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2008年06月21日

鉄舟講演会のお知らせ

当会の講師である山本紀久雄氏による、山岡鉄舟講演会が開かれます。

日時   8月5日(火) 14:00〜15:30
主催者  清話会(企業経営者の教育・研修機関)
テーマ  山岡鉄舟に学ぶ「激動期のブレない生き方」
講師   山本紀久雄
場所   東京学院2階教室(JR水道橋駅から1分)
申し込み 清話会 TEL:03-3262-0181
受講料  事前申し込みは4800円。当日6000円。
     →清話会ホームページ

投稿者 Master : 05:51 | コメント (0)

2008年06月16日

6月イベント「靖国神社参拝」の感想

梅雨の合間の晴天に恵まれた6月の日曜日。
靖国神社参拝の行事が無事とり行われました。

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参加者は40名。大勢のご参加ありがとうございました。

参集殿に集合後、まずは今回の主目的である、靖国神社本殿へ正式参拝をいたしました。
手水をとり、清めます。
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拝殿脇の入り口より本殿に入り、本会代表の金子さんが玉串を捧げ、全員で拝礼しました。
身が引き締まる思いがしました。
残念ながら写真撮影は禁止でしたので、痕跡が残っておりません。残念。

その後、参集殿にて大山課長様から『靖国神社と武士道精神』と題して講話をいただきました。
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日本人の日本人たる武士道の精神を語り継ぎ、後世に残すこと、靖国神社はその大切な役割も担っていらっしゃることを、大山課長様の熱き語り口から感じました。

講話の後は、引き続き大山課長様の引率にて「遊就館」の展示説明をいただきました。
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武士道精神を象徴するエピソードをいくつかご紹介いただき、涙を浮かべる参加者もいらっしゃいました。皆さんそれぞれに思うものがあるのかなあと拝察いたしました。

遊就館での見学の後は、靖国神社周辺の史跡散策に出かけました。
好天に恵まれ、40人からの老若男女がワイワイガヤガヤ移動するという図は、さぞ奇異に見えたでしょうが、当の我々はそんなのお構いなしで楽しい散策を繰り広げたのでした。

ルートと詳しい説明はコチラ(PDFファイルダウンロード)
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小一時間ほどの散策を済ませ、懇親会を行いました。
会場は九段会館。
築70年を越す風格ある建物です。
若かりし頃ここで結婚式を挙げられた参加者がおられました。運命ですね。

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今回は大人数のため個室をとって大いに盛り上がりました。
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山本紀久雄氏にも最後にビシッと締めていただきました。

大勢の方々にご参加いただいた今回の靖国神社参拝。
皆さん、お疲れさまでした、そして、ありがとうございました。
今後も様々な企画を行っていきたいと考えています。
よろしくお願いします。


(おまけ)

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解散後、任務を遂行し感無量のスタッフ陣は機嫌良く散策をしながら帰途につきました。
今回は省略をした『新徴組屯所跡』を眺める様子。

(田中達也・記)

投稿者 lefthand : 09:18 | コメント (0)

2008年06月15日

6月例会のご案内

靖国神社正式参拝と周辺散策のご案内

靖国神社に正式参拝にまいります。
参拝後は、遊就館見学、周辺の史跡散策を予定しています。

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【日 程】2008年6月15日(日) 13:00〜19:00
13:00 参集殿前に集合
(参集殿の中に手水がありますので、中で手水をとります。ハンカチ必携)
13:30 正式参拝 
13:45 講話(神社関係者より)
14:30 遊就館見学(特別展含む)      
16:30 史跡見学
       神道無念流「錬兵館」跡(靖国神社内)
       富士見町町名由来板     
       小野家跡地
       木戸孝允邸跡
       筑土神社
       蕃書調所跡
17:30 懇親会(くだん亭・九段会館内)
19:00 解散

【集 合】13:00 靖国神社 参集殿 正面入口前に集合

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昼食は、集合前に各自で済ませてください。
遊就館の中のレストランの海軍カレーがオススメです。

◎靖国神社に正式参拝をいたしますので、ネクタイ着用ならびに女性の方はそれに準ずる服装でお願いいたします。


【参加費】初穂料1,000円 

【懇親会について】
九段会館 くだん亭にて開催いたします。お時間がある方はご参加をお願いします。
参加費は、3,000円~3,500円程度を予定しています。
会場:九段会館「くだん亭」 

【お申し込み】
申込フォームよりお申し込みください。 →申込フォームへ

【問い合わせ】
ぬりえ美術館(金子) TEL:03-3892-5391 / FAX:03-3892-5392

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投稿者 lefthand : 13:00 | コメント (0)

