さえられた家を売っても返済額に届かなければ、残った返済額を一生持って歩くでしょう。
実は、このシステムは、日本の常識、世界の非常識なのです。
ところが、アメリカで家を買うと、いくらでもお金を貸してくれます。ローンが払えなくなったら家を出て行けば良く、ローンは自分には付いて来ません。ローンは全部銀行の責任で、銀行は証券会社に売り、証券会社はサブプライムローンとしてあちこちにばらまいたのです。モラルハザードですね。家を買ってお金を払わない人がどんどん出てきた、というのがサブプライムローン問題です。時代の状況は必ず具体的な問題として表出するのです。

今からお話する清河八郎が活躍した時代、文久二年はすごい時代に始まりました。

3.清河八郎献策の浪士組が京都に向かったわけ  ※5へ

4.当時の京都の政治社会状況

(1)文久二年(1862)七月初旬、長州藩が従来路線の「航海遠略策」から大きく一転させ、「破約攘夷」という攘夷実行路線に藩是を決定した。

文久2年6月に薩摩の島津久光が1,000人の兵隊を引き連れて京都に上がってきました。
朝廷に幕府の改革を申し出るためでしたが、それを誤解して清河は、久光は幕府を倒すために京都に来たと尊攘志士に檄を飛ばし、日本中から尊攘志士を集めました。
しかし、実際は違いました。
久光が立たないならと自分たちがやろうと、尊攘志士たちは寺田屋に集まって相談していたら、それを察知した久光が腕の立つものを寺田屋に送り、薩摩藩同士で戦いが起きました。それが寺田屋事件です。

その後、久光は江戸に行き話しをつけました。薩摩藩の力が京都で、日本全体で力をつけてきました。薩摩が力をつけると困る藩が出ます。民主党が力つけると自民党が困るみたいなものです。長州藩が京都を牛耳っていましたが、薩摩藩によって力を落としました。
「航海遠略策」も長州藩が出していました。井伊大老が外国と条約を締結し、締約の翌年に横浜は開港しています。住んでいる外国人を追い払い鎖国するのは国際条約上出来ないでしょう。できないなら、認めておいて徐々に力をつけて、力を付けたら外国人に出てもらいましょうという順序立てた攘夷をしよう。長州の長井雅楽はそう考え、「航海遠略策」を出しました。穏やかな策だから、それに幕府も孝明天皇も乗ったわけです。
乗った結果、即攘夷できなくなってしまったので、幕府を「早く攘夷しろ」と追い詰められません。ですから長州藩は「航海遠略策」を一転させ、修好条約を破棄し、攘夷一本で行くと、藩主出席のもとに藩の方針を決めなおしました。航海遠略策は素晴らしいと認めていたのに長井雅楽は責任を取って切腹させられました。

(2)この頃から京都では尊攘過激派による天誅という暗殺、脅迫が発生。

(3)天誅の第一弾は同年七月、幕府派の九条関白家家臣、島田左近。

島田左近は孝明天皇の妹・和宮を家茂に降嫁させた人物で、暗殺されました。
岩倉実相院で、事務係が260年間書いていた日記が平成10年に見つかりました。
その『京都岩倉実相院日記』には島田左近の殺され方が書かれてあります。その無惨さは、京都所司代が誰の死体か分からないほどでした。

(4)公武合体運動を進めた岩倉具視、千種有文、富小路敬直、久我建道と、女官の今城重子と堀河紀子は「四奸二嬪」とされ、一部廷臣や尊攘過激派に脅迫され、ついに官を辞し、頭を丸めて京都郊外に住む身となった。岩倉邸には幕府派浪士の片腕が投げ込まれるほどだった。九条関白も辞職し、同じく頭を丸めて謹慎した。

文久二年の当時の岩倉は謹慎しないと殺されてしまう、そのくらいでした。

(5)当時の脅迫者について中山忠能は次のように述べている。「かれらは長薩藩士でなく、浮浪烏合の者で、勤王問屋といわれている。まったく勤王を名として、今日を暮らし、その説が追い追いに伝染している」(開国と攘夷 小西四郎)

中山忠能は明治天皇のお祖父さんです。
「勤皇」と言えばなびくくらい力をつけたので、縦横無尽に動いていると書いています。

(6)ところが、近年、明らかになったのは、「四奸二嬪」に対する排撃と天誅は、驚くべきことに摂家の近衛家から薩摩藩への依頼によってなされていたのである。だが、近衛家も、九条家の動向には疑心暗鬼、九条家側の配下による暴力におびえきっていて、公卿政争は、幕府側(前関白九条ら)と薩摩派(関白近衛ら)の陰惨きわまる暗闘にも発展していたのである。(幕末・維新 井上勝生)

(7)次の天誅標的は同年八月の目明し文吉であった。安政の大獄の際、志士の逮捕に当たった者であり、屍は三条河原にさらしものにされた。

目明しを殺されては、部下の岡っ引きも同僚の目明しも恐ろしくて動けなくなります。そうなると町中盗賊が捕まえられなくなります。

(8)同じ八月に、外国貿易を行っていて、以前から天誅を加えると脅迫されていた、葭屋町大和屋庄兵衛の店を浪士が襲い放火した。

火が出ても怖くて所司代も来ません。他に火が回らないようにするだけです。

(9)さらに十一月、井伊大老の謀臣長野主善の妾たかが、隠れ家を襲われ捕われ、三条大橋の柱に縛り付けられ、生き晒しにされた。捨て札に「この女、長野主善妾として、戊午(安政五)年以来、主善の奸計あい働き、まれなる大胆不敵の所業をすすめた」とあった。

(10)天誅は京都町奉行所の与力、同心、その手先や関係者にも及んだ。結果として奉行所全体が士気沮喪し、治安機能が喪失していった。

このとき、治安を司る政府はどうするでしょうか。
守りを固めるしかないですね。
ところが、町奉行はダメ、目明しは殺されてしまい閉じこもってしまっています。
こんなとき、誰を連れてくるでしょうか。
それは、力が強いものを連れてくるでしょう。それが、会津藩です。ここで、戊辰戦争の際に会津が徹底的にやられる原因が出てきます。会津は昔から武の藩です。松平容保を連れてきて京都所司代にします。親藩ではないが、力が強いので、その力を借りました。

(11)翌文久三年(1863)二月には、平田国学(平田篤胤の主張した尊王国学)の有力門人が中心となって、等持院の足利三代木像を梟首するという事件が発生した。岩倉実相院日記に「足利氏のように朝廷を軽んじて、自分のしたい放題のものは、たとえ今の将軍であっても、このように梟首するのだ」と斬奸状が記録されているように、これは幕府を侮辱したものであるから、京都守護職が犯人を逮捕しようとしたが、町奉行永井尚志や与力等は、在京の諸藩・浪士を逆に激昂させるだけだと、反対するほど消極的であった。だが、何とか逮捕した結果は、長州藩はじめとして外様諸藩が猛然と抗議を広げ、在京の浪士も同調するなど無政府的状態となっていた。幕府の権威は地に落ちていた。

5.京都に向かった浪士組の実質リーダーは鉄舟。問題は芹沢鴨だった

清河八郎はそういう時代の流れを掴んでおり、諸藩の状況も、京都のことも知っていました。
自分の罪が消えるとわかったときに、市中にいる浪士を集めて警備隊を作る提案を幕府にしました。幕府としても、困っていたときに解決案が提示され、タイミングがピタリと合いました。
どんなに良いことをしても、会社で良い案を作っても、タイミングが合わないとダメです。タイミングを見すぎると遅すぎます。

ものを見るときには、時代の流れを見ます。
私は時流研究家を専門にしております。いつもは時流研究家として、時流の話をしています。努力しなくてもうまくいく場合がありますが、努力を越えた時流が来ることもあります。そのために、力は蓄えておかなければなりません。

清河八郎はお金をもらって浪士組を作りました。家茂将軍が上京する際に、治安の悪い京都に行き、護衛してほしいと頼まれました。
清河は浪士組を提案したときに、幕府から旗本にならないかと言われたのを断ったので、幕府から疑いを持たれ浪士組から外されました。浪士組を提案したのは清河ですが、実際は山岡鉄舟がリーダーとして、京都に向かったわけです。

一番の問題は芹沢鴨でした。芹沢は天狗党の出身で、300匁(1.1キロくらい)の鉄扇を持っていました。鹿島神宮の太鼓の音がうるさいと太鼓を破ったり、自分の部下でも気に入らないと首を切ってしまうし、捕まったら牢屋で、小指を切ってその血で「俺はおかしくない」と書いたといいます。

浪士組は中仙道(中仙道:蕨・浦和・大宮・上尾・桶川・鴻巣・熊谷)から京都に向かいました。本庄宿で宿割りの池田徳太郎と近藤勇(翌年には新撰組の組長になっていたが、このとき宿屋の配置係だった)が、芹沢鴨の部屋割を忘れていました。謝罪しましたが、芹沢は夕方になったら材木を集めて道路の真ん中で火を焚き出し、池田徳太郎と近藤勇が三拝九拝して火を止めたという話が残っています。(『新撰組始末記』子母澤寛)

このような芹沢鴨に、鉄舟もさすがに頭に来て、京都に入る前に「浪士組を脱退して江戸に帰る!」と言いました。浪士組の実際の中心は鉄舟で、鉄舟が帰ってしまったら浪士組がばらばらになってしまい、自分と幕府の関係が悪くなる。そうなれば自分の将来はないと思い、芹沢は謝りました。そういうことなどあり、浪士組はようやく京都に入りました。
浪士組から新撰組が分かれ、新しい展開がありますが、これは次回話します。


ロンドンで行われた鉄舟の書の展示会は、大変格式があるところで行われました。
鉄舟の書が文化として受け入れられ、高く評価されたと感じました。

日本は、150年経って世界に評価されています。では、150年前の日本はどういう国だったのでしょうか?
現在、漫画・アニメーション・歌舞伎など、日本の文化が認められています。パリでは源氏物語をモダンに描いた今西さんの絵画がユネスコ本部に展示されています。

日本文化が世界に認められているのは、明治維新をうまく繰り抜けたからです。明治維新のときに国内大騒乱になっていたら150周年なんて祝えないわけです。

現在、アメリカもイギリスもフランスもスイスも大変です。フランスではルノーのゴーン社長が4,000人の退職者を募集しました。日本は現在、そういうことはないでしょう。素晴らしい国です。危機的状況だ、と騒ぎ立てるメディアもありますが、世界は危機でも日本はそんなことはありません。

また、日本は昔と比べて物騒になったといいますが、世界中が物騒になっています。昔と比較したら今は悪いかもしれませんが、世界と比較したら比較優位です。過去の日本と比較し、世界と比較し、総合判断すればいいのです。ですから、日本は素晴らしいと申し上げているのです。

150年前、日本人のある一部が大論争をした結果、時代の転換期に必要な世界観を説いた人がいました。
しかし、それに対して、徳川家譜代として260年間生きてきた人がいます。鳥羽伏見の戦いで、ちょっと争っただけで負けたけど、まだまだ軍事力は残っているのに、一度も戦争もしないで江戸城を無血開城しても良いのかという筋論があります。志道です。
侍の道を大事にする人から見れば、一度も戦わないで負けてしまうなんてとんでもない話です。
戦うべきではないか。
相手は16歳の少年天皇を冠にしているにすぎないではないか。
海軍では、無傷の新しい軍艦をたくさん持っていて、戦争できるのに・・・と。

薩摩藩には薩摩の志道があり、薩摩の殿様の言うことを聞きます。長州藩も志道があります。徳川の志道もあります。
しかし、いざというときにやるのが武士ではないか、という考えを捨てさせた人がいます。
その人は、一体どうやって捨てさせたのでしょうか。

こういうことです。
日本国内ならおっしゃる通りだが、それは日本国内の話であり、ペリーが来てからは外国との関係になっているのではないか。枠組みに諸外国が入り世界観が変わっているのだ。日本が成長するためには、思想を変えないと成長が立ち止まってしまう、と説いたのです。
それを行ったのは、勝海舟でした。

勝海舟は、江戸城を無血開城して、日本全体として、日本の中の争いを捨てて、日本を大きくしませんかと、新しい枠組みの世界観を説いたのです。
改革は少数であり、前例がありません。新しいことは未来だから問題点がいっぱいあります。古いことは問題がなくなっています。勝海舟の世界観は問題だらけですが、世界がどういう方向に向かっているのかを知っています。改革を成功させるには、いろんな手を使い説き伏せることが必要です。改革するために、条件を整えることが行動の基準です。

改革には、勝海舟のように世界観を変えようと提案するプランナーと、実行してくれる人が必要です。
そこに突如として出たのが山岡鉄舟です。
世界観はないけれど、理解することはできます。宇宙から世界を考えていました。鉄舟の持っている行動力・意志力が必要とされたわけです。慶喜から指示されて、海舟を経て西郷に会い、西郷隆盛に話をつけてきました。鉄舟と西郷隆盛との交渉は、正式なものではありませんでした。しかし、西郷隆盛と鉄舟の交渉がなければ、江戸無血開城はありえませんでした。
勝海舟は思想を提示しました。鉄舟はそれに従ってぶれることなく行動したのです。鉄舟は明治天皇の侍従になったときも生き方はぶれていません。
そこがキーポイントです。
思想家と行動リーダーと、二人のリーダーが必要なのです。

世界も同じです。今、アメリカは大統領選挙です。新しい大統領がどちらになるにしても、混乱しているアメリカ経済のシステムを新しい世界観で、ハッと思わせるものを出せるかどうかです。これが出来ないとアメリカの未来はありません。
日本は、それを出せない首相が過去に2人いました。残念です。

鉄舟を学ぶということは、今の時代と通じることは何か、ということを学ばないと意味がありません。


【事務局の感想】
鉄舟の生きざまを現代に生きる私たちがどう活かしていくか。そのヒントとして、山本氏は「ぶれない」ということを示されました。
ぶれない生き方とはどのようなことなのか。
それは、時流をつかみ、おのおのの生き方の指針にとりいれていくことのように思います。
このことは、『鉄舟全国フォーラム』にてさらに明らかにされることでしょう。
鉄舟全国フォーラムをお楽しみに。

以上

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2008年09月23日

9月例会記録(2) 1/2

「時代環境を取り入れ、逆境をのがれた清河八郎」
山本紀久雄氏

高橋さんの話を聞いていたら、日本人には「ファ」(音階)がないそうです。我々の習慣ですよね。時代の中で生きていくのは習慣で生きていますね。
鉄舟に対して関心を持ち、今日たくさんの方がお見えになっています。今の時代、鉄舟の生き方、哲学が求められていて、そこに気づかれた方です。我々も一歩近づいて行き、鉄舟のような習慣をつくりたいと思っています。
清河も同じ人間ですが、清河としての習慣・生き方があり、その生き方が成功に導き、そして暗殺されました。

1.水戸の鉄舟展
1.胴乱
鉄舟が西郷のところに行くときに、勝海舟から預かった手紙を入れて走ったという胴乱が展示されていました。トンボが2匹描いてあり、素材は牛革と書いてありました。

2.和宮の家政取締
鉄舟は和宮の家政取締で、静寛院の宮から頂いた重箱が展示されています。

3.尊攘遺墨
6月9日に全生庵に行ってきました。尊攘党・虎尾の会(こびのかい)の発起人の言葉が書いてある文章は全生庵に保管されていると『俺の師匠』書いてありました。尊攘遺墨を見せていただき、広げたら15メートルくらいあり、いっぱい名前が書いてありました。尊攘遺墨と思われるものがたくさんあり、調べていますが、該当するかどうかわかりません。

2.和宮降下に対する孝明天皇の立場
和宮は、公武合体のときに家茂将軍にお嫁に来ました。当時、尊王攘夷が倒幕に結びついてしまい、既に開国しているところに、幕府をいじめようと長州が中心となって「攘夷をしろ」と言ってきました。開国反対が倒幕になってきました。「尊王」のところは、孝明天皇の意思に反して条約を結んだということで、尊王に反していると幕府をいじめました。
井伊大老を継いだ安藤老中が、天皇家と幕府が結びつき一体化すれば、攻撃される筋合いがなくなると考えたのが、公武合体です。結婚した途端に「尊王」は追求できなくなり、世の中は静まりました。攘夷は、既に開国しているからできっこありません。
公武合体で和宮がほしいと言い出したのは幕府側で、孝明天皇は許婚がいた和宮の嫁入りには反対したというのが通説です。有栖川宮と婚約が整っており、和宮も関東に行くのは困ると孝明天皇に申し出ており、孝明天皇も困っていました。

一昨年、鉄舟全国大会で講演していただいた北海道大学の井上勝生先生が、幕末維新の新説を出しています。ある限られた条件の中で述べられていることが多い中、それに井上先生は挑戦されています。明治維新からついこの間までいろんな資料が出てなく、特に孝明天皇に関しては研究が遅れていまして、和宮について孝明天皇は反対したのが通説だけれども、孝明天皇と慶喜は非常に緊密な関係がありました。慶喜は家茂将軍のときに京都に在住していました。孝明天皇は和宮に「家茂将軍の元に行かなければ尼になりなさい。もし納得しなければ生母観行院と兄の橋本実麗(はしもとさねあきら)を処分する」と秘かに関白に指示しているということが書かれていて、孝明天皇の幕府に対する政治スタンスを知ることができます。天皇は大きく一転して、幕府側に偏っている、と述べ、その後の孝明天皇の亡くなった要因に引っかかるのではないかという暗示まで書いてあります。

孝明天皇は、慶応2年の12月天然痘にかかり、一時小康状態のあと急死します。36歳でした。死因は天然痘、もうひとつは砒素による中毒説というのもあるんですね。孝明天皇が亡くなった途端に岩倉具視と薩長連合が出ます。仮に孝明天皇が健在であれば、たとえ岩倉と薩長が連携しても天皇を奪取する宮廷クーデターは無理だったでしょう。当時から毒殺説が囁かれておりましたが、この毒殺説は消えることはないだろうと北海道大学の井上先生が書いておられます。

3.元治元年(1864)の四国艦隊下関砲撃によって、持ち去られた大砲はどこに?
今日の日経新聞の夕刊に、山口長府が出ておりますね。功山寺の境内、尊攘堂で高杉晋作が決起したことによって時代が動いた、そういう場所なんですね。7月30日に行ってきました。

朝廷側から幕府は、和宮さんをもらうために約束してしまったんですね。わき目も振らず、夢中になって目先のことだけを約束すると大変なことになってしまいます。開国して、外国と貿易して横浜も大変な港になっているのに、外国と縁を切って鎖国体制に戻すのが攘夷です。和宮さんをもらうために幕府は「攘夷するか?」と聞かれ「します!」と言い切ってしまいました。矛盾しています。ここで外国に出て行けと言ったら戦争になります。
朝廷からは、家茂は上洛して孝明天皇に何月何日を期して攘夷するか宣言しなさいと責められました。江戸城では大変な議論があったわけです。攘夷すると言ったけれど、常識に考えたならば外国と貿易しているわけです。生糸が優れていて輸出しており、幕府は関税収入があります。どうして攘夷ができるのか、鎖国ができるのか、というのが慶喜の意見です。そういうけれども約束したではないかという意見もありました。
朝廷の手として、岩倉具視が朝廷側に「天皇陛下は反対かもしれないけれど、和宮を幕府に出せば、幕府に征夷大将軍として任せているが大事なことはすべて相談しにきなさいという朝廷政治に戻せます」という説得が効いて、孝明天皇が承諾して、和宮を嫁に出しました。

いつ攘夷するのか朝廷から責められ、とうとう家茂将軍が上洛することになりました。
家茂将軍が上洛する10日ほど前に、清河が画策した浪士組ら二百数十人が京に行きました。
朝廷から言われた江戸幕府は、議論を戦わせました。一橋慶喜は、開国しているんだから、鎖国したら戦争状態になると言い、政治総裁の松平春嶽が、ここは一応、公の論として攘夷にしておいて、そのあと開国しませんか、とやりあいました。一度和宮の条件があるから、春嶽の意見で攘夷を宣言しに行きました。
朝廷に「攘夷します」「文久3年5月10日にやります」と言ったその日に、長州藩は沖合を通る外国船に鉄砲を撃ったわけです。長州としては当然のことです。5月10日にアメリカの商船を、外国に宣言していないのに大砲で撃ち、22日はフランス軍艦、26日オランダ軍艦を攻撃しました。当然のことながら、外国は反撃します。翌年アメリカ・フランス・イギリス・オランダの四カ国の四国艦隊が、長州に上陸してめちゃくちゃにして、長州砲60門を全部持ち去りました。 

持ち去られた砲台はどこにあるのか?
前にお話したのは、パリのアンバリッド(ナポレオンのお墓があるところ)にあると、フランスの文学研究者の高橋さんが本に書いています。庭に行くと毛利藩の紋章がついた砲門があって、多くの観光客がなぜ日本の砲台がここにあるのか興味深そうに見ています。山口県はフランス政府に返してくれと何回も要望しているわけですが、フランスは戦争で捕獲したものを返したことがないわけです。まだ返していないという話をしました。
ところが、パリに行ったときにアンバリッドの庭を探したが、どこにも砲門が見当たりません。いろいろ調べたら実は昭和59年に日本に戻っていました。高橋さんの本が書かれたのが昭和58年でした。
下関市立長府博物館に行き、長州砲を見て、説明を聞きました。昭和59年の山口新聞のコピーまでいただきました。
直木賞作家古川薫さんの著書『長州砲流離譚』に、パリに行って長州砲を見つけて、外務大臣だった安倍晋太郎(安倍元首相のお父さん)が努力して、砲門が山口県に戻ってきた経緯が書いてありました。その代わり、長府の国宝級の鎧をフランス・アンバリッドに貸与する相互貸与で砲門は戻ってきました。一年契約だが、双方申し出がない限り永久に貸与です。古川薫さんは、砲門は3門あるが、あと2門見当たらない、どこに消えているかそれが気がかりだとおっしゃっていたので、今度調べてきますと古川さんに手紙を書きました。過去にあった場所の連絡が来ました。アンバリッドの管理局に正式アポイントを取って調査してこようと思います。事実確認しておかないと、鉄舟の研究の一環として絡んできます。

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9月例会記録(2) 2/2

「時代環境を取り入れ、逆境をのがれた清河八郎」
山本紀久雄氏

4.伏見寺田屋事件に清河がいなかったわけ
島津久光は斉彬の弟ですね。息子が藩主になって、その父親で、身分も位もない久光が藩兵を連れて京に来ると聞いて、久光が尊王攘夷を進めるためであろうと清河は日本全国に檄を飛ばしました。
久光は幕府に幕府の政治改革をするために朝廷に指示してもらって、自分も一緒に江戸に行く予定でした。安政の大獄でつかまった人を解放してほしい、そういう話でした。

過激派は久光が武力によって幕府を倒すと、日本中の尊攘派が300人くらい集まったが、久光が京に来てみたら違ったということがわかりました。尊攘派たちは、やり場がなくなって、伏見の寺田屋に集まって、自分たちで決行しようということで、相談をしていました。それを知った久光は、薩摩の過激派と親しい腕の立つ藩士を送り込み、攘夷討ちしても良いといいました。
その中にいた田中河内介は、明治天皇を育てた乳母係です。後年、田中河内介はどうなっているか、一角の人物だから今頃は立派な男だろうと問われたとき、「伏見寺田屋事件で、薩摩から舟で大阪に行く途中に惨殺され、遺体は小豆島に流れ込みました。そのときの責任者は大久保利通です。」と告げられ、大久保は顔を上げられなかったところまで前回お話しました。

田中河内介は、公家中山家に仕えていた人物で、伏見寺田には居たけれど、肝心要の世の中に激を飛ばして煽り立てた清河はいませんでした。なぜ居なかったのかお話します。
本間精一郎という越後出身の豪商の息子がいました。当時は浪人とは言わないで「浪士」と言いました。浪人は元武士だった人ですが、幕末ですから、お金がある人は勝手に刀をさして浪士と言いました。江戸で清河と勉強仲間だった本間は清河にしばらくぶりに会って川下りに誘いました。藤本鉄石を誘って、芸者さんを連れて、川くだりして酒を飲みました。川から大海に出るところに船番所があり、名前を書くように言われますが本間は酔っ払っている、世の中を変えてやろうと気合も入っているから、いい加減な名前を書きました。幕府の役人が怒りましたが、本間は口が立つので、やり込めて帰ってきました。しかし幕府の役人はカチンときており、本間がどこに住んでいるから探って、捕まえようとしました。本間は慌てて清河の居た薩摩屋敷に匿ってほしいと転がり込みましたが、幕府から薩摩屋敷に問い合わせが正式にくる、薩摩屋敷にいる清河は薩摩役人との間に入って板挟みになる、そんなつまらないことで、失ってはいかんと薩摩屋敷を出て、他の屋敷に移りました。その、清河が知らない間に伏見寺田屋事件が起き、清河はつまらない理由で、その場にいませんでした。清河は何かそこで、大きなことをしでかすようだけど、何か弱点があることを暗示していることなんですね。

5.清河が長い逃亡生活から逃れるためにうった時代条件活用の謀策
伏見寺田屋から生き残って江戸に来たわけですが、幕府から岡っ引き殺害事件で、追われていました。
島津久光は上京し、安政の大獄で捕まった人を許してあげなさい、と幕府に改革を申し出ました。その一環で大赦の動きが出てきました。清河は鉄舟にいわれて、自分の罪を許してほしいと幕府に申し出て、結果的には許されました。

清河八郎の流れを見ていると、ひとつの生き方のルールがあるんじゃないかと気がつきました。我々にしても現代の時代に生きています。今、経済が大変な状況ですね。株は下がり、石油は上がり、金も下がり、お金はどこに行ってしまったのでしょうか。時代の変換期があり、幕末もそうでした。時代の変化を見つけて、変化をどう取り組むか、変化という条件を活用することが大事なことです。
脳力開発の専門家として昔から学んで参りましたが、条件とは使うもの、目の前にある変化を自分にどう取り込むか、変化を自分に有利に取り込めるか不利になるかは本人の実力次第です。
時代を勉強しながら変化を自分の中にどう取り込むかというのが生き方で、変化を自分に取り込まないとその人は博物館に行ってしまいます。時代に生きるのはそういうことです。

清河八郎はそこが優れていました。清河の過去を振り返ると、山形から出てきて、頭が良いから学者になろうと思って勉強しました。革命家になろうとしたのは、井伊大老が暗殺された桜田門外の変がきっかけです。殺した人物が名もなき、禄高も少ない、自分と大して変わらない浪士だったということを知ったときからで、清河は学者を辞めて、改革に走りました。
虎尾の会をつぶそうとした岡っ引きを殺し、逃亡生活に入りましたが、逃亡生活をチャンスとしました。幕府は孝明天皇を辞めさせる、そういう噂を用意して、餌として全国回って歩き、自分を日本中売り歩きました。これが条件活用です。
大赦を幕府は受け入れる余地があるとわかった瞬間、時代が変わった、許されなかったものが許されるようになった、とわかったとき、清河は、幕府が困っていて、幕府が喜べること、それで自分が幕府を取り込めることを考えました。
浪士が溢れ、悪いことをする、天誅と言って人を殺す、外国人を殺す、幕府は手を焼いていました。幕府が集めて、浪士隊にして、幕府の中に入れるという案を考えました。鉄舟も賛成して参加しました。清河は条件活用に優れていました。

話は変わりますけれども、将軍家茂と福田首相と似ているんじゃないかな。
家茂は和宮の旦那さん。攘夷決行で家茂は上洛したが、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四国艦隊が兵庫沖から大阪湾に入って、港を開かないなら武力で開かせると示威行動をしました。天皇陛下は兵庫開港はやだと言っていました。幕府で兵庫開港を決めたときに慶喜が出てきて、もう一度朝廷に持っていきました。それを見た家茂将軍は征夷大将軍を辞めた、後任は慶喜で良いではないかと言ったそうです。

山本レターで申し上げたんですが、四国艦隊から持ち去られた長州砲のいきさつを調べたときに、本を読んでもアンバリッドにあると書いてありましたが、インターネットで調べると下関市立長府博物館にあるとわかりました。情報としてわかっても皆さんに話すことがありません。現場に行って、結果がわかります。
インターネットをヒントにして突き詰め、考える行動に入ります。インターネットが普及して、すべてわかるかのようになっています。「クローズアップ現代」ではインターネットは早いしデータがそろっているので考えなくなっていると言っていました。インターネットは新聞とか、井上先生の和宮さんの論は載っていません。インターネットも重要ですが、あくまでも入り口ですから、自分自身の考え、研究してやっていかないと事実・真実は出てきません。
山岡鉄舟についても書かれていますが、しかしあの説明で鉄舟がわかるでしょうか。不十分だからこういう会をしています。山岡鉄舟という人間がどう必要になっているのか、今の時代と結びつけて研究しなければなりません。

脳が疲労するとうつ病か痴呆になります。脳が疲労するというのは何も考えないことです。頭を使うと脳疲労が起きないので、山岡鉄舟会で脳疲労の病気対策になりますからぜひがんばっていただきたいと思います。

【事務局の感想】
清河八郎の生き方を追いながら、孝明天皇に関する新説やフランスと戦った長州藩の大砲の追求の話やなぜ寺田屋事件に清河がいなかったのかなど、今月も山本鉄舟研究ならではの発表していただきました。時代の変化を自分の中にどう取り込んで生きていくかという問題では、これからも山岡鉄舟研究会は皆様のお役にたつものと思います。


以上

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2008年08月24日

7月例会記録(1) 「明治維新と西洋音楽事始」その1

■高橋育郎氏
「明治維新と西洋音楽事始」その1  ペリー艦隊の軍楽隊がやって来た


 西洋音楽と改めて言いましたけど、要するにドレミの音階でできている音楽で、邦楽とは、聞いてのとおり全くちがうものです。
 いまでは日本中どこでも西洋音楽が、日常茶飯事に溢れています。しかし、明治の始めに西洋音楽を導入するに当たっては、大変な苦労がありました。特に唱歌の事始は想像を絶する命がけの取り組みがありました。
 信長の時代には、キリスト教の伝来にともなって、グレオリア聖歌(教会音楽)が入ってきましたが、間もなく禁止され、普及するまでにはいたらず、隠れキリシタンによりわずかに残された程度でした。

 年表をみながら話をすすめましょう。文久2年に生麦事件がありました。NHK大河ドラマ「篤姫」に久光が出ていますが、事件の話はこれから出てくるでしょう。
 久光の行列に英国人が、前を横切り「無礼者」と薩摩藩士に斬られたのです。これが薩英戦争に発展しました。ただあの頃は、艦上の大砲から放つ弾丸があまり遠くに飛ばなかったので、陸から顔が見えるほどの接近して停泊していました。
 艦上では、朝な夕なに軍楽隊がパレードを行い、兵士は歩調をとって行進し、太鼓に合わせて挙手の礼をしたり、一糸乱れぬ行動をしました。
 日本では足並みをそろえて行進する風習はありませんでした。またその音楽は精神を揺さぶる素晴らしいもので、薩摩の兵士や集まった群集は聞きほれてしまったそうです。
 そうしたことで維新後、薩摩の兵士がいちはやく軍楽伝習生となって、習ったそうです。習った場所は、横浜山手の妙香寺境内で、指導は英国歩兵軍楽隊長のフェントンでした。
 薩英戦争で薩摩は英国と仲良くし、森有礼が英国へ留学したり、薩摩にとってよい影響がもたらされたのですから面白いですね。
 軍楽は薩摩をはじめ各雄藩が競って、習い始めました。はじめは洋太鼓で、最も力を入れました。太鼓は信号です。信号とは、命令を伝える。行進や行動に使う。といった二つの役割を持ちました。「気をつけ、前にならえ、敬礼、前にすすめ、とまれ」といった一連の動作を太鼓によって規制したのです。太鼓用の楽譜もありました。
 このように太鼓を軍事用として用い、西洋音楽に近づいていったのです。

 1854(嘉永7)横浜村沖にペリー艦隊は停泊、日米和親条約交渉が大詰めになったときに、林大学頭ほか5名の幕府交渉委員をポータハン号に招いて午餐会を催しました。
 甲板では軍楽隊の演奏があり、そのあと「エチオピア人ミンストレル一座」のショーがあって、これを見た林大学頭ら一行は抱腹絶倒したそうです。同時代のフォスターの曲は盛んに歌われていた時で、「おおスザンナ」や「草競馬」は演奏されたでしょう。日本人が最初に聞いた西洋音楽でした。

明治4年、岩倉欧米使節団は、横浜を出発しました。オーケストラやオペラに接し見聞を広め、大きな収穫を持ち帰りました。

【事務局の感想】
西洋音楽の歴史は幕末から明治にかけて生まれてきたようです。日本人が規律良く並ぶことができなかったとは、驚きの事実でした。音楽の世界でも、西欧に追いつくために非常な努力をしていたことが、分かりました。9月の唱歌の流れについても楽しみです。

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2008年08月16日

7月例会記録(2) 「清河八郎と運」 1/2

■山本紀久雄氏

「清河八郎と運」 1/2

 当時我々の歩き方って今とは違ったんですね。ペリーは上陸したときピシリと並んでいるのに、日本人はバラバラと立っていたようです。 
我々は大きく変化して、変化するに当たっていろんな人が出てきました。日本人の中には日本人は辞めようと思った人もいました。18ヶ月の間11名も外国人が斬られ、最後の外人切りが、島津久光が江戸から帰る途中に起こった生麦事件です。犯人はいないといい薩摩藩に英国は怒り、薩摩と英国が戦争し、仲良くなりました。

鉄舟の勉強会が淑徳大学で行われています。鉄舟がなぜ凄いか?鉄舟自身がぶれない生き方をしているから、こうして集まって勉強しています。


アメリカの株が下がっています。アメリカは去年の7月までは絶好調な金融界だった。金子さんがぬりえ展でニューヨークに1ヶ月暮らしていましたが、その居酒屋で聞いた話では、あるウオール街で働く男性は、私のボーナス300万円だった、私の上司は1億円ボーナスをもらっているらしいと言っていたそうです。そのくらい景気が良かったのに、それから1年経ってみたら、3万人5万人が首になっています。粉飾決済で、取り付け騒ぎが起きています。アメリカの景気が悪くなったら、アメリカに頼ってきた国・企業は関係が悪くなるのです。アメリカと関係が深い日本も中国もブラジルも危険です。一瞬にして変わってしまうと不安感が出てきます。10ドルだった重油が140ドル・150ドルになっており、フランスの漁船も操業を停止して、国が補償しています。

幕末もそうです。ペリーが来たことによって日本はどうなるんだと不安になりました。人間の不安心理は時代が違っても同じです。その中でぶれない生き方の人間がいました。それが鉄舟でした。どうぶれないか、具体的に教えてほしいというが、それはだめです。簡単に教えると簡単に忘れてしまうからです。鉄舟は、どこに対しても対応できる戦略がありました。一介の旗本が敵の参謀長であった西郷隆盛を説得できるわけです。戦略無き人が行ってもお願いするだけで終わってしまいます。

篤姫は家茂の夫人となった和宮と一緒に徳川家を救おうとするわけです。篤姫が「私は徳川家の嫁になる」と、斉彬から言われたことを捨てて戦略転換しました。斉彬の養女で入ってきたが、親離れして成長します。それが複線となって江戸無血開城に貢献したというストーリーになるはずです。

鉄舟が単身駿府に行き西郷隆盛と決着をつけたと史実に基づいて話しています。篤姫と和宮はどういう貢献したのかがこれから出てきます。フィクションと史実としての事実をどう織り交ぜるかがシナリオライターの腕の見せ所です。
時代の感覚を認識、共鳴するような内容で構成しないと視聴率は上がりません。時代の底流を含めているから評判が良いわけです。利口な一人の少女が日本の中心の江戸城の女官のトップに立ったというサクセスストーリーを展開しており、歴史を今の時代に蘇らせることに成功しました。篤姫は家定が死んだ後、国家のために何をしたか、混乱の中で一方向を示すことを描くわけです。

鉄舟と仲間だった清河八郎の運について話します。清河八郎は最終的に暗殺されます。清河八郎は運も良いし、実力もありました。
自分の実力以上の運が来たとき、二つにわかれます。鍛えぬいた実力通りなら問題ないが、それを越えた運が来たときに本来の自分が出ます。本来持っているものが時代と合っていると、ますます運がついて良くなるが、合っていないと運が良いために、だめになってしまいます。実力以上の運は気をつけなければなりません。
歴史の、ある人物を蘇らせて現代の生き方を学んでいます。NHK大河ドラマもやっています。私たちも鉄舟を研究しながら蘇らせていきたいと思います。

1.鉄舟の書
清和会で講演することになったら、アメリカ人から何て書いてあるか読んでほしいと鉄舟の書が清和会に届きました。他の人の書はくずし字書を見れば何と書いてあるか読めますが、鉄舟先生の書は字書を見ても当てはめられません。鉄舟先生の字は宇宙で書いています。自分の気持ちで書いています。書を読むことに入ると品評会だけになってしまいます。田中さんから画期的なことを考えていると提案がありました。楽しみにしていてください。

2.清河八郎と関係するもの
① 草津温泉湯畑の石塔とベルツ博士と鉄舟の肝臓硬化症
草津温泉の湯畑に清河八郎の名前があったと教えてもらいました。
草津温泉ほど有名な成功している温泉街はありません。温泉業界どこも苦しいですが、草津温泉は元気です。毎年夏になると世界的な音楽祭が開催されます。周りがすばらしく整備されています。
お抱え外国人として明治5年に日本に来たドイツのベルツは東京大学の医学部の教授であった人です。日本の温泉はドイツの温泉学の影響を受けています。ベルツさんが日本を見て回って、草津・伊香保がドイツに一番近いのでドイツ風のサナトリウム的な温泉を作りたいと構想を温めていました。
30年ほど前にベルツさんの構想をみつけ資料を訪ねてドイツに渡って帰ってきた草津の温泉の中沢ヴィレッジの社長中沢さんがベルツさんの構想に近い温泉を作りました。古い温泉街が、おしゃれになりました。
中沢ヴィレッジに泊まったら、雨が降ろうが雪が降ろうが社長が毎日朝6時30分にフロントに立っており、一緒に山を散歩します。自分の住んでいる旅館の草花、池、鳥を社長が説明します。土地を愛するものが観光業の使命。お客さんは土地にあるものを求めてきます。住んでいるものがお客様に詳しく説明しないと、と続けた結果中沢ヴィレッジはお客がいっぱい来ています。これが戦略です。
鉄舟が病気になったときにベルツさんが肝臓硬化症という診断を下しています。鉄舟とも関わりがある人です。
草津温泉になぜ清河八郎が行ったのでしょうか。江戸で事件を起こし清川八郎を何とか捕まえたいと仕掛けた罠に掛かってしまいました。全国を回っているうちに草津の地で癒すかとしばらく逗留しました。草津に逗留した著名人のうち100人の一人として清河が紹介されています。

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7月例会記録(2) 「清河八郎と運」 2/2

■山本紀久雄氏

「清河八郎と運」 2/2

② 坂下門外の変
清河八郎は坂下門外の変でも有名です。桜田門外の変で井伊が殺されましたね。和親・通商条約を結んで開国してどんどん進めて反対する人を牢に放り込みました。あんなのがいたら日本は良くならないと井伊大老を殺しました。徳川幕府は打撃を受けるだろうと幕府は元気がなくなるだろうと井伊大老を殺したが全然そうなりませんでした。


井伊大老を継いだ安藤信正という老中が優秀でした。井伊大老は公武合体をしようとして、孝明天皇の妹・和宮さんを家茂将軍の妻にほしいと要求したが断られました。しかし安藤信正は公武合体をしたわけです。交渉に長けた優秀な人です。
今まで尊王攘夷では、幕府が開国、天皇が攘夷でしょう。それが結婚によって幕府と天皇が一緒になりうやむやになりました。結婚によって親戚同士にした結果、世間ははけ口の持っていきようがなくなりました。尊王攘夷の過激派集団は、孝明天皇に文句を言えませんし、徳川家には和宮がいます。一瞬にして何となくちょっと安定した、でも公武合体はおかしい、という社会風潮になりました。問題があるが、その突破口をつぶさない限り整理できません。マグマが下に収まったままの社会になりました。
安藤信正が優秀すぎるから、安藤を殺せば良いと起きたのが、坂下門外の変です。水戸浪士6名攻めてきても、桜田門外の変で警戒しているからその場で全員殺さました。しかし安藤は背中に傷を負いました。
当時英国から神戸や横浜を開港しろと言われていました。安藤は包帯しながら状況を説明して交渉しました。その様子を英国の公使が感激して、延期になりました。三田村鳶魚さんがこの安藤信正がやったことは今なら大勲章ものだと高く評価しました。
しかし、後ろ傷を負ったことは武士にあるまじきことと江戸城内では非難轟々で、安藤は老中を辞任しました。非難轟々を起こす元がありました。公武合体は和宮の拉致だ、孝明天皇が言うことを聞くだろうという策を弄したのではないかと言いふらす人が出てきました。孝明天皇が言うことを聞かないと廃帝させるという噂を流しました。それを仕掛けて広めたのが清河八郎で、九州遊説に回りました。
尊王攘夷の時代ではない、倒幕王政だ、天皇が直接政治を行う時代だと説きました。みんな乗ってきて京都に尊攘志士たちが300名集まりました。
塙保己一の息子塙次郎は廃帝について研究している理由で暗殺されました。なんと首相・伊藤博文が殺しました。

③ 伏見寺田屋事件
 文久2年に伏見の寺田屋に集まっていた薩摩藩の藩士が争った事件です。斉彬系統と久光系統の争いです。斉彬は毒殺されたと西郷隆盛は思っています。藩主の父親だったのでなだめていたのが大久保です。
久光は、幕府は改革すれば良いと千名の兵士を連れて上京しました。そのときに清河八郎は、久光が倒幕王政をするために千名の兵士を連れてくるという檄文を書いて日本中を配りました。これがまた名文でした。清河が書き、話すことは日本中に知れ渡るほどの実力者でした。各地の尊王攘夷の志あるものは、時が来たと続々と京都に集まりました。
長州藩も反幕ですから薩摩が動くならと藩を上げて動きました。浪士(清河)・薩摩藩・長州藩の3ブロックありました。久光が上京し、大阪の屋敷に入って、他藩の藩士・浪士と付き合ってはいけない、問題を起こしてはいけないと発言しました。久光は保守派ですから、当初から誤解だったとわかりました。倒幕王政だと思わせたのが清河です。すごい策士です。
久光にその気がないから俺たちだけでやろうと寺田屋に集結しました。久光はそれを知って、説得しても行動するなら上意討ちとなりました。寺田屋に居る者と親しくて剣の強い男を9名選びました。それで戦いが起きました。7名が死んで2名が負傷しました。浪士は捕まって薩摩屋敷に連れて行かれました。
首謀者の清河八郎は寺田屋に居ませんでした。

④ 京都の田中河内介
・田中は但馬出石の医師の第二子であったが、京都に遊学している間に、権大納言中山忠能に召し抱えられ、中山家の家臣である田中近江介の家を継ぎ、諸大夫となった。

・諸大夫とは、公卿に次ぐ家柄で、朝廷から親王・摂関・大臣家などの家司、つまり、事務を司る職位で、四位・五位の官人である。
   
・伏見寺田屋事件で、田中は薩摩行きの船の上で、薩摩藩によって殺害され、死体は海中に遺棄され、後日、小豆島に流れ着いた。

・後日談であるが、田中は権大納言中山忠能に仕えた諸大夫であり、明治天皇の生母は忠能の娘中山慶子であったため、田中は幼少時の祐宮のお守役をつとめたことから、天皇は田中のことを記憶にあり「河内介爺はどうしただろうか」と案じていたので、側近が「田中はしかじかのことで、薩摩藩によって殺されました。その際の当局者は内務卿大久保利通でございます」と言上したが、大久保は下を向いたままだったという。
 
⑤ 清河八郎の運
どうして清河が居なかったかについては9月に話します。

家内が2週間インドに行ったので戦略を持って行動しようと思い、2週間朝昼晩は自分で作って食べるという方針を作りました。毎日スーパーに行って2週間でどのくらいの食材を買うのかを調査しました。3年くらい料理教室に行っているからレパートリーがあるわけです。
料理教室で昼間からビール13種類出てきました。料理が終わると食べながらビールが出てきます。赤字ではないかと聞くとメーカーから提供されているということでした。料理教室はマルエツが経営しています。マルエツという魚屋出身のスーパーがあり、V字回復しました。イオンの傘下だが、マルエツだけが回復しています。当初はイオンとダイエーから社長が来ていたが、高橋さんという魚屋出身の人を社長にしたら、生鮮食品中心のスーパーになって過去最高利益です。メーカーもマルエツなら協力しようと協賛してくれます。時代がマルエツの業績になって、料理教室の業績になっています。

日本中毎朝宴会しているのもありますね、カラスです。街中にカラスがいるのは日本だけです。どうして日本だけカラスが異常に多いのですか?ごみの出し方に問題があるからです。スーパーからのレジ袋で出しているからです。中国もドイツもスーパーのレジ袋を出しません。ドイツはゴミボックスがあります。そういう仕組みを作ればカラスは餌がないから街にこなくなります。

佐々木譲さんが、榎本武揚が今から130年前に今の温暖化を予測して、極東の氷が解けることを予想して航路を作れと言っていたと新聞に書いていました。最短距離でヨーロッパに行けると予測していた、と本に書いています。時代を見抜いているのは榎本だと新聞の夕刊に載っていました。

鉄舟も今の時代と結びつけなきゃ、蘇らせられません。何が今の時代から学べるかのか、そういう勉強をこれからもしていきたいと思います。
以上

【事務局の感想】
 ひさびさにNHK大河ドラマ「篤姫」を見ています。8月10日(日)は、今回話しにでました桜田門外の変がどのように描かれるのか、オリンピックの放送はそっちのけでテレビを見てしまいました。視聴率は、26.4%で、フジテレビが生中継していた柔道の内柴選手の金メダル獲得を上回ったそうです。
 俳優がいいのか、脚本がいいのか8月10日の井伊大老と篤姫をお茶のお手前を通じての二人のやり取りに味わいがありましたが、大きなテーマの場面を見たいと高い視聴率となったものと思われます。
 歴史の捉え方もいろいろ考えられるわけですが、まさに鉄舟研究は、そのような意味で歴史を考え、今と結びつける、時代感覚を取り入れるということを続けています。
 ますます山本鉄舟研究は筆が冴え渡っていきます。

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2008年06月06日

5月例会記録(1)  

■上米良 恭臣氏

『遺詠と和歌で偲ぶ遊就館』

 初めに、舌足らずの弁解を!
発表後の山本紀久雄先生の講評に『靖国の話は上米良さんから、皆さんへのエールです』とありました。舌足らずとはまさにこのことです。
発表の最後に「ますらをの・・・」歌を挙げましたが、「ますらを」は男児ばかりのものではありません。「ますらを」を産み、育てる女性が必須なのです。この国を、この国の道統を守ってきたのは蔭に女性の偉大な力がありました。つまり、お話した男児、戦士ばかりではなく、良識を培った国民が総体として守ってきた。平和な時代でも「皆さんもそのお一人だ」ということです。(付記)


矢澤さんのご紹介で近代出版社とご縁ができまして、靖國に関する資料をご紹介します。先月お話したときに唐突に菊池千本槍や菊池一族のことが出てきて、どういう人たちだったのかというのが反省の中で出たものですから、そのお話をして、遊就館のお話をします。

(*資料:「菊池略系」)
菊池一族というのは熊本県の肥後の国の豪族で、藤原家から出て、太宰権師(だざいのごんのそつ)という職に就いたのが菊池姓の始まりです。池の周りにきれいな黄色の菊が咲いていたので、そこから「菊池」という姓が生まれたという伝えがあります。
經隆から分かれて西郷太郎政隆という人がいます。その末裔が西郷隆盛だと伝承されています。

隆直さんは壇ノ浦で安徳天皇側に立って戦っています。菊池一族は、天皇様側に付いて反抗勢力と戦う家柄です。武房さんは元寇のときに大活躍をされました。元寇のときの絵画『竹崎秀長の絵詞』に菊池の家紋である並び鷹の羽の旗印を持って控えておられる武房さんの姿が描かれています。
武時公は勅諚(後醍醐天皇の命令)によって、北条家が支配していた鎮西探題に討入り戦死しています。楠木正成公から「忠功第一か」と推薦があって、これから楠木家と菊池家は仲良くなりました。以後、同志として各地に転戦しています。
その子武重公は千本槍を創始されました。それまでは槍は戦場で使われることはありませんでした。これより古いものが出てきませんので菊池千本槍が槍の創始ではないかといわれています。箱根古道の脇、山中城址の三島寄りに「菊池千本槍の碑」がたっています。先月話したときに強調したのが、“両軍の御霊に恩讐を越えて祈りをささげる”と。これが肝心で大切なことです。
熊本県天草の諏訪神社の大野宮司さんから、千本槍の写真を送ってもらいました。柄が短い槍が初期の菊池千本槍です。(資料添付)
武重公は菊池家憲「よりあひしゆないたんのこと」を創った方です。この「寄合衆内談の事」が、血判がある古文書で一番古いものだと伝えられています。
第一条「天下の御大事は~」は帝国憲法に反映され、第二条は自分の議が良くてもみんなの議を優先するという合議制の言葉です。五箇条のご誓文の「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」につながったという話もあります。(回覧、資料添付)
武士公は武重公の兄弟で、若くして当主を武光公に譲られます。
近代出版社に『名画に見る国史のあゆみ』というのがあります。伊勢神宮所蔵の武光公の絵画が載っています。激戦の後に刀を洗ったら雪の上に真っ赤な血が飛び散ったことが画材になっています。(回覧)元になった頼山陽の詩(資料添付)があります。(太刀洗川。大刀洗という町名も残る)

靖國神社にはほとんどの方がお参りになったことがあると思います。下見で参拝させていただきましたけれど、一番奥の拝殿と申しまして、お食事を差しあげたり、祝詞を上げる場所のすぐ手前まで入らせていただくことができると思います。ご期待ください。

立山英夫命も菊池市の出身です。亡くなったときに懐からお母さんの写真とお母さんへの想いを綴った裏書が出てきました。それを見た上官大江一二三が詠んだ歌です。(資料添付)
「靖國の宮にみたまは鎮まるも をりをりかへれ母の夢路に」参拝者がよく詠います。
椰子の実の話がすてきです。マニラからの退却時に流した椰子の実が31年後に3000キロ離れた生まれ故郷の島根に流れ着き、奥さんの元に届いたという神秘的な話があります。

「遊就館」とは(故君子居必択郷 遊必就士『荀子・勧学編』) 
郷の元々の意味は向かい合って食事をするという意味です。好きな人とじゃないと食事したくないですよね。気持ちの良い場所にするということです。
「士」の字の構成は十と一が組み合わされています。元は一から十まで何でもできる人のことを「士」と言い、次第に力量のある人のことを「士」というようになりました。
遊びては必ず士に就く=立派な人と歓談したり、お酒を酌む意味。
幡掛正浩先生の名訳は「好かん奴とは飲まん」でした。
先生からは「四方に使いして君命を辱しめず。これを士という」(論語)を教えていただきました。
これは正に鉄舟先生のことではないかと思います。「悪衣悪食」着られない、食べられない苦労もされています。三題とも鉄舟先生のことを間近に感じられます。
一、広瀬武夫中佐も松尾敬宇(けいう)中佐もそして都竹(つづく)正雄兵曹長(飛騨高山出身)も
―菊池一族の誉れと千本槍の気概。そして「お母さんありがたう」―

広瀬武夫・松尾敬宇=菊池一族、都竹正雄=特殊潜航艇で同乗した人。
 今日お話する松尾敬宇さんは菊池の血筋で、菊池千本槍を携えて特殊潜航艇に乗り込んでシドニー湾でお果てになられた方です。
昭和16年12月8日真珠湾攻撃のときは参謀(戦全般の記録と交代要員)で行っておられます。
回天はずっと後で、一人乗りで、魚雷の発射装置はなく魚雷に跨っているようなものです。特殊潜航艇は2人乗って、一人が操縦して、一人が撃ちます。潜水艦に積んで近くまで行きます。
湾の入り口に潜水艦が入ってこられないように防潜網が垂らしてあります。松尾艇は防潜網を掻い潜って敵艦を撃ったが当たらず、敵艦の一斉掃射があり危険だと海底に3時間くらいいて、上がったら故障で魚雷が出ないので体当たりしようとしました。小説では艦橋が開いたまま沈んだとあります。アニメになりますと、都竹さんも一緒に短銃で自決をしたというお話があります。

なぜ『軍神松尾中佐とその母』という写真集にまでなったかというとお母さん(松尾まつ枝刀自)が非常に立派な方で、遊就館に和歌が展示してあります。オーストラリア海軍が敬宇大尉の海軍葬をしてくれ、遺骨も帰ってきた。戦時中はまずなかったことです。戦後お母さんはオーストラリアに招かれ、「日本の母」「勇士の母」と非常に良くもてなされ、民間外交の実を挙げられました。

ますらをの悲しきいのちつみかさねつみかさねまもる大和島根を 三井 甲之

これが靖國神社の本質ではないかと思っておりますので最後に一言付け加えさせていただきます。

【事務局の感想】
わずか60余年のことですが、今回お話を伺った高潔な話が遠い昔のことのような気がします。今回、靖国神社に参拝できることは、そのような意味でも、振り返ることができ、気持ちを新たにできる良い機会になるのではないかと思います。
 

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5月例会記録(2) 1/2 

■山本紀久雄氏

「幕末の風雲は清河八郎の九州遊説から開幕」 1/2 

 上米良さんからお話を伺いまして、靖國神社の有意義な問題だと思います。現地でいろいろお話を伺えると思います。
清河八郎の続きです。清河八郎は山形県の清河村から江戸に出てきて、最初は学者を目指しましたが、地震で1回・火事で2回、3回も自分の塾が壊れる・閉鎖することになりました。普通なら向いていないのではないか、縁起が悪いのかとあきらめるところですが、4回目にお玉が家に清河塾を作りました。

最初に塾を開いたときには塾生がたくさん入ってきましたが、今回はあまり入ってきませんでした。時代が変わって落ち着いて勉強する人が少なくなったと思ったときに桜田門外の変が起きました。田舎に知らせようと桜田門外の変について調べているときに水戸浪士の一覧表を見て、そういう時代なのかと大変なショックを受けました。一番高い身分で200石、士分ではない人もいました。自分より社会的地位が低いと思われる人が井伊大老を倒していました。儒者として儒教を教えるままでいいのか?時代を変える人間になるべきではないかと学者の道から改革・革命家の道に方針を転換しました。

大老は260年間江戸幕府の中でたかだか10名しかいません。あの有名な阿部正弘は老中首座です。そういう「大老」を倒したということは大変なことです。
お玉が池の塾の机の上から本は消えて、出入りするのは多くの浪士・浪人・幕臣、薩摩藩の人たちになりました。

1.「虎尾の会」結成。(こび)
時期は安政六年(1859)または万延元年(1860)。
「虎尾の会」とは尊王攘夷党であり、「虎尾」とは「書経」の
「心の憂慮は虎尾を踏み、春氷を渡るごとし」より起った言葉で、
「危険を犯す」という意味。

2.発起人は清河八郎以下次のメンバー。
薩摩藩   伊牟田尚平 樋渡八兵衛 神田橋直助 益満休之助
肥前有馬  北有馬太郎
川越    西川錬蔵
芸州    池田徳太郎
下総    村上正忠 石坂周造
江戸    安積五郎 笠井伊蔵
幕臣    山岡鉄太郎 松岡万

3.盟約書は以下のとおり。
「およそ醜慮(しゅうりょ・外国人)の内地に在る者、一時ことごとくこれを攘わんには、その策、火攻めにあらずんば能わざるなり。しかして檄を遠近に馳せ、大いに尊王攘夷の士を募り、相敵するものは醜慮とその罪を同じうし、王公将相もことごとくこれを斬る。一挙してしかるのち天子に奏上し、錦旗を奉じて天下に号令すれば、すなわち回天の業を樹てん。もしそれ能わずば、すなわち八州を横行し、広く義民と結び、もって大いにそのことを壮んにせん。いやしくも性命あらば、死に至るもこの議をやすんずるなし」

全生庵に盟約書の全文があるということですので、この文章と全生庵の蔵から出てくる文書は同じか、チェックしてきます。
この時代、外国人は歓迎されません。どこに火をつけるかというと影響力の強い場所である横浜居留地です。当時は横浜に外国人が住んでいました。横浜に火をつければ、目立つだろう、幕府が困るだろうと考えました。幕府は日本国内の治安を担当しています。幕府を困らせることによって、外国人は出ていってほしいというのが攘夷です。外国人に味方する人は外国人ではなくても殺してしまうと書いてあります。
ここに山岡鉄太郎がいたのです。鉄舟はそんな人だったのか?鉄舟が大好きな人たちが集っている会なのに・・・これも解明していきます。

4.「虎尾の会」に薩摩藩の益満休之助がいたことの事実は重要。
この時代ほとんどの人が攘夷です。インフレも起き、習慣の違いで色々なトラブルが起きました。自然の感情として外国人が居なければ良いのにと考えたのが攘夷です。
一般の人は思うだけですが、志がある人たちは集まって勉強会しようというのが尊王攘夷党と考えてください。

会員のあさくらさんが埼玉県の公文書館に清河の資料があり「当時の清河八郎の人気ぶりがわかります」とコメントを寄せてくれました。
清河は当時日本で一流の志士でした。清河八郎の言っていることが受けたということです。今では策士と言われますが、当時は人気でした。そうでなければこんなに人は集まりません。あれだけの学問・知識を持ち、旅した記録を作って、自分の儒学の知識と各藩の歩いたところを考えているから、普通の人の空理空論とは違うわけです。鉄舟もあった瞬間から引き込まれました。
清河はどんな人間かをイメージで考えると、勝海舟に似ているような気がするんですね。頭が良いこと、相手の話をひっくり返して、自分のほうに持ってくるところです。海舟は清河を嫌いました。同じ型の人間は嫌いなんですね。同じ性格よりも違う性格が良いものです。清河八郎の才気に国際的要素を加えたのが勝海舟だと思います。

先日サンフランシスコに行きました。アメリカで最も美しいといわれる美術館(カリフォルニアリジェンドオブオーナー)のひとつに行きました。美術館の庭に勝海舟が来て100年という碑が建っていました。
勝海舟は咸臨丸の副艦長として海外を見ていますね。勝海舟は苦労しているけれど、清河は実家がお金持ちですから苦労していません。清河は育ちが良くお金の苦労がないですから勝海舟より純情です。手練手管があるのが勝海舟だと思います。
虎尾の会に益満休之助がいたことが大変な縁ですね。鉄舟が駿府に行ったときの通行手形は薩摩弁で、品川を越えたら官軍が居て、総大将は長州と薩摩ですから薩摩弁でしゃべれば通行できたでしょう。益満休之助が同行して薩摩弁をしゃべったから鉄舟は駿府まで着きました。

「幕末の風雲は清河八郎の九州遊説から開幕」 2/2 に続く 

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5月例会記録(2) 2/2 

■山本紀久雄氏

「幕末の風雲は清河八郎の九州遊説から開幕」 2/2 

5.お玉が池・清河塾土蔵の中での「豪傑踊り」
10年前に鉄舟と益満休之助はこの清河塾で意見を戦わせ、豪傑踊りをした仲です。なぜ「豪傑踊り」をしたかを考えないといけません。
すべて物語には背景・ストーリーがあります。一流の人はやることに意図があります。世の中に妥当な正しい意図がある人は時間とともに伸びていきます。意図が悪い人は時間とともに問題を起こしていきます。


防衛庁の守屋次官が国民のためにゴルフ接待を受けたのでしょうか。ゴルフ接待を受けた!ということはその結果何か悪いことをしているに違いないと疑いを持たれるでしょう。誰が考えても悪いことしていると思うでしょう。

清河塾の土蔵の中で話しあっていました。必ず「いつ火攻めをするんだ!いつ横浜居留地をやるんだ!」という話しになります。ちょっと待てと鉄舟がいつも止めました。酒を出して裸になって踊り、他の人も踊りだし、踊り疲れるとまた酒を飲みました。清河の家はお金持ちだから酒はある、あそこに行けば旨いものがあるから集まった人もいると思います。酒を飲む、踊る、疲れて寝てしまうと火攻めできません。鉄舟が豪傑踊りを考えたんですね。

静岡の牧之原台地で茶畑を開墾していた中条景昭も豪傑踊りに加わりました。
「今になって思えばまるで山岡に馬鹿にされていたようなものだ。なにせ山岡が士気を鼓舞するのだといって、真っ先に素っ裸になって樽を叩き出すのだから。それに乗って皆が裸で踊り出したのだ。まさか裸じゃどこにも行けない。」

鉄舟は幕臣ですよ、横浜居留地を襲撃したら幕府が困るでしょう。江戸の真ん中に生まれ育っているのだから、普通の人間なら日米和親条約、日米通商条約を結び、五カ国と通商が始まっているのに、それを攘夷として国際条約をひっくり返すことはできないでしょう。開国してしまっているのだから、普通の感覚だったら受け入れざる得ないことです。そういう理由もあって、横浜居留地を襲撃できません。そういうことを直接攘夷の勉強会で言えません。違った方法でやらせなきゃ良いわけです。それが豪傑踊りになったんだろうと思うわけです。

天狗党も木戸孝允も横浜居留地を攻めようとしていました。幕府が開国の条約をしたことを違勅として攘夷をさせようとしていました。結局実行できないまま終わりましたが。

渋沢栄一は幕末パリに行きました。お金がないので、フランスからお金を借りて帰って来ました。銀行とはこういうことかと学んで銀行を整備した人です。徳川家は70万石では食えません。徳川の武士に何をさせようかと考えて、生糸の生産かお茶の生産はどうかと渋沢栄一が考えました。その柱を支えたのが、鉄舟です。

6.「浪人運動では力が知れている。ろくなことは出来はせん」
・・・維新の三傑の一人、大久保利通の見解

火攻めはできませんでした。大久保利通の発言は、大きな事業・大きな改革は組織でしなきゃだめということを意味しています。
薩摩藩77万石が財政を良くし武器をイギリスから買って、薩長と提携して向かって来ました。
薩摩は赤字財政で、それを立て直したのが家老の調所笑左衛門です。お金を削るだけではなく稼がなくてはだめです。薩摩は琉球国を支配しました。イギリスもフランスも琉球国に来て貿易するわけです。貿易して巨額の利を得ました。
開国しても幕府以外は外国と取引できないのも不満の種でした。
幕府に取引することを申し出しようとして、調所笑左衛門は阿部正弘の元に申し出に行きました。阿部正弘の外部ブレーンは薩摩の島津斉彬だったので、阿部正弘は斉彬さんがそういうならと見逃しました。
 篤姫は家定将軍の3人目の奥さんで、2代目の奥さんは小さかったらしいですね。

駿府で西郷隆盛と話をつけたのは鉄舟さんですか?と読売新聞から問い合わせが来たので、資料をつけて送りました。篤姫が功績を担ったのですか?と。
和宮(静寛院の宮)と天璋院が慶喜に言われて動きました。本人たちが行かないで、土御門という侍女に行かせました。
西郷隆盛は確かに使者が来たけれど、よろしゅうお願いしますと頭を下げるばかりで目的がよく分らなかったといっています。そのときに鉄舟が来て交渉しました。交渉するには、何のために行くかを持っていかないと交渉できません。
仕事行くときも売ってこようか、売らないでおこうか、目的をはっきりさせないでお願いしてもだめです。
慶喜の命なのか、徳川幕府なのか、江戸城攻撃をさせないのか、そういうことをはっきり指示していたのだろうか。
それに対して鉄舟は時の政治権力者である勝海舟に相談しました。それが鉄舟の強みです。

薩摩藩が京都で動いても幕府は気にしません。井伊大老が暗殺されてもびくともしません。老中が辞めても次から次と出てきます。組織の力で相手の力に勝るものがなければできません。武力、体力、財政力。清河は個の力でどうにかしようとして失敗しました。テロリストです。
鉄舟は個の力で相手を変えました。組織の場合は、組織対組織です。個の場合は、相手の意思決定のできるトップの人間に直接合うことができれば、個の力が生きます。鉄舟は西郷隆盛に会ってそこに全力を尽くして海舟と相談したことを伝えました。それによって江戸無血開城が成り立ちました。
なぜ薩摩藩・長州藩が幕府に勝てたか、それは、組織対お金と武力を十何年も掛けてやってきたからです。個の人間ができたのは別の筋です。それが鉄舟の偉大さです。
個の力を出すには、相手のトップと話をつけられる人間でなければだめです。
駿府に行くまでには益満休之助がいました。益満休之助は豪傑踊りをした仲であることを海舟は知っていて3日前に牢屋から出していました。
清河八郎が塾を開かなければ、益満休之助と鉄舟は知り合わなければ、あ・うんの呼吸で東海道を走れなかったでしょう。清河は江戸無血開城のひとつの因子を作った人物として記録に残すべきだと思います。

7.全国を逃亡する。
清河八郎は有名になってきまして、水戸天狗党と提携を取ろうと水戸に行きました。天狗党は幕府から睨まれていますから目をつけられました。土蔵の中にいろんな人間が出入りしていることを幕府は逐一わかっていて捕まえるチャンスを狙っていました。まとわりついた岡っ引を斬って清河八郎は幕府のお尋ね者になって逃亡生活に入りました。逃亡が清河八郎を出世させました。

8.「廃帝」の噂。
塙次郎に調べさせて孝明天皇を辞めさせてしまうという「廃帝」の噂を聞いた清河はそれを武器にして九州に遊説に回りました。幕末は九州の遊説から始まったと司馬遼太郎先生もおっしゃっております。次回は遊説の内容についてお話いたします。


【事務局の感想】
「浪人運動では力が知れている。ろくなことは出来はせん」
武力、体力、財政力、個か組織か、如何に優秀でも、どこで、どのようにするかを
間違えるとその力を発揮することはできないということですね。
次回は7月になりますが、まだまだ鉄舟研究は続きます。
                       

以上

投稿者 staff : 15:38 | コメント (0)

2008年05月05日

4月例会記録(1) 

■上米良 恭臣氏

『私論。誄歌でたどる靖國神社』

今回は祀られている人ではなくて祀る側の話にして、次回は祀られている方たちを中心にお話したい。靖国神社はナイーブな問題を抱えていて、空論にはしたくないので、私の身近で知っている人、面談をしたことのある人、尊敬している人を主題にとらえてお話を進めさせていただきます。
「誄歌」は「るいか」と読みます。神主さんがお祭りで述べるのが祝詞(のりと)です。葬式で神主さんが述べるのが誄詞(しのびことば)と言います。祝詞は大きい声で奏上しますが、誄歌は声を低くして静かに述べるのが普通です。誄歌とは神様を敬い偲ぶ和歌です。

明治天皇御製 
わが国の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき
 靖國神社のことを詠んでおられます。和歌にしろ、論語にしろ声を出して詠んでください。

特別攻撃隊、九軍神の忠烈を深く偲びて
み濠べの寂けき櫻あふぎつつ心はとほしわが大君に    三浦 義一

三浦義一さんという日本浪漫派と言われた人の和歌です。昭和十六年十二月八日の真珠湾攻撃に特殊潜航艇五隻で突入され、ついに帰られなかった九軍神を偲んで詠まれています。

靖國神社に金子さん達と下調べに行き、正式参拝をさせていただきました。玉串をささげて、頭を下げますと、こめかみのこの辺にびりびりときました。そのあと非常にさわやかな風が頬を撫でてくれました。いろいろな思いがあるのですけれども、私の論のひとつは心の問題です。

私論一 原初、靖国は率直なこころの問題であつた
中国からの非難や総理大臣の正式参拝など政治的、理知的?なことに絡めて、靖國神社の本当の姿が見えないのではないかというのが私の考えです。

濫觴=下関、桜山招魂場祭、元治元年(一八六四)の高杉晋作(東行)の誄歌
後れても後れてもまた君たちに誓いしことを我忘れめや

東行という号は西行にちなんでいます。濫觴と書きましたが、まだ社がなく、榊を立てて神様を天空からお呼びして、お祭りをしたのが、下関の桜山招魂場です。長州藩が最初の攘夷運動として外国船を攻撃して報復され、その戦いで亡くなった方たちの魂をここへお呼びしてお祭りしました。そのときに晋作が詠んだ歌です。

はつかしと思ふ心のいやまして直会御酒も酔得ざるなり

私が大好きな歌です。招魂祭で祭られた人たちに向かって今の自分の行動が恥ずかしい、その心がぐっと増してきて、お神酒にも酔うことができないと歌っています。現代に生きるものとしても行き着くところだと思っております。この二首の内「はつかし」はあまり知られていないのですね。

創始=招魂社。明治二年(一八六九)より、戊辰戦死者を祀る

ただ単に広場でお祭りしていたものが、社になり招魂社といいまして、靖國神社の今の場所です。最初に祀られたのが、戊辰戦争でなくなった官軍側です。

国家の根幹=世界の独立国家は賛否なく戦死者を尊崇。ビッテル神父の進言。※資料1

駐日ローマ教皇代表バチカン公使代理ブルーノ・ビッテル神父の進言です。敗戦直後に靖国神社を焼き払ってしまえという論が占領軍にあって、それをキリスト教会に諮問しました。(中略)
「靖国神社を焼き払ったとすれば、其の行為は、米軍の歴史にとって不名誉きわまる汚点となって残ることであろう。歴史はそのような行為を理解しないにちがいない。はっきりいって、靖国神社を焼却する事は、米軍の占領政策と相容れない犯罪行為である。(中略)
 我々は、信仰の自由が完全に認められ神道・仏教・キリスト教・ユダヤ教など、いかなる宗教を信仰するものであろうと、国家のため死んだものは、すべて靖国神社にその霊をまつられるようにすることを、進言するものである。」

私論二 心の問題を理知、法規で云々の愚―いはゆる戦犯合祀、いはゆる政教分離―

私は靖國神社には心をからお参りする。国のために戦で亡くなられた人たちに感謝と報恩の念をささげることだと思いますけれども、世間は頭でっかちでやっているんですね。戦犯合祀の問題、政教分離。神道には、政教分離はありませんが、祭政一致はあります。

神道祭祀への非難を越へて―「祭政一致」と政教分離。「一君万民」と民主主義

五箇条のご誓文のときでも、天皇が五箇条のご誓文を天神地祇に誓われて、その後発布されます。両方「まつりごと」ですがお祭りを第一にして、それから政治(まつりごと)を行う。神道の発想です。よく民主主義といわれ、戦後になって初めて民主主義が出てきたように思われますが、これは嘘です。日本らしい民主主義、鉄舟先生も書いておられたように「一君万民」これが日本の本来の民主主義です。今のアメリカナイズされた民主主義とは違います。

未曾有の国難、敗戦と、占領六年八ヵ月、植民地にならなかった奇跡!

日本が外国に侵略される、こういうことは歴史上かつてなかったことで、大変な敗戦であったわけです。降伏してサンフランシスコ講和条約までの六年八ヶ月アメリカを中心とする連合軍に占領されていました。六年八ヶ月も占領されておれば、植民地にされるのが普通ですよね。それを植民地にならないように日本人の生き残った方たちも努力してこられた。

二四六万六五〇〇余柱(内二一三万三九〇〇余柱は大東亜戦)のご祭神

ご祭神を柱と言います。その靖國神社に祀られているご祭神は二四六万六五〇〇余柱です。うち二一三万三九〇〇余柱が、大多数が大東亜戦争でなくなられたご祭神ということです。

私論三 松平永(なが)芳(よし)第六代宮司の三原則と第七代大野俊康宮司の必死懸命を偲ぶ。
昭和殉難者奉祀と国家護持より国民護持といふ考へ方
一、 神道祭式堅持 二、社殿不変 三、社名不変(やすくにの正字は靖國)

松平春嶽公の孫、松平永芳宮司の『誰が御霊を汚したのか―靖国奉仕十四年の無念』(諸君・平成四年十二月号)という文章がありますが、それには靖國神社は私がいる限り、神道の祭式を堅持する。国家護持ではなく、国民護持。戦前も靖国神社のお祀りで、ほとんどが参拝者、崇敬者のお金で成り立っていたにも関わらず、所轄の官庁から微々たるお金が出て、国家護持といわれたわけですけれども、そのような国家護持はおかしい。名前だけで政治に牛耳られる。国家護持になると、神道のお祓いもやめて、二礼二拍手一礼もやめて、頭を下げるだけとか、そんなようなことがやられかねない。尊敬心のある方たちの力によって靖國神社を護持していこうではないかと松平宮司は言っておられます。靖國神社の桜の下で会おうというのが大東亜戦争で亡くなられた方たちの合言葉だったので、社殿も傷んだ部分だけ取り替えて、砂で磨くとか補修してできるだけ変えない。社名は絶対に変えない。そう言っておられます。やすくにの正字は「靖國神社」です。

大野宮司の必死懸命。何と現代の菊池千本槍か

その後を継がれた大野俊康宮司、私と同郷の熊本天草本渡諏訪神社の宮司さんから抜擢されて靖國神社に御奉仕になったわけです。大野宮司の息子さんと連絡が取れまして、大野宮司の「必死懸命」というお仕えの仕方をお聞きしました。
わが郷土に菊池川があります。砂鉄が取れました。その砂鉄で菊池千本槍、槍というか短刀を作って、それを携えて靖國神社にお仕えになったそうです。非常に厳しい、首相などになるよりももっと厳しい姿勢ではないかと思っております。失敗があれば腹を切るということです。
石田和外(かずと)氏、醍醐(だいご)忠(ただ)重(しげ)中将、そして練習艦隊上の父。※資料3

練習艦隊という言葉はご存知ですか?今の自衛隊もやっているんですけれど、旧軍では日露戦争の後、明治三十八年から昭和十四年まで練習艦隊が出ています。艦隊ですから二隻から三隻で世界中を周ります。あるときはアメリカに、あるときは地中海に行ったりしています。私の父も昭和十二年の六月七日から四ヶ月間地中海に行っております。その艦(磐手)の艦長は醍醐忠重中将。
松平永芳さんは新任少尉で乗艦され、のちに醍醐中将の娘を奥さんにされております。
石田和外さんは、最高裁長官、全日本剣道連盟会長を務められ、さらに鉄舟の一刀正伝無刀流第五代です。その方の推薦で、松平さんが宮司になられた。福井県の人脈です。

(日本人同士の)恩讐を超えたいと私は思っているのですが。国道一号の三島に近いところに山中城があり、その箱根古道の脇に菊池千本槍の碑が建っています。
『建武二年(西紀一三三五年)十二月十一日、ここ箱根古道、山中一帯で行われた水呑峠の合戦で、後醍醐天皇の命を承けた宮方軍の先鋒菊池肥後守武重公の率いる軍勢は、足利勢と壮絶な戦いを展開した。菊池一族一千余の将士たちは、竹の先に短刀を結ぶ新しい武器を用い、足利勢を山の峰に追い上げ大勝利を収めた。しかし足柄路の友軍は、竹下合戦に敗れて、宮方総崩れとなり、菊池勢は殿軍を勤め死闘を繰り返し、将士七百名を失った。此の箱根 “竹下合戦” は南北朝対立のかなしい時代の幕開けであった。(中略)
のちにこれが菊池千本槍と呼ばれ、武重公の武勲と共に、菊池氏誠忠の歴史に輝きを放っている。
 菊池同族の末裔ゆかりある者ここに碑を建て、史実を顕彰すると共に、建武の昔箱根の戦いに斃れた両軍将士の御霊に深い祈りを捧げる』
最後のところが肝心です。両軍の将士の御霊に祈りを捧げるというところです。

余滴 靖国に祀られる人、祀られぬ人。―恩讐は超へられぬのか―
    吉田松陰・坂本龍馬・高杉晋作・真木和泉守・清河八郎・昭和殉難者・広田弘毅・松尾敬宇中佐疎開船対馬丸児童父兄・ひめゆり部隊・従軍看護婦・終戦後死去の樺太真岡電話交換手
西郷隆盛・白虎隊士・八甲田山行軍訓練死者・佐久間勉艇長・東郷元帥・乃木大将・古賀峯一元帥

「吉田松陰」から「終戦後死去の樺太真岡電話交換手」までが祀られる人。「西郷隆盛」から「古賀峯一元帥」は祀られておりません。

疑問 わが国は今真実の独立国家なのか?パール判事の日本無罪論と日本を叱る言葉。※資料2
パール博士というインドの判事でただ一人東京裁判を否定した方の話が残っています。日本に何度か戦争のあと来られています。
「日本は独立したといっているが、これは独立でも何でもない。しいて独立という言葉を使いたければ、半独立といったらいい。いまだにアメリカから与えられた憲法の許で、日米安保条約に依存し、東京裁判史観という歪められた自虐史観や、アメリカナイズされたものの見方や考え方が少しも直っていない。」(一九五二昭和二七年十月)
広島に訪れた際にパール博士は「過ちは繰り返しませぬから」碑文を見て激怒したそうです。
「この《過ちは繰返さぬ》という過ちは誰の行為をさしているのか。もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。それがどんな過ちなのか、わたくしは疑う。ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、その原爆を落した者は日本人でないことは明瞭である。落した者が責任の所在を明らかにして《二度と再びこの過ちは犯さぬ》というならうなずける。この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。さらにアメリカは、ABCD包囲陣をつくり、日本を経済封鎖し、石油禁輸まで行って挑発した上、ハルノートを突きつけてきた。アメリカこそ開戦の責任者である。」
靖国神社遊就館前にパール博士の碑文がたっております。

結語 平和な時にこそ、聞かう!靖国の神々の声を。

かつて未曾有の敗戦といいましたが、今は未曾有の平和ですね。平和に越したことはありません。平和の中に人間の規律というものをもっと確立していくべきただと思いますが、戦争のことを思えば思うほど、今日の平和は貴重です。平和な時代になりますと靖國神社にお参りする人が減少するのではないかと言われておりますが、行ってみると大変にたくさんの人出であります。平和な時代にこそ、お参りし、御祭神の声に耳を傾けてお聞きし、今の生活にどう生かしていけばよいのか、それを皆さんと一緒に考えさせていただければ非常にありがたいと思います。
私は「はつかしと思ふ心のいやまして直会御酒も酔得ざるなり」に行き着いてしまいます。
お話を終了させていただきます。ありがとうございました。


【事務局の感想】
6月に靖国神社を参拝させていただきますが、靖国神社についてはやはり上米良さんに教えていただくしかないと思い、今回をお願いをいたしました。
私論一 原初、靖国は率直なこころの問題であつたというお話をお聞きして、それでよいのではないかと思いました。素直な心参拝をさせていただければ、良いのかなと思っています。
靖国神社に行ったことのない方は、ぜひ、この機会にご参加くださいますよう、お願いいたします。

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2008年05月03日

4月例会記録(2) 1/2

■山本紀久雄氏

「清河八郎の戦略転換」 1/2

靖國神社の問題は、以前はありませんでした。中国から出された問題で、それに翻弄されています。中国に行って説明しますと靖國神社はお墓だと思っているんですよね。神社の存在から説明しないとわかりません。

今チベットの問題で、世界中が中国の対応について遺憾の意見を評していますね。特にフランスの発言で、中国はカルフールの不買運動をメールで起こしていますが、カルフールは中国に50店くらい出ています。北京のカルフールに行きましたが中国人は買っていました。ウオールマート、伊勢丹、カルフールにもお客さんは入っていました。実際には買っているけれど、不買運動をするのが国情だろうと思います。
ぜひ来月も上米良さんに伺い、靖國神社の知識・理解を深めたいと思います。

鉄舟研究会のホームページを見ていましたら、田中さんも金子代表も清河のことを誤解していた、新しい見方をしたというニュアンスのことを書いていました。現代でも同じで、我々もひとつの見解で人を見るということをしてしまいます。これは靖國神社のことにも通じます。
どういう人間か知らないままに世間一般の策士という評で清河イメージしてしまうという意味でも、現代に生きる鉄舟の研究を学ぶ意味があります。
幕末維新の時代、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允が三傑といわれましたが、そのほかにもたくさんいます。幕府側では、鉄舟、海舟、泥舟、清河八郎も異色だけれど幕末維新に貢献しています。どう貢献したかを話して行きます。

1.文武二道指南の道を目指す
清河八郎は学者になろうと山形から江戸に出てきました。酒屋の息子でしたが、勉強が好きだから、一流の学者になろうと江戸に出てきて塾も開いて、清河が初めて文武二道をやりました。

2.江戸神田三河町に「経学、文章指南、清河八郎」塾を安政元年(1854)十一月に開いたが、その年末に火事で消滅

3.次の塾として薬研堀の家屋を購入したが、これも安政二年(1855)十月の大地震によって壊れ、塾開設をあきらめ故郷に帰る
安政の大地震で被害に遭いました。普通だったら、一軒目が火事、二軒目が地震で、江戸で学者になろうと塾を開いて、やったけれども、二度続いてこういうことがおきると、今の日本人の多くは“俺はついていない。またあるんじゃないかな”と思う人がほとんどですよね。そうなったときに清河八郎は故郷で徹底的に勉強しました。
人間はあるとき徹底しなければなりません。没頭しない人間は哲学がありません。哲学を磨かないと維新の英雄になれません。名を残した人は徹底的に他を省みず自分の目的のために没頭した期間があります。

4.この前は火事で、今度は地震、自分の将来へ一抹の不安を暗示しているのではないかと、一瞬脳裏に宿ったが、それを打ち消すかのように郷里で猛烈な著述活動を開始した。清河の多くの著述の大半はこの時期になされた
「古文集義 二巻一冊」(兵機に関する古文の集録)
 昔からのいろいろな兵器を集めて説明する辞書です。
「兵鑑 三十巻五冊」(兵学に関する集録)
 兵学に関することを集めて書く。書いたら覚えますよ。頭を使う基本です。
整理して、分類して、書く。これが考える作業です。

「芻蕘論学庸篇」(大学贅言(ぜいげん)と中庸贅言の二著を併せたもので、芻蕘(すうじょう)とは草刈りや木こりなどの賤しい者を意味し、自分を卑下した言葉で、この本の道徳の本義を明らかにし、後に大学・中庸を学ぶ者に新説を示したもの)
贅言は無駄な言葉という意味ですが、無駄な言葉ではないです。清河は謙遜して言っています。いろんな塾で教えている以外の、独自の教科書を作りました。清河の持っている体系知識が違う、人と違ったものの見方ができました。違う見方ができるということは視点が広いということです。

「論語贅言 二十巻六冊」(論語について諸儒の議論をあげ、独特の説を示したもの)

 「芻蕘論文道篇 二巻一冊」(尚書・書経を読み、百二篇の議論をあげ、独特の説を示したもの)
 「芻蕘武道篇」(兵法の真髄を説いたもの)
その他に論文もあり、清河の勉学修行は並ではない。
日本人の観光ツアーに行って、右といわれた時に一人だけ左を見るということをする。これが大事。こういうことをしているから物事の見方が鋭くなるのです。これだけのものを書くということは凄いでしょう。書いたら頭に入り、頭に入るということは知識があるということです。その上江戸にいるときに旅をしています。四国から関西を回っていて、京都に勉強に行って、良い先生がいないから九州まわって、オランダ人とも会って帰ってきています。お母さんを連れて、関西から四国を歩いています。仙台や蝦夷地にまで行ったといっています。旅行が頻繁にできない時代です。

日本人は世界一電車に乗ります。一年間で平均3000キロ電車に乗ります。第2位はフランスで、1800キロですから、日本はダントツの鉄道利用国民なんですね。鉄道が普及しているということです。

