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2009年09月23日

高山市郷土館・田中彰氏の講演

初秋の候、皆さまお元気でお過ごしでしょうか。

飛騨高山で行いました、「鉄舟法要と記念講演会」にて、地元・高山のお世話役として多大なるご協力を賜りました、高山市郷土館の田中 彰様が、東京にてご講演をされると聞き及びましたので、ご紹介いたします。

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(高山・鉄舟法要会でのご講演風景)

街道文化講座 第四回『千代田塾』
「飛騨高山に残る江戸の面影」-街道、山王祭り、江戸旗本の学問文化-

まちみらい千代田と、千代田区、全国街道交流会議との共催による街道文化講座『千代田塾』。
第四回は、岐阜県高山市の協力による「飛騨高山に残る江戸の面影」。高山市郷土館の田中彰氏を講師にお迎えして、高山祭の江戸型屋台や江戸街道など、徳川幕府の直轄地であった飛騨高山の各所に残る江戸の歴史風情や江戸の学問・文化との関わりについてお話しいただきます。
10月26日は、11時より千代田区役所ロビーにおいて高山市による『街道交流広場』が設けられ、飛騨高山の特産品の販売や観光PR(パンフレット配布等)などが行われます。
日 時 平成21年10月26日(月)18:30~20:00
場 所 千代田区役所1階 区民ホール(東京都千代田区九段南1-2-1)
定 員 150名(申込順)
参加費 無料
申込締切 10月15日(月)
主 催 千代田区、まちみらい千代田、NPO法人全国街道交流会議
共 催 高山市、街道交流首長会
後 援 千代田区観光協会、国土交通省、文化庁、観光庁、全国市長会、他

詳細は下記のホームページをご覧ください。
>>> 千代田区ホームページへリンク
※本会ではお問い合せ・お申し込み等承っておりません。
 直接千代田区様へお問い合せ・お申し込みください。

投稿者 lefthand : 14:28 | コメント (0)

2009年09月20日

2009年9月例会ご報告 その2

山岡鉄舟研究会 例会報告 その2
2009年9月16日(水)
「本格的な参禅へ」
山岡鉄舟研究会会長/山岡鉄舟研究家 山本紀久雄氏

山本氏の発表は、「本格的な参禅へ」と題し、鉄舟が剣の修行に加え、禅を本格的に学び始めたことについての発表でした。

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鉄舟は浅利又七郎との立ち会いに敗れ、精神面を鍛えることの重要性を痛感しました。
鉄舟の参禅はそこから始まるわけですが、このことが、後の江戸城無血開城を成し遂げた鉄舟の人間力醸成へとつながったのです。

しかし、山本氏はひとつの疑問をここで呈します。
人間力だけで、一介の下級旗本であった鉄舟が、突如として蟄居謹慎している将軍慶喜に謁見し、西郷との談判を一任されるものでしょうか。
この点について、山本氏はかねてより疑問を抱いていたそうです。しかし、解決へのヒントとなる史料が出てこなかったため、今後の課題としておいたのです。
が、ここへきてその解決の糸口となるかもしれない史料を発見されたのです。
それを今回、私たちに紹介されました。
その史料とは、仙台藩士・小野清の『徳川制度史料』です。

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山本紀久雄氏(左)/発表風景

従来、将軍慶喜が上野寛永寺にて蟄居謹慎し朝廷に恭順の意を示していたが容れられず、万策果てたところへ突如として山岡鉄舟がその交渉人として抜擢されたようになっています。しかし、ここの部分がどうにも不自然で腑に落ちなかったと、山本氏は語ります。高橋泥舟が鉄舟を推薦したとき、慶喜は鉄舟をすでに知っており、あの男なら任せてもよいと判断したと考える方が自然です。
慶喜と鉄舟は事前に接点がなかったのでしょうか。

