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2010年01月27日

2010年2月例会ご案内

寒い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。
2月の例会をお知らせします。

2010年2月例会のご案内
【日 時】2月17日(水) 18:30〜20:00
【会 場】東京文化会館 4F中会議室2(上野駅公園口正面の建物)
     ※会議室が変わります。ご注意ください。
【参加費】1,500円
【内 容】『鉄舟研究発表』 山本紀久雄会長
【お問い合わせ】事務局 田中達也 info@tessyuu.jp

>>>参加お申し込みはコチラ!

投稿者 lefthand : 07:16 | コメント (0)

2010年01月26日

2010年1月例会報告

山岡鉄舟研究会 例会の感想
2010年1月20日(水)
「気数に関すと対仏断行の決断」
山岡鉄舟研究会会長/山岡鉄舟研究家 山本紀久雄氏

山本会長の発表は、「気数に関すと対仏断行の決断」と題し、一刀正伝無刀流の極意である「切落し」から、勝海舟が行った政治的決断をお話しいただきました。

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前回、山本会長から、鉄舟がまとめた「一刀正伝無刀流極意」について解説いただきました。その中の「切落之事(きりおとしのこと)」について、前回の感想でこのように記しました。

切落しが教えてくれること。
それは、逃げない、ということ。
人生の中で壁にぶち当たったとき、そこから逃げるのではなく、真正面から自分の力で立ち向かうことだ。

切落しはまさに人生訓であり、ピンチを捉えそれを成功へと導く勝利への方程式であるのです。
しかし、むやみやたらに使ってよいものではないと、山本会長は語ります。
それは、勝海舟が陸軍総裁に抜擢されたときの政治活動にあらわれているのです。

気数に関す

これは、海舟が言った言葉です。
海舟は、鳥羽伏見の戦いに敗れ江戸に逃げ戻ってきた慶喜の任命で陸軍総裁に就任しました。就任直後の幕閣会議で、主戦論が主流を占める陸軍の閣僚たちを前に、こう言ったそうです。
「およそ興廃存亡は、気数に関す。また人力の能くすべき所にあらず、今もし戦に決せば、上下一死を期すのみ」
このとき幕府の軍勢は官軍を上回っており、数の上では優勢でした。しかし、幕府の存亡は、時の趨勢が味方をしないだろう、ここで戦を起こせば全滅するだろう、ということを述べたのです。ここに、時代の流れを掴んだ海舟の鋭い洞察力があります。

対仏断行の決断

陸軍総裁就任3日後、フランス軍事顧問団のひとりが海舟に会いに来ました。主戦論を主張するためです。しかし、海舟は逆に、ロッシュの所に出向き、フランス軍事顧問団の解雇を申し渡しました。これは、海舟がフランスに対し行った事実上の離縁通達でした。これによってイギリスはフランスと対抗し日本への利権を奪い合う必要がなくなり、海舟にとってはイギリスを幕・官の仲介者としての役回りに変化させ、講話の道へと前進せしめたのです。
後にその実行役として鉄舟が駿府駆けをするに至る、その舞台を用意したのです。

海舟の判断ポイントは、時流を機敏に読み、流れに沿った「切落し」行動を起こしたこと。いくら切落しが重要でも、時代に逆らう切落しは有効とならない。時流を掴むことが重要で、時流を掴みその流れに乗った切落しでなければならない。海舟はそのことを教えてくれるのです。そして、海舟のこの行動は、後に来る「政権交代」への布石となったのです。

現代もまた、時代が大きく変化する流れの渦中にあります。その中で、昨年政権が交代したということは、抗えない時代の流れがそこにあったように思います。そのことを、鉄舟が生きた百数十年前を通じて学び、私たちの生き方を考えることは、大変意義のあることです。
明治維新と同じように政権交代を果たした日本は、今後どのように進んでいくのでしょうか。そのことを、鉄舟を通じて学びたいと思います。

山本会長の研究は続きます。
来月の山岡鉄舟研究会も、是非ともご期待ください。

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2月は2010年2月17日(水)18:30〜東京文化会館 中会議室2です。
皆様のご参加をお待ち申し上げます。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 11:57 | コメント (0)

