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2009年06月25日

2009年7月 特別例会のご案内

2009年7月は、特別例会を行います。
飛騨高山にて鉄舟命日の法要を行い、研究会を開催いたします。

山岡鉄舟がこの世を去って120余年。
その命日に、鉄舟が少年時代を過ごし、その英邁なる人間性を磨いた
飛騨高山の地で鉄舟の法要と追悼記念講演を開催します。
高山市のご協力を得、鉄舟の両親が眠る高山・宗猷寺にて法要(塔参
諷経(とうさんふぎん)と毎歳忌)を行い、追悼記念講演を行います。
少年鉄太郎(鉄舟)が駆け回った宗猷寺の境内を舞台に、高山の大自
然を眺めながらの法要例会です。是非、お出かけください。

■山岡鉄舟研究会特別例会『飛騨高山 山岡鉄舟法要と追悼記念講演』
 開催概要

【日時】2009年7月19日(日)9:00〜13:00
【場所】飛騨高山 宗猷寺 高山市宗猷寺町218
【参加費】5,000円(宗猷寺へのお布施、懇親会費含む)
     ※当日、会場にて承ります。
     懇親会では、軽食と乾杯用のビールをご用意いたします。

【集 合】 午前8:45 宗猷寺 本堂に集合

【スケジュール】
★法要会  09:15      鉄舟終焉の時刻
               鉄舟父母墓前にて塔参諷経
               本堂にて毎歳忌
★特別例会 10:00〜10:20 高山市よりごあいさつ
              (高山市郷土資料館・田中彰氏)
     (休憩、庫裡に移動)
      10:30〜11:50 追悼記念講演
              『鉄舟のブレない生き方に学ぶ』
               講師:山本紀久雄会長
★懇親会  12:00〜13:00 庫裡にて鉄舟を偲ぶ懇親会
      13:00     終了予定


皆さまのご参加をお待ちしております。
初めてのご参加も大歓迎です。


>>>参加お申し込みはコチラ!

>>>チラシを見る

投稿者 lefthand : 19:37 | コメント (0)

2009年06月23日

2009年6月例会報告 その2

山岡鉄舟研究会 例会報告 その二
2009年6月14日(日)
靖国神社正式参拝と史跡散策研究会

史跡見学散策を写真でご報告

研究会終了後、靖国神社〜飯田橋界隈の史跡を散策しました。
案内役は矢澤昌敏氏。
昨年に引き続き、詳細な資料とともに私たちを歴史の旅へと誘ってくださいました。

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集合時間より大分早めに靖国神社に到着。
目的は、遊就館内にあるレストランの「海軍カレー」です。
昔のままの味だそうです。具だくさんで美味しかったです。
皆さんも一度ご賞味あれ。
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海軍カレー(左)と、現代の味・横濱カレー(右)

研究会終了後、散策に出発。
靖国神社の長い参道を通り抜け、一つ目の目的地「小野家邸跡地」へ。
千代田区の「町名由来板」の古地図に、小野家の屋敷があったことが記されています。
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次なる目的地は、「東京大神宮」。
明治13年創建で、格式のある東京五社(明治神宮、靖国神社、日枝神社、大國魂神社、東京大神宮)のひとつです。
東京大神宮は「縁結びの神様」として有名です。現在広く行われている神前結婚式は、東京大神宮の創始によるものだそうですよ。縁結びをせっせと祈りました。
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続いて訪れたのが、「北辰社牧場跡」。
飯田橋界隈に牧場があったとは、今では想像すらできません。
ここは、榎本武揚が、自分の屋敷内に旧幕臣の失業対策も兼ね、明治6年に牧場を開いたのだそうです。
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最後は「新徴組屯所跡」。
清河八郎の建白によって結成された「浪士組」は、清河の暗殺によってその目的を失いました。幕府は、清河暗殺のわずか二日後に、浪士組を「新徴組」と改名し、江戸市中の警備の任に就きました。ここはその屯所であったところです。鉄舟もたまには顔を出したかもしれませんね。
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散策を終えた一行は、のどの渇きを潤すべく、懇親会場に移動しました。
「カンパイ!」「お疲れさまでした!」
乾杯の一杯で元気復活。四方山話に花が咲きました。
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懇親会場・アイガーデンテラスにある「ダイニング彩」
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皆さんでカンパイ!(左)/話が止まらない一行

