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2008年05月05日
4月例会記録(1)
■上米良 恭臣氏
『私論。誄歌でたどる靖國神社』
今回は祀られている人ではなくて祀る側の話にして、次回は祀られている方たちを中心にお話したい。靖国神社はナイーブな問題を抱えていて、空論にはしたくないので、私の身近で知っている人、面談をしたことのある人、尊敬している人を主題にとらえてお話を進めさせていただきます。
「誄歌」は「るいか」と読みます。神主さんがお祭りで述べるのが祝詞(のりと)です。葬式で神主さんが述べるのが誄詞(しのびことば)と言います。祝詞は大きい声で奏上しますが、誄歌は声を低くして静かに述べるのが普通です。誄歌とは神様を敬い偲ぶ和歌です。
明治天皇御製
わが国の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき
靖國神社のことを詠んでおられます。和歌にしろ、論語にしろ声を出して詠んでください。
特別攻撃隊、九軍神の忠烈を深く偲びて
み濠べの寂けき櫻あふぎつつ心はとほしわが大君に 三浦 義一
三浦義一さんという日本浪漫派と言われた人の和歌です。昭和十六年十二月八日の真珠湾攻撃に特殊潜航艇五隻で突入され、ついに帰られなかった九軍神を偲んで詠まれています。
靖國神社に金子さん達と下調べに行き、正式参拝をさせていただきました。玉串をささげて、頭を下げますと、こめかみのこの辺にびりびりときました。そのあと非常にさわやかな風が頬を撫でてくれました。いろいろな思いがあるのですけれども、私の論のひとつは心の問題です。
私論一 原初、靖国は率直なこころの問題であつた
中国からの非難や総理大臣の正式参拝など政治的、理知的?なことに絡めて、靖國神社の本当の姿が見えないのではないかというのが私の考えです。
濫觴=下関、桜山招魂場祭、元治元年(一八六四)の高杉晋作(東行)の誄歌
後れても後れてもまた君たちに誓いしことを我忘れめや
東行という号は西行にちなんでいます。濫觴と書きましたが、まだ社がなく、榊を立てて神様を天空からお呼びして、お祭りをしたのが、下関の桜山招魂場です。長州藩が最初の攘夷運動として外国船を攻撃して報復され、その戦いで亡くなった方たちの魂をここへお呼びしてお祭りしました。そのときに晋作が詠んだ歌です。
はつかしと思ふ心のいやまして直会御酒も酔得ざるなり
私が大好きな歌です。招魂祭で祭られた人たちに向かって今の自分の行動が恥ずかしい、その心がぐっと増してきて、お神酒にも酔うことができないと歌っています。現代に生きるものとしても行き着くところだと思っております。この二首の内「はつかし」はあまり知られていないのですね。
創始=招魂社。明治二年(一八六九)より、戊辰戦死者を祀る
ただ単に広場でお祭りしていたものが、社になり招魂社といいまして、靖國神社の今の場所です。最初に祀られたのが、戊辰戦争でなくなった官軍側です。
国家の根幹=世界の独立国家は賛否なく戦死者を尊崇。ビッテル神父の進言。※資料1
駐日ローマ教皇代表バチカン公使代理ブルーノ・ビッテル神父の進言です。敗戦直後に靖国神社を焼き払ってしまえという論が占領軍にあって、それをキリスト教会に諮問しました。(中略)
「靖国神社を焼き払ったとすれば、其の行為は、米軍の歴史にとって不名誉きわまる汚点となって残ることであろう。歴史はそのような行為を理解しないにちがいない。はっきりいって、靖国神社を焼却する事は、米軍の占領政策と相容れない犯罪行為である。(中略)
我々は、信仰の自由が完全に認められ神道・仏教・キリスト教・ユダヤ教など、いかなる宗教を信仰するものであろうと、国家のため死んだものは、すべて靖国神社にその霊をまつられるようにすることを、進言するものである。」
私論二 心の問題を理知、法規で云々の愚―いはゆる戦犯合祀、いはゆる政教分離―
私は靖國神社には心をからお参りする。国のために戦で亡くなられた人たちに感謝と報恩の念をささげることだと思いますけれども、世間は頭でっかちでやっているんですね。戦犯合祀の問題、政教分離。神道には、政教分離はありませんが、祭政一致はあります。
神道祭祀への非難を越へて―「祭政一致」と政教分離。「一君万民」と民主主義
五箇条のご誓文のときでも、天皇が五箇条のご誓文を天神地祇に誓われて、その後発布されます。両方「まつりごと」ですがお祭りを第一にして、それから政治(まつりごと)を行う。神道の発想です。よく民主主義といわれ、戦後になって初めて民主主義が出てきたように思われますが、これは嘘です。日本らしい民主主義、鉄舟先生も書いておられたように「一君万民」これが日本の本来の民主主義です。今のアメリカナイズされた民主主義とは違います。
未曾有の国難、敗戦と、占領六年八ヵ月、植民地にならなかった奇跡!
