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2006年10月28日

10月例会記録(2)

■ 山本紀久雄氏
 
 修身二十則

いつも二見さんから教えてもらうことがある。日本の中で二見さんのような方が、しかも身近にいるということはすごいこと。

鉄舟会で勉強する目的は、山岡鉄舟がなぜすごい人間になれたか、その解明をしたいと私自身は思っている。鉄舟に関する本はたくさんありますが、鉄舟が何をやったかという過去の話しか書かれていない。知識としては勉強にはなる。しかし、鉄舟はどうして偉業を成し遂げたのかが書かれていない。例えば、どうやって西郷隆盛を説得・納得させたのか。鉄舟が動いた結果、ドラッカーが「世界の奇跡」と評価する明治時代になった。なぜこのような改革を起こせたのか、鉄舟はどのように自分自身を磨いたのか。行動ではなく、気持ちの部分を解明したい。

仕事とは問題解決。問題を解決しようと思ったら社会とのぶつかりがある。壁がある、壁の前で帰ってきたらその人は何もできず小さい世界に入ってしまう。壁を越えようとする強い意志。鉄舟はどうやって、その意志をもてるに至ったのか?
慶喜から指示を受けて業績を上げたのか、なかなか難しいが解明したい。

二見さんの講演であった「10円の日供」で思い出したことがある。アメリカの地下鉄に「小銭を大事にしましょう」という広告が出ていた。小銭とは1ドル以下。アメリカ人は計算が良くできないから、札で買い物して、小銭はどこかに失くしてしまう。その小銭を貯金しませんか、ということが地下鉄の中に書かれていた。


安倍内閣の最重要項目として、日本の教育再生会議の第一回目が行われた。
座長が野依先生(ノーベル賞受賞、理化学研究所所長)。居酒屋と介護施設をやっている渡辺社長(ワタミ社長)もメンバー。
座長も大事だが、実務的なことを担当する座長の補佐役も大事。その補佐を行う座長代理に知っている人が就いた。資生堂の相談役の池田守男さん。
池田さんは資生堂の社長も勤め、現在は相談役。

安倍さんが一番大事にしたいといっている教育再生会議の座長代理に、ただ社長を務め、相談役をやっている人を任せることはしないでしょう。
座長代理になぜ池田さんを指名したのか。池田さんは、若いときから新渡戸稲造の『武士道』を読んでいた。海外出張にも持っていき読むほど、武士道を熟読玩味し、実践されている。
教育再生会議は武士道精神が生かされた~今の次代の中に古いと思われているが~その精神が生かされた内容になる。
武士道を体得した人が国の全体の流れをつくるポイントに居る、と理解してほしい。

NYは日本人気。一番驚いたのは、居酒屋。イーストビレッジに日本の居酒屋があり、40分待って入ることができた。客層の7割は日本人。日本の居酒屋と同じだから簡単に注文が出来る。会計は5人で120ドル、1人2800円と日本と同じくらいの金額で居酒屋を体感できる。
日本の日常生活が世界のNYでそのまま表現されている、ということを言いたい。
日本マンガは、日本の日常をマンガにしている。日本の日常起きていることがマンガになり、それが、英語・ドイツ語・フランス語に訳されている。外国の人たちはマンガを読みながら日本の生活を見ている。
日本人の日常生活が外国で実現されていることは日本文化のソフトパワー、と日本経済新聞の論説員は言っている。

NYで、居酒屋やマンガ、レストランに実際に行く、レストランを作るポリシーを聞くと「日本のそのままがいい」という。
東京でオペラ公演できることが、世界の歌劇団のステイタスだという。今の日本の姿が、外国人が見たら憧れの的である。日本人は卑下することはない。
戦後ひたすら経済大国を目指し、自らのソフトパワーの可能性に気づかずにいた。
私も今回のNYで同感した。

NYは競争で勝たないと敗北者になるところ。競争とは生きる競争のことで、生きる競争とは、目的意識のこと。目的意識を持たずにNYに来ても中途半端になる。生きる基準が明確であると勝者の道に近づくが、ないとNYに弾き飛ばされる。

NYは不安定なところ。安定を求めて生きている人もいるが、不安定であることが普通。不安定の中で目的を持って勝ち進まなければならない。不安定さがNYは見事に表現されている。

なので、いろんなことに疑問を持つことが大事。疑問に感じたことは素直に質問する。疑問と懐疑は違う。疑問は質問であり、ディベートは質問会。疑問に思っても聞かないでいると、弾き飛ばされる。
グローバル化とはディベートができるということ。教育再生会議のメンバーも発言が出来る人。議論が出来る人が経済財政諮問会議のスタッフ。
NYのソフトパワーを正しく理解すると同時にNYの良いところも受け入れなければならない。

1.明治天皇の扶育係

鉄舟は明治天皇の侍従になった。孝明天皇が突然亡くなられ、明治天皇は15歳で天皇になられた。それまでは京都の御所で女官たちに育てられた弱々しいイメージの天皇だった。当時日本は帝国主義の君主と張り合っていかなければならなかった。よほどの人でないかぎり、当時の混乱する政局をリードできる知識や経験はない。環境を変え、英語・ドイツ語・日本語・習字・・・各教科の専門家が明治天皇についた。では、鉄舟は何を教えたのか?西郷隆盛は何のために鉄舟を侍従にしたのか?

