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2011年02月19日

2011年3月例会案内

3月の例会は次の通り開催いたします。

開催日 2011年3月16日(水)
場所  東京文化会館第二中会議室
時間  18:30から20:00
発表者 山本紀久雄から鉄舟研究。

 3.2011年4月例会
   
4月は20日(水)18:30~20:00に開催いたします。
   会場は東京文化会館第一中会議室です。
発表は山本紀久雄が担当いたします。


皆様のご参加をお待ちしています。

投稿者 Master : 11:34 | コメント (0)

2011年2月開催結果寺

2011年2月開催結果の内容

① 高橋育郎氏から「鉄舟の童謡詩」のご発表

高橋育郎氏から「鉄舟の童謡詩」のご発表をいただきました。皆さん大変な驚きで、これで山岡鉄舟がよくわかるという評価とともに、さすがに「全国童謡歌唱コンクール」グランプリ曲となった「大きな木はいいな」の作詞家と感心いたしました。

②池田高志氏から2010年9月に発表いただいた「幕末の水戸藩」の後半部分のご発表。
 
徳川慶喜の生家である水戸家について詳しくお話を受けました。幕末時に水戸藩は二つの派閥の対立で、血で血を洗う凄惨な状況。
 ●保守門閥派・・・諸生党・・・親幕
 ●改革派・・・天狗党・・・尊皇敬幕・・・桜田門外の変
人名索引まで作成し詳しくご説明いただきましたが、池田氏の博学蘊蓄には参会者全員が驚嘆した次第です。池田氏に感謝申し上げます。

③ 山本紀久雄の発表

今月は「武士道考察」を行いました。武士道について、
●広辞苑、ウイキペディアの日本とフランス版での解釈
●新渡戸稲造武士道の今日的理解
●ザッケローニ監督と武士道
●武士道発揮の代表的事例としての江戸無血開城駿府会談
●武士道発揮には武道の達人境地が前提ではないこと
●武士道に定義としての型・形はない
等につき見解を発表いたしました。これからも鉄舟武士道について考察を深めていくつもりです。

 なお、浜松市北区方広寺で「山岡鉄舟と奥山方広寺展」が3月6日(日)~21日(月・祝)に開催されます。詳しくは以下をご参照願います。
http://www.houkouji.or.jp/

投稿者 Master : 11:29 | コメント (0)

2011年02月08日

彰義隊・・・その一

山岡鉄舟研究 彰義隊・・・その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
 

上野公園前交差点に交番がさりげなく立っている。この交番から始まる坂道が、上野台一帯を占めていた上野寛永寺への旧黒門口であり、上がりきった山王台には西郷隆盛銅像があって、そのすぐ後ろに彰義隊の墓がひっそりとある。

西郷像には通り過ぎる誰もが目を向けていくが、彰義隊墓所には気づかず通って行く。今もって勝者と敗者の姿を表しているかのように・・・。

上野寛永寺内に籠った彰義隊は、慶応四年(一八六八)五月十五日、新政府による攻撃で、たった一日で壊滅した。

その勝者側である西郷隆盛銅像が立っている場所は、彰義隊が大砲を持って最も激しく抵抗し戦ったところであり、彰義隊の墓石には鉄舟によって「戦士の墓」と書かれている。

だが、鉄舟の名は刻まれていない。しかし、鉄舟はこの彰義隊の戦い、いわゆる上野戦争に深く海舟とともに関わっていた。

今号以下では、彰義隊が生まれ、それが時の政治情勢の中で翻弄され、敗者となることによって、明治時代という黎明期へつながった経緯と、海舟と共に鉄舟がその渦中でどのような働きをしたか、それを探っていきたい。

彰義隊の誕生は、慶応四年一月十二日徳川慶喜が、鳥羽伏見の戦いで大敗し、大坂湾から幕府戦艦の開陽で、11日夜半品川沖に到着し、十二日払暁上陸し江戸城に入ったことから始まる。