日本が外国に侵略される、こういうことは歴史上かつてなかったことで、大変な敗戦であったわけです。降伏してサンフランシスコ講和条約までの六年八ヶ月アメリカを中心とする連合軍に占領されていました。六年八ヶ月も占領されておれば、植民地にされるのが普通ですよね。それを植民地にならないように日本人の生き残った方たちも努力してこられた。
二四六万六五〇〇余柱(内二一三万三九〇〇余柱は大東亜戦)のご祭神
ご祭神を柱と言います。その靖國神社に祀られているご祭神は二四六万六五〇〇余柱です。うち二一三万三九〇〇余柱が、大多数が大東亜戦争でなくなられたご祭神ということです。
私論三 松平永(なが)芳(よし)第六代宮司の三原則と第七代大野俊康宮司の必死懸命を偲ぶ。
昭和殉難者奉祀と国家護持より国民護持といふ考へ方
一、 神道祭式堅持 二、社殿不変 三、社名不変(やすくにの正字は靖國)
松平春嶽公の孫、松平永芳宮司の『誰が御霊を汚したのか―靖国奉仕十四年の無念』(諸君・平成四年十二月号)という文章がありますが、それには靖國神社は私がいる限り、神道の祭式を堅持する。国家護持ではなく、国民護持。戦前も靖国神社のお祀りで、ほとんどが参拝者、崇敬者のお金で成り立っていたにも関わらず、所轄の官庁から微々たるお金が出て、国家護持といわれたわけですけれども、そのような国家護持はおかしい。名前だけで政治に牛耳られる。国家護持になると、神道のお祓いもやめて、二礼二拍手一礼もやめて、頭を下げるだけとか、そんなようなことがやられかねない。尊敬心のある方たちの力によって靖國神社を護持していこうではないかと松平宮司は言っておられます。靖國神社の桜の下で会おうというのが大東亜戦争で亡くなられた方たちの合言葉だったので、社殿も傷んだ部分だけ取り替えて、砂で磨くとか補修してできるだけ変えない。社名は絶対に変えない。そう言っておられます。やすくにの正字は「靖國神社」です。
大野宮司の必死懸命。何と現代の菊池千本槍か
その後を継がれた大野俊康宮司、私と同郷の熊本天草本渡諏訪神社の宮司さんから抜擢されて靖國神社に御奉仕になったわけです。大野宮司の息子さんと連絡が取れまして、大野宮司の「必死懸命」というお仕えの仕方をお聞きしました。
わが郷土に菊池川があります。砂鉄が取れました。その砂鉄で菊池千本槍、槍というか短刀を作って、それを携えて靖國神社にお仕えになったそうです。非常に厳しい、首相などになるよりももっと厳しい姿勢ではないかと思っております。失敗があれば腹を切るということです。
石田和外(かずと)氏、醍醐(だいご)忠(ただ)重(しげ)中将、そして練習艦隊上の父。※資料3
練習艦隊という言葉はご存知ですか?今の自衛隊もやっているんですけれど、旧軍では日露戦争の後、明治三十八年から昭和十四年まで練習艦隊が出ています。艦隊ですから二隻から三隻で世界中を周ります。あるときはアメリカに、あるときは地中海に行ったりしています。私の父も昭和十二年の六月七日から四ヶ月間地中海に行っております。その艦(磐手)の艦長は醍醐忠重中将。
松平永芳さんは新任少尉で乗艦され、のちに醍醐中将の娘を奥さんにされております。
石田和外さんは、最高裁長官、全日本剣道連盟会長を務められ、さらに鉄舟の一刀正伝無刀流第五代です。その方の推薦で、松平さんが宮司になられた。福井県の人脈です。
(日本人同士の)恩讐を超えたいと私は思っているのですが。国道一号の三島に近いところに山中城があり、その箱根古道の脇に菊池千本槍の碑が建っています。
『建武二年(西紀一三三五年)十二月十一日、ここ箱根古道、山中一帯で行われた水呑峠の合戦で、後醍醐天皇の命を承けた宮方軍の先鋒菊池肥後守武重公の率いる軍勢は、足利勢と壮絶な戦いを展開した。菊池一族一千余の将士たちは、竹の先に短刀を結ぶ新しい武器を用い、足利勢を山の峰に追い上げ大勝利を収めた。しかし足柄路の友軍は、竹下合戦に敗れて、宮方総崩れとなり、菊池勢は殿軍を勤め死闘を繰り返し、将士七百名を失った。此の箱根 “竹下合戦” は南北朝対立のかなしい時代の幕開けであった。(中略)