勝海舟の研究家、江藤淳先生の著書『勝海舟全集』に勝海舟が語ったという内容が書かれている。
天皇をこのままにしちゃいかん。なよやかなものでは、いけない。武士的でなければならない。

扶育とは「世話をして育てる」という意味。天皇を世話して育てるとき、天皇に足りないのは民間の経験。鉄舟は極貧の生活をした経験もある。


2.明治天皇紀に見る鉄舟の実態

天皇陛下と鉄舟の接点については記録がない。何時に起床して就寝するかまで記録されている天皇紀というものがあるが、そこにも鉄舟については書かれていない。


3.明治天皇は鉄舟の何を高く評価したのか

NYコロンビア大学のドナルド・キーン教授が書かれた『明治天皇 上下巻』に一箇所だけ、明治天皇の酒の強さについて書かれている箇所がある。
明治天皇は、山岡鉄舟、明治天皇の外祖父中山忠能大納言(明治天皇の母親の父親)を度々召し寄せて、酒宴を開いたという。

ご自分のことを考えてみてください。嫌いな人と酒を飲みますか?お酒は気が合った人と飲むのが一番でしょう。
明治天皇の酒を呑む相手になっていたということは、気が合うということ。
酒を飲みながら、鉄舟はどんなことをしゃべったと思いますか?自分が経験したことを話すでしょう。それが天皇の内に入っていったのではないか。

人間はどういう思想を持つべきか、が潜在的にある話しを好んだ。明治天皇は明治時代の最高のリーダーで、どうこの国を治めていくか考えている。鉄舟と酒を飲みながら学ぶことがあったでしょう。
4.鉄舟の整理する力

鉄舟23歳のときに「宇宙」という言葉を使っている。宇宙を天地と区分けし、外国と日本に分け、日本の区分けした中には「徳川幕府」が入っていない。勝海舟が咸臨丸でアメリカにわたる2年前に、鉄舟の頭の中には民主主義思想が入っていた。

民主主義的な思想を持っていながらも日本古来の武士道精神も持ち、それが明治天皇に入っていった。当時は、各国の帝国と伍していくような、大変な時代だった。
この立派な明治天皇の、頭が柔軟な15歳の時代に居たのが鉄舟だった。


5.修身二十則

鉄舟は、嘉永3年正月(鉄舟15歳)に、この修身二十則を書いた。
奇抜なことはなく、平凡とも言える内容。日常できることが書かれている。書く人は沢山いる。書いたことを実行する人は極僅かいる。


6.無私の精神

無私の精神を養うには、1つ目は真実を判断する公平な目が大事。偏向した頭では真実を判断することはできない。2つ目は、強い意志。強靭な思考。どんな困難があってもやる。大きな問題は時間をかければできる。目の前にお菓子が山のようにあったとして、今すぐには食べ切ることはできないが、毎日少しずつ食べれば、食べきることができるでしょう。すぐに出来ないことを困難という、強い精神力、時間を考えれば、困難は乗り越えられる。


7.鉄舟精神の解明の旅はまだまだ続く

人のやらないことをやるのが成功するポイント。鉄舟の研究もやることが沢山ある。明治天皇を扶育したこと。明治天皇は明治時代の君主として立派だったことは、酒を呑みながらの鉄舟のちょっとした一言、態度から、思想的に明治天皇が吸収したのではないか。民主主義思想である宇宙の思想。修身二十則を決めたこと。

どうやって二十則を決めたのか?いつ勉強したのか?高山時代の資料を見ると、お寺の鐘楼を外してもってこようとした。そういうことしか書いてない。○年○月に何があったかではなく、その歴史の裏側を研究して解明していかなければならない。
裏にあるものを組み立てて、検証しないといけない。
鉄舟の研究する旅はまだ続きます。これからも皆様お付き合いください。

修身二十則

1.うそはいふ可からず候
2.君の御恩は忘る可からず候
3.父母の御恩は忘る可からず候
4.師の御恩は忘る可からず候
5.人の御恩は忘る可からず候
6.神仏並に長者を粗末にす可からず候
7.幼者をあなどる可からず候
8.己れに心よかざることは、他人に求む可からず候
9.腹を立つるは、道にあらず候
10.何事も不幸を喜ぶ可からず候
11.力の及ぶ限りは、善き方につくす可く候
12.他をかへりみずして、自分の好き事ばかりす可からず候
13.食するたびに、かしょくのかんなんを思ふ可し、すべて草木土石にても、粗末にす可からず候
14.殊更に着物をかざり、或はうはべをつくらふものは、心ににごりあるもと心得可く候
15.礼儀を乱る可からず候
16.何時何人に接するも、客人に接する様に心得可く候
17.己の知らざる事は、何人にてもならふ可く候
18.名利の為に、学問技芸す可からず候
19.人にはすべて能不能あり、いちがいに人をすて、或はわらふ可からず候
20.己の善行をほこりがほに人に知らしむ可からず、すべて我が心に恥ぢざるに務む可く候

 嘉永三年庚戌正月 行年十五歳の春謹記
                        小野鉄太郎


【事務局の感想】
鉄舟は弱冠十五歳にして修身二十則を記し、己を律したそうです。このこともまた、行うは難しと感心してしまうばかりでした。
また、鉄舟は同じく弱冠十五歳の明治天皇の扶育係として、天皇の思想形成に少なからず影響を与えたであろうことを解説していただきました。人間としての生き方、思想などにもっとも敏感で多感な時期に、明治天皇は鉄舟からどんなことを教わったのでしょうか。残念ながら明確な史料は残っていないそうですが、山本さんの鋭い分析になるほどと思うことしきり。今後の研究発表がますます楽しみになりました。

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10月例会記録(1)

