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2010年07月11日
次の山岡鉄舟研究会の例会は9月です
7月4日の上野公園探索会例会が終わり、8月は夏休みで、次回は9月15日(水)に開催します。
場所 東京文化会館の中会議室2です。毎月の部屋と異なります。
時間 18:30から20:00
参加費 1500円
内容 彰義隊壊滅後の鉄舟はどうなったか
発表者 山本紀久雄
その他 現在交渉中ですが、特別ゲストを迎える可能性あり
少し鉄舟研究の動きをご報告します。
1.5月8日から7月3日まで淑徳大学の「山岡鉄舟」公開講座が開講されました。
2.高山市において6月に山岡鉄舟顕彰会が発足されました
3.その山岡鉄舟顕彰会にて7月19日に高山市宗猷寺で鉄舟命日法要と講演会が開催され、山本紀久雄が講演します。
4.前日の7月18日は、高山市の丹生川地区社会教育運営委員会主催で「山岡鉄舟の魅力」講演会が開催され、山本紀久雄が講演します。
5.熊本県合志市に山岡鉄舟研究会が発足し、7月24日(土)に発足記念講演会が開催され、山本紀久雄が講演します。
毎日、暑い日が続いておりますが、お体大事にお過ごしされ、9月の例会でお待ちしております。
彰義隊本拠地の上野公園と徳川慶喜墓所探索
2010年7月4日の例会は、彰義隊本拠地の上野公園と徳川慶喜墓所探索を行いました。
この日は旧暦の慶応四年五月15日にあたり、豪雨の中早朝から激しい戦いが行われました。
まず、上野公園の紹介です。
ここは江戸時代、東叡山寛永寺の境内地で、明治維新後官有地となり、大正13年宮内省を経て東京市に下賜され、明治6年の太政官布達によって、芝、浅草、深川、飛鳥山と共に日本で初めて公園に指定されました。
当初は寛永寺社殿と霊廟、東照宮それに境内のサクラを中心にした公園でしたが、その後、博物館や動物園、美術館などが建てられ、文化の香り高い公園へと衣替しました。
1. 西郷隆盛像
西郷像は高村光雲の作、傍らの犬は後藤貞行作。除幕式は西郷の死後21年を経た明治31年12月18日に行われた。身長:370.1cm、胸囲:256.7cm、足:55.1cm。西郷には信頼性のある写真が一枚も残っておらず、光雲は肖像画や弟の西郷従道の風貌を参考にした。公開の際に招かれた西郷夫人糸子は「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ)」と腰を抜かし、また「浴衣姿で散歩なんてしなかった」といった意の言葉(薩摩弁)を漏らし周囲の人に窘められたという。上野の西郷像は糸子が批評しているような散歩している姿ではなく、愛犬をつれ、腰に藁の兎罠をはさんで兎狩りに出かける姿である。西郷の真面目は一切の名利を捨てて山に入って兎狩りをした飾りの無い本来の姿にこそあるとして発想したもの。連れているのはお気に入りの薩摩犬であった雌犬の「ツン」である。
高村 光雲(たかむら こううん、嘉永5年2月18日(1852年3月8日) - 1934年(昭和9年)10月10日)は仏師、彫刻家。幼名は光蔵。高村光太郎息子。
後藤 貞行(ごとう さだゆき、嘉永2年12月23日(1850年2月4日) - 明治36年(1903年)8月30日)は、彫刻家。馬の彫刻で知られ皇居前広場の楠木正成像の馬像が代表作。
彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺の住職仏磨らによって当地で荼毘に付された。正面の小墓石は、明治2年(1869)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋葬したものだが、後に掘り出された。大墓石は、明治
14年(1881)12月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣
山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。