要するに当時鉄道がなく、歩きです。歩きでたくさんの行動をしたら、お金も要るし、体力がなければだめです。頭が良くても体力がないとだめです。頭使い過ぎて死んだ人はいないが体力がなくして倒れる人はいます。

清河は22歳で剣道をはじめました。千葉道場でも必死に修業して、人より早く中目録をもらいました。清河八郎は策士といわれていますが、策がない人は策士とは言われません。人をリードできるのは、広い学識があるからです。日本では珍しく旅をしてまわっています。こんな人に会ったら引き込まれませんか。武士階級は出張できない。清河は横断して情報を整理して、本にしています。論理的だと思います。口がうまいでしょう。時代解説ができます。町村の様子を日記に書いているんです。これが清河八郎記念館にあります。

5.安政の大地震が攘夷運動に与えた影響

この清河八郎の薬研堀の家が地震で倒れたということは、安政の大地震は、
どの歴史書にも出ていますが、大変な被害を与えました。人が多く死んだこともありますが、当時の優秀なる時代のリーダーが死んでしまうわけです。
当時日本をリードしたのは水戸藩です。国学の中心になった水戸斉昭が江戸城にいて海防参与の役職につきました。斉昭が攘夷運動をリードして、斉昭の裏には藤田東湖という優秀なブレーンがいたが安政の大地震で亡くなってしまいました。一番たくさんの家臣が死んだのは水戸藩です。後楽園のところに水戸藩の屋敷がありました。表の塀が倒れて、住んでいた下級武士が死んでしまいました。裏長屋に住んでいた重臣も倒れました。即死46名、負傷84名と被害報告が提出されています。御三家の尾張藩は今の市ヶ谷防衛省、紀伊藩は赤坂で今の迎賓館があるところでどちらも高台・岩盤で江戸幕府に出した報告書によると被害は家が少し倒れただけでした。
この水戸斉昭と将軍継嗣問題で争ったのが井伊大老で、井伊家は外桜田に藩邸があり、ここは岩盤ですから、さしたる被害なしと報告しています。水戸藩だけが被害を受けてしまいました。藤田東湖が死んでしまったことによって、水戸斉昭の言動がぶれてしまいました。リーダーがぶれるとみんなぶれます。西郷隆盛も志士たちも、水戸藩の藤田東湖のリーダーの攘夷論に従いました。方向を一時失ったわけです。清河の塾も倒しましたが、大地震によってそういう影響を引き起こしました。

6.安政四年(1857)駿河台淡路坂に塾を開くが門人少ない
再び江戸に出てきました。ところが、知識があって日本中を回って立派な話をするわけですが、門人が少ない。最初の神田三河町のときはいっぱい来たのに今度は来ない、売り上げが上がらないのは、なぜでしょうか。時代が変わってしまったのです。
今、スーパーもデパートでも売り上げが前年を下回っています。江戸時代も今も同じです。黒船が来る、尊王攘夷でもめている、地震はくる、もっとほかにあるんじゃないか?塾で論語を勉強している場合ではないんじゃないかと不安心理が世の中に蔓延しました。清河はこれを体験しました。これは次の布石です。

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4月例会記録(2) 2/2

■山本紀久雄氏

「清河八郎の戦略転換」 2/2

7.千葉道場で鉄舟と出会う
清河八郎は22歳で千葉道場に入門して急速に剣が強くなりました。鉄舟は鬼鉄と言われるくらい剣が強い人です。鉄舟は清河の弁論と知識に惹きつけられました。もっと大事なことは、人間同士があった瞬間に気が合うのは、どちらかというと性格が似ている場合があります。


鉄舟はどういう性格ですか?子供時代に寺の鐘を坊さんが欲しければあげるぞといったら、鐘を下ろそうとしました。和尚さんは人に嘘を言ってはいけないということを教える人物なのに、鐘を私にくれると言ったではないか、と言い、和尚さんが鉄舟のお父さんを連れてきて許してやってほしいと言わせた大変な人物です。言い出したら聞かない人です。
また酒の席で、主が一日で成田までの140キロを往復すると言い、“俺はできる!”と鉄舟が言って、鉄舟は一人で往復してきました。
清河八郎も同じで、「ど不適」といわれるくらいに思ったことはやりぬく強い性格です。二人は親しくなりました。


8.安政六年(1859)、隣家からのもらい火で塾消失

9.同年六月お玉が池に塾開設
これも立派なものです。火事2回に地震に負けていません。ここであったのが、井伊大老の桜田門外の変です。これが清河の一生を決めました。世の中の事件です。アメリカの9.11と同じです。アメリカも変わりました。水道の調査に行ったら、源泉は見せないといわれ見学できません。
井伊大老が殺されたということは、時の最高権力者が路上で登城するときに水戸浪士が17名、薩摩藩士1名の18名に襲われたということは、世の中の時代が変わったこと、幕府の力が落ちたということを明らかにさせました。幕府の力が落ちたら政治が混乱します。
この大事件を清河はどう受け止めたかというと、清河はすぐに現場に行き、歩き、資料を集めました。情報収集したらどうしますか?編集です。整理して、田舎に送ってあげようと20枚に顛末を作りました。これが「霞ヶ関一条」です。

9.安政七年(1860)三月三日桜田門外の変を「霞ヶ関一条」に綴る
誰がやったか、誰が起こしたか、その日の朝水戸家の侍は脱藩届けを出したので浪士です。清河八郎が目を離せなくなったのは、水戸浪士一覧表です。見たら、最高が200石、ずっと見ていくと樵、神官に仕える仕官、鉄砲士、世が世なら、世に出ない人たちがいました。士分がずっと低い人がいました。大名が殺したとか、高級旗本とか、重臣ではありません。清河はこれを見て唸ってしまいました。この人たちが世の中を変えたのか、自分も山形の同じような、自分よりずっと貧しい人たちが日本のことを考えて起こしたということをみて、志を変えました。それまでは学者になることが志でしたが、倒幕に切り替えました。

10.戦略転換は水戸浪士の禄高一覧表から
戦略は小さいときから死ぬまで貫くのが良いです。白金の三ツ星レストラン「レストラン カンテサンス」に行きました。シェフが33歳で、挨拶に出てきてくれましたが、高校を出て、最初からフランス料理人になろうと思ったそうです。日本中のフランス料理を食べ歩いて一番おいしいと思ったところで弟子入りして、修行します。その間フランス語を勉強して、フランスに行き、フランス中のフランス料理を食べ歩いて、一番おいしいと思ったところで働かせてくださいと言って勉強します。そして日本に帰ってきて白金にお店を開きました。今でも一日16時間は厨房に居るそうです。戦略が統一しています。

清河八郎は戦略転換をしました。吉と出るか、凶と出るか、結果的に暗殺されました。鉄舟も清河と近しかったが、鉄舟、海舟、泥舟は畳の上で死にました。西郷は城山で自刃、大久保は紀尾井坂で暗殺されました。清河が暗殺されたのは、戦略転換が影響しました。鉄舟とはどう違うのかは次回です。

以上


【事務局の感想】
清河八郎の博識の背景が今回わかりました。没頭すること。没頭し哲学を身に付ける。「集めて、分けて、比べて、組み合わせて、選ぶ」ことが考えるということ。これを清河八郎はやってきた人物でした。この清河八郎と鉄舟の接点が、「性格」「気があう」という点で、この点は書物の勉学ではないので、非常に人間的ですが、これもまた定石ということではないでしょうか。
来月の清河八郎と鉄舟との違いが楽しみです。

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2008年03月30日

3月例会記録(2) 

■山本紀久雄氏

「清河八郎研究」 

今井さんからいいお話を聞きました。鉄舟会清規の中に信条の一「自己と世界についての正しい見方」いいですね。今でも当然使えるわけですが、自己と世界、当時の大森曹玄さんが描いた世界と今の世界は違う。

チベットの問題、マラソン選手が“空気が悪いから”とオリンピックに出場しないとか、世界はそういう風に広がっていますから、その「世界」の意味が当時とどう違うか、正しい生き方はグローバルになったけれど、どう違うかを近いうちに再び今井さんに講演をお願いしたいと思います。
今井さんは中村天風先生の幹部でしたからね。中村天風先生の修練会に行くと、後ろにものを置いて3つのものを並べ替えて見ないでどう並べ替えたか直感的に分かるようになります。それから竹がきれいに割れるようにならないと、卒業できません。

1.前月の尊王攘夷の復習
 ① 尊王攘夷は中国周の時代に発した言葉
突然日本に起きて15年間日本中を駆け巡った精神であり行動であった。この言葉の意味がよく分からないままに出ているので、系譜をお話しした。周の末の時代、2500年くらい前の紀元前の話、周の王様の権力が落ちたときに王様を大事にしなければならないと発せられた言葉が「尊王」で、他国から蛮族が来たので「攘夷」という言葉が出た。
 ②それが約2500年経って幕末の水戸藩で蘇った
 ③水戸藩の改革のスローガンとして水戸斉昭が主唱
水戸藩を良くするために外に敵を作り、藩内をまとめようとして「攘夷」という言葉を使った。
 ④尊王攘夷思想の一方は幕府改革へ、もう一方は倒幕運動へ
2つの攘夷運動へ分かれた。当初は幕府を敬う「敬幕」だったが、「倒幕」に変化した。
 ⑤倒幕への背景は「安政の大獄への反発」「修好通商条約の違勅」「貿易によって発生した国内混乱」「外国人の態度への反発」など
アメリカと最初に結んだ和親条約は孝明天皇も認めたけれど、修好通商条約は孝明天皇が認めていなかったのに井伊大老が締結してしまった。孝明天皇の存在が一般に知られており、幕府の上に天皇が居るのに判を押したことは違勅であるといわれた。
通商条約が締結されヨーロッパの品物が入ってくるが、輸出するものがない。生糸が外国に輸出され品薄になり、インフレーションが起きて、生活が苦しくなった。文明国と非文明国が貿易すると非文明国が苦しくなる。外国人のアレルギーが「攘夷」になった。
 ⑥明治維新が成立した途端に尊王攘夷は消えうせた。最後まで取り組んだ者は蟷螂(とうろう)の斧(はかない抵抗)に終わった
政府と政府が修好条約を結んでおり、開国しているのに“攘夷”と矛盾したことを言っている。リーダーは矛盾に気づきながら、矛盾していることを言って、一般の人たちを扇動した。幕府を倒すためのスローガンにしてしまった。真面目に攘夷と言ってきた融通の利かない頭の硬い人たちは、時代がわからなくて抵抗して、はかない抵抗に終わり、片隅に追いやられて消えていった。
「攘夷」は、幕府を倒すために誰かが考えて言われたこと。水戸藩の「攘夷」も藤田東湖とかブレーンが言った言葉。

政治はブレーンが大事です。福田総理にはブレーンはいるのだろうか?安倍内閣はお友達内閣と言われていた。でも安倍さんが入院するときに誰かに相談すれば、もしかしたら、まだ安倍内閣は続いていたかもしれない。小泉さんのブレーンは竹中平蔵。
藤田東湖が死んでしまったから斉昭は頑固親父になってしまった。ブレーンが時代によって世界を変えてあげる。参謀です。水戸家の参謀だった藤田東湖は安政の大地震のとき江戸の水戸屋敷におり、倒れてきた屋敷の下敷きになって死んでしまった。尾張家・紀伊家は高台に屋敷をもらっている。水戸屋敷は小石川にあり、沼地で低いから地震の被害が大きかった。その結果水戸家がたくさん死んでしまい、ばらばらになった。ここまでが前回の復習。

2.清河は何故に尊王攘夷の志士といわれるまでになったか
清河は鉄舟を同志と呼んでいる。鉄舟もそれも甘んじた。清河は概して評判が良くない。行動が信用置けないとか、山師、策士、出世心。鉄舟のイメージと清河八郎のイメージは異なるが、間違いなく同志であったし、清河は亡くなる前の日まで鉄舟の家に住んでいた。清河は体調が悪いが用事があると出掛け暗殺された。命を狙われていて、鉄舟の家にいないと危険だった。そのことを解明しないとならない。
物事の結論は簡単ですが、プロセスが大事です。清河は司馬遼太郎が本を書いている。無位無官の志士なのに天主まで先導した者は清河八郎より他はいないだろうと書いたが、評論家の佐高信が司馬遼太郎を批判している。「無位無官」は賛辞でしか使わない。私自身どこにも所属しないで自分の主張を言い続けているので無位無官を誇りに思っている。それを「無位無官のくせに」というような言い方はけしからんと言っている。
藤沢周平は山形県の出身で清河の同郷で、清河はかなり誤解されており、山師・策士・出世主義者と言われているが、この呼び方は誇張と曲解があると言っている。鉄舟や高橋泥舟と親しく交際しながら一方で浪士組を一転して攘夷の党に染め替えて手中に握ったのが誤解の元になっていると思われる。清河八郎の足跡を辿れば誤解であることが明らかになると藤沢周平が愛情を込めて書いている。

①生まれ:
山形新幹線「新庄駅」から陸羽線に乗り換えて「清川駅」に到着。ここから歩いて10分くらいのところに清河神社がある。清河八郎は神様になっている。鉄舟は神様にはなっていない。鉄舟は全生庵にいるだけなのに、なぜ清河は神様なのか?靖国神社に祀られているから。幕府に殺されている。清河は1830年生まれ、鉄舟より6歳上。
②育ち:
酒屋・斉藤家の長男に生まれ、金持ちの士分格。7歳頃から論語などをおじいさんから学んで、10歳のときに母方の鶴岡で塾に入ったがいたずら者で戻ってきた。13歳のときに清川の関所役人畑田さんのところに入って勉強したら、優秀だということがわかったが、14歳から遊郭狂い。
藤沢周平は、清河の性格を「ど不適」と言っている。自分を貫き通すためには何が起きても恐れない性格、どんな権威がきても黙殺して自分の主張を曲げない。勇気があるといえるが、自分の主張を曲げないのである面では傲慢と見られる人柄を言う。親友ができにくい。
とにかく清河は非常に頭が良くて、鉄舟との関係は清河が17歳の時で、藤本鉄石に会ったのも17歳のとき。鉄石の家に長逗留させてもらって学んだ。  
鉄舟は高山に居たときに父親の代参したお伊勢参りで藤本に会って、鉄石から林子平の『海国兵談』を写させてもらった。
  藤本鉄石は、岡山藩を脱藩して、免許を受け、諸国を遊学し、私塾を開いて、倒幕に参加し、天誅組みに参画した攘夷思想の人。
藤本は学問も出来て、剣もたつ文武両道の人であったので、清河も、何れ藤本鉄石のようになりたいと思った。
松下村塾は吉田松陰が27歳で開いた塾。
清河は25歳で塾を開いた。文武両道で開きたいという希望を持っていた。

③江戸へ
17歳のときに藤本ににあって、田舎に居てはだめだと18歳のときに江戸に出た。総領だから許してくれないので、家出した。1回目の旅です。

④旅へ
2回目の旅は、江戸に居る間に親が許してくれて、江戸に出てきたおじさんと一緒に京都、大坂、岩国、四国、奈良、伊勢、江戸に戻ってきた。

⑤学問
跡継ぎの弟が病死した。仕方なく山形に帰ったら遊郭通いが再発。7里の道を毎晩遊郭通った。金があるから狂ってしまった。が、ある瞬間勉強したいと父親に申し出て京都に勉強しに行った。京都には良い先生がいないので、九州に行った。小倉、長崎、長崎に出島があって、オランダ商人館に連れて行ってもらって、オランダ人と会っている。島原、熊本、別府、長津を経て江戸に戻った。三回目の旅。
江戸時代、一般の人はあまり旅を許されていなかった。温泉か伊勢参りや善光寺参り。その時代にこれだけ回っている。そして全部日記を書いている。この日記11冊が清河記念館に残っている。17歳までは親から聞いたことを書いたが、その後は自分で学んだことを日記にした。食事終わったあとに寝るまで事細かに書いているので残っている。

⑥剣
江戸で東条塾に入って勉強して、隣の千葉周作の道場に22歳のときに入って、剣道を習い始めたのが、22歳。遅れている。しかし人に教えて良い中目録を3年かかるところ1年でやった。

⑦文武両道
勉強して、昼間は道場に行き、帰ってきたら12時まで勉強して、また朝4時に起きて勉強して、徹底的に勉強した。こういうことを日記に書いてある。昌平黌にも通ったが入ったらつまらないので辞めて東条塾で先生の代行をした。25歳になって自分の清河塾を開いた。そうしたら昌平黌からも、東条塾からも生徒が来る。いたって評判が良く生徒がいっぱい集まった。どうしてこんなに人が集まったのか?
神田に土地を借りて新築した。それだけではない。お母さんを連れて、江戸から四国まで4回目の旅をしている。25歳までにこんなに旅をした人はいないんじゃないですか?旅行してつぶさに土地の状況を日記書いている。昼間見たことを書くということは頭に入る。その上に若いときから論語とか勉強して素養がある。他の塾では論語の書いてあることを解説するだけ、清河の場合は、論語のこと、自分が見てきたことを組み合わせて実体験として講義する。時代は変わっていく。日本の最先端です。人気があった。

 今度の日曜日から上海に行く。上海でお世話になるコンサルタント会社から届いた費用の見積もりを見てびっくりした。今まであちこちまわっていますが、今までの何十倍の金額の見積もりを送られてきた。スポンサーに送って、紹介してくれたところに交渉してもらっている。
世界中同じ調査をしている、NY,ロンドンの順に高かったが、その何倍も高い金額を請求してきた。給料が日本の3分の一や5分の一と言われている。
初めてだったら知らないで高いと思いながらも払ってしまったかもしれない。

アテネに行った。小学校6年生で日本語を勉強している子が居るから見てほしいというので会ってみた。どういう教育しているかと聞くと自宅で家庭教師を頼んでいる。家庭教師は自分の家庭教師料は高いと言う。
見てくださいと持ってきた紙にドラゴンボールが描いてある。インターネットで世界一アクセス数が多いのが鳥山明です。ドラゴンボールです。そのことを知らないといけない。これを本に書いている東大の先生がいます。
その小学校6年生が突然、「上杉謙信に子どもは居ますか?」と質問してきた。“上杉謙信は独身だった”。「織田信長は悪者ではないですか?」“日本では一番人気のある武将です。なぜなら日本を統一したから”。「明智光秀に殺されましたね」とか知っている。英語の戦国時代系図譜で勉強している。
英語は高校生レベルです。小学校6年生で日本に行きたいからと勉強しており、普通の家庭だけれど親は高い給料を払って勉強させている。日本に行きたいと子どもは目的がはっきりしている。
清河八郎もただ単に旅をしたのではない。今までに江戸にない塾を開いた。ここが優れているところ。優れていなかったら天皇を動かすことはできないでしょう。どうしてそこから鉄舟と結びついたか。

3.鉄舟と清河は何故に気が合ったのか
 ① 性格が似ているところ
 ② 時代のつかみ方が優れていた
 ③ 性格が違っていたところ
清河と鉄舟は違うけれど最も親しい間柄。死ぬ直前まで鉄舟の家にいたから。清河が信用している人が鉄舟。けれども清河八郎は良い評判がない。それなのになぜ同志と言われたのか。そのことを解明していかないと鉄舟のことはわかりません。最後は大悟徹底したけれど、そこに行き着くまではいろんなことがある。それを研究している。
アテネの小学生は目的があって勉強しているから親がお金を出してあげている。今の時代に目的を持つことを学んでいかないといけない。

吉田松陰は20歳まで長州を出ませんでした。21歳で江戸に出て、東北をまわって色々学んだときにペリーが来ました。これからは外国に行くべきだと思った。吉田松陰は「飛耳長目(ひじちょうもく)」と言っています。20歳まで学問をして、21歳から旅を初めて、学問と比較して広めた。下田でペリーの船に乗り込もうとしてつかまった。旅の回数でいうと吉田松陰は清河より少ない。
清河は25歳までに4回旅に出ている。京都に遊説に行きます。薩摩屋敷に集まれと扇動した。幕末の風雲は清河の九州遊説から始まったと言われている。
吉田松陰と比較するわけではないが、当時旅をした人が少なかった。鉄舟も旅をする機会が少なかった。
以上

【事務局の感想】
清河八郎のイメージはよくありませんでしたが、今回の山本さんの話で時代の最先端の塾を開いていた文武両道の人ということが分かり、イメージが変わりました。
この清河八郎と鉄舟がどのように展開して、二人が同志関係になったのか、今後の山本さんの研究が楽しみです。

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2008年03月23日

3月例会記録(1) 

「大森曹玄老師の思い出」
今井 裕幸氏

 本日お話させていただきますのは「大森曹玄老師思い出」というテーマです。30年ほど昔、私が若いときに、皆さんご存知の『山岡鉄舟』の本を書かれた大森曹玄老師が、「鉄舟会」という座禅の会をやっておりました。私は18歳までは四国で過ごしておりましたが、東京に出て来まして、いろんな人に会ってみようと思ったこと。またヨガもやっておりましたので、大森曹玄老師を知ることになり、東中野にあった鉄舟会に参加させていただく機会に恵まれました。


レジュメに「鉄舟会清規」というものを載せています。鉄舟会は第2・第4日曜日に座禅の例会が行われていました。会費が例会出席者は月額100円でした。「ただより高いものはない」と言われます。ただだと実際には高くなるから、一番安い100円を会費として、ちゃんと会費はもらっていますという、相手に対する配慮のようなものです。箱に月額100円と書いてあり、そこに自分で入れるだけでした。
中野の高歩院(こうほいん)で、毎回大森曹玄老師が来られて15~25人くらい毎月例会が行われました。今から30年くらい前になりますから、当時の私も若く18歳くらいです。誰から紹介を受けて行ったわけでもない、そういう若造が行っても受け入れてくれる度量の深さといいますか、座ることに関してちゃんと座ってさえいれば、一人の参加者として扱ってもらえる会でした。

摂心というのがありまして、山梨県上野原にある青苔寺(せいたいじ)で行われる大摂心にも参加させていただきました。

座禅の一口メモとして
臨済宗   向い合って座る         公案がある      白隠禅師   天竜寺等
曹洞宗   面壁(壁に向かって座る)   公案はない。     道元禅師   永平寺等
黄檗宗   教室型(同じ方向を向いて座る) 鳴り物が入りお経が中国語読み 万福寺等
山岡鉄舟居士、大森曹玄老師は、臨済宗です。

居士禅(コジゼン)
本来座禅は出家しないとできないのですが、在家で座禅するのは居士禅といいます。鉄舟は居士禅の元祖みたいなところがありまして、本来は出家しなければできなかった座禅を、鉄舟居士の頃から在家でも座禅が認められるようになってきた、元祖みたいな位置づけもあります。
男性は居士(こじ)、女性は大姉(たいし)と呼ばれます。一炷香(イッチュウコウ)、線香が一本燃える時間で、およそ45~50分をさします。時計を使わず、直日(ジキジツ)の合図で一炷香を、一単位として座ります。居士禅では1日一炷香は毎日欠かさず座りましょうという考えがあります。

摂心会(セッシンエ)
 日常の修行の他に、集中して修行の成果を上げる為に、摂心会があります。1週間から10日くらい合宿して座ります。参禅をして公案をすすめることになります。在家の居士は仕事を休んで参加しますが、休めない場合はそこから昼間出勤します。その分、夜座とか、一晩中徹夜で座る、徹宵(テッショウ)とかをすることもあります。

法話・講話・提唱(テイショウ)
坊さんが話しをするときには、法話、講和、提唱という段階があります。普通に仏教の話をするのが法話、もうちょっと専門性がある段階は講和と言います。摂心の中で話される、老師・師家が境涯を捧げ出す、それが提唱です。提唱は聞く方も座禅の姿勢で、目だけを開けて、でも姿勢は座禅と同じ状況の中で老師の境涯を受けるのが提唱です。

性(せい)と相(そう)  「性=本質」  「相=表に見えているもの」 
 座禅は何のためにするかというと、「見性」するためにするのです。性(せい)と相(そう)という言葉があります。「性」というのが、本性とか、目に見えない本質の部分のことで、「相」が、実相とか、人相とか、円相など、表に現れて見えているもののことです。
 
見性(ケンショウ)
小さな悟りが見性です。人間の本性は卵の殻のように自我で囲われており、自我の殻を座禅で究極に自分を詰めていき、自我を破壊することが座禅をやる目的です。無念無想になるとか、雑念を取り去るなどと言っている段階では、実際やってみると、そうはなりません。足が痛いのを通り越し、もう疲れてどうでも良くなり、その段階を超えて自我の殻を破壊するために摂心をします。

臨済宗では見性をするために公案があります。公案とはいろいろありますが、例えば「父母未生以前の本来の面目」自分が生まれてこの世にある、自分を産んでくれた両親が生まれる以前の自分は何ですか。「隻手の声」は、両手を打てば音はするが、片手で拍手を打っても音はしませんが、その声を聴いてきなさいという禅問答です。理論で考えてもわからないから、その問題について「工夫する」という言葉を使います。工夫して、師家に参禅し、見解することにより、公案がすすんでゆきます。
悟った瞬間というのが、卵が生まれるときに、生まれる小鳥が殻の内側からくちばしでつついて突き破るのですが、同じ時に同じ箇所を親鳥が殻を突くその瞬間が悟りで碎啄同時(ソクタクドウジ)に殻を破る、参禅者と師家の関係になぞらえた話です。見性にもいろんな段階があり、公案がいくつも進んでいきます。公案が進んで、最終的に大きな悟りをします。
山岡鉄舟が1880年3月30日大きな悟りを開いて、適水和尚の印可を受けたことは、本にも書かれているし、大森老師もおっしゃっておられました。

鉄舟会で何をやっていたかというと、誰でも受け入れてくれる自由な雰囲気で、午前中座って、必ず大森曹玄老師も来られて、寺山旦中さんらも修行しに来ておりました。自分自身が修行をしにきて、一緒に修行している感じです。教えたり、教えられたりという関係ではなくて、全員が一緒の方向を向いていました。来るものは拒まず、去るものは追わず。若い私も受け入れてくれる度量の深さがありました。錚々たるお名前が並んでおりますが、来て、さりげなく普通に居られるわけです。

午後から鹿島神伝直心影流法定を稽古します。木刀より短く太いもので、打ち合うというより型が中心です。
その後は、筆禅道(ひつぜんどう)です。書道とはいわないで「筆禅道」と言い、円相、線を書きます。線を見て座禅の中で、どこまで進んでいるのか境涯を見ます。「墨気」墨の気がどういう風に立っているかというものを見ます。大森曹玄老師が一番中心になってやっておられました。

高歩院は、東中野駅から5分か10分くらいの、表通りからちょっと降りて行くような所です。例会の参加者は10名ちょっとから20名ちょっとくらい。青苔寺の大摂心のときは、それでも30名くらいです。水洗便所ではないですし、摂心のときの作務で田んぼや畑を掘って、トイレのものを埋めました。肥汲みもみんな競いあって一生懸命にやるんです。当時意識していなかったですけれど、錚々たるメンバーが来ておりました。みんな偉ぶっておらず、一緒に修行する人という感じで、厳しい中に気さくな雰囲気でした。

鉄舟会に通っていたのは、30年前の半年ちょっとくらいで、その後は大学の座禅の会にはいりました。大森曹玄老師が亡くなり、今はどうなっているのか分かりません。

【事務局の感想】
若い頃からいい会で勉強をされ、いまも鉄舟に縁のあるこの会で勉強をされている今井さんからの発表でした。大森曹玄老師が一番中心に居て、会の要になられていたという様子が分かりました。今回は大森曹玄老師のお話が少なかったので、ぜひ次の機会に老師についてと「境涯」について発表していただきたいと思います。

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2008年02月29日

2月例会記録(1) 

「私流アンチエイジイング実践法」                                         
井上喬博氏

 先月1月に横浜の元町を歩いていたら、自分の色で差をつける街のおしゃれ人で、インタビューを受けました。原稿を書いたのでチェックしてほしいとEメールがきました。現在66歳、来月3月11日で67歳になるんですが、記事に「57歳」と書いてありました。一応訂正を入れました。シニアファッション研究所から出ている雑誌です。
25年くらい前に山本さんほか情勢判断学会とか、脳力開発をやっていて、実は20年前から年々若返ってきている。それを皆さんにぜひお話ししたいと思います。


脳力開発の特徴は行動力をものすごく重視します。アクションの力をつけるにはどうしたらいいか?きわめて印象に残っているのは「行動とは口と手と足を動かすことだ」という言葉です。口と手と足を動かす日常的なトレーニングは何かと潜在的に頭に入っていました。私が毎日やっていることをお話しして、体験があったほうが良いので皆さんに試していただけたらと思います。

■運動(毎日原則)

 1.スクワット      朝、昼、晩に各100回
 2.骨盤体操       朝、昼、晩に左右各1回
 3.胸を広げる運動    朝、昼、晩に各20回
 4.四股踏み       朝、昼、晩に各20回
 5.手振り運動      朝2,000回 昼1,000回、晩1,000回 (※資料参考)
 6.ウォーキング     一日平均12,000歩
7.テレビ体操      朝、6時30分~1回

森光子さんが朝晩150回スクワットをやっているというのは有名ですよね。私も森光子さんと同じように300回やっていました。スクワットは、ただの屈伸だと思っていましたが、本当のスクワットというのは、膝を折って、足の先に膝をあわせて床と腰が平行になる。これを回数やるのは大変なんですね。
次に手振り運動をやっています。具体的な内容はインターネットで「達磨易筋経」というキーワードを入れて検索すれば沢山出てきます。1400年前に達磨さんというお坊さんが「易筋経」を書いてそこで取り入れている運動で、一切の病から開放され極めて安上がりな方法ということで誰しもやりたいと思うわけですが、一日4000回というのです。
山本さんの話しで大鵬が四股踏み1日2000回とありましたね。四股踏みよりは楽だけど4000回だからあきらめてしまう。
「達磨易筋経」は東京電気大学教授の関英男先生が訳されました。関さんにお会いしたとき、やっていたとは知りませんでしたが活力があって96歳まで生きられました。正しいやり方は、2000回は日の出前にやることが原則です。冬は朝5時スタートです。慣れないと50分くらい掛かりますが、慣れれば30分くらいでできます。夏になると日が昇るから朝4時にやらないとならない。私は11月からは1日も欠かさず4000回やっています。1日4000回やるとは知らないで、それまでは400回でしたが、いろいろ調べていくと400回でもそれなりに価値があると書いてありました。
さらに「洗心(せんしん)」という言葉を言ってやることが望ましい。「洗心」と言っていたら数を数えられない。それで私は「1.2.3.4…」と40まで数えて、「洗心」5回を2セットやって10回、これを8回繰り返して400回。正の字を引っ張って、4000回を数えています。言葉を発すると腹筋使うので良いみたいですね。

毎週日曜日朝7時から6チャンネルで放映されている「カラダノキモチ」という健康番組を見て、必ず新しい運動を取り入れていますが全部は取り入れられないので、歌手の中島啓江さんが出演されたときに骨盤体操をやっていたのでそれを取り入れています。一緒にやってみましょう。
黙々とやっていると飽きてしまうので、朝5時から3チャンネルを見ながらやります。今日の「人生の歩き方」には楽天の野村克也監督の人生の話をやっていました。運動やりながら勉強できるメリットがあります。

朝6時半になったらラジオ体操を毎日やります。ウォーキングして、外で朝食をとります。銀座・原宿・神保町に行っており、朝7時代にお店に行ってしまいます。会社が10時からですが、平均して8時半に出勤して、また1000回やります。

■発声(毎日原則)
脳力開発と同じで基礎習慣で連日やっていると無意識で出来るようになります。自然にそういうレベルに行きます。
1.滑舌のレッスン1    1回   (※資料参考)
2.滑舌のレッスン2    5回   (※資料参考)   
3.腹式発声のトレーニング 2種、各1回   (※資料参考)
「あー」と繰り返してやっています。からだが響くような感じで、寒いとき「はぁ~」というのを内に向かってやります。
4.絶好調、嬉しいな、楽しいな、素晴らしい、愉快だな、快適~5回
毎日繰り返すと壁にぶつかっても立ち向かう感じになります。
幸せだな豊かだな、やってやれないことはない、やらずに出来ることはない~5回

南砂町という東西線の駅から10分くらい歩いたところに砂町銀座という活気のある商店街があり、300メートル歩いたところに斎藤一人の「ついてる神社」があります。リズムをつけてやるといいです。
ついてる 50回、      大丈夫 50回

この後の言葉は私流にやっています。自分の中に取り入れたいメッセージがあれば、それを自分のものにします。毎日やらないと反射神経のごとくに入らないから毎日やらないとだめです。
開き直り 5回、 選択と集中 5回

行動は重要なので、即実践と言います。 
当たり前のことを当たり前にやる即実践 5回、 案ずるより生むがやすし 5回
この二つは取り入れる価値があります。たいがいのことは案ずるが生むがやすしでできちゃうんですよね。
常にビジネスモデルを構想しよう 5回、 白紙でトライ!シンプルに大胆に 5回
困ったことは起こらない 5回、 人生に困ったことなんて有りえない 5回
人によっては違うかもしれないけれど、斎藤一人の言葉で、日本人は商人のことを嫌うけれど経済観念は必要だという観念があります。
商人頭がないといいように利用されるだけ 5回、 商売に甘さが出る 5回
商売に必要ないものを徹底的に削ぎ落とす 5回
英語なんかすぐ必要じゃないことを日本人は努力するけれどその前にやることがあるだろうと斎藤一人の本の中に出てきます。頭の中が雑念でいっぱいになって集中できない。無駄なことを省き、必要なことを徹底的にやります。

これも良い言葉です。
全ての良きことが雪崩のごとく起きますように 5回
回りの世界を天国にしてしまえ 5回、 腹から笑うこれが腸能力 5回
眼の前の小さな幸せに気づこう 5回 
私たちは幸せの鳥を離れたところに求めるけれど、結構目の前に幸せがあるからこれを再確認しましょう。シニアになるとリスクを犯すことが怖くなります。毎日発声していると危険な道を歩く傾向が少なくなります。
自分サイズ!手の内で勝負出来る世界でのみ勝負する 5回
年とともに体はガタが来ます。死ぬときは来るからしょうがないと開きなおりができます。
人間すべて死亡率100% 5回、 生きることは爆発だ!人生はドラマだ爆発だ 5回

発声は、滑舌レッスンを含めて15分くらい、早ければ10分です。朝5時に起きて、体操をすべて実行して1時間弱、滑舌レッスンは早ければ10分くらいで、6時までに終わります。6時半までのラジオ体操までに時間が余まるので、身の回りの整理やお茶を飲んだりしています。
日々やっていることですが、多少なりとも参考になれば良いと思いまして、発表させていただきました。
以上

【事務局の感想】
井上さんは、考え方が前向でいつも大変元気な方です。前回の発表は「散歩の達人」というテーマでしたので、歩かれていることは知っていましたが、今回の発表を聞いて、これだけの運動と発声・滑舌運動をされているとは、本当に驚きでした。元気で前向きな考え方の秘密がわかりました。これからも継続されて、男性版「森光子」を目指してください。

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2008年02月24日

2月例会記録(2) 1/2

■山本紀久雄氏
「尊王とは、攘夷とは」1/2

 井上さんの講演、声が大きくすごい迫力でしたね。井上さんは自分の得意なことを極めようとしています。自分の得意なことを極めると自分というものが発展していきます。得意なことの中に自分の世界がありますから、自分の得意なものを知ることが大事です。私も自分を訪ねる旅をしています。ソクラテスが紀元前に「汝自身を知れ」という言葉を残しています。自分が得意なものを掴んだ人は、幸せとか成功が入ってくるということを井上さんが言ってくれたのだと思います。
鉄舟の勉強会も縁ですよね。鉄舟を全然知らなくても集まり、仲間の中に世間とは違ったグループが出来て、気持ちの良い何かが入ってきています。


昨日は田中淳一さんという静岡の中学校の先生から、神田の古本屋を歩いていたら静岡藩~明治2年に廃藩置県で静岡藩になり、その後静岡県になる一瞬の間~の名簿が手に入りましたと送ってくれました。山岡鉄舟のことが書いてありました。これもネットワークです。嬉しいですよね。
神田の古本屋街は財産です。あれだけのものは世界にはないと思います。

前回は山岡鉄舟に影響を与えた清河八郎のことをお話して、今日はいよいよ「尊王とは攘夷とは」についてお話します。尊王攘夷運動が世間を騒がせたのは日本の歴史の中でたったの15年間です。ペリーが日本に来て明治維新になりました。その15年間日本国中を吹き荒れたのが尊王攘夷でした。明治維新以後「尊王攘夷」という言葉はなくなりました。それ以前もありませんでした。激しい言葉の動きでした。
「15年」というのは因縁のある年数で、バブル崩壊以後日本が立ち直ったのが15年です。みなさんも15年くらい続けたことはありますか?私はこの仕事をはじめたのがちょうど11年前です。最近は良いことばかりです。仕事はどんどん忙しくなるし、体は絶好調だしね。

1.尊王か、尊皇か
「そんのう」は「尊王」「尊皇」と両方あります。昭和7年頃から「尊皇」を使っている人が多いのは「天皇家」だからです。誰が「尊皇」を使い出したかというと徳富蘇峰、徳富蘆花のお兄さんです。徳富蘇峰は『近世日本国民史』を書きました。全50冊です。徳富蘇峰は当時とても有名な方で尊皇攘夷について書いています。その徳富蘇峰が、“私が「尊皇」を使いました”と言っています。

2.中国・周時代に遡る(紀元前770~前221年)
「詩経」魯頌に「戎狄是れ膺ち、荊舒是れ懲らす」

「尊王」は中国から出た言葉です。当時中国は戦国時代でした。
不思議なことに地球はあるとき偉人が一気に出るときがあります。2500年前
に今我々が勉強している老子・孔子・孟子・孫子が出て、それ以後ぴたっと出ないですね。そういう時代が中国の2500年前にありました。
『詩経』は五経のひとつで、五経は、『易経』・『書経』・『詩経』・『礼経』・『春
秋経』です。『詩経』の「魯頌(褒め称えるの意)」という項目の中に「戎狄是
れ膺ち、荊舒是れ懲らす」(西北の蛮族をうち、南の荊舒を懲らしめる)とあり、
これが「攘夷」という言葉の元です。「尊王」は、周の時代王様を尊重しない人
が多かったので、みんなで王様を尊敬しましょうと尊王論が出ました。周の王
様を尊敬して、周王朝を守るため侵入する周辺諸民族を打ち払いました。これが尊
王攘夷です。これをペリーが来たときに思い出して使ったわけです。誰が最初
にこれを使ったかというと、水戸藩の徳川斉昭が使いました。

3.尊王論は水戸藩・・・徳川斉昭(烈公)、会沢正志斎、藤田幽谷、藤田東湖など
弘道館に掲げた「王を尊び、夷を攘ひ、允に武にして允に文に、以て太平の基を開けり」というものが、王を尊び、夷を払い、「尊王攘夷」となりました。しかし、当時言い始めたときは「倒幕」になっていませんでした。

4.攘夷論は大きく分けて二方向・・・
  ① 尊王であり、敬幕
  ② 倒幕の手段

京都にいる天皇陛下を敬いましょう。江戸幕府も日本を治めているのだから敬いましょうと言っていました。しかしあるときから敬幕が倒幕になりました。そしてもう一方は幕府の構造改革になりました。

アメリカ・ウィスコンシン州では大統領候補のオバマ氏が勝利しましたね。オバマ氏が選挙で勝ったらアメリカはどうなりますかね。アメリカの歴史200年間誰がリードしましたか?インディアンを殺して誰が作りましたか?侵略したのはキリスト教の国の人で、その人たちが住み着いたのですから、アングロサクソン、白人でしょう。アメリカは「WASP」(ワスプ:「ホワイト・アングロサクソン、プロテスタント」)が根本にあり、これではない人間はアメリカでは偉くなれないと言われていました。オバマ氏が大統領になったらどうなりますか?長い伝統がなくなるということです。これは価値観の変化です。今後もしかしたらプロテスタントが仏教やイスラムになるかもしれません。
アメリカの中心がなくなるのは民主主義の名の下に大統領が選ばれてきたからです。日本は違います。小泉・安倍・福田と首相が変わっても、天皇は昔からいて、中心が定まっています。「尊王」があるので中々変わりません。アメリカは“日本は変らないからけしからん”と言います。日本には中心が定まった2000年の歴史がありますが、アメリカはごろっと変ります。
幕末時でも天皇陛下が居られたから、井伊大老が日米修好通商条約を締結して揉めても簡単に変わりません。ところがあるとき「尊王攘夷」が消えるのも日本の珍しいところです。
いつ頃から倒幕になったのか?
ペリーは何のために来て何を要求しましたか。開国させて日本と交易しようとして日本の林大学頭と交渉しました。ペリーは交易すれば良いことありますよ、と言って来ましたが、林は“我が国は、そういうことは必要ないです”と交易を外して和親条約を結びました。アメリカが困ったら薪や水や野菜は与えますが取引はしませんという内容です。
アメリカは目的が交易だからどうしても交易したくて、孝明天皇が反対しましたが、井伊大老が日米修好通商条約結んでしまいました。その結果日本に大インフレが起こりました。
インフレが起こるのは、アヘンでやられた清(中国)の例でわかっていました。日本からは輸出するものは生糸くらいで、輸出すれば国内で品薄になり、日本人が買おうとしたら値段が上がり、それにつられて他の物の値段も上がります。幕末はインフレで苦労しましたが、それを乗り越えないと世界に入っていけないので、井伊大老は構造改革を実行しました。
 一般の人たちは、一つは、外国と通商条約を締結したから生活が苦しくなった、二つ目は、孝明天皇が反対しているのに幕府は日米修好通商条約を結んだ、尊王ではない、三つ目は、安政の大獄をやり、文句いうやつを捕まえて牢屋に入れて、その反発が起きました。こういうことが重なって外国人は夷敵!日本を汚している!と倒幕に走っていきました。 
何とかしたいと思った人の中に徳川斉昭がおり、反対に清河八郎は倒幕に走りました。その同志が鉄舟です。
当時外国の人たちは日本の偉い人に会うために土産を持ってきました。ハリスは13代家定へのお土産として、シャンパン、シェリー酒、リキュール酒、切子硝子、特性火筒(鉄砲)、硝子瓶、望遠鏡、博物図鑑、などを持ってきました。将軍は、羽二重などの服、生地を上げました。向こうは科学的なものを持ってきました。

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2月例会記録(2) 2/2

■山本紀久雄氏
「尊王とは、攘夷とは」2/2

今月の始めはエジプトに行ってきました。エジプトは4000年前に世界4大文明が栄え「世界の母」といわれており、当時世界で最も豊かな国でした。小麦がいっぱいできたから他国が食糧を貰いに来ました。ナイル川に畑を作り当時一反あたりの小麦の収穫量は今の日本の群馬県の農協と一緒で、メソポタミアの4倍以上でした。


今エジプト行ったら、日本より酷い食料輸入国になっています。昔は豊かだったのに、ナイル川は今も流れているのに、4000年経ったら貧乏になっているのはなぜですか?ナイル川の水をコントロールしようとしたからです。
ナイル川の水はアフリカ中心部から6万6000キロ流れてきます。そのうちの下流1500キロがエジプトです。川の水は流れながら途中の地面の土を抱え込み、7月になると大雨が降るから増水してナイル川に入ります。一般的に洪水といいますが、日本の洪水は海から流れるけれど、エジプトは広く、高低差がないからひたひたと水が浸り、水による損害がなく、終わったら水が引いていきます。水が引いたあとに、窒素・リン・カリ、自然のものが残り、栄養満点の土に作物が育ちました。だからピラミッドが出来ました。お金があるからです。

水を一定にしておけば、いつでもいっぱい作物が出来るだろうとアスワン・ハイ・ダムを造りました。栄養のある水はたまったところに落ちて、上澄みの肥料ゼロの水だけが流れ、化学肥料を入れないと作物が出来なくなり貧しくなりました。なぜこんな簡単なことが解らないのでしょうか。人間の浅知恵です。

ダムで写真を撮ったら、小銃持った兵が走ってきました。何かと思ったらズームをして撮影したからです。ズームして写真を撮ることが禁止されているということは、撮られると困るものがあるんですね。
アスワン・ハイ・ダムはエジプトのアキレス腱で、軍が守っています。アスワン・ハイ・ダムが攻撃され、決壊したら、東京から大阪までの水が一気に流れ込みます。人口はナイル川流域に偏り7000万人が川のほとりに住んでいるので、全滅です。
アスワン・ハイ・ダムのせいで、食料が出来なくなりました。アスワン・ハイ・ダムの決壊が一番怖いので、軍が守っています。ダムを作らなければ良いのにと思いました。
フルーカという帆船に乗りました。操縦する青年に自分の船かと訊くとオーナーの船で、週3日働いて、他4日は何もしていないと言います。30歳くらいだと思ったので、結婚しているのか、生活が大変だろうと訊くと20歳でした。

エジプトはオスマントルコに征服されました。パリのコンコルド広場に行くとオベリスクがありますが、これはフランスのナポレオン三世がエジプトから貰ったものです。
当時エジプトはオスマントルコの傭兵出身のムハマンド・アリーが支配していました。(ムハマンド=マホメッドのこと)ナポレオンは王様に時計を上げました。エジプト人は日本人と同じように義理堅いから何か差し上げなくてはと、何がいいですか?何でも良いですよと言うと、ナポレオンはルクソール神殿にあった対のオベリスクの内1つをフランスに貰って帰りました。今はエジプトには台座だけ残っています。

月曜日に保田の漁協に行きました。保田海岸の漁協の食堂「ばんや」は1995年にオープンして11年間で27倍の売上になりました。問題はないですかと参加した新聞記者が質問すると、団体客が来て困るのでそのことだけで、今は団体客専用の施設を作っているそうです。
丁寧・親切・上品・的確なサービスはありません。三ツ星レストランとは全然違います。しかし月曜日なのに駐車場はいっぱいで活気があります。人間にとって大事なのは、元気のあるところで食べることで、それが喜びなんですね。宣伝は一切しない、周りは何もないけれど、海からも陸からも人がどんどん集まります。ばんやに入って食事が終わって出たら元気になるという「元気」が魅力なんですね。
店の外では戸板に鯵とか干したものを屋台で売っています。その中の一人に昨日どのくらい売れたかと訊くと、190万円売れたと言います。1日で190万円です。行ってみてください。現場を見ることが大事です。不便なところなのに日曜日は2000人来ると言っていました。

「ばんや」は「鉄舟」だと思いました。全然飾らないので「ぼろてつ」といわれたのになぜみんなに敬愛されたのでしょうか。お金がなく、生まれた子供は栄養不足で死んでしまう、女遊びはする、酒は飲む、討幕運動の清河八郎の友人、そういう人間がなぜ明治天皇の先生になったのですか。我々も一般的な知識ではないものを吸収しなければならないと思います。


5.斉昭の子である慶喜の見解

「烈公(斉昭)の攘夷論は、必ずしも本志にあらず。烈公いまだ部屋住たり
し時より、しばしば戸田銀次郎等を引見して、水戸藩政の改革せざるべかざ
ることども論議し給い、哀公(水戸斎脩卿)の後を受けて水戸家を相続し給
いてよりは、いよいよ日頃思うところを実際に施さんとて鋭意し給いしが、
非常の改革を行うには、何等かの名目なかるべからざるをもつて、一時の権
宜として、改革は武備充実のためなり、武備の充実は、近頃頻々近海に出没
する異船を打攘わんがためなりと称せられたるなり。
すなわち、攘夷の主張は全く藩政改革の口実たるに過ぎざりしが、後に至りては名目が目的となり行きて、形のごとき攘夷論者となり給いぬ。されば烈公は、異船来ると見ば有無をいわせず直ちに打攘わんというがごとき、無謀の攘夷論者にはあらず。もとより我が砲術の拙さを知り給えば、新たに西洋の砲術を学びて神発流と名づけ、胡服(注 中国北方の民族の胡人の着る着物・・広辞苑)は一切用い給わざりしも、つとに藩士をして、甲冑を廃して筒袖・陣羽織に古風の烏帽子を戴かしめ、自ら師範者となりて藩士を訓練せられたり」

構造改革で言い出した「尊皇攘夷」が広まって、簡単に言うと冗談で言ったようなことに対して、日本中の人が真剣に動きました。このために志士が何人死んだのでしょうか。


6.徳富蘇峰の解説(近世日本国民史)
 
「以上は烈公の愛子徳川慶喜の自ら語る所、父を知るは子にしくは無し。我等は之によりて烈公の本意が、必ずしも攘夷で無かったことを知るを得た。烈公尚然り、況や其他をやだ」さらに続けて
 
「文久(1861)以前はいざ知らず、文久・元治(1864)の攘夷論に至りては、其の理由や其の事情は同一ならざるも、何れも対外的よりも、対内的であったことは、断じて疑を容れない。或る場合は、他藩との対抗上から、或る場合は、勅命遵奉上から、或る場合は、自藩の冤を雪ぎ、其の地歩を保持せんとする上から、其他種々あるも、其の尤も重なる一は、攘夷を名として倒幕の實を挙げんとしたる一事だ。即ち倒幕の目的を達せんが為めに、攘夷の手段を假りたる一事だ。されば一たび倒幕の目的を達し来れば、其の手段の必要は直ちに消散し去る可きは必然にして攘夷論は何処ともなく其影を戢め(おさめ)去った。而して何人も其の行衛を尋ねんとする者は無かった。偶ま(たまたま)真面目に攘夷論を主張たる者は、今更ら仲間の為に一杯喰わされたるを悔悟して、或は憤死し、或は絶望死した。偶ま最後まで之を行はんとしたる者は、空しく時代後れの蟷螂の斧に止った」

時代を知らない人は、憤死し絶望死したということです。これが歴史の実態です。恐ろしいですね。
鉄舟会でいろいろお話します。エジプトの話もしましたが、結局エジプトはナイル川を仕切って貧しくなりました。
エジプトはスエズ運河がありので、船が通ればお金が入り、砂漠から石油が出るし、観光客がいっぱい来ます。その国が食糧の輸入で援助を受けています。4000年前は世界の覇者だったのに。

たった15年間でも尊王攘夷の言葉の意味に載せられて走り回った人たちがたくさんいました。倒幕に携わり、倒れ死んだ人は靖国神社に祭られています。勝海舟や山岡鉄舟は倒幕に関係ないから靖国神社におりません。

7.清河八郎の役割と、同士である鉄舟の存在とは?

どうして山形の酒屋の息子が江戸に出て来て統幕の中心リーダーとして動けるようになったのでしょうか。例えると集団就職で出てきた人が出世したようなものです。その清河と鉄舟はどこでどう知り合ったのでしょうか。鉄舟はその後明治天皇の教育係りになりましたが、その間の変化は何なのでしょうか?鉄舟は本気で倒幕しようと考えていたのでしょうか?そのあたりを整理したいと思っています。
以上

【事務局の感想】
今月は、尊王と攘夷と題して、「尊王」と「尊皇」の違いや攘夷の始めについて、またそれらが15年で起こったことなどを勉強いたしました。斉昭の攘夷についての慶喜の見解を知って、長いものには巻かれろという日本人の国民性でしょうか、巻き込まれて亡くなった人のことを思いますと、大変な時代であったのだとつくづく思います。今月は、エジプト、アメリカのお話がでましたが、日本を日本からだけ考えるのではなく、世界から見る視点が必要であるということからお話をしていただいていますが、今世界が大きく変わろうとしている時ではないかと思いますので、今後も海外からの報告を期待したいと思います。

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2008年02月02日

1月例会記録(1) 

■高田東士生氏
「海外で経験したあんなこと・こんなこと」

1.自己紹介
2年前の4月に12チャンネルのアド街ック天国を見てぬりえ美術館を知って、鉄舟会にご縁が出来、参加させていただくことになりました。
中国に出張して、品物を買って国内のお客様に売っている。中国に一人で行く機会が多いので、日本では経験しない失敗談が多いもので、行かれるようなことがあれば、あの人があのようなことを言っていたと思い出し、危険を避けていただければと思いましてお話しさせていだきます。


2.中国編
91年だったと思いますが、中国の広州でトラブルに巻き込まれました。1年に2回中国商品の輸出会があって、91年当時は香港経由で入っていました。今のように飛行機は直行便がありませんでした。
天安門広場を想像していただければ良いんですが、そこまで広くはないですが、沢山人間がいるんですね。広場を抜けるのに15分くらい歩かないと抜けられない。広場を外国人がカートを引いて歩いていると、みすぼらしい、小さな子どもがお金をくださいと取り囲んでくる。当時は可哀想だなという気持ちがあって小銭や小さな15円から20円くらいのお札を上げると、逃げられないくらい人が寄ってきて、パスポートも危ないくらいの状態になる。2000円くらい放り投げて、人がそちらに行ったときに逃げられたという経験がある。
可哀想だと思って自分にピンチになって跳ね返ってくる。可哀想と思っても、公の機関を経由して恵んであげられたら宜しいんじゃないでしょうか。

広州に行くときに香港から列車で近くまで行って、香港から出国して中国に入国するときに並んでいないとならない。ものすごい人が入国管理に並ぶ。縦に10列くらい並んでいるが、横を突っ切ってくる人がいる。おかしいわけです。
お客様から頼まれて、初めて中国に来た方と一緒だった。20人くらい並んでいて横を突っ込んでくる。横から来たときに肩でブロックして跳ね飛ばした。一緒に居た人がナイフでバッグを切られてお財布を取られた。2秒か3秒の間に財布だけ取られた。香港の警察にお願いしたら、香港を出国しているので中国の警察だといわれて、中国入国して中国の警察に行ったら、中国に入国していないから知らないと言われた。
今はそういう入国の仕方じゃなくなったんで、前よりはリスクは緩和されたと思います。横から人間が来たら、どうやっても狙われた。責任者という形でお連れしたので、ご迷惑を掛けた。
今はタバコを吸わなくなったけれど非常にヘビースモーカーだった。9年くらい前に、上海は古い空港だったんですが、上海の空港について入国管理が終わって、出たところでタバコに火をつけたら後ろから肩を叩かれた。前は禁煙じゃなかったが、たまたま禁煙になった。禁煙のところなら、吸う前に禁煙ですよと言ってくれれば吸わないのに、タバコに火を点けるのを待っている。変なアルバイトが横行して、空港内でタバコを吸うと罰金50円と書いてある。
経済が発展してきて、昔社会主義は平等で良いことがあるんだなと思った部分が押さえられて、上海や広州はお金がないとだめだ、お金を稼ぐには、法律ぎりぎり、もしくは見つからなければやらなくてもいい、そういうことが横行していることを感じられた。かなり注意しないと、安易な気持ちで居ると、考えないようなレベルで知恵を使って巻き込んでくる。

2000年に北京に行きまして、別のお客さんと一緒で、日本に駐在している中国人、かなりエキスパートな人と一緒で、3人で夜遊びに行こうと食事が終わった後、日本でいうカラオケスナックみたいなところに行こうとなった。知らないところに行くのは良くないとタクシーの運転手さんに聞いて教えてもらったところに行った。
昔泊まったことのある三ツ星の、外国人が泊まるホテルの2Fのスナックみたいな店で飲み始めた。帰ろうかというときに日本駐在の中国人が家でご馳走してくれるというので出ようとすると、会計が18万以上。ぼったくりバー、暗いところに小さく金額を表示している。XOと書いてあるブランデー、暗くて金額もよく見えない。女の子が何倍飲んだか計算している。領収書も出せないし、一緒にいた中国人が警察に顔があるから、三ツ星のホテルだから、警察に行こうと言い出した。向こうも俺たちだって警察にパイプがあるとか微妙なせめぎあいになって、半分くらい払い、あと残りはうちの会社の交際費でやろうということで、中国のやくざと絡めてトラブルになってもいけないと妥協した。
三ツ星ホテルで外国人も入れて、地域の警察の幹部を知っている方がいてもそれくらいやるということは、表面には分からない危険な部分があるんだなと思いました。タクシーの運転手さんの紹介だったんですけど。運転手さんとは縁もゆかりもなかったんですけどね。
今でも、場合によっては危険なこともある。知っている人もいて、安全なところ以外は行かないほうがいい。日本人はお金で解決するからお金が取りやすい人種と見られやすいですね。

3.イギリス編
93年に仕事でイギリスとフィンランドに行くことがあった。成田からイギリス・ロンドンへ行き、翌日ヘルシンキに行く予定だった。
そこそこ良いイギリスの有名なホテルに泊まり、朝食を採りにいった。部屋にセーフティボックスなかったんですよね。会社で借り金していた30万円を朝ごはん食べてくるだからいいだろうと、ドアにドントディスターブDo Not Disturb(起こさないでください)の札を掛け、30分くらい食事して戻ってきて、念のためお金を数えてみたら、どう考えても10万円しかない。朝食を採るときホテルの人間に部屋番号を言う、そこのコミュニケーションでやられたのじゃないか。ホテルに言って警察に報告しましたが結局なしのつぶてで終わり。パスポートにしろ、現金にしろ、面倒臭がらないで。
会社は本当にありがたいことに、正直に言ったらその20万円は会社で補填してくれた。それは会社に非常に感謝しております。

日本ですが、9年くらい前ゴールデンウィークの前、4月28日土曜日1時くらいに電話が掛かってきて、クレジットカードを使って名古屋で30何万のパソコンを買っていませんか?という。番号のカードは持っていたので、どっかでスキミングされたのかもしれないと思った。カードは種類を決めて使っているので、スキミングされた記憶があるのはサウナか、新橋の焼鳥屋か。サウナで貴重品を預けたところで抜かれてスキミングをやられたのだろう。クレジットカードを2日後に無効して、新しいものを作ってもらったことがあります。

中国で両替するとき、今はお札を数えるカウンターの機械がある。鄧小平の給料が12,13年前は500元、日本円で7000円くらいと聞いていた。
中国に行くと10万円両替する。10万円両替すると6000~7000元で、一番大きい金額の札が100元だから結構な厚さになる。両替されたものを日本人は数えないでポケットに入れる。一人でやると泥棒になるので、少なく出して、指摘されると計算を間違えましたと出す。ホテルで働く両替係りのあぶく銭。
今はマナーとかモラルとかオリンピックに向けてやっているので、大丈夫だと思いますが、カウンターはどこのホテルにも設けているし、中国の人民元でも偽札を判別できることもある。もしカウンター機械がないところで両替するときは目の前でもう一回数えることが良いのではないか。

4.海外でのめずらしい罠
ホテルの中にあるぼったくりバーに入っちゃったこと。今はそのホテルに行ってもない可能性の方が高い。十分学習させていただきました。


【事務局の感想】
日本は本当に安全で安心できる社会です。そのためにその気分で海外にでかけると
高田さんのようなことを体験するようなことも起こるのでしょう。幸いに私はこのような事件には巻き込まれたことはありませんが、引き続き注意をしたいと気を引き締めました。次回は、高田さんのご趣味の分野でまた発表をお願いしたいと思います。
以上

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2008年01月27日

1月例会記録(2) 1/2

■山本紀久雄氏

「回天一番乗り」1/2


大森曹源先生の弟子である寺山旦中先生が70歳でお亡くなりになったと話しがありました。剣で鍛えていらっしゃった。鉄舟全国大会に今年くらいにお願いしたいと思っていたらお亡くなりになったと聞いてビックリしました。
健康には十分注意していただきたいと思います。早期発見ですね。
新聞の折込で政府からC型肝炎の方への案内が入っていましたね。今日聞いた話では補償額全部使えきれないだろうという。C型肝炎のうちインターフェロンで治るのは30%くらいで、他は治らない。それ以外の治療はない。


前回までは鉄舟の貧乏話を続けておりましたが終わりまして、一番難しいところに入っていきます。鉄舟が影響を受けた人物はたくさんいますが、若い頃思想的に影響を受けたのは清河八郎です。

1.鉄舟に影響を与えた人物に清河八郎がいる。
清河八郎とは、天保元年(1830)出羽(山形)庄内・清川村の酒造業の長男として出生、十八歳で故郷を出て、幕末、尊王攘夷運動の一翼をにない「回天の一番乗り」を目指した人物である。「回天」とは「天下の情勢を変えること」を意味している。鉄舟より六歳上である。
 
天下を変えるということは、構造改革をしようとした人です。その人物を鉄舟とどう結びつけるか。鉄舟は若い時代に構造改革をしようとしたか?

京王デパートで「全国駅弁大会」をやっています。43年続いた日本で一番大きな駅弁大会です。人がいっぱいで並んで買いました。駅弁は人気があると同時に、全国2000種類くらいあります。日本の誇るべき文化になるのではないか。
 駅弁を買って帰り家族と食べました。喜ばれましたね。故郷や旅行先の思い出の駅弁で話が盛り上がる。幸せな時間を駅弁が与えてくれる。

司馬遼太郎氏が、勝海舟と坂本竜馬について語っています。勝海舟はアメリカに行きました。そのときの経験を坂本竜馬が聞きます。
「アメリカを興したのは誰ですか」と坂本竜馬は勝海舟に訊く。「ワシントンだよ」と勝。ワシントンといえば国家を創業の人で、日本だと徳川家康に当たると思ったから、「ワシントンの子孫は今どうなっていますか」と当然のごとく訊いた。将軍とか大名とかになっているのだと思ったのでしょう。勝は、ワシントンの子孫がどうなっているか、そんなことは知らない。子孫は絶えているらしいぞ、と言います。その一言で坂本竜馬は理解してしまった。
日本人は一言で分本質を見抜く力がある。
歌会始めがある、芭蕉の句がある。短い言葉で宇宙の無限の広がりを表現する、それを分かる。我々日本人には本質を見抜く力・洞察力がある。
アメリカの制度を聞いて、家康に相当するワシントンの子孫がどうなっているかもわからないという一言で、坂本はいっぺんに新しい国家を作らなければならないと考えた。勝海舟のワシントンから新しい日本が出来た。
菊池神社の菊池家憲が五箇条のご誓文のひとつに繋がっているんですね。
日本は海に囲まれた狭い孤島であるがゆえに世界を知らなくても、日本人はいっぺんに分かることを得意としている。国を開かなければならない、外国から知識を吸収しなければならない、それで日本を変えなければならないと坂本竜馬は思いついた。外国から知識吸収をすべきだという考えが生まれたのは勝海舟と坂本竜馬の会話からであったことを理解してもらいたい。

日本の株、下がりました。日本の株を外国人が買わなくなった。日本に変化してほしいと思っていて、変化しないから、外国人投資家は金を引き揚げる。
明治維新は変化したわけです。今日もう一度変化しなければならないということを株の下落は教えてくれる。
清河八郎は幕府をつぶすことで回天しようとした。我々はどう変化すればいいか、それが大事なことです。

駅弁の話しに戻ると、駅弁があまりにも人気があるので驚きました。外国に駅弁はありますか?日本の駅弁はレベルが高く三ツ星レストランで食べるような弁当で、これが魅力です。新幹線で行っても楽だし安全で日本は素晴らしい。
日本には良いものっていっぱいあるはずなんですね。日本はバブル崩壊以後、急速に人気が出てきている。日本人が世界で一番人気があるんです。私自身が外国のお宅を伺い、実感している。日本に行ってみたいという人がいっぱい居る。日本のマンガは、日本の世界が描かれている。日本の生活を英語やフランス語にしてアニメになっている。
中国は躍進していますが、中国が好きだという人はあまりいません。欧米人から見るとアジア人は中国人も日本人も判りませんが、日本人といった途端に相手の反応が変わる。我々の生活している文化が世界の人から受け入れられている。マンガに表現されている日本の生活が評価されている。そういうものの中にぬりえもある。
今年の正月は初詣いかれましたか?大宮氷川神社に行き、その翌日は川崎大師に行きました。川崎大師に行ってお参りするのに1時間くらい掛かる。山門のところに行って、柱を見てびっくりした。「ぬりえ」「一部100円」と書いてある。川崎大師でぬりえ、他の神社はやっていない。これは時流です。そうやって広がっていく。
同じように駅弁を海外に持っていったら、すごいと思います。カールスルーエからパリまでTGVの一等車に乗った。ボーイが3枚重ねになった何かを持ってきて、風呂敷みたいなものを開けたら、パン、サラダ、チーズ、ハム、水、ワインだった。車内食です。スーパーに行くと、サンドイッチと寿司は弁当形式で並んで置いてあります。
NYで地元の人と電車に乗るときに、お昼食べていないので失礼しますと寿司を買ってきて食べていました。駅弁の可能性が高い。
今までは外国から日本は吸収するような形だったが、日本の良いものを外国に持っていくという変化をしたらどうだ。情勢を変えること。ほぼ140年間日本は外国から取り入れて変化してきたがこれからは日本の良さを外国に広めて、そういうことによって日本を変えていくのはどうだろうかと考えています。

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1月例会記録(2) 2/2

■山本紀久雄氏

「回天一番乗り」2/2

2.清河については、明治・大正初期に活躍した山路愛山が次のように評している。
「(八郎)かつて書を同志山岡鉄太郎に与えていわく、予は回天の一番をなさんとするものなりと。その剣客たる風概もって想うべきにあらざるや」


清河八郎というのは、剣を学んで免許皆伝になった。清河八郎記念館があり、清河神社もある。靖国神社にも祀られている。そこに行くと「剣は意のごとし」と書いてある。剣は意のままに動くと理解している。清河八郎は傲慢だと言われており、最終的に暗殺されました。人気がない、生意気だ、そういう人間です。明か暗かで言うと、暗ですね。
小沢一郎と小泉純一郎の両方に仕えた小池百合子さんが『文芸春秋』に小泉さんは「明」、小沢さんは「暗」と書いている。小沢一郎は現代のマルクスだと評している。若いときはマルクスに、共産主義に被れる。小沢さんは国会で飛行機の時間だからと5分前に退出して非難を浴びた。鳩山幹事長がお詫びしたら、お詫びなんてけしからんと言っている。

 健康クラブの顧問の塩小路光孚氏は菅原道真38代目の直系子孫で、京都に住み御所の鬼門に書を書いている。日本と天皇家のご安永を祈るのがお仕事。天皇家と繋がっている。
孝明天皇が居たおかげで明治維新が遅れたといわれている。孝明天皇が攘夷と言い過ぎて暗殺されるという噂もあるくらいです。
塩小路氏に孝明天皇について聞いた。塩小路氏の大叔母が孝明天皇の女官で、戻ってきてから話した記録が残っている。孝明天皇は素晴らしく頭が良い人。もっと頭が良かったのは大正天皇で、書を書かせたら上手い。頭が良いが故に馬鹿に見えてしまう。
孝明天皇の話から小沢一郎の話になった。小沢一郎と一緒なんですよ。頭が良いという人はいちいち説明しないで行動してしまう。小沢一郎が言うには国会で賛成多数で決まるものを、どうして最後まで居なければならないのかと。
小池百合子さんが小沢さんを暗いという、清川八郎も暗い。素晴らしい能力があっても、この暗さが暗殺された原因ではないか。

3.清河が、同志山岡鉄太郎に与えたという手紙は以下の通り。
「先程より度々芳意(注:親切に対する尊敬語)を得候通り、最早各邦の義士参会、則ち近日中、義旗飜えし、回天の一番乗仕るべく心底に御座候。折角御周旋甲士(注:甲州の土橋鉞四郎)に早々御手配成さるべく候、塚田には内々国元に遣わし候もの、頼み遣わし候間、彼も義気あるもの故必らずうけがいくれ申すべく存じられ候。千万御苦心仰奉り候 頓首  
      初夏 十一日                正明
山岡高歩君
        薩の和泉殿(久光)明日当邸に着也
 
正明というのは清河の號です。山岡高歩というのは鉄舟の本名。文久2年(1862年)、初夏(4月)の手紙。
薩摩の島津久光が京・大阪に来る。それを機会に幕府を倒す旗を上げると清河は鉄舟に言っている。鉄舟は幕府を倒すための仲間だったのか?ここのところが疑問です。これを解明しなければならない。時間が掛かるので今日は解明できません。研究は続きます。

NHKの大河ドラマ「篤姫」見ましたか?薩摩は贋小判を作ったんだね。薩摩は前の藩主が使い込んで、財政破綻。江戸から遠いことをいいことにして、調所が緊縮政策と同時に贋小判を作り、そのことを篤姫が知っている。
薩摩藩は金持ちです。薩摩藩は幕府と対抗できるくらいの軍事力を持っている。沖縄との密貿易もやっている。幕府から見たら悪いことをやっているが、先見の明がある。島津久光は藩主のお父さんで、肩書きのない無位無官です。藩主の後見役であるその人が、1000人の侍を連れて京都に上がってくる。考えられますか?幕府体制の中で地方の一大名が1000人もの兵隊に武器・弾薬を持たせて街道を上がってくる。参勤交代するのは藩主で、久光は藩主の父親です。  
このように状況が変わったのは、万延元(1860)年3月3日に桜田門外で井伊大老が暗殺されてからです。たった2年で幕府の統制がそんなにも利かなくなったということです。この2年で清川八郎は回天の一番乗りができると思ったと同時にそのような思考の急進派が居た。

4.薩の和泉殿(久光)と伏見寺田屋事件までの系譜
 
幕府転覆を図る過激派が大阪に集まった。清河も過激派です。久光が1000人連れて上がってくる。これは幕府を倒す旗揚げだと思った。みんな大阪の薩摩藩の中に滞留していた。
ところが久光は幕府を倒す気はなかった。井伊大老が安政の大獄でみんな捕まえた。井伊大老が死んだあともその罪が正式に解かれておらず慶喜はまだ謹慎中です。それを全部辞めさせてくれと、京都に行って天皇陛下の許可を得て、
天皇からの命令で解除してほしいと動きに来た。その動きを急進派は全く察知できずに、久光は幕府転覆だと思った。
ひとつの物事の見たときに全く違う2つの考えがあった。ひとつの事件を見ただけでも全然違う。1000人連れて京都に行くというのはひとつの事実。
京都から江戸に回って処分を解いてもらって、その帰りに生麦事件が起きて、そこから薩英戦争が起きた。どうして倒幕だと思い込んだかがすごく大事。

5.尊王攘夷急進派志士である清河八郎の同志が山岡鉄太郎である。何故か。
過激派の中に清河八郎がいて、清河八郎の同士が鉄舟です。鉄舟研究会として、これを解明しなくてはなりません。

6.尊王とは。
7.攘夷とは。
攘夷は外国人を排斥することです。孝明天皇は「攘夷」を薦めた。
150年前(1858年)5月に日本はアメリカと修好通商条約で貿易しましょうと手を結び、その後ロシア・オランダ・イギリス・フランスとも結び開国した。外国人が日本に住んでいた。開国しているのに、ペリーが来たときから開国しているのに、なぜ孝明天皇は攘夷をしなさいと言うのか。
「攘夷」は、幕府を倒すためのスローガンです。開国のまま進んだ。外国から物を入れようとしたのが明治維新。坂本竜馬が一瞬にして本質理解したのは開国です。孝明天皇から攘夷しろといわれて、幕府は文久3(1863)年開国しているのに攘夷宣言して、諸外国に通達した。矛盾していませんか。外国人が日本にいっぱいいるのに、外国人は日本国外に出て行けと通達するのは矛盾していますよね。
アメリカの商船に「攘夷だ」と鉄砲撃った、そのあとに来たフランスの軍隊、オランダにも撃った。それで仕返しされて、下関に上陸されてめちゃめちゃにやられて、外国に敵わないと思って武器弾薬を購入した。
イギリス艦隊、フランス艦隊、オランダ艦隊、アメリカ軍が長州藩の軍事施設を破壊した。そのときに砲台60門を接収され、そのうちの2門がパリにある。
パリを訪れる外国人が、毛利候の紋章を高貴に見て眺めている。山口県は返還を求めているが、フランス政府はナポレオン一世以来、戦利品を対戦国に帰したことはないと言っている。
尊王攘夷はグランドデザインです。ここのあたりが一番ややこしい話ですから、じっくり皆さんにお話しします。
グランドデザインというと、大阪府知事の候補者が5名出ていますね。なぜ大阪が東京・名古屋に比較して落ち込んでいるんですか?大阪って何かあるんですか?観光がある。観光は24時間営業です。羽田・成田は24時間営業ではないが、大阪はできる。環状線がある。電車も24時間やる。世界中から来てもらうコンベンション施設をつくる。そういうグランドデザインを府知事候補は市民に出したらどうだ。グランドデザインがない。
尊王攘夷はグランドデザインです。急進派の清河八郎が鉄舟とどう絡んできたのか。これから研究の佳境に入っていきます。

【事務局の感想】
今年から、鉄舟研究のテーマが新たになりました。回天=天下の情勢を変えること。
鉄舟を研究していますと、実に今の世の中に似ている、繋がる、参考になることが多々あります。今、日本、否世界が変わろうとしています。そのときに、回天とはタイミングが良すぎる感じがいたしますが、今が変化の時期と理解していただいて、皆様の生活にもお役に立つことがあると思いますので、次月も山本さんの鉄舟研究をお聞きしていただきたいと思います。

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2007年12月24日

12月例会記録(2) 1/2

■山本紀久雄氏

「尊王攘夷と鉄舟貧乏」1/2

今回も鉄舟の貧乏話をします。いろいろな本を読むが、鉄舟の貧乏話を面白おかしく書いている人がほとんどです。鉄舟は、子どもや奥さんを食べさせることは二の次である。普通は奥さんや生まれてきた子どもを飢えさせないようにする、というのが当たり前のことである。自分の子どもを食べさせられない人が社会の中で役立つ人間になるのか、そういう考え方が多いと思います。鉄舟は違った。自分の子どもが死んでも、家のことは二の次で、もっと違うことがあるという考えだった。
鉄舟の貧乏を分析して、なぜそういう気持ちになったのか、そこまでなったのか、下級武士であるのに。その背景を考えて、伝えてきている。今回は貧乏のもっと奥にある、精神のもっと奥にあるものについて触れたいと思います。

時代が必ず影響していますから、今の時代と鉄舟の時代とを比較したい。今日の日経新聞の社説を読みますと、時代は今変わりつつある、景気に翳りがさしてきた、ということを日経新聞は書いています。政府が月例報告で、微妙に言葉を変えたことです。ブッシュもアメリカは住宅バブルだ、という表現をしている。慎重に言葉を選んできた人がバブルの崩壊と言っている。

サブプライムローンが突如問題になってきた。サブプライムローンは日本にはありません。アメリカでお金がない人が、家を買えないくらいの収入の人がお金を借りて家を買った。
日本では銀行でお金を貸してくれない人はどこに行きますか?日本ならサラ金ですね。サラ金に行ってお金を借りるが、アメリカにはサラ金はない。消費者金融でお金を借りる人たちがお金を借りるとイメージすると、それじゃ当然払えないと思いますよね。

アメリカにハリケーンのカトリーナが来ましたね。日本でも新潟地震が来ましたね。地震で家が壊れて仮設住宅を作った。アメリカはハリケーン被害で仮設住宅をつくりましたか?聞いていません。アメリカはお金、融資です。
国によって制度が違うから一言では説明しにくいですが、サブプライムローンでお金を借りた人がお金を返せないようになったことが、今年の8月くらいからはっきりしてきた。返せなくなったら家を売ればいいが、家の値段が下がってきた。
貸したお金は、日本の銀行だと残高として残っている。アメリカは例えば100億円あれば、それを細かくして、証券化して、売り込む。銀行には融資残高が残っていない。世界中にばら撒かれてどこに行っているかわからない。サブプライムローンと優良な証券をミックスさせて、手を変え品を変え世界に売り込んでいる。その中のどれだけが問題かがわからない。
例えば、りんごが入った箱がある、腐っているりんごの数が2個なのか、3個なのか10個なのか100個なのか分からないまま、サブプライムローンが問題だといっている。損が発生するだろうという予測だけです。仮に損害がハッキリしたらその引当額が大きいのかどうなのかが分かるが今は分からない。不安心理で世界中が動いている。サブプライムローンによって損害が発生したら危ないな、そういう気持ちが世界中に蔓延し世界の株が下がった。毎日のようにサブプライムローンが話題になっている。さすがにサブプライムローンを知らない人がいない。

今日スポーツクラブに行ったら「ガソリンの値段が上がったので、“今までは満タン”と言っていたが、何リットルと指定したほうがいいな」と話している人がいた。こういうことで景気が下がる。景気先行指標でも数値が人の気持ちで下がってきている。
姉歯事件の影響もある。建築基準法が改正されて厳しく審査されて住宅着工が遅れている。12月は“お正月になったら新しい家に住みたい”と考える人がいるので書き入れ時ですが建設が遅れている。そのように全部が影響している。だから景気が前より悪い。

我々は分かっているようだけど、外国人のほうがもっと分かっている。OECDが毎月世界の景気を発表しており、月例報告では日本は今年の6月から景気先行指標がずっとマイナス。6月マイナス0.6%、7月マイナス1.5%、8月マイナス3.3%、9月マイナス4.5%、10月マイナス0.6%、とOECDが発表している。ヘッジファンド、投資家は、日本は景気が悪いと思うわけです。今日は1万5200円です。1万8000円まで行ったのに。

建築基準法の影響で、113万戸ほどあった建築戸数が、今は80万から70万くらいに落ちています。しかし来年になると今落ちている分がカバーされるから、今落ちた分をベースに来年は高くなり、景気がよくなる。なので、あまり批判的に考えないほうがいい。
サブプライムローンも片付けようと思って世界が動いている。住宅融資の中のウエイトが低いから傷が浅い。毎日毎日新聞に沢山出るから、自分の気持ちをマイナスの方向に向かっていくと景気が下がる。来年の下期には姉歯の影響はなくなります。サブプライムローンも建築の問題も例外事項だと思っています。例外事項は普通に戻るはずだと思っています。景気は戻るので心配することはない。

金子さんがドイツに一ヶ月住むというので、普通のことではない、例外事項だ、例外的なことを探ってきてもらいたいねと言ったら「難しい」というので、町屋とカールスルーエと比較したらどうか、駅を降りたら、カールスルーエは動物園、町屋は交番、ずいぶん違う。なぜ交番でなぜ動物園なのか、その比較をやればいい。このように世の中を見ていくと新鮮に映る。

幕末はもっと例外事項でした。ペリーが来て、明治維新までちょうど15年。この15年間に日本人は何をしたのでしょうか。封建社会を壊し近代社会をスタートさせました。
バブル崩壊から小泉改革によって4大銀行の不良債権回収まで15年かかってしまった。
明治維新の凄さの中に、封建体制を変えただけではない、もっと問題がありました。ペリーが来たのが嘉永6(1853)年、1854年には11月に4日間で、3つの大地震がきた。マグニチュード8.4、7.4、6.9の地震がきた。それから翌年には6.9の江戸大地震が来ている。その翌年は大嵐と津波が江戸に来た。その翌年には江戸にコレラ、次に麻疹が流行し、江戸に火事、大阪に大火、こういう災害が15年の間続いた。

最近凶悪事件が多いなと思っている人もいるでしょうが、統計的には減っている。平成14年をピークにして15年から刑法犯は年々減っている。情報が発達しているから昨日も今日も明日も事件があるように感じるだけで、事件は減っている。減っているからTVでしつこく繰り返し流れる。
日本は世界で一番人気がある。危ない国が人気あるわけがないじゃないですか。日本は世界中で恋されています。日本の寿司が好き。日本の生活はマンガになって世界に紹介され、日本の生活にあこがれています。
TVは、そのときの話題を見つけてしつこくやる。社説に載っているようなことを言わない。分析をしていけば、データの使い方だと分かり、もう少しで回復すると分かれば安心する。

江戸時代は大変でした。米の値段がすごい。ペリーがきたとき米100俵の平均価格が江戸で49両でしたが15年後の慶応元年は7倍以上の350両になった。今の原油どころじゃない。主食が米の時代に7倍も上がったら庶民の生活はどうしますか。
そういう中で明治維新をした。今と全然違う。我々の先輩は偉かった。その上に幕末は江戸城では徹底抗戦派と恭順派とに別れ、やりあった。勝海舟は恭順派、抗戦派は小栗上野之介。

小栗は横須賀の海軍工廠、製鉄所を作った。28歳のフランス人技師ヴェルニーが来日して作った。今は米軍基地になり、キティーホークが来ている日本で一番大きい港です。フランスの軍港ツーロンを真似てつくった。今のお金でいうと300億円というお金を借りましたが、全部使わないでどこかに埋めたらしいという話から徳川埋蔵金事件として群馬県を掘っている。群馬県が小栗の領地だった。
横須賀150周年、浦賀と横須賀は知らないといけない。下田のほうが有名になっていますが、ペリーが来たのは横須賀です。日本の夜明けの原点で、ここから丁々発止政治交渉が始まった。井上先生が昨年の鉄舟全国大会で、梨ひとつから明治維新を解明していましたね。
小栗が海軍工廠を作らなかったら、日本の海軍は成長しなかった。横須賀に日露開戦の戦艦三笠があり、行ってみてビックリです。日露開戦で日本は偶然に幸運で勝ったかと思ったら、緻密な計算をし尽くして勝っている。そういう事実をみんな知らない

司馬遼太郎さんが江田島の防衛大学で講演したら、「史実と違います」と指摘があった。司馬さんは「私は小説家です」と。坂本竜馬も小説です。あれを事実と思ってしまう。この鉄舟サロンは事実からものを見る、そういう勉強会です。

幕末から明治維新は例外非日常状態だった。普通の人は今まで通り江戸時代が続けばよいと思うわけです。そのとき少数の人たちが変えようとした。例外事項から外れたことをしようとしたとき馬鹿者扱いをされた。その戦いをしていた。鉄舟が忽然と出てきて幕府を潰す側のことをした。これが貧乏と結びつく。例外的な人間がいたから明治維新がきた。変わった人間が必要なんです。世の中を見ているか、時代がその人を味方したら、世の中変わっていく。世の中は方向性で、方向性が間違っていたら悪い方向に行ってしまう。今の時代と合致してないことをやろうとしてもだめ。時代の方向性を把握できるほど、世の中を見ているかどうかです。
こういう勉強会は、歴史から方向性を学ぶことです。明治維新とは、我々の先人が例外的なことをしたことなのです。その中に鉄舟が居たのです。

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12月例会記録(2) 2/2

■山本紀久雄氏

「尊王攘夷と鉄舟貧乏」2/2

1.貧乏話の最後
鉄舟の弟子小倉鉄樹が次のように語っている。(『おれの師匠』島津書房)
「武田耕雲斎が常陸に事を起して、山岡へ訣別に来た。帰りしなに耕雲斎が奥さんに、『お英さん、これで一生の別れだ。かたみに何か置いて行かう。』と、自分の體を見廻したが、締めていた兵子帯を解いて奥さんに置いて行った。それは新調のみづみづしい濱縮緬であった。貧乏で絹ものなど、手にしたことがなかった時、この餞別は奥さんには非常に嬉しいものであった。早速仕立てて腰巻にこしらへ上げた。ちやうどそれが仕立てあがった時、どうしても金のいることが起って、まだ一度も身に着けない腰巻を、質に入れなくちゃならぬことになってしまった。其後質から出したい出したいと思ってゐたが、とうとう出せずに流してしまった。それを考へると今でも惜しいと思ふと奥さんはよく語られた」

2.武田耕雲斎
当時の尊王攘夷運動のリーダーの一人である。その人物が天狗党の首領となるに当たって、鉄舟に挨拶に来たのである。ということは、耕雲斎が挨拶に来た元治元年時点で、鉄舟は29歳、攘夷運動では知られた人物になっていたことが分かる。

天狗等の首領から挨拶を受けるということは、貧乏だったけれど、攘夷の思想の中では、そのときそれなりの地位にいたのでしょう。
耕雲斎は、天狗党は800人を連れて、京都にいる徳川慶喜を頼って行った。「尊王攘夷」の身分だから、幕府から追討受ける立場ではないと進軍していったが福井県で幕府に投降した。食料の問題などもあったが、一番は頼りにしていた慶喜がけしからんと追討をはじめたので、やる気がなくなってしまった。そのときに354名が首を切られた。首を斬るのは嫌でしょう。福井県の侍は嫌だ。しかし喜んで斬った藩がある。井伊大老を斬ったのも水戸藩です。
吉田松陰が殺された安政の大獄で死罪になったのは8名。天狗党は354名です。党首の孫や子まで全部殺された。武田耕雲斎は尊王攘夷の徹底した人物だった。

3.渋沢栄一編の「昔夢会筆記・徳川慶喜公回想談」
この中の第七回の会、開催日は明治四十二年十二月八日、渋沢の兜町事務所で開かれたが、そこで攘夷のことが話題になった。参加していた旧桑名藩士の江間政発(えままさあき)が、三日前に東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)に会って聞いたという話を披露している。東久世通禧とは、文久三年の八月十八日の政変「七鄕落ち」の一人、つまり、当時の朝廷内強行攘夷論者である。
「あの当時攘夷ということが流行しましたが、攘夷は夷を攘うということで、何でも眼色の変わった奴は、片端から斬殺してしまうというのが攘夷の原則で、攘夷を大別しますと、水戸の攘夷、長州の攘夷、それから天子様の御攘夷と、こう三つと見まして、水戸の攘夷などというものは、私ども(江間)考えると本当の攘夷ではない、ためにするところあっての攘夷、あなた(東久世)はどうお考えなさるかと申し試みましたところが、長州の攘夷もそうだよ、何も攘夷をしたいというわけでない・・・。してみると攘夷ということは、今日から忌憚なく申すと、反対党を叩き潰す看板である、そう言ってもよろしい」

明治維新になってから、慶喜を囲んで当時の幕府関係者が想い出を語る会を渋沢栄一の事務所で開いている。「攘夷」は燃え上がったが、反対を潰すためのものだった。攘夷に命を懸けた人、脱藩して京都に行った人がいる。

4.尊王論
尊王思想を最初に唱えたのが水戸藩。その内容は天皇-幕府-藩主-藩士という封建的ヒエラルキーが設定され、武士は直接の君主に忠誠を尽くす、それが尊王思想であると意味された。この思想では、武士の尊王行為は幕藩体制を補強するものであっても、敵対化するものにはなり得ない。
しかしながら、こうしたいわば佐幕的尊王思想を、体制破壊の尊王思想に変えた一人が、吉田松陰。吉田松陰の尊王思想特色は、天皇への個人的・主体的忠誠を重視するところにあった。松陰は、全国の日本人は、階級・身分にかかわらず、天皇に忠誠を尽くすものであるという「一君万民論」を説いたのである。
このような尊王思想が、「国事」に深い関心を持ちながら、身分が低いゆえに活動を制限されていた下級武士に勇気を与えた。松陰の主催する「松下村塾」には、こうした下級武士が多く学んだが、それは松陰の思想が集めたのであった。

当時江戸時代の人は、京都に天子様がおられ、その代理である征夷大将軍が江戸にいると知っている。尊皇攘夷か尊王開国だけで、そのうち「攘夷」がおかしくなり、攘夷消えたときに明治維新になっている。横須賀の海軍工廠、製鉄所をつくることも開国しなければ技術提供ができない。幕府を潰そうと考えたときに、幕府は開国だから、攘夷の反対をやればいいと言っている。最後に慶喜は一言「攘夷にもいろいろある」と言ったとその本に書いてある。
記録は大事ですね。我々の仕事も昨日おとといと仕事を積み重ねて今日がある。記録があるからこのような意見が話せる。
攘夷論に侍が燃えたのは普遍的な理由がある。映画「武士の一分」で木村拓哉は毎日何をしていましたか?毒見のために毎日同じ時間に城へ行って味見して帰ってくる。武士は本来戦うためにできた存在。その戦いが無くなってしまった。剣の達人がお椀ひとつ食べたら終わりで帰ってくる。これが「武士の一分」で描かれている。退屈な人生だったなと思いますよね。退屈な人生を送っている人たちに対して、突如として「攘夷」と来たときどうなりますか?ペリー来た、外国人はけしからん、気概のある人間は戦おう、俺の出番が来たと盛り上がって脱藩します。坂本竜馬もです。盛り上がるために攘夷は必要だったわけです。京都で新撰組とやりあったりします。
攘夷論は最終的に消えて開国しました。ここで大事なのは鉄舟が攘夷だったということ。鉄舟はどういう人だったのですか?