■ 二見健吉氏

 現代に生きる武士道   
      第7講 武士道の現代への生かし方

現代に生きる武士道を講演させてもらっている。
本日は、武士道を現代に生かす参考事例をお話させていただきたい。

36年間サラリーマンで勤め、今年6月末に定年退職した。
合気道を大学の1年生から始め40年やっている。
山岡鉄舟の春風館(剣道の道場)からお名前をいただき、春風会という名前で合気道を実践している。
合気道をやっていても、道場の中で技を伝えることはできるが、心を伝えることは難しい。
素晴らしい日本の文化を次の世代に伝えたく、40歳のときに『春風』という雑誌を発刊した。

「春風」には、鎌倉の円覚寺を立てられた無学祖元の言葉であり、国を守るという意味がある。
また、春風という字は、優しい、国を守る、の他に、人のために尽くすという意味も持っている。「春風」というのは鉄舟先生の意を継いで、伝えていくには良い名前。

全生庵のお坊様に春風という字を書いていただいて、その文字を雑誌『春風』の表紙に使わせてもらっている。情熱・意欲は続いて、若い人に伝えていこうと思う。


   ▼二見の考えと実践例 
 合気道は、ただ護身術に終わるのではなく、護心道にまで昇華する必要があると考えています。合気道は、武道であり、日本の伝統文化であり、武士道精神を生活で実践できるよう教育(躾・感謝・徳育)をしていきたい。二見の実践例を紹介します。
  
『武士道』は、新渡戸稲造先生が出されたもの。この武士道は、日本の精神の根幹なのではないか。武士道について徳目がある。7つの徳目、徳目の中に17章ある。ひとつの例で言えば、「誠」とは、言ったことを成すことが誠。徳目で理解していても実践しなければならない。
武士道の中に日本人が出ているが、西郷隆盛が一番多く登場する。その西郷隆盛が、おぬしやるな!と思った人が山岡鉄舟。山岡鉄舟について勉強しなければと思って、勉強している。
知識と行いと一致することは陽明学の真髄。陽明学を学んだ西郷隆盛も実践している。
吉田松陰の孫弟子にあたる品川先生を師と仰いで、教えを受けている。


[行動規範]
心を求めること。志を立て、理解し、実践する。次に実践していることを伝える。
理解して実践するだけではなく、次代に伝えることが行動として大事だと自分は思っている。

   1 日本の心、先師の心を求める。 ・・ 立志
   2 求めたものを理解し、実践する。・・ 知行合一
   3 実践した事を、次代に伝える。 ・・ 教育  

  [江戸/明治時代と異なる現代]
   1 地球環境保全を考えねばならなくなった。
地球環境保全を考えなければならない。新渡戸稲造が『武士道』を書いておられた頃は考えなかった。
ソウルオブジャパンではなく、ソウルオブジアース。
日本の宝ではなく、地球の魂であるべきだと考えている。

   2 寺小屋教育時代にあった、師を敬う、親を大事にする躾がなくなった。
師を敬うこと。一騎当千の人物、一人にお会いしたら千人の先生にお会いしたような先生に、求めれば必ず、お会いできる。

  第一 合気道において
今5箇所で合気道を教えているが、合気道では、礼儀を厳しく伝える。

  1 稽古中、「礼」儀を厳しく躾ける    「礼」
  2 稽古後、春風会の四弘誓願を斉唱   「義」・・ モラルを守る
     私は先に挨拶をします     私はきちんと背骨を伸ばします 
     私はきちんと履物を揃えます     「礼」「勇]
     私は約束を守り、徳を施します。 「誠」・・約束を守る
これは、稽古のあとに復唱している。
  3 小学生に対し、日本の伝記漫画の貸出 
  4 14才に対し 立志式の企画実施 「正義の道理」
  5 感謝の気持ちを高揚させる為、   「仁」・・武士の情け
     十円「日供」とその奉納。 社会福祉  交通遺児基金
生徒さんには稽古に来ることができるのは、経済面、両親の健康、などいろんな事情が良くて来ることができていると伝える。その皆さんのおかげという気持ちで10円を社会福祉に奉納。

  第二 会社において       「勇」
  1 師友読書会の開催 月一回 「道元」・「大いなるものへの信頼」
  2 東海道クリーン作戦の実施 年九回。落ちているゴミを拾う。
  第三 地球環境ボランティア 
忠義というと国という単位になるが、今は地球に対する忠義ではないか。


1 内蒙古の沙漠植林に参加 
日本から一番近い砂漠・内蒙古ホルチンで砂漠植林をさせていただいている。皆さんからいただいたお金6万円くらいを砂漠の植林に寄付したら、ホルチン砂漠の小学校に運動場ができた。
  2 静岡県中伊豆における植林    
  3 烏雲物語を地元小学校に寄贈  「忠義」
  4 読後感想文の募集と表彰。   「勇」
『烏雲物語』、この本を子供たちに読んでもらいたくて学校に寄贈した。
本当に読んでもらわないと困るので感想文を募集したら、30人~40人の人が応募してくれた。今年5回目を開催します。
  5 ネパール植林への支援 師友読書会の会費 全額を寄付。
  6 荒れたみかん山を蘇生するボランティア参加

  第四 その他
  1 山岡鉄舟研究会で、武士道の源を考える。
  2 「仏国土をつくろう会」 の運動方針に賛成
     1) 延命十句観音経の写経 
     2) 十円日供運動の実践 ・・インドの学校教育 病院に寄付
  3 「無財の七施」の実践
    私は、「無財の七施」を名刺大にして、真民さんの「念ずれば花ひらく」と一緒にして,縁ある方に配賦させて戴いている。
人に親切すると帰ってくる。お金をかけずにできることはある。地球は運命共同体。

