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2005年05月25日

静岡市伝馬町訪問

 
 
静岡市伝馬町の松崎屋源兵衛宅跡に建っている「西郷・山岡会見之史跡碑」は、原田勇氏がご努力し、昭和43年3月に建立されたものです。この碑は、原田勇氏の所有となっておりますように、原田氏の父上と勇氏が二代に渉って関係方面に努力されこの地に現在立派に鉄舟の業績を証明しているものです。
今回(5月23日)原田勇氏と奥様に碑の前でお会いし、いろいろなお話を伺ってまいりました。詳細については月刊ベルダ誌及び鉄舟例会でご報告いたします。

投稿者 Master : 10:40 | コメント (0)

2005年05月20日

サロンメンバーのブログのご紹介

サロンのメンバーの高橋さんがウェブログを公開いたしましたので、ご案内いたします。

http://takahashi-ikuo.de-blog.jp/

投稿者 Master : 22:07 | コメント (0)

新会場にて例会始まる

岩澤さんより「私と筆」発表
筆のかな文字が好きで、書に入る。鉄舟への関心も書からであった。
(右)様々な美しい書の資料。

   
山本さんより「鉄舟に見る武士道忠義」発表。
6月から始まる月刊ベルダに連載のために、原点に戻り鉄舟を研究発表。
(右)その鉄舟の原点でもある西郷隆盛との会見の場の写真。

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鉄舟研究に相応しく、落ち着いた学びの雰囲気一杯の会場で、熱心に聞き入る参加者。

投稿者 Master : 21:49 | コメント (0)

2005年05月18日

月刊ベルダに連載はじまる

当サロンのメイン講師であり山岡鉄舟研究家の山本紀久雄氏が、月刊ベルダの6月号より山岡鉄舟について連載を始めることになりましたのでご案内いたします。
これもぬりえ美術館開館以来、毎月鉄舟・21・サロンにおいて、山岡鉄舟の研究成果を講演し、またホームページへの掲載を継続して研究した成果が、今回の連載に結びついたものでございます。是非ご一読いただきますようお願いいたします

投稿者 Master : 22:56 | コメント (0)

新渡戸稲造の武士道について講演

6月例会は、6月15日(水)(18:30~20:00)上野の東京文化会館(中会議室1)において開催いたします。
発表者は、二見さんと山本さんです。
1)二見さんからは、「武士道」のつづき。いよいよ新渡戸稲造の武士道につての発表です。

2)山本さんからは、「鉄舟研究」の発表をしていただきます。
6月もご参加をお待ちしております。


投稿者 Master : 22:54 | コメント (0)

2005年05月11日

岩澤さんから、「私と筆」を発表

1)5月の例会は、岩澤さんと山本さんです。
岩澤さんからは、「私と筆」と題しまして、発表していただきます。

2)5月からの会場案内
5月の例会から会場が変わります。
新会場は、上野の「東京文化会館 中会議室1」となります。
東京文化会館 TEL:03−3828−211
上野の公園口の前に東京文化会館があります。コンサート会場のある入り口ではなく、「楽屋口」からお入りください。18:00から開場。
尚会議室は、15分前でないとお部屋の鍵がもらえないため、それまで入場することができませんので、ご了承願います。
5月も大勢のご参加をお待ちしています。

投稿者 Master : 00:14 | コメント (0)