日蓮宗、正東山。寛永寺を開創した天海が京都の清水寺を模して寛永8年(1631)に創建した。当初、現在地より100メートル程北の擂鉢山山上にあったが、元禄七年この地へ移築し現在に至っている。本尊は千手観音座像で京都清水寺より奉安したもの。毎年二月の初午の日だけ開扉され、多くの参詣者が訪れる。不忍池に面する正面の舞台造りは江戸時代より浮世絵に描かれるなど著名な景観である。
堂内に掲げてある絵馬や掲額も寛政、天明期の古いもので、平家物語にちなんだ「盛久危難の図」「千手観音」などがある。本尊千手観音の縁起を現わした寿香亭守一の寛政十二年(1800)奉納したという「盛久危難の図」は、『江戸名所園会』に、平家滅亡後、主馬盛久は逃れて京都の清水寺に千日祈願をするが、源氏の追跡で捕えられ、由比ケ浜で打首となる寸前、首を斬ろうとする刀杖が段々に折れて、清水観音の加護により命を助けられた話として伝えられている。それらから信仰に寄せて、庶民は、そのご利益、ご加護を授かろうとしたであろう。今なお清水観音堂には千羽鶴がところせましと奉納されて、祈願の跡は絶えないでいる。
明治期の画家五姓田芳柳の描いた「上野戦争図」と、隣りにある砲弾は四斤砲の砲弾でリベットドライブ方式の尖頭形砲弾(椎実型の砲弾)である。
弁天堂は天海僧正が不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島辯才天を寛永初年に勧請して建てたお堂。本尊は八臂の辯才天で、特に芸能や福徳にご利益があるとされています。毎月初巳日(最初の巳の日)に縁日法要を営み、特に毎年九月の巳成金の大祭法要には多くの人で賑わいます。
「うたをわすれたかなりやは ざうげのふねにぎんのかい つきよのうみにうか
べれば わすれたうたをおもいだす」と彫られている。西条八十さんの歌碑。
昭和35年(1960)に、サトウ・ハチローさんらによる西条八十会によって建
立されたもの。
五條神社は薬祖神としての信仰をあつめた神社で、室町時代中期に上野山に鎮座していることが明らかな古社である。
主神に大己貴命(おおなむじのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)二柱の薬祖神を、相殿に菅原道真をお祀りする。
縁起によると、今から1890年ほど前の第12代景行天皇の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐のため、上野忍が岡を通られた際、薬祖神二柱の大神に御加護を頂いたことを感謝されて、この地に両神をお祀りしたのが創祀だという。
菅原道真公が天神といわれる訳は、かつて怨霊として「雷神」と恐れられた過去を持つ、雲の上から、自分を左遷させた政敵に雷を落として暴れ回ったので天神様とよばれるようになったわけです。
五條天神社のすぐ横の花園稲荷神社は倉稲魂命(うがのみたまのみこと)を祭神としていますが、もとは弥左衛門狐を祀った「お穴さま=穴稲荷」がメインだったと思われ、忍岡(しのぶがおか)稲荷が正式名称で、今でも旧社殿に石窟が残っています。
これは上野山に寛永寺が建てられるとき、ここに棲む狐たちの住処が無くなるのを憐れみ、社を建てて祀ったのが始まりといわれています。
時の鐘は江戸時代、時を知らせるものであった。当時江戸市中には日本橋石町、浅草、上野、本所、横川町、市ヶ谷八幡、目黒不動、赤坂田町、四谷天竜寺など9カ所の時鐘があった。中でも浅草、上野の鐘は芭蕉の句 「花の雲 鐘は上野か 浅草か」で有名である。
現在韻松亭敷地内にある「時の鐘」は寛永6年(1666)、鐘の製作に当っては寛永寺の鐘撞人であった柏木大助が願主になって、鋳物師の藤原政次が鋳造。その後数回改鋳され、天明7年(1787)に谷中感応寺で鋳直されたものが現在に至っている。