    春風会 実践事項    
      無財の七施(むざいのしちせ)
眼 施(やさしい眼をして人に接する) 
和顔施(ほほえみある顔で人に接する)
  言辞施(親切な言葉で人に接する)
身 施(礼儀正しく人に接する)
  心 施(感謝の心をもって人に接する) 
牀座施(席を人に譲ること)
  房舎施(気持ちよいもてなしをする)              
  4 「地球は家族、運命共同体」   身の丈に応じた寄附  「仁」
    日本ユニセフ  難民を助ける会  
    日本キリスト教海外医療 地震等のさいの被災地への義援金

  ▼徳を天に積む  お返し
 天国に、「徳」という無形の貯金を積んでおくこと、これを積徳といいます。すると必ず「善」という無形の利息が返ってきます。
 「徳」は、先述したことの一つ一つです。例 挨拶 履物を揃える 掃除
 善因善果(善いことをすると善いことが返ってきます)。逆に悪いことにも同じようにいえます。悪因悪果です。これをまとめて仏教では因果応報といいます。
 十円の寄付と百万円の寄付は、人間界では差がある。しかし天界では、同じ価値である。
 「ツイて いること」を感謝し、それで終わらしたら、それで終わりです。
 大事なことは、感謝を具体的な実践でもって他に奉仕する。言葉を変えていえば、お返しする。恩返しをする。そのお返しは、人間界では、大小がある。例 ゴミ拾い、学校を建てる。しかし天界では、同じ価値である。
 私は、昨年の十一月十三日(父の逝去)から、今年十月現在まで、
 「ツイて いる 有り難い」思う日々が続いています。感謝。感謝です。

 私の使命は、合気道という宝を磨き、「稽古作徳」「人造り 国造り」です。
   私の武士道は、 「The Soul of Japan 」(新渡戸稲造)でなく
    徳及び地球環境をも考えた 「The Soul of the Earth」 です。 
「春風」誌の役割  二度と無い人生を 勇気と感謝で生きる為のヒントの提供
     日本の先師の紹介・二見自身の実践事例の紹介 

今日徳島から帰ってきた。『烏雲物語』を読んでもらいたくで、300冊寄贈をしようと思ったら、絶版だった。退職金の中から100万円預けるから再販してほしいと出版社へ情熱で頼んだら。とりあえず500冊再販してもらえた。
そのお礼のために徳島に行った。徳島県の博物館に山岡鉄舟の書があると教えていただき、見せていただいた。次の『春風』に掲載します。
最初にベートーベンを演奏したのは徳島県で大正6年だそうだ。
ドイツの俘虜が徳島に集まっていた。
『烏雲物語』から発生して、いろんな出会いがあり、天が私を助けてくれていると感じた。

生きている感じがしない。生かされているという感じである。
『春風』誌は二度とない人生を勇気と感謝の小さな種を撒くことを提供するための本。自分の体験を書きながら発行して、この世を素晴らしい国にしたい。それが武士道かと思う。鉄舟会や会社、いろんなところでお話しをさせてもらっている。この社会をよくする一滴になればと思っている。
  
                                  

【事務局の感想】
今回は第7講として、二見さんご自身が武士道を日々の生活にどう活かしておられるかをお話しいただきました。武士道の精神を実際に実践しておられる二見さんのお話には迫力があり、まさに「言うは易し、行うは難し」を地でいく素晴らしいものです。そう簡単には真似できません。このようなすごい方がメンバーでいてくださることを誇りに思います。


投稿者 staff : 13:10 | コメント (0)

2006年10月20日

11月例会のご案内

11月例会のご案内です。

講師は、金子と山本さんです。
金子は9〜10月にかけて行ってまいりました、ニューヨークでのぬりえ展の報告をさせていただきます。
山本さんには、鉄舟研究を発表していただきます。

11月例会
日時:11月15日(水)
場所:東京文化会館 中会議室1
時間:午後6時30分〜8時

参加のお申し込みは「例会参加申し込み」ページよりお申し込みください。
http://www.tessyuu.jp/reikai_sanka.htm

11月も例会へのご参加お待ち申し上げております。

投稿者 lefthand : 01:29 | コメント (0)

2006年10月10日

随行する薩摩藩士・益満休之助

 随行する薩摩藩士・益満休之助
  山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

徳川慶喜から官軍との交渉について、直接指示を受けた鉄舟は、慶応4年(1868)3月5日、赤坂・氷川神社裏の海舟邸を訪ねた。玄関口で厳しく警戒されたが、ようやく海舟と会えた経緯については既にお伝えした。
だが、海舟邸に益満休之助がいることに鉄舟は驚いた。

薩摩藩士の益満休之助がどうして海舟のもとにいるのか。鉄舟と益満とは、お互い若い頃「尊王攘夷党」で意気投合した仲間であった。尊王攘夷党とは、清河八郎を中心に安政6年(1859)又は万延元年(1860)に結成したといわれる、別名「虎尾の会」ともいう勤王鎖国論者同士の秘密結社であった。当時、鉄舟は23・24歳、氷川神社裏の海舟邸を訪ねたときは32歳、約10年前に益満とは尊王攘夷党で活動しあった親しい関係だった。
尊王攘夷党の中心人物である清河八郎については、後日詳述しなければならないが、若き鉄舟が深く付き合い、影響を受けた人物である。しかし、概して清河八郎の評価は芳しくない。清河八郎と関わったことが、当時「山岡鉄太郎は危険人物だ。海舟を狙っている。注意しろ」と、大久保一翁から言われ警戒される素因となっていた。
司馬遼太郎は清河八郎について、その著書「奇妙なり八郎」の中で「憤怒せよ、と無位無冠の浪人のくせに天子まで煽動した幕末の志士は、おそらく清河八郎をおいていないだろう」と述べ、あまり高く評価していない。
しかし、藤沢周平はその著書「回天の門」で「誤解は、八郎の足跡を丹念にたどれば、まもなく明らかになることである」と書き、「ひとり清河八郎は、いまなお山師と呼ばれ、策士と蔑称される。その呼び方の中に、昭和も半世紀をすぎた今日もなお、草莽を使い捨てにした、当時の体制側の人間の口吻が匂うかのようだといえば言い過ぎだろうか」と同じ山形県同郷出身者としての気持ちを込めて述懐している。

