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2007年12月16日

11月例会記録(2) 2/2

■山本紀久雄氏

「貧乏生活も戦略的行動の一貫」 2/2

1.鉄舟は自ら大悟し自得した無刀流を、明治十八年に次のように説明した。
「無刀とは心の外に刀なしと云事にして、三界唯一心也。一心は内外本来無一物なるが故に、敵に対する時、前に敵なく、後ろに我なく、妙法無方、朕迹を留めず。是、余が無刀流と称する訳なり」(山岡鉄舟剣禅話 徳間書店)

人間は裸で生まれ、死ぬときも裸であるから、すべてにこだわってはいけない。刀に頼ってはいけない。頼らないところから自分の術が生まれる。

2.このような境地に達したのは、明治十三年三月三十日払暁に
「釈然として天地物なきの心境に坐せるの感あるを覚ゆ」
という大悟に到ったからである。

大悟するというのは、自分の中の細胞が一瞬にして変わるのではないか。そういう人が53歳で亡くなるのは早すぎる、という質問を受けた。一般論からしたらそうでしょう。立派な思想を持った方は80歳90歳と長生きするではないですか。しかし寿命があります。年齢ではない。凝縮された中味です。大悟にいたったから無刀流を作り上げた。

3.ここまでの道程で何を修行してきたか・・・「修身二十則」
第一則は「うそはいふ可からず候」で始まり、その後に続く中で、「己の知らざるは何人からも学べ」と言い、「名利のために学問技芸すべからず」と諌め、「人にはすべて能不能あるので差別するな」と説き、「わが善行を誇らず、わが心に恥じざるよう務めろ」とある。この時点で本来無一物の思想、つまり「無私」の精神が顕れており、これを自己研鑽の最高の徳目に、少年時代から自己研鑽を続けていた。

鉄舟15歳、今なら中学3年生、のときに鉄舟が書いたものです。金儲けのために学問してはいけない。人の能力には差があるからマイナス面を言ってはいけない。全部自分というものを失う、捨てる「無私」で統一されています。
一晩で書いたのではない、ずっと前から考えていたから、書けるわけです。物心ついたときから自分というものを「無」に置く気持ちがあった。

年を取れば取るほど豊かな人生になるはずです。年齢が高ければ経験を積んで今日以降生きていくのだから。しかし経験を積んだ人が、いろんなところでとちって国会で証人喚問とか受けています。過去の生き方を参考にしていないのではないですか。人のこと、他人のことを見ていたら、自分がやっていることが悪いことだと気づくでしょう。毎日起きていること、過去の経験知を生かせば、どんどん生き方が上手になるはずです。うまくいかないとすれば、過去のことを分析して整理していないからです。これは勿体ない。
鉄舟はそれをした。勝海舟と比較したら鉄舟は残さなかった。勝海舟全書25冊ある。そのくらい勝海舟はしゃべった。勝海舟と比較すると鉄舟はしゃべらなかったが、ポイントで残している。「修身二十則」もそうです。15歳までの自分の経験知を文章化したということは生きる指針にしたということです。皆さんはノートの中に自分はこう生きるという戦略指針が書いてありますか?
自分の指針を作るべきです。世の中はどんどん変わっていくので、その指針は常に現在のことを見て直していく。世界はグローバルで繋がっています。日本のことだけを調べて株を買っても株価は上がりません。外国人投資家が6割ですから外国のことを考えないとなりません。法律を、エッセンスを自分の指針として、戦略的に行動する。鉄舟にはそれがあった。

幕末にペリーが来て15年間で明治維新が起きた。それは少数の人が作った。
橋本知事は16年間高知県で知事をした。橋本龍太郎の弟で高知県の知事に当選し、改革派の先駆けとして華々しく行動したが、今はひっそりした。官官接待やめましょう、情報公開しましょう、山を守りましょうといろいろ素晴らしいことをした。しかし県議会からは場当たり的なことしかしなかったと批判され、その後退職金を返せと言われ、それは議会で議決された。悪いことやっていないのに。経済が成長しなかった、全国の県の中でも最下位であり今も最下位に近い、16年間一貫した経済政策を打ち出せなかった。
日本はペリーが来て15年間で封建社会を捨てて近代社会を作り上げた。高知県は16年間で成長しなかった。今日一日を楽しく生きるのではなく、過去あったものから抽出して、それを指針にして貫くこと。それが戦略です。
それを貫いたから、鉄舟は自分が磨いた剣で金を取ることはしなかった。書だって弘法大師の再来といわれても、書を教えてお金を貰おうと思わなかった。百俵二人扶持のままです。私なら家族のために何かしますね。

