« 2007年01月 | メイン | 2007年03月 »

2007年02月25日

山本紀久雄氏がテレビに登場します

毎月、鉄舟サロンで発表している「山本紀久雄」氏が、東京放送TBS系列「本と出会う」30分番組に、「フランスを救った日本の牡蠣」の著者で出演いたします。放映日時は以下の通りです。

3月3日(土)CS「TBSバラード」11時30分
  4日(日)BS「BS-i」7時30分、CS「TBSバラード」11時30分

投稿者 Master : 09:43 | コメント (0)

2007年02月23日

3月の例会のご案内

2月の発表者は松永さんと山本さんでした。

松永さんは「私の仕事」と題しまして、ご自身が係わった国からの研究助成をもらっている産学官連携促進事業研究と、ご自身が興味を持っていることを発表されました。
山本さんは、鉄舟研究「山岡静山との出会い その1」を発表されました。

3月は第三水曜日が祝日のため、第四水曜日の3月28日に開催いたします。
発表者は、松村さんと山本さんです。
松村さんには、「日本の再生と日本文化の底力」と題しまして、発表していただきます。
山本さんには、鉄舟研究を発表していただきます。

投稿者 Master : 17:15 | コメント (0)

2007年02月22日

鉄舟誕生とその時代背景

鉄舟誕生とその時代背景
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

2005年九月十一日の衆議院総選挙で多くの新人議員が誕生した。その八十三人に対し昨年末、日経新聞の田勢康弘氏が「政治家の心構え」として、西郷隆盛の「南洲翁遺訓」を手渡し、次のように語った。(日経新聞2005年12月5日)

この「南洲翁遺訓」に「国のリーダーとしての生き方がすべて書いてある。ぜひ読んでほしい」。また、要点は一つだと読み上げたのが「命もいらず名もいらず、官位も金もいらぬ人はしまつに困るものなり。このしまつに困る人ならでは艱難をともにし、国家の大業はなし得られぬなり」であった。

西郷はこのくだり、誰をイメージして遺訓に書き残したのか。それは山岡鉄舟であった。駿府における江戸無血開城交渉・談判において「すべてを捨て去り迫ってくる鉄舟の人間力」に感動した西郷は、勝海舟との江戸薩摩屋敷における正式会談後、江戸市中を見渡せる愛宕山に登り、鉄舟を評して語った言葉が「南洲翁遺訓」に記され、これが本連載のタイトルにもなっているのである。

山岡鉄舟は小野鉄太郎として天保七年(千八百三十六)六月十日に、本所大川端四軒屋敷の御蔵奉行役宅、今の蔵前橋辺りの隅田川端に生まれた。時は明治維新前三十二年、日本が未曾有の大改革を目前にして、国全体が風雲急なる時代であった。

二十歳のとき山岡家に養子に入り、以後山岡姓となるが、小野鉄太郎として生まれた御蔵奉行役宅を、安政三年(千八百五十六)の切絵図と現代地図で確認してみると、台東区蔵前一丁目の都立蔵前工業高校から二丁目の東京都下水道局あたりで、蔵前橋通りに沿った蔵前橋に近いところに「浅草御蔵跡」の碑が立っている。

御蔵奉行は時期により定員が三名から九名に変わり、したがって役宅もいくつかあり、そのひとつで鉄舟が誕生したのである。御蔵奉行とは勘定奉行の管轄下で、全国各地の幕府領地から送られてくる年貢米の出納、保管、御蔵の営繕管理などを行う役目であり、札差の手を経て、市中に渡す手続きが行われたところである。札差とは旗本・御家人の蔵米取の代理人として、御蔵から支給される俸禄米を米問屋に売り払い、手数料を得ることを本業とする商人であったが、いつしか旗本・御家人に蔵米を担保として金貸しを行う、武士御用達の金融機関となった。

さて、その御蔵奉行としての父小野朝右衛門高幅は、六百石取の旗本であり、母は常陸の国鹿島神宮神官である塚原石見の二女磯であり、後妻であった。

鉄舟宅の内弟子として、晩年の鉄舟の食事の給仕や身の回りの世話などを、取り仕切っていた小倉鉄樹の著書「『おれの師匠』島津書房」に、「鉄舟の同胞」と題して鉄舟の兄弟一覧が掲載されている。これによると鉄舟が生まれる前、すでに男四人、女三人の子供がいて、長男の幾三郎が早世とあるので六人の子供がいたことになる。ここに嫁いで来た磯は三番目の妻となるのであるが、結婚に当たって、最初は塚原石見に断られたようである。

当時小野朝右衛門は、塚原石見の家の近くにある小野家所領地の管理を塚原に依頼しており、その縁で磯を見初めたのであるが、六百石取の旗本であっても、五十半ば過ぎの男と、三十歳以上離れた若い娘の磯との結婚は難しかった。

そこで、結婚するに当たって念書が交わされたという。小野朝右衛門と塚原石見の間で「生涯不自由はさせない。倅の代になっても粗略にすることはないことを申し渡す」として、署名をしたものが山岡家に残っているという。(『山岡鉄舟 幕末維新の仕事人』佐藤寛著 光文社新書)

朝右衛門を魅了した磯については「當時師匠と同門だった富田某の日記に『至って丈高く色黒く気分鋭し』」(おれの師匠)とあるように、頭脳鋭き長身の女性であった。一方、朝右衛門は「父朝右衛門高幅は、あまり聞かぬところをみると尋常の人であったらしい」(おれの師匠)とあるように、特別に目立つ人物ではなかったようである。

なお、朝右衛門は「身長五尺七寸(百七十三センチ)当時としては大柄ではある」(山岡鉄舟 幕末維新の仕事人)と両親共に長身であった。また、「師匠の六尺二寸二十八貫の體軀も母に似たものと思はれる」(おれの師匠)とあるように、鉄舟の立派な体格は両親の血筋を受けていた。

