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2006年07月02日

6月例会記録(2)

6月例会記録(2)

■山本紀久雄氏
「鉄舟の高山子ども時代を考える」

矢澤さんから格調高いお話しがあったが、解る人と解らない人がいるでしょう。
初めて聞く話だとわかり易いが、聞いたことがないと難しいかもしれない。過去に経験がある人はわかる。それは今までの生きてきた環境による。
何を言いたいかというと、自分の中には生まれたときからの過去が入っている。
子どもの頃の体験は忘却の彼方かもしれないが、脳細胞が影響を受けており、無意識の感覚で入っている。“経験“が多い人は親に感謝しなくてはいけないし、そうではない人は親の教育が甘かったのかもしれない。

山岡鉄舟が大きな仕事ができたのは、子供時代の経験が深かったからであり、それは両親の影響でしょう。

今の子どもは、親が忙しいからテレビを見させている。1943年に自閉症がアメリカで始めて発見された。その12年前の1931年にアメリカで始めてTVが放映された。テレビの影響があるのではないか。
一方通行で体験が入ってくると受身の人間になってしまう。共通的概念だけ入ってくるので、個性や想像性が少なく可能性がある。テレビからの情報はある意味で良いようなものの、問題もあるでしょう。

テレビがなかった時代、子どもは親や地域、周囲からの影響を受けていた。

1.鉄舟の高山子ども時代の特徴的出来事
①寺子屋で学んだこと
②書に優れた才能を見出したこと
③寺の鐘にみる尋常でない頑張り精神
④お伊勢参りで学んだ時代の先端思想
⑤しかし、最も大きかったのは両親が相次いで亡くなったこと。今回は母磯からの影響を考えてみる

鉄太郎は飛騨高山の代官の子息であった。父親の小野朝右衛門は、代官ではなく、代官よりも石高の高い直轄地を任されている郡代。(62箇所の直轄地のうち10万石以上を郡代と言った。)郡代は非常に高い地位であり、本来なら家庭教師を呼んで、郡代の屋敷で勉強させるが、両親はあえて町人が教育する施設である寺子屋にいかせた。
“郡代の子息を町人風情と勉強させるのはいかがなものか?”そのような批判もあったでしょう。しかし普通の侍として勉強させるより、寺子屋で勉強させることにより、民主的な思想を植えついた。明治時代になってからも差別意識がなかったのは、この寺子屋で勉強したという子ども時代の経験に要因があったのではないかと推測される。

この集まりは鉄舟研究会であり、この説はあくまでも推測。研究は推測です。論理的に考えてそう思いませんか。

鉄舟は毎日書を500枚かいた。廃仏毀釈で損害のあった寺社も鉄舟の書で復活した。
鉄舟の書の才能を見出した人は高山時代に鉄太郎に教えてくれていた人である。
書を書き、その結果鉄太郎に書の才能があることが見出せたのは先生だが、先生を選んだ親も素晴らしい。

鉄舟の性格は、柔ではない。どんな性格だったか、尋常ではない精神だったことがわかるエピソードをお話しする。
鉄太郎が宗猷寺に遊びにきていたとき、鉄太郎が鐘楼の鐘を眺めていた。和尚が鉄太郎に“そんなに鐘が好きならあげるよ”と冗談を言った。鉄太郎は喜び、走って郡代の屋敷まで戻り(宗猷寺から屋敷までは大人の足で徒歩7分くらいでしょう)父親に“和尚さんがお寺の鐘をくれるって”と報告した。朝右衛門も冗談だとわかったが“そうかそうか”と言った。鉄太郎が郡代の人足を集めて寺の鐘を下ろそうとするので、和尚が冗談であることを伝えた。すると鉄太郎は和尚に“人には嘘を言ってはいけないと言ったでしょう!”と言った。
当時の和尚は教養ある人であり、地元の教育界の中心人物だった。
鉄太郎の言葉に二の句が告げなくなった和尚は朝右衛門のところへ行き、鉄太郎の説得を頼み、親と和尚の二人掛かりで鉄太郎を説得した。
この鉄太郎の尋常でない性格が江戸無血開城に結びつけた。

鉄太郎は元服のお祝いに兄とお伊勢参りの旅に出ている。旅先で会った2人の人物に刺激を受け、社会はどのように動いているかを知った。もし旅に出なければ、高山の美しい景色をみて、書と剣道にあけくれていたのではないか。

海外旅行をする人が増えているが、観光だけして帰ってくるのではいけない。
たとえばヨーロッパ旅行でも旅行会社がTAKECAREしてくれるので、旅行先で現地の人と話すとしたら、ホテルのフロントかおみやげ屋、レストランのスタッフとしか話さず、町の人と話さないでしょう。ホテルのフロントかおみやげ屋、レストランのスタッフはサービス業の人で、その方の言動に文句つけたり褒めたりして、その国をみたような気になっていませんか。そのサービス業の人たちは、旅行先の国の人ではないことが多い。
東欧諸国の人がパリでもドイツでもサービス業に従事している。外国に行って、外国人と話して、対応を受けて、その国の人と話したような気になって、帰ってくる。