4.貧乏物語二題・・・家財道具の売り払い、柏の木を伐る

鉄舟の庭に柏の木があり隣に住む菓子屋は鉄舟の家に来て柏餅用に葉を貰って、いくばくかのお礼を奥さんの英子さんに渡した。あの柏の木は切らないでくださいと伝えていた。これを聞いた鉄舟は柏の木を伐ってしまった。柏の木で金を作りたくないからと。

5.武士の内職は普通のこと・・・鉄舟はしなかった
「俗に三ピンといふ下役の武家家来あり。足軽・小者の輩ならん。一ヵ年金三両に一人扶持(ゆえに三一といふ)。二本差もあり。それのみにては自分だけをも支えるに足らぬゆゑ、種々の内職をする。大名の中下の邸にてはないしよの表向きとして許されありしなり。傘、提灯張り、扇、団扇、下駄の表、麻裏草履、摺物、その他数多くあり。本職よりかへつて収入多きなりしと」「江戸の夕栄(鹿島萬兵衛)中公文庫」

6.茨城大学磯田道史助教授・・・山岡にとっては、妻子を養うのは私事であり二の次

私事ではありますが、家族を持つことは公のこと。自分の子どもを育てること、奥さんにお金を渡すことは「私事」ですか?
鉄舟に取って公の仕事とは何ですか?鉄舟にとって個人生活はない。鉄舟はそういう人間なんです。

7.西郷が愛宕山で海舟に語った言葉・・・「普遍的な公」
「命もいらず、名もいらず、金もいらず、といった始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如きでしょう」

8.慶喜の恭順は「非日常事態」の発生、例外状態であり、今までの「日常状態」での判断基準は参考にならず、結果として多くの異論が噴出、争いが生ずる。この「非日常事態」の中で、「普遍的な公」としての江戸無血開城を採りえたことが、「明治維新」を成立させた。

9.人間はまず「考え方」があり、次に「やる気」があって、「争い」が生まれ、その先に「結果」が生じる。

すべてにおいて「考え方」が優先します。次ぎに考え方を実行しようとする「やる気」が必要です。やる気があるとやる気同士で「争い」ます。江戸幕府を守ろうと考え方、江戸幕府を潰しても日本を救おうという考え方があった。少数派が妥当な行動をした結果、今の日本がある。
「考え方」の違いで争いが起きる。考えをつきつめて実行しようとした結果、「やる気」のところで違った考え方と考え方で争いが起きる。その時、どちらの考えが今の時代、今後について妥当なのか?を考える。
選挙で言うならば、自分の年金の月1~3万円を大事にして選挙で投票するのか、改革して日本の国を違ったものにすべきだということを考えて投票するか、そうしていたら今のような結果にならなかったかもしれない。そういうことが鉄舟を勉強していけばわかります。

10.まだ不可解なことがある。それは何故に鉄舟が「幕府を潰す」という「普遍的な公」をとりえたのか。次回に続く。

江戸無血開城は幕府を潰すことです。鉄舟は旗本であり、旗本は幕府の直系でしょう。その旗本が幕府をつぶすことが「普遍的な公」であるという意思決定を思想として持ったか、これを解明しないと鉄舟の貧乏を解明できません。


【事務局の感想】
鉄舟が貧乏したことの本質を探る研究もいよいよ佳境に入ってまいりました。
鉄舟が貧乏したのは自らの戦略的行動の結果であって、貧乏したという事実は些細な「私事」にすぎないと、鉄舟は考えていたとすれば、その胆力たるや、壮絶なものだと感じました。
歴史はこのような「人生をうずめる」覚悟を持った人物によって創り出されるものなのではないでしょうか。
今後の研究が楽しみです。

以上

投稿者 staff : 2007年12月16日 11:23

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