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史跡散策資料のダウンロード >>>こちら
(A3版のため、A4用紙で印刷すると文字が小さくなってしまいます。ご了承ください)
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天気予報は雨模様を伝えていましたが、幸い雨が落ちることもなく無事に散策を終えることができました。お天道様に感謝しつつ、無事の成功を喜んだ今回の例会でした。

来月は高山にて鉄舟の法要研究会です。
遠路ですが、たくさんの皆様のお越しをお待ちしております。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 14:50 | コメント (0)

2009年6月例会報告

山岡鉄舟研究会 例会報告
2009年6月14日(日)
靖国神社正式参拝と史跡散策研究会

「真理は内在する」
山岡鉄舟研究会会長/山岡鉄舟研究家・山本紀久雄氏

今月は特別例会として、靖国神社に正式参拝し、周辺の史跡散策を行いました。

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参集殿に集合した我々鉄舟会一同は、早速本殿に昇殿参拝をさせていただきました。
本殿内はピンと張りつめた空気が流れているような心持ちがして、自然と厳粛な気分になります。背筋を正し、回廊を踏みしめながら昇殿しました。玉串を捧げ、二礼一拍を皆で行い、靖国の英霊に祈りを捧げました。

参拝を終えると、参集殿の二階に移動し、研究会を行いました。

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今回は、昨年来鉄舟会の靖国神社参拝にご尽力を賜りました三井勝夫権宮司様が、この秋を持ってご退職なさるということで、無理を申し上げご講演を賜る幸運に恵まれました。

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三井勝生権宮司(左)/ご講演の様子(右)

三井権宮司は、背広を着ておられました。今までお会いしたときは袴姿でしたので、とても新鮮でしたが、これには深い意味がおありであったのだと、後になって知りました。
ご講演の冒頭、「本日は私人としてここに立たせていただいております」とご挨拶をされました。三井様は、靖国神社の権宮司としてではなく、三井勝夫様として私たちに語りかけてくださったのです。権宮司のお立場ではお話しいただけないことを話してくださるお覚悟で、この場に臨んでくださったのです。不覚にもその意味を後から察し、とても感動しました。
そのような経緯がございますので、三井様のお話は記録として残すことは控えさせていただきます。ご了承くださいませ。
三井様は、靖国神社が巷間いろいろと言われていることに対する三井様の見解や、靖国神社のこれからのことなど、決して聴くことができないであろうお話を賜りました。その幸運に感謝申し上げます。

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続きまして、当会会長・山本氏の研究発表です。
今回は、清河八郎暗殺後、蟄居謹慎の身になった鉄舟の心の底を考察する、大変難しいテーマの発表でした。
八カ月の謹慎は、鉄舟の心に何をもたらしたのでしょうか。

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山本紀久雄会長(左)/発表の様子(右)

文久3年(1863)4月14日、鉄舟は幕府より蟄居謹慎を申し付けられ、謹慎生活に入りました。
その八カ月の間にも、世の中は目まぐるしく動いていくのでした。

・文久3年5月10日の攘夷日限をもって、長州藩は攘夷を断行した。
・長州藩、外国船を砲撃 → 米国商船、仏通信船、蘭軍艦を相次いで砲撃
・だが、長州藩の優勢は、これが最後であった。6月1日、横浜から下関に向かった米海軍が、下関海峡で長州藩の軍艦二隻を撃沈させ、四日後の5日には、仏軍艦が陸戦隊を上陸させ、砲台を占拠し破壊させた。
・7月2日には、英艦隊が鹿児島湾で薩摩藩と戦った、いわゆる薩英戦争が勃発した。鹿児島市街が焼失被害を受け、イギリス側も多数の死傷者が出て、二日後に鹿児島湾を去って行った。
・京都では薩摩と長州の主導権争いが深刻化、薩摩が会津と組んで長州を京都から追い出した。→8月18日の政変
・朝廷内では公武合体派が再び勢力を握り、公家の急進派の一部は大和で天誅組として挙兵したが失敗。
・さらに、新撰組隊長の芹沢鴨が暗殺され、近藤勇が隊長になったことも、鉄舟と関係があっただけに感慨深き事件であった。