朝右衛門と磯との間には、鉄太郎(鉄舟)をはじめとして六人の男の子が生まれた。したがって、朝右衛門は十三人の子供を生んだことになる。なお、鉄太郎は朝右衛門の五男となるが、鉄太郎と長男を意味する「太郎」を名づけられたこと、それは磯にとっては長男であることからと思われるが、ここにも朝右衛門と磯との力関係が伺える。

さて、鉄太郎は十歳のときに、朝右衛門が飛騨高山の郡代として赴任することになり、一緒に飛騨高山に向かったのであるが、それまでの鉄太郎については、九歳のときから真影流久須美閑適斎の道場で剣術を習い始めたという程度のみで、特別に言い伝えられていることは残っていない。

というのも鉄舟は生涯を通じて、日記や自叙伝を残さなかったので記録がない。小倉鉄樹が、鉄舟の自叙伝を筆記したいと相談したところ「そんなことはしなくともよい。書かなくつたつて残るものなら後世に残るし、残らぬものならいくら詳しく書いたつて消えてしまう」と相手にされなかったと述べている(おれの師匠)。したがって、身近に居た人や、周辺の人が書きとめておいたもの以外に史料がないのである。

しかし、飛騨高山に移ってからは、富田節斎の日記で知ることができる。鉄太郎に習字や素読を教え、小野家と日常的に接していたため、日記で鉄太郎の行動が分かるので、これについては次回以降、順次お伝えしていきたい。

さて、鉄舟のすごさは「南洲翁遺訓」にある通りで、さすがに西郷隆盛である。鉄舟の本質を一瞬にして見抜き、的確に表現している。またそれが、鉄舟が生きた時代と今とは大きく異なるのに、一国の政治運営を司ることになった小泉チルドレンに対する心構えとして、それも最も大事な要点として伝えられたこと、その意味するところは重要である。

人はその存在した時代にしか生きられず、必ずその生きた時代から影響を受けるものであって、これは鉄舟も同じである。だが、百三十八年前の幕末時の生き方が現代の政治家に心構えとして示された事実を考えると、鉄舟の生き方の中に、何か時代を超える本質的なものが存在していると思う。

また、これを検討することが、本連載のタイトルである「命も、名も、金も要らぬ」と評される人間になれたのか、それを解明することに通ずるはずである。しかし、その検討の糸口を何に求めたらよいのであろうか。難しい課題である。

それは、やはり西郷から始めたいと思う。愛宕山での西郷から検討したいと思う。

江戸無血開城の正式会談後、愛宕山に海舟と向かったことは前述した。そこで以下の会話が両者間でなされたと海舟が述べている。
「西郷はためいきをついて言うには、”流石は徳川公だけあって、エライ宝をおもちだ“というから、どうしたと聴いたら、イヤ山岡さんのことですというから、ドンナ宝かと反問すると、”イヤあの人は、どうの、こうのと、言葉では尽くせぬが、何分にも腑の脱けた人でござる“」(『山岡鉄舟』 大森曹玄著 春秋社)

この後に、冒頭の「南洲翁遺訓」に記された内容が続くのであるが、ここでは西郷が発した「エライ宝物」という表現に注目したい。それは、当然に鉄舟を指してはいるが、その言葉の裏に徳川幕府に対する評価もあると考えたいのである。ということは、徳川幕府が倒壊する時に至って、突如として一介の軽輩旗本を、それも江戸を戦火から救う重要な交渉・談判に登場させ、見事に成し遂げさせたというところ、そこに徳川幕府における人材層の豊かさと、懐の深さを感じ、これは西郷も同様ではなかったと推測したいのである。

さすがに幕府には隠された優れた人物がいるものだと、鉄舟を目の当たりにして思ったに違いない。それが「エライ宝物」ということになったのだと思う。この推測が妥当とするならば、その意味するところは徳川政治というもの、それは封建体制下ではあったが、意外にすばらしい政治が行われていたと考えられ、西郷の「エライ宝物」発言は問題の本質を突いているのではないかと思われるのである。

そのあたりの研究が進み、実は、最近の歴史研究では「暗黒の江戸時代」というのは、虚像であったと指摘されつつある。「明治政府は幕府を転覆して権力を掌握したから、幕府政治をことさらに暗黒なものとして描く必要にせまられた。しかも『暗黒の近世』という虚像は、反政府の運動を展開した自由民権運動家をもとらえた。自由民権家も、文明開化という時代の波にとらえられ、江戸時代を『未開』、『暗黒』と決めつけた点においては明治政府と異口同音であった」と指摘するのは「『開国と幕末変革』井上勝生著 講談社」である。江戸時代の実態が解明され、従来認識から変化すべきと主張しているのである。

つまり、鉄舟が生まれ育った江戸時代は、我々が思い込んでいるような実態とは異なっていて、割合自由なシステムで運営されていたのではないかと思われるのである。

そこで、まず鉄舟の生まれ育った、天保という時代(千八百三十年~四十三年)までの歴史の流れを、ざっと振り返ってみることから検討してみたい。

江戸時代には三大改革の時代があった。享保、寛政、天保であるが、その系譜を振り返ると、そのスタートは元禄時代にある。元禄時代(千六百八十八~千七百三)は五代将軍綱吉の時代にあたり、側用人柳沢吉保が権威をふるった時期で、華やかだが賄賂が横行し、生類憐れみの令などの悪法が出され、幕府の財政が困難を迎えた。

この後に八代将軍吉宗が登場し、享保時代(千七百十六~三十五)の改革を行った。これは政治改革ともいうべきもので、幕政を引き締めて倹約を励行し、財政を好転させ幕府を立て直して、吉宗は「幕府中興の祖」と呼ばれた。

ところが、その後の十代将軍家治の時代に側用人田沼意次が強い権勢をふるい、賄賂、汚職の腐敗した政治が行われた田沼時代となった。天明七年(千七百八十七)に筆頭老中に松平定信が就任し、田沼の政治を悪政であると徹底的に批判し、厳しい倹約と文武の奨励による綱紀の粛正などの寛政の改革を断行した。