5.「一君万民論」と「宇宙と人間」
「宇宙と人間」は鉄舟が23歳のときに書きました。天皇の下を、武士、公家、町民、僧侶と4つにわけていますが、幕府は入っていません。天子様の元に公平です。明治維新の10年前です。これは誰かの思想と似ていませんか?日本で一番有名な人と似ている。明治維新を作ろうと下級武士からいっぱいできてきたが、これは吉田松陰、萩の松下村塾から学んだ人から出てきました。松下村塾で何を教えましたか。今までの尊王論は、天皇家、その下に幕府、その下に諸大名、その下に侍、序列を崩さず、序列を大切にする縦系列の尊王論が普通だった。それが水戸家の尊王論だった。
ところが吉田松陰は、天子の下に全員平等であると言い出した。吉田松陰の言っている「一君万民論」と、鉄舟の「宇宙と人間」は一致した。吉田松陰はすごく有名ですから、漏れ聞いたかもしれない。その思想と鉄舟が自ら考えたものが一致しているとしたらどうなんですか。「攘夷」などではなく、吉田松陰も唱えていることが民主主義、鉄舟も民主主義です。鉄舟はそこに徹した。

6.何故貧乏を徹底したか
鉄舟は自らの生き様を「宇宙と人間」で書き示したように、天皇の臣民として生きる覚悟を定めていた。だから、鉄舟にとっては、妻子を養うのは私事であり二の次となり、その延長から志向する思考体系は「臣民」であって、一個の自由な「人間」ではなかったということになる。いわば鉄舟は、いつも「臣民」としてのみ思考し行動していたのである。
恐ろしいまでの徹した「尽忠」理念であって、これを貫く先に、当然に貧乏生活となる。

鉄舟は民主主義の考えに徹した。天皇の下に臣民で、上司は天皇しかいない。やる気十分です。家族のことは二の次、西郷隆盛との交渉も天皇の臣民ですから行きます。鉄舟はそういう意味の尊王攘夷だった。武田耕雲斎の攘夷とは違う。武田耕雲斎は倒れたが、鉄舟は生き残り日本のために尽くした。
こういうことまで考えて鉄舟の貧乏話をしているのか。鉄舟に「個」という考えはない。そこまで徹した。それがあったゆえに貧乏だったが、鉄舟にとっては貧乏なんて関係ないことだった。

中国は北京オリンピックの準備で警備員をそろえた。田舎から連れてくるから警備員同士喧嘩をするらしい。中国では政策で子どもを一人しか生んではいけないと抑制した。人口で中国がインドに負けるでしょう。子ども一人しか生まないことを考えると、女の子は将来嫁に出て行くので跡継ぎになる男の子を生みました。その結果、女子100に対して男子117、内陸部では女100に対して男122です。性犯罪に走る、悪い人がいっぱいいて大きな問題だと考える。ソ連は人口の65%が女性です。男性はアルコール過剰摂取により早死にで、平均寿命は女性73歳、男性59歳です。女性が多く男性が少ない、その結果女性が結婚できませんね。ロシアではカルチャークラブが大流行で、ロシアの女性は男性に優しく美しくなりたいと思っています。逆に中国の女性は何もしません。代わりがいっぱいますからね。

【事務局の感想】
なぜ鉄舟が貧乏であったか、他の作家は貧乏であったという事実だけをとらえて鉄舟面白おかしく書いていた点を、山本さんは「何故だ」考え続けて、吉田松陰に繋がる今回の発表になりました。いつも深く考える、考え続けるということを山本さんから教えていただいていますが、自分の実行となると難しいものです。しかし、この研究会を代表している者ですから、なんとか学んでいきたいと思っています。
皆様も平成20年もご一緒に鉄舟を深めて参りましょう。よろしくお願いいたします。

以上

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2007年12月16日

11月例会記録(2) 1/2

■山本紀久雄氏

「貧乏生活も戦略的行動の一貫」 1/2

中瀬さんからお話を聞きまして、楽しい人生ですね。好きなことをしようとしている。好きだから継続できる。継続できるから、上達する。その見本ですね。自分を訪ねる、自分の中味を深めるための一直線の行動です。
鉄舟もそうですね。鉄舟は最終的に世の中のために役立ちましたが、役立つために小さいときから一本道を歩いている。


途中で凄く貧乏しているんですね。貧乏で養育費、食費がなければ、ほとんどの人なら収入を補うためにアルバイトをするが鉄舟は一切しなかった。それが魅力的であり、その貧乏話しを面白おかしく書く人もいる。鉄舟はなぜ貧乏をし続けたかを解明したいと思っている。今日はその触りの部分をお話したい。

来週パリの水道局に行きます。東京、NY、パリ3都市の水道を調べて研究をしております。先ほど通訳の方と打ち合わせしました。
彼女は日本を行き来しており、フランスは日本と比較して認知症の人が少ないと言っています。フランスで言われているのは、パリの水道水にはカルシウム分が多いからで、そう言っている学者もいるそうです。

来年2008年は日仏交流150周年記念です。文化交流150年祭が盛大に開かれます。上米良さんからご紹介受けた明治神宮の稲葉館長もパリで演武を行います。通訳の彼女は、外務省や文化庁との間でコーディネイトする仕事もやっています。彼女が担当したのは、鹿沼のさつきを船でパリ持っていくことだが、赤道直下を通ると花が咲いてしまう。何ヶ月か前に計算して5月に一番花が咲くように持っていくそうです。そういう話を彼女から聞きました。

ミシュランガイドが発売になりましたね。東京が世界で一番星付きレストランが多く7箇所3つ星になりました。寿司が2箇所、日本料理2箇所、フランス料理3箇所あります。
その中に銀座のロオジエがあります。30年ほど前、資生堂の企画部に居たときに資生堂100周年事業として何かしようとなりました。そこで資生堂パーラーの中にフランスに負けないフランス料理の店を作り見事に成功しました。資生堂は文化事業をしようとしたときレストランを作った。食は文化です。30年経って文化企業として認められました。

ミシュランの星7つの店の中で日本食が5つ入っている。日本食がこれだけ3つ星を取ったということは世界で日本食は主流ということです。
先月ブラジルに行きました。ブラジルから日本まで飛行機で24時間掛かります。ブラジルを発つ際に空港で食事しようとすると空港内に寿司バーがありました。空港でロビーにいると、以前はメインロビーにはイタリアンが多かったが今は日本食です。空港のメインレストランが日本食であるということから日本食が世界を制しているということがわかります。

ブラジルの空港で飛行機が出発するまで6時間待ちました。ろくな説明もない。日本だと怒り狂って乗客が押し寄せるでしょう。100何人乗るのに3人くらいしか押し寄せない。その3人は病院に手術の器具を持っていくからです。ブラジル国民は大人しいと判断しました。ブラジルはアマゾンのイメージがないですか。アマゾンはありますがブラジルは大都市です。ブラジル人が大人しいのは国民性だという人もいるかもしれませんが、その国民性も何かがあってそうなったわけです。日本人も日本人の国民性があります。日本人はどう見られているでしょうか。

今日また株価が下がった。さんざんですね。1万5000円切るくらいです。株が上がって1万8000円行ったのは小泉さんが首相のときですね。安倍さんが選挙して負けて、サブプライム問題も重なって株価は下がっています。
日本の株を買うのは日本人が3割~4割、残り6割は外国人投資家が買っています。外国人が日本人を見て信用が置けるなら株を買います。株価が下がっているということは、今は売られているということです。外国人投資家は日本人を、日本人の国民性を見ています。
ブラジルで6時間静かに飛行機を待つブラジル人をみて、ブラジル人は大人しい、と見たのと同じように、外国人は日本人を見て株を売り買いしています。6割の外国人投資家が株を買わないと日本の株価は上がりません。外国と絡まないとならない。中瀬さんもおっしゃっておりましたが、日本に観光客が来ないとならない。そのためには日本のイメージが大事です。そのイメージは誰が作っているか、私を含めて国民がイメージを作っています。

小泉さんが首相のとき郵政民営化を掲げ、郵便局は民営化されました。東京駅前に東京の本局郵便局がありますよね。周りは高層ビル化されましたが、あの場所は低層です。ドイツの郵便局は建物を建て替えテナント貸しをしている。民営化はそういうことです。小泉さんはそれをしようとした。それを見て外国人が、日本は改革して変わると株を買いました。

参議院議員の選挙で、安倍さんは戦後レジームからの脱却だと言いました。そんなことより年金の問題だと、5000万件のデータが紛失し国民は怒り狂った。それはそれで宜しい。

ここからは私の意見です。外国人がこの日本人の行動をどう見ているか。日本人は一人一人の年金に一番関心がある、これからもらう金額、月2~3万円の変化に対して熱心で、生まれてくる子どもたちがどう日本を作っていくかに関心がなかったんじゃないか。日本人は自分のことしか考えないと評価した。証券会社は外国人投資家に日本株を買ってくださいと外国各地に行きます。目先の自分のエゴしか見えない国民の株を買うかと言われます。これが日本の株が上がらない真の理由だと聞きました。
選挙というのは大きな考えで行動しないとならない。個人的なものだとしっぺ返しが来る。サブプライムローンで外国も株価が下がっているが、日本も下がってくる。外国と関連しているということを忘れてはいけない。常に時代の中で判断しなければならない。

明治維新のときに鉄舟が西郷隆盛と話しをつけ、無血開城ができたのはどういう意味か。幕末に慶喜が上野・寛永寺に蟄居したのは普通のことですか?例外的事件が発生したわけです。例外的事件ということは異常事態で、その対応をしなければならない。今まで通りの日常生活をしたい、江戸幕府の時代に戻したいと思っていたら、明治維新はなく今の日本はなかった。非日常のとき異常な判断力が必要になる。その異常が後からみると正常な判断である。幕府を残していたら日本は民主化された国になっていなかった。
みんなの意見でやってしまった結果、外国人は株を買わなくなった。明治維新のとき、異常な状態の中で異常だと思われることを正常だと思われるような判断をする人が少数居た。鉄舟もこの中の一人でした。結果、無血開城となった。レトリックな話ですが、異常事態の中では異常なことが正常になる。

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11月例会記録(2) 2/2

■山本紀久雄氏

「貧乏生活も戦略的行動の一貫」 2/2

1.鉄舟は自ら大悟し自得した無刀流を、明治十八年に次のように説明した。
「無刀とは心の外に刀なしと云事にして、三界唯一心也。一心は内外本来無一物なるが故に、敵に対する時、前に敵なく、後ろに我なく、妙法無方、朕迹を留めず。是、余が無刀流と称する訳なり」(山岡鉄舟剣禅話 徳間書店)

人間は裸で生まれ、死ぬときも裸であるから、すべてにこだわってはいけない。刀に頼ってはいけない。頼らないところから自分の術が生まれる。

2.このような境地に達したのは、明治十三年三月三十日払暁に
「釈然として天地物なきの心境に坐せるの感あるを覚ゆ」
という大悟に到ったからである。

大悟するというのは、自分の中の細胞が一瞬にして変わるのではないか。そういう人が53歳で亡くなるのは早すぎる、という質問を受けた。一般論からしたらそうでしょう。立派な思想を持った方は80歳90歳と長生きするではないですか。しかし寿命があります。年齢ではない。凝縮された中味です。大悟にいたったから無刀流を作り上げた。

3.ここまでの道程で何を修行してきたか・・・「修身二十則」
第一則は「うそはいふ可からず候」で始まり、その後に続く中で、「己の知らざるは何人からも学べ」と言い、「名利のために学問技芸すべからず」と諌め、「人にはすべて能不能あるので差別するな」と説き、「わが善行を誇らず、わが心に恥じざるよう務めろ」とある。この時点で本来無一物の思想、つまり「無私」の精神が顕れており、これを自己研鑽の最高の徳目に、少年時代から自己研鑽を続けていた。

鉄舟15歳、今なら中学3年生、のときに鉄舟が書いたものです。金儲けのために学問してはいけない。人の能力には差があるからマイナス面を言ってはいけない。全部自分というものを失う、捨てる「無私」で統一されています。
一晩で書いたのではない、ずっと前から考えていたから、書けるわけです。物心ついたときから自分というものを「無」に置く気持ちがあった。

年を取れば取るほど豊かな人生になるはずです。年齢が高ければ経験を積んで今日以降生きていくのだから。しかし経験を積んだ人が、いろんなところでとちって国会で証人喚問とか受けています。過去の生き方を参考にしていないのではないですか。人のこと、他人のことを見ていたら、自分がやっていることが悪いことだと気づくでしょう。毎日起きていること、過去の経験知を生かせば、どんどん生き方が上手になるはずです。うまくいかないとすれば、過去のことを分析して整理していないからです。これは勿体ない。
鉄舟はそれをした。勝海舟と比較したら鉄舟は残さなかった。勝海舟全書25冊ある。そのくらい勝海舟はしゃべった。勝海舟と比較すると鉄舟はしゃべらなかったが、ポイントで残している。「修身二十則」もそうです。15歳までの自分の経験知を文章化したということは生きる指針にしたということです。皆さんはノートの中に自分はこう生きるという戦略指針が書いてありますか?
自分の指針を作るべきです。世の中はどんどん変わっていくので、その指針は常に現在のことを見て直していく。世界はグローバルで繋がっています。日本のことだけを調べて株を買っても株価は上がりません。外国人投資家が6割ですから外国のことを考えないとなりません。法律を、エッセンスを自分の指針として、戦略的に行動する。鉄舟にはそれがあった。

幕末にペリーが来て15年間で明治維新が起きた。それは少数の人が作った。
橋本知事は16年間高知県で知事をした。橋本龍太郎の弟で高知県の知事に当選し、改革派の先駆けとして華々しく行動したが、今はひっそりした。官官接待やめましょう、情報公開しましょう、山を守りましょうといろいろ素晴らしいことをした。しかし県議会からは場当たり的なことしかしなかったと批判され、その後退職金を返せと言われ、それは議会で議決された。悪いことやっていないのに。経済が成長しなかった、全国の県の中でも最下位であり今も最下位に近い、16年間一貫した経済政策を打ち出せなかった。
日本はペリーが来て15年間で封建社会を捨てて近代社会を作り上げた。高知県は16年間で成長しなかった。今日一日を楽しく生きるのではなく、過去あったものから抽出して、それを指針にして貫くこと。それが戦略です。
それを貫いたから、鉄舟は自分が磨いた剣で金を取ることはしなかった。書だって弘法大師の再来といわれても、書を教えてお金を貰おうと思わなかった。百俵二人扶持のままです。私なら家族のために何かしますね。

4.貧乏物語二題・・・家財道具の売り払い、柏の木を伐る

鉄舟の庭に柏の木があり隣に住む菓子屋は鉄舟の家に来て柏餅用に葉を貰って、いくばくかのお礼を奥さんの英子さんに渡した。あの柏の木は切らないでくださいと伝えていた。これを聞いた鉄舟は柏の木を伐ってしまった。柏の木で金を作りたくないからと。

5.武士の内職は普通のこと・・・鉄舟はしなかった
「俗に三ピンといふ下役の武家家来あり。足軽・小者の輩ならん。一ヵ年金三両に一人扶持(ゆえに三一といふ)。二本差もあり。それのみにては自分だけをも支えるに足らぬゆゑ、種々の内職をする。大名の中下の邸にてはないしよの表向きとして許されありしなり。傘、提灯張り、扇、団扇、下駄の表、麻裏草履、摺物、その他数多くあり。本職よりかへつて収入多きなりしと」「江戸の夕栄(鹿島萬兵衛)中公文庫」

6.茨城大学磯田道史助教授・・・山岡にとっては、妻子を養うのは私事であり二の次

私事ではありますが、家族を持つことは公のこと。自分の子どもを育てること、奥さんにお金を渡すことは「私事」ですか?
鉄舟に取って公の仕事とは何ですか?鉄舟にとって個人生活はない。鉄舟はそういう人間なんです。

7.西郷が愛宕山で海舟に語った言葉・・・「普遍的な公」
「命もいらず、名もいらず、金もいらず、といった始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如きでしょう」

8.慶喜の恭順は「非日常事態」の発生、例外状態であり、今までの「日常状態」での判断基準は参考にならず、結果として多くの異論が噴出、争いが生ずる。この「非日常事態」の中で、「普遍的な公」としての江戸無血開城を採りえたことが、「明治維新」を成立させた。

9.人間はまず「考え方」があり、次に「やる気」があって、「争い」が生まれ、その先に「結果」が生じる。

すべてにおいて「考え方」が優先します。次ぎに考え方を実行しようとする「やる気」が必要です。やる気があるとやる気同士で「争い」ます。江戸幕府を守ろうと考え方、江戸幕府を潰しても日本を救おうという考え方があった。少数派が妥当な行動をした結果、今の日本がある。
「考え方」の違いで争いが起きる。考えをつきつめて実行しようとした結果、「やる気」のところで違った考え方と考え方で争いが起きる。その時、どちらの考えが今の時代、今後について妥当なのか?を考える。
選挙で言うならば、自分の年金の月1~3万円を大事にして選挙で投票するのか、改革して日本の国を違ったものにすべきだということを考えて投票するか、そうしていたら今のような結果にならなかったかもしれない。そういうことが鉄舟を勉強していけばわかります。

10.まだ不可解なことがある。それは何故に鉄舟が「幕府を潰す」という「普遍的な公」をとりえたのか。次回に続く。

江戸無血開城は幕府を潰すことです。鉄舟は旗本であり、旗本は幕府の直系でしょう。その旗本が幕府をつぶすことが「普遍的な公」であるという意思決定を思想として持ったか、これを解明しないと鉄舟の貧乏を解明できません。


【事務局の感想】
鉄舟が貧乏したことの本質を探る研究もいよいよ佳境に入ってまいりました。
鉄舟が貧乏したのは自らの戦略的行動の結果であって、貧乏したという事実は些細な「私事」にすぎないと、鉄舟は考えていたとすれば、その胆力たるや、壮絶なものだと感じました。
歴史はこのような「人生をうずめる」覚悟を持った人物によって創り出されるものなのではないでしょうか。
今後の研究が楽しみです。

以上

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11月例会記録(1) 1/2

◆中瀬勝義氏
「エコライフから海洋観光立国」1/2

中瀬と申します。 レジメに沿っていきたいと思います。遊び呆けているだけなんですが、順番なので発表させてもらいます。

1.生まれと育ち
 ・東京都江東区亀戸
 ・40日目の20年3月10日の東京大空襲で、母に背負われ、荒川放水路で生き延びる。

当時は城東区というのですが、亀戸で生まれました。城東区は深川区と一緒になって江東区になりました。当時の人口は42万人ですが、終戦後は9万人。10何万人が死んで、それ以外の20万人くらいはどこかに行ってしまった。
つい3、4年前までは人口が伸びなくて、隅田川より向こう側の山の手の人は住みたくなかったみたいですが、最近江東区も住みたいところに変わりつつあります。
焼けてしまったので10歳くらいまでは神奈川県横浜市の鶴見区に住んでいました。その後戻って江東区深川に52、3年住んでいます。地元で小学校・中学校・高校を出ました。

 ・大学は松前総長の海洋資源開発論に憧れて、東海大学海洋学部に入学。

当時、海洋開発、宇宙開発、原子力開発は科学技術庁の政策で、正月の新聞の特集号に出ていました。それにつられて東海大学の海洋学部に入学した。  
その前は、脳外科の医者になろうと考えていました。夏目漱石の『心』、武者小路実篤の『友情』などを読み、三角関係になり、人間関係が難しくなる。そこでなぜ三角関係なるのか考えていた。そこで記憶を消せたら解決できるのではないのかと、パーマネントような機械に頭を入れて、スイッチを押すと、過去の記憶が消えてしまうものを考えたいと思っていた。しかし、途中で嫌になり、海洋開発に憧れて入った。できたばかりで入学したときは何もなくて、校舎もあるとかないとかで、そんな感じで大学を出た。

 ・社会に出てからは、主に発電所環境調査に従事、原発で美味しく飯を食べ続ける。

地方の現場周りです。九州、四国、中国、北海道などを旅芸人みたいに点々と回っていました。原子力がブームになっていたので、原発で仕事をしていれば給料だけは確実にもらえた。公害ブームが過ぎて、環境調査は小さくなった。

 ・途中から、ヨーロッパの脱原発に感化され、環境や脱原発に関心高まる。

アメリカでスリーマイル事故、ロシアでチェルノブイリがあって、ヨーロッパも脱原発になり、イタリアは原発を国民投票で完全にやめた。ドイツやスウェーデンはやめると言いつつやめていない。隣のフランスは原発をやっている。脱原発を考え出して、段々と傾いていった。

 ・通信教育で法政大法学部10年、慶応大経済学部15年間学ぶも、後者は卒業できず。

環境は自然科学というよりは社会科学だ、と法政大学法学部通信部に入学し10年掛かって卒業した。その後慶応大学経済学部に入学したが、卒業できず。卒論は金子勝教授に指導を受け、ゼミと授業を5年間聞いて、卒論は6回書き直して、OKになった時には単位が不足で退学になった。この時に原発がなくても生活できるという提案がなければ嫌でしょといわれて、それで6回書き直した。その結論が海洋環境立国で、本を出すことになった。

2.山岡鉄舟との係り
 ・ 学生時代は清水で、当時アルバイトの家庭教師をしていたところが鉄舟
寺の隣で、何度か遊びにいった。東海大学の前身の航空専門学校が久能山
にあったことから、東海大学校歌には鉄舟寺が歌われている。
 ・会社の上司と意見対立・揉め始め、40才位から上智大学座禅会に参加。導
師は鉄舟の弟子の大森曹玄に免許を頂いた方。司祭では始めて座禅の免許皆伝を得ている。

上智大学の座禅会は10年くらい通った。師匠である門脇先生は、山岡鉄舟、大森曹玄を継いだ方です。先生は上智大学の司祭です。先生は、大森曹玄の前は朝比奈さんという有名な方の元に通っていたんですが、朝比奈さんとは、相性が合わなくて、大森曹玄のところにいって免許皆伝できたそうです。免許を一回だけ見せてもらったことがあります。
この先生は面白い方で、遠藤周作等から寄付金を集めて、パリとローマとブラッセルで「キリストの洗礼」という創作能をやりました。能は本人ではなく弟子がやったのですが、上智大学ともなると能楽師の子どもさんが学生で入っています。

 ・その後も時に 谷中の全生庵に座禅にいったことがある。

3.ボランティア他
 ・ 会社では非主流を歩いていたこともあり、母の介護を理由に早期退職し、
介護の合間に地元江東区のエコリーダー養成講座に通うことになり、「自転
車エコライフの会」を立ち上げ、また「屋上菜園エコライフ」で遊ぶよう
になった。

定年2年前に会社を辞めました。会社を辞めたくて仕方なくて、でも勝手には辞められなくて、母の介護の4年目に入って女房が危なくなってきたのを理由に辞めました。女房が9割やって、私は1割位やり、あとは遊んでいられたので、エコリーダーになりました。自転車エコライフの会を立ち上げて、毎月の通信を出し始め、屋上菜園エコライフということで、生ごみを処理して土を作り、野菜を作っている。はじめて5、6年経ちますが、プランターも100個くらいになった。

・その後、江東エコリーダーの会代表などを担当するも、環境では政治家も行政も動かないと感じるようになるとともに、「お江戸深川さくら祭り」、「水彩まつり」、地元の夏祭りなどを経験して行く中で、観光立国に関心が高まった。
・慶応大学の幻の卒論「原発誘致の経済的影響」を書く中で、原発のない日本が生きてゆくためのオルタナティブとして「海洋観光立国」を結論とした。

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11月例会記録(1) 2/2

◆中瀬勝義氏
「エコライフから海洋観光立国」 2/2


4.自転車エコライフ
 ・ 製造するのに自動車に比較し材料資源は1/100~1/50と少ない。
自転車は、車1台つくる資源で自転車が50~100台作れる。
 ・運転するのにガソリン・石油が必要ない。大気汚染・騒音を出さない。
 ・身体の健康に大変良い。特に精神病になり難くなる。本能を磨ける。
 ・自動車活用に比較し、年間で100万円も節約できる。

自転車で一番良いと思うのは、ノイローゼにはなれないところ。今の子ども達はファミコンばかりで本能を磨いてない。自転車は右に曲がるときに当たり前に自分の直観力・本能で行っている。子ども達が切れないためには自分の本能を磨くことだと考えていまして、身近で一番は自転車だと考えています。
経済的には、1年間100万円くらい得することになる。15年くらい前、バブルのときに駐車場が2万から5万になるといわれて、一年間60万円は仲間とお酒飲んだほうが良いとやめました。
上智大学も自転車で1時間くらいかけて通っていた。
 
 ・日本は世界で唯一歩道を走れる国。このため子供老人に危険感を引き起こしている。

世界にないルールを日本はたくさん考え出す。

 ・駅前などの違法駐輪が大問題になっている。

自転車は人権がない。利権が取れないから政治家も興味がない。
つい最近フランスでレンタル自転車が出来た。2万5000台くらいを、パリ市内駐輪場1500箇所に配置し、一箇所18台をコンピュータ管理している。駐輪場から駐輪場まで300メートルくらいで、パリ中を走れる。現在建設中で今年中にはできるようです。パリは自慢しています。しかし、交通の手段として利用しているのは日本が圧倒的にすごい。ヨーロッパでは自転車を交通の手段にしている率は1%位で、自転車はスポーツとして使われている。日本はママチャリで子どもを幼稚園に送り迎えするだけで十何パーセント。自転車の交通利用率は世界の中で日本がトップということを知って、逆にビックリしている。

5.屋上菜園エコライフ
 ・自宅の生ゴミの活用方法として屋上やベランダでの野菜栽培が望ましい。
 ・生ゴミはゴミ処理機(電気式、生物式)で全て土や肥料に出来る。
 ・ゴミ処理のための運搬費と自動車公害がなくなる。
 ・生ゴミはゴミの3割以上で、自治体の財政削減対策に効果がある。
 ・雨水利用をすると水問題にも効果的。
 ・自動車を止めて、家庭菜園にすると環境問題と食料自給率に貢献できる。

私の家からは生ごみは一切出していません。5年以上になります。自治体のごみの3、4割は生ごみで、これを運搬するのにお金がかかり、処理費用の7割は自動車に掛かっている。ごみをこちらからこちらに移動するのにお金がかかる。自宅から生ごみを出さなくなれば、清掃車、大気汚染も3、4割削減できるので、自分なりに実践している。雨水も全部利用している。夏の7・8月は水道水ですが、あとは雨水だけです。家庭菜園で環境問題の半分は片付く。地球の温暖化にも最適です。
もったいない学会があって、スバル、東京電力、トヨタの方がお話しされて、学会のトップは東京大学の工学部の教授を25年間務め最後に国立環境研究所のトップになった方です。その方が、石油があと40年でなくなるからこれからは原発で電気を充電して、電気自動車だと言っていました。頭に来て、自動車をやめて自転車にすべき等といろいろ言ったら追放されそうでした。

6. 海洋観光立国のすすめ
 ・国民の食料の60%は、世界からの輸入に依存している。
 ・金属をはじめ木材やエネルギーなど資源の40%を海外に依存している。
 ・世界の資源埋蔵量は大変少なく、今後は世界的な資源の奪い合いが始まる。
 ・中国やインドや南アメリカの工業化が進み、日本の資源購入が難しくなる。
 ・この危機からの脱出は、持続可能社会・エコライフがキーワード。
 ・自給自足国家は、日本が江戸時代に世界に先駆けて完成した循環型経済。
 ・かつての大国は、今や観光立国となっている。イタリア、スペイン、イギリス・・
 ・21世紀は「平和の世紀」、「観光の世紀」で、観光客は急増する。
 ・フランスへの海外からの観光客は年間7000万人、日本の600万人の10倍。
 ・世界の著名リゾートは水辺に多い。
 ・日本の国土は領海を入れるとロシアや中国より大きな、世界6番目の大国である。
 ・今こそ、食糧自給の“海洋観光立国”を目指そう!
 ・バスコ・ダ・ガマ体験旅行や、マリンスポーツを楽しもう!
 ・人口減少はチャンス、観光には定年がない。
 ・国民の日常生活こそが観光資源。
 ・持続可能社会、平和な、こころ美しい日本再生!!
 こんなことを夢見ていますが、一歩一歩地道に地元で活動して行けたらと考えています。

従来、日本が経済力に任せて世界の資源の15%も買っていたが、もう買えない。今は中国、インド、南米の経済力が発展していますから昔のようにはならない。欧米と日本の5億人が自動車を乗っている時代は何とかなったけれど、世界の60億の人が平等に自動車に乗ろうと考えたら日本国内では作れない。
中国の杭州に山手線内と同じくらいの面積の自動車タウンが出来ています。
トヨタ、日産、本田と韓国の会社で支えていまして、工業高校生を1万5000人も育てています。自動車製造のトップは、GMからトヨタに変わるのに100年掛かったけれど、トヨタから中国の会社に変わるのに10年掛からないだろうと勝手に考えています。
資源のない国で持続可能な社会をどうやって作り出すのか考えて、海洋観光立国を考えました。世界ではイタリア、スペイン、北欧などは観光立国みたいなもので、フランスは年間に外国人が7000万人、日本は600万人しか来ていない。中国・インドから1億人がバカンスで日本に来てもらう。10年くらいで日本の高速は自動車が減るので、自転車専用道路に変えてもらって、一ヶ月自転車で遊んでもらって、毎晩温泉入って、お寺を見て、美しい山をみて、時々ヨット乗って太平洋に行ってもらって、というようなことを考えています。
陸上だけでいうと日本は世界で60番目の国ですが、200海里までいれると世界で6番目、ロシアより中国より大きい国です。ここで遊んで貰えば日本人全員が観光業になれると考えています。そのためにはどうしたら良いかライフワークとして勉強していきたい。

参考に世界経済についての感想です。日本の国民と企業の貯金は1500兆円ですが、政府と自治体の借金が1500兆円を超えているといわれています。最近は、お金をかけて大工事をして、立派な駅に変えていますが、この原資は特別会計です。国家予算一般会計が80兆円ですが、特別会計が3倍近い200兆円。政府というか官庁が事業をやって、GNPが400兆というそんな国家財政でやっています。アメリカの国家予算に匹敵するくらいの額を日本でも使っている。特別会計200兆円は全く国会を通らなくてもいいお金なので、こういうものを使って、道路も68兆円かけて作ろうとしている。
アメリカの中東戦争費用は、1年間で50兆円と言われていますが、そのうち日本が40兆円支えている。どういうことかというと、アメリカの国債の高金利でしか、貯金、証券投資、年金、生命保険などがファイナンスできない。全国測量厚生年金基金の決算報告を見たら、年間4%くらいで回している。日本国内では回せない。アメリカの国債を買うような投資しかできない。そういう経済で日本は成り立っています。
ロシア・中国の外貨準備は、アメリカの国家予算に匹敵するくらい。アメリカの経済はロシアと中国が支えているというくらいのコメントもあります。
アメリカが消費して、それをみんなの国が製品を作って経済が成り立っている。アメリカは消費が自国だけでは足りないので、外国に行って沢山戦争やって壊して、消費を作り上げている感がある。世界の60億の人の本当の実質的な経済、消費によって成り立つ経済を作っていかないと思っています。それでなくては全くバーチャルな経済をこれからもやりつづけるのではないかと思います。


【事務局の感想】
中瀬さんは、お勤めを早期に退職され、「エコライフコンサルタント」として、日本を自給型の持続可能な社会と海洋観光立国にすることを提唱され、精力的な活動を続けておられます。日本という国のグランドデザインを描かれ、それにむかって無私の行動を実際に行っておられることは、鉄舟が示してくれた戦略
的行動に通じるものがあるのではと、感じ入りながらお話を伺いました。
今後のご活躍を期待いたします。

以上

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2007年09月29日

9月例会記録(1) 1/2

■田中 達也氏

「変体仮名を読む その2 鉄舟の書をもとに」 
                       

 変体仮名について、なぜこの場でしゃべるというかと申しますと、学生のときに古典、特に近世文学について勉強していたからです。その時の薄れ行く知識を引っ張り出して、皆さんにお話できればと思います。

 まずは、昨年2006年4月にも同じタイトルでお話しているのですが、そのときの内容をおさらいさせていただきます。

1.変体仮名とは 〜おさらい
 変体仮名とは、ひらがなの一種です。現在使っているひらがなは、あ・い・う・え・お・・・という、いわゆる50音です。ひとつの「あ」という音に対してひとつの文字「あ」がセットになっている、これが私たちの習っているひらがなです。
 ひらがなの成り立ちというのは、最初から現在のような1音=1字の50音だったわけではありません。
 中国から漢字が輸入されて、それに日本語の音を無理矢理つけて使っていたのですが、それが次第に簡略化されてひらがなが生まれました。
ひらがなが生まれる過程で、現在の「あ」という仮名は、「安」という字を字母として作られました。しかし、元々「あ」という音を表現する文字は、今は「安→あ」と決まっているのですが、昔は仮名のもととなる「字母」が何種類か存在していたのです。「安」「阿」・・・など。これをこんにち、「変体仮名」と呼んでいます。
 変体仮名は、約300文字くらいあります。昔の人はこれを使ってひらがなを表記していました。漢字が「変体仮名」に固まったのが西暦1000年前後ですので、今から1,000年くらい前になります。変体仮名はそれから約900年間使われてきました。
 現在使っている「ひらがな」は、明治33年(1900年)、小学校令という法令により、整理統一され、1音=1字に決められました。

 ちなみに、明治33年といいますと、鉄舟は亡くなっています。明治21年に亡くなっておられますので、私たちが現在使っているこの50音を知ることはなかったのです。鉄舟は変体仮名を使って文字を書いていたのです。
 私たちが使っているひらがなは1900年制定ですので、まだ100年くらいの歴史しかありません。現在使っている50音のひらがなのほうが歴史は浅いのです。

 以上が変体仮名の歴史です。
 その変体仮名で古典は書かれておりますので、それを読み解くことが中世から近世にかけての書物の原本にあたるときの基本的な知識になります。
変体仮名に触れていただくために資料を用意いたしました。


2.変体仮名を読む
ウォーミングアップ代わりに簡単な変体仮名を読み解いていただこうと思います。「脳トレ」にもなりますよ。

<図1>


<図2>


『麻疹能毒養生弁』(はしかのうどくようじょうべん)

 この資料は江戸の瓦版で、麻疹が流行したときに配られたものです。出版年の記述があります。「文久二年七月」に配られたものです。
 ちなみに、文久二年(1862年)という年は、鉄舟27歳で、浪士隊の取締役になり、浪士を連れて京から江戸に移動したり、清河八郎とおつきあいしていた頃です。その頃麻疹が流行って、この瓦版が出たのです。

 早速読んでいきたいと思います<図2>。
 麻疹や能毒の良いものと、悪いものが番付してあります。大関・関脇・小結・前頭・・・というように並んでいます。ちなみに、当時は「横綱」という位はありませんでした。大関が最高位でした。

<図2>を右から呼んでみましょう。
■大関=くろまめ
■関脇=あづき
 最初の文字が「あ」、最後の文字が「き」とわかります。「あずき」と想像することができますが、真ん中の文字は「ず」ではなく、字母が「徒」の「づ」です。
■小結=やへな(奈)り
 緑豆だそうです。
■前頭=やきふ
■前頭=くわゐ
 字母「王」の「わ」です。よく出てくるので覚えておかれると便利です。
■前頭=はすの根
 「者」を字母とする「は」、「す」は「春」が字母です。
■前頭=にんじん
 「じ」は「志」に濁点の「じ」、「いんげん豆」の「げ」は「介」に濁点です。■前頭=ながいも
■=つくいも
 「あづき」と同じく、「徒」を字母とする「つ」です。


※「9月例会記録(1) 2/2」に続く

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9月例会記録(1) 2/2

 それでは、いよいよ鉄舟の書を読むことに挑戦したいと思います。
 鉄舟さんの書のうち、掛け軸や襖などは漢文体で書かれたものが多いのですが、これらはみな漢字を崩したものです(草書体)。これらは私の専門外(書道の領域)ですので、ここでは仮名で書かれている書を取り上げます。


<図3>
■一行目=行先に我が家
■二行目=ありけり 
■三行目以降=か(可)たつむり(梨)


<図4>

■一行目=馬車ならて 我乗物(わがのりもの)
ならて=ならで。「で」は打ち消しの接続助詞。ならないという意。
「乗物」の「物」は、瓦版の資料<図2>「食してよろしき物の方」の「物」と同じ崩し方です。ですから「物」はこのように崩す規則であることが分かります。
■二行目=は(者)火の(能)車 か(可)け取る
掛取り=借金取り
■三行目=鬼のたゆる間も
たゆ=絶ゆ=絶える
「間」=門構えや冠をこのように崩すパターンが多いです。鉄舟の落款「山岡」の「岡」をどこかで見ていただければ分かりますが、これが鉄舟の門構えや冠の略し方のパターンです。
■四行目=な(奈)し

(意訳)
「馬車ではなく、私の乗り物は火の車です。借金取り(鬼)の絶える間がありません」

 鉄舟が、自身の貧乏話を句にしています。

ここで、鉄舟の貧乏のエピソードを、『鉄舟居士乃真面目』(全生庵発行)に収録されているものからご紹介します。

『居士(こじ)壮年時代は極めて貧乏であったが、なかんづく元治元年の大晦日には、わずか八両の支払いができぬため、晩方より掛け取り一同が台所口へ詰め寄せて、代わる代わる催促する。時に居士、台所にて大あぐらかいて、晩酌のご機嫌斜めからぬ折からであったので、

「さけのめば なにか心の 春めきて 借金とりは 鶯の声」

と高声に口吟して一向平気でいられる。彼らは苛立っていよいよ厳しく催促する。居士また、

「払うべき 金はなけれど はらいたき こころばかりに 越ゆる此暮」

とうなりつつ。やがて脇差の巾着の内より二朱と二百文を取り出し、彼らに示して、「こは余の軍用金なれば、片時も手放しがたし」と言われた。彼ら一同この体を見て大笑して去ったと。』

 元治元年の大晦日の話です。
 元治元年(1864年)は鉄舟29歳のときです。その前年、清河八郎が刺客に殺されています。また、浅利又七郎に剣を学び始めた頃で、その4年後、33歳のときに駿府に赴き、江戸無血開城の交渉を西郷隆盛と行ったのです。無血開城の4年前は、こんなに貧乏だったのですね。
 鉄舟さんの書をご紹介しつつ、その原文を読み解いてみました。


3.鉄舟の書について
「書法に就いて」(『鉄舟随感録』・山岡鉄舟筆記・国書刊行会)より

『・・・世或いは云う。山岡鉄舟の書は書として何流にもかなわぬものにて、書か画か判然すべからずと。こはすこぶる明言にて、一点抗弁を用いるの余地なし。これの如きはすべてその人の心の鏡に任せ写さば可なり。以上の如くにて、余がこんにちの書はすなわち鉄舟流なり。・・・
   明治18年12月30日 鉄舟 山岡 高歩(たかゆき) 誌』

 私の書はあなたの心で見てくださいという、鉄舟の教えです。
 その言葉を最後に、締めさせていただきます。また機会がございましたら、お話させていただきたいと思います。ありがとうございました。


【事務局の感想】
田中さんには、昨年4月に発表をしていただいてから、久しぶりの発表でしたが、内容的に大変分かりやすく、興味深いものでした。まず簡単なものからということで、『麻疹能毒養生弁』を変体仮名一覧と読み比べて、準備運動。
そして、鉄舟の書を読むことにチャレンジ。少し読めて嬉しくなりました。
今後も田中さんに鉄舟の書を教えていただきたいと願っております。
以上

投稿者 staff : 12:55 | コメント (0)

2007年09月28日

9月例会記録(2) 1/2

■山本紀久雄氏

「鉄舟の貧乏その一」

田中さんの解説よかったですね。同じ日本人なのに100年以前の文字が読めない。これほど残念なことはない。教育の結果なんですけれど。事実をつかむことの難しさですね。日本語が読めない、調査ができない。また発表をお願いしたいと思います。
今の世の中は混乱しており、生き方が解らないという人が多い。浅草の浅草寺から、生き方がぶれなかった人、鉄舟の生き方について話してほしいと依頼きました。鉄舟は貧乏でも生き方を変えないで、最終的に素晴らしいと評価を得た。

17日の敬老の日に映画「HERO」を観ました。驚いたことがいくつかありました。まず映画館は満員でした。満員ですが立ち見はありません。今は事前に席を予約して、ネット決済でき、席もファーストクラスみたいに広くて館内は感じが良い。映画館内には親子連れが多い。お父さん・お母さんが、小学生の低学年の子供と一緒に観に来る。この年齢で「HERO」を観てわかるのか?騒ぐんじゃないかと思ったら静かに見ている。観終わったあと「よかった!」という。

「HERO」は裁判の話です。木村拓哉が検事、書記官が松たか子で、殺人事件の自供した男が法廷で私は自供したことをやっていないと覆す。弁護人(松本幸四郎)は、状況証拠を、検事の方で殺人をしたことを説明しろ!と言う。木村拓哉は自分が調べたわけではなく、先輩が調べたものを引き受けたものですが、素直に調べます。徹底的に調べたら、結果的に自供した内容が正しくて、政界の黒幕まで出て来て、最終的には検事が勝つんですね。木村拓哉がやっていることは、かっこいいことではない。あきらめないで、殺人犯が殺人したことを証明するためにひとつひとつ調べて調べて調べ抜いていく。
消防署は、火事を観に来る人を火事場には放火魔がいるはずだということで、写真撮影する。映画でも放火犯の中に殺人犯がいるんじゃないかと、853枚の写真をみて、犯人がいないかどうか写真一枚一枚調べる。
根性が大事、それが『HERO』=英雄、ということをこの映画は示している。

「オーシャンズ13」アメリカの人気映画。フランクシナトラの「オーシャンと11人の仲間」のリメーク版の三作目。バックは全部日本です。カジノのオープンに土俵を作って相撲する、太鼓を打つ、乾杯は日本酒・久保田、何か飲みますか?と問えば「煎茶か緑茶」と日本語で言う。
映画は注意してみていないといけない。「おもしろかった」で終わりにしてはダメ。私は研究家ですから、背景を見る。要するに映画の中には今の時代を反映しており、観客が沢山来ているということは、観客はその映画の中味を観に来ている。時代です。「HERO」が人気があるということは、時代は根性ある人を持ちたい、なりたいと考えている人がいると思います。

調べるといえば、マイケル・ムーア監督はアメリカの医療制度を調査した映画「シッコ」を作りました。アメリカ人は歯が痛くても歯医者に行かない。なぜなら保険がないから、費用が莫大になる。
日本は3割負担で済む。アメリカは世界の超大国なのに行かない。隣のキューバは医療費が無料。アメリカ人の歯が痛い人、お腹が痛い人が、キューバに行って無料で診てもらっている。アメリカはカストロに反対して、キューバを経済封鎖したんですよ。それなのに、アメリカ人はキューバに行って治療してもらっている。キューバは谷亮子選手と決勝戦を争ったくらい柔道も強い、陸上も強い。食料自給率は100%近い。経済封鎖されたことをキッカケにして、いまや素晴らしい国に変身した。これは、ムーア監督が調べた結果わかったことです。

私も調査のために毎月世界中を周っており、先月はインドのムンバイに11日間行きました。インドで生き方を学びました。インドにはヒンズー教徒、仏教徒もいる。仏教徒の家に連れていってもらいました。仏壇には「南妙法蓮華経」とある。日蓮ほど素晴らしい生き方を教えてくれた人はいない。その人はヒンズー教ですが、日蓮の教えを宗教ではなく、哲学として受け取っている。日蓮は、すべての世の中の起きる原因は私の中にあると教えてくれた、と哲学として解釈している。すべての原因は我あり。そういう生き方を観につけたら素晴らしい。悩みがなくなる。

安倍首相は、そう思っていますかね。戦後はじめて53歳の人が首相になったんですね。70%の支持率で颯爽とスタートしたが、日々下がり、耐えられなくなり辞任しました。民主の前原さんも偽メール事件で辞めましたね。若いものは頼りにならないと71歳の福田さんが出てきた。若い人が福田さんはしっかりしたこというなぁと話を聞く。
安倍さんは自分がわかっていなかった。頭が良くて2枚くらいの紙なら暗記するし、読書量も政界一らしい。それなのになぜこうなったかというと体が弱い。1年前の新聞記事を読んだら、好きな食べ物は焼肉、ラーメン、スイカ、嫌いな食べ物は、生カキとある。生カキが嫌いな人は食べてお腹を壊したことがあるからです。新鮮ではないカキを食べたか、よく噛まずに食べたか、です。ちなみにビールと生カキはあいません。白ワインが合います。お腹が弱い人はよく噛んでもお腹を壊す。胃が弱いということです。
首相が激務であることが次第にわかってきた。能力ではない、適職を探さないとならない。情勢判断学会というのがあり、そこで戦略を作る。戦略はロマンだと計算しないで大きいものを作ると言っても2、3日で辞めてしまう。高い望みを持ってもいいですが、自分の立場を分析して、10ヵ年計画、3ヵ年計画、詳細な直近3ヶ月の計画を作りこむとわかります。そのためには自分自身を知らないといけない。調べるということです。「HERO」の木村拓哉はそれを教えてくれる。安倍さんは、それをしなかった。体が弱いことぐらいわかっていたはず。

凧は形状が斜めになっていて、紐でひっぱると上に上がる。上昇しようと思ったら斜めになるのは飛行機も同じです。物事を受けるときに正面から受けるのは一番よくない、まじめすぎはだめ、ほどほどということもある。
安倍さんは全国遊説してどこに行っても同じことを言っている。安倍さんは成蹊大学出身で、成蹊大学は吉祥寺からバスです。安倍さんは吉祥寺で保坂さんの選挙応援に行った、安倍さんは学生時代の吉祥寺の思い出を語るのかと思いきや、一切しないで他と同じことをしゃべっている。結果保坂さん落選です。要するに弾力性、その場対応で判断して行動しなければならない。
鉄舟は駿府に行くとき、慶喜から、勝海舟から、どういう風に行くのかと尋ねられた。船で行く、歩いていく、そういうのは計画です。鉄舟は「臨機応変わが胸にあり」と応えた。出たとこ勝負、その奥に自信がある。
人間は計画通りに行かない。そのときの風・民意と合っていなかった。合っていないことをやると体に障害が出る。時代の流れをつかんでいくことが必要だと思います。

※9月例会記録(2) 2/2に続く

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9月例会記録(2) 2/2

1.インドの金持ちはキリが無く、貧乏人もキリが無い。

インドは時代の流れを掴みつつある。BRICs(ブラジル・ロシア・インド・中国)の4カ国が成長して、世界の経済を引っ張っている。前年日本が中国に投資した内の10%がベトナムとインドに流れている。インドは凄いと皆インドへ行く。
インドには金持ちが沢山いる。世界の結婚式ベスト1は、ベルサイユ宮殿で120億円掛けたインド人です。 その反対にストリートチルドレンやホームレスも街にいっぱいいる。ムンバイは安全だから歩きまわってみた。金持ちの人のところに調査に行った。なぜ金持ちなのか聞いてみた。インドには財閥がいくつもあって、同じ宗教の人、ヒンズー教ではなく、パールシー教というゾロアスター教の流れを汲む人たちが占めている。パールシー教の信者は世界で20万人しかおらず、そのうちの7万人がムンバイに住んで、証券取引所を作って成功している。この中のTATA財閥は車・バス・コンピュータ、何でもやっており、インドのGDPの3%を占めている。


なぜこのような財閥ができたのか?イギリスがインドを植民地にしたとき、イギリスが直接ヒンズー教を支配するのは大変だから介在者を作った。パールシー教の人はイラン系で顔立ちがヨーロッパ寄りだった。このパールシー教をヒンズー教との間に挟んだ。ヒンズー教徒も直接イギリスと対したくなくて、パールシー教を介した。イギリスが撤退したときにイギリスの財産をすっかり置いていった。これがパールシー教の財閥です。  
ヒンズー教にはカースト制度が残っている。ヒンズー教は「今の状態を納得しなさい」といっている。生き方の中で当然なのだから脱皮はやめなさい、しようとすると来世でよいカースト制度に上がれません、といっている。
日本では、明日は未来がある、今日より明日、という人がいるから明るい。インドの人は明日も今日と同じ。
金持ちの家に行くとお手伝いさんが居て、コックさんがいる。この人たちは読み書きできない。一番下のカーストに生まれたが、そこから脱皮しようという気がないから、そこにいる。だから貧乏人はずっと貧乏人です。

このパールシー教の財閥がインドを支配しているだけなら、ここまで成長しなかった。これにITが入ってきた。ITに関する職業は今までのカーストにない職業。カースト制度には3000くらいの職業あって、制度により職業が決まっているが、突如として出てきた職業がITです。従来のカースト制度にない職業は、貧乏人でもその職業につけて、高収入を得られる。インドは工業化という第二次産業を経ないで、第三次産業に入っており、すでに第三次産業はGDP50%を占めている。

インドの貧乏と鉄舟の貧乏は同じですか?


2.「道を修める者、衣食の為にする勿れ」大燈国師(妙超・南北朝時代の禅宗の僧)

鉄舟も貧乏です。1ヶ月のうち7日くらいしか3食食べられなかった。断食したことありますか?1回くらいなら水を飲んでいれば大丈夫ですが、それを毎月ですからね。それくらい貧乏なんですね。
不思議に思うのですが、皆さんお金がないときはどうしますか?お金を得たいと思いませんか?食べ物を子供や奥さんに与えたいと思うでしょう。お金を貰うために働きますよね。生活のために働いても良いじゃないですか。


3.鉄舟は何故収入を求めて働かなかったのか・・・山岡静山は勘定方(幕府財政の運営や幕府直轄領の支配・貢租徴収業務)勤務だった。鉄舟は勤務しなかったのか?

山岡静山はお城の勘定方に勤めていた。弟の高橋泥舟も勘定方。山岡家を継いだら鉄舟もお城勤めをしてもいいわけです。しかし鉄舟は、勘定方に就いていない。どの本も触れていないが、私は疑問を持っている。
または、お城勤めしていなかったら、剣が強いのだから、剣を教えたら良いじゃないですか。指南料、入門料など貰える。しかし、それもしない。

4.英子(ふさこ)は結婚当初文字を書けなかった。
「英子は貧乏生活のため、読書にいそしむことがないまま鉄舟と結婚したが、その後は読書、習字を一心不乱に学び、晩年はなかなか上手くなって、手紙等をみると師匠と間違えるほどであった。絵も上手になった。明治21年12月3日の大阪毎日新聞の記事に『山岡紅谷女史は故鉄舟居士の未亡人なるが頗る写生画に巧みにして来春を期し当地に来り揮毫せんと、即今其の支度中の由に聞く』とあるが、これは偽者で当時鉄舟の名声が高かったので、こういう偽者が各所に出没したのである」
(『おれの師匠』小倉鉄樹箸《絶版》島津書房)

5.子爵内命時の鉄舟と海舟(明治二十年五月)
「食ふて寝て働きもせぬ御褒美に 蚊族(華族)となりて又も血を吸ふ」鉄舟
  「いままでは人並の身と思ひしが 五尺に足らぬ四尺(子爵)なりとは」海舟

鉄舟と海舟の子爵内命時の歌。鉄舟は、自分はろくな働きをしていないのに、士族になってまた金をもらっちゃうと言っている。海舟は「子爵」を嫌味にしている。結果、海舟は子爵から伯爵になった。
海舟は自分の働きを知っている。海舟がいなければ、インドと同じ植民地になっていた。当時世界のことを知っていたのは海舟くらい。オランダ語を学んでアメリカいって、広い世界を知っていたから、和平派になった。小栗上野介みたいに武士の本分が立たない!と戦争していたら日本はどうなっていたか?
大航海時代、コロンブスがアメリカにたどり着いてから、世界中にいろんな土地があることがわかり、スペイン・ポルトガル・イギリス・フランス・オランダが海から来て、海から攻撃してインドのムガール帝国もアフリカもやられて植民地にしてしまった。海から来ると思っていないから、海からの防衛が弱かった。そこを狙って入ってきて、そこに住んでいる○○族と××族の双方に「あっちやれ」と突いて、内戦状態にしてお互いを崩しあう。国が一本になっていないから互いに戦い、植民地化されてしまった。
日本が突かれていたらどうですか。官軍にイギリス、幕府にフランスがついていた。幕府内から戦争をしないで和平を講じようといったのは海舟です。海舟は立派です。伯爵になってもいいじゃないですか。自分の価値を述べた正直な人です。
鉄舟のことを信奉する人は、信奉するあまり、海舟のことを悪く言う人もたまにいる。鉄舟だって借金、女性問題、剣道場、講武所のことなど問題はあります。

6.海舟への批判
  「海舟は死して金を残し、鉄舟は徳を積んで無一物であって、そこに二人の人間としての差がある」とも述べる人もいるが?・・・。

海舟も貧しかった。オランダの医学の本を写して売った。それを聞いて海舟はふざけたやつだという人もいる。海舟は死んだときに財産があった、鉄舟は財産がなかった。鉄舟は志で生きたから素晴らしい、死して金を残した海舟はけしからん、という人もいる。若いときにお金に苦労した人が子供に苦労させないようお金を残して死ぬことは悪いことですか?悪くないですよね。あたり前のことですよね。海舟と鉄舟を比較して、海舟は金が汚いとけなす人もいるが、私はそうは思いません。海舟が普通です。畳の下の床板をはいで火を燃やした、そういう貧しい暮らしに二度と戻りたくないから、海舟は貯金した。

7.講武所から遠のく
  教授頭の男谷精一郎との関係
 当時流行った「ちょぼくれ」で批判あり
「講武所始めたところが、稽古にゃなるまい。剣術教授大馬鹿たわけが、何を知らずに、勝手は充分、初心につけ込み、道具のはずれを、打ったり突いたり、足柄かけては、ずどんと転ばせ、怪我をさせても平気な面付、本所のじいさん(男谷精一郎)師範なんぞはよしてもくんねえ、高禄いただき、のぞんでいるのがお役じゃあるめえ、門弟中には、たわけをつくすを、叱らざなるめえ・・・」     

講武所の連中がたるんでいる。髷はゆるく(防具を被るため緩く結んだ)、セキレイ(セキレイという鳥がいて、尾が長いので、石たたききせると呼ばれた)といい、面の隙間から煙草を吸うため吸う部分を細くして講武所風としていた。
鉄舟はこのような乱れを嫌った。そして荒れた鉄舟のことをみんな怖がった。
講武所の所長の男谷精一郎は鉄舟に、酒はほどほど、女遊びもほどほど、おぬしの剣は鋭すぎると言った。
男谷精一郎は剣の腕が立ち、1本目は自分が勝ち、2本目は相手がどんなに弱くても勝たせ、3本目には必ず勝った。剣聖と言われたが、性格が穏やかだから、講武所内を厳しく指導しないため、講武所内は乱れてきた。鉄舟はせっかく世話役になった講武所を辞めた。幕府の訓練所ですから、給金があった。辞めたらどうなります?辞めた途端に鉄舟はさらに貧乏になった。


【事務局の感想】
今回は大変会場が盛り上がりました。それは身近にある新しい題材を分かりやすく解説していただいて、皆様が納得した笑いではなかったかと思います。テレビで柔道の世界選手権をご覧になった方は多かったとおもいますが、谷選手と戦った選手の国、キューバの国状が話しにでてくるとは思わなかったことでしょう。インドのムンバイの件もそうですが、日本を考えるときに日本だけを考えていただけでは、もう十分ではないということではないでしょうか。無血開城の凄さも、日本だけでなく、世界の情勢から比較をして考えてみたら、日本にとってどれだけ幸いなことであったか。鉄舟を通して、現状を理解していく手立てとしていただければと思います。

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2007年07月27日

7月例会記録(1)

■小林順子氏

『私が発表できるようになりました』

1、自己紹介
 台風が良く通る鹿児島がふるさとです。鹿児島から外に出たいと思ったことはなかったのですが、結婚した相手が転勤族でしたので、転々とあちこちにいきまして、今は、千葉県柏市に住んでおります。
 双子の娘がおりまして、一人がアメリカ人の彼とラスベガスに住んでいます。もう一人の娘も英語が使えるところがいいと、去年の8月までアメリカにおりました。今は日本の会社に勤めており、今は夫と私と3人で暮らしております。

                        


2、ただの主婦がやってきたこと
 ずっと専業主婦で、熊本市の広報で見つけたバトミントン教室とか、手仕事の教室に通ったり、簿記の講座、秘書検定の講座などに出かけて勉強をしてきました。なんとなく年を重ねてきていました。

3、成長のきっかけは二つ
 娘が海外に、彼の元に行ってしまったときに、千葉県で主催している女性のための起業セミナーに参加しました。1泊の研修があり、県の施設に泊まってみたい、ただそれだけの気持ちで参加してみました。
 行ってみると女性もバリバリ活動されているような方たちばかりで、来るべきではなかったと私は隅で小さくなって、様子をみておりました。

3-1、NPO法人全国生涯まちづくり協会の先生との出会い
 2000年4月に松戸にある聖徳大学の教授で、研究会・全国生涯学習まちづくり研究会(まち研)の教授に出会い、そこで新しい人たちに出会いました。
 講習会、大会があると、全国から教育に関わっている方たち、公民館の館長さんや学校の先生たちにお会いする機会がありました。私とはかけ離れた人たちで、気後れもしましたが、そういうところも人との出会いで楽しいことがあるかな、と今でも時々参加しています。

3-2、ファンタジーきものとの出会い
 今日も着物を着ています。娘がラスベガスに引越しした頃に、ラスベガスから帰ってきたばかりの人に出会いました。その方は、女性起業セミナーで元気にお話しされていていつもだったら、お話するような方ではなかったけれど その方にこの着物を教えてもらいました。
 2000年5月に着物を見に行きました。2分くらいで、パッと着物姿に変身するところをみせてもらい、びっくりするくらい簡単で、出来上がりがとてもキレイでした。
 夫と一緒に見せてもらいに行きました、私はとても気に入りました。
 元気な彼女が夫にいっぱい説明しておりました。夫は黙って、次から次と彼女から出てくる説明を聞いていました。夫は必要ないと思っていたと思います。
 今までだったら彼のそういう雰囲気を私が感じて、あきらめてきました。
でも、この着物に関しては、娘も海外に行っていたということもあり、日本のものを大切にしたいというのもあり、3分で一人で着られるきものだったら人も喜ぶのではないかな、私自身もすごいと思って、今までなら夫の思いを感じてやめていたと思うんですけれど、この着物は違いました。
 着られる状態になったので、すごいということを人に伝えるようになった。

 その頃は夫も現役だったので、着物を見たいという方がいて、夜にかけてだと、帰りが遅くなりますと出かけていました。
 夜は全然外に出る人ではなかったのだけれど、心が自由になりました。
 夫も定年になって4年になります。定年になって一年になると、遅く帰ってくるのが、何日も続くと、帰ったときの重苦しい、いつもおしゃべりしないけれど、それがもっともっと空気が重い感じがして、心が苦しくなってきました。

 そんなときに写真を、ボランティアで着物を着せたりした様子を撮ってもらっていた写真を、自分で見たこともないようなとってもいい笑顔があって、それを夫に見せた。こんなにいい笑顔をしていることをしているのだから、着物を伝えることをしたいんですと夫に伝え、夫にいいよ、と言葉少ないですけれど言ってもらえた。
 伝えたので、自分も気持ちがすっきりして、夫も私が黙っていたよりもお互いに楽になったと思います。

 
4、ファンタジーきものに関わって変わったこと
 着物に出会ってから8年が過ぎました。道を歩いていて、お店の前に地べたに座っている子を見ると、着物を着せたらこういう子も変わるんだけど、と思っています。
 広島県に住んでいらっしゃる呉服業界を45年やっている木村さんという方がいて、生まれ変わっても呉服の仕事をするという、とても着物を愛している、着物が日本を救うと思っていらっしゃる方で、その方が着物を着るとこんなことがありますよ、という本を書いている。

 幼稚園の保母さんが、ひな祭りにウールなど普段着の着物を着て、お菓子を子供の前に出したときに、いつもだと腕白な男の子がお座りしてお菓子を少しもらって友達に譲った。子供も変わるということが書いてある。
 私も老人ホームや知的障害の方に着物を着せてあげたりしたときに、お世話している方が、いい顔をしていると、喜んでくださる。私自身もいい顔になるんですけれど、着物って素晴らしいものだな、とますます思っています。

 私も、こんなところに立ってお話できるようになったのは、着物のおかげだと思っています。生涯学習研究会に参加するのも8年くらいになりますが、最初からお会いしていた方に、初めて会ったときよりも輝いているね、と言われます。着物のおかげで変われたのかな、と思います。

 木村さんの本の一部を紹介します。
「着物をきて、人の視線を浴びると、自然に背筋が伸びて、気持ちよい緊張感が漂ってきます。知らず知らずのうちに優雅なやさしさ、立ち居振る舞いになるのです。着物姿が人の気持ちを動かし、人の心をとらえ、あなたをより美しくしてくれるのです、まさに着物が人を磨くのです。
 ここに書いてあるとおり、簡単な着物だけれど、着物姿になれるので、変わってこれたかな、と着物に感謝しております。

 今、和のブームまっさかりで、若い方は、着物にレースをつけたりして、着物を楽しんできています。
 新しい着方があってもいい時代だと思います。このブームが終わった後に着物はどうなるかととても心配しています。
 やはり日本には着物が、普通の人にも着物が着られるのがあったほうがいいんではないかな。

5、ファンタジーきものは素晴しい
 ファンタジーきものは、将来あって良かったとなるんではないかと思います。いろんな方にお会いできるようになったとこと、「着物の順子さん」と言ってもらえるようになったこと、着物姿であったことで、鉄舟会にもご縁ができて、このようなところに立つこともできました。夫にも感謝しながら。
 3分で着られる着物を入門編の着物として、常識になってほしいと思って普及活動していきたいと思っています。

6、勇気を与える
 金子さんから発表を依頼されて、本当に困ったんですけれど、「できません」と言えませんでした。昨年ニューヨークに行ったときも、金子さんに自立したいと話していたので、依頼があったときに「はい」というしかなくて、今日に至りました。
 皆様もいいものを沢山持っていらっしゃいますから、金子さんに依頼されたら、小林も出来るのだから、皆さんも「はい、やりますよ」とすぐお返事をしてあげてください。
 このように大勢の方の前で発表するという初めての経験をしていますが、これからも初めての経験を楽しむ自分でいたいと思います。大切な時間を使わせていただきまして、ありがとうございました。

【事務局の感想】
 小林さんとは2006年のニューヨークのぬりえ展の同行していただき、その際に小林さんの希望や夢などをいろいろ聞かせていただいていました。
 自立に向かって立ち上がった小林さんは、活動の幅を広げられています。
 鉄舟サロン以外にも大人のぬりえサロンや、経営ゼミナールの会にも参加されて、勉強をされています。今回は、今に至る経緯を発表していただきました。
 ぜひ、勉強されて夢を広げ、次回の発表をしていただきたいと思っています。
 鉄舟サロンの女性の方々、ぜひ、依頼されましたら、小林さんのように「はい」と引き受けてください。よろしくお願いいたします。

以上

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7月例会記録(2)

■山本紀久雄氏

「鉄舟の結婚運」

 小林さんのタイトル「私が発表できるようになりました」に注目してもらいたい。できるようになったことを証明したい。これは大事です。モチベーションです。話す前にその気ですよね。
 最初に会ったとき、小林さんは「私は主婦です」と言いました。主婦という職業はないんですね。小林さんは、そこから自立して着物を着るとどうなるかということを話した。
 刺激的な宿題を小林さんに申し上げている。今いいことをいっぱい言いましたが自分の中身から、もっともっと引き出して、言葉にして自分のブログに書く。着物を着たら、自分がどう変化する、素晴らしい世界があることを言葉と文章とこういう場で語る。それをすることが小林さんの自立する道だと思います。
 小林さんは分かってらっしゃって、もう8年もやっていらっしゃる。一度やったら止めませんとおっしゃっていましたからね。ぜひ、これからも第一回のスタートとして、毎年定期報告会してもらいますか。大変うれしいですね。

 今年の山岡鉄舟全国フォーラムの講師は高田明和先生で、『人生に定年はない』という本を書いていらっしゃいます。
 日経新聞の夕刊に連載小説を書いていた、諸田玲子さんの親戚です。諸田さんが、次郎長の第一の子分である大政のことを書いた。諸田さんが自分は次郎長の血をついでいると言っているが、大政のことを知らないで書いているため、高田先生は次郎長の姿を書かなければならないと、この本を書いた。
 高田先生は次郎長の係累ですが、本来は脳学者です。特にセロトニン関係、認知症の専門家です。  NHKの「心の時間」の放送で高田先生のお話を聞いて、この間直接お話した。
大森曹玄先生のご関係で、禅も修行されている。この本は春秋社から出している。大森曹玄先生の山岡鉄舟の本も春秋社。
 本の中身は非常に優しいけれど、なるほどと思うことが書いてあります。脳の中味、禅の境地、仏陀の悟り、これは一体化していると図表にしている。うつ病になるくらい禅に打ち込んでそこから開けた、それをご自分の研究である脳の研究と仏教を結びつけ、新しい境地を作った。そのようなことが書いてあります。

1.鉄舟は結婚する気がなかった

 鉄舟は20歳、山岡静山の妹の英子(ふさこ)さん16歳のときに結婚した。この結婚で鉄舟は山岡家になり、小野鉄太郎から山岡鉄太郎になった。
 ここで、鉄舟20歳、英子さん16歳、ということを考えたときに、鉄舟が結婚する気があったかなかったか、素朴な疑問を感じた。鉄舟の研究書には書いてない。しかし一般的に考えると男の20歳と鉄舟の立場を考えるとそんなに結婚したい気持ちではなかったと思う。

1.年齢

 理由のひとつは年齢。20歳、当時の江戸時代の平均結婚年齢は何歳か。
 女性は15.16歳が多い。井原西鶴『好色一代女』にも女性のつぼみは15.16歳と書いてある。女性の16歳は結婚適齢期ということがわかった。
 では男性の町民が結婚する条件は何でしょうか。当時女性はあまり働かなかったので、職業が確立しないと結婚できない。

 昼間に健康倶楽部に行ってきたが、そこで、新しくできる病院長の先生から聞いた話では、日本人は飢餓体質にあっているそうです。食べないことに我慢できるタイプ。食べないのに向いているが、食べ出すと逆に出て、今メタボリック症候群というが、太ったのが病気の原因だそうです。
 その方は外科専門で、痩せるための最先端の外科手術は、食道から胃に来る食べ物を、胃の入り口をホチキスでとめて、入れないようにしちゃう。食べられないようにする。もう一つの方法は、内視鏡で風船を胃の中に入れる。胃の中で膨らませると、いつも満腹だから食べなくなる。9月から新しく導入するそうです。
 日本人が飢餓体質というのは、終戦直後の食べ物がなく、その頃の栄養基準でできているからで、今言われている30品を食べると日本人は太ってしまう。

 当時の男性は職業がないと結婚できない。一人前のお金をもらえる立場になるのが20代半ばなので、男の結婚の平均年齢は20代半ばと考えてよいでしょう。
 もっと遅い人もいました。40代に結婚するのは大店の奉公人です。分店を出してもらうような番頭さんは徹底的に修行を受けるから、結婚が40代になる。  
 お侍さんの結婚平均年齢については、事例はいっぱいあるけれど調べても平均が分からない。殿様がいなくなると困るから、幼いもの同士結婚して、跡目相続、家督相続させてしまう場合もあるが、個別の例で違う。しかし客観的に考えて、男として20歳で結婚するのは、特別な事情がない限り早い。
鉄舟は20歳で結婚する気はなかったと思います。


2.剣の修行

 鉄舟は江戸に出て玄武館に入門した。剣道の修行を行い、21歳になったら、来年できる講武所の世話役にすると師匠の井上清虎からも、千葉栄次郎からも言われている。周りからも期待されている。鉄舟は剣一筋で乗っていた、やる気になっていた。

 20歳で徹底的に鍛える時期だった。ある一つのことに集中的にしたとき、生きるセオリーを身に付けている。若いから体力的に苦しくてものり越えられる。

 この剣の修行の理由からも鉄舟はこの時期、全く「結婚」ということは念頭になかったと思う。

3.色道修行 (しきどうしゅぎょう)

 1853年ペリーが来日した日、鉄舟は内藤新宿の色街、そこの女郎屋で目をさました。と何條範夫の小説にある。
 鉄舟は、3500両の遺産をもらって、弟たちに一人500両の持参金をつけて養子に出した。それまでは幼い弟たちを抱えていたが、ようやく一人になった。お金も残っている。小野家は600石で、お金もあります。
 好きなことしませんか?しますよね?鉄舟は修行熱心だから、結婚する気はなかった。

4.剣への志

 結婚する気のなかった鉄舟がなぜ結婚したかは、英子さんが鉄舟にほれたからです。山岡静山の跡継ぎがいなかったからです。
 高橋泥舟が鉄舟に、600石の旗本が百俵二人扶持の山岡家には来てくれないだろう。そう言われたら、鉄舟の人柄なら動いてしまう。このことがなかったら、鉄舟は結婚していなかった。
 当時、鉄舟がどういう志を持っていたかにこの話を結び付けたいのですが、
鉄舟は山岡静山に弟子入りした。静山は槍、鉄舟はそれまで剣を学んできた。どんな武術が来ても剣で倒せると思って、剣一筋だった。井上清虎に連れられて静山のところに行って木っ端微塵にされて、静山に入門し、剣と槍と両方を学び始めた。

 鉄舟は、自分は剣の道を歩むのか、尊敬する静山先生のようになりたいのか、つまり剣の道を進むのか、槍の道に進むのか、剣と槍の両方なのか?鉄舟は、自分の道を決めるのに悩みました。自分の生きる道、進むべき道を決めるのは志です。
 最も敬愛する師匠が山岡静山なのに、何故槍の道に行かなかったか、なぜ剣に戻ったか。それは鉄舟に志があったからです。

 5月28日にミスユニバースが日本人に決定しました。コンテストは、メキシコシティで行われました。審査員10人中10人が森さんを一位にして日本人がミスユニバースに選ばれた。
 ミスユニバースは美人だけでなく、教養、歩き方、食べ方、着こなし、スピーチが必要。スピーチも英語とフランス語。森さんは、フランス人の女性に特訓を受けた。フランス人のイネス・リグロン氏の実家モンペリエに住まわせて、歩き方などの訓練や、スピーチの質問想定集300問をつくり、何が来たって大丈夫なようにした。そして10人が1位にして満点でミスユニバースに選ばれた。日本は素晴らしい、世界一の美女が出たってこと。それを意識しないと駄目です。今の時代が求めている女性が基準になる。
 これを誰が仕掛けたかというと、フランス人のイネス・リグロン氏です。ではミスユニバースを日本から出しなさいと指示したのは誰ですか?