仙台藩士・小野清著『徳川制度史料』から引用します。
「…正月十二日巳の刻頃、八代洲河岸林大学頭の楊溝塾を出て、芝口仙台藩邸に行く。幸橋門に至れば、武家六騎門内に入り来る。
 近寄りて見れば、その先駆者は知り合いの山岡鉄太郎なり。これに継ぐところの五騎は、いずれも裏金陣笠、錦の筒袖、小袴の服装なり。とりわけ、その第二騎の金梨子地鞘(きんなしじざや)、金紋拵(きんもんこしらえ)の太刀を佩(は)きたる風貌、目送これを久しうす。
 後に知る。これ、徳川慶喜公。六日夜大坂天保山沖にて開陽艦に乗じて東帰し、遠州灘にて台風にあい、黒潮付近まで航して今暁浜館に上陸し、今、鉄太郎に迎えられて江戸城に還入するものなるを。
 しかしてその六騎なる者、曰く、先駆・出迎者山岡鉄太郎、これに継ぐところの五騎の第一、前京都守護職会津藩主松平肥後守容保。第二、前大将軍徳川内大臣慶喜公。第三、前所司代桑名藩主松平越中守定敬。第四、老中松山藩主板倉伊賀守勝静。第五、老中唐津藩主小笠原壱岐守長行なり。勝安房守義邦は、鉄太郎浜館に先発せしのち、西丸大手門外下乗橋に出て、ここに公一行を迎うという…」

将軍慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れ、早々に江戸に引き揚げてきたとき、鉄舟が先頭となって護衛を務めたというのです。これが事実だとすれば、慶喜は鉄舟と事前に会っていたということになります。

もうひとつ、資料をご紹介します。
東京日日新聞が、戊辰戦争から60年経った昭和3年に『戊申物語』と題した連載を掲載しました。これは明治維新の動乱を経験した高村光雲たちからの聞き書きをもとに、当時の庶民感情などを紹介したものです。

東京日日新聞編『戊申物語』から引用します。
「…海上遠州灘でひどい暴風に遭って苦しみつつ、十一日開陽丸は浦賀へ入った。翌日将軍は金子二百両を出して小舟を雇い、これで浜御殿へ入り、ここで一先ず休憩。その日は青空ではあったがひどく寒い。将軍家は直ちに馬上江戸城へ向かった。勝安房守が御殿まで、次いで山岡鉄太郎が馬を飛ばして出迎えた。丁度巳の刻頃、つまり今の午前十時、立派な武士が六騎肥馬をつらねて芝口近く幸橋門へかかった。劈頭(へきとう)、駒の轡をしめて眼光炯々四辺をにらめ廻しつつ来るのが山岡鉄太郎。ついで第二騎、少しおくれて第三騎、錦の筒袖に、たっつけの袴、裏金の陣笠をかむり金梨地鞘に金紋拵えの太刀をはき、風貌おだやかな武家、また少しおくれて第四騎、第五騎、六騎とも実に立派なる武士ばかりであった。
…いずれも京都を落ち、淋しく江戸入りの人々であった。勝安房守はこの時はじめて伏見鳥羽の戦報を聞いた。なお詳細の説明を願ったが、すべて顔色土の如く、ただわずかに板倉伊賀守のみが、ぽつりぽつりとそれを語り得るにすぎなかった(目撃者、旧仙台藩士小野清翁)」