2008年06月07日

山岡静山との出会い・・・その四

山岡静山との出会い・・・その四
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

山岡静山と鉄太郎が師弟として交じり合ったのは、既に静山が病魔に冒されていた時だったが、そのさなかでも静山の修行は凄まじかった。そのことを記録として遺したのは中村正直(天保三年・1832~明治24年・1891)で、鉄舟(天保七年・1836~明治21年・1888)とほぼ同じ時代を生きた人物である。

中村正直は幕臣の子、昌平坂学問所で佐藤一斎に学び、慶応二年(1866)渡英、同四年(1868)帰国、明治になって大蔵省出仕、その後東大教授、元老院議官、貴族院議員等を歴任した。サミュエル・スマイルズの「西国立志編」やJ・S・ミルの「自由之理」を翻訳者として知られ、これらは当時広く読まれた。この中村正直に「山岡静山先生伝」(原文は漢文)という小文がある。この小文から静山を分析したい。

「近来、槍法の絶技なるもの、山岡先生に踰ゆるなし」で始まり、「人と為り剛直阿らず、質朴を重じ、気節を尚び、人倫に篤く、家甚だ富まざるも、食客門に満つ、後多く名士を出す」とあり、「親に事へて孝なり、父没し母多病なれば、先生看護懈らず、書室に牌を掲げて曰く、七の日省墓、三八聴講、一六按摩と、按摩を以て課を立ては、古今絶えて無き所なり」と続く。

このように中村正直が書き遺した静山像とは、人格的に優れ、人柄を慕って多くの人が集まり、城勤めの合間に道場で門弟に稽古をつけるので、暇というのがないのであるが、その中でも日課表として紙に書いて実行したのが、七の日は必ず亡父の墓に詣で、三と八の日は学問の日とし講義し、一と六の日は病気がちの母に対して按摩した。

槍法の絶技なる静山が、武道のほかに精神面でも門弟を心服させたのは、このような孝行振りにもあつた。

鉄太郎(鉄舟)も高山時代に見られたように親孝行であり、稽古修行についても熱心で、武術というものを単なる技量とせず、人間陶冶の道と考えている。鉄太郎から見て静山という人物は理想像であり、静山から鉄太郎を見れば自分の分身とも見える。お互い深い底からの理解が通じ合ったと思う。

静山は、幼き頃より諸芸を学んだが、十九歳の時に省吾し、その後は槍に専念し、二十二歳で天下にその名が轟くようになった。

山岡家は元高百俵二人扶持、父の市郎右衛門が御勘定方に出仕していた時は、足高百五十俵であった。屋敷は下級旗本が多い小石川鷹匠町、今の小石川五丁目にあった。隣家は高橋家、静山の弟謙三郎が養子に行き高橋泥舟として名を遺した。

静山・泥舟兄弟の槍の師匠は、静山の母の父である高橋義左衛門。高橋家は元高四十俵二人扶持、総領鏈之助が御勘定方に出仕して足高三百俵。この鏈之助の体が弱く早世したので、高橋家を謙三郎(泥舟)が継いだ。

高橋義左衛門の槍は刀心流。伝えるところによると始まりは菅原道真に発するという。この義左衛門の静山・泥舟兄弟に対する稽古は猛烈だった。義左衛門が樫で拵えた一尺五寸(45cm)程の扇子型を構え、兄弟には高さ一尺二寸(36cm)の一本歯の高下駄を履かせ、何十回何百回ともなく突っ込んでこさせ、兄弟二人がふらふらとなり昏倒することも珍しくないくらいだったという。

もともと兄弟二人は天才的な槍の才能を持っていたが、そこに義左衛門による猛稽古と、静山自身もこの修行鍛錬を好むタイプであったから、没入し、激烈を極め、その成果として二十二歳で天下にその名が轟くようになったのである。

しかし、その稽古修行は凄まじいものであった。厳冬寒夜に荒縄で腹をしめ、氷を割って水を浴び、東の日光廟を拝して、丑の時(午前二時)ごろから、重さ十五斤(9kg)の重槍をひっさげ、突きを一千回、これを三十日続ける。

平常の昼は門弟に稽古をし、夜は突きを三千回から五千回、時には黄昏から夜明けまでに三万回続けたという。中村正直の「山岡静山先生伝」はこのように書き示しているが、果たしてこれが事実かどうか。常人では不可能な稽古修行である。

先日、たまたま第四十八代横綱大鵬親方に親しくお話を聞く機会があった。現在は相撲博物館館長として大相撲の発展に寄与されているが、現役時代の思い出として次のように語られた。