鉄舟研究 「徳川宗家18代当主に聞く」

山本さんの発表
3.1 
1)新渡戸稲造の略伝を受けて
新渡戸稲造の父親十郎は、お留守居役ということであったが、その役目は重要な役で、今で言うところのNYの国連大使のようなもので一番最先端の仕事をしていた職務。
新渡戸稲造のモットー「最も身近にある義務を果たせ」ということだが、日経に載っていた松井選手の言葉を思い出した。彼のも「常に戦っているのは自分である」すなわち一番身近な存在は自分であり、その自分と戦っていると言っていた。
2)中国での反日デモのことを聞かれるが、上智大学の猪口邦子教授は以下のようにコメントされている。「歴史的認識だけでなく、日本が国際連合やODA等に幾らお金をだして支援をしているのか世界全体としてランキングを提示したら、日本の位置付けが分かる。日本がダントツである。」反日だけに関心を持たないほうがいいのではないか。
3)4月23日に静岡の山岡鉄舟会の総会が開催されるので参加する。そして牧の原台地、お茶の開墾の場所や鉄舟と西郷の会見した場所をみてくる。それは月刊ベルダに山岡鉄舟の連載を開始するので、その雑誌は官庁や記者など、プロの人たちが読んでいるので、原点に戻って、書いてみたいと考えている。編集長からは、山岡鉄舟の目を通して、明治維新を語って欲しいと言われている。佐倉にある、国立歴史民族博物館は、歴史に関して日本では一番の権威のある所ですが、ここの館長の宮地正人氏は、新しい視点の新撰組の本を出している。私も、「山本鉄舟」を作り上げたいと思っているところである。

3.2 レジメより
1)乃木大将の統率力
4月3日の跡見学園の観桜会において、山崎学長が乃木大将の新聞のコピーを配布して、お話をした。学長は、乃木大将と一緒に殉死した奥様について、跡見花蹊が日記に残したことをご紹介された。
私が思う乃木大将は、死んでも死んでも命令のついていく兵隊を動かせるほどの人物にどうしてなったかということに関心をもった。
乃木大将は、死ぬ覚悟もある人を動かすことができる「統率力の人」である。しかし、鉄舟は、統率力ではなく、「行動力の人」である。これはどういう人かというと、指示を受けたことをやり遂げる忠誠心が強い人ということである。その忠誠心とは、国家とか大きいなものへの忠誠心である。
2)江戸風景から江戸時代を推察
地図は山崎闇斎によるもの。図の解説。手前は魚河岸、川に船が沢山描かれている。その船を漕ぐ櫓は8丁、4丁、2丁とあるが、8丁は8人で漕ぐが、今の新幹線のように早い船。これで魚を届けた。橋の上には、車がない。道は人の通るもの。
天秤棒を担ぐ人。彼らは、半分は売る者、半分は買う者。廃品回収業をしていた。当時は日本全体が環境都市であった。
ペリーがやってきたときも、想定問答集があり、「3000万人の人口を養えているのだから、外国が入ってこなくてもやっていける。但し外国の船が食糧、薪などを欲しいときには差し上げる」というと想定していた。神奈川条約は、これで済んでいる。
将軍とは武力でもって国を治める。しかし武で抑えられなかったので、将軍の権威は落ちることになった。
100万人都市の江戸。世界最大の都市であった。そこを南町と北町奉行所の2つ、290人で、警察、消防、土木の仕事をしていた。それには、町名主をおいて人々の動静をつかみ、目安箱を設置した。ここには「政策提案」「不正」「何もしない役人」の件を入れられるようにしていた。その鍵は将軍だけが開けるこ
とができ、今も徳川家の宝物として残っている。
イザベル・バードの書いた本によると、1840年九州の女性3人が5ヶ月かけて旅行をしているが、女性が安心して旅行できような治安の良いところは日本しかないと書き残している。
これらは、我々が知らされている江戸時代の情報とは、違うのではないか。それは、明治政府が江戸を抹殺したためである。
3)会津藩の武士教育
寛政11年(1799年)「日新館」を作る。在校生常時1000名を超えた。

心得
1.年長者の言うことをきかねばなりませぬ。
2.年長者にはお辞儀をしなければなりませる。
3.虚言(うそ)を言ってはなりませぬ。
4.卑怯な振舞をしてはなりませぬ。
5.弱いものをいじめてはなりませぬ。
6.戸外(そと)で物を食べてはなりませぬ。
7.戸外(そと)で婦人(おんな)と言葉を交わしてはなりませぬ。
8.ならぬことは、ならぬものです。
会津武士の心の中に、8の「ならぬものはならぬ」が叩き込まれた信条となった。

家格によって基準に達しないと藩の役職には就けなかった。
500万石以上 長男は1等。300万石以上500石未満 長男は2等 次男以下3等
来月からは、また鉄舟研究をお話いたします。

