2008年11月29日

第五回 山岡鉄舟全国フォーラムが開催されます!

第五回 山岡鉄舟全国フォーラム
今年は明治神宮内の道場「至誠館弓道場」にて行います。
明治神宮神楽殿での参拝もあります。
明治神宮権禰宜・佐藤氏による「明治天皇」講演、そして山本紀久雄氏による鉄舟研究発表など、盛りだくさんの内容です。
是非ご参加ください!

詳しくはこちらをクリック >>>>>

投稿者 lefthand : 09:28 | コメント (0)

2008年08月31日

第五回 山岡鉄舟全国フォーラム開催のご案内

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第五回 鉄舟全国フォーラム2008を開催いたします。
今年は明治神宮にて開催いたします。

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■日 時 2008年11月29日(土)

■会 場 明治神宮
     http://www.meijijingu.or.jp/

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お申し込みはこちらをクリック

今回の全国フォーラムは2部構成にて開催いたします。

【フォーラムその1】
  明治神宮参拝 11:00〜11:30 神楽殿にて
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  ■集合 10:30 神楽殿に集合
   神楽殿にて参拝
   その後、各自で昼食をおとりください。

【フォーラムその2】
  全国フォーラム 13:00〜17:00 至誠館 弓道場会議室にて
  ■12:30      受付開始
  ■13:00〜     開会
  ■13:30〜15:00 佐藤一伯氏 講演
  (休憩)
  ■15:15〜16:45 山本紀久雄氏 講演
  ■17:00      閉会

 →詳しい地図や案内などをダウンロードしてご覧ください  
  パンフレット(オモテ)tessyuu_2008forum_01.pdf
   パンフレット(ウラ)tessyuu_2008forum_02.pdf

■講 師

●明治神宮権禰宜・佐藤一伯(さとう・かずのり)氏
forum08_satou.JPG講演タイトル
「明治天皇と山岡鉄舟」
明治天皇の実像については、なかなか一般的に知られておりません。今回は明治天皇について、明治神宮の神職の方より詳しくどのようなお人柄であったか、そして明治5年明治天皇の侍従となり、10年間明治天皇のお側にお仕えした山岡鉄舟との触れ合いなどについて、発表をしていただきます。

昭和44年(1969)、岩手県生まれ。
岩手大学人文社会科学部卒業。國學院大學大学院文学研究科修了。
現在、明治神宮権禰宜(ごんねぎ)。明治神宮国際神道文化研究所主任研究員。
國學院大學研究開発推進機構共同研究員。博士(神道学)。
※明治神宮国際神道文化研究所について
今年で創建88年、戦後復興50年を迎える明治神宮(東京都渋谷区)が神道文化の“発信力”強化に取り組むため「国際神道文化研究所」を設けた。研究員はロンドン大の博士号取得者や、元外務省職員など、国際色豊かな顔ぶれである。これまで「明治維新140年記念セミナー」を開くなど公開研究会の開催を始め、秋には神宮復興の歴史をたどる書籍を発行する予定。

●山岡鉄舟研究家・山本紀久雄氏
forum08_yamamoto.JPG講演タイトル
「鉄舟のブレない生き方に学ぶ」

1940年生まれ。中央大学商学部卒。
日仏合弁企業社長、資生堂事業部長を歴任。
現在、「有限会社 山本」代表取締役。
経営コンサルタント、山岡鉄舟研究家。
著書
『フランスを救った日本の牡蠣』(小学館スクエア・2003)
『笑う温泉・泣く温泉』(小学館スクエア・2004)
『ぬりえ文化』(金子マサ共著・小学館スクエア・2005)
『ぬりえの心理』(金子マサ共著・小学館スクエア・2006)
『ぬりえを旅する』(金子マサ共著・小学館スクエア・2007)
連載
『「命も、名も、金も要らぬ」山岡鉄舟』(月刊ベルダ)
『世界よりみち紀行』(月刊ベルダ・ペンネーム:南 石堂)

■参加費 【神楽殿参拝】初穂料 1,000円
     【フォーラム講演】参加費 3,000円

■懇親会
フォーラム終了後、「和民」代々木駅前店にて、懇親会を開催いたします。
参加費:3,000円~3,500円(食事・飲み放題付き)

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お申し込みはこちらをクリック

【お問い合わせ】
山岡鉄舟研究会 TEL:03−3892−5391(金子)
お申し込みについて TEL:03−6806−6510(田中)
または、メールにてお問い合わせください。info@tessyuu.jp

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投稿者 lefthand : 07:34 | コメント (0)

2007年11月04日

第4回全国フォーラム 高田先生講演の墨蹟紹介

「第4回鉄舟全国フォーラム」高田明和氏の講演でご紹介いただきました、高田氏所有の鉄舟の書を掲載いたします。

※クリックすると拡大表示します。

投稿者 lefthand : 08:22 | コメント (0)

2007年11月03日

「人の出会い~次郎長と鉄舟の幕末と明治維新~」1/4 第4回全国フォーラム記録

2007年10月6日 第4回 山岡鉄舟全国フォーラム2007 
会場 中央大学 駿河台記念館

 「人の出会い~次郎長と鉄舟の幕末と明治維新~」
浜松医科大学名誉教授 高田明和氏

皆さんこんにちは。こんな立派な会にお呼びいただいて本当にありがたく思っております。山岡鉄舟に関しては、微にいり、細をうがちて、知っておられるかと思いました。いまさら本で読んだことを付け加えても、なんらの意味もないと思いまして、ご紹介に預かりましたように鉄舟の人生の中でもかなり重要な役割を担った清水次郎長とその養子である天田愚庵を介して、山岡鉄舟はどういう人物で、明治維新にどのような役割をしたか、私の考えを述べさせていただきたいと思います。

2年くらい前までは、清水次郎長に関係があるということは全く誰にもいいませんでした。私のいとこの子供に諸田玲子という作家がおり、読売新聞の夕刊に連載しており、その前は日経新聞の夕刊に『奸婦にあらず』という小説を連載して、新田次郎賞をもらっています。彼女がメインのテーマにしているのが清水次郎長の子分の大政や森の石松、お蝶さんらです。ところが我々関係しているものから見ると、よくもまぁこんなでたらめなことがいえるというくらいいい加減なことが書いてあります。何とかしないとこの話が歴史になってしまうというので、ついに2年くらい前にそのことを話しました。
たまたまNHKが深夜便で2回に渡って話しました。大変好評で、春秋社から『人生に定年はない』を出版させていただきました。

もう一つこのことを書こうと思ったのは、明治維新における人間関係の緊密さですね。医者ですからカウンセリングもするのですが、50歳くらいの兄弟はどこの家でも若貴に代表されるように兄弟の仲が悪い。だいたい、どっちかが偉くなっているから揉め事が起きます。あるとき浜松に居たときに大学の教授で、弟さんが地元で大きい事業を継いで大成功したという方がおり、一緒に酒を飲みに行くと、いじめられたときにオレが救ってやったのに、とはいて捨てるようにいうわけです。弟さんも兄貴にも世話になったと思うが、そこに「いつまで昔のことを言っているんですか」とお嫁さんが入ってくると、だいたい若貴の関係になってしまう。

山岡鉄舟は、明治になってからオーバーにいうと新政府側についた。当時の幕臣は惨憺たる人生を送っていたわけですね。鉄舟はそれを非常に気にかけて、旧幕臣が立ち上がって上野に彰義隊を作って立てこもったときに、もはや趨勢は決まったのだから反旗を翻してもだめだと収めようとした。
5月に西郷隆盛が勝海舟に、「勝さん上野で進軍します。山岡さんが夜も寝ずに是を収めようとしたこと思うと、気の毒でならない」といって、勝海舟が書いたところによると、西郷隆盛はほろりと涙をこぼした、とあるんですね。

明治になって、上野の山に西郷隆盛の銅像を作ることになりその除幕式に勝海舟は呼ばれた。年を取っていて出席することはできなかったが、代わりに和歌を送った。
「君あらば語らむ事のおおかまし南無阿弥陀仏我も老いたり」
(君が生きていれば、あのことも話したい、このことも話したい。話したいことはいっぱいあるんだ)この歌ほど人間関係の本質を示した歌はない。

旧藩士が西南戦争を起こして、大久保利通は収めるために軍を送って、ついに西郷隆盛を追い詰めて城山で自刃させた。弟の西郷従道が「兄貴の西郷隆盛が捕まったりしたら大変ことになる、兄貴は死ぬだろうな」と何度も念を押したという。
西郷隆盛は自刃したわけですが、薩摩藩士はこれを恨んで、大久保利通が出勤するときに紀尾井坂、今のニューオータニを通っているところに切りかかって暗殺した。
明治維新になって新政府ができたとき、大久保や木戸孝允や福沢諭吉は外国視察に行った。その間、西郷隆盛が留守番しており何枚もその当時の東京の状況を、大久保に手紙で送っている。襲われたときに大久保が読んでいたのが、西郷隆盛が大久保外遊中に送った手紙だったわけですね。海音寺潮五郎がこのことを書いている。明治が隆盛だったわけである。

実は昨日も静岡県の御前崎で静岡県仏教婦人の会で講演していました。
妙心寺、曹洞宗などいろんなお坊さんの会に呼ばれるようになった。あるとき四国のお坊さんの会に呼ばれましたら、そのあと檀家の悩みにどう答えるか、という会がありまして、それにコメントを頼まれ出席しました。
あるお坊さんは、自分の檀家には癌の末期で苦しんでいる人がいる。自分の子供が少しでも自立できるまで何とか生きたいといっている。この方に般若心境を唱えようと言っているとおっしゃった。
また別のお坊さんは、自分の檀家の息子さんは東京に出たがお母さんが年取ってきたので息子さんはお母さんを引き取った。しかしうまくいかない。いつも電話で愚痴を言っている。自分は般若心境を唱えようと言っている。

今の時代、般若心経を聞いて悩みがなくなるような方はおられないのではないか。
2500年前にお釈迦さんが亡くなったときに、こういうことをおっしゃった、このように指導されたということをお弟子さんが検討されて仏典ができ、多くの口伝ができた。

7世紀に玄奘三蔵がインドから中国に運んで、漢文に訳し『大般若経』600巻という膨大な教典ができた。ご存知のすべての経はこの中に含まれている。こんなたくさんの経をみんな読むことはできないだろうということで、そのエッセンスをまとめて262文字にしたものが般若心経です。
湯川秀樹先生は、現在の物理学的からみても全く間違いがない、つまりお釈迦さんがいかに宇宙の本質を見抜いておられたかががわかるという。
 経の終わりの1/4が呪文を唱えましょうという内容。「是大神呪」は偉大なる神秘的な呪文を、「是大明呪」たえなる偉大なる呪文、「是大上呪」比類なき呪文、その次にこの呪文はよくすべての苦を除くという言葉があって、「羯帝羯帝」という呪文が始まる。真言の神秘性を失わないために訳さないことになっているが、無理に訳すと「我々はみな釈尊と同じ永遠に続く心の持ち主だ」と山田無文老師は言っている。
般若心経がすべての苦しみを除く呪文だと思って唱えるのと、何が何だか解らない経と思って唱えるのでは雲泥の差があるのではないか、と思い本を書いた。

もうひとつ同じような経に観音経があって、観音経は、火にあたっても焼けず、水に放り出されても溺れず、悪人が刀を振り上げても、その刀がばらばらになってしまうとある。白隠禅師はこれを心から信じて、1週間夜も寝ずに「南無観世音菩薩」と唱え、ちょうど1週間目に焼火箸を腿に当てた。しかし見るも無残に焼け爛れた。修行が足りないと修行に出たけれども、途中でいろんなことがあって、あんなものは嘘だ、禅をやって心を磨かなければダメだ、と禅に入られた。
晩年に『観音経霊験記』を書かれた。中には京都の○○町に住む○○さんは、病気で死にそうになって意識がなくなってしまったが、みんなで一生懸命観音経唱えたら、意識が戻ってきてぴんぴんして今は生きている。奈良の○○町の○○さんは商売で破産して一文なしになったが、観音経唱えたらみんなで助けてくれてすっかり商売がうまくいった、などと嘘みたいなことが書かれている。
当時白隠禅師がおられた沼津・原のではお百姓さんは、字も書けず、読めない。そういう人に、座禅をしろ、釈尊の教えはなんだ、といっても解らない。そういうときに「南無観世音」と唱えればお前の病気は必ず直る、と言ったその言葉の中に白隠禅師の限りない慈悲を感じて、『念ずれば夢かなう』という本を書かせていただいた。

今日は、次郎長と山岡鉄舟の話をさせていただきます。

投稿者 staff : 13:36 | コメント (0)

「人の出会い~次郎長と鉄舟の幕末と明治維新~」2/4 第4回全国フォーラム記録

清水次郎長と高田家


次郎長・高田家家系図(クリックして拡大)

高田元吉は侍で、剣道をやっていたがそれだけでは食べて行けないと畳屋をやっていた。清水町の回送問屋高木三右衛門の次男に長五郎(次郎長)が生まれた。長女のとりが山本次郎右衛門と結婚して、そこへ次郎長が養子になっていった。長男佐十郎の娘・まつが、辻村の畳屋高田元吉と結婚して、次郎長の養子になった。
この元吉とまつの子供の次男・虎次郎の長男が高田璋一で、璋一の長男が私・明和です。璋一のお姉さんが静岡のお菓子屋にお嫁にいって、そこの孫が先ほどの諸田玲子です。祖母は昭和34年まで生きた。晩年は次郎長のことを私に伝えるのが唯一の使命と、いろんなことを伝えてくれて、私は今日ここに来ております。

清水次郎長と山岡鉄舟
鉄舟と次郎長はどこであったのか?望嶽亭の事件と言われるものはあったのか?鉄舟と次郎長が会った咸臨丸事件はどうして起こったのか?鉄舟は幕臣で旗本なのに、なんで侠客の親分である次郎長にあんなに肩入れしたのか?新門辰五郎など江戸には数限りなく立派な親分衆がいるのに、オーバーに言うと駿河の田舎にいる清水次郎長にあれほど肩入れしたのはなぜか。
鉄舟は、明治政府に入ってから静岡県の県令、茨城県の県知事、明治5年から15年まで明治天皇の侍従になった。新政府方につきました。それをよからぬと思った人はいたわけですね。鉄舟も幕臣の苦労を非常に気にしていた。


清水次郎長(左)/山岡鉄舟(右)(クリックして拡大)