しかしながら、十一代将軍家斉の五十五人もの子女をもうけた大御所時代になると、老中水野忠成が権勢をふるい、田沼時代の再来かのような賄賂、汚職がはびこった時代が来て、家斉の没後その大御所政治を徹底的に批判して改革を行ったのが、老中水野忠邦で天保の改革と呼ばれている。

このように見てくると、幕府政治は緩みと緊張を繰り返し、「悪政」の後に「善政」あるいは改革が行っていることになるが、その中の徳川幕府最後の天保改革時に鉄舟が幼少時代を過ごしたのである。

一般的に人は幼少時代の過ごし方で、性格に影響を受けることが多い。鉄舟の性格は後年の貧乏時代であっても、また、いくら要職に就いていても、あまりカネとモノにこだわらない性格であった。これは「南洲翁遺訓」に記されている通りであるが、この鉄舟のすばらしい性格も、その育った時代環境から影響を受けているはずである。

では、鉄舟が育った天保時代は、そのような性格を作ってくれる、豊かで問題の少ない社会であったのであろうか。

実は、この天保の時代は享保の飢饉、天明の飢饉とならぶ、江戸三大飢饉の天保飢饉(天保三年~九年・千八百三十二~三十八)の時で、異常気象から七年間も凶作が続き「七年ケカチ(飢渇)」といわれる時代で、中でも鉄舟が生まれる三年前の天保四年は、冷雨、大雨、大洪水が重なって、大凶作となった年で「巳年のケカチ」として長く記憶されるほどであった。また、天保の時代は一揆が多いことで知られている。鉄舟が生まれた二年後の天保九年には、全国で九十件以上の一揆や騒動がおきているし、その前後の年にも多発している。

このように見ていくと、鉄舟が生まれ育った時代は、災害が多く暗い混乱の社会であったと思われるのだが、しかし、実態は異なっていて、豊かな感性の鉄舟を育むに足る安定した社会であったというのが、最近の歴史研究の成果から判明した事実である。次回はその事実をいくつかの事例で証明し、少年鉄太郎が飛騨高山で、豊かに育つ姿をお伝えする。

投稿者 Master : 15:24 | コメント (0)

2007年02月21日

望嶽亭に伝わる真実

 望嶽亭に伝わる真実
 
 まず、近代日本のスタートとなった幕末維新という時代を、もう一度ざっと振り返ってみたい。
 
 まず、当時の基本的背景状況としては、徳川幕府がその本来の姿ではなくなっていたことがあげられる。歴代の徳川幕府将軍は征夷大将軍として、朝廷から兵権と政権を掌握し、日本全体を取り仕切る権限を与えられていたから、たとえ大藩大名といえども幕府政治に直接参画できないことになっていたはずである。

ところが、幕末になると、薩摩を代表とする、いわゆる雄藩が朝廷とともに、国内政治に参画し始めた。どうしてこのような実態となったのだろうか。
 
 すべての始まりは嘉永6年(1853)6月3日の、米国東インド艦隊司令長官ペリーが率いる黒船艦隊四隻が来航し浦賀(現在の久里浜)に上陸したことであった。
当時、欧米諸国は19世紀中頃から資本主義が進展し、市場を求めてアジアに急接近しつつあった。ペリーはアメリカ大統領の親書を携え、大砲で脅しをかけながら、日本に開国を迫った。それに逆らうことは、隣国の清国のように、欧米諸国の蚕食される可能性が高かった。
侵略されつつある中国の実情を、日本の支配層は的確に把握しており、それに対して強い戦慄と、強烈な危機感を持ち、日本をどのような国家にしていくかという方向性と方策をめぐって、様々な混乱・衝突・戦いが発生した。
 
 安政期(1854~60)は、ペリー再航と通商条約の勅許と将軍継嗣問題、それをきっかけとした安政の大獄、その結果、大老井伊直弼が桜田門外で暗殺され、これで政治状況は一気に混沌化した。
 文久から元治期(1861~64)は、長州を中心に「攘夷」思想が日本中をかき回した。慶応期(1865~68)に入ると、薩摩が長州との「雄藩連合」を率いて幕府と対立し始め、幕府による江戸薩摩藩邸焼き討ちから、鳥羽伏見の戦いでの幕府軍敗退、江戸無血開城へと、幕末維新激流が一気になだれ込み、明治維新が成立したのであった。
 
 この最後の江戸無血開城に、わが主人公の山岡鉄舟が突如登場し、官軍の実質的リーダーである西郷隆盛との駿府会談を成功させたのである。

 しかし、何故に時代は西郷という人物を、国家体制の局面を左右させるタイミングに、リーダーとして登場させたのであろうか。 

 これに対する答えは極めて錯綜していて容易ではないが、西郷が持つ時代への変革方向性、それは新時代体制への考え方であり、方策であったが、それが時代の流れをつかんでいた、ということが最大要因であったと思われる。
だが、この西郷には豹変ともいえる考え方の変化があったこと、その事実を指摘しなければならない。時代の流れを一貫してつかんでいたとはいえないのである。

 実は、第一次長州征伐まで、西郷は長州に対して強い姿勢で臨んでいた。つまり、幕府側を代表する重要な人物であった、という事実である。これは幕府が征長総督府を組織したとき、薩摩藩を代表して西郷が総督府参謀となったことでも分かり、総督は尾張藩の徳川慶勝であったが、実際の指揮は西郷が全て仕切っていたのであった。

 その西郷が、なぜに自らの考え方・方針を変え、長州と同盟を組み、幕府に対抗し、官軍参謀として、対幕府戦争の前面に登場してきたのであろうか。この西郷の変心から明治維新への構想が実質的にスタートした、といっても過言でないほど重要な事件であった。

