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2012年07月15日

鉄舟県知事就任・・・その一

鉄舟県知事就任・・・その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

東日本大震災時で被災者の方々が示したすばらしい秩序と相互扶助が世界から注目を浴び、驚嘆させ、首都圏の帰宅困難者達の間にも、温かい助け合いが生まれた事についても感銘され、今でも世界各地で語られ評価されている。
2011年6月上旬、ロスアンゼルスのビバリーヒルズのブティックに立ち寄った際に、3か月が過ぎようとしているのに、ウインドウに「日本を助けよう」とポスターを大きく掲示していた。

ところで、その賞賛された行動はどこから発現されたのか。日本人の中に流れている原点的な存在から生じ、そこに武士道精神が絡んでいる事は間違いないだろうと前号で触れた。

しかし、武士道とは、人口比5%に満たないと思われる武士階級の中で培われてきた思想的精神であって、これが江戸時代を終えて143年も過ぎた東日本大震災時という突発時に、一般大衆である東日本の人々に突如一斉に顕れたのであるから、武士道のみによって賞賛される行動を説明できないだろうとも思う。

そこで改めて新渡戸稲造の武士道を読んでみると序文で次のように述べている。

「この小著の直接の発端は、私の妻がどうしてこれこれの考え方や習慣が日本でいきわたっているのか、という質問をひんぱんにあびせたからである。

ラブレー氏(ベルギーの法学者)と妻に満足のいく答えをしようと考えているうちに、私は封建制と武士道がわからなくては、現代の日本の道徳の観念は封をしたままの書物同然であることがわかった」
この文章が意味するところは、日本人が本能として認知している道徳概念は、武士階級に顕著に示されていると考え、そこで武士道を語ろうとした、つまり、日本人一般の道徳習慣を昇華させていると思われるものを、新渡戸稲造は武士道というキーワードで整理し論述したのではないかということである。

さらに第二章「武士道の源をさぐる SOURCES OF BUSHIDO」で、最初に「まず仏教から始めよう I may begin with Buddhism」と述べ、いくつか解説する中で仏教によって

「危険や災難を目前にしたときの禁欲的な平静さをもたらす that stoic composure in sight of danger or calamity」

と述べている。これに従えば被災地の人々が見せた行動は、仏教に起因しているという事になる。
因みに、東日本大震災の報道を世界の新聞が伝えたが、その中でもル・モンドは被災地の行動は仏教が関与していると分析している。

「おそらく、信者であろうとなかろうと、仏教の教えは日本人の心情にしみ込んでいる。それがゆえに、不可避の出来事を冷静に受けとめることができるのではないだろうか」

さすがは文化ブランドに長じたフランス人と思う。日本人の行動の背景を新渡戸稲造と同じく仏教から説いている。日本の新聞では、このように仏教と結び付けた解説はお目にかかっていない。諸外国ではフランス人が最も日本を知っているのではないだろうか。

なお、明治十年(1877)に来日し、ダーウィンの進化論を体系的に紹介し、大森貝塚を発見したエドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse)は、当時の日本人の群衆が秩序正しい行動をすることに驚きを示している。

「隅田川の川開きを見にゆくと、行き交う舟で大混雑しているにもかかわらず、『荒々しい言葉や叱責は一向聞こえず』、ただ耳にするのは『アリガトウ』と『ゴメンナサイ』の声だけだった」(逝きし世の面影 渡辺京二 平凡社)

これらから日本人の本能の中には、秩序正しき行動が刷りこまれているのだと思う。

ところで、武士道が世界に知られるようになった契機は、新渡戸稲造が1899年(明治三十二年)にアメリカで英文によって「BUSHIDO,The Soul of Japan」を発刊し、その後世界のさまざまな言語に翻訳されて読み継がれているからだと思っていたが、各国で武士道論議をしてみると同書を実際に読んでいる人は少ないという事が分かってきた。

勿論、武士道というキーワードは知っており、概ね妥当な理解をしているが、武士道への理解は実は映画「ラストサムライ」(The Last Samurai)による影響の方が、最近では大きい事が分かってきた。

「ラストサムライ」は2003年のアメリカ・ニュージーランド・日本の合作である。日本での興業収入は137億円、観客動員数は1410万人、2004年の興行成績第一位であったが、アメリカを含めた世界各国でも高い関心を呼び、どの国でも多くの観客を動員した。 

トム・クルーズが演ずる主人公ネイサン・オールグレンのモデルは、徳川幕府のフランス軍事顧問団として来日、函館戦争でも戦ったジュール・ブリュネ。物語アィディアの背景とした史実は、西郷隆盛等が明治新政府に対して蜂起した西南戦争や、熊本の神風連の乱と思われ、主役の「勝元」役を演じた渡辺謙の好演が評判の映画でもある。

フランスでも、アメリカでも、ブラジルでも、ペルーでも、その他の国でも同様だが、多くの方と話し合うと、この「ラストサムライ」を観た事によって、武士道という概念を知ったと全員発言する。