当時いかに幕臣が苦労したか。上野に閉じこもった彰義隊が皆殺しにされるようなありさまだった。上野で360人くらいが死んだが怖がって片付ける人がいない。それで火をつけて焼いたが、焼けないので穴を掘って生めた。上野に閉じこもった彰義隊の連中が皆殺しになるところを、根岸のところだけ空けておいた。そこから逃れ、奥州道、中仙道へと向かい、ばらばらになって出てきたところを、待ち構えて皆殺しにしてしまった。実に悲惨な運命になったと子母沢寛が書いている。生き残った多くの幕臣は生活に困り何とかして生きるために太鼓持ちになったり、寄席の呼び込みをやったり、乞食をやったり、女子供はみんな遊郭に売られてしまった。
天田愚庵は、戊辰の戦で生き別れになった妹が遊郭に売られているのではないかと日本国中探して歩いた。妹を探すために顔が広い次郎長の養子になった。
あるところから藤沢の遊郭に品があり、おまえに非常によく似ている女がいる。どうやら身辺いやしからぬ侍の娘らしい、と連絡を受けて愚庵は会いにいった。彼女を訪ねると、彼女の父も兄も彰義隊の一員で、生活に困り娘を売ったのであった。二人はお互いの境遇を語り合い、悲運を思って共に抱き合って泣いたと天田五郎は大岡育造への手紙に書いている。
あの純情な鉄舟が、この話を知って平然としていられると思えない。それと同時に一種の嫉妬にも似たような非難を受けている。鉄舟があそこまで、剣と禅に打ち込んだ中には自分のみ恵まれてという慙愧の気持ちを振り払おうと思ったのではないか。


維新後の次郎長
次郎長は咸臨丸の事件で清水港に浮いている榎本の幕府の兵士を丁重に葬った。咸臨丸に乗っている連中が三保神社に逃げ込もうとしたが当時の神主が追い出した。それを恨んだ旧幕臣は、焼き討ちをかけようと三保神社を襲って大田神主は殺されます。このとき次郎長は身を挺して守った。それを恨んだ駿府に居た旧幕臣が次郎長を殺してしまえと、ある日次郎長の家に斬り込みに行ったときに、二代目お蝶が殺されてしまった。次郎長には新政府も旧幕臣も当てにならないという状態があった。
当時、侠客は力を持っていたので、侠客を中心に暴動が起こるのではないかと新政府は気にしていた。黒川辰三も官軍の味方をして東北まで進軍して東京に戻ってきた。お褒めの言葉を貰おうと思っていたが逮捕、処刑されてしまった。岐阜の弥太郎も、岐阜までに行く間「年貢半減」と言ったものだから殺された。次郎長も勢力が大きかったので、政府は常に身辺を探っていた。このような危険な時期に鉄舟のような政府側の大物の存在が次郎長にとって唯一頼りになる存在だった。

もともと江戸時代、刑法はしっかりしていたが、民法は甚だいい加減だった。敷地、遺産相続は長男が決めて、決まらなければ顔役が出てきて、それでも決まらなければ侠客が出てくる。明治に入り刑法・民法が出来ると実質的に侠客の力が不要になった。鉄舟は咸臨丸の事件で次郎長にあったときに、今までのような時代ではない、社会に貢献することが必要である、とくに心を磨けと禅にいそしむことを教えて、誠拙周樗(せいせつしゅうちょ)という高僧の話をした。
周樗は江戸中期、円覚寺の山門建立を祈願して、寄付を募ったところ当時の豪商・白木屋が、100両寄進しましょうといった。ところが周樗は「あぁそうか」と言っただけで礼も言わないので、白木屋もさすがにムッと来て「100両は我々にも大金でございます。少しはお礼を言ってくださっても良いのではないでしょうか」と述べると周樗は怪訝な顔をして「おまえが功徳を積んで、家の商売が代々繁盛して、病人が出ないようになるのに、何でわしが礼を言わなきゃならないのだ」と答えた。
次郎長は「一生の間にこれほど自分にとって大きい影響を与えた言葉はない」といっていたそうです。鉄舟は、この世の中に人のためなんかないのだ、すべては結果自分に戻ってくるんだということを口癖のように言っていたと小倉鉄樹が書いている。

徳川慶喜が寛永寺にきて、そのときの警護隊長高橋泥舟の妹と結婚していた鉄舟が推挙され、将軍の元に呼ばれる。
慶喜の頼みに、「鉄太郎がお引き受けしたからには、私の眼の黒いうちは決してご心配には及びません」と。
頭山満は「幕末三舟伝」の中で、「何でも話に聞くと、鉄舟はこの時、死ぬか生きるかわからぬ、一寸先は闇だというのに、家に帰って旅支度もそこそこ、サラサラと茶漬けをかっこんで出かけたそうだ。なあに、品川沖へ釣りにでもゆくような気軽さだったと見える」と書いている。
品川を越えると官軍の先鋒隊がいたわけでしょう。たくさんの官軍の中を突き進むのに、ピストルひとつ持っていても何の意味もないと思う。剣の達人であった鉄舟がピストルを必要と考え、携帯したとは考えられないと思っております。


望嶽亭に伝わるピストル(クリックして拡大)

望嶽亭事件
鉄舟が慶応4年3月7、8日にどこにいたかは不明である。7日に怪我して由比の倉沢の望嶽亭にいて、その夜に舟で次郎長宅に行き、8日は静養、9日に久能街道を通って駿府に入ったとされる。
次郎長が、政治に関与するようになり街道の秩序の維持を浜松藩の伏谷如水から依頼されたのは明治元年4月のことで、望嶽亭の事件は3月である。当時次郎長は由比では知られていたが、舟で鉄舟を迎え入れ、道案内するほど政治に関与していなかった。鉄舟の手記「両雄会心録」にはこのことは書いてない。あれほど几帳面で義理堅い鉄舟がこれだけの恩を受けて、全く記載をしないのは考えられない。次郎長は明治になり初めて鉄舟に会ったと祖母は常に言っていた。
鉄舟は剣を一生懸命にやった。裸になって御用聞きに「どこからでも掛かって来い」と竹刀を渡す。御用聞きが掛かっていって鉄舟が受け損なうと、もう一回と何度もやらせ、いつまで経っても終わらないものだから、段々御用聞きも来なくなったという。
これを次郎長が聞いて、鉄舟という人はちょっと違うお侍さんだと私の祖父の虎次郎に言っている。当時侠客は必ず用心棒として、免許皆伝なんて人をたくさん雇った。ところが両方が戦い出すと、剣豪と称する人は、手もなくやくざにやられる。竹刀の剣道なんて役に立たないという鉄舟の話を聞いて、このお侍さんは少し違うと思ったのが、次郎長が鉄舟に興味を持った最初だ、と祖母が繰り返し語っておりました。

榎本武揚が8艘くらい軍艦を集めて、函館に新しい政府を作ろうと向かった。途中松島沖で台風にあい、咸臨丸だけが流されて清水港に入った。政府軍は咸臨丸に切り込みをかけて乗組員を全員惨殺した。死体が港に浮かんだが誰も触れなかったのを、次郎長が手下を集めて丁重に葬った。当時慶喜が駿府に来て、鉄舟も海舟も何かの役割で駿府にいてその話をきいた。せっかく世の中が収まりそうなときに幕府の連中の死体を葬ったりするようなことをして新政府軍から恨まれたら困る。静岡の地方判事で松岡万という鉄舟のお弟子さんは、鉄舟に次郎長に会うことを薦め、次郎長にあった。
次郎長が、“死んだらみな仏さんだ敵味方はない”と言い、鉄舟はそれに感激して、次郎長はお咎めなしになったという有名な話がある。


咸臨丸(クリックして拡大)

大森曹玄は日本の武道の最後の剣道家は、山岡鉄舟と榊原鍵吉だと言う。榊原鍵吉は男谷精一郎の一番弟子で、道場を持っていて、剣道一筋で有名だった。榊原鍵吉の一番弟子が榎本武揚、二番弟子大塚霍之丞。有名な千葉周作は何回も男谷と試合したが敵わなかった。あれだけ剣を使うには粉骨砕身努力しただろうという言葉が伝わるくらい男谷は名人だった。
榎本が函館に行って負けて、自刃しようと思って、短刀を抜いた時に止めようとして、大塚霍之丞が刃を掴んだ。無理やりに榎本が刀を引いたから、指が三本切れて鮮血が流れ、榎本がハッとしたところを取り押さえ、刀を取って、榎本の自刃を止めた。
怪我をした者は病院に入り、榎本は、自分は後から行くからと全員に花と毒薬を送ったが、結局死なず、明治41年榎本は73歳まで生き、壮士の墓に葬られた。
鉄舟が次郎長に「生無一日歓 死有万生」 (生きて一日の歓びなく、死して万世の名あり)名をとどめることが大事と詠んでいる。


壮士の墓(クリックして拡大)

鉄舟は次郎長に社会事業のようなことをやらせる。一番有名なのは、富士山の開墾。元々幕臣は牧の原にお茶畑を作り成功した。次郎長は、富士山麓にお茶畑をつくろうとしたが、気候が悪くて大失敗だった。
静岡県になってからの最初の県令、大迫貞清は鉄舟と親しかったので、佐田清が報告のために「皇国の為にと開け駿河なる 富士の荒野のあらぬかぎりは」という歌も詠んでいる。
次郎長町という町名や、駅も出来、バス停もある。明治29年開墾記念碑を作った。英語学校はあまり長くは続かなかったが卓見だったと言われている。

   

明治26年、次郎長48歳のときに鉄舟寺をつくる。建立のために募金を集めた。なぜ鉄舟寺作ろうと思ったかが面白い。私の卒業した高校の卒業生で鉄舟寺の隣に住んでいるものがおり、私にそのことがわかる鉄舟の書をくれた。
弘法大師が西安に留学し、帰りがけに自分の持っている数珠を放り投げて、落ちたところにお寺を作ろうと祈願された。日本に戻られて四国を歩いていたら木の上に数珠が掛かった。そこにお寺を作った。四国八十八ヶ所のひとつになっている。   
それと同じように寺を作った。各村に仏教の雲を生んでくれることを願う、ということです。なかなか良い字だと思う。非常に立体的ですね。立体的なところが現れている点では良い字ではないかと思います。


鉄舟の書(クリックして拡大)

次郎長が清水に末広という旅館を始めたことをきっかけに当時の海軍軍人が
次郎長を訪ねるようになった。広瀬武夫は次郎長を訪ねいろいろ話をしているうちに非常に次郎長を尊敬するようになった。士官学校の同級生で、後に中将になった小笠原長生に次郎長を紹介した。小笠原は後に次郎長の伝記「大豪清水次郎長」を著した。広瀬はロシア大使館の武官で、旅順港閉鎖のときに行方不明になった杉野兵士曹長を捜し歩いたが、ついにボートで脱出するときに爆撃を受けて戦死。少佐が中佐になった。日本最初の軍神だった。


(クリックして拡大)

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「人の出会い~次郎長と鉄舟の幕末と明治維新~」3/4 第4回全国フォーラム記録

山岡鉄舟と次郎長、禅とのかかわり・剣
浅利又七郎義明と戦って、木刀で戦いあうと手も足も出ない。明治13年3月25日、昼間やった剣の構えのことを考えているうちに無心の境地に入り、29日に目を覚ましてみると、木刀を構えると雲のような浅利の姿が見えた。無敵の境地を得たということで、弟子の籠手田安定と剣を併せると、立っていられないという。無敵の境地を得たかと浅利を呼んで剣を合わせたところ境地を得られたと免許皆伝された。


免許皆伝書(クリックして拡大)

鉄舟が禅の印可を与えられたとき、滴水は江川鉄心にビールを出すように言った。一ダースを飲んで、次の半ダースも飲んだので、胃が少し悪いからやめなさいと言ったら帰った。滴水はその威風堂々たる鉄舟の様子を見て、あのくらいの悟りを開きたいと考えたと有名な言葉も今も残している。

小倉鉄樹さんが、師匠が稽古場に出てくると口も利かずに座っているだけだが、居る人はすばらしく元気になってしまう。頭が空虚になり、颯爽とし、英気にあふれるばかりである。あまり気分が良くて帰らず、はなはだしいのは夜中の2時3時までいる。師匠と話していると苦も何もすっかり忘れてしまうので帰るのも忘れてしまうと書いている。
無学祖元、中国に行ったときに賊に刀で首を切られそうになったとき詩を詠んだところ斬られなかった。その詩の中にある「春風を切る」というところから、春風館というのが出たんですね。
鉄舟の傍にいると身動きができなくなってしまうという。ものすごく強く行こうとすると相手も強くなる、こちらがゆったりすると相手が動く。
私も尊敬する人がいますが、大体において優れた人はゆったりしている。鉄舟は鋭くいかなくて、ゆるやかに行くと相手の気を覆うから不思議だと言っている。
鉄舟も次郎長の剣は奥義に通じている、剣もたいしたものだと言っている。次郎長が剣の抜き方で相手が上だとわかったら逃げる。だから負けたことがないというと、鉄舟は截相のときに相手を見抜く度胸が偉いといたく感嘆した。
気合は命がけだから、互いに構えて、こっちがじっと待っていると相手が斬ってくるから、それを斬る。

天田愚庵


天田愚庵(クリックして拡大)

次郎長の養子の天田愚庵は、次郎長のことを日本国中に残した。天田愚庵は、安政元年(1854年)福島県磐前(いわさき)郡今新田村に生まれた。官軍が攻めてくるときに磐城は奥州路の入り口だったために官軍をここで食い止めようと、多くの奥州同盟の列藩は兵を平城に送った。五郎も若かったが戦争に参加、しかし、平城は落城、会津も落ちたので仙台に逃げた。国に帰ると家はあったが両親も妹もいない。血の跡もない、周囲の人に聞いても知らないという、しばらく逃げたか、親戚の家か、と一生懸命探したが見つからない。妹は官軍に売られて遊郭にいるんじゃないかと考えた。
明治二年に藩校が改められ、中学になったので入学、同僚が東京に出たので東京に行く。父母、妹を何とか探し出したいとし、神学校に進んだが、政府の大書記であった小池詳敬の家に寄宿、そこで落合直亮と山岡鉄舟に会う。
落合は官軍の先鋒体の赤報隊に参加した。その隊長はやはり国学者の相良総三であった。相良は西郷と仲が良く、薩摩藩の藩邸を焼き討ちし、幕府を戦争に巻き込むことに成功した。慶応4年鳥羽伏見の戦いに敗れた慶喜を追うために、東海道、東山道、北陸道の3ルートで江戸に向かう軍が編成された。
相良らは1月12日に京都で、錦の御旗を使うことと年貢半減の建白をして認められた。岐阜に着くと、朝廷は年貢半減の撤回を相良に伝えたが、命令を無視、1月29日に中仙道を通って江戸に向かう。下諏訪宿に着き、年貢の問題などの論議のために大垣に向かう。総督府は相良を抹殺することを決断。下諏訪宿に呼び出され、即刻逮捕、田んぼで打ち首になった。年貢半減なんて嘘だった。
落合直亮はその後伊那知事になったりしたが、冤罪で失脚、不遇な晩年を送った。鉄舟も幕臣の多く、とくに彰義隊の参加者が迫害され、妻子を遊女にしたり、本人は寄席の木戸銭取りに落魄しているのに、鉄舟のみが政府の一員として高給を取り、しかも天皇の侍従もやっていることに悩んでいた。そのような時に、戊辰の戦争の生き別れになった両親、妹を探すために、日本国中を歩き回っていた五郎の純情さは心打たれるものであった。