出所は同じ仙台藩士・小野清ですが、新聞連載の記事だけに当時は割と有名な出来事であったのではないかと思われます。

『徳川制度史料』の中で、小野清は、鉄舟と知り合いであったと書かれています。
これについても、『戊申物語』に記述があります。

その部分を引用します。
「…あさり河岸の桃井(もものい)道場士学館の先生は、春蔵直一の長男で、家芸の鏡新明知流(きょうしんめいちりゅう)よりは小野派の一刀流をよく使った(小野翁談)。左右八郎直雄(そうはちろうただお)、三十そこそこで丈六尺二寸の壮漢、講武所にも師範して元気のはち切れそうな剣客だった。この門人の上田右馬之允(うえだうまのすけ)というものがこの松田(注:料理屋)へ、よその子供をつれてある時御飯をたべに行った。何しろ一ぱいのお客、子供がうっかりして四人づれの武士の刀をちょっと蹴りつけた。飯を食って戻ろうとした四人づれが右馬之允の羽織の襟をつかんで「真剣勝負をしろ」といってきかない。先ほどからわび抜いていたところなので、右馬之允は相手にもせず、子供の手を引いて笑いながら大きなはしご段を下りて一足かけると「ヤッ!」といって四人一斉に鋭く斬り下ろした。ところが、右馬之允はよほど出来ていたと見えて、「ウム!」といって足を段にかけたまま斜めに振り返ると真先の一人を居合で払った。その武士は深胴をやられて梯子段をころがり落ちて死に、上田は血しぶきで真紅になった。
 残る三人は、子供をかばいながらまたたく間に斬り伏せてしまったが、息一つはずませてはいなかったということで、この人の帰る時は、松田の前は山のような人だかりであった。この斬り合いの様子をきいて、山岡鉄太郎なども門人を集めて、からだを斜めにして不利な立場にあり、斬り下ろされる瞬間にこれを払う型を教えたりして感心した(鉄舟長女、山岡松子刀自談)。同じく左右八郎の門弟だった小野清翁はこの「上田」を「細川」と記憶しているといっている」

つまり、小野清は鉄舟と同じく、小野派一刀流の門人だったということです。同じ道場に通っていた剣の仲間だったということでしょう。

これらのことから、慶喜は鉄舟とすでに面識があり、西郷との談判に鉄舟が推薦されたとき、慶喜の頭の中に鉄舟が具体的に思い描かれたため、素直に受け容れたのではないでしょうか。
史料の裏付けも含め、山本氏の今後の研究が楽しみです。

*****

次回は、10月21日(水)18:00〜 東京文化会館・中会議室1にて行います。
たくさんのご参加、お待ちしています。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 15:22 | コメント (0)

2009年9月例会ご報告 その1

山岡鉄舟研究会 例会報告 その1
2009年9月16日(水)
「おもしろ漢字講座」
水野靖夫氏

9月の例会が行われましたのでご報告します。
今回は、メンバーの水野靖夫氏に、「おもしろ漢字講座」と題し、漢字の成り立ちについてご発表いただきました。

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日本語は、漢字から成り立っています。
私たちが現在使う、ひらがなやカタカナも漢字を起源としています。
その漢字の成り立ちについて、いろいろ教えていただきました。

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水野靖夫氏(左)/発表風景

例えば、「羊羹(ようかん)」という漢字があります。
難しい字です。読めるけど書けない漢字の代表といえるでしょう。
これを、漢字の成り立ちから理解していくと、書けるようになるかもしれませんね。
羊羹というのは、現代の私たちは和菓子を思い浮かべますが、もともとの意味は「ひつじのスープ」という意味で、モンゴル地方を語源とすることばなのだそうです。
羊羹の「羊」は文字通りひつじですが、「羹」を分解してみると、「羔」と「美」に分けることができます。
この「羔」はこひつじの意で、「美」はおおきなひつじの意味になるそうです。その昔、モンゴルでは宗教的儀式の際、ひつじを生け贄に捧げていたそうです。そのとき、やせ細った老羊では神様のお怒りに触れるでしょうから、まるまる太った若い羊を生け贄に差し出しました。ですから、「羊」に「大」と書くと、「美」=うつくしいという意味になったのだそうです。そして、ちいさなひつじもおおきなひつじもスープにして食べることから、「羊羹」という漢字は、大小さまざまな羊が集まってできているということになるのだそうです。なるほど。
ちなみに、漢字の一部に「羊」が使われている漢字は、「美」「善」など、よい意味に使われるものばかりなのだそうです。
私事で恐縮ですが、私の名前の一字「達」にも羊が入っています。発達するなど、よい意味に使われているというわけです。名前に縁起のいい字が入っていると、ちょっと嬉しくなりますね。

