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2005年07月17日

国立歴史民俗博物館名誉教授の高橋敏氏による講演

第二回山岡鉄舟全国フォーラム2005(鉄舟全国大会)の開催ご案内をいたします
第一回山岡鉄舟全国フォーラム2004は、跡見学園女子大学学長の山崎一穎氏から学者ならではの幅広い視点で、山岡鉄舟が活躍した時代背景を講演いただき、加えて、藤屋・望嶽亭の松永さんと、静岡市の若杉さんにも登場いただき大変好評でした。

引き続きまして、今年も素晴らしい歴史学者をお迎えいたします。
国立歴史民俗博物館の名誉教授の高橋敏氏です。http://www.geocities.jp/ishin_1868/takahashi.htmを参照願います。
高橋敏氏が「無類の話上手であり、固い難しい内容をよくもこれだけ楽しく・面白くできるものだ」という紹介がなされています。
高橋敏氏は「清水次郎長と幕末維新—『東海遊侠伝』の世界—」や「博徒の幕末維新」等をお書きになり、フィールドワークを踏んで歴史を実体的に捉える数少ない学者です。
その視点から藤屋・望嶽亭も実態調査され、鉄舟が駿府に赴いたストーリーとして望嶽亭説を取り上げている、唯一の学者であります。今回の講演からどのような新しい発見が
できるか。今からワクワク・萌え萌えです

もう一人の講師は、お馴染み山岡鉄舟研究家の山本紀久雄氏です。
毎月の鉄舟・21・サロン例会で、常に今の時代との接点を見出して、新鮮な角度から鉄舟の活躍や業績を解説してくれています。
また、今回特別ゲストとして、英国人「フェリックス・ベアト」が残した愛宕山から一望した幕末の江戸パノラマ写真、これを研究しNHK放送博物館にて解説されていた小川福太郎氏に登場いただき、まだ誰も知られていないベアト写真の秘密を発表いただきます。これまたお楽しみの内容です。

■日時:平成17年9月11日(日)13:00〜16:00
■会場:学士会館 (千代田区神田錦町3−28 03−3292−5936)
■最寄駅:東京メトロ半蔵門線・都営三田線・都営新宿線神保町駅 A9番出口より徒歩1分
■参加費:2500円
■講師:高橋 敏氏 国立歴史民俗博物館名誉教授
    山本 紀久雄氏 山岡鉄舟研究家
    小川 福太郎氏 元NHK放送博物館館員
  
ご参考:高橋敏氏著作と略歴
「清水次郎長と幕末維新—『東海遊侠伝』の世界—」岩波書店 2940円
「博徒の幕末維新」ちくま新書 777円・「国定忠治」岩波新書 777円
「大原幽学と幕末村落社会—改心楼始末記」岩波書店 3045円
●1940年生まれ。1965年東京教育大学大学院文学研究科修士課程終了
文学博士。国立歴史民俗博物館名誉教授。専門は近代教育・社会史・アウトロー研究

スケジュール
13:00〜13:10 開会の挨拶
13:10〜14:30 高橋敏氏講演 並びに質疑応答
14:40〜15:55 山本紀久雄氏・小川福太郎氏講演 並びに質疑応答
15:55〜16:00 閉会の挨拶

鉄舟・21・サロンでは、山岡鉄舟の人格、哲学、業績を解明し、それらを現代に生かすべく研究を続けています。今の世の中を鉄舟を通して、考えるチャンスとしていただきたいと考えております。
関心のある方はどなたでも参加できます。
ぜひご来場いただきますようお願いいたします。

■問い合わせ・お申し込み
鉄舟・21.サロン(ぬりえ美術館内) 東京都荒川区町屋4−11−8
トップ画面のお問い合わせよりご連絡ください。
参加申し込み:HPトップ画面の「例会参加申し込み」より、お申し込み願います。

投稿者 Master : 12:03 | コメント (0)