2010年01月25日

高山・丹生川地区で講演会を行います

高山・丹生川(にゅうかわ)地区で講演を行います。
2月19日(金)13:00〜

この講演会は、丹生川社会教育運営委員会のご依頼を受け、当会会長・山本紀久雄が講演を行います。
高山でも、鉄舟研究の気運が高まってまいりました。
同日の研究会、そして7月19日の命日法要研究会と、さらに高山の地で鉄舟研究の熱が高まることを願っています。

山岡鉄舟講演会

日時:2月19日(金)
   13:00〜14:45
場所:岐阜県高山市・丹生川文化ホール
   高山市丹生川町1
講師:山岡鉄舟研究会会長 山本紀久雄
講演テーマ:山岡鉄舟の生き方から学ぶ
主催:高山市丹生川地区
   社会教育運営委員会・文化協会、
   ふる里歴史学習会

内容
高山で幼少期を過ごし、幕末の政権交代を決定づけた江戸無血開城に貢献し、明治に入ってからは明治天皇の侍従となるなど、明治維新の激動期に活躍した山岡鉄舟。その生き方は、鉄舟が幼少期を過ごした高山の地にて培われました。社会構造が大きく変革しようとしている今、百数十年前に行われた革命の時代に生きた鉄舟の生きざまは、同じように世界が大きく変化しつつある現代の我々の生き方の指針とするにふさわしい、地元の偉人です。鉄舟の生き方を知り、その生き方から示唆を得る講演会です。

●お問い合せは、丹生川社会教育運営委員会まで
 TEL:0577−78−2468

投稿者 lefthand : 13:29 | コメント (1)

2010年01月15日

新将軍誕生

山岡鉄舟 新将軍誕生
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

武士など支配特殊階級を除く江戸時代の人口は、幕府が調査を始めた享保六年(1721)で2606万人、最も少ない時で寛政四年(1792)の2489万人、最も多い時で天保五年(1834)の2706万人で(新編日本史図表)、きわめて安定的に推移していた。

武士を含む総人口は、江戸時代後期(1720 年頃)から明治元年(1868 年)までの150 年で、3,100 万人から3,400 万人強へと1.1 倍になった(第一生命経済研レポート 2005.6)と言われているので、この両者人数差の四・五百万人程度が武士など支配特殊階級と推察される。

この階級の中で、幕末期にどの程度の人間が日本の行く先を考え、それに向かって行動したのであろうか。

殆どの武士達は大勢順応主義であって、波のまにまに漂う生き方を送ったのではないかと思う。ただただ、わが身わが家大事に、なるべく傷がつかなきことを祈って、あとは成り行きに任せようとする生き方で、多分、これが90%を占めていたであろう。

残りの10%が真剣に考えていたと思うが、この中でも多くの人間は大勢を批判し、打開策を講じようとしたものの、封建制度の中でどっぷり浸かっていたのであるから、過去からの道徳基盤規準の範囲内で行動せざるを得なく、これが10%の九割方あったと推測する。

残りの10%の一割方、人数でいえば四・五万人程度の人間が、新時代構築に向け、居面打開を図るため、生死を賭してそれぞれの路線上で行動したと思う。

その路線の違いによるぶつかり合いが、幕末時の京都を舞台に政治対決を闘ったのであり、
それは、
①正常期の幕府優位体制への復帰を志向する将軍譜代結合、
②幕府を排除し朝廷と有力外様大名集団、
③孝明天皇と結合した一会桑グループ
であった。

では、清河八郎はどの路線に属していたのだろうか。

清河はどの路線にも入らず、別物で破格のものであったと述べるのは司馬遼太郎である。

清河が浪士組を京都新徳寺に集め、尊王攘夷の志を直接天皇に上書する内容を読み上げたことは前号で述べたが、その上書の最後に以下の文言が付されていた。

「万一皇命をさまたげ、私意を企て候輩、これ有るにおいては、たとい有司(注 役人)の人たりとも、いささか容赦なく譴責(けんせき)仕りたく、一統の決心御座候間、この段威厳を顧みず言上仕り候」