この時鉄舟は、慶喜が浜離宮から江戸城へ向かう出迎え者として、騎馬にて先駆したことは「徳川制度資料」(大正十五年 小野清 仙台藩士)の記述から次のようにすでに紹介した。

「出迎者山岡鉄太郎、これに継ぐところの五騎の第一、前京都守護職会津藩主松平肥後守容保。第二、前大将軍徳川内大臣慶喜公。第三、前所司代桑名藩主松平越中守定敬(さだあき)。第四、老中松山藩主板倉伊賀守勝(かつ)静(きよ)。第五、老中唐津藩主小笠原壱岐守長行(ながみち)なり。慶喜を出迎える。海舟は西丸大手門外下乗橋にて出迎え」

この慶喜が謹慎の意をもって、二月十二日上野寛永寺大慈院に引き籠り、髭も月代(さかやき)も剃らずにひたすら恭順の態度を示し続けながら、一方では複数のルートを通じて、外交交渉に乗り出していた。

第一に、先代家茂夫人の和宮と先々代家定夫人の天璋院のパイプ、第二は、寛永寺の貫主の上野輪王寺宮・公(こう)現法(げんほう)親王(しんのう)を動かしての嘆願、第三は、海舟を通じた鉄舟の駿府入り、結果として第三のラインによって鉄舟が江戸無血開城を成し遂げたのであるが、この第二の嘆願ラインが、上野の山の彰義隊に決定的な事柄をもたらすのであるが、これについては後に詳説したい。

まず、この上野輪王寺宮の公現法親王について触れたいが、その前に当時の上野の山を振り返ってみたい。

今は春の花見と国立博物館、国立西洋美術館、上野動物園で知られているが、江戸時代は寛永寺が上野台をすべて占めていた。

上野台は江戸城の北方約一里(四キロ)の地点にあり、かつては崖下に迫る江戸湾に突き出た岬であった。その頃の海岸であった台地から貝塚がいくつも発見されている。向かい合った本郷台からは弥生式土器が出土している。昔は、上野台は忍(しのぶが)岡(おか)*、本郷台は向(むこうが)岡(おか)と呼ばれていた。

上野台から見て、東方向は下谷車坂町から多くの寺が立ち並び、その先に浅草があり隅田川に広がっている。西方向は不忍池であり、その向こうは向岡の金沢藩加賀前田上屋敷と水戸藩中屋敷である。
南方向には今は暗渠(あんきょ)*となっているが忍川が流れていて、三味線掘りを経て神田川に注がれていた。忍川には端麗な橋が三本かかっていて三橋といい、それを渡ると下谷広小路の盛り場になる。北方向は金杉から三河島村、町屋村へと田園地帯が続く。

上野台の山上はだいたい平坦で、標高は約二十メートル。広さは約三十万坪の丘陵である。江戸時代の初めは伊勢津藩主・藤堂高虎、弘前藩主・津軽信牧、越後村上藩主・堀直寄の三大名の下屋敷があったが、寛永二年(一六二五)に江戸城鎮護のため、京都の比叡山延暦寺になぞらえて、寛永寺が創建され、山号を東叡山と称した。

開基は徳川家康のブレーンの一人だった天界大僧正である。江戸城から鬼門に方角にあたるので、この地が選ばれ、根本中堂を中心に数多くの壮麗な寺院が立ち並んでいた。

根本中堂の西側には慶喜が謹慎した大慈院、彰義隊が作戦本部をおいた寒松院などを含めた十八の子院、東の下谷方向に十八の子院、これを三十六坊と唱えた。

寛永寺には全部で八つの門があった。下谷広小路に面する南の門が黒門で正門、これを起点として時計の針回りで地図(復元江戸情報地図 朝日新聞社)を確認すると、清水門、谷中門、東門、坂本門、屏風坂門、車坂門、新黒門と続き、そのいくつかが上野戦争で激戦地となった。