韻松亭は明治8年に「時の鐘」の隣に茶屋と貸席をかねて創業し、不忍池を一望できるロケーションとして明治の文化人たちに愛されてきた。代が替わり、ここを気に入っていた横山大観がオーナーになるが、直ぐに手放してしまう。それ以降山本家が引き継いでいる。日本画家の山本道香氏(昭和47年死去)は、上野の時の鐘を守り続けて二十数年、現在は娘の山本直子氏によって守り継がれている。明け六つ(明け方)、正午、暮れ六つ(夕方)の三回撞かれ、不忍池に江戸の音風景を甦らせている。
江戸時代の時刻制度は現在のものよりはるかに複雑。夜明け前と夕暮れ時を基準にして、昼を6等分、夜を6等分します。この6等分されたものを「一つ(一とき)」といいます。夜明けや日暮れは季節によって変わります。現在は一時間は六十分で、正確に一定の時間ですが、江戸時代では、例えば夏の昼の「一つ(一とき)」は長く、夜は短く、冬は昼は短く、夜は長くなります。そのため、1年間を二十四節気にあわせて二十四分割し、時刻を変えていたのです。自然に合わせた生活だったわけです。これを不定時法といいます。このような時刻制度は現在の時計のある生活では奇妙に映りますが、時計のない昔の生活では、「明るい時は昼、暗い時は夜」というわかりやすい発想として受け入れられていたようです。
上野公園にある仏塔パゴダ(ミャンマー、ビルマ形式の仏塔)がある丘が大仏山 と呼ばれるのは、かつてこの場所に大仏があったから。
寛永8年(1631年)にできた粘土製の初代大仏は、正保4年(1647年)の地震で倒壊 してし、 その後、万治年間(1660頃)に青銅製の二代目大仏が建立され、元禄年間(1690 頃)には大仏を覆う立派な大仏殿も完成しました。
その後も地震や火事のたびに修復を繰り返して来ましたが、関東大震災でも 被災し頚部が崩れ、お身体からご尊頭が落ちてしまいました。 修復費用が思う様に集まらず、ご尊顔だけが長く寛永寺に保存されていました。残ったお身体は、戦時中に軍隊に供出されて、武器の原料になった。
ご尊顔が元の大仏山に戻ったのは、関東大震災50回忌となる昭和47年(1972年) の事。お身体のあった所にパゴダが建てられ、戻ったご尊顔は記念塔としてパゴダの隣に保存されています。何時の日に元の大仏様にお戻りになるのか・・・。
9.上野東照宮
上野東照宮は、徳川家康を祀る神社で、寛永4年(1627)、伊賀上野藩主藤堂高虎がみずからの屋敷地に建立するが、家康を崇拝していた3代将軍家光の命により慶安4年に大改築、江戸の象徴、金色殿として現在に残っている。が、とうの家光はその完成の祝事のさなか、この神社を見ること無くこの世を去った。 この東照宮の建物はもちろんのこと、門や柱、塀、果ては灯篭にいたるまで、すべてが国の文化財に指定されている。表参道の大鳥居は1633年に現在の前橋城主が寄贈してもので、関東大震災の時ですら微動もせず建築界の脅威の的になったと言われており、その参道の左右を埋め尽くす280基の灯篭は全国の諸大名の寄贈で、名前を見ると錚々たる顔ぶれです。 社殿には家康の遺品も展示されている。日光の東照宮は見るからに素晴しく、威圧感さえありますが、この上野の東照宮はひっそりと歴史を感じさせてくれる。
10.上野動物園・寛永寺五重塔
この塔が建てられたのは、寛永16年(1639)7月である。下総国(千葉県)佐倉城主土井利勝が東照宮造営にあたり寄進したものである。実はこの塔は土井利勝にとっては2度目の寄進で、最初のものは上野東照宮が大造営してから4年ほどたった寛永8年(1631)に建てている。しかしこのときの塔は同6年3月に火災によって焼失してしまったので、当時、幕府の大老職にあった土井利勝は即刻再建したのであった。高さは地上から宝珠(一番上の珠)まで、36.36m。一層の中央、心柱をかこんで、東西南北に四方四仏を安置している。薬師・阿弥陀・弥勒・釈迦の四仏。上野の五重塔と一般にはいわれているが、東照宮→寛永寺→東京都に寄付され、今では動物園内の施設として保存されている。重要文化財に指定。これを見るためには入園料を払って動物園に入る必要がある。
11.大噴水は根本中堂、国立博物館は本堂