 それは、勝海舟との出会いによってもたらされた。元治元年(1864)の9月11日、西郷は時の幕府軍艦奉行であった海舟と会うため、大阪の旅館に出向いた。西郷は「轡の紋のついた黒縮緬の羽織」だったと海舟が述懐しているが、そこで海舟が西郷に語ったことが、西郷を動かし、西郷の考え方を反転変化させ、これが明治維新へ大きく動くきっかけとなったであった。

 人は自覚的に、つまり、自らがもつ物事へのとらえ方や考え方を自分で変える、ということはかなり難しい。それも価値観に属する分野については、特に難しい。
 だが、時代を左右する大人物には、その特に難しいと思われる自覚的変化によって、自らの考え方を大転回させ、次の時代を創りあげていくものである。その最適例がこのときの西郷であった。
 
 海舟は、西郷が尋ねた時の大問題であった兵庫開港延期について、次のように語った。
「小生は、別段この談判(注 兵庫開港延期問題)を難件とは思はない。小生がもし談判委員となったら、まづ外国の全権に、君らは、山城なる天皇を知って居るかと尋ねる。すると彼らは、必ず知って居ると答えるだろう。そこで、しからば、その天皇の叡慮を安んじ奉るために、しばらく延期してくれと頼むのサ。そして一方に於いては、加州(注 加賀)、備州、薩摩、肥後その他の大名を集め、その意見を採って陛下に奏聞し、更に国論を決するばかりサ」(『勝海舟全集・21・氷川清話』講談社)

 この海舟発言を聞き、西郷は唸り、その意味する重大さに驚愕した。何故なら、日本政治の最重要問題処理を、有力諸侯に主体となって当たらせるとい発言であり、これは有力諸侯を国政運営の中心に位置させるという構想につながり、その背景には「幕府には政権担当能力がない」という含みを持たせていたからであった。

 これは以前から海舟の持論ではあったが、とうてい幕臣から発言される内容ではない。しかし、逆に西郷にとっては眼を輝かせる見解であった。海舟の持論の意図するところを突き詰めると、一種の「共和政治」を志向するものであり、それだけに幕府内では反発が強く、実際に海舟は、この年の10月に軍艦奉行の役を降ろされたうえ、蟄居を命じられてしまう。
 
 だが、幕府内部の反発が強いということは、薩摩側からみれば「その通りだ」という見解になるので、当然、西郷はこの「共和政治」構想に触発され納得し受け入れ、この会談を境に幕府を見限る方向に動き出したのであった。

 その動きの第一弾は、対長州政策の変更であった。ここで長州を攻め潰すのは幕府を助ける結果になってしまう。ここは長州の政治的力量を温存し、「共和政治」の一翼を担ってもらうことの方が得策である。と考えるのは自然であり、その結果、第一次長州征伐・征長総督府参謀でありながら妥協的に終わらせる、という結果を西郷は図ったのである。

 西郷について詳しい作家の海音寺潮五郎氏は、大坂会談時の海舟発言を次のように推察している。「長州征伐のことについて、勝は西郷にある程度の忠告をこころみたように思われるのである。おそらく、その忠告はこうではなかったか。『長州は征伐しなければなりませんが、そうひどく苦しめるのは、わたしは賛成出来ませんね。ひどく痛めつけるとなると、どうしても長くかかります。今は日本人同士が長く内輪喧嘩していていい時ではありません。欧米列強が野心を抱いて、日本のすきをうかがっていることを、われわれはいつも考えていなければならんのですよ。長州が恭順謝罪の意を表するなら、適当にその実をあげさせるというくらいで、ゆるしてやるべきでしょう』勝という人は、終始一貫、日本対外国ということだけを考えて、勤王・佐幕の抗争などは冷眼視、といって悪ければ、第二、第三に考えていた人である。明治になってからの彼のことばだが『愛国ということを忘れた尊王など、意味のないものだ』というのがある。西郷とのこの最初の出会いの時、勝が上述のようなことを言わないはずはないと、ぼくは思うのである」(『西郷隆盛』学研文庫)

 この海舟・西郷会談が、その後の西郷の考え方を大きく変えさせ、結果として薩摩藩の方針を変化させ、長州と結びつき、反幕府体制をつくっていくきっかけとなった。

 さて、鉄舟に話を変えたい。鉄舟が西郷と会談するため駿府にたどり着くこと、それが江戸無血開城成功への転換点であったが、駿府までの行程には従来から三つの説がある。

 一つは、駿府まで薩人益満休之助が同行していたという説であり、これが一般的に唱えられている。二つ目は、益満は体調を崩し、箱根からは鉄舟の単独行であったという説である。もう一つは途中で体調を崩した益満が追いついたという説である。

 この三説については、鉄舟自ら記録を残していないので、関係者間で長年にわたって論議されているところであるが、この中で記録といえるものが存在しているのは第二説のみである。その記録とは静岡県庵原郡由比町西倉沢「藤屋・望嶽亭」に代々口承伝承されているもので、現在の口承伝承者は望嶽亭・松永家23代当主、故松永宝蔵氏の夫人である松永さだよさん(80歳)であり、その内容が「危機を救った藤屋・望嶽亭」(若杉昌敬編)で明確にされており、前号で要約抜粋して紹介した。

 今回、改めて望嶽亭を訪れ、さだよさんの語りをお聞きしているうちに、不思議な新鮮感覚に包まれた。さだよさんの語りがあまりにも瑞々しいのである。代々伝えてきている時代は、遠い幕末時で、今を遡る138年前のことなのに、さながら昨日の事件のように感じてくるのである。これはどうしたのか。どうしてこのような新鮮な感動が湧き上がってくるのか。

 さだよさんの穏やかな笑顔を見続け、身体を捉えたこの不思議感覚を考えているうちに、ある一つのヒントを得ることができた。それは代々という歴代的な言い伝え、という意味合いと反対側の概念である「記憶が短い」ということである。口承伝承を生んだ20代松永七郎平の女房「かく」との時間的距離が近く短いのである。口承伝承してきた人が少ないという意味でもある。