「マスコミなどで、私はよく『百年に一人の天才』と言われたから努力もしないで横綱になったと思われている。いろんな人から『大鵬は、最初から大きくて強かったのでしょう』とも言われる。とんでもない。生まれた時から大きかったわけじゃない。しかも小児喘息で死にかけた。その意味では柏戸さんの方がよっぽど天才だ。山形の農家のぼんぼん育ちでそんなに苦労していない。しかも稽古だってそれほどやった方じゃない。それでも強かった。それに比べたら私はむしろ努力型だ。私が天才と言われるとすれば、それは臆せず何でも果敢に挑戦した、という意味でだと思う」

「相撲界のエリート教育を受けてきた。このエリート教育というのはしごきのことで、稽古場でのしごきで、気が遠くなることがしばしばだった。コーチ役の十両、滝見山さんからぶつかり稽古で土俵にたたきつけられ、これでもかこれでもかと引きずり回されたから、見ている人は『もういい加減にやめさせろ』と言った。へとへとに倒れこむと、口の中に塩を一つかみガバッと入れられる。またぶつかって気が遠くなりかけると、バケツの水や砂を口の中にかまされる」

「この特訓の上に一日四股五百回、鉄砲二千回のノルマがあった。最初は苦しくてごまかしたこともあったが、そういう自分が恥ずかしいので、きつくても黙々とやり通すしかなかった」

天才横綱大鵬も、厳しいしごきに耐え、その後の自主稽古で一代年寄りの名誉を受けることになったのである。このしごき稽古、静山は高橋義左衛門、大鵬は滝見山によって鍛えられた。このような人に会えたのが結果的に大成する要因となったのだが、一般人は仮に会えたとしても我慢できず逃げ出すことになるだろう。優れた人物は耐える力も並でないことが分かる。

大鵬の自らに課した一日に四股五百回、鉄砲二千回という回数、これは今の力士が行わない凄いものであると言う。だが、しかし、静山の突きを三千回から五千回、時には黄昏から夜明けまでに三万回続けたというのは、また、別格と思う。相撲と槍では比較できないことを承知の上で、天才大鵬横綱の稽古量レベルを上回っているのが静山と感じる。

中村正直に「山岡静山先生伝」に、次の逸話が紹介されている。

ある時、母に代わって寺参りに行ったが、そこで二十人ばかりの男どもが一人の侍を取り囲み、殴る蹴るの暴行、侍は血まみれで今にも死にそう。助けを静山に求めた。「いい加減で許してあげなさい」と頼んだが、男どもは聞かないので、大喝し、「窮鳥、懐に入れば、猟師も殺さずと。いわんや侍が助けを求めているのだから、座視できない。お前らの敵は拙者だ」。すると男どもは静かになったので、倒れている侍を見ると、これがかつての門弟であったが、静山を背いて去ったものであった。借金をして返さず、そのために殴る蹴るの暴行を受けていたのだ。静山は借金を代わりに返してあげ、訓戒をしてお金まで与えたのである。この逸話の後に次のように続いている。

「先生、嘗て曰く、凡そ人に勝たんと欲せば、須らくまず徳を己に修むべし。徳勝て而して敵自ら屈す。是を真勝となす。若し技芸孼刺に由て而して得べしと謂は、即ち大に謬れり」
このような静山の教えは鉄太郎の気質に合い、もっとも好むところであったろう。

勝海舟が静山について語っている。(英傑 巨人を語る「日本放送協会」)

「静山が常にいうには、道によってなすことは勇気が出るが、少しでも我が策をめぐらす時は、何となく気脱けがすると言うておったそうだ。これは分かりきったようで、凡俗にはなかなかそれで承知しないから困るよ。また静山が、常に二尺足らずの木刀を帯しておったが、いまなお泥舟が保管しているそうだ。その刀の片方には、『人の短所を言うなかれ、己の長所を説くなかれ』と記し、その裏の片方には『人に施すに慎みを念うなかれ、施しを受くるに慎みを忘れるなかれ』と自記して携えていたそうだ。その筆蹟のごときも、静山が二十歳ばかりの手跡だそうだ」

海舟も認めていた静山の素晴らしさである。

静山は子供のころに痘瘡(天然痘)を病んで、少し顔に白あばたがあった。

江戸時代、日本人に痘瘡が多いことは「『逝きし世の面影』渡辺京二著 平凡社」の中で、外国人が多く指摘している。

「痘瘡については、長崎で病院を開いたポンペが書いている。『どこの国でも、日本のように天然痘の痕跡のある人の多い国はない。住民の三分の一は顔に痘瘡をもっているといってもさしつかえない』ポンペは少し誇張しているかもしれない。幕末の人物写真を見ると、幕府のフランス語通訳塩田三郎がみごとなあばた面である。オールコックは言う。『労働者階級のあいだでは、各種の皮膚の吹き出物はありふれている。疥癬もやはりありふれた病気である』」この他にも眼病もまた多かったようである。「『世界のどこの国をとっても、日本ほど盲目の人の多いところはない』とポンペは言う」(同書)