直亮も政府側の味方をするつもりが裏切られた。そういうことを考えずにあくまでもそのときの幕臣側について、妹と両親を探すために日本国中を歩いた。
明治10年に小池祥敬が死去、家族を京都に送る時に清水に泊まり次郎長に会う。鉄舟は五郎を一箇所に留めるために次郎長に託そうとする。明治11年明治天皇の関西行幸の帰りに静岡の旅館で次郎長と五郎を会わせ、清水に住まわせる。天田五郎には次郎長と一緒に住むうちは見たことも聞いたこともないような集団だった。これを水滸伝のような小説にしようと、次郎長から話を聞いて小説を作った。
次郎長は離れられないと言ったが、負けず嫌いな五郎はこっそり家を出て安倍川を越えた。すると人が現れて「五郎さん、次郎長親分がお宅で待っていらっしゃいますからお帰りください」と連れて帰られた。次郎長は、黙って家を出て安倍川と富士川を越えることができたらおれは親分を辞めるよ、といった。五郎は夜中に黙って出かけたのに何で解ったのかと不思議だったが、次郎長は、五郎が家を出ることを予め察知していて、もし五郎が家を出て行った場合は、行き先をつけるように言っていた。その後、五郎は次郎長の許可を得ずして、清水を出ることはなかった。

富士開墾に終始し、健康を害す。明治14年3月、両親と妹を探したいといって、次郎長の養子になる。ところが、自由民権運動が侠客と結びついて始まった。侠客は唯一弾薬・武器を持っている。次郎長が暴動を起こしたら大変だと、17年2月「賭博犯処分規則」で次郎長逮捕。当時は牢に入れられると病気だったと、裁判も何もなく闇夜に葬られるということがあった。鉄舟はそれを心配していた。
このころ五郎は有栖川宮への就職が進んでいた。侠客の息子ということで、ダメになるかもしれないから離脱したかった。鉄舟は一度といえども父親になったのに新しい職を選ぶために親子だったのに籍抜くことがあるかと五郎を何度も諌めた。五郎は鉄舟のことを「四谷の山の字」と呼んでいた。

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「人の出会い~次郎長と鉄舟の幕末と明治維新~」4/4 第4回全国フォーラム記録

東海遊侠伝
次郎長をなんとかするためのキッカケになったのが、明治12年に出た東海遊侠伝の元になる『次郎長一代記』という本。これを鉄舟に見せると、評判になり、多くの人が借りて読んだ。これを出版しようと大岡育造に頼んだが出版する会社は見つからなかったので、彼の手文庫に眠っていた。
次郎長の釈放のために鉄舟はこの本の出版を考えた。出版して政府や剣の出来る人に配って、次郎長はそんな変人ではないことを知ってもらおうとした。立派な人間でること、大岡が序文を書き、成島柳北(朝野新聞の局長で、彼も家茂の教育を担当、その後野に下った。次郎の生き方に同情を禁じえなかった)に校閲を頼み、自分と海舟が挿絵の一部を描いて、輿論社(大岡が社長)から出版。次郎長は有名になり、釈放された。


東海遊侠伝(クリックして拡大)

最後
天田愚庵は結核でなくなり、鉄舟は坐脱をしている。
次郎長の辞世の歌を内村鑑三が高く評価している。「私は近ごろ東海道の侠客、次郎長の辞世の歌が目に触れました。博徒の長の作ったものでありますから、歌人の目から見ましたならば何の価値もないものでありましょうが、しかし、もしワーズワースのような大詩人にこれを見せましたならば、実に天真ありのままの歌である、と言って大いに賞賛するであろうと思います。
「六(ろく)でなき四五(しご)とも今はあきはてて さきだつさい(妻)に逢うぞうれしき」
多くの貴顕方の辞世の歌でも、文字こそ立派であれ、その希望にあふれたる思想に至っては、とてもこの博徒の述懐に及ばないと思います。彼、次郎長は侠客の名に恥じません。彼はこの世にありて多少の善事をなした報いとして、死に臨んで、このうるわしき死後の希望をいだくことができたと見えます」と記載している。

明治の作家、樋口一葉が書いた日記『一葉日記』は、文学的価値の高いと評価されており、その「一葉日記」には、次郎長の葬儀の日のことが書かれている。
「侠客駿河の次郎長死去。本日葬儀。会するもの千余名。上武甲の三州より博徒の頭だちたるもの会する五百人と聞こえたり」と書き残している。時の文芸評論家は、樋口一葉は次郎長に「畏敬の念をもっていた」と記している。

鉄舟、近世の禅僧の墨蹟

(墨蹟観賞)
※墨蹟は下記エントリーにてご紹介します。
→第4回全国フォーラム 高田先生講演の墨蹟紹介

鉄舟は、非常に努力の人で個人的に現在鉄舟の書は、書としては泥舟とか海舟よりも劣るといわれているが、書は心を表しているから、これが鉄舟の書であるということに非常に意味がある。鉄舟の書を大切にしております。
良寛が嫌いなものとして、書家の書、歌詠みの詩という。
上手い字は意味がないと思う。鉄舟については、技巧の良し悪しを超えた優れたところがあるのではないかと思います。
頭山満も指摘しているが、鉄舟の情・愛情の深さ、同じ幕臣が食うや食わずのため、随分お金を上げている。鉄舟はそういうなかで、剣・禅・書に本当に命をかけたのは、その思いの中の葛藤ではないか。明治20年咸臨丸の死んだ人たちの記念碑が出来、その裏側に榎本武揚が文章を書いている。職のあるものは、その職に死す。一度誰かに仕えて、職を得た人は、そのことを一生忘れてはいけない、と書いている。福沢諭吉はそれをみて怒ったという。勝海舟と榎本武揚のことを言っている。
鉄舟も明治天皇の侍従になったことが嫌だと思ったわけではないですが、多くの旧幕臣が食うや食わずの中で日々を送っている中で非常に苦しい思いをしていたんではないかと思います。
天田愚庵が自分の妹ではないかと思う人と会ったときのことを書いている。次郎長の協力を得て東海道中は思いのままに探し回った。日本全国歩きまわり本当に苦労している。

今日、いろんな問題起こっているけれども、お互い人間関係を大切にするという気持ちを大切にしないと社会問題は解決できないことを考えないと、幕末から明治に到る人たちの勝ち負けを越えた関係をもう一度見直す必要があるのではないか。

ご清聴どうもありがとうございました。

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「鉄舟を世に躍らせた運と縁」1/2 第4回全国フォーラム記録

2007年10月6日 第4回 山岡鉄舟全国フォーラム2007 
会場 中央大学 駿河台記念館

「鉄舟を世に躍らせた運と縁」
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄氏

 今の世の中というものは、大変な時代でございます。8月に突如出たアメリカのサブプライムローンの問題。融資受けられない人が受けられた融資が、アメリカからヨーロッパに波及し、日本の株が下がった。
これを経済学者・経済アナリストが事前に予測していたか?知る限り予測はできなかった。二人いらっしゃいまして大和証券の野間口さんは、サブプライムローンの残高が1割くらいだからたいしたことないと言っていた。日本総研の湯元さんも同じようなことをいっている。この湯元さんは今度の福田内閣で内閣府の審議官・政策担当に就任、日本に優秀とされているアナリストです。信用できませんね。
経済の予測は信用できない。天気予報は3日狂うと気象庁にクレームの電話が来るが、経済予測は間違っても絶対訴えられません。

天気予報は過去の気象情報を蓄積することにより、かなりの精度で当たる。経済予測がどうして狂うかというと人間が関与しているからです。気まぐれな人間の集大成が経済になるわけですから、当たりっこないです。たまに当たっても偶然です。でも偶然の気まぐれが世中を動かしていく。正体不明の巨大「ぬえ」が世の中です。
しかし我々はその中で生きていかなくてはならない。そこにターニングポイントがあります。経済が、社会がどうなろうと、一人一人が生きていかなくてはならない。そこに我々の生き方の研究課題がある。サブプライムローンが発生しても自分はしっかりしなければならない。そのためには勉強しなくてはならない。
鉄舟は激動の時代に、行動した原点がぶれなかった人物。自分がぶれないために今この時代に指針として、鉄舟の行動を探りながら、鉄舟から学ぶ。武士道精神の奥にある、ぶれないものを解明していきたいと毎月鉄舟研究会を開催している。

1.山岡鉄舟とは  
 天保7年 (1836)生れる 父は旗本六百石 小野朝右衛門
 天保は享保・天明と並ぶ三大飢饉の一つ。お蔵奉行の家に生まれる。役職手当がついて八百石の家柄の良い旗本。10歳の時に父親が飛騨高山の代官に赴任した。当時全国63箇所の郡代があり、その中でも飛騨高山は大きいほうだった。1万石以上が大名だったので11万4000石の飛騨高山を任されたのですから、それは立派な侍だった。朝右衛門の代官就任は72歳。江戸時代は定年制がなく、実力主義、生涯現役です。79歳で亡くなるまで働いた。
  安政2年 (1855)20歳 山岡静山逝去 山岡英子と結婚山岡姓へ
当時でも20歳で結婚するのは早いと思う。町方の男性は自分で稼げるようになってから結婚するため結婚の平均的な年齢は20代半ば過ぎだった。のれん分けをして商売を始める人は30歳・40歳だった。武家の場合は跡継ぎなどもあるので平均年齢は出ない。
鉄舟は当時剣の修行で燃えていたし、遺産でお金も十分持っていたので好きなことに徹底できた。この時期結婚する気はなかったと思う。なぜ結婚したかは英子さんに惚れられたからです。
鉄舟は山岡静山に槍で負け、私淑していた。しかし1年も経たないうちに山岡静山が亡くなった。英子さんは養子婿をもらうとき鉄舟を望んだ。これが鉄舟の縁です。

  明治元年 (1868)33歳 西郷との会談にて江戸無血開城を決める
  明治5年 (1872)37歳 明治天皇の侍従となる
明治天皇は16歳で即位された。それまでは京都御所で女官に育てられた。明治時代になって諸外国の一流国は帝国主義。その君主と伍していかなければならない。西郷隆盛は明治天皇20歳のときに鉄舟に人間としての教育を託した。
何の教育をしたかは書かれていない。『明治天皇記』によると明治天皇が鉄舟と酒を飲んだ話が書いてある。明治天皇は大酒飲みだった。鉄舟とは気が合うから酒を一緒に飲んだのでしょう。鉄舟が人間教育をし、明治天皇はすばらしい君主になられた。

駿府会談の石碑が静岡市にあります。地元の原田さんという方が声を掛けて作られた。石碑には「ここは慶応4年3月9日東征軍参謀西郷隆盛と幕臣山岡鐡太郎の会見した松崎屋源兵衛宅跡でこれによって江戸が無血開城されたので明治維新史上最も重要な史跡であります」と記されている。
なぜ鉄舟は駿府に行かなければならなかったか。慶応4年の正月に薩長軍と幕府軍がぶつかった。薩長軍が勝ち、慶喜は江戸に逃げ帰ります。江戸城での大評定で小栗上野介は主戦論を唱える。慶喜は一旦主戦論をのみますが、その後、攻めてくる薩長軍に恭順の意を表して戦うべからずと恭順論を取ります。
慶喜は品川まで来ている薩長軍に恭順の意を伝えるため交渉人を送ります。交渉するときに知っている人か縁のある人に頼む。孝明天皇の妹・和宮である静寛院宮、島津家と関係のある天璋院篤姫(13代将軍家定の奥さん)、上野の輪王寺宮公現親王に頼むが交渉はうまくいかない。誰かいないかと考えて、護衛頭の高橋泥舟に相談する。高橋泥舟は山岡静山の弟、鉄舟の妻・英子さんのお兄さん。泥舟に交渉をと考えるが、しかし彼が慶喜の傍を離れては、抑える人がいない。そこで泥舟は義理の弟・鉄舟を推薦した。「縁」だった。     
 鉄舟は駿府に行って、話がついて江戸の無血開城がなされた。これは鉄舟のいくつかの業績の中のひとつです。

2.日本が海から迎えた国家危機
当時日本はどうだったか、世界史的に明治維新を考えたい。
今は空から危機が来るが、当時危機は海からでした。

①モンゴル襲来 文永の役(1274) 弘安の役(1281)
モンゴルは世界を制した。残されたのが日本。高麗軍を徴集して攻めてきた。どちらも風が吹いて助かった。海からの日本の国難1回目です。

②大航海時代  天文12年(1543)ポルトガル種子島
           天文18年(1549)ザビエル鹿児島
           天正15年(1587)秀吉バテレン追放
15~17世紀の大航海時代。コロンブスがインド洋の大陸に着いて、スペインとポルトガルが世界はたくさんあることに気づいてから争って船で世界に出始めた。しかし超大国はスペインとポルトガルは行く先々でつばぜり合いを始める。ローマ皇帝が調停に入り、協定を結んだ。地球を2つにして、大西洋の中央の子午線で線を引いて、片方はスペイン領でもう片方はポルトガル領とした。人が住んでいるのに勝手に決めた。これが大航海時代。トリデシャス条約です。
ポルトガル人が種子島に来た。日本では鉄砲伝来ですが、向こうからだと日本発見となる。
ザビエルはスペイン人です。キリスト教伝来に来たが、キリスト教と同時に来た南蛮渡来の文明品に目がくらむ。外国からの品を手に入れれば他の大名との戦いに勝てるのではないかと大名は考えた。大名からキリスト教にしていこうという戦略が採られた。大名がキリスト教になれば、その藩はキリスト教になる。キリスト教は広がっていきザビエルが来てから50年でキリスト教の人口は75万人になった。日本の人口1500万人のうちの3%です。脅威です。
キリスト教はどんなことをしたかというと、キリシタンに入ることを強制、神仏・お寺をどかしなさいと言い、多くの日本人を買い入れて奴隷として外国に連れて行った。50万人くらい連れていかれた。拉致です。豊臣秀吉はすぐに戻しなさいといったが返さないからバテレン禁止令を出した。キリスト教禁止令、バテレン追放令が鎖国に結びついた。

