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2012年11月17日

12月例会と2013年1月開催について

12月例会は以下の通り開催いたします

開催日 2012年12月19日(水)・・・第三水曜日です
場所  東京文化会館第一中会議室
時間  18:30から20:00
会費  1500円
発表者 近藤勝之氏と山本紀久雄

①近藤勝之氏
12月例会は、かねてより鉄舟が書き遺された諸資料を分析されておられる近藤勝之氏にご登場願い、今まで一般に公表されていない資料を公開していただきます。

鉄舟は文章を書くに当って全て下書きをしましたが、そのひとつの下書きである明治21年7月の日付のもの、絶筆では無いが最後のものと考えられる内容と、それらから判明する驚くべき事実

●「手術をされたという事実」
●「鉄舟の手術日と退院日を特定」

を含め、様々な事実とそこから推測可能な内容を近藤氏が披瀝されます。

さらに、鉄舟が所持されていた「国立博物館(明治天皇下賜)」「将軍徳川慶喜下賜(正宗、刀剣美術館)」「慶長18年12月21日平安城安廣作(明治26年刊行佐倉孫三の山岡鐡舟傳5ページ記載の近藤氏所持)」についても言及し、今まで資料として解かれていなかったもの多数解説いただきます。

なお、近藤氏は今から約 900年前の新羅三郎源義光(1045-1127)に由来する「大東流合気柔術」の代表を務められており、ロシア、オーストラリア等海外指導もされ、大変ご多忙ですが、特に当会のため12月例会でご発表いただけることになりました。皆様ご期待をもってご参加願います。

② 山本紀久雄
12月は引きこもり・ウツ状態から脱皮回復された明治天皇が、偉大な君主として明治時代の背骨・バックボーンとしてなられたわけですが、それを証明する「御真影」の背景について分析し解説いたします。

2013年1月例会は第三水曜日の16日(水)18:30分から、東京文化会館第一中会議室にて開催いたしますので、よろしくお願いいたします。


投稿者 Master : 18:07 | コメント (0)

2012年11月開催結果

2012年11月開催結果についてご案内申し上げます。
    
11月は多彩なご発表が続きました。
① 北村豊洋氏
漢字ついての考察を「漢字起源」「日本における書の流れ・特質」「近代日本の漢字政策」に分類され、分かりやすい内容にまとめていただきました。日ごろ何気なく書き読みしている漢字を、改めて考えさせられた貴重な機会でした。

② 末松正二氏
世にいう「征韓論」、当時の韓国は「李氏朝鮮」「朝鮮李王朝」でありましたから、本来ならば「李氏朝鮮へ西郷大将を全権大使として派遣する問題」というべきものとの疑問を9月例会で問いました。

その疑問ついて末松氏が「神功皇后の三韓征伐」「幕末の国学思想」「尊王攘夷思想」との関連、それと西郷の「大アジア主義」から「満州事変の石原莞爾」にまで検討され、「征韓論」と称される根拠を整理していだき、成程と認識いたしました。

③ 木下雄次郎氏
勝海舟書の掛け軸と東郷平八郎書、それと海舟の書コピー二軸をご持参いただき、それぞれ想像心をかきたてられる説きおこしに加え、時代背景をとりいれた指摘を的確にされ、さすがに偉人の書は違う、格式と奥行きがあるものだと、認識を新たにいたしました。

中でも、東郷平八郎書は明治天皇御製を「座右の銘として深く尊び」明治38年日露開戦バルチック艦隊撃破後に書したものと推察され、木下氏が日ごろから心懸けられている「心の位取り」が見事に顕れている書である、との指摘に唸りました。

「雲の上に立ち、さかえたる山松の、たかきにならへ、人のこころも」

木下氏の掛け軸への姿勢、それはこの書は「我々に何を伝えようとしているのか」という問いから発し、その背景を推考し、当時の歴史事実を追及する「掛軸とのコミュニケーションストーリー」に基づき展開されますが、9月に続いて再び感服させられました。

なお、新たな企画として、来年はご所有の「西南戦争絵巻」「日清戦争絵巻2巻」「憲法発布図の錦絵」について順次解説と背景についてご検討いただきたく考えておりますので、皆様ご期待願います。

④ 山本紀久雄
引き続いて検討している「明治天皇と鉄舟について」以下の項目で解説いたしました。

 ●明治天皇すり替え説
 ●西郷辞任から明治十年当時の日本の状況
 ●明治天皇が引きこもり・ ウツ状態となり

そこからどのように脱皮したかの三説、「ドナルド・キーン氏見解」「伊藤之雄氏見解」「飛鳥井雅道氏見解」を述べ、これ等とは異なる「鉄舟の影響を受けて脱皮」という山本紀久雄の見解を展開いたしました。