静山は身長五尺六寸(170cm)、色白で眉濃く目はぱっちりして秀麗であった。しかし、どうしたものか子供のときから、時々、にわかに胸痛のうめきをすることがあった。

だが、構わず烈しい稽古修行を続けていたが、日増しに顔色が良くなくなっていく。胸痛も酷くなって、動悸がして、めまいがすることが多くなっていった。弟の謙三郎も、母も、妹の英子も心配し、時折注意するのだが、いつもと同じ烈しい稽古を続けていた。

しかし、とうとう安政二年(1855)六月晦日、心身共に難行苦行を続けた無理が静山の命を奪うことになってしまった。古今の名手といわれ、幕府講武所が開設され、師範として正にこれから花も実も咲こうとした時に、誠に惜しい死であった。墓は戒名「清勝院殿法授静山居士」として文京区白山二丁目の蓮華寺にある。若過ぎた行年二十七歳であった。

静山の死については異説がある。鉄舟の弟子であった小倉鉄樹は、その著書「『おれの師匠』島津書房」で静山に次のように語っている。

「静山が脚気に罹って寝てゐると、静山の水泳の師匠が、仲間から嫉妬を受けて今日隅田川で謀殺されるといふことを、母がどこからか人の話を聞いて来て静山に話した。静山はおどろいて、是非師匠の急を救はうと、褥を蹴って起き出で、病を推して隅田川に到り、水泳中、衝心して死なれたのである。然しこれは自宅で病気で死んだと云ふ説もあり、師匠の奥さんにきいて見てもさういふが、水泳中死んだいふのが本当らしい」

死因について、南條範夫「山岡鉄舟」は「水泳中に意識を失ったと言う。衰弱したからだが、もう気力だけでは持ち切れなくなっていたのだ。三日の間、苦痛にうめきつづけた。卒痛(心臓炎)と医師は診断した」とあり、子母澤寛が高橋泥舟を主題に書いた「逃げ水」では、道場で稽古中に急変し「くたくたと折れて片膝をついた。血が一筋、すうーと顎へたれて来た」と、やはり痃癖卒痛(心臓炎)としている。

鉄太郎が二十歳の時、静山は逝った。多くの門弟の中で、最も嘆き悲しみにおちいったのは鉄太郎であった。間もなく奇怪な噂が立った。蓮華寺に夜な夜な妖怪が現れるというのである。それは何ものか。次回に続く。

投稿者 Master : 13:03 | コメント (0)

2008年06月06日

5月例会記録(1)  

■上米良 恭臣氏

『遺詠と和歌で偲ぶ遊就館』

 初めに、舌足らずの弁解を!
発表後の山本紀久雄先生の講評に『靖国の話は上米良さんから、皆さんへのエールです』とありました。舌足らずとはまさにこのことです。
発表の最後に「ますらをの・・・」歌を挙げましたが、「ますらを」は男児ばかりのものではありません。「ますらを」を産み、育てる女性が必須なのです。この国を、この国の道統を守ってきたのは蔭に女性の偉大な力がありました。つまり、お話した男児、戦士ばかりではなく、良識を培った国民が総体として守ってきた。平和な時代でも「皆さんもそのお一人だ」ということです。(付記)


矢澤さんのご紹介で近代出版社とご縁ができまして、靖國に関する資料をご紹介します。先月お話したときに唐突に菊池千本槍や菊池一族のことが出てきて、どういう人たちだったのかというのが反省の中で出たものですから、そのお話をして、遊就館のお話をします。

(*資料:「菊池略系」)
菊池一族というのは熊本県の肥後の国の豪族で、藤原家から出て、太宰権師(だざいのごんのそつ)という職に就いたのが菊池姓の始まりです。池の周りにきれいな黄色の菊が咲いていたので、そこから「菊池」という姓が生まれたという伝えがあります。
經隆から分かれて西郷太郎政隆という人がいます。その末裔が西郷隆盛だと伝承されています。