 望嶽亭に代々口承伝承され始めたのは、当時の望嶽亭20代松永七郎平の女房「かく」からであった。慶応4年(1868)の3月7日夜半にかくが、鉄舟を助けるために体験した強烈な出来事、それが鮮烈な印象としてかくの脳裏に深く刻まれ残って、以後、代々口承伝承されてきたのであった。というこの経緯から、伝承は代々何人もが経由して伝えてきた歴史をもち、昔からの古臭い物語ではないか、という思いを当然一般的に持つ。確かに、時代は幕末時で、138年前であったので、そのような感覚に陥りやすい。

 しかし、望嶽亭・松永家の系図を調べてみると、「かく」が体験したこと、それが現在のさだよさんに伝わる間には、たったの一人しか間に介在していないのであった。
かくが官軍と対応したときは33歳、75歳までご存命で73歳のときに、孫に嫁いできた「その」に直接語り伝承させ、その「その」が55歳の時に、現在のさだよさんが18歳でお嫁に来て、伝承を受け継いだのであるから、望嶽亭を語る伝承の道は「かく⇒その⇒さだよ」という最短時間で伝承されてきている、という事実である。

 これは重要である。口承伝承として記憶され、残され、伝えられている時間は長いのであるが、伝承者として携わった人は少ない。つまり「記憶が短い」のであり、歴史は短いのである。この説を採る人物に作家の江崎惇氏がおられる。著書「誰も書かなかった清水次郎長」(スポニチ出版)で望嶽亭説を唱えている。

 また、この説を紹介している歴史学者に高橋敏氏(国立歴史民俗博物館名誉教授)がおられる。「鉄舟は勝海舟と相談のうえ、勝が江戸焼打事件の際、捕らえ助命した薩摩藩士の益満休之助を同道し、急遽駿府に派遣した。東海道を西下途中益満が腰痛のため三島で脱落、単身駿府を前に難所の薩埵峠まで来たところで官軍の銃撃を受け、間宿倉沢の茶屋望嶽亭の松永氏に隠れた。駿府潜入した鉄舟を助けて道案内したのが清水次郎長であった」(『清水次郎長と幕末維新』岩波書店)と著書にあるように、高橋敏氏は実際に望嶽亭まで調査に行かれている。

 鉄舟の駿府行きは本連載で何度も書くように、鉄舟意外にはなし得なかった偉業である。そしてこの偉業をひそかに助けた人たちがいたはずである。その事実を伝える松永さだよさんの語りは魅力的であった。

投稿者 Master : 15:35 | コメント (0)

2007年02月06日

1月例会記録(1)

■高橋育郎氏
「もう一人の私」 童謡は私の生きがい ―作詞作曲への想い―

まず皆さんに歌っていただきたいと思い曲を用意してきた。
「一月一日」(年の初めの・・・)作詞の千家尊福は出雲大社の神官。
 
 私は山岡鉄舟も好きですが、歌も好き。とりわけ童謡や唱歌が性に合っている。ぬりえ美術館で童謡の会をやっている。普段から作詞作曲をしているが、どんな活動をしているかお話したことがないので、今までの作品と想いをお話させて頂きたい。
ジャスラック(著作権)に登録されている作品が230曲ある。


 初めて作曲を手がけたのは、高校3年生の冬休み。ある自由詩をみて、作曲しやすいように定型詩になおし楽器がなかったので玩具の木琴を使って作ったのが「冬が来た」という曲。中学から高校まで美術をやっていた。高校2年生の時に絵を書いている隣の教室で合唱の練習をしており、どうしてもやりたくなり入部した。それまでは絵ばかり描いていたので、図書室で借りた『西洋音楽鑑賞法』で学んだ。

 高校3年の5月に開催された学生音楽祭のとき、指揮者が長期欠席になったとき代役を引き受けた。本番では結構評判が良かった。

 絵が好きだったが、音楽も好きだったので、進路は相当迷ったが、父から“絵は天才のさらに天才じゃないと食べていけない”と言われた。その当事職場の合唱団としては日本一だった国鉄合唱団に入りたいために国鉄に就職した。

 最初は東京駅に入った。合唱は本社でやっているので、本社へ行くために中央大学夜間部に入学し、憧れの国鉄合唱団に入団。夢が実現した。みんな実力があり楽譜を見て歌えるので、私も勉強して讀譜力をつけた。

 讀譜力がつくと、曲がつくりたくなり島崎藤村の「高根に登りて遠く望める歌」の詩を見つけて、曲を付けた。
 当時は独身寮住まいで、楽器はなく頭に浮んだメロディーを五線紙に書きとめた。楽器に頼らずできたことは、まさに奇跡である。その次に現代詩をやっている先輩から頼まれて「朝まだき」「自由詩もくれん」という詩に曲をつけた。国鉄合唱団の活動は約14年続いた。

 27歳のとき、東海道新幹線のPRの仕事についた。SLがなくなるころ業界紙に鉄道フアンの投稿詩「機関士一代」が載った。哀歓がこもった定型詩で、これに玩具の木琴で作曲して、NHK「あなたのメロディー」一般からオリジナルの曲を公募し、応募曲の中で優れたものを、6曲プロの歌手により発表され、その中から週間の優秀曲としてアンコール曲が入選した。

 自分の曲を唄は旗 照夫、NHKの管弦楽団がやっていて感動した。
バラエティ番組の「話の泉」と同時だったので、大ホールが超満員。審査員にも早々たるメンバーが並んだ。6曲が発表され、みんないい曲だったが私の曲がまさかのアンコール曲となった。輸送の仕事で忙しかったから放送されたTV番組は見られなかったが、家内が写真とテープに収めてくれた。

 転勤になって、千葉で、東京から千葉までの快速線を走らせる大工事のプロジェクトチームに入った。駅舎の改良工事に携わり曲を作る暇のない仕事人間になった。この仕事が終わったあと、少し時間に余裕のある仕事に移してもらった。

