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2008年02月24日

2月例会記録(2) 2/2

■山本紀久雄氏
「尊王とは、攘夷とは」2/2

今月の始めはエジプトに行ってきました。エジプトは4000年前に世界4大文明が栄え「世界の母」といわれており、当時世界で最も豊かな国でした。小麦がいっぱいできたから他国が食糧を貰いに来ました。ナイル川に畑を作り当時一反あたりの小麦の収穫量は今の日本の群馬県の農協と一緒で、メソポタミアの4倍以上でした。


今エジプト行ったら、日本より酷い食料輸入国になっています。昔は豊かだったのに、ナイル川は今も流れているのに、4000年経ったら貧乏になっているのはなぜですか?ナイル川の水をコントロールしようとしたからです。
ナイル川の水はアフリカ中心部から6万6000キロ流れてきます。そのうちの下流1500キロがエジプトです。川の水は流れながら途中の地面の土を抱え込み、7月になると大雨が降るから増水してナイル川に入ります。一般的に洪水といいますが、日本の洪水は海から流れるけれど、エジプトは広く、高低差がないからひたひたと水が浸り、水による損害がなく、終わったら水が引いていきます。水が引いたあとに、窒素・リン・カリ、自然のものが残り、栄養満点の土に作物が育ちました。だからピラミッドが出来ました。お金があるからです。

水を一定にしておけば、いつでもいっぱい作物が出来るだろうとアスワン・ハイ・ダムを造りました。栄養のある水はたまったところに落ちて、上澄みの肥料ゼロの水だけが流れ、化学肥料を入れないと作物が出来なくなり貧しくなりました。なぜこんな簡単なことが解らないのでしょうか。人間の浅知恵です。

ダムで写真を撮ったら、小銃持った兵が走ってきました。何かと思ったらズームをして撮影したからです。ズームして写真を撮ることが禁止されているということは、撮られると困るものがあるんですね。
アスワン・ハイ・ダムはエジプトのアキレス腱で、軍が守っています。アスワン・ハイ・ダムが攻撃され、決壊したら、東京から大阪までの水が一気に流れ込みます。人口はナイル川流域に偏り7000万人が川のほとりに住んでいるので、全滅です。
アスワン・ハイ・ダムのせいで、食料が出来なくなりました。アスワン・ハイ・ダムの決壊が一番怖いので、軍が守っています。ダムを作らなければ良いのにと思いました。
フルーカという帆船に乗りました。操縦する青年に自分の船かと訊くとオーナーの船で、週3日働いて、他4日は何もしていないと言います。30歳くらいだと思ったので、結婚しているのか、生活が大変だろうと訊くと20歳でした。

エジプトはオスマントルコに征服されました。パリのコンコルド広場に行くとオベリスクがありますが、これはフランスのナポレオン三世がエジプトから貰ったものです。
当時エジプトはオスマントルコの傭兵出身のムハマンド・アリーが支配していました。(ムハマンド=マホメッドのこと)ナポレオンは王様に時計を上げました。エジプト人は日本人と同じように義理堅いから何か差し上げなくてはと、何がいいですか?何でも良いですよと言うと、ナポレオンはルクソール神殿にあった対のオベリスクの内1つをフランスに貰って帰りました。今はエジプトには台座だけ残っています。

月曜日に保田の漁協に行きました。保田海岸の漁協の食堂「ばんや」は1995年にオープンして11年間で27倍の売上になりました。問題はないですかと参加した新聞記者が質問すると、団体客が来て困るのでそのことだけで、今は団体客専用の施設を作っているそうです。
丁寧・親切・上品・的確なサービスはありません。三ツ星レストランとは全然違います。しかし月曜日なのに駐車場はいっぱいで活気があります。人間にとって大事なのは、元気のあるところで食べることで、それが喜びなんですね。宣伝は一切しない、周りは何もないけれど、海からも陸からも人がどんどん集まります。ばんやに入って食事が終わって出たら元気になるという「元気」が魅力なんですね。
店の外では戸板に鯵とか干したものを屋台で売っています。その中の一人に昨日どのくらい売れたかと訊くと、190万円売れたと言います。1日で190万円です。行ってみてください。現場を見ることが大事です。不便なところなのに日曜日は2000人来ると言っていました。

「ばんや」は「鉄舟」だと思いました。全然飾らないので「ぼろてつ」といわれたのになぜみんなに敬愛されたのでしょうか。お金がなく、生まれた子供は栄養不足で死んでしまう、女遊びはする、酒は飲む、討幕運動の清河八郎の友人、そういう人間がなぜ明治天皇の先生になったのですか。我々も一般的な知識ではないものを吸収しなければならないと思います。


