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2008年08月16日

7月例会記録(2) 「清河八郎と運」 2/2

■山本紀久雄氏

「清河八郎と運」 2/2

② 坂下門外の変
清河八郎は坂下門外の変でも有名です。桜田門外の変で井伊が殺されましたね。和親・通商条約を結んで開国してどんどん進めて反対する人を牢に放り込みました。あんなのがいたら日本は良くならないと井伊大老を殺しました。徳川幕府は打撃を受けるだろうと幕府は元気がなくなるだろうと井伊大老を殺したが全然そうなりませんでした。


井伊大老を継いだ安藤信正という老中が優秀でした。井伊大老は公武合体をしようとして、孝明天皇の妹・和宮さんを家茂将軍の妻にほしいと要求したが断られました。しかし安藤信正は公武合体をしたわけです。交渉に長けた優秀な人です。
今まで尊王攘夷では、幕府が開国、天皇が攘夷でしょう。それが結婚によって幕府と天皇が一緒になりうやむやになりました。結婚によって親戚同士にした結果、世間ははけ口の持っていきようがなくなりました。尊王攘夷の過激派集団は、孝明天皇に文句を言えませんし、徳川家には和宮がいます。一瞬にして何となくちょっと安定した、でも公武合体はおかしい、という社会風潮になりました。問題があるが、その突破口をつぶさない限り整理できません。マグマが下に収まったままの社会になりました。
安藤信正が優秀すぎるから、安藤を殺せば良いと起きたのが、坂下門外の変です。水戸浪士6名攻めてきても、桜田門外の変で警戒しているからその場で全員殺さました。しかし安藤は背中に傷を負いました。
当時英国から神戸や横浜を開港しろと言われていました。安藤は包帯しながら状況を説明して交渉しました。その様子を英国の公使が感激して、延期になりました。三田村鳶魚さんがこの安藤信正がやったことは今なら大勲章ものだと高く評価しました。
しかし、後ろ傷を負ったことは武士にあるまじきことと江戸城内では非難轟々で、安藤は老中を辞任しました。非難轟々を起こす元がありました。公武合体は和宮の拉致だ、孝明天皇が言うことを聞くだろうという策を弄したのではないかと言いふらす人が出てきました。孝明天皇が言うことを聞かないと廃帝させるという噂を流しました。それを仕掛けて広めたのが清河八郎で、九州遊説に回りました。
尊王攘夷の時代ではない、倒幕王政だ、天皇が直接政治を行う時代だと説きました。みんな乗ってきて京都に尊攘志士たちが300名集まりました。
塙保己一の息子塙次郎は廃帝について研究している理由で暗殺されました。なんと首相・伊藤博文が殺しました。

③ 伏見寺田屋事件
 文久2年に伏見の寺田屋に集まっていた薩摩藩の藩士が争った事件です。斉彬系統と久光系統の争いです。斉彬は毒殺されたと西郷隆盛は思っています。藩主の父親だったのでなだめていたのが大久保です。
久光は、幕府は改革すれば良いと千名の兵士を連れて上京しました。そのときに清河八郎は、久光が倒幕王政をするために千名の兵士を連れてくるという檄文を書いて日本中を配りました。これがまた名文でした。清河が書き、話すことは日本中に知れ渡るほどの実力者でした。各地の尊王攘夷の志あるものは、時が来たと続々と京都に集まりました。
長州藩も反幕ですから薩摩が動くならと藩を上げて動きました。浪士(清河)・薩摩藩・長州藩の3ブロックありました。久光が上京し、大阪の屋敷に入って、他藩の藩士・浪士と付き合ってはいけない、問題を起こしてはいけないと発言しました。久光は保守派ですから、当初から誤解だったとわかりました。倒幕王政だと思わせたのが清河です。すごい策士です。
久光にその気がないから俺たちだけでやろうと寺田屋に集結しました。久光はそれを知って、説得しても行動するなら上意討ちとなりました。寺田屋に居る者と親しくて剣の強い男を9名選びました。それで戦いが起きました。7名が死んで2名が負傷しました。浪士は捕まって薩摩屋敷に連れて行かれました。
首謀者の清河八郎は寺田屋に居ませんでした。