江戸時代、現在の上野公園には、寛永寺の堂塔伽藍が、整然と配置されていた。現在の噴水池周辺(竹の台)に、本尊薬師如来を奉安する根本中堂、その後方(現、東京国立博物館敷地内)に、本坊があり、寛永寺の場合、輪王寺宮法親王が居住していた。寛永寺本坊の規模は壮大なものであった。この大噴水のところは竹の台といい、両側に竹の台(うてな)があったことに由来。ここには、常行堂、法華堂などの主要な堂宇がありましたが、戊辰戦争で灰燼として消えた。本堂跡へ博物館が建設され、その前庭としての修景で緑と噴水が計画された。
12.旧寛永寺本坊表門(輪王殿)、両大師堂(慈(じ)眼(げん)大師・慈恵(じえ)大師)
慶応4年(1866)5月、上野戦争のため、ことごとく焼失し、寛永寺本坊表門のみ戦火を免れた。
これがその焼け残った表門である。門には皇室の菊の御紋が印されている。明治11年、帝国博物館(現、東京国立博物館)が開館すると、表門として使われ、関東大震災後、現在の本館を改築するにともない、現在地に移建した。“慈眼大師"は天海その人で、 “慈恵大師"は比叡山延暦寺の中興の祖とされる良源。
元和8年(1622)2代将軍徳川秀忠は上野忍ヶ岡の地を喜多院(現埼玉県川越市)の住持天海の願いにより寺地として与えた。これにより天海は往古最澄が平安京の鬼門である北東の比叡山延暦寺を創建したことにならい、江戸城北東の方角に同城と国家を鎮護する目的で一寺を創建。寛永2年に本坊円頓院が落成した。これが東叡山寛永寺の創始で、喜多院から移された山号東叡山は東の比叡山を意味する。また慶安年間(1642-52)には創建時の年号を取り寛永寺の勅号を与えられた。本坊の落成に引き続き寛永4年には常行堂・法華堂・輪蔵・東照宮・仁王門、同8年には五重塔・鐘楼・清水観音堂などが造営された。元禄10年には徳川綱吉の命により円頓院の南面竹の台に本堂(根本中堂)を建設する工事が着手され、翌11年8月竣工。9月6日には東山天皇の筆になる「瑠璃殿」の額が掲げられた。さらに宝永年中までには36の子院と直轄寺2院が建立されている。宝永6年まで寺域は拡大し、約30万坪となった。
14.徳川慶喜の墓
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徳川家の菩提寺は 日光東照宮 寛永寺 増上寺の三つがあり 15代将軍・慶喜を除く全ての将軍がいずれかに葬られています。 徳川慶喜のみ谷中霊園に葬られているのは 遺言により葬儀が神式で行われたことによる。
ここにたどり着いたとき ハプニングがあった。勝海舟と書かれた野球帽を被った中年男性が「説明しましょうか」と申し出られ、その方から慶喜の墓について解説がありました。この解説が見事で、今までの知っていて事を覆させられました。神式の墓の理由についても詳しく解説され、一同揃ってなるほどという最後の場面でした。改めて感じたのは現場、現地、現任の大事さです。
ご参加の方々に感謝申し上げます。 以上
「山岡鉄舟翁顕彰会」 会員募集について
この度、岐阜県高山市に「山岡鉄舟翁顕彰会」が発起人代表 蓑谷 穆氏により発足いたしました。
同会にご関心ある方は、下記の事務局にお問い合わせ願います。
〒506-8678 高山市天満町5-1 高山商工会議所内
飛騨・高山観光コンベンション協会 気付
山岡鉄舟翁顕彰会 事務取扱い 駒屋
TEL0577 32 0380
FAX0577 32 5379
また、命日法要及び講演会が7月19日に、次のように開催されますのでご案内申し上げます。
山岡鉄舟翁 命日の法要及び講話 場所 宗猷寺
午前10時~ 命日法要
午前11時~12時 山本紀久雄(東京山岡鉄舟研究会会長)講演
午前12時 終了
次の申込書にご記入の上、下記①~③のいずれかまでお届けください。(郵送又はFAXにて)
参加費は1,500円。当日宗猷寺へご持参願います。
①〒506-8678 高山市天満町5-1 高山商工会議所内 飛騨・高山観光コンベンション協気付
