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2011年08月17日

彰義隊壊滅・・・その二

山岡鉄舟 彰義隊壊滅・・・その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

慶応四年(一八六八年)五月十四日、鉄舟は西郷から彰義隊攻撃決定の連絡を受けた。その当時のことを明治十六年三月になって「覚王院上人と論議之記」として次のように記している。当時の鉄舟の気持ちが率直に表現されているので、それを口語体でお伝えする。

「五月十四日、東叡山に進撃するとの決定があった。西郷参謀は私を招き、ほろりと一滴の涙を落して、慰めの言葉をいってくれたのである。

『朝廷を重んじ、主家に報いようとするあなたの誠忠は、よくわかっています。いま、暴徒を攻撃するのが、あなたにとって快いものでないということもわからぬわけではありません。深くお察しします。どうか悲しまないで下さい』

わたしは厚く感謝して帰った。
その夜、わたしは寝ることができなかったのである。このようなことになってしまった原因を考えてみれば、わずか数人の人間が方向を誤ったというだけのことから、三千余人が屍をさらすのである。突き刺されるような痛みを感ぜずにはいられなかった。そう思うと、わたしは、夜がふけているのもかまわずに上野へ行き、彰義隊の隊長はどこにいるかとたずねた。すると、ある者がいうには、隊長は昨夜すでに奥州へ向けて去ったのだという。その他の隊長をたずねてみたが、どこにいるのかわからなかった。

そのなかに越後榊原(高田)藩の藩士が集まっている神木隊(しんぼくたい)というのがあり、その隊長の酒井良祐という人物を説得したところ、酒井はわたしの赤心を理解し、解散させようと四方に奔走したのである。しかし先鋒の部隊が、突然に黒門の前に畳の楯を築き、戦闘の準備をはじめてしまった。

右を説得していると左が進み、左を鎮めたかと思うと右が出る。雑踏狼藉のありさまは、いちいちことばに尽くせないほどであった。わたしは慨嘆して退いてしまったのである。

夜明け、わたしはまた上野の仲町に行った。天台の浄地も、たちまちのうちに修羅の悪場に変わっていた。わたしは恨みと歎きで見ていることができずに立ち去った。
田安門の中の徳川邸へ行こうと思い、本郷壱岐殿坂にくると、官軍の半小隊ばかりがわたしの馬を囲んだ。これは尾張藩の隊であり、そのなかには、わたしの知っている早川太郎がいた。その早川がいう
『先生、どちらへ行かれるのですか』
『徳川の邸へ行こうと思うんだが・・・』
『だめでしょう、道がふさがっています』
『きみは官軍だ、わたしを案内して徳川邸に送ってはくれまいか』
『急いでいます、お送りできません』
そこで、わたしは道を変えて家に帰り、轟々たる砲声を空しく聞いて茫然としているばかりであった。
日暮れどき、上野の伽藍は灰になってしまっていた。嗚呼」

彰義隊攻撃は大村益次郎が指揮をとっていたが、各参謀から上野に籠る人数の多さから激戦が予想されるので夜襲攻撃が提案された。

だが、大村益次郎はそれを言下に一蹴し、
「錦旗を奉じての戦いだ。白昼、堂々の戦いをする」
と述べ、攻撃の配置は以下のように手配した。
① 薩摩兵が湯島天神から黒門口正面を進み決戦を挑む。
② 肥後兵は不忍池畔から、因州(鳥取)兵は切通坂から黒門口の敵に向かう。
③ 長州、肥前、筑後、大村・佐土原の兵は根津・谷中方面から上野の山を側面攻撃する。
④ 上野から東北に当る三河島方面は、わざと開けておいて敵の逃走口とする。逃走口がないと敵は死力を尽くして戦うので損害が多い。

この攻撃計画を西郷に見せた時の、有名な逸話が残っている。
西郷は諸藩の配置計画をじっと見ていたが、
「これは、薩摩兵を皆殺しにする配置ですな」
と静かに言った。黒門口が上野の大手門であり、そこが最大の激戦地になることは全員が知っている。その地が薩摩兵のみに任されている事の指摘であった。