●事務局の感想
今月は、徳川宗家18代が中心の発表でしたが、来月からはまた鉄舟の研究をさらに深めた内容で展開されることになりました。毎月楽しく鉄舟に関連する話を発表いただいていますが、さらに研究を追求し、いかに山本鉄舟になるのか、発表が待たれます。
5月もご参加お待ちしています。

投稿者 Master : 00:05 | コメント (0)

「現代に生きる武士道 2」

二見さん発表4月(3)
●台湾総督府に
農商務大臣と台湾総督府民政部長官の後藤新平から台湾に是非来て欲しいと招聘がきており三度目にようやくその求めに応じた。この任務に就く前に一年間の猶予を求めた。欧州の植民地、特に熱帯地方のものに関する調査のため欧州を巡回した。
●一九〇二年二月 稲造は、台湾総督府技師に任命された。そのころの台湾は、明治二八年(一八九五)四月に日本の領土になったばかりであった。しかし最初三年間はうまく統治ができないでてこずっていた。台湾統治へ補助金はうまく機能しなかった。新たに一八九八年二月赴任した児玉源太郎新総督は、副官である後藤新平への権限を大幅に増やした。児玉、後藤のコンビ三年で行政上の問題が解決し、後は経済開発が残されていた。そこに殖産課長となった稲造が就任し精糖産業を再興して、その効果が出て数年の間に生産高が三倍になり、その為、日本は砂糖を輸入しないですむようになった。
●「武士道」の影響
武士道がアメリカで出版された一〇ヶ月後、日本で明治三四年(一九〇一)一〇月 出版。「武士道」は、日本版、アメリカ版、イギリス版だけでなく、印度の言語、ドイツ語、イタリア語、ポーランド語、ノルウェー語、スペイン語などにも翻訳された。
● 明治三八年(一九〇五)四月一二日 メアリー夫人とともに明治天皇に招かれて皇居を訪れ、天皇に「武士道」を献上した。時に稲造四三才。 
           

● 明治三九年(一九〇六)七代目の第一高等学校長、
教え子  矢内原忠雄 南原繁 森戸辰男 河合栄治郎 後藤隆之介 
明治四十二年(一九〇九) 東京帝国大学教授にも任命される。
明治四十四年(一九一一)カーネギー平和基金による日米交換教授として稲造は招待状が届き、明治四四年九月一日に横浜を出航し、翌大正一年九月に帰国した。
「われ太平洋の橋になりたい」と述べた。
大正七年(一九一八) 五六才 東京女子大学初代学長となる。
● 大正九年(一九二〇) 五八才 正式に国際連盟事務局次長となる。
ジュネーブへ移る。
功績が大きいもの   知的協力委員会の仕事
委員として12人 物理学のキュリー夫人  アインシュタイン教授
「日本の恥となるようなことはするな」  モットー
連盟設立まもない頃 あるパーティで ジュネーブで最も人気のある人物を
1、2、3と 順番に三人上げたうち全員が 新渡戸稲造を上げた。
昭和一年(一九二六) 六四才 国際連盟事務局次長辞任。貴族院議員となる。
昭和四年(一九二九) 稲造は太平洋問題調査会(IPR)理事長に推挙される。
昭和八年(一九三三) 七一才 カナダでの弟五回太平洋会議に出席のため出発。一〇月一六日 ビクトリア市で膵臓園と肺炎で逝去。
バンクーバーの教会で告別式が行われた。

新渡戸稲造は、死後 勲一等瑞宝章が贈られ、天皇は勅使を派遣された。
青山斎場で行われた葬儀には、約三千人が出席された。
新渡戸稲造は生涯を通して道徳主義を貫いた
モットーは 「最も身近にある義務を果たせ」

●事務局の感想
新渡戸稲造の名は武士道と共に有名ですが、今回の発表を聞いて新渡戸稲造の活躍を知りました。彼のような人でも、日本にいたら武士道を書くことはなかもしれません。外国に住んで、外国の人から問われたことが、書くキッカケになったように思います。次回は、核心の新渡戸稲造の武士道になりますので、ますます楽しみです。