山岡鉄舟翁顕彰会 事務取扱い 駒屋 TEL0577-32-0380 FAX 0577-34-5379
② 宗猷寺
③ 山岡鉄舟研究会(東京) 高山世話人 水口武彦 ℡ 090-5616-4773
2010年07月10日
山岡鉄舟 謹慎解ける
山岡鉄舟研究 謹慎解ける
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
鉄舟の謹慎の日々は続いた。
本当は木刀・竹刀を構え、道場で稽古するように、庭で素振りをしたいところだが、それは許されない。一室に座るのみしかない。したがって、座る目の前には書見台があるだけ。そういう環境に陥ってみると、その書見台が自分の稽古相手であって、それに集中でき、没頭できる新しい自分を発見でき、今までとは異なる自分に気づく。
振り返ってみると、今までの剣に対する道は、若き時から、厠の中でも、寝床の中でも、相手を想定し、工夫が浮かぶと、飛び出し、飛び起き、試してみる。さらに、道を歩いていても、傍らの建物から竹刀の音が少しでもすると、すぐに飛び込んで行き、稽古を所望するという剣一筋の毎日だった。
また、高山から江戸に戻って入門した玄武館は、江戸随一の人気道場であり、優れた剣客も多く、例えば、水戸藩に高禄で抱えられた高弟海保帆平、新撰組の藤堂平助や山南敬助、盟友となった清河八郎等がいて、稽古相手には不自由しなかったので、思う存分に修行でき、メキメキと腕を上げ「鬼鉄」と称されるまでになった。
しかし、今はそのような稽古はできず、書見台と向き合うのみだ。書見台上には上古時代からの刀剣の歴史、江戸時代以前の古流剣法から続く諸流派教本、甲陽軍鑑などの軍学書、孫子兵法等の兵書、佐藤一斎の言志四録などの学識書、王羲之の十七帖等の書法帖など、明るいうちは書見台に向かい、暗くなると坐禅に入る。
このように世間と切り離された日々を送ってみると、今までに無き経験だが、自分自身の内部により深く入っていけるような気がしてならない。これまでの人生でも、思考することになるべく時間を取ってきたつもりだったが、それは生活の中心に剣という存在をおき、その合間に取り入れたものであった。
しかし、今は違う。静思することしかできないのである。異なる環境下になってみてわかったのだが、改めて自分とは何者なのか、自分の奥底には何が存在しているのだろうか、つまり、自分探しの旅をしているような気がしてならず、これまでとは違う感覚に浸ることができた。
謹慎の日々、正式には一切の来訪者は認められないが、裏門からの内密の出入りは大目に見られている。日が経つにつれ、裏門からそっと訪ねて来る者が増え、それらの人々が、次々と起きる時代の変革をもたらしてくれる。
陽の光が強くなり、若葉が濃く茂る頃が過ぎ、梅雨がやって来たある日、鉄舟のすぐ下の弟、旗本酒井家に養子に出した金五郎が息せき切って飛び込んできた。謹慎していることも忘れたかのように、激しく入って来て
「兄上!!」
と大きな声を発した。金五郎は玄武館道場の若手の中では、相当な遣い手になっていて、体つきも兄に似て立派になってきている。
「何だ、慌ただしいぞ」
と静かに書見台から眼を放して金五郎を見つめた。
「兄上、やりましたよ、長州が」
「何を」
「攘夷ですよ、この十日、下関で外国船を砲撃して追っ払ったのです」
「うーん、そうか、五月十日が攘夷実行の日だったな・・・」
文久三年五月十日(乙卯)は太陽暦で1863年 6月 25日にあたり梅雨時であった。
この攘夷期限、これは将軍家茂が朝廷から「一体いつから攘夷をやるのか、はっきりその期日を誓え」と攻めに責めたてられ、とうとう苦し紛れに「五月十日」と言上した日限であったが、その日に横浜から長崎を経て上海に行く途中の米国商船を、さらに、二週間ほどして仏通信艦を、その三日後に蘭軍艦を砲撃し、オランダ側は死者と重傷者を出す被害を受け、長州藩は大いに気勢を上げた。
なお、この商船と通信艦への砲撃は、当時の近代国際法に違反しており、弁護できない行為であったという見解があることを付言しておきたい。(井上勝生著「幕末維新」)