この文言の意味は、皇命に反すれば、幕府の高官役人、つまり、京都守護職であろうが、京都所司代であろうが容赦せずとがめるという意味であり、この上書に朝廷から「上書を嘉納する旨と、攘夷にはげむべきこと」と関白鷹司(たかつかさ)輔(すけ)煕(ひろ)から勅諚を賜ったのであるから、見方を変えれば幕府より上位機関を樹立させたのであり、

このことを持って司馬遼太郎は

「ついに清河の野望が達せられた。清河はこの瞬間、事実上の新将軍になった。あとは浪士組の名において天皇を擁しさえすればよく、その手は、むかし木曾義仲をはじめ織田信長、豊臣秀吉などの歴代の覇王がやってきたところである」と記している。(幕末・奇妙なり八郎 文春文庫)

出羽(山形)庄内・清川村の酒造業斉藤家の長男である清河が、野望としていた「回天の一番乗り」、つまり、天下の情勢を変えるための手段を持ち得、司馬遼太郎が言う新将軍となったわけであるから、一大事件であり、時代を覆すほどの意味ある清河の策であった。

しかし、この成果の見返りは大きい代償となって清河を襲ってきた。それは、組織力を持つ権力側から見れば、不遜で頭が高い体制無視の行動であり、加えて、清河が採った方策は、体制と権力は利用するが、その見返りは自分の益にするものであって、結果として清河の存在自体が憎しみをもたれ、それが清河の身に翳してくるのは当然であった。

つまり、暗殺命令が体制側から出されることになったのである。

だが、徒手空拳の清河には策を講じるしかなかった。上書を再び提出したのである。それは、その時、外交大問題になっていた生麦事件に関する建白であった。

生麦事件とは、島津久光が幕政改革を目指し、勅使大原重徳とともに江戸に向かい、その目的をほぼ達し帰国の途中、東海道生麦村を通りかかった際に発生したイギリス人殺傷事件である。

島津久光の行列と行きあったイギリス人は四人共騎馬であった。騎乗のまま向かってくる四人に、薩摩藩士が手振り身振りで、下馬し道を譲るよう指示したが、これを「わきを通れ」といわれたと思いこみ、わきに寄ろうとしたが四間(7.2メートル)幅の道は狭く、さらに、道に面して民家の生垣があるので、それ以上は寄れず、一瞬馬の足が乱れ、四人の一人リチャードソンの馬が、久光の駕籠が位置する小姓組の列の中に踏み込んでしまった。

その時、供頭の奈良原喜左衛門が走ってきて、長い刀を抜くと同時にリチャードソンの脇腹を深く斬り上げ、刀を返し爪先を立てて左肩から斬り下げた。野太刀自顕流の「抜」と称する得意技である。リチャードソンは騎乗のまま逃げたが、少し離れたところで落馬し、薩摩藩供目付海江田武次によって「楽にしてやる」ととどめを刺された。

もう二人、マーシャルとクラークにも、小姓組の者たちがそれぞれ抜刀し、斬りかかり、深手を負わせたが、アメリカ領事館に逃げ駆け込み、ヘボン博士の手術で命は助かり、もう一人の女性マーガレットは、帽子を飛ばされたが逃げ切ることができた。

これが生麦事件の概要であるが、イギリス本国は激怒し、文久三年(1863)の年明け早々イギリス外務大臣ラッセルから以下の三カ条が申し入れされた。

それは、生麦事件についてイギリス国女王をはじめ政府の最高首脳部が激怒していることが、長々とつづられた後に、以下の三カ条の要求であった。

① 十分に誠意のこめられた謝罪書を、イギリス女王に提出し、賠償金十万ポンドを支払うこと。この二項目の回答は本日より二十日間猶予をあたえるが、これを拒否する場合は横浜港の艦隊が武力行動に出る。

② 薩摩藩に対しては、艦隊を薩摩に派遣し、リチャードソンを殺害し他の者に重傷を負わせた薩摩藩士を捕え、吟味の後、イギリス海軍士官の眼前で首を刎ね、殺傷されたイギリス人の親族に賠償金として二万五千ポンドを支払うこと。