鉄舟が謹慎を解かれるのは、八カ月後の文久3年12月25日でした。
謹慎を解かれる直前、江戸城で火事騒ぎが起きました。
この騒ぎを、高橋泥舟が書き残しています。

* * * * *
(以下『泥舟遺稿』、山本氏のレジュメより抜粋)
謹慎後七か月経過した文久3年11月15日の夕刻、突然、火の見櫓の警鐘が乱打された。泥舟と鉄舟は二人揃って、高橋宅の二階に上がって見ると、江戸城の方向が真っ赤に燃えている。これは大変だ。お城が火事だ。二人は眼を合わせた。どうするか。お互い謹慎の身で、屋敷から一歩も外に出られない身である。だが、二人が同時に叫んだ。
「駆けつけるぞ」
この夜の装束は、下に白無垢を重ね、上には黒羽二重の小袖、黒羅紗の火事羽織を被り、黄緞子の古袴で、栗毛の馬にまたがった。
鉄舟は、三尺の大刀を佩び、槍を持ち、馬の左に。松岡は長巻をたずさえ、馬の右に。いずれも幽閉のため、あごひげと髪の毛が茫々で鐘馗のようだ。
一行はまず、寄合肝煎の禄高五千石の佐藤兵庫邸に行き、兵庫に面会するや言い放った。
「我らは今日、お城の炎上只事ならず、君上の大事にも及ぶべしと心得、幽閉の禁を犯して君上を警衛せんと欲して、あえて出馬つかまった。しかれどもわれ、ほしいままにこれをなさば、肝煎の役柄に対してお咎めあらんかと存じまして、一応、お断りに来るなり。しかしてわれは今日、禁を犯せる上は、直ちに割腹の命あるものと心得、その仕度も調えてきたり。我が禁を犯せし義は、もとより肝煎の落ち度でなく、まったくのわれの所為なれば、よろしくこの意を言上あられたし」
これに対し、兵庫はしばし黙然としてわれの顔を見ていたが、ハラハラと涙を流して言った。
「今に始めぬ貴下の誠忠、まことに感ずるに余りある。さりながら貴下の身、もし大事におよばば君上も股肱の忠臣を失わることになる。貴下、今日のことはこれを思い止まりて、邸内に帰り謹慎せられよ。忠を尽くすは今日に限らぬであろう。予は、不肖ながら貴下の御為悪しくは取り計らいもうさぬぞ」
われ(泥舟)は応じた。
「もっともの事なり。君上に尽くすは今日にも限るまじ。未来無限の日月あるべし。さりながら老少不定の世のならい、又という日は期すべからず。いわんやわれ既に心を決し来たれり。今生きて還るの心なし。後日の事を論ずるに暇あらんや」
と突き放し、門外に出るや、馬に乗ってお城を目指した。
お城の周りを何回も見回った。その異風の装束を見て、その場にいた人々が驚愕した。
火の手は午後10時になってようやく収まった。
ホッとして大手前の酒井雅楽頭の番所に暫時休憩を申し出たが、この番所は江戸市中で最も厳しき所だが、われらの威勢を恐れて何も言わなかった。
鎮火し夜も明けたころ、われらは引き上げた。
帰途、一橋門に差しかかると、講武所奉行の沢左近将監の一隊に出会った。
左近はわれらを見て、馬を進めてきた。われらも馬を進め、双方が止まり、左近は大音声をあげ
「勢州(伊勢守)、貴殿、いまお城を警衛して帰邸せらるると覚ゆるぞ。よくこそ禁を犯してこの挙におよばれた。われ、これを知らずして曩に貴下を罵ったのが悔しいぞ。幽閉の身であるのに、かかる火災時に、君上を警衛するとは、さすがに忠臣と聞こえたる勢州じゃ」
と、大いに讃嘆された。
われ(泥舟)は答えた。
「われ君上のためには、すでに身を犠牲に供したり。今日は殊に幽閉の禁を犯し、この挙に及びたれば、何時、割腹を命ぜられんも期しがたしと心得、予めその仕度して出馬せしなり。しかるに未だその命に接せざれば、かく帰邸の道につきしなり。後刻にいたらば定めし御処分もあるべければ、貴君との面会ももはや只今限りと覚ゆるぞ。わが亡き後は、貴君らよろしく君上を保護したまわれ」
と粛然と述べた。
左近はこれを聞き、感激のため、馬上にうつ伏して頭を上げられなく、声を呑んでむせび泣いた。
われは一礼して別れ、自邸に戻ってひたすら御沙汰を待った。