さて、氷川神社裏の海舟邸に戻りたい。海舟が「旗本山岡鉄太郎に逢う。一見その人となりに感ず」(海舟日記3月5日)とあるように、鉄舟と会った海舟は、今までの誤解・懸念を解くとともに、駿府行きについて「臨機応変は胸中にある」と「縷々と説明し、その毅然とした決心の固いのには感服した」と鉄舟を認め、この出会いを「莫逆の交わりを結ぶ媒介となった」(勝部真長編『山岡鉄舟の武士道』)と述べているほどである。
そこで海舟は「おれは手を拍って『よし、かくまで至誠確乎たる決心ならば、よもや仕損じはあるまい』と答えて、薩人益満休之助を随行させ、更に西郷に宛てた添書を与えた」(勝部真長編『山岡鉄舟の武士道』)のであった。
この益満が海舟邸預かりになった経緯は、海舟日記(3月2日)に「旧歳、薩州の藩邸焼討のをり、訴え出でしところの家臣南部弥八郎、肥後七左衛門、益満休之助らは、頭分なるを以て、その罪遁るべからず、死罪に所せらるゝの旨にて、所々に御預け置れしが、某申す旨ありしを以て、此頃このひと上聴に達し、御旨に叶ふ。此日右三人某へ預終はる」とあり、この目的は対官軍用の工作要員として、牢から引き出し受け入れたものであった。しかもそのタイミングは鉄舟が訪れる3日前の3月2日という絶妙さであった。さすがに政治的能力の高い海舟の直感行動力である。

ここで薩摩藩邸焼討について触れないと、益満と海舟の関係が整理できない。薩摩藩の上屋敷は三田四国町にあった。今の港区芝三丁目のセレスティンホテルあたりである。広大な敷地の藩邸で、ここを幕府のお雇い武官であるフランスのブリューネも参加し、砲撃を加えたのである。攻撃の主力は庄内藩で、その他に上之山藩や鯖江藩なども加わった。
この経緯について「徳川慶喜公伝4」(渋沢栄一編)と、当時、外国奉行並町奉行であった「朝比奈甲斐守昌弘(閑水)」の手記を要約してものが「西郷隆盛」(海音寺潮五郎著)にあり、それらを整理すると次の通りである。
「慶応3年10月頃から江戸市中で、強盗が富商の家に侵入して、江戸府内をさわがせたので、町奉行で調査したところ、このうちの七八人あるいは十人余の賊は三田の薩舟邸から出ていることが判明した。しかし、この頃の町方与力や同心らは軟弱な輩ばかりで、手に負えないので、庄内藩主酒井忠篤に市中の取締りをさせることにしたが、なおやまなかった。酒井家に新徴組を所属させて、これもまた市中巡視にあたらせたが、やはりそれほどの効果はなかった。
幕閣では種々協議したが、薩摩藩邸を攻撃すべきという意見と、事前に京都にいる慶喜の指示を仰ぐべきであるという意見が対立し、議論は三昼夜に及んだが、朝比奈の意見で慶喜の指図を仰ぐという意見が通ったのが12月24日。この決定を早速攻撃派に伝えたが頑強に抵抗され、すぐに攻撃すべきだと逆に強行主張され、圧され、とうとう閣老らは攻撃策に踏み切ってしまい、翌25日、遂に薩摩藩邸とその支藩佐土原藩の三田の邸を焼いた」
 この薩摩藩邸焼き討ちのときに、首謀者として捕らえられたのが益満であった。幕閣の協議で擦った揉んだのあげく、ようやく決定した薩摩藩邸攻撃であるから、簡単に首謀者の益満を牢から釈放放免できるはずがない。しかし、益満は海舟によって助け出され、それも鉄舟が訪れることを分かっていたかのように、3日前から海舟邸にいたのである。
ここで分かることは海舟の権力である。鳥羽伏見の戦いを誘発した薩摩藩邸焼き討ち、その要因を謀った死罪となるべき敵方薩摩藩の政治犯を、釈放放免させることができる権力、それは、この当時、海舟が徳川政権の実権を握っていたことを証明するものであった。
何故にこのような権力を持ちえたか、これについては当時の幕府内の政治的動向と、諸外国との関係を解説しないと分かり難く、これも後日詳述したい。

 ところで、海舟はいつ益満と知り合っていたか。益満を和平工作の武器として使える人材であることを知っていたからこそ、海舟は益満を牢から出したのである。ということは益満をよく知っていたということになる。
 海舟が益満を知った経緯は諸説ありはっきりしないが、当時、海舟のところによく出入りしていた薩摩藩江戸留守居添役の柴山良助が、益満を海舟邸に連れてきたのではないかと思われる。柴山良助は西郷の添書をもつて、初めての江戸留守居添役着任時に挨拶に来たことから、その後、しばしば海舟のところに出入りするようになっていた。これには元治元年(1864)9月、大坂で海舟と西郷が会談し、海舟が展開する時局展望に西郷が驚嘆し、以後、海舟を高く評価し、柴山に海舟と親しくするよう西郷が指示したという背景が存在した。なお、文久2年(1862)4月の伏見寺田屋事件で、殺された柴山愛次郎はこの柴山良助の弟である。
 