 もうすぐ参院選ですね。福沢諭吉は「優れた人間はいない」と言っている。政治家にも優れた人間はいない。なら悪さ加減が少ないほうに入れるのが、良いんじゃないかといいました。
 福沢諭吉は「衆論が決める」といいました。衆論には二つあって、「私智」は、頭がいい、美しい、囲碁が上手いとかそういったもので、「公智」は公の智で、大きな目的のために使う知恵。
 今度の問題は、社会保険庁の人たちが税金もらって働いていなかったことです。この官僚を普通の人は指導出来ない。指導する人を、しかるべきポストに配置するのは政治家、その政治家を選ぶのは、私たちです。目的を持った大いなる智恵で選ぶのです。しかるべき志で、29日に選挙に行って選んでください。予測など意味はありません。

 10年前にミスユニバースを日本から出しなさいと、フランス人の派遣を指示したのは誰ですか? アメリカ五番街トランプタワーの持ち主です。トランプ財団がミスユニバースの仕掛け人です。

 国連に110人の日本人が勤めている。人数は世界4位、拠出金は世界2位。日本人は、もっと国連に行かれたらいいと思います。
 先日トランプタワーの隣に住んでいる人の家に訪れた。旦那さんは国連に勤めている、奥さんはシティバンクに勤めている。相当収入も高いはずだから立派なお宅なんじゃないかなと思いました。しかし入り口が狭くて入れないくらい物がいっぱいで、まるでウサギ小屋でした。

 日本の生活水準はウサギ小屋だと欧州から言われた時期がありましたが、今はそんなこと誰もいいません。日本は凄く良くなった。
 また昔は労働時間が長く働き蜂といわれた労働時間世界トップの時期がありました。今は、労働時間は2100時間から1750時間に落ちました。
 それから生活費も、昔は東京が高いといわれたが今は高くない。先日大阪出張時に大阪のリッツカールトンホテルに泊まった。夕食なし、朝食つきで3万円です。
 3万円高いと思うでしょう?しかしNYに行ってマンハッタンのホテルに泊まった。小さな部屋、冷蔵庫もコーヒーポットもない、朝食もない、これで3万円です。大阪のリッツカールトンは、大きなベッド、ソファ、テレビ、水、ビール、豪華な朝食がついて3万円です。
 地方のビジネスホテルに泊まっても、ほとんどのところは朝食がサービスでついて4000円くらいで泊まれます。そのくらい日本は安い。

 今一番生活費が高いのは、モスクワです。ホテル代が6万~8万円なので、旅行客は少ない。2番はロンドン、3番はソウルです。これはある調査会社が調べた結果です。
 何がいいたいかというと、日本は一人当たりの居住空間は広くなって、働く時間も減り、生活費用も下がって、住みやすい国になったということです。これは日本人気のバッググラウンドのひとつになります。
その代わり1人当たりのGDPが下がった。伸びている国には厳しい条件がある。今GDPが伸びている国はBRICsブリックスです。その中の一国である中国は住みにくい。どうしてでしょうか?
 中国のものを食べない。中華料理でも箸を洗ってからにしたい、そんな国にしたのは鄧小平です。鄧小平は先富論を唱え、中国は、国が広大で人口も多い、日本みたいに一斉に良くなることは政策的に不可能だから、良くなるところから良くないって行きましょう、良くなったところは、そうでないところを助け、そのうち全国よくなりましょうと唱えた。それから15年経つが、沿岸地帯3億人は良くなったが、ほかの10億人は貧しい。格差が出て、問題が出ている。

 みずほ総合研究所の大内社長から教えてもらった話では、中国政府から中川政調会長(昔は経済産業大臣)に質問がきている。
 今、中国は元高。日本が円高をどう克服したかをその経緯教えて欲しい。日本は明治・大正・戦争直前まで農村が貧しかったが、今は豊かになった。昔は川が汚く、隅田川も汚い。銀座線も臭かったが、今は排ガスの臭いもしないし隅田川も鯉が泳いでいる。この3つを克服した経緯を教えて欲しい、と中国政府から言われ、中国で勉強会をして教えている。

 いま日本の自殺者は3万人です。日本の人口はおよそ1.2億人。それに対して中国の人口は、13億人。人口比例で考えると、日本の約10倍ですから、自殺者数も30万人くらいかと思うでしょう。ところが中国の自殺者数は240万人。日本人は日本のことしか見ないから、3万人と大騒ぎしますが、240万人と比べたら少ないですね。

 中国では株がどんどん上がっている。沿岸に住む中産階級の3億人は株の話ばかり。バブルになるんじゃないかと株の危機について雑誌などに記事を書くと、クレームのメールが何百万通と来る。株価が下がると困るから、下がるような発言したら国賊みたいな言われようをするそうです。金だけが目的、見栄えばかり大事にしていてはだめです。志が必要です。

5.鉄舟が結婚につけた条件

 鉄舟の志はなんだったか。鉄舟は剣と槍とを迷った結果「剣」に戻った。なぜ剣に戻ったかというと、それは、自分を知ったということです。槍の世界では修行しても免許皆伝までは行くが、それで終わるだろう。適・不適です。
 鉄舟は9歳から剣を久須美閑適斎から教わってきた。剣が一番自分に合っていることに気づいた。それを気づかせたのは山岡静山で、鉄舟は静山に、槍を修行しても免許皆伝まで行くだろうが、それから先は難しいだろう、考えてごらん、といわれた。それで悩んでふらついたが、「剣の道で行く」と志を決めた。
剣の道に進むと決めたのだから一生懸命修行しなければならないのに、なぜ結婚したのか?
 自分の剣の修行を越える条件が出てきた。静山が亡くなり、山岡家が絶える。静山は槍の人だから、槍のできるものが継ぐと普通考えるべきでしょう。鉄舟は頭から山岡家に行く気がなかった。しかし泥舟が来て英子さんが鉄舟と結婚したいと言ってきたことを告げた。
 この結婚に鉄舟は条件をつけたでしょう。私は「槍は継がない、剣で行くぞ、槍は泥舟がいる」と話したでしょう。

 鉄舟は英子さんと結婚することによって、結果的に素晴らしい運を得ました。英子さんの情熱によって鉄舟は山岡家になった。鉄舟は山岡家になったおかげで、素晴らしい運を持ちました。そして日本のために素晴らしい運を与えました。鉄舟が単に剣・禅・書の達人だけだったら、こんなに鉄舟会に人は集まりません。鉄舟には、それだけではない何か魅力を持っている。なぜ鉄舟に魅力があるかは、国から考えないとならない。

 日本の国体の危機は過去に何度も訪れました。
 たとえば元寇の襲来。ロシアに行ってわかったことですが、ロシアはモンゴルに攻められて、1千年くらい前にモンゴルの王様に支配されていました。モンゴルが世界を征したことがあった。ドイツの国境くらいまで攻めて来たし、イラクまで支配した。その勢いで日本まで2回攻めて来た。

 今度南アフリカに行きます。訪問する国の状況を研究するため何冊も本を読んで知ったことがあります。
 アフリカには全然文化がない。これは産業革命後の白人が作った歴史の捏造です。アフリカには文明を備えた帝国があったが、白人が侵略して歴史を書き換えてしまった。日本人は西洋の歴史を日本語に訳したものを読んでいる。アフリカの方が文明は進んでいた。しかし今なぜそうなっているのか。酷い状況があったからです。

 1400年代、スペインとポルトガルが世界を制した時期があり、世界をスペインとポルトガルで二分した。
ローマ法王の承認の元に、アフリカのケープ諸島から42度で線を引き、東をポルトガル、西をスペインと世界を二分した。
 ポルトガル、スペインは、自分たちは二つの国で世界を自分たちの砦にすることに決めた。人がいようがいまいと、その土地に入ったら、自分のものだと決めた。
日本はスペインのものということになっていた。ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝来したと歴史ではなっているが、本当は侵略に来た。日本はスペイン領だったから、ポルトガルが遠慮しただけです。その後、訪れたザビエルはスペイン人です。キリスト教はキリスト教を出して、キリスト教を普及しながら侵略するのがやり方だった。

 豊臣秀吉がなぜキリスト教を禁止したかというと、北朝鮮の拉致と同じことが行われたからです。
 当時キリスト教に入信したキリシタン大名が、スペインが持ってくる武器・火薬がほしいため、50万人もの日本の娘をヨーロッパの奴隷に売りつけた。秀吉はこれを知って、バテレンを呼んで、ヨーロッパに送った日本人を日本に返しなさい、返さないならば、キリスト教を禁止すると言った。
 そして家光の時代に鎖国した。もしキリスト教を受け入れていたら、日本もフィリピンと同じように侵略されていたかもしれない危機があった。それを救ったのが、豊臣秀吉です。

 その次の危機が明治維新。ヨーロッパによる侵略と同じことが起きた。官軍側にイギリスがついて、慶喜側にフランス軍がついて、フランス軍は慶喜に、味方します、武器を出します、お金も貸しますと言い兵隊も日本に呼び寄せた。味方する代わり北海道をよこしなさいとフランスは言ってきた。小栗上野介忠順が判を押しそうになったが、それを知った勝海舟が止めた。官軍が攻めてきて江戸で戦争が起きたら、日本は外国に侵略されていた。

 鉄舟がこの危機を救ったのは、泥舟と姻戚だったからです。高橋泥舟は慶喜の護衛頭だった。それまで何度も、官軍に江戸へ攻めて来るなといったが効かなかった。最後の奇策として思いつき、人に賭けるしかないと行かせたのが、高橋泥舟の義理の弟の鉄舟だった。鉄舟は、海舟のところに行って手紙を受け取り、西郷隆盛と会談した。
 高橋泥舟が鉄舟を良く知っていたから、交渉に行かせたのでしょう。泥舟が鉄舟を知らなかったら、ただ剣が強いくらいの人としか知らなかったら、この交渉に鉄舟を投入しないでしょう

6.鉄舟の結婚対する海舟評論
 ここは講演で省略した。

7.英子との結婚が鉄舟に運を授けた

 英子さんの情熱が結果的に日本を救った。もし、鉄舟が英子さんと結婚していなかったならば、鉄舟は剣や禅や書家として名を残したでしょうが、国の危機を救った、無血開城の鉄舟として名を残してはいなかったでしょう。
 そうしていなければ、今ここに居る人たちは、日本人ではなかったかもしれない。日本はどこかの植民地だったかもしれません。鉄舟が山岡に行ったことで救われました。


【事務局の感想】
 誰もが当たり前に結婚するものとして捕らえていた問題について、そのまま受け取るのではなく、疑問として問題を追及して、今回の発表になりました。
 言われてみれば、そうなのだと納得してしまいました。鉄舟については、まだまだ継続して研究されているテーマがあるとおもいますので、ますます鉄舟研究は続くことでしょう。
 ミスユニバースの話や豊臣秀吉のキリストの禁止など今月も楽しく勉強になるお話でした。9月の鉄舟研究を楽しみしています。

以上

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2007年07月14日

6月明治神宮 至誠館 館長 稲葉稔氏 講演記録 4

鉄舟の本格的な剣術修行は明治に入ってからです。剣術が時代遅れになってしまってからでした。
柔道の嘉納治五郎は、学生時代に柔術をやって、体にいいと、柔術をやっていましたが、下火になって、やる人がいなくなりました。彼はもっと教えてもらって、残したいものだと考え、柔術では古いからと、柔道と名前を変えて、スポーツ化しました。また、文部省の官僚だったので、学校教育に柔道を取り入れて柔道師範が多くなりました。

そういう時代の中で、鉄舟は、明治維新前、一刀流の達人浅利又七郎に負けたのがきっかけで、すさまじい執念での剣術修行に励む。そして20年刻苦精励して、明治14年ごろ、無刀流を編み出しました。


無刀流について
鉄舟は(小野派)一刀流を学んだのに、なぜ無刀流なのでしょうか?「一」と「無」はどういう関係があるか、一刀流とは何か、どうして無刀流というのかについて少しお話したいと思います。

無刀流については、文献も残っています。お配りした資料『日本武人の武道論資料編』の127ページには、無刀流の説明があります。

無刀流剣術は、勝負を争わず、心を澄し、胆を練り、自然の理を得るを要す。事は技なり、理は心なり、事理一致の場に至る、是を妙処と為す。
無刀とは何ぞや、心の外に刀なきなり、敵と相対する時、刀に依らずして心を以って心を打つ、是を無刀と謂う。

刀に依らずして、相手の心を見て、その心を打つこと、そこに行き着きます。刀を毎日毎日修練し、刀と刀で切りあうのも、戦いですが、技を使う中でその刀が自分の体に入り、心の中に入って一体化すると、相手の刀、体、その奥の心をみて、その心の悪いところを切ります。つまり心を持って心を打つ。これは相当修練しないとそうは出来ません。


日本文化の「一」、一刀流で云う、「一」の考えかた
「無刀」で云う、無とは何か。無の概念は数学でいうと、インドにあった考え方といわれています。インドにはゼロの概念があります。そこから「一」が出てきて、ニ、三となって行きます。日本では、柔道で技を決めると1本、剣道でも、1本と「一」です。自然体の無の状態から一にするといって良いでしょう。
 体としては一とするのは難しく、修練しないとタイミング良く一つになりません。無の状態の体から一つの命題を与えると、それを頭で考えるようになってきて、ある時必要な回答が「1」となってでてきます。これが一刀流という考え方ではないか。

剣道でも自分の身を守りながら、相手の隙が見えたときに、体を一剣にして打ち込むのが一刀流です。これは修練しないと、心と体と剣がばらばらになって出来ません。敵を前にしてまず無の状態にして、時期を得て一にする修練をします。他の「一」にしていると、別の「一」が出てきた時は、それを無に返して、新たな「一」にしなくてはならず、遅れてしまうからです。 鹿島神流は無構えになります。人間は、敵を意識すると硬くなるので、敵に対して守るものなし、何もこだわらない、前も後ろも何もない、構えを無しにします。相手に勝手に打たせて、「ここ!」というところが、見えたら、それに対して「一」と出て行きます。これが実際にできるかというと何年もかけて稽古しないとできませんが。どうしたら自在に「一」にすることが出来るかというと、無の状態にするから、「一」に集中できるのです。
無といっても最初に形があります。宮本武蔵は「構えありて構えなし(有構無構)」と言っています。構えはあるが、形なし、形はあるけど、構えはない、という意味ですが、禅問答のようになってしまいますので、説明すればするほど難しくなります。

 江戸中期頃から一刀流が広がって行きます。室町末から江戸初期は鹿島の一之太刀が出います。鹿島というのは鹿島神宮という神社があって、タケミカヅチノカミという最強の武の神様が祀られています。武道を修行する人は、この神様に祈願して一流を編み出しています。

投稿者 Master : 14:18 | コメント (0)

6月明治神宮 至誠館 館長 稲葉稔氏 講演記録 3

鉄舟の武士道論について
講義するというのではなく、このように考えているというお話をします。

鉄舟の武士道論は20代の頃の武士道論があります。明治維新のときは、尊王攘夷の精神は明らかですが、いかに実行するか、何をしたらいいかの考えについては大変革の中で明らかでなく、悶々としていた時代のように思います。

官軍側に対して一意恭順することを徳川慶喜が決めます。幕府には海軍力もありましたし、徳川が反旗を翻して、静岡に大砲を持っていき戦えば官軍側を分断することはできたかもしれない状況でした。
しかしここで戦いを始め、長くなり外国の勢力が入ってくれば、清国のように植民地化されてしまいます。それを避けんがために維新を行っているのに、国力が分裂して植民地化されては意味がありません。
しかし最高責任者である徳川慶喜は、この思いを官軍側に徹底することができません。いろいろのルートを通じて官軍側に使いを出すが、生半可な使者は、その使命を果たすことが出来ませんでした。

慶喜は江戸城を離れ、謹慎します。慶喜についていたのは、槍の名人であった高橋泥舟です。官軍に恭順の意思を伝えたいので、泥舟に交渉に行ってくれといいます。 しかし他の人々は恭順論に反対で、慶喜奪還を狙い恭順を抑えている状態です。泥舟がそばにいるから慶喜を人質にできないのであって、もし慶喜が恭順の意思のない徳川側に拉致されてしまえば、慶喜を祭り上げて戦争が始まります。 泥舟を交渉に行かせれば、自分が危なくなる、でも使者が必要であることを泥舟に相談したら、弟の鉄舟なら使命を果たしうるだろうと進言します。慶喜は、“それならば、泥舟お前から鉄舟に使者に行くよう頼んでくれ”と泥舟に言います。しかし泥舟は、“殿様の命令を伝えるならば、あなた自身が鉄舟に直接に命令して、行かせないと恭順の意は通じない”と諫言します。ここは大事なところです。そこで、慶喜は鉄舟を呼び、鉄舟に直接に話をすることになります。

慶喜が恭順の意を伝えるための使者になってくれと頼むと、鉄舟はその使命の重さに「心身共に砕くる」思いをするが、その動揺を顔に出さず、逆に将軍の恭順の真意を確かめる挙に出る。
“それは本気か?”と問い返します。殿様である慶喜に一幕臣の鉄舟が問う。このように2人で真剣にやりあう中で、鉄舟のその責任は死より重い覚悟が固まります。
ただ単に家来だから殿様の言うことを聞くだけではありません。直接に心と心のぶつかりあいの中で、使者としての心が出来上がるのです。これで鉄舟が使者になり西郷隆盛との談判の舞台が出来てきます。

そうした舞台が整っていくには、いろんな人たちが関わっていますが、その中で最も重要なのは、当時の皇女和宮で素晴らしい働きをします。皇女和宮は孝明天皇の妹で徳川家茂に嫁ぎます。最初は、この人が徳川に行ったことは、皇室と徳川が合体したほうが日本は強くなるという公武合体論が盛んだったときでした。その後、安政の大獄で吉田松陰が暗殺され、門弟筋が長州を倒幕でまとめると流れが変わり今度は「倒幕」の力が強くなって行きました。 
公武合体の勢力が弱くなり、倒幕の勢力が強くなると、徳川に嫁いだ皇女和宮の存在は公武合体の犠牲者という形になります。倒幕のための朝廷軍が追って来て、征討軍参謀の西郷隆盛らが江戸まで攻めようと静岡まで来ます。
ここで外国の王室・王女であれば他国へ逃げてしまうところですが、和宮は板ばさみで悩み苦しみますが、徳川に嫁いだものとして、もし戦いとなれば、徳川と共に倒れるしかないと覚悟を決め、官軍にその旨を伝えます。
官軍側は何とか和宮だけを無事に江戸城から引き出せないか、ということが悩みの種でした。徳川を全て倒そうとした決断が、和宮だけは助け出したいとの思いから、その間に隙が出来ました。その隙に鉄舟が一騎当千の気概を持って間髪を入れず入り込んで、交渉・判断する余地が出来た。このような舞台裏があります。
この辺のやりとりは興味つきないところですが、この辺でやめて、剣豪の修行者としての鉄舟に移ります。

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6月明治神宮 至誠館 館長 稲葉稔氏 講演記録 2

昭和30年代憲法改正の気運が盛り上がりましたが、国内の政治情勢から変えられないことがはっきりしました。政党は自民党と社会党が割れているし、野党はソ連や中国がバックで強い力を持っていました。到底保守だけでは憲法を変えることはできないので、それで憲法を運用する・解釈する方法を工夫することで事態を乗り越えてきました。

今の国内外の状況は、それでは立ち行かなくなってきたのと同時に超大国アメリカの日本に対する要求が変わってきたという国際政治の変化のためです。イギリスと同様に、日本もアメリカの同盟国として強くしたいという意図から日本国への憲法改正が動き始めたのです。

本当の意味で、日本人の意識が高まって改正の気運が盛り上がったとはいえません。日本人の意識が高まって改正されるのであればまだ健全ですが、はっきりいうと、アメリカとその意向を受けた自民党が変えようとしています。アメリカから憲法9条を変えてくれといわれているから改正するという動機です。もちろんその根底には、日本民族の改憲の悲願はあると思います。それに乗るべきか、乗るべきではないのかを健全で独立した精神気概で考えなければなりません。
このように憲法が今まさに変わらんとしている時代です。憲法改正に着手し、少しでも動き始めると、一気に変わってしまう状況といえるでしょう。ですからその心の準備を整えておかねばなりません。
 国際情勢は、ここ3~5年で大きく変わるでしょう。国民投票法ができて3年後に提案可能となりますから雪だるまが転げ落ちて行くように大きく日本が変わっていくようにも思います。
アメリカは軍事大国ですが、アフガニスタン、イラクなどが内乱状態に入り込み、抜け出られない状態です。そちらに足を引っ張られている間にアメリカの状況を北朝鮮が見透かして、核ミサイル保有を進めています。この状態の中で、日本人はどうするか。危機は差し迫ってきています。そんな大きな流れがあります。
民族の直感として歴史上いくつかの危機をのりきった武士道の力を求めているようですが、国際情勢下、日本はどうなっているか、どうすべきか、そういう冷徹なる情勢認識がないとなりません。
知ること、学ぶことはもちろんそうですが、日本人としての、国家としての大きな方向性(目標)を掴まなくてはならないのですが、今はありません。「美しい国にしたい」それだけです。何が美しい国なのかのヴィジョンもありません。美しいとは何か、理念を持てば、方向性が決まり、何をするか、目標を立てられます。目標を立てれば、それを達成する気概というのは目的に応じて、大きくもなるし、小さくもなります。そして目的に向かう力を養い、技を磨くことにもなります。
日本人は、技術力や資金力は持っています。ただ体力や気力が衰えていますし、忍耐力もなくなっていることは心配です。これを養成しなくてはなりません。

広義の意味での武道は、国家全体の安全保障を考えなければなりません。狭い意味での武道なら、一人の敵を考えれば良いけれど、今は広い意味でも考えなければなりません。小さな技であっても、志という思いが根底にないとうまく使えません。心が決まるから、これを実行できる。そのための気概が必要だから気力が養われてきて、それに必要な技術が身についてくるわけです。

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6月明治神宮 至誠館 館長 稲葉稔氏 講演記録 1

■明治神宮 至誠館 館長 稲葉稔氏
「鉄舟の武士道」

 鉄舟の研究会なので、武士道についてお話しさせていただこうと思います。
今書店などで流行っているのは、新渡戸稲造の武士道論で、これしかないようですけれど、他にもありまして、戦前は武士道全書というものが14、5巻出ておりました。明治20年に語られている山岡鉄舟の武士道論は、わかりやすくて、武道に武士道的生き方を求める自分の心に共通するものを感じます。

戦後の日本
 日本の負の歴史を日本人は克服していません。私は昭和19年生まれですから、天皇、神道というものを学校で教わらない、近現代史も学校では教わっておりません。今の日本人は、自分の国の近現代史を知らず、戦争を起こした犯罪国と教えられてきているため、自分の国に自信が持てていません。戦後の教育が悪かったことは、はっきりしています。
 こうした状況の中で、それらの弊害を一掃する“解決策”として、武士道が求められています。しかし武士道は言行一致を重んじますので軽々に論ずるわけにはいかない性格のものです。言行を一致させることは知性と勇気が要ります。一致させないといけないと思うと、言ったことを行動に移さないとならないから、一致させるためには、おしゃべりを慎み、黙って実践の機を窺うことになります。自分で実践しようと思っていない人、評論家たちは、武士道論について、あれこれといいますけれど、そういうわけにはいきません。

 神社にお参りするという意味を教えなくてはと思います。お参りする意味は、御祭神の心を知る、ということが根本です。御祭神が、どういう事蹟をお持ちか、どういうお心持ちだったのか。何をなさったのか、結果としてどうなったのかを考えます。
 お参りをするときは、現在直面している問題に対して、御祭神のお立場になって考え、御祭神ならどう思うか、御祭神ならどうされるかを自分自身で考え、対話を行い、自分はこう思うが、いかがでしょうか?と、柏手を打つことは、御神霊をお呼びして、ご説明して「宜しいか、だめか」を教えていただくことです。これがお参りです。

 明治神宮ができたのは90年ほど前のことですが、これほど大がかりに天皇様をお参りする神社はできていませんでした。こんな大掛かりの神社が作られたことはありませんでした。熱心な神道家の方たちのほうが反対されたと聞いていますし、創建されてからは、そうした方々の崇敬が篤かったと聞いています。
 歴代の天皇様は、天照大神様と直接的な信仰に基づいています。大神様の声をお聞きする一方、国民の声も聞いて、それを政治に反映させて、国民を指導していきます。これが祭政一致で、祭りと政治が一致する、日本国の根幹の考え方です。

 戦後の現憲法は、天皇の存在を見えなくするものとなっています。国の統治の権限をなくし、財産を没収し、国民への影響力を制限し、まるで監獄に入れたような形にしているのが今の憲法です。ですから天皇を戴く日本国の体質にあっていません。戦争に負け占領されたから、このような憲法になってしまったのです。

 今、その憲法が改正されようとしています。大きな歴史的な転換点にさしかかっています。
 明治憲法は明治22年に公布されました。この憲法を作られるのに、どのくらいの時間がかかり、犠牲が生れたか。
 1853年にペリーが来航し、大騒ぎになって、1868年(明治元年)明治維新が起きて、新政府ができた。できたけれどもこれではいけないと西郷隆盛らが第2の維新ともいえる西南の役が起こりました。内乱は西郷軍の敗北となりましたけれども、西郷隆盛の精神を継ぐ民権運動が活発になり、国会の開設が約束され、明治憲法ができました。新政府と在野の人々の思想が入ってひとつになった憲法といえるものです。
 国家としての意志が決まり、体制がしっかりしたから、明治20年代、30年代の日清戦争、日露戦争が戦えました。明治天皇がお亡くなりになって、大正に入り第一次世界大戦が起こります。昭和で迷走しました。

 なぜ、こうした戦争が起こったのかを考えないし、どこが悪かったのか、どうすべきかを考えないままに、今度は大東亜戦争までに突入し、未曽有の敗戦を期し、占領され、東京裁判をやられて、日本国が悪い悪いと教育された。戦後の日本人は自信がなくなり、自主独立できなくなって60年経ちました。これが2、3年ではなく、2世代、3世代、続いていることが問題です。国防は日米安保条約で米国に任せて、自分たちが責任を持たなくてもいいようになっていました。このような状態が続いて国民は何をどうしていいか、どうなっているのかわからなくなっています。

 明治憲法の歴史をみると、今よりも激動の時代です。薩長を中心にする官軍と幕府がぶつかり、かたやイギリス、かたやフランスが協力しています。明治維新は、財政が破綻し、外交ができなかったことが大きな原因です。
 内乱が続き日本が割れてしまっていたら日本は独立を失っていたでしょう。が、明治維新の志士たちが、維新を起こし、西南の役を起こして、憲法体制を整え、西欧列強と対し国威を発揚しました。それが明治時代です。
 その明治憲法は、第2次世界大戦の敗戦で終わって、占領されて、破壊されました。破壊されたのは良い悪いの問題ではなく、占領軍の絶対的軍事力によって押し付けられたものです。
 靖国神社には戦闘でなくなられた方230万人が祀られています。民間の犠牲となられた方と合わせると310万人という数にのぼります。それだけの犠牲を強いられて、出来たのが、現憲法なのです。

 

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2007年05月25日

5月例会記録(2)

■山本紀久雄氏

「鉄舟の結婚」

 大森曹玄さんの『山岡鉄舟』という本を読むと、大森さんは頭山満の長男である頭山立助さんを「今もって生きて会った人物中の第一人者と信じている」と言っている。その立助さんの親が頭山満である。中村天風の著書の中に出てくるが、外国からライオンが来て、その檻の前に人が行くと吼える。しかし、頭山満と中村天風が行くと猫のようにじゃれついてくる。そういうもの、人間として深い何かがある。人間の持っているものが違う。

 今、武士道が大流行。武士道を教育する会社ができた。幹部社員や店長に新渡戸稲造の武士道を教えている。悪くはないんですが、それについて東大の菅野教授が、裏を返せば今の日本人の主体性のなさを教えている。右に倣えで武士道を賛美することは、自らの信じる道を、武士道を築き上げた武士道の精神に反するという意見もある。藤原教授は、忘れ去られていた「恥」といった言葉に触れるだけでも前進、ということを読売新聞の一面に書いてある。

 5月1日にフランスでサルコジとロワイヤルが、大統領選のテレビ討論をした。話された内容は、失業率、外国人の移民の話、金持ちが外国に行ってしまう、治安問題、すべて国内問題に終始していた。
 グローバル化の時代にロワイヤルがその話題を出していた。当選したらサルコジがブッシュに電話して、「同盟国に恥をかかせるようなことはしない」と言った。イラク戦争の開始のときに、世界中の国の中で、フランスは「攻撃しない」と言った国の代表。アメリカに立ち向かった国。
 このとき日本もアメリカの追随じゃなくて、独自の外交政策を出すべきではないか、という質問が出た。安倍首相のブレーンである岡崎冬彦さんは「その気持ちはわかりますが、国益がまず大事。グローバル化しないと経済成長しない。」と言った。
 サルコジは当選したら、フランスは競争社会にしていくと言い、ロワイヤルの支持者が怒って暴動を起こしている。経済成長すれば税収が増える。

 トヨタの営業利益は2兆円で、日本国内の売り上げが落ちているので、外国で稼いで、日本に税金を納めてくれている。これがグローバル化でしょう。グローバル化が日本のフランスの経済成長のために必要なこと。世のため、人のため、にグローバル化するということ。
 国が成長しなくて、どうして一人一人の生活が豊かになるか、とサルコジは言っている。それに対してロワイヤルは国内問題に終始した。その違いです。
 ペリーが来て日米和親条約を結んで、その後佐倉藩の堀田正睦は、開国やむなしと日米通商条約を結んだ。日本が鎖国していては日本はやられてしまう、グローバル化しないといけない。堀田正睦は世界の情勢を知っていたのだ。

 日本の生きる道はグローバル化です。経済成長しないとだめ。今や日本はGDP一人当たり4位です。以前は二位だった。イギリスは「ゆりかごから墓場まで」という豊かな福祉政策を止め、競争社会に切り替えた。国全体を良くしたければ、経済成長です。そうすれば、若い人も年金を貰えます。日本全体が沈みこんだら、日本は消えていきます。

 健康倶楽部の例会があった。100名くらい来て立ち見席が出るくらいの盛況であった。美貌の哲学者池田晶子さんの話をした。池田さんは「人間は病気で死ぬのではありません。生まれたから死ぬのです」と言った。生まれたら死ぬに決まっている。だったら死ぬまでどう生きるかという人間の全体のはなし。そのためにどうするか。池田さんは考えることをしてほしい、といっている。上米良さんのお話にあった片岡鶴太郎さんが日々行ったことを話せるのは、片岡さんが考えているということ。

 スパゲティ・ボロネーゼ発祥の地、イタリアのボローニャに行きました。
通訳ができる人がたくさんいる町では、価格競争が始まる。ボローニャは通訳が一人しかいない。
 ボローニャはボローニャ国だった。世界最古の大学があって、旧市街はレンガ造り。歩道の上に全部屋根がついている。これを回廊という。1200年代から学生が住む家が少ないので歩道の上に柱を立てて、部屋をつくった。   
 全部の歩道40キロにわたってできている。90メートルとかの高さの塔がある。金持ちが作った塔で一時は200本のレンガの塔があった。戦争のときに、イタリアはアメリカ軍に攻撃を受けたが、街並みを復活させている。
 小さい機械会社がいっぱいある。日本は機械を輸入している。日本から、「輸入した機械が動かなくなった、壊れた」と連絡があり、ボローニャからメーカーの人がわざわざメンテナンスに行った。
 その会社に行って機械をみた瞬間「こいつら馬鹿か!」「こんな簡単なもの誰でもなおせる。日本人は考えないのか!」とボローニャの人が言ったという。日本人は考える力が落ちている。
 43年ぶりに全国一斉テストとして国語AB・算数ABをやった。Bテストは考える内容になっている。こんな授業はやっていないから生徒も先生も大変。A20分、B40分は記述式。文章にしなくてはならない。書くことは考えること。それが落ちているから文部省が始めた。

1.山岡静山の死

 静山さんはなぜなくなったか。心臓が悪かった。2つ説があり、徹底的に修行をしたためになくなったという説。知人が隅田川で水泳やる、その時にだまされて殺されそうだと聞き守るために行って、死んでしまったという説。
 いずれにしても心臓が持病だった。そこに無理した修行が命を縮めた。27歳という若い死だった。

2.蓮華寺の妖怪

 静山さんのお墓、蓮華寺に妖怪が出ると近所で言われて、夜中に鉄舟が行って確かめた。羽織・合羽(2説ある)を静山のお墓に掛けて、「鉄太郎が参りました、ご安心ください。」といった。静山は雷が嫌いだった。

3.鉄舟の山岡家相続・・・跡目相続、家督相続

 山岡家の家督相続をしないといけない。当時、誰でも鉄舟がいい、と思うでしょう。静山がもっとも敬愛していたのが、鉄舟。鉄舟も静山を敬愛していた。しかし、鉄舟が跡を継ぐのは難しい。
 家督相続と跡目相続の区別が必要。家督相続は主が存命中に相続すること。跡目相続とは主が死語に相続すること。従って鉄舟は家督相続。静山を継いだ信吉は跡目相続だった。信吉は口が利けなかったので、公務が出来ない。そこで信吉に代わる誰かが必要だった。

4.鉄舟が家督相続するための問題点
①家格の違い

 山岡家と小野家では家格の違いがある。鉄舟の小野家は600石の旗本。静山のところはお目見え以下、お目見え以上と以下の家は大きな違いがある。山岡家から、鉄舟に話を持っていけない。名門の小野家600石の跡取りを百俵2人扶持の家に来てくれとはいえない。来てもらいたくても武士ならそんなことはいえません。


②鉄舟の人柄
 鉄舟は気にしないから、頼んだとしたら引き受けてくれるから、それを知っているから、尚更いえない。武士の精神とはそういうもの。

5.問題点を打開した山岡英子の恋心
 この問題を打破したのは英子さんの恋心。あまた弟子のいる中で、英子さんは鉄舟を選んだ。16歳の一途な気持ちを言った。
 自分の家を自分の行動を自分で良くしていくということです。家格や鉄舟の人柄、家族の気持ちを考えていたら進まないわけです。英子さんは自分の思いをとげるために行動に移した。山岡家はこの人しかいない、という思い。それが見事に鉄舟を作り上げた。鉄舟が山岡家を継がなかったら、どうなったでしょうか。自分の環境は自分で作る。あきらめてはいけない。

 5月に泊まったパリのホテルは、部屋も小さいし、壁も薄い。旅行社にお願いしてお金を払ってしまった。このまま嫌な気持ちだと支払った2万6000円の価値が下がる。自分自身がもったいない。そこでドーフィンヌホテルはどんなホテルか調べた。
 パリ、シテ島の先端にドーフィンヌという広場があり、ポンヌフ橋がかかっている。アンリ四世の騎馬像がある。このドーフィンヌ広場の目の前のレストランの上に、かのイブ・モンタンが住んでいたことがわかった。
 パリで、大金持ちに取材しにいった。若い頃にドーフィンヌ広場に住んでいたという。イブ・モンタンも住んでいたんですよねと話すと、KENZOにも会った、と話が弾む。
 ホテルに戻りフロントに聞くと、インターネットは無線でできる。何時間やっても無料。ボローニャでインターネットをやったら1時間8ユーロ。パリは24時間無料。良いホテルだなぁと一瞬にしてドーフィンヌホテルは最高のホテルになった。

 自分で自分の付加価値を変える。有数の金持ち、ミッテランも住んでいたと聞き、良いところに泊まっているなぁ~なんて気分がよくなる。好意的に物事が目に映る。自分の工夫によって、価値観を変えていくことが大事。人生を楽しく生きる。
 今日も楽しい、明日も楽しい。楽しみは誰かが与えてくれていると思っていませんか?それはありません。何かあったら、環境は自分に与えられた条件、条件を整備するのは自分の内部にある。これは森田さんから教えてもらった
 情勢判断学の極意です。昨日はまずかった朝食も今朝は美味しい。

 問題を打開するのは自分。英子さんは本当に山岡家を残すためには適切な人に家督相続していく必要があるという気持ちで親に伝えた。

 サルコジと一緒で、フランスを良くしようと思ったら、アメリカと仲良くするしかない。いろいろ反対はありますが、グローバル化に踏み切った。
 日本大企業の3月好決算は、すべて外国で稼いでいる。そういう時代。その税金で生活している。グローバル化が当たり前。

6.家督相続するための前提条件・・・高山時代に江戸に戻っているか

 鉄舟の本をたくさん読むが、種本があるので、ほぼ同じことが書いてある。その中で疑問を持ちたい。
家督相続するには、鉄舟に何かなければだめ。誰でも侍同士結婚できるのか、というと幕府の法律で、義務教育がないとだめ。どこで義務教育するかというと、10歳くらいから家で儒教の勉強をして、11歳から手習い所に行った。
 関西は寺子屋、関東は手習い所、と言ったというのは、『半七捕物帳』を書いた岡本綺堂の本で知った。

 合格試験は昌平坂学問所で行われ、そこに13歳の武士の子は集められる。11月、朝4時から林図書頭の前で、一人ずつ「師のたまわく~」と試験を受け、合格した人は、聖堂に来なさいと連絡がある。落第した人は翌年も受けるが3回落第したら、武士ではない。養子の口にも掛からない。そのような制度があった。

 鉄舟の本を読むと高山に10歳で行って、17歳で江戸に戻って来た。7年間江戸に戻ってこなかったのか?義務教育を終了していないと養子にいけない。
 資料がないから、インターネットに書いてないから、わからないという人がいる。インターネットネットから移すのは簡単。その中の裏にあるものを探すのが研究です。鉄舟は江戸に剣の修行で戻った形跡がある、と書いてある本が1、2冊ある。記録がないから確証はない。家督相続の話をしたときに、幕府の教育制度を岡本綺堂の本を読んで思った。鉄舟は13歳で江戸に試験を受けに来ていると思う。誰も書いていないが、考えたら簡単なこと。鉄舟以外のことを調べればいいんです。江戸の旗本の教育はどうなっているか、13歳の11月に湯島の聖堂で試験がある。試験は高山では受けられない。それを考える。

 人間生まれたから死ぬんです。人生考えて生きましょう。そういうことを鉄舟から教えてもらっている。

 来月は明治神宮に行かせていただく。神道は仏教の前からあった。我々に染み付いている。それを明治神宮で感じることをしたほうがいいのではないかな。

【事務局の感想】
 「人間生まれたから死ぬんです。人生考えて生きましょう」
 鉄舟以外の勉強から、鉄舟を研究する。その結果が、今月は上記の言葉になりました。鉄舟の種本からとったほかの方々とは違う点が、山本さんの鉄舟研究も面白さであり、魅力であると思いますが、参加の皆様いかがでしょうか。

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5月例会記録(1)

■上米良 恭臣氏

明治神宮参拝資料
心得の事

1、正中を歩まぬ事 (特に正殿直線部)

2、手水の作法 (ハンカチ必携)

(柄杓一杯の水を左手、右手、左手に水を受けて口漱ぐ)

手水所役がいる場合は

(両手で手を洗い、左手に水を受け口漱ぎ、さらに両手を流す)

 3、修祓の作法

   無言。姿勢を正す。神職祝詞(祓詞)奏上時、ならびに幣祓時は低頭。

祓詞はお手元の神社本庁神拝詞の後ろから一頁目にあります。奉読します。

 4、夕御饌祭参列の作法

   無言。姿勢を正す。神職祝詞奏上時、起立低頭。

 5、正式参拝の作法 (玉串を奉りて拝礼)

   整列の後、代表者、玉串を受ける。(一同起立)

後取の差し出す玉串を、左手上向き、右手下向きにて、上、上と両手で執る。(片手取りは非礼)

玉串案前、1歩手前まで進む。一揖。

玉串を胸高に立て、両手で玉串の根元を執り、祈念する。

玉串の穂先を右へ回し、右手で中頃を下より受け、左手を添う。1歩を左足より進め右足を揃え、案上に玉串を奉る。

右足より1歩後退。二拝、二拍手、一拝。(一同これに合わせる)

代表者は右足より3歩ほど逆行。回転して正中をはずし、元の席に。一揖。

着席。(一同着席)

直会がある場合は代表者より順次、1拍手、盃を受く。退出。


かってないお願いをして、夕御饌祭に参列させてもらうことにしました。祝詞があげられますので、交手(さしゅ)15度の腰を折ることをしていただきたいと思います。


正式参拝の作法。

 玉串を奉りて拝礼、という作法がある。玉串は、榊に「紙垂(しで)」といいましてそれを結びます。白い紙です。和紙を折るんですね。刀で切れ目を入れまして折っていく。神主さんのお祭りで、紙垂を切ったりするのは重要なことであって、非常に手間もかかることなんですけれども。

 代表者1名がご神前まで進んで拝礼することになると思う。

(玉串の受け取り方を実演解説)

 玉串は、いただくほうが上上といただくようになります。


 神前に行きます。どちらの足から先でも結構です。神殿の1歩手前でお祈りをこめる。胸高=胸の高さ、これは重要な高さであって、清潔なものをいただくときは胸高、神饌を三宝で運ぶときは目通り=目の高さに合わせる。薦や案を用意するときは腰高に持って用意するとされています。

 胸高にいただく。両手で持って、玉串に祈りをこめる。

 神道は逆に回すことはない。時計まわりにまわして。

 (実演解説)

 一歩進んでお供えします。一歩下がって、お参りをする。何故1歩下がるかというと、机に頭があたっちゃうから。

 正中では進左退右(しんさたいゆう)という作法がある。足の問題。進むときには左足から、下がるときは右足から下がる。そういう決まりです。でも普通人では間違っても問題ないが、作法は知って欲しい。

 一歩ひいて、二拝(90度に腰を折る。手はひざの前に。頭を下げるのではありません。腰を90度に折ります)
 二拍手(拍手はまず両手を合わせる。右手を少し胸元に引き、両手を打つ。二拍手したら指先を揃える)
 拍手を参加者全員が合わせるのは難しいから「二拝、二拍手、一拝」のとき合わせやすいように、拍手のときに、代表者の人が肩幅よりも手を広くしてくれると非常に皆さんが合わせやすい。後ろからお参りしているので、見えるから。

 拍手の稽古もしてみてください。若干膨らませたほうが良い音が出ます。

 動作の始まりと終わりに「一揖(いちゆう)」5度くらいでいいので腰を折ってください。

 もし直会、お神酒をいただくときは、拍手を一拍してからいただく。これが本当の作法です。杯は胸高でいただく。

 真賢木(玉串)は根元を神様のほうに向けてお供えします。

 安倍総理が真賢木の鉢植えを靖国神社に奉納した。あれは故があることでして、『古事記』という書物の天岩戸の伝説のところに

天の香山の五百津真賢木を根許士爾許士て上枝に八尺の勾たまの五百津の御須麻流の玉を取り著け、中枝に八尺鏡を取り繋け、下枝に白丹寸手、青丹寸手を取り垂でて、此の種種の物は、布刀玉命、布刀御幣と取り持ちて

 真賢木にとりかけてお参りをしたという古来のはなしがある。「根許士爾許士て」根がついたままの榊をあげたのが始まり。その榊を手前に倒した形が神前の案上に乗せるときの作法になっております。

 「ねこじにこじて」これだけ覚えていただければありがたいですけれども。
ねこじにこじた榊を安倍さんは奉納したということは、その原点のところに帰っているのだということを感じていただければよろしいと思います。

 白丹寸手、青丹寸手(しろにぎて、あおにぎて)これは、綿布(めんふ)。白い色の綿布・青い色の綿布を榊に結び付けた。古事記の時代から、このようなお参りの方法はありました、ということです。これが紙垂の始まりです。

 お参りの方法はこのくらいにします。

 神社に生きる人々はこのように生きています。

敬神生活の綱領 (昭和31年5月23日:神社本庁設立十周年記念)

神道は天地悠久の大道であつて、崇高なる精神を培ひ、太平を開くの基である。神慮を畏み、祖訓をつぎ、いよいよ道の精華を発揮し、人類の福祉を増進するは、使命を達成する所以である。ここにこの綱領をかかげて、向ふところを明らかにし、実践につとめて、以て大道を宣揚することを期する。

一、神の恵みと祖先の恩とに感謝し、明き清きまことを以て祭祀にいそしむこと。

一、世のため人のために奉仕し、神のみこともちとして世をつくり固め成すこと。

一、大御心をいただきて、むつび和らぎ、国の隆昌と世界の共存共栄とを祈ること。

 「敬神生活の綱領」は、神主さんたちが集会のときには、みんなで唱和します。神社本庁ができたのが昭和21年で、10年後の昭和31年に神主さんたちもしっかりしようではないか、よって立つ考え方をつくろうじゃないかと、これができたわけです。

 ほとんど、解釈を入れなくてもわかっていただけることじゃないかと思います。私が一つひっかかったのは、「世のため人のため」という箇所。皆さんよく使いますよね。    

 前にTVをちょっと見ていましたら、この本(神社広報『まほろば』)の9ページに出ている片岡鶴太郎さんが親子でテレビに出ていて、子どもをぶん殴った時の話をしていました。
 片岡鶴太郎がなぜ子どもをぶん殴ったかは、使い終わったトイレットペーパーの芯をはずしてトイレに置きっぱなしだった。それが人のためにはならんと言ってぶん殴ったらしいですね。 
 後にも先にもそれ以外ぶん殴られた記憶はない、と子どもは言っています。

 片岡鶴太郎さんはマルチな才能を持っている。最後の行のところに「毎日、自分の中で魂との会話があって、一日を振り返ってのだめだしがあるんですよね。その反省を翌日につなげて、修正して、毎日この繰り返しが人生なんだとつくづく感じます」と書いている。

 先ほど言いました「世のため、人のために奉仕し、神のみこともちとして世をつくり固め成すこと」の「つくり固め成す」は、『古事記』なんかみますと、修理固成といって、世の中は変わっていくわけですから、神道というのは世の中を作り変えていく原動力といっていいわけです。作り変えてより強固な地盤の強いものにしていくのが神道。

 片岡鶴太郎さんが言った「人のためにならん。」このような普通に流れるような言葉にはこだわってほしい。鉄舟さんも「忠孝」に拘った。具体的には一体何なのか?

 会社でトイレットペーパーの残り芯が放置されていることも多いが、これを片付けることが人のためになるんだと具体的に捉えて、実行、考えていくべきだろうと思う。

 「世のための」世は、世は代々継いで行く。現世ばかりでなく、もっと包括された先祖からわれわれから、子孫の子ども、孫、ひ孫たち、そういうところまで含めた世の中に奉仕していこうじゃないか、というのがこの神道の精神ですね。それが表明されていると思います。
 
 ボーイスカウトの創始者の一人であった後藤新平が、ボーイスカウトの憲章に述べているのは、「人の世話にならぬよう、人の世話をするように、そして報いを求めぬように」ということを謳っていますよね。

 神道に関りなくとも、我々は世のため人のために尽くすのが当然でしょうが。ネ。

 最後になりますが、「神拝詞」は神社本庁で売っています。頭のほうから、大祓詞。特に神主さんたちが禊をするときに唱えます。6月と12月の大祓えのときには、このことばが述べられます。

 あとで声に出して唱えていただければいいと思います。

あまつみやごともちて あまつかなぎを もとうちきり すえうちたちて

  ちくらのおきくらに おきたらわして あまつすがそを もとかりたち 

すえかりきりて  やはりにとりさきて あまつのりとの ふとのりとごとをのれ

 で一息入れる。一呼吸して続いていく。

  かくのらば あまつかみは あめのいわとを おしひらきて あめのやえぐもを いづのちわきにちわきて きこしめさん くにつかみは たかやまのすえ 

 そのことだけ覚えておいていただければと思います。振り仮名も振ってありますので、唱和しながら、般若心経みたいなものですね。

 もうひとつだけついでに言っておきますけど、伊勢神宮の前少宮司を勤められた幡掛先生、私は私淑しているのですが、神主さんに揮毫するときは、「底」という字を贈られるみたいですね。神主さんたちは社会の底で生きろ、底が大切なんだよ、という意味か。あるいは世界宗教の底という意味かもしれません。

 お亡くなりになりましたけれど、幡掛正浩先生。非常に豪傑で、筑前玄洋社、頭山満の流れを汲む方で、「底」ということが肝心なので、この話をさせていただきました。


【事務局の感想】

 上米良さんにお願いをして、明治神宮の正式参拝が叶うことになりました。

 そして、今月の「心得の事」を勉強させていただき、6月の参拝に備えることになりました。一番肝心なのは、代表ですので、しっかり覚えて参拝をさせていただこうと思っております。このように作法をする機会は、めったにありませんので、してみると非常に美しく、気持ちも凛としてくるように思いました。がんばります。

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2007年04月27日

4月例会記録(2)

■山本紀久雄氏
山岡静山との出会い・・・その三


 二見さんは大変な方なので、何も申し上げることない。今いただいたアンマのパンフレットの後ろから2頁目にアンマが教育について書いている「教育には2種類あります。生きるための教育と、生きることの教育です」心を打ちますね。
 この鉄舟研究会は生きることの勉強会ですね。山岡鉄舟を勉強することは生きることの道を学ぶということ。二見さんの今のお話と通じる。

 二見さんが合気道や武士道を普及していますが、日本人はあちこちに行き普及活動をしている。フランスの女子柔道の柔道人口は日本より多い。人口は日本の半分なのに。柔道が強い天理教がヨーロッパ各地に柔道教育の拠点を作った。それがフランスの女子柔道を強くした。宗教の話ではなく、地域に広めた結果今のフランスの女子柔道がある。

1.静山に完敗し弟子入り。
 静山については、中村正直(敬宇)さんが『静山伝』を書いている。司馬遼太郎が『竜馬がゆく』を書いたが、どれも種本がある。静山についての本は、どれも中村さんが書いた短い小文を元にしている。中村さんは天保に生まれ、明治23年に亡くなっている。鉄舟が明治21年に亡くなっていますから、ほぼ鉄舟と同じ時代を生きた方。この方は昌平坂で佐藤一斎から儒学を学んで、幕末にイギリスに留学し、江戸幕府が終わったあと日本に帰り明治新政府の大蔵省に仕え、東大教授、元老院の議員・貴族院議員を歴任した。サミュエル・スマイルズの『自助論』、J.S.ミルの『自由之理』を翻訳しベストセラーになった。彼が『静山伝』を書いたので、静山のことを知ることができる。

 鉄舟が玄武館に行って、めきめきと腕を上げ、鉄舟に敵う人がいなくなると、鉄舟は鼻が高くなっていた。そこで井上清虎が鉄舟を静山先生のところに連れて行った。静山先生は門弟と立ち合わせた。
 ここまでは書いていないが、いろんなことから想像している。あるときは自分が静山に、あるときは鉄舟にならないと書けない。槍と剣の立ち合いについては困ったことに槍を持ってどう動くか想像しないと書けない。
 小さいとき、貸本屋が家の前にあった。子どものとき、その貸本屋入り浸って読んだ本は伝記本。真田、荒木又衛門、猿飛佐助、塚原卜伝、など昔の有名人を読んだ。武将の伝記物には戦いの場面が出てくるので、これを思い出して書いた。
 槍と刀だったら、槍のほうが長いわけですから、木刀持ってきても、物量でいうなら負ける。勝つなら、槍で突かれたら払うしかない。払って、もう一度槍を突っ込む間に木刀や竹刀で相手を打つしかない、と想像した。
 鉄舟は突きが得意なので、先方の門弟は負けた。鉄舟は「どうだ!強いだろう」という態度に出たのだと思う。
 先月「面影」という話をした。人はみな、人の顔をみて第一印象を受けるが、行動で人を見る。考えは顔に出ていない。行動はかくれた影(シャドウ)の部分。考え方をしっかりしないと表に出てくる。

 鉄舟は当然、まいった!といわせたわけですが、静山や清虎は一流の人間なので鉄舟の考えを見抜く。清虎が静山に「お願いします」と目で合図した。静山は「お見事!では私がお相手しましょう」という。鉄舟は喜ぶ。
 槍は真剣では倒れるから、先にタンポ(綿)をつけてある。
静山と対した鉄舟は攻め込もう、打ち込もうと思っても一歩も足が出ない。静山は5尺7寸(170センチ)、6尺2寸(185センチ)、体格はぜんぜん違う。しかし鉄舟から比べたら小さい静山の体が大きな岩のようになって、攻めてくる。じりじりと羽目板に追い詰められる。そのとき静山は穂先で誘い水をした。誘い水とわかっているが、後ろは羽目板だから誘い水に乗って打ち込むしかない。静山に掛かった瞬間空転して道場に倒れた。20貫(108キロ)の体重を生かして、静山に体当たりでぶつかろうと思った瞬間、また突かれて気を失わんばかり倒れた。鉄舟は「参りました!」となったわけです。
 今、想像の話をしています。

 静山はどうやって腕を磨いたか。22歳で幕府が新しく作った講武所の槍の師範になる。弟は山岡泥舟で「槍一本で伊勢守」といわれ、朝廷から従5位の位を貰った人。この2人は祖父から槍を学んだ。
 山岡家と高橋家は並んで建っていた。今度、文京区にある居宅跡に行ってみる。
 静山のお母さんのお父さん(高橋家)が二人の兄弟に槍を教えてくれた。
 刀心流、刃心流、中村先生は、刃心流は菅原道真が起こしたと言われている。

 ややこしいが、この時鉄太郎は小野家だった。この静山と泥舟の山岡兄弟は、下駄は歯が二つあるが、歯が一つだけの下駄を履かせられた。下駄の歯が36センチ(1尺2寸)という不安定な下駄を履かせて、義左衛門おじいさんは45センチメートル(1尺5寸)の扇型の槍みたいなものをもって、掛かってこい!といい、2人は交代に掛かって行き、倒れるまで払われ続ける。目が飛んで、吐くくらい、ふらふらになるまでやった。
 その後、静山は9キロ(15斤)の槍を持って、1日1000回槍をつく。それを30日間連続する。道場ができたら、昼間に門弟に稽古をつけたあと、午前2時になると起きて、荒縄で腹を縛って、真冬だったら氷を割って、水を何杯も体に掛けて3000~5000回槍の稽古をした。
 そういうことをした結果、山岡静山は、日本でも無双の槍の名人として名が立ち、幕府に認められて、お城にお勤めに上がった。山岡家は貧乏だがお勤めしたから給料を貰って生活をした。

 3000~5000回は本当か?中村正直先生の『静山伝』にあるから、どの本でも引用している。事実の検証をしたいと思った。けど検証のしようがない。
 横綱大鵬に会った。現在は相撲博物館館長をしており、双葉山、若乃花、大鵬、と昭和を代表する3大名横綱のお一人で、歴代優勝47回。
 しかし彼は、世間では私のことを天才という、昔から体が大きく、運動神経がすばらしく、力も強かったから順調に横綱になったのでしょう、と言われる。ライバルの柏戸は天才だった。柏戸は山形県の農家のぼんぼん育ちで体格が良く、相撲勘が良かった。大鵬は学校を出て営林署で勤務して、17歳で体が大きいからと入門した。お父さんはロシア人で、お母さんはロシア人と結婚したから北海道の実家にも帰れず苦労した。相撲界に居ればご飯が食べられるから居た。
 親方から、大鵬は中々好いと、エリート教育のしごきがはじまった。瀧見山が専門コーチになって、稽古では、土俵で捕まえては投げつけられる。気を失うと塩を口に入れられる。何度も繰り返しているうちに塩が鼻に入り蓄膿症になり、手術したという。へとへとになったあと、毎日四股を500回。四股は、足を上げるので全身運動。土に向かって、自分の足を下ろすのは、土は神、神と接する意味があるという。
 四股が終わったら、鉄砲といって柱に向かってつく練習を2000回。毎日しごきを受けたあと、500回の四股と2000回の鉄砲、それからご飯になるが、食事は胃には入らない。食べられないと胃を麻痺させるため、日本酒を飲まされる。その後どんぶり飯を食べさせられる。

 山岡静山が1日3000回槍をついたという話と、大鵬の四股500回と鉄砲2000回、はどうなのか?今の力士はそんな練習をやっている人は誰もおらず、野球選手と一緒にトレーニングしている人もいるという。相撲の筋肉は押す力で、押す力をつけるためのトレーニングが鉄砲。大鵬が経験した練習は今誰もやっていない。昭和に入って大鵬が一番やったといってよいのではないか。大鵬と静山の練習は、どっちが凄いと思いますか?事実としたら静山の方が凄いですね。

 しかし、これは回数の問題ではなく、何かのときに熱中した期間が必要ということ。ひとつのことに夢中になった時期が人生になければ、次の人生は転換ができない。

 鉄舟は、春風館道場の誓願 「一死を掛けて稽古す」は師匠の静山からヒントを得ていると思います。大鵬がそれほどの稽古をして大横綱になり、それを上回る稽古をしたのが静山。泥舟は静山の弟だが、10メートル離れた米俵を上げたという。二見さんのお話の人知を超えたものがあると思う。

2.坂本竜馬が海舟に弟子入りしたとの違い。

 鉄舟は上には上が居ると静山に弟子入りさせてもらったが、それから六ヶ月くらいで静山はなくなった。
 龍馬は勝海舟に弟子入りした。弟子入りするいきさつがその人を表す。龍馬は勝海舟を殺そうとして、元氷川町の家にいった。殺そうと思ったら勝海舟が地球儀を広げて、日本はここだ、小さい、イギリスも小さい、しかしイギリスは世界を征服している。日本国を世界に持っていかなくてはならないと、とうとうと説いた。弟子にしてください!と竜馬は勝海舟の弟子になった。龍馬は智の人だったから大政奉還などができた。

3.鉄舟は天性の素質があった。
 鉄舟は剣に対する素質があった。遡ると、伊藤一刀斎の高弟小野次郎右衛門忠明、小野一刀流の開祖は神子上典膳、この小野一刀流から剣を学んでいる。
 その流れが鉄太郎まで来ている。父・朝右衛門も好きだったから、陣立てをやって、幕府から疑われて自刃したいきさつもあるくらい武術の人、お母さんの磯さんは塚原家、塚原卜伝の家系。両親ともに剣の家系だから剣のセンスがあった。
 素質を伸ばすことが大事。学校は生きるための教育をしてくれる。生きることの勉強は、嫌いなことを一生懸命にしてもだめ、好きなこと、得意なこと、自分の中の才能を見つけるために生きる。

4.静山は槍術の師、何故に槍術を受け継がなかったのか。

 鉄舟は槍の師匠である静山に心服し、静山に弟子入りした。静山は槍を教える。なぜ山岡家に落ち着いたのに、鉄舟はなぜ槍ではなく剣なのか? 鉄舟は自分ということを知った。槍より剣のほうがやりやすい、と思った。
 日ごろの自分観察も大事で、槍も研究したけれど、静山からも剣の方が宜しいのではないかとアドバイスもあったと思う。
 自分が何に向いているか、自分で自分を客観的に見て、向いていることを自分で見つけないといけない。しゃべっている私を見ている私がいるから考えながらしゃべれる。見つめているもう一人の自分がいる。この関係を持つことは、子どもの教育も、夫婦喧嘩も同じこと。これがコントロール。
鉄舟もやっている自分を見つめる自分が居るので、自分をコントロールできる。頭で理解していても自分で体験して身に着けておかないとできない。

 人前で話すと緊張してしまうが、緊張しない自分を持つ。コントロールできる自分を持つことも大事。ひとつのことを10年間続ければ物になる、目先にいろいろ出てくるのは無駄道なので、自分に合ったものを見つけて10年間やればプロになれる。
 1日3000回の素振りはできないが、自分の修行のリズムを作り上げてきているので、体に無理なく楽しんで、できる。この中に自分の道筋があって続けることが宜しいのではないか。

5.鉄舟は六尺を超え、二十八貫を超す巨躯、鍛えぬいた筋肉質の体。

 鉄舟は108キロ180数センチあった。剣で鍛えた。裸になったら筋肉が凄い。

6.当時の一般武士の体と大衆層の体比較・・・逝きし世の面影「渡辺京二」

 当時武士はどのような体をしていたか、客観的事実が羅列してある『逝きし世の面影』(渡辺京三著)に書いてある。
 日本に来た外国人がほとんどの人が共通して言っているのが、上流階級の体格が貧弱であるが、肉体労働者の体は、なんと、ギリシャ彫刻のような素晴らしい肉体美をしている。たくましい男性美を黄金時代のギリシャ彫刻を理解しようとするなら、夏に日本を旅行する者があると言っている。
 なんて調和の取れたからだの線をしているのかと、日本人の体を絶賛している。
 上層と下層とでは、著しく肉体上の違いがあり、上流階級の男性は痩せて病弱だが、下層階級は背が高く筋肉が発達しており強壮で、衣服と体つき美しさの点で上流階級をしのいでいる。しかし、注意しておきたいのは、この意外な記述が見られるのは、幕末から明治初期に限られる。それ以後はだめで、欧米人は、男の容貌や肉体について醜いと述べている。

7.鉄舟研究は長年の疑問について解明してくれる。犬の散歩と鼻をかむ。

 犬を飼っているが、言うことを聞かない。
 フランスに行くと、犬はホテルのフロントでもエレベータでもレストランでも主人にコントロールされておとなしく座っている。
 日本では人間が犬の歩く方向に歩く。その原因は訓練が悪いという人もいる。日本の犬は一般的にはお犬様、わがまま放題に育っている。
 日本は江戸時代がからそうだった。欧米人が日本に来て驚いたのは、そこらじゅう犬だらけ。邪魔だからと犬に石を投げても犬は逃げない。石を投げられたことがないのではないか?
 日本人は、日本人の中に昔から伝わる「草・木・国土、ことごとく皆仏」という考えがある。
 宣教師ブラウンは、文久3年薩英戦争の頃、新約聖書が訳されて日本人に教えに来た。
“人間は神の最高の目的たる被造物だ”人間が一番偉い、という文章に出会った日本人は、地上の木や動物より人間が優れているとは何たることだ!と驚いた。ねずみ、ねこ、へび、ムカデ、牛、豚、も共に住むもの同士。肉食しなかったのもそういうことある。
 ヨーロッパは犬を調教し、自分の支配下に置いてコントロールさせるが、日本は、犬と私はお友達という考え。 
 ますます犬も猫も調教はしません。

 フランス人と会議していると男女ともにハンカチを出して大きな音で鼻をかむ。
 紙の量が江戸時代は豊かだったので、日用品として安かった。ヨーロッパは紙が貴重品だから、ハンカチで鼻をかむ。
 鉄舟を研究して、何十年と疑問が解明した。そういう効果もある。

【事務局の感想】
現場での確認、現場からの報告を旨とされている山本さんの鉄舟研究ですが、今回は大鵬さんとのお話から、鉄舟の修行の凄さ、本物度合いと確実のものとしてくださいました。
そして疑問に感じられたことをずっと考え続けることもされていますが、4月の話では、欧米人のハンカチで鼻をかむということの理由が解明されたことが発表されました。
毎回我々にとっては驚きの連続ですが、それにより、楽しく興味深く鉄舟を知ることができます。これからも新しい発見を楽しみにしています。


以上

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4月例会記録(1)

■春風 主幹    二見健吉氏

** 南インド訪問体験記 と アンマ**
2006.2.27- 3.9
                             
 なぜ南インドに行ったのか、あるいはどのようなことを感じたのか、テーマである鉄舟との関係についてお話しさせていただきたい。


 2月3日英字新聞のジャパンタイムズに南インドに行った経緯について掲載された。定年退職してボランティアをやってもらうにはどうしたらいいのか、今年インドと日本との文化協定締結50周年に当る2007年を「日印交流年」とする区切りの年でもあることが、掲載された理由のようです。
アンマについては、「世界中を抱きしめる~平和と調和のために」というパンフレットをお配りしたので後ほど説明します。ガンジーさんやキング牧師をそういう方を合わせた賞が国連にあり、アンマは表彰されている。
 インドの端・南インドに去年2月にお伺いしたとき、コーチンや地震の津波の被害のあったところなどを10日間くらい掛けてお伺いした。11年前にシンガポールに赴任していたときに、インドに行かないかと友人に誘われてお伺いした。そのときにスピリチュアルなアンマやサイババにお会いしないか、ということでインドに伺った。

南インドに訪問するまでの縁
  一昨年9月に十数年来の心友である元TDK社員 池谷啓さんと4年振りに全く偶然に出会い、
 「南インドに合気道を教えに行かないか!」と誘われた。合気道だけの紹介だけだったら他に適任者が大勢おられるので断る考えでいたが「日本の文化を伝えてほしい」といわれて、日本の文化なら!と伺うことを決めた。日本の文化、山岡鉄舟とその心をもった武士道を伝えるためなら、と仕事の忙しい時期の谷間に11年ぶりにインドに行くことができた。
 シャンタジ様=国際チャリティ協会アムリタハート(アンマの日本支部)の責任者との縁も伺うきっかけになった。アンマは、抱きしめることでその人の気持ちをほぐし、活力を与える。宗教を乗り越えたもの。

合気道の紹介
 コーチンにあるアムリタ工科大学を訪問する。ここは、大学と看護学校と小学校と寺院がある。畳のある道場がないので、大学の中庭の芝生が演武場所となる。芝生に、石や堅い場所がないか事前確認をする。
 武士道の簡単な紹介と合気道の説明を加えながら、二時間実演する。見学者200人。 
(ほかコーチン医科大学  見学者100人 コインバトール工科大学・経営大学  見学者100人。)
合気道は南インドにはない。どちらかというと戦う武道である空手や少林寺拳法が多い。合気道は和の武道で相手が来たら、どう対応するかという武道である。
   合気道の概念の説明   ○Self defense Marshal art    
                   ◎Peaceful Marshal art 
 千羽鶴の手渡しと義援金
  スマトラ沖地震の津波被害の地域へ慰問に行くことになった。被災地ナーガパッティナムの小学校を訪問した際千羽鶴を手渡すことができた。一緒に、折紙教室を開き、カースト以下の不可触民の部落にも訪れて、折紙を紹介した。
  義援金を講演会で集めるようと、「現代に生きる武士道」の講話を行って、講演会のチャリティ分と自分のお金を合わせて、日本のお金で1万円を持って伺った。

 被災地でのボランティア活動
インド タミルナーヅゥ州 ナーガパッティナム地区。日本の学生が100名国際ボランティア協会の呼びかけに応じて住宅建設プロジェクトに2月下旬から参加されていた。ブロックを積み上げていく住宅建設にも関わった。
ここでは、アンマが、スマトラ沖地震の被災地救援と復興活動として、家屋再建やボート等の生業支援、医療救援に向けて、24億円かけていることの意義と成果がひしひしと感じられた。

合気道も3箇所で教えさせていただくことになった。インドに行って、鉄舟と西郷隆盛の武士道の精神、そのエッセンスは伝えることはできたかな、と思った。そうしたら「また来ていただけますね」と言われた。

私のミッションは「国づくり、人づくり」で、鉄舟も想いも「国づくり、人づくり」だと思う。
 アンマのパンフレットを無理してもらってきた。1953年生まれ、世界各国に行き、抱きしめることにより人の心を豊かにする・活力を与える活動をしている。国連でもスピーチをしている。インドでは大統領が表敬訪問したりしている。
 災害救援活動もあちこちで行っている。津波が来ることをアンマは予知した。この地区に限っては人を建物に非難させ、そのあと動物たちも避難させ、被害を食い止めた。他の地域では被害があったので、人道的援助した。クリントンが代表のNPOグループや病院にも寄付をされている。

南インドから帰国後の活動
 9月の下旬にはお釈迦様が説法された北インドから中インドに行った。
「仏国土をつくろう会」主催での仏跡巡りツアーとして参加した。
    場所  霊鷲山 ブッダガヤの大塔  ガンジス河  竹林精舎
     佐々井秀嶺師による 仏教改宗50年 世界仏教徒大会に参加
    (アンベードカル博士(インド憲法草案者 1891-1956)の遺志を継いで仏教復興に身命を)

 インドではカースト制がありますので、インドでは仏教徒が統計上は1%ですが、実際は1割くらいいるかと思う。その先頭に立って仏教改宗でインドを良くしようと活動している佐々井秀嶺師(今年73歳)にもお伺いした。インドから帰ってきてから、「仏教徒に仏教を教えることも大切だが、日本の文化合気道も教えてもらうことはできませんか」、と厚い手紙が来た。

 北インドと南インドの両方から声が掛かり、ひとつの体では両方にはいけませんから、5月末にアンマが日本に来られてからご相談しようかと思っている。うれしい悩みです。ご相談して、9月か10月にはいくことになっている。

アンマ来日プロジェクト  国際スピリチュアル&チャリティフェスティバル
 神戸会場 5月25日、26日 神戸サンボーホール  
 東京会場 5月28日、29日 味の素スタジアム
興味がありましたらどうぞ参加して下さい。日本には毎年来ておられる。

『烏雲物語』(ウユン)
 山形県の鶴岡市全40小学校に100冊寄贈に行きました。翌日、「寄贈ありがとう」と山形新聞に出た。今後10年間で300小学校に寄付することを目指している。
 鶴岡庄内に来たのでと、清河八郎の記念館などに伺った。入ったら、徳富蘇峰、頭山満の揮毫があった。恩師品川先生の先生である徳富蘇峰は当時一流のジャーナリストだった。また品川義介先生は、頭山満を尊敬されてかわいがってもらっていた。うれしくて感激しました。
今朝、鶴岡から帰ってきて直接こちらに来た。人に恩返しをすると自分に還ってくると実感しています。

インド十円日供
  一日十円(年間三千七百円)を奉納し、インド僻地医療・教育を支援する。
インドに行ったので、何とかしようと1日10円集める十円日供運動を個人で始めた。10円はわずかだけど、それを集めてインドに寄付することをやっている。今後も継続していきます。学校や病院とか、に使われている。アンマ・仏教のご縁、日本に花咲いた武士道を、合気道を通じて、インドに伝えることができたら非常に良い。私自身は山岡鉄舟の考えを実践に移して、インドへのご恩返しと夢の実現ができればといいと考えている。


  二見のミッション    「国づくり  人づくり」 
   具体的実践事項と目標値
    1「親子合気道教室」の普及           (新規 十年で100家族)
        「無心無構」  「稽古作徳」
    2「春風」誌を通じて、 「志」「徳」を伝える  (購読者 十年で200人増加)
    3「烏雲物語」寄贈と感想文募集活動       (十年で300小学校)
    4「心の仏教」実践   ①インド十円日供運動の普及  (十年で300人)
                ②写経 「延命十句観音経」の奉納    (十年で100人)
    5 日印文化交流(合気道 武士道)の橋渡し   3年間で目標値を明確にする。

【事務局の感想】
 退職されて、ますますご自身の活動を積極的にされていることが、想像をしていたことですが、やはり、という思いで今回の発表をお聞きしました。忙しい時間にも係わらず、望む方向に物事が進んでいくのは、それをするためにそのように開けて行くというように感じます。これからも
二見武士道の発展をお祈りしています。

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2007年04月06日

3月例会記録(2)

■山本紀久雄氏
「山岡静山との出会い・・・そのニ」

 われわれは明治以来、教育によって、頭の中を洗脳されたと思う。全国フォーラムで井上先生が紹介してくれた『逝きし世の面影』(渡辺京三氏著)を読むと、江戸時代は民主的で素晴らしい時代があった。日本人ではなく日本に来た外国からの著述を集めて実証した。客観的な評価から日本をあぶりだしてきた。明治の日本人は外国人にコンプレックスがなかった。現在コンプレックスがあるとしたら、それ以後の結果である。
 今に続く面白いことが出ており、ニコライ(ニコライ堂を作った人)が、日本人は非常に恵まれた状態なのに政府に文句を言う、そして言い分が口にできるというのが民主的であると言っている。江戸時代から政府に文句が言えた。封建的に抑えられていなかった。日本はそういう人種。

1.鉄舟の生き方から学ぶこと、それは生きるためのセオリー

 朝日新聞2月27日版に茨城大学助教授磯田道史さんが鉄舟の貧乏について書いている。貧乏は極に達した。山岡の家には柏の大木があった。あるとき柏餅屋が来て葉を売ってくれといった。奥さんは、売ることは武士だからできない。ただ餅に変えてもらって、子供に食べさせた。鉄舟が帰ってきて、奥さんが柏の葉を餅に変えたことを言うと、柏の大木を伐ってしまった。徹底的に山岡鉄舟は武士道を極めた。
 出典を磯田さんにお聞きしないとならないが、これはあることを示していると思う。我々はお金ないときはどうしますか?お金がないから、仕事をする。昔の武士たちでも武芸に励むのは立身出世のためで、立身すればお金が入ってくる。目的と方法があって、目的をお金にすると、方法は剣の腕を磨いて出世することになる。
 来年柏の葉が出れば餅になったのに、鉄舟は伐った。鉄舟の目的はお金ではない。お金がすぐに簡単にほしい、という人がいた。金は何かをするために必要なものでしょう。お金が目的だったら、お金を手にしたら死んでしまう。何のためのお金でしょうか。
 鉄舟の目的は何だったのでしょうか。鉄舟の目的が金だったら、柏の木を伐らないでしょう。お金がなかったら働いて、お金を握ったら、その先にある、目的に向かう。目標を明確にしたい。ここがぶれると方法論が狂ってしまう。

 ある会社に行ったら、ちょうど新入社員の入社式をしていた。社長は新入社員に目標を持ってやってほしいといった。
 目標はロマンだ、戦略だという人がたくさんいる。目標は簡単に持てる。目標を簡単に持つと簡単になくなる。挫折する。目的は簡単にできる。あまりにも大きい目的を持ちすぎると達成できない、達成できないと挫折するでしょう。挫折し続けると小さくなる。意外にここが難しい。
 目的がはっきりしない限り、方法論がはっきりしない。鉄舟は目的がはっきりしている。だから柏の木を伐ってしまう。子供が餅を欲しがっていても。ここが違う。
 新聞を見ても、鉄舟は貧乏したんだなぁ、と思っているだけではだめ。なぜ貧乏したか、鉄舟は腕が立つのだからアルバイトをすればいい。近藤勇は自分の道場に人が来ないから、剣ひとつもって家庭教師に歩いた。でなければ食べられない。
 鉄舟は絶対しない。目的のレベルが違う。目的の内容をどうするかです。

 前回までのお話はペリーが来航したとき、鉄舟は18歳だった。過去日本にはいろんな国が来たのに追い返していた。ペリーはその事実を知って追い返されないような戦略で来た。そのおかげで日本はペリーを陸上にあげてしまった。
 インターネットはなかったけれど、このことは日本中に知れ渡った。情報はインターネットがあるから知れ渡るのではなく、すごくショックなものは口こみですごく早く情報が知れ渡る。
 鉄舟は18歳の若者、鉄舟もペリーが来たことによって、日本はどうなるか、どうすべきか、と玄武館の道場連中や周りの人と議論をした。
 鉄舟は井上清虎の「日本中そうなのだから仕方ない。ペリーのことについて議論しているときなのか、おまえは」という一言で鉄舟は気がついた。
 アメリカの船が来てあちこち忙しいと鉄舟は高山に手紙を書いており、その手紙が残っている。しかし鉄舟は「はっ」と気がついて剣の修行に戻り、腕が上がった。腕が上がった結果、井上清虎もかなわないほどの腕になった。玄武館ではかなう人がいないほどの腕前になった。さすがの鉄太郎も驕慢な振る舞いが出てきた。そのときに井上清虎が出てきて、何をしたかはまた後の話になるわけです。

2.童謡「赤とんぼ」の故郷「竜野」

 今月はロンドンとパリに行き、そのあとまた仕事で兵庫県の相生に行きました。山陽本線で「相生駅」の隣駅が「竜野駅」で、ここは童謡「赤とんぼ」の街として有名。竜野に下車して1泊しました。日本の旅館はいいですね。夕食は部屋に運んでくれるし、食べ終わると布団を敷いてくれる。
 お城はあるし、一番気に入ったのは、城下町の町屋に残された雛人形を無料で公開している。ちょうど行ったその日から始まったお祭りで、普通の家に入り昔からあった明治・大正・昭和のお雛さまを見られる。私は古い家に入った、屋根の瓦は天保時代、鉄舟が生まれた時代、お雛様も江戸時代だった。
 こんなお祭りが日本で行われている。タクシーに乗って欧米人は来るか聞いたが、姫路城までで竜野までは来ないと言っていた。姫路からすぐそばです。
 「赤とんぼ」を作詞した三木露風の出身地で、毎年童謡コンクールがあります。町を歩く人はみんな親切です。

3.日本のイメージ「BBC調査結果」から考える

 日本は本当にいい。日本の人気は絶好調です。世界で一番の人気。
 3月5日にロンドンに行ったときにBBC(英国放送)が新聞に発表しました。27カ国・2万7000人に世界で最も好まれている国、嫌われている国はどこか、アンケートをとった。嫌われている国は戦争をする国、戦争を仕掛けている国で、イスラエル・イラン3位が北朝鮮。
 世界に最も良い影響を与えている国の1位が日本とカナダです。カナダは日本の27倍の土地を持っている、人口は4分の1です。自然環境にあふれている。行ってみたいと思うじゃないですか。香港の人たちが、中国に返還されるときお金もちはカナダに移住した。
 27カ国のうち2カ国だけは日本のことを怪しからんと言っている。中国と韓国。中国では日本に対して良い印象を持っていない人が63%います。しかし、イスラエルもイランもアメリカ、北朝鮮、インドも悪いという人もいる。
 韓国が一番嫌いな国は北朝鮮、イスラエル・イラン、その次が日本です。
 どこの国が一番日本に良い印象を持っているか、日経新聞には載っていないが、たまたまイギリスに居たのでわかった。日本に対する好感度が一番高い国はインドネシアで84%、2位カナダ・ケニヤ74%、4位フィリピン、チリ、アメリカ、ナイジェリア、ブラジル、イギリス、ギリシャ、そういう国が日本に好感度を持っているベスト10です。

 昔は日本の評判は最悪だったと思います。60・70年前、満州に進出する、中国と戦争する。インドシナに進出する、翻って真珠湾攻撃する、世界中に戦争を仕掛けた国。評判は変わります。今の評判がいいから昔がいいとは限らない、でもそのまた昔は良かった。日露戦争で驕慢になった日本を諌めるために新渡戸稲造は『武士道』を書いた。
 評価は変わる。戦後急速に経済成長した。バブルのとき、日本が世界中に土地を買い求めに出た。レストランに行っても一番高い店に行って、真ん中に座っていた。元気がいいので、どんどんお金を使っていた。どの世界もバブルが崩壊したが、日本だけが15年くらい長引いた。
 バブルが崩壊した結果、日本も普通の国だったのかと。それまでは戦争に負けて脅威の回復をして、世界の経済を征服するんじゃないかと思われていた。フランスの女性の大統領もヨーロッパ中日本製品であふれると警戒し、車の輸入を制限、アニメーションも50%に制限した。
 普通の国に戻ったときに改めて日本という国を普通の目でみられた。日本のマンガの良さに気が付き出した。読み出したら日本という国はこんな国なのか、ドラえもん、アルプスの少女ハイジ、こういうものをつくる国か、と見る目が変わった。これは推測ですが。

 ナポレオン1世は今ヨーロッパに行くと、“活躍した人物”程度の評価。
 1790年代は、ナポレオンは、イタリアに遠征、エジプトに遠征し、ドイツを破って、モスクワに行く、と世界中に戦争を仕掛け、このせいで200万人死んだ。200万人というとたいしたことがないように思うかもしれないが、人口は今の10分の1の時代で今の時代で言うと2000万人殺したことになる。極悪非道の罪悪人。戦争をどんどん仕掛けて、モスクワで負けて、ワーテルローで負けて、ざまみろと思われていた。

 60年くらいたって、1868年~1870年ごろ、フランス人のロッシュ公使が日本に来て、フランスが徳川に味方しますから、お金出しますから、薩長軍と戦争しなさい、北海道を担保に陸軍を出しますと言った。幕府は日本に居たフランス陸軍の協力を得て、東北で戦って、フランスの将校は、函館戦争にも参加した。 そういうときに、フランスがだめになった。プロシャと戦争して負けて、フランス領土だったところが取られて、フランスはしゅんとした。フランスの国力が落ちたわけですから、フランスは脅威ではない。軍事力は勝っているときは脅威だが、負けたら脅威ではない。軍事力が弱くなるとフランスに対して好意的な見方になってくる。ナポレオンは、王政を倒すために第一弾目にやってくれた人物だったと評価が変わる。

 温泉の専門家ですから、その頃、フランスの中に温泉ブームが起きた。それまでのフランスの金持ちはドイツのバーデンバーデンとかチェコの温泉に行った。負けた結果フランス国内でナショナリズムが起きて、外国の温泉には行くな、フランス国内で探そうと温泉開発ブームが起きた。
 フランスの作家モーパッサン(『女の一生」の著者)が『モントリオール』という本で温泉が舞台の小説を書いた。この本を見ると、今のヨーロッパの温泉は科学的だが、当時は男女が知り合う場所だったというのが延々と書いてある。
 ロシアの劇作家チェーホフ(『かもめ』『桜の園』の著者)『犬を連れた奥さん』は、幕末の作品で、モスクワの上品な奥さんが犬を連れて温泉に行き、そこに居た男とできて、帰った奥さんを男が追っかけてくる話。温泉はそういうイメージだった。

 今アメリカはどういう状況かというと、経済は順調、来年の11月には大統領選挙がある。候補者は決まっていない。候補者を決めるための、パーティをやって、ヒラリーさんは一晩で3億円くらい集めた。金がないと選挙はできない。大統領の予備選挙で一億ドルを使う。選挙本番では5億ドル、日本円で600億円かかる。
 NYの一番いいホテルで、一番いいシャンパンやワイン、料理をどんどん出す。政財界に私は元気だ!私が大統領候補に決まる!という勢いを見せたい。オバマは130万ドル集めた。クリントンやオバマ、ジュリアーニはそういうことをしている。
 民主党の党員でありながら政府の中に入っていけない人がいる。共和党が負けて民主党が勝ったとする。出た大統領は、共和党の幹部を全員排して、民主党の政権をつくる。上の役人がかわる。政権に食い込もうと思ったら、来年の11月に大統領が決まってから支持してもだめ。誰が当選するかわからないときに「あなたにかけます!」と言った人が登用される。1年10ヶ月前に大統領に誰がなるか、出世しようと思ったらそれが最大の関心事。人物を見抜かないとだめ。

 『逝きし世の面影』の「面=面・表・思い・目標・目的でもある」「影=シャドウ」
 人は顔では判断できない。顔を見たら、顔の奥にある影の部分、人は考え方・影が顔に出てくる。その人の行動を見て、行動の結果をみて、その人の人間性や考え方を判断する。
 鉄舟の本を読んで、鉄舟は貧乏だったとあるが、ではなぜ貧乏だったのか。腕は立つのだから、働けばいい。働かないから、子供も栄養不足で死んでしまった。行動を見ればなぜ貧乏だったかがわかる。
 クリントンをどうみるか、オバマ、ジュリアーニ、上院議員マケイン、誰をどう考えて、今そこに徹底的に投資するか、2008年に変わる。投資具合によって政権に入れるかが決まる。政権に入らないと自分の能力が出せない。経済、国防、をやりたいという思いを持っている人は、誰が大統領に当選するかを今からかける。間違ったらおしまい。行動というのは相手の行動を見て、自分の行動を決めていく。相手の行動を見て、相手を判断する。
 鉄舟の評価は変わらない。鉄舟が変わっていないから。日本、ナポレオンの評価は時代に寄って変わったが、鉄舟の評価は変わらない。鉄舟の読み方を変えていく

4.鉄舟は人を斬らなかったという「本当の理由」

 剣は何のために学んだか、剣を磨いて、人を切るために剣道の修行をしたわけではい。目的があった。
 幕末から明治に活躍した人物で、一度もきらなかった人に木戸孝允(桂小五郎)がいる。池田屋騒動で長州の人が殺されたときも偶然か逃げる。池田屋に時間を間違えて来たのが木戸(桂小五郎)で、誰もいなくて長州屋敷に帰ったあとに池田屋騒動が起きた。そうやって生き延びた。逃げの小五郎といわれた。
 鉄舟とは殺さなかった理由が違う。鉄舟は人も殺さない、アルバイトもしない、子供が死んでも反省しない、柏の葉を餅にかえたら木を伐ってしまう。
 自分がすべきことを若いときから考えていた。15歳のときにつくった修身二十則の中の一つ「名のために学問・武芸をすべからず」名を上げ、食を得るために、学問・修行をするのではいけない、といっている。

 23歳のときに「宇宙と日本」を書いた。その中で、日本には天皇陛下がいて、ほか武士、公家、商人・・・みな同じ、みな公平と書いている。天皇を中心にする国体をつくるために不肖鉄太郎は修行すると、鉄舟は人間修行を国家レベルにおいていた。
 個人レベルではなく、国家レベルの目的のための剣と禅。目的は国家、国家を優先したときは、自分のことは顧みない。鉄舟の生き方から学ぶべきこと。

 皆さんは国家レベルに目的をおくと、明日から働くことが必要なくなってしまうから、皆さんは目的を国家レベルにしても、しないにしても、それでもお金が目的ではあまりにもさびしい。自分の持っている面影の中に入っている、顔つきではなく、自分の中にある自分の存在意義を目的にしたら良いのではないか、自分の世に生まれた意義を鉄舟から学んだ。

 BSテレビで「本と出合う」という番組に30分ほど出ましたが、取材の中で「脳力開発と鉄舟はどう関係しますか?」という質問があった。
 脳力開発の目的は戦略指向、鉄舟は戦略思考をもったから、ああいうことができたんです、と答えた。「秀逸でした」とあとでディレクターから手紙が来た。

5.山岡静山の屋敷に行く

 鉄舟と静山の出会いは、井上清虎が山岡静山先生の下に、生意気になったからと鉄舟を連れていき、静山の弟子にさせる。
 鉄舟と高橋泥舟の住んでいた場所を教えます。茗荷谷から5分で行けるところにある。今日は時間がなくなりましたが、次回は静山との出会いを話します。

以上

【事務局の感想】
 今月も鉄舟の柏の木と切った話から、鉄舟の哲学、人生の目的について大事なことを教えていただきました。つい生まれて生きている自分の存在意義を忘れてしまいがちでありますし、その点に考えがおよばないという人々が多いとおもいます。
 存在意義は何かぜひ振り返ってみたいと思います。

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3月例会記録(1)

■松村三喜男氏

「日本再生のキーワード」
“Culture & Science”(日本文化と科学)

 兄弟が8人おりまして、3番目でございます。親が名前を番号でつけたしだいで、人生で3回喜ぶ男と考えております。生まれは長野県の富士見町です。
 素晴らしい鉄舟21サロンでお話することは恐縮ですが、役目を果たしたいと思います。資料に書きすぎて、とてもこれだけ話す時間がございませんので、端折ってポイントだけお話したいと思います。私の独断と偏見が入っていると思いますが、ご容赦いただければと思います。

資料の解説
 ビッグサイトの展示会に行ったときに、咸臨丸の資料(臨海エリアのフリーマガジン『SEASIDE』)を見つけました。海舟のことを勉強しておりましたので、船の科学館で冊子をもらって参りました。12・13ページ「船の科学館へ“咸臨丸”を見に行こう」にあるように、当時わが国には蒸気軍艦がなく、初の蒸気軍艦として作られたのが咸臨丸です。勝海舟が艦長として大変活躍されたということが書かれております。
茶色の資料「蒸気軍艦“咸臨丸”」これも後でご覧いただければと思います。
 A4サイズの資料「山岡鉄舟を祭る文」(勝安房=勝海舟の親友)は、私が生まれた年月に出版された『最新作文教典』という分厚い本からです。この本は、子供の頃家にあって見た記憶があります。最近たまたま見たら、鉄舟のことが書かれておりましたので、お持ちしました。どれだけ大変な世の中で活躍されたかが書いてあります。あとでご覧いただければと思います。

 カルチャーとサイエンスから、日本の再生を考えてみる、ということを、実際に生活、現場を歩いたこと、少し勉強した中で、皆さんに発表できればいいかなと思います。

竹中さんの講演より
 昨年11月10日に竹中平蔵さんの特別講演があって聞きました。その時言われたことがいくつかありました。世界の金融や経済学は様変わりをしているということを言っておられて、大臣のときにいろいろおやりになったわけですが、金融論者、経済学者、エコノミストの発言は全く参考にならなかった、志のある実務家の話しだけしか役に立たなかった、教育の改革については大学の改革からやらなければとおっしゃっておりました。もうひとつは構造改革を小泉さんから安倍さんと引き継いでやられているわけですが、“改革の戦略は細部に宿る”と、小泉さんは改革をする上では大変緻密な計画を立てて実行してきているのですよ、とおっしゃっていた。竹中さんが最近書かれた本にも載っているのではないかと思うのですが、非常に緻密な計画の上にやってきた結果、それなりに評価されています。小泉さんは改革の情熱・パッションがあり、国民の支持を得、それで、それなりの成果を得たのではないか、という話があったわけでございます。

 藤原正彦さん『国家の品格』を書かれておりますが、御茶ノ水女子大の講演を聞かせていただいたときに、教育について特にいわれたのは、小学生のときの教育が大事だ、週に24時間しかない中ですべてを教えることはとてもできない、まず国語、算数など絞って、徹底して基礎を教えないといけないと話しをされていました。日本の教育は厳しさがないことが、世界の教育と比較して感じることだとおっしゃっておりました。あとでお話しする食育の服部先生も同じことを言われており、厳しさが欠けていると感じるわけでございます。

日本の大学生
 私はバブルのさなかに、オリンパス光学という会社で人事のマネージャーをやっていて、全国の主要な大学を歩きました。そのときに感じたのは、大学生がバブルに浮かれて勉強しなくなったことです。東京大学、信州の大学も機械工学、精密工学の7割8割の学生が、給料が高いからと金融や証券会社に入社しました。東大の教授も日本の将来はないと嘆いていました。
 学生の成績分布がある、成績上位20%はバブルの時代も今の時代も変わっていないと思います。一番困ったことは、中間の人たちが下の方にずっこけて、大学も大学院もレベルが落ちてきていることです。日本の大学は、世界の100に入っているところがひとつもないとおっしゃる先生もいらっしゃる。

 大変景気が良くなったということで、就職も学生が売り手市場になってきて、学生の皆さんが勉強してしっかりした社会人になってくれないと困ります。
 半月ほど前に青山学院大学の石川先生にお話を伺うことがありました。科学技術、世界の国際会議に出て感じることは、最近は日本人が出る幕がない、来ている人も少ないと、石川先生は日本の科学技術教育は破綻したと嘆いておりました。

 大学、大学院のレベルの低下について、大学は高校の教育が悪いと言うし、高校は中学の教育が足りない、中学は小学校の教育が悪いとなってくるわけで、ALL日本無責任国家になってしまったのではないかと感じているわけでございます。

服部先生の講演より
 昨日服部学園の服部先生の食文化についての講演がありました。調理・料理はもちろんですけれど、昨年、服部先生が提案した「食育基本法」がようやく国会で制定されて各学校などが動き出しております。
 世界76カ国の中で、食事をしながらテレビを見ることを容認するのは日本だけ、世界で他にない、テレビを見ながらの食事は食の文化が乱れる、日本の教育を立て直すには、食事のときにテレビを見ることをやめなければいけないとおっしゃっておりました。

 脳の成長は8歳~10歳が最も生育するので、その時期に冒険心とか創造する心とか、教え込まないとだめだということを強調されておりました。毎日いろんな事件が起きておりますが、20年前は今出ているような事件は数件しかなかったが、去年は40件近くなったといいます。新聞やテレビに出ない隠れた事件が10倍はあるようです。5年後には100件、10年後には300件くらいになる、困ったことだというようなことでした。

