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2006年11月23日

11月例会記録(2)

■ 山本紀久雄氏

やはり出来が違う


 神坂次郎著の『幕末を駆ける』を古本屋で購入した。
人間は直観力がある。その本には「山岡鉄舟」と書かれていなかったが、読んでいると突如として鉄舟が出てくる。
岩倉具視がお金を払ったリストがあり、そのリストの探偵費支払いという項目に鉄舟の名前が出てくる。探偵ということはスパイ。
西南戦争は中央政府と西郷隆盛の戦いで、西郷側から戦争を起こさせるために、中央政府は密偵を薩摩に送った。密偵が、薩摩側を暴発させるための手紙を落とした。これを見た薩摩側がカーッとなって、戦争を起こした。こういう話の中に鉄舟が出てきて憤慨した。

 川田剛(甕江)『正宗鍛刀記』での記述を紹介する。
岩倉具視が、“普段贈り物を断っているが、忠臣からもらったので特別に受け取った。彼の功績を世間一般に広く知らせることにした。その記録の文章を作ってほしい”と川田に頼んだと記されている。
この文章の中で、駿府で西郷隆盛を説得し無血開城に導いた鉄舟の功績を認めている。鉄舟は貧乏だったから「探偵費」というのは岩倉具視が鉄舟にお金を支払う口実だったのではないか。

1.幕末維新に活躍した人物は外国と接したことで変化した
   勝海舟  薩摩藩士  長州藩士

 明治維新の際、なぜ薩摩だけが盛り上がったかを考える。西南戦争を起こした中心は農民ではなく士族。南九州の薩摩藩、佐土原藩、高鍋藩などでは、全体の人口の20~30%が士族だった。
当時、兵農分離が行われており、兵は城下町に住んでいた。武士は江戸に住む、農民は田んぼで田舎に住む。武士は街中に住むから人口比率が3~5%と少ない。
薩摩藩は兵農分離が進んでいなかった。普段は田畑の仕事をしながら、何かのときに刀を出す。そのため南九州では士族の比率が高く、西南戦争は士族の不満から出たということがデータから判る。

 薩摩藩が明治維新を起こした。薩英戦争(薩摩と英国の戦争)で、イギリスの近代兵器に驚き、開国を推し進めた。
長州藩も下関事件が起き、四か国の艦隊が長州藩を攻撃した。外国を知った薩摩藩と長州藩の2藩が明治維新を作った。
勝海舟も出世しようと思ったからオランダ語を学び、長崎でオランダ人と接して船の操縦を学び、サンフランシスコに行った。外国に詳しい。


2.戦国時代の実力主義とは人の目利き力

 鉄舟は外国と一度も接していない。鉄舟は慶喜から指示されたときに、駿府に行きたくない、といいましたか?
 尊王攘夷だった人間が開国派の話で、意見を取り入れた。当時は勝海舟など、ほんの一部の人しか、官軍に降服して受け入れようと思っていなかった。ほとんどの人たちは官軍が来るならやってやろう!と思っていた。
 薩摩藩や長州藩、勝海舟は外国と接しており、新しい思想を持っている。ところが鉄舟は、旗本で、剣と禅をしながら古い思想の中に居た。それなのに、なぜ近代的な志向があったのか?少数派の言葉をなぜ理解することが出来たのか。

 慶喜から駿府行きの命令があり、勝海舟の元へ挨拶に行った。勝海舟は鉄舟に、これから先駿府まで官軍がいっぱいいる、と。鉄舟は“臨機応変は胸中にあり“とその場を臨機応変に対応すると言っている。レジュメ6の②に「心胆練磨之事」とある。23歳の時に書いた”臨機応変“が、この、いざというときに出てくる。


3.徳川慶喜が鉄舟を駿府行きに選んだ目利き力

 15代将軍慶喜はそんな重大なことをなぜ一旗本に頼んだのか。百俵二人扶持の鉄舟に頼んだのか。推薦されていたとしても、会ったときに信用置けないような人物だったら、頼まないだろう。慶喜には目利き力があり、鉄舟に会ったときに一瞬の直観力、目利き力で決めたのだろう。
戦国時代、殿様は子供つくり、誰を跡継ぎにするかを決めることが重要だった。判断を誤ったら藩はつぶれてしまう。

 鉄舟を推薦した高橋泥舟については、子母沢寛が『逃げ水』で書いている。高橋泥舟が生まれたとき親父が、“こいつは者になる!”と言ったという。顔を見た瞬間に高橋泥舟の未来を予測している。これも目利き力。人の査定能力がすごく大事。

 日本の経済は復活したと海外で評価されている。日本国民が小泉元首相を選んだ目利き力。戦国時代も現代も目利き力を大事にした。
また時代を表す元号についても同じ。徳川家康は、大阪夏の陣で豊臣家を潰し、これから平和が来ると、慶長20年(1615年)に元号を慶長から「元和(げんな)」にした。その後249年間戦争がなかった。
元号が「元治」となった1864年明治維新の4年前、世の中は“元来国を治めるのは天皇である”というムードになっていた。元治元年に長州が禁門の変を起こした。ここから戦争が始まった。