特に、トム・クルーズがサムライ集団と起居を共にしていくうちに、次第に武士道精神を学びとっていくプロセスがうまく描かれていると言い、ここの場面に大変興味と関心を高く持ったと言う。

そこで改めて「ラストサムライ」をCDで観てみたが、確かにこのような描き方をすれば武士道が世界中から理解されるだろうと思いつつ、しかし、日本人ではこのような脚本は書けないのではないかと感じる。つまり、世界中の人々の立場から武士道を描くというのは日本人には難しく、結局、日本人向きの武士道になってしまうだろうという事である。

もう一つ武士道が外国人に知られていくツールはマンガである。マンガに登場するサムライを通じハラキリ、カミカゼと共に武士道が伝わっているが、何故にハラキリを武士が自ら行うのか、カミカゼ特攻隊とアルカイダ自爆テロの区別等、お会いした人にひとつ一つ解説して行くと頷くが、マンガを読むだけでは十分な理解は得られず、特徴的なサムライ行動が武士道であるという捉え方になりやすく、誤解を与えかねない。このところの解説をしっかりするのが今後の課題だろうと思っている。

なお、武士道はアメリカの高校教科書にも記されている。

(教科書のタイトルと著者名)
Traditions and Encounters, 2/e
Jerry H. Bentley, University of Hawai'i
Herbert F. Ziegler, University of Hawai'i

(本文)
「The samurai were professional warriors, specialists in the use of force and the arts
of fighting. They served the provincial lords of Japan, who relied on the samurai
both to enforce their authority in their own territories and to extend their claims to
other lands. In return for these police and military services, the lords supported the
samurai from the agricultural surplus and labor services of peasants working under
their jurisdiction. Freed of obligations to feed, clothe, and house themselves and
their families, samurai devoted themselves to hunting, riding, archery, and martial
arts. They lived by an informal but widely observed code known as bushido (,,the
way of the warrior"), which emphasized above all other virtues the importance of
absolute loyalty to one's lord. While esteeming traits such as strength, courage, and '
a spirit of aggression, bushido insisted that samurai place the interests of their lords
even above their own lives. To avoid dishonor and humiliation, samurai who failed
their masters commonly ended their own lives by seppuku-ritual suicide by sometimes referred to by the cruder term hara-hiri ("belly slicing',).」

(訳文)
「侍はプロの戦士であり、戦いのための専門的武力と芸術を保持する。侍は地方大名に仕え、大名は侍を率いて自らの領地内の権威を保ち、他領地に対し権威を主張する。警備及び軍備の奉仕の代償として、大名は侍に十分な農作物を供給し、百姓の労働力の指揮権を提供した。食、衣服、住居が侍の家族に供給され、侍は家族を養う義務から開放され、狩り、乗馬、弓、武術に専心することができたのである。侍は非公式ではあるものの、広く遵守されている“武士道”と呼ばれる、主人への絶対的服従を強調した価値観規則(code) に準じて生きるものとされた。武士道は、強さ、勇気、そして攻撃性を重んずる一方で、侍は主人への忠誠心は自分の命よりも尊重するものとしている。不名誉と屈辱を避けるため、主人に仕えられなかった侍は切腹、又は更に残酷な表現では“腹切り”により自決するのが通常である」

この内容、何となく分かるが、これだけでは不十分だろう。教科書であるから十分なスペースでの記述は無理であろうが、ここでもハラキリを特徴として強調している。もっと書くべき大事な事が多々あると思う。

ここでもう一つスティーヴン・ナッシュ著「日本人と武士道」(角川春樹事務所)からの指摘を紹介したい。

「戦後の日本人は、あらゆる機会に、『国際的であれ』と自分自身に要求してきた。その要求が本気のものであるとは私には信じられない。その理由は、政治家であれ経営者であれ学生であれ、アメリカを訪れる日本人から新渡戸稲造の『武士道』のことを聞かされることはめったになかったという点にある。

新渡戸を国際的日本人の最初の代表とよんでさしつかえないであろう。しかもその書物は英語で書かれている。だから、その書は、日本語を喋れないアメリカ人と英語の下手な日本人とのあいだの、絶好の橋渡しとなりうるはずのものだ。

しかも、絶対的平和主義をもって鳴るクェーカー派に入信した新渡戸が、本来は戦争の専門家である武士の生き方について語るというのは、それだけで十分に刺激的な話題である。その折角の話題を利用しなのは、その国際主義がアメリカへの適応に流れ、日本からの発信を欠いたものであったからだと思われる」

この指摘、確かにそうだと感じ、アメリカに輸出している企業経営者に上記指摘を伝えると、新渡戸稲造の武士道は読んでいないし、武士道一般についてアメリカ人に解説できるほどの理解がないとの答えで、逆に当方に「教えてほしい」という希望を口にしたほどである。多分、日本の多くの経営者は同様であるまいか。返って「ラストサムライ」を観た外国人の方が理解している可能性が高いと思われる。

今回の東日本大震災で示された被災者の行動が賞賛された結果、武士道というキーワードは世界から一段と関心を持たれはじめたので、日本人も勉強すべきだろうと思い、少し長いが解説を加えた次第である。