2005年07月09日

山本氏の鉄舟研究「慶喜と鉄舟」

9月11日の全国大会の講師である高橋名誉教授の本によると、無宿者が動いていたということは、規範が緩んでいて、自由な行動ができた時代であることがうかがえる。
高橋名誉教授は、今までにない学者である。望嶽亭に行かれて、鉄舟と西郷の会見の際に助けたと書かれた唯一の学者である。大変お話も面白いといわれているので、期待していただきたい。
 
教授というと、「森は海の恋人」運動をしている宮城県の畠山重篤氏が京都大学の教授になった。—今月の文芸春秋に掲載記事—

先月話した西郷と鉄舟の会見の碑は、原田さんという個人の所有であるが、功績者の碑であるから、本来なら市、県、文化庁がすべきところであるが、個人が作ったものである。
 
1)上野寛永寺大慈院の一室における鉄舟覚悟の決め方
幕末の頃は上野の山すべてが寛永寺であった。その中の大慈院の別院に慶喜は蟄居していた。鉄舟は慶喜に会って、慶喜の気持ちがゆるがないか問いただしている。
この将軍に対して、問いただすという暴言を吐くことにより、慶喜の言葉に二言はないことを、鉄舟にもどし、鉄舟自身が覚悟し、責任をもった。この覚悟の仕方は鉄舟でなければできなかったことである。

2)慶喜が水戸へ・・・過酷な駿府70万石の決定 
4月に慶喜は水戸へ行く。
その時のお供は、旗本、高橋泥舟(護衛)、中条金之助(彼については、11月に行くお茶の郷博物館で見ることができる)
西周(ニシアマネ)哲学者(オランダ留学し、仏語学ぶ。慶喜にヨーロッパでは諸侯が民主的な会議をしている。日本も一大名となって雄藩会議をしてはどうかと進講した。
新村猛雄(広辞苑の作者の父か祖父にあたる人)等がいた。
3)慶喜が水戸から駿府へ・・・榎本武揚による護衛搬送
この頃徳川宗家は、家禄を800万石から70万石に抑えらた。幕府側の心象を懸念して、彰義隊のことがすんでから発表された。
慶喜は4月に行った水戸から、この駿府に移った。これには、榎本武揚が護衛搬送した。
榎本武揚についていえば、慶喜を送り届けてから、脱走。函館に行き戦争をしたことは周知のとおり。
4)当時の水戸の状況 
幕末時は、各藩は生き残りをかけて幕府か朝廷かどちら側についたらいいか、情報収集に奔走していた。その中を御三家の水戸藩は、藩内を二分して内紛に明け暮れていた。
この内紛については他藩からも「ご本家(将軍家)が潰れるかどうかの大切な時に、御三家の水戸様が内輪争いでござるか」と冷笑されていたというような状況であった。
水戸家の家訓には、藩主だけに残された家訓があった。それは、
「日本を二分して、朝廷と幕府が争うようなことがあれば、宗家が滅ぶようなことがあってはいけないので、天皇を大事にするように(そうすれば徳川は生き残れる)」このようなことがあって、慶喜は朝廷と争わなかったそうである。
5)徳川慶喜家扶日記にみる鉄舟
将軍をやめたとき慶喜は若干33才。毎日を趣味の世界に生きた。
家扶日記によると、
○明治11年11月3日 山岡鉄太郎 来邸。
○明治14年5月17日 山岡鉄太郎所用で愛知に出張の途中に来邸。
○明治14年6月15日 再び訪れる。
と記録されている。
「慶喜邸を訪れた人々」羽衣出版 浮月楼で販売されている。
 
●事務局の感想
現場からの報告ならびに現地調査により、資料、研究にますます厚みがまし、毎月の講演がさらに熱を帯びてきました。7月の内容が待たれます。

投稿者 Master : 20:21 | コメント (0)

二見氏の現代に生きる武士道 3−2

▼第九章 忠義(忠実の義務)
忠義とは、主君に対する臣従の礼と忠誠の義務を表すものであり、封建道徳を顕著に特色づけている。武士道においては、個人より国が重んぜられた。
中国では、親に対する服従が第一の義務とした これに対し、日本では、忠が第一位。
主君と意見がわかれる時、家臣のとるべき忠節の道は あくまで 主君のいうところが非であることを説くことである。