隆直さんは壇ノ浦で安徳天皇側に立って戦っています。菊池一族は、天皇様側に付いて反抗勢力と戦う家柄です。武房さんは元寇のときに大活躍をされました。元寇のときの絵画『竹崎秀長の絵詞』に菊池の家紋である並び鷹の羽の旗印を持って控えておられる武房さんの姿が描かれています。
武時公は勅諚(後醍醐天皇の命令)によって、北条家が支配していた鎮西探題に討入り戦死しています。楠木正成公から「忠功第一か」と推薦があって、これから楠木家と菊池家は仲良くなりました。以後、同志として各地に転戦しています。
その子武重公は千本槍を創始されました。それまでは槍は戦場で使われることはありませんでした。これより古いものが出てきませんので菊池千本槍が槍の創始ではないかといわれています。箱根古道の脇、山中城址の三島寄りに「菊池千本槍の碑」がたっています。先月話したときに強調したのが、“両軍の御霊に恩讐を越えて祈りをささげる”と。これが肝心で大切なことです。
熊本県天草の諏訪神社の大野宮司さんから、千本槍の写真を送ってもらいました。柄が短い槍が初期の菊池千本槍です。(資料添付)
武重公は菊池家憲「よりあひしゆないたんのこと」を創った方です。この「寄合衆内談の事」が、血判がある古文書で一番古いものだと伝えられています。
第一条「天下の御大事は~」は帝国憲法に反映され、第二条は自分の議が良くてもみんなの議を優先するという合議制の言葉です。五箇条のご誓文の「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」につながったという話もあります。(回覧、資料添付)
武士公は武重公の兄弟で、若くして当主を武光公に譲られます。
近代出版社に『名画に見る国史のあゆみ』というのがあります。伊勢神宮所蔵の武光公の絵画が載っています。激戦の後に刀を洗ったら雪の上に真っ赤な血が飛び散ったことが画材になっています。(回覧)元になった頼山陽の詩(資料添付)があります。(太刀洗川。大刀洗という町名も残る)

靖國神社にはほとんどの方がお参りになったことがあると思います。下見で参拝させていただきましたけれど、一番奥の拝殿と申しまして、お食事を差しあげたり、祝詞を上げる場所のすぐ手前まで入らせていただくことができると思います。ご期待ください。

立山英夫命も菊池市の出身です。亡くなったときに懐からお母さんの写真とお母さんへの想いを綴った裏書が出てきました。それを見た上官大江一二三が詠んだ歌です。(資料添付)
「靖國の宮にみたまは鎮まるも をりをりかへれ母の夢路に」参拝者がよく詠います。
椰子の実の話がすてきです。マニラからの退却時に流した椰子の実が31年後に3000キロ離れた生まれ故郷の島根に流れ着き、奥さんの元に届いたという神秘的な話があります。

「遊就館」とは(故君子居必択郷 遊必就士『荀子・勧学編』) 
郷の元々の意味は向かい合って食事をするという意味です。好きな人とじゃないと食事したくないですよね。気持ちの良い場所にするということです。
「士」の字の構成は十と一が組み合わされています。元は一から十まで何でもできる人のことを「士」と言い、次第に力量のある人のことを「士」というようになりました。
遊びては必ず士に就く=立派な人と歓談したり、お酒を酌む意味。
幡掛正浩先生の名訳は「好かん奴とは飲まん」でした。
先生からは「四方に使いして君命を辱しめず。これを士という」(論語)を教えていただきました。
これは正に鉄舟先生のことではないかと思います。「悪衣悪食」着られない、食べられない苦労もされています。三題とも鉄舟先生のことを間近に感じられます。
一、広瀬武夫中佐も松尾敬宇(けいう)中佐もそして都竹(つづく)正雄兵曹長(飛騨高山出身)も
―菊池一族の誉れと千本槍の気概。そして「お母さんありがたう」―

広瀬武夫・松尾敬宇=菊池一族、都竹正雄=特殊潜航艇で同乗した人。
 今日お話する松尾敬宇さんは菊池の血筋で、菊池千本槍を携えて特殊潜航艇に乗り込んでシドニー湾でお果てになられた方です。
昭和16年12月8日真珠湾攻撃のときは参謀(戦全般の記録と交代要員)で行っておられます。
回天はずっと後で、一人乗りで、魚雷の発射装置はなく魚雷に跨っているようなものです。特殊潜航艇は2人乗って、一人が操縦して、一人が撃ちます。潜水艦に積んで近くまで行きます。
湾の入り口に潜水艦が入ってこられないように防潜網が垂らしてあります。松尾艇は防潜網を掻い潜って敵艦を撃ったが当たらず、敵艦の一斉掃射があり危険だと海底に3時間くらいいて、上がったら故障で魚雷が出ないので体当たりしようとしました。小説では艦橋が開いたまま沈んだとあります。アニメになりますと、都竹さんも一緒に短銃で自決をしたというお話があります。