④ 京都の田中河内介
・田中は但馬出石の医師の第二子であったが、京都に遊学している間に、権大納言中山忠能に召し抱えられ、中山家の家臣である田中近江介の家を継ぎ、諸大夫となった。

・諸大夫とは、公卿に次ぐ家柄で、朝廷から親王・摂関・大臣家などの家司、つまり、事務を司る職位で、四位・五位の官人である。
   
・伏見寺田屋事件で、田中は薩摩行きの船の上で、薩摩藩によって殺害され、死体は海中に遺棄され、後日、小豆島に流れ着いた。

・後日談であるが、田中は権大納言中山忠能に仕えた諸大夫であり、明治天皇の生母は忠能の娘中山慶子であったため、田中は幼少時の祐宮のお守役をつとめたことから、天皇は田中のことを記憶にあり「河内介爺はどうしただろうか」と案じていたので、側近が「田中はしかじかのことで、薩摩藩によって殺されました。その際の当局者は内務卿大久保利通でございます」と言上したが、大久保は下を向いたままだったという。
 
⑤ 清河八郎の運
どうして清河が居なかったかについては9月に話します。

家内が2週間インドに行ったので戦略を持って行動しようと思い、2週間朝昼晩は自分で作って食べるという方針を作りました。毎日スーパーに行って2週間でどのくらいの食材を買うのかを調査しました。3年くらい料理教室に行っているからレパートリーがあるわけです。
料理教室で昼間からビール13種類出てきました。料理が終わると食べながらビールが出てきます。赤字ではないかと聞くとメーカーから提供されているということでした。料理教室はマルエツが経営しています。マルエツという魚屋出身のスーパーがあり、V字回復しました。イオンの傘下だが、マルエツだけが回復しています。当初はイオンとダイエーから社長が来ていたが、高橋さんという魚屋出身の人を社長にしたら、生鮮食品中心のスーパーになって過去最高利益です。メーカーもマルエツなら協力しようと協賛してくれます。時代がマルエツの業績になって、料理教室の業績になっています。

日本中毎朝宴会しているのもありますね、カラスです。街中にカラスがいるのは日本だけです。どうして日本だけカラスが異常に多いのですか?ごみの出し方に問題があるからです。スーパーからのレジ袋で出しているからです。中国もドイツもスーパーのレジ袋を出しません。ドイツはゴミボックスがあります。そういう仕組みを作ればカラスは餌がないから街にこなくなります。

佐々木譲さんが、榎本武揚が今から130年前に今の温暖化を予測して、極東の氷が解けることを予想して航路を作れと言っていたと新聞に書いていました。最短距離でヨーロッパに行けると予測していた、と本に書いています。時代を見抜いているのは榎本だと新聞の夕刊に載っていました。

鉄舟も今の時代と結びつけなきゃ、蘇らせられません。何が今の時代から学べるかのか、そういう勉強をこれからもしていきたいと思います。
以上

【事務局の感想】
 ひさびさにNHK大河ドラマ「篤姫」を見ています。8月10日(日)は、今回話しにでました桜田門外の変がどのように描かれるのか、オリンピックの放送はそっちのけでテレビを見てしまいました。視聴率は、26.4%で、フジテレビが生中継していた柔道の内柴選手の金メダル獲得を上回ったそうです。
 俳優がいいのか、脚本がいいのか8月10日の井伊大老と篤姫をお茶のお手前を通じての二人のやり取りに味わいがありましたが、大きなテーマの場面を見たいと高い視聴率となったものと思われます。
 歴史の捉え方もいろいろ考えられるわけですが、まさに鉄舟研究は、そのような意味で歴史を考え、今と結びつける、時代感覚を取り入れるということを続けています。
 ますます山本鉄舟研究は筆が冴え渡っていきます。

投稿者 staff : 2008年08月16日 16:20

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