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2008年05月03日

4月例会記録(2) 2/2

■山本紀久雄氏

「清河八郎の戦略転換」 2/2

7.千葉道場で鉄舟と出会う
清河八郎は22歳で千葉道場に入門して急速に剣が強くなりました。鉄舟は鬼鉄と言われるくらい剣が強い人です。鉄舟は清河の弁論と知識に惹きつけられました。もっと大事なことは、人間同士があった瞬間に気が合うのは、どちらかというと性格が似ている場合があります。


鉄舟はどういう性格ですか?子供時代に寺の鐘を坊さんが欲しければあげるぞといったら、鐘を下ろそうとしました。和尚さんは人に嘘を言ってはいけないということを教える人物なのに、鐘を私にくれると言ったではないか、と言い、和尚さんが鉄舟のお父さんを連れてきて許してやってほしいと言わせた大変な人物です。言い出したら聞かない人です。
また酒の席で、主が一日で成田までの140キロを往復すると言い、“俺はできる!”と鉄舟が言って、鉄舟は一人で往復してきました。
清河八郎も同じで、「ど不適」といわれるくらいに思ったことはやりぬく強い性格です。二人は親しくなりました。


8.安政六年(1859)、隣家からのもらい火で塾消失

9.同年六月お玉が池に塾開設
これも立派なものです。火事2回に地震に負けていません。ここであったのが、井伊大老の桜田門外の変です。これが清河の一生を決めました。世の中の事件です。アメリカの9.11と同じです。アメリカも変わりました。水道の調査に行ったら、源泉は見せないといわれ見学できません。
井伊大老が殺されたということは、時の最高権力者が路上で登城するときに水戸浪士が17名、薩摩藩士1名の18名に襲われたということは、世の中の時代が変わったこと、幕府の力が落ちたということを明らかにさせました。幕府の力が落ちたら政治が混乱します。
この大事件を清河はどう受け止めたかというと、清河はすぐに現場に行き、歩き、資料を集めました。情報収集したらどうしますか?編集です。整理して、田舎に送ってあげようと20枚に顛末を作りました。これが「霞ヶ関一条」です。

9.安政七年(1860)三月三日桜田門外の変を「霞ヶ関一条」に綴る
誰がやったか、誰が起こしたか、その日の朝水戸家の侍は脱藩届けを出したので浪士です。清河八郎が目を離せなくなったのは、水戸浪士一覧表です。見たら、最高が200石、ずっと見ていくと樵、神官に仕える仕官、鉄砲士、世が世なら、世に出ない人たちがいました。士分がずっと低い人がいました。大名が殺したとか、高級旗本とか、重臣ではありません。清河はこれを見て唸ってしまいました。この人たちが世の中を変えたのか、自分も山形の同じような、自分よりずっと貧しい人たちが日本のことを考えて起こしたということをみて、志を変えました。それまでは学者になることが志でしたが、倒幕に切り替えました。

10.戦略転換は水戸浪士の禄高一覧表から
戦略は小さいときから死ぬまで貫くのが良いです。白金の三ツ星レストラン「レストラン カンテサンス」に行きました。シェフが33歳で、挨拶に出てきてくれましたが、高校を出て、最初からフランス料理人になろうと思ったそうです。日本中のフランス料理を食べ歩いて一番おいしいと思ったところで弟子入りして、修行します。その間フランス語を勉強して、フランスに行き、フランス中のフランス料理を食べ歩いて、一番おいしいと思ったところで働かせてくださいと言って勉強します。そして日本に帰ってきて白金にお店を開きました。今でも一日16時間は厨房に居るそうです。戦略が統一しています。

清河八郎は戦略転換をしました。吉と出るか、凶と出るか、結果的に暗殺されました。鉄舟も清河と近しかったが、鉄舟、海舟、泥舟は畳の上で死にました。西郷は城山で自刃、大久保は紀尾井坂で暗殺されました。清河が暗殺されたのは、戦略転換が影響しました。鉄舟とはどう違うのかは次回です。

以上


【事務局の感想】
清河八郎の博識の背景が今回わかりました。没頭すること。没頭し哲学を身に付ける。「集めて、分けて、比べて、組み合わせて、選ぶ」ことが考えるということ。これを清河八郎はやってきた人物でした。この清河八郎と鉄舟の接点が、「性格」「気があう」という点で、この点は書物の勉学ではないので、非常に人間的ですが、これもまた定石ということではないでしょうか。
来月の清河八郎と鉄舟との違いが楽しみです。

投稿者 staff : 2008年05月03日 15:00

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