 ▼第十章 武士道の教育 訓練
 武士道の枠組みを支えているかなえの三つ
     智   仁   勇   即ち   智慧  慈悲  勇気
 武士道の訓育
  剣術 弓術 柔術 乗馬 槍術 戦略戦術  書 道徳 文学 歴史
 欠けているものは算術 武士道は損得勘定をとらない
 武士道は無償、無報酬で行われる実践のみを信じた。武士道の本性、すなわち算術で計算できない名誉を重んじるという特質は、近代の経済学以上に、はるかな真実の教えを人々に教えた。
  ▼第十一章 克己
 武士道においては、不平不満を並べたてない不屈の勇気を訓練することが行われていた。
 克己の理想とは、心の安らかさを保つことである。自殺と仇討ちの制度のその極致がみられる。
 死せる子の不在を常のごとく、とんぼつりにでかけたものと想像して、わが心を慰めようとした一人の母(加賀の千代)の句がある。 蜻蛉つり今日はどこまで行ったやら
  ▼第十二章 切腹
 切腹  武士がみずから罪を償い、過去を謝罪し、不名誉を免れ、朋友を救い、自らの誠実さを証明する方法であった。真の武士にとりては、死を急ぎもしくは死に媚びるは卑怯であった。あらゆる困苦、逆境にも忍耐と高潔な心をもって立ち向かう。これが武士道の教え。
  赤穂 四十七士の例 
 主君(浅野内匠頭)は死罪を命ぜられ、控訴すべき法廷がなかった。仇討ちの手段。切腹。
▼第十三章 刀 武士の魂
刀は、忠誠と名誉の象徴。
刀鍛冶は、単なる工人ではなく、霊感を受けた芸術家であり、鍛冶するところは神聖な所であった。鍛冶は重要な宗教的行為であった。
武士道は適切な刀の使用を強調し、不当な使用に対して厳しく非難し、かつそれを忌み嫌った。血を見ない勝利こそ最善の勝利。武人の究極の理想は平和である。
▼第十四章 婦人の教育及び地位
女性の薙刀習得の動機には二つある。
1己の身を潔く守った。   2息子たちの教育。
女性が男性の奴隷でなかったことは、その夫たちが封建君主の奴隷ではなかったことと同じ。妻たちが果たした役目は、「内助」の功として認められた。
武士道は、自己の個性を犠牲にしてでも、自己自身をより高次の目的に役立たせることとした。
▼第十五章 大和魂
サムライは民族全体の「美しき理想」となった。  花は桜、人は武士。
武士道は、当初、「エリート」の栄光として登場した。だが やがて国民全体の憧れとなり、その精神となった。それが「大和魂」。サクラは、大和魂の典型である。
本居宣長
敷島の大和心を 人問はば  朝日に匂ふ山桜花
▼第十六章 武士道は蘇るか。
日本に押し寄せてきた西洋文明により、武士道は消え入りようとしているのか。
武士道は、無意識のうちに、日本国民の一人一人を動かしてきた。
吉田松陰が刑につく前夜に詠じた歌
かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂
西洋化の波において、日本人を動かしてきた力は、日本自身にある武士道である。
▼第十七章 武士道の将来
武士道は、その姿を消す運命にあるのか。
現在の我々の使命は、この遺産を守り、古来の精神をそこなわないことである。
未来における使命は、その人生の全ての行動と諸関係に応用していくことである。
武士道は不滅の教訓である。
武士道は一つの独立した道徳の掟としては消滅するかもしれない。
しかしその力はこの地上から消え去ることはない。

●事務局の感想
新渡戸稲造の武士道は欠かすことができないものであります。最後の十七章の 「その人生の全ての行動と諸関係に応用していくこと」というところは、日頃から二見さんが言われ行動されていることであるので、二見さんの生き方の基本になっているものは武士道であったと感じました。