のちにこれが菊池千本槍と呼ばれ、武重公の武勲と共に、菊池氏誠忠の歴史に輝きを放っている。
菊池同族の末裔ゆかりある者ここに碑を建て、史実を顕彰すると共に、建武の昔箱根の戦いに斃れた両軍将士の御霊に深い祈りを捧げる』
最後のところが肝心です。両軍の将士の御霊に祈りを捧げるというところです。
余滴 靖国に祀られる人、祀られぬ人。―恩讐は超へられぬのか―
吉田松陰・坂本龍馬・高杉晋作・真木和泉守・清河八郎・昭和殉難者・広田弘毅・松尾敬宇中佐疎開船対馬丸児童父兄・ひめゆり部隊・従軍看護婦・終戦後死去の樺太真岡電話交換手
西郷隆盛・白虎隊士・八甲田山行軍訓練死者・佐久間勉艇長・東郷元帥・乃木大将・古賀峯一元帥
「吉田松陰」から「終戦後死去の樺太真岡電話交換手」までが祀られる人。「西郷隆盛」から「古賀峯一元帥」は祀られておりません。
疑問 わが国は今真実の独立国家なのか?パール判事の日本無罪論と日本を叱る言葉。※資料2
パール博士というインドの判事でただ一人東京裁判を否定した方の話が残っています。日本に何度か戦争のあと来られています。
「日本は独立したといっているが、これは独立でも何でもない。しいて独立という言葉を使いたければ、半独立といったらいい。いまだにアメリカから与えられた憲法の許で、日米安保条約に依存し、東京裁判史観という歪められた自虐史観や、アメリカナイズされたものの見方や考え方が少しも直っていない。」(一九五二昭和二七年十月)
広島に訪れた際にパール博士は「過ちは繰り返しませぬから」碑文を見て激怒したそうです。
「この《過ちは繰返さぬ》という過ちは誰の行為をさしているのか。もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。それがどんな過ちなのか、わたくしは疑う。ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、その原爆を落した者は日本人でないことは明瞭である。落した者が責任の所在を明らかにして《二度と再びこの過ちは犯さぬ》というならうなずける。この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。さらにアメリカは、ABCD包囲陣をつくり、日本を経済封鎖し、石油禁輸まで行って挑発した上、ハルノートを突きつけてきた。アメリカこそ開戦の責任者である。」
靖国神社遊就館前にパール博士の碑文がたっております。
結語 平和な時にこそ、聞かう!靖国の神々の声を。
かつて未曾有の敗戦といいましたが、今は未曾有の平和ですね。平和に越したことはありません。平和の中に人間の規律というものをもっと確立していくべきただと思いますが、戦争のことを思えば思うほど、今日の平和は貴重です。平和な時代になりますと靖國神社にお参りする人が減少するのではないかと言われておりますが、行ってみると大変にたくさんの人出であります。平和な時代にこそ、お参りし、御祭神の声に耳を傾けてお聞きし、今の生活にどう生かしていけばよいのか、それを皆さんと一緒に考えさせていただければ非常にありがたいと思います。
私は「はつかしと思ふ心のいやまして直会御酒も酔得ざるなり」に行き着いてしまいます。
お話を終了させていただきます。ありがとうございました。
【事務局の感想】
6月に靖国神社を参拝させていただきますが、靖国神社についてはやはり上米良さんに教えていただくしかないと思い、今回をお願いをいたしました。
私論一 原初、靖国は率直なこころの問題であつたというお話をお聞きして、それでよいのではないかと思いました。素直な心参拝をさせていただければ、良いのかなと思っています。
靖国神社に行ったことのない方は、ぜひ、この機会にご参加くださいますよう、お願いいたします。
投稿者 staff : 2008年05月05日 12:02