③ これを薩摩藩主が拒否した場合は、提督が全艦隊に対し「相応と思う強劇なる措置」を指令する。

さらに、末尾には殺人を容認した者として、久光処刑を要求すると書き添えられていた。

幕府閣僚たちは、イギリス側の要求について、ある程度覚悟はしていたが、予想以上の厳しいものであることから混乱、落着きを失い、善後策を講じはしたが、雄藩薩摩藩に対して指示できず、また、指示しても無視され、通告された期限が近づくに従い、イギリス艦隊の攻撃に対し、勝算はないものの応戦することになるであろうから、諸藩に合戦準備を命じ、家族たちを国許や知行地に避難させ始め、その動きに江戸市中は大混乱に陥った。

ところで、生麦事件発生当時の日本側の感覚はどうであったのであろうか。

まず、幕府は怒り狂う各国外交官たちに、ひたすら恐縮するばかりで窮地に立ちいたったが、当事者である島津久光は、幕府を無視し、仮名の足軽「岡野新助」なるものが殺傷し、同人は行方不明であるとの届を老中板倉勝静に提出し、行列をそのまま進めて行った。

また、江戸の薩摩藩屋敷では、今回の藩士の処置を当然とし、賞賛する声が高く、さらに、東海道筋の庶民も「さすがに薩州さま」と歓呼し、京都の薩摩藩邸に久光が到着した際には、久光の行列を見ようとして多くの男女がむらがり、薩摩藩を賞賛する声がしきりであり、朝廷も「生麦事件に関するイギリスからの要求は一切拒否する」という朝議をしたほどであった。

このようなタイミングに、またしても清河は以下の上書を奉ったのである。

「私ども儀、微賤ながら尽忠報告のため罷り出で候えば、かく外国御拒絶の期なり候上は、関東において何時戦争相はじまり候もはかりがたく候間、すみやかに東下、攘夷の御固めにお差しむけ下さるべく・・・」

浪士組を、攘夷の固めとして江戸に帰すよう、命令を頂きたいと願ったのである。これに対し、関白鷹司輔煕から達文(たっしふみ)が下された。

「イギリスからの三カ条の儀申し立て、いずれも聞き届け難き筋につき、そのむね応接におよび候間、すみやかに戦争に相成るべきことに候。よって、その方引き連れ候浪士ども、早々帰府いたし、江戸表において差図を受け、尽忠粉骨相勤め候よう致さるべく候」

確かに、関東ではイギリス艦隊の攻撃によって戦争になるという騒動で、またしても清河の策は時宜にかなっていたが、実は、清河の腹の中には別の謀略が潜んでいた。

それは「虎(こ)尾(び)の会」の盟約書に記していた横浜の外国人居留地の焼き討ちであり、その先に攘夷挙兵という壮大な企みであった。

今まで最終目的をここにおき、手の込んだ細工を弄して、浪士組を編成し、京都まできて、勅諚を賜ったのであるから、それを御旗に目的を果たすためには、江戸に帰らないといけない。そのための上書であり、その回答が達文であった。

この達文は浪士組責任者の鵜殿浪士取扱から、将軍家茂に付き従い上京した老中板倉勝静に報告され、板倉はこれら清河の策を見通せなかったことに怒りと憎悪を持ち、

「それにしても、清河をこのままに捨ておけんな。いずれは始末せねばならぬ男だ。京都におくと危険だろう。江戸に返すことにしたい」と、達文を逆に利用して、京都から清河を追い払い、心中に清河を屠る決心を固めたのである。

それ以後の経緯と、新撰組誕生、及び同時に清河八郎暗殺の内命が芹沢以下に伝えられたことは前号で述べた。(永倉新八口述記録「新撰組顛末記」新人物往来社)