だが、長州藩の優勢は、これが最後であった。六月一日、横浜から下関に向かった米海軍が、下関海峡で長州藩の軍艦二隻を撃沈させ、四日後の五日には、仏軍艦が陸戦隊を上陸させ、砲台を占拠し破壊させた。
七月二日には、英艦隊が鹿児島湾で薩摩藩と戦った、いわゆる薩英戦争が勃発した。鹿児島市街が焼失被害を受け、イギリス側も多数の死傷者が出て、二日後に鹿児島湾を去って行った。
このような薩摩藩と長州藩による外国との戦争行為は、結局、内外に幕府の統制が利かなくなっていることを示すことになった。
金五郎の情報はまだ続く。京都では薩摩と長州の主導権争いが深刻化、薩摩が会津と組んで長州を京都から追い出した八月十八日の政変によって、朝廷内では公武合体派が再び勢力を握り、公家の急進派の一部は大和で天誅組として挙兵したが失敗。これに参加していた藤本鉄石が戦死した。この藤本とは、清河八郎も少年時代教えを受け、鉄舟も高山から伊勢神宮参りへ向かった道中で教えを受けた人物であった。
さらに、新撰組隊長の芹沢鴨が暗殺され、近藤勇が隊長になったことも、鉄舟と関係があっただけに感慨深き事件であった。
ここで翌年の元治元年(1864)にも少し触れたい。六月には京都河原町三条の旅館池田屋に集まった約30名の尊王攘夷激派を新撰組が襲撃し、多数の死傷者が出た。
池田屋事件に反発した長州藩の尊王攘夷派は、奇兵隊に続いて武士と庶民混成で結成された遊撃隊などを率いて上京する。
七月、御所外郭西側の蛤門で長州藩と薩摩藩、会津藩が戦い、慶喜が戦場で指揮をとった。この蛤御門の変(禁門の変)で、長州藩が撃退された。この時、二万八千軒が焼失し、下京の町々はほとんど全焼「鉄砲焼け」が後代まで語られることになった。
また、この蛤御門の変の半月後である八月五日、前年に下関海峡で欧米諸国に攘夷砲撃をした長州藩に対して「いかなる妨害を排除しても、条約を励行し、通商を続行する」という欧米の決意を示すために、英・仏・蘭・米の四カ国の軍艦十七隻、砲二百八十八門、兵員五千名余の大艦隊が、周防灘から英艦隊の最新鋭アームストロング砲百十ポンド巨砲によって、四キロ以上離れた長州藩の砲台を正確に命中させた。
さらに、上陸した陸戦隊は、奇兵隊が中心の長州藩諸隊と、激しい銃撃戦で戦ったが、奇兵隊はゲベール銃、対する四カ国軍は新鋭のミニエー銃(ライフル銃)で、命中率、威力とも問題にならない差があり、砲台のすべてを占拠された長州藩の完敗に終わり、ほとんどが旧式の青銅製カノン砲であった長州藩の大砲は捕獲され持ち去られた。
この戦争で、仏艦隊に捕獲されたものが、現在、パリのセーヌ河畔のナポレオンの墓所として有名な、アンヴァリット(廃兵院)に展示されていることと、このうちの一門が下関市立長府博物館に戻っていることを二〇〇八年十月号で以下のようにお伝えした。
「山口県が長州砲の返還をしばしばフランス政府に交渉したが、世界各国とも戦利品を敗戦国に返した事例はなく難航。そこで直木賞作家の古川薫氏が、昭和五八年(1983)当時の安倍晋太郎外務大臣に働きかけ、ようやく長府毛利家に伝わる紫(むらさき)糸(いと)威(おどし)鎧(よろい)をアンヴァリットに貸与して、相互貸与という形で天保一五年(1844)製の長州砲一門が、昭和五九年(1984)に戻った。
この里帰りの経緯については、古川薫氏の『わが長州砲流離譚(りゅうりたん)』に詳しく記されている。だが、同書によれば、アンヴァリットにはまだ二門の長州砲が残されていると書かれ、そのうちの一門の行方が不明で心配だ、ということも記されている。そこで、古川氏に連絡を取って、筆者が再度現地に行き、確認してくることになった」
