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2007年12月24日

12月例会記録(2) 2/2

■山本紀久雄氏

「尊王攘夷と鉄舟貧乏」2/2

1.貧乏話の最後
鉄舟の弟子小倉鉄樹が次のように語っている。(『おれの師匠』島津書房)
「武田耕雲斎が常陸に事を起して、山岡へ訣別に来た。帰りしなに耕雲斎が奥さんに、『お英さん、これで一生の別れだ。かたみに何か置いて行かう。』と、自分の體を見廻したが、締めていた兵子帯を解いて奥さんに置いて行った。それは新調のみづみづしい濱縮緬であった。貧乏で絹ものなど、手にしたことがなかった時、この餞別は奥さんには非常に嬉しいものであった。早速仕立てて腰巻にこしらへ上げた。ちやうどそれが仕立てあがった時、どうしても金のいることが起って、まだ一度も身に着けない腰巻を、質に入れなくちゃならぬことになってしまった。其後質から出したい出したいと思ってゐたが、とうとう出せずに流してしまった。それを考へると今でも惜しいと思ふと奥さんはよく語られた」

2.武田耕雲斎
当時の尊王攘夷運動のリーダーの一人である。その人物が天狗党の首領となるに当たって、鉄舟に挨拶に来たのである。ということは、耕雲斎が挨拶に来た元治元年時点で、鉄舟は29歳、攘夷運動では知られた人物になっていたことが分かる。

天狗等の首領から挨拶を受けるということは、貧乏だったけれど、攘夷の思想の中では、そのときそれなりの地位にいたのでしょう。
耕雲斎は、天狗党は800人を連れて、京都にいる徳川慶喜を頼って行った。「尊王攘夷」の身分だから、幕府から追討受ける立場ではないと進軍していったが福井県で幕府に投降した。食料の問題などもあったが、一番は頼りにしていた慶喜がけしからんと追討をはじめたので、やる気がなくなってしまった。そのときに354名が首を切られた。首を斬るのは嫌でしょう。福井県の侍は嫌だ。しかし喜んで斬った藩がある。井伊大老を斬ったのも水戸藩です。
吉田松陰が殺された安政の大獄で死罪になったのは8名。天狗党は354名です。党首の孫や子まで全部殺された。武田耕雲斎は尊王攘夷の徹底した人物だった。

3.渋沢栄一編の「昔夢会筆記・徳川慶喜公回想談」
この中の第七回の会、開催日は明治四十二年十二月八日、渋沢の兜町事務所で開かれたが、そこで攘夷のことが話題になった。参加していた旧桑名藩士の江間政発(えままさあき)が、三日前に東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)に会って聞いたという話を披露している。東久世通禧とは、文久三年の八月十八日の政変「七鄕落ち」の一人、つまり、当時の朝廷内強行攘夷論者である。
「あの当時攘夷ということが流行しましたが、攘夷は夷を攘うということで、何でも眼色の変わった奴は、片端から斬殺してしまうというのが攘夷の原則で、攘夷を大別しますと、水戸の攘夷、長州の攘夷、それから天子様の御攘夷と、こう三つと見まして、水戸の攘夷などというものは、私ども(江間)考えると本当の攘夷ではない、ためにするところあっての攘夷、あなた(東久世)はどうお考えなさるかと申し試みましたところが、長州の攘夷もそうだよ、何も攘夷をしたいというわけでない・・・。してみると攘夷ということは、今日から忌憚なく申すと、反対党を叩き潰す看板である、そう言ってもよろしい」

明治維新になってから、慶喜を囲んで当時の幕府関係者が想い出を語る会を渋沢栄一の事務所で開いている。「攘夷」は燃え上がったが、反対を潰すためのものだった。攘夷に命を懸けた人、脱藩して京都に行った人がいる。

4.尊王論
尊王思想を最初に唱えたのが水戸藩。その内容は天皇-幕府-藩主-藩士という封建的ヒエラルキーが設定され、武士は直接の君主に忠誠を尽くす、それが尊王思想であると意味された。この思想では、武士の尊王行為は幕藩体制を補強するものであっても、敵対化するものにはなり得ない。
しかしながら、こうしたいわば佐幕的尊王思想を、体制破壊の尊王思想に変えた一人が、吉田松陰。吉田松陰の尊王思想特色は、天皇への個人的・主体的忠誠を重視するところにあった。松陰は、全国の日本人は、階級・身分にかかわらず、天皇に忠誠を尽くすものであるという「一君万民論」を説いたのである。
このような尊王思想が、「国事」に深い関心を持ちながら、身分が低いゆえに活動を制限されていた下級武士に勇気を与えた。松陰の主催する「松下村塾」には、こうした下級武士が多く学んだが、それは松陰の思想が集めたのであった。