他にもいろいろな漢字の成り立ちや、漢字の部品からなるバリエーションを教えていただきました。
このようにして漢字を覚えると、とても覚えやすいのではないかと思いました。
そして、このような指導の仕方が、今日の学校教育に必要なのではないか、水野氏はそう語りました。まさにその通りと思います。学校で習う漢字は、画数などによる難易度で習う学年が決まっているのだそうです。そして、何より問題は、漢字の成り立ちを教えず、丸暗記させていることです。しかし、水野氏から教えていただいたように、漢字の成り立ちから理解していくと、少々難しい漢字でも、成り立ちが同じ漢字はいっぺんに覚えられるような気がしますが、いかがでしょうかね。

漢字は、一文字でいろいろな意味や読みを表現できる世界でもユニークな文字だと思います。漢字のおかげで、日本語はとても豊かな文章表現ができるのではないでしょうか。日本人に生まれてよかったなぁと感じた、水野氏のお話でした。
水野靖夫さん、ありがとうございました。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 15:18 | コメント (0)

2009年09月18日

鉄舟を訪ねる旅 〜下呂

鉄舟にゆかりのある人物や場所などどこへでも馳せ参ずる我々鉄舟会。
今回は、下呂に鉄舟と親交のあった人物があると聞き及び早速向かいました。

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下呂市は、岐阜県・飛騨地方の南部に位置し、「日本三名湯」の誉れ高き温泉地です。前夜遅く下呂駅に着いたため、街の様子がさっぱり分からなかったので、翌朝、付近を少し散策してみました。

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下呂駅付近

駅から線路をくぐり、温泉街へ。
そこは、大きな旅館が建ち並ぶ一大旅館群の密集地でした。
温泉街は、下呂駅至近の旅館「水明館」を中心とした集落と、飛騨川を挟んだ川向こうにも大きな旅館やホテルが林立し、温泉街の大規模さに驚きました。
飛騨川の河川敷に露天風呂があることを知っていたので、それを探しに散策しました。ありました。綺麗に整備されている河川敷のかたわらに、ちょこんと小さな露天風呂が…。あまり情緒というものが感じられない、小綺麗なお風呂でした。しかも、入浴は「水着着用のこと」。水着持ってませんでした。がっかり。

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下呂の温泉街(左)、河原の露天風呂(右)

温泉について少しお話ししておきましょう。
私が入ったホテルの温泉の泉質は、「アルカリ単純泉」とありました。
お湯は透明で、アルカリのPHが高いらしく、湯につかると肌がヌルヌル、というかスベスベ、といった感覚で、なかなか気持ちよかったです。

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目的の場所は下呂でしたが、温泉ではありません。鉄舟です。
JR高山線で下呂駅から2つ名古屋寄りの「飛騨金山」に向かいます。
ここは平成の大合併で平成16年に下呂市になりました。それまでは金山町でした。
金山は、飛騨と美濃の境に位置する小さな町です。
飛騨金山駅に降り立つと、緑深き山々が我々を迎えてくれます。とても空気が澄んでいて気持ちいい。山々の呼吸が鮮やかな緑と心地よい風を我々に届けてくれています。これが日本なんだなあとしみじみ感じました。

なぜ我々はこの飛騨の山中に降り立ったのか。
幕末から明治にかけ活躍した、加藤素毛(かとうそもう)という人物がいます。
彼は、日米修好通商条約の批准に向かった使節団のひとりです。この地では、「日本初の世界一周をした人物」として、地元の有名人のひとりに数えられています。その使節団に加わるのに、山岡鉄舟が尽力した、というのです。
金山には、「加藤素毛記念館」という建物があります。加藤素毛の業績をたたえ、様々な資料を展示しているとのことでしたので、鉄舟に関する資料があるのでは…と期待し、訪れたというわけです。

加藤素毛記念館は、加藤素毛の生家を補修したものでした。
開館は毎月1、15日。狭き門です。
到着すると、中島清館長が迎えてくださり、さっそく中で説明を拝聴しました。

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加藤素毛記念館(左)、中島館長(右)