さて、その清河暗殺について、同じく「新撰組顛末記」に記されているので紹介したい。

「ある日八郎(清河)が山岡鉄太郎とただふたり、当時土州候の旅館にあてられた大仏寺へでかけることが芹沢の耳にはいった。そこで好機逸すべからずというので十三名は二手にわかれ、芹沢は新見、山南、平山、藤堂、野口、平間の六人とともに四条通り堀川に、近藤は土方、沖田、永倉、井上、原田の五人を同行して仏光寺通りの堀川にいずれも帰途を擁して目的をはたそうと待ち伏せる。永倉の組ではもし待ち伏せしているところへ清川らが通りかかったら永倉がまず飛びだして山岡を後方へ引き倒し『お手向かいはいたさぬ暫時御容赦!』というを合図に、近藤ら五名は清川を斬ってすてるという手順であった。

夜はふけて人通りもまれに水を打ったような京の巷、清川、山岡の両人はなに心なく四条の堀川を通りかかった。とみた芹沢は刀の柄の目貫をしめし足音をしのばせて清川のうしろから抜打ちしようと鯉口まで切ったがふと山岡の懐中に御朱印のあることに気がついてハッと身をしりぞいた。

御朱印というのは将軍家から山岡と松岡万にあたえられた『道中どこにても兵を募ること苦しからず』とあるもので、山岡は江戸発足の当時から天鵞絨(ビロード)の嚢(ふくろ)にいれ肌身離さず持っている。御朱印に剣をかざすは将軍家に敵対するとおなじ意味に当時の武士は考えていたものだ。これがため芹沢はついに剣を抜かずにしまったので清川はあぶない命をまっとうした。また近藤や永倉らがいまかいまかと待っていた仏光寺通りへは清川が通りかからなかったのでこれも無事にすむ。会津候はますます清川を暗殺せよと焦慮するのであった」

ここで言う会津候とは幕府側からの指示と読みかえた方がよいが、いずれにせよ京都では清河暗殺が失敗したのである。

ところで、浪士組が江戸に戻るべく出立しようとした矢先、江戸から幕命によって新たに浪士組取締として六人の旗本が着任した。佐々木只三郎他であって、いずれも講武所教授方で、旗本の中では屈指の使い手である。

勿論、これは幕府による清河暗殺の実行部隊である。次回は清河暗殺とそれに鉄舟がかかわる動きについてふれたい。

投稿者 Master : 11:28 | コメント (0)

2010年01月05日

山岡鉄舟研究・・・新撰組誕生その三

山岡鉄舟研究  新撰組誕生その三
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

浪士組一行は、文久三年(1863)二月二十三日京都に入った。ちょうど等持院の足利三代木像を梟首するという事件が発生したタイミングで、京都がテロ続発する無政府的状態であり、幕府の権威が地に落ちている実態を改めて知ることになった。

浪士組の本部を壬生村の新徳寺におき、ここで鵜殿浪士取扱いの訓示を受けた後、その日はそれぞれ定められた宿舎、鵜殿や鉄舟以下幕府側は郷士前川壯司宅に入り、他の浪士たちはそれぞれ分散して指定された宿舎に入ったが、落ち着く間もなく、浪士たちには再度本部に集まるよう呼び出しがあり、その日の夜、再び新徳寺に集められた。

何事かと本堂に集まった浪士たちの前には無人の円座があり、それを大蝋燭が煌々と照らしていた。誰によって自分たちは集められたのか、あの円座には誰が座るのか、それを訝しげに見つめていると、やがて清河が入ってきて、円座にぴたりと座ると一瞬ざわめきが広がったが、静まるひと時を待っていたかのように、清河が語りだした。

「お疲れのところ集まっていただいた趣旨について説明したい。そもそも今回の上洛目的は何であったのか。将軍を警備するためという理由であったが、よく考えていただきたい。将軍が上洛するのは何ゆえか。それは尊皇の誠意を示し、朝廷に攘夷を宣するためである。われわれ浪士組も尽忠報国の志ある者は来たれという、募集に応じて集まった草莽の英才であるが、その行動目的は尊皇の誠意を示し、攘夷を実行することである。ならば、将軍と同じ目的であり、そうならばわれらの尽忠報国の志を、出来得べくば上聴に達することが叡慮に奉じることではないだろうか」