江戸城守護の清浄の地という寛永寺はではあるが、参拝客目当ての門前町が形成されると、繁華街の盛り場として江戸屈指の場所となった。今でも花見の上野公園として有名であるが、当時も上野といえば花見であった。毎春、身動きできないほどの人出、だが、山上は清浄の地だから、肉食を禁じていた。その分を山麓の繁華街が請け負って、山下は水茶屋と見世物で賑い、寺社地の側ではどこでも色街が栄えるように、ここも同様であり、客は武士も町人も出家もいた。

貫主は天海が没した後、弟子の毘沙門堂門跡・公海が二世貫主として入山する。その後を継いで三世貫主となったのは、後水尾天皇第三皇子の守澄法親王であり、日光山主を兼ね、天台座主を兼ね、以後、幕末の十五世公現法親王に至るまで、皇子または天皇の猶子が貫主を務めた。貫主は「輪王寺宮」と尊称され、水戸・尾張・紀州の徳川御三家と並ぶ格式と絶大な宗教的権威をもっていた。

寺領は一万石、小さな大名並であり、資金を大名貸しに回し、その利鞘で大きく稼いでいた。

また、寺社は寺社奉行の支配下であって、罪人が逃げ込むと町奉行は勝手に踏み込めない地区であり、まして寛永寺の公現法親王は宮家の後光がさしていた。

この威光を利用すべく慶喜が謹慎場所として寛永寺を選んだのも頷け、その通りで、慶喜は公現法親王というルートから、第三の官軍対策外交を展開したが、慶喜によって動いた各ルートは、お互い自分たちがしている工作以外のことは知らなかった。これも後日、彰義隊に絡んで大きなトラブルになっていく。

さて、彰義隊の結成は、一橋家以来の家臣が、二月十二日に慶喜が大慈院に謹慎したことがきっかけとなった。慶喜への忠誠心から、同日、渋沢成一郎、天野八郎等の同志十七人が、雑司ケ谷の茗荷屋に会した(徳川慶喜公伝・4)ことから始まったが、この経緯に入るためには当時の政治情勢をもう一度振り返ってみる必要がある。

一月十一日、大坂城から品川沖に到着し、十二日払暁上陸し江戸城に入った慶喜を迎え、江戸城は大混乱に陥った。連日、小栗上野介らの主戦派と、恭順派とが喧々囂々(けんけんごうごう)の議論を闘わせたが、結果として慶喜は恭順路線をとり、和平政策で徳川家の存続と地歩を確保しようとしたのであった。

二月七日、幕府歩兵の一部が脱走し、歩兵奉行だった大鳥圭介に従って北関東に集結した。二月二十六日には、朝敵にされ、新政府軍と戦う松平容保が会津に帰国、桑名藩主の松平定敬は新潟・柏崎の飛び領地に向かった。

これらの動きの前、一月二十三日に海舟は陸軍総裁に任命されていた。海舟は慶喜が江戸城に戻った後、突如として一月十七日に海軍奉行並の命を受けていたが、新たに陸軍を預かることになった。これは今までの海舟履歴からしてあり得ないことであった。いうまでもなく海舟は咸臨丸でサンフランシスコに行ったように、ずっと海軍育ちである。

陸軍は元来、海舟の政敵たちの牙城であった。その中核には陸軍奉行並小栗上野介がいて、歩兵奉行の大鳥圭介がおり、さらにその背後にはフランス公使のレオン・ロッシユと教法師(宣教師)メルメ・デ・カション以下の軍事顧問団がいる。

その上最悪なのは、第一次長州征伐以来、陸軍は連戦連敗であり、まさにその劣等感がとぐろを巻いているような部隊であった。

このような陸軍を海舟が抑えられるか。それがこの人事の要諦であった。何故なら、慶喜が恭順を実行に移すために必要な第一歩は、なによりもまず幕府内の主戦派の抑制でなければならなく、それを行うのが海舟に課せられた最大の役目であった。

しかし、実は、もっと重要な要素、海舟が陸軍総裁にならなければならない必然性が存在した。それは官軍側に送る外交シグナルである。主戦派を抑え、恭順派によって幕府内を握らしたというサイン、それが慶喜にとって必要だったからである。