投稿者 Master : 20:18 | コメント (0)

二見氏の現代に生きる武士道 3−1

新渡戸稲造著 「武士道」について 
素晴らしい伝統ある日本を守り、健全なる社会をつくり、徳ある自己を確立しようするとき、必要なるものは、「かくあるべし」という「意志」「志」の力であると思う。「志」を徳まで高めた精神、文化は、日本が誇る「武士道」である。
 
新渡戸稲造の「武士道」は、全体 17章で構成されている。
▼第一章 道徳体系としての武士道
武士道はその象徴たる桜花と同じく、日本の土壌に咲いた固有の花である。古めかしい美徳ではなく、今なお、私達の心の中にあって、力と美をかねそなえた生きる対象である。
騎士道の規律と似ているが、それより含蓄がある。武士道とは、武士階級の「高い身分に伴う義務」である。
武士が守るべきとして要求されている道徳的義務である。武士とは、サムライのことで、身分の高い人の身辺を警護することを「侍(さぶら)う」という言葉から転じたものである。

▼第二章 武士道の源をさぐる
武士道は、仏教と神道と儒教(陽明学)から影響を受けた。
剣道の極意は、剣を抜かない。剣を使わない。生かす道。殺人刀、活人剣。
仏教から 運命に対する安らかな信頼の感覚、不可避てきなものへの静かな服従。危険や災難を目前にした時の禁欲的な平静さ、生への侮蔑、死への親近感
神道から、神社の奥殿にある鏡
1親に対する孝心  2祖先に対する崇拝  3主君に対する忠誠  
孔子の教訓は、武士道の最大の淵源である。   
五倫の道として、君臣の義 父子の親 夫婦の別 長幼の序 朋友の信 は、孔子の文書が中国から輸入される前から日本の民族本能の認めていたことである。
「論語読みの論語知らず」にならないことを戒めている。王陽明は、実践を重視した。
陽明学・・王陽明が説いた。知行合一(ちこうごういつ)(知ることと行う事とは一つ)を説いている。王陽明の教えは、「新約聖書」と類似点が多い。
▼第三章  義
義は、道理であり、条理であり、人間の行うべき道。「義」は、勇」と並ぶ武士道の双生児である。両者は、武人の徳である。
儒教で人の常に守るべき五つの道徳として「仁 義 礼 智 信」をさし五常といい、仁をトップにおいているが、武士道においては、「義」を最高に置いている。
「正義の道理」こそ、無条件の絶対命令。
赤穂四十七義士の話は、「義の泉」である。
「義理」は、義からの分岐した語。義理の本来の意味は、義務である。
▼第四章 勇
勇気は、義によって発動されるのでなければ、徳行の中に数えられる価値はない。
勇気は、正しいことをすることである。
例 上杉謙信が、敵である 窮状している武田信玄に、塩を送った。
論語 義を見てなさざるは、勇なきなり
(なすべきことは、敢然として行う。しかし、なすべきでないことは、断然しない)
敢為の行為が勇気の動態的表現たるに対し、平静はその静態的表現である。真に勇気なる人は沈着である。
▼第五章 仁
愛、寛容、他者への同情、憐れみの情は、いつも最高の徳、すなわち人間の魂がもつあらゆる性質の中で 最高のものと認められてきた。
義は、男性的であるとすれば、
仁は、やさしく、母のような徳である。
「武士の情(なさけ)」という言は、ただちに我が国民の高貴なる情感に訴えた。
孔子の言 「君子は徳を謹む。徳あれば此れ人有り、人あればこれ土有り、土有ればこれ財有り、財有ればこれ用有り、徳は本也、利は末也」(大学)
弱者、劣者、敗者に対する仁は、特に武士にふさわしい徳として賞賛せられた。
格言 「窮鳥懐に入る時は、猟師もこれを撃たず」
▼第六章 礼
礼とは他人に対する思いやりを表現すること礼の厳しい遵守に伴う道徳的な訓練である。
「礼は寛容にして慈悲あり、礼は妬まず、礼は誇らず、たかぶらず、非礼を行わず、己の利を求めず、憤らず、人の悪を思わず」と言いうるであろう。
あらゆる礼法の目的は、精神を陶冶することである。
茶の湯は、儀式以上のものである。それは芸術である。それは詩であり、リズムを伴った理路整然とした動作である。それは精神修養の実践方式である。
礼の必要条件とは、泣いている人とともに泣き、喜びにある人とともに喜ぶことである。
▼第七章 誠
孔子は、誠を尊び、これに超自然力を賦与してほとんど神と同視した。
「心だに誠の道にかないなば、祈らずとても神や守らん」
「誠」という漢字は、言葉を意味する「言」と、完成を意味する「成」の結合
「武士の一言」「武士に二言はない」
武士の世界において正直であることは、名誉とわかちがたく混合していた。
アングロ・サクソン民族の高き商業道徳に対する私の答えは、「正直は最善の政策なり」 ラテン語とドイツ語において、正直と名誉の語源は同一である。
▼第八章 名誉
名誉の感覚は、人格の尊厳ならびに価値の明白なる自覚を含む。
名誉は武士階級の義務と特権を重んずるように、幼児のころから教え込まれるサムライの特色をなすものであった。
少年の振る舞いを正す 最後の切り札
「人に笑われるぞ」  「体面を汚すな」 「恥ずかしくないのか」 「羞悪の心は義の始めなり」(孟子)
西郷隆盛の言葉
 「道は天地自然のものにして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とする。・・人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして己を尽くし人を咎めず、
が誠の足らざるを尋ぬべし