当時江戸時代の人は、京都に天子様がおられ、その代理である征夷大将軍が江戸にいると知っている。尊皇攘夷か尊王開国だけで、そのうち「攘夷」がおかしくなり、攘夷消えたときに明治維新になっている。横須賀の海軍工廠、製鉄所をつくることも開国しなければ技術提供ができない。幕府を潰そうと考えたときに、幕府は開国だから、攘夷の反対をやればいいと言っている。最後に慶喜は一言「攘夷にもいろいろある」と言ったとその本に書いてある。
記録は大事ですね。我々の仕事も昨日おとといと仕事を積み重ねて今日がある。記録があるからこのような意見が話せる。
攘夷論に侍が燃えたのは普遍的な理由がある。映画「武士の一分」で木村拓哉は毎日何をしていましたか?毒見のために毎日同じ時間に城へ行って味見して帰ってくる。武士は本来戦うためにできた存在。その戦いが無くなってしまった。剣の達人がお椀ひとつ食べたら終わりで帰ってくる。これが「武士の一分」で描かれている。退屈な人生だったなと思いますよね。退屈な人生を送っている人たちに対して、突如として「攘夷」と来たときどうなりますか?ペリー来た、外国人はけしからん、気概のある人間は戦おう、俺の出番が来たと盛り上がって脱藩します。坂本竜馬もです。盛り上がるために攘夷は必要だったわけです。京都で新撰組とやりあったりします。
攘夷論は最終的に消えて開国しました。ここで大事なのは鉄舟が攘夷だったということ。鉄舟はどういう人だったのですか?

5.「一君万民論」と「宇宙と人間」
「宇宙と人間」は鉄舟が23歳のときに書きました。天皇の下を、武士、公家、町民、僧侶と4つにわけていますが、幕府は入っていません。天子様の元に公平です。明治維新の10年前です。これは誰かの思想と似ていませんか?日本で一番有名な人と似ている。明治維新を作ろうと下級武士からいっぱいできてきたが、これは吉田松陰、萩の松下村塾から学んだ人から出てきました。松下村塾で何を教えましたか。今までの尊王論は、天皇家、その下に幕府、その下に諸大名、その下に侍、序列を崩さず、序列を大切にする縦系列の尊王論が普通だった。それが水戸家の尊王論だった。
ところが吉田松陰は、天子の下に全員平等であると言い出した。吉田松陰の言っている「一君万民論」と、鉄舟の「宇宙と人間」は一致した。吉田松陰はすごく有名ですから、漏れ聞いたかもしれない。その思想と鉄舟が自ら考えたものが一致しているとしたらどうなんですか。「攘夷」などではなく、吉田松陰も唱えていることが民主主義、鉄舟も民主主義です。鉄舟はそこに徹した。

6.何故貧乏を徹底したか
鉄舟は自らの生き様を「宇宙と人間」で書き示したように、天皇の臣民として生きる覚悟を定めていた。だから、鉄舟にとっては、妻子を養うのは私事であり二の次となり、その延長から志向する思考体系は「臣民」であって、一個の自由な「人間」ではなかったということになる。いわば鉄舟は、いつも「臣民」としてのみ思考し行動していたのである。
恐ろしいまでの徹した「尽忠」理念であって、これを貫く先に、当然に貧乏生活となる。

鉄舟は民主主義の考えに徹した。天皇の下に臣民で、上司は天皇しかいない。やる気十分です。家族のことは二の次、西郷隆盛との交渉も天皇の臣民ですから行きます。鉄舟はそういう意味の尊王攘夷だった。武田耕雲斎の攘夷とは違う。武田耕雲斎は倒れたが、鉄舟は生き残り日本のために尽くした。
こういうことまで考えて鉄舟の貧乏話をしているのか。鉄舟に「個」という考えはない。そこまで徹した。それがあったゆえに貧乏だったが、鉄舟にとっては貧乏なんて関係ないことだった。

中国は北京オリンピックの準備で警備員をそろえた。田舎から連れてくるから警備員同士喧嘩をするらしい。中国では政策で子どもを一人しか生んではいけないと抑制した。人口で中国がインドに負けるでしょう。子ども一人しか生まないことを考えると、女の子は将来嫁に出て行くので跡継ぎになる男の子を生みました。その結果、女子100に対して男子117、内陸部では女100に対して男122です。性犯罪に走る、悪い人がいっぱいいて大きな問題だと考える。ソ連は人口の65%が女性です。男性はアルコール過剰摂取により早死にで、平均寿命は女性73歳、男性59歳です。女性が多く男性が少ない、その結果女性が結婚できませんね。ロシアではカルチャークラブが大流行で、ロシアの女性は男性に優しく美しくなりたいと思っています。逆に中国の女性は何もしません。代わりがいっぱいますからね。

【事務局の感想】
なぜ鉄舟が貧乏であったか、他の作家は貧乏であったという事実だけをとらえて鉄舟面白おかしく書いていた点を、山本さんは「何故だ」考え続けて、吉田松陰に繋がる今回の発表になりました。いつも深く考える、考え続けるということを山本さんから教えていただいていますが、自分の実行となると難しいものです。しかし、この研究会を代表している者ですから、なんとか学んでいきたいと思っています。
皆様も平成20年もご一緒に鉄舟を深めて参りましょう。よろしくお願いいたします。

以上

投稿者 staff : 2007年12月24日 12:28

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