馬上で頷いた左近は、その足で閣老・参政に対して「高橋こと、閉門謹慎の制禁を犯しましたが、ひとえに誠忠奉公の心からであり、何とぞ御寛大なご処置を」と訴えたという。
そのためか、泥舟と鉄舟にはお咎めの上使は、結局、やってこなかった。不問に付されたのである。
* * * * *

このときの鉄舟と泥舟の振る舞いたるや、身がうち震えるような感動を覚えるではありませんか。
謹慎の身でありながら、主君のためなら我が身を顧みず馳せ参じ、そのために受けるであろう咎をも覚悟し、割腹の準備までして江戸城に駆けつけた鉄舟たちの、忠君と言い留めるには不十分なほどの胆力を感じずにはいられません。
鉄舟のこの肚の据わり方は、後の西郷との談判のときに見事役目を全うしたことにも通じるような気がします。

人は何か問題にぶちあたったとき、どのような振る舞いをするでしょうか。
問題という壁を、乗り越えようとするのか、それとも壁を回避するのか、または壁を乗り越えることが出来ず、呆然と立ちつくす(挫折する)のか…。
鉄舟はそれらのどのタイプでもないのではなかろうか、と山本氏は語ります。
鉄舟は、壁を壁と思わなかったのではないか…、山本氏はそう推察します。そして、鉄舟をそう成らしめたのが、八カ月の謹慎だったのではないのではないか、と言うのです。

鉄舟は、これまでの人生でも、『修身二十則』『心胆錬磨之事』『宇宙と人間』などを認めたように、思考することに時間を割いてきましたが、それはあくまでも剣の修行という第一義の合間に取り入れたものではなかったでしょうか。しかし、謹慎中は剣の修行ができないため、おのずから自分の内面を見つめることに多くの時間を費やしたことでしょう。このことが、鉄舟の修行の仕方とその後の行動に影響を与えたとしても、不思議な事ではありません。
すなわち、自分とは果たして何者なのか、自分の奥底には何が存在しているのかを問うことが修行ではないか、鉄舟はこのことを見つけたのではないでしょうか。
謹慎中のあり余る時間の中で、自分という存在を極めるために自分とは何者かを問い続けることによって、ひとつの真理を見出したのです。
「世の中の真理は外部にあるのではなく、自分の中に内在する」
世の中の真理は自分の中に内在しており、それを深く探っていくことが、すなわち修行である。これが、鉄舟が謹慎中に見つけたものではなかったろうか。
そう考えねば、鉄舟のこのあと数々の偉業を成し遂げた胆力の説明がつかないように思います。

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文久3年12月10日、高橋泥舟に謹慎宥免の沙汰があり、続いて12月25日、鉄舟、松岡などにも謹慎宥免の沙汰が下りました。

謹慎が解けてからの鉄舟については、次回の発表をお楽しみに。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 14:43 | コメント (0)

2009年06月10日

尊王攘夷・・清河八郎その三

尊王攘夷・・清河八郎その三
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

桜田門外の変を契機として、清河八郎は国事に奔走しはじめた。お玉が池の清河塾机上から儒書が消え、土蔵に出入りする武士たちが増え、その中から清河を含む14名の同志によって「虎(こ)尾(び)の会」が結成された。時期は安政六年(1859)または万延元年(1860)といわれている。

「虎尾の会」は尊王攘夷党であり、「虎尾」とは「書経」の「心の憂慮は虎尾を踏み、春氷を渡るごとし」より起った言葉で、「危険を犯す」という意味のとおり、後に出てくるように結成後多くの危機に遭遇している。