 昔は少年団など群れの教育がありました。今は地域の社会教育的なものがなくなってきてしまっている。一番の原因は、他人からも親からも注意されることがなく従って免疫がないので、ちょっと注意されると感情的になってしまいます。食の栄養バランスが崩れているのではないかと思います。長野県の上田の方の町長さんが地域の学校の栄養バランスを考えた結果、きれる子供や貧血を起こす子供がなくなった、ということがありまして、素晴らしいデータもありました。注意されないことと栄養のアンバランスが原因ではないかと思います。

 教育の基本は、幼稚園では自分のものと人のものを区別すること、小学校は協調性を、中学校では社会性・国のしくみ、高校生以上は志をいかにもつようにするか、教育の基本でやらないとなりません。

 先生や親に対する尊敬度について、たとえば北京は先生に対しての尊敬度は80%、アメリカ82%、EUでも82、数パーセント、韓国84%に対し、日本は21%です。親に対する尊敬度の世界の平均は83.2%ですが、日本は50%以下です。50%以下というのは国が危なくなる限界だそうでございます。先生に対する尊敬度を71%にするには100年かかり、親に対する尊敬度を50%以上にするには50年かかる、それほど教育は時間がかかるそうです。
 さっきもお話しましたが、教育の現場における優しさ・楽しさ・厳しさという面で、欧米は3つとも揃っていますが、日本には「厳しさ」がありません。
 子供の自立の年齢が日本の場合、昔は20歳でしたが、最近は30歳になってもまだ自立は無理みたい、うかうかすると40歳になっても自立できないという話もございました。
 上下関係がわからなくなっているそうです。挨拶ができない、志が不足している、飽きっぽい、我慢できない、無気力・無責任が子供たち学生たちの実態だそうでございます。

 日本に来た留学生にアンケートを取って尋ねたところ、「日本の印象は」すべての国の留学生が「日本の学生はだらしがない」と言っているそうです。

 食の教育の3つのキーワードは、安心・安全・健康です。正食の進め、食のしつけを家庭・学校・地域社会でやる必要があります。テレビを見ないで食事をするしつけをしないとなりません。次は食のグローバル教育です。

自給率について
 残飯の話が出まして日本は年に2300万トン残飯を捨てています。世界の貧困の状態を見ると、餓死、食べ物がない生活、栄養不良の子供たちがおり、2300万トンを捨てないで世界に生かせば、世界の相当数の人たちを救えます。日本はまず、残飯をなくすことだということでした。結びの言葉は「食の再生は今日から、今から」今の話を一人が5人くらいに広めていけば何とかなるのではないでしょうか。服部先生のポイントをお話させていただきました。

環境について
 元アメリカの副大統領のアル・ゴア氏が「不都合な真実」という本と映画を作られました。素晴らしいことと思います。翻って日本をみたときに、福田元総理が、自分の退職金3億円はたいて京都会議をおはじめになりました。年に3000万円使って、10年くらい続けられるでしょう。世界の人たちを招いて、環境について話し合う場をある程度定着していけるのではないでしょうか。
 ESDという資料をお配り致しましたので、あとでぜひ読んでいただきたいのですが、小泉さんが国連に提案して、取り上げられてESD(持続可能な開発のための教育)、教育の10年としてスタートとなりました。ぜひこの点も知っておいていただきたいことです。日本も提案の責任がありますので、ESDジャパンが日本の展開について話し合う場がありまして私も出てみましたが、皆さんが暗中模索ありますが、それぞれ努力してやっております。
 日本がアジアの諸国、韓国・中国・タイ・フィリピンなどを巻き込んでやっていこうとして動いていることも知っておいていただきたいと思います。

 埼玉県に40数年住んでおりますが、以前所沢でダイオキシンの問題がありまして、知事を先頭にNOダイオキシン運動を展開しました。私も地元の代議士と一緒に活動しまして、その後所沢の焼却炉を取り払いましたが、土壌がどうなっているかは知りません。仲間たちと騒がれた当時、雨水の顕微鏡写真を撮りました。
 ダイオキシンが入っている雨水は結晶になりませんが、最近取った雨水は結晶ができているので、それなりに良くなっているのかなと思います。

 酸性雨の問題もありまして、青森・秋田・山形県の日本海側の木が枯れてきています。長野も一部、感じるところがあります。中国から偏西風に乗って、酸性雨が降ってくるわけでございます。環境問題は、世界が取り組まないと大変なことだな、と思います。
 日本でも福田さんや小泉さんが活動されておりますので、われわれも、一人一人がやっていく必要があると思います。

日本語について
 日本文化の素晴らしさは皆さんも感じていることだと思いますが、藤原正彦さんも日本語を評価しています。
 私の知っている大平さんが、日本語というのが、他の国の言葉と違って8次元でできているという見方がありまして、確かにそうだな、と勉強を始めさせていただいたところです。元素周期一覧表というのがあって、一昨年、文部省が元素周期一覧表を作りまして一家に一枚持つようにしたいと1枚100円で分けてくれます。元素周期一覧表と同じように言葉を次元に分けて考えたのが、日本語だというお話です。中身の話は時間がないので、しませんが、日本語が8次元でできている。こう言う言葉は世界にないということで、また機会があればお話したいと思います。

テクノロジー
 日本の科学技術・先端技術は進んでいます。日本の農業・健康・環境問題にしても日本が一番進んでいます。ナノテクノロジー、今その先のスーパーナノテクノロジーに入ってきているわけですが、ナノテクを、健康のため、町おこしなど、農業の改革、環境とかに利用できると思っております。
 栃木県で“とちおとめ”で残留農薬があることが問題になりましたが、優れた技術を使って、私の仲間たちが農薬を使った場合でも、ある技術を使えば残留農薬がゼロになっている、りんごでもそういう例が富山でも出ています。
 農薬や化学肥料を使わないのがいいのですが、農薬使わないと農家の経営は成り立たないというわけです。
 新しい技術の新しい水ができています。新しい水をつかって、農薬や化学肥料を使わないでも農業ができるといわれており、実績もできています。
 ブルーベリーは農薬使わないで収穫が5倍になります。
 また、ある装置を使って収穫するとお米を反あたり8俵だったのを15俵取れます。農業も今までの農薬や化学肥料を使う農業を変えて、使わない新しい農業に換わっていくのではないか、そうしないと開けていかないのではないかと思います。組織の中できないかもしれないが、テクノロジーがそこまで行っています。
 長野の百姓の例ですが、かぼちゃを作ったことがありますが、かぼちゃは一般的に1本の木に食べられる大きさのものは3個しかならないのですが、新しい水を使うと初年度に80個くらい、2年目は125個とか、3年目は250個とかそういう実績が出ているわけです。

 そういうテクノロジーを使えば、世界で問題になっている食糧、水、環境エネルギーの問題が日本の技術で相当改善できます。持続可能な開発教育、世界のインフラを解決できるのは、日本だろうと思います。


 話が飛んでしまいましたが、今日はありがとうございます。


【事務局の感想】
 松村さんが大変勉強家であることがわかる今回の発表でございました。いくつものテーマがでてきましたので、時間がたりないほどでした。次回には、松村さんの一番関心のあるテーマに絞って発表をしていただきたいと思います。

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2007年03月16日

2月例会記録(2)

■山本紀久雄氏
「山岡静山との出会い・・・その一」

 松永さんから大変いいお話をいただいた。鈴与グループは大きなグループの会社でして、そこで研究をされている。配られたタバコの害を読むと副流煙の方が害は大きい。どのくらい離れたら害がないか専門家にきいたら、煙は70メートル流れてくるとのこと。防衛できませんね。

 人口問題の件も、幕末時の人口は2700万人だったが、現在の人口は1億2600万人と4.7倍に増えている。その結果いろんな矛盾が起きている。歴史は流れですから、少子高齢化は流れの中にあると思っている。松永さんみたいに元気な方が生産性をあげていく。全要素生産性として、労働生産性、資本生産性だけでないほかの部分で生産性を上げて、一人当たりのGDPを増やせば、豊かな暮らしができる。

 松永さんのお父さんは望嶽亭でお生まれになった。西郷隆盛に交渉に行く前に官軍に追われた山岡鉄舟を助けた望嶽亭は、現在23代松永さだよさんが守っている。

 朝倉さんの本は納得した。調べ抜いて、データも戸籍からもってきていますから、データのチェックとしてすごく役立つので高く評価している。

 金子さんは3月に外交評論家や和田中学校校長の藤原さんなど著名な人の講演会を行っている清話会で、経済界の人たちに講師としてぬりえの話をする。

 午後テレビ局の人が8人ほど来て、取材の収録があった。「本に出会う」という30分間のテレビ番組で3月3日と4日に放映される。前半はフランスを救った日本の牡蠣、後半は脳力開発の、こういう仕事をするきっかけとなった城野先生の教えについて話した。話しだけではつまらないですから、生牡蠣とフランスから買ってきたワインをあけてみせることをやる。牡蠣はノロウィルスで大変ですが、スポンサーから撮影用にたくさん送ってくれた。毎日食べている。おいしいですよね。

1.蓮華寺・山岡静山の墓
 蓮華寺は、文京区白山にある。現場から発想するということで、静山のお墓に行った。わからないので庫裏に行って、お寺の奥さん=大黒さんに尋ねた。

 なぜ大黒さんというのですかね?頭巾かぶって左肩に袋もって、小槌もって、俵の上に載っているのが大黒さん。大黒さんは炊事場に飾る習慣があるので、大黒さんとなった。

 ご住職が持ってきた紙には、「山岡静山、明治20年死ぬ」という記述があって、明治20年というのは山岡鉄舟がなくなった日で、静山は江戸時代に亡くなっている。
 立派なお墓ですが、120年くらい経っており、文字が擦り切れて読めない。「山岡累世墓」この意味が住職もわからず、困っていた。

 先日家内の母が亡くなり喪主として役目を果たした。仏壇屋に聞いてみたら、調べてくれて「累世墓(るいせいぼ)」と読み、代々のお墓という意味がわかった。
 目の前におきたことを結びつけて解決していく。そうしていかないと人生は動いていかない。

 蓮華寺は名門のお寺で、建立は豊臣秀吉が小田原北条を攻めたころ、ヨーロッパでは、スペイン無敵艦隊が負けたころにできた。武士寺として武士しか祭られなかったという由緒あるお寺。自分のところに歴史的なものがあれば研究して誰が来ても説明できるように。

 間違いなく、静山のお墓だというものを確かめないとならない。お墓の後ろに戒名があいてある。明治10年山岡鉄太郎建立とある。歴代の戒名が多数書いてある。そこから静山を探さないといけない。写真を撮って家で調べた。静山の戒名は、「清勝院殿法授静山居士」安政2年六月晦日とあって、静山のお墓であるとわかった。

 院殿=院号=位の高い人、法授=道号、静山=法号=生前の名前、居士=仏教徒
静山は鉄舟が敬愛し、尊敬し、影響を受けた人。静山と鉄太郎が会わなければ、あのような人物にならなかった。


2.ペリー来航時の日本の外交政策
13代将軍・徳川家定   
老中首座・阿部正弘
海防参与・徳川斉昭

(明治10年に山岡鉄太郎と書いている。いつから鉄舟になったのかは解明しないとならない。)
 嘉永6年、ペリー来航時、鉄太郎は18歳。ペリーが来て、江戸中が大騒ぎになった。南條範夫さんの話によるとその前の晩、鉄舟は新宿のいかがわしい場所にいた。道場に行くとひそひそ話しをしていて、鉄舟は情報集めに走った。

 当時の国際法を説明する。欧米諸国は勝手に世界中を文明国と半未開国とにわけた。文明国=欧米のみ、半未開国=トルコ・ペルシャ・朝鮮・中国・日本、で領事裁判権を認めない。未開国は国と認めていない。未開の国に入っていって認めたら、自分の国という。文明国国際法に基づいて交渉に入ってくる。そういう国際法があった。

 将軍徳川家慶が亡くなって、家定が将軍になる。日本が迎えた大事件の発生、時のトップがなくなって、次の世襲制によりなった。家定は体が弱い。
 老中首座の阿部正弘、名宰相を言われた人で10年以上老中首座であった。若いときから有能で、包容力、柔軟性があったが、後に働きすぎで過労でなくなった。

 阿部老中首座は、このとき初めてペリーから来た国書を諸大名、旗本、御三家に回して、意見を求めた。打ち払う(戦争)、戦争を避ける、条件付に貿易をする、開国論といろんな意見が出た。
○簡単に貿易を許すべし
○5年・10年公益を行い、その間に守りを備える
○公益を行って、国益に会わなければただちにやめる。
○アメリカ・ロシアは許すが、イギリスは許さない
○朱印船を復活して貿易をはじめる

 喧々諤々、まとまらないときに、徳川家の斉昭が意見を出し、その政策に決められた。
「ぶらかし」=ごまかし政策
胡麻菓子=小麦粉に胡麻を混ぜて焼き膨らませたお菓子で、外見だけで中身がない。
時間を稼げということ。ペリーが何を言ってもへらへらして、あきれて飽きてしまってアメリカに帰るのではないかというのが、苦心惨憺してあみだした妙計だった。石井先生の本に書いてある。大変な政策。

 表面上は鎖国ですから、「戦う」というけれど、実際は和で行こうというすっきりしないことをいうからペリーは怒り狂う。

 次の政策は、あぶもとらずはちもとらず政策という珍策。長崎において、今年から3年間、石炭を供給する。3年間汽船で試験的に貿易する代わりに石炭を供給する。一案二案ともたいしたことがない案。ペリーは、どうしようもないな、と帰っていくのではないかという考え。アメリカから徹底的に議論でやられ、とうとう和親条約を結ぶ。


3.足高制による人材登用
    岩瀬忠震・旗本三男部屋住み

 ペリーとの交渉政策は、徳川斉昭が提案した。有能な官僚は、上級旗本ではなく下級旗本だった。吉宗の時代から能力のある下級武士を登用する足高制度を導入し、弾力のある組織にしていた。封建といいながら、こういう施策を取っている。

筒井政憲、岩瀬忠震、川路聖謨、水野忠則、勝海舟
 当時の日本を支えたのは、こういう有能な人。ペリーも驚いたのは、サスケハナ号に乗ってきた与力が、地球儀を指し示しながら、NY、ワシントン、パナマ運河を見て、パナマ鉄道を作っているらしいがもう完成したか、という質問をした。


4.アメリカ・メジャーリーグと鉄舟に通じるもの・・・プロ意識

 ロサンゼルスにあるアナハイム・エンゼルスの球団職員タック川本氏と会った。2002年にワールドチャンピオンになったが、チャンピオンになると選手、球団職員はダイヤモンドのついた指輪をもらう。
 ヤンキースはワールドチャンピオンになっていない。タック氏は「運は簡単な運ではだめだ。もって生まれたものでもない。日ごろからの行動を正しくしていないとワールドチャンピオンにはなれない」と言う。

 テレビのインタビュアーから、経営コンサルタントのほかに海の牡蠣、世界の温泉、鉄舟、ぬりえと幅広く研究されているが、どれがあなたの素顔か?と聞かれたが、どれも素顔。脳力開発は戦略的思考を身につけること。城野先生の本によって身につけた。また、山岡鉄舟と脳力開発とはつながりますか?と質問を受けたので、当然つながりますと答えると、どういう意味ですか?と聞かれた。

 鉄舟は23歳のときに「宇宙と人間」を書いた。天皇陛下、武士公家、農民、これはぶれていない。天皇陛下の下に国体を維持する。西郷隆盛に国体の姿を天皇のところから判断していけば、西郷隆盛の思想同じ。戦略的思考をぶれないで持っているから迫力も生まれるし、西郷隆盛も納得する。

 開国すべきか議論が起きる。高山に「アメリカがきたおかげで、毎日忙しい生活をしておりますと手紙を書いている」みんなと一緒になって、あちこちに行っている。
 そのときの剣の師匠の井上清虎が鉄太郎に、「今おまえはどんな立場に居る?ペリーがきて騒いでも、おまえが解決できるか?それは政治の仕事だろう」といなされた。

 北川さんと伊古奈で早朝経済教室をやった。北川さんは経済とは、人間が朝起きてご飯食べて仕事するという一人一人の積み重ねという。ペリーがきた、テロがあった、核が飛んでくるというのが政治。政治と経済をごちゃごちゃにしてしまうと考えがまとまらない。

 鉄舟もペリーが来たとことによって入ってしまうと、自分の目的を見失う。ペリーの対応は幕府の政治家が行う。おまえは修行することが目的ではないか。そうだ!と目覚めて、剣の修行を再開した。

 何を言いたいかというと、自分の内面にあることを大事にしないとならない。
 「武士の一分」という映画は、毒見で失明した夫のために、奥さんはお百度参りして直そうとする。神仏に頼る。自分の内側に問題を抱え込むということ。

 静山という人物は、「およそ人に勝とうと思うならば、まず自分に徳を身に着けなければならない。徳がまさに敵を自然に降参させる。真の勝ちとはそういうものだ。」と述べている。

 自分を大事にしないとならない。外のことに目をくれるか、うちのことに目を向けるか。内因、外因とした場合、問題が起きたときに自分の中に問題があるから問題が起きた、主因は内因にありと、脳力開発でもいうが、こういうことを静山は言っている。「武士の一分」もそう。

 伊古奈に行って、「伊古奈」は、事代主命の奥さんの名前。神話の世界。日本の成り立ちの話を知らないと理解できない。
 すべての問題は自分側にある。外ではない。今の世の中は、外因が中心になっている。テロ、インターネットで情報が入ってくる。外因だけに目を奪われているとバランスが崩れる。「武士の一分」は、内因を鍛えなさいということを言っている。

 タック川本さんもそれを言っている、大リーグで成功するためには、一日4食食べなさいという。最後の4食目は寝る前に野球以外の知識を食べなさい。人間がゆがんだ人は本当の大リーガーになれない。知識を身につけることによって、自分の才能を自分で見つけることができる。
 日本人が高校を出て、タックさんの下に来る。技術があっても成功しない人がいる。
50名くらい大リーグに入るが、その人たちにタックさんは「氷が解けたら何になりますか?」と質問をする。「ウイスキーの水割りがもういっぱいほしくなる」「南極の氷がとけたから船が進む」「海水が増える、春だから」という答えがでる。

 高校時代に覚えたことを変えないから、変化できなくて大成できない。自分の中に変化するものを見つけて、プロになっていけというのが、大リーグで成功するはなし。

 テレビの取材で申し上げたが、いろんなことをやっていて、どれが素顔?どれも素顔。自分の中にある財産を探す旅をしている。その財産を他人が認めてくれたときにプロになる。自分だけが認めているうちはアマチュア。

 日本の選手が頑なに教えてもらったことをやっているようではプロにはなれない。
タックさんの大リーグの話も、鉄舟の話も生き方は共通している。内因の話を鍛えていく、探していく。自分の中にあるプロといえる道を探していく。

 鉄舟は静山に会うことによって、23歳で、「宇宙と人間」を書いた。ここからぶれないで一つのことをやっていった。戦略が正しければ、ぶれずに続けていく人が強い。

【事務局の感想】
 鉄舟研は、毎回現場からの研究を続けていただいていますが、その他に山本さんがお会いになった方や出来事などから、皆様にお伝えすべき情報をお話していただいています。
 今回は、内因、内面など自己の内側を探求することを発表していただきました。
つい忙しさにかまけて、忘れてしまう又は見ないようにしてしまう内因、内面について、立ち止まって考えなければいけないテーマをいただいたと思います。

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2月例会記録(1)

■松永純一氏

「私の仕事」
(国からの研究助成をもらっている産学官連携促進事業を中心として)

 父親の生家に鉄舟からもらったピストルが伝わっている関係でこの鉄舟会に参加させてもらっています。現在の私の仕事について紹介をさせていただきます。ちょっと長い自己紹介になりますが、ご勘弁ください。

 食物の仕事をしており、国の研究助成をもらっている仕事に2つほど関わっているので、紹介します。
資料1に私の履歴をつけさせていただきました。昭和13年生まれ、先月お話に出た「国民学校」の最後で、入学が国民学校、その年に終戦だった人間です。 
       
 製薬会社に勤め、現在は、鈴与総合研究所で食品関係のことをやっております。大学などの研究会に参加しております。研究助成が産業界、学会、官=役所、が協力して早く大学の研究成果を商品化して、早く儲けて、早く税金を収めろ、という関係になっている。研究助成のテーマが発表されてから人をすぐに集めるのは大変なので、大学の先生があらかじめ研究会を立ち上げていて、それに顔を出しているので、たくさんの研究会に参加している。
 ほかにもいろいろ関係しているものがあります。


 現在私の関係している国からの研究助成をもらっている産学官連携促進事業
・都市エリア産学官連携促進事業(文部科学省)について
「心身ストレスに起因する生活習慣病の克服をめざしたフーズサイエンスビジネスの創出」
 
 産学官連携促進事業の愛称が「フーズ・サイエンスヒルズ」という呼び名。静岡県では西の浜松を中心としたフォトンバレー、東は県立のがんセンターを中心にしたファルマバレー、中部が食品でフーズ・サイエンスヒルズという愛称で呼んでいる。新規機能性食品等開発研究会、研究会で大学と契約を結ぶ運営委員をやっている。


 静岡県には、山は南アルプスと富士山、海は湾として一番深い駿河湾。農林水産物がいろいろ取れ、全国順位で一番のものはお茶とみかんが有名ですが他にも資料3に載せたようなものが取れる。富士山からの湧き水の恩恵で虹鱒の養殖もできる。この様な農産物、海産物を利用して新しい食品産業を興そうというのが、一番の狙い。

 ロゴマーク(資料4)を今年から作ったので紹介させていただきます。輪は産学官の3つの輪を表し、赤い輪は研究者の情熱、緑の輪は山の幸、青の輪は海の幸、輪を卵型にして卵をうまく孵化させて育てよう、という心積もりで、ロゴマークを作った。ロゴマークの制定委員にもなっていた。

 「心身ストレスに起因する生活習慣病の克服を目指したフーズサイエンスビジネスの創出」を研究課題にしている。鈴与総合研究所は4番目の「抗ストレス食品・化成品素材の開発および発現機構の解析とその応用製品への展開」を共同研究でやっています。

資料5
(「酸化ストレス」という言葉ありますが、抗酸化食品は抗ストレス食品であると考えられている)
  抗酸化食品に関連した試験を紹介いたします。
 ノーベル賞を受賞した小柴さんのカミオカンデで使用された光電管を作った会社が浜松ホトニクス。浜松ホトニクスではこの光電管技術を応用して微弱発光を捕まえる機械を販売しています。
 抗酸化とは、他のものより自分が先に酸化されてしまうため、他のものを酸化から守るという事です。酸化されるということは一種の燃えるということなので、ほんの少しの光がでます。その微弱発光を検出する機械で、これを買って野菜の抗酸化力を色々調べてみました。

 野菜で抗酸化力に一番強いのが「おくら」だった。「抗酸化力のある食品は体が錆付くのを防止する」と表現されるので、本当に釘のさびを防止できるかをやった試験を紹介します。

イ:対照で過酸化水素水に釘を入れたものです。
ロ・ハ:オクラの種の抗酸化力が高かったので、オクラの種を乾燥させて粉末にしたものを0.5と0.1グラムをあらかじめ入れておいて、これに過酸化水素水と釘を入れて調べた。
ホ・ヘ:オクラ種の大部分はセルロースだが、セルロースには抗酸化力はないので、陰性対象としてセルロースを0.5と0.1をおいた。
チ・リ:抗酸化力が高いとして有名なのでビタミンCの粉末を使って陽性対照とした。
オクラとビタミンCは錆が少なく、抗酸化力が目に見える形で表すことができました。

資料6
 経済産業省の研究助成で、地域新生コンソーシアム事業に応募した。母体は清水商工会議所です。静岡と清水は合併したが、商工会議所はまだ合併していない。清水は日本軽金とか日本鋼管等の重厚長大産業で潤っていたが、その産業がだめになった。これではだめだと商工会議所が中心になって、しみず新産業開発振興機構を作り、駿河湾地域新事業推進研究会を立ち上げて、陸上養殖、バイオセンサー、高輝度LED、亜臨界水処理の4つのことを研究テーマとしグループをつくった。
 この、高輝度LEDと亜臨界水処理グループが一緒になって地域新生コンソーシアム事業に応募し採択された。


・地域新生コンソーシアム事業(経済産業省)について
「高輝度LEDと亜臨界水抽出法による薬用植物生産システムの構築」
 私は、LEDを照射するほうをやっております。いちごパックを利用して紫蘇のスプラウト(芽)にLEDを照射したらどうなるかを調査しました。
 資料の上段の写真は青のLED、下段は赤と青の混合のLED、3日半LEDや蛍光灯の元で育てた後の結果は、赤が少し枯れかかっている。青は全体にアントシアニンですが、赤紫蘇の色がついている。赤と青の混合LEDを照射したものも青と同じような状態。

 蛍光灯、窓際は日光も差し込みます。双葉の周りだけにアントシアニンができている。首にもできている。ブラックライトは可視光線に近い紫外線です。あまり危険はないということになっている。他に比べると育ちが悪くてほとんどアントシアニンができない。

 ビタミンCとアントシアニンの含有量で測定した結果です。
 アントシアニンはブルーベリーで目に良いことで有名だが、ブルーベリーのアントシアニンとは構造的に違う。

資料7
 1赤、2青、3赤・青の混合、4蛍光灯、5ブラックライト、6日光(日光が入る窓際)で、光の種類によって成分が変わる事がわかった。
 紫蘇も蘇葉という名前で生薬になっている。他の薬効成分も変わる可能性がある。黄連、柴胡を中心にやっていこうと思っている。

 研究助成とは違うが、社長がお中元にホワイトアスパラをつかっていた。最近は手に入りにくくなったので、鈴与総合研究所でどうにかならないかと言われた。喜多方の農家に作ってもらって社長のお中元には問題ないようにした。

 いずれにしろ、地球の温暖化により、真水は非常に少なくなってくる。水、肥料をリサイクルする、余ったものを回収することが出来る水耕栽培に興味を持っていたので、アスパラガスを水耕栽培で育てようとやっています。

資料8
 成長促進作用があるといわれるものをアスパラガスの苗で調べた試験です。園試はスタンダード的に使われる水耕栽培の養液の処方で、窒素・燐・カリ以外にも鉄・銅・亜鉛など必要とする金属は入っている。試験を開始したときの植え込み材料込みの重さは5グラム程度で、植え込み材料が4グラム、1グラムがアスパラの重量とお考えください。
 83日間育て、特殊なアミノ酸を使ったところ、他は20・30グラム程度なのに、100グラムちかく重量が増えた。信じていいのかわからないので、再試験をやっている。統計解析ができるだけの本数でやる準備をしている。

資料9
 来年度の文部科学省、経済産業省の今年の募集研究開発助成一覧です。研究助成は、ほかの農林省などの国や県・市でもやっている。静岡県でも200件ほどやっている。
 研究をやるときは、国なり県なりに補助を得ることを考えた方が良いと思いますので参考にして下さい。

資料10・11
 新聞の切り抜きですが、科学技術に対する助成に批判を浴びている。きっかけは早稲田大学の先生が変な使い方をしたのが原因。次の資料も、第2の公共事業にするなという書き方をしている。早稲田の事件から事前の経理的統制が非常に厳しくなっている。事後のチェック、バウチャー制にしろという意見も出ている。

 しかし、実際に国からの助成をもらう研究に携わって、一番困っているのが単年度決済という事です。都市エリアは3年、地域コンソーシアムは2年間ということなのに、単年度で決済、特に消耗品で買ったものはその年度で使い切れ、といわれる。2年だったら2年の予算でやらしてもらいたい。そのほうが能率も上がる。

 このようなことに首を突っ込む理由は、自分が興味を持っている事と関係があります。


私が興味を持っていること
・禁煙
 静岡がんセンターの総長山口建先生がつくられた「タバコの害」を下敷きにして小学校4年生に以上に配っている。中学生にタバコの害を教えても遅いから小学校の生徒から教えている。
 長年タバコをすっていると肺がんは防げなくなるが、心臓とか血管とか胃腸の病気は、やめたとたんに正常に近くなるから、今更やめても遅いという人が時々いますが、そんなことはないことをご理解いただきたい。

 少子高齢化、子供が増える対策をどうするか、ということを言っている。この間の国連の気候変動に関する政府間パネルでは今世紀末までに6.4度気温が上昇するだろうといわれている。原因は人間の活動による温暖化ガスの放出によるとほぼ結論づけられている。

・地球温暖化
「宇宙船地球号は定員オーバー」
 人口80億にはまだ達していないが、もう定員オーバーだろうと私は思っております。したがって、世界の人口は減らさないとならない。

「人口減の日本を世界の手本に」
 日本は人口が減ったから世界の手本にならないとだめだろう。いろんな人の意見をきいていると増やす論調が多いから腹が立っております。それをやろうと思ったら、老人が、広い意味での生産活動をしなくてはならない。必死になって病気を予防することを考えないとならない。
 医療費は国民所得の10%になるのだろうと思います。昭和36年一年間の医療費は5400円、平成15年は24万7000円、物価は20倍にはなっていないが、いかに伸びているかがわかるだろう。病気になったらだめ、病気にならず健康に気をつける。運動と休養と食事、その食事について考えることができる情報の発信がしたいと思っております。
65歳を過ぎてこのような仕事についていられることに対して、幸福に感じております。

・アンチエイジング
  元気な老人社会の実現を目指して行っている
実験の一部
・「おくら」の釘錆防止試験
・アスパラガス成長試験
・LED照射試験
を紹介させていただきました。

 運動と休養と食事で生活習慣病を予防し元気な老人社会を創りましょう。

【事務局の感想】
  松永さんからは、「私の仕事」と題しまして、発表していただきました。このような研究をされている方が鉄舟サロンにいらっしゃるのかと思いますと、参加者の方々は、大変有能で、タレントにあふれている方がお集まりだと思います。
 仕事に加え、松永さんの関心(禁煙、環境、アンチアイジング)も発表していただいて、このテーマもこれからの人々の重大関心事だとおもいますので、今後も研究を続けていただきたいと思います。

以上

投稿者 staff : 12:34 | コメント (0)

2007年02月06日

1月例会記録(1)

■高橋育郎氏
「もう一人の私」 童謡は私の生きがい ―作詞作曲への想い―

まず皆さんに歌っていただきたいと思い曲を用意してきた。
「一月一日」(年の初めの・・・)作詞の千家尊福は出雲大社の神官。
 
 私は山岡鉄舟も好きですが、歌も好き。とりわけ童謡や唱歌が性に合っている。ぬりえ美術館で童謡の会をやっている。普段から作詞作曲をしているが、どんな活動をしているかお話したことがないので、今までの作品と想いをお話させて頂きたい。
ジャスラック(著作権)に登録されている作品が230曲ある。


 初めて作曲を手がけたのは、高校3年生の冬休み。ある自由詩をみて、作曲しやすいように定型詩になおし楽器がなかったので玩具の木琴を使って作ったのが「冬が来た」という曲。中学から高校まで美術をやっていた。高校2年生の時に絵を書いている隣の教室で合唱の練習をしており、どうしてもやりたくなり入部した。それまでは絵ばかり描いていたので、図書室で借りた『西洋音楽鑑賞法』で学んだ。

 高校3年の5月に開催された学生音楽祭のとき、指揮者が長期欠席になったとき代役を引き受けた。本番では結構評判が良かった。

 絵が好きだったが、音楽も好きだったので、進路は相当迷ったが、父から“絵は天才のさらに天才じゃないと食べていけない”と言われた。その当事職場の合唱団としては日本一だった国鉄合唱団に入りたいために国鉄に就職した。

 最初は東京駅に入った。合唱は本社でやっているので、本社へ行くために中央大学夜間部に入学し、憧れの国鉄合唱団に入団。夢が実現した。みんな実力があり楽譜を見て歌えるので、私も勉強して讀譜力をつけた。

 讀譜力がつくと、曲がつくりたくなり島崎藤村の「高根に登りて遠く望める歌」の詩を見つけて、曲を付けた。
 当時は独身寮住まいで、楽器はなく頭に浮んだメロディーを五線紙に書きとめた。楽器に頼らずできたことは、まさに奇跡である。その次に現代詩をやっている先輩から頼まれて「朝まだき」「自由詩もくれん」という詩に曲をつけた。国鉄合唱団の活動は約14年続いた。

 27歳のとき、東海道新幹線のPRの仕事についた。SLがなくなるころ業界紙に鉄道フアンの投稿詩「機関士一代」が載った。哀歓がこもった定型詩で、これに玩具の木琴で作曲して、NHK「あなたのメロディー」一般からオリジナルの曲を公募し、応募曲の中で優れたものを、6曲プロの歌手により発表され、その中から週間の優秀曲としてアンコール曲が入選した。

 自分の曲を唄は旗 照夫、NHKの管弦楽団がやっていて感動した。
バラエティ番組の「話の泉」と同時だったので、大ホールが超満員。審査員にも早々たるメンバーが並んだ。6曲が発表され、みんないい曲だったが私の曲がまさかのアンコール曲となった。輸送の仕事で忙しかったから放送されたTV番組は見られなかったが、家内が写真とテープに収めてくれた。

 転勤になって、千葉で、東京から千葉までの快速線を走らせる大工事のプロジェクトチームに入った。駅舎の改良工事に携わり曲を作る暇のない仕事人間になった。この仕事が終わったあと、少し時間に余裕のある仕事に移してもらった。

そのころは旅行会社と組んで団体旅行が盛んだった。カラオケが始まった頃で、温泉・リゾート地の大きなステージのあるホテルでカラオケをやるような企画を頼まれた。

 宴会では夜の8時くらいのフィナーレでステージと客席が「新東京音頭」で総踊りになった。こんな大きなイベントをやっているのだったら国鉄独自の歌があってもいいのではないかと考え自分で作った。

 詩を作って提案したが前例がなく処理に困っていた。交通公社にいった先輩に詩を見てもらったら、1ヵ月後くらいに先輩が歌手を連れてやってきて、国鉄団体旅行音頭「シャンシャンいい旅夢の旅」としてキングレコードから全国発売することになったといってきた。千葉テレビが目をつけて、毎日夕方16時になると放送され、団体旅行では歌手が添乗し歌う。ファンクラブもできるし人気だった。
その後キングレコードのディレクターが着て、これを機に日本音楽著作権協会(ジャスラック)の準会員になる。46歳のときだった。

 昭和61年に国鉄記念として、千葉局がお座敷電車「なのはな号」の運転を開始した。お座敷電車の名前は、千葉の県花から「なのはな号」となり、PRソングを管理局長からじきじきに頼まれた。
「黄色菜の花、青は海、ツートンカラーのなのはな号」という詩が浮かんで、つくった。一流の作曲家と歌手もつけてくれて、クラウンからカセットテープで発売された。
JR記念グッズ「なのはな号音頭手拭」も千葉局の全駅で発売。私の書いた字が手ぬぐいに入っていた。
 同年、房総の観光ソング「房総半島ひとめぐり」(曲と詞・音頭調)「ハッピーランド房総」(詞のみ・ハワイアン)をレコード製作協会から発売。

 国鉄が民営化される際、52歳くらいで管理職をやっている人は退職か出向の二者択一を迫られたが、JRを一年間経験させてもらった。JR退職後は本来なら関連企業に行く予定だったが、第2の人生好きなことをやりたいと断った。


 JR退職後は、音楽イベントの企画会社を先輩と立ち上げた。現実は厳しかったが、幸いなことに、ライフ・ベンチャークラブを紹介してもらい、そこの事務所の一部を提供してもらい仕事をした。ライフ・ベンチャークラブが銀座8丁目にあって、その近くに日本旅行の企画会社が入り、一緒に仕事をするようになった。

 大手芸能人集団と日本旅行とのタイアップで、音楽列車や、名刺交換列車というのを出した。名刺交換列車はNHKや民法から取材がきた。インタビューをしたのが放映され、交換したもの同士のその後を追跡調査し第2部も放映した。
 コロムビアレコードと提携して、JRパノラマ電車を使ってヴァイオリンの佐藤陽子さんと音楽イベントを行った。 

 平成に入ってから不況に見舞われた。第2弾は400名くらい集めなきゃいけないのに40名くらいしか集まらなかった。天皇が病気になったときに歌舞音曲はだめになって、景気にかげりが出た。

 イベント業から手をひいたが、培った人脈のおかげで音楽学校を経て、銀行に就職して9年間勤めた。65歳で退社したあと、ライフベンチャーのセミナーの休憩時間に3曲くらい歌を歌うこの活動が目に止まり、生活余暇開発士のお世話で、会場の面倒も見てもらって、「歌う会」を始めた。そのほかステージ活動を体験する。日経新聞に記事を載せてもらった結果、100名の申し込みが入り、月に2回、2グループに分けて、社会教育会館で活動を行っている。

 戦後50年として、引き揚げ船が入る港のひとつ、佐世保に引き揚げ港平和記念公園が作られた。その記念の曲の作曲依頼が知人を通じて来た。作詞は長崎県立大学教授で、満州から引き揚げて上陸したときの苦しみを詩にした。戦時中、父がタイにいて復員してきたのもあって共感して曲を作って送った。

 記念の歌『あぁ浦頭』(浦頭=佐世保港の船の到着した地域)の反応は想像以上で、地元の合唱団が合同で演奏会をやって、その後佐世保市が市民音楽祭として演奏会をやった。
5年後、JTBとJR九州が主催で『あぁ浦頭』を歌う全国の集いを長崎ハウステンボスで開催された。5日間にわたり開催され5日間で、延べ5万人の方が全国から来場した。
「ああ浦頭」を広める会ができて、テープが発売され、テレビ長崎など地元で取上げられ、NHKの「おーい長崎県」では、長崎の歌ベスト50に選ばれた。

 日本童謡協会会員になり、同会主催の童謡祭に作品を提出参加。「大きな木はいいな」(作詞)は、全国童謡サミットにて21世紀に残す歌の中に入った。カワイ出版『みんなの童謡200』というタイトルで出された本に入った。
その後、「めだかの学校・歌の会」(朝霞市保育園)発足、 14年8月「ぬりえ童謡の会」(町屋ぬりえ美術館)をオープン当初からやっている。  

 無謀な冒険と思いつつ歌の世界に飛び込んだが、周りのあたたかいご支援があったおかげで不可能と思われることが、自分の意思以上に可能になった。温かいご支援を忘れてはならない。先ずは感謝です。


【事務局の感想】
高橋先生には、ぬりえ美術館の開館以来童謡の会を毎月開催していただいています。
今回始めて、先生の人生を振り返っていただき、歌との係わりをお話していただきました。
歌は高橋先生にとって、人生そのものではないかと思います。ぜひ、この歌を通じた高橋先生の歴史を次回は綴っていただきたいと願っております。

投稿者 staff : 12:07 | コメント (0)

1月例会記録(2)

■山本紀久雄
「鉄太郎、千葉周作・玄武館入門」

ライフ・ベンチャー・クラブは生涯現役の代表に言われて25年前に発起人になった。そこで高橋さんに知り合った。高橋さんは『あぁ国民学校』という本を書かれた。幼稚園から今日まで記憶に入っている。先生の名前も1年から6年まで覚えており、データなしでも小説を書けてしまう恐ろしい人です。今は『昭和の追憶』という本を書いている。
高橋さんは、ライフ・ベンチャー・クラブで上野駅を借り切って、イベントをやり、そのとき東京ロマンチカを呼んだ。

今年は新年早々ついている。300人くらい集まる新年会で私も家内も抽選会で当たり、クラウンの歌手が来て歌ってくれた。その歌手の曲が東京ロマンチカの鶴岡さんの作曲だと言っていた。

家内がDIYのグランプリとして表彰を受けた。家内が店に行き、必要なものを全て揃え、日曜大工の年間スケジュールを作り、私は2年かけて壁紙・ふすま・雨戸のレールなどを作業員のように働いてリフォームした。応募したら審査員が自宅を調査に来てグランプリになった。

2007年は経済も非常に順調に行くという予測。来年はアメリカ大統領選挙がある。イラクで評判が悪いから、経済を順調にするでしょう。中国も北京オリンピックがあるから経済を順調にするでしょう。世界の2大消費大国が順調なので、株を買うなら今年ですね。いい株買ってくださいね。

1.江戸三大道場
・北辰一刀流・千葉周作の玄武館
・鏡新明智流・桃井春蔵の士学館
・神道無念流・斎藤弥九朗の練兵館
この三道場を称して江戸三大道場と称し
・「位は桃井、力は斎藤、技は千葉」と評した。
これに心形刀流・伊庭軍兵衛の練武館を加え、四大道場という場合もある。

鉄舟は幼少時は小野鉄太郎という名前で高山代官のご令息だった。両親が相次いで亡くなり、江戸に戻り義理の兄の元へ兄弟6人で転がり込んだ。一番下の弟は2歳だったので、義理の兄に乳母を雇ってほしいと頼んだが、兄は雇ってくれなかった。見かねた剣の師匠の井上さんが弟たちを養子に出すことを提案し、1人に500両の持参金をつけて、養子に出した。鉄舟は100両だけとって、残りは義理の兄に渡して、修行ができるようになった。今日のお話は、この後の話。

鉄舟は、江戸に来て修行に入った。剣・禅・色道修業を徹底的にやった。剣は高山でお世話になった井上清虎の紹介で、北辰一刀流・千葉周作の玄武館に入門。
玄武館は現在の神田岩本町にあった。角に交番があり、斜めに入ると一八通りがある。その細い道を入っていくと玄武館跡の石碑が立っており、隣には学習塾があって、当時は3800坪くらいありすごく広かった。

幕末、ペリーが来航し日本は科学的な兵器に圧倒された。危機意識から急速に剣の道が流行った。全国に600流派剣道道場があり、江戸にもたくさん道場があった。中国の大国・清が国を割譲されたと聞き、支配階級はすごい恐怖感を持ち、鍛えようと思って道場が増えた。

当時は剣道道場もブランドで、今で言う六大学みたいなもの。玄武館には3000人以上門弟がいた。千葉周作の道場が人気だった理由は、ほかの道場は3年しないと免許皆伝がもらえないのに千葉道場は1年でもらえた。

戦国時代が終わった頃の江戸幕府は、荒々しい時代だから剣道の修行も打ち合いで、死ぬことや怪我などもたくさんあった。危険なので、武家御法度も出て、打ち合いの稽古はやらなくなって、剣道は型になった。格好や薀蓄をつけるようになり、秘伝などとも言われたが、試合になったら負けてしまう。清水次郎長は型だけの侍には絶対勝てると言った。
幕府の中ごろから型だけでは仕方ないということになり、防具をつけて竹刀で稽古をやる方法が考え出された。怪我はしないから、ようやく打ち合い稽古がはじまった。
練習はしやすいし、危機意識で剣術道場が流行った。千葉周作は工夫して、入門から何段階も分かれていたランクを簡単に3段階にした。千葉周作はマーケティング論が進んでいて、ほかの流派は10や20ある段階を、初目録、中目録、大目録の3段階にした。評判があたって、千葉の道場は大流行する。商売が時代に流れにあっている。昔のまま守るのもいいが、時代に合わせていなかないとならない。

全国的に江戸に行けばなんとかなるという風潮があり、侍が脱藩して江戸に出てきた、坂本竜馬も江戸の千葉周作の道場入る。鉄舟も入った。

2.幕末刀、近藤勇の長曽祢虎徹

 刀も時代とともに変化した。実践を離れてきた江戸中期は刀をこしらえ物、と言いきらびやかな刀が流行った。幕末の刀は戦うための武器であり頑丈なものになった。有名なのが、池田屋騒動で有名になった近藤勇の「虎徹(こてつ)」。池田屋事件では新撰組は二手に分けて勤皇方を探した。近藤勇はたった4人で池田屋入っていき、ものすごい戦いをした。ほかの剣士たちの刀の刃はバラバラ折れるが、最後まで虎徹は折れなかった
虎徹は偽者という噂がある。近藤勇が虎徹を手に入れたいと古道具屋に相談したところ、古道具屋は適当に買って、50両で売ったという話もある。池田屋事件でも折れなかったが、偽物らしいということは間違いないらしい。

近藤勇も牛込柳町に道場を持っていた。儲からないときは出張講師、剣持っていて、教えていた。


3.小千葉道場に入門した坂本竜馬

千葉周作の弟千葉定吉も剣客だった。弟・千葉周吉は兄とは別に千葉道場をつくり、小千葉といった。場所は、当時桶町といい、今の八重洲ブックセンターあたりで、ここに坂本竜馬は入門した。

坂本竜馬はロマンがある。坂本竜馬は日本の大きな戦略に貢献した。2000年のときにこの1000年の日本の政治リーダーの人気投票をしたときの1位人気投票をした。司馬遼太郎が書いた『竜馬がいく』で人気ものになった。
竜馬は政治的リーダーとして人気。薩長同盟を竜馬がした。なければ今の明治維新が成り立たなかった。薩摩と長州は因縁の中だった。
長崎からの船の中で、船中八策、世界で日本が生きていく国家体制を作った。

坂本竜馬は千葉周作の道場で、免許皆伝をもらった。坂本竜馬の妻・おりょうさんは長屋で野垂れ死にした。坂本竜馬は早く暗殺されたから、その後苦労した。

免許皆伝の与えた紙を読むと、武道講習会の修了書とある、千葉弟の妹が長刀の名人で、彼女から教えてもらった修了書である。インターネットのウィキペディアにも書いてある。竜馬は剣客ではなかった。頭脳はよく、理科系だった、蘭学もできた。

剣客が一夜にして世界がわかる人間に変身するとロマン。鉄舟は地道の修行をやった。ロマンだけだと失敗の連続、緻密な計算の元に生きていくことが大事なので、私たちは地道な修行をしなければならない。

世界のアニメーションの60%は日本がつくったもの。海外では子供は夕方になると誘拐されるから家の中で遊ぶ。家で日本のアニメーションを見ている。アニメーションを作る人は絵がうまい人ではなく、理科系の人。水を表現するのに、水を計算して絵に描く。そういう才能を求められる。

4.鉄太郎の修行振り

鉄舟は千葉周作の玄武館に入って、幾千万と戦ったと剣の修行について書いている。幾千万は多すぎるかもしれないが、それくらい本人は一生懸命にやった。そういう無我夢中の修行は剣だけではなく、書・禅・色道も同じように修行した。
元プロミスの社長だった矢野覚さんにお会いする機会があった。消費者金融はイメージが悪いので、国家から統制が来る。仕入れたお金を貸すのが商売なのに、国が消費者金融にはお金を貸してはいけない、と統制してしまったから銀行はお金を貸してくれない。普通は商売できないなら止めてしまうでしょうが、矢野さんは日本の銀行が駄目ならと世界中の銀行からお金を借りて日本でお金を貸した。
問題は必ず出るが、あきらめたらだめ、苦労は超えるためにある。今や融資額1兆6千億円、利益600億、顧客230万人。また80歳になってから、胡錦濤の出身学校で東大よりレベルの高い中国の清華大学の教授で毎月指導に行っている。

バングラディシュのグラミン銀行は貧しい人にお金を貸すことでノーベル賞をもらった。なぜ貧しいかというと、人に雇われているから貧しい。竹細工を生業としていても、竹が買えないので材料を借りて作ってまた戻すという下請けの仕事になる。これではいつまでも貧しいまま。最初から竹を買って売れば利益が出る。その竹を買うための1万円を貸すのが、グラミン銀行。
グラミン銀行の貸し倒れ率は1%、先ほどのプロミスは4%、日本で不良債権が覆いときは何十パーセントになった。大手企業が返済せず踏み倒した。

要するに頑張れば、頭で工夫すれば何とかなる。


5.伊勢神宮早朝参拝で感じたこと
  中国との違い
①文化が途絶えている
毛沢東⇒劉少奇・鄧小平⇒文化大革命・紅衛兵・
天安門事件(1989.6.4)⇒江沢民⇒胡 錦濤
   ②「やさしい」という言葉がない
    「やさしい」だけは日本語で話す中国人。
但し、論語では「やさしい」を二つの言葉で孔子が語っている。
     仁⇒仁とはすなわち人を愛すること
     恕⇒まごころによる他人への思いやり

初詣で、伊勢神宮に参拝に行ってきた。前の日に神宮会館に泊まって、早朝に身を清めて、職員に2時間掛けて案内してもらった。ここで感じたのは、日本はいいなぁということ。伊勢神宮では内宮の遷宮が20年に1回ある。今まで62回やっているので1240年間の遷宮の歴史がある。

中国は毛沢東が1945年につくった。毛沢東は36年間くらい主席をやって、その後主席を譲った。しかし鄧小平のやることが面白くなく、若いものをおだてて、民主化運動の名のもとに紅衛兵を使って迫害・破壊を行った。ある100万人の都市では一夜にして数千人の人が反革命分子として生き埋めにされた。また勝手に人の家に入り家人を追い出し、財産を没収した。そういうことをした結果、紅衛兵が天安門広場で戦車を出して、大量殺人をした天安門事件が起こった。
毛沢東の後は、鄧小平が実権を握り、江沢民は反日運動をした。天安門事件のことを国民の意識から遠ざけるために、国外にターゲットを作った。第二次世界大戦の教育を始め、日本のことを持ち出した。
このままでは胡錦濤が国家の暴動になりやすいと考え、安倍首相就任のときになって、靖国のことをいわなくなった。中国は政権が変わる度過去を否定していくので、文化が壊れていく。韓国でも盧泰愚政権が終わり、ハンナラ派が実験を握ると今までと反対の政策になるので文化が長続きしない。
日本では戦後一貫して自民党が政治をしている。天皇陛下も繋がっている。中国は王朝が変わる。日本はすごいと思うのは、中国の本を読んだら、優しいという中国語がない。日本に来た中国人は日本で「優しい」という言葉を使うときは、「優しい」だけ日本語を使うという。中国語では、「優しい」を一言では説明できない。優しいという言葉がない国は優しくはない。

2500年前には、論語の世界で仁とはすなわち人を愛すること、恕とは真心による他人への思いやりとある。中国共産党の幹部連中は論語を知らない。日本に来て、論語を読まれていることを知った。
以上

【事務局の感想】
今回も現場に足を運んでいただいた現場の臨場感をもって発表をしていただきました。山本さんの鉄舟研究は、現場にもとづいて書くことを一つの基本にしておられます。これからも現場の力をもって、今までにない山本鉄舟研究が進んでいくことを楽しみしております。

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2006年11月23日

11月例会記録(2)

■ 山本紀久雄氏

やはり出来が違う


 神坂次郎著の『幕末を駆ける』を古本屋で購入した。
人間は直観力がある。その本には「山岡鉄舟」と書かれていなかったが、読んでいると突如として鉄舟が出てくる。
岩倉具視がお金を払ったリストがあり、そのリストの探偵費支払いという項目に鉄舟の名前が出てくる。探偵ということはスパイ。
西南戦争は中央政府と西郷隆盛の戦いで、西郷側から戦争を起こさせるために、中央政府は密偵を薩摩に送った。密偵が、薩摩側を暴発させるための手紙を落とした。これを見た薩摩側がカーッとなって、戦争を起こした。こういう話の中に鉄舟が出てきて憤慨した。

 川田剛(甕江)『正宗鍛刀記』での記述を紹介する。
岩倉具視が、“普段贈り物を断っているが、忠臣からもらったので特別に受け取った。彼の功績を世間一般に広く知らせることにした。その記録の文章を作ってほしい”と川田に頼んだと記されている。
この文章の中で、駿府で西郷隆盛を説得し無血開城に導いた鉄舟の功績を認めている。鉄舟は貧乏だったから「探偵費」というのは岩倉具視が鉄舟にお金を支払う口実だったのではないか。

1.幕末維新に活躍した人物は外国と接したことで変化した
   勝海舟  薩摩藩士  長州藩士

 明治維新の際、なぜ薩摩だけが盛り上がったかを考える。西南戦争を起こした中心は農民ではなく士族。南九州の薩摩藩、佐土原藩、高鍋藩などでは、全体の人口の20~30%が士族だった。
当時、兵農分離が行われており、兵は城下町に住んでいた。武士は江戸に住む、農民は田んぼで田舎に住む。武士は街中に住むから人口比率が3~5%と少ない。
薩摩藩は兵農分離が進んでいなかった。普段は田畑の仕事をしながら、何かのときに刀を出す。そのため南九州では士族の比率が高く、西南戦争は士族の不満から出たということがデータから判る。

 薩摩藩が明治維新を起こした。薩英戦争(薩摩と英国の戦争)で、イギリスの近代兵器に驚き、開国を推し進めた。
長州藩も下関事件が起き、四か国の艦隊が長州藩を攻撃した。外国を知った薩摩藩と長州藩の2藩が明治維新を作った。
勝海舟も出世しようと思ったからオランダ語を学び、長崎でオランダ人と接して船の操縦を学び、サンフランシスコに行った。外国に詳しい。


2.戦国時代の実力主義とは人の目利き力

 鉄舟は外国と一度も接していない。鉄舟は慶喜から指示されたときに、駿府に行きたくない、といいましたか?
 尊王攘夷だった人間が開国派の話で、意見を取り入れた。当時は勝海舟など、ほんの一部の人しか、官軍に降服して受け入れようと思っていなかった。ほとんどの人たちは官軍が来るならやってやろう!と思っていた。
 薩摩藩や長州藩、勝海舟は外国と接しており、新しい思想を持っている。ところが鉄舟は、旗本で、剣と禅をしながら古い思想の中に居た。それなのに、なぜ近代的な志向があったのか?少数派の言葉をなぜ理解することが出来たのか。

 慶喜から駿府行きの命令があり、勝海舟の元へ挨拶に行った。勝海舟は鉄舟に、これから先駿府まで官軍がいっぱいいる、と。鉄舟は“臨機応変は胸中にあり“とその場を臨機応変に対応すると言っている。レジュメ6の②に「心胆練磨之事」とある。23歳の時に書いた”臨機応変“が、この、いざというときに出てくる。


3.徳川慶喜が鉄舟を駿府行きに選んだ目利き力

 15代将軍慶喜はそんな重大なことをなぜ一旗本に頼んだのか。百俵二人扶持の鉄舟に頼んだのか。推薦されていたとしても、会ったときに信用置けないような人物だったら、頼まないだろう。慶喜には目利き力があり、鉄舟に会ったときに一瞬の直観力、目利き力で決めたのだろう。
戦国時代、殿様は子供つくり、誰を跡継ぎにするかを決めることが重要だった。判断を誤ったら藩はつぶれてしまう。

 鉄舟を推薦した高橋泥舟については、子母沢寛が『逃げ水』で書いている。高橋泥舟が生まれたとき親父が、“こいつは者になる!”と言ったという。顔を見た瞬間に高橋泥舟の未来を予測している。これも目利き力。人の査定能力がすごく大事。

 日本の経済は復活したと海外で評価されている。日本国民が小泉元首相を選んだ目利き力。戦国時代も現代も目利き力を大事にした。
また時代を表す元号についても同じ。徳川家康は、大阪夏の陣で豊臣家を潰し、これから平和が来ると、慶長20年(1615年)に元号を慶長から「元和(げんな)」にした。その後249年間戦争がなかった。
元号が「元治」となった1864年明治維新の4年前、世の中は“元来国を治めるのは天皇である”というムードになっていた。元治元年に長州が禁門の変を起こした。ここから戦争が始まった。


4.その鉄舟は明治天皇の扶育係りとなった

 明治天皇は15歳のときに天皇になった。明治天皇20歳、鉄舟37歳のときに鉄舟は侍従になった。明治天皇は15歳まで、宮中の奥深く女官に囲まれていた。公家なので男性でも白粉を塗っている。
天皇になられて5年経ち、当時の帝国主義ロシア、イギリス、フランスに対抗するためには、なんとかして明治天皇をそれなりの人にしなくてはならないと西郷隆盛が扶育係りに鉄舟を選んだ。明治天皇も鉄舟も大酒飲みだから、毎晩一緒に飲んだ。飲みながらどんな話をする?年上だから、経験談を話すでしょう。

 20歳のときの明治天皇は断髪してない。翌年、断髪令(1871年に発令)から3年過ぎて、断髪した。諸外国と交渉するときに写真にサインをして相手と交換する。それで急遽断髪した。
断髪前と断髪後の2枚の写真は内田九一さんという人が撮った。

 この21歳のときに撮った写真を15年使った。しかし35歳で21歳の写真を使うのは諸外国に会うときにどうだろう。伊藤博文も明治天皇に写真の撮りなおしをお願いし続けたが、明治天皇は断り続けた。
写真が取れないなら、写生をしようと考えた。しかし天皇を置いて写生をすることは恐れ多くてできない。


5.明治天皇の御真影はイタリア人画家エドアルド・キョッソーネの写生

 イタリアジェノバ、キョッソーネ美術館に日本から持ち帰った日本の古美術品がある。保存状態が凄く良く、並べ方にも愛着がある。彼は天皇が開いた晩餐会にも2回呼ばれている。

 明治天皇が皇居を出て外で食事する機会があり、天皇が食事をしている間にキョッソーネは、ふすまの陰からが写生をした。その絵を写真に撮ったものがご真影となった。

 外国の君主との写真交換の際、土方宮内大臣は、この写生によってできたご真影を(天皇に黙って作ってしまったので)おそるおそる差し出した。明治天皇は良いとも悪いとも言わず黙ってサインした。その後はこれをご真影として使った。
キョッソーネの明治天皇のご真影は、目がきりきりと輝いて、素晴らしい人物。天皇が亡くなるまでこの写真を使った。

 明治天皇21歳のときの写真とは顔が異なっている。人物が成長していると判断できる。20歳からの10年間、鉄舟が日夜教育したのだろう。鉄舟は自分が持っている哲学をしゃべった。では鉄舟の哲学はなんだったか。


6.鉄舟が基礎力育成の系譜
①「修身二十則」・・・十五歳

 ある日突然「修身二十則」を書くことはできない。過去、両親や友人などから学んだことをメモしておいて、沢山書いたメモの中から二十則を選んだのだろう。記録しておかないと急には書けない。


②「心胆錬磨之事」・・・二十三歳
(しんたんれんまのこと)

 鉄舟は32歳のときに駿府に行ったが、そのときに出てきた「臨機応変」に対応するという考え方は、23歳のときに書いている。

 23歳から24歳のときに②~⑤の4つを書いている。この2年間に鉄舟の基礎的哲学は完成したと思う。この中の23歳のときにメモしていた「臨機応変」にするということが、勝海舟と会ったときに出た。頭にしっかり入っているということ。
鉄舟は以下のように言っている。
一度思いを決めて事にあたれば、猛火の熱も、氷の冷たさも、弾の雨も、白刃も気に掛からなくなってしまうものだ。しかし世間ではこういうような人間を気魂の豪気なものと言う、そしてそれを褒める、だが私はこれを本当の豪気なものと思ったことは一度もない。
やり遂げると決めたことを思った通りやった、目的持って実行した、困難があってもやり遂げた、このような人を世間は素晴らしいと褒める。しかしそれはたいしたことがないと鉄舟は言う。

 本当の豪気というのは、問題にあたるときに心を決め、大いに奮闘するようなものではない。決意する前に決意していなければ駄目だ。つまりやるかやらないかではない。問題が来るのかが判らなくても、問題が来ても来なくても、いつでも同じ状態で居ること。時と事柄に応じて、縦横に変化することをいう。どんな問題でも立ち所に解決できる、そういう人間になりなさいと。

 目的持って行動することさえもできない人がいる。目的そのものも曖昧にしている人が事に当たっても、目的がふらふらしているから、行動に厳しさはない。何が目的で人生を生きていくのか。

 目的を持っていて、目的を達成しても、それはたいしたことではない、と鉄舟は言う。どんなことが起きても臨機応変にやっていけるような肝を作っておくことが、私の目標だと書いてある。
これが真理だが、自分の熱意が足りないからできていない。これを書いたのは、時々読んで、こうならねばならないために修練として書いて日夜訓練していると。

③「宇宙と人間」・・・二十三歳

 『ベルダ』の編集長と話していたら、鉄舟の「宇宙と人間」を読んで、あれはヘーゲルだ!と言った。ヘーゲルは、1700年代のドイツ観念論の哲学者。絶対知を出した人で、自然、倫理、芸術、宗教、歴史、哲学など、精神医学全般にあたる論を書いた。主観と客観は対立しない、全てに自分は一体化する。万物自然と自らの精神が混在的になることを書いている。
鉄舟の「宇宙と人間」を読んだときに、そう理解している、

 鉄舟は亡くなるときの心境は、世間は我と共にあり、地上はわれとともにあり
世の中の出来事は一切自分の責任である、生きとし生けるもの自分の子供である。万物と自分が一体化した。そして人間として、思考しない。臣民として思考する。

④「修心要領」・・・二十三歳

⑤「武士道」・・・二十四歳


7.やはり出来が違う

 禅を中心にして、剣・書から境地に来た。自分に起きたこと、気がついたことをメモしておいて、積み重ねて、エッセンスを拾い出して、修身二十則、心胆練磨之事、人間と宇宙などを見直しながら修練していた。
鉄舟の本を読んでも、強くこのようなことを言っていない。

 明治天皇は酒を飲みながら、真理を持っている鉄舟から話しを聞いた。
明治天皇はどんな人物かというと記憶力が抜群だった。しかし知識人ではない。論語最高の、“剛毅朴訥仁に近し”という人物で、意志が強固で、飾り気がなく、口数の少ない人物で、人として徳である仁を持った人。最高のご君主に近い人になった。20歳~30歳の重要な多感な時期に明治天皇は鉄舟に出会えた。

 鉄舟は、自らメモして、経験を整理し、理論として消化していた。それは鉄舟を研究していくとわかってくる。

 全国大会のときに松岡正剛さんについて話をする。鉄舟が始めて「武士道」という言葉を作ったという記述があった。鉄太郎23歳の安政時代に、彼は「武士道」と名づけていた。鉄舟は、哲学者だと思いませんか?
駿府の会談で成功するには、西郷隆盛を納得させるには人間の基礎的思惟基礎的がある

来月の全国大会にも参加してください。

【事務局の感想】
江戸時代、明治の一廉のじん物であれば精神を鍛えて直観力もすぐれているものとはおもいますが、鉄舟は若いときからの鍛え方が違っていたことがわかりました。
 鉄舟が初めて「武士道」という言葉を作ったのだということを聞いて、驚きました。武士道がこれほど人気になっていながら、だれもそのことについては言っていませんので、山本さんの研究に感謝いたします。これからも、鉄舟研究は面白くなりそうですね。


アメリカの所得階層は以下の四区分

1.特権階級

①400世帯前後いるとされている純資産10億ドル(1200億円)以上の超金持ち
②5000世帯強と推測される純資産1億ドル(120億円)以上の金持ち

2.プロフッショナル層

①純資産1千万ドル(12億円)以上の富裕層
②純資産200万ドル(24,000万円)以上で、且つ年間所得20万ドル(2400万円)以上のアッパーミドル層
③この層は高級を稼ぎ出すための、高度な専門的スキルやノウハウ、メンタリティを持っている。

以上の想定500万世帯前後は、全米11,000万世帯の5%であるが、ここに全米の富の60%が集中している。経済的に安心して暮らしていけるのは、この5%の金持ちだけだ。

3.貧困層

①ここで疑問をもつのは、かつての中産階級はどこに行ったかである。
②アメリカの中産階級は70年代以降、国力が相対的に低下する過程で、徐々に二分されてきた。
③一部は高度な専門的スキルやノウハウを磨いて「プロフッショナル層」へステップアップした。しかし、大半は「貧困層」に移ってしまった。
④理由は製造業の衰退で、レイオフされステップアップできなかった層である。マイケル・ムーア監督映画「ロジャー&ミー」にあるとおり。

4.落ちこぼれ層

①四人家族で年間世帯所得23,100ドル(280万円)以下。
②スラムや南部諸州に集中している黒人やヒスパニック、インディアン。
③海外からの難民と密入国した違法移民。
④この層が全人口の25%から30%占めている。

以上の出典は「超格差社会 アメリカの真実」小林由美著 日経BP社 

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11月例会記録(1)

■ 金子 マサ氏

ニューヨークのぬりえ展報告
―ニューヨークは「ぬりえ」である―

開催期間:
9月25日(月)~29日(土)日系人会
9月28日(木)~10月11日(水)紀伊國屋書店
10月3日(火)~10月21日(土)大西ギャラリー

1.海外にもぬりえがあるの?

 ぬりえは日本独特のものと思っていて驚かれる。海外でもぬりえは自国独自のものだと思っているが、ぬりえは世界中にある。
友人・知人が海外に行かれたときに、ぬりえを買ってくださるので、美術館には現在世界22カ国のぬりえが所蔵されている。自国でぬりえを出版している国や、カンボジアなど内戦から10年しか経っていないような国は輸入品のぬりえで子供たちは遊んでいる。

2.何故海外で展覧会を開催するのか?

 ぬりえは昔からあるものですが、子供のする遊びとして研究されていなかった。
きいちが伯父ということもあり、ぬりえが頭にあって、ぬりえ美術館を作った。
ぬりえは、ファインアート、挿絵、絵本、の下という位置付けになっている。ぬりえを文化にしたいと、美術館開館3周年は『ぬりえ文化』を出版した。調べていると、ぬりえの中で、すごく美しく、文化的で、芸術的なのは、(伯父だから、というのではなく)きいち以外にはないということがわかった。「世界で一番美しく、文化的なぬりえはきいちです」と紹介してきた。
 海外の出版社を取材しても、ぬりえは日本と同じ扱いで、絵本部門、ぬりえ部門もある場合、絵本の方が価値の高い扱い。ぬりえの文化的な背景は海外でもない。
ぬりえを文化にするために活動しているので、本を出して、次にぬりえを海外に紹介して交流していきたい、と思いNYで展覧会を行った。

3.何故ニューヨークなのか?

 今のアメリカは、政治と経済、実は芸術分野においても世界の中心。千住博によると、NYは、”center for the arts”といい、世界中の美術館のディレクターや関係者が頻繁に絵を見るために全世界から集まってくるところ。日本は残念ながら、世界で流行っているものの影響を受けている状態だが、NYは発信する場所」と言っている。そのようなNYに来る世界の目の肥えた方たちに見ていただきたかった。
 出張で訪問した1980年のNYでは、ギャラリーの中心はSOHOだった。今はファッショナブルな町になり、レストラン、ブテック、シャネルもできた。観光地になってしまった。
以前は倉庫だったSOHOは価格が上がり、若い芸術家は住めなくなってくる。ギャラリーも若い人を応援するために高いところではやっていけない。そのため今はギャラリーの中心は、チェルシーという街に移った。ギャラリーは路面店ではなく、ビルの一部屋一部屋に入っていて、ギャラリーめぐりをする人が沢山いる。
 元々チェルシーは19世紀には高級住宅街だったので、レンガ造りの素敵な建物がある。芸術家が移り住むとNYでは新しい街が出来ると言われて、アートが街作りをするのがNYである。今、チェルシーは文化人、芸術家が住む町になっている。

 そのチェルシー26丁目にある大西ギャラリーという場所で展覧会を開催した。イタリア人と結婚している日本人女性が経営しているギャラリーで、イタリアと日本のアートを積極的に紹介している。去年の12月にOPENした新鋭のギャラリーで、壁も白、床も白いタイルのモダンなギャラリーである。
 ぬりえの展示は、美術館では1枚ずつ額に入れているが、NYでは、赤いフレームの中にぬりえを8枚入れて15台展示した。
1枚1枚のぬりえは小さいので、大きな旗(幅40センチ×2メートル)を3本作り、人目につくようにした。ぬりえの女の子を等身大サイズにしたパネルも展示し、アピールした。

3.きいちのぬりえの反響・評価
 
 バナーやお人形に加工した女の子は、袋ぬりえの表紙を使った。現代の日本の東京にもないし、ましてNYにもあのような色合いがない。その色合いを使って旗をつくったので、入ってきた方は目を奪われて、それから1枚1枚白黒の絵をみてくださった。これは最初から意図して仕掛けた。
アウトスタンディングと言い、カラフルさに目を奪われていた。

 ぬりえに目をやると、ぬりえ1枚1枚が、しっかり構築されている、手が込んでいる。手描きであることはアメリカの小学生もわかっていた。きいちでなければ描けない少女の可愛さ、ぬりえの繊細さ、デザイン性、また、オリジナリティーが評価された。
「一人の人が描いているの?」という驚きの声もあった。

 オープニングパーティは、約180名ご参加いただき、にぎやかにスタートできた。
企業人のときには、NYの支社があり、頼るところがあった。今回は本当に一人であったので、ツアーで鉄舟の方や、後輩の知り合い、同級生のお嬢さんなどがNYにいらしてくださったのは大変心強く、嬉しかった。

 オープニングパーティのときに共同通信の記者が日本人用、英文用と二人で来てくれ、NYでのきいちのぬりえ展の記事が日本の地方紙やジャパンタイムズに紹介された。
その『ジャパンタイムス』の中から紹介する。
「きいちのぬりえの可愛さを認め、きいちの芸術性とディティールに感銘を受けていた」と全体的な印象を書いている。子供のイラストを書いているプロの方のインタビューでは、「全ての顔が同じポジションなのは珍しい、きいちが描いたように単純な子供の愛らしさやデリケートな部分をとらえるのはすごく難しい」ときいちの才能を認めてくれた。「アメリカのぬりえと比較してずっと繊細でこちらの方をぬりたいわ」というアメリカの子供たちの意見も掲載された。

 また”インタレスティング!“(面白い)という感想もあり、この感想を3つに分類した。
①一つは、子供向けの展示物として非常に面白い、という感想で、教育者、子供関係の方に言われた。
②グラフィック、芸術の方は、デザイン性で面白いと評価。
③一般的な面白いという意味で”インタレスティング!“と言っていた。

 ギャラリーにずっと居て、日本と違うと思ったのは、ぬりえ美術館ではお客様はほとんど女性だが、NYのギャラリーめぐりをしている方は、子育て世代は時間が厳しいので、少ないだが、若い人と50代以上の方、中でも男性が非常に多い。ギャラリーカタログ見ながら、通りすがりに入ってきてくれて、男性も評価してくれた。それは今後の展覧会の自信となった。

 親友がジャカルタに居るが、共同通信の記事がジャカルタにまで届いていた。
たまたまジャカルタに友人がいたから届いたのであって、もしかしたら、他の地区にこの記事がいって、他の国でも読まれているかもしれない。
他にもフリーペーパー『週刊NY生活』には大きく取り上げられた。展覧会のDMを持って、こういうことのためにNYに来たとDMを見せると、邦人の方は“見てました、知ってます”とほとんど知っていた。


4. 日本的なものが人気

 NYに35日間の長い間、NYを縦横してみている。すごい日本ブーム。アニメ・マンガは日本の紀伊國屋だけじゃなくて、大きなチェーン店の本屋にも売られている。「マンガ」、「アニメ」という日本語が一般化。和食は高級てんぷら、すき焼き、寿司から、牛丼、ラーメン、焼き鳥屋、居酒屋の大衆的なものになり、日本酒もブームになっている。

 今回は居酒屋や日本酒を売っているお店に行った。1980年代にNYに行っていたときは、和食店は駐在員相手のお店だったが、今はその土地の人を相手にしている。
外人も日本人もいっぱい飲み食いしている。名前も面白くて、「ケンカ」、「ビレッジ横丁」とか面白い名前がついていた。
居酒屋の流行の理由を考えてみると、アメリカでは、お酒はパブで立ち飲みして、食事は、レストランでする。日本の居酒屋はお酒も飲めて、食事もできる。そういう業態がアメリカにはなかったからではないか。また価格もすごく安い。ナイアガラの滝の観光の帰りに居酒屋に立ち寄ったが1人2000~3000円で食べられる。

 なぜ和食や日本が流行っているかというと、日本人のおもてなしの気持ち、良い商品を作ろうという考え、それが流行らせているのではないか。
初めて日本料理の居酒屋にいったアメリカ人の知人は、グレートサービス!あんなサービスを受けたことがない!と狂喜乱舞していたという。私から見たら、ちょっとだけ良いくらいのサービスであった。しかしアメリカでこの程度のサービスを受けるには1万円くらい必要。サービスの現場で私たちと触れ合うのはマイナリティー人が多いので、サービスが良いとは言えない。気持ちの良いサービスが居酒屋レベルで受けられることに驚いている。

 ユニクロがNYにも出展した。GAPとユニクロを比較するとユニクロの方が、縫製、デザイン性、品質が良く値段も安いとアメリカでは評価されている。よりよいものを作って、値段も安くしている。
日本文化の背景を考えると、ぬりえは子供の遊びであり、塗って捨てられてしまうようなものだが、そのようなものにも手を抜かずに描いている。その日本人の気持ちが伝わってギャラリーに来た方に感銘を受けさせているのではないか。

 このような状況を考えるとき、これからも日本的なものが流行り、まだまだ広がると思う。
外国は規制を与えるかもしれないが、日本人ならそれをクリアしていくのではないか。

5. ニューヨークはぬりえである

 NYは縦に、アベニュー(街)、横にストリート(通り)で構成され、アッパータウン、ミッドタウン、ダウンタウンと分かれている。東西南北でそれぞれエリアの顔が違う。
アメリカは人口が10月17日で、3億人となり、中国・インドの次に多い。それは移民が多いからで、11秒に1人、人口が増えている。そのアメリカの中で大都市NYは、移民を含めて様々な人が集まっている。短期、長期に仕事をする人、学ぶ人、観光など。それぞれの人は、それぞれの思いを持ってやって来ている。
 そのNYを考えると、NYの街は「ぬりえの下絵」だと思った。それぞれの思いによって、NYの色が変わる。それぞれの人によって、夢や志によって、さまざまな色に塗られるNYは「ぬりえ」ではないか。
「NY=ぬりえ」そのような場所で海外初のぬりえ展を開催出来たのは成功だった。
来年はドイツ、2008年10月はパリでの展覧会を予定しているので、1歩ずつ積み重ねていきたい。

6.ぬりえの未来

 ぬりえコンテスト・・・子ども、大人
 国際ぬりえシンポジウム

 今年の8月にJOMOが全国ぬりえコンテストをした。対象者は子供だが、非常に活発だった。
12月に『ぬりえの心理』という本が出る。『ぬりえ文化』は専門書だが、今度はもっと読みやすいエッセイ風になっているので、楽しみにしてほしい。外国の図書館にも置いていただきたいので、英文にする予定。
 来年の7月には「国際ぬりえシンポジウム」が開催される。脳を研究する方たちが集まって、講演会、ぬりえ大会も計画している。シンポジウムに向けて、07年6月には「検証大人のぬりえ」を出す計画でいる。
さらに08年には「ぬりえを旅する」として、海外のぬりえ事情を発表していきたい。特に大人のぬりえについては日本が先端。
 今日本で人気の「大人のぬりえ」ブーは、世界中に広がるのではないかと予測している。ぬりえを文化にという旅は各方面に広がっている。

今後ともご支援宜しくお願い致します。
          

【感想】(例会参加者・田中達也)

金子さんの発表はニューヨークでのぬりえ展の成功への喜びと自信に満ちあふれたものでした。
1カ月以上に及ぶニューヨークでの生活で得た情報、その中で日本のぬりえはニューヨークの方々に高い評価を受けたこと、また日本の文化が様々な形でニューヨークの人々の生活の中に浸透していることなど、大変興味深いお話でした。
世界中で日本が評価されているということの実態を紹介していただき、ホントに日本は世界で流行っているんだなぁという実感を持つことができました。
日本のぬりえはさらに広がり、来年はヨーロッパに紹介されるとのこと。これからがますます楽しみですね。ご活躍、期待しています。

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2006年10月28日

10月例会記録(1)

■ 二見健吉氏

 現代に生きる武士道   
      第7講 武士道の現代への生かし方

現代に生きる武士道を講演させてもらっている。
本日は、武士道を現代に生かす参考事例をお話させていただきたい。

36年間サラリーマンで勤め、今年6月末に定年退職した。
合気道を大学の1年生から始め40年やっている。
山岡鉄舟の春風館(剣道の道場)からお名前をいただき、春風会という名前で合気道を実践している。
合気道をやっていても、道場の中で技を伝えることはできるが、心を伝えることは難しい。
素晴らしい日本の文化を次の世代に伝えたく、40歳のときに『春風』という雑誌を発刊した。

「春風」には、鎌倉の円覚寺を立てられた無学祖元の言葉であり、国を守るという意味がある。
また、春風という字は、優しい、国を守る、の他に、人のために尽くすという意味も持っている。「春風」というのは鉄舟先生の意を継いで、伝えていくには良い名前。

全生庵のお坊様に春風という字を書いていただいて、その文字を雑誌『春風』の表紙に使わせてもらっている。情熱・意欲は続いて、若い人に伝えていこうと思う。


   ▼二見の考えと実践例 
 合気道は、ただ護身術に終わるのではなく、護心道にまで昇華する必要があると考えています。合気道は、武道であり、日本の伝統文化であり、武士道精神を生活で実践できるよう教育(躾・感謝・徳育)をしていきたい。二見の実践例を紹介します。
  
『武士道』は、新渡戸稲造先生が出されたもの。この武士道は、日本の精神の根幹なのではないか。武士道について徳目がある。7つの徳目、徳目の中に17章ある。ひとつの例で言えば、「誠」とは、言ったことを成すことが誠。徳目で理解していても実践しなければならない。
武士道の中に日本人が出ているが、西郷隆盛が一番多く登場する。その西郷隆盛が、おぬしやるな!と思った人が山岡鉄舟。山岡鉄舟について勉強しなければと思って、勉強している。
知識と行いと一致することは陽明学の真髄。陽明学を学んだ西郷隆盛も実践している。
吉田松陰の孫弟子にあたる品川先生を師と仰いで、教えを受けている。


[行動規範]
心を求めること。志を立て、理解し、実践する。次に実践していることを伝える。
理解して実践するだけではなく、次代に伝えることが行動として大事だと自分は思っている。

   1 日本の心、先師の心を求める。 ・・ 立志
   2 求めたものを理解し、実践する。・・ 知行合一
   3 実践した事を、次代に伝える。 ・・ 教育  

  [江戸/明治時代と異なる現代]
   1 地球環境保全を考えねばならなくなった。
地球環境保全を考えなければならない。新渡戸稲造が『武士道』を書いておられた頃は考えなかった。
ソウルオブジャパンではなく、ソウルオブジアース。
日本の宝ではなく、地球の魂であるべきだと考えている。

   2 寺小屋教育時代にあった、師を敬う、親を大事にする躾がなくなった。
師を敬うこと。一騎当千の人物、一人にお会いしたら千人の先生にお会いしたような先生に、求めれば必ず、お会いできる。

  第一 合気道において
今5箇所で合気道を教えているが、合気道では、礼儀を厳しく伝える。

  1 稽古中、「礼」儀を厳しく躾ける    「礼」
  2 稽古後、春風会の四弘誓願を斉唱   「義」・・ モラルを守る
     私は先に挨拶をします     私はきちんと背骨を伸ばします 
     私はきちんと履物を揃えます     「礼」「勇]
     私は約束を守り、徳を施します。 「誠」・・約束を守る
これは、稽古のあとに復唱している。
  3 小学生に対し、日本の伝記漫画の貸出 
  4 14才に対し 立志式の企画実施 「正義の道理」
  5 感謝の気持ちを高揚させる為、   「仁」・・武士の情け
     十円「日供」とその奉納。 社会福祉  交通遺児基金
生徒さんには稽古に来ることができるのは、経済面、両親の健康、などいろんな事情が良くて来ることができていると伝える。その皆さんのおかげという気持ちで10円を社会福祉に奉納。

  第二 会社において       「勇」
  1 師友読書会の開催 月一回 「道元」・「大いなるものへの信頼」
  2 東海道クリーン作戦の実施 年九回。落ちているゴミを拾う。
  第三 地球環境ボランティア 
忠義というと国という単位になるが、今は地球に対する忠義ではないか。


1 内蒙古の沙漠植林に参加 
日本から一番近い砂漠・内蒙古ホルチンで砂漠植林をさせていただいている。皆さんからいただいたお金6万円くらいを砂漠の植林に寄付したら、ホルチン砂漠の小学校に運動場ができた。
  2 静岡県中伊豆における植林    
  3 烏雲物語を地元小学校に寄贈  「忠義」
  4 読後感想文の募集と表彰。   「勇」
『烏雲物語』、この本を子供たちに読んでもらいたくて学校に寄贈した。
本当に読んでもらわないと困るので感想文を募集したら、30人~40人の人が応募してくれた。今年5回目を開催します。
  5 ネパール植林への支援 師友読書会の会費 全額を寄付。
  6 荒れたみかん山を蘇生するボランティア参加

  第四 その他
  1 山岡鉄舟研究会で、武士道の源を考える。
  2 「仏国土をつくろう会」 の運動方針に賛成
     1) 延命十句観音経の写経 
     2) 十円日供運動の実践 ・・インドの学校教育 病院に寄付
  3 「無財の七施」の実践
    私は、「無財の七施」を名刺大にして、真民さんの「念ずれば花ひらく」と一緒にして,縁ある方に配賦させて戴いている。
人に親切すると帰ってくる。お金をかけずにできることはある。地球は運命共同体。

    春風会 実践事項    
      無財の七施(むざいのしちせ)
眼 施(やさしい眼をして人に接する) 
和顔施(ほほえみある顔で人に接する)
  言辞施(親切な言葉で人に接する)
身 施(礼儀正しく人に接する)
  心 施(感謝の心をもって人に接する) 
牀座施(席を人に譲ること)
  房舎施(気持ちよいもてなしをする)              
  4 「地球は家族、運命共同体」   身の丈に応じた寄附  「仁」
    日本ユニセフ  難民を助ける会  
    日本キリスト教海外医療 地震等のさいの被災地への義援金

  ▼徳を天に積む  お返し
 天国に、「徳」という無形の貯金を積んでおくこと、これを積徳といいます。すると必ず「善」という無形の利息が返ってきます。
 「徳」は、先述したことの一つ一つです。例 挨拶 履物を揃える 掃除
 善因善果(善いことをすると善いことが返ってきます)。逆に悪いことにも同じようにいえます。悪因悪果です。これをまとめて仏教では因果応報といいます。
 十円の寄付と百万円の寄付は、人間界では差がある。しかし天界では、同じ価値である。
 「ツイて いること」を感謝し、それで終わらしたら、それで終わりです。
 大事なことは、感謝を具体的な実践でもって他に奉仕する。言葉を変えていえば、お返しする。恩返しをする。そのお返しは、人間界では、大小がある。例 ゴミ拾い、学校を建てる。しかし天界では、同じ価値である。
 私は、昨年の十一月十三日(父の逝去)から、今年十月現在まで、
 「ツイて いる 有り難い」思う日々が続いています。感謝。感謝です。

 私の使命は、合気道という宝を磨き、「稽古作徳」「人造り 国造り」です。
   私の武士道は、 「The Soul of Japan 」(新渡戸稲造)でなく
    徳及び地球環境をも考えた 「The Soul of the Earth」 です。 
「春風」誌の役割  二度と無い人生を 勇気と感謝で生きる為のヒントの提供
     日本の先師の紹介・二見自身の実践事例の紹介 

今日徳島から帰ってきた。『烏雲物語』を読んでもらいたくで、300冊寄贈をしようと思ったら、絶版だった。退職金の中から100万円預けるから再販してほしいと出版社へ情熱で頼んだら。とりあえず500冊再販してもらえた。
そのお礼のために徳島に行った。徳島県の博物館に山岡鉄舟の書があると教えていただき、見せていただいた。次の『春風』に掲載します。
最初にベートーベンを演奏したのは徳島県で大正6年だそうだ。
ドイツの俘虜が徳島に集まっていた。
『烏雲物語』から発生して、いろんな出会いがあり、天が私を助けてくれていると感じた。

生きている感じがしない。生かされているという感じである。
『春風』誌は二度とない人生を勇気と感謝の小さな種を撒くことを提供するための本。自分の体験を書きながら発行して、この世を素晴らしい国にしたい。それが武士道かと思う。鉄舟会や会社、いろんなところでお話しをさせてもらっている。この社会をよくする一滴になればと思っている。
  
                                  

【事務局の感想】
今回は第7講として、二見さんご自身が武士道を日々の生活にどう活かしておられるかをお話しいただきました。武士道の精神を実際に実践しておられる二見さんのお話には迫力があり、まさに「言うは易し、行うは難し」を地でいく素晴らしいものです。そう簡単には真似できません。このようなすごい方がメンバーでいてくださることを誇りに思います。


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2006年10月07日

9月例会記録(2)

■ 山本紀久雄氏

23歳でつくった思想体系「宇宙と人間」

8月に取材でチリに行った。真冬だから気温は零下2度。驚いたことにチリは、経済成長過去20年間6%平均で伸びている。チリ政府から2回も勲章をもらっており、チリに永住を考えている方が案内してくれた。街並みも美しく、中心街から80キロはアンデス山脈がみえてしまう素晴らしい国だった。
チリでは犬が放し飼い。いわゆる野良犬がいる。日本には放し飼いの犬がいないので珍しいと写真を撮る。チリの人には“日本には犬がいないのか?”と思われてしまう。

金子さんに代わって報告する。今月9月18日は敬老の日だった。東京高島屋では『脳を鍛えるぬりえ』がこの日の売れ筋物品だった。日経新聞にも載った影響が大きい。ぬりえは時流を極めている。医学界から、来年6月に国際ぬりえシンポジウムが開催されるから参加してくれないか、と打診があった。委員長・副委員長は大学教授、顧問に元総理の細川さん、水島裕さんなど著名な方が入っている。運営委員に金子さん、私も入っている。お金は医学グループが集めてくれるから苦労しない。

トリプトファンの研究で有名な高田教授は鉄舟も研究しており、今度お会いしたときに鉄舟のことについて聞いてくる。セロトニンについて研究されている有田先生には今度ぬりえを塗ったらどれだけセロトニンが出るか?ということを調べていただく。最近ぬりえに関わるようになり、医学界の著名な教授とお会いすることができた。現在、健康倶楽部の理事なので、桜井さんには劣りますが、健康について勉強していることをご報告する。

今度ぬりえの心理という本を出版する。『ぬりえ文化』は文章が多くて読むのが大変。書くのももちろん大変で、50冊・60冊読んで書いた。『ぬりえ文化』はぬりえに関する教科書で、あの本を読んで大学の教授や京都大学の大学院生などが金子さんの元へ話を聞きに来るようになった。1500冊印刷したのが、あと50冊でなくなる。『ぬりえ文化』は、素養のある人は読んでいるが、研究者ではない人にも読んでもらわないといけないということで、ぬりえの心理についてのエッセイを出版する。内容は、私が、3歳の子供・32歳のお母さん・ぬりえが置いてある販売台・塗られるぬりえそのもの・ぬりえを出版する出版社、になって擬人化法で書いた。子供になるのは難しい。全員が通り過ぎているけれど、3歳のときの記憶は単発で出来事を覚えているが、心情についてはわからない。3歳4歳の心情については本を読んでも推定しか書かれていない。そこで子供を観察した。『ぬりえの心理』は世界に発行するので、無国籍にしなくてはならない。ある国のスーパーで行われていたぬりえ教室で、子供を観察していたら丁度3歳の子がいて、観察していたら、はっと解ってそれで一気に書き上げた。簡単に読み終わるからぜひ読んで欲しい。12月の全国大会にはできあがっているかもしれない。

1.鉄舟人生の節目
「鉄舟の生涯の“節”ともいうべきものを考えれば、まず十七歳にして父を失ったときがその第一節、二十四歳にして尊皇攘夷党を結成したのが第二節、三十三歳にして駿府に使いをした頃からが第三節、四十五歳の大悟が第四節、しかして四十九歳で庭の草花を見て機を忘じたのが第五節完成期、はなはだ大胆な分け方だが、このように見ていいのではないかとおもう」
(大森曹玄 山岡鉄舟 春秋社)


人生には節目がある。鉄舟研究家の有名な大森曹玄さんが鉄舟の節目について以下のように述べている。
1.17歳にして父を失ったとき。
2.24歳で尊皇攘夷党を清河八郎と結成したとき。
3.33歳にして慶喜に言われて駿府へ西郷隆盛を説得に行ったとき。
4.45歳で悟ったとき。
5.49歳で庭の草花をみて、機を忘じたとき。

5について解説すると、鉄舟は結婚してすぐに色情修行に入った。男と女の関係ではない奥のものを探すための修行に入った。無数の女の方とお付き合いし、離婚の危機もたくさんあった。最後に色情修行も終わって、庭の草花をみて人間が完成した。完成したから明治時代に人気にあった人物になりえた。


1.節目を現実に遭遇した事件で捉えるか、内面思想変化で捉えるか

このように事件で人生の節目を整理する方法もある。たとえば、学校に入学した、卒業したとか。しかし、何故その学校を選んだのか、なぜその問題が起きたのか、その原因は自分の中にある心が決めたことである。その学校に決めたのは親が言ったから。では親の言うことを聞かなければと思った自分の心にその結果の根本がある。結果の前に原因である。全ての原因は内在している。
小泉さんが良い・悪いかは自分の問題だ、と考えられたら、それは最高の境地。
鉄舟は明治天皇が良くなければ私の責任だ、という境地になれた。これを解明しないとならない。


2.鉄舟思想の節目
「宇宙と人間」


この図は鉄舟が23歳のときに書いたものである。
1858年、安政の大獄で、井伊大老が監獄に入れ始めたのは9月からだった。
その4ヶ月前に鉄舟はこれを書いている。この図は発表するものではない。当時は無名の貧乏旗本であり、自分が見るだけのメモとしてこれを書いた。「宇宙」という言葉は現代でも新鮮。鉄舟は一度として世界に出たことがないのに、「宇宙」という言葉をどこから持ってきたのか?
図では宇宙の下、「地世界」を諸外国と日本国の2つに分けており、日本を4つに区分けしている。しかしその中に徳川幕府との記述がない。鉄舟は当時徳川幕府の旗本なのに、徳川幕府を超えていた。天皇の下に国民はみんな同じであるという横並びの民主主義の考えを持っていた。1858年に民主主義が入っていたのか?この思想がなければ、新しい時代が来ることがわかっていた西郷隆盛を説得することができなかった。

勝海舟が、福沢諭吉を通訳にして、咸臨丸でサンフランシスコに行ったが、鉄舟が「宇宙」と書いた2年後。

彼らはアメリカ人に「ワシントンのお子様はどうなっていますか?」と質問した。
江戸時代の将軍家は世襲制。家康の息子は2代将軍秀忠、秀忠の息子は3代将軍家光。アメリカの初代大統領は、ジョージ・ワシントン。江戸時代だと徳川家康のような人。
そんな偉い方の子孫はどうなっているか?とたずねた。
アメリカ人が「知らない」と答えたとき、咸臨丸の人は驚いた。アメリカでは大統領が4年に1回交代することも知った。

勝海舟は敏感なので、アメリカは世襲制ではないことを知り、民主主義をすぐに理解した。その後世襲制について江戸幕府で意見をしたら左遷された。

しかし、このようなことはアメリカで体験してくれば誰でもわかること。現場へいって見つけることは普通である。しかし鉄舟は外国には行ってない。庭の草を全部食べつくしたほどの貧乏だったので、外国へは行けない。どこからこの民主主義を持ってきたか。これは本にも書いてないので、究明しないといけない。

人間というのは思想・行動があって、結果がある。思想を改革すれば行動がかわる。
行動から思想を変えようと思ってはいけない。思想を鍛えないで、行動しているからうまくいかない。問題は相手や時代・環境ではなく、自分の中に内在する心の問題と気がつかないと、行動は変わらない。


3.日本政治の小泉首相から次期首相への継承という思想意味

安倍さんが小泉さんの意思を受け継いで首相になった。小泉さんは、5年前首相になったときの2001年5月の所信表明演説で3つ言った。1つめは不良債権をなくすこと。今は不良債権が片付いたから銀行もお金を貸し出す。2つ目財政構造改革。自民党が赤字国債を発行した。2006年骨太方針で、2011年にはプライマリーバランスをとり、収入と支出を合わせる。現在は収入より支出が多いので、17兆円くらい国家予算を減らさないといけない。これは法律になり、方針が計算できている。
3つめは21世紀にふさわしい競争政策を確立する。この問題は、今後やっていかなくてはならない。ライブドア、西部鉄道、有価証券、道路公団の談合、水谷建設などの事件が発生した。国は既得権をもった人を排除し、競争させたいと思っている。この3つが所信表明演説であった。

競争といっても、力が強い人が勝つ、というイメージをしてはいけない。健在な経済システムの中で、競争するシステムを作りたいと思っている。どういう競争かというと、人間が作ってきたしくみから考えないといけない。
産業資本主義の時代、お金を持つ人間が一番強かった。田舎には安い人権費で雇える労働力があり、工場を作り、製品を作り、外国に売って、産業が発達してきた。日本も戦後、20年代後半から30年は高度成長時代で田舎から大量の人が働きに来た。人件費が安いときには工場設備をつくっておけば儲かる。しかし田舎の人がいなくなると、人件費があがってくる。人件費を高くしては工場で物を作っても儲からないから、今度は中国に工場を持っていく。昔と同じやり方では儲からない。ではどうするかというと、2つしかない。1、作り方を工夫する。工夫して生産性を上げる、他社と違う方法でつくる。2、他社と違うものをつくる。ハイブリットカー、薄型テレビ、など、人の気がつかない商品をつくる。この競争には金は絡まない。他と違った商品をつくるのは人間しかいない。人間のどこから?人間の頭脳からでる。人間の頭脳競争になる。

本当にそうなるか?