西郷の指摘にその場にいた参謀どもが真っ青になった。西郷が異をとなえれば、薩長は割れる。その恐れで一瞬の恐怖が走った。

大村は、しばらく、じっとして、その後に扇子を開いて閉じて、黙ったまま上を向いていたが、やがて言った。

「そうなるでしょう。薩摩兵と貴殿を殺すつもりです」

この一言で、再びその場が静まりかえって、灯りが消えたようになり、参謀たちはそろって顔を下にし、面を上げられなくなった。
西郷は、一言も論駁せず、大きな眼で大村を見入り、ゆっくりと座を立ち去った。

 五月十五日未明、官軍各藩兵は大下馬下(二重橋)に集合し、所定の攻撃口に向かって進んだ。
 ちょうど季節は梅雨時期、この日も激しい雨と風が強かった。その雨の中で上野戦争は火ぶたを切ったのである。
 
この戦いを説明しだすと、年内いっぱいかかってしまう。そこで詳細は彰義隊に関する資料で補っていただくとして、戦況を一瞬にして官軍側勝利に導いた状況をお伝えしたい。

 午前中の戦いは彰義隊が優勢で、諸門とも官軍を寄せつけず、接近しても官軍は潰走させられた。
 苦戦の戦況を一変させ、彰義隊が一気に崩れた理由に二説ある。

一つは、一般的に流布されているアームストロング砲の威力である。
午後一時ごろ、本郷台(加賀藩邸)からおこったアームストロング砲の砲声、これは江戸城の御用部屋にいる大村から佐賀藩の伝令に指示が行われた。

「アームストロングの大砲、もはやよろしかろう」といい、伝令は騎馬で本郷台に向かった。

この当時の佐賀藩は諸藩に卓越して産業技術能力を持っていて、驚くべきはアームストロング砲を二門持っていたことである。ただし、これは佐賀藩が製造したのか、それとも製造はしたが実際のアームストロング砲と同等のものだったか、又は英国製であったかについては議論が分かれているが、大村からの伝令を受けた佐賀藩は射撃を開始した。

事前に吉祥閣に照準が定められていた。古地図で吉祥閣を確認すると、黒門口から根本中堂、今は大噴水広場となっているが、この根本中堂へ向かう手前、左に朱塗りの堂に大仏殿があって、その前くらいの位置に文殊楼という山門があり、吉祥閣と書した勅額が朱塗りで掲げられていた。ここを照準にアームストロング砲が発射された。

その威力について、当時山王台で射撃指揮していた彰義隊幹部の阿部弘蔵が次のように語っている。

「樹木を裂き、石塔を砕き、社堂に中(あた)*り、隊士人夫などのこれが為に斃(たお)るるを目撃して憤慨に堪えざリしが」

阿部は砲兵の専門家だけに、この砲弾が椎ノ実形の「破裂弾」であったことを明記している。
これで彰義隊は動揺し、士気を落とし始めたその時に、薩摩兵が主力を黒門口に前進させ、防御を突破したという。

これが一般的に流布されているアームストロング砲による勝利である。

常に世には異説がある。それを伝えるのが「真説上野彰義隊 加来耕三著 NGS出版」である。

「これまで世に出された彰義隊関連の書物は、例外なく上野戦争の勝敗の要因に、このアームストロング砲の脅威を掲げている。

―――撃ち出された当初、命中率は悪かったが徐々に上野山内に落ちるようになり、その威力の前にはわずかばかりの火器と、多くを白兵戦に頼る彰義隊は敵でなく、その破音一発、多くの隊士を恐怖させ敗走させたというのだ。

たしかにアームストロング砲の命中率は徐々に上がっている。だが黒門口に一発の砲丸すら当たった形跡がないように、不忍池を越えて二、三の子院を破壊したとしても、その実、彰義隊が夜までもちこたえられないほどの脅威ではなかった。

ここに大村の最後の切り札が登場する」

と述べ、それは覆面部隊だという。

「彰義隊は天野の方針で、その氏素性、前歴をなんら咎めることなく、“来るものは拒まず”式に隊士を入隊させてきたため、当然のことながら大総督府からの間諜が多数紛れ込んでいたことは想像に難くない」