そのころは旅行会社と組んで団体旅行が盛んだった。カラオケが始まった頃で、温泉・リゾート地の大きなステージのあるホテルでカラオケをやるような企画を頼まれた。

 宴会では夜の8時くらいのフィナーレでステージと客席が「新東京音頭」で総踊りになった。こんな大きなイベントをやっているのだったら国鉄独自の歌があってもいいのではないかと考え自分で作った。

 詩を作って提案したが前例がなく処理に困っていた。交通公社にいった先輩に詩を見てもらったら、1ヵ月後くらいに先輩が歌手を連れてやってきて、国鉄団体旅行音頭「シャンシャンいい旅夢の旅」としてキングレコードから全国発売することになったといってきた。千葉テレビが目をつけて、毎日夕方16時になると放送され、団体旅行では歌手が添乗し歌う。ファンクラブもできるし人気だった。
その後キングレコードのディレクターが着て、これを機に日本音楽著作権協会(ジャスラック)の準会員になる。46歳のときだった。

 昭和61年に国鉄記念として、千葉局がお座敷電車「なのはな号」の運転を開始した。お座敷電車の名前は、千葉の県花から「なのはな号」となり、PRソングを管理局長からじきじきに頼まれた。
「黄色菜の花、青は海、ツートンカラーのなのはな号」という詩が浮かんで、つくった。一流の作曲家と歌手もつけてくれて、クラウンからカセットテープで発売された。
JR記念グッズ「なのはな号音頭手拭」も千葉局の全駅で発売。私の書いた字が手ぬぐいに入っていた。
 同年、房総の観光ソング「房総半島ひとめぐり」(曲と詞・音頭調)「ハッピーランド房総」(詞のみ・ハワイアン)をレコード製作協会から発売。

 国鉄が民営化される際、52歳くらいで管理職をやっている人は退職か出向の二者択一を迫られたが、JRを一年間経験させてもらった。JR退職後は本来なら関連企業に行く予定だったが、第2の人生好きなことをやりたいと断った。


 JR退職後は、音楽イベントの企画会社を先輩と立ち上げた。現実は厳しかったが、幸いなことに、ライフ・ベンチャークラブを紹介してもらい、そこの事務所の一部を提供してもらい仕事をした。ライフ・ベンチャークラブが銀座8丁目にあって、その近くに日本旅行の企画会社が入り、一緒に仕事をするようになった。

 大手芸能人集団と日本旅行とのタイアップで、音楽列車や、名刺交換列車というのを出した。名刺交換列車はNHKや民法から取材がきた。インタビューをしたのが放映され、交換したもの同士のその後を追跡調査し第2部も放映した。
 コロムビアレコードと提携して、JRパノラマ電車を使ってヴァイオリンの佐藤陽子さんと音楽イベントを行った。 

 平成に入ってから不況に見舞われた。第2弾は400名くらい集めなきゃいけないのに40名くらいしか集まらなかった。天皇が病気になったときに歌舞音曲はだめになって、景気にかげりが出た。

 イベント業から手をひいたが、培った人脈のおかげで音楽学校を経て、銀行に就職して9年間勤めた。65歳で退社したあと、ライフベンチャーのセミナーの休憩時間に3曲くらい歌を歌うこの活動が目に止まり、生活余暇開発士のお世話で、会場の面倒も見てもらって、「歌う会」を始めた。そのほかステージ活動を体験する。日経新聞に記事を載せてもらった結果、100名の申し込みが入り、月に2回、2グループに分けて、社会教育会館で活動を行っている。

 戦後50年として、引き揚げ船が入る港のひとつ、佐世保に引き揚げ港平和記念公園が作られた。その記念の曲の作曲依頼が知人を通じて来た。作詞は長崎県立大学教授で、満州から引き揚げて上陸したときの苦しみを詩にした。戦時中、父がタイにいて復員してきたのもあって共感して曲を作って送った。

 記念の歌『あぁ浦頭』(浦頭=佐世保港の船の到着した地域)の反応は想像以上で、地元の合唱団が合同で演奏会をやって、その後佐世保市が市民音楽祭として演奏会をやった。
5年後、JTBとJR九州が主催で『あぁ浦頭』を歌う全国の集いを長崎ハウステンボスで開催された。5日間にわたり開催され5日間で、延べ5万人の方が全国から来場した。
「ああ浦頭」を広める会ができて、テープが発売され、テレビ長崎など地元で取上げられ、NHKの「おーい長崎県」では、長崎の歌ベスト50に選ばれた。

 日本童謡協会会員になり、同会主催の童謡祭に作品を提出参加。「大きな木はいいな」(作詞)は、全国童謡サミットにて21世紀に残す歌の中に入った。カワイ出版『みんなの童謡200』というタイトルで出された本に入った。
その後、「めだかの学校・歌の会」(朝霞市保育園)発足、 14年8月「ぬりえ童謡の会」(町屋ぬりえ美術館)をオープン当初からやっている。  

 無謀な冒険と思いつつ歌の世界に飛び込んだが、周りのあたたかいご支援があったおかげで不可能と思われることが、自分の意思以上に可能になった。温かいご支援を忘れてはならない。先ずは感謝です。


【事務局の感想】
高橋先生には、ぬりえ美術館の開館以来童謡の会を毎月開催していただいています。
今回始めて、先生の人生を振り返っていただき、歌との係わりをお話していただきました。
歌は高橋先生にとって、人生そのものではないかと思います。ぜひ、この歌を通じた高橋先生の歴史を次回は綴っていただきたいと願っております。

投稿者 staff : 12:07 | コメント (0)

1月例会記録(2)