発起人は清河八郎以下次のメンバーであった。

薩摩藩   伊牟田尚平 樋渡八兵衛 神田橋直助 益満休之助
肥前有馬  北有馬太郎
川越浪士  西川錬蔵
芸州浪人  池田徳太郎
下総    村上正忠 石坂周造
江戸    安積五郎 笠井伊蔵
幕臣    山岡鉄太郎 松岡万
 
また、盟約書は次のように書かれていた。

「およそ醜慮(しゅうりょ)(外国人)の内地に在る者、一時ことごとくこれを攘わんには、その策、火攻めにあらずんば能わざるなり。しかして檄を遠近に馳せ、大いに尊王攘夷の士を募り、相敵するものは醜慮とその罪を同じうし、王公将相もことごとくこれを斬る。

一挙してしかるのち天子に奏上し、錦旗を奉じて天下に号令すれば、すなわち回天の業を樹てん。もしそれ能わずば、すなわち八州を横行し、広く義民と結び、もって大いにそのことを壮んにせん。いやしくも性命あらば、死に至るもこの議をやすんずるなし」

清河が主張する尊王攘夷思想を盛り込んだもので、この中に「火攻め」とあるのは、横浜の外国人居留地の焼き討ちを意味している。

この当時の尊王攘夷志士達は、しきりに横浜の外国人居留地の焼き討ちを狙っていた。

例えば長州藩の桂小五郎も、万延元年に品川沖停泊中の軍艦丙辰丸で、水戸藩の有志と会し、幕政改革を意図した次の盟約を結んでいる。(寺田屋騒動 海音寺潮五郎)

「幕府の要路の大官を殺すか、横浜の外人居館を焼き討ちすれば、天下震動して、幕府は戦慄するであろうから、この役目は水戸人が引き受ける。長州人は幕府に建言して、幕政を改革して、安政の大獄の裁判を撤回させる役目を引き受ける」

この盟約は、水戸藩内の混乱で実行にいたらなかったが、「火攻め」の対象は常に横浜の外国人居留地であった。

その要因は天皇の勅許を得ない日米修好通商条約の調印と、この結果生じている国内経済の混乱、外国人の日本人への侮蔑行動、つまり、夷狄に屈服して、神国をその蹂躙にまかせる幕府は、もはやたのむに足らない。

加えて、違勅調印を攻撃すれば、幕府は安政の大獄によって弾圧を加えてくる。このような幕府の政策を変更させ、なんとか天皇の意志を奉じて、攘夷をしなければ、日本は滅亡するのではないか。この危機感が多くの人々に浸透していった結果が、「虎尾の会」の盟約書であり、桂小五郎のそれであった。

この「虎尾の会」に薩摩藩の益満休之助がいたことの事実は重要である。

これから八年後、鉄舟と益満は東海道を駿府へ向って急いでいた。東征軍参謀西郷隆盛と会見するためであったが、その道中は官軍で満ち溢れていた。その中を駿府まで通過する通行手形は、薩人益満の薩摩弁であった。独特の薩摩訛りは他国者に真似できない。益満がいたからこそ通行を邪魔されずに、慶応四年三月九日西郷と「江戸無血開城」の談判が出来たのであった。

その駿府行きの鉄舟と、益満と慶応四年の再会は、赤坂氷川神社裏の勝海舟邸であった。一介の旗本に過ぎず、それまで一度も政治的立場に立ったことがない鉄舟が、将軍徳川慶喜から幕府存亡危機を救う外交交渉に向かうよう命を受け、政治的立場の上層部に相談しようと、何人かの幕府上層部人物を訪れ、相談し指示を仰いだのであるが、皆、単独で駿府へ行くことなどは無謀であり、不可能であるからといって相手にしてくれない。そこで、最後に、今でいえば当時の首相の任にあった、軍事総裁としての海舟のところに向かったのであった。そこに「虎尾の会」以来の旧知、益満がいたのである。