なぜ『軍神松尾中佐とその母』という写真集にまでなったかというとお母さん(松尾まつ枝刀自)が非常に立派な方で、遊就館に和歌が展示してあります。オーストラリア海軍が敬宇大尉の海軍葬をしてくれ、遺骨も帰ってきた。戦時中はまずなかったことです。戦後お母さんはオーストラリアに招かれ、「日本の母」「勇士の母」と非常に良くもてなされ、民間外交の実を挙げられました。

ますらをの悲しきいのちつみかさねつみかさねまもる大和島根を 三井 甲之

これが靖國神社の本質ではないかと思っておりますので最後に一言付け加えさせていただきます。

【事務局の感想】
わずか60余年のことですが、今回お話を伺った高潔な話が遠い昔のことのような気がします。今回、靖国神社に参拝できることは、そのような意味でも、振り返ることができ、気持ちを新たにできる良い機会になるのではないかと思います。
 

投稿者 staff : 15:46 | コメント (0)

5月例会記録(2) 1/2 

■山本紀久雄氏

「幕末の風雲は清河八郎の九州遊説から開幕」 1/2 

 上米良さんからお話を伺いまして、靖國神社の有意義な問題だと思います。現地でいろいろお話を伺えると思います。
清河八郎の続きです。清河八郎は山形県の清河村から江戸に出てきて、最初は学者を目指しましたが、地震で1回・火事で2回、3回も自分の塾が壊れる・閉鎖することになりました。普通なら向いていないのではないか、縁起が悪いのかとあきらめるところですが、4回目にお玉が家に清河塾を作りました。

最初に塾を開いたときには塾生がたくさん入ってきましたが、今回はあまり入ってきませんでした。時代が変わって落ち着いて勉強する人が少なくなったと思ったときに桜田門外の変が起きました。田舎に知らせようと桜田門外の変について調べているときに水戸浪士の一覧表を見て、そういう時代なのかと大変なショックを受けました。一番高い身分で200石、士分ではない人もいました。自分より社会的地位が低いと思われる人が井伊大老を倒していました。儒者として儒教を教えるままでいいのか?時代を変える人間になるべきではないかと学者の道から改革・革命家の道に方針を転換しました。

大老は260年間江戸幕府の中でたかだか10名しかいません。あの有名な阿部正弘は老中首座です。そういう「大老」を倒したということは大変なことです。
お玉が池の塾の机の上から本は消えて、出入りするのは多くの浪士・浪人・幕臣、薩摩藩の人たちになりました。

1.「虎尾の会」結成。(こび)
時期は安政六年(1859)または万延元年(1860)。
「虎尾の会」とは尊王攘夷党であり、「虎尾」とは「書経」の
「心の憂慮は虎尾を踏み、春氷を渡るごとし」より起った言葉で、
「危険を犯す」という意味。

2.発起人は清河八郎以下次のメンバー。
薩摩藩   伊牟田尚平 樋渡八兵衛 神田橋直助 益満休之助
肥前有馬  北有馬太郎
川越    西川錬蔵
芸州    池田徳太郎
下総    村上正忠 石坂周造
江戸    安積五郎 笠井伊蔵
幕臣    山岡鉄太郎 松岡万

3.盟約書は以下のとおり。
「およそ醜慮(しゅうりょ・外国人)の内地に在る者、一時ことごとくこれを攘わんには、その策、火攻めにあらずんば能わざるなり。しかして檄を遠近に馳せ、大いに尊王攘夷の士を募り、相敵するものは醜慮とその罪を同じうし、王公将相もことごとくこれを斬る。一挙してしかるのち天子に奏上し、錦旗を奉じて天下に号令すれば、すなわち回天の業を樹てん。もしそれ能わずば、すなわち八州を横行し、広く義民と結び、もって大いにそのことを壮んにせん。いやしくも性命あらば、死に至るもこの議をやすんずるなし」

全生庵に盟約書の全文があるということですので、この文章と全生庵の蔵から出てくる文書は同じか、チェックしてきます。
この時代、外国人は歓迎されません。どこに火をつけるかというと影響力の強い場所である横浜居留地です。当時は横浜に外国人が住んでいました。横浜に火をつければ、目立つだろう、幕府が困るだろうと考えました。幕府は日本国内の治安を担当しています。幕府を困らせることによって、外国人は出ていってほしいというのが攘夷です。外国人に味方する人は外国人ではなくても殺してしまうと書いてあります。
ここに山岡鉄太郎がいたのです。鉄舟はそんな人だったのか?鉄舟が大好きな人たちが集っている会なのに・・・これも解明していきます。

4.「虎尾の会」に薩摩藩の益満休之助がいたことの事実は重要。
この時代ほとんどの人が攘夷です。インフレも起き、習慣の違いで色々なトラブルが起きました。自然の感情として外国人が居なければ良いのにと考えたのが攘夷です。
一般の人は思うだけですが、志がある人たちは集まって勉強会しようというのが尊王攘夷党と考えてください。