 この当時、海舟は官軍との打開工作に手詰まって苦しんでいた。その打開のための和平工作要員として薩摩藩士三人を確保したのであるが、そのタイミングを計ったように、3月5日にいたって身の丈六尺有余という一人の剣客、鉄舟があらわれたのであった。
 和平工作要員としての薩摩藩士三人は、江戸留守居役南部弥八郎、同添役肥後七左衛門と益満であったが、海舟が益満を選び、鉄舟に随行させることにしたのは、尊王攘夷党時代の鉄舟との関係を知っていたからと推察できる。
 さて、鉄舟が記した「西郷氏と応接之記」からその経緯をみてみたいが、文章が漢文体のため口語体に大意を書き直し紹介したい。
「江戸を出発し、品川、大森を過ぎて、六郷川を渡ると官軍の先鋒が銃列をなして満ちていたが、その中を鉄舟と益満は誰何されることなくすたすたと歩いていった。
 ふと見ると、隊長の宿舎らしきところがあった。鉄舟は中に案内も乞わずに宿舎に入って行き、隊長はどこだと尋ねた。その尋ねた先に隊長と思える面構えの人物がいるので、この人物を後から聞くと篠原国幹であったが、その篠原の前で
「朝敵徳川慶喜の家来、山岡鉄太郎、大総督府へまかり通る」と怒鳴った。
「えっ!。朝敵!。トクガワヨシノブ!」と篠原はつぶやく。
篠原は誰のことなのか、咄嗟に分からなかったのだ。当時の習慣で将軍については直接名前をあげることなく、敬称として将軍、大樹公、上様などと称することが常識であった。
また、徳川将軍にお見えすることなどかなわない陪臣である篠原にとっては、ヨシノブという言葉が将軍であるということ、それを理解することは一瞬にはできない。
「よし。通れ」と思わず言ってしまう。
篠原の前から宿舎外に出て、鉄舟は益満と再び早足で歩き出す。鉄舟の早足は有名で、若き時代から足腰は鍛え抜いてあって、歩き出すとぐんぐん速度が上がり、瞬く間に篠原から見えなくなった。この後、篠原は気づいて後を追ったがすでに鉄舟ははるか先を歩いており、鉄舟を捕らえることは出来ない。
横浜を過ぎ、神奈川の宿に入ると、もう長州藩の領域で、ここからは益満が先に立って歩いた。益満の薩摩弁が役立つ。独特の薩摩弁は他国者には真似できない。益満の薩摩弁の訛りが通行手形であった。無印鑑であったがいずれも礼をもって通行を邪魔されることなかった。
こうやって昼夜兼行し駿府に到着でき、伝馬町の松崎屋源兵衛宅で東征軍大総督府参謀西郷と会談ができたのであった」

 これが鉄舟の記した駿府までの経緯である。これによると益満の同行によって、難なく駿府の西郷のところに到着したことになっているが、果たして、その通りであろうか。
当時の緊迫した戦争・騒乱状態下、つまり、日本を二分する一方の官軍軍勢が勢い強く充満している東海道筋、そのなかを幕府旗本武士が官軍の進路と逆コースをとり、すんなり行動できたと考えるのは常識的ではない。何かトラブル・危険・問題があったと考える方が妥当であろう。
 そのことを主張するのが「誰も書かなかった清水次郎長」(江崎淳著)であって、「益満休之助、断じて駿府に来らず」と書き、その説をなしていた人物として静岡市に居住し、鉄舟の子息の山岡直紀氏の書生をしていた、日本画家の大石隆正氏をあげ、箱根の関所までは益満が一緒だったが、その後忽然と益満は消えたと主張し、駿府における西郷との会見・交渉にも益満はいなかったという。確かに鉄舟が記した「西郷氏と応接之記」において、西郷との会見・交渉の場に益満がいたとは書かれていない。
 とすると、鉄舟は箱根関所を越えてから駿府まで単独で行動したのか、という疑問が生じてくる。駿府の所在した大総督府の近くになればなるほど、官軍陣営は密集して旅営しているはずであるから、幕臣旗本として鉄舟の通行は困難であったと考えるのが常識的な判断である。
 
 箱根から駿府の間の行程については、三つの説があり、謎に満ちている。
 一つは駿府まで鉄舟と益満が一緒だったという説である。これが一般的に従来から唱えられている。もう一つは前記の江崎淳氏を代表とする説、つまり、益満は駿府に行かなかった。その理由として箱根で益満が体調を崩したために、鉄舟が単独で駿府に行ったというものであり、この場合は誰かが鉄舟を助けたはずである。三つ目は途中で体調を崩した益満が回復して駿府で追いついたという説であるが、これも誰かの助けが必要であった。

投稿者 Master : 11:07 | コメント (0)

2006年10月09日

10月例会のご案内

10月例会
日時:10月18日(水)
場所:東京文化会館 中会議室1
時間:午後6時30分〜8時

講師は、二見さんと山本さんです。
二見さんには、武士道について、
山本さんには、鉄舟研究を発表していただきます。

投稿者 lefthand : 21:58 | コメント (0)

2006年10月07日

9月例会記録(2)

■ 山本紀久雄氏

23歳でつくった思想体系「宇宙と人間」

8月に取材でチリに行った。真冬だから気温は零下2度。驚いたことにチリは、経済成長過去20年間6%平均で伸びている。チリ政府から2回も勲章をもらっており、チリに永住を考えている方が案内してくれた。街並みも美しく、中心街から80キロはアンデス山脈がみえてしまう素晴らしい国だった。
チリでは犬が放し飼い。いわゆる野良犬がいる。日本には放し飼いの犬がいないので珍しいと写真を撮る。チリの人には“日本には犬がいないのか?”と思われてしまう。