4.その鉄舟は明治天皇の扶育係りとなった

 明治天皇は15歳のときに天皇になった。明治天皇20歳、鉄舟37歳のときに鉄舟は侍従になった。明治天皇は15歳まで、宮中の奥深く女官に囲まれていた。公家なので男性でも白粉を塗っている。
天皇になられて5年経ち、当時の帝国主義ロシア、イギリス、フランスに対抗するためには、なんとかして明治天皇をそれなりの人にしなくてはならないと西郷隆盛が扶育係りに鉄舟を選んだ。明治天皇も鉄舟も大酒飲みだから、毎晩一緒に飲んだ。飲みながらどんな話をする?年上だから、経験談を話すでしょう。

 20歳のときの明治天皇は断髪してない。翌年、断髪令(1871年に発令)から3年過ぎて、断髪した。諸外国と交渉するときに写真にサインをして相手と交換する。それで急遽断髪した。
断髪前と断髪後の2枚の写真は内田九一さんという人が撮った。

 この21歳のときに撮った写真を15年使った。しかし35歳で21歳の写真を使うのは諸外国に会うときにどうだろう。伊藤博文も明治天皇に写真の撮りなおしをお願いし続けたが、明治天皇は断り続けた。
写真が取れないなら、写生をしようと考えた。しかし天皇を置いて写生をすることは恐れ多くてできない。


5.明治天皇の御真影はイタリア人画家エドアルド・キョッソーネの写生

 イタリアジェノバ、キョッソーネ美術館に日本から持ち帰った日本の古美術品がある。保存状態が凄く良く、並べ方にも愛着がある。彼は天皇が開いた晩餐会にも2回呼ばれている。

 明治天皇が皇居を出て外で食事する機会があり、天皇が食事をしている間にキョッソーネは、ふすまの陰からが写生をした。その絵を写真に撮ったものがご真影となった。

 外国の君主との写真交換の際、土方宮内大臣は、この写生によってできたご真影を(天皇に黙って作ってしまったので)おそるおそる差し出した。明治天皇は良いとも悪いとも言わず黙ってサインした。その後はこれをご真影として使った。
キョッソーネの明治天皇のご真影は、目がきりきりと輝いて、素晴らしい人物。天皇が亡くなるまでこの写真を使った。

 明治天皇21歳のときの写真とは顔が異なっている。人物が成長していると判断できる。20歳からの10年間、鉄舟が日夜教育したのだろう。鉄舟は自分が持っている哲学をしゃべった。では鉄舟の哲学はなんだったか。


6.鉄舟が基礎力育成の系譜
①「修身二十則」・・・十五歳

 ある日突然「修身二十則」を書くことはできない。過去、両親や友人などから学んだことをメモしておいて、沢山書いたメモの中から二十則を選んだのだろう。記録しておかないと急には書けない。


②「心胆錬磨之事」・・・二十三歳
(しんたんれんまのこと)

 鉄舟は32歳のときに駿府に行ったが、そのときに出てきた「臨機応変」に対応するという考え方は、23歳のときに書いている。

 23歳から24歳のときに②~⑤の4つを書いている。この2年間に鉄舟の基礎的哲学は完成したと思う。この中の23歳のときにメモしていた「臨機応変」にするということが、勝海舟と会ったときに出た。頭にしっかり入っているということ。
鉄舟は以下のように言っている。
一度思いを決めて事にあたれば、猛火の熱も、氷の冷たさも、弾の雨も、白刃も気に掛からなくなってしまうものだ。しかし世間ではこういうような人間を気魂の豪気なものと言う、そしてそれを褒める、だが私はこれを本当の豪気なものと思ったことは一度もない。
やり遂げると決めたことを思った通りやった、目的持って実行した、困難があってもやり遂げた、このような人を世間は素晴らしいと褒める。しかしそれはたいしたことがないと鉄舟は言う。

 本当の豪気というのは、問題にあたるときに心を決め、大いに奮闘するようなものではない。決意する前に決意していなければ駄目だ。つまりやるかやらないかではない。問題が来るのかが判らなくても、問題が来ても来なくても、いつでも同じ状態で居ること。時と事柄に応じて、縦横に変化することをいう。どんな問題でも立ち所に解決できる、そういう人間になりなさいと。

 目的持って行動することさえもできない人がいる。目的そのものも曖昧にしている人が事に当たっても、目的がふらふらしているから、行動に厳しさはない。何が目的で人生を生きていくのか。

 目的を持っていて、目的を達成しても、それはたいしたことではない、と鉄舟は言う。どんなことが起きても臨機応変にやっていけるような肝を作っておくことが、私の目標だと書いてある。
これが真理だが、自分の熱意が足りないからできていない。これを書いたのは、時々読んで、こうならねばならないために修練として書いて日夜訓練していると。