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2005年05月10日

「現代に生きる武士道 2」

二見さん発表4月(2)
●結婚 
明治二十四年(一八九一)元旦 二十九歳の稲造は 三年越しの恋が実りメアリーパターソンエルキントン二十四歳と結婚した。彼女は敬虔なるクエーカー教徒でフィラデルフィアの実業家の一人娘であった。
●明治二十四年(一八九一)新妻と二人で日本に向かった。六年四ヶ月ぶりの帰国だった。東京から札幌に戻り、札幌農学校教授となった。就任当時の農学校の教員は九人であった。稲造は、最初の年、一週間に政治経済学三時間、農政学三時間、ドイツ語六時間、英作文一時間、倫理学一時間を受け持った。
稲造は、倫理学を最優先として扱った。
●三四才のメアリーは明治二五年(一八九二)、男児を難産の末出産したが一週間で逝去。彼女は数カ月病に伏した後、打撃を受けた心身の療養にフィラデルフィアに里帰りをした。
●稲造の活躍をあげるといつ休むのかと思うほどである。農学校では、規程の授業だけでなく、図書館主任、舎監、衛生委員長、入試委員長などをつとめる傍ら北海道庁顧問、札幌内外の約二〇の組織に関わり、赤十字社、刑務所改善、教育機関の支援、自宅での聖書の研究と英語のクラス、夜は遠友夜学校と。
明治三〇年(一八九七) 三五才 さまざまな仕事を引き受け、精神的葛藤にも耐え切れず、とうとう病に倒れた。   
●彼の願いはあまりに多岐であった。こういうなかで稲造は神経衰弱になってしまった。札幌農学校に休暇届けをし、湘南、鎌倉、沼津と転地しながら静養した。しかし完治しないので医師の勧めにより、カリフォルニアで療養するため、明治三一年(一八九八)道庁と農学校に辞表提出し、その年の七月にアメリカに渡った。

●「武士道」の執筆
サンフランシスコから九〇マイル南のカリフォルニア州のモントレー半島、そしてサンタ・クララ郡のカレッジパークと移り静養を続けた。ここで有名な「武士道」(Bushido, The Soul of Japan)を書き始めた。時に一八九九年春から秋にかけてであった。稲造は三十七才になろうとしていた。書くに当たってパシフィク大学の図書館を利用したようであった。
稲造は「武士道」を最初から書こうとしていたのではなかった。「何か専門的な知識を生かして書いてみたい」と願っており、静養していて落ちつきを取り戻し時間ができたので書き上げたものであった。
●「武士道」のまえがきに、「武士道」を執筆に到った動機が記されている。
十年前に、ベルギーの法学者のお宅にお伺いした時、老法学者、ド、ラヴレー氏から稲造は質問を受けた。
「お国の学校では宗教教育などしないのですか」 
「そうなのです」
「宗教なし! ではどうやって道徳教育を授けるのですか」
西欧では、キリスト教が教育に先行し、学校教育の母体であった。だから道徳を教えない学校教育などはなきにひとしいとさえ考えられていた。
この質問に、稲造はとっさに答えることが出来なかった。そう日本では、道徳の教えは学校では教えられなかった。これら道徳を教えてくれたのは武士道なのだと気がついた。            
●明治三二年(一八九九)一二月 37才 「武士道」の出版を友人に依頼し、フィラデルフィアにある小さな出版社が選ばれた。翌年(一九〇〇)年一月初旬には第一版が米国の書店に並んだ。
●「武士道」の評価
日露戦争によって引き起こされた日本への関心の高まりの中で、予想を越えて国際的に評価されていった。一九〇五年に二割程頁を増やし、別の出版社から一九〇五年六月に「武士道」が発行された。ポーツマスで日露戦争の和平交渉が始められたタイミングであった。「武士道」は、日本人の特質である武勇の原因を明らかにして、日本軍の勝利に説明を加えることになった。