と同書で何人か遺されたスパイの談話を紹介している。

また、彰義隊の菩提寺である東京都荒川区の円通寺住職の乙部融朗氏の談話も紹介されていて、ここに大村の覆面部隊作戦が語られている。

「官軍の歴史では、大砲を撃ち込んで鎮圧したように書いてあるものもありますが、現在、円通寺に残っている黒門(注 上野寛永寺から同寺に移設されている)を見ても、大砲が当たって壊れたような個所はありません。ただし、小銃の弾痕はかなりたくさん残っています。黒門は上野の山の最前面にあるので、大砲でいちばん先に撃たれて当然のはずですが、円通寺の黒門が事実を証明しています。この弾痕の面積密度から、西軍の撃った弾数が計算できます。また、戦闘時間と小銃の数との積も、当時の小銃発射時間の間隔から求めることができます。正面攻撃では、落としてしまう自信がなかった。

それで、大村益次郎は卑怯な戦術を用いました。秘密にコトをおこなうため、手勢の長州兵を川越街道を通って江戸を離れさせ、日光街道の草加へ大迂回をさせ、前の日の十四日には千住の宿に泊まり、翌五月十五日戦いの当日の昼ごろ、会津の援兵と称して上野の山に、今の鴬谷駅のあるところにあった新門から入りこんで、文化会館の北寄りのところにある磨鉢山という古墳のところまで来たときに会津の旗をおろして、代わりに長州の旗を掲げ黒門口を中から撃ったので、山内は大混乱。こうして死ぬまで戦うつもりが、潰走しなければならなくなり、雨の中、昼を少し過ぎたころには、あっけなく崩れてしまいました。これが戦いの模様でありました」

この円通寺住職の主張が公にならなかったのは、その事実確認が消されたためであるといい、当時、この覆面部隊についてかわら版が発行されたが、官軍がこれを回収してしまったため世に明らかにならなかったが、一枚だけ残り、そのコピーを住職が保有しており、それに基づく発言であり、著者の加来耕三氏がコピーを見て、それを同書で紹介しているが、確かにかわら版には覆面部隊のことが書かれている。ただし、官軍が「卑怯な戦術を用いた」とは書いてはない。

このかわら版コピーに加え、加来耕三氏は「中外新聞外篇」之二十巻(慶応四年五月刊行)に、「官兵東叡山屯集の彰義隊を攻むる事」として、その中に次の記述があったと書いている。

「―――始め彰義隊の方大に勝利の様子相見え候処、八ツ頃官軍の大兵黒門前に寄来り、山内彰義隊の一手裏切の由にて、諸方の戦ひ、一際(ひときわ)劇敷、時に又会と相記し候旗押立候て援兵来り候様子の処、右は偽兵にて忽ち発砲、其内、山内中堂坊より煙(けむり)*焔盛に立昇り、遂に山内山外の彰義隊皆崩立ち候て、口々の官兵一度に攻入、山王山に働居候彰義隊を挟撃鏖殺(おうさつ)いたし候由。七時頃に至り全く戦い終る」

この加来氏の記述のように、アームストロング砲を合図として、上野山内に入った覆面部隊が行動したのだろうと思われるが、彰義隊のような主義主張がバラバラな混合軍隊では、裏切りが出たという情報が流されると、収拾がつかなくなるだろう。

したがって、大村の作戦として覆面部隊が考えてあったならば、この戦法が最も効果的であったと思われる。

会津からの援兵については司馬遼太郎も「花神」で次のように触れている。
「午後になって戦勢がやや逆になった。乱戦中、彰義隊のあいだで、『会津から援軍が到着した』とか、『応援の同志二千が官軍をとりまいている』といったふうの虚報がとんだ」

だが、「花神」での結論は
「この勝敗未分の戦況を決定的に変えたのは、午後一時ごろ、本郷台(加賀藩邸)からおこったアームストロング砲の砲声であった」
としているので、覆面部隊説はとっていない。

ここでアームストロング砲について検討しないと、彰義隊壊滅の要因が解明できない。この砲は、イギリスのウィリアム・アームストロングが1855年に開発した大砲の一種。マーチン・ウォーレンドルフが発明した後装式(砲の後ろから弾を込める)ライフル砲を改良したもので、装填時間は従来の数分の一から、大型砲では十分の一にまで短縮された。砲身は錬鉄製で、複数の筒を重ね合わせる層成砲身で鋳造砲に比べて軽量であった。このような特徴から、同時代の火砲の中では優れた性能を持っていた。