③「宇宙と人間」・・・二十三歳

 『ベルダ』の編集長と話していたら、鉄舟の「宇宙と人間」を読んで、あれはヘーゲルだ!と言った。ヘーゲルは、1700年代のドイツ観念論の哲学者。絶対知を出した人で、自然、倫理、芸術、宗教、歴史、哲学など、精神医学全般にあたる論を書いた。主観と客観は対立しない、全てに自分は一体化する。万物自然と自らの精神が混在的になることを書いている。
鉄舟の「宇宙と人間」を読んだときに、そう理解している、

 鉄舟は亡くなるときの心境は、世間は我と共にあり、地上はわれとともにあり
世の中の出来事は一切自分の責任である、生きとし生けるもの自分の子供である。万物と自分が一体化した。そして人間として、思考しない。臣民として思考する。

④「修心要領」・・・二十三歳

⑤「武士道」・・・二十四歳


7.やはり出来が違う

 禅を中心にして、剣・書から境地に来た。自分に起きたこと、気がついたことをメモしておいて、積み重ねて、エッセンスを拾い出して、修身二十則、心胆練磨之事、人間と宇宙などを見直しながら修練していた。
鉄舟の本を読んでも、強くこのようなことを言っていない。

 明治天皇は酒を飲みながら、真理を持っている鉄舟から話しを聞いた。
明治天皇はどんな人物かというと記憶力が抜群だった。しかし知識人ではない。論語最高の、“剛毅朴訥仁に近し”という人物で、意志が強固で、飾り気がなく、口数の少ない人物で、人として徳である仁を持った人。最高のご君主に近い人になった。20歳~30歳の重要な多感な時期に明治天皇は鉄舟に出会えた。

 鉄舟は、自らメモして、経験を整理し、理論として消化していた。それは鉄舟を研究していくとわかってくる。

 全国大会のときに松岡正剛さんについて話をする。鉄舟が始めて「武士道」という言葉を作ったという記述があった。鉄太郎23歳の安政時代に、彼は「武士道」と名づけていた。鉄舟は、哲学者だと思いませんか?
駿府の会談で成功するには、西郷隆盛を納得させるには人間の基礎的思惟基礎的がある

来月の全国大会にも参加してください。

【事務局の感想】
江戸時代、明治の一廉のじん物であれば精神を鍛えて直観力もすぐれているものとはおもいますが、鉄舟は若いときからの鍛え方が違っていたことがわかりました。
 鉄舟が初めて「武士道」という言葉を作ったのだということを聞いて、驚きました。武士道がこれほど人気になっていながら、だれもそのことについては言っていませんので、山本さんの研究に感謝いたします。これからも、鉄舟研究は面白くなりそうですね。


アメリカの所得階層は以下の四区分

1.特権階級

①400世帯前後いるとされている純資産10億ドル(1200億円)以上の超金持ち
②5000世帯強と推測される純資産1億ドル(120億円)以上の金持ち

2.プロフッショナル層

①純資産1千万ドル(12億円)以上の富裕層
②純資産200万ドル(24,000万円)以上で、且つ年間所得20万ドル(2400万円)以上のアッパーミドル層
③この層は高級を稼ぎ出すための、高度な専門的スキルやノウハウ、メンタリティを持っている。

以上の想定500万世帯前後は、全米11,000万世帯の5%であるが、ここに全米の富の60%が集中している。経済的に安心して暮らしていけるのは、この5%の金持ちだけだ。

3.貧困層

①ここで疑問をもつのは、かつての中産階級はどこに行ったかである。
②アメリカの中産階級は70年代以降、国力が相対的に低下する過程で、徐々に二分されてきた。
③一部は高度な専門的スキルやノウハウを磨いて「プロフッショナル層」へステップアップした。しかし、大半は「貧困層」に移ってしまった。
④理由は製造業の衰退で、レイオフされステップアップできなかった層である。マイケル・ムーア監督映画「ロジャー&ミー」にあるとおり。

4.落ちこぼれ層

①四人家族で年間世帯所得23,100ドル(280万円)以下。
②スラムや南部諸州に集中している黒人やヒスパニック、インディアン。
③海外からの難民と密入国した違法移民。
④この層が全人口の25%から30%占めている。

以上の出典は「超格差社会 アメリカの真実」小林由美著 日経BP社 

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11月例会記録(1)

■ 金子 マサ氏

ニューヨークのぬりえ展報告
―ニューヨークは「ぬりえ」である―

開催期間:
9月25日(月)~29日(土)日系人会
9月28日(木)~10月11日(水)紀伊國屋書店
10月3日(火)~10月21日(土)大西ギャラリー

1.海外にもぬりえがあるの?

 ぬりえは日本独特のものと思っていて驚かれる。海外でもぬりえは自国独自のものだと思っているが、ぬりえは世界中にある。
友人・知人が海外に行かれたときに、ぬりえを買ってくださるので、美術館には現在世界22カ国のぬりえが所蔵されている。自国でぬりえを出版している国や、カンボジアなど内戦から10年しか経っていないような国は輸入品のぬりえで子供たちは遊んでいる。

2.何故海外で展覧会を開催するのか?