加藤素毛は、1825年、地元の名主の次男として生まれました。名字帯刀を許された裕福な名主の息子だったわけです。
素毛が23歳のとき、高山の飛騨郡代・小野朝右衛門高福(たかよし)の公用人になりました。このとき、鉄舟との出会いがあったようです。素毛と鉄舟は、国学を高山の地役人・山崎弘泰から、その子弓雄から和歌をともに学んだそうです。鉄舟との親交はここに始まり、生涯続いたのだそうです。ちなみに素毛は鉄舟より11歳年上でした。
両親の死別とともに鉄舟は江戸へ帰りました。その頃素毛は九州へ吟行の旅に出ていました。長崎に長く滞在し、外国文化の影響を強く受けたといいます。
帰郷した素毛は、押し寄せる外国の脅威にいてもたってもいられず、江戸へ出ました。そして、日米修好通商条約批准書交換のための、幕府遣米使節随行員77名のひとりとして、米軍艦ポーハタン号に乗ったのです。
素毛(当時33歳)の遣米使節随行が実現した事情は、実はよく分からないのだそうです。これには、鉄舟が素毛の遣米使節随行に絶大な協力をしたと、パンフレットやインターネットでは書かれていますが、鉄舟は当時22歳。そのころの鉄舟は、山岡家に婿入りし、ひたすら剣に打ち込む一介の貧乏旗本でしたので、遣米使節という幕府の代表ともいうべき重要な役割のメンバーになるのに、口添えができるような身分ではなかったのではないかと思われます。
中島館長のお話では、遣米使節が派遣されるにあたり、その物資の調達や賄い方を請け負った「伊勢屋」という商家と、素毛の親戚筋に取引があり、その筋から縁がつながったという説が有力だと考えられているそうです。
素毛は大変筆まめだったらしく、世界を一周したときの様々な記録や現地の資料を持ち帰っています。日記、スケッチ、アメリカの新聞や手に入れたいろいろな道具などが、記念館に収蔵されています。

中島館長のお話によれば、素毛と鉄舟は11歳の年の差があったため、素毛よりむしろ素毛の弟と仲がよかったようです。が、いずれにしても、高山時代の鉄太郎少年のよき勉強仲間、遊び仲間であったのでしょう。高山時代の鉄舟に関わる人物がいたことを知ることができたことは、とても有意義であった今回の下呂の旅でした。

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加藤素毛記念館に、鉄舟の書がありました。ご紹介します。


「福 喬 松」
(松は赤松子、喬は王子喬、ともに長寿の仙人)
<画像クリックで拡大します>


「利 是 界 三」
(三界とは、衆生の住む欲界・色界・無職界の3つの世界で、全世界を指す)
<画像クリックで拡大します>


「徳 明 功 表」
(功を表わし徳を明らかにす)
<画像クリックで拡大します>

鉄舟の書に出会えました。感無量でした。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 16:52 | コメント (0)

2009年09月10日

尊皇攘夷・・・清河八郎その六

尊皇攘夷・・・清河八郎その六
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

薩摩藩の島津久光が藩兵千人を率いて上京したのは、前藩主島津斉彬の意図を継ぐもので、兵力をバックに幕府に改革を迫るものであったが、その行動は周囲に大きな波及効果をもたらした。
それは、周囲にいまにも「攘夷」が決行されるかのような雰囲気を生じさせ、それに乗じた清河八郎の檄文攻勢によって、続々と京都に尊攘志士達が集合したのである。

しかし、これほどあからさまな誤解はなかった。久光の意図を冷静に推察すれば「攘夷」を実行しそうな気配はなかったのだが、時勢にはそのような履き違いをおこさせ、尊攘志士達が沸き立ってしまうことを抑えきれない何かが存在していた。

結果は伏見寺田屋事件となって、薩摩藩同士の斬りあいになり、そこにいた他藩士と浪人が捕縛され、その後、殺害された事例として田中河内介のことを前号でお伝えした。

これについて読者から以下のコメントが寄せられました。

「もう30年ほども前のことですが、宮崎に居りましたときに、明治維新関係の古い秘話本を読んで、日向市のある港に維新三志士が葬られていることを知りました。信用できる書籍だとは思っておりませんでしたので、半信半疑のまま、探索を始めました。地元出身の神職さんの誰に聞いても知らないと言うのです。