司馬遼太郎等の識者がいう「鉄舟の明治天皇への影響」についての背景と要因については、ほぼ解明できたと考えており、今後はその深みと明治天皇を支えた精神的支柱としての西郷、鉄舟、乃木希典という系譜について考察して参ります。

投稿者 Master : 18:02 | コメント (0)

鉄舟県知事就任・・・其の五

鉄舟県知事就任・・・其の五
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

尊皇攘夷思想を同じく持ちながら、水戸藩は幕末低迷の上人材払底、長州藩は新時代を切り開く人材を多数輩出した。その差は時代を見抜く眼、時流の捉え方に要因したはずと前月の最後でお伝えした。

では、時代を捉え見抜くにはどうしたら良いのか。

それは世界事情に詳しい人物と接点を持つか、自ら外国に足を運び多くの体験を踏む事であるが、封建時代で海外渡航が禁止されている時代では、西洋知識・兵学について博識の人物から学ぶ事で身につけるしかないだろう。

この当時、西洋知識・兵学に造詣が深い人物としては、佐久間象山が第一級の人物として世上名高かった。従って、外国に興味と関心のある藩と人材は、象山と接触する事を通じて、外国事情を把握しようとしたのである。

そのひとつの証明ともなる象山書簡実物を眼にする機会があったので、少し回り道にはなるが、水戸藩と長州藩に対する背景分析に役立つ内容であるので補足したい。

先日、新潟県阿賀野市出湯(でゆ)温泉の川上貞雄氏邸にお伺いした。鉄舟書を拝見するためである。時折、各地から鉄舟書をお持ちの方からご連絡いただき出かけている。

川上氏は新潟県で知られる考古学研究者であり、何冊か専門書を書かれている。出湯温泉は、五頭(ごず)連峰西側の山裾に位置し、五頭温泉郷の一つとして、古くから湯治場として知られる静かな温泉地で、温泉街のつき当りには華報寺(けほうじ)があり、同寺を中心にした門前街を形成し、文化年間(1804~18)に発行されたと推定される温泉番付「諸国温泉功能鑑」に、出湯温泉は35枚目「越後出湯の泉」として記されている。

川上氏によると、開湯は弘法大師という謂れが遺るというが、実際の開湯歴史は700年から800年前ではないかと語る。なお、出湯温泉は平成16年(2004)までは北蒲原郡笹神村であったが、4町村が合併し、阿賀野川流域にある事から現在市名となった。

川上氏所有の鉄舟書は「為川上氏」と署名印のある貴重なものである。加えて、海舟、西郷、伊藤博文始め著名な人物の直筆書を多く拝見したが、その中でも佐久間象山の書簡は圧巻であった。

という意味は、佐久間象山に師事した吉田松陰の密航計画と、その挫折の顛末、併せて国防に関わる政策を述べており、象山と長州藩が昵懇であったと窺えるからである。

その象山書簡、まず、ジョン万次郎に対する評価から始まる。

「土州漂民万次郎預召出、御普請役に御取立て御座候を承り申、心窃(ひそ)かに欣ひ候」と述べるが「万次郎は偏鄙の地にて育ち候、猟師の子にて和漢の文字をも心得ず」「幼年にて漂流し候故に、此国普通の言語さえ差支多く候」と指摘する。

その上で「學才ある有志の士、彼地に漂流し、其形勢事情に心を付け、旁砲術兵法航海の技を学び、両三年にして帰朝候は、公邊(へん)の御重(じゅう)寶(ほう)に如何計り相成申しく、萬一公邊にて御取用ひ無之候とも、皇國一統の利益少なかる間しくと存候に付」と知者・識者が外国へ行くべき必要性を強調し、その具体的候補者として「吉田生と申者、當年廿五年の少年には候へとも、元来長州藩兵家の子にて、漢書をも達者に讀下し、膽力も有之、文才も候て、よく難苦に堪へ候」と吉田松陰が適任・適材であると断定している。

この書簡には年号がなく、四月十七日とのみ書かれている。川上氏は年号については確定できないとの見解であるが、前後に書かれた内容から安政元年(1854)ではないかと推定したい。安政元年とすれば、三月二十七日に松陰が米艦ポーハタン号に乗船し密航しようとしたすぐ後である。また、この密航事件に連座して松陰も象山も自藩に幽閉となっている。これらの関係について象山書簡を、さらに詳細分析する衝動にかられるが、当連載の趣旨とずれていくので、このあたりで止めたいが、象山と長州藩の関わりが強かったことは間違いないであろう。