③明治維新   嘉永6年 (1853)ペリー来航
           安政1年 (1854)ペリー再来航
           慶応4年 (1868)鳥羽・伏見の戦い
ペリー来航よりも前に外国船は来航していたが、ペリーは追い返されないような策を持ってきた。ペリー来航15年間で日本は明治になった。この15年という期間を長いと考えるか。それとも短いと考えるか。
バブル後の修復は、1991年バブル崩壊から15年かかった。崩壊後の経済政策が誤りです。ベルリンの壁が壊れ共産主義がなくなり、安い労働力が世界に入り、バブルが崩壊。どこの国もバブルが崩壊した。どんどんお金を使えば良いという対策で日本は財政投入した。
明治維新は卵が割れた(ペリーが来航した)、撹拌された(国内政治の混乱)、そして固まった(幕府が鳥羽伏見の戦いで破れて、国内の中がひとつになった)。鎖国・開国・江戸幕府崩壊・新政府をたった15年でできたのは凄いこと。封建制度、鎖国の国がたった15年で変わった。
バブル崩壊後その修復に15年掛かっている。その傷をまだ負っている。今の政治は、我々も含めて問題です。

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「鉄舟を世に躍らせた運と縁」2/2 第4回全国フォーラム記録

3.南アフリカ・インドに見る海からの植民地化
  ① トリデシリャス条約 大西洋の真ん中を通る子午線で地球を二分
  ② インドのイギリス支配
  ③ 南アフリカのイギリス支配
薩長軍にイギリス、幕府軍にフランスがついた。フランス軍は幕府軍を教育して、函館まで行った。
明治4年、岩倉具視を団長として50名で外国を回った。プロシャでビスマルクに会った。強国・弱国がしのぎあい、相手の隙をうかがう状態で万国公法(世界の法律)、
欧州諸国との交わりは信用できるものではないということを知る。
慶喜がいち早く恭順の意思を示さなかったら日本は植民地か植民地の歴史を持った国になっていた。

3500年の歴史を持っているインドはイギリスから独立してたった60年です。ムガール帝国は大国だったが、国内だけみて政治をしており、海から侵略者が来ることを想像していなかった。インドは国が一つになっていなかった。上陸して民族同士、仲が悪いところに入り込み、武器を渡して内部対立させていくことが侵略の常套手段だった。

インドは独立するためにイギリス軍に抵抗する。日本は英米と戦争した。日本は、インドをイギリスの支配から救ってくれる存在じゃないかと、独立運動家のチャンドラ・ボースは日本を頼り、亡命してきた。
昨年の4月にカルカッタ(現在のコルカタ)に記念館チャンドラ・ボースの記念館が出来、“貴国はインド独立のために貢献してくれたことを感謝している”と日本に賞状が届いた。宛先は誰か。何と東条英機首相当てです。驚きますね。戦後62年、インドは日本に感謝しているのです。親日国です。
インドに行って、国立図書館にアポイントを取ったところ、館長にお会いでき、2時間くらい館長自ら館内を案内してくれた。日本の国会図書館に行って館長にアポイントを簡単に取れないでしょう。そのくらいインドは親日派です。

南アフリカにも行きました。アフリカもずっと長く欧米に占領されている。アフリカは暗黒の大陸と言い、文化文明がなかったようなことをいう。しかし人間の誕生はアフリカからです。アフリカには大変な文明がいっぱいありました。占領した人が消していって歴史を作った。
アフリカ・ジンバブエにビクトリアフォールズという名の滝がある。ナイアガラの滝、イグアスの滝と並ぶ三大瀑布です。ビクトリア女王の時代にリヴィングストンが発見したからビクトリアフォールズという名前がつけられた。そこには昔から人が住んでいて、滝は「雷鳴の轟く水煙」という意味の「モシ・オア・トウンヤ」という名前がもともとある。見にいくとその名の通り水煙の立ち上る滝である。
このように昔からある名前を消してイギリスの名前をつけている。部族同士の争いに乗じて入り込んで歴史を変えている。
いかに明治維新がうまくいったか、このことは高く評価しなければならない。

4.鉄舟の思想体系
優先順位を決めた宇宙と人間(安政5年・1858 23歳)

無名の下級武士だった鉄舟が、官軍の事実上の司令官であった西郷隆盛をなぜ説得できたのか、またなぜ鉄舟が交渉役に選ばれたのかを考えなくてはならない。
他にも剣の強い人は沢山居た。男谷精一郎、榊原鍵吉、千葉周作。
高橋泥舟が鉄舟を選んだのは、鉄舟の思想的な何かがあった。一国を救うための政治交渉に行ったのは、鉄舟の持っている何かです。

(クリックして拡大)

「宇宙と人間」の図は、鉄舟23歳のときに書いたもので、ペリー来航5年後、明治維新の10年前に書いている。鉄舟は外国に行っていない。勝海舟が咸臨丸でアメリカに行ったのは、この「宇宙と人間」の図が書かれた何年も後のこと。
書かれた当時は江戸幕府が日本を支配していた。鉄舟は旗本だから江戸幕府の部下である。それなのにこの図では江戸幕府を消している。民主主義です。
これをなぜ23歳の若者が書けたのか。鉄舟は肝心要のところで鋭いところを残している。鉄舟は書いた経緯や理由を記録に残していないから、私はこれを研究して皆さんに納得してもらうように説明しなければならない。

武士道という言葉があります。新渡戸稲造が1900年(明治33年)に『武士道』(BUSHIDO THE SOUL OF JAPAN)を出版。これから「武士道」が始まったという人がいるが、「武士道」は山岡鉄舟が言った。
1860年鉄舟25歳のときに『武士道』を残している。
「神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て其著しきを見る。鉄太郎(鉄舟)これを名付けて武士道と云ふ」
武・書、その裏に常に物を考える習慣を鉄舟は作っていた。

鉄舟は何も食べない日が月の半分あるくらい貧乏だった。下駄は片方しかない。着るものはボロボロだった。最初に生まれた子は栄養不良で亡くなってしまった。100俵二人扶持で1年間食べられない。泥舟も静山も江戸城に上がっていたから、役職禄米があったが鉄舟にはない。
そこで、鉄舟家族は何を食べていたかというと、家の周りを家庭菜園していた。絵図を見ると高橋家より1.5倍くらい敷地面積が広い。高橋家は140坪らしい。それの1.5台だと210坪。近くに住む与力の図面は250~320坪、禄高からいうと妥当な石高。
家庭菜園して作って食べたが足りないから周囲の草花を取り尽くした。鉄舟の家の近くに伝明寺、別名藤寺があった。家光が鷹狩りの帰り。藤があったので藤寺と言った。鉄舟の家は小石川5丁目で地下鉄茗荷谷駅からすぐ、名前の通り茗荷畑だった。豊かな自然が残っており、採り立てを食べていた。今私たちは採れたれ、焼きたて、無農薬を求めている。江戸時代は冷蔵庫がなかった。健康食品も使わない。豊かな食生活だった。

鉄舟は貧乏の中で、「宇宙と人間」を書いた。鉄舟は書家であり剣も立つ、書道教室、剣を教えることもできたはず、なのになぜ働かなかったのか。
「宇宙と人間」の図を見ると、天皇に仕えることを本気で考え、そのために行動しなければならない、自分自身を徹底的に磨かなくてはならない、と考えていたと思われる。貧乏だけれどアルバイト的なことはできない。普通ではなかった。優先順位が違った。

5.人間は才能と努力と運

人間は、縁だと思います。仮に英子さんが鉄舟に惚れなかったらどうなったでしょう。鉄舟が山岡家に入らなければ、600石の家柄・小野を捨てて100俵二人扶持の山岡家に入らなければ高橋泥舟と兄弟にならなかった。山岡家に入らなければ剣道家として名を残したかもしれない。しかし山岡家に入ったから高橋泥舟が慶喜に推薦し、鉄舟は駿府に行った。最初の縁は英子さんが鉄舟に惚れたからです。運です。
いくら才能のある人間でも、才能を磨いても、努力しても、報われるような運に出会わなければ認められません。しかし今度いつ運が来るか判らない。しかし運が来る、来たときに繋がるために磨かなくてはならない。
鉄舟は貧乏になっても思想や態度を見つめていた。結果、日本は植民地化されなかった。世界史的に見てもすごいこと。
これからも現代との関係において山岡鉄舟を研究していきたいと思っております。
以上

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2007年08月26日

第四回全国フォーラムのご案内

2007年10月6日(土)第四回山岡鉄舟全国フォーラム開催を開催します。

 山岡鉄舟の生き様を学び、現代に生きる私たちの指針とすべく研究を重ねてきましたこのフォーラムも、今回で四回目を迎えました。今年も全国から多くの皆様にお集まりいただきたく、ご案内申し上げます。

 今年は下記の両名を講師にお迎えします。

■講演その一:「人の出会い〜次郎長と鉄舟の幕末と明治維新」
 浜松医科大学名誉教授 高田 明和 氏

近著「人生に<定年>はない〜山岡鉄舟・清水次郎長に学ぶ(春秋社)」
forum07_teinen.JPG清水次郎長の直系の子孫であられる高田氏の、ご親族に語り継がれる鉄舟と次郎長の交流のエピソードなどを交えてのお話は、他では聞けない大変興味深いものです。次郎長が鉄舟から受けた、人生を変えるほどの影響とはどのようなものであったか。次郎長は鉄舟と出会ったことによって、後の人生をどのように過ごしたのか。
高田氏の発表は、鉄舟の生き様に影響を受けた次郎長がどう生きたかを、子孫であられる氏から直接お聞きできるまたとない機会です。氏が永年とりくんでおられる禅の側面から、また、氏のご専門である脳科学の分野から、新しい鉄舟像が語られるものと思います。


■講演その二:「鉄舟を世に躍らせた運と縁」
 山岡鉄舟研究家 山本 紀久雄 氏

鉄舟研究を月刊誌「ベルダ」に連載中
forum07_verdad.JPG『鉄舟を想うとき、世界の国々の興亡を思わざるをえない。
一国の歴史を辿れば、そこには必ず「国家の命運を左右した人物」と、その人が持つ「運」と、その人に纏う「縁」が絡みあって興亡が決している。日本も然りである。
江戸幕末時、駿府での山岡鉄舟と西郷隆盛の会談が成立していなければ・・・それを想うとき、鉄舟という一介の下級旗本が果した業績を褒め称える他のすべを知らない。
その鉄舟を、世に躍動させた「運」と「縁」とは何か・・・これを解き明かすことこそが、鉄舟が今の世の我々に遺してくれた「生きるための大いなる指針」に通じる道であり、全国フォーラムでそのことを皆様と一緒に学びたいと思います。(山本氏からのコメント)』

 今回のフォーラムが、高田・山本両氏の鉄舟研究発表を通じて、今をどう生きるかを感じ取っていただく場となれば幸いでございます。
 ご友人、お知り合いの方をお誘いの上、ご来場を心よりお待ち申し上げております。

【日 時】2007年10月6日(土) 
     14:00〜17:50(受付開始13:30〜)
【会 場】中央大学 駿河台記念館
     千代田区神田駿河台3-11-5
     TEL:03-3292-3111(記念館事務室)
【交 通】
・JR中央線・総武線「御茶ノ水」聖橋口 徒歩3分
・東京メトロ千代田線「新御茶ノ水」B1出口 徒歩3分
・東京メトロ丸ノ内線「御茶ノ水」 徒歩6分
クリックして拡大
【講 師】浜松医科大学名誉教授 高田明和 氏
     山岡鉄舟研究家    山本紀久雄氏
【参加費】2,500円
【プログラム】
14:00〜14:10 開会の挨拶
14:10〜16:00 高田明和氏講演並びに質疑応答
16:00〜16:15 休憩
16:15〜17:40 山本紀久雄氏講演並びに質疑応答
17:40〜17:50 閉会の挨拶
【懇親会】
18:15~19:45で、希望者による懇親会を予定しております。
会場:水の和座「山葵(わさび)」お茶の水店 TEL:03-3292-0008
わさび田をイメージした清流が店内を流れるとても涼やかなお店です。
forum07_wasabi01.JPG
会費:3,000円
※講師の方々も同席いたしますので是非ご参加ください。
【お申し込み】
例会参加フォームよりお申し込みください


→お申し込みはコチラ

【お問い合わせ】 
鉄舟・21・サロン(ぬりえ美術館内)荒川区町屋4-11-8
TEL:03-3892-5391 FAX:03-3892-5392

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2007年07月15日

全国フォーラム講師陣のご紹介

7月15日(日)・16日(祝)と、「国際ぬり絵シンポジウム」が行われました。
このシンポジウムに、当会代表の金子と、10月開催の全国フォーラムでご発表をいただく、高田先生、山本さんの両名が参加されました。
シンポジウム終了後の懇親会で少しお話しする機会がございましたので、全国フォーラムでの発表をあらためましてお願いしてまいりました。
nurie07071501.JPG
高田先生と山本さんは、このシンポジウムの運営委員をされておりまして、今回の全国フォーラムの講師依頼も、この奇縁から実現したのでした。
nurie07071502.JPG
わずかなご挨拶の時間でしたが、高田先生の軽妙なトークに魅了されてしまいました。
全国フォーラムは面白いですよ、マチガイありません!