5.斉昭の子である慶喜の見解

「烈公(斉昭)の攘夷論は、必ずしも本志にあらず。烈公いまだ部屋住たり
し時より、しばしば戸田銀次郎等を引見して、水戸藩政の改革せざるべかざ
ることども論議し給い、哀公(水戸斎脩卿)の後を受けて水戸家を相続し給
いてよりは、いよいよ日頃思うところを実際に施さんとて鋭意し給いしが、
非常の改革を行うには、何等かの名目なかるべからざるをもつて、一時の権
宜として、改革は武備充実のためなり、武備の充実は、近頃頻々近海に出没
する異船を打攘わんがためなりと称せられたるなり。
すなわち、攘夷の主張は全く藩政改革の口実たるに過ぎざりしが、後に至りては名目が目的となり行きて、形のごとき攘夷論者となり給いぬ。されば烈公は、異船来ると見ば有無をいわせず直ちに打攘わんというがごとき、無謀の攘夷論者にはあらず。もとより我が砲術の拙さを知り給えば、新たに西洋の砲術を学びて神発流と名づけ、胡服(注 中国北方の民族の胡人の着る着物・・広辞苑)は一切用い給わざりしも、つとに藩士をして、甲冑を廃して筒袖・陣羽織に古風の烏帽子を戴かしめ、自ら師範者となりて藩士を訓練せられたり」

構造改革で言い出した「尊皇攘夷」が広まって、簡単に言うと冗談で言ったようなことに対して、日本中の人が真剣に動きました。このために志士が何人死んだのでしょうか。


6.徳富蘇峰の解説(近世日本国民史)
 
「以上は烈公の愛子徳川慶喜の自ら語る所、父を知るは子にしくは無し。我等は之によりて烈公の本意が、必ずしも攘夷で無かったことを知るを得た。烈公尚然り、況や其他をやだ」さらに続けて
 
「文久(1861)以前はいざ知らず、文久・元治(1864)の攘夷論に至りては、其の理由や其の事情は同一ならざるも、何れも対外的よりも、対内的であったことは、断じて疑を容れない。或る場合は、他藩との対抗上から、或る場合は、勅命遵奉上から、或る場合は、自藩の冤を雪ぎ、其の地歩を保持せんとする上から、其他種々あるも、其の尤も重なる一は、攘夷を名として倒幕の實を挙げんとしたる一事だ。即ち倒幕の目的を達せんが為めに、攘夷の手段を假りたる一事だ。されば一たび倒幕の目的を達し来れば、其の手段の必要は直ちに消散し去る可きは必然にして攘夷論は何処ともなく其影を戢め(おさめ)去った。而して何人も其の行衛を尋ねんとする者は無かった。偶ま(たまたま)真面目に攘夷論を主張たる者は、今更ら仲間の為に一杯喰わされたるを悔悟して、或は憤死し、或は絶望死した。偶ま最後まで之を行はんとしたる者は、空しく時代後れの蟷螂の斧に止った」

時代を知らない人は、憤死し絶望死したということです。これが歴史の実態です。恐ろしいですね。
鉄舟会でいろいろお話します。エジプトの話もしましたが、結局エジプトはナイル川を仕切って貧しくなりました。
エジプトはスエズ運河がありので、船が通ればお金が入り、砂漠から石油が出るし、観光客がいっぱい来ます。その国が食糧の輸入で援助を受けています。4000年前は世界の覇者だったのに。

たった15年間でも尊王攘夷の言葉の意味に載せられて走り回った人たちがたくさんいました。倒幕に携わり、倒れ死んだ人は靖国神社に祭られています。勝海舟や山岡鉄舟は倒幕に関係ないから靖国神社におりません。

7.清河八郎の役割と、同士である鉄舟の存在とは?

どうして山形の酒屋の息子が江戸に出て来て統幕の中心リーダーとして動けるようになったのでしょうか。例えると集団就職で出てきた人が出世したようなものです。その清河と鉄舟はどこでどう知り合ったのでしょうか。鉄舟はその後明治天皇の教育係りになりましたが、その間の変化は何なのでしょうか?鉄舟は本気で倒幕しようと考えていたのでしょうか?そのあたりを整理したいと思っています。
以上

【事務局の感想】
今月は、尊王と攘夷と題して、「尊王」と「尊皇」の違いや攘夷の始めについて、またそれらが15年で起こったことなどを勉強いたしました。斉昭の攘夷についての慶喜の見解を知って、長いものには巻かれろという日本人の国民性でしょうか、巻き込まれて亡くなった人のことを思いますと、大変な時代であったのだとつくづく思います。今月は、エジプト、アメリカのお話がでましたが、日本を日本からだけ考えるのではなく、世界から見る視点が必要であるということからお話をしていただいていますが、今世界が大きく変わろうとしている時ではないかと思いますので、今後も海外からの報告を期待したいと思います。

投稿者 staff : 2008年02月24日 15:07

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