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2008年06月06日

5月例会記録(1)  

■上米良 恭臣氏

『遺詠と和歌で偲ぶ遊就館』

 初めに、舌足らずの弁解を!
発表後の山本紀久雄先生の講評に『靖国の話は上米良さんから、皆さんへのエールです』とありました。舌足らずとはまさにこのことです。
発表の最後に「ますらをの・・・」歌を挙げましたが、「ますらを」は男児ばかりのものではありません。「ますらを」を産み、育てる女性が必須なのです。この国を、この国の道統を守ってきたのは蔭に女性の偉大な力がありました。つまり、お話した男児、戦士ばかりではなく、良識を培った国民が総体として守ってきた。平和な時代でも「皆さんもそのお一人だ」ということです。(付記)


矢澤さんのご紹介で近代出版社とご縁ができまして、靖國に関する資料をご紹介します。先月お話したときに唐突に菊池千本槍や菊池一族のことが出てきて、どういう人たちだったのかというのが反省の中で出たものですから、そのお話をして、遊就館のお話をします。

(*資料:「菊池略系」)
菊池一族というのは熊本県の肥後の国の豪族で、藤原家から出て、太宰権師(だざいのごんのそつ)という職に就いたのが菊池姓の始まりです。池の周りにきれいな黄色の菊が咲いていたので、そこから「菊池」という姓が生まれたという伝えがあります。
經隆から分かれて西郷太郎政隆という人がいます。その末裔が西郷隆盛だと伝承されています。

隆直さんは壇ノ浦で安徳天皇側に立って戦っています。菊池一族は、天皇様側に付いて反抗勢力と戦う家柄です。武房さんは元寇のときに大活躍をされました。元寇のときの絵画『竹崎秀長の絵詞』に菊池の家紋である並び鷹の羽の旗印を持って控えておられる武房さんの姿が描かれています。
武時公は勅諚(後醍醐天皇の命令)によって、北条家が支配していた鎮西探題に討入り戦死しています。楠木正成公から「忠功第一か」と推薦があって、これから楠木家と菊池家は仲良くなりました。以後、同志として各地に転戦しています。
その子武重公は千本槍を創始されました。それまでは槍は戦場で使われることはありませんでした。これより古いものが出てきませんので菊池千本槍が槍の創始ではないかといわれています。箱根古道の脇、山中城址の三島寄りに「菊池千本槍の碑」がたっています。先月話したときに強調したのが、“両軍の御霊に恩讐を越えて祈りをささげる”と。これが肝心で大切なことです。
熊本県天草の諏訪神社の大野宮司さんから、千本槍の写真を送ってもらいました。柄が短い槍が初期の菊池千本槍です。(資料添付)
武重公は菊池家憲「よりあひしゆないたんのこと」を創った方です。この「寄合衆内談の事」が、血判がある古文書で一番古いものだと伝えられています。
第一条「天下の御大事は~」は帝国憲法に反映され、第二条は自分の議が良くてもみんなの議を優先するという合議制の言葉です。五箇条のご誓文の「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」につながったという話もあります。(回覧、資料添付)
武士公は武重公の兄弟で、若くして当主を武光公に譲られます。
近代出版社に『名画に見る国史のあゆみ』というのがあります。伊勢神宮所蔵の武光公の絵画が載っています。激戦の後に刀を洗ったら雪の上に真っ赤な血が飛び散ったことが画材になっています。(回覧)元になった頼山陽の詩(資料添付)があります。(太刀洗川。大刀洗という町名も残る)

靖國神社にはほとんどの方がお参りになったことがあると思います。下見で参拝させていただきましたけれど、一番奥の拝殿と申しまして、お食事を差しあげたり、祝詞を上げる場所のすぐ手前まで入らせていただくことができると思います。ご期待ください。

立山英夫命も菊池市の出身です。亡くなったときに懐からお母さんの写真とお母さんへの想いを綴った裏書が出てきました。それを見た上官大江一二三が詠んだ歌です。(資料添付)
「靖國の宮にみたまは鎮まるも をりをりかへれ母の夢路に」参拝者がよく詠います。
椰子の実の話がすてきです。マニラからの退却時に流した椰子の実が31年後に3000キロ離れた生まれ故郷の島根に流れ着き、奥さんの元に届いたという神秘的な話があります。

「遊就館」とは(故君子居必択郷 遊必就士『荀子・勧学編』) 
郷の元々の意味は向かい合って食事をするという意味です。好きな人とじゃないと食事したくないですよね。気持ちの良い場所にするということです。
「士」の字の構成は十と一が組み合わされています。元は一から十まで何でもできる人のことを「士」と言い、次第に力量のある人のことを「士」というようになりました。
遊びては必ず士に就く=立派な人と歓談したり、お酒を酌む意味。
幡掛正浩先生の名訳は「好かん奴とは飲まん」でした。
先生からは「四方に使いして君命を辱しめず。これを士という」(論語)を教えていただきました。
これは正に鉄舟先生のことではないかと思います。「悪衣悪食」着られない、食べられない苦労もされています。三題とも鉄舟先生のことを間近に感じられます。
一、広瀬武夫中佐も松尾敬宇(けいう)中佐もそして都竹(つづく)正雄兵曹長(飛騨高山出身)も
―菊池一族の誉れと千本槍の気概。そして「お母さんありがたう」―

広瀬武夫・松尾敬宇=菊池一族、都竹正雄=特殊潜航艇で同乗した人。
 今日お話する松尾敬宇さんは菊池の血筋で、菊池千本槍を携えて特殊潜航艇に乗り込んでシドニー湾でお果てになられた方です。
昭和16年12月8日真珠湾攻撃のときは参謀(戦全般の記録と交代要員)で行っておられます。
回天はずっと後で、一人乗りで、魚雷の発射装置はなく魚雷に跨っているようなものです。特殊潜航艇は2人乗って、一人が操縦して、一人が撃ちます。潜水艦に積んで近くまで行きます。
湾の入り口に潜水艦が入ってこられないように防潜網が垂らしてあります。松尾艇は防潜網を掻い潜って敵艦を撃ったが当たらず、敵艦の一斉掃射があり危険だと海底に3時間くらいいて、上がったら故障で魚雷が出ないので体当たりしようとしました。小説では艦橋が開いたまま沈んだとあります。アニメになりますと、都竹さんも一緒に短銃で自決をしたというお話があります。

なぜ『軍神松尾中佐とその母』という写真集にまでなったかというとお母さん(松尾まつ枝刀自)が非常に立派な方で、遊就館に和歌が展示してあります。オーストラリア海軍が敬宇大尉の海軍葬をしてくれ、遺骨も帰ってきた。戦時中はまずなかったことです。戦後お母さんはオーストラリアに招かれ、「日本の母」「勇士の母」と非常に良くもてなされ、民間外交の実を挙げられました。

ますらをの悲しきいのちつみかさねつみかさねまもる大和島根を 三井 甲之

これが靖國神社の本質ではないかと思っておりますので最後に一言付け加えさせていただきます。

【事務局の感想】
わずか60余年のことですが、今回お話を伺った高潔な話が遠い昔のことのような気がします。今回、靖国神社に参拝できることは、そのような意味でも、振り返ることができ、気持ちを新たにできる良い機会になるのではないかと思います。
 

投稿者 staff : 2008年06月06日 15:46

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