投稿者 lefthand : 22:03 | コメント (0)

2007年01月12日

第三回山岡鉄舟全国フォーラム 記録

■北海道大学文学部教授 井上勝生氏

「幕末・開国のころの江戸」


明治維新という近代化が、どういう底流で成し遂げられたか、それを私がどう考えているかについてお話ししたい。

ペリー来航時の日本の応対について、記録の解明が進んで以前とイメージが随分変わっている。第一回の外交記録の資料をご紹介しながら、最近の研究者がどう評価しているか、ペリー側と幕府の外交交渉がわかる第一次資料である「日本遠征記」中心にご説明したい。

ペリーの艦隊と幕府が外交交渉は、軍事力に格段の差がある中で外交が行われる。ペリー側の蒸気軍艦は2400トンに対し、日本の千石船は100トンクラスで、大砲の性能も格段に違う。

6月3日にペリーが日本に来航し、6月6日(月)ペリーは阻止線を突破して江戸湾の内海に入ってくる。

この軍事的脅威を浦賀奉行所は番船40隻くらいで、阻止しようとしていた。
その時の記録された画ではアメリカの測量船は銃剣を突き出し、護衛の川越藩は槍を出しており、いつ軍事衝突が起きてもおかしくない一触即発の状態。

日本側の外交代表になったのは中島三郎助、香山榮左衛門の2名。
対話書(幕府と外国との外交交渉の記録書)によると、中島三郎助はペリー側に、浦賀から内に勝手に乗り入れることは禁じているので速やかに元に戻るよう伝えている。香山榮左衛門もペリー側に、内海に乗り入れるのは法に反していると抗議をする。

三郎助に対してペリー側は、“江戸湾の中を運行するだけだ”と答え、香山に対しては“他に仔細はない、幕府が書簡を受け取らないときは、江戸湾内海に乗り入れてやりたいようにやり、海底の測量をする”という人をくった返答をする。
当時の社会ではどちらに正当性があったかというと、近代、国際法に照らしても中島三郎助、香山榮左衛門の発言が正当。では領海は、商船には通行権はあるが、軍艦には通行権はない。入り口の幅が6海里の湾は内水なので、江戸湾は領土と同じ扱い。国際法上領土であるところへ臨戦態勢で入っているのは全くの違法行為。しかもペリーは不法行為をしていることを知っている。

軍事力の格段の差をわかっていながら、幕府はペリー艦隊の違法行為を伝えている。外交の場面で言うべきことを言っており、ペリー側は引き返している。

この後、幕府は老中、若年寄り、3奉行が合議をし、アメリカの国書を受け取る。アヘン戦争(1840-42年)で中国が敗北しており国書を受け取らざるを得ない状況ではあったが、この時はアメリカの行動を出来る限り抑えることが方針だった。

中島三郎助と香山栄三郎は与力(百石クラス・中級と下級の境くらい)で、当時百石クラスの武士に優秀な人材が集まり、幕府の実務、現場の実務を担い、支えていた。交渉力で言ったら、非常に緊迫した中で言うべきことをいう能力を持っており、評価に値する。

後に中島三郎助は幕府の軍制改革の指導者になって、幕府の要職につく。幕府に忠義を尽くし、函館戦争で戦い、息子2人と戦死する。
香山榮左衛門は、控えめな紳士でヨーロッパの知識もあり勉強していた。維新後は50万坪の茶園を経営して成功する。輸出に従事したのではないか。

日本の開国は、軍事力の差により開国したと否定的なイメージが一般的なものとして植えつけられたが、軍事力だけで押し通していたペリー外交に対し、外交交渉で言うべきことを言った日本の外交のほうが評価できる。


日本の庶民はペリー側にどういう接し方をしたのか。従来出来上がったイメージでは、幕府は鎖国している閉じた社会であり、対外的な知識がないので恐れを感じ、庶民に発生する感情は恐怖と警戒、あるいは恐怖とコンプレックスというもの。

国書を受け取った翌日に起きた国際社会の出会いのベースともいえるべき一つの事件を紹介する。
西暦で7月15日にペリー側の水兵と庶民が突然出会う。外国人を見ようと大勢の人が集まり、歓迎の意を表して水や美味しい桃をくれる住民も居たという。そのうち互いに友情が芽生えて、お礼に拳銃を撃って見せたら驚き喜んだ。水兵たちは日本人の親切な気質や国土の美しさに有頂天になった。絵のように美しい景観と、社交的な日本人でファンタジーのような世界が議会に提出した公の記録である日本遠征記に書かれている。

ペリーらが当時の金沢八景に入ったことが記録からわかる。夕照(せきしょう)、夕映えなどで有名な場所。

日本人からもらったものの記録に「梨」と「桃」の違いが見られる。桃であれば、7月中旬なので美味しく見事な桃があったと思われる。現在の「青い梨」は「幸水」だが、幸水の収穫は9月。神奈川県の農業技術センターに7月中旬に青い梨があったのか問い合わせた。

幸水は昭和35年ごろに導入した新種で、長十郎が一番遡れるが明治30年頃。
江戸時代は300種類の梨があったが、明治に入ってから近代化で、市場化して売れる品種に品種は整理された。
江戸後期につくられていたのは、ぎんまつ、おくろく、まつお、わせろくという4品種で、現存していない。ペリー側の水兵がもらった梨は「わせろく」で、6月下旬から収穫できる青い梨とのこと。

ヨーロッパでは博物学が発達していた。日本の本草学とリンネの分類学は違う。本草学の分類は、分け方が人間臭いと思ってしまう。そんな分類項目がある。リンネの分類学は、おしべ・めしべなどから分類している。

杉田は当時梅干の生産地で、梅の林が江戸名所図会に描かれている。
江戸湾の西海岸は実に美しく、梅の林が広がっており、欧米人が感嘆している。
今は、重化学工業の基地、シーサイドライン、三菱重工業、金沢工業団地、米軍石油貯蔵所ができ、景観が激変し面影がなくなってしまった。

近代化して成功はしたが、大変に美しかった江戸湾がなくなってしまった。江戸は変化朝顔ができて200種類以上の朝顔があるガーデニングが盛んな時代。
現在その当時の朝顔を再現しようとしているができないものもある。
梨・朝顔も含め、豊富な地域差があった江戸日本は、明治に中央集権となった結果なくしたものも多く、この失くした一面も忘れてはいけないこと。

また日本は、美味しく見事な桃や梨もあり、美しい景色もあった。日本人はものすごく社交的で物怖じしなく、親切。
嫌悪と警戒は文明開化以後で、西洋に遅れている、追いつこう、というコンプレックスから生まれてきている。
もともとは国際社会の出会いは、警戒がベースではない。肌の色や言語の違いから恐怖と考えるか、同じ人種同士でも違いはあるもの同じ人間というのが原点なのか。同じ民族の中でも肌の色や言語の違いなど隔たりがある。国際的な違いを恐怖と捉えず、親和的な気持ちを持つことをベースに国際関係を考えたほうがいい。
最近の研究(比較文化・歴史学)に寄れば、ナショナリズムや民族は実は近代になって創られたものである、と言われている。

和船はよく漂流した。太平洋で遭難するとアメリカ西海岸、北で遭難するとシベリアに漂着し、南で遭難すると東南アジアに着く。若い者たちは、帰国せずその国に住んだものも多かった。

平凡社ライブラリー 『逝きし世の面影』 渡辺 京二(在野の研究者)
幕末、日本人と開国した欧米人との出会いが従来のイメージと異なることを書いている。
もともとの日本人が持っていた、江戸社会が大事にしていた夕暮れの雪を愛でるような美意識は我々がなくした。

秋におりてくる落雁、梅園、大田区の梅屋敷は、江戸名所図会にも登場し、名残は残っている。武士も庶民も花を愛でる時代だった。

江戸では300種類の梨があり、変化朝顔があった。再現しようと試みているが、再現不可能な品種がある。現代は江戸時代と比べ進歩しているわけではない。すみわけが成熟し、発展を遂げた社会が江戸時代。
成熟しているとはいえない今、人類史から学ぶべきであろう。

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2006年12月23日

第三回山岡鉄舟全国フォーラム 記録

■山本紀久雄氏

「鉄舟という人物像」

 1853年から15年経った明治維新の時代についてお話します。鉄舟についてご説明申し上げますが、抹香臭い話しと思われると困るので、別の話しから。

小泉チルドレンが誕生したとき、初めて国会議員になった者たちを自民党は毎月1回教育した。どのように教育したかというと、職業が変わり、今後どういう気持ちで仕事をしなければならないかを『西郷南洲遺訓』より語った。

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。この仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。」これは西郷隆盛が鉄舟と会ったときに、こういう人間がいたのか!と驚いて書いた言葉。

小泉チルドレンに、なってほしい人物像として挙がったのが山岡鉄舟だった。鉄舟が今や最先端の人物であることを言いたかった。

鉄舟は、西郷隆盛から、江戸無血開城を決めた駿府での交渉を評価された。徳川家をつぶし、慶喜を殺すと戦争を仕掛けた西郷側に対し、幕府側の要求は、徳川家を残し、慶喜を生かしたい。
互いの要求の交渉に鉄舟が、西郷隆盛が出てきた。損得勘定と人間の感情がぶつかり合う交渉の中、人間の波動によって乗り越えられるかが交渉力。
西郷隆盛は鉄舟の言うことに納得して、徳川家を残したということは、感情が損得勘定を乗り越えたということ。

百俵二人扶持の下級武士である鉄舟が、将軍徳川慶喜から交渉の命令を受けた。当時、慶喜は江戸城を出ていた。大将が城を出ることは降服をしている意味だが、官軍は品川まで攻めて来ていた。官軍が居る中で、どのように交渉の地である駿府に入って行ったのか。鉄舟を助けた人物について、若杉氏からしていただきます。


【若杉昌敬氏より】
静岡県由比に薩埵峠というところがあり、そこに山岡鉄舟を官軍から助けた藤屋望嶽亭があり、現在松永さだよさんという方が守っている。

望嶽亭20代当主の松永七郎平と妻・かくさんが、鉄舟を匿い漁師の格好で逃がした。そのときに鉄舟が置いていったピストルというものが現存している。
フランス製の10連式ピストルで、フランスの鑑定書もある。

人斬り以蔵が持っていたピストルが坂本竜馬記念館に飾ってあった。勝海舟が持っていて、海舟からもらったと思われるフランス製のピストル。

望嶽亭にあるピストルは、ナポレオン三世からフランス公使ロッシュを経て徳川慶喜の手にわたった。謹慎している慶喜からの使者である証として鉄舟に渡されたのだろう。フランスの鑑定書があり、10連式、製造年1850年~1860年。作られた国がフランス。推定価格2000フラン。28センチ、900グラム。日銀で確認したところ明治34年の相場が1フラン0.394円。物価は当時から1418倍になっている。現在は111万7000円くらいの値段。
残っていた弾は危ないので、海に捨ててしまったそうだ。

 *  *  *  *  *  *  *  *   * (若杉氏の話、終了)

駿府に行って、西郷隆盛を説得したので、江戸の総攻撃はなく、無事明治維新が開いた。鉄舟は明治維新の基礎を作った人である。

剣の達人である鉄舟がピストルを持つ、ということに疑問を感じた。駿府で西郷隆盛にあったときは持っていなかった。
坂本竜馬もピストルを持っており、伏見の料亭で役人に囲まれたとき、刀とピストルで応戦した。鉄舟のピストルは竜馬のような護身用と同じピストルではないと思う。
薩長軍は徳川家を潰そうと思っていたが、慶喜が一瞬早く、政治権力を大政奉還してしまった。薩長軍は攻める理由がなくなってしまったので、戦略の建て直し考えていた。志士たちは、各地に飛ぶが、京都に岩倉具視を残した。そのとき大久保利通が京に残る岩倉具視に「動揺するな」の意味でピストルを渡した。
鉄舟の持つピストルは、慶喜が私の身代わりとして持って行ってほしいという意味で渡したピストルであると解釈した。
1. 幕末三舟が共通に目指したもの
幕末三舟=勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟
頭山満さんが『幕末三舟伝』という本を書いている。
勝海舟は軍艦、政治の中心、泥舟は槍の泥舟で有名。鉄舟は駿府に行くまで誰も知らなかった。

ロシアとの戦争に勝ち、日本を振り返ったときに、今一度困難を乗り切ったことを考えたときに反省とも確認とも思えるように研究をはじめた。
昭和3年、『戊辰物語』で三舟のことがかかれ、昭和5年に『幕末三舟伝』が書かれた。3人は何をしたかというと、徳川幕府は戦わないようにしようと言った。権力は持たず、自らの考え方を活動したこと。したがって、天皇を中心にした日本を作る意識だけだった。

フセイン政権が倒されたイラクは今、内戦状態。三舟が活躍しなかったらイラクのような危険がこの日本にもあったかもしれない。


2. 鉄舟を歴史の舞台に登場させたのは海舟か、泥舟か

アメリカが来航して、日本は外国から価値観の変更を余儀なくされた。
勝海舟、高橋泥舟のどちらが慶喜に推薦したか意見が分かれている。勝海舟と鉄舟は一度も会ったことがなかった。当時鉄舟は暴れん坊で、海舟を殺しにくるのではないか、と警戒されていた。警戒している人間を慶喜に推薦するはずがないことから海舟説には無理がある。

泥舟は慶喜の護衛頭であり、槍を持って護衛していた。泥舟の出身は、山岡家で、山岡家には兄が居たので、40俵の高橋家に養子に行った。泥舟は40俵でありながら破格の出世をした。
当時の組織は足高、有能は人間を引き上げよう、地位についたら、○○石という給料が役についている間にもらえる。
高橋泥舟は、槍と人格に優れており、慶喜が信頼していた泥舟が駿府への交渉役に鉄舟を推薦した。

3. 海舟に発した「臨機応変」

官軍が充満している中どうするか?と海舟に聞かれて、鉄舟は臨機応変にやると言った。鉄舟の言う「臨機応変」は、いいかげんな意味の「適当」ではない。
普通の人は前から計画するだろうが、それは網を張って鳥を取るようなもので、相手は用意しているので捕まる。作戦計画がないまま物事をやる、計画なくてもできる人間であるべきといっている。
33歳のときの発言だが、研究すると23歳のときに「心胆練磨之事」というメモ書きを残している。庭の草を食べつくすほどの貧乏の中でも、考えをメモし、それを紙に整理していた。その整理した中に、本当に肝が据わっているということは、変化に応じ決意してからやることはたいしたことではない。常に生きていることと死との間に、自分の思念を会得する。生と死は一つに帰着する、そのために修行していくと23歳のときに文章にしている。

その結果、勝海舟から訊かれたときに臨機応変にやると答えた。


4. 明治天皇の扶育係り

明治天皇は15歳で即位された。それまでは京都御所奥深く女官に囲まれて過ごされていた。外国はロシア帝国、イギリス帝国、フランスはナポレオン三世、プロイセンドイツなど植民地を狙う大国があった。少年明治天皇にはしっかりしていただかないと日本国は危ない。明治天皇を教育するための学問の先生も多数居た。しかし腹がなければ英語ができても仕方ない。西郷隆盛が鉄舟の教育係りになってほしい、と鉄舟に頼んだ。

明治天皇20歳から30歳までの10年間、剣・禅・書の達人鉄舟はどのように教育したのか。明治天皇とお酒を飲んで、そのときに鉄舟が語ることばが明治天皇に染み込んで行ったのではないか。

5. 武士道完成までの系譜

「宇宙と人間」
安政5年、「宇宙」という言葉を武士が思いつくだろうか。図では天皇の下の公家・武士・僧侶・学者・農工商の層が同列で並んでいる。
天皇・幕府が居て、幕府の下に大名が居る封建社会の時代に、天皇の下の層は、全員公平である、と描いている。外国にも行ったことがないのに、民主主義的根幹思想を持っている。