■山本紀久雄
「鉄太郎、千葉周作・玄武館入門」

ライフ・ベンチャー・クラブは生涯現役の代表に言われて25年前に発起人になった。そこで高橋さんに知り合った。高橋さんは『あぁ国民学校』という本を書かれた。幼稚園から今日まで記憶に入っている。先生の名前も1年から6年まで覚えており、データなしでも小説を書けてしまう恐ろしい人です。今は『昭和の追憶』という本を書いている。
高橋さんは、ライフ・ベンチャー・クラブで上野駅を借り切って、イベントをやり、そのとき東京ロマンチカを呼んだ。

今年は新年早々ついている。300人くらい集まる新年会で私も家内も抽選会で当たり、クラウンの歌手が来て歌ってくれた。その歌手の曲が東京ロマンチカの鶴岡さんの作曲だと言っていた。

家内がDIYのグランプリとして表彰を受けた。家内が店に行き、必要なものを全て揃え、日曜大工の年間スケジュールを作り、私は2年かけて壁紙・ふすま・雨戸のレールなどを作業員のように働いてリフォームした。応募したら審査員が自宅を調査に来てグランプリになった。

2007年は経済も非常に順調に行くという予測。来年はアメリカ大統領選挙がある。イラクで評判が悪いから、経済を順調にするでしょう。中国も北京オリンピックがあるから経済を順調にするでしょう。世界の2大消費大国が順調なので、株を買うなら今年ですね。いい株買ってくださいね。

1.江戸三大道場
・北辰一刀流・千葉周作の玄武館
・鏡新明智流・桃井春蔵の士学館
・神道無念流・斎藤弥九朗の練兵館
この三道場を称して江戸三大道場と称し
・「位は桃井、力は斎藤、技は千葉」と評した。
これに心形刀流・伊庭軍兵衛の練武館を加え、四大道場という場合もある。

鉄舟は幼少時は小野鉄太郎という名前で高山代官のご令息だった。両親が相次いで亡くなり、江戸に戻り義理の兄の元へ兄弟6人で転がり込んだ。一番下の弟は2歳だったので、義理の兄に乳母を雇ってほしいと頼んだが、兄は雇ってくれなかった。見かねた剣の師匠の井上さんが弟たちを養子に出すことを提案し、1人に500両の持参金をつけて、養子に出した。鉄舟は100両だけとって、残りは義理の兄に渡して、修行ができるようになった。今日のお話は、この後の話。

鉄舟は、江戸に来て修行に入った。剣・禅・色道修業を徹底的にやった。剣は高山でお世話になった井上清虎の紹介で、北辰一刀流・千葉周作の玄武館に入門。
玄武館は現在の神田岩本町にあった。角に交番があり、斜めに入ると一八通りがある。その細い道を入っていくと玄武館跡の石碑が立っており、隣には学習塾があって、当時は3800坪くらいありすごく広かった。

幕末、ペリーが来航し日本は科学的な兵器に圧倒された。危機意識から急速に剣の道が流行った。全国に600流派剣道道場があり、江戸にもたくさん道場があった。中国の大国・清が国を割譲されたと聞き、支配階級はすごい恐怖感を持ち、鍛えようと思って道場が増えた。

当時は剣道道場もブランドで、今で言う六大学みたいなもの。玄武館には3000人以上門弟がいた。千葉周作の道場が人気だった理由は、ほかの道場は3年しないと免許皆伝がもらえないのに千葉道場は1年でもらえた。

戦国時代が終わった頃の江戸幕府は、荒々しい時代だから剣道の修行も打ち合いで、死ぬことや怪我などもたくさんあった。危険なので、武家御法度も出て、打ち合いの稽古はやらなくなって、剣道は型になった。格好や薀蓄をつけるようになり、秘伝などとも言われたが、試合になったら負けてしまう。清水次郎長は型だけの侍には絶対勝てると言った。
幕府の中ごろから型だけでは仕方ないということになり、防具をつけて竹刀で稽古をやる方法が考え出された。怪我はしないから、ようやく打ち合い稽古がはじまった。
練習はしやすいし、危機意識で剣術道場が流行った。千葉周作は工夫して、入門から何段階も分かれていたランクを簡単に3段階にした。千葉周作はマーケティング論が進んでいて、ほかの流派は10や20ある段階を、初目録、中目録、大目録の3段階にした。評判があたって、千葉の道場は大流行する。商売が時代に流れにあっている。昔のまま守るのもいいが、時代に合わせていなかないとならない。

全国的に江戸に行けばなんとかなるという風潮があり、侍が脱藩して江戸に出てきた、坂本竜馬も江戸の千葉周作の道場入る。鉄舟も入った。

2.幕末刀、近藤勇の長曽祢虎徹

 刀も時代とともに変化した。実践を離れてきた江戸中期は刀をこしらえ物、と言いきらびやかな刀が流行った。幕末の刀は戦うための武器であり頑丈なものになった。有名なのが、池田屋騒動で有名になった近藤勇の「虎徹(こてつ)」。池田屋事件では新撰組は二手に分けて勤皇方を探した。近藤勇はたった4人で池田屋入っていき、ものすごい戦いをした。ほかの剣士たちの刀の刃はバラバラ折れるが、最後まで虎徹は折れなかった
虎徹は偽者という噂がある。近藤勇が虎徹を手に入れたいと古道具屋に相談したところ、古道具屋は適当に買って、50両で売ったという話もある。池田屋事件でも折れなかったが、偽物らしいということは間違いないらしい。

近藤勇も牛込柳町に道場を持っていた。儲からないときは出張講師、剣持っていて、教えていた。


3.小千葉道場に入門した坂本竜馬

千葉周作の弟千葉定吉も剣客だった。弟・千葉周吉は兄とは別に千葉道場をつくり、小千葉といった。場所は、当時桶町といい、今の八重洲ブックセンターあたりで、ここに坂本竜馬は入門した。

