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2005年07月09日

山本氏の鉄舟研究「慶喜と鉄舟」

9月11日の全国大会の講師である高橋名誉教授の本によると、無宿者が動いていたということは、規範が緩んでいて、自由な行動ができた時代であることがうかがえる。
高橋名誉教授は、今までにない学者である。望嶽亭に行かれて、鉄舟と西郷の会見の際に助けたと書かれた唯一の学者である。大変お話も面白いといわれているので、期待していただきたい。
 
教授というと、「森は海の恋人」運動をしている宮城県の畠山重篤氏が京都大学の教授になった。—今月の文芸春秋に掲載記事—

先月話した西郷と鉄舟の会見の碑は、原田さんという個人の所有であるが、功績者の碑であるから、本来なら市、県、文化庁がすべきところであるが、個人が作ったものである。
 
1)上野寛永寺大慈院の一室における鉄舟覚悟の決め方
幕末の頃は上野の山すべてが寛永寺であった。その中の大慈院の別院に慶喜は蟄居していた。鉄舟は慶喜に会って、慶喜の気持ちがゆるがないか問いただしている。
この将軍に対して、問いただすという暴言を吐くことにより、慶喜の言葉に二言はないことを、鉄舟にもどし、鉄舟自身が覚悟し、責任をもった。この覚悟の仕方は鉄舟でなければできなかったことである。

2)慶喜が水戸へ・・・過酷な駿府70万石の決定 
4月に慶喜は水戸へ行く。
その時のお供は、旗本、高橋泥舟(護衛)、中条金之助(彼については、11月に行くお茶の郷博物館で見ることができる)
西周(ニシアマネ)哲学者(オランダ留学し、仏語学ぶ。慶喜にヨーロッパでは諸侯が民主的な会議をしている。日本も一大名となって雄藩会議をしてはどうかと進講した。
新村猛雄(広辞苑の作者の父か祖父にあたる人)等がいた。
3)慶喜が水戸から駿府へ・・・榎本武揚による護衛搬送
この頃徳川宗家は、家禄を800万石から70万石に抑えらた。幕府側の心象を懸念して、彰義隊のことがすんでから発表された。
慶喜は4月に行った水戸から、この駿府に移った。これには、榎本武揚が護衛搬送した。
榎本武揚についていえば、慶喜を送り届けてから、脱走。函館に行き戦争をしたことは周知のとおり。
4)当時の水戸の状況 
幕末時は、各藩は生き残りをかけて幕府か朝廷かどちら側についたらいいか、情報収集に奔走していた。その中を御三家の水戸藩は、藩内を二分して内紛に明け暮れていた。
この内紛については他藩からも「ご本家(将軍家)が潰れるかどうかの大切な時に、御三家の水戸様が内輪争いでござるか」と冷笑されていたというような状況であった。
水戸家の家訓には、藩主だけに残された家訓があった。それは、
「日本を二分して、朝廷と幕府が争うようなことがあれば、宗家が滅ぶようなことがあってはいけないので、天皇を大事にするように(そうすれば徳川は生き残れる)」このようなことがあって、慶喜は朝廷と争わなかったそうである。
5)徳川慶喜家扶日記にみる鉄舟
将軍をやめたとき慶喜は若干33才。毎日を趣味の世界に生きた。
家扶日記によると、
○明治11年11月3日 山岡鉄太郎 来邸。
○明治14年5月17日 山岡鉄太郎所用で愛知に出張の途中に来邸。
○明治14年6月15日 再び訪れる。
と記録されている。
「慶喜邸を訪れた人々」羽衣出版 浮月楼で販売されている。
 
●事務局の感想
現場からの報告ならびに現地調査により、資料、研究にますます厚みがまし、毎月の講演がさらに熱を帯びてきました。7月の内容が待たれます。

投稿者 Master : 2005年07月09日 20:21

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