当時薩摩の港は日向では細島です。薩摩の支藩がありました。実地調査しかないなと現地で聞きまわると、何と当時墓守をしていたお宅に直ぐにたどり着いたのです。かつて網元をしていたそのお宅は清掃の行き届いた!古いお宅で、品のいいおばあさんが対応してくれ、時計を見ながら、『ご案内しますが、しばらくお話しましょう』と言うのです。三志士が斬殺された当時の言い伝えを話してくれたのです。

それは単なる斬殺ではありません、惨殺です。住民に見られないよう船上で縄付きのまま、何十手もの太刀を受け、切り刻まれての殺害でした。

なぜか。秘密保持のためです。士分の全員が刀傷を入れ、秘密を共有することで保持したのです。そして船上から海へ破棄され、見つけた網元によって小島の小さな墓になりました。

そろそろ参りましょうと案内されてみると小島に渡る白州が細く続いていました。干潮で無ければ渡れない島なのです。時計をわざわざ見られた意味がはじめて分かりました。今は文化財に指定され整備されているようですが、当時『ここをわざわざ調べ、お参りされたのは貴方がはじめてです』とおばあちゃんに言われました。墓は海賀宮門、中村主計、千葉郁太郎とありました」

読者のご指摘通りで、海賀宮門は秋月藩士、中村主計は京都浪人、千葉郁太郎は河内介の甥で、三人は確かに薩摩藩によって殺されました。三人が船上で田中河内介の殺害について、薩摩人の不信義を追求したからという理由のようですが、実際は最初から殺すつもりでした。

 伏見寺田屋事件は薩摩藩士同士の斬りあいですから、他藩士と浪人は本来関係ありません。ですから、その場にいたということだけで、薩摩藩が殺す理由は成り立たなく、さらに、海賀宮門は秋月藩士ですから、藩に送り届ければよいのに殺しました。

これは薩摩藩の幕末維新史の汚点であり、その後、三人が維新三志士と称されるようになったことも、何かやりきれない気持ちにさせられる。

ところで、本来、清河は寺田屋にいたはずで、いたならば同じ運命となったはずである。だが、諸国に檄文を飛ばし嗾け煽り立てた本人は、つまらない理由で寺田屋にいなかった。

ある日、大坂薩摩屋敷の二十八番長屋に本間精一郎が訪ねてきた。本間は越後寺泊の豪商の長男で、武士にあこがれ家を出て、お金が潤沢である上に、いっぱしの志士きどりで、弁舌が立ち、一部に人気があったというが、言うことが激烈であるわりには、言行が伴わないというので嫌われているところもある人物だが、清河は江戸の安積艮斎塾で一緒だったこともあり親しくしていた。

その本間が清河を舟遊びに誘った。それを受けた清河は折角だからと、少年時代に深い感銘を与えてくれた藤本鉄石や、二十八番長屋にいた数人と宇治川に浮かんで、海に出ようとして舟番所にさしかかると、船頭が番所に名前を届ける必要があるので、名前を書くよういわれた際、もうすでに芸妓に三味線をひかせて派手に飲んでいたので、つい「酔いに乗じて悉く奇名を記す」(清河著「潜中紀事」)とあるように、勝手な変名を名乗り、多分、「荒木又右衛門とか後藤又兵衛とか言うよう名を書き連ねた」(海音寺潮五郎「寺田屋騒動」)と思われる。

これでは番所役人も黙っていない。公儀幕府役人のプライドがある。馬鹿にするなと、問い質す番所役人に対し、本間が舟を降り番所に乗り込み、得意の弁舌でやり込めるという失態を演じてしまった。

舟遊びを終えたこの日は、それぞれ止宿先に戻ったが、これが問題にならないわけはなく、本間のところに役人が張り付き、調べだし、捕縛の可能性も出てきたので、逃げ場として清河のいる大坂薩摩屋敷の二十八番長屋に転がり込んできたのである。