坂本竜馬はロマンがある。坂本竜馬は日本の大きな戦略に貢献した。2000年のときにこの1000年の日本の政治リーダーの人気投票をしたときの1位人気投票をした。司馬遼太郎が書いた『竜馬がいく』で人気ものになった。
竜馬は政治的リーダーとして人気。薩長同盟を竜馬がした。なければ今の明治維新が成り立たなかった。薩摩と長州は因縁の中だった。
長崎からの船の中で、船中八策、世界で日本が生きていく国家体制を作った。

坂本竜馬は千葉周作の道場で、免許皆伝をもらった。坂本竜馬の妻・おりょうさんは長屋で野垂れ死にした。坂本竜馬は早く暗殺されたから、その後苦労した。

免許皆伝の与えた紙を読むと、武道講習会の修了書とある、千葉弟の妹が長刀の名人で、彼女から教えてもらった修了書である。インターネットのウィキペディアにも書いてある。竜馬は剣客ではなかった。頭脳はよく、理科系だった、蘭学もできた。

剣客が一夜にして世界がわかる人間に変身するとロマン。鉄舟は地道の修行をやった。ロマンだけだと失敗の連続、緻密な計算の元に生きていくことが大事なので、私たちは地道な修行をしなければならない。

世界のアニメーションの60%は日本がつくったもの。海外では子供は夕方になると誘拐されるから家の中で遊ぶ。家で日本のアニメーションを見ている。アニメーションを作る人は絵がうまい人ではなく、理科系の人。水を表現するのに、水を計算して絵に描く。そういう才能を求められる。

4.鉄太郎の修行振り

鉄舟は千葉周作の玄武館に入って、幾千万と戦ったと剣の修行について書いている。幾千万は多すぎるかもしれないが、それくらい本人は一生懸命にやった。そういう無我夢中の修行は剣だけではなく、書・禅・色道も同じように修行した。
元プロミスの社長だった矢野覚さんにお会いする機会があった。消費者金融はイメージが悪いので、国家から統制が来る。仕入れたお金を貸すのが商売なのに、国が消費者金融にはお金を貸してはいけない、と統制してしまったから銀行はお金を貸してくれない。普通は商売できないなら止めてしまうでしょうが、矢野さんは日本の銀行が駄目ならと世界中の銀行からお金を借りて日本でお金を貸した。
問題は必ず出るが、あきらめたらだめ、苦労は超えるためにある。今や融資額1兆6千億円、利益600億、顧客230万人。また80歳になってから、胡錦濤の出身学校で東大よりレベルの高い中国の清華大学の教授で毎月指導に行っている。

バングラディシュのグラミン銀行は貧しい人にお金を貸すことでノーベル賞をもらった。なぜ貧しいかというと、人に雇われているから貧しい。竹細工を生業としていても、竹が買えないので材料を借りて作ってまた戻すという下請けの仕事になる。これではいつまでも貧しいまま。最初から竹を買って売れば利益が出る。その竹を買うための1万円を貸すのが、グラミン銀行。
グラミン銀行の貸し倒れ率は1%、先ほどのプロミスは4%、日本で不良債権が覆いときは何十パーセントになった。大手企業が返済せず踏み倒した。

要するに頑張れば、頭で工夫すれば何とかなる。


5.伊勢神宮早朝参拝で感じたこと
  中国との違い
①文化が途絶えている
毛沢東⇒劉少奇・鄧小平⇒文化大革命・紅衛兵・
天安門事件(1989.6.4)⇒江沢民⇒胡 錦濤
   ②「やさしい」という言葉がない
    「やさしい」だけは日本語で話す中国人。
但し、論語では「やさしい」を二つの言葉で孔子が語っている。
     仁⇒仁とはすなわち人を愛すること
     恕⇒まごころによる他人への思いやり

初詣で、伊勢神宮に参拝に行ってきた。前の日に神宮会館に泊まって、早朝に身を清めて、職員に2時間掛けて案内してもらった。ここで感じたのは、日本はいいなぁということ。伊勢神宮では内宮の遷宮が20年に1回ある。今まで62回やっているので1240年間の遷宮の歴史がある。

中国は毛沢東が1945年につくった。毛沢東は36年間くらい主席をやって、その後主席を譲った。しかし鄧小平のやることが面白くなく、若いものをおだてて、民主化運動の名のもとに紅衛兵を使って迫害・破壊を行った。ある100万人の都市では一夜にして数千人の人が反革命分子として生き埋めにされた。また勝手に人の家に入り家人を追い出し、財産を没収した。そういうことをした結果、紅衛兵が天安門広場で戦車を出して、大量殺人をした天安門事件が起こった。
毛沢東の後は、鄧小平が実権を握り、江沢民は反日運動をした。天安門事件のことを国民の意識から遠ざけるために、国外にターゲットを作った。第二次世界大戦の教育を始め、日本のことを持ち出した。
このままでは胡錦濤が国家の暴動になりやすいと考え、安倍首相就任のときになって、靖国のことをいわなくなった。中国は政権が変わる度過去を否定していくので、文化が壊れていく。韓国でも盧泰愚政権が終わり、ハンナラ派が実験を握ると今までと反対の政策になるので文化が長続きしない。
日本では戦後一貫して自民党が政治をしている。天皇陛下も繋がっている。中国は王朝が変わる。日本はすごいと思うのは、中国の本を読んだら、優しいという中国語がない。日本に来た中国人は日本で「優しい」という言葉を使うときは、「優しい」だけ日本語を使うという。中国語では、「優しい」を一言では説明できない。優しいという言葉がない国は優しくはない。

2500年前には、論語の世界で仁とはすなわち人を愛すること、恕とは真心による他人への思いやりとある。中国共産党の幹部連中は論語を知らない。日本に来て、論語を読まれていることを知った。
以上

【事務局の感想】
今回も現場に足を運んでいただいた現場の臨場感をもって発表をしていただきました。山本さんの鉄舟研究は、現場にもとづいて書くことを一つの基本にしておられます。これからも現場の力をもって、今までにない山本鉄舟研究が進んでいくことを楽しみしております。

投稿者 staff : 12:04 | コメント (0)