1858年にイギリス軍の制式砲に採用され、その特許は全てイギリス政府の物とされ輸出禁止品に指定されるなど、イギリスが誇る新兵器として期待されていた。しかし、薩英戦争の時に戦闘に参加した21門が合計で365発を発射したところ28回も発射不能に陥り、旗艦ユーリアラスに搭載されていた1門が爆発して砲員全員が死亡するという事故が起こった。その原因は装填の為に可動させる砲筒後部に巨大な膨張率を持つ火薬ガスの圧力がかかるため、尾栓が破裂しやすかったことにある。そのため信頼性は急速に失われ、イギリスでは注文がキャンセルされ生産は打ち切られ、過渡期の兵器として消えていった。

廃棄されたアームストロング砲は輸出禁止が解除され、南北戦争中のアメリカへ輸出された。南北戦争が終わると幕末の日本へ売却され、戊辰戦争で使用された。中でも江戸幕府がトーマス・グラバーを介して35門もの多数を発注したが、グラバーが引き渡しを拒絶したために幕府の手には届かなかった。

これがアームストロング砲の概要であるが、司馬遼太郎は彰義隊壊滅の主要因をこの砲としているが、加来氏の反論もある。

そこで、彰義隊が壊滅された旧暦慶応四年五月十五日、新暦では七月四日(平成二十二年)になるが、この暑い盛りの日に上野公園内を探索してみた。

まず、戦火を免れた寛永寺本坊表門に行ってみた。寛永寺はことごとく焼失したが、輪王寺宮法親王が居住していた寛永寺本坊表門のみ戦火を免れ、明治11年、帝国博物館(現、東京国立博物館)が開館すると、表門として使われ、関東大震災後、現在の本館を改築するにともない、今は日本学士院の向かいの両大師堂の隣りに移建され、門には皇室の菊の御紋が印されている。

この門を子細に見ていくと、確かに銃弾の跡がいくつも残っていて、激しい戦いが行われたことが分かるが、彰義隊幹部の阿部弘蔵が、椎ノ実形の「破裂弾」であったことを明記したアームストロング砲が当たったと思われる傷跡はない。

西郷隆盛銅像と彰義隊の墓の先に清水観音堂があり、堂内に明治期の画家五(ご)姓(せ)田(だ)芳(ほう)柳(りゅう)の描いた「上野戦争図」が掲示されているが、その絵の隣りに実物の砲弾が展示されている。これが椎ノ実型の砲弾であり、これが本郷台から発射されたアームストロング砲とすれば、大きさから見て木製の寛永寺本坊表門なぞは一発で破壊されたであろう。

ここで大村益次郎という類稀なる人物の特性、それは優れた計画性にあるが、その資質から考えるなら、薩英戦争の情報は入手しているので、英国旗艦ユーリアラス号の爆発事故は当然に把握していたであろうから、事前に佐賀藩のアームストロング砲を試射したはずで、その結果、アームストロング砲の実力を判断した上で、覆面部隊投入を考えたと理解するのが自然だと思う。

大村は必ず彰義隊を壊滅させるために、複数の作戦を組み合わせできる優れた人物であるから、司馬遼太郎が決めつけているアームストロング砲だけに頼らず、勝利するためには、敵の裏をかくということは戦法として当然にあり得るわけで、彰義隊がそれらを予測し対応をとらないことの方が問題である。戦争に負けてしまっては何もならないのだから。したがって、覆面部隊が最も効果的であったと、実際に上野公園を探索してみて感じているところである。

いずれにしても上野戦争で彰義隊は壊滅した。これで江戸での官軍の権威は回復した。そのタイミングを見計らったように、徳川家への処分通告がなされた。

「徳川亀之助を駿河国府中の城主に仰付けられ領地高七十万石下賜せらる」(徳川慶喜公伝4)
禄高七十万石は、親藩尾張藩の六十一万九千五百石よりわずか八万五千石多いだけで、加賀の前田、薩摩の島津に次いで、諸侯のうちで第三位に位置する禄高だった。

これは幕臣の生活の問題となる。また、徳川家臣の官位はこの日をもって停止された。彰義隊の壊滅は徳川家と家臣たちを駿府での困窮生活へ向かわせた。

投稿者 Master : 10:25 | コメント (0)