4.継承される内容の必然性と、競争という意味内容

『美しい国』という安倍さんの著書を読むと安倍さんという人がわかる。お父さんは外務大臣で、英才教育を受けている。構造改革については、努力が正当に行われるためには競争がフェアに行われなければならない、と言っている。

構造改革が目指してきたのは、既得権益を持つ人が得をするのではなく、フェアな競争が行われ、それが評価される社会にすること。
日本は和の社会だから、既得権益の中に閉じ込められていた。フェアに競争が行われ、正当に評価される社会にする。本に書いたから、その通りにしないと追求される。

日本国の総理が、総理の思想が日本を決めていく。好き嫌いではなく、総理がどんな思想を持っているかが大事。総理の思想もそうだが、自分の思想も時代とあっていないと駄目。時代と会った革新的思想を持ちえたら、世の中に登場することになる。ぬりえが良い一例である。


5.脳ブームの背景の捉え方
競争社会は安倍さんに継承される。脳ブームはそれを意味している。
競争は体ではなく、一人一人の中にある能力、一兆個の脳細胞をどう使うかである。
使い方のしくみを皆さんが学習していくということ。


【事務局の感想】
今回の山本さんの鉄舟解説の目玉は、鉄舟が1858年に書いたという「宇宙と人間」図です。
勝海舟がアメリカに行き民主主義を知る2年前に、鉄舟は民主主義の考えを持っていたということです。日本に民主主義が紹介される前に、すでに鉄舟は民主主義という考えを持っていたというのです。これには驚かされ、そして鉄舟の先見性をあらためて認識いたしました。なぜ鉄舟はこの最先端の思想を持つに至ったのか。山本さんの今後の研究に期待したいと思います。

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9月例会記録(1)

■ 櫻井 義孝氏

心と身体の健康法
―心・身体の健康維持と脳の活性化のためのアドバイスー

※櫻井氏の希望により、目次のみの掲載となります。

1.始めに
2.心&肉体との関係    
3.感動&笑いの大切さを認識しよう  
4.身体の各部位の使い方
5.柔軟な身体とリズム感
6.脳―これはビックテーマ
7.最後に

以上
  
                                 

【事務局の感想】
櫻井さんには、膨大な事前資料をご用意いただき、社会問題から脳などの生理学的な見解に至るまで、健康に関するあらゆる角度からのお話をいただきました。時間が限られているためすべてを詳説いただくことができませんでしたが、健康、特に脳の健康=若さを保つためのいくつかの示唆をいただきました。脳の活性化法や老化度チェックなど、お試しになってみてはいかがでしょうか。

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2006年07月23日

7月例会記録

■ 山本紀久雄氏
「鉄舟の父にまつわるビックリ事項」

資料の古地図(切絵図という)に靖国神社があり、鉄舟が江戸に戻って住んだ
小野鶴次郎の家も載っている。

(資料の補足:印刷が切れた文字部分)
「17歳の鉄太郎が江戸に戻って住んだ異母兄小野鶴次郎屋敷、嘉永5年(1852年)」

当時切絵図が頻繁に販売されており、この資料(切絵図)の前の版では、小野鶴次郎の家が、お父さんの「小野朝右衛門」になっている。切絵図は江戸に来た人が買い求めて、これを持って江戸を見物して歩いた。先ほどの森田さんのお話では、会津藩と仙台藩が10回火事にあったといっていた。これはケインズ経済学で、景気が悪くなると火をつける。民間の長屋はまた燃えるからと簡単なものしかつくらない、そんなことを言っている人もいる。

1.江戸時代を研究する意味

「江戸時代を研究する意味」の「江戸時代」を「鉄舟」に置き換えて考えてもらえればよろしいかと思う。

「今は一身にして、二生を経る」
福沢諭吉が、明治になってから言った言葉。福沢諭吉は下級武士から明治時代になって慶応大学を創設し、文化をリードした人。幕臣とそれ以後の生活が2度来たということを意味している。鉄舟も幕臣と明治天皇の侍従と、2度生きた。福沢諭吉や鉄舟以外の幕末の人たちも「江戸時代」と「明治時代」の二つの時代を生きている。

二つの時代を生きるということは、現代でもほとんどの方が当てはまる。現代は長生きの時代で、85~90歳まで生きる。お勤めの時代、定年後、と2つの人生がある。

福沢諭吉は、140年前に今の時代も見抜いていたと考えた方が良い。さて、寿命が延び、2つ目の人生をどうするか?
一つ目は過去基準で生きる人。昔の勤め人と比較して、次の一生を考える。
二つ目は業界基準で生きる人。定年した者同士で、自分と他者を考える。
三つ目は可能性基準。どういう可能性を生きたかを考える。
ワールドカップでの日本のサッカーは世界的なレベルの戦いを想定していなかった、という記事が日経新聞に出ていた。練習でフルに力を出していなかった。練習で出なかった力をどうして本番で発揮できるのか?世界基準に合わせて練習していたのか、という内容。

ロンドンにはブックメイカーという政府公認の賭け屋があり、ここでのワールドカップの日本の掛け率は一番低かった。実力は、F組4チームの中では最下位だと予想されていた。FIFAの評価基準はF組内ではブラジルの次だったので、日本人はオーストラリア、クロアチアに勝ち、予選を通るという甘い見込みがあった。日本とロンドンでは見込みが違う。世界でみたときに日本の見解は甘い。

我々も基準をどこにおくか、可能性をどこに置くかを考えて、生きていかなくてはならない。では、鉄舟は基準をどこにおいたか、ということを考えてみる。

坂本竜馬は、みんな知っている。鉄舟は知らない人が多い。坂本竜馬はなぜ有名なのかというと、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』がヒットしたから。織田信長と坂本竜馬は日本人が大好きな二人で、この二人が登場すれば、テレビも本もヒットする。

なぜ、この二人が日本人に人気があるかというと、司馬遼太郎の描き方に原因がある。坂本竜馬は、お姉さんに甘えて育って、剣術は少しできたので、剣術修行のために江戸へ出た。あるとき世界を相手に商売する!これからは万国公法に基づくべきだ!と海援隊をつくり、明治維新の全体構造ができたと書かれている。
お姉さんに甘えて育ったのに、なぜ急に素晴らしいことが出来たのか?坂本竜馬は実は小さいときから頭が良かった。若い頃からオランダ語が出来た。剣術家ではなく、頭がよかったというのが真実らしい。しかし秀才が秀才になるのでは面白くない。馬鹿が一瞬にして頭が良くなる方が夢やロマンがある。

昨日も阿呆で今日も阿呆、それで明日は天才になるわけがない。今日の生き方が大事であり、日々の行動の積み重ねが生活習慣になり、人は変わることができる。鉄舟は日々の鍛錬によって自分を作り上げていった。

織田信長は何で人気あるのか?たわけもの、うつけものだと領民から馬鹿にされていた。しかし斎藤道三に会ったとき、礼儀正しく堂々と会話ができた。どうして、昨日まで馬鹿だった人が、平安時代の流れを汲む古式豊かな対応ができるのか。急にできるわけがない。信長には教養があった。

今の学生は、採用試験を受ける前に就職用の心理テスト、性格テストを何十回と勉強している。入りたい部署に合わせてテストを回答するので、入社して部署に入ったら、その仕事に向いていない、ということも発生する。適正が合わず鬱になることも多い。採用試験の仕組みを考えた学校側が、学生に採用面接や性格テストの対応をさせすぎてしまっている。採用試験の点数は良いけれど、その後何もできない人が多い。そして、そういう付け焼刃的な訓練は身につかない。

坂本竜馬、織田信長の生い立ちのように、阿呆だったものが一夜にして秀才になるというロマンテックな歴史の読み方ではいけない。厳しくしなければならない。

鉄舟には、織田信長や坂本竜馬のような浮ついた話は一つもない。両親を相次いで亡くし、17歳で小野鶴次郎の家に来たときには、11歳から2歳までの弟が5人居た。この弟たちを育てながら、合間に剣や書を勉強した。地道に努力してきたこの苦労がその後の生活に生きてきた。

何とかなるのではないか、という生き方で生きていても何ともならない。長期的に進めていかなければ飛躍はない。
鉄舟は、自分の人間の完成のために、亡くなる直前まで努力をした人。
山岡鉄舟は現代に欠けている“日本人は地道な努力の人である”ということを教えてくれる。江戸時代は地道な努力をする伝統文化が残っていた。第二次世界大戦で敗戦後、アメリカが入って、忘れ去られてしまった。

このところ、日本の伝統文化の大切さが認識され、見直そうとしている。江戸文化を勉強すること、鉄舟を勉強することは、昔の我々の良い生活習慣を自分のものにするための勉強をしていると理解していただきたい。


2.鉄舟の父の死にまつわるビックリ事項
①79歳まで飛騨高山代官所の郡代・・・生涯現役
②亡くなったときに二歳の乳飲み子がいた・・・77歳のときに生まれた
③母磯との再婚は63歳の時
④飛騨高山代官所の郡代への赴任は72歳の時
⑤鉄舟に渡された遺産現金額は3500両、この現代換算金額は?
   日銀貨幣博物館資料より
    米価から計算した金一両の価値
     江戸時代初期・・・10万円
        中後期・・・3~5万円
     幕末の頃・・・・・3~4千円
    父小野朝右衛門の死は嘉永五年(1852)、これは明治維新から16年前、ペリー来航の一年前であるから幕末時期に向う直前であるので、上の江戸時代中後期3~5万円で計算すると
10,500万円、14,000万円、17,500万円となる。
⑥この3500両を鉄舟はどのように使ったか、そこに鉄舟の生き様が顕れている

今は60歳で定年退職するのが当たり前だが、鉄舟の父である小野朝右衛門は勘定奉行から飛騨高山へ転勤したのが72歳で、79歳で亡くなるまで職場にいた。江戸時代は定年制がなかった。もちろん悪い人は辞めてもらうが、有能な人は死ぬまで雇用していた江戸時代を馬鹿にできない。

2002年の日経新聞文化欄の記事から江戸時代に定年制がなかったことがわかった。徳川幕府のサラリーマンであった江戸中期の平岡彦兵衛は無名な人ではあったけれど、在勤中9箇所まわり、喜寿(77歳)で辞めたという。
この記事から朝右衛門が79歳まで働いていたことが証明できる。

鉄舟の一番下の弟は、両親と死に別れた当時は2歳。朝右衛門、77歳の時の子供。
鹿島神宮の神官の娘であった磯さん(当時26歳)と再婚したのが63歳。磯さんの両親は、年が違い過ぎると反対したが、倅の代になっても大事にすることを約束し、懇願して結婚した。朝右衛門と結婚後、磯さんは6人全員男の子を生んだ。

山岡鉄舟も素晴らしい人だったが、お父さんもエネルギッシュで健康だった。そんな健康だった人が、なぜ急になくなってしまったのだろう。お母さんは46歳で脳卒中が原因で亡くなった。

磯さんが亡くなって5ヵ月後にお父さんが亡くなった。死因は黄疸という説と、脳溢血という説がある。黄疸は時間を掛けて悪くなる病気なので、2年前は元気だった朝右衛門の死因が黄疸であるとは考えにくい。では脳溢血か。

もう一つには切腹させられたという説もある。朝右衛門は亡くなるときに鉄舟を枕元に呼んで、“残された幼い弟たちのことを、親代わりになって育ててくれ”と頼んで亡くなった。朝右衛門は子供たちに3500両を残していた。

3500両という金額は現在の価格にするといくらか?どの本にも書かれていない。
江戸時代を研究してみると、3500両を現在の金額に換算することが、なかなか難しい。難しい理由がいくつかある。

江戸時代は金・銀・銅の3つが流通しており、3つ全てに相場があった。日本という国に円・ドル・ユーロがあるようなもの。江戸時代の人は頭がいい。レートがあるから為替で設けた人もいるでしょう。

2つ目は小判に入る金の含有量が改鋳されて、年々少なくなってきているので、時代によって、金の価格が変わる。当事の米、蕎麦、労働の賃金で判断して逆算するしかない。ただそれも天候異変があり、頻繁に飢饉があったため物価が安定せず判断基準がない。それでは身も蓋もないので、物価が安定していた文政時代(1820年代)の資料をみる。
食費を基準にすると1両4~20万円、平均して12万円、労賃を基準にすると1両20~35万円、平均27万円。それぞれ3500両をかけてみる。食費の平均12万円に3500両を掛けると4億2000万円。労賃の平均27万円に掛けると9億4500万円。定年退職して退職金を1億円もらえる人はいない。

次に、日銀に貨幣研究所があって、そこで調べてみた。日銀では米価換算で金額を出している。江戸初期は、1両=10万円、江戸の中・後期は1両=3~5万円、幕末は1両=3~4000円。

朝右衛門の亡くなったのはペリーの来る1年前~ペリーが浦賀に来てから15年間を幕末という~なので、江戸後期として平均4万円を取る。3500両×4万円と計算すると父親から残された金額は1億2000万円。4億2000万円、9億4500万円、1億2000万円、この3つのうちどれかになると思われる。

そんなに代官の収入はあったのか?当時の代官の給金は5万石=600両、高山は10万石なので1200両、幕府から給金をもらえた。家賃は無料、使用人はついており、磯さんもしっかりしていたので、3500両を残せるほどの金額は貯められたでしょう。

両親が残した3500両を鉄舟はどのように使ったのか。小野鶴次郎は当事跡取りだったが、鉄舟には冷たく弟たちの面倒は見てくれなかった。鉄太郎は弟を5人も育てられないので、1人500両の持参金を付けて養子に出した。義理の兄である鶴次郎に900両を、残りの100両を持って鉄太郎も山岡家に養子に行った。


3.父母の死にまつわる疑問説・・・成川勇治氏の見解・・・正史か稗史か

成川勇治氏は1920年生まれの86歳で、鉄舟の血筋を継ぐ方。鉄舟と鉄舟の奥さん英子さんの間に子供が3人いる。最初の子は亡くなり、長女は松子、次女嶌子、長男直記、この直紀が山岡家を継いだ。

直記は、詐欺まがいのことをして子爵を取り消された。お金がないから、勝海舟にお金を貰いに行っている。勝海舟の明治31年の日記にお金を貰いにきたことが載っている。どうしようもない子供である。このため、鉄舟の子孫は調べていくといやがる。子孫はどこにいるかわからない。

直記の奥さんがまさ子さん、子供は鉄雄さんと龍雄さん、きくさん、武男さんの4人居たが、武男が生後70日のときに、直紀の会社が倒産し財産没収になった。武男は、鉄舟の弟子の成川忠次郎のところへ養子に出された。忠次郎の子供が精一、精一さんの子供が行子さんで、その行子さんと結婚させた。このお二人から生まれたのが、成川勇治氏。

成川氏は、鉄舟の娘・松子さんが精一さんに鉄舟の両親が何故亡くなったかをしゃべったという。磯さんは幕府の隠密に毒殺された。朝右衛門が陣立てといって、演習を何回もやったので幕府は謀反を起こすのではないか、と疑い高山に隠密を送った。栗狩りのとき、磯さんは栗に毒を入れられて急死した。また、3500両という大金の蓄財疑惑もあった。この蓄財疑惑はその後調べたら疑惑ではなかったが、その責任を取って小野朝右衛門は切腹したという自刃説がある。

この説を調べた方がいる。小島英煕さんという日本経済新聞の記者で、小島直記さんの息子さん。6年ほど前に毎週土曜日に鉄舟の記事を書いていた。この方の書いた本に毒殺説が出ている。

鉄舟の息子・直記さんについて少し話すと、優秀な山岡鉄舟の息子に、なぜどうしようもない人が生まれたのか?ありえるのか?親の教育が悪かったとは思いたくない。親が優れすぎているために子供が苦労することもある。
河合隼雄さんの『影の現象学』には、親が影のない生き方をした~人のために尽くした宗教家、教育者など~の場合、子供に影が出来ることがあると書いてある。親には全くなかった影を子供が全て引き受けてしまうことがあるようだ。


【事務局の感想】
江戸時代は生涯現役だったという認識は、皆様の中にもなかったのではないでしょうか。この話をきいてから、テレビ番組の中で、名前はわすれましたが、戦場にでた兵士の年齢が72歳であったという話を聞きました。
まったく山本さんの説を裏付けるものでした。
鉄舟を通じて、新しい切り口で歴史を学ぶことができるのも、山本さんの鉄舟研究によっていますので、今後ともよろしくお願いいたします。

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2006年07月02日

6月例会記録(2)

6月例会記録(2)

■山本紀久雄氏
「鉄舟の高山子ども時代を考える」

矢澤さんから格調高いお話しがあったが、解る人と解らない人がいるでしょう。
初めて聞く話だとわかり易いが、聞いたことがないと難しいかもしれない。過去に経験がある人はわかる。それは今までの生きてきた環境による。
何を言いたいかというと、自分の中には生まれたときからの過去が入っている。
子どもの頃の体験は忘却の彼方かもしれないが、脳細胞が影響を受けており、無意識の感覚で入っている。“経験“が多い人は親に感謝しなくてはいけないし、そうではない人は親の教育が甘かったのかもしれない。

山岡鉄舟が大きな仕事ができたのは、子供時代の経験が深かったからであり、それは両親の影響でしょう。

今の子どもは、親が忙しいからテレビを見させている。1943年に自閉症がアメリカで始めて発見された。その12年前の1931年にアメリカで始めてTVが放映された。テレビの影響があるのではないか。
一方通行で体験が入ってくると受身の人間になってしまう。共通的概念だけ入ってくるので、個性や想像性が少なく可能性がある。テレビからの情報はある意味で良いようなものの、問題もあるでしょう。

テレビがなかった時代、子どもは親や地域、周囲からの影響を受けていた。

1.鉄舟の高山子ども時代の特徴的出来事
①寺子屋で学んだこと
②書に優れた才能を見出したこと
③寺の鐘にみる尋常でない頑張り精神
④お伊勢参りで学んだ時代の先端思想
⑤しかし、最も大きかったのは両親が相次いで亡くなったこと。今回は母磯からの影響を考えてみる

鉄太郎は飛騨高山の代官の子息であった。父親の小野朝右衛門は、代官ではなく、代官よりも石高の高い直轄地を任されている郡代。(62箇所の直轄地のうち10万石以上を郡代と言った。)郡代は非常に高い地位であり、本来なら家庭教師を呼んで、郡代の屋敷で勉強させるが、両親はあえて町人が教育する施設である寺子屋にいかせた。
“郡代の子息を町人風情と勉強させるのはいかがなものか?”そのような批判もあったでしょう。しかし普通の侍として勉強させるより、寺子屋で勉強させることにより、民主的な思想を植えついた。明治時代になってからも差別意識がなかったのは、この寺子屋で勉強したという子ども時代の経験に要因があったのではないかと推測される。

この集まりは鉄舟研究会であり、この説はあくまでも推測。研究は推測です。論理的に考えてそう思いませんか。

鉄舟は毎日書を500枚かいた。廃仏毀釈で損害のあった寺社も鉄舟の書で復活した。
鉄舟の書の才能を見出した人は高山時代に鉄太郎に教えてくれていた人である。
書を書き、その結果鉄太郎に書の才能があることが見出せたのは先生だが、先生を選んだ親も素晴らしい。

鉄舟の性格は、柔ではない。どんな性格だったか、尋常ではない精神だったことがわかるエピソードをお話しする。
鉄太郎が宗猷寺に遊びにきていたとき、鉄太郎が鐘楼の鐘を眺めていた。和尚が鉄太郎に“そんなに鐘が好きならあげるよ”と冗談を言った。鉄太郎は喜び、走って郡代の屋敷まで戻り(宗猷寺から屋敷までは大人の足で徒歩7分くらいでしょう)父親に“和尚さんがお寺の鐘をくれるって”と報告した。朝右衛門も冗談だとわかったが“そうかそうか”と言った。鉄太郎が郡代の人足を集めて寺の鐘を下ろそうとするので、和尚が冗談であることを伝えた。すると鉄太郎は和尚に“人には嘘を言ってはいけないと言ったでしょう!”と言った。
当時の和尚は教養ある人であり、地元の教育界の中心人物だった。
鉄太郎の言葉に二の句が告げなくなった和尚は朝右衛門のところへ行き、鉄太郎の説得を頼み、親と和尚の二人掛かりで鉄太郎を説得した。
この鉄太郎の尋常でない性格が江戸無血開城に結びつけた。

鉄太郎は元服のお祝いに兄とお伊勢参りの旅に出ている。旅先で会った2人の人物に刺激を受け、社会はどのように動いているかを知った。もし旅に出なければ、高山の美しい景色をみて、書と剣道にあけくれていたのではないか。

海外旅行をする人が増えているが、観光だけして帰ってくるのではいけない。
たとえばヨーロッパ旅行でも旅行会社がTAKECAREしてくれるので、旅行先で現地の人と話すとしたら、ホテルのフロントかおみやげ屋、レストランのスタッフとしか話さず、町の人と話さないでしょう。ホテルのフロントかおみやげ屋、レストランのスタッフはサービス業の人で、その方の言動に文句つけたり褒めたりして、その国をみたような気になっていませんか。そのサービス業の人たちは、旅行先の国の人ではないことが多い。
東欧諸国の人がパリでもドイツでもサービス業に従事している。外国に行って、外国人と話して、対応を受けて、その国の人と話したような気になって、帰ってくる。

鉄太郎のお伊勢参りは外国旅行にいったようなもの。
幕府を倒そうと思っている本人である藤本鉄石と話し、林子平著『海国兵談』という書物を写した。
外国の船が日本中に来ていることなど外国事情が情報として鉄太郎の知識になった。
伊勢神宮の宮司から日本の国体の説明を受けた。当事将軍のほかに、天皇がいることを知っていたのはほんの一部の人たちであった。鉄舟が知っていたのは、国学思想を勉強していたから。
710年は平城京が開かれた年、それからずっと天皇、綿々と続いている。
世界中みて、これだけ長く続いている国はない。中国4000年というが王朝が変わっている。

鉄太郎が16歳のときに、相次いで両親が亡くなった。父親がなくなるということは経済的な支柱がなくなること。

朝右衛門は71歳のときにお蔵奉行から飛騨代官に昇進した人。当事は定年制がない人物本位主義だったようですね。江戸時代は素晴らしい時代だったということを学びたいと思っている。今年12月の鉄舟全国大会には、江戸時代の魅力を語ってくださる北海道大学の井上勝生先生をお呼びしたいと思っている。

お父さんが79歳でなくなったとき、子供は2歳だった。
お母さんは若かったが、突然死で、言葉も交わさずになくなってしまった。

2.母磯から受けた影響・・・孝経(孔子)の忠孝
・忠孝とは「孝を以って君に事(つか)うれば、則ち忠なり」
・磯の解釈「忠も孝も人間の心の柱、土台石。人間として守りつとめる道。忠とは、君に正しく命がけで仕えること。孝とは、子として親を喜ばすよう正しく仕えること」
・鉄舟の反問「では母上は、上様に、父上に、どのような忠孝を実践されているのですか」

お母さんは鉄太郎に忠孝について詳しく教えている。鉄太郎は母親に素直に質問した。親は子供に素直な質問をされたと困ってしまう。そのとき母親の磯さんは、絶句した。鉄太郎に教えておきながら自ら実行していないことに気がつき、鉄太郎に謝った。

江戸時代の女性を調べるのは結構難しい。男性の記録はあるが、女性の記録はない。
女性を中心にした小説もない。磯さんみたいな女性が多数居たかも解らない。

いくつか本を調べると、才女の記録もある。才女の中には、只野真葛(ただのまくず)さんという方がおり、『むかしばなし』という小説を書いている。才女であることは、次の発言からわかる。
たとえば「雲助と呼ばれる者の賃金を時間性にしなさい。足早く、力あるものには賃金を沢山払いなさい。能力給にしなさい。西洋人は肉食だから短命だが、脳を使うこと学問・技術において、菜食主義の日本人には及ばない。」などと述べている。彼女の優秀さには滝沢馬琴も驚いている。

幕末の御典医の娘である今泉みねが書いた『名残の夢』という思い出話のエッセイを読むと幕末の女性の動きが垣間見られる。官軍が江戸に攻めてきたとき、明日は攻撃されるかもしれない、家の主が攻撃されて殺されて死ぬようならここで腹を決めて、死になさいということになる。彼女は、“死ぬとは何だ、怖いかしら?”終わったら甘いもの食べちゃおう。と軽妙である。真剣に考えていない。

このように江戸の女性像について、いくつか記録がみつかるが、ただ、鉄舟のお母さんの磯さんは地方の出身。江戸の人とは違う。

3.儒教(儒学)は孔子を祖として始まった中国古来の政治・道徳の額。日本には応神天皇(15代、五世紀前後の記紀・・古事記と日本書紀とを併せた略称・・示された天皇)の時に「論語」が伝来されたと称せられるが、社会一般に及んだのは江戸時代以降。


4.靖国神社問題はこの儒教解釈の取り入れ方から発生しているという主張・・・逆説の日本史13巻、井沢元彦
① 中国人が考える「孝」・・・元の時代(1,271~1368)の「二十四孝」郭巨(かくきょ)の説話から考える・・・「考」がすべての道徳概念に優る
②日本人が考える「孝」・・・姨捨山にみる姿
③靖国神社は墓所でないことを理解できない中国人・・・高橋哲哉東大大学院教授
④中国版靖国神社「岳王廟」の事例・・・国のために戦い抜いた岳飛を「護国の神」として祀った廟の境内前庭に後手に縛られた「敵の秦檜(しんかい)夫婦像」が置いてあり、参拝者はこの「夫婦像」にツバを吐きかけるという。死んでも悪人は悪人という考え。永遠に悪人のまま。
⑤日本人の感覚は清水次郎長に顕れている。幕府海軍の咸臨丸が撃沈され清水港に遺体が打ち上げられた。官軍は遺体を葬ってはいけないと命令した。しかし、次郎長は「仏に官軍も賊軍もない」という考えから、処罰覚悟で遺体を埋葬し、それを機縁に鉄舟と親しくなった。死んでしまえば悪人も善人も皆同じ。

鉄舟に続いて、靖国神社を勉強したい。『逆説の日本史・13巻』(井沢元彦著)
儒教は孔子を祖としてはじまった。中国は世界に中国の文化を広めるために世界140カ国に孔子学院をつくる計画をしている。現在50施設完成している。日本文化センターはまだ10数施設しかない。説明できる人が居なければ日本文化が普及しない。

中国の政治道徳の思想について、日本文化と中国文化の違いから話す。
儒教が日本に入ったのは5世紀の前後というが、実際に勉強したのは江戸時代。しかし本家中国と日本では差がある。
中国で考える忠孝の「孝」について、「二十四孝」の説話を紹介する。
郭巨(かくきょ)は大変貧しい暮らしをしており、食べるものが足りなかった。母・妻・子供の4人家族であったが、母の体が弱ってきて今にも死にそうである。母は食事を取らず、郭巨の息子、彼女にとって孫に食事を与えていた。郭巨は食料を自分の息子に食べさせるか、自分の親に食べさせるか悩み、子どもがいなければ母親が食べられるという理由から子供を殺す、という結論に至る。

中国ではこれが儒教である。日本では先が短い親が身引く。
例えばタイタニックが沈没するとき、最初に救命ボートに乗せるのは、中国ではお年寄りであり、お年寄りの男性を最初に乗せる。日本人は、将来性がある子どもをお年寄りより先に乗せるだろう。日本と中国では儒教について考え方が違う。よって発言に差が出る。

靖国問題について有名な方である東京大学の高橋哲哉氏にお話しを伺った。
中国人は日本の神社が理解できない。靖国神社をお墓と思っている。

中国版靖国神社には中国のために戦った戦死者の墓があり、そこにお参りするには
敵の石碑につばを吐きかけてお参りする。中国では悪人は死んでも許さない。

清水次郎長と鉄舟が親しくなったきっかけは、幕臣の遺体を引き上げたこと。
遭難した船を攻撃され、幕臣の遺体が流れ着いたとき、死んだら官も賊も関係ないと遺体を引き上げて弔った。

良いか悪いかは皆さんが判断すること。思想が違う人はいくら説得してもわからない。


5.靖国神社問題はソ連がロシアになって発生したという見解。・・・中国の作成している世界地図から判断(池上彰)


どの国でも世界地図の中央はその国である。中国の世界地図では北方領土4島とも日本の領土と認めている。なぜ中国は日本の味方をしているか?敵の敵は味方。中国の敵はソ連、ソ連の敵は日本。ところがソ連からロシアになって、中国とロシアが仲良くなってしまうと中国と日本がダイレクトに敵になってしまった。
その頃から靖国問題が発生している。高橋先生から“国際政局で動く”と聞いた。


6.靖国神社は戦争遂行のための「感情に働きかける装置」であったという見解から、春夏の靖国神社例大祭が重要な行事なので8月15日参拝は問題ないという見解(高橋哲哉東大大学院教授)
   
*とにかくいろいろ見解はあるので、これからも研究する予定
靖国神社というのは追悼施設ではなく明治政府ができてから作られた慰霊の施設。
日本人の軍隊は徴兵制であり、戦死者の親兄弟が政府に対して“戦争はやめろ!”と言い出したら困るので、例大祭で天皇陛下が頭を下げて、感情の変遷をさせる。
戦死者の家族が持つ恨みを“お国のために死んでくれてありがとう!”と感謝してしまう。
家族の悔しさをお国のために死んで良かった、と靖国神社で思いの変換をさせる場にした。
8月15日に参拝するのは問題ではない。本来は例大祭のときでなければいい。
靖国神社については、上米良さんに分析してもらって、お話ししていただきたい。

鉄舟も儒教を学んできた。中国の孔子からできたものが、中国の儒教と日本の儒教は違う
儒教を学んで中国に行くと中国の儒教は違うということを鉄舟について学びながら知ってほしい。


7.鉄舟の母磯に見る江戸時代の女性・・・「家刀自」(いえとじ)

磯さんは典型的な江戸時代の優れた女性だった。立派なお母さんだったから鉄舟のような人物が育ったのだと思う。次回はお父さんも含めてお話します。


【事務局の感想】
 山岡鉄舟と靖国神社が結びついてしまいました。誰も想像もしなかったと思うのは私だけでしょうか。儒教や江戸時代の女性の行き方、靖国神社など歴史的に勉強をしていなくて恥ずかしいのですが、鉄舟サロンに参加して、山本さんから本を読むより分かり易く、興味深く解説していただけ、しかも歴史だけでなく、その内容が今回のように現代といつも結びついているのが、山本鉄舟研究です。
 私もぬりえと鉄舟がどうのように結びつくかまだ分かりませんが、今の時代を知るためにも、これからも鉄舟を続けていきたいと思っています。

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6月例会記録(1)

6月例会記録

■ 矢澤昌敏氏 
『日本の西洋美術談義 PARTⅡ』 
 副題:フェノロサ&岡倉天心&ボストン美術館

1.油絵略史
わが国と西洋との出会いは、1543年(天文12年)ポルトガル人の種子島漂着に始まる。【鉄砲の伝来】 1549年(天文18年)フランシスコ・ザビエルが来日、キリスト教を伝え、1569年(永禄12年)には、織田信長がルイス・フロイスの京都在住と伝道を認めた。 布教や交易のために、多くの人々とともに南蛮渡来の品々が入って来た。
 その後、徳川幕府の鎖国政策のため、この伝統が継承されなくなった。
 しかし、8代将軍徳川吉宗は1720年(享保5年)、キリスト教以外の書籍の輸入を許可した。 以来、蘭学が盛んになった。
オランダから輸入された書籍の挿絵図は銅版画であった。
明暗法や透視遠近法を用いた緻密な西洋画風の表現は、当時の人々を驚かせ、再び洋画の研究が始まった。
当時の画家には、平賀源内(1728~79年):日本初の洋風画「西洋婦人図」、小田野直武:おだのなおたけ(1750~80年):杉田玄白ら「解体新書」の挿絵画家、佐竹曙山:さたけしょざん(1748~85年)、司馬江漢:しばこうかん(1747~1818年)、亜欧田田善:あおうだでんぜん(1748~1822年)らがいる。
 幕府は19世紀中葉に、英、仏、独などの洋学を研究、教育する機関を創った。
名称は洋学所(1855年:安政2年)、蕃書調所:ばんしょしらべしょ(1857年:安政4年)、洋書調所(1862年:文久2年)、開成所(1863年:文久3年)【「開成所」は、幕府の教育機関の中でも最重要の位置を占めるに至った。そして、明治維新とともに新政府に移管され、「開成学校」として再編された。
「開成学校」は、現在の東京大学 法・理・文三学部に発展した。】などと変わったが、ここに洋画技法の研究機関があり、川上冬崖:かわかみとうがい(1827~81年)が指導者であった。高橋由一の本格的な洋画研究も、ここから始まった。油絵の始まりでもあった。

2.近代洋画の創始者:高橋由一と近代日本画の創始者:
狩野芳崖
高橋由一(1828~94年):【 代表作「鮭」「花魁」「豆腐」など 】と狩野芳崖(1828~88年):【 代表作「悲母観音」「仁王捉鬼:におうそっき」「大鷲図」など 】は、同年生まれの画家で、共に武士の家に生まれ育った彼らは、明治維新で身分を失う。
由一は、持ち前の文章力を生かして自己の窮状を訴える一方、維新前から学習した油絵の大作を博覧会やウィーン万博に出品し、活躍する。

*山岡鉄太郎(鉄舟)との交遊は、1874年(明治7年)由一(47歳)は、山岡鉄太郎(宮内少丞:39歳)の紹介で「海魚図」「田子浦冨嶽図」「興津海岸」を宮内省に献上、賞典を下賜(かし)される。

これに対し、芳崖の絵は全く売れず、生活は悲惨を極める。
二人の運命を逆転させたのは、1882年(明治15年)のフェノロサによる洋画排斥論で、予てよりフェノロサの知遇を得ていた由一は、この突然の「翻意」で、忽ち 元の不遇に陥る。
一方、フェノロサに認められた芳崖は、彼の助言の元、「大鷲図」のような力作を発表して西洋に通じる新しい「日本画」の創造に邁進する。         

2.アーネスト・F・フェノロサと岡倉天心
   【日本美術品の海外流失………江戸から明治】:
   (江戸期から始まっていた美術品の海外流失):
中国の混乱による磁器の輸出減少に伴い、日本の磁器、古伊万里、色鍋島、柿右衛門などがヨーロッパに輸出された。蒔絵も加わり輸出は増えていった。浮世絵が加わったのは、その後である。
 特に、ヨーロッパで日本文化を広めたひとりにオランダ商館の医師シーボルト(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト)がいる。彼は、精力的に日本の資料を集め、その資料の収集の中に日本の地図があったことからスパイ容疑を招き、1829年に強制退去させられた。【シーボルト事件:1828年(文政11年)】帰国したシーボルトは、1830年から自宅で収集したものを公開した。後に、これら収集品はレイデン国立博物館(オランダ:レイデン市)の基礎となった。このことが、ヨーロッパで日本文化を広めるきっかけとなった。

(明治の美術品流失……神仏分離により始まった廃仏毀釈)
1880年(明治13年)には、ジークフート・ピングが来日し、東京・神戸・横浜に支店を造り、収集した美術工芸品をパリに送った。彼のパリ:東洋美術工芸品店に【廃仏毀釈】による、ただ同然の仏像や仏具、絵巻物がどれだけ送られたかの記録はない。日本人が、自分の国の美術品に価値を見出さないのに、外国人が高い価値を見出し、警鐘を鳴らした。その1人が、大田区に縁の深いエドワード・シルヴェスター・モースである。彼は、「大森貝塚」の発見で知られているが、2度目の来日で、日本中から系統的に陶磁器を収集した4千点を超える収集品はボストン美術館の東洋美術の基礎となっている。
また、彼がアーネスト・フランシスコ・フェノロサを日本に呼び寄せたことは、大事な功績の一つである。
フェノロサは、来日した日本で【廃仏毀釈】が吹き荒れ、日本寺院が破壊されていることに大きな衝撃を受け、保護に立ち上がった。彼は、文部省に掛け合い、美術取調委員となった。
フェノロサと弟子の岡倉天心は、全国の社寺を回り、美術品の学術的な解明と保護に努めた。
この折、彼自身も自分への給料で、多くの美術品を買い求めた。
収集品は、2万点にも登る美術品はボストン美術館に寄贈された。
この時の金額は、28万ドルであったと言われる。
因みに、鹿鳴館の総工費は、この3分の2であった。
同様に、友人で医師のウィリアム・スタージス・ビゲローは、密教に興味を持ち、収集品は5万点にも登る。この日本と中国の美術品をボストン美術館に寄贈した。

(日本人による、積極的な美術品の輸出):  
林忠正は、フランスのパリ万博を機会に、フランスの印象派の画家たちに《浮世絵》を売った。彼の仲間の小林文七も、フェノロサ・ビゲロー・モース・フーリアに大量の美術品を売った。 アメリカに山中商会を開いた山中定次郎は、アメリカの大富豪や博物館に美術品を売った。彼らは、日本美術を世界に広めるという理想があったかも知れないが、あまりにも大量の《浮世絵》などが流失したため、日本には殆ど残らなかった。明治年間に、《浮世絵》の第一級品は、日本から姿を消したのである。
 勿論、《浮世絵》に価値を見出さなかった日本人に責任があるが、
しかし、仏像や仏具・絵巻物の類になると明治初期の【廃仏毀釈】
の影響が大きかったと言わざるを得ない。
古道具屋に、山と積まれていた仏具や寺宝は、日本人は誰も買わなかったのである。 
価値を見出さなかったのである。
 「日本人が売るのだから買うのだが、実に勿体無いことだ」と言うフェノロサたちの言葉を聞き、岡倉天心が日本美術の保護(国宝保存法)に乗り出すきっかけとなった。

ボストン美術館が購入した「吉備大臣入唐絵詞:きびだいじんにっとうえことば」(日本にあれば国宝)がきっかけとなり、1933年(昭和8年)法律が制定され、美術品の輸出が制限された。
やっと美術品の流失に歯止めがかかったが、既に 多くの美術品が流失した後だった。

1.「日本美術の恩人」:アーネスト・F・フェノロサ
(1853~1908年)
まず、「日本美術の恩人」:アーネスト・F・フェノロサの功績は、
1.西欧崇拝の風潮の中、「美術真説」(1882年:明治15年)などで日本美術の優秀性を鼓舞し、伝統美術(日本画)復興に大きく寄与した人。
2.寺宝物調査に参加し、岡倉天心とともに、法隆寺夢殿「救世観音:ぐぜかんのん、あるいは くせかんのん」を強引に開扉(1884年:明治17年)、世に紹介した人。 【現在、春と秋にこの「救世観音」が特別公開されるのは、フェノロサのお陰!】
3.高い鑑識眼で、古美術品を蒐集。 その日本画を中心とした体系的コレクションは、今 ボストン美術館にあり、自らも東洋部長を勤めた人。
しかしながら、フェノロサは、もともと美術研究家ではなかった。

アメリカの日本美術研究家。マサチューセッツ州セーラム(現ダンバース)出身。
1870年に、ハーバード大学に入学して哲学を学ぶ。4年後に首席で卒業。
その頃から絵画に興味を持ち始め、24歳でボストン美術館に新設された絵画学校に入学する。1878年(明治11年)25歳で来日。東京大学で哲学・経済学を教える。

当時の日本は、先進国の欧米に追いつくために、学者・技術者・軍人などの多くの欧米人を「お雇い外国人」として、高給で雇い入れた。              
ピーク時の1874年(明治7年)は、500人以上が招かれ、明治期全体では延べ3千人にものぼった。
しかし、1877年(明治10年)の西南戦争で財政難に陥り、次第にその数は減っていく。
因みに、フェノロサが来日する直前に、大久保利通が暗殺されている。

 フェノロサは来日後すぐに、仏像や浮世絵など様々な日本美術の美しさに心を奪われ、「日本では全国民が美的感覚を持ち、庭園の庵や置き物・日常用品、枝に止まる小鳥にも《美》を見出し、最下層の労働者さえ山水を愛(め)で花を摘む」と記した。
彼は、古美術品の収集や研究を始めると同時に、鑑定法を習得し、全国の古寺を旅した。
 やがて、彼はショックを受ける。日本人が日本美術を大切にしていないことに。

明治維新後の日本は、盲目的に西洋文明を崇拝し、日本人が考える《芸術》は海外の絵画や彫刻であり、日本古来の浮世絵や屏風は二束三文の扱いを受けていた。
東州斎写楽、葛飾北斎、喜多川歌麿の名画に、日本人は芸術的価値があると思っておらず、狩野派・土佐派と言ったかっての日本画壇の代表流派は世間からすっかり忘れ去られていた。

 特に、最悪だったのが仏像・仏画。
明治天皇や神道に《権威》を与えるために、仏教に関するものは政府の圧力によって、タダ同然で破棄された。また、全国の大寺院は寺領を没収されて、一気に経済的危機に陥り、生活のために寺宝を叩き売るほど追い詰められていた。
  【廃仏毀釈】(はいぶつきしゃく):
日本人の手で、日本文化を破壊した最悪の愚行。
1868年(慶応4年:明治元年)、明治維新の直後に神仏分離令(3月13日)が発布され、各地の寺院、仏像が次々と破壊された。(廃仏毀釈運動が起こる)
約8年間も弾圧が続き、全国に10万以上もあった寺院は半数が取り壊され、数え切れぬほどの貴重な文化財が失われた。

フェノロサは、寺院や仏像が破壊されていることに強い衝撃を受け、日本美術の保護に立ち上がった。自らの文化を低く評価する日本人に対し、如何に素晴しいかを事あるごとに熱弁した。

2.「日本美術界の巨人」:岡倉天心:本名 覚三
(1862~1913年)

近代日本を代表する文明批評家・美術史家で、1862年(文久2年)横浜:貿易商の家に生まれた。
幼少から英語を学び、東京大学入学後に、教師のフェノロサの通訳を務めるほど堪能だった。
卒業後、1880年(明治13年)18歳:文部省に勤務、フェノロサらとともに奈良・京都の古社寺を調査し、美術学校の設立に尽力するなど、明治政府の美術文化行政の確立に目覚
しい功績を上げ、1889年(明治22年)27歳の若さで帝国博物館(現在の東京国立博物館)理事兼美術部長となり、翌1890年(明治23年)28歳で東京美術学校(現在の東京藝術大学)の2代目校長となった。

 しかし、彼の指導方針に反発する派との対立から、1898年(明治31年)36歳:に帝国博物館、東京美術学校を相次いで排斥され辞職し、橋本雅邦・横山大観・下村観山らと日本美術院(「本邦美術の特性に基づき、その維持開発を図る」ことを目的として創設された民間団体)を創立し、野に下った。

 以後、岡倉天心は、1901年(明治34年)インドで詩人ラビンドラナート・タゴール(1913年、アジア人として初のノーベル文学賞を受賞。1861~1941年)の一族と親交を結び、インド独立運動の青年たちに影響を及ぼす一方、1910年(明治43年)アメリカのボストン美術館中国日本部長となる。

英文著書『東洋の理想』(The ideals of the East:1903年 ロンドンで刊行。 冒頭に掲げられた《Asia is one.》[アジアは一つである]の言葉は、天心の思想を語る上で欠かせない。) 『日本の覚醒』(The Awakening of Japan:1904年 ニューヨークで刊行) 『茶の本』(The Book of Tea:1906年 ニューヨークで刊行。)を出版するなど、国際的に活躍の場を広げた。


3.ボストン美術館
アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン市にある、世界有数の規模を持つ美術館である。

 ボストン美術館は、1870年(明治3年)地元の有志によって設立され、アメリカ独立百周年にあたる1876年(明治9年)に開館した。王室コレクションや大富豪のコレクションが下になった美術館とことなり、ゼロからのスタートし、民間の組織でして運営されてきたと言う点、ニューヨークのメトロポリタン美術館と類似している。所蔵品は50万点を数え、「古代」、「ヨーロッパ」、「アジア・オセアニア・アフリカ」、「アメリカ」、「現代」、「版画・素描・写真」、「染織・衣装」および「楽器」の8部門に分かれる。
エジプト美術、フランス印象派画家などが充実している。

 ボストン美術館は、仏画、絵巻、浮世絵、刀剣など日本美術の優品を多数所蔵し、日本との関係が深いことでも知られる。エドワード・シルヴェスター・モース、アーネスト・フェノロサ、ウィイリアム・スタージス・ビゲローなどの収集品が多く所蔵されている。
20世紀の始めには、岡倉天心が在職しており(1904年:ボストン美術館へ入り、1910年には東洋美術部長となった。)、敷地内には彼の名を冠した小さな日本庭園「天心園」が設けられている。
*なお、このボストン美術館所蔵の肉筆浮世絵展「江戸の誘惑」
が、既に《神戸展》4月15日(土)~5月28日(日)神戸
市立美術館、今現在は《名古屋展》として、6月17日(土)~8月27日(日)名古屋ボストン美術館、最後に10月21日(土)~12月10日(日)江戸東京博物館で開催され、かつ 開催中であり、予定されています。本展覧会は、明治時代にアメリカに渡って以来、一世紀ぶりの里帰りとなり、またとない機会です。 是非 ご高覧ください。

3.おわりに
フェノロサについて《貴重な日本美術を海外に流出させた》 と批判する意見がある。

 日本に残っていれば100%国宝指定を受けていた作品は、尾形光琳「松島図屏風」、雪舟「花鳥図屏風」、住吉慶恩「平治物語絵巻」、狩野永徳「龍虎図屏風」など。
しかし、どんな資格があって日本人が、彼を批判できるのか?流出させたのは日本人自身だ。
フェノロサは、日本人が気づかなかった《美》を日本画に見出し、価値が判るから購入したのであり、彼が集めた2万点の美術品は、ボストン美術館が大切に所蔵・展示している。

 日本人は、自らの手で仏像を破壊し、古寺を廃材にした。
寺宝や浮世絵が古美術商の店頭に並んでいても買わなかったし、誰も美術品と思わず欲しなかった。
そんな自分たちのことを棚に上げて、フェノロサを非難するなんてチョット酷過ぎる。
来日した医師ビゲローは書いている『維新後に、名品が大量に市場に出たのは、2つの原因による。 1つは、経済的に困窮した貴族層が値段の見境なく売りに出したこと、もう1つは、日本人の間に極端な外国崇拝があること。』
フェノロサも天心に呟く『日本人が売るから買い求めるのですが、本当に勿体無いことです。………』
フェノロサは、日本の美術や文化を単なる酔狂やポーズで好んでいたのではなく、本気で愛していた。
能楽を習い、茶室に滞在し、改宗して仏教徒にまでなった。日本美術への眼識の高さは、名匠さえ唸らせるものであり、日本美術界の未来まで考えて、東京美術学校のために奔走するなど、その愛情の注ぎ方は、極めて熱く誠実なものだった。そして、フェノロサは日本政府に美術品を収蔵する施設として帝国博物館の設立を訴え、西洋一辺倒の日本人に『日本美術の素晴しさに気づいて欲しい。』と心から願って活動・行動をした。その行動の核に、純粋さがあったからこそ、あの頑固者の芳崖でさえ、彼を受け入れた。岡倉天心との古寺調査は、国宝誕生のきっかけとなったし、海外に日本美術の魅力を紹介することで、日本の国際的地位をも高めてくれた。

だから、フェノロサは日本美術にとって、強いては日本国の恩人と断言できるのである!!

以 上

参考文献:
ミネルヴァ書房「狩野芳崖・高橋由一 ― 日本画も西洋画も帰する処は同一の処」より
NHKブックス「油絵を解剖する―修復から見た日本洋画史」より
新潮日本美術文庫「高橋由一」より
河出書房新社「日本美術の恩人」影の部分 ― フェノロサより
小学館「明治時代館」より
ぎょうせい「名画の秘密 ― 日本画を楽しむ」より
東京大学出版会「日本美術の歴史 ― 縄文からマンガ・アニメまで」より
集英社「日本近代の出発」(日本の歴史NO.17)より
フリー百科事典『ウィキペディア』より 
他文献多数


【事務局の感想】
矢澤さんに発表していただいたのは、ついこの間と思っておりましたが、ぬりえ美術館での発表でしたので、もう2年前のことでした。矢澤さんの美術好きは、お持ちの資料からもよく分かりますが、ずっと続けて絵を見続けていることが感じられます。その矢澤さんの関心のテーマを、私たちも継続して発表を聞くことで、内容を深めることができるので、大変ありがたいと思っています。今後も、次の時代の発表を期待しておりますので、よろしくお願いいたします。

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2006年06月09日

5月例会記録(1)

5月例会記録

栗原一氏 
「この10年で考えていること~出逢に感動、今を大切に生きる」

自己紹介並びに現在行っていることとして聞いていただければ有難く思う。
ここ数年、先祖から引き継いだ土地で有機栽培・無農薬栽培をしている。
野菜と出会って、作った野菜をお届けして、感動に感動を与えたという話しをする。

埼玉県の熊谷の西別府に住んでいる。熊谷というと、壇ノ浦合戦に出陣した熊谷次郎直実がいた。隣の深谷市には日本経済を支えた渋沢栄一がいた。
農業が主でその土地にあった作物を作って生活を立てているところ。
日本全国絹織物が盛んになった時代、養蚕が盛んな土地だったが、産業が変わり養蚕もなくなり今は米、小麦、野菜作りが重点。
農家の長男として生まれて、家で食べる分プラス肥料代くらいになるように野菜を作付けしている。

私は、ある人と出会ってから、皆さんとめぐり合う機会を得た。
昭和60年に仲間内の研修会があって、富士山のほうへ精神的に修行に行った。そこで体験をしたことから鉄舟会に参加し、皆様の前でお話する場に出られるようになったのではないかと解釈している。

どのように野菜をつくるかは、肌で感じたことや両親がやって見せてくれたことをそのままにやっている。作物というのは、その土地にあった作物を作っていれば問題ない。
通常は、運搬・倉庫業・引越しをやっている熊谷通運というところで働いていて、運送会社の倉庫で荷役作業をしている。一日中フォークリフトに乗って働いている。

出会いに感動して、皆様とお会いして、自分が好きでやっているのが有機栽培。
有機栽培を会社組織でやっているところもあるが、資金がないので、大きくやることは中々できない。以前は、米、小麦、養蚕、酪農もやっていて、野菜はそんなに作っていなかった。20年前くらいに酪農を止めて、野菜にした。土が肥えているのでまぁまぁの野菜が出来て、皆様に喜ばれている。
家族構成ですが、母、女房、子ども三人。長男家族に孫がおり、恵まれた生活している。何も逆らわず、自然体で生きているから、恵まれているかなとおもう。感じたら動くようにしている。頭で考えるのは嫌いだから。
畑で土を耕していると、鉄舟会を思い出す。皆さんの顔を浮かべながら、作物と対面して、土を耕耘し、汗を流している。鉄舟先生の教えに従いながら、自分にがんばろうと意識付けている。

数年前から「書」も書いている。書も単に書きたくなったから書いていて、誰に言われたわけではない。自由きままに栗原一の字として書いている。まだまだ書ける字は少ないですが。
(栗原さんのかかれた「動」「感動」「情」が展示されています)人間の原点というものは動くことから始まるのではないかと思う。だから動くことは大好き。老いも若きも動かないと始まらなくて、情や感謝を込めて行動すれば相手にも伝わって、自分の人生が楽しくなるのではないかと思う。

書も数年前に始めて、友人にどこかに出したら?といわれて、そんなときに新聞をみていたら、三重県・伊勢神宮の奉納書道展というのがあると知った。そこに一年を通じて、どんな文字を書こうかと考え、どんなことをやろうかと考え、出品したのが「動」という文字。2年目に出したのが「感謝」。私生活の中で「ありがとう」を言っていると円満に過ごせて、良い方に向いてくる。
3年目に出品したのが「情」愛情・友情、情にはいろんな情がある。真心という意味をこめて「情」という文字を書いてみた。自分が書く書は、褒められる・上手になるのではなくて、自分の気持ちに意思をつけるために書に託している。上を見たらキリがない、自分は底辺を歩んで、道端の雑草・石のごとく踏んだりけられたりしながら生きている。
自分で書に点をつけるなら、作品に申し訳ないが25~30点くらいだと思う。上を見ると文部大臣賞、総理大臣賞・伊勢神宮宮司賞、教育委員長賞とかあるが、下から3段目の賞・金賞をとった書。この書をみて何か感じたら行動に移していただければありがたい、と思う。

昨年、女房の母親を亡くして、自分の親を亡くしたときよりもがっくりきているときに、筆を持った。人間原点に返って、無になれば良いのではないかと思い「無」という文字をかいた。
宮澤賢治の「雨ニモマケズ」という有名な詩がある。自分にあった詩がある。みんなにボンクラ(詩では「デクノボウ」)と呼ばれ、「慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラツテイル」いくらか自分に似ている詩だと思っている。そういうものに私はなりたい。

ひとつ作物を例にとってお話ししたい。春の野菜は暖かくなりかけたころ、3月のお彼岸を目途に種を蒔けばいいといわれている。長期予報やデータを取って教科書のようにやっていると、自然は怖いもので、なかなかうまくいかない。私は彼岸の中日3月20日を目途に耕して、きれいにして、大地に一粒一粒、種から育てる。次第に地温も上がって、発芽して、ポツリと芽が出たときの感動は、本当にやってみた人じゃないとわからない。それから雑草や虫との闘いが始まる。ほとんど消毒する手間や肥料をやる手間がない。やればいいものができるが、その手間がないので自然に無農薬になっている。虫も生き物なので殺さないでつまんでいる。自然の法則で、野鳥が食べてくれるから。
夏、炎天下の中で泥寄せする。人間でいうと、夏に土をかけるのは、人間とすると布団被って寝ることだと聞いている。葱は泥を嫌う。いくらか寒くなってきた10月ごろに畝を作って、白い葱ができるように泥を寄せていく。
冬の野菜小松菜・ほうれん草・白菜だとか、いろんな種を蒔いて、その年に出会った人に、食べさせてあげたいと思っている。汗をかいてつくったものを本当に気のあった人、出逢った人に食べさせてあげるというのが生きがい。
大事なものとか良いものは人にはあげたくない、と思うが、作っていると次第に食べさせてあげたいと思う。そのあげたいと思う気持ちの発端は、お袋・女房です。恩師に作った野菜を贈っていて、今は自分がそれを引き継いでいて恩師に送っている。

野菜を送ると感動して礼状をいただく。あげたくてあげて、食べてもらいたくてあげて、それで本当に感動したと、電話や礼状もらうと、感動が感動や感謝、ありがとう、動いてよかった、心をこめてつくってよかったと思う。そういう気持ちになっておれば、子どもたち・親たち、みんな見ていると思う。
孫たちも自分の姿を見ていれば、伝わってくると思う。
今を大切に生きている。自分も自然な生き方になっている。

本当は話の流れや資料を作らなければならないが、肌で感じた実話を話したいのであえて何も用意しなかった。日垣さんから話しを聞かせてくれ、と言われた。こういう席にきて、なるようになる状態になってしまった。

資料も準備も何もないので、書を持ってきた。
栗原一の字で、1月27日埼玉県熊谷市に降った初雪を溶かしてすった文字。
雨や雪を嫌う人がいるが、雨や雪が降らないと困る人がいる。自然の恵みを何かに残したくて、文字は初雪を残しておいて、溶かして使っている。
芋の葉が私の丈くらいあって、朝もやの中、朝起きて、瓶をもって芋の雫を取りにいくのが本当に楽しい。昔の人も朝露で文字を書いた人がいたらしいが、真似ではなくて、自分もやりたいと思った。
そのように文字を書いて…書くというか、自分では描く(えがく)といっているが、書道はじめて丸10年。師匠である行徳哲男の教えを受けたのが21、22年前。研修を受けていなければ、底辺を歩んでいる道端の石ころのような自分が、皆さんと出会うきっかけはなかった。鉄舟会の皆さんと出会えて自分は本当に幸せ者だと思っている。農作業していたら出会うきっかけはなかった。鉄舟会のおかげで、本当に私は楽しい人生を送っている。

野菜をあげる、ということは、お袋と女房が走り。人にあげるといっても兄弟や近所の人にあげて、だんだん輪を広げて遠くの方にもあげるようになった。今は、北は北海道・札幌、南は九州、沖縄の人たちにも食べてもらっている。作っていると本当に楽しくて、遊び心があって、疲れがなくて、ストレスってどういうものかわからない。頭で考えない。朝起きて鳥に餌をあげて、畑が心配だったら、畑に行く。鳥も20羽くらいいる。烏骨鶏(うこっけい)、アローカナ(青い卵を産む)に餌をあげて、 一日が始まり、土日を利用して畑に行っている。畑の広さは坪数にすると300坪のところで、友人が畑に来てこんなに沢山の量を家で食べるの?と聞かれて、人にあげていると教えている。どんな土か見たいと幸手から人が来て、土をみて、たまげて帰った光景もあった。
熊谷は地形が良くて、背には赤城・日光、右には妙義・浅間、前には秩父連山がある、そんな地形で農作業して、疲れたら梅の木の下や紅葉の木の下で一息ついて、無農薬栽培をしている。

世界を極めた元WBCの世界チャンピオンのガッツ石松さんに2年前、30周年記念パーティに招待されて、女房・倅夫婦と一緒に行った。奥様からいつも新鮮な野菜をありがとうございました、といわれたときも感動した。ガッツさんにも私の野菜を食べてもらっている。きりがないけれど、感動が感動を呼んで、底辺の自分でも損得考えないで野菜作っていて、本当に良かった。

今日は本当にこのような席で、諸先輩方の前で、失礼なこともあったと思いますが、この場に免じて、お許しいただければありがたいと思います。とにかく皆さん動いて、感謝して、情をこめて、ありがとうと言って動きましょう。ご列席ご一同様、また欠席の皆様も、いると思いますが、出会いに感動しております。最後になりましたけれども、もしも・・・もしも機会がありましたら今度は「花」をテーマに語りたいと思う。ご清聴ありがとうございます。(合掌)

【事務局の感想】
栗原さんの話を聞いているとレジメより大事なことがあると感じさせられます。内容が一番。それも生の体験、経験を自分の実感で話しているので、私たちに直接伝わってきます。栗原さんからいただく野菜はもちろん美味しい元気な野菜ですが、梱包の手間もいとわず、又自分の実家から送ってきたように至れり尽くせりなのです。その背景が今回わかりました。
発表にしていただきまして、感謝!多謝!

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2006年04月29日

4月例会記録

4月例会記録

田中達也氏 「変体仮名について」
〜平安から江戸時代に使われていた、現在のひらがなの原型の
変体仮名を近世中期の文学とともに〜

 今回の発表は私が今まで勉強してきたことを発表させていただきます。

江戸時代の印刷
 私の発表の前に、下村さんから印刷についてのご講義をいただきましたので、それと関連いたしまして江戸時代の印刷事情について先にお話しします。
 江戸幕府が開かれた1600年前後は、すでに普及していた木版印刷、すなわち1枚の木にノミで文字を削る方式のものが存在していましたが、このころ現代の印刷技術の基礎である活版印刷術は日本に伝えられておりました。グーテンベルク式のものがヨーロッパより宣教師によって持ち込まれ、また、朝鮮からも秀吉の朝鮮遠征の際に活版印刷の機械が持ち帰られました。その後しばらく、活版印刷ブームが起こりましたが、すぐにもとの木版印刷に戻ってしまいました。日本語が活版印刷に合わなかったのだろうと思います。具体的には、
1.日本語の形に合わない(特に草書体)
2.字の種類が多い(活版を並べるのに非効率)
3.そのため、コストが高くなる
4.再版に一苦労する(その都度組み直しになる)
 これらの理由から、江戸時代はその全時代を通じて木版印刷を使用することになったのです。

変体仮名について
変体仮名とは
 現在使用されている平仮名は、明治23年(1900)に整理統一されたものです。
 現在の平仮名はひとつの音に対してひとつの文字と決まっています。
我々はそれを当たり前のこととして文字を使用していますが、実はそれはつい100年前に決められたものなのです。
それまでは、ひとつの音に対して複数の字母(仮名の字形のもとになった漢字)が存在しました。
当時の仮名は、約50の音に対して300文字ほどが存在していました。その中からひとつの文字を決めて統一したのが明治23年の整理統一で、それらを「平仮名」と呼び、その他の仮名を「変体仮名」と呼ぶことになったのです。

変体仮名の歴史
 日本に文字が輸入されたのは、遺跡の確認から弥生時代、2〜3世紀と推定されています。
その後、輸入された漢字を我が国の言葉の音に当てて表記し始め(音読み)たのが5世紀ごろです。
これを万葉仮名と呼びます。そしてさらに、漢字を思うように使いこなし、1字1音で日本語を表記する(訓読み)ようになっていき、奈良時代、9世紀ごろにはそれが一般的になっていったようです。
これが現在の仮名のはじまりです。草仮名といいます。やがてこの草仮名が簡略化していき、江戸時代になるとほぼ形式化したものになります。その頃使われていた仮名、草仮名が簡略化した後の11世紀ごろから1900年まで使用されていた仮名が、変体仮名です。

近世中期の文学「戯作(げさく)」について
 戯作は、江戸時代中期の文学の1ジャンルで、江戸の文化の代表をなす文学です。と申しますのも、江戸前期の文化はすべて上方(京都・大阪)の文化が江戸に伝わってきたもので、江戸独自の文化はなかったのです。江戸で独自の出版物が制作されるようになるのは、江戸開幕から100年以上経った18世紀半ばころからで、その時隆盛を誇ったのが、戯作と呼ばれる文学というわけです。
 戯作は簡単に言うと「大人の絵本」といったもので、ページ全体に絵が描かれており、絵の周りのすき間に文章が書かれているというものです。表紙に使われた染料の色から赤本、黒本、青本、黄表紙などと呼ばれており、これらを総称して戯作といいます。
 内容は、昔話や戦記物、歌舞伎などを題材としながらそこに当時の最新ニュースや流行を盛り込み、風刺や茶化し、パロディなどで味つけしたものです。
 戯作は日本の古典文学上、文学的地位は低いとされています。私が勉強していた20年ぐらい前はそうでした。理由は、内容が前述のように世俗的であること、簡単に言うと品がない、また、語学的、文法的にも例外的な使い方が多すぎて体系化が難しいことなどが挙げられます。そういうことで、あまり熱心に研究されることがなかったようです。
 しかし、戯作は当時の江戸の文化、風俗を知る上でとても貴重な史料です。江戸の庶民のことを知るには恰好の材料となりますので、江戸のことを知りたいと希望されている方々は、是非触れられることをお勧めします。

変体仮名を読む
 それでは今回のテーマである変体仮名に実際に触れてみましょう。
 お手本として、前述の戯作のうちの黄表紙というジャンルの作品である「金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)」を見てみましょう。

・「金々先生栄花夢」恋川春町作・画

 冒頭の文章はこのように書かれています。
「今はむかしかたいなかに金むらや金へえといふ者ありけり」
分かりやすく表現すると次の通りです。
「今は昔、片田舎に金村屋金兵衛という者ありけり。」
 「むかし〜」の「か」の字を見てください。現代の「か」という字と違いますね。我々の常識で見ると「り」に見えます。しかしこれは「可」を字母とする「か」なんですね。
 その次の「かたいなか」の「た」ですが、これもすぐには「た」とは読めませんね。
これは「多」を字母とする「た」です。

 このように、変体仮名の諸体表と見比べながら読めば分かるのですが、慣れれば文脈から類推できるようになります。
 鉄舟先生の書も同じことが言えます。鉄舟先生の書を読むには、まず書道の草書体の崩し方の規則を知ることが必要となります。鉄舟先生の字のクセをつかむことも大事だと思います。
 また、鉄舟先生の書は漢文であることがほとんどですので、漢詩などの知識があることが重要になります。

 皆さんも是非、古文書の原本や鉄舟先生の書を読み解くことに挑戦してみてください。


【事務局の感想】
田中さんが学生時代に学ばれた江戸時代の変体仮名の成り立ちと変体仮名を
用いた文章を発表していただきました。仮名の諸体から、あいえうおがどのような
漢字から変化していったのか分かり、すこしはあいうえおがよめるようになりました。
今後は、仮名ではありませんが、鉄舟先生の書を読むことができる一番近いところに
いる人が田中さんですので、ぜひ鉄舟先生の書の読み方にチャレンジしていただく
ことを期待しています。

投稿者 staff : 13:58 | コメント (0)

2006年03月26日

3月例会記録(1)

3月例会記録
北川宏廸氏  「必勝の剣法」はある -剣の「理」と「技」をめぐる数理-

1、「必勝剣法」の二つの流れ

 必殺の剣法はあります。鉄舟研究会でこのことを是非お話したいと思っておりました。30分で解りやすく説明するつもりですが、剣法を言葉でお話することは非常に難しい。言葉の論理は甘いし、我々は五感で感じて事態を判断するが、五感で感じて判断することは思い込むことでもある。思い込むと、対象に対して客観的に迫ることができなくなる。
だから、自然科学者は、認識の手段として、古今東西の共通語である「数学」を使うわけですが、残念なことに、多くの人は数学のことを誤解しております。数学は計算だと思い、答えがでないとあせってしまう苦い思い出を持っておられる方が多いと思います。しかし、数学は客観的に事を認識するひとつの道具と割り切り、肩の力を抜いて、数学をイメージで、捉えていただきたいと思います。

お話ししたいことはレジュメに全て書いておきました。今日は軽く聞き流して、帰ってからもう一度読んでください。
さらに勉強したい方は最後のページに参考文献を挙げておきましたので、これを読んでいただければと思います。
「オイラーの賜物」や「虚数の情緒」という本は、中学生を対象とした参考書ですから、分厚い本ですが、大変とっつきやすく、面白く書かれていますので、興味を持たれた方は是非読んでみていただきたいと思います。柳生延春先生がお書きになった新陰流の秘伝の本は国会図書館に行けばあります。

 今回の話で、1番大事な本は、ここに持ってきました柳生新陰流の21代当主・柳生延春先生が書かれたこの本です。この本には、秘伝が写真つきで出ております。読んでいただければ一番いいのですが、今日はここに書いてある新陰流の剣法についてお話します。
その前になぜ私が剣について語るのかをご説明したい。実は、私は門外漢ですが、剣に触れる機会が2回ありました。
 昨年の秋に開催された鉄舟サロンの静岡研究旅行で、「水欧流」の実技を生々しく拝見しました。
 それ以前に、最初に剣に触れたのは、東大医学部(生命科学)名誉教授の清水博先生が主宰しておられる「場のアカデミー」という研究会で5年前に、名古屋にある柳生新陰流の柳生延春先生道場で、これからお話します柳生新陰流の「必勝の剣法」の奥義の実技を、実際に拝見したわけです。どんなかたちで攻められても、それを受けて、木刀一本で、必ず相手の剣を叩き落して勝つ。これには本当に驚きました。
水欧流の先生も、"死んだら終わり"だとおっしゃっていた。「必勝の剣法」だからこそ、死なないで、今まで綿々と続いてきた。このとき私は、「必勝の剣法」はある、と確信したわけです。そのとき、私は、これは、オイラーのe(ウー)の方程式で説明できると思いました。
それについてお話したい。

 「必勝の剣法」には、宮本武蔵に代表される「殺人刀」と、柳生新陰流の「活人剣」の二つの流れがあります。水欧流も活人剣ではないかと思います。後日お聞きしたいと思っています。
「必勝の剣法」といいますのは、これは、生きものや人間が生きていく、ということとも、密接に絡んでくるわけです。必勝の生き方があるから、我々はこのように生きていることができるのです。
柳生新陰流の発想の原点を作り上げたのは、上泉伊勢守信綱でした。彼が作り上げた新陰流を最も正確に理解したのが2代目の柳生石舟斉宗巌で、伊勢守信綱からその奥義を直伝するというかたちで柳生石舟斉が引き継ぎました。
 なぜ柳生新陰流が有名になったかといいますと、真剣で打ち込んでくるのを木刀一本で受ける、という柳生新陰流の「無刀捕り」のうわさを徳川家康が聞きつけ、家康が自分の太刀を受けてみよ、と実際に試技を命じたことにあるといわれています。家康の真剣を見事に木刀で受け、これを打ち落とした。これが縁で、石舟斉は徳川本家の剣道師範になってくれと頼まれます。しかし、自分は年寄りでお役に立てない、と五男の柳生宗矩を推し、宗矩が徳川本家の剣道師範になった。その息子が柳生十兵衛です。その後、柳生本家は大名になってしまいます。
 柳生の剣法を継いだのは、石舟斉の孫の柳生兵庫介です。彼はなかなかの剣術家で、徳川の中で剣術に造詣が深かった尾張徳川の初代藩主・義直に所望されて、尾張藩の剣術指南役になります。柳生の剣法の本道は、兵庫介に引き継がれました。そして、柳生新陰流の剣法は、現在21代の延春氏まで綿々と引き継がれております。
素晴らしいのは、その剣法の奥義が、きちんと秘伝として残されており、まさにそのまま再演できることです。柳生先生が再演されたのをみて、我々は、驚き、納得し、感動したわけです。

 柳生新陰流は、宮本武蔵の「殺人剣」と違い、「威圧する剣」ではない、ということです。柳生先生曰く、「一刀両段」。この「段」は自分と相手の中心線を重ね合わせて共に斬り下ろすこと。
 相手がこちらに截り込んでくることを確認してから、一拍遅れて、自らの「人中路」(自分の中心線)を一刀両段に、十文字に、打ち下ろす。「一刀両断」(相手を真っ二つにすること)ではない。
そうすると、丁度良いタイミングで相手の太刀の上に、自分の太刀が打ち乗って、相手の太刀を跳ね飛ばし、相手のこぶしを截り下すことができる。
ほんの僅かな時間差、この時間差がポイントで、これを解明するために「数学」が必要になるのです。

①自分と相手が対峙する「截相の時空間」は、時間軸と空間軸の「合成された時空間」だ。この時空間では、相手は「時間軸の時間空間」の中に身を置き、自分は「空間軸のユークリッド空間(縦・横・高さ)」の中に身を置く。

②お互いの太刀が円運動(円弧)で相手を截り裂く力は、それぞれが、それぞれの太刀の円運動(円弧)に投入するところの「エネルギー量」の大きさに比例する。

③太刀の円運動(円弧)に投入される「エネルギー量」の大きさは、太刀の円運動の回転率(円周率)、すなわち回転速度によって《計量》することができる。

④回転率(回転速度)とは、直線運動(一点)に投入される「エネルギー量」と、円運動(回転運動)に投入される「エネルギー量」との比である。
  例えば、円周率のπは、ユークリッド空間における直線運動と、円運動とに投入された「エネルギー量」の比を表す。

⑤すなわち、
・空間軸のユークリッド空間における円運動の回転率(回転速度)は、
       円周率のπ =3.14159265358………
・時間軸の時間空間における円運動の回転率(回転速度)は、
      オイラーのe=2.71828182845………
つまり、
相手が身を置く時間軸の「時間空間」におけるよりも、自分が身を置く空間軸の「ユークリッド空間」の方が、太刀の回転運動の回転率は高く、したがって、太刀の回転速度(スピード)も速い。
すなわち、常に、「自分」は、初めから比較優位の位置にある。

⑥したがって、次のようなことになる。
《相手が、こちらに向かって太刀を截り下ろしてくるのを確認してから、遅れて自分の太刀を一刀両段に振り下ろしたとしても、丁度良いタイミングで相手の太刀の上に、自分の太刀を打ち乗せることができ、その結果として、相手の太刀を飛ばして、相手のこぶしを確実に截り下ろすことができる。》

 この原理を利用したゲームが、野球。
バッターは空間軸、ピッチャーは時間軸に身を置く。したがって、ピッチャーが円弧運動で渾身の力を込めて剛速球を投げたとしても、バッターのスウィングの円弧運動エネルギーの方が大きい。バッターのスウィングのエネルギーの方が大きいから、得点が入るわけだ。バッターは打ち急がず、ボールを良く見極め、きちっとミートさせればホームランを打つことができる。
空間軸の回転スピードが、時間軸より15%速い。ここがポイント。

 また、シマウマを追うライオンの例。
追われるシマウマは、空間軸の15%のハンディキャップがあることによって、食われない確率が五分五分以上となる。だから、シマウマは絶滅しない。

生きものが、リスクを察知して、注意深ければ、生き続けられる理由がここにある。

 無理数「オイラーのe(ウー)」は、無限級数の和で表すことができます。この無理数がどのような式で表すことができるか、また、どのようなイメージで捉えたらよいかは、レジュメの(参照)のところを見ていただきたいと思います。

 eは、スイス人の数学者オイラー(EULAR)が見つけ出した無理数で、「イー」ではなく、「ウー」と読みます。オイラーは、この無理数に、自分の名前のイニシャルの「e」と命名しました。
数学者のオイラーは、直感的にこの無理数の「e」を「エネルギー」「時刻」「生きものの命」とイメージしていたのではないか、と思われる節がある。

私は、eを時間軸、πを空間軸と考えるわけです。我々は、横軸をπ、縦軸をeとする「時空間」の中で生きていると考えるわけです。

話は少しそれますが、
『博士の愛した数式』(映画と小川洋子の小説)の中で「オイラーの方程式」が出てきます。

houteishiki.jpg

オイラーは、この世の中は、このような数式でデザインされていると考えました。
この式は量子力学と相対性理論の基本方程式でもあります。
このように、数式はこの世の中で起きている現象を類推する手がかりを提供してくれます。数学者は皆、数式で厳密に論理を追いながら、神様によってこの世の中が、どのようにデザインされているか、神様の手帳をこっそり覗き込もう、としているのです。それがわかると数学はものすごく面白い。

「必勝の剣法」には2つのパターンがありました。
宮本武蔵の剣は、自分は自分一人で独立して生きているという思い込みが強い。自己中心的です。これに対して、新陰流の活人剣は、自分という存在は、相手があって自分がいる、という自分を相対的な存在として認識しております。
ニュートンの力学は、宮本武蔵の力学。一方、新陰流の剣法は、相対性理論の力学に立っております。空間軸と時間軸を相対的な存在として、自分と相手の関係を相対的に客体化して見つめなおす。これが「相対性理論」の立場です。
「殺人剣」から「活人剣」への転換は、ニュートン力学から相対性理論の力学への大きな転換とも重なります。