会員のあさくらさんが埼玉県の公文書館に清河の資料があり「当時の清河八郎の人気ぶりがわかります」とコメントを寄せてくれました。
清河は当時日本で一流の志士でした。清河八郎の言っていることが受けたということです。今では策士と言われますが、当時は人気でした。そうでなければこんなに人は集まりません。あれだけの学問・知識を持ち、旅した記録を作って、自分の儒学の知識と各藩の歩いたところを考えているから、普通の人の空理空論とは違うわけです。鉄舟もあった瞬間から引き込まれました。
清河はどんな人間かをイメージで考えると、勝海舟に似ているような気がするんですね。頭が良いこと、相手の話をひっくり返して、自分のほうに持ってくるところです。海舟は清河を嫌いました。同じ型の人間は嫌いなんですね。同じ性格よりも違う性格が良いものです。清河八郎の才気に国際的要素を加えたのが勝海舟だと思います。

先日サンフランシスコに行きました。アメリカで最も美しいといわれる美術館(カリフォルニアリジェンドオブオーナー)のひとつに行きました。美術館の庭に勝海舟が来て100年という碑が建っていました。
勝海舟は咸臨丸の副艦長として海外を見ていますね。勝海舟は苦労しているけれど、清河は実家がお金持ちですから苦労していません。清河は育ちが良くお金の苦労がないですから勝海舟より純情です。手練手管があるのが勝海舟だと思います。
虎尾の会に益満休之助がいたことが大変な縁ですね。鉄舟が駿府に行ったときの通行手形は薩摩弁で、品川を越えたら官軍が居て、総大将は長州と薩摩ですから薩摩弁でしゃべれば通行できたでしょう。益満休之助が同行して薩摩弁をしゃべったから鉄舟は駿府まで着きました。

「幕末の風雲は清河八郎の九州遊説から開幕」 2/2 に続く 

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5月例会記録(2) 2/2 

■山本紀久雄氏

「幕末の風雲は清河八郎の九州遊説から開幕」 2/2 

5.お玉が池・清河塾土蔵の中での「豪傑踊り」
10年前に鉄舟と益満休之助はこの清河塾で意見を戦わせ、豪傑踊りをした仲です。なぜ「豪傑踊り」をしたかを考えないといけません。
すべて物語には背景・ストーリーがあります。一流の人はやることに意図があります。世の中に妥当な正しい意図がある人は時間とともに伸びていきます。意図が悪い人は時間とともに問題を起こしていきます。


防衛庁の守屋次官が国民のためにゴルフ接待を受けたのでしょうか。ゴルフ接待を受けた!ということはその結果何か悪いことをしているに違いないと疑いを持たれるでしょう。誰が考えても悪いことしていると思うでしょう。

清河塾の土蔵の中で話しあっていました。必ず「いつ火攻めをするんだ!いつ横浜居留地をやるんだ!」という話しになります。ちょっと待てと鉄舟がいつも止めました。酒を出して裸になって踊り、他の人も踊りだし、踊り疲れるとまた酒を飲みました。清河の家はお金持ちだから酒はある、あそこに行けば旨いものがあるから集まった人もいると思います。酒を飲む、踊る、疲れて寝てしまうと火攻めできません。鉄舟が豪傑踊りを考えたんですね。

静岡の牧之原台地で茶畑を開墾していた中条景昭も豪傑踊りに加わりました。
「今になって思えばまるで山岡に馬鹿にされていたようなものだ。なにせ山岡が士気を鼓舞するのだといって、真っ先に素っ裸になって樽を叩き出すのだから。それに乗って皆が裸で踊り出したのだ。まさか裸じゃどこにも行けない。」

鉄舟は幕臣ですよ、横浜居留地を襲撃したら幕府が困るでしょう。江戸の真ん中に生まれ育っているのだから、普通の人間なら日米和親条約、日米通商条約を結び、五カ国と通商が始まっているのに、それを攘夷として国際条約をひっくり返すことはできないでしょう。開国してしまっているのだから、普通の感覚だったら受け入れざる得ないことです。そういう理由もあって、横浜居留地を襲撃できません。そういうことを直接攘夷の勉強会で言えません。違った方法でやらせなきゃ良いわけです。それが豪傑踊りになったんだろうと思うわけです。