 ぬりえは昔からあるものですが、子供のする遊びとして研究されていなかった。
きいちが伯父ということもあり、ぬりえが頭にあって、ぬりえ美術館を作った。
ぬりえは、ファインアート、挿絵、絵本、の下という位置付けになっている。ぬりえを文化にしたいと、美術館開館3周年は『ぬりえ文化』を出版した。調べていると、ぬりえの中で、すごく美しく、文化的で、芸術的なのは、(伯父だから、というのではなく)きいち以外にはないということがわかった。「世界で一番美しく、文化的なぬりえはきいちです」と紹介してきた。
 海外の出版社を取材しても、ぬりえは日本と同じ扱いで、絵本部門、ぬりえ部門もある場合、絵本の方が価値の高い扱い。ぬりえの文化的な背景は海外でもない。
ぬりえを文化にするために活動しているので、本を出して、次にぬりえを海外に紹介して交流していきたい、と思いNYで展覧会を行った。

3.何故ニューヨークなのか?

 今のアメリカは、政治と経済、実は芸術分野においても世界の中心。千住博によると、NYは、”center for the arts”といい、世界中の美術館のディレクターや関係者が頻繁に絵を見るために全世界から集まってくるところ。日本は残念ながら、世界で流行っているものの影響を受けている状態だが、NYは発信する場所」と言っている。そのようなNYに来る世界の目の肥えた方たちに見ていただきたかった。
 出張で訪問した1980年のNYでは、ギャラリーの中心はSOHOだった。今はファッショナブルな町になり、レストラン、ブテック、シャネルもできた。観光地になってしまった。
以前は倉庫だったSOHOは価格が上がり、若い芸術家は住めなくなってくる。ギャラリーも若い人を応援するために高いところではやっていけない。そのため今はギャラリーの中心は、チェルシーという街に移った。ギャラリーは路面店ではなく、ビルの一部屋一部屋に入っていて、ギャラリーめぐりをする人が沢山いる。
 元々チェルシーは19世紀には高級住宅街だったので、レンガ造りの素敵な建物がある。芸術家が移り住むとNYでは新しい街が出来ると言われて、アートが街作りをするのがNYである。今、チェルシーは文化人、芸術家が住む町になっている。

 そのチェルシー26丁目にある大西ギャラリーという場所で展覧会を開催した。イタリア人と結婚している日本人女性が経営しているギャラリーで、イタリアと日本のアートを積極的に紹介している。去年の12月にOPENした新鋭のギャラリーで、壁も白、床も白いタイルのモダンなギャラリーである。
 ぬりえの展示は、美術館では1枚ずつ額に入れているが、NYでは、赤いフレームの中にぬりえを8枚入れて15台展示した。
1枚1枚のぬりえは小さいので、大きな旗(幅40センチ×2メートル)を3本作り、人目につくようにした。ぬりえの女の子を等身大サイズにしたパネルも展示し、アピールした。

3.きいちのぬりえの反響・評価
 
 バナーやお人形に加工した女の子は、袋ぬりえの表紙を使った。現代の日本の東京にもないし、ましてNYにもあのような色合いがない。その色合いを使って旗をつくったので、入ってきた方は目を奪われて、それから1枚1枚白黒の絵をみてくださった。これは最初から意図して仕掛けた。
アウトスタンディングと言い、カラフルさに目を奪われていた。

 ぬりえに目をやると、ぬりえ1枚1枚が、しっかり構築されている、手が込んでいる。手描きであることはアメリカの小学生もわかっていた。きいちでなければ描けない少女の可愛さ、ぬりえの繊細さ、デザイン性、また、オリジナリティーが評価された。
「一人の人が描いているの?」という驚きの声もあった。

 オープニングパーティは、約180名ご参加いただき、にぎやかにスタートできた。
企業人のときには、NYの支社があり、頼るところがあった。今回は本当に一人であったので、ツアーで鉄舟の方や、後輩の知り合い、同級生のお嬢さんなどがNYにいらしてくださったのは大変心強く、嬉しかった。

 オープニングパーティのときに共同通信の記者が日本人用、英文用と二人で来てくれ、NYでのきいちのぬりえ展の記事が日本の地方紙やジャパンタイムズに紹介された。
その『ジャパンタイムス』の中から紹介する。
「きいちのぬりえの可愛さを認め、きいちの芸術性とディティールに感銘を受けていた」と全体的な印象を書いている。子供のイラストを書いているプロの方のインタビューでは、「全ての顔が同じポジションなのは珍しい、きいちが描いたように単純な子供の愛らしさやデリケートな部分をとらえるのはすごく難しい」ときいちの才能を認めてくれた。「アメリカのぬりえと比較してずっと繊細でこちらの方をぬりたいわ」というアメリカの子供たちの意見も掲載された。

