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2008年11月08日

9月例会記録(1)

「明治維新と西洋音楽事始」                 
高橋育郎氏

来年は横浜開港150年、この開港は明治維新に通じる大事なものです。井伊直弼が開いた。西洋の列強に追いつけ追い越せと西洋文明を積極的に取り入れた。
学校を開いて、教育を重要視した。国民誰しも文字が読めて、計算ができるようにやっていこうというのが大きな前提だったんですね。明治5年、学制を発布します。小学校、中学校を全国津々浦々、ものすごい勢いでつくっていったんですね。


カリキュラムの中に、唱歌という教科を入れたんですけど、西洋音楽を誰も知らないんですね。教え方のノウハウを知っている人もいなかった。中身がわからないから、「当分これを欠く」とした。いつ唱歌が始まるのかわからない状態で学校が始まった。
小学校は唱歌、中学校は奏楽という名前になった。どちらも音楽です。唱歌がいつ頃始まったのかというと、伊沢修二という優秀な人が現われた。残念ですが、あまり名前が知られていません。日本の音楽界に貢献した、忘れてはならない人物で、私にいわせれば「日本の音楽の父」です。彼は高遠藩出身で、1867年に藩の貢進生に選ばれた。大学の南校(現在の東京大学)に学んで、卒業してすぐに文部省に入って、愛知師範学校の校長になりました。学校を作っても教える先生がいなくては仕方ない。そこでいち早く師範学校をつくった。
そしてフレベール(幼児教育)に傾倒した。伊沢修二は、師範学校取調べが第一の目的で留学。目賀田種太郎(勝海舟の娘が奥さん)が監督官でアメリカ・ボストンのブリッジウオーター師範学校に入った。
優秀でしたが、こと音楽は難しい。理由があります、異文化ですよね、日本の音楽と西洋の音楽は根本的に全然違う。音の構成が7つの音階、それに対し日本は、ドレミソラで「ファ」と「シ」がない五声音階。それがアメリカに行ってドレミファソラシドを、いきなりやらせられるので難しかった。
全然違う環境で育ったのだから、習得するのは無理だろう、特別に免除してやろうと校長に言われて、彼は非常に悔しがった。彼は5歳くらいから軍楽隊に入って鼓手(たいこ)をやっていたので、音楽の素養はあるとプライドもあった。日本を代表して行った留学生ですから。目的は全般的な学校の教育学というものを学ぶためではあったが、音楽に特別興味を抱きはじめ、音楽の効用に気づき、重要視しはじめ、何とか習得したいと思った。
そうした熱意を持ち始めているとき、メーソンという、アメリカの小学校の教材を作っている音楽教育学者の第一人者と会う。会うについてはいろいろ話がありましてね。森有礼がアメリカに行っており、音楽は誰が優れているか事前に調べるとメーソンの名前が出る。
実はメーソンも日本人に音楽を教えたかった。伊沢も音楽を身に着けたいと熱意があって、その熱意が偶然という遭遇を生んだといえる。これらの話しは来月にまわします。このメーソンとの出会いは、日本の音楽界には実に画期的な重大なことだった。
伊沢は毎週メーソンの家に通って、「ドレミファソラシド」も音がとれるようになった。当時の人は苦労したんですね。「ファ」の音が少し上ずったり、しっかり音程がとれない。現代人には信じられないような話ですね。

留学が終わりに近づいた明治11年4月に目加田と連名で「学校唱歌ニ用フベキ音楽取調事業ニ着手スベキ見込書」という見込み書を作って、文部大臣の田中不二麿に送った。そこに音楽の効用を熱心に書いている。
帰国後すぐに東京師範学校の校長になる。文部省に音楽を教える先生を要請する学校を早急につくるよう要請。すなわち音楽取調掛の設置を上申して認められ、彼は御用掛に任命された。これが後に東京音楽学校、今の芸大に繋がる。
・東西二様の音楽を折衷し、新曲を作る事。
・将来国楽を興すべき人物を養成する事。
・諸学校に音楽を実施する事。この2項を核にした。

唱歌は児童から始めることを最良・最速の方法と言っている。子どもの頭は柔軟で、集中力があって、記憶力がある。そういう年頃に教え込むのがよいといっている。

今日は時間がすごく短いので、あまり話せませんが、唱歌集を作って、そこから音楽を学校教育に導入する。そのあと音楽の専門学校である東京音楽学校の設立し、日本の音楽を世界に共通する水準まで高める。そのために、一つひとつ段階を踏んで積み上げ、理想を実現していく。そうした目的意識をもって望んだのだ。
1880(明治13年)メーソンを日本に呼び、学校での実技の指導、教科書作りから始めた。選曲はメーソンが伊沢修二の協力のもと、これに宮内省楽人、上真行、奥好義、辻則承、芝葛鎮らが、文学者では稲垣千頴、佐藤誠実、加部巌夫らと組んで、「小学唱歌集」3部作を明治14、16、17年にわたり刊行した。ところが明治15年にメーソンは帰国してしまう。それはなぜだろうか、これはまた来月に回したいと思いまして、今日は半分まで行ったところで時間になりました。ありがとうございました。

投稿者 staff : 2008年11月08日 11:51

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