天狗党も木戸孝允も横浜居留地を攻めようとしていました。幕府が開国の条約をしたことを違勅として攘夷をさせようとしていました。結局実行できないまま終わりましたが。

渋沢栄一は幕末パリに行きました。お金がないので、フランスからお金を借りて帰って来ました。銀行とはこういうことかと学んで銀行を整備した人です。徳川家は70万石では食えません。徳川の武士に何をさせようかと考えて、生糸の生産かお茶の生産はどうかと渋沢栄一が考えました。その柱を支えたのが、鉄舟です。

6.「浪人運動では力が知れている。ろくなことは出来はせん」
・・・維新の三傑の一人、大久保利通の見解

火攻めはできませんでした。大久保利通の発言は、大きな事業・大きな改革は組織でしなきゃだめということを意味しています。
薩摩藩77万石が財政を良くし武器をイギリスから買って、薩長と提携して向かって来ました。
薩摩は赤字財政で、それを立て直したのが家老の調所笑左衛門です。お金を削るだけではなく稼がなくてはだめです。薩摩は琉球国を支配しました。イギリスもフランスも琉球国に来て貿易するわけです。貿易して巨額の利を得ました。
開国しても幕府以外は外国と取引できないのも不満の種でした。
幕府に取引することを申し出しようとして、調所笑左衛門は阿部正弘の元に申し出に行きました。阿部正弘の外部ブレーンは薩摩の島津斉彬だったので、阿部正弘は斉彬さんがそういうならと見逃しました。
 篤姫は家定将軍の3人目の奥さんで、2代目の奥さんは小さかったらしいですね。

駿府で西郷隆盛と話をつけたのは鉄舟さんですか?と読売新聞から問い合わせが来たので、資料をつけて送りました。篤姫が功績を担ったのですか?と。
和宮(静寛院の宮)と天璋院が慶喜に言われて動きました。本人たちが行かないで、土御門という侍女に行かせました。
西郷隆盛は確かに使者が来たけれど、よろしゅうお願いしますと頭を下げるばかりで目的がよく分らなかったといっています。そのときに鉄舟が来て交渉しました。交渉するには、何のために行くかを持っていかないと交渉できません。
仕事行くときも売ってこようか、売らないでおこうか、目的をはっきりさせないでお願いしてもだめです。
慶喜の命なのか、徳川幕府なのか、江戸城攻撃をさせないのか、そういうことをはっきり指示していたのだろうか。
それに対して鉄舟は時の政治権力者である勝海舟に相談しました。それが鉄舟の強みです。

薩摩藩が京都で動いても幕府は気にしません。井伊大老が暗殺されてもびくともしません。老中が辞めても次から次と出てきます。組織の力で相手の力に勝るものがなければできません。武力、体力、財政力。清河は個の力でどうにかしようとして失敗しました。テロリストです。
鉄舟は個の力で相手を変えました。組織の場合は、組織対組織です。個の場合は、相手の意思決定のできるトップの人間に直接合うことができれば、個の力が生きます。鉄舟は西郷隆盛に会ってそこに全力を尽くして海舟と相談したことを伝えました。それによって江戸無血開城が成り立ちました。
なぜ薩摩藩・長州藩が幕府に勝てたか、それは、組織対お金と武力を十何年も掛けてやってきたからです。個の人間ができたのは別の筋です。それが鉄舟の偉大さです。
個の力を出すには、相手のトップと話をつけられる人間でなければだめです。
駿府に行くまでには益満休之助がいました。益満休之助は豪傑踊りをした仲であることを海舟は知っていて3日前に牢屋から出していました。
清河八郎が塾を開かなければ、益満休之助と鉄舟は知り合わなければ、あ・うんの呼吸で東海道を走れなかったでしょう。清河は江戸無血開城のひとつの因子を作った人物として記録に残すべきだと思います。

7.全国を逃亡する。
清河八郎は有名になってきまして、水戸天狗党と提携を取ろうと水戸に行きました。天狗党は幕府から睨まれていますから目をつけられました。土蔵の中にいろんな人間が出入りしていることを幕府は逐一わかっていて捕まえるチャンスを狙っていました。まとわりついた岡っ引を斬って清河八郎は幕府のお尋ね者になって逃亡生活に入りました。逃亡が清河八郎を出世させました。

8.「廃帝」の噂。
塙次郎に調べさせて孝明天皇を辞めさせてしまうという「廃帝」の噂を聞いた清河はそれを武器にして九州に遊説に回りました。幕末は九州の遊説から始まったと司馬遼太郎先生もおっしゃっております。次回は遊説の内容についてお話いたします。


【事務局の感想】
「浪人運動では力が知れている。ろくなことは出来はせん」
武力、体力、財政力、個か組織か、如何に優秀でも、どこで、どのようにするかを
間違えるとその力を発揮することはできないということですね。
次回は7月になりますが、まだまだ鉄舟研究は続きます。
                       

以上

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