投稿者 Master : 20:14 | コメント (0)

フォーラム、出版記念講演、年度計画など

6月例会の記録をご案内します。
1.事務局より
1)出欠の連絡のお願い
欠席の際には、必ずご連絡をお願いいたします。
HPからの参加申し込み連絡方法を案内。
例会開催日程は、基本的に、第三の水曜日に開催ですので、ご予定願います。

2)第二回山岡鉄舟全国フォーラム(全国大会)の開催の案内
9月11日(日)学士会館(前回と同じ会場)にて開催
今回の講師は、元国立歴史民俗博物館の教授の高橋敏先生と山本紀久雄氏です。
友人、知人の方々へご案内し、一人でも多くの方々に参加していただきたく、よろしくお願いいたします。

3)「ぬりえ文化」出版記念講演と3周年記念パーティの開催のご案内
8月26日(金)18:00~21:00、ホテルニューオータニ
インターナショナルレストラン 「ガンシップ」において、開催
参加費:5000円

4)平成17年度計画のご案内
6月15日(水) 年度計画提案
7月20日(水) 通常例会
8月  夏休み
8月26日(金)18:00~21:00ニューオータニ「ガンシップ」にて
「『ぬりえ文化』出版記念講演&ぬりえ美術館3周年記念」開催
9月11日(日) 「山岡鉄舟全国フォーラム2005」学士会館にて開催
10月19日(水) 通常例会
(11月16日(水) 例会)*秋の研究旅行の開催があるので、開催検討中
11月26日~27日(土日)秋の研究旅行
「西郷・山岡会見の場、慶喜屋敷跡、次郎長富士の開墾地跡、牧の原台地開墾地・お茶の郷博物館など」
12月21日(水) 望年会 「四谷・赤坂探訪~望年会へ」
18年 
1月18日(水) 通常例会
2月15日(水) 通常例会
3月15日(水) 3月末~4月初旬春の研究会
「山本さんの案内で、上野お花見&上野公園内史跡探訪」
(西郷像・彰義隊碑・寛永寺・東照宮・清水観音堂他名所旧跡が上野に
数多くあり、場所とそこの意味を知らない人が殆どですので解説します。
加えて樋口一葉住居跡から酉の市の鷲神社まで行くかどうか。要検討中)
4月19日(水) 通常例会
5月17日(水) 通常例会
となっております。ご予定をお願いいたします。

投稿者 Master : 18:42 | コメント (0)