15歳のときに「修身二十則」
23歳のときに「心胆練磨之事」「宇宙と人間」
24歳のときに「武士道」

明治天皇の写真(絵)を見比べると、素晴らしい人物に成長している。鉄舟が明治天皇を素晴らしい人物に育てた。

新渡戸稲造が『武士道』という本で、日本人の持っている精神を紹介した。誤解されないように英文で発表し、それは日本語に訳された。新渡戸稲造は侍ではない。鉄舟は侍。近々新渡戸稲造と鉄舟の武士道の違いを表にしてお渡したい。

泥舟は明治維新を機に、官職を断り世に出なかった。江戸時代まったく無名だった鉄舟は、明治維新を機に世に出てきた。

山岡鉄舟の武士道についてお伝えしていきたい。

一般的に考えられている考え方には3つのノウハウがあり、プラス思考、夢を明確にしてイメージする、ギブアップしないこと。

そういう手段や方法を超えたところに鉄舟が居た。

世界は矛盾である、普通はその矛盾をあきらめる。社会の矛盾を飲み込むのではなく、突き抜ける、矛盾に入り向こう側に行く。

鉄舟は我々とは別の境地に立っている。どうしてその境地に成れたかという解明はまだまだ続く。この研究成果を来年もお話したい。

来年は山岡鉄舟の武士道を世界に発表していきたいと思っている。

以上

投稿者 staff : 12:05 | コメント (0)

2006年12月11日

第三回山岡鉄舟全国フォーラム 盛会の内に終了

12月10日(日)如水会館にて開催の、山岡鉄舟全国フォーラムは、70名近い参加者を迎え、熱心な質問も飛び交い、盛会のうちに無事終了いたしました。
来年は、10月6日(土)、7日(日)のいずれかに第四回山岡鉄舟全国フォーラムを開催する予定です。来年もご参加をお待ちしています。 

幕末・維新史では当代随一の北海道大学文学部の井上勝生教授による、「幕末・開国の頃の江戸」についての講演
研究者ならではの、歴史の史実の実証例を挙げていただきならが、当時の江戸や人々が物怖じせず、歓待するようにペリーらを迎えていたこと、またそのころの浦賀の景色の美しさにペリー一行が感嘆したことなどを講演していただきました。


今回も70名近い参加者の方が熱心に講演を聞いてくださいました。


若杉さんによる、藤屋望嶽亭に保存されている鉄舟のピストルの講演


山本鉄舟研究家の山本紀久雄氏の講演
鉄舟の人物の凄さは、どのようなことからそうなれたのかという講演をしながら、現在の海外資金は、幕末の黒船にたとえるなど、いつもながらの時流の話を加えながら、講演していただきました。


若杉さんのご発声で、懇親会を開始いたしました。どのテーブルも和やかに歓談されていました。

投稿者 Master : 19:08 | コメント (0)

2005年10月22日

フォーラム参加者の声

■参加者の声
講演会は好評でした。参加者の声をアンケートより一部ご紹介します。

■それぞれの専門家のお話なのでとても奥が深く、基本的考え方や方法から テーマの詳細な見解までのお話で、本には書かれていないような内容は貴重な 機会でした。各参加者も鉄舟についての知識・造詣の深い方ばかりなので質問も参考になりました。
(50代・男性)
■今まで知らなかった事のお話が聞けて幸いでした。(70代・男性)
■今回も大変充実した内容で勉強になりました。先生方の資料も大変助かります。 時間が足りないのが残念でした。大変解りやすく勉強になりました。(50代・女性)
■鉄舟の書と次郎長宛のカナ書きの心遣いに感心しました高橋先生の奥深い知識に歴史の面白さを再認識しました。同時に山本さんの研究の幅広さにも驚嘆いたしました。
(60代・男性)
■三講演各々ベースとなる切り口が違い、とても勉強になりました。(50代・女性)

事務局より
第二回山岡鉄舟全国フォーラムにご参加いただきまして、大変ありがとうございました。鉄舟・21・サロンでは、鉄舟研究と現代の今に生きるということを主眼に、歴史的事実の確認だけでなく、それが現代にどのように関係して、生かしていったらよいのかという視点で研究を進めておりますが、今回国立歴史民俗博物館の高橋名誉教授のお話からも、歴史家はそのような観点で歴史を研究しているのではないかと思いました。これからも継続して参りますので、よろしくご支援をお願いいたします。

投稿者 Master : 16:03 | コメント (0)

山本紀久雄氏「山岡鉄舟を再認識する」を語る(2)

第二回山岡鉄舟全国フォーラム2005記録

1、駿府、松崎屋源兵衛宅での西郷との会見、その真の意味
レジュメの1番の西郷との会見というのは、資料だけで理解していいのかと疑問を感じる。慶喜が恭順の意を示して、自分の守る城である江戸城を出て降伏した。その降伏した意思に対して、薩長は許さず、品川まで攻めて来てしまった。交渉したが、ぜんぜんらちがあかない。鉄舟は慶喜から勅命を受けて駿府に行った。
薩長側からは5つの条件があった。1,江戸城を明け渡しなさい。2,江戸城にいる人間も 3,兵器も 4,軍艦も引き渡しなさい。5,慶喜を備前藩(岡山)に預けなさい。備前藩は官軍に寝返った藩であり、慶喜を敵方に渡したら、命をどうされるかわからないでしょう。5つ目の条件、慶喜だけは絶対に渡せないと鉄舟は必死に説得した。西郷に対して、説得最大の論理は、「あなたの藩主島津公にたとえてみてください。もし島津公だったら、差し出しますか?」と。

西郷を研究すると、当時の藩主は、島津忠義で、その父は久光。久光は3人兄弟の三男であり、一番上は名君誉れ高い斉彬。
斉彬は正室から生まれたが、久光は町家生まれのお由羅という側女から生まれた。父親が、甚だしく久光を可愛がったため、お由羅は、久光を殿様にできないかと、お家騒動が始まる。このことは『南国太平記』(直木三十五)に書かれている。斉彬の子供全部殺すため、調伏した。本当に斉彬の子供が死んでいってしまう。斉彬も突如おなかを壊して死ぬ直前に、久光には譲らない、お前の息子の忠義に譲る、といった。

西郷は、斉彬を暗殺したのは久光ではないか?という疑いを持っていたので、忠義の父である島津久光、この久光が実質の薩摩藩を仕切っていたのであるが、その久光とはお互い犬猿の中。西郷は2回島流しにあっている。
1回目、安政の大獄で身が危険になった清水寺・成就院の住職月照(薩摩と朝廷の橋渡しをしていた)と体を縛り上げて海に飛び込み自殺を図った。月照は亡くなって、西郷は罰として奄美大島に流された。
2回目は久光の命に従わなかったため沖永良部島に流された。最初、徳之島であったが、そこでは厳しくないという理由で沖永良部島になった。その沖永良部島で西郷が生活していた場所を見てきた。それは酷い環境だった。海岸淵にあり、屋根はあるが、壁がない。周りを仕切ってあるだけで、大型台風がきたら、体が持たない。見かねた村長の判断で島の中に移動させ、ようやく命が助かったという経緯がある。

人間というのは感情ですから、西郷と言えども、鉄舟の説得は理論的には分かっても、それだけでは「慶喜を助ける」というセリフは出ないでしょう。
鉄舟の論理だけではなく、何か別のところで西郷の心が動いたのだと思います。

西郷は、求道の精神を持っていたことを、奄美大島の生活態度から類推する。
島に流され、島の子供に教育した。「世の中で一番大事なことは何か?」と西郷は子供に尋ねる。「一番大事なことは物を欲しないこと。一つのお菓子があったとして、兄は妹、妹は親に譲る。欲しがらない気持ち、譲る気持ちが輪を作る」と説いた。そういう人物ですから、全てを捨てて自分に向かってくる人間に感動する。鉄舟の慶喜のことを論理立てて言う姿勢と同時に、体全体から出る「慶喜を助けたい!」という気持ちに打たれたと思う。

西郷は鉄舟をみた瞬間に自分と同じ捨て去る精神を持っていると感じた。
鉄舟は石坂周造が何回失敗しても助ける。西郷が理想としている人間像が鉄舟だった。鉄舟以外の人間が西郷に対面しなかったら、駿府の会合は成功しなかった。

2、駿府に鉄舟がたどりついた三つの道程
駿府の松崎屋源兵衛宅に鉄舟が尋ねた道程には3つの説がある。
①駿府まで益満休之助が一緒だった。
同行した益満休之助は薩摩人。薩摩言葉で、通行手形もあったので、たちどころに問題なく駿府についたというが、東海道に官軍が充満しており、駿府までの距離は長いのに、問題なくつくでしょうか?
②益満休之助は箱根で病気のため脱落し、駿府に行かず
益満休之助は鉄舟と会う3日前(12月25日〜3月3日まで)牢屋に居た。運動もしていないのに、鉄舟の早足で走らされて、病気して駿府に行かなかった。
③益満休之助が回復し駿府で再開した
益満休之助は途中で休んで、最終的には駿府で再開した。

いろんな説があるが、2と3かと思う。3の場合は、鉄舟が西郷と駿府で会合したときに益満がいたとは書いていないので疑問が残る。

海舟は「山岡鉄舟の武士道」の中で、松崎屋源兵衛宅で西郷と会見後、益満休之助も鉄舟と一緒に出発したと書いてある。海舟の言葉を信用すれば益満休之助は松崎屋源兵衛宅いたことになる。
しかし、海舟はいい加減なところがあり、頻繁に言葉が変わる。一番肝心要の3月13日江戸無血開城、最終決着の14日についても、13日は高輪の薩摩邸。14日同所にて、とある。実際は芝・田町の薩摩蔵屋敷として通説で認められている。日記でも書き違える。わざとの場合もあるが。正確に書けない場合もある。勝海舟のことを信用するしないではなく、駿府には益満休之助はこなかったと思う。

駿府には益満休之助は来ないとなると、鉄舟が一人で駿府まで行ったことになる。ここで、昔から言われていたが、一般的には公に認められていない説が急浮上する。

3、駿府に送り届けた人物が功績者 望嶽亭
『危機を救った、藤屋望嶽亭』という若杉さんがまとめた冊子がある。それを基に望嶽亭の女将、松永さだよさんにお会いし、お聞きし、望嶽亭の歴史を詳しく伺った。
望嶽亭は東海道の難所「薩?峠」の入り口にあり、慶応四年のときはかくさんが女将で、かくさんは33歳であり、そのときに官軍に追われて逃げてきた鉄舟を、かくさんが玄関戸を開けて助けた。そのお嫁さんが、けいさん・みきさん、けいさんは早くお亡くなりになりましたのでみきさんが後妻で、その子のお嫁さんがそのさんである。そのさんが18歳でお嫁にきましたが、そのとき73歳がお元気で直接にかくさんから鉄舟を助けた経緯を聞いている。
その、そのさんが55歳のときに、現在の女将のさだよさんが19歳で嫁にきた。さだよさんは、そのさんから望嶽亭の歴史を直接教えてもらった。137年前の話は古いようだけれど、鉄舟を助けたかくさんから、今のさだよさんまで、たった1人そのさんしか間に入っていない。
資料はないというが、資料というものはそもそも人間が作ったもの。人間を信用しないと、資料は成り立たない。さだよさんが話しているのは直近の話であり、この内容を信用すべきではないか。
鉄舟が江戸から駿府にいくプロセスで残っている資料は、望嶽亭のことしかないので、この資料で何か構築するしかないのではないでしょうか。間に一人しかいないので、大変重要な資料だと思う。

山岡鉄舟についてわからないことは沢山あるが、鉄舟の残した業績の真相をこれからも究明していけたらと思っている。

【事務局の感想】
今回も、幕末の時代になぜ外国船が来たかということで、「鯨油の時代」という新たな視点、発見を教えられました。また望嶽亭の松永さだよさんのお話も、時間を軸に検討してみるとそんなに時間が経っていないので、信憑性があるのではと、視点を変えればまだいろいろなことが発見できるという山本講師の話でしたので、これからも例会での研究発表が楽しみです。

投稿者 Master : 16:00 | コメント (0)

山本紀久雄氏「山岡鉄舟を再認識する」を語る(1)

第二回山岡鉄舟全国フォーラム2005 記録

―はじめに―
毎月第3水曜日18時30分に文化会館で例会をしております。毎回30分鉄舟の研究内容をお話している。『ベルダ』という雑誌に鉄舟の研究内容を掲載している。小川さんから写真のお話をいただきましたが、現物の大きい写真は、江戸東京博物館に展示してある。高橋先生から大変含蓄のある話をお伺いした。資料がない中から何とか調べ、点から立体にすべきだというお話。これからも鉄舟の魅力を研究していきたい。

何で、尊王攘夷の過激派の保守派だった鉄舟が海舟と一緒になって、江戸無血開城をやったか?人間ですから、何か時代・社会を受けて本人が変わる理由があった、それを解明しないと役に立たない。鉄舟を勉強するということは、現代に役立てることが大切。鉄舟は、日本生命保険の加入第一号者。明治時代に生命保険の制度ができ、現在の安田生命、共済五百名社、頼母子講みたいなものから始まり、今のように保険を広めた。鉄舟は現代の保険の制度と結びついていると考えると鉄舟が身近な存在になりませんか。

4、歴史とは今を学ぶこと・・・時代のあり方
レジュメの4番、鎖国していた江戸時代1853年に、ペリーが浦賀に4隻の船で日本へ来たことがきっかけとなり、日本が世界に開いていった。ペリーが来たことによって日本は大騒ぎになったというが、幕府はペリーが来ることが1年前にわかっていた。一年前から回答の予行演習を長崎出島でオランダ人に対して行っていた。徳川宗家18代当主の徳川恒孝さんがそのようにおっしゃっていた。「日本は人口3000万人で自給バランスは取れている。外国と貿易したら、自給バランスが壊れてしまう。ただ諸外国の船の水や薪が不足したら、何とかしましょう。」という内容で回答するはずだった。幕府からみたら、交易しなくてもやっていける、というのは筋が通っている。しかし、世界から見れば問題である。ハリスの通訳で暗殺されたヒュースケンは、「もし、日本の高い山に登ったら、たくさんの船がアメリカの旗を翻し、何千マイルも越えて、日本の岸まで鯨を取りに来ているのが見えるだろう。勇気があり、活動力にも欠けていない日本人が、なぜアメリカの岸まで行って、日本の旗を掲げようとしないのか。」