その通りで実は、象山と長州藩士は多く関わっている。松陰始め、桂小五郎も象山に西洋軍学を学んでいる。

さらに、重要な史実は、長州藩の井上馨が象山によって国際情勢をつかみ、国防論の大事さを認識し、国を閉ざす攘夷思想に対し疑問を持ち始め、自らが諸外国の事情に通じる事が不可欠であると、藩の重役周布政之助らに提言・懇願し、その結果として文久三年(1863)五月十二日、以下の五人がロンドンに向かったという事実である。

   伊藤 博文  後の初代内閣総理大臣
   井上 馨   後の初代外務大臣
   井上 勝   後の鉄道庁長官
   遠藤 謹助  日本における造幣の父。大阪造幣局・桜の通り抜けの発案者。
   山尾 庸三  法制局初代長官、東大工学部創立者

 勿論、この企てには藩主毛利敬(たか)親(ちか)の同意を得ており、一人千両の資金を藩の御用商人に借財したりして苦労の上留学につながったのであるが、その発端は佐久間象山との接触、つまり、あの当時最も国際的な視野を持っていた象山から学んだ事が、ロンドン行きとなったのである。

この史実は、人は時流感覚に優れた人物から学ぶ事で、時代を見抜こうとする行動に変化する事例であり、この五人が明治時代に大きく影響する活躍を考えると、川上氏が保有する象山書簡は長州藩との深い関係を証明する貴重な記録である。

 なお、この留学について司馬遼太郎が「翔ぶが如く」(二巻)で次のように書いている。

「伊藤は井上聞多(馨)らとともに長州藩の秘密留学生として横浜を出港した。当時長州藩は攘夷の大スローガンをかかげて国内の反幕気分の代表的勢力であったことをおもうと、この秘密留学生の派遣というは異様な風景といっていい。

 攘夷とは、国際性を拒絶するという意味である。当時、桂小五郎といった木戸孝允や高杉晋作などは攘夷をもって幕府の屋台をゆさぶるてこにするというまでに政略的なものになっていたが、しかし指導層以外の長州人の九割九分はそうではなかった。かれらは本気の攘夷気分をもち、国際社会への参加を厭(いと)うことが神州をまもる唯一の道であると信じた。
 
その信仰がこの藩に強烈な熱気を生み、それが日本史がかつてもったことのないイデオロギー的結束の状態をつくりあげていた。いずれにせよ文久年間の長州藩は藩というより多分に思想団結体であり、ときには宗教団体ともいえる気分であった。

 そういう気分のなかで、伊東ら数人の若い藩費留学生は藩大衆にも幕府にも内密で英国にむかって渡航したのである」

 このように当時、過激な攘夷思想を唱え、幕府を攻撃していた長州藩、その藩主が承知して密航を企てたという事は、司馬遼太郎が述べる如く、藩の指導層は複層的思考をもち、いわば二枚舌というべき外交感覚を持っていたという意味になる。

これに対し、尊皇攘夷思想の宗家というべき水戸藩はどういう状況であったのか。

 水戸徳川家は尾張、紀州藩と並ぶ御三家である。しかし、禄高は尾張が六十二万石、紀州が五十五万石に対して三十五万石にすぎない。当主の官位も両家が二位大納言に比べて、三位権中納言と一段低い。そのかわりに両家が参勤交代の義務を課せられるのに、水戸家は永代定府ということで常に江戸におり、巷間いわれる天下の副将軍という立場にあったが、両家は将軍継嗣者を出すことができるが、水戸家はこの資格がない等の差があった。

 水戸家はさらに次のような重要な家訓があったとされる。

「晩年の慶喜自身の証言だが、二十歳のころ、斉昭に呼ばれて、『若し一朝事起りて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるゝがごときことあらんか、我等はたとひ幕府に反(そむ)くとも、朝廷に向ひて弓引くことあるべからず。是は義公(光圀)以来の家訓なり。ゆめゆめ忘るゝことなかれ』と教訓を受けたという」(「徳川慶喜」松浦玲著 中公新書)