今年の三月三十日、アンヴァリットの学芸員とようやく連絡がとれ、現地で長州砲を再確認してみた。一門は門を入ってすぐの庭に展示されている。これは古川氏も分かっている。問題はもう一門である。まだ若き長身の学芸員が、もうひとつ日本の大砲があると言い、建物の中に入って二階の通路に案内してくれたが、そこにあった大砲は1876年製という明治維新(1868)の8年後である。記録を見るとカサゴンという人物の手を経て入手とあると言う。確かに漢字で「百目玉」とは書いてあるが、長州砲ではなく、発射する装置の部分が破損欠けている。
これは長州砲でないと言うと「もう他にはない」と断言する。ご存じのとおりこういう時のフランス人は強硬である。シラクやサルコジ大統領の外交を見ればわかる。しかし、ここで引き下がっては折角のアンヴァリット訪問目的が達しない。ねばりに粘る。古川氏から受けた手紙と写真、それと昭和五九年の山口新聞記事などを使って何回も説明し、どこかにあるはずだとしつこく追及する。
こちらの剣幕にとうとう学芸員は考え込み始め、では、一緒に館内を探してみようと歩きはじめる。多分、普通の展示場ではないだろうと推測し、倉庫や鍵の掛っていて入れない場所を回って歩いたうちの一か所、ここは軍関係の管理地だから入れないというところ、そこの鍵がかかっている柵の間から覗くと、遠くに長州砲らしきものが見える。これだと叫ぶと、学芸員は慌てて事務所に鍵を借りに行く。ここには自分も入れないところだと言いながら。
鍵が来て開けて入り、走りたい気持ちを抑えつつ大砲のところに行くと、嘉永七年の文字が見える。やはりあったのだ。学芸員もびっくり。知らなかったのだ。アンヴァリットには九百門の大砲があるというが、その記録に欠けていたのだ。
早速に記録化を依頼すると、この「砲身の文字は何と書いてあって、どういう意味だ」という質問を受ける。長州砲に彫られた文字は薄れて判読が難しい。日本に戻ったら古川氏に確認して連絡すると約束しアンヴァリットを失礼した。
後日、古川氏から連絡受け送付したものが「十八封度礮(ぽんどほう)嘉永七歳次甲(きのえ)寅(とら)季春 於江戸葛飾別墅鋳之(べつしょにおいてこれをいる)」である。
十八封度礮とは、大砲の弾の重さであり、約8.2キログラムで、葛飾別墅とは現在の東京都江東区南砂二丁目付近に存在した、当時の長門萩藩(長州藩)松平大膳大夫(毛利家)の屋敷を指し、佐久間象山の指導のもと、屋敷内で大砲の鋳造を行ったのである。
今回の調査証明のため、長州砲を囲んで学芸員と写真を撮り、古川氏に報告できほっとしたところである。
話は鉄舟謹慎に戻る。
謹慎後七か月経過した文久三年十一月十五日の夕刻、突然、火の見櫓の警鐘が乱打された。泥舟と鉄舟は二人揃って、高橋宅の二階に上がって見ると、江戸城の方向が真っ赤に燃えている。これは大変だ。お城が火事だ。二人は眼を合わせた。どうするか。お互い謹慎の身で、屋敷から一歩も外に出られない身である。だが、二人が同時に叫んだ。「駆けつけるぞ」と。
この当時、幕臣が最も恐れたのは、かつて慶安の昔にあった由比正雪一党の、江戸城の内外に火を放ち、城を乗っ取るという策謀であった。幕末時は特に攘夷運動の激化で危険を感じていたのである。
二人が支度していると、松岡万や高橋道場の門弟たちがやってきた。いずれも「こんな時こそ、禄米を受けているご奉公だ。謹慎中でも黙って座視できないだろう。お咎めは覚悟の上で、市中取締りのために出動するはずだ」と、期せずして、同じ考えを持って駆け付けたのである。
この時の状況を泥舟が次のように述べている。(参考:泥舟遺稿)
「この夜の装束は、下に白無垢を重ね、上には黒羽二重の小袖、黒羅紗の火事羽織を被り、黄緞子の古袴で、栗毛の馬にまたがった。鉄舟は、三尺の大刀を佩(お)び、槍を持ち、馬の左に、松岡は長巻をたずさえて、馬の右に付き添った。いずれも幽閉のためあごひげと髪の毛が茫々で鐘馗(しょうき)のようだ。
一行はまず、寄合肝煎(よりあいきもいり)*の禄高五千石の佐藤兵庫邸に行き、兵庫に面会するや言い放った。『我らは今日、お城の炎上只事ならず、君上の大事にも及ぶべしと心得、幽閉の禁を犯して君上を警衛せんと欲して、あえて出馬つかまった。しかれどもわれ、ほしいままにこれをなさば、肝煎の役柄に対してお咎めあらんかと存じまして、一応、お断りに来るなり。しかしてわれは今日、禁を犯せる上は、直ちに割腹の命あるものと心得、その仕度も調えてきたり。我が禁を犯せし義は、もとより肝煎の落ち度でなく、まったくのわれの所為なれば、よろしくこの意を言上あられたし』