ところで、清河を毛嫌いしていたのは海舟であった。海舟は清河と同型の人物ではないかと思う。清河の才気に国際的要素を加え、ひとまわり大きくし、純情さを一味少なくし、手練手管の芸を加えた人物、それが海舟であると思う。人は自分と同型を好まない傾向があるような気がするが、鉄舟は清河が暗殺された五年後、清河と同型の海舟と莫逆の交わりを結ぶことになった。それも鉄舟と清河が初めて会った瞬間に親しくなったように、海舟も鉄舟と出会い、ひとこと言葉を交わした瞬間、与(くみ)する仲になった。時間軸を隔てて同型の清河と海舟との深い交わりは、鉄舟という人物の一面を示していると思う。

氷川神社裏の海舟邸に益満がいた理由は、海舟日記(三月二日)で明らかである。

「旧歳、薩州の藩邸焼討のをり、訴え出でしところの家臣南部弥八郎、肥後七左衛門、益満休之助らは、頭分なるを以て、その罪遁るべからず、死罪に所せらるゝの旨にて、所々に御預け置れしが、某申す旨ありしを以て、此頃このひと上聴に達し、御旨に叶ふ。此日右三人某へ預終はる」

つまり、対官軍用の工作要員として、牢から引き出し受け入れたもので、鉄舟が訪れる三日前の三月二日という絶妙タイミングである。さすがに政治的能力の高い海舟ならであるが、それよりも鉄舟と益満とが同志として盟約を結んでいた仲であったことを、海舟が熟知していたことの意義は深い。

歴史とは偶然の重なりで、偉大な業績を積み重ねていく。益満と鉄舟の出会いは清河の「虎尾の会」。時が移って、益満が鉄舟の通行手形となるのは海舟邸での出会い。

もし仮に、若き益満と鉄舟が、横浜の外国人居留地の焼き討ちを図りつつ、お玉が池の清河塾土蔵の中で「豪傑踊り」をし合った仲間でなかったならば、果たして駿府行きの道中はあれほどスムースに成し得たであろうか。二人の阿吽の呼吸が効を奏したのだと思う。

一般的に「江戸無血開場」と清河は無関係とされているが、鉄舟と益満のつながりを考察すれば、清河も因子のひとつとして絡んでいたと断じざるをえない。

ここで「豪傑踊り」を説明しないといけないだろう。

「虎尾の会」の中に幕臣の松岡万がいた。この松岡が夜になると辻斬りに出た。また、薩摩の伊牟田尚平は始末に終えぬ乱暴者で、その他のメンバーも所在無さにいろいろ悪さをしに市中を出歩く。

そこで鉄舟が考えた乱暴・悪さ予防対策が「豪傑踊り」であった。まず、鉄舟が真っ裸になって、褌まで外して土蔵の真ん中で四斗樽の底を叩き出す。すると土蔵の中にいる全員が鉄舟を取り巻いて、これも真っ裸になって「えいやさ、えいやさ!」と拳固を振り回して踊りだす。みんなが踊り疲れると酒を飲む。酒が回るとまた鉄舟が樽を叩きだすので、再び踊りだす。こうして踊り疲れてごろごろその場に寝てしまって朝になる。というのが「豪傑踊り」であった。

この「豪傑踊り」の意義は高い。それは鉄舟が持っていた懸念への対策だった。外国人居留地の焼き討ちを実行させ、日本国内に騒乱を起こすことへの杞憂。徳川幕府体制内に身をおく立場として、実行をさせることの理非。さらに、情報が集中している江戸の真ん中に生き、開国はやむなしという認識を持ちつつ、その流れに反逆することの是非。

後年、静岡の金谷・牧の原台地で、お茶畑開墾頭として功績のあった中条景昭も「豪傑踊り」に加わっていたが、当時を回顧して次のように語っている。(おれの師匠 小倉鉄樹)

「今になって思えばまるで山岡に馬鹿にされてゐたようなものだ。なにせ山岡が志氣を鼓舞するのだと云って眞先に素ッ裸になって樽を叩き出すのだから、それに乗って皆が裸で踊り出したのだ。まさか裸体じゃ辻斬にも出られるものじゃない」

清河も鉄舟の意図を分かりつつ、この「豪傑踊り」に巻き込まれ、妻のお蓮に「山岡の考えは姑息すぎる」と愚痴をこぼしている。(回天の門 藤沢周平)