 この義公(光圀)によって「大日本史」の編纂に着手され、やがてそれが水戸学の発祥となり、尊皇攘夷の宗家になっていくのであるが、その背景にはこのような家訓があったからだと推察できる。だが、この水戸藩で培養された尊皇主義が、他藩にも伝播し、やがて倒幕運動に発展し、徳川家をほろぼす要因になったわけであるから、歴史とは分からないものである。

また、「大日本史」の編纂が水戸藩内紛の始まりでもあった。それは小石川の本邸内にあった彰孝館、その館長である立原翠軒と、門人である藤田幽谷との間で発生した論争によって、水戸学は翠軒、幽谷の二派に分かれ対立し、二人が亡くなった後もその子の杏所と東湖に受け継がれ、その対立に藩主斉昭継嗣に伴う藩内政争が重なって、さらに複雑な派閥分裂闘争に広がり、血で血を洗う激闘の犠牲は無惨で、朝廷側で生きのこれるどころか、明治新政府に登用されるべき人材が殆ど皆無の状態になったのである。

 水戸藩の派閥闘争について、三田村鳶魚は、
「水戸の家中はみな貧乏である。三十五万石といっても実高は二十六、七万石でこんにゃくのほかには特産物もなく、国がはなはだ貧しい。藩士を扶持することもできず、馬、ヨロイなどを備えた人は少い。役職につかぬものは内職にウナギの串を削って暮さなければならない。役職につけばウナギを食う身分になれる。削るか食うかで大違いである。勢い権家にすがって役職にありつこうとする。ここに派閥が生まれ党争が起こる」(「幕末列藩流血録」徳永真一郎著 毎日新聞社)

 この三田村鳶魚の解説を裏付けるのが、茨城県発行(昭和四十九年)の「茨城県史料・近代政治社会編Ⅰ」の記述である。「常陸国風土記」では気候はいたって温和で、五穀の実らぬところはないと触れながら、

 「しかし、幕末、維新期には農村は荒廃しており、明治なってからは、産業のあまり振るわない県とみられてきた」と述べ、続いて「米穀、雑穀などの自給性の強い作物の比重が高く、商品性にとんだ原料作物はひじょうに弱い。しかも水稲の反当収量は、全国平均とくらべても、20パーセント以上も低く、農業生産力は、45府県中39位でもっとも低いほうに属する」

 これら経済的問題に加えて、既に検討したように藩主の政治力問題が絡み、混乱に拍車かけたのであった。

一方、長州藩の財政は幕末時どういう状況であったか。その証明をするのが人口数である。長州藩は幕末にかけて人口が増加している。それを「開国と幕末変革」(井上勝生著 講談社)からみてみたい。

 「十九世紀以降、幕末・維新期にかけて瀬戸内内人口の増加傾向は、一層はっきりしている。明治初年までには、1.4倍から1.9倍に増えている。その瀬戸内でも城下町の人口は減少しているから、十九世紀の瀬戸内の人口の大幅増大は、農村部の人口の増大を意味する。なかでも、明治維新で重要な役割をする長州藩(周防)と芸州藩(安芸)の瀬戸内農村部で人口が大きく増えているのが注目される」と人口推移を示している。
  
1721年(享保6) 1798年(寛政10) 1834年(天保5) 1872年(明治5)
安芸 361,431(100) 491,278(135.9)  578,516(160.1) 667,717(184.7)
周防 262,927(100) 357,507(136.0)  436,198(165.9) 497,034(189.0)
 
 この人口増加は何を物語るか。長州藩では他国から農村部で人口が増えるほどに、豊かな財政状態であり、これが高杉晋作による「奇兵隊」発案の背景にあるわけで、通説的に言われている「惨(さん)苦(く)の茅屋(ぼうおく)」という表現で「江戸時代の農民は搾取され悲惨な生活であった」というかつての歴史学者の見解は、藩毎の自主経営の結果で異なるのである。
 
では、長州藩がどうして豊かな農村になったのか。それも「開国と幕末変革」が解き明かしている。

 「本州周辺部の伯州(鳥取県)・周防(山口県)・知多(愛知県)などの木綿織物生産地では、十九世紀前半、他国から綿を買い入れて木綿織り生産をしている」と述べ「十九世紀になると、先進的な綿織物産地は高機を導入し、八、九人規模のマニファクチュアが広く生み出されていた」と解説し、結果として「商品生産をする中規模以下の経営の農民が、米を買う農家となっていた」つまり、年貢の米納制のために木綿を売り、米を買う農家が普通に見られたと指摘している。