鉄太郎のお伊勢参りは外国旅行にいったようなもの。
幕府を倒そうと思っている本人である藤本鉄石と話し、林子平著『海国兵談』という書物を写した。
外国の船が日本中に来ていることなど外国事情が情報として鉄太郎の知識になった。
伊勢神宮の宮司から日本の国体の説明を受けた。当事将軍のほかに、天皇がいることを知っていたのはほんの一部の人たちであった。鉄舟が知っていたのは、国学思想を勉強していたから。
710年は平城京が開かれた年、それからずっと天皇、綿々と続いている。
世界中みて、これだけ長く続いている国はない。中国4000年というが王朝が変わっている。

鉄太郎が16歳のときに、相次いで両親が亡くなった。父親がなくなるということは経済的な支柱がなくなること。

朝右衛門は71歳のときにお蔵奉行から飛騨代官に昇進した人。当事は定年制がない人物本位主義だったようですね。江戸時代は素晴らしい時代だったということを学びたいと思っている。今年12月の鉄舟全国大会には、江戸時代の魅力を語ってくださる北海道大学の井上勝生先生をお呼びしたいと思っている。

お父さんが79歳でなくなったとき、子供は2歳だった。
お母さんは若かったが、突然死で、言葉も交わさずになくなってしまった。

2.母磯から受けた影響・・・孝経(孔子)の忠孝
・忠孝とは「孝を以って君に事(つか)うれば、則ち忠なり」
・磯の解釈「忠も孝も人間の心の柱、土台石。人間として守りつとめる道。忠とは、君に正しく命がけで仕えること。孝とは、子として親を喜ばすよう正しく仕えること」
・鉄舟の反問「では母上は、上様に、父上に、どのような忠孝を実践されているのですか」

お母さんは鉄太郎に忠孝について詳しく教えている。鉄太郎は母親に素直に質問した。親は子供に素直な質問をされたと困ってしまう。そのとき母親の磯さんは、絶句した。鉄太郎に教えておきながら自ら実行していないことに気がつき、鉄太郎に謝った。

江戸時代の女性を調べるのは結構難しい。男性の記録はあるが、女性の記録はない。
女性を中心にした小説もない。磯さんみたいな女性が多数居たかも解らない。

いくつか本を調べると、才女の記録もある。才女の中には、只野真葛(ただのまくず)さんという方がおり、『むかしばなし』という小説を書いている。才女であることは、次の発言からわかる。
たとえば「雲助と呼ばれる者の賃金を時間性にしなさい。足早く、力あるものには賃金を沢山払いなさい。能力給にしなさい。西洋人は肉食だから短命だが、脳を使うこと学問・技術において、菜食主義の日本人には及ばない。」などと述べている。彼女の優秀さには滝沢馬琴も驚いている。

幕末の御典医の娘である今泉みねが書いた『名残の夢』という思い出話のエッセイを読むと幕末の女性の動きが垣間見られる。官軍が江戸に攻めてきたとき、明日は攻撃されるかもしれない、家の主が攻撃されて殺されて死ぬようならここで腹を決めて、死になさいということになる。彼女は、“死ぬとは何だ、怖いかしら?”終わったら甘いもの食べちゃおう。と軽妙である。真剣に考えていない。

このように江戸の女性像について、いくつか記録がみつかるが、ただ、鉄舟のお母さんの磯さんは地方の出身。江戸の人とは違う。

3.儒教(儒学)は孔子を祖として始まった中国古来の政治・道徳の額。日本には応神天皇(15代、五世紀前後の記紀・・古事記と日本書紀とを併せた略称・・示された天皇)の時に「論語」が伝来されたと称せられるが、社会一般に及んだのは江戸時代以降。


4.靖国神社問題はこの儒教解釈の取り入れ方から発生しているという主張・・・逆説の日本史13巻、井沢元彦
① 中国人が考える「孝」・・・元の時代(1,271~1368)の「二十四孝」郭巨(かくきょ)の説話から考える・・・「考」がすべての道徳概念に優る
②日本人が考える「孝」・・・姨捨山にみる姿
③靖国神社は墓所でないことを理解できない中国人・・・高橋哲哉東大大学院教授
④中国版靖国神社「岳王廟」の事例・・・国のために戦い抜いた岳飛を「護国の神」として祀った廟の境内前庭に後手に縛られた「敵の秦檜(しんかい)夫婦像」が置いてあり、参拝者はこの「夫婦像」にツバを吐きかけるという。死んでも悪人は悪人という考え。永遠に悪人のまま。
⑤日本人の感覚は清水次郎長に顕れている。幕府海軍の咸臨丸が撃沈され清水港に遺体が打ち上げられた。官軍は遺体を葬ってはいけないと命令した。しかし、次郎長は「仏に官軍も賊軍もない」という考えから、処罰覚悟で遺体を埋葬し、それを機縁に鉄舟と親しくなった。死んでしまえば悪人も善人も皆同じ。