鉄舟は分かっていたのだ。仮に清河を首謀者とした浪人集団が事を起しても、国家体制という時代改革への行動には火がつかないと。

改革に対する読みの冷静さは鉄舟だけでない。

維新の三傑の一人、大久保利通も若き頃から次のように述べている。(寺田屋騒動)

「浪人運動では力が知れている。ろくなことは出来はせん。何として、藩全体でやることを考えなければならん。老公は見込みはないが、もう六十九というお年だ。長くなか。あとはきっと久光様が政治後見になりなさる。・・・中略・・・こちらとしては、うまく説きつけて天下のことに目ざめさせればよかのじゃ。それには先ず近づくことじゃ」

大久保利通はわかっていた。有志としての個人集団では、一時の成功や快があっても、時代を転換させるという大事業はできない。薩摩藩という七十七万石の総力を結集するしかない。そのためには久光をいだいて進めるしかない。この冷静な感覚が維新の三傑と称される人物となった基因であろう。立場と事例が異なるが、「虎尾の会」の鉄舟に通じる。

そろそろ清河が、何故に大坂薩摩屋敷に滞留し、伏見寺田屋事件に関与するような、天下の一流志士として認められたかについて触れたい。それは江戸から逃亡することになった事件に関わっている。

まず、その遠因には水戸の天狗党が絡んでいる。天狗党も横浜を襲撃するつもりで、軍資金を集めているらしいと聞きつけた清河が、文久元年(1861)一月に水戸行きを決行した。結局、天狗党とは会えずに江戸に戻ったのだが、この行動が幕吏に目をつけられることにつながり、清河塾には得体の知れない連中が、頻繁に出入りしているとにらまれ、監視されることになった。

塾の近くに信濃屋というそば屋があった。そこからそばを取り寄せて食べていたが、そのそば屋の亭主が奉行所と裏でつながっている岡っ引で、昼間は清河塾を見張り、夜になると土蔵の下に下っ引を忍びこませていたのである。このあたりが個人集団の弱さである。逐一奉行所に伝わって、首謀者の清河への対策が講じられつつあった。

書画会というものが当時盛んであった。料理屋が会場となって、客は祝儀の金を包んで行き、その場で揮毫される書や画を譲り受け帰るという催しであった。

文久元年五月、清河はひとつの書画会に出席した。水戸藩の関係者が出席すると聞いたからであった。だが、水戸藩士が居たにはいたが、政治談議は出来ず、もっぱら飲み食いに終始し、清河は少し悪酔いし、帰り道で異様な職人風の若者に絡まれることになった。

 書画会のあった両国から甚左衛門町(今の日本橋人形町あたり)に来たとき、手に棒を持ち、構え、清河の行く手を執拗に塞いだり、避けるとその方向に素早く寄ったりして、明らかに清河を狙って嗾(けしか)けてくる。

 何かの意図を含む挑発だと分かりつつも、棒が清河の体に直接向ってきたとき、無声の気合と共に腰をひねって刀が光り、すっと鞘の中に納まり、男の首が飛び、傍らの瀬戸物屋の店先に落ちた瞬間、その時を待っていたかのように、二三十人の捕り方が清河を囲んだ。明らかに仕掛けられたのだ。「虎尾の会」を潰し、頭領の清河を逮捕する口実をつくる罠だった。

 それ以後の清河は全国を逃亡することになる。水戸から越後奥州路へ、さらに木曽路から京都、中国、九州まで。この逃亡遍歴は、結果的に清河を一流の志士として全国的に認めさせる旅となった。

禍変じて福であり、その切っ掛けは「廃帝」の噂であった。幕府が「皇女和宮を人質にとって孝明天皇に条約勅許を迫り、天皇があくまでこばめば廃帝を断行する、そのために和学者の塙次郎に古例を調べさせている」という噂を入手したとき、清河の内部に戦慄が走った。これは使える。使わなければならない。

それ以後の清河の動きに対し司馬遼太郎が、「幕末の風雲は、この清河八郎の九州遊説から開幕したといってよい」(幕末・奇妙なり八郎)と述べているほどであるが、その経緯については次回にお伝えしたい。

投稿者 Master : 10:18 | コメント (0)