 長州藩では、水戸藩とは大きく異なるマニファクチュア産業が生まれていたわけで、これを指導し取り入れたのは藩主と幹部であるから、これら人材の時代を見抜く眼、時流の捉え方の較差が、両藩の実態を分けたといえる。

 今の日本の政治家も、単に歴史的人物の個人名を挙げ、好き嫌いを言う前に、時代との関係をどのようにしたか、というところに心して歴史を学び、そこから今の政治を論ずる習慣を身につけてもらい。

本題に戻りたい。鉄舟は明治四年(1871)十二月二十七日に伊万里県に単身赴任した。文久三年(1863)ロンドンへ留学した井上馨からの要請によるもので、「新任参事が追い出され、県内が不穏」というのが理由であった。

ここで伊万里県、つまり、今の佐賀県であるが、何故に伊万里に県庁を置いたのかを説明する前に、廃藩置県当時の経緯を振り返り、伊万里という地の特徴をみてみたい。

明治四年(1871)七月、佐賀藩が佐賀県になり、支藩の蓮池、小城、鹿島の三藩と唐津藩は、それぞれ旧藩名をつけた四つの県となって、これらがまとめられて伊万里県となった。

その順序は、まず、九月に佐賀県と厳原県(旧対馬藩)を合併させて伊万里県とし、十一月に蓮池、小城、鹿島、唐津の四県が伊万里県を編入させたのである。

伊万里は焼き物の伊万里焼で知られ、ここにも江戸時代から窯場があったが、それより焼き物の集散地として著名で、有田町を中心に焼かれる有田焼も、積み出しを伊万里港からなされていたことにより一般的に伊万里と総称されている。

伊万里の商人は、仕入れた焼き物を販売するため各地に出向くことはせず、ひたすら他国商人が来航するのを待つという商売方法であった。「伊万里歳時記」に天保六年(1825)の「伊万里積出し凡(およそ)陶器荷高国分(くにわけ)」が記載されていて、三十一万俵の焼き物が積み出され、筑前商人二十万俵、紀州商人六万俵、残りは伊予、出雲、下関、越後の商人であった。
(「新いまりの歴史散歩」伊万里教育委員会)

では、この伊万里に県庁を置いた背景に何があったかである。

「佐賀県の百年・県政百年史」によると「伊万里に県庁を移したのは、旧佐賀本藩が改められて出来た佐賀県の希望であり、三つの旧支藩や旧唐津藩・旧対馬藩などを管轄するうえから、人心一新・海上交通の便を理由に県庁を伊万里の円通寺に移したのであった。政府に提出した願書によると、人心を一新するというのも、本当は元の武士階級を士族という名称にあらため、一般の市民に組み入れるのが困難であったからと考えられるし、また旧佐賀藩であった佐賀県としては、唐津港よりも本来領内にあった良港、伊万里港を交通の中心に考えたのであろう」と述べている。

一方「伊万里市史」によると、旧藩主が東京に移住した後「大参事古賀定雄・権大参事富岡敬明ら佐賀県庁中枢の人々は、廃藩置県に際し民部省に宛てて伺書を提出した。その中で彼らは、当年春から士族土着の制を始めとした改革に着手したものの旧来の陋習を脱することができないため、県庁移転を提起した。また、大参事・小参事以上の官員を新たに選んで中央から派遣するよう要請している(明治行政資料)」

「佐賀藩時代の禄制改革に不満を抱く百名を超える士族卒は、十二月十四・十五日と連日伊万里県庁に押しかけ、騒動になった。大蔵省から鎮撫のために派遣されていた林友幸大参事心得も加わって説得し、了解しがたい者は書面を差出すよう達したところ、十九日までには全員引き揚げ、いったん事態は鎮静した。しかも騒動の最中の十二月十六日、大参事心得林友幸・大参事古賀定雄はそろって政府に進退伺を提出したのである(明治行政資料)」。

以上が伊万里市及び佐賀市で実際に調べた資料からみた、鉄舟が伊万里県に赴く背景であって、これが井上馨の「新任参事が追い出され、県内が不穏」という内容に該当しているものであった。

いずれにしても鉄舟は伊万里県に赴任した。県庁は円通寺であったが、ここで鉄舟はどのような活躍をしたのであろうか。それを次回にお伝えするが、今年は鉄舟が伊万里県に赴いてちょうど百四十年に当る事から、佐賀県美術館で特別展「山岡鉄舟」(平成23年12月~24年1月15日)が開催されたことをお伝えし、次号では伊万里における鉄舟治世をお伝えしたい。

投稿者 Master : 17:54 | コメント (0)