その相対性理論も2つに分かれます。

 空間軸に視点を置いて時間軸を相対化したのが、アインシュタインの相対性理論です。これに対して、時間軸の時間空間から、空間軸を相対化して観察したのが、朝永振一郎博士の「超多時間理論」です。
超多時間理論は、この空間のあらゆる一点には、固有の時計が埋め込まれている、と考える。我々は、一人一人、固有の時計を持っている、という考え方。
eという回転スピードの遅い「時間空間」の回転の外周りを、πという回転スピードの速い「ユークリッド空間」が回転運動をしている。
すなわち、eが我々の"いのち"であり、πが我々の"肉体"だ、というわけです。

 我々は、時間が過去から将来に向かって、このユークリッド空間を突き抜けているというイメージを持っているが、時間は、我々の肉体(=空間)の中に内在化していると考えるのです。
内在化している時間が"いのち"。死ぬのは"いのち=時計"を包んでいる肉体(=空間)の方が朽ちるから…外身が朽ちてなくなるから中身の"いのち"が失われる。そのように考えるのが、「超多時間理論」です。

【事務局の感想】
 剣法と数学が結びつくとは思いませんでした。北川さん曰く、数式をやりながら
この世の中をイメージしているのが数学者だということですが、剣法を数学で表した素晴らしい展開でした。算数も苦手な私には数式は難しかったのですが、宮本武蔵の「殺人刀」の自己中心的な考えと柳生新陰流の「活人刀」の相対的理論は、大変よく分かるものでした。自分は、どちらかというと・・・かしら?
 鉄舟を通じて、数学の勉強までできるところが、このサロンが他にはないユニークな点であり、特長だと思っていますので、ぜひメンバーの皆様、発表をお願いしましたら、ご協力よろしくお願いいたします。

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2006年03月25日

3月例会記録(2)

3月例会記録
山本紀久雄氏 「鉄舟の生きた時代への判断基準」

北川先生から難しいお話を聞いたのではないか。
 ベストセラー『国家の品格』を読むと著者の藤原氏は数学の出来不出来によって、現在の国家の状態を表すと書いておられる。ニュートンと宮本武蔵はオンリーワンで柳生は共存・共生。アインシュタインは「地球は共存・共生」ということを切り開いた人。

 数学というとアイルランドがすごい。文学もすごい。先日アイルランドへ行って、グレシャムホテルに泊まった。あの経済学の法則の一つ「グレシャムの法則」(悪貨は良貨を駆逐する)から名づけているのです。昔アイルランドは貧しい国だったが、現在は世界で中国並みに成長している。ヨーロッパで一番IT、産業が進んでいる。
 金子さんが先ほど昨日の夕刊にぬりえのことが出たとおっしゃった。掲載した日経新聞では、ぬりえを「塗るもの」ではなく「型」として、違った見方でぬりえを紹介した。塗られるほうからみるぬりえと塗るほうからみるぬりえで本が書けるのではないか。ものの見方は沢山ある。

型は大事。囲碁も定石を、ゴルフもスキーも型を覚えないと成長しない。北川さんは数学を勉強されているから日本経済もわかる。悪い型・習慣が悪いと病気になる。先日お会いした石原先生という方は非常に人気で、今から予約しても診察してもらえるのが2年半も先。講演も月に50本あり、本もベストセラー。30年前より患者より医者が増えたのに死ぬ人が増えるのは、生活習慣病だと先生はおっしゃる。
 鉄舟も時代の影響を受けている。人間の生きた時代を知らずして研究しても駄目だと気がついた。鉄舟の研究本を読んでも、鉄舟が生まれて何をしたかしか書かれておらず、鉄舟の生きた社会についてほとんど書かれていない。なぜ、あんな立派な業績を残したのかがわからない。研究は深めないとならない。穴を深く掘るには幅広く穴を開けないと深く掘れない。深めることは研究になる。だから鉄舟サロンでは、毎回いろんな方にいろんな話しをしてもらっている。北川さんの話で感心したのは、時間を内在させているというのは、禅の思想。起きた事件について世界をみて、そこから対話していく。鉄舟が社会現象をどのように捉えたかについては、今はまだ研究途中である。


1.鉄舟の揮毫数のすごさ
「明治十九年五月、健康が勝れぬ為、医者の勧告で『絶筆』といって七月三十一日迄に三萬枚を書き以後一切外部からの揮毫を謝絶することが発表された。すると我も我もと詰めかける依頼者が門前市をなして前後もわからぬので、朝一番に来たものから順次に番号札を渡した云ふことだ。(明治十九年六月三日東京日日新聞)其後は唯だ全生庵から申し込んだ分だけを例外としてゐたが、其の例外が八ヶ月間に十萬千三百八十枚(この書は全生庵執事から師匠に出す受取書によって知る)と云ふから驚く。或る人が『今まで御揮毫の墨蹟の数は大変なものでせうね』と云ふと、『なあに未だ三千五百萬人に一枚づつは行き渡るまいね』と師匠が笑われた。三千五百萬と云へば、其の頃の日本の人口なのだ。何と云っても、桁はづれの大物は、ケチな常人の了見では、尺度に合わぬものだ」
 小倉鉄樹の著書「おれの師匠」(島津書房)

 鉄舟の揮毫数のすごさを調べた。上記抜粋文の「師匠」は鉄舟のこと。書は塗るものだ!と、鉄舟は書いていないと言っている。書いていたら疲れてしまう。

2.物事の判断方程式 (現状・事実)÷(基準)=判断結果

 パリでお会いした日本人の女性は、自分が今までどんなプロセスで生きてきたか、辛かったことを話し、パリに来て良くなったと話した。フランスに来た当初は劣等感を持っており、劣等感の中でフランス人と付き合い始めた。フランス人と話し、質問されているうちに、日本が評価されていることがわかった。日本の文化が説明できなくて恥ずかしかった。しかし日本人であることの劣等感が解消され、今はフランス人の男性と結婚している。
 劣等感を持ったことも克服できたこともすべて自分の中の基準。自分が問題を起こし、自分が解決した。事実や現実に対し、良い・悪いの判断基準があり、それが判断結果になる。"結果が悪いのは相手が悪いから"と思ったらどうしようもない。自分の中の基準を変えないと結果は良くならない。


3.欧米人の幕末維新時代における日本判断基準

 日本は鎖国しており、外国人と付き合ったことがないので外国人に対して劣等感を持つことはなかった。日本人が一番優れていると思っており、外国人を紅毛僻人と呼んでいた。日本人の劣等感は、ペリーが来て今までの基準が変えられたときから始まった。
 白人の鼻が高いのは寒いから、冷たい空気を鼻の中で温めるため、顔が細いのは風除け、胴が短いのは腸が短いからで、肉を食べるからである。ペリーは日本にお土産として、ライフル銃、ウイスキー、シャンパンなどを持ってきた。日本人が一番興味を持ったのが、電信機と蒸気機関車の模型。日本人は相撲取りを見せた。アメリカ文化の日本経験としては、それは野蛮な力自慢としか感じなかった。アメリカ人は日本を部分的にしか啓蒙されていない人であり、アメリカの行為を科学と冒険がもたらした成功と言った。
 ペリーが日本の街を歩いていて、びっくりしたことのとして、銭湯が混浴だったことと女の人が裸で家にいること。ペリーは"遅れている"と思い、日本はペリーの日本遠征記で半分開かれた国として紹介されている。日本から見れば、混浴という意識ではなく、お風呂を"共同で使っている"という考えであり、相手をじろじろみない、他人の家を除かない、というルールが前提にある。アメリカ人はその前提を無視している。

 アメリカで白色人種が優れていることを学者が発表した。コーカサス人種は脳の容量が大きく、モンゴル人種は器用で模倣がうまいと人種を分けて人種論を展開した。ドイツの森に住んだアングロサクソンがローマ帝国を倒した、だから白人が一番優れているという理論。
 自分たちは天照大神を天岩戸から出したスサノオだとアメリカ人は思っている。暗かった世界に天照大神を出して明るくしたと。アメリカはニュートン方式でオンリーワンだから、どんどん発言していく。聞いたほうは、そんな気がして思い込みはじめる。日本は近代的にいうと機関車もないし、と受け入れていったのではないか。

 パリには高校1年生の女の子も一緒だった。彼女は食事でオペラ座前まで行ったとき、ごみが沢山落ちていて汚い、欧米に対して持っているイメージが違うと驚いていた。
 ボルドーで4つ星ホテルに泊まったとき、ワインは何?と聞いたら「ボルドー」とスタッフが答えた。ボルドーの何の地区か聞いたのに「ボルドー」と。もし地区がわからなかったら「ただ今確認してまいります」と他の人に聞くでしょう。サービス精神も落ちる。そんな欧米になぜ劣等感を持つのかわからない。
 ボルドーが世界遺産を申請している。2004年につくったトラムに乗るための切符売り場で紙幣が使えない。日本の方が進んでいる。基準を切り崩さないといけない。
 鉄舟が生きた時代はどうだったか。あちこちで百姓一揆が起きた時代だった。


4.鉄舟の生きた時代の気象状況
 江戸時代において通常とまではいわないまでも、異常気象は日常的であったという指摘があり、その異常気象を例示したのが以下である。
(江戸の生活と経済 宮林義信著『三一書房』)
①天正19年(1591)~寛永12年(1635)44年間多雨期
(このうち江戸時代は35年間)
②寛永13年(1636)~天和3年(1683) 47年間多雨期
③貞享1年(1684)~元禄13年(1700) 16年間干ばつ期
④元禄14年(1701)~明和2年(1765) 64年間多雨期
⑤明和3年(1766)~安永3年(1774)  8年間干ばつ期
⑥安永4年(1775)~寛政3年(1791)  16年間多雨期
⑦寛政四年(1792)~文化11年(1814) 22年間干ばつ期
⑧文政7年(1824)~安政2年(1855)  31年間干・冷期
⑨安政3年(1856)~明治五年(1872)  16年間多雨期
(このうち江戸時代は12年間)


5.一揆の発生要因
 上の中で江戸時代に該当する年数を合計してみると二百五十一年間になる。何と江戸時代が二百六十八年間続いたうちの94%に該当する年度が異常気象になり、これはいかにも多すぎる。しかし、このデータが事実とすれば、飢饉のリスクは当たり前の日常的であったと推測され、百姓一揆は多発したと予測される。鉄舟が生まれたのは天保七年(1836)であるから上記の⑧にあたり、一揆が多発した時代であり、その環境下で少年時代を過ごした。

 今年も大雪、昨年の夏は暑かった。普通の年は考えられない。部分的には、毎年異常気象だった。一千八百万石、農民が米の生産に励んだ。耕作するためには平和・安全がなければ耕作できない。領主がきちんと備蓄する国には一揆は発生しなかった。


6.一揆の事実 
 作り上げられた「義民伝説」と「竹鎗蓆旗」(ちくそうせつき・竹やりとむしろ旗)

 佐倉義民伝(佐倉惣五郎または宗五郎)
暴力的な百姓一揆を身を挺してとどめ、一身を犠牲にして越訴する義民物語
四代将軍家綱の時代 承応二年(1653)の佐倉騒動
その後口承伝承され198年後の嘉永四年(1851)に「東山桜荘子」として芝居となった。活版として本になったのは234年後の明治20年、荒川藤兵衛刊「佐倉義民伝」が最初である。自由民権運動で民衆の歴史を表に出した。

 竹鎗蓆旗(ちくそうせつき・竹やりとむしろ旗)
これは全くの嘘、事実ではないというのが最近の研究結果
江戸時代一揆史上3200件の中で文政年間(1820年頃)の二例だけが竹やりを持って殺害した事例・・・1818年大和の国と1823年紀伊国一揆には「一揆の作法」が在村世界の社会通念として成熟していた・・・群集の行動作法様式と江戸には「かご訴」を含む訴訟(公事)世話する「公事宿の紀伊国屋」が存在した。    

 この話しは歌舞伎にもある。江戸が始まってすぐの1653年に起きた事件が200年後に芝居になった。時代設定を足利時代に変えて、235年後の明治20年に本になった。本にした理由があった。この時代はこうであったと伝えたい。
竹やりとむしろ旗は事実ではない。一揆には作法があった。江戸幕府に対して申し出ている。それについては詳しく調べてお伝えしたい。

 また、全国大会では北海道大学の井上先生をお呼びして、江戸時代の時代背景についてご講演いただくことを検討している。

【事務局の感想】
 研究を深めるとはどういうことか。穴を深く掘るには、幅広く、穴を開けないと深く掘れるものではない。鉄舟のことだけをするのではなく、その周りも含めて幅広くすることが、研究であるという山本さんの解説を、有り難いアドバイスとして、私もぬりえについて深めて行きたいと思います。

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2006年02月23日

2月例会記録(2) 「鉄舟の表現力」

2月例会記録
山本紀久雄氏 「鉄舟の表現力」

先週日曜日に文楽をみてきたが、すごく色が鮮やかできれい。
日本文化は色鮮やかですね。

1.鉄舟を表現する言葉
 ① 幕末三舟
 ② 剣・禅・書の人
 ③ 智の人・海舟、情の人・鉄舟、意の人・泥舟・・・頭山満・・高士
    高士・・・人格の高潔な人。山野に隠れ住む有徳のひと。
 ④ 命もいらず名もいらず、官位も金もいらぬ人はしまつに困るものなり。 このしまつに困る人ならでは艱難をともにし、国家の大業はなし得られぬなり・・・西郷隆盛『南洲翁遺訓』

①幕末三舟とは、海舟、鉄舟、泥舟のこと。
年齢順だと、海舟、泥舟、鉄舟、亡くなった順からだと鉄舟が一番先。

③頭山満は鉄舟を高士と言っている。高士(こうし)とは、人格の高潔な人。
戦争中に遠山満によって、鉄舟が高士を代表する人物として使われたが、戦後、使われなくなった。
頭山満は戦争推進の思想をもって、国全体をリードしていった人物であったから彼の考えは遠ざけられ、鉄舟の研究も止まってしまった。
『幕末三舟伝』・・・頭山満が語ったものを本にしたもの。

④西郷隆盛の言葉が、鉄舟を的確に表現している。

2.司馬遼太郎がみた文章表現力に優れた幕末志士・・・坂本竜馬、西郷隆盛

西郷隆盛が語った言葉はその時代に必要であり、表現力がすごい。しかし西郷隆盛は表現力が豊かということを認めなければ、鉄舟に関する表現も評価に値しない。
司馬遼太郎は西郷隆盛をどう言っていたか?幕末に志士が出た。志士に共通しているのは言葉が不自由であり、すぐに激高すること。詩文は得意だが、口語体の説得力には欠けている。坂本竜馬は表現できる人物。お姉さんへの手紙は非常にわかりやすい。では西郷隆盛は、というと、司馬遼太郎は西郷隆盛を一流の報道家であるとベタ褒めをしている。西郷という人が生きていれば、どの職業につけなくても新聞記者が務まる。それも相当な記者になれる。抜群の出来栄えであると褒めている。その司馬遼太郎が認めた西郷が山岡鉄舟を表現している内容は認められるのではないか。西郷隆盛の功績は鉄舟を表現することもある。

3.鉄舟の表現力・・・口述内容から判断する
鉄舟は著書を残していないが、鉄舟はしゃべったので、口述内容が残っている。人に伝えることは大事なこと。その場に応じて妥当に表現する感覚が豊かな人であったろう。

4.鉄舟の豊かな表現力に影響を与えた飛騨高山時代と両親
   父 小野朝右衛門高幅・・・郡代としての業績
   母 磯・・・寺子屋へ鉄太郎を通わせる

鉄舟の豊かな表現力は、父朝右衛門が郡代として派遣されていた高山時代に磨かれたのだと思う。高山は秋葉神社があって、水が豊かである。
10万人以下の行ってみたい町の1位=高山、2位=長野県小布施。鉄舟は10歳から7年間高山で過ごした。資料の天領の分布図の合計石高は420万3000石。徳川慶喜が大政奉還して、徳川が一大名になった。天皇に征夷大将軍をお返しされたが、天皇家は石高が少ない。薩長が、徳川幕府420万石のうち半分の200万石を天皇に寄進させよう画策したことも徳川方を戦いに向けた一因であった。ここから、幕末の天領図の石高合計が420万3000石というのは辻褄があう。ちなみに元禄時代は800万石あったという。資料の分布図から、郡代が収めていたのは、高山、江戸、日田(九州)、笠松(美濃)の4箇所だけであり、他は代官が収めていた。郡代と代官の違いは給料。代官は150俵、現代の金額にするとおよそ年収666万円、一方郡代は400俵で、年収1800万円。

山岡鉄舟のお父さんはたいしたことないという風評が各本に書いてあるが、天領のうち4つしかない郡代に指名されて、年収を1800万円もらっていたというのはすごいこと。
1万石から大名と呼ばれるが、高山の郡代となると、10万石の大名クラスである。
そして、当時は、代官に土地の自治を任せている10割自治だった。法務関係だけは江戸で処理したが、一般的な行政は代官・郡代に任されていた。
代官や郡代の腕によって町は栄えた。4つしかない郡代に派遣されたということは朝右衛門は大変な力があったと思われる。小野朝右衛門は第21代高山郡代。
能力が仇となった。陣立て(狼煙を上げて太鼓を叩く)を何回も行い、幕府から朝右衛門は反乱するのでは?と疑われて実は自刃させられたという話しもあるが、鉄舟は脳溢血で倒れたと言っている。とにかく鉄舟のお父さんは立派な人だった。

お母さんの磯さんは鹿島神宮出身の人で、鉄舟を寺子屋に行かせたことが偉い。
10万石の大名の息子を寺子屋に行かせますか?大名だったら、家庭教師を派遣して勉強させられる。
寺子屋で町の子供と一緒に学ぶことが、時代の感覚を身につけさせた。寺子屋は日本基礎教育の場所であり、寺子屋は江戸だけで900くらいあった。明治時代急速に近代化ができたのは教育のおかげである。鉄舟も子供時代に寺子屋で経験したからこそ、後に豊かな人間になった。このような意味で磯さんは偉いと思う。

磯さんは早死にした。後を追うようにお父さんの朝右衛門も亡くなった。遺産、建物は無い、残すのはお金。現金為替で3500両残した。1両=10万円とした現在3億5000万円。鉄舟は5人の弟に各々500両(合計2500両)持参金として持たせて養子に行かせた。900両は腹違いの兄に渡した。鉄舟は残り100両を持って山岡家に行った。

5.GDPだけで国の豊かさ判断はできない
江戸時代のGDPはどの程度であったか。それをアメリカの経済学者、サイモン・クズネッツが推計している。それによると幕末の慶応元年(1865)における一人当たりGDPは54ドルになっている。当時の西ヨーロッパ諸国、日本よりいち早く工業化をスターとさせていて、低い国でも200ドルに達していたから、日本のGDP水準はいかにも低い。江戸時代の経済的実態は貧弱であったという見解は、この推計が根拠になる。しかし、第二次世界大戦後のアジア諸国、例えば今は経済成長著しい韓国、その一人当たりGDPのスタートは87ドルであったことを考えると、一概に数字だけを持ってその国の豊かさを判定できない。物質文化、ライフスタイル、健康状態、寿命の実態、それらの質問題を勘案しないといけないという見解も生ずる。確かに、幕末に未知の国日本を訪れた欧米人が記録したものを見ると、日本の生活文化が豊かなことに驚いていることが書かれている。

日本が鎖国を解いて、いろんな人がきたが、日本をみて豊かで驚いている。
ペリーの艦隊が来たときに、子供のおもちゃが非常に豊か、遥かに進んだ物語が戯画として残っていると驚いている。

「泥舟」はどういう意味でつけたのか?高橋泥舟は、明治16年まで号を忍歳といっており、泥舟というのは晩年の名前。所以は、明治政府に出仕しないか?と声を掛けられたときに世に出る意なし、と断った台詞からである。
「漕ぎいださぬがカチカチの山」とカチカチ山に登場する狸の泥舟の話を持ち出し、自分が世に出ないのは天命であって、それは泥の舟に乗っているからと辞退したことによる。

海舟は佐久間象山の弟子だった。佐久間象山の「海舟書屋」という言葉から海舟という号をもらって、「勝海舟」になった。

「鉄舟」は誰がつけたか?素直な疑問だが、どこにも書かれていない。
また検討課題ですね。


【事務局の感想】
事務局の感想
鉄舟は自分で記録を残していませんので、鉄舟に関する研究書は少ないのですが、山本さんの研究図書が日を追うごとに増えています。本をとり、パッと開いたところに鉄舟が書かれていたとお聞きしました。
さらに鉄舟についての新しい発見をお聞きすることを楽しみしています。

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2月例会記録(1) 「神道とは何だらう?(その二)」

2月例会記録

上米良恭臣氏 「神道とは何だらう?(その二)」

●三大神勅と宮中のお祭り 
●伊勢の神宮 
●埼玉県の大宮氷川神社
今日はこの3つを中心にお話し、神道の何たるかを漠然とでも知ってもらいたい。

■鉄舟先生と神道
1.鉄舟の生母磯も、鹿島神宮の神主の娘だった。
2.鉄舟が少年多感の時代過ごした、高山(この会で研修旅行した)も多数の秋葉社があった。高山は火消用の水が町中いたるところにあり、そばに秋葉社を奉って、水を大切に、悪戯がないようにしている。 ※秋葉神社=火防(ひぶせ)の神様といわれる。
3.鉄舟は参宮(伊勢神宮に参る)したこともあり、有名な祠官とも交流があった。その折、天誅組に加担した藤本鉄石とも語らいを持っている、という話を山本さんがすでに述べておられる。
4.西郷隆盛は実は菊池家の一族。南北朝時代の北朝方の有名な武将菊池武光。ここが西郷の出身らしい。西郷が奄美大島に流されときの仮の名を「菊池源吾」と名乗っている。菊池家の一族だということは間違いないと推測している。同じ九州で、菊池一族が米良の山に逃げ込んだ時の別れだ。
菊池は負け戦の神様で、当時の菊池一族も戦に負けて山に逃げ込んだが子孫は残った。江戸時代の間は幕府の寄合衆で無禄ではあったが江戸城につめて生き延びた。維新後に米良氏が生き延びて菊池を復興させた。
負け戦の神様ともいう菊池の一族である西郷隆盛と鉄舟が会談をしているのは何かの因縁ではないか。鉄舟は日本人として、日常の生活が神道に溶け込んでいて、禅の修業と矛盾しない生活であったろうと推測している。

■三代神勅
三大神勅とは、古事記・日本書紀に掲載されている、天照大神の言葉として伝えられている言葉。この三大神勅が宮中祭祀、神社本庁、全国神社の根幹となっているので、掲載した。読もう。
天(てん)壌(じょう)無(む)窮(きゅう)の神勅
豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、(とよあしはらのちいほあきのみずほのくには)
是れ吾が子孫の王たるべき地なり。(これあがうみのこのきみたるべきくになり)
宜しく爾皇孫就きて治せ。(よろしくいましすめみまゆきてしらせ)
行矣、宝祚の隆えまさむこと(さきくませ、 あまつひつぎのさかへまさむこと)
まさに天壌と窮無かるべし。(まさにあめつちときはまりなかるべし。)
(行矣:行かんかな。を、さきくませと読ませる日本文化の素晴らしさ!)
資料にある「皇祚無窮」は亡き父が書いた書。昭和天皇の後を追うように平成元年に卒去した。その1年前の元旦に書初めとして私に送って寄こした。
意味は、天壌無窮の神勅と同意で、皇室が永遠に続いていく、ということ。父は皇室をどのように絶えさせないで、隆昌させていくかを考えたのか。この書を私に委託した真意は?今、居間に掲げ、日夜悩み、考え、真意を追求しようとしている。

宝(ほう)鏡(きょう)奉(ほう)斎(さい)の神勅
吾が児、この宝鏡を視まさむこと、
(あがみこ、このたからのかがみをみまさんこと)
まさに吾を視るがごとくすべし。(まさにあれをみるがごとくすべし)
ともに床を同じくし、殿を共にして、
(ともにみゆかをおなじくし、みあらかをひとつにして、)
斎鏡と為すべし。(いはひのかがみとすべし。)
八咫の鏡は元は宮中に祀られ、約2000年ほど前に倭姫命が現在の伊勢の神宮にご奉斎されたという。また宮中三殿の賢所に同等の鏡が奉斎され、ご神体である。

斎(ゆ)庭(にわ)の稲穂の神勅
吾が高天原に所御す(あがたかまがはらにきこしめす)
斎庭の穂を以て、(ゆにはのいなほをもて、)
また吾が児に御せまつるべし。(またあがみこにまかせまつるべし。)
天皇は農業の中心である稲作を実践していらしゃる。同様に皇后は蚕を飼い、糸をつむぎ、布にして、神々に奉納されている。今では皇室の伝統になっているという。三大神勅を時代の変転に拘らず、忠実に実践されているのが皇室だ。

昭和天皇のご結婚の際、久邇宮家のどなたかに色盲の気があり、婚姻に大反対した岩倉具視に対して久邇宮良子女王を援護したのが杉浦重剛。皇室が言い出され、決められた婚約は実行しなければならない。変えるようであっては日本の中心は無い、として闘い、無事良子さまが昭和天皇の皇后になられた。(宮中某重大事件)
彼は東宮御学問所の御用係で倫理を担当しており、倫理を伝えるときに使った「貞操は冰雪よりも勵し」とは、権力に従わなかった男が土牢に入れられ、冰雪の厳しい環境の中でも節操を曲げず死んでしまう。「気高い貞操・節操を曲げないことは死ぬことより大切」だという教育を若き昭和天皇や香淳皇后にしたという。

天皇(本邦至高の祭主)さまの祭り(宮中祭祀)
■『天皇さまのお祭り』及び『伊勢の神宮』(冊子実費販売)
神社本庁では、日本の伝統に即したものを案内、販売している。国民精神研修財団には神道に関する本・資料を揃えてある。天皇さまのおまつりで、一等大事なのは、ご即位の後の、大嘗祭。これがないと天皇様は本当の天皇様といえない。


○大嘗祭と新嘗祭
剣璽御動座、天皇と一緒に動くのが剣璽の定め。先帝が崩御なさると即刻「剣璽の間」から次期天皇のところに剣璽が移される。
ご即位後におこなわれる大嘗祭は由紀殿・主基殿という白木の社を臨時に造って、相嘗といい、天照大御神や先帝と一緒に夜を徹して、お祈りとお食事をなさる。大変な神事であって、昨日までの皇太子も、この祭りを済まして出てこられると威厳を増した天皇陛下の御顔になられるという。

宮内庁の式部職の中に掌典部・楽部というのがある。
宮中の祭祀を行うのが掌典部、それを支えるのが楽部。楽部は雅楽を伝えるが国賓の接待のため洋楽もこなす。産経新聞に連載された主席楽長の岩波さんの記事(資料)を紹介するが、この内容の印象に残ることとして、大嘗祭の夜の儀式を終えて、「神秘性を感じました」という部分。常日頃宮中にいる方も天皇のお姿をみて、神秘性を感じたという、ここを特に紹介したい。


清子さまも最後に宮中三殿を参拝してから出られた。宮中三殿は賢所=天照大神(御鏡)、皇霊殿=累代皇祖の御霊、神殿=全国のお社の御霊をおまつりしている。をいう。新嘉殿は、神様がお祀りされていないもようで、幣物を捧げる場所ではないかと思う。また綾綺殿は天皇が親祭の装束に着替えられる所、俗界から神界に入るための結界でもあろうか?

皇室のまつりを普通の神社でも倣っているが、宮中のおまつりで、独特なのが四方拝と節折(よをり)。共に陛下が神嘉殿庭上に降り立って、おまつりになるという。元旦の四方拝では、神嘉殿の前庭に畳を敷き、屏風を囲って行われる。四方八方の天神地祇を遥拝されるという。節折は6月30日と12月31日の年2回、神社では半年間の人々の穢れを祓って川に流す、という日本古来の祭式(大祓式)があるが、天皇のためだけにやるのが節折。

■神宮の祭り
西行法師は伊勢にお参りして、歌を残している。
『何ごとの 在しますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる』
芭蕉も、彼(かの)西行のかたじけなさにとよみけん、涙の跡もなつかしければ
『何の木の 花とは知らず 匂ひ哉』と詠んでいる。 

■唯一神明つくりの美と「心の御柱」(忌柱)の不思議
○ブルーノ・タウトとC・W・ニコル
この会のために高崎市の達磨寺まで行った。境内の「洗心亭」の床の間にブルーノ・タウトの「私は日本のカルチャー、精神文化風土をこよなく愛す」(ドイツ語)が掛け軸にして掲げられていた。このドイツ語が知りたくて行った。(レジメに記す)
ドイツの世界的建築家のブルーノ・タウトは、ナチスの迫害を逃れて来日、高崎の達磨寺の洗心亭に住んでいた。彼は神宮を「構造はこの上なく透明清澄、明白単純。・・おそらくこの建物は天から降ったのだろう」といった。
さらに神宮のことを讃える外国人、C・W・ニコル氏(野尻湖在住)は「何処の国であろうと宗教がなんだろうと、聖なる地・聖なる森において、目に見えない存在を疑うほど私は未熟ではない」と言っている。
この精神に行き着かないと日本人じゃないと思う。
気をつけて見ないと分からないが、神宮の古殿地には不思議な囲いが中央にある。「心の御柱」(忌柱)だ。(写真)さまざまな理由があるという。

単に神宮という伊勢神宮を神社本庁では本宗として仰いでいる。本来はご皇室のお社。一般の者が私幣を奉納することはできないので、神楽殿がある。皇室の持ち物である神宮と国民祈願の神楽殿とに分けられている。神宮とは内宮・外宮・別宮・摂社・末社・所管社計125社の総称である。125社のまつりとは大変で、最下位の神宮神職である出仕などは定められた祭祀を全うするために、装束を柳行李に担いで年中旅回りだともいう。
元寇で鎌倉武士たちが戦ったとき、皇室も懸命に神宮にお祈りをした。台風が吹いて元寇を追い払ったので、小さなお社を別宮に昇格、奉った。風宮、風日祈宮などだ。神宮参拝コースに加えると他者とは違った趣深い参拝ともなろう。

神宮正殿の欄干には擬宝朱(ぎぼし)が、萱で葺いた上の並んだ鰹木の端にも金の飾りがついているでしょう。白木のお社ながら、私には黄金の世界に見えます。

時間の都合上、大宮氷川神社の話は割愛させていただく。


【事務局の感想】
今回も、上米良さんの発表にメモをとるのも忘れて、聞きほれてしまいました。
それは、体験からくる迫力に魅了されたからです。
懇親会の場で、遷宮にかかる費用は国の税金でなく、自前でするのであり、その半端でない金額に驚かされたのですが、まだ知らない神道の話を沢山お持ちのようですので、今年の後半にまた続編をお願いしたいと思います。

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2006年02月05日

1月例会記録(2) 「現代に生きる武士道 5」

1月例会記録

■ 二見健吉氏 「現代に生きる武士道 5」

第5章 日本の心と魂をもって実践された先人
 「武士道」の徳目を、具体的な施政にて実践された日本の誇る先人の指導者を4人挙げてみたい。恩田木工 伊庭貞剛 菅実秀 山田方谷。

新渡戸稲造の武士道を実践されている人物を紹介し、実践に生かせるようにしたい。
The soul of Japan武士道を持っているかたの内、今回は、恩田木工と伊庭貞剛の2人をご紹介したい。

第1 日暮硯の恩田木工  (1717-1761)
二見が、二十才の時、終生の恩師となった品川義介先生にお会いした時、頂いたのが、先生著作の「日暮硯の恩田木工」(ひぐらしすずり)で三十回読みなさいと諭された。
 第二次世界大戦中、アメリカのある機関は、日本の政治や指導者を研究するために「日暮硯」を取り寄せて徹底的に研究したと言われる。私は、「日暮硯」は日本人的経営哲学についてのテキストであると思う。

1717年生まれて、松代藩の財形の債権の筆頭になったのが恩田木工(おんだもく)。
恩師にすすめられた「日暮硯の恩田木工」は中学生でも読める本だが、先生からは30回は読みなさい、と言われた本。苦しくなると、そうかそうかと読んでいる。
西郷・鉄舟とは違った形で武士道を生かしている人。
アメリカ人が日本の指導者を研究した一人として上げられたのが恩田木工。

人の心をつかむ一番の方法は「誠」。
誠=言ったことを絶対守る=嘘をつかない
言い訳する政治家には読んでほしい。

日暮硯の著者は、松代藩士馬場杉雨と伝えられている。宝暦十一年(一七六一)冬に記されている。恩田木工は享保二年(一七一七)に生まれ、宝暦十二年(十七六一)正月六日に四四才で逝去している。二宮尊徳(一七八七?一八五六)が常に座右において、人にも勧めたという説もある。
木工は一九才の時に父を失い、二三才の時城代になり、三〇才にして家老職になった。藩主に抜擢されて宝暦七年(一七五七)に家老職勝手係、今でいえば総理大臣兼大蔵大臣についた。時に四一才。

川中島の近郊に松代城がある。この城は真田幸村の弟、信之を藩祖として明治維新まで、250年間続いた十万石大名で、実に信州第一の雄藩であった。しかし、大洪水、家老の悪政や濫費が祟り、藩はどん底に落ちていた。五代藩主信安が三十九才で逝去し、幸弘公十三才が家督をついた。若き幸弘公が、恩田木工を抜擢した。
 抜擢された時、先ず家老、次に親戚、妻子、使用人、役人、庄屋百姓などとの約束、いまでいえばコミットメントを取り交わした。
   第一 江戸表での家老職との誓約  第二 国許松代親戚縁者に対し
   第三 家の使用人に対し誓約    第四 親類一同  
   第五 家老職と諸役人に対し    第六 百姓と庄屋に対し 信義を約束した
   第七 悪役人に対し

松代藩の財政が苦しかったときに、木工は30歳で家老に抜擢されて、40歳で総理大臣についた。財政再建のために人の心をつかんだやり方は圧巻。
13歳という若い藩主が松代藩を継いだときに恩田を抜擢。財政再建を任命されたときのコミットメントのやりかたを紹介する。

最初に恩田の言ったことに違反しないという誓約をした。

2番目に恩田は国に帰って親戚、奥さん、使用人たちと誓約。
恩田は国に帰り、親戚、妻子、使用人をうちによんで、親子の縁を切り、離縁して、使用人には暇を出すと言い出した。理由は、嘘をつかないことを守るため。
恩田自身は必死で松代藩の財政を立て直すことに専念する、だが、奥さん、子供たちが嘘をついたら、それで恩田自身の信用はなくなる。また、恩田は、自分は今後一切ご飯と味噌汁以外は口にしない。着る物も木綿以外は用いない。それを実施しないと藩の財政は建て直しできない。しかし、自分がやっても家族が贅沢していては、恩田の家族ができていないのに・・・と信用を失う。
奥さんも子供も使用人もみんな、嘘をつかない、贅沢もしないことを守る。
恩田は使用人には給金は今までとおりにちゃんと支払うと約束した。
こうしてまず自分の身内を固めた。

次に城代に行き、百姓と庄屋を呼んで、約束を取り交わした。"嘘はつかない言ったことは変更しない"ご祝儀に対して"金品を受け取らない"これは賄賂を防ぐため。"年貢の督促に足軽を行かせない""藩の勤労奉仕は一切させない"そして借金を帳消しにした。その代わり年貢は、未納者がないように必ず納めてくれ。
藩の御用金は無利子にしてくれ、と。恩田は全部計算してから約束を取り交わした。

また役人がやっている悪いことを全部持ってきてくれと伝えた。

悪行は殿に見せるからと言われ、悪いことをしていた役人はびくびくしていた。しかし、悪いことをやっている人を首にしなかった。藩主は、それだけ優秀なのだから、恩田の顧問になりなさい、と相談役に登用された。

木工は在職五年を待たずして、改革半ばで病んで逝去した。木工の改革がただちに藩財政を好転させたとはいいがたいが、木工の後継者たちにより、死後五年程たって頃から改善の兆しがみえてきた。一九世紀に入ると松代藩は裕福な藩へと変わっていた。

また、学問を奨励、武芸を仕込み、神仏を拝みきっちりやった。
その後4、5年ほど経ち、恩田は45歳で亡くなる。藩の財政は急には好転しなかったが、だんだんよくなり、50年後の二宮尊徳も恩田を鏡として、二宮尊徳も村を救うひとつのお手本とした。

結論は、武士道の徳目である。武士に二言はない。嘘はつかない。木工は、武士道の徳目「誠」(誠とは武士に二言はない)の模範。

第2住友の神様伊庭貞剛  (1847-1926)

2番目に住友の神様といわれた伊庭貞剛(いばさだたけ)を紹介する。

二十六才頃、円覚寺の法友で、海軍大将山本五十六の部下だった故佐波次郎海軍少将に、「幽翁」(伊庭貞剛の伝記)をお貸しし、大層喜ばれたことが懐かしい。
資本主義の勃興期、明治、大正期における経営者は当然のごとく、日本の心、則ち 武士道精神を備えていた。徳の人、言葉を変えて言えば、武士道を備えた経営者はどういうことかを知る最高のモデルとして伊庭貞剛を紹介したい。
 伊庭の真骨頂を三点上げると次ぎである。
 一 労働争議を謡曲と散歩で解決した。
 二 人の仕事のうちで一番大切なことは
   後継者を得ることといつ引き継ぐかである
 三 別子銅山への植林事業

伊庭さんは経営の神様だと思っている。伊庭さんの真骨頂は、労働産業を謡曲と散歩で解決したこと。普通なら労働争議は首を切ることがほとんどだが、それをやらなかった。また後継者についても速やかに引き継ぎ、環境問題では当時トップの考え方を持った人だった。学校卒業後司法省に勤めるが、32歳で裁判所をやめて、住友家に入り、別子銅山労働争議を解決するために48歳のときに死ぬ覚悟で謡曲、臨済録を持って向かった。
偉い人が来ると労働者が首を切られるのは常だった。彼らはいつ首を切られるのかとびくびくしていた。伊庭は飄々としており、最後は労働者たちの心をつかんだ。
大きな解雇なく大争議は収まった。伊庭は誠と仁を貫いた生きた事例である。

伊庭は弘化四年(一八四七年)一月五日 近江国蒲生町西宿(現在の滋賀県近江八幡市)に生まれ、大正十五年(一九二六年)十月二十三日、七十九才 琵琶湖畔の石山の別荘で永眠した。四十四才 明治二十三年。推されて衆議院議員に当選する。しかし主家の難局(先代、当代相次いで死去)に当たりほどなく全ての公職を辞す。

 明治二十七年二月 四十八才。労働争議を解決するため謡曲師のみを同行し死ぬ覚悟で出発した。
新居浜では、かなり質素な家だった。そこから毎日 山を登ったり降りたりしただけであった。帰って謡曲をうなるだけであった。根本の問題は、人心の離散にあるとした。
全山の大動揺がしだいに収まったのは、貞剛の至誠のもつ力であった。これは、武士道で説いている勇、誠、仁の正に生きた事例である。
「翁は、大西郷のような人物であると思う。自分は直接に大西郷その人を知らない。しかし、翁に親炙し、その行動をみると、大西郷もまたこういう人物であったと思わざるをえない」という経済評論家もいる。翁は、生前大西郷から揮毫を請い受けたという。別子に足掛け六年在勤した。
翁は晩年に回顧して、本当の事業は、「別子の植林事業」だといっていた。
明治三十七年二月「実業の日本」誌上に、「少壮と老成」という感想録が発表された。

西郷や鉄舟を経済においたら、伊庭さんだと思っている。
経営のトップにいると長くその地位に居たくなるが、伊庭は4年間トップについた後には退く覚悟だった。そして実際に次の後継者を見つけて、退いた。

● 貞剛は、武士道の徳目「忠義」(国家のために住友はやる)と徳の模範。

伊庭さんは武士道の徳目のひとつである忠義の人である。

伊庭さんの言葉を紹介する。
頼みごとがあるときは、雨か風か大雪で歩けないときに頼むのが大吉。
天気が良い日は凶だ。
盲判を押せないようだったら仕事じゃない。
この人は!と思った人の仕事には盲判を押すのが人物だ、といった。

伊庭さんは、武士ではないが、武士道を体言している人である。

山岡鉄舟や西郷隆盛と比較して、良さがわかると思う。


【事務局の感想】

1月の武士道は、実践された人、体現された人を取り上げての発表でした。まさに二見さんこそ、実践されている方です。もうすこし武士道の発表は続きますが、最後に「二見さんの武士道」をお話していただきたいと思っております。

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1月例会記録(1) 「鉄舟が生まれた時代」

1月例会記録
山本紀久雄氏 「鉄舟が生まれた時代」

今日は鉄舟が生まれた時代について紹介したい。

テレビ朝日2月5日(日)14時から放映される「遥かなるオイスターロードの旅」という番組をお手伝いした。昨年テレビ朝日の製作ディレクターが私の著書をみつけて、会いにきたことがきっかけ。番組には森公美子、きたろう、料理研究家岸朝子、金子昇が出演する。岸さんは本を高く評価してくれて、料理研究家辻先生にも紹介してくれた。
4年前に書いた本で、売るためではなく専門書である。インターネットなどで何でも調べられる時代だが、専門書は必要な人には必要である。

翌年には温泉の本を書いた。あの本は今年で3年目になるが、あの本で最近忙しくなった。温泉の本を出版して以来「水・温泉」に詳しいと思われている。
今は、温泉業界ではリーダー的な旅館の若社長が鳴子温泉にいるが、その旅館へ田中さんとコンサルタントに行っている。若社長は温泉旅館の講演をしている人。旅館経営の話ではなく、いろんなことを話し合ってくるが、水・温泉に詳しいという前提で話が進む。水に興味がある会社から、ミネラルウォーターを売りたいので、マーケティング計画でアドバイスをしてもらいたい、という相談も来ている。
忙しくなったときにちょうど田中さんという強力な助っ人が来た。これも運である。

1、鉄舟の生まれた場所
鉄舟は、江戸、隅田川のほとりで生まれた。鉄舟の生まれた場所はお蔵奉行役宅で、
右側に隅田川が流れている。現在は川の向こうが国技館で手前側は台東区。京都・大阪・江戸に蔵があって、蔵には直轄地から米が送られてくる。ここで武士に米を配布する。武士は米をもらっても仕方ないから、札差という商売人が間に入り、米を売ったお金を武士に渡していた。札差が今の銀行である。資料では一番掘から八番堀まであり、黒い部分は米の倉庫。お蔵奉行は常時3~7人いた。
お蔵奉行役宅は複数あるが、鉄舟はこの役宅の中のどこかで生まれた。お蔵奉行は権力を持った勘定奉行の下にあった。

鉄舟の生まれた場所を先日撮影に行ってきた。隅田川のほとり、蔵前橋のところに、浅草お蔵跡という碑が立っている。なんともいえない景観の悪いところ。明治時代以降、我々は景観の悪化を進めてしまっている。昨年度、日本を訪れる外国人観光客が673万人になったが、韓国よりも低い。中国は4000万人世界中から訪ねている。GDPは世界第2位であり、国連の運営費の19%出している日本に観光客が673万人。それでも2005年は愛知万博があったから9%伸びた。2006年は何もない。現在観光客を増やそうとビジットキャンペーンをやっている。
しかし、景観の悪い日本には観光客は来ない。今の日本橋は高速道路が通っていて、寒々としている。江戸時代の景観は、まったく思い起こせない。明治時代はきれいだった。夕方になると、ガス灯が灯った。ガス灯に火を入れるお兄さんはかっこ良く、人気があった。明治時代以前は日本橋からも富士山が見えた。しかし近代化という名の下の破壊が進み、江戸時代・明治時代の美しい日本の景観は失われてしまった。江戸にはシンボルがない。
小泉さんが日本橋を復活させよう!という提案をした。検討した結果迂回案が出された。復活させる費用に6000億円が掛かる。誰が出しますか?1人1万円集めても6億人集めないとだめ、人口超えてしまう。

2、鉄舟の性格をつくった幼少時代の背景

鉄舟は大川端のお蔵奉行役宅で生まれた。当時大川は非常に豊かな川であった。鉄舟はお蔵奉行役宅に10歳までいた。高山時代からは鉄太郎について書かれた記録があるのでわかるが、10歳までの幼年時代は、9歳のときに剣道を習ったことしかわからない。

山岡鉄舟の2006年1月号の『ベルダ』に望嶽亭の松永さだよさんの写真を掲載した。松永さんには3回くらい会ったが話しが瑞々しいことに驚く。昔のことであり、代々伝わった話しなのに、昨日鉄舟に会ったかのように話す。なぜ瑞々しいのかと考え、それがヒントになった。鉄舟に直接会っている女将かくさんは、さだよさんから数えると4代前だが、話しが伝わる間に、そのさん1人しか入っていない。時間としては長いけれど、記憶が短い。だから話しが瑞々しいのです。

今年は大雪で被害が出ている。雪下ろしをしても、雪はどんどん積もり、雪を捨てるところがないので埋まってしまう。しかし何メートルも雪が積もる県で一人も死亡者が出ていない県がある。石川県だけは昔から地面に雪を溶かす装置を備えていたので、死亡者が出ない。

二見さんのお話の中で松代藩の藩主は自分の藩を良くしようと恩田木工を登用した。名君と言われる人には名参謀がいる。参謀の作戦がうまくいくと名君になる。名君には名参謀が必要。有能な人が必要なのです。

雪の話しに戻ると、再構築とはしくみを変えることである。雪が悪いようなことを言っているが、雪は降ってしまうのだから、溶けるようにする。道路を何年もかけて整備した結果、石川県は雪の被害が少ない。石川県は森総理、新潟県は田中角栄の出身。開発型と環境整備型の差が出ている。事件の裏については新聞記者は知っている。我々は政治家を選ばなければならない。時代の先端を示すことは我々の前に出てくる。

国の運営をつかさどる立場になった時、どういう心構えで政治家になればいいかという題目で、自民党より日経新聞の田勢康弘氏に、講演依頼があった。田勢氏はここで、「命もいらず名もいらず、官位も金もいらぬ人はしまつに困るものなり。このしまつに困る人ならでは艱難をともにし、国家の大業はなし得られぬなり」と話した。これは西郷隆盛が鉄舟の生き様から悟ったもので、『西郷南州翁』にかいてある。人は、生き方・死に方も変わらない。鉄舟は明治維新後出世して、お金が入ってきた。お金が入ってきても、貧乏しても鉄舟の人となりは変わらない。お金や地位によって変化しない人物が山岡鉄舟である。西郷は理屈ではなく、一瞬で鉄舟のそれを見抜いた。

山岡鉄舟を勉強しないと政治家になれない。4年前から勉強しているのはこのことがわかっているからである。世の中の流れを先取りしている。牡蠣の本も4年前に大事だと思ったから書いた。
鉄舟・21・サロンは、時代の最先端の精神を勉強する会であり、そのうちに大会場に3000人くらい集まるように、なってくるだろう。

1954年にゴジラは誕生した。今や世界のゴジラになっている。29年前にゴジラが世界に浸透すると思ってつくったかどうか。きっと予想して作たから今日浸透した。このように最先端の考え方の人がいる。

同じ景色を見ながら、先端と考える人と、捨ててしまう人がいる。みたものに対して、つかんで・編集して・ボールを投げる役目がある。田勢氏は、新しい考え方だよ、とボールを投げてくれた人。山岡鉄舟も世界に出していかないとならない。

最先端をリーディングエッジという、最先端の景色はヴューエッジ。ヴューエッジ見て、最先端だと判断するかできるかどうかが大事。『ベルダ』の編集長から旅先でヴューエッジを見つけて、コラムをやりましょうと言われている。
コラムのタイトルは「地球はフラット」にする。今、世界は階層がない、みんな平等である。感じたことを時代の先を示している最先端のリーディングエッジをつかんで書きたいと思っている。

鉄舟を研究するといろんなことに波及してくるということをお話したい。鉄舟の
幼年時代の背景について考える。鉄舟が生まれたのは、天候不順で飢饉もあり一揆があり、社会が混乱した、天保の時代。社会の混乱期に豊かな感性の人間が生まれるわけがない。いろんな本を調べていたら、鉄舟のような素晴らしい人間を育む、素晴らしい時代だったと、違った江戸時代像が浮かんできている。

鉄舟は豊かな時代に育ったとは、誰も書いていない。今後鉄舟の生きた時代の新しい姿を研究しようと思う。

3、小泉政権が進める三位一体改革

小泉政権が進める三位一体改革について説明する。
歳入・歳出=収入・支出のこと。歳出が91.3兆円、歳入が32.7兆円で、支出は収入の2.8倍の支出。

収入の対比をみると、国の歳入が52.7兆円、歳入総額は88.2兆円。国は6割、地方は4割で、歳入の差は「17.2兆円」これを地方に移す。これが三位一体改革。
地方が国より収入が多い。三位一体改革は単純に言うと、県民が代議士のところに陳情に来なくなるから押しとどめられている。

4、江戸時代の藩政治と幕府との関係
鉄舟が生きた江戸時代は幕府があり、270の藩があった。幕府は400万石だが、全国でみたら僅かな石高しか押さえていない。各藩は、今の日本みたいに、幕府(国)からお金を貰っていなかった。幕府は藩に一銭も出さない上に、藩政のチェックに入る。江戸時代は藩が財政の悪化など問題を起こすと、不行き届きといって、藩をつぶし、領地を幕府のものにした。参勤交代は忠誠心の証で、出張手当ても出ない。
そういう体制が江戸時代だった。各藩は自分の才覚でリストラを進める。
松代藩が恩田を登用したのは、各藩は100%自分のお金で生活しなければならないから。今は国からお金がもらえるから無駄遣いする。

鉄舟の本には、鉄舟が生きた時代背景のことが書かれていない。私はそこに時代を入れようと思った。時代を入れていくと、一人一人の言葉に意味が出てくる。
鉄舟が豊かな感性の持ち主だったということは、江戸時代が豊かだったということ。

無血開城の交渉がおわって、愛宕山の頂上で西郷が海舟に話した。

西郷:さすがは徳川公だけあって、えらい宝をお持ちだ
海舟:どうした
西郷:山岡さんのことです
海舟:どんな宝か
西郷:いやあのひとはどうのこうのと言葉尽くせぬが、なにぶんにも、ふのぬけた人でござる

西郷にとって鉄舟は、西郷が知る人物リストにはない人間。鉄舟は鋭い人であり、西郷自身が彼の説明に納得させられてしまった。西郷は、徳川慶喜の家来はすごい、その奥に控えている江戸幕府、徳川家は人材が豊富であり、奥行きのある人材ができる仕組みになっているのでは、と西郷は思ったのではないか。
いろんな学者の本を読んでいたら、江戸時代ほど豊かな時代はなかった、と北海道大学の井上氏がおっしゃっていた。今度お話しを伺う予定である。

来月からは鉄舟が生きた江戸時代をお話しします。


【事務局の感想】
今回「リーディングエッジ」という新しい言葉をお聞きしましたが、今までの鉄舟研究についても、時代の最先端の話と鉄舟を結びつけ発表していただいていました。鉄舟を研究することは、古くない。鉄舟を勉強し始めたことこそ、最先端の景色だったのではないかと思います。これからも、新しい感覚を勉強させていただきましょう。

投稿者 staff : 11:14 | コメント (0)

2005年12月25日

2005年「望年会」にて

鉄舟サロン望年会が盛大に開催されました。

2005年12月21日
 ・第一部 15:00〜16:30 歴史探訪
      紀尾井坂周辺を中心に、この地にゆかりの
      歴史上の人物・事件を探訪しました。
 ・第二部 18:30〜20:30 望年会
      ホテルニューオータニ「ガンシップ」
      今年を忘れるのではなく、来年を望む懇親会
      です。来年も共に研鑽しよう、ということを
      口実に飲んで食べてオシャベリする宴です。

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笑いあり、涙はナシ、シャンソンのアカペラ即興あり、歴史経済のウンチクありと、楽しい中にもキラリと光る何かを掴んで帰れるというのが鉄舟サロンの身上です。
今回も、ニューオータニの美味しいお料理に舌が喜び、お酒で話が弾み、皆さんの多彩な博識に悪酔いし(冗談ですよ(^_^))、アッという間の2時間ちょっとでした。

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最後に山本紀久雄さんよりシメの言葉をいただきました。
先の衆議院総選挙で大勝した自民党には、80余名という大量の新人議員が誕生しました。そのうちの50余名は無派閥のいわゆる「小泉チルドレン」です。このチルドレン達に対して勉強会が開かれているのですが、このとき党からは「命もいらず、名もいらず、金もいらず、といった始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如きでしょう」と語った西郷隆盛のくだりを紹介し、国会議員という職業に対する心構えを説いたそうです。小泉チルドレン達は時代の最先端を学ぶ事例として、鉄舟を引き合いに出して勉強しています。同じく鉄舟を勉強している私たちは、小泉チルドレン達と同じ最先端を学んでいる気概を持ちましょう。

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鉄舟を学ぶことは古いことを学んでいるのではないのです。鉄舟を通して時代の最先端を学んでいるのです。どうです、カッコイイでしょう?
これをお読みのアナタも、是非一度鉄舟サロンの門を叩いてみてください。大丈夫、とって食ったりしませんから(^_^)。


投稿者 staff : 10:00 | コメント (0)

2005年12月24日

研究旅行で見た鉄舟の書

秋の研究旅行つれづれ日記
〜永江院にて鉄舟の書を拝見〜

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研究旅行2日目、最後の見学地である「永江院」に立ち寄った際拝見した鉄舟の筆になる襖です。
達筆ですね(読めない……)。
ご住職より読み方をいただきましたので、ご紹介します。

(上の写真の右端の書)
 長空に雨過ぎて
  山壁は段休す

(上の写真の右から2番目の書)
 万里の竹好し
  千尺の松濤

(上の写真の右から3番目の書)
 明月時に至り
  清風自ら来る

(上の写真の1番左の書)
 閑居は志を養い
  詩書自ずから暎える

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2005年11月24日

11月例会記録「時代のタイミング」

11月例会記録(2)

山本紀久雄氏 「鉄舟とピストル」

●上米良氏の講演について
正月は神社に参りますね。そのときに神社というものは何か?というものを知らないままに一年間何かいいことありますように!とお願いする。国民の基礎教育なのに、神様の成り立ちは学校で教えてくれない。日本人の原点を知らずして、神社のお参りをしてよいものか、と。そこで上米良さんに講演をお願いした。

●望嶽亭のピストル 
若杉さんが編集した望嶽亭の小冊子にピストルがある。これはナポレオン3世が徳川慶喜に贈り、慶喜が鉄舟に駿府に行くときにあげたピストルである。
それが望嶽亭にある。冊子を読むと望嶽亭近くの薩?峠を鉄舟が一人で越えようとしたら官軍がおり、鉄舟はまずい!と山を逃げた。冊子には、鉄舟が官軍に"拳銃を打ち返しては必死に逃げた"とある。
鉄舟は剣の人なので、ピストルを撃ち返すのでは味がないと気になっていた。

●坂本竜馬と剣
2000年のときに朝日新聞がこの1000年間の日本の政治リーダー読者人気投票を行った。有名でロマンあふれる人間として、人気は坂本竜馬がトップ。剣の達人として著名であり、千葉道場で免許皆伝の腕前を持っている。しかし剣客竜馬は刀より銃ではなかったかと考えられる。竜馬は京都で2度襲われている。最初の寺田屋事件、刀は持っていたが、ピストル5発撃って、向かってきた人に対抗した。5発の弾がなくなってもピストルを離さなかったので、手を切られてしまった。竜馬は剣術使いではなかったという仮説を持った。剣術使いではないから、ピストルを護身用に持っていたのではないか。2回目は風邪ぎみだったが、床の間にあった刀を取る暇もなく切られている。竜馬は剣士ではなかった。竜馬はオランダの蘭学を学んでいて、兵法、爆弾の方の専門家だ、という仮説を立てた。

●鉄舟のピストル
望嶽亭には10連発のピストルがある。しかし山岡鉄舟とピストルなじみますか?なじまない。長い間心に引っかかっている。『誰も書かなかった清水次郎長』ではピストルは6連発とあるが、本当は10連発。
鉄舟は明治時代になって近代日本の最後の剣士といわれた。坂本竜馬も剣士と言われたが、免許皆伝の証書には、「長刀」と書いてある。
鉄舟は道場も作った、激しい訓練もしている、その剣の達人が護身用としてピストルを持って、逃げながら必死で撃った!と冊子には書かれている。鉄舟を好まない会だったら、剣士じゃなくなるかもしれないが、ここは鉄舟の会で、鉄舟を好む人が集まっている会。
望嶽亭女将かくさんの脳裏に残った口述伝書がさだよさんに来ている。鉄舟がピストルは持っていたことは事実だと思う。しかしどうしてピストルを持っていたかを研究していて『幕末維新本流の時代』という本を見つけた。

●ピストルの持つ意味
慶応3年10月大政奉還があったが、慶喜討伐勅書が出た。大政奉還したから慶喜を殺す必要はない。しかし西郷らは勅書を持って京都を離れ、もう一度徳川を倒す作戦を立てるために京都を離れた。そのときに反幕体制として一人だけ京都に残った岩倉具視に短銃を贈った。ピストルは貴重品で高いものであった。これは護身用ではなく「動揺するな」という意味で贈った、とある。

現在、著者の青山さんに「動揺するな」というのはどこからもってきたか、問い合わせしている。まだ返事はこないが。慶喜さんが鉄舟に駿府に行ってほしいと頼んだときに、ピストルを「自分と思って持っていってくれ」と渡したのではないか。
本当なら刀だが、謹慎している身であるから、ピストルを鉄舟に渡し、「自分と思って成功させてほしい、西郷のところまで行ってほしい」と頼んだと考えれば、鉄舟のイメージは狂わない。


【事務局の感想】
山本さんは、いつも、いろいろなことに疑問をもたれて、それを解明しようと研究を続けれています。いつも考えているので、その答えが現れ、研究が解明されていきます。
ピストルの件もその調査の一つです。今後もさまざまな解明を期待しています。

投稿者 staff : 12:56 | コメント (0)

11月例会記録 神道とは何だらう?

11月例会記録(1)

上米良恭臣氏 「神道とは何だらう?」
 ―現代人の退化、見えず。聞こえず。感じず。―

●米良姓、菊池姓について
米良という姓は、南北朝時代の九州の豪族、菊池武房・武重・武光と関係がある。
菊池は楠木一族と一緒になって足利勢と戦った。菊池一族が、戦国時代に衰退して逃げ込んだ場所が熊本県と宮崎県の境にある米良山で、天姓(あめせい)米良氏と名乗って生き続けた。米良村には150戸くらいの家しかなく、半猟・半林、猟をしながら植林の仕事をしていたが、獣を殺すために300丁くらいの鉄砲があって、その鉄砲を持って明治維新に参加している。その米良氏が明治維新になって、菊池一族が足利勢と戦った功績と明治維新の功績として、米良姓から菊池姓に復元をして、明治4~5年の頃菊池神社(熊本県菊池市の山頂)を創建した。その旧姓の米良を使っている。菊池さんの当主が武夫さん。武夫さんは、美濃部達吉が天皇機関説を出したときに大反対を唱えている。そういう由来を話しまして、神道について話す。

●日本の神について
日本の神様に関する考え方には、「いますがごとくつかえまつれ」という言葉があった。
私は反論して「いますがごとく」では影になるので「ごとく」ではなく、「いますから」と
提案し、神主さんと討論をしていた。
神様は、今現代に見えないだけ、感じられないだけ、聞こえないだけ。
本当に神様がいるか、神社に泊り込みで菊池神社へ行ったことがある。
背筋がぞくっとする気配を感じた。
私は日本の神様がいらっしゃると考える。ご神体は山、滝、人、雷、怖がるものを
皆神様とした。
菅原神社は天満宮として讒訴されて亡くなられた菅原道真公を祀っている。
雷を起こすなど、非常な力を持ったので、神様として祀った。怖いものが神様だった。
全てではないが、身内が祀る、としている。たとえば、その子供が祭る、とか。
それが日本の神道のながれ。

●GHQからの神道指令について
敗戦後、GHQから神道指令が出る。明治期に神道は国家の宗祀だ、と言っている。
このたびの戦争についても神道や武士道があるから、ああいう死に物狂いの特攻や
一人も逃げない戦ができたとGHQは分析し、国家と神道を切り離さなければならないと、
神道指令が出た。国家と神道を切り離したものだが、神道は宗教なのか?
という話になった。
もし宗教とするならば、国際公法上、戦勝国がその国の宗教を変えることはできない。
ところが国家の宗祀だから宗教活動・布教活動を行っていない、明確な教義や経典はないから、宗教ではない、とGHQは決めた。
神社側との討論の中で、宗教でなければ神社をすべて潰す!とGHQから暴論が出た。
宗教法人として、それを統括したのが、神社本庁で、全国の神社をひとまとめにして、
監督・指導などもやることになった。
神道が宗教か否かは関係ない。一神教だと戦争になるが、神道の神は八百万の神なので、戦争がない。そういう宗教をこえたのが神道、というのが持論。神道は日本固有の精神文化である。神社を巡っていて、感を深くする。最近みなさんがおっしゃっているクールジャパンの最高のものが神社・仏閣ではないか。

●神社を巡る旅行
つれあいと、おしめり旅行(お=温泉・し=神域・め=名水・り=料理)という名前をつけて、遊んでいる。必ず温泉に行ったら付近の神社を探索している。
いろいろ行った中でいくつかご紹介する。埼玉県の児玉郡の金鑽神社(かなさな)には
本殿がない神社がある。山がご神体なので、拝殿しかない。
長野県上田市の生島足島神社。この神社には池があり、そこに神様が通る橋である神橋(しんきょう)が掛かっている。注連縄が張ってあるので参拝客は通れない。

●日本人と神との関係
昔、"日本人はみな神主だ"と言っていた。誰でも神主になれる素質がある。神主になるのは難しいことではなく、大学に行って、神道科を卒業するか、夏期講習を経て、試験を受かれば、誰でも神主になれるが、そういう意味ではない。
神性・・・草や花に美しさを見出せる。そういう心を持っているのが日本人で、その心を持っていれば誰しも神主になれるというのが持論。
今は、日本人は皆「神孫(しんそん)」である、という風に解釈をしたいと思っている。

●日供祭と祝詞
レジメ「本義は日供祭にあり」の「日供祭」(にっくさい)とは毎日のお供えのこと。神社では必ず毎日、1人か2人の当番の神主さんにより朝御饌(あさみけ)、夕御饌(ゆうみけ)が行われる。神様にお米や水、酒、塩を、お供えして、七折半になっている祝詞を読む。朝御饌・夕御饌を毎日あげているから神様が大きな力を出されると解釈ができる。京都の上賀茂神社では観光客が夕御饌の祭に参列できる。参列し、祝詞を聞いていただくことによって朝御饌・夕御饌を理解してもらいたいと、行っており、これには非常に感心した。

レジメにあるのは朝御饌祭の祝詞で、助詞に万葉仮名を使う。
 ※左:漢字が本文、右:括弧内の平仮名が書き下し文

今日乃朝御饌仕奉良久登(きょうのあさみけつかえまつらくと)
大前尓斎回里清回里氐(おおまえに いわまり きよまわりて)
御食乎捧奉里拝美奉留状乎(みけをささげまつり おろがみまつるさまを)
平良介久安良介久聞食志氐(たいらけくやすらけくきこしめして)
今毋行先毋(いまも ゆくさきも) 
天皇命乃大御門乎(すめらみことのおおおみかどを)
常磐尓堅磐尓斎比奉里幸閉奉里給比
(ときわに かきわに いわいまつり さきはえまつりたまい)
親王等乎始米氐(みこたちをはじめて) 
氏子崇敬者等波申佐久母更奈里(うじこすうけいしゃたちは もうさくもさらなり) 
国民諸々乃上乎夜乃守(おおみたから もろもろのうえをよのまもり)
日乃守里尓護里(ひのまもりに まもり) 
幸閉給比天乃下萬乃国乃人々(さきはえたまい あめのした よろずのくにのひとびと) 
互比尓相睦毘相親志美津津(たがいに あいむつび あいしたしみつつ) 
永久平良介久(ながくたいらけく)
弥栄衣尓立栄衣志米給閉登(いやさかえに たちさかえ しめたまえと)
恐美恐美毋白須(かしこみかしこみももうす)

神社にはお祭りがあるが、それはそれとして、日供祭が、神道の基礎、本義である。


●住んでいた神社
資料うしろの3枚の神社の写真は、わたしが2歳から7歳くらいまで住んだ神社。
この神社は熊本県の人吉、十島(としま)菅原神社。社の屋根が傷まないように屋根が
2重に成っている。下の写真の脇に平たくなった部屋は神様にお供えものをつくる部屋で
8畳くらいあった。戦後、この神饌所の中に親子4人くらいで住んでいた。
十島神社のいわれは、境内に池があり、そこに島が10個あった。
一番大きい島のところに社がある。
菅原神社は学問の神様であるのと、十島菅原(としますがわら)を「通します神社」と語呂合わせし、入学試験に「通します」というご利益があると謳っている。

●3種の神器
3種の神器はご存知でしょうか。「八咫の鏡」は、天岩戸に天照大神(おまてらすおおみかみ)が隠れたときに、天岩戸の外へ出すときに、使われた鏡。岩戸の外でどんちゃん騒ぎをして、天照大神が天岩戸を少しあけて覗いたときに、八咫の鏡に姿を映した。天照大神は鏡に写った自分をみて、なんて明るくてきれいな人がいるのだろう!と驚いて戸惑い、その隙に岩戸を開けて、外に出したという故事にまつわる鏡。

改心をした須左之男命(すさのおのみこと)が川の上流で、八俣の大蛇の尾から出た天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を天照大神大身神に奉納する。剣は後に伊勢に移り、大和武尊が東国を平定するときに使われた。大和武尊が草原で炎に囲まれ殺されそうになったときに自分の周囲の草をなぎ払い、逆に敵のほうに火が移り、事なきを得たという。ここから天叢雲剣には草薙の剣という名もある。

鏡の下にかけた八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)も三種の神器のひとつ。

鏡は、垂仁天皇の頃、同じところで扱っていては、おろそかになると倭姫に託されて、今の伊勢神宮に移し、ご神体とされた。剣は、熱田神宮に祀られた。鏡は最高水準の技術で模したもので、宮中の賢所にある。草薙の剣を精巧につくったものや勾玉も宮中にある。

●剣璽御動座(けんじごどうざ)
剣璽御動座とは、天皇のそばに必ず三種の神器があるということ。例えば安徳天皇が沈むときに三種の神器は沈んでいる。そして伊勢神宮から持ち出して同じようなものをつくっている。持っているということは、天皇であるという意味である。伝統的に剣と璽は、天皇が行幸するときに持ち歩かれたもので、皇室の御用邸(日光・田母沢御用邸など)に行くと、剣璽の間がちゃんと別室にある。戦後になって、天皇が剣璽御動座をやめられた。昭和天皇がやめたことを次の天皇が復活することは親不孝になるのでできない。天皇が生きている間に復活させなければならない、と一般庶民の署名を集めて宮内庁に送ったりした。一時廃止されていたが、昭和47・48年ごろから、復活した。

60回の式年遷宮が、伊勢神宮で初めて剣璽御動座を復活させた。
神道は王朝の雅もあります。
2006年2月に続きをやります。


【事務局の感想】
神道は雅、神道はカラフルと上米良さんがお話されました。白木と白い布のイメージをもつ私には、上米良さんのいいたいことがまだ分かりませんが、ぜひその真意をしりたいと思います。
レジメはあっても、レジメ以上の上米良さんご自身の言葉による発表に魅了されました。2月がまた待たれます。

投稿者 staff : 12:25 | コメント (0)

11月例会 神道と鉄舟研究

   
11月の例会は、上米良さんから神道について、大変わかりやすく発表していただきました。今回の発表は1回ではもったいないので、2月にも続けてお話していただきます。


山本さんは、鉄舟とピストルという題で、長年の疑問の鉄舟が刀でなくピストルを持っているということに対する疑問を解明し解説されました。解明については11月の例会記録をご参照ください。


投稿者 Master : 12:07 | コメント (0)

2005年11月05日

「時代とのタイミング」

10月の例会記録(3) 山本さんの講演(2)
1.鉄舟の江戸無血開城タイミング
①海舟が益満を牢から出したタイミング
鉄舟の江戸無血開城にはタイミングがあった。立派な方は沢山いた。立派な方が時代に見出されると偉人になる。この時代、勝海舟という人間が素晴らしかった。金がないので剣道で身を立てようとしたが、厳しい時代であり剣術では食べていけない。そしてオランダ語を勉強した。それが身を結んで、長崎で幕府の洋式海軍をつくることになり、オランダからのカッケンディーケという教師団長が来て、この教務主任になった。
ここで海軍のことを学ぶと同時にヨーロッパを学ぶ、ヨーロッパを学ぶことは世界を学ぶことである。それによって海舟の頭の中は開け、その後、軍艦・陸軍奉行になった。
たまたま薩摩屋敷を幕府が攻撃して、捕らえた人物として、益満休之助がいた。鉄舟が勝海舟邸にくる3日前に鉄舟が訪ねてきた。益満休之助を自宅(勝海舟邸)に引き取った。鳥羽伏見の戦いを引き起こすきっかけになった3人は本来なら死罪だが、その彼らを3日前に引き出す。偶然だが、その感覚がすごい。
現在、薩摩の上屋敷は、セレスティンホテルになっている。セレスティンホテルは東京駅八重洲北口にあるホテル国際観光が作った。ホテルの売上は宿泊、宴会、飲み物(バー)で形成されている。今までホテルは宴会と飲み食いで成り立っていたが、今は2つともダメになり、本来の「宿泊」に戻ったホテルは今、経営状態が良い。ホテル国際観光は宿泊に集中しようとセレスティンホテルをつくった。

②鉄舟と益満は昔仲間だった
勝海舟が益満休之助を山岡鉄舟に合わせた。鉄舟と益満休之助は、10年前清川八郎の下で尊皇攘夷党の仲間だった。尊皇攘夷党で顔見知りだから、話がまとまる。

③海舟が上洛しようとしたが許されず
幕府と官軍の関係がこじれたとき、勝海舟は、私が大阪にいって、天皇(官軍)と交渉すると言った。軍艦奉行になったときに一度交渉している。2回目に慶喜にお願いして、交渉に行ってこようと言ったときに、江戸城の皆が、もし勝海舟が捕らえられたら誰も指導者がいなくなってしまい、官軍とのルートが切れてしまう・西郷とさしで話せる人がいなくなる、と止められた。

④このタイミングに鉄舟が使者に選ばれた
勝海舟が交渉する道が閉ざされた、そのときに鉄舟が使者として選ばれて、西郷の元に交渉に向かった。

⑤西郷の目的と鉄舟の目的は相反する
ところが官軍と幕府の目的は全く正反対もの。戦略・目的がまったく相反する。
西郷・官軍の目的は慶喜を殺すこと。鉄舟は慶喜を助けることが目的。

⑥駿府で西郷との会見交渉
*覚悟を示し、西郷が鉄舟の人物にほれた
鉄舟にとり最大のタイミングがよかったことは、交渉が西郷であったこと。大久保利通であった場合、彼は理路整然、情に流されないので、駿府で会見しても交渉は失敗に終わったであろう。

*西郷と島津久光の関係
西郷側から見た場合、矛盾があるのは、鉄舟が島津公の立場で慶喜のことで考えてくれ、といったが、それは表向きの言葉。西郷は斉彬を毒殺したのは久光だと思っていたわけですから。鉄舟が、久光を慶喜だと思って考えてみなさいといっても、西郷はわからないでしょう。

*西郷は新政府の一員、薩摩藩であって薩摩藩でなし
実は、西郷は薩摩藩と言っているが、薩摩藩であって、薩摩藩ではなかった。王政府復古の大号令のときに新政府が作られた。

王政復古の新政府組織

慶応三年(1867)12月 王政復古の大号令によって新政府が発足し、その発足時の天皇のお言葉と組織は以下の通り。
(天皇のお言葉)
「嘉永6年以来、未曾有の国難となって、先帝が連年宸襟を悩まし給うていた次第は、人々のよく知るところである。よって、近上は叡慮を決し給うて、王政復古、国威挽回の基礎を給うために、自今、摂関、征夷大将軍、国事係、議奏、伝奏、守護職、所司代を廃し、今は先ず仮に総裁、議定・参与の三職を置いて、万機を行わせられる。ついては、諸事、神武天皇創業の始めにもとづいて、公卿、武家、堂上、地下の差別なく、至当の公儀を尽し、天下と苦楽を共になさるべき叡念であらせられる故、各々勉励して、旧来の驕惰の汚習を洗い去り、尽忠報国の誠をもって奉公いたすべきこと」


(組織)
総裁 有栖川宮熾仁親王

議定 仁和寺宮嘉彰親王 山階宮晃親王
   中山前大納言   正親町三条前大納言 
中御門中納言
尾張大納言(慶勝) 越前宰相(春嶽) 安芸少将(長勲)
土佐少将(容堂)  薩摩少将(忠義)

参与 大原宰相(重徳)   万里小路右大弁宰相(博房) 長谷三位(信篤) 
岩倉前中将(具視)  橋本少将(実梁)
尾州藩 丹羽淳太郎  田中邦之輔 荒川甚作
越前藩 中根雪江   酒井十之丞 毛受鹿之助
土佐藩 後藤象二郎  神山左多衛 福岡藤次
芸州藩 辻将曹    桜井与四郎 久保田平司
薩摩藩 岩下佐次上衛門 西郷吉之助 大久保一蔵

嘉永6年=ペリーが来た年、先帝=孝明天皇、近上=明治天皇
総裁=総理大臣、議定=大臣、正親町=おうぎまち、忠義=久光の息子、参与=芸州藩辻

お言葉のあと、辞令発表があった。従来の藩は残っているが、王政復古で徳川慶喜が返してしまったら、天皇中心にして国家をつくることとなり、組織運営するために新政府案をつくったその中の一員に入っている。
鉄舟が交渉したときには、西郷は薩摩藩ではあるけれども、新政府一員。新政府の一員であるという思いで対応するはず。

*イギリス・パークスの発言、万国公法に反する 
西郷の部下がイギリスのパークスに江戸の攻撃について相談した際、パークスからは、相手が白旗掲げて恭順し、城から出ているのに攻撃しては、万国公法に反する!と言われていた。

⑦鉄舟の個人的力量が最大の功績だが、時代と周りとのタイミングが合致 
鉄舟が西郷と交渉したとき、上記のことが重なっていた。
一番は鉄舟の人柄。鉄舟には時代の環境が有利に鉄舟に現れた。タイミングを計れない人物は大きなことはできない。

2.現地、現場、現認する目的は、時代とのタイミングを計るため。人と会う目的は時代の接点をとらえ、つかみ、編集し、行動するため

金子さん・小野寺さんとNYにスポンサーを探しに行き、いろんな会社を訪問した。
先方の社長に金子さんは説明する。
サブカルチャーが日本の文化として隆盛を極めている。村上隆が2002年にパリで「ぬりえ展」を開き、今年は「リトルボーイ」を開いて、その中にぬりえが出ている。
日本が認められて、アニメーションがあって、漫画がある、アニメーションも漫画も、その原点はぬりえである。金子さんの説明に先方の社長は頷いてしまった。

時代を掴むときにブラーっと歩いてもダメ。キーポイントの社長が何をいうか、それを察知して受け答えをする。先方の社長もクールジャパンをよく知っている。なぜなら日本企業の業績がいいのがその最大の理由です。日本全体が受け入れられているから企業の業績が認められる。駿府をNYにする。金子さんと小野寺さんが鉄舟、先方の社長が西郷。

3.成功するマーケティング
①新しい商品を、新しいマーケットに売る・・・危険
②今までの商品を、違うマーケットに売る・・・チャネル拡大
③新しい商品を、今までの客に売る・・・目指すところ

物事はセオリーを踏まないとダメ。成功するマーケティングをしなければならない。
新しい商品を新しいマーケットに売ることは最大の危険を伴う。
今まである商品を違うマーケットに売るのは成功する。スーパーやコンビニの展開が、このチャネル拡大。場所を広げるから客数は広がり、売上が上がる。日本の企業はほぼこれで拡大してきた。
今、これが限界に達している。どうしたらいいかというと、 目指すところが新しい商品を、今までの市場に売ることです。
「新しい商品=ぬりえ」過去あったものだが、ヨーロッパ・NYには新しい商品となる。
ヨーロッパ・NYは日本のアニメーションを受け入れてくれている。そしてぬりえをアニメーションと同じに理解してくれる。

こういうコンセプトを持つには、現地の感覚を握ることが大事である。現場で現物をみた感覚。感覚と理論と商品の世界をミックスさせないとつくれない。

来年NYで展覧会を開催する。おそらく展覧会の時期は、松井はヤンキースにいて、ヤンキースが、そのころはリーグの4位に入っていて、プレーオフをやっていると思う。
NYの地下鉄は安くて早い。地下鉄は5回+1回サービス。6回券で10ドル。1回1.7ドル。112円で換算すると190円。どこまで乗っても190円。7日間で24ドルの定期券がある。1日380円で何回乗ってもいい。日本にはこういうのがない。車両も良くて、24時間動いていて、安くて、女性が夜中乗っても危なくない。NYの安全度は全米4位。NYは安全ということを確認してきました。ぬりえ展と剪画展を開催します。宿泊先の
シェラトンホテルも確認してきました。来年一緒にNYに行きましょう。

事務局の感想
NY、パリの現場感覚が、山岡鉄舟と結びつく。それが山本鉄舟研究の面白さです。
同じ時期にNYに居たとは思えない山本さんに鋭い観察力。これからも勉強をさせていただきたいと思います。

投稿者 Master : 13:29 | コメント (0)

「時代とのタイミング」

10月の例会の記録(2) 山本さん講演(1)

毎回二見さんから、すばらしい武士道に関する解説をしていただきまして、日本人の持っている精神のよさを感じる。日本という国は外国でどう見られているか。偏見された情報が来るが、現場に行くとよくわかる。先日、日本赤軍リーダー重信房子の娘、重信メイ氏を経営ゼミナールに呼んでアラブ諸国について話してもらった。
メイ氏とゼミナール終了後に話していてアラブでも日本の文化に興味を持っていると聞いた。アラブの新聞(アラブ世界は国境で国分かれているが言語は一緒)は、新聞が国をわたって出来ている、2~3種類あるが、毎日交代で日本のことー茶髪、六本木ヒルズとかーを載せている。それだけアラブ諸国も日本に興味を持っている。

先日NYに行った際、NYのラーメン屋にアメリカ人が並んでいた。NYから戻った翌日パリに行ったら、パリのラーメン店にも西洋人が並んでいる。

情報を掴むことはひとつの手法がある。短い期間に集中して同じことを視ると感覚が鋭くなる。NYとパリを同時期に見ることにより一瞬に比較できる。「ラーメン」を同時期に視ることにより2国の「ラーメン」を比較できる。

フランスではワイナリーに行くため、新幹線でボルドーまで行ったが、ボルドーまでの3時間、どこの駅にも停車しません。日本の場合、東京から大阪まで3時間弱、名古屋・京都に停車します。パリと日本の新幹線との共通点は、車内が満席でも静かなこと。

ボルドー駅につく少しまえに、迎えの人から通訳の女性宛に電話があった。駅のミーティングポイント(待ち合わせ場所)で、待ち合わせた。その場所に着くと40歳くらいの男性がきて、通訳の方と握手して、ルノーの車に乗り走り出した。車の中で出迎えありがとう…と話しているのですが、だんだん話がこじれてくる。駐車場を出てからお互いに解ったことは、人違いだった。

今、NYでは日本食が大流行ですごく認められている。NYの紀伊国屋でも日本のアニメーションが一番よい場所に並んでいる。日本に対する興味は商品から始まった、良いものをつくる日本人に外国人は興味を持っている。

秋田県の八郎潟にある国際教養大学の中嶋嶺雄学長から直接聞いた話しでは、ここ3年間偏差値が東大・京大・国際教養大学と並んだということ。全寮制、学生はアルバイトをしない、入学試験が難しい、学校内は全部英語、そして先生も事務員も学生も新渡戸稲造の武士道を英語で読んでいるそうだ。

フランスでのもう一人の通訳の方は日本文化を勉強中だそうです。フランスの企業から日本文化について教えてほしいといわれている。フランス人が日本で仕事をしても仕事がうまくいかないのは、日本文化を語ってくれる人がいないから。言葉はできるが、文化を解説できる人はいないという。どんな本を読めばよいかというので、松岡正剛さんの本をお勧めした。

キッコーマンの会長が日本食の国際基準をつくろうとしている。日本食でおなかを壊すのは刺身が原因であるから、刺身の鮮度を重要視した。日本食のレストランには、まっとうな日本食レストランといかがわしい日本食レストランがある。パリでその事実を確認した。
ヨーロッパの随一のランディスという魚市場に見学を申し込んでいた。パリの牡蠣会社社長の娘に魚市場に連れて行ってもらい、市場を見学していたら、取引先の責任者に、この市場にも日本人がいて、刺身作っており、日本食レストランに卸しているから見て行けと言われた。なぜ魚市場で刺身を作っているのか?と不思議に思っていたが、みると、刺身ではなく、まぐろを解体していた。彼らはマグロの解体を刺身と言っていた。そして日本人だと紹介された彼も10年間市場で仕事しており、周りは彼を日本人と思っているが、実はラオス人だった。
今、日本のレベルが認められている。そして日本の文化が優れてくるとそういう日本を真似する人が増える。

今日、健康クラブの研究会があった、2周年記念で、ここで全日本健康クラブの理事長を仰せつかっている。毎回挨拶をさせられる。わたしの挨拶が期待されるのは他の人と違う話をするからだという。ここでの挨拶は、小野寺さんから教えてもらったデブの話しをした。

NYを歩いているとデブが多い。デブと太っているのとは違う。デブというのは小錦みたいなのをいう。NYでは半分くらいはデブ。NYだけでなく郊外にもデブがいる。飛行機にも大勢いる。飛行機では3人席も2人でいっぱいになってしまう。しかしフランスでは一人しかみなかった。フランス人かわからないが。フランス人に聞いたら、フランス人がデブにならないのはプライドだそうだ。
飛行機のトイレで問題を起こした話しをきいた。飛行機のトイレは水で流すのではなく、空気でひっぱって、吸い込む。デブは座ると便器と体に隙間がない。水を流したら、肉までひっぱられて、真空パックになってしまう。下手すると立てないでしょう。そういう事件があったらしい。NYで聞きました。

投稿者 Master : 12:49 | コメント (0)

山岡鉄舟の武士道 

10月の例会の記録(1) 二見さんの発表


前回まで、新渡戸稲造の「武士道」を紹介してきました。剣道の修行から入り禅で大悟徹底した、武士道の鑑ともいうべき、山岡鉄舟が死ぬ二年前に講話した「武士道」を次にご紹介したい。
明治二十年(一八八七) 鉄舟五十二歳。門人 籠手田安定(こてだやすさだ 前滋賀県県知事)らの求めに応じて、武士道の講話をしたものを書き留めておいたものが、「山岡先生武士道講話記録」である。明治三十一年 この「記録」について勝海舟が評論し、嗣子山岡直記の序文と高橋泥舟の題字をつけて、安部正人が編集し、発行したのが明治三十五年(一九〇二)一月である。
新渡戸稲造の「武士道」は、明治三十二年(一八九九) アメリカで刊行され、翌年日本でも英語版が出版された。日本語訳は明治四十一年(一九〇八)に桜井鴎村によってされている。
鉄舟二十八歳の時、一刀流十二代を継いだ浅利又七郎と試合をしてから十七年目の明治十三年(一八八〇)三月三十日 鉄舟四十五歳の時、大悟徹底した。この時の心境が
電光影裏斬春風 となる。