将軍と自分達浪士組を対等の地位におく、強引極まる論理である。だが、清河の弁舌には鬼気迫るものがあった。今まで多くの修羅場をくぐり抜けてきた清河のすべてが、この一瞬に凄まじい激流エネルギーとなって、本堂内を漲り通り過ぎ、その迫力に誰も口を聞けず、次の清河の姿を見入った。

「ここに、今申したわれわれの志をしたためた上書がござる。お読みいたそう。よろしいか」と、鋭い視線で一同を眺め渡し、読み上げ始めた。

「謹んで上言奉り候。今般私ども儀上京仕り候儀は、大樹公においてご上洛の上、皇命を尊戴し、夷賊を攘払するの大義、ご雄断遊ばされ候御事につき・・・私どもも同じくただ尊攘の大義のみ相期し奉り候・・・これは幕府のお世話にて上京仕り候えども、禄位等は相受け申さず候。ただただ尊攘の大義のみ相期し候、これ我ら一統の決心にて御座候、この段威厳を顧みず言上仕り候」

つまり、将軍警護ということで上京はしたが、まだ具体的に幕府に命で行動に服していなく、我らの本来使命は尊王攘夷であるから、直接に天皇に上書を奉ることを許可願いたい、という要旨であるが、これが長文となって朗々と読み上げられるので、その文中に尊王攘夷の趣旨とともに、倒幕に転じられる字句が慎重に加えられていることを聞き取れるはずもなく、ただただ圧倒され、反論する余地もなく、清河が読み終わっても、浪士たちは茫然とし、粛然としたままであった。

だがしかし、しばらくすると一人だけ清河に対して野太い声での発言があった。それは芹沢鴨であった。

「奉書はともかくとして、そうするといったいわれわれの身分はどうなるのか」と。この無遠慮な声ではっと気づき同調する者が、芹沢の周囲から上がり、近藤勇の一派もうなずき、微妙な雰囲気になりかけたが、

「ただいまの意見は上書を奉ることに反対ではないと理解する」と、あくまでも強腰で進める清河によって、朝廷に上書を奉ることについてこの場は終わった。

翌日、清河が選んだ六名が、受け付けられなければ腹を切る覚悟で上書を学習院の国事参政取次役に提出、予想通り壁は厚かったが何とか受理され、その結果は二十九日に知らされたが、その際、何とこの年に関白となった鷹司(たかつかさ)輔(すけ)煕(ひろ)から

「上書の言、叡聞に達し、主上は叡感斜めならず、なお言上したき場合は、学習院に参上せよ」との言葉とともに、勅諚を賜ったのである。

勅諚には「上書を嘉納する旨と、攘夷にはげむべきこと」と記した簡単な文言だったが、清河にとっては望外の首尾であった。

何故ならば、これによって浪士組は勅命を受けた真の尊王攘夷党に変身し、勅諚という錦の御旗を持ったゆえ、幕府が簡単に手を出せない存在となってしまい、清河はこの二百名余を実質的に自らの配下として握ることになったからであった。

ところで、ここまでの間、清河は鉄舟に対しても、一連の行動を相談せず報告もしなかったが、決死の六名が学習院に向かった後、前夜の顛末を含めて伝えた。

さすがに鉄舟は驚き、強引なやり方に一瞬沈痛な顔つきとなったが、結末を鵜殿に報告、鵜殿は老中の板倉勝静に伝えたのである。

板倉は驚き、怒り、清河に対する不信感をさらに増したが、勅諚を握られていては何とも致し方ない。
「それにしても、清河をこのままに捨ておけんな。いずれは始末せねばならぬ男だ。京都におくと危険だろう。江戸に返すことにしたい」と独り言のように述べ、

「清河を江戸へ追いやるが、二百名をすべて与えることはない。党というものは、必ずその中に不平の者がいるはずだ」
「確か、芹沢鴨や近藤勇などが異論を持っているようで」
「それだ。京都に残ってあくまでも将軍警護に励みたいという者を切り崩すのだ」
「弱音を吐くようでございますが、こうなりますとそれがし一人では荷が重く、しかるべき人物を頭株にお加えいただきとうございます」

