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2005年03月29日

江戸無血開城までの道のり

山本さん発表
3.1 
1)山田風太郎の明治物小説にはよく山岡鉄舟がでてきて、フィクサー役の役割をしている。
明治時代、日本は法律、医学、軍隊組織など多くのことをヨーロッパから学んだ。その時代、船で渡りフランスのマルセイユに入り、列車でパリのリヨン駅に到着した。そのリヨン駅は大変豪華な駅で、ベルエポック時代の壁画が描かれた「ル・トラン・ブルー」という高級レストランがある。

ル・トラン・ブルーの店内写真

2)明治五年、パリを訪れた日本人に成島柳北(幕府の学者の子として生まれ、将軍の侍講を若くして務めるという才能を示したが、明治維新によって新聞記者として朝野新聞の社長となる。明治五年に外遊する)がいた。パリで大道芸人となっていた江戸時代の馴染みであった新橋芸者、それとノートルダム寺院の前で偶然出会ったところ「幕府の人間が、明治政府の役人と一緒に来て、通訳みたいな仕事をして、男の意気地はないのか」と言って万人が見ている前で顔を痛打された。この件について「海舟も鉄舟も二君に仕えた」と、わざわざ風太郎は書いているが、それほど、二君に使えるのは当時は非常識な行動であったのである。

3)ここで二君に仕える話をしたのは、新井喜美雄という元東急エージェンシーの社長が、「悪玉、大逆転の幕末史」を書き、その中で鉄舟を「精神が貧しい男」とこき下ろしている理由が「海舟も鉄舟も(二君に)仕えた」からであることから、当時の時代雰囲気をお話したのである。しかし、新井喜美雄氏という、それなりに名経営者と言われている人物が、このような判断基準を持っていることについては、次回にもう少し解説したい。この考えの延長に今話題となっているライブドアの問題もあるからである。また、新井喜美雄氏とは直接お会いして、鉄舟について話し合ったとがあるので、そのときの状況もお話したいと思っています。

3.2「江戸無血開城までの道のり」
1)「覚王院義観の生涯」(長島進著 さきたま出版会 2005年2月)という本を浦和の伊勢丹で見つけた。推薦者は上田清二埼玉県知事であって、これは郷土埼玉県の朝霞に立派な人物がいたということから、「覚王院義観」の立場にたって書かれた覚王院義観側からの維新史である。この内容を紹介したい。

2)山岡鉄舟が駿府に出発したのは3月5日の夜か、6日の早朝であって、7日駿府に到着、8日東帰と考えるのが妥当である。7日と考えると輪王寺宮が大総督有栖川宮と会い、覚王院義観が参謀の西郷と林玖十郎に会った日と同じである。輪王寺宮と覚王院義観が同じ駿府にいるのであれば、鉄舟から一言の挨拶もないということはおかしい。
また、鉄舟は半日も経ない短い交渉で西郷から「五箇条」の慶喜助命の回答を引き出して、さっさと江戸に立ち返ってきてしまっている。

3)覚王院義観は、7日の会談の後、5日も引き延ばされて3月12日に慶喜助命の条件を提示されたのである。覚王院義観が江戸に戻って、官軍との交渉成果を報告しようとしたときには、すでに海舟と西郷の品川会談が行われ済みであって、覚王院義観の苦労した駿府行きは無駄骨でなったのである。(山本注 これがその後の官軍に反する彰義隊による、上野戦争に向かった一つの要因とも言われているところである。何故なら、覚王院義観と鉄舟の論争、それは鉄舟の彰義隊解散勧告であるが、これを覚王院義観が拒否した真の理由とも言われているのである)

4)江戸に戻った覚王院義観は、駿府で会談を引き延ばされ、鉄舟によって成功した江戸無血開城の裏には何かの陰謀があると考えるのに、充分過ぎるほどの出来事であった。
覚王院義観は「何かがある」と深い疑問を持ち、その探索を間諜を使って調べた。間諜は細川家(肥後藩)の家臣である志方鞆之進であり、志方は岩倉具視と知り合いでもあるので、真相の探索を依頼したのである。

5)志方鞆之進から20日ほどたって報告が届いた。
「駿府城会談のすべてを背後で演出していたのは、岩倉具視である。全ては『神道復活、廃仏、輪王寺宮の格下げ』が狙いである。

6)有馬頼義著「北白川宮生涯」
作家の有馬頼義も「北白川宮生涯」(別冊文芸春秋第105号)の中で次のように書いていると長島氏が同書で指摘している。これは島峯颯平資料にある内容である。

「私が手にいれた資料と、島峯颯平資料の共通点で正史と違っているのは、江戸城の無血開城は、西郷と勝の会見によって決定したのでなく、最初から岩倉具視の策略であったという一点にすぎない」

「岩倉具視は私(有馬頼義)の曾祖父にあたる。岩倉には三好某という家臣がいた。
三好老人の口から、岩倉が勝海舟を過大評価していて、勝を助けるために密使をもちいて、西郷と勝に、あの大芝居を打たせたのだ、ということを聞いたのである。上野を逃れた輪王寺宮へ追討の命令を下したのも、岩倉であった。

7)このような主張は立場によって異なるのであって、それに異論を挟む必要はない。何故なら、鉄舟が西郷との会談を成功させたことを否定しているわけではないからである。鉄舟の功績を正しく認識しているが、覚王院義観も正しく理解して欲しいというのが長島進氏の主張である。

8)いずれ長島氏に当会に来ていただいてお話を伺う予定である。その際に根拠を詳しく語ってもらいたいと思っている。

●事務局の感想
今回は、最近パリに行った現場感覚の話で、今という時代と明治時代が結び付けられ、大変臨場感ある発表と感じました。「ル・トラン・ブルー」は私も何度か食事をしたことがありますが、初めてその場に立つと本当に装飾が素晴らしいのに感激する歴史あるレストランです。
今回は立場の違うところからの歴史の発表でしたが、どの立場かはっきりしていれば、その立場の意見を発表できる、史実は一つでないということを教えていただきました

投稿者 Master : 2005年03月29日 15:10

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