 また”インタレスティング!“(面白い)という感想もあり、この感想を3つに分類した。
①一つは、子供向けの展示物として非常に面白い、という感想で、教育者、子供関係の方に言われた。
②グラフィック、芸術の方は、デザイン性で面白いと評価。
③一般的な面白いという意味で”インタレスティング!“と言っていた。

 ギャラリーにずっと居て、日本と違うと思ったのは、ぬりえ美術館ではお客様はほとんど女性だが、NYのギャラリーめぐりをしている方は、子育て世代は時間が厳しいので、少ないだが、若い人と50代以上の方、中でも男性が非常に多い。ギャラリーカタログ見ながら、通りすがりに入ってきてくれて、男性も評価してくれた。それは今後の展覧会の自信となった。

 親友がジャカルタに居るが、共同通信の記事がジャカルタにまで届いていた。
たまたまジャカルタに友人がいたから届いたのであって、もしかしたら、他の地区にこの記事がいって、他の国でも読まれているかもしれない。
他にもフリーペーパー『週刊NY生活』には大きく取り上げられた。展覧会のDMを持って、こういうことのためにNYに来たとDMを見せると、邦人の方は“見てました、知ってます”とほとんど知っていた。


4. 日本的なものが人気

 NYに35日間の長い間、NYを縦横してみている。すごい日本ブーム。アニメ・マンガは日本の紀伊國屋だけじゃなくて、大きなチェーン店の本屋にも売られている。「マンガ」、「アニメ」という日本語が一般化。和食は高級てんぷら、すき焼き、寿司から、牛丼、ラーメン、焼き鳥屋、居酒屋の大衆的なものになり、日本酒もブームになっている。

 今回は居酒屋や日本酒を売っているお店に行った。1980年代にNYに行っていたときは、和食店は駐在員相手のお店だったが、今はその土地の人を相手にしている。
外人も日本人もいっぱい飲み食いしている。名前も面白くて、「ケンカ」、「ビレッジ横丁」とか面白い名前がついていた。
居酒屋の流行の理由を考えてみると、アメリカでは、お酒はパブで立ち飲みして、食事は、レストランでする。日本の居酒屋はお酒も飲めて、食事もできる。そういう業態がアメリカにはなかったからではないか。また価格もすごく安い。ナイアガラの滝の観光の帰りに居酒屋に立ち寄ったが1人2000~3000円で食べられる。

 なぜ和食や日本が流行っているかというと、日本人のおもてなしの気持ち、良い商品を作ろうという考え、それが流行らせているのではないか。
初めて日本料理の居酒屋にいったアメリカ人の知人は、グレートサービス!あんなサービスを受けたことがない!と狂喜乱舞していたという。私から見たら、ちょっとだけ良いくらいのサービスであった。しかしアメリカでこの程度のサービスを受けるには1万円くらい必要。サービスの現場で私たちと触れ合うのはマイナリティー人が多いので、サービスが良いとは言えない。気持ちの良いサービスが居酒屋レベルで受けられることに驚いている。

 ユニクロがNYにも出展した。GAPとユニクロを比較するとユニクロの方が、縫製、デザイン性、品質が良く値段も安いとアメリカでは評価されている。よりよいものを作って、値段も安くしている。
日本文化の背景を考えると、ぬりえは子供の遊びであり、塗って捨てられてしまうようなものだが、そのようなものにも手を抜かずに描いている。その日本人の気持ちが伝わってギャラリーに来た方に感銘を受けさせているのではないか。

 このような状況を考えるとき、これからも日本的なものが流行り、まだまだ広がると思う。
外国は規制を与えるかもしれないが、日本人ならそれをクリアしていくのではないか。

5. ニューヨークはぬりえである

 NYは縦に、アベニュー(街)、横にストリート(通り)で構成され、アッパータウン、ミッドタウン、ダウンタウンと分かれている。東西南北でそれぞれエリアの顔が違う。
アメリカは人口が10月17日で、3億人となり、中国・インドの次に多い。それは移民が多いからで、11秒に1人、人口が増えている。そのアメリカの中で大都市NYは、移民を含めて様々な人が集まっている。短期、長期に仕事をする人、学ぶ人、観光など。それぞれの人は、それぞれの思いを持ってやって来ている。
 そのNYを考えると、NYの街は「ぬりえの下絵」だと思った。それぞれの思いによって、NYの色が変わる。それぞれの人によって、夢や志によって、さまざまな色に塗られるNYは「ぬりえ」ではないか。
「NY=ぬりえ」そのような場所で海外初のぬりえ展を開催出来たのは成功だった。
来年はドイツ、2008年10月はパリでの展覧会を予定しているので、1歩ずつ積み重ねていきたい。