―鯨油の時代―
どうして当時、捕鯨船が日本近海にきたかというと、今は石油文明ですが、当時は、鯨の油の文明だった。欧米では本を読むときの灯りは鯨油。本の出版印刷にも、石鹸の製造にも鯨油は欠かせなかった。石鹸をつくるときに使うグリセリンにニトロを混ぜると、ニトログリセリン、爆薬ができる。ノーベルが巨万の富を気づいたのは鯨油文明だった。鯨を乱獲しており、北欧から、ノルウェー・スエーデンからも鯨を捕り尽くして、日本近海に来た。『風とともに去りぬ』にも登場するコルセットも鯨のひげで作った。
世界は鯨文明だったので、鯨を求めて欧米は遥々日本海に来るが、途中野菜も水も不足するが、日本の港に行けば、鎖国ですから、寄航した船は捕縛してしまう。今の時代、他国の人でも遭難したら助けるのは当たり前でしょう。
グローバルスタンダードに参画しなさいとペリーは言いに来た。

―歴史を学んでいまの日本を学んで行きたい―
明治維新の始まりは鳥羽伏見の戦いなんですね。大阪近辺に、幕府軍は1万5000人くらいいた。薩長は10分の1の1000~2000人の兵しかいなかった。
数で言ったら、幕府軍が多いのに、どうして幕府軍が負けたかというと幕府軍は時代の風に当たっていなかった。幕府軍は時代と社会に負けた。薩摩は当時最先端の強国イギリスと戦い結果は五分五分だった。勝ち負けよりも、欧米の軍事力を認め、学び、取り入れた。
長州は1864年、アメリカ・イギリス・フランス・オランダに攻められて、降伏した。長州の精神的な武力じゃだめだ!と切り替えて、欧米の科学技術を取り入れた。薩長は世界最先端の軍事力に触れていた。幕府は外交交渉ばかりで、知識としては欧米のことは知っていたが、実践経験はなかった。世界の流れを知らない軍隊と、実践ある軍隊とでは、後者が勝つのが事実。現代でもわれわれは時代を知っているようであるけれど、時代を肌で感じる体験が、時代の流れを体系的に知っておくことが、大切だと思う。

投稿者 Master : 15:55 | コメント (0)

小川福太郎氏ベアトの写真の秘密を語る

第二回山岡鉄舟全国フォーラム2005記録

ベアトの写真の秘密を見て気がついたことをお話いたします。
愛宕山は、大正14年3月22日に初めてラジオ放送が始まった日本の放送が生まれた場所。NHK放送博物館は、それまで展示していただけだったが、来館者に説明を行うことになり、私は平成8年からボランティアとして放送博物館にて来館者説明していた。
―1866年と今の景観が大きく変わらないのではないか―
配布したのはベアトの撮った写真で、この写真がNHK放送博物館に展示してあり、いつも眺めていた。勝海舟、西郷隆盛がご覧になったのはこの写真を撮った1868年より2年前ではないか。道路やお寺は変わっていない。眺めているうちに、そう景観は変わらないであろうと気がついた。右の森には専修寺、道を隔てた森の前辺りが慈恵医大、左側の道路は愛宕下通り、真ん中の写真の上が江戸湾(東京湾)、近くに見える森は浜離宮、左側、大きなお寺風の屋根は築地本願寺。

真ん中に大きな木があるが、関東大震災まであった新橋のおばけ銀杏。国道一号線のところに浅野内匠守終焉の地、自刃の碑があり、中村碁盤店にこの木が立っていた。もう一つの資料の住宅地図は凡例図、お寺は黒塗りになっている。
―牧野備前守の屋敷―
中央手前に写っている白と黒の壁は108メートルくらいある。建物の後ろの方にある牧野備前守の屋敷は敷地3500坪あったのでは?
手前のところの一見平屋のように見えるが、2階屋。真ん中の写真。左から右のほうに見ていくと、屋根の下に屋根がある。これを見ますと、江戸上屋敷・下屋敷というが、全部塀で囲ってあり、塀の中には下級武士(一般社員)が入っている。上屋敷は上司・奥方が住んでおり、その周りには下級の職の方が住んでいたのでしょう。それぞれにご覧にいただくと、櫓あります。自分の家に火を出さない火の用心・盗難防止を含めて、火の見やぐらの意味も持つ。
よくご覧になると真ん中の写真の左のほうに屋根の下に屋根がある。これは、屋根があって、その下の小さな屋根はスライドの屋根になって、煙だしの口。
ということは、そこは勝手口。現在の換気扇という生活状態だったろうと思う

―人が写っていない―、―しかし良く見ると―
写真には夜でもないのに、人が一人も写っていない。これは、当時は写真の露出時間が長いからです。シャッターを切って、映像が感じるまでの時間が長いので、動くものは写らない。
しかし、写真をよく見ると、4・5人移っている。たとえば写真の一番下。欄外に「幕末写真帖(愛宕山から見た江戸のパノラマ)」の「見」の字の3cmくらい上、お寺の庇の下の所に屋根を見上げている人の頭が写っています。愛宕下の真福寺のお坊さんでしょう。何を見ているかというと、真福寺の屋根の一番端の瓦が壊れている。真ん中の一番上の方に梯子が掛かっていて、屋根瓦を直している。その右の上に松の木が見えて、2つ森が見えて、その下あたりもそうだが、3人の人が見える。あらゆるところの屋根瓦が傷んでいるので、9月ごろの台風の後であろうと推測する。

住宅地図は、すべて名前の向きが違っている。写真の一番下中央より右側に道路があり、に反対側に松平正三郎と名がある。すべてこの住宅地図は正面玄関の方を向いて、名前が書かれているということも勉強になった。

住宅地図の真ん中の上にある「虎ノ御門」は、現在の虎ノ門です。
明治の跡、すべて壊して、京浜東北線になった。右のほうの黒くなっている。

新橋の駅の近く、お堀、地下が銀座線。ずいぶん様相が変わっているが、道路はあまり変わっていない。西郷と勝海舟がおのぼりになったあと、愛宕神社の45度の急な階段86段を上っていた。ここから、このような状況でこの雰囲気で、西郷・勝は、鉄舟の計らいでお会いになって、官軍で火を放つことはなかった。
写真を見て気がついたということで、ご披露させていただきました

【事務局の感想】
NHK放送博物館には、一度お邪魔して小川さんに解説をしていただいたことがありました。珍しいものが残されています。その中の一つが、今回解説していただいた
写真です。この発見も毎日見ている人でないと気が付かない事柄でしょう。
皆様もぜひ一度NHK放送博物館に足を運んでみられてはいかがでしょうか。

投稿者 Master : 15:52 | コメント (0)

高橋敏名誉教授「山岡鉄舟と清水次郎長」を語る(2)

第二回山岡鉄舟全国フォーラム2005 記録

3、鉄舟・次郎長・愚庵
天田愚庵は、安藤信正5万石の家臣甘田平太夫の子である。
戊辰戦争に加わり、官軍と戦うが、圧倒的な武力で負ける。天田愚庵は逃げるが、戻ったときには両親と妹が行方不明。親を探して東京に出てくるが、生活に窮した。
明治政府からみれば、賊軍ですから、世間は非常に冷たい。事実明治維新政府は会津を筆頭に賊軍だった人は登用しなかった。最初は神田のニコライ堂にロシア正教の寄宿舎に置いてもらった。ロシア正教に入信しなければならなかったが、愚庵は、儒学思想に凝り固まっているから、ニコライ堂から出る。明治は武士道が生きていた時代であり、小池詳敬という明治新政府に仕えている人の食客となる。そこで天田愚案は鉄舟に出会う。そのころの天田愚庵は明治新政府に反感を持っていて、きな臭い雰囲気を持った人物だった。社会も危険な状況が明治10年の西南戦争が終わるまで続く。そんな政情定かではない状況の中で、鉄舟は天田愚庵を心配して面倒を見る。鉄舟は何人も差別しない人で愚庵の話を聞いてやる。

清水次郎長も博徒であり、恐喝も人殺しもした、人前で褒め称えられる人ではない。その清水次郎長に対しても、鉄舟は実に温かい。鉄舟は人の長所に対して温かく評価して、悪いところは見ない。石坂周造には大変迷惑を蒙ったと思うが、苦楽をともにした腐れ縁なのだろうか、鉄舟は終生縁を切らず助けた。

4、書簡から見える鉄舟の人間性
鉄舟の温かみを書簡で説明したい。
―次郎長あての手紙はひらがな―
次郎長に宛てた手紙は、ほとんどひらがなで書かれている。次郎長はようやく読み書きが可能な程度で識字としてはたどたどしい。山岡鉄舟は配慮して、次郎長への手紙は文章も実に明快で、読みやすくしている。天田愚庵を呼びつけて、心配だから次郎長に愚庵を預かってくれと頼んでいる。

次郎長も鉄舟に迷惑をかける。鉄舟寺を建立するときに、伊豆の石を使い320円かかったが、支払えず、鉄舟の書600枚でお金の代わりにしている。
また、末広という旅館の落成祝いの記念に鉄舟の書を1008本扇子に書いてもらっている。鉄舟はこれを引き受けた。

鉄舟が次郎長を知ったきっかけの一つとして、9月18日の咸臨丸事件がある。咸臨丸が難破して清水港に入ったとき、官軍が降伏している乗組員を全部殺してしまった。収容しないため戦死者の死体が港内に浮いていたのを、次郎長が「死んでしまったら敵も味方もない、皆仏だ」と収容し、葬った。それを知って鉄舟が「お前はいい男だ!」と知り合ったという説と、3月9日、望嶽亭から駿府に入ったときに介在していたという説がある。

―石坂周造あての手紙は漢字―
石坂周造に宛てた手紙、清水次郎長に宛てた手紙とは違って漢字が多く、読みにくい。相手を区別して、手紙を書いて送っていた。石坂周造は、やることなすこと詐欺師的だったが、弁舌爽やかで人を本気にさせる才能は持っていた。石油開発にのめりこんで、資金を集めては破産してしまう。鉄舟は保証人になっていて、当時高給取りだったが、今で言う裁判所に財産を押さえられた。
鉄舟は金銭にわだかまりのない人で、信用した人は終生の友だったのでは?
博徒取り締まりで国家の施策として次郎長がつかまった。救援に当たった天田愚庵が『東海遊興伝』を出版したが、これはどうにもならなかった。次郎長の救援も、天田愚庵が次郎長の養子をやめて戻るときも鉄舟は関わっている。

鉄舟に対して残っている資料は点のようにしかないが、研究を進め、一点をつなげていくことにより、鉄舟の魅力は結実していくと思う。

【事務局の感想】
歴史の研究者からみても、鉄舟の記録がないということは研究の難しさがあるということがわかりました。鉄舟・21・サロンでは山本紀久雄氏という研究家がいるお蔭で、その難しい問題に正面から取り組んでいるサロンということで自信が持てます。
歴鉄舟の暖かい人柄ということを歴史研究家から発言していただくことには重みがあります。鉄舟の様々な業績の背景には、この鉄舟の人柄が大きく反映していることは間違いのないことでしょう。

投稿者 Master : 15:48 | コメント (0)

高橋敏名誉教授「山岡鉄舟と清水次郎長」を語る(1)

9月11日開催 
第二回山岡鉄舟全国フォーラム2005 記録


■「山岡鉄舟全国フォーラム2005」
日時:2005年9月11日(月)13:00~16:00
講演:国立歴史民俗博物館名誉教授 高橋敏氏
元NHK放送博物館館員 小川福太郎氏
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄氏
場所:学士会館
参加者:63名

■国立歴史民俗博物館名誉教授 高橋敏氏
「山岡鉄舟と清水次郎長」
―高橋先生の歴史に対する考え方―
鉄舟の専門家ではないですが、30年くらい歴史学の研究者をやっている。
歴史学の研究は公的な学問であり、江戸時代だと支配、マルキシズムの影響を受けて社会経済学的な側面からみた堅い歴史が教科書になっている。
長年歴史に携わってきて、歴史は正史だけを扱えばいいのかと疑問を感じた。
正史、稗史 (正史に対して民間が語り伝えたもの)と2種類あるが、どちらかというと文献に残らない、排除されたものを拾っていくのが歴史の研究には必要なのではないかと考える。アウトローであった国定忠治や清水次郎長が、時代と社会の中を、どう生きてきたかに興味を持ち、国の博物館では異例の内容だったが、歴史学としてどのように扱えるかを研究し、展示した。

―鉄舟研究のきっかけ―
次郎長については浪曲から、映画、芝居など、1000とくだらない著作・作品がある。岩波書店から『清水の次郎長と幕末維新-『東海遊侠伝』の世界-』を出版したが、これは、天田愚庵が次郎長の話を聞いてまとめた『東海遊侠伝』を資料とした研究書である。種本をアカデミックに研究することは今まで誰もやらなかったことだが、今後次郎長に対して、研究するときに基準になるであろう本である。この次郎長の研究の際に山岡鉄舟を研究した。

次郎長の養子にもなった天田愚庵を次郎長に紹介したのが山岡鉄舟である。
鉄舟について書かれている本はあるが、アカデミズムの研究者が本格的に
扱っていない。理由は、山岡鉄舟が書き残した、もしくは周辺の人が書き残した第一次資料がないからである。

―鉄舟研究の難しさゆえに魅力があり、新事実の可能性がある―
国定忠治には伝記や、取り締まり側の代官が書いた資料があるからアカデミックな研究書も書ける。
鉄舟は自らの栄誉とか名誉について語っていない。幕末に活躍した人は勲章を貰って、偉くなったつもりで銅像や伝記を作らせた人もいるが、鉄舟は、そういうことをしなかった人でしょう。そのことが研究を難しくしているが、逆に謎だから魅力がある。鉄舟の資料は点のようにしか存在しない。
歴史というのは、これら線を面にし、立体化していかなければならない。鉄舟21サロンで「現代と山岡鉄舟を結びつけて」とおっしゃっているように、時代がどのように変わろうとも、鉄舟は、その時代時代の中で見直され、読み直されていくのではないか。鉄舟は描くのが難しいといわれている人だが、逆に謎だから魅力があり、研究により新しい事実が発見される可能性がある。


1.幕臣山岡鉄太郎の周辺
―江戸時代には旗本・御家人株が売買できた―
江戸時代の初めから、系譜、家譜、由緒といい、大名・旗本・御家人と制度的に決められていくが、江戸時代の幕末には、旗本・御家人株の相場があり、お金があれば買うことができた。