しかし、役人の追及が続き、本間が薩摩屋敷にかくれたことをつきとめ、問いただしてきたので、清河と親しい柴山愛次郎と橋口壮介も困って、軽率行動を厳しく責めてきた。藩と役人の間で板ばさみになっている柴山と橋口の立場も考え、清河は
「申し訳ない。迷惑をかけたのであるから、ここを出て行く」
 と述べ、京都三条河原町にある医者の飯居簡平宅に移った。飯居宅は長州藩邸にも近く、薩摩藩屋敷の同志が決起するときは、長州藩邸にも連絡があるので、それを待ちつつ飯居宅にいたところに、伏見寺田屋事件が発生したのであった。

清河はつまらないことで寺田屋にいず、死なずにすんだが、このつまらないことが大業を成し遂げ得ず、生涯を終えたことに通じていると思う。

清河は、元来「相手の意表に出て鼻をあかす」という面があった。これは出羽庄内という田舎の酒造業出身という武士でないという劣等感と、その裏返しの気持ちから、人一倍負けたくないという感情が強く入り交じって、時に意表に出て、それが結果としてやり過ぎになる傾向があった。

それが舟遊びでも顕れた。酒に酔ったとはいえ、本間精一郎の醜行を止めえず見逃し、かえって役人何するものぞ、と同調した一面につながったのである。

この薩摩屋敷退去によって、全国逃亡生活から、田中河内介を知り、中山忠愛の親書をもち、九州各地を遊説し、久光の上京を機に、念願の倒幕一番乗りという、晴れの舞台になる可能性もあった寺田屋、そこに参じることができなかったのであるが、今回はこの性癖ゆえに助かったのである。

さて、久光の目的は幕府の改革であった。その改革の要点は、さきに安政の大獄で処分されたままになっている公卿や大名の罪を許すこと、つまり、大赦を行うこと、ついで、一橋慶喜を将軍後見職とし、前越前藩主松平春嶽(慶永)を大老につけることなどであって、これを島津家と縁戚にあたる近衛忠房を通じて朝廷の承認をとりつけ、文久二年(1862)五月、江戸へ派遣する勅使として、岩倉具視に劣らぬ剛直さで「鵺(ぬえ)卿(きょう)」と呼ばれた大原重徳を差し下してもらうことになった。

幕府は抵抗したものの、とうとう押し切られる形で一橋慶喜を将軍後見職に、松平慶永を「政治総裁職」につけた。「政治総裁職」という役職にしたのは、大老は譜代大名がつくもので、徳川家の親戚である家門筆頭の越前松平家に相応しくないという理由からであったが、これらの動向は清河にとってまだまだ運が残っていることを示していた。

それは一連の改革の中で出された大赦の動きだった。うまくいけば文久元年(1861)五月、虎尾の会を潰し、清河を逮捕する口実をつくる罠だった岡っ引き殺害事件、この結果、清河は全国逃亡の旅に出たのであるが、これがご赦免になるかもしれないという希望だった。

文久二年八月、清河は江戸に戻り、ひそかに、小石川鷹匠町の山岡鉄舟を訪ねた。
「無事でしたか」
鉄舟は清河を懐かしそうにみて、すぐに英子が用意した酒を飲みながら、逃亡を始めた文久元年五月以来の状況を語り合い、幕閣の変化と、それによって希望が出てきた清河の大赦について語り合った。

この時、幕閣は大きく変わっていた。安藤老中と久世老中は辞職し、安政の大獄で辣腕をふるった京都所司代酒井忠義も罷免されていた。代わって幕閣を動かしているのは、備中松山藩主板倉勝静、山形藩主水野忠精、竜野藩主脇坂安宅の三閣僚と将軍後見職一橋慶喜、政治総裁松平慶永という目をみはるような変化だった。

「大赦を掛け合うには、今が好機だ。幕府はこれまでのように尊王攘夷について、無闇矢鱈に弾圧できない状況になっている」
「そう思う。ご赦免の請願書を書いてみようと思っている」

清河は水戸に向った。水戸では逃亡中に立ち寄ったときとは、雲泥の差の歓待を受ける羽目になった。清河が来る、という噂はすぐに広まり、多くの人物が清河の前に現れて、寺田屋の件を語り、策は直前で破れたものの、清河の呼び掛けで三百人ほどの尊攘志士が京都に集まったことを賞賛するのであった。