この申し出に板倉は苦笑しつつ、すでに頭の中にはある人物を思い浮かべていた。

それは将軍に伴って上洛した奥詰槍術師範の高橋謙三郎(泥舟)であった。早速、泥舟を諸太夫に任じ、伊勢守とし、新たに浪士取り扱いとしたのである。

一方、鵜殿は内々京都残留者を募り、予測どおりそれに応募してきたのが芹沢、近藤等十三名であった。

二月二十九日、浪士組は全員新徳寺に集められ、席上、江戸への帰還が伝えられたが、異議を申し出たのが芹沢であり、近藤であった。

この経緯については、新撰組幹部生き残りである永倉新八が口述した記録「新撰組顛末記」(新人物往来社)に以下のように記されている。

「芹沢鴨以下十三名の同志に江戸帰還を反対された清河八郎はいかり心頭に発し、『お勝手に召されい』とばかり、畳をけって席を立った。十三名はその足で鵜殿鳩翁をたずね委細を話すと鵜殿も芹沢らの意見にしごく同意し『そのしだいは拙者から会津候へ伝達するであろう』ということとなり、会津候すなわち松平肥後守は『この十三名は当藩であずかる』と芹沢らをあずかることになった。そこで八木の邸宅の前へ『壬生村浪士屯所』と大きな看板をかかげ十三名はここに独立した。同時に清川八郎暗殺の内命は会津候から芹沢以下に伝えられたのである」

ここに京都守護職である会津藩のお預かりとして、新撰組が誕生し、幕末史を血で染めるテロ集団がスタートしたのであった。

このように近藤勇や芹沢鴨のグループが、会津藩を頼って浪士組を離脱したわけであるが、ここで検討しなければならないのは、何故に会津藩が京都に在勤しており、会津藩が新選組をお抱えにしたかである。

それは、会津藩が「京都守護職」に任命されたからであるが、この新たに設置された京都守護職という機関は、文久二年(1862)六月、島津久光とともに幕政改革の勅使として大原重徳が派遣された結果、七月に一橋慶喜が「将軍後見職」に、松平慶永が「政治総裁職」となり、この二人の決定により八月に「京都守護職」が設置されたのである。

その経緯を渋沢栄一編の『昔夢会筆記/徳川慶喜公回想談』(平凡社)、これは明治も終わりに近い頃、かつて一橋家の家臣であった渋沢栄一が中心になって、まだ元気だった慶喜を囲んで、幕末当時の事情を聞くための座談会を開いてまとめたものであるが、その中で慶喜は次のように語っている。

「京都の方は昔から所司代で間に合うのだ。けれども所司代は兵力が足らない。ところで浪人だの藩士だのが大勢京都へ集まり、なかにも長州だとか薩州だとか、所司代の力で押さえることはできかねる。そこで守護職というものができたんだ。その守護職のできた最初の起こりというものは、所司代の力が足らぬから兵力を増そう、そこで兵力のある者をあすこに置こうというのが一番最初の起こりだ。それで肥後守が守護職になった」

しかし、この慶喜の発言と異なる別の背景があったことが、徳富蘇峰著『近世国民史/文久大勢一變』(民友社)によって述べられている。

「元来井伊家は、其の封を江州彦根に享けて以来、京都の保護を、其の任務の一としてゐた。然るに外交問題の発生以来、水戸斉昭が、頻りに京畿の防備の不完全なるを痛論し、・・・(途中略)・・・主上にも井伊家の防備にては御安心あらせられず。殊に萬延元年三月三日井伊直弼の横死以後は、猶更らのことにて、京師の防備は、刻下の急須なる問題となって来た。加之(しかのみならず)京都には諸浪士入り込み、随分血醒(ちなまぐさ)き仕業も出で来り、愈々其の安寧秩序を維持するに、武装的實力を必要とする場合となって来たから、守護職の制定は、一日も忽(ゆるがせ)にす可からざる事となった。

折しも島津久光が、大兵を率ゐて上京したから、朝廷にては薩藩をして、此の任に當らしめんとの思召(おぼしめし)が無いでも無かったが、それには薩藩と相對の地位を占むる長藩では固(もと)より懌(よろこ)ばず、さりとて幕府に於ても、之を薩の一手に任ずるは、尤も危険としたる所にして、斯(か)くて幕府とは切っても切れない関係ある會津が、其撰に中りたるは、當然過ぎる程當然であった」