金子さんに代わって報告する。今月9月18日は敬老の日だった。東京高島屋では『脳を鍛えるぬりえ』がこの日の売れ筋物品だった。日経新聞にも載った影響が大きい。ぬりえは時流を極めている。医学界から、来年6月に国際ぬりえシンポジウムが開催されるから参加してくれないか、と打診があった。委員長・副委員長は大学教授、顧問に元総理の細川さん、水島裕さんなど著名な方が入っている。運営委員に金子さん、私も入っている。お金は医学グループが集めてくれるから苦労しない。

トリプトファンの研究で有名な高田教授は鉄舟も研究しており、今度お会いしたときに鉄舟のことについて聞いてくる。セロトニンについて研究されている有田先生には今度ぬりえを塗ったらどれだけセロトニンが出るか?ということを調べていただく。最近ぬりえに関わるようになり、医学界の著名な教授とお会いすることができた。現在、健康倶楽部の理事なので、桜井さんには劣りますが、健康について勉強していることをご報告する。

今度ぬりえの心理という本を出版する。『ぬりえ文化』は文章が多くて読むのが大変。書くのももちろん大変で、50冊・60冊読んで書いた。『ぬりえ文化』はぬりえに関する教科書で、あの本を読んで大学の教授や京都大学の大学院生などが金子さんの元へ話を聞きに来るようになった。1500冊印刷したのが、あと50冊でなくなる。『ぬりえ文化』は、素養のある人は読んでいるが、研究者ではない人にも読んでもらわないといけないということで、ぬりえの心理についてのエッセイを出版する。内容は、私が、3歳の子供・32歳のお母さん・ぬりえが置いてある販売台・塗られるぬりえそのもの・ぬりえを出版する出版社、になって擬人化法で書いた。子供になるのは難しい。全員が通り過ぎているけれど、3歳のときの記憶は単発で出来事を覚えているが、心情についてはわからない。3歳4歳の心情については本を読んでも推定しか書かれていない。そこで子供を観察した。『ぬりえの心理』は世界に発行するので、無国籍にしなくてはならない。ある国のスーパーで行われていたぬりえ教室で、子供を観察していたら丁度3歳の子がいて、観察していたら、はっと解ってそれで一気に書き上げた。簡単に読み終わるからぜひ読んで欲しい。12月の全国大会にはできあがっているかもしれない。

1.鉄舟人生の節目
「鉄舟の生涯の“節”ともいうべきものを考えれば、まず十七歳にして父を失ったときがその第一節、二十四歳にして尊皇攘夷党を結成したのが第二節、三十三歳にして駿府に使いをした頃からが第三節、四十五歳の大悟が第四節、しかして四十九歳で庭の草花を見て機を忘じたのが第五節完成期、はなはだ大胆な分け方だが、このように見ていいのではないかとおもう」
(大森曹玄 山岡鉄舟 春秋社)


人生には節目がある。鉄舟研究家の有名な大森曹玄さんが鉄舟の節目について以下のように述べている。
1.17歳にして父を失ったとき。
2.24歳で尊皇攘夷党を清河八郎と結成したとき。
3.33歳にして慶喜に言われて駿府へ西郷隆盛を説得に行ったとき。
4.45歳で悟ったとき。
5.49歳で庭の草花をみて、機を忘じたとき。

5について解説すると、鉄舟は結婚してすぐに色情修行に入った。男と女の関係ではない奥のものを探すための修行に入った。無数の女の方とお付き合いし、離婚の危機もたくさんあった。最後に色情修行も終わって、庭の草花をみて人間が完成した。完成したから明治時代に人気にあった人物になりえた。


1.節目を現実に遭遇した事件で捉えるか、内面思想変化で捉えるか

このように事件で人生の節目を整理する方法もある。たとえば、学校に入学した、卒業したとか。しかし、何故その学校を選んだのか、なぜその問題が起きたのか、その原因は自分の中にある心が決めたことである。その学校に決めたのは親が言ったから。では親の言うことを聞かなければと思った自分の心にその結果の根本がある。結果の前に原因である。全ての原因は内在している。
小泉さんが良い・悪いかは自分の問題だ、と考えられたら、それは最高の境地。
鉄舟は明治天皇が良くなければ私の責任だ、という境地になれた。これを解明しないとならない。


2.鉄舟思想の節目
「宇宙と人間」


この図は鉄舟が23歳のときに書いたものである。
1858年、安政の大獄で、井伊大老が監獄に入れ始めたのは9月からだった。
その4ヶ月前に鉄舟はこれを書いている。この図は発表するものではない。当時は無名の貧乏旗本であり、自分が見るだけのメモとしてこれを書いた。「宇宙」という言葉は現代でも新鮮。鉄舟は一度として世界に出たことがないのに、「宇宙」という言葉をどこから持ってきたのか?
図では宇宙の下、「地世界」を諸外国と日本国の2つに分けており、日本を4つに区分けしている。しかしその中に徳川幕府との記述がない。鉄舟は当時徳川幕府の旗本なのに、徳川幕府を超えていた。天皇の下に国民はみんな同じであるという横並びの民主主義の考えを持っていた。1858年に民主主義が入っていたのか?この思想がなければ、新しい時代が来ることがわかっていた西郷隆盛を説得することができなかった。

勝海舟が、福沢諭吉を通訳にして、咸臨丸でサンフランシスコに行ったが、鉄舟が「宇宙」と書いた2年後。

彼らはアメリカ人に「ワシントンのお子様はどうなっていますか?」と質問した。
江戸時代の将軍家は世襲制。家康の息子は2代将軍秀忠、秀忠の息子は3代将軍家光。アメリカの初代大統領は、ジョージ・ワシントン。江戸時代だと徳川家康のような人。
そんな偉い方の子孫はどうなっているか?とたずねた。
アメリカ人が「知らない」と答えたとき、咸臨丸の人は驚いた。アメリカでは大統領が4年に1回交代することも知った。