水戸にいる間に清河は「幕府に執事に上(たてまつ)る書」を書き上げ、鉄舟に送り、政治総裁松平慶永の手許に届けるように依頼した。

結果は清河に対し、文久三年(1863)一月、北町奉行浅野備前守から、正式の赦免の沙汰がおりることになった。

この日清川は、出羽庄内藩江戸留守居役黒川一郎に付き添われて、麻裃に身なりを改めて奉行所に出頭し、次の示達を聞いた。
「御家来にて、出奔致し候清河八郎召捕方の儀、先達相違し置き候ところ、右者此の上召捕に及ばす候間、なおまた此段申し達し候事」

同じ日に、浪士取扱いの松平上総介から、次のような伺書が奉行所に出された。
「出羽庄内 清河八郎
右者有名の英士にて、文武兼備尽忠報国の志厚く候間、御触れ出しの御趣旨もこれあり、私方へ引取り置き、他日の御用に相立て申したく此段伺い奉り候」

この二通の公式文書で、清河は晴れて赦免の身になると同時に、松平上総介に身柄を引取られることになったが、これは一種の軟禁状態におく意味合いがあった。

松平上総介とは、鉄舟も関与している講武所の剣術師範役並出であり、直心影流を学び男谷下総守と同門で、他にも伊庭軍兵衛に心形刀流を学び、柳剛流にも通じている剣客である。

ここで、ちょっと寄り道になるが柳剛流にふれてみたい。あまり馴染みのない流派である。柳剛流は武州北足立郡蕨の農家生れの岡田総右衛門奇良を流祖とし、特徴は上段から長大な竹刀をふりかぶって思い切り振り落とし、面にきたなと思っていると、そのまま相手のすねを狙い撃ちする剣法。それも一撃ではなく、はずされれば二撃、三撃と相手がかわし切れなくなるまで続け、相手の体勢が崩れたところを狙い打つので、幕末の剣豪たちが軒並み総崩れで敗退したという。その後、何度も苦杯を喫してようやく対策を編み出し、撃退できるようになったというが、撃退法もかなりの修練を要するもので、幕末の著名な剣豪たちは柳剛流を相手にするのを大変嫌がったという。

それを示すように、千葉周作もその著書の中で、
「柳剛流は足を多く打ってくる流派である。相手が足を打ってきた場合、足を揚げようとしては遅れてしまい、多分打たれてしまう。早くするためには、踵で自分の尻を蹴るような気持ちで足を挙げるとよい。また、太刀先を下げて止めるのもよい。この場合も受け止めようとするのではなく、切っ先で板間土間をたたく気持ちで止めるべきである」と述べているが、この柳剛流の名手が松平上総介であった。

その上、松平上総介の家柄は名門だった。松平は家康の六男忠輝の後胤で、わずか二十人扶持の捨て扶持であったが、白無垢を着て登城すると、譜代大名の上席に付く格式を備えていた。

ここに目をつけたのが清河である。松平上総介に身柄を引取られ、一種の軟禁状態という条件を有利に活用しようと、愈愈その「意表に出る」能力を発揮したのである。さすがは伏見寺田屋事件を潜り抜け、生き残ったしぶとさといわざるを得ない。

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2009年09月06日

埼玉県の神社を巡るバスツアー

近代出版社の若林様から、ご案内をいただきましたので、ご紹介します。

「埼玉県内の神社を巡るバスツアーのご案内でございます。
神職さんが同行し、説明していただけるツアーですので、大変深い理解を得られることと存じます。
近い日程もございますが、まだ若干の定員があるとことですので、ご興味ございましたら、ご参加くださいませ。
また、お知り合いの方へもご紹介いただければ幸いでございます。
宜しくお願いいたします」

>>>詳細はこちらのパンフレットをご覧ください

※山岡鉄舟研究会ではお申し込みを受けつけておりません。
 直接パンフレットのお申し込み先にお申し込みお願いします。

投稿者 lefthand : 22:59 | コメント (0)