剣道場「春風館」はこれが由来であり、私の合気道グループ名「春風会」は、鉄舟の春風館を目指して付けたものである。
鉄舟の武士道は、学者によっては荒唐無稽と言われているが、新渡戸稲造の武士道と同じく、倫理道徳の礎を担っている。
拙者の武士道は、仏教の理より及んだことである。
忠・仁・義・礼・知・信とか あるいは剛勇・廉潔・慈悲・節操・礼譲とかこれらの道を実践窮行する人を、武士道を守る人という。
日本の武士道ということは、日本人の実行すべき道である。「無我の実現」である。武士道の要素は、四恩である。

鉄舟の武士道について書かれている本を教本にしながら鉄舟の考えていた武士道について考えていく。1860年25歳のときに鉄舟が書いた武士道がある。実践することが武士道と言っている。1858年23歳のときに武士道を学んでいるのは、いろんな人に信頼されたいから学んでいるといっている。剣道を学んでいるのは君子と行動をともにしたいから。鉄舟は大器晩成。51歳のときに武士道をまとめた。

新渡戸の武士道は、仏教徒新党・儒教。
鉄舟は仏教が基本としている。儒教の論理に繋がっていると解釈します。

第一 四恩
1 父母の恩 
わが身体とわが心身は、父母の遺物であり心身と思うべきである。だから父母への孝養を尽くすことが大事である。我が心身は、父母の心身と覚悟することが武士道の発現である。
両親は当然のこと、いきとしいけるもの、植物も犬もすべて両親を持っている。
広い意味で鉄舟は言っているのではないか。

2 衆生の恩 
社会は、助け合いによって構成されている。生けるもの全て、父母だと思い、慈悲報恩の思いを忘れてはならない。
六道(天人道・人間道・畜生道・阿修羅道・餓鬼道・地獄道)の衆生は、みなわが父母であると思わねばならぬ。父母の子となって善果福祉を持つことができたのは、一切衆生のお陰である。だから報恩利済の義をつとめなければならない。
衆生の恩は助け合いによって構成されている。
衆生=生きとし生けるもの。この中に6道があります。

3 国王の恩 
いっさいの衆生は「国王」をもって根本となす。日本においては、皇祖は、日本民族の始祖であり、日本武士道の淵源である。ぜひとも帝王を尊敬して報恩の誠意を尽くさねばならぬ。ここで国王を国と置換して考えたい。
明治五年(一八七二)鉄舟は、西郷隆盛の依頼で宮内省に奉仕し、明治天皇の侍従になった。
現代では理解しにくい。明治天皇の教育係をやった影響もあると思うが、武士道の源である。
誠意をつくしてやる。つきつめると恩に報いる。

4 三宝(仏・法・僧)の恩
三宝とは、一に仏 二に法  三に僧。
武士道の発現は、法=真理である。法はいいかえると、天道、真如ともいい、法性、心性、仏性ともいう。 私は、仏心、神様、仏さま、グレートサムシングといい、この宇宙を動かしている大きな力をさしていると思う。

第二 現代社会の混迷と武士道
現今は、私利私欲に走り、汚職収賄を平気でやり、人倫が乱れている。この原因は、
一つには、科学進歩であり、道徳について考える余裕がなくなった証拠である。
二つには、法律は形式的であり、人類霊性の道義まで及ぶことができない。ここを補うのが武士道の活用である。

第三 武士道の起こりとその発達
1 上古の武士道 開国の当初、みな臣たるの分をつくして、開国に尽くされた。農をもって国の基としたので、臣民は ひたすら主君のために至誠をもって仕えた。
2 兵の農分離後の武士
兵農分離して、武士ができたから、武士が盗賊・反乱を鎮定するので信用を得る一方 恐怖心も出てきた。勤倹・尚武で道義も進んできた。
   
3 武士道の要素
神儒仏一貫の大道により忠孝・勇武・廉恥が成り立ってきた。武士道は、神、儒、仏 三道一貫の大道が、日本人天性の元気に補助的感化を与えたものである。
4 真の武士道は信仰と勤倹尚武
南北朝より室町時代では、楠、新田の精忠を上げた。小笠原流の弓馬礼法が成立した。

5 徳川家康公の功業
徳川家康の功業を讃え、真の武士道だといった。
武門盛衰の実体は、至誠とその反対である名利/邪欲の消長に帰するのである。

6 幕末
幕末志士に共通なものは、誠である。我が国においては、君と国とは一体である。維新の鴻業は、薩長といっているが、幕府の政策が産母であったことを知って欲しい。一例として、勝鱗太郎を長崎に行かせ海軍術を学ばせたり、オランダに留学生を派遣したり、講武所を開いて武道を奨励したり、海軍操練所を開いたりした。

第四 明治の武士道
志士達の、勤王憂国の誠意から明治の御代になったのである。真の文明とは、道義霊性の文明及び物質的の文明の合わさったところにある。
一家団欒として相い和し、父母祖先に感謝すること。これからの日本人は、
「・・・要するところ、武士道の精神をもって科学的外形の手足を使用していかねばならぬ。知徳両立することが武士道である。」

第五 武士道の精華
応神天皇(おうじんてんのう)の宮殿を大分県の宇佐八幡宮に祀った。その後、石清水八幡宮にも祀られた。八幡大菩薩と称えるのは、仏教の八正道(はっしょうどう)を示しているとのこと。正見、正念、正志、正精進、正語、正業、正命、正定を名付けて八つの正しい道という。
もののふというものは、出処進退を明らかにし、確乎として自己の意志を決した以上は、至誠をもって一貫するのが、真の武士でもありまた武士道でもある。
和気清磨(わけのきよまろ)、菅原道真(すがわらみちざね)、源義家(みなもとよしいえ)、楠木正成(くすのきまさしげ)、楠木正行(まさつら)、赤穂四十七士、会津白
虎隊、の事跡を紹介している。

第六 武士道を広義に解す
一身を捨てさえすればそれで道を全うしたのだと思うやもはかり難し。しかし、もっともある場合には、身を捨ててかかればまずよいものだが、しかしその心事は、いかなる地盤より発し、さらにいかなる活用をするやの点こそ武士道の奥義である。
一国を治めるものは、先ず手近く自身からしなければならない。 武士道を言葉をかえていえばいろいろある。忠孝、仁義、勇武、廉恥 質素、名誉、慈悲になる。教育の大道は、宗教心が第一である。 
教育、学校・企業などにも教育がある。
宗教というと拒絶するが、生き方の道だと思う。持っている道を貫けば武士道になる。

第七 おんな武士道
武士道は人間である以上、男女の区別はない。男子がいかに賢人であるとて、胤をあずかる女性が不完全であったならば、その間に生じる母の気風に感化されてしまうのでごく注意してもらいたい。
武士道は男性だけではない。武士道に男女は関係ない。

▼山岡鉄舟の武士道のまとめ
山岡鉄舟の「武士道」は、禅を中心とする仏教と剣の道と明治天皇の側近におられたときの皇室観という3つの要素により形成された。明治二十三年に発布された教育勅語にも影響を及ぼしたと思われる。
武士道とは、善たると知ったらば実行することが大事。陽明学の言葉でいえば「知行合一」である。鉄舟が武士道を講述した時点での言葉で云えば、「無我の実現」にある。
教育勅語の第一次草案を作成した中 村 正 直が鉄舟の講話を聞いていた。
中村はキリスト教、鉄舟は仏教が根底にあるけれど。
武士道は、トップに立つ方が率先して実行する。
無我とは、宇宙は自分にあると思って実践する。陽明学の基本。
頭でっかちではなく、実践することにより、現代に生きる智恵がでてくる。

事務局の感想
武士道も佳境にはいり、山岡鉄舟の武士道になりました。男女の区別なく女武士道も書いていた鉄舟の先見の明に感服いたします。
次回もよろしくお願いいたします。

投稿者 Master : 12:45 | コメント (0)

2005年08月04日

「鉄舟の臨機応変」を山本さんが語る 7月例会(2)

3.山本さん発表 7月の鉄舟研究「臨機応変」

望嶽亭の松永さだよさんと先代の年齢の関係を語る山本さん

山崎さんの講演を拝聴し、シャンソンを通して生涯学習として、自己実現をしているのが素晴らしいと思った。自己実現とは、生きている限り、人の役に立つか、自分の役に立つか、ということである。

今日は、内閣府主宰の「高齢社会研究セミナー」でパネリストとして参加した。
参加したのはNPO法人でリーダーたちが多い。基調講演は自己実現のお話しをされている、生涯学習の専門家である一橋大学名誉教授の江見康一さんで、81歳で東京から赤穂まで自転車で完走した事例で感動した。
私は日本を外国人がどう見ているか、という「日本を見る目」ということをお話をした 世界中の家で、ほとんどの家に日本製品がある。外国人は、日本製品を使っている・日本のアニメを知っている・日本の車「トヨタ」の性能が良いことを知っている・日本食レストランを知っている。日本の実績を評価している。
マンガ、アニメ、絵本を「Cool Japan」と言って日本のクール(かっこいい)文化だと外人は言っている。
しかし、何故に日本がそのような素晴らしい評価を受けているか、その日本の思想的背景は新渡戸稲造の「武士道」で理解しようとしているのが現実である。新渡戸稲造の「武士道」は、日本人の道徳観念を言葉にしたもの、と理解している。
実際の武士道を体現しているのは山岡鉄舟である。ですから、この実態を世界に知らせることが私の自己実現と思っている。

1)海舟と西郷の江戸無血開城会見の場所
3月5日に慶喜から指示を受け、海舟と会った鉄舟は6日に江戸を出発した。しかし、駿府に到着するまでの7・8日は空白の2日間と言われている。9日は駿府で西郷と会っている。望嶽亭の言い伝えでは、7日夜半に薩?峠(さったとうげ)という険しい峠で、官軍に追われて望嶽亭に助けを求めて入ったと言われている。

望嶽亭第23代当主夫人の松永さだよ氏にお会いしてお話しを伺った。
鉄舟が望嶽亭に入ったのはさだよさんの曽祖父に当たる3代前のこと。3代前女将の「かく」さんが鉄舟に直接会い、官軍との対応を現場で行っている。そのとき「かく」さんは33歳で、75歳でご逝去されたが、孫嫁に当たる22代孝一の嫁である「その」さんがお嫁に来たのは、「かく」さんが73歳のとき、つまり、「その」さんは鉄舟と直接会い、官軍と対応した「かく」さんからダイレクトに経緯を聞いているのである。
そのダイレクトに経緯を聞いた「その」さんの息子の宝蔵さんの嫁が「さだよ」さんで、「その」さんから直接話を聞いているのであるから、随分昔のことであるようだが、実際は「かく」さんの話を一人入っただけで現在の「さだよ」さんに伝わっているのである。

女将かく(73歳)— その(55歳)— さだよ(19歳)

「さだよ」さんが19歳で嫁した際に、義母の「その」さんから聞いた話であるから、遠い昔の話ではなく、ほんの少し前のことであるのに聞いてみて驚いた。
話を整理してみて、これは本物と思った次第である。

3月14日に江戸無血開城が決まった石碑がJR田町駅近くにある。その前日の3月
13日に下交渉したが、それがどこの薩摩屋敷であるか諸説あり、よくわかっていない。
南條範夫  山岡鉄舟   高輪南町 薩摩中屋敷(現在の品川ホテルパシフィック)
子母沢寛  勝海舟    高輪南町 薩摩下屋敷
佐藤 寛  山岡鉄舟   高輪   薩摩屋敷
大森曹玄  山岡鉄舟   高輪   薩摩下屋敷
松浦 玲  勝海舟    高輪南町 薩摩下屋敷
             三田   薩摩上屋敷・・・二説あり
             (現在のセレスティンホテル)
石井 孝  勝海舟    高輪   薩摩藩邸
神渡良平  春風を斬る  高輪   薩摩屋敷

2)会見が終わって愛宕山に上ったという説を採ると、
愛宕山の近くであれば上屋敷になる

3)海舟と西郷の二人は愛宕山に上って何を語り合ったか推測しなければならない。
このときは立場が逆転した。以前、大坂で薩摩の西郷は第一次長州征伐の際に、幕府の中枢の人間である海舟に時の情勢分析について教えを仰ぐために海舟の宿泊先を訪問したのである。その際、海舟は「攻めても仕方ない。日本は未曾有の局面に対応している。幕府は将軍職を天皇に返上し、一大名になるべきだ」と言った。これに西郷はビックリして圧倒された。幕府内の人間がこのような考えを持っていることを始めて知り「海舟は素晴らしい人物」と大久保利通に手紙を書いていて、深く海舟に時流を学んだのである。
海舟が世界観の違いを見せたからだ。しかし今度は、海舟が薩摩屋敷まで訪れた。

4)愛宕山から見下ろした江戸景観と現代の東京景観
現代の和歌山市の事例
和歌山市は87メートルの高層ビルを、今年の春に和歌山城のすぐ近くに建て、景観を壊している。今でもこのようなゼネコン主導の開発があることに驚いている。
江戸の景観については、イギリス人写真家フェリックス・ベアトは当時の建物を記録している。(レンズを開けっ放し・・・人物が動いたら写らないので、建物しか写っていない・・・ が、良く見ると5人が写って同じ方向を見ている。なぜか。)この件については、9月11日の全国フォーラムで小川さんより解説がある。

愛宕山は海抜26メートル。愛宕山・飛鳥山の2つが高かった。北と南の名所であった。今は乱脈な景観になっている。
(参考)『持続可能な都市—欧米の試みから何を学ぶか—』福川裕一・矢作弘・岡部明子著 岩波書店

5)上野寛永寺大慈院の一室で慶喜から指示を受けた鉄舟はどのような行動を採ったか・・・常識的な行動と非常識的な回答
常識的な行動とは、海舟は当時の首相に当たる人であり、訪ねて見解を請うのは当たり前である。鉄舟はそれまで政治面は全くタッチしていなかったので。
しかし、海舟が「どうやって駿府まで行くのか」という問いに対して、鉄舟の「臨機応変にやるは胸中にあり」というのは並の人では言えなく、これは非常識な回答である。

6)後日、海舟が鉄舟を評した内容
鉄舟の臨機応変について「これが本当、他人がしたならチャンと前から計画する。そんなことなら鳥の網にはいるようなもの。計画なくして、計画ができている、真に臨機応変」
これは、先は分からない=計画は立たない、すべて予測できない時は計画できない。
ここで現代のトヨタと尊徳を比較して話す人が多く、私もそのようにしているが、両者に共通しているのはデータの蓄積を大事にして、それから計画をつくることである。
鉄舟の場合は違う。データがないままに駿府に向かったのである。すべて予測することは不可能 予測(計画)と現実との乖離が魅力であり、これを乗り超えていくことをロマンというが、そのためには日常の修行が必要であるので、一般的には常識的にデータを取り揃えて行動することである。しかし、データなきままに直感的に行動しうまく行かない理由を後で整理する人が殆どである。
鉄舟の行動は並大抵の人にはできないという事実、だから、普通の我々は一般セオリーに基づくデータ重視を心がけたい。

●事務局の感想
無血開城は、まさに鉄舟の「臨機応変」がなければ成り立たなかった。これは鉄舟が並みの人ではなかったということです。
毎回現場からの報告は、臨場感があり、新しい発見があります。9月11日の全国大会での発表が期待されます。

投稿者 Master : 17:23 | コメント (0)

シャンソンの魅力を山崎さんが語る 7月例会(1)

●7月の例会記録をご案内いたします。
発表者:山崎さん、山本さん、事務局

1.事務局より
1)「ぬりえ文化」出版記念講演と3周年記念パーティの開催のご案内
8月26日(金)18:00〜21:00、ホテルニューオータニ インターナショナルレストラン 「ガンシップ」において、開催いたします。 出欠の連絡のお願いいたします。

2)第二回山岡鉄舟全国フォーラム(全国大会)
9月11日(日)学士会館(前回と同じ会場)にて開催
小川福太郎氏にゲストスピーカーとして来ていただき、フェリックス・ベアトの写真の秘密を発表いただく。ご期待願いたい。


2.山崎さん発表「シャンソンと私」
 
楽しそうにシャンソンについて語る山崎さん
1)はじめに
今日お話しすることは、普遍的とは言えない私のおしゃべりの世界であることをお断りしておきたい。また、日本人として日本語訳詩で歌うということを大事に考えている。シャンソンは歌詞が命であり、それをお伝えしたいから・・・。

2)音楽との出会い、中断、再開
少女時代から歌は大好きだった。私の子守唄は父の「赤城の子守唄」や「なにわ節」だったが、小さい時から、音楽は何でも好きだった。
中学2年生の時、地元でのNHKのど自慢で「帰れソレント」を歌い、鐘が2つ鳴った。それで自分でもますます歌うのが好きになった。いつも歌っていて周りの人にもよく褒められていた。
高校は工業高校の化学科に進学し、ここでは歌うことが少ない寂しい音楽時代だったと思う。
大学入学後から、女性合唱団、聖歌隊、労音合唱団に加わり、大曲を歌ったり、毎日が歌うことに染まっていた。
その後、出産・育児で合唱団も辞め、歌うことを15〜16年間中断したが、その間は、ラブソングや童謡を子守唄として歌っていた。
やがてカラオケで歌うようになり、数年後には、「大人のためのシャンソン・カンツォーネ教室」で本格的に歌う生活に復帰。

3.シャンソンとの出会いとその後
青春時代、当時は芦野宏、高英男、越地吹雪、岸洋子、ほかシャンソン全盛時代で「銀パリ」もあった。何よりシャンソンを日本に普及させたは石井好子の活躍が欠かせない。その当時設立された日本シャンソン協会は今も続いている。
私のシャンソンとの初めての出会いは学生時代で、友人に教わりながらシャンソンをデュエットで歌ったことである。
長い中断の時期を経て、1988年から舞台芸術学院シャンソン・カンツォーネ教室に入学した。歌い上げることの多いカンツォーネは、学生時代にクラッシックの世界にいたので馴染みやすかったが、シャンソンは、語りの歌なので、私には非常に難しかった。今やっと、語れるようになってきたかな、というところである。
1994年ソロやジョイントコンサート活動スタート
1998年からは毎月のシャンソニエのライブに出演しはじめ、現在に至る。
その他、カウンセラーとしてDVシェルター運営にも関わっている関係から、DV被害者支援のためのチャリティソロコンサートを毎年1回行っている。
    
4.シャンソンの魅力
シャンソンは通説「人生を語る"3分芝居"」と言われ、物語性(人生の様々な況と心の機微を表現)がある。
歌い継がれた長い伝統(時代を語り継ぐ歌、古い歌〜新しい歌)がある。ちなみに有名な「さくらんぼの実のなる頃」は1866年に作られた詩。1871年のパリコミューンの戦いで、ルイーズという看護婦がさくらんぼを持って傷ついた兵を見舞い、そのまま戦場に残って看護しつづけ、彼女自身も戦火に倒れるという出来事があった。その彼女に捧げる詩歌が付け加えられ、やがて歌われるようになったと言われ、今では一番古いシャンソンであるとされている。
これまで、シャンソンの魅力とは何か、と改めて考えてみたことはなかったが、今日のために悩み、考えた結果、キーワードは「多様性」ではないかと気付いた。

テーマ・・・・愛、失恋、再会、戦争、夢・希望、挫折、平和、不倫、浮気、戦争、平和、殺人、死、生きる、自然、望郷、旅  など
登場人物・・男、女、老人、若者、子ども、兵士、夫婦、娼婦、死人、ピエロ、歌うたい、音楽師、農夫、泥棒、詩人、浮浪者  など
登場場所・・フランス以外の国々も舞台(アメリカ、イタリア、ロシアなど)
森、空、海、川、大地、酒場、ホテル、牢獄、戦場、街・雑踏、別荘、橋の下、村、ダムなど
リズム・・・・ワルツ(ジャバ=三拍子が原型)、タンゴ、ボサノバ、サンバ、ブルース、ポップス、バラード、語り など 
歌唱法・・・・スローテンポからビートアップまで、囁きから絶叫まで など
シャンソンアーティスト・・・・多国籍(多民族)である。それぞれの国・民族の文化とシャンソンが生まれたパリを中心としたフランス文化が交じり合い、より陰陽のある深く豊かな世界が形成されているのだと思う。

5.おわりに
歌は愛、わたしの人生のキーワードも"愛"である。
しかし、例えば同じように男女の愛を歌っていても、シャンソンは演歌と違うある種のクールな目、客観性を持っているように感じる。
私にとって、歌うことは自分を生きること(自分と向き合うこと)だと思っている。例えばコンサートなどの選曲では、自分の好きな曲、伝えたい思いが含まれているものなどから選らぶが、そこには自分の価値観や思想性なども含めて自分が現われる。
コンサートアンケートの中に「お客様は歌を聴きながら、それぞれ哲学をしていらっしゃるのだと思う」というコメントがあった。
シャンソンは歌詞が命。だから詞を大事にして、自分なりに思いをこめて歌い、語るときに、お客様も自分の人生になぞらえて聴き、解釈なさっているのだろう。
これからも歌えることに感謝しながら、お客様に喜んで頂けるよう、精進し歌い続けて行きたい。

●事務局の感想
山崎さんにとってのシャンソンを伺うことにより、山崎さんが考えるシャンソンの魅力は多様性であることを知り、多様性があるから深みがあり、より多くの人を魅了していくことが理解できました。歌い手の想いや表現、そして歌われる歌詞を感じながら聴くことは聴き手の人生を豊かにするものだと感じました。

投稿者 Master : 17:11 | コメント (0)

2005年07月09日

山本氏の鉄舟研究「慶喜と鉄舟」

9月11日の全国大会の講師である高橋名誉教授の本によると、無宿者が動いていたということは、規範が緩んでいて、自由な行動ができた時代であることがうかがえる。
高橋名誉教授は、今までにない学者である。望嶽亭に行かれて、鉄舟と西郷の会見の際に助けたと書かれた唯一の学者である。大変お話も面白いといわれているので、期待していただきたい。
 
教授というと、「森は海の恋人」運動をしている宮城県の畠山重篤氏が京都大学の教授になった。—今月の文芸春秋に掲載記事—

先月話した西郷と鉄舟の会見の碑は、原田さんという個人の所有であるが、功績者の碑であるから、本来なら市、県、文化庁がすべきところであるが、個人が作ったものである。
 
1)上野寛永寺大慈院の一室における鉄舟覚悟の決め方
幕末の頃は上野の山すべてが寛永寺であった。その中の大慈院の別院に慶喜は蟄居していた。鉄舟は慶喜に会って、慶喜の気持ちがゆるがないか問いただしている。
この将軍に対して、問いただすという暴言を吐くことにより、慶喜の言葉に二言はないことを、鉄舟にもどし、鉄舟自身が覚悟し、責任をもった。この覚悟の仕方は鉄舟でなければできなかったことである。

2)慶喜が水戸へ・・・過酷な駿府70万石の決定 
4月に慶喜は水戸へ行く。
その時のお供は、旗本、高橋泥舟(護衛)、中条金之助(彼については、11月に行くお茶の郷博物館で見ることができる)
西周(ニシアマネ)哲学者(オランダ留学し、仏語学ぶ。慶喜にヨーロッパでは諸侯が民主的な会議をしている。日本も一大名となって雄藩会議をしてはどうかと進講した。
新村猛雄(広辞苑の作者の父か祖父にあたる人)等がいた。
3)慶喜が水戸から駿府へ・・・榎本武揚による護衛搬送
この頃徳川宗家は、家禄を800万石から70万石に抑えらた。幕府側の心象を懸念して、彰義隊のことがすんでから発表された。
慶喜は4月に行った水戸から、この駿府に移った。これには、榎本武揚が護衛搬送した。
榎本武揚についていえば、慶喜を送り届けてから、脱走。函館に行き戦争をしたことは周知のとおり。
4)当時の水戸の状況 
幕末時は、各藩は生き残りをかけて幕府か朝廷かどちら側についたらいいか、情報収集に奔走していた。その中を御三家の水戸藩は、藩内を二分して内紛に明け暮れていた。
この内紛については他藩からも「ご本家(将軍家)が潰れるかどうかの大切な時に、御三家の水戸様が内輪争いでござるか」と冷笑されていたというような状況であった。
水戸家の家訓には、藩主だけに残された家訓があった。それは、
「日本を二分して、朝廷と幕府が争うようなことがあれば、宗家が滅ぶようなことがあってはいけないので、天皇を大事にするように(そうすれば徳川は生き残れる)」このようなことがあって、慶喜は朝廷と争わなかったそうである。
5)徳川慶喜家扶日記にみる鉄舟
将軍をやめたとき慶喜は若干33才。毎日を趣味の世界に生きた。
家扶日記によると、
○明治11年11月3日 山岡鉄太郎 来邸。
○明治14年5月17日 山岡鉄太郎所用で愛知に出張の途中に来邸。
○明治14年6月15日 再び訪れる。
と記録されている。
「慶喜邸を訪れた人々」羽衣出版 浮月楼で販売されている。
 
●事務局の感想
現場からの報告ならびに現地調査により、資料、研究にますます厚みがまし、毎月の講演がさらに熱を帯びてきました。7月の内容が待たれます。

投稿者 Master : 20:21 | コメント (0)

二見氏の現代に生きる武士道 3−2

▼第九章 忠義(忠実の義務)
忠義とは、主君に対する臣従の礼と忠誠の義務を表すものであり、封建道徳を顕著に特色づけている。武士道においては、個人より国が重んぜられた。
中国では、親に対する服従が第一の義務とした これに対し、日本では、忠が第一位。
主君と意見がわかれる時、家臣のとるべき忠節の道は あくまで 主君のいうところが非であることを説くことである。

 ▼第十章 武士道の教育 訓練
 武士道の枠組みを支えているかなえの三つ
     智   仁   勇   即ち   智慧  慈悲  勇気
 武士道の訓育
  剣術 弓術 柔術 乗馬 槍術 戦略戦術  書 道徳 文学 歴史
 欠けているものは算術 武士道は損得勘定をとらない
 武士道は無償、無報酬で行われる実践のみを信じた。武士道の本性、すなわち算術で計算できない名誉を重んじるという特質は、近代の経済学以上に、はるかな真実の教えを人々に教えた。
  ▼第十一章 克己
 武士道においては、不平不満を並べたてない不屈の勇気を訓練することが行われていた。
 克己の理想とは、心の安らかさを保つことである。自殺と仇討ちの制度のその極致がみられる。
 死せる子の不在を常のごとく、とんぼつりにでかけたものと想像して、わが心を慰めようとした一人の母(加賀の千代)の句がある。 蜻蛉つり今日はどこまで行ったやら
  ▼第十二章 切腹
 切腹  武士がみずから罪を償い、過去を謝罪し、不名誉を免れ、朋友を救い、自らの誠実さを証明する方法であった。真の武士にとりては、死を急ぎもしくは死に媚びるは卑怯であった。あらゆる困苦、逆境にも忍耐と高潔な心をもって立ち向かう。これが武士道の教え。
  赤穂 四十七士の例 
 主君(浅野内匠頭)は死罪を命ぜられ、控訴すべき法廷がなかった。仇討ちの手段。切腹。
▼第十三章 刀 武士の魂
刀は、忠誠と名誉の象徴。
刀鍛冶は、単なる工人ではなく、霊感を受けた芸術家であり、鍛冶するところは神聖な所であった。鍛冶は重要な宗教的行為であった。
武士道は適切な刀の使用を強調し、不当な使用に対して厳しく非難し、かつそれを忌み嫌った。血を見ない勝利こそ最善の勝利。武人の究極の理想は平和である。
▼第十四章 婦人の教育及び地位
女性の薙刀習得の動機には二つある。
1己の身を潔く守った。   2息子たちの教育。
女性が男性の奴隷でなかったことは、その夫たちが封建君主の奴隷ではなかったことと同じ。妻たちが果たした役目は、「内助」の功として認められた。
武士道は、自己の個性を犠牲にしてでも、自己自身をより高次の目的に役立たせることとした。
▼第十五章 大和魂
サムライは民族全体の「美しき理想」となった。  花は桜、人は武士。
武士道は、当初、「エリート」の栄光として登場した。だが やがて国民全体の憧れとなり、その精神となった。それが「大和魂」。サクラは、大和魂の典型である。
本居宣長
敷島の大和心を 人問はば  朝日に匂ふ山桜花
▼第十六章 武士道は蘇るか。
日本に押し寄せてきた西洋文明により、武士道は消え入りようとしているのか。
武士道は、無意識のうちに、日本国民の一人一人を動かしてきた。
吉田松陰が刑につく前夜に詠じた歌
かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂
西洋化の波において、日本人を動かしてきた力は、日本自身にある武士道である。
▼第十七章 武士道の将来
武士道は、その姿を消す運命にあるのか。
現在の我々の使命は、この遺産を守り、古来の精神をそこなわないことである。
未来における使命は、その人生の全ての行動と諸関係に応用していくことである。
武士道は不滅の教訓である。
武士道は一つの独立した道徳の掟としては消滅するかもしれない。
しかしその力はこの地上から消え去ることはない。

●事務局の感想
新渡戸稲造の武士道は欠かすことができないものであります。最後の十七章の 「その人生の全ての行動と諸関係に応用していくこと」というところは、日頃から二見さんが言われ行動されていることであるので、二見さんの生き方の基本になっているものは武士道であったと感じました。

投稿者 Master : 20:18 | コメント (0)

二見氏の現代に生きる武士道 3−1

新渡戸稲造著 「武士道」について 
素晴らしい伝統ある日本を守り、健全なる社会をつくり、徳ある自己を確立しようするとき、必要なるものは、「かくあるべし」という「意志」「志」の力であると思う。「志」を徳まで高めた精神、文化は、日本が誇る「武士道」である。
 
新渡戸稲造の「武士道」は、全体 17章で構成されている。
▼第一章 道徳体系としての武士道
武士道はその象徴たる桜花と同じく、日本の土壌に咲いた固有の花である。古めかしい美徳ではなく、今なお、私達の心の中にあって、力と美をかねそなえた生きる対象である。
騎士道の規律と似ているが、それより含蓄がある。武士道とは、武士階級の「高い身分に伴う義務」である。
武士が守るべきとして要求されている道徳的義務である。武士とは、サムライのことで、身分の高い人の身辺を警護することを「侍(さぶら)う」という言葉から転じたものである。

▼第二章 武士道の源をさぐる
武士道は、仏教と神道と儒教(陽明学)から影響を受けた。
剣道の極意は、剣を抜かない。剣を使わない。生かす道。殺人刀、活人剣。
仏教から 運命に対する安らかな信頼の感覚、不可避てきなものへの静かな服従。危険や災難を目前にした時の禁欲的な平静さ、生への侮蔑、死への親近感
神道から、神社の奥殿にある鏡
1親に対する孝心  2祖先に対する崇拝  3主君に対する忠誠  
孔子の教訓は、武士道の最大の淵源である。   
五倫の道として、君臣の義 父子の親 夫婦の別 長幼の序 朋友の信 は、孔子の文書が中国から輸入される前から日本の民族本能の認めていたことである。
「論語読みの論語知らず」にならないことを戒めている。王陽明は、実践を重視した。
陽明学・・王陽明が説いた。知行合一(ちこうごういつ)(知ることと行う事とは一つ)を説いている。王陽明の教えは、「新約聖書」と類似点が多い。
▼第三章  義
義は、道理であり、条理であり、人間の行うべき道。「義」は、勇」と並ぶ武士道の双生児である。両者は、武人の徳である。
儒教で人の常に守るべき五つの道徳として「仁 義 礼 智 信」をさし五常といい、仁をトップにおいているが、武士道においては、「義」を最高に置いている。
「正義の道理」こそ、無条件の絶対命令。
赤穂四十七義士の話は、「義の泉」である。
「義理」は、義からの分岐した語。義理の本来の意味は、義務である。
▼第四章 勇
勇気は、義によって発動されるのでなければ、徳行の中に数えられる価値はない。
勇気は、正しいことをすることである。
例 上杉謙信が、敵である 窮状している武田信玄に、塩を送った。
論語 義を見てなさざるは、勇なきなり
(なすべきことは、敢然として行う。しかし、なすべきでないことは、断然しない)
敢為の行為が勇気の動態的表現たるに対し、平静はその静態的表現である。真に勇気なる人は沈着である。
▼第五章 仁
愛、寛容、他者への同情、憐れみの情は、いつも最高の徳、すなわち人間の魂がもつあらゆる性質の中で 最高のものと認められてきた。
義は、男性的であるとすれば、
仁は、やさしく、母のような徳である。
「武士の情(なさけ)」という言は、ただちに我が国民の高貴なる情感に訴えた。
孔子の言 「君子は徳を謹む。徳あれば此れ人有り、人あればこれ土有り、土有ればこれ財有り、財有ればこれ用有り、徳は本也、利は末也」(大学)
弱者、劣者、敗者に対する仁は、特に武士にふさわしい徳として賞賛せられた。
格言 「窮鳥懐に入る時は、猟師もこれを撃たず」
▼第六章 礼
礼とは他人に対する思いやりを表現すること礼の厳しい遵守に伴う道徳的な訓練である。
「礼は寛容にして慈悲あり、礼は妬まず、礼は誇らず、たかぶらず、非礼を行わず、己の利を求めず、憤らず、人の悪を思わず」と言いうるであろう。
あらゆる礼法の目的は、精神を陶冶することである。
茶の湯は、儀式以上のものである。それは芸術である。それは詩であり、リズムを伴った理路整然とした動作である。それは精神修養の実践方式である。
礼の必要条件とは、泣いている人とともに泣き、喜びにある人とともに喜ぶことである。
▼第七章 誠
孔子は、誠を尊び、これに超自然力を賦与してほとんど神と同視した。
「心だに誠の道にかないなば、祈らずとても神や守らん」
「誠」という漢字は、言葉を意味する「言」と、完成を意味する「成」の結合
「武士の一言」「武士に二言はない」
武士の世界において正直であることは、名誉とわかちがたく混合していた。
アングロ・サクソン民族の高き商業道徳に対する私の答えは、「正直は最善の政策なり」 ラテン語とドイツ語において、正直と名誉の語源は同一である。
▼第八章 名誉
名誉の感覚は、人格の尊厳ならびに価値の明白なる自覚を含む。
名誉は武士階級の義務と特権を重んずるように、幼児のころから教え込まれるサムライの特色をなすものであった。
少年の振る舞いを正す 最後の切り札
「人に笑われるぞ」  「体面を汚すな」 「恥ずかしくないのか」 「羞悪の心は義の始めなり」(孟子)
西郷隆盛の言葉
 「道は天地自然のものにして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とする。・・人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして己を尽くし人を咎めず、
が誠の足らざるを尋ぬべし

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フォーラム、出版記念講演、年度計画など

6月例会の記録をご案内します。
1.事務局より
1)出欠の連絡のお願い
欠席の際には、必ずご連絡をお願いいたします。
HPからの参加申し込み連絡方法を案内。
例会開催日程は、基本的に、第三の水曜日に開催ですので、ご予定願います。

2)第二回山岡鉄舟全国フォーラム(全国大会)の開催の案内
9月11日(日)学士会館(前回と同じ会場)にて開催
今回の講師は、元国立歴史民俗博物館の教授の高橋敏先生と山本紀久雄氏です。
友人、知人の方々へご案内し、一人でも多くの方々に参加していただきたく、よろしくお願いいたします。

3)「ぬりえ文化」出版記念講演と3周年記念パーティの開催のご案内
8月26日(金)18:00~21:00、ホテルニューオータニ
インターナショナルレストラン 「ガンシップ」において、開催
参加費:5000円

4)平成17年度計画のご案内
6月15日(水) 年度計画提案
7月20日(水) 通常例会
8月  夏休み
8月26日(金)18:00~21:00ニューオータニ「ガンシップ」にて
「『ぬりえ文化』出版記念講演&ぬりえ美術館3周年記念」開催
9月11日(日) 「山岡鉄舟全国フォーラム2005」学士会館にて開催
10月19日(水) 通常例会
(11月16日(水) 例会)*秋の研究旅行の開催があるので、開催検討中
11月26日~27日(土日)秋の研究旅行
「西郷・山岡会見の場、慶喜屋敷跡、次郎長富士の開墾地跡、牧の原台地開墾地・お茶の郷博物館など」
12月21日(水) 望年会 「四谷・赤坂探訪~望年会へ」
18年 
1月18日(水) 通常例会
2月15日(水) 通常例会
3月15日(水) 3月末~4月初旬春の研究会
「山本さんの案内で、上野お花見&上野公園内史跡探訪」
(西郷像・彰義隊碑・寛永寺・東照宮・清水観音堂他名所旧跡が上野に
数多くあり、場所とそこの意味を知らない人が殆どですので解説します。
加えて樋口一葉住居跡から酉の市の鷲神社まで行くかどうか。要検討中)
4月19日(水) 通常例会
5月17日(水) 通常例会
となっております。ご予定をお願いいたします。

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2005年05月11日

鉄舟研究 「徳川宗家18代当主に聞く」

山本さんの発表
3.1 
1)新渡戸稲造の略伝を受けて
新渡戸稲造の父親十郎は、お留守居役ということであったが、その役目は重要な役で、今で言うところのNYの国連大使のようなもので一番最先端の仕事をしていた職務。
新渡戸稲造のモットー「最も身近にある義務を果たせ」ということだが、日経に載っていた松井選手の言葉を思い出した。彼のも「常に戦っているのは自分である」すなわち一番身近な存在は自分であり、その自分と戦っていると言っていた。
2)中国での反日デモのことを聞かれるが、上智大学の猪口邦子教授は以下のようにコメントされている。「歴史的認識だけでなく、日本が国際連合やODA等に幾らお金をだして支援をしているのか世界全体としてランキングを提示したら、日本の位置付けが分かる。日本がダントツである。」反日だけに関心を持たないほうがいいのではないか。
3)4月23日に静岡の山岡鉄舟会の総会が開催されるので参加する。そして牧の原台地、お茶の開墾の場所や鉄舟と西郷の会見した場所をみてくる。それは月刊ベルダに山岡鉄舟の連載を開始するので、その雑誌は官庁や記者など、プロの人たちが読んでいるので、原点に戻って、書いてみたいと考えている。編集長からは、山岡鉄舟の目を通して、明治維新を語って欲しいと言われている。佐倉にある、国立歴史民族博物館は、歴史に関して日本では一番の権威のある所ですが、ここの館長の宮地正人氏は、新しい視点の新撰組の本を出している。私も、「山本鉄舟」を作り上げたいと思っているところである。

3.2 レジメより
1)乃木大将の統率力
4月3日の跡見学園の観桜会において、山崎学長が乃木大将の新聞のコピーを配布して、お話をした。学長は、乃木大将と一緒に殉死した奥様について、跡見花蹊が日記に残したことをご紹介された。
私が思う乃木大将は、死んでも死んでも命令のついていく兵隊を動かせるほどの人物にどうしてなったかということに関心をもった。
乃木大将は、死ぬ覚悟もある人を動かすことができる「統率力の人」である。しかし、鉄舟は、統率力ではなく、「行動力の人」である。これはどういう人かというと、指示を受けたことをやり遂げる忠誠心が強い人ということである。その忠誠心とは、国家とか大きいなものへの忠誠心である。
2)江戸風景から江戸時代を推察
地図は山崎闇斎によるもの。図の解説。手前は魚河岸、川に船が沢山描かれている。その船を漕ぐ櫓は8丁、4丁、2丁とあるが、8丁は8人で漕ぐが、今の新幹線のように早い船。これで魚を届けた。橋の上には、車がない。道は人の通るもの。
天秤棒を担ぐ人。彼らは、半分は売る者、半分は買う者。廃品回収業をしていた。当時は日本全体が環境都市であった。
ペリーがやってきたときも、想定問答集があり、「3000万人の人口を養えているのだから、外国が入ってこなくてもやっていける。但し外国の船が食糧、薪などを欲しいときには差し上げる」というと想定していた。神奈川条約は、これで済んでいる。
将軍とは武力でもって国を治める。しかし武で抑えられなかったので、将軍の権威は落ちることになった。
100万人都市の江戸。世界最大の都市であった。そこを南町と北町奉行所の2つ、290人で、警察、消防、土木の仕事をしていた。それには、町名主をおいて人々の動静をつかみ、目安箱を設置した。ここには「政策提案」「不正」「何もしない役人」の件を入れられるようにしていた。その鍵は将軍だけが開けるこ
とができ、今も徳川家の宝物として残っている。
イザベル・バードの書いた本によると、1840年九州の女性3人が5ヶ月かけて旅行をしているが、女性が安心して旅行できような治安の良いところは日本しかないと書き残している。
これらは、我々が知らされている江戸時代の情報とは、違うのではないか。それは、明治政府が江戸を抹殺したためである。
3)会津藩の武士教育
寛政11年(1799年)「日新館」を作る。在校生常時1000名を超えた。

心得
1.年長者の言うことをきかねばなりませぬ。
2.年長者にはお辞儀をしなければなりませる。
3.虚言(うそ)を言ってはなりませぬ。
4.卑怯な振舞をしてはなりませぬ。
5.弱いものをいじめてはなりませぬ。
6.戸外(そと)で物を食べてはなりませぬ。
7.戸外(そと)で婦人(おんな)と言葉を交わしてはなりませぬ。
8.ならぬことは、ならぬものです。
会津武士の心の中に、8の「ならぬものはならぬ」が叩き込まれた信条となった。

家格によって基準に達しないと藩の役職には就けなかった。
500万石以上 長男は1等。300万石以上500石未満 長男は2等 次男以下3等
来月からは、また鉄舟研究をお話いたします。

●事務局の感想
今月は、徳川宗家18代が中心の発表でしたが、来月からはまた鉄舟の研究をさらに深めた内容で展開されることになりました。毎月楽しく鉄舟に関連する話を発表いただいていますが、さらに研究を追求し、いかに山本鉄舟になるのか、発表が待たれます。
5月もご参加お待ちしています。

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「現代に生きる武士道 2」

二見さん発表4月(3)
●台湾総督府に
農商務大臣と台湾総督府民政部長官の後藤新平から台湾に是非来て欲しいと招聘がきており三度目にようやくその求めに応じた。この任務に就く前に一年間の猶予を求めた。欧州の植民地、特に熱帯地方のものに関する調査のため欧州を巡回した。
●一九〇二年二月 稲造は、台湾総督府技師に任命された。そのころの台湾は、明治二八年(一八九五)四月に日本の領土になったばかりであった。しかし最初三年間はうまく統治ができないでてこずっていた。台湾統治へ補助金はうまく機能しなかった。新たに一八九八年二月赴任した児玉源太郎新総督は、副官である後藤新平への権限を大幅に増やした。児玉、後藤のコンビ三年で行政上の問題が解決し、後は経済開発が残されていた。そこに殖産課長となった稲造が就任し精糖産業を再興して、その効果が出て数年の間に生産高が三倍になり、その為、日本は砂糖を輸入しないですむようになった。
●「武士道」の影響
武士道がアメリカで出版された一〇ヶ月後、日本で明治三四年(一九〇一)一〇月 出版。「武士道」は、日本版、アメリカ版、イギリス版だけでなく、印度の言語、ドイツ語、イタリア語、ポーランド語、ノルウェー語、スペイン語などにも翻訳された。
● 明治三八年(一九〇五)四月一二日 メアリー夫人とともに明治天皇に招かれて皇居を訪れ、天皇に「武士道」を献上した。時に稲造四三才。 
           

● 明治三九年(一九〇六)七代目の第一高等学校長、
教え子  矢内原忠雄 南原繁 森戸辰男 河合栄治郎 後藤隆之介 
明治四十二年(一九〇九) 東京帝国大学教授にも任命される。
明治四十四年(一九一一)カーネギー平和基金による日米交換教授として稲造は招待状が届き、明治四四年九月一日に横浜を出航し、翌大正一年九月に帰国した。
「われ太平洋の橋になりたい」と述べた。
大正七年(一九一八) 五六才 東京女子大学初代学長となる。
● 大正九年(一九二〇) 五八才 正式に国際連盟事務局次長となる。
ジュネーブへ移る。
功績が大きいもの   知的協力委員会の仕事
委員として12人 物理学のキュリー夫人  アインシュタイン教授
「日本の恥となるようなことはするな」  モットー
連盟設立まもない頃 あるパーティで ジュネーブで最も人気のある人物を
1、2、3と 順番に三人上げたうち全員が 新渡戸稲造を上げた。
昭和一年(一九二六) 六四才 国際連盟事務局次長辞任。貴族院議員となる。
昭和四年(一九二九) 稲造は太平洋問題調査会(IPR)理事長に推挙される。
昭和八年(一九三三) 七一才 カナダでの弟五回太平洋会議に出席のため出発。一〇月一六日 ビクトリア市で膵臓園と肺炎で逝去。
バンクーバーの教会で告別式が行われた。

新渡戸稲造は、死後 勲一等瑞宝章が贈られ、天皇は勅使を派遣された。
青山斎場で行われた葬儀には、約三千人が出席された。
新渡戸稲造は生涯を通して道徳主義を貫いた
モットーは 「最も身近にある義務を果たせ」

●事務局の感想
新渡戸稲造の名は武士道と共に有名ですが、今回の発表を聞いて新渡戸稲造の活躍を知りました。彼のような人でも、日本にいたら武士道を書くことはなかもしれません。外国に住んで、外国の人から問われたことが、書くキッカケになったように思います。次回は、核心の新渡戸稲造の武士道になりますので、ますます楽しみです。

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2005年05月10日

「現代に生きる武士道 2」

二見さん発表4月(2)
●結婚 
明治二十四年(一八九一)元旦 二十九歳の稲造は 三年越しの恋が実りメアリーパターソンエルキントン二十四歳と結婚した。彼女は敬虔なるクエーカー教徒でフィラデルフィアの実業家の一人娘であった。
●明治二十四年(一八九一)新妻と二人で日本に向かった。六年四ヶ月ぶりの帰国だった。東京から札幌に戻り、札幌農学校教授となった。就任当時の農学校の教員は九人であった。稲造は、最初の年、一週間に政治経済学三時間、農政学三時間、ドイツ語六時間、英作文一時間、倫理学一時間を受け持った。
稲造は、倫理学を最優先として扱った。
●三四才のメアリーは明治二五年(一八九二)、男児を難産の末出産したが一週間で逝去。彼女は数カ月病に伏した後、打撃を受けた心身の療養にフィラデルフィアに里帰りをした。
●稲造の活躍をあげるといつ休むのかと思うほどである。農学校では、規程の授業だけでなく、図書館主任、舎監、衛生委員長、入試委員長などをつとめる傍ら北海道庁顧問、札幌内外の約二〇の組織に関わり、赤十字社、刑務所改善、教育機関の支援、自宅での聖書の研究と英語のクラス、夜は遠友夜学校と。
明治三〇年(一八九七) 三五才 さまざまな仕事を引き受け、精神的葛藤にも耐え切れず、とうとう病に倒れた。   
●彼の願いはあまりに多岐であった。こういうなかで稲造は神経衰弱になってしまった。札幌農学校に休暇届けをし、湘南、鎌倉、沼津と転地しながら静養した。しかし完治しないので医師の勧めにより、カリフォルニアで療養するため、明治三一年(一八九八)道庁と農学校に辞表提出し、その年の七月にアメリカに渡った。

●「武士道」の執筆
サンフランシスコから九〇マイル南のカリフォルニア州のモントレー半島、そしてサンタ・クララ郡のカレッジパークと移り静養を続けた。ここで有名な「武士道」(Bushido, The Soul of Japan)を書き始めた。時に一八九九年春から秋にかけてであった。稲造は三十七才になろうとしていた。書くに当たってパシフィク大学の図書館を利用したようであった。
稲造は「武士道」を最初から書こうとしていたのではなかった。「何か専門的な知識を生かして書いてみたい」と願っており、静養していて落ちつきを取り戻し時間ができたので書き上げたものであった。
●「武士道」のまえがきに、「武士道」を執筆に到った動機が記されている。
十年前に、ベルギーの法学者のお宅にお伺いした時、老法学者、ド、ラヴレー氏から稲造は質問を受けた。
「お国の学校では宗教教育などしないのですか」 
「そうなのです」
「宗教なし! ではどうやって道徳教育を授けるのですか」
西欧では、キリスト教が教育に先行し、学校教育の母体であった。だから道徳を教えない学校教育などはなきにひとしいとさえ考えられていた。
この質問に、稲造はとっさに答えることが出来なかった。そう日本では、道徳の教えは学校では教えられなかった。これら道徳を教えてくれたのは武士道なのだと気がついた。            
●明治三二年(一八九九)一二月 37才 「武士道」の出版を友人に依頼し、フィラデルフィアにある小さな出版社が選ばれた。翌年(一九〇〇)年一月初旬には第一版が米国の書店に並んだ。
●「武士道」の評価
日露戦争によって引き起こされた日本への関心の高まりの中で、予想を越えて国際的に評価されていった。一九〇五年に二割程頁を増やし、別の出版社から一九〇五年六月に「武士道」が発行された。ポーツマスで日露戦争の和平交渉が始められたタイミングであった。「武士道」は、日本人の特質である武勇の原因を明らかにして、日本軍の勝利に説明を加えることになった。

投稿者 Master : 23:55 | コメント (0)

「現代に生きる武士道 2」

4月の例会より
1.事務局のご案内
1)鉄舟の扁額の読み方に関する問い合わせがあり、永島さんに解読していただき、回答をいたしました。
2)新しい参加者
本林さんが参加されました。今後ともお時間があるときはご参加よろしくお願いいたします。
3)ぬりえ美術館より
●香港の雑誌”NEXTMAGAZINE”に都電荒川線の特集があり、その中にぬりえ美術館の記事が掲載されていたそうで、香港のおもちゃデザイナーの方が来館された。
●童謡の会の方からのニュース。TBSラジオの安住アナウンサーが、「現在、ぬりえが話題となり流行しているようだが、それのもとになっているのは、ぬりえ美術館というものができたからである」とラジオで発言されていたそうです。そのように言っていただけて、嬉しく思いました。

二見さん発表4月(1)
新渡戸稲造 略伝  (一八六二〜一九三三)について
「武士道」の著で有名である新渡戸稲造の略歴
台湾総督府の高官   第一高等学校校長  東京帝国大学教授
東京女子大学初代学長 国際連盟事務局事務次長 勅撰貴族院議員
太平洋問題調査会理事長を歴任した。死後 勲一等瑞宝章が贈られた。

●幼年時代
新渡戸稲造は文久二年の(一八六二)九月一日 岩手県盛岡で生まれた。南部藩上級武士の子。曾祖父伝蔵は儒学者、兵法家。祖父の伝(つとう)は十和田湖周辺の荒野の潅漑工事を何と二〇年かけてやりとげた。
父の十郎は お留守居役として江戸に詰め、南部藩の勘定奉行であったが、無実の中傷を受け、蟄居させられた翌年、四十八歳で亡くなった。
幼年期、かかりつけの医者から英語を兄道郎と一緒に教わった。剣術と共に槍と柔術の稽古を受けた。父の十郎は、自宅の敷地に柔術の道場を構えていたという程武道に熱心であった。  
●青年時代
明治四年(一八七一)、稲造九才。母のせきは、兄道郎と弟稲造を東京で学ぶのが一番であると判断し、亡き夫の末弟で銀座通りに洋服店を営んでいた太田時敏がいる東京に送り出した。明治八年(一八七五)稲造一三才。二年前に政府によってできた難関の東京外国語学校の入学試験に合格した。
●札幌農学校入学
稲造は一六才の明治一〇年(一八七七)に札幌農学校に希望を抱いて二期生として入学した。祖父、父と続いた開拓精神を引き継ぐためであった。札幌農学校は「少年よ 大志を抱け」で有名なあのウィリアム・クラーク博士が校長であった学校。  
二十二人の二期生のうち、新渡戸稲造、内村鑑三、宮部金吾、他四名が入信した。
明治十四年(一八八一)札幌農学校を卒業し開拓使に入った。開拓使は解散し、農商務省に管轄を移された。札幌事務所では稲造は仕事がなく、明治十六年(一八八三)退官を願い出た。
明治十六年(一八八三)九月 東京大学に入学した。しかし、大学の授業に飽き足ら、やめてアメリカに行く事にした。
●留学時代
明治十七年(一八八四)当初は田舎にあるアレゲニー大学に入学したが、一週間後友人の佐藤昌介から都会にあるジョンズ・ホプキンス大学に来いと誘われて直ぐに転校した。
稲造は、渡米二年後には、持参した資金も底をつき、勉学継続が困難となり、その上目も悪化し、精神的に疲労のきわみに達し、とうとう病で倒れてしまった。友人佐藤昌介の推薦状のお陰で、ホプキンス大学を辞めて、ドイツに農業経済学の習得に、留学を命ぜられた。
明治二十年(一八八七) 政府派遣留学生として アメリカを発ち、欧州を廻りボン大学に到着した。ボン大学に十四ヶ月滞在し、ベルリン大学、次にハレ大学に移った。
こうしてドイツで文学修士と哲学博士を取得した。三十八ヶ月ぶりにアメリカに戻った。

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2005年03月29日

江戸無血開城までの道のり

山本さん発表
3.1 
1)山田風太郎の明治物小説にはよく山岡鉄舟がでてきて、フィクサー役の役割をしている。
明治時代、日本は法律、医学、軍隊組織など多くのことをヨーロッパから学んだ。その時代、船で渡りフランスのマルセイユに入り、列車でパリのリヨン駅に到着した。そのリヨン駅は大変豪華な駅で、ベルエポック時代の壁画が描かれた「ル・トラン・ブルー」という高級レストランがある。

ル・トラン・ブルーの店内写真

2)明治五年、パリを訪れた日本人に成島柳北(幕府の学者の子として生まれ、将軍の侍講を若くして務めるという才能を示したが、明治維新によって新聞記者として朝野新聞の社長となる。明治五年に外遊する)がいた。パリで大道芸人となっていた江戸時代の馴染みであった新橋芸者、それとノートルダム寺院の前で偶然出会ったところ「幕府の人間が、明治政府の役人と一緒に来て、通訳みたいな仕事をして、男の意気地はないのか」と言って万人が見ている前で顔を痛打された。この件について「海舟も鉄舟も二君に仕えた」と、わざわざ風太郎は書いているが、それほど、二君に使えるのは当時は非常識な行動であったのである。

3)ここで二君に仕える話をしたのは、新井喜美雄という元東急エージェンシーの社長が、「悪玉、大逆転の幕末史」を書き、その中で鉄舟を「精神が貧しい男」とこき下ろしている理由が「海舟も鉄舟も(二君に)仕えた」からであることから、当時の時代雰囲気をお話したのである。しかし、新井喜美雄氏という、それなりに名経営者と言われている人物が、このような判断基準を持っていることについては、次回にもう少し解説したい。この考えの延長に今話題となっているライブドアの問題もあるからである。また、新井喜美雄氏とは直接お会いして、鉄舟について話し合ったとがあるので、そのときの状況もお話したいと思っています。

3.2「江戸無血開城までの道のり」
1)「覚王院義観の生涯」(長島進著 さきたま出版会 2005年2月)という本を浦和の伊勢丹で見つけた。推薦者は上田清二埼玉県知事であって、これは郷土埼玉県の朝霞に立派な人物がいたということから、「覚王院義観」の立場にたって書かれた覚王院義観側からの維新史である。この内容を紹介したい。

2)山岡鉄舟が駿府に出発したのは3月5日の夜か、6日の早朝であって、7日駿府に到着、8日東帰と考えるのが妥当である。7日と考えると輪王寺宮が大総督有栖川宮と会い、覚王院義観が参謀の西郷と林玖十郎に会った日と同じである。輪王寺宮と覚王院義観が同じ駿府にいるのであれば、鉄舟から一言の挨拶もないということはおかしい。
また、鉄舟は半日も経ない短い交渉で西郷から「五箇条」の慶喜助命の回答を引き出して、さっさと江戸に立ち返ってきてしまっている。

3)覚王院義観は、7日の会談の後、5日も引き延ばされて3月12日に慶喜助命の条件を提示されたのである。覚王院義観が江戸に戻って、官軍との交渉成果を報告しようとしたときには、すでに海舟と西郷の品川会談が行われ済みであって、覚王院義観の苦労した駿府行きは無駄骨でなったのである。(山本注 これがその後の官軍に反する彰義隊による、上野戦争に向かった一つの要因とも言われているところである。何故なら、覚王院義観と鉄舟の論争、それは鉄舟の彰義隊解散勧告であるが、これを覚王院義観が拒否した真の理由とも言われているのである)

4)江戸に戻った覚王院義観は、駿府で会談を引き延ばされ、鉄舟によって成功した江戸無血開城の裏には何かの陰謀があると考えるのに、充分過ぎるほどの出来事であった。
覚王院義観は「何かがある」と深い疑問を持ち、その探索を間諜を使って調べた。間諜は細川家(肥後藩)の家臣である志方鞆之進であり、志方は岩倉具視と知り合いでもあるので、真相の探索を依頼したのである。

5)志方鞆之進から20日ほどたって報告が届いた。
「駿府城会談のすべてを背後で演出していたのは、岩倉具視である。全ては『神道復活、廃仏、輪王寺宮の格下げ』が狙いである。

6)有馬頼義著「北白川宮生涯」
作家の有馬頼義も「北白川宮生涯」(別冊文芸春秋第105号)の中で次のように書いていると長島氏が同書で指摘している。これは島峯颯平資料にある内容である。

「私が手にいれた資料と、島峯颯平資料の共通点で正史と違っているのは、江戸城の無血開城は、西郷と勝の会見によって決定したのでなく、最初から岩倉具視の策略であったという一点にすぎない」

「岩倉具視は私(有馬頼義)の曾祖父にあたる。岩倉には三好某という家臣がいた。
三好老人の口から、岩倉が勝海舟を過大評価していて、勝を助けるために密使をもちいて、西郷と勝に、あの大芝居を打たせたのだ、ということを聞いたのである。上野を逃れた輪王寺宮へ追討の命令を下したのも、岩倉であった。

7)このような主張は立場によって異なるのであって、それに異論を挟む必要はない。何故なら、鉄舟が西郷との会談を成功させたことを否定しているわけではないからである。鉄舟の功績を正しく認識しているが、覚王院義観も正しく理解して欲しいというのが長島進氏の主張である。

8)いずれ長島氏に当会に来ていただいてお話を伺う予定である。その際に根拠を詳しく語ってもらいたいと思っている。

●事務局の感想
今回は、最近パリに行った現場感覚の話で、今という時代と明治時代が結び付けられ、大変臨場感ある発表と感じました。「ル・トラン・ブルー」は私も何度か食事をしたことがありますが、初めてその場に立つと本当に装飾が素晴らしいのに感激する歴史あるレストランです。
今回は立場の違うところからの歴史の発表でしたが、どの立場かはっきりしていれば、その立場の意見を発表できる、史実は一つでないということを教えていただきました

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剪画文化をめざす

3月の記録
事務局よりのご案内
1)4月3日(日)跡見学園女子大学「観桜会」開催のご案内
2).鉄舟・21・サロンとして「山岡鉄舟研究会」の幟を成のご案内。書体は、HPの書体と共通の隷書体
3)5月18日開催の例会から、会場が上野の東京文化会館の会議室に変更になることのご案内。
4)ぬりえ美術館より
テレビ朝日「報道ステーション」の番組内で、1月〜2月に亡くなった方の人生を何人か振り返るコーナーがあります。ここで、蔦谷喜一が、3月30日、又は31日に放送される予定。1〜2分程度
5)月刊「VERDADベルダ」3月号に山本紀久雄氏の温泉本「笑う温泉 泣く温泉」の書評が掲載されました。
6)サイボクハム研修ツアーのご案内
日時:5月21日(土)10:45〜16:30
場所:サイボクハム
集合:サイボクハム本社「心友の像」の前 10:45厳守
会場費:1500円
7)ペネロップ日本展2005「煌きの食卓への誘い」
(メンバーの吉田さんが、企画をされている展示会でございます)
開催日程:05年4月23日(土)〜5月7日(土)
時 間: 10:00〜20:00 
会 場: 東京プリンスホテルパークタワーボールルーム
入場料:当日券2800円、前売り入場券2500円

1.岡崎さん発表 「剪画文化をめざす」
1)「剪画」の名前の由来:剪画も一言で言えば「切り絵」但し鋏を使わず、カッターで切ることが原則 
和紙が生まれた頃から切り絵はあったが、切り紙細工ではあって、切り絵とは呼ばれていなかった。切り絵という言葉は、朝日新聞で連載していた「滝平二郎」さんの絵から名付けられた。
同じく切り絵作家であった石田良介氏は、通信講座を終了した生徒を中心に、「創切会」を設立、芸術の一分野として確立させるため、1984年「日本剪画協会」と名称を改めて、会を再編成し、現在に至っている。
1993年には文化庁の後援を受け、2002年にはNPO申請登録、2003年〜モントリオール、ニューヨーク、2004年ニューヨークで海外展開催、05年大崎O美術館で第21回展覧会開催
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2)岡崎さんは、多摩美術大学でテキスタイルを勉強したが、卒業と同時に結婚し、7〜8年間は、育児で今まで勉強したことを生かせなかった。型染めなどを好きだったことから、石田氏の本「切りえ入門」を持っていた。」個展を見に行って、通信講座を受講し1982年講師認定取得 高輪の石田先生の自宅で勉強会に通って勉強し、現在は石田氏の小渕沢転居にともない、東京会員中心で活動。

3)剪画の制作方法
図案をコピーする→図案を黒い紙の上にとめる→白い部分をナイフで切り抜く→コピーした図案を取り除き、台紙の上に載せて、糊をつけ、貼る。
紙は和紙。洋紙より丈夫で、毛羽立たない。専用の熱圧着剪画和紙もある。

4)剪紙や切り紙細工との違い
技法の違い。ナイフは両刃をつかう。竹を主原料にした紙を20〜70枚重ねて、一度に切り抜く。「突き彫り」のようなもの。寄席の芸は、「切る」というテクニックをみせる芸で、紙切りと言って、切り絵とは言わない。

5)下絵を描くことが80〜90%
切るだけなら、誰でも沢山切れば出来るが、「何を描くか、どんな表現にするか、全体的にどんな絵にするのか」ここが大事。その意味で下絵をそのまま本画にする日本画に近いのではないか?

6)石田良介氏とは:
日本剪画教会の会長。谷根千の辺りを描いている。谷中の商店街の入り口看板や「谷根千」の小冊子の表紙やカットを描いている。

7)鉄舟との出会い
石田さんの本の中に、全生庵が載っている。全生庵の円朝祭りに行っていたが、そこに鉄舟の墓があるとは知らなかった。

8)協会としては、作品集、せんが抄を毎年作成している。図案集を最近発行。

9)美術館開館の夢・・・3つの柱
(1)作品の発表・・・年1回展覧会+各支部の展覧会
(2)知ってもらう、教える場所の筋道をつける・・・カルチャー講座、市民講座を会員の地元で開催
(3)文化として確立していきたい
歴史というものは記録された瞬間に残っていくもの。昔の作品を収集し、それを展示する場を作る。系統だてて集めて、残していく。記録から作ろうと考えている。
総括的にすることで、文化として残して行きたい。見るだけでなく、作りたいという方々と一緒にジョインしていきたいと考えている。


●事務局の感想
岡崎さんがぬりえを見にいらして、ぬりえと鉄舟の関係に関心をもたれて鉄舟のサロンに参加されるようになったことを考えると、「切り絵」から「剪画」に名前を変え、さらなる飛躍の美術館開館の夢と剪画を文化にしていきたいということをお聞きして、同じ方向に歩まれていることを知り、ご縁の不思議さを感じました。これからもお互いにご協力していきましょう。

投稿者 Master : 15:07 | コメント (0)

義経の実像とは、そして鉄舟の脳とは

2.山本さんの発表
1.源義経の実像(平治元年〜文治五年 1159年〜1189年)
義経が美形の人物像に描かれているが、実はチビで出っ歯の男だった。
源平争乱より200年後の室町中期に、類まれな美貌の持ち主として定着する。

2.新選組 沖田総司の実像
沖田総司も、あばた面の酷い男だったようだが、憧れの男性に変化していく。

3.バレンタインのチョコレ−ト・・・フェニルエチルアミン
チョコレートの中には、フェニルエチルアミンという神経伝達物質が含まれていて、食べると脳が"愛""幸せ"を感じることができる。シナプスの動きを良くして、頭の回転を良くする。薔薇の花にも、同じ成分が含まれている。

4.アインシュタインの脳・・・グリア細胞が多い
脳の重さは、だいたい1400g位であるが、アインシュタインは、1230g
それでも素晴らしい業績を残している。子供の頃には、言語障害があった。
アインシュタインは、脳の重さは少ないが、脳細胞の周りにグリア細胞が多くある。

5.鉄舟の脳・・・目的から入る思考(西郷との会談に向かうに当たって海舟の問いに対する答えから類推する)・・・脳のワ−キングメモリ−(作業記憶)に強い・・・大脳新皮質の前頭葉と側頭葉のネットワ−ク力が強い
普通の人は、手段から考える人が多い

6.東海遊侠伝について
1)東海遊侠伝の中味は次郎長と黒駒勝蔵の争い
<すべては米国ペリ−の来航から始まった>
幕府の対策として急遽江川太郎左衛門英龍が登用された。黒船ショックを経験した幕府は、ようやく江戸湾防備の重要性を気づき、以前からそのことを進言していた伊豆韮山代官の江川が幕府の中枢に登用されたお台場作りを懸命にした。

2)竹井安五郎、通称「吃安」という無宿人、今で言えばヤクザであり博徒島抜けをした。
お台場作りは急務である。お台場作りの人足候補者として博徒が使われた。その博徒の親分が大手を振って幕府の危急困難時の対策に活躍したのである。
その博徒の親分が間宮久八(後に大場久八と言われた)であり、この久八と兄弟分が竹居安五郎であり、安五郎はこのタイミングに久八のところに逃げ込んだのである。
竹居安五郎は甲州に戻り、そこで博徒として売り出していく。そこに隣の村から子分入りしたのが黒駒の勝蔵である。
この勝蔵は「東海遊侠伝」の中では、男伊達清水次郎長に対して敵役の卑怯者としてイメ−ジしやすい描かれ方をしている。
ところで、その後竹居安五郎はどうなったか。指名手配人物としてとらえようとするのが幕府の法としての当然行動であるが、それが上手くいかないので二束草鞋の博徒を使って捉えようとするゲリラ戦法をとった。
それは国分三蔵(高萩万次郎)一味の投入である。この三蔵グル−プが安五郎を騙まし捉え、牢内で毒殺との説もある死に方をさせる。これに勝蔵は怒り、その後の闘いが激化していく。
三蔵と清水次郎長は盟友である。ここに安五郎の意思を継いだ勝蔵と、三蔵の盟友としての次郎長の二大勢力が闘う構図が出来上がった。

3)慶応四年(1868)正月21日、赤報隊として突如勝蔵が現れる。
その後の勝蔵はどうなったか。明治三年8月に御暇を貰い、黒川金山開発を目論見中、帰隊の日限を守れず脱退と見なされ、明治四年正月25日伊豆蓮台寺で温泉治療の帰途捕えられ甲府に送致された。
この脱退したことと、国分三蔵との闘いで相手の子分三人を殺害したことを問われ、明治四年10月甲府で斬処された。

4)一方、勝蔵の喧嘩相手、敵役の清水次郎長はどうなったか。次郎長も勝蔵一派の子分を多く殺害している。それは「東海遊侠伝」に書かれていることで分かる。また、次郎長は幕府側での行動をとっていた。ということは官軍の世界になってみれば、次郎長こそが捕まって罪に問われるはずである。それが次郎長は過去の博徒喧嘩の殺人は不問にされて、明治時代に力をつけて生延びたのである。勝蔵とは天地雲泥の差である。この差は何故発生したのか。生き残った次郎長の背景には誰がいたか。それへの究明・研究が次の課題である。

●事務局の感想
バレンタインのチョコレートから、アインシュタインや鉄舟の脳までの解説に思わず、手段人間の私としては、うーんと唸ってしまいました。臨機応変にということばを念仏のように唱えたいと思います。
東海遊侠伝は昔浪花節で聞いたり、東映の映画で見たことがありましたが、歴史的背景を山本さんが大変面白く語ってくれるので、優しく頭に入ってくるようです。

投稿者 Master : 15:04 | コメント (0)

「現代に生きる武士道」―新渡戸稲造・山岡鉄舟・恩田木工―

2月例会記録
1.二見さんの発表(2月その1)
来年で創刊満20年になるのを区切りに、春風で追い求めてきた、「日本の心」を偉人の逸話や伝記を基に、整理し紹介していきたいと願っていた。このところ、武士道の話題も続いている。
今春から一年かけて偉人群像をお手本にして、「現代に生きる武士道」として連載することを決意した。
一 恩師の紹介
私が、「日本の心」を多少でも学び得たのは、大勢の故恩師のお陰である。春風も恩師に恩返ししたいという思いで始めた。               
●富木 謙治(とみき けんじ)
 秋田県角館生まれ。競技合気道創始者で弟子の大庭英雄と共に競技合気道を普及せられた。
●品川 義介(しながわ ぎすけ)
萩の生まれ。都会で手に負えなくなった感化院の不良少年を北海道の原野で更生された。その名を北海道家庭学校という。品川先生は、吉田松陰の孫弟子に当たる。
注)その月刊「野人の叫び」誌は、私の青年期におけるこころのバイブルであった。
●朝比奈宗源(あさひな そうげん)
円覚寺で坐禅だけでなく平和実現に世界連邦の話も伺った。日本国を蒙古来襲から護った北条時宗がいたことや昭和天皇の話も伺った。
●逸木定親(いつき さだちか)
九州八幡に居られ、剣道九段で、人間道場を主宰されていた。今親鸞といわれ北九州界隈で尊敬を受けていた。

二 私の尊敬する偉人群像
山岡鉄舟、恩田木工、渋沢栄一、双葉山、二宮尊徳、山田方谷、西田天香、西郷隆盛
今村 均、吉田松陰、良 寛、伊庭貞剛
注 日本の心 魂をもった先人達で、「春風」誌 創刊以来十七年かけて、その人物を伝記形式で紹介してきた。特に線を引いた人物を尊敬。
 
▼「現代に生きる武士道は?」と問われたら、
私は 躊躇なくThe Soul of Earth と答える。意訳すると、地球武士道となる。
人間の本分は、徳を積むことを柱にして、国や地域への社会貢献と地球環境保全の三位一体を実践することに尽きるのではなかろうか。

■現代に生きる武士道 2 
第一章 武士道の流れ
「武士道」の語が、使われ始めたのは、およそ戦国時代後半ないし、末期頃である。
武士道の解釈は、時代により変遷してきた。中世から幕末までの流れを「戦場の精神史」(著 佐伯真一NHKブックス)を参照にして、紹介致します。

1.中世、戦国時代の兵の道
1)武士道という倫理の前に、謀略をしかけあい、敵を倒そうとした神話から戦国までの武士の姿がある。だましあいを肯定する。戦場で生き残ることを根本においていた。
2) 武士としての生き方を、極めるべき「道」として考えた例が最初に登場したのは、室町時代の「義貞軍記」である。
この時代の「武士道」は、武士らしい勇ましい行動を示す言葉であり、まだ倫理理念までは昇華していない。甲陽軍艦にその例がある。
3)勝利へのあくなき執念をもって兵法の道とすることを説いた「五輪書」は、戦国武士の後継をなしている。
2江戸 太平の世の武士道
1)武士たらんものは、一年中常に死を覚悟して過ごせと「武道初心集」には述べられている。同様なことは、「葉隠」にも述べられている。
2)しかし、「葉隠」は、敵を討ち取るよりも主の為に死にたることが良いとまでになった。これが、日本陸軍の悪しき無謀な特攻につながっていく。
3)山鹿素行による、「士」の役割は、戦うのではなく、忠、信、義といった儒教的徳目を守ることとされるようになった。即ち「武士道」ではなく、「士道」として説いている。
4)吉田松陰は、儒教に由来する士道と併せて甲陽軍艦の教える武道鍛練の影響を受けて、尊王攘夷を説いた。

5)以上の変遷を経て、明治になって武士道が倫理道徳の意味合いを帯びて登場してきた。  
事例を4つ。
第一 山岡鉄舟  1887 明治二十年  武士道講話口述 1902 明治三十五年出版 
第二 福沢諭吉 1891 明治二十四年脱稿 明治二十七年奥羽日々新聞に掲載 「痩せ我慢の説」
第三  雑誌「武士道」(1898 明治三十一年 大日本武術講習会 月刊で四号まで発行された。
第四 新渡戸稲造 1899 明治三十二年 アメリカで刊行 書名「The Soul of Japan 」(和訳 武士道)。翌年日本でも英語版が刊行。

6)安岡正篤の説く 武士道
大正13年 若干27歳 「武士道哲学新論」を講じた。
士の意義  書経において  裁判官
周代では  四民の上にたって大夫の下に属する者。 全ての有官者 禄を受ける者 
春秋左子伝では、戦場において兵隊を率いる者
さらに 義理を行う者 道徳的行為の主体者

投稿者 Master : 14:56 | コメント (0)

2005年02月19日

いよいよ「武士道」の発表

武士道を解説するのに一番ふさわしい合気道歴39年の二見さんに、2月より隔月で発表していただきます。

参考資料の説明をする二見さん


当サロンのメイン講師の山本さん
「鉄舟研究」の発表の前に、毎月今現在起きている時流に関する話も解説
今月は、義経の実像、バレンタインのチョコレートの効能、鉄舟の脳等など。
詳しくは、例会の記録でお伝えします。

投稿者 Master : 15:31 | コメント (0)

2005年01月31日

1月例会記録(2) 発表者山本さん記録

2.山本さん記録
1)幕末維新の志士達、写真詐欺
日経新聞に幕末維新の志士達の陶板写真の販売の広告が掲載されているが、これは以前にもお話したが、詐欺なので、注意してほしい。

2)安田生命の第一号契約者は鉄舟
本を書くには、何かキッカケがないと書けない。イマジネーションと直観力が大事。
猪瀬直樹氏は、直感力で「おかしい」と思い、道路公団の多勢と戦った。
安田生命の第一号契約者は鉄舟だそうである。一号契約者に鉄舟が選ばれたという、当時の鉄舟の位置づけはどのようであったか、大事なことである。

3)靖国神社の首相参拝と今後の方向
靖国神社は、明治2年にできた。明治維新に貢献した人が祀られ、江戸幕府は入っていない。第二次大戦後、サンフランシスコ条約で負けたことを承認したことは、A、B、Cの戦争犯罪を認めたことである。そこを参拝することは、国際法違反になるのではないかと
いうことで、いまA級戦犯を別のところに移すことが動いている。この問題も2~3年で解決するだろう。

4)田中淳一氏の「清水次郎長の次郎長開墾の歩み」出版
昨年の全国フォーラムに参加した 田中淳一氏が、「清水次郎長の次郎長開墾の歩み」を出版された。本を回覧。

5)東海遊侠伝は鉄舟が仕掛け人
浪曲などで有名な清水の次郎長の話は、「東海遊侠伝」に書かれている。それは鉄舟が仕掛け人なのである。詳細は、資料「鉄舟研究」を参照願います。

●事務局の感想
写真詐欺から靖国問題、現代の問題を解説しながら、それが鉄舟と結びついているという山本さんの講演が人気で鉄舟サロンも1月から大盛況でした。鉄舟ファンの中には、田中淳一氏のように個人で研究を続けている方がいます。その方に参加していておただいているということは大変嬉しいことだと思っています。
今月もHPに様々な問い合わせをいただいています。これもサロンが毎月例会を開催しまじめに研究をして発表している成果だと思っていますので、メンバーの皆様、回答へのご協力をお願いいたします。

投稿者 Master : 10:15 | コメント (1)

2005年01月27日

1月例会記録(1) 発表者永島さん記録

発表者:永島さん、山本さん、事務局

1.事務局より
平成17年度の春のイベントのご案内
跡見学園大学(新座市)の桜と跡見学園創始者の資料見学を計画中
日程:4月2日(土)又は3日(日)を予定しています。

2.永島さんの発表 「鉄舟はどのようにして書を学んだか」
1)私と鉄舟との出会い
 平成12年の日経新聞に小川町二葉にて「鉄舟の書の展覧会開催」の記事をみて、書道を勉強しているので、鉄舟については知らなかったが、展覧会見学と講演会に参加したのが、キッカケである。

2)鉄舟、高山での7年間
弘化2年(1845)7月1日 父、たかよし高福、飛騨郡代に任命される。
同年8月24日 父と共に鉄舟(10歳)高山に到着。
富田いやひこ礼彦・節斎の日記、「公私日次記」の弘化2年8月の頃に「御手本認差上云々」と記載あり、鉄舟は高山に到着早々、節斎に師事したと思われる。
嘉永元年(1848)11月、鉄舟(13歳)は入木道五十一世岩佐一亭から「千字文」の肉筆を入手したと思われる。
これを約一ヶ月学んだ後、父が美濃半紙を与え「千字文」を清書するように命じた。鉄舟は直ちに「千字文」を書き上げた。父はその出来栄えと上達の早さに驚嘆し、翌日、これを一亭に見せたところ一亭、短期間の上達振りを賞賛した
その場に居合わせた北辰一刀流井上八郎・清虎も賞賛し励ました。清虎の高山滞在期間から鉄舟13歳の頃と推定される。清虎は高山に嘉永元年(鉄舟13歳)と嘉永四年(鉄舟16歳)の二回来高しているが、第二回目は鉄舟16歳、既に入木道に入門しており時期が遅い。やはり、第一回目(鉄舟13歳)であろう。

★ご存知の方は、ご連絡願います
「鉄舟は書に、年月日を記入したと言っているので、この「千字文」の原本をみれば、いつの頃かが分かる。この原本がどこにあるのかご存知の方は、お知らせ願いたい。」

嘉永3年(1850)3月1日、一亭は鉄舟(15歳)から「入木道書法入門之式一札」の神文書を受けて正式門人にとりたてた。
同年10月、一亭は鉄舟に入木道五十二世の伝統を伝授し、「一楽斎」の号を与えた。
嘉永5年(1852)2月27日、父、死亡。
同年7月21日、鉄舟(17歳)高山を出発、7月29日江戸へ到着。

3)書の手本
書の上達のためには、手習いと目習いが大切である、といわれているが鉄舟は中国の古典であるおうぎし王羲之(十七帖)、ち智えい永(千字文)がん顔しん真けい卿(麻姑仙壇記)等法帖の臨書、又、空海の手蹟研究を通じて書の奥義を会得した。このことは墨跡からも伺える。

4)[守]・「破」・「離」空手の段階と会い通じる
[守]・「破」・「離」を鉄舟と結び付けてみると
「守」-基本を身につける・・・一亭に学んだ頃
「破」-創意を加え殻を打ち破る・・・45歳まで。創意を加えている。
「離」-無心で自由な世界、心・技・体が一つになった心境・・・45歳以降。

鉄舟は手記「書に就いて」の中で「明治十三年三月三十日、余、剣、禅の二道に感ずるところありしより、諸法皆其揆一なるを以って、書亦其筆意を変ずるに至れり」と、述べている。時に鉄舟45歳の春、「鉄舟流」の完成に至ったのである。「離」に至るのは至難の業であるが、「守」がなければ「破」も「離」ないことを我々は学ぶべきである。
 
●事務局の感想
鉄舟サロンには、剣・禅・書の達人である鉄舟の3つの達人分野のいずれか、またはすべてに関心をもってファンになっている方々がいますが、今回は書道という面から、永島さんに発表していただきました。永島さんの書を展示しながらの発表に、書道の奥深さ、魅力を感じました。      

投稿者 Master : 09:49 | コメント (0)

2005年01月20日

17年1月


●永島さんがご自分の書を前に、熱く発表「鉄舟はどのようにして書を学んだか」を発表。

1月例会記録は、近日中にご案内いたします。

投稿者 Master : 18:14 | コメント (1)

16年1月 発表者:吉田氏、山本氏、事務局(金子)

■吉田さんの講演 「典座(調理・料理人)を一考する」
調理や料理人についての考えを発表いただきました。

・永平清規(しんぎ) 〜 道元禅師(1200〜1253)
「赴粥飯法(ふしょくはんほう)」 〜 食事を摂るための心得 五観の偈
「典座教訓」 〜 食事を作るための心得

・入宗 真応二年(1223)〜 六年(1227)帰国
二人の老典座(阿育王山/天童山景徳寺)との出合い
*たとえ炊事調理であっても、真心を込めて禅林で修行に励む人々のために作るならば、それは立派な禅の修行であること。煩わしい雑務と思う典座の仕事にひたすら努めるその中にこそ、禅を行う者の本務があること。
*悟りは学問の中だけにあるのではなく、実践、行の中にあることをあらためて確認する 〜 禅の真髄
*典座職より沢山の秀でた人物がでていること
*炊事・調理の仕事を高く評価し、食法一如を唱えた弁道修行にまで発展させた。 〜 典座職の地位向上となる。

■事務局・金子より「16年度計画提案」
1.会の運営に関する提案。
1)例会
毎月第三水曜日、6:30〜8:00PM、ぬりえ美術館にて開催いたします。

2)HPの公開
2月15日公開予定です。今後HPに記録を公開していきますが、講演の際には、山本さんのレジメの分量、まとめ方を参考に準備をお願いいたします。

2.その他のイベント計画
1)鉄舟・西郷隆盛対面の場ならびに茶畑見学会
 開催時期:春
 
2)「山岡鉄舟全国フォーラム2004」(鉄舟全国大会)開催
定期的に鉄舟を研究しているグループは、この鉄舟・21・サロンしかないと佐藤寛先生がおっしゃっていました。全国の鉄舟ファンに呼びかけ、全国大会を開催いたします。
開催時期:9月12日(土)又は9月19日(土)を予定

3)鉄舟ハワイツアー
開催時期:秋 10月頃 3泊5日程度
NHK「その時歴史は動いた」で登場しました鉄舟縁のアンパンの木村屋さんが、ハワイにお店を開店いたしました。これを機会にハワイの現地の人と鉄舟を研究する機会をつくることも狙ってツアーを企画いたします。今年はグローバルに海外に飛び出します。

4)参禅の会(全生庵)
鉄舟を研究していますと、鉄舟が剣、禅、書の方ですから、禅寺に行く機会が多くなります。剣、禅、書の方を研究しているのですから、禅のことを知ることで近づけ、深められるのではないでしょうか。全生庵に参禅してみましょう。

5)北千住界隈を行く
開催時期:春 5月16日(日)開催決定
江戸時代考証に詳しい会員の増谷さんとご一緒に、徳川慶喜、芭蕉ゆかりの北千住界隈を歩き、江戸時代を勉強します。

■山本さんの講演
毎月、山岡鉄舟研究家の山本紀久雄さんから、鉄舟の研究成果を例会で講演いただいております。2月からの鉄舟のHPの公開あたり、その中で、山本さんの山岡鉄舟の研究成果を掲載していくことになり、これを機会に山岡鉄舟の研究について、その方向性を改めてご案内がありました。
その方向性とは、今までにない新しい観点から鉄舟像を探り、その鉄舟像が現代とどのように関係しているのかという視点、つまり、明治維新前夜の日本と、現在の日本、それを鉄舟という人物を通して分析し、大きな変化局面を迎えていく現代を見通していきたい。という研究内容ですが、今後の成果の発表が楽しみです。                          

投稿者 Master : 10:14 | コメント (0)