勝海舟は敏感なので、アメリカは世襲制ではないことを知り、民主主義をすぐに理解した。その後世襲制について江戸幕府で意見をしたら左遷された。

しかし、このようなことはアメリカで体験してくれば誰でもわかること。現場へいって見つけることは普通である。しかし鉄舟は外国には行ってない。庭の草を全部食べつくしたほどの貧乏だったので、外国へは行けない。どこからこの民主主義を持ってきたか。これは本にも書いてないので、究明しないといけない。

人間というのは思想・行動があって、結果がある。思想を改革すれば行動がかわる。
行動から思想を変えようと思ってはいけない。思想を鍛えないで、行動しているからうまくいかない。問題は相手や時代・環境ではなく、自分の中に内在する心の問題と気がつかないと、行動は変わらない。


3.日本政治の小泉首相から次期首相への継承という思想意味

安倍さんが小泉さんの意思を受け継いで首相になった。小泉さんは、5年前首相になったときの2001年5月の所信表明演説で3つ言った。1つめは不良債権をなくすこと。今は不良債権が片付いたから銀行もお金を貸し出す。2つ目財政構造改革。自民党が赤字国債を発行した。2006年骨太方針で、2011年にはプライマリーバランスをとり、収入と支出を合わせる。現在は収入より支出が多いので、17兆円くらい国家予算を減らさないといけない。これは法律になり、方針が計算できている。
3つめは21世紀にふさわしい競争政策を確立する。この問題は、今後やっていかなくてはならない。ライブドア、西部鉄道、有価証券、道路公団の談合、水谷建設などの事件が発生した。国は既得権をもった人を排除し、競争させたいと思っている。この3つが所信表明演説であった。

競争といっても、力が強い人が勝つ、というイメージをしてはいけない。健在な経済システムの中で、競争するシステムを作りたいと思っている。どういう競争かというと、人間が作ってきたしくみから考えないといけない。
産業資本主義の時代、お金を持つ人間が一番強かった。田舎には安い人権費で雇える労働力があり、工場を作り、製品を作り、外国に売って、産業が発達してきた。日本も戦後、20年代後半から30年は高度成長時代で田舎から大量の人が働きに来た。人件費が安いときには工場設備をつくっておけば儲かる。しかし田舎の人がいなくなると、人件費があがってくる。人件費を高くしては工場で物を作っても儲からないから、今度は中国に工場を持っていく。昔と同じやり方では儲からない。ではどうするかというと、2つしかない。1、作り方を工夫する。工夫して生産性を上げる、他社と違う方法でつくる。2、他社と違うものをつくる。ハイブリットカー、薄型テレビ、など、人の気がつかない商品をつくる。この競争には金は絡まない。他と違った商品をつくるのは人間しかいない。人間のどこから?人間の頭脳からでる。人間の頭脳競争になる。

本当にそうなるか?


4.継承される内容の必然性と、競争という意味内容

『美しい国』という安倍さんの著書を読むと安倍さんという人がわかる。お父さんは外務大臣で、英才教育を受けている。構造改革については、努力が正当に行われるためには競争がフェアに行われなければならない、と言っている。

構造改革が目指してきたのは、既得権益を持つ人が得をするのではなく、フェアな競争が行われ、それが評価される社会にすること。
日本は和の社会だから、既得権益の中に閉じ込められていた。フェアに競争が行われ、正当に評価される社会にする。本に書いたから、その通りにしないと追求される。

日本国の総理が、総理の思想が日本を決めていく。好き嫌いではなく、総理がどんな思想を持っているかが大事。総理の思想もそうだが、自分の思想も時代とあっていないと駄目。時代と会った革新的思想を持ちえたら、世の中に登場することになる。ぬりえが良い一例である。


5.脳ブームの背景の捉え方
競争社会は安倍さんに継承される。脳ブームはそれを意味している。
競争は体ではなく、一人一人の中にある能力、一兆個の脳細胞をどう使うかである。
使い方のしくみを皆さんが学習していくということ。


【事務局の感想】
今回の山本さんの鉄舟解説の目玉は、鉄舟が1858年に書いたという「宇宙と人間」図です。
勝海舟がアメリカに行き民主主義を知る2年前に、鉄舟は民主主義の考えを持っていたということです。日本に民主主義が紹介される前に、すでに鉄舟は民主主義という考えを持っていたというのです。これには驚かされ、そして鉄舟の先見性をあらためて認識いたしました。なぜ鉄舟はこの最先端の思想を持つに至ったのか。山本さんの今後の研究に期待したいと思います。

投稿者 staff : 13:03 | コメント (0)

9月例会記録(1)

■ 櫻井 義孝氏

心と身体の健康法
―心・身体の健康維持と脳の活性化のためのアドバイスー

※櫻井氏の希望により、目次のみの掲載となります。

1.始めに
2.心&肉体との関係    
3.感動&笑いの大切さを認識しよう  
4.身体の各部位の使い方
5.柔軟な身体とリズム感
6.脳―これはビックテーマ
7.最後に

以上
  
                                 

【事務局の感想】
櫻井さんには、膨大な事前資料をご用意いただき、社会問題から脳などの生理学的な見解に至るまで、健康に関するあらゆる角度からのお話をいただきました。時間が限られているためすべてを詳説いただくことができませんでしたが、健康、特に脳の健康=若さを保つためのいくつかの示唆をいただきました。脳の活性化法や老化度チェックなど、お試しになってみてはいかがでしょうか。

投稿者 staff : 13:00 | コメント (0)