勝海舟の出自は本来の勝家とは血縁関係はない。
徳川幕府は18世紀ごろから変容していくが、身分の移動は幕府が潰れていく証拠じゃないかというとそうでもない。徳川幕府の人材登用の一つの政策だったのではないかと考える。
かつては百姓・町人、豪商が侍になろうと御家人株・旗本株を買って、旗本や御家人に納まった。養子になれば問題ない。
元はといえば、海舟・鉄舟の旗本・御家人は幕府の支配体制でいえば下の方だが、
幕末に躍り出てくるのは、彼らの持っている能力や人間性である。

―鉄舟は小野道風の子孫―
「寛政重修諸家譜」という幕府が公認した系譜がある。山岡鉄太郎、元は小野鉄太郎。小野家を調べると、小野家は600石の旗本。旗本では中クラスで、将軍に御目見えできる。嘘か本当か分からないが、小野道風の子孫であると書かれていた。鉄舟が書家なのは、隔世遺伝ではないか?といえば面白い。

―鉄舟の生い立ち―
鉄舟の父、朝右衛門は、寛政2年に600石の旗本を継いだ。御蔵奉行にもなり、将軍からいただいた俸禄の600石分の知行所を支配している。
朝右衛門の場合は知行所から上がる年貢分の600石と役料として200俵・飛騨郡代のときは400俵もらっていた。この年貢の分と役についている役料分が1年間の収入になる。この御蔵奉行にしても、飛騨郡代でも、実入りが良いのではないか。『江戸の訴訟』(岩波新書)にも書いたが、江戸時代は賄賂と贈答の世界。御蔵奉行、飛騨郡代としても、結構な職であって、見入りがあったのではないかと思う。郡代役所に加え、出張陣屋が2つあり、手付け・手代だけで24人いた。小説を紐解くと能力のない人といわれているが、それなりに出世した人ではないか。鉄太郎は、朝右衛門の後妻の子供。朝右衛門のあとは長男が継ぐことになっていたので、鉄太郎は、部屋住みであった。

母の磯は3番目の奥さん。おそらく朝右衛門の知行所は常陸にあり、その知行所を差配していた地方の役人、塚原岩見の娘。塚原は朝右衛門の知行所を切り盛りしていた。磯とは年が離れていたが、朝右衛門は一生面倒見るからと証文を書き、結婚した。嘉永4年、鉄太郎16歳のときに母親が、翌年父親が亡くなる。乳飲み子も含めて弟が5人おり、父親は枕元で鉄太郎を呼んで、後のことを託したという。

磯は、身分的には百姓・町人の娘だが、金銭面の管理もしっかりした人だった。
600石の小野の家は腹違いのお兄さんに持っていかれる。産んだ子6人をどうにかしなきゃいけない。鉄太郎も含めた兄弟たちが養子にいくための持参金として3500両を子供に残した。旗本が養子にいくには数百両の持参金が必要であり、持参金としては決して多い数字ではないが準備していた。

小野家の年収は、概算でおよそ502両である。7年くらい飛騨郡代をやったとすれば3500両くらいにはなる。年収すべてを貯めることはできないから、3500両を残すことはすごい数字ではあるが、磯の管理と贈り物などで、実際にこの金額があった可能性はある。

山岡鉄舟は自分の剣術の先生山岡静山の妹、英子と結婚し、山岡家を継ぐ。高橋泥舟の家は、もっと家についている年収は低いが、足し高の役料がある。

2)江戸切絵図
復元江戸情報地図で朝右衛門の家を調べたところ、
現在の千代田区九段の衆議院議員宿舎付近で、1000坪あるかないかのお屋敷。
山岡鉄舟・高橋泥舟の家は隣同士といわれており、現在の小石川4丁目付近。
鉄舟の屋敷地所は横に曲がっていて、やや広め。道場も作ったというし、清川八郎の首を鉄舟が一時庭に埋めたという話しもある。100坪以上あるので、清川八郎の首も庭に埋めることができたでしょう。

2、幕臣の明治維新
今日お話しする、鉄舟・清水次郎長・天田愚庵、この人物は魅力的。明治維新で幕府は倒れ、明治新政府により、明治が始まった。
フランス革命のように非常にドラマチックなことは起きなかったが、一大変化が起きた。徳川家も生き延び、血を流すとか、悲劇的なことは避けた革命であった。明治維新の変革は日本型の改革として評価してよいと思う。

3人を結びつけるのは、明治維新に対して旧幕の負い目を感じている点。
幕臣でありながら明治新政府に出仕した勝海舟なども負い目を感じていたのではないか。

鉄舟を有名にしている明治元年3月9日、駿府に徳川慶喜の密使として、江戸を戦乱の大火から守った。幕臣でありながら、自らが徳川幕府にピリオドを打たせたキッカケを作った。そのことが鉄舟という人物に対して、大変暖かい人間性をつくったような気がする。鉄舟の周囲には天田愚庵、石坂周造、村上俊五郎など、鉄舟なくては生きられない人が食客としている。

しかし鉄舟は、当初尊皇攘夷運動に賭けていった清川八郎と一番近かった。
清川は自分の村の名で本当の姓は斉藤で、ゆたかな家の資金を投じて、尊王攘夷を組織していく。危険人物である清川八郎と繋がっていたが、鉄舟は旗本で屋敷を構えているので、江戸の治安を守る町奉行は手を出せない。鉄舟を捕らえるには、目付の許可が要る。旗本であったことで、幕府を否定する側の清川と組んでいても危なくなかった。

投稿者 Master : 15:40 | コメント (0)

2005年09月14日

高橋敏名誉教授「鉄舟と次郎長と愚庵」を熱く語った

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暖かい人柄と語る高橋敏氏    ベアト写真の秘密を語る小川福太郎氏
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歴史と現代を結びつけ講演山本紀久雄氏   今回は63名の参加者

国立歴史民俗博物館名誉教授高橋敏氏をお迎えした「第二回山岡鉄舟全国フォーラム2005」は、大好評で終了しました。
■「鉄舟と次郎長と愚庵」と題して講演された高橋敏氏の講演は、寛政重修諸家譜の系図にいわく、「山岡鉄舟は、小野道風の後なり」いう解説に会場もびっくり。鉄舟の能書家というのはこの道風の血筋によるものでしょうか。

また小野家の年収や、小野家の家や鉄舟と泥の家を江戸切絵地図で紹介してくださった。さらに鉄舟の次郎長によせるひらがなの手紙をあげて、余り字が読めない次郎長を考えて書いている。鉄舟の人柄が大変温かであったであろうと講演されました。また歴史家の高橋敏氏から見ても、鉄舟に関する文献が非常に少ないので、研究をするのは大変な苦労があるであろうと語られました。
高橋敏氏が出版した「清水の次郎長と幕末維新-『東海遊侠伝』の世界-」において、東海遊侠伝をアカデミックに出した初めての本であるので、これが基準になっていくものと話された。
この「清水の次郎長と幕末維新-『東海遊侠伝』の世界-」については、ぬりえ美術館の方に本を用意していますので、まだお持ちでない方はご連絡願います。1冊2940円(税込み)
■小川福太郎氏は、ベアトの江戸のパノラマ写真の解説をされているうちに発見されたことを発表されました。
■山本紀久雄氏は、幕末のペリー来訪のころ、なぜ外国の船が日本の沿岸に沢山きていたかの時代背景などから、歴史とは今を学ぶことという観点で講演をされました。

当日は、講演中大変な豪雨だったようですが、会場の熱気のために気が付かずに、講演会を楽しんだ一日でした。

11月には、秋の研究旅行が26日~27日に開催されます。今年は、静岡方面に西郷と鉄舟の会見場所の見学などを予定しています。詳細は、またブログでご案内いたします。

投稿者 Master : 22:49 | コメント (0)

2005年08月21日

山岡鉄舟と清水次郎長を高橋敏氏が講演

好評にて、第二弾のご案内を申し上げます。
第二回山岡鉄舟全国フォーラム2005は、歴史学者の高橋敏氏をお招きして、開催いたします。
歴史というものには、裏表があり、敗者の歴史は表舞台の正史から葬られてしまいがちです。この裏の歴史の稗史を掘り起し、正しい評価を加えてこそ、本当の歴史となるものです。
国立歴史民俗博物館の名誉教授である高橋敏氏は、この稗史に注目し、ご自分の足で歩いて、探し出し、今まで知られていない資料を発掘し、次々と近世、近代史の知られざる側面を発表されてきた方です。
今回の講演は、「山岡鉄舟と清水次郎長」をテーマに講演いただきます。

山岡鉄舟と清水次郎長との出会いには2説あると高橋敏氏は書かれています。
1)単身駿府に来た鉄舟が、薩?峠まで来たところで官軍の銃撃を受け、望嶽亭に隠れ
た鉄舟を、清水次郎長が助けて道案内をしたという説。
2)咸臨丸事件と幕府軍の戦死者の死骸を埋葬、供養した清水次郎長を、「そのようなことをするのはけしからん」と詰問する山岡鉄舟に、「敵も味方も死んだ後は同じ仏」という次郎長の返答に打たれた鉄舟が清水次郎長のよき理解者となったという説。

高橋敏氏は「清水次郎長と幕末維新―『東海遊侠伝』の世界―」や「博徒の幕末維新」等をお書きになっています。
その研究から講演していただく、「山岡鉄舟と清水次郎長」には、どのような歴史に現れていない事実が隠されているか、講演が待たれます。

*もう一人の講師は、お馴染み山岡鉄舟研究家の山本紀久雄氏です。今回も現場からの報告がなされることでしょう。そして常に今の時代との接点を見出して、鉄舟の生きた時代の鉄舟の考えを、今に見事に生かして紹介してくれることでしょう。

*また、今回特別ゲストとして、英国人「フェリックス・ベアト」が残した愛宕山から
一望した幕末の江戸パノラマ写真について研究しNHK放送博物館にて解説されていた
小川福太郎氏に登場いただき、まだ誰にも知られていないベアト写真の秘密を発表いただきますので、ご期待ください。

日時:平成17年9月11日(日) 13:00~16:00
会場:学士会館 (千代田区神田錦町3-28  03-3292-5936)
最寄駅:東京メトロ半蔵門線・都営三田線・都営新宿線神保町駅
A9番出口より徒歩1分
参加費:2500円
講師:高橋 敏氏 国立歴史民俗博物館名誉教授
山本 紀久雄氏 山岡鉄舟研究家
小川 福太郎氏 元NHK放送博物館館員

尚、当日会場にて、「清水次郎長と幕末維新―『東海遊侠伝』の世界―」を販売いたします。
(但し20冊限定)
スケジュール
13:00~13:10 開会の挨拶
13:10~14:30 高橋敏氏講演 並びに質疑応答
14:40~15:55 山本紀久雄氏・小川福太郎氏講演 並びに質疑応答
15:55~16:00 閉会の挨拶
ご参加をお待ちしています。
お申し込みはトップページの例会参加申込みからお願いいたします。

投稿者 Master : 18:59 | コメント (0)

2005年07月17日

国立歴史民俗博物館名誉教授の高橋敏氏による講演

第二回山岡鉄舟全国フォーラム2005(鉄舟全国大会)の開催ご案内をいたします
第一回山岡鉄舟全国フォーラム2004は、跡見学園女子大学学長の山崎一穎氏から学者ならではの幅広い視点で、山岡鉄舟が活躍した時代背景を講演いただき、加えて、藤屋・望嶽亭の松永さんと、静岡市の若杉さんにも登場いただき大変好評でした。

引き続きまして、今年も素晴らしい歴史学者をお迎えいたします。
国立歴史民俗博物館の名誉教授の高橋敏氏です。http://www.geocities.jp/ishin_1868/takahashi.htmを参照願います。
高橋敏氏が「無類の話上手であり、固い難しい内容をよくもこれだけ楽しく・面白くできるものだ」という紹介がなされています。
高橋敏氏は「清水次郎長と幕末維新—『東海遊侠伝』の世界—」や「博徒の幕末維新」等をお書きになり、フィールドワークを踏んで歴史を実体的に捉える数少ない学者です。
その視点から藤屋・望嶽亭も実態調査され、鉄舟が駿府に赴いたストーリーとして望嶽亭説を取り上げている、唯一の学者であります。今回の講演からどのような新しい発見が
できるか。今からワクワク・萌え萌えです

もう一人の講師は、お馴染み山岡鉄舟研究家の山本紀久雄氏です。
毎月の鉄舟・21・サロン例会で、常に今の時代との接点を見出して、新鮮な角度から鉄舟の活躍や業績を解説してくれています。
また、今回特別ゲストとして、英国人「フェリックス・ベアト」が残した愛宕山から一望した幕末の江戸パノラマ写真、これを研究しNHK放送博物館にて解説されていた小川福太郎氏に登場いただき、まだ誰も知られていないベアト写真の秘密を発表いただきます。これまたお楽しみの内容です。

■日時:平成17年9月11日(日)13:00〜16:00
■会場:学士会館 (千代田区神田錦町3−28 03−3292−5936)
■最寄駅:東京メトロ半蔵門線・都営三田線・都営新宿線神保町駅 A9番出口より徒歩1分
■参加費:2500円
■講師:高橋 敏氏 国立歴史民俗博物館名誉教授
    山本 紀久雄氏 山岡鉄舟研究家
    小川 福太郎氏 元NHK放送博物館館員
  
ご参考:高橋敏氏著作と略歴
「清水次郎長と幕末維新—『東海遊侠伝』の世界—」岩波書店 2940円
「博徒の幕末維新」ちくま新書 777円・「国定忠治」岩波新書 777円
「大原幽学と幕末村落社会—改心楼始末記」岩波書店 3045円
●1940年生まれ。1965年東京教育大学大学院文学研究科修士課程終了
文学博士。国立歴史民俗博物館名誉教授。専門は近代教育・社会史・アウトロー研究

スケジュール
13:00〜13:10 開会の挨拶
13:10〜14:30 高橋敏氏講演 並びに質疑応答
14:40〜15:55 山本紀久雄氏・小川福太郎氏講演 並びに質疑応答
15:55〜16:00 閉会の挨拶

鉄舟・21・サロンでは、山岡鉄舟の人格、哲学、業績を解明し、それらを現代に生かすべく研究を続けています。今の世の中を鉄舟を通して、考えるチャンスとしていただきたいと考えております。
関心のある方はどなたでも参加できます。
ぜひご来場いただきますようお願いいたします。

■問い合わせ・お申し込み
鉄舟・21.サロン(ぬりえ美術館内) 東京都荒川区町屋4−11−8
トップ画面のお問い合わせよりご連絡ください。
参加申し込み:HPトップ画面の「例会参加申し込み」より、お申し込み願います。

投稿者 Master : 12:03 | コメント (0)