6.ぬりえの未来

 ぬりえコンテスト・・・子ども、大人
 国際ぬりえシンポジウム

 今年の8月にJOMOが全国ぬりえコンテストをした。対象者は子供だが、非常に活発だった。
12月に『ぬりえの心理』という本が出る。『ぬりえ文化』は専門書だが、今度はもっと読みやすいエッセイ風になっているので、楽しみにしてほしい。外国の図書館にも置いていただきたいので、英文にする予定。
 来年の7月には「国際ぬりえシンポジウム」が開催される。脳を研究する方たちが集まって、講演会、ぬりえ大会も計画している。シンポジウムに向けて、07年6月には「検証大人のぬりえ」を出す計画でいる。
さらに08年には「ぬりえを旅する」として、海外のぬりえ事情を発表していきたい。特に大人のぬりえについては日本が先端。
 今日本で人気の「大人のぬりえ」ブーは、世界中に広がるのではないかと予測している。ぬりえを文化にという旅は各方面に広がっている。

今後ともご支援宜しくお願い致します。
          

【感想】(例会参加者・田中達也)

金子さんの発表はニューヨークでのぬりえ展の成功への喜びと自信に満ちあふれたものでした。
1カ月以上に及ぶニューヨークでの生活で得た情報、その中で日本のぬりえはニューヨークの方々に高い評価を受けたこと、また日本の文化が様々な形でニューヨークの人々の生活の中に浸透していることなど、大変興味深いお話でした。
世界中で日本が評価されているということの実態を紹介していただき、ホントに日本は世界で流行っているんだなぁという実感を持つことができました。
日本のぬりえはさらに広がり、来年はヨーロッパに紹介されるとのこと。これからがますます楽しみですね。ご活躍、期待しています。

投稿者 staff : 13:59 | コメント (0)

2006年11月20日

11月例会にて、NYのぬりえ展を報告する


9月末から10月末までNYでぬりえ展を開催して、例会は2ヶ月留守にいたしました。
久しぶりに例会にでて、皆様の元気な顔をみて、ホッといたしました。
1ヶ月にわたるぬりえ展の成果を報告させていただきました。お蔭さまで、大変好評でした。今後の世界展開に向けて、さらに頑張る所存です。


山本さんは、鉄舟がいかに普通の人間とは出来が違うかを今回発表されましたが、金子のNYの話にからんで、現在のアメリカが諸外国からどのように思われているのか、アメリカの階級について言及されました。

投稿者 Master : 20:51 | コメント (0)

2006年11月07日

西郷の人物判断基準

西郷の人物判断基準
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

慶応4年(1868)3月10日、鉄舟は駿府における西郷との会談結果を持って江戸に戻った。その時の状況を鉄舟が「西郷氏と応接之記」で次のように記している。
「益満と共に馬上談じ、急ぎ江戸城に帰り、即大総督宮より御下げの五ヶ条、西郷氏と約せし云々を詳に参政大久保一翁軍事総裁勝安房に示す。両氏其他の重臣等、官軍と徳川との間事情貫徹せし事を喜べり。旧主徳川慶喜の欣喜、言語を以て言ふ可からず」

益満休之助と共に江戸に戻った鉄舟は、江戸城で大久保と海舟に報告し、すぐに上野寛永寺大慈院一室に謹慎・蟄居している慶喜にも報告した。慶喜の喜びは鉄舟が書き記したように「言葉に表せない程」であった。慶喜が恭順の姿勢を示した謹慎・蟄居、その真意がようやく官軍に伝わったのである。早速に江戸市中に高札を立てて布告した。その大意は「大総督府下参謀西郷吉之助殿へ応接がすんで、恭順謹慎の実効が相立つ上は、寛典の御処分になることになったから、市中一同動揺することなく、家業にいそしむように」であり、この高札によって江戸市民はようやく一安心できたのであった。

この鉄舟の偉業について、海舟はその日記で次のように称えている。
「山岡氏帰東。駿府にて西郷氏へ面談。君上の御意を達し、かつ総督府の御内書、御処置の箇条書を乞ふて帰れり。嗚呼山岡氏沈勇にして、その識高く、よく君上の英意を演説して残すところなし、いよいよもって敬服に堪へたり」(海舟日記3月10日)
更にまた「山岡の帰るにあたり、西郷は大総督府陣営通行の割符を差し出し、山岡に渡し、山岡は深く厚意を謝して暇を告げ、陣営においては、営門にまで山岡を見送ることとなり、山岡は西郷に別辞を告げ、薩人益満を従え、東を指してゆうゆう江戸城に帰りきて、大総督府の宮よりご命令せられた、五ヶ条にもとづき、西郷と盟約をなした顛末を参政大久保一翁やおれらに披露した。おれはそのときの山岡こそ真の日本人と思うて今なお感謝する。そのとき幕府は、直ちにこれを高札として府中に布告した。よって人心初めて安堵の緒についた」(勝部真長編『山岡鉄舟の武士道』)と高く賞賛しているが、この賞賛した背景を考えてみる必要がある。