また加えて、蘇峰は同じ『近世国民史/尊皇攘夷篇』で次のように補足している。

「惟(おも)ふに幕府が會津藩主を、京都守護職に任じたるは、當時の政策としては、尤も機宜に適したるものであった。會津藩は薩長二藩に對抗する程の實力を有しなかったが、それでも各一藩に對しては、互角の勝負をなす可き位置を占めた。第一其の資望は、所謂(いわゆる)る幕府御家門の一であれば、固より申分は無かった。藩祖正之以来尊皇奉幕を、唯一の目標としたれば、公武合體(がったい)は、傳家の政綱と云ふも可なりだ。加之従来文武を奨励し、特に北方の強として聞こえたれば、誰も其の武を侮るものは無かった」続けて

「松平容保は明けて文久三年正月二日始めて参代し、小御所に於て龍顔を拝し、天盃を賜った。且つ傳奏を以て、前年幕府に建白し、勅使待遇の禮を改め、君臣の名分を明らかにしたる功を叡感あらせられ、特に緋の御衣を下賜せられ、戦袍(せんぼう)(注:陣羽織)若しくは直垂(ひたたれ)(注:武家の礼服)に製す可しとの御沙汰を被った」さらに

「松平容保は、始めて天顔を拝したが、爾来彼は孝明天皇より少からざる御信頼を忝くし、専ら輦轂(れんこく)(注:天皇の乗り物)の下にありて、安寧秩序の維持に任じ、誠心誠意その對揚につとめた」

このような蘇峰の記述は何を意味しているのだろうか。

それは、京都守護職という幕府によって新設された機関が、一方で幕府の命を受けつつも、同時に朝廷の命令・指示も不断に直接受領する存在になっていたという事実実態であった。つまり、朝廷と幕府の結合と融合を第一目的とするために、幕末期における特有の新しい政治機関が誕生していたという実態認識と、孝明天皇が松平容保へ強い信頼をおいていたという事実であり、さらに、これは会津藩が京都守護職という立場を通じ、朝臣化への動きにつながっていったと思われるのである。

このことが一般的にあまり理解されていないが、これを鋭く指摘しているのは前国立歴史民俗博物館館長である宮地正人著『歴史の中の新選組』(岩波書店)である。

「将軍後見職の一橋慶喜も、一八六四(元治元年)年三月、“禁裏守衛総督摂海防禦指揮”に、朝廷から直接に任命されたように、幕府の指揮圏から離れ、朝臣化の途をたどることとなる。さらにその直後の四月11日京都所司代に、京都守護職会津藩主松平容保の実弟で桑名藩主の松平定(さだ)敬(あき)が就任するに至り、ここにおいて、時の世に『一会桑』と称せられる、京都の朝廷と江戸の幕府を政治的に媒介する“京都朝幕政権”とでも表現しうるものが成立してくるのである。

従って、幕末期の政治過程は、
① 正常期の幕府優位体制への復帰を繰り返し執拗に志向する、私の用語でいえば『将軍譜代結合』といいうる政治集団、
② 幕府を排除しつつ朝廷と諸大名(特に有力な外様諸大名)との直接結合を狙う、長州や薩摩などの外様諸藩の政治集団、そして
③ 孝明天皇とのしっかりとした結合の中のみ、幕府の唯一の活路が見いだせるとした一会桑グループという、三つの政治集団の複雑で錯綜した政治闘争の過程にほかならない」と。

このあたりの理解がないと、慶喜の江戸無血開城におけるすっきりしない行動心理背景と、官軍が会津藩攻撃を徹底目的とした背景がつかめないと思う。

いずれにしても、新撰組の誕生の背景には、このような新しい政治動向関係が複雑に絡み合っていたことを理解したい。次回は清河が江戸に戻り非業の最後をとげ、それに鉄舟がどう関わっていたかについてふれたい。

投稿者 Master : 11:52 | コメント (0)