投稿者 Master : 23:55 | コメント (0)

「現代に生きる武士道 2」

4月の例会より
1.事務局のご案内
1)鉄舟の扁額の読み方に関する問い合わせがあり、永島さんに解読していただき、回答をいたしました。
2)新しい参加者
本林さんが参加されました。今後ともお時間があるときはご参加よろしくお願いいたします。
3)ぬりえ美術館より
●香港の雑誌”NEXTMAGAZINE”に都電荒川線の特集があり、その中にぬりえ美術館の記事が掲載されていたそうで、香港のおもちゃデザイナーの方が来館された。
●童謡の会の方からのニュース。TBSラジオの安住アナウンサーが、「現在、ぬりえが話題となり流行しているようだが、それのもとになっているのは、ぬりえ美術館というものができたからである」とラジオで発言されていたそうです。そのように言っていただけて、嬉しく思いました。

二見さん発表4月(1)
新渡戸稲造 略伝  (一八六二〜一九三三)について
「武士道」の著で有名である新渡戸稲造の略歴
台湾総督府の高官   第一高等学校校長  東京帝国大学教授
東京女子大学初代学長 国際連盟事務局事務次長 勅撰貴族院議員
太平洋問題調査会理事長を歴任した。死後 勲一等瑞宝章が贈られた。

●幼年時代
新渡戸稲造は文久二年の(一八六二)九月一日 岩手県盛岡で生まれた。南部藩上級武士の子。曾祖父伝蔵は儒学者、兵法家。祖父の伝(つとう)は十和田湖周辺の荒野の潅漑工事を何と二〇年かけてやりとげた。
父の十郎は お留守居役として江戸に詰め、南部藩の勘定奉行であったが、無実の中傷を受け、蟄居させられた翌年、四十八歳で亡くなった。
幼年期、かかりつけの医者から英語を兄道郎と一緒に教わった。剣術と共に槍と柔術の稽古を受けた。父の十郎は、自宅の敷地に柔術の道場を構えていたという程武道に熱心であった。  
●青年時代
明治四年(一八七一)、稲造九才。母のせきは、兄道郎と弟稲造を東京で学ぶのが一番であると判断し、亡き夫の末弟で銀座通りに洋服店を営んでいた太田時敏がいる東京に送り出した。明治八年(一八七五)稲造一三才。二年前に政府によってできた難関の東京外国語学校の入学試験に合格した。
●札幌農学校入学
稲造は一六才の明治一〇年(一八七七)に札幌農学校に希望を抱いて二期生として入学した。祖父、父と続いた開拓精神を引き継ぐためであった。札幌農学校は「少年よ 大志を抱け」で有名なあのウィリアム・クラーク博士が校長であった学校。  
二十二人の二期生のうち、新渡戸稲造、内村鑑三、宮部金吾、他四名が入信した。
明治十四年(一八八一)札幌農学校を卒業し開拓使に入った。開拓使は解散し、農商務省に管轄を移された。札幌事務所では稲造は仕事がなく、明治十六年(一八八三)退官を願い出た。
明治十六年(一八八三)九月 東京大学に入学した。しかし、大学の授業に飽き足ら、やめてアメリカに行く事にした。
●留学時代
明治十七年(一八八四)当初は田舎にあるアレゲニー大学に入学したが、一週間後友人の佐藤昌介から都会にあるジョンズ・ホプキンス大学に来いと誘われて直ぐに転校した。
稲造は、渡米二年後には、持参した資金も底をつき、勉学継続が困難となり、その上目も悪化し、精神的に疲労のきわみに達し、とうとう病で倒れてしまった。友人佐藤昌介の推薦状のお陰で、ホプキンス大学を辞めて、ドイツに農業経済学の習得に、留学を命ぜられた。
明治二十年(一八八七) 政府派遣留学生として アメリカを発ち、欧州を廻りボン大学に到着した。ボン大学に十四ヶ月滞在し、ベルリン大学、次にハレ大学に移った。
こうしてドイツで文学修士と哲学博士を取得した。三十八ヶ月ぶりにアメリカに戻った。

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