というのも、すでにみたように徳川側は官軍へ慶喜の恭順姿勢を伝える使者として、静寛院宮(14代家茂夫人)、天璋院(13代家定夫人)、輪王寺宮公現法親王や諸侯からの陳情・嘆願を行ったが、いずれも効果なく、和議嘆願はことごとく手詰まっていた。
そこで再び、海舟が自ら嘆願書を持って上京することを意図し、2月25日上野寛永寺大慈院一室で、慶喜謹慎後はじめてお目通りした。謹慎・蟄居している慶喜の寒々と痩せた肩が海舟の目をうち、この日のことを海舟日記に次のように記している。
「東台(注、東の台嶺すなわち東叡山寛永寺)拝趨、此日、京都へ御使被命べる旨なり。よって陸軍総裁御免を願ふ。夜に入って、諸有司申すところあり、御使の事免さる。軍事之儀取扱ふべき旨仰せ渡さる」「・・・途中省略・・・有司我が帰府を止められ、京師あるひは途中に躊躇せむ時は、ふたたびこれを解かんの術なし」
つまり、海舟の上洛を慶喜は認めたが、その後諸役が評議した結果、海舟が官軍に抑留される恐れがあり、そうなった場合海舟に代わって指揮を執りえる人物がいないことから取りやめになったのであった。
これは去る1月17日、海軍奉行並を命ぜられた海舟が、初仕事として松平慶永に「嘆願書」を出し、この書状をもって海舟が上洛する、ということを提案したときの繰り返しであった。海舟が官軍との和平工作に不可欠の人物であることは、海軍奉行並となった1月の時より更に周りから強く認識されていたが、その理由ゆえ、海舟を特使として派遣することの難しさがなお増していた。
仮に、海舟が官軍側に抑留された場合、海舟に代わりえる人物はいない。それほど海舟が徳川側にとって、かけがえのない人物となっていたことは誰にも分かっていた。何故なら、西郷という大総督府下参謀と親密な関係を持ち得ている人物、それは海舟しか徳川側にはいなかったのである。

そのようなタイミングに鉄舟が突如登場したのである。鉄舟はその時、精鋭隊頭として慶喜を守るため上野寛永寺大慈院につめていた。その鉄舟が慶喜から直接に指示を受けるという異常事態が発生したのである。鳥羽伏見の戦いに敗れ、敗軍の将となったといえども、慶喜は徳川第15代将軍である。一介の精鋭隊頭である旗本がお目通りできるはずはなく、まして直接に命を受けるということは通常考えられない。だが、鉄舟は直接に慶喜から指示を受けたのであった。
加えて、鉄舟は当然に敵将の西郷とは全く面識もなく、官軍と何の交渉ルートももちえていない。これは当たり前である。一介の旗本にすぎないのであるから。その鉄舟が何故に徳川側の運命を左右する大役の交渉人として選ばれたのか。いずれこのところを解明しなければならないが、今はそれにはふれずに西郷との会談結果について検討してみたい。検討するポイントは「どうして鉄舟は西郷との会見・交渉に成功し得たのか」である。

交渉ごととは「自らの利益は何か」を見極めることが、もっとも重要なことであると9月号で解説した。鉄舟が西郷との会談・交渉において、最終的戦略目的としたことは「慶喜の生命の安全確保」である。このことを時の首相の任にあった海舟に相談し、指示を受けるために、氷川神社裏の海舟邸を訪ね、戦略目的を定め、その達成のために薩人益満休之助という強力な随行者を得ることができたが、最終的に西郷を説得しなければならない。
一方、西郷の戦略目的は討幕の蜜勅詔書にあるように「慶喜の殄戮(てんりく●意味・殺しつくす)」である。全く相反する戦略目的を持つ西郷を方向転換させなければならない。そのための特使が鉄舟であった。
確かに駿府において発揮した、鉄舟の全身全霊から噴出した決死の気合と論説の鋭さ、それは正に武士としての絶対忠誠心を理念として昇華させた強固で真摯な抵抗精神であり、後年、真の武士道体現者と謳われた鉄舟ならではの働きであった。だがしかし、それだけで西郷が心底納得したであろうか。理屈・理論だけで西郷は納得し得たのか。疑問が残る。
慶応4年3月13日、江戸無血開城を話し合った江戸薩摩屋敷における海舟・西郷会談後、二人は愛宕山に登ったが、そのとき西郷が「命もいらず、名もいらず、金もいらず、といった始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如きでしょう」と語った。
この内容が、後年西郷の「南州翁遺訓」の中に一節として記されたのであったが、西郷は鉄舟が慶喜を救うための発する鋭い気合と論説、それを聞き、うなずきつつも別の何か、それは西郷の心情を強く打つものであったが、それを鉄舟から感じ取ったからこそ、愛宕山での賛辞の言葉となったのであった。
即ち、西郷が持つ人物評価の判断基準、人の価値を認める信条、人とはこうであらねばならないという思惟規準、それらに照らし合わせ、それに適う人物として鉄舟を認めたからこそ、西郷は「然らば徳川慶喜殿の事に於ては吉之助屹と引受取計ふ可し、先生必ず心痛する事なかれと誓約せり」(西郷氏と応接之記)となったと推察する。
一般的には五箇条のうちの「慶喜を備前に預けること」について、薩摩藩島津候と慶喜の立場を入れ替えた鉄舟の説得論理によって、西郷が納得したといわれているが、そのような論理力だけでは、真のところで西郷は動かされなかったと思う。西郷という人物は特別で、別の判断基準が存在した。