さらに、この人事の背景には、もうひとつ国防に対する認識があった。それは、この時期、日本にとって守るべきは内乱であり、海外からの脅威ではないということ、つまり、海防ではなく、幕府対官軍の全面衝突という戦いと、幕府内の対立抗争という二つの争い、それは内乱であるからして当然に陸軍を抑えるという戦略となり、そのためには恭順派の代表的人物の海舟が任命されることは、ほとんど不可避の人事であった。また、それは海舟が事実上幕府の全権を背負ったという意味につながる。

陸軍総裁の海舟は、手早く対策を講じていった。就任した三日後の一月二十六日、フランス軍事顧問団のシャノワン参謀大尉が、数人のフランス陸軍士官を引き連れて海舟を訪れた。その目的は明らかである。主戦論を展開したのである。

シャノワンの主張は「今まで我々が伝習訓練してきて、幕府陸軍士官は熟練しており、士官兵隊みな勇気あり、戦えば必ず勝つだろう。意を決し戦うべきである」というものであった。

この頃、幕府とフランスの間は以前と比較し冷却化していた。小栗上野介が画策した銀六百万両の借款は拒否され、軍艦の貸与も立ち消えになっていた。だが、ロッシュ個人としては、フランス勢力伸長の可能性をあきらめていなかった。

そこで海舟は逆手をとって、シャノワンが帰るとただちに自らロッシュの所に出向き、軍事顧問団の解雇を申し渡したのである。

このような行動、その迅速さが海舟の特徴であるが、驚いたのはシャノワンである。協力する旨を海舟に伝えたのに、答えは解雇である。そこでシャノワンは翌日の一月二十七日に、再び海舟と会い解雇撤回の要請を行ったのであるが、海舟は揺るがず「要するに、なにがおころうと自分の身一つに引受ける。お前さんの御親切はかたじけないが、もはやこれまでと思ってくれ、というわけである。これは事実上の対仏断行宣言にひとしく、この瞬間から少なくとも幕仏間の特殊関係は存在しなくなった」(海舟余波 江藤淳著 文芸春秋)と伝えた。

この決断の背景には、海舟の持つひとつの時流判断があった。そのことは陸軍総裁に就任した直後の幕閣の会議で、主戦の場合の戦略について、すでに次のように述べていたことで分かる。

「およそ興廃存亡は、気数に関す。また人力の能くすべき所にあらず、今もし戦に決せば、上下一死を期すのみ」(勝海舟全集第九巻 改造社 海舟余波)

これが海舟の見通しによる天下の形勢だった。客観的な戦力分析をすれば、幕府の方が官軍より優勢かもしれない。しかし、刻一刻と時局が動き、その場その場で具体的戦術展開を行っていかねばならないが、その際の行動を結果的に左右するのは時流をつかんでいることである。つかんでいる方が勝つだろう。それも眼には見えないが、時代の大きな流れだ。そういったものが欠けていたからこそ、幕府が鳥羽伏見で大敗したのではないか、それを「気数に関す」と海舟らしい表現で述べたのであり、政治家としての炯(けい)眼(がん)*である。

この海舟の「決断」について「海舟余波」は以下のように解説している。参考になるので紹介したい。

「『決断』というものが、マクロの状況とミクロの状況を重ねて二つに切るような性質のものであることは明らかである。対仏断行は幕府内主戦派に対する抑圧であるのと同時に、国際的には英国に対する接近を意味する。もはやフランスの力を背景としない幕府方は、英国にとっての軍事的脅威ではなく、薩長の武力を行使してまで粉砕する必要のない相手である。つまりこの場合、英国は必然的に対立者の役割から仲介者の役割に移行し得る。そしてもし英国を仲介者として駆使することができれば、その影響下にある薩長にパイプを通す必要条件だけはととのうのである」

陸軍総裁として任命された海舟が政治家として動いたのは、まさにこれを意図していたのである。次号に続く。

投稿者 Master : 17:05 | コメント (0)