鉄舟に続いて、靖国神社を勉強したい。『逆説の日本史・13巻』(井沢元彦著)
儒教は孔子を祖としてはじまった。中国は世界に中国の文化を広めるために世界140カ国に孔子学院をつくる計画をしている。現在50施設完成している。日本文化センターはまだ10数施設しかない。説明できる人が居なければ日本文化が普及しない。

中国の政治道徳の思想について、日本文化と中国文化の違いから話す。
儒教が日本に入ったのは5世紀の前後というが、実際に勉強したのは江戸時代。しかし本家中国と日本では差がある。
中国で考える忠孝の「孝」について、「二十四孝」の説話を紹介する。
郭巨(かくきょ)は大変貧しい暮らしをしており、食べるものが足りなかった。母・妻・子供の4人家族であったが、母の体が弱ってきて今にも死にそうである。母は食事を取らず、郭巨の息子、彼女にとって孫に食事を与えていた。郭巨は食料を自分の息子に食べさせるか、自分の親に食べさせるか悩み、子どもがいなければ母親が食べられるという理由から子供を殺す、という結論に至る。

中国ではこれが儒教である。日本では先が短い親が身引く。
例えばタイタニックが沈没するとき、最初に救命ボートに乗せるのは、中国ではお年寄りであり、お年寄りの男性を最初に乗せる。日本人は、将来性がある子どもをお年寄りより先に乗せるだろう。日本と中国では儒教について考え方が違う。よって発言に差が出る。

靖国問題について有名な方である東京大学の高橋哲哉氏にお話しを伺った。
中国人は日本の神社が理解できない。靖国神社をお墓と思っている。

中国版靖国神社には中国のために戦った戦死者の墓があり、そこにお参りするには
敵の石碑につばを吐きかけてお参りする。中国では悪人は死んでも許さない。

清水次郎長と鉄舟が親しくなったきっかけは、幕臣の遺体を引き上げたこと。
遭難した船を攻撃され、幕臣の遺体が流れ着いたとき、死んだら官も賊も関係ないと遺体を引き上げて弔った。

良いか悪いかは皆さんが判断すること。思想が違う人はいくら説得してもわからない。


5.靖国神社問題はソ連がロシアになって発生したという見解。・・・中国の作成している世界地図から判断(池上彰)


どの国でも世界地図の中央はその国である。中国の世界地図では北方領土4島とも日本の領土と認めている。なぜ中国は日本の味方をしているか?敵の敵は味方。中国の敵はソ連、ソ連の敵は日本。ところがソ連からロシアになって、中国とロシアが仲良くなってしまうと中国と日本がダイレクトに敵になってしまった。
その頃から靖国問題が発生している。高橋先生から“国際政局で動く”と聞いた。


6.靖国神社は戦争遂行のための「感情に働きかける装置」であったという見解から、春夏の靖国神社例大祭が重要な行事なので8月15日参拝は問題ないという見解(高橋哲哉東大大学院教授)
   
*とにかくいろいろ見解はあるので、これからも研究する予定
靖国神社というのは追悼施設ではなく明治政府ができてから作られた慰霊の施設。
日本人の軍隊は徴兵制であり、戦死者の親兄弟が政府に対して“戦争はやめろ!”と言い出したら困るので、例大祭で天皇陛下が頭を下げて、感情の変遷をさせる。
戦死者の家族が持つ恨みを“お国のために死んでくれてありがとう!”と感謝してしまう。
家族の悔しさをお国のために死んで良かった、と靖国神社で思いの変換をさせる場にした。
8月15日に参拝するのは問題ではない。本来は例大祭のときでなければいい。
靖国神社については、上米良さんに分析してもらって、お話ししていただきたい。

鉄舟も儒教を学んできた。中国の孔子からできたものが、中国の儒教と日本の儒教は違う
儒教を学んで中国に行くと中国の儒教は違うということを鉄舟について学びながら知ってほしい。


7.鉄舟の母磯に見る江戸時代の女性・・・「家刀自」(いえとじ)

磯さんは典型的な江戸時代の優れた女性だった。立派なお母さんだったから鉄舟のような人物が育ったのだと思う。次回はお父さんも含めてお話します。


【事務局の感想】
 山岡鉄舟と靖国神社が結びついてしまいました。誰も想像もしなかったと思うのは私だけでしょうか。儒教や江戸時代の女性の行き方、靖国神社など歴史的に勉強をしていなくて恥ずかしいのですが、鉄舟サロンに参加して、山本さんから本を読むより分かり易く、興味深く解説していただけ、しかも歴史だけでなく、その内容が今回のように現代といつも結びついているのが、山本鉄舟研究です。
 私もぬりえと鉄舟がどうのように結びつくかまだ分かりませんが、今の時代を知るためにも、これからも鉄舟を続けていきたいと思っています。

投稿者 staff : 2006年07月02日 12:07

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