これに対し、兵庫はしばし黙然としてわれの顔を見ていたが、ハラハラと涙を流して言った。『今に始めぬ貴下の誠忠、まことに感ずるに余りある。さりながら貴下の身、もし大事におよばば君上も股肱(ここう)の忠臣を失わることになる。貴下、今日のことはこれを思い止まりて、邸内に帰り謹慎せられよ。忠を尽くすは今日に限らぬであろう。予は、不肖ながら貴下の御為悪しくは取り計らいもうさぬぞ』
われは応じた『もっともの事なり。君上に尽くすは今日にも限るまじ。未来無限の日月あるべし。さりながら老少不定の世のならい、又という日は期すべからず。いわんやわれ既に心を決し来たれり。今生きて還るの心なし。後日の事を論ずるに暇(いとま)*あらんや』と突き放し、門外に出るや、馬に乗ってお城を目指した。
この一隊がお城の周りを何回も見回った。その異風の装束を見て、その場にいた人々が驚愕した。火の手は午後十時になって、ようやく収まった。ホッとして大手前の酒井雅楽頭(うたのかみ)の番所に暫時休憩を申し出たが、この番所は江戸市中で最も厳しき所だが、われらの威勢を恐れて何も言わなかった。
鎮火し夜も明けたころ、われらは引き上げたが、帰途、一橋門に差しかかると、講武所奉行の沢左近将監の一隊に出会った。左近はわれらを見て、馬を進めてきた。われらも馬を進め、双方が止まり、左近は大音声をあげ『勢州(当時われは伊勢守のためこのように呼ばれていた)、貴殿、いまお城を警衛して帰邸せらるると覚ゆるぞ。よくこそ禁を犯してこの挙におよばれた。われ、これを知らずして曩(さき)に貴下を罵ったのが悔しいぞ。幽閉の身であるのに、かかる火災時に、君上を警衛するとは、さすがに忠臣と聞こえたる勢州じゃ』と大いに讃嘆された。
われは答えた『われ君上のためには、すでに身を犠牲に供したり。今日は殊に幽閉の禁を犯し、この挙に及びたれば、何時、割腹を命ぜられんも期しがたしと心得、予めその仕度して出馬せしなり。しかるに未だその命に接せざれば、かく帰邸の道につきしなり。後刻にいたらば定めし御処分もあるべければ、貴君との面会ももはや只今限りと覚ゆるぞ。わが亡き後は、貴君らよろしく君上を保護したまわれ』と粛然と述べた。左近はこれを聞き、感激のため、馬上にうつ伏して頭を上げられなく、声を呑んでむせび泣いた。われは一礼して別れ、自邸に戻ってひたすら御沙汰を待った」
馬上で頷いた左近は、その足で閣老・参政に対して「高橋こと、閉門謹慎の制禁を犯しましたが、ひとえに誠忠奉公の心からであり、何とぞ御寛大なご処置を」と訴えたという。そのためか、泥舟と鉄舟にはお咎めの上使は、結局、やってこなかった。不問に付されたのである。
ところで、西丸御殿の造営工事が始まったのは、年が明けた元治元年正月、七月に完成し将軍家茂が入ったが、これが江戸城最後の建築であり、明治維新後の明治六年(1873)の炎上まで存在したものである。因みに江戸城の火災は結構多い。防火対策上最重要拠点としてとして警護されていたのに、家康の時代から数えて三六回の火災が発生している。七年に一回という多さである。
さて、十二月十日、高橋泥舟に謹慎宥免(ゆうめん)の沙汰があり、老中の許に出頭すると「二の丸留守居役席、槍術師範を命ず」の沙汰であった。元の職務になったわけである。
続いて、十二月二十五日に鉄舟、松岡万などにも謹慎宥免の沙汰が下った。
「ありがたい。これで外出ができる」と自由になった喜びに叫んだが、八ヶ月間の謹慎は鉄舟の心に大きな変化を与えていた。謹慎という状況を、わが身の修行に切り替え、自らの奥底を訪ねる旅に変えてきた鉄舟には、目指すものが微かながら見えてきたのであり、早速にその第一歩を踏み出したが、それはとてつもなき大きな壁にぶつかることになり、その壁が一生を貫く目標になったのであった。