西郷の人物判定観とは、どのようなものであったのであろうか。
西郷の人生で島暮らしが二度ある。大島と徳之島である。最初の大島のときは僧月照と入水自殺した責任をとって大島に流された。徳之島のときは島津久光の逆鱗にふれ配流されたのであったが、この経緯を説明し始めると主題の鉄舟にたどりつかないので、いずれの機会にしたい。
大島での西郷は読書のかたわら、山に猟銃に行ったり、海に漁に行ったりして日を送ったが、ある時頼まれ島民の子を教育することになった。この頃の西郷の教育ぶりとして、島に伝承されている話がある。ある日、西郷は子どもらに聞いた。
「一家が仲よく暮らせる方法は何じゃと思うか。皆、よく考えて、言うてみよ」子どもらはそれぞれ意見を述べたが「もっと身近なところにあるはずじゃ。さあ、何だ」と西郷が訊ねる。子どもらは更に考えたが、分からないという。西郷が言った。
「欲を忘れることだ。ここに一つの菓子があるとせよ。たいへんおいしい菓子だ。皆食べたい。そこを、皆ががまんして、兄は弟にゆずり、弟は兄にゆずり、子は父母にゆずり、父母は祖父母にゆずるというように、皆が欲を忘れてゆずれば、一家は必ず仲よくなる」
西郷の教育のやり方は、こんな風であったが、この欲を忘れるということは、西郷が生涯の目標にしたことであり、これが前述の「南州翁遺訓」に残されている内容であった。

鉄舟が、駿府松崎屋源兵衛宅に慶喜の使者として現れ、交渉条件として西郷が示した五箇条のうち、「慶喜の生命の安全確保」に絞って「備前に預けること」の変更を断固として交渉する鉄舟、そこに徳川主家に対する「赤誠」、その「赤誠」に西郷は自分のもつ価値観を重ね合わせたのではないかと思う。
西郷が生涯の目標とした「欲を忘れる」ということ、そのことを徳川の一家臣として「命も、名も、金も」すべてを捨て去って、慶喜に対する「赤誠」のみを持って迫り訴えかけてくる姿、そこに西郷は自ら生涯目標とした理想の体現者として、鉄舟を理解し受け入れたのであろう。そうでなければ、いくら全身全霊から噴出した決死の気合と論説の鋭さがあっても、大総督府下参謀の立場ではあったが、すべての権限を握っているわけではない西郷が敵将慶喜の身柄を「吉之助屹と引受取計ふ可し」と断言し、戦略転換することはなかったであろう。
人は自らの価値観と同じ人物を認めるものである。特に西郷は生涯を通じて求道者的側面が強く、剣・禅・書で鍛えあげた特別の人物である鉄舟の見事な人柄に、心から感心し「ほれた」のであった。これが駿府会談・交渉の真の成功要因であったと思う。
 したがって、鉄舟が西郷に会い、そこで鉄舟の人物像を西郷が正しく理解さえすれば、徳川側の戦略目的は達成したと考えられる。とするならば、鉄舟が江戸から駿府にたどり着くことこそが、江戸無血開城のために最大にして最高の条件整備であったと考えられる。
しかしながら、江戸から駿府までの行程が、鉄舟の記した「西郷氏と応接之記」にあるように、通行を邪魔されることなくたどり着くことが出来たのであろうか。戦時下であるから、常識的には様々な危険・問題があっと想像する方が妥当であろう。
これを唱えるのが、前号で紹介した「誰も書かなかった清水次郎長」(江崎淳著)で「益満休之助、断じて駿府に来らず」と書き、その説をなしていた人物として静岡市に居住し、鉄舟の子息の山岡直紀氏の書生をしていた、日本画家の大石隆正氏をあげ、箱根の関所までは益満が一緒だったが、その後忽然と益満は消えたと主張し、駿府における西郷との会見・交渉にも益満はいなかったという。

 では、どうやって駿府にたどりついたのか。それを明らかにする一つの秘話がある。その秘話を語るのは、静岡県庵原郡由比町西倉沢「藤屋・望嶽亭」の松永家23代当主、故松永宝蔵氏の夫人である松永さだよ氏である。藤屋・望嶽亭に代々口承伝承されてきた内容、それは慶応4年3月7日深夜、藤屋・望嶽亭の玄関の戸を密かに叩く一人の侍がいた、ということから始まる。
 従来、この望嶽亭についてはあまり信憑性を持たれなかった。しかし、山岡鉄舟研究を長年続けておられる、地元静岡市清水在住の若杉昌敬氏が、松永さだよ氏の語る内容を多角度から分析・検討し「危機を救った藤屋・望嶽亭」を書き表し、この中で望嶽亭説の妥当性を力説している。次号は、松永さだよ氏にインタビューした結果を紹介したい。

投稿者 Master : 10:27 | コメント (0)