さて、鉄舟が県知事となった経緯に入りたいが、その前に当時の状況を見てみたい。

まず、明治二年六月に二百七十四大名に版籍奉還が行われ、土地と人民は明治新政府の所轄するところとなった。だが、各大名は知藩事(藩知事)として引き続き藩(旧大名領)の統治に当たり、これは幕藩体制廃止の一歩となったものの現状は江戸時代と同様であった。

一方、旧天領や旗本支配地等は政府直轄地として府と県が置かれ、中央政府から地方長官として府には府知事、県には県知事がおかれた。これが明治元年末には九府三十県となっていた。このように地方行政を三つに分割統治していたので、これを府藩県「地方三治制」という。

当時、藩と府県(政府直轄地)の管轄区域は入り組んでおり、この府藩県三治制は非効率であり、廃藩置県は絶対に必要であった。廃藩地検の主目的は年貢を新政府にて取り総めること、即ち中央集権を確立して国家財政の安定を目的としたものであるが、これには欧米列強による植民地化を免れるという大前提もあった。

しかし、廃藩置県は全国約二百万人に上るとも言われる藩士の大量解雇に至るものであり、また、軍制は各藩から派遣された軍隊で構成されており、これも統率性を欠いていた上に、各藩と薩長新政府との対立、新政府内での軋轢、今の政治状況とは比べられないほど混乱していたが、そのうち藩の中には財政事情が悪化し政府に廃藩を願い出る所もあった。

このような状況であったが、明治四年七月十四日(1871年8月29日)明治政府は在東京の知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じたのである。だが、この実行背景に西郷隆盛の功績についてふれなければならないだろう。

廃藩置県には薩摩藩の藩父として隠然たる力を持つ島津久光が猛反対で、明治四年三月、西郷隆盛が御新兵を率いて東京に上る時、久光から「廃藩置県はまかりならぬ」と釘をさされていながら、廃藩置県のため奔走していた長州の山県有朋が「明治四年の廃藩置県は西郷の一諾できまった」と生涯これを爽快な政治劇の一幕として常に回想しているように、久光への裏切りとなる西郷の断行判断で実行されたのであった。

それは廃藩置県の最終会議が、明治四年七月九日に木戸孝允の邸で開かれた席上の事である。長州から木戸、井上薫、山県、薩摩からは西郷と大久保利通、西郷従道、大山巌。会議は木戸と大久保の大論争で結論がつかなかった。それは新政府に対する反抗が必ずおきるであろう、その際どういう処置をとるべきかについてであった。

西郷はじっと黙って二人の論争を聞いていたが

「事務上の手順がついているならば、暴動がおきたら鎮圧は拙者が引受申す。ご懸念ない。直ちに実行してください」

と発言したことで廃藩置県が決まったのである。

数日後、会議の結果を明治天皇に奏上し、天皇はいろいろ御下問された。明治天皇は当時十九歳十カ月というお若く、ご懸念がつよくご心配されるのが当然であったが、西郷が

「恐れながら吉之助がおりますれば」

という自信に満ちた奉答に天皇はやっと安心したと伝えられている。

廃藩置県の報が鹿児島に達した時、島津久光は激怒し、磯の別邸前の海に石炭船を浮かべ花火を終夜あげさせ、西郷への怒りを爆発させた件は知られている事である。

さて、廃藩置県の実行で、藩は県となって知藩事(旧藩主)は失職し、東京への移住が命じられた。各県には知藩事に代わって新たに中央政府から県令が派遣された。なお同日、各藩の藩札は当日の相場で政府発行の紙幣と交換されることが宣された。

当初は藩をそのまま県に置き換えたため現在の都道府県よりも細かく分かれており、三府三百二県あった。また飛地が多く、地域としてのまとまりも後の県と比べると弱かった。そこで明治四年十月から十一月に三府七十二県に統合された。

その後、県の数は明治五年(1872年)六十九県、明治六年(1873年)六十県、明治八年(1875年)五十九県、明治九年(1876年)三十五県と合併が進み(府の数は三のままである)、明治十四年(1881年)の堺県の大阪府への合併をもって完了した。

だが、今度は逆に面積が大き過ぎるために地域間対立が噴出したり、事務量が増加するなどの問題点が出て来た。そのため次は分割が進められて、明治二十二年(1889年)には三府四十三県(北海道を除く)となって最終的に落ち着いた。

統合によってできた府県境は、律令制に基づいて設置された令制(りょうせい)国(こく)*と重なる部分も多く、また、石高で三十~六十万石程度(後には九十万石まで引き上げられた)にして行財政の負担に耐えうる規模とすることを心がけたと言う。

また、新しい県令などの上層部には、旧藩とは縁のない人物を任命するために、その県の出身者を起用しない方針を採った。例外として鹿児島県令の大山綱良のように、薩摩藩士であったが数年に渡って県令を務めた者もいたが、他藩出身者による県令制は基本的に守られ、この意図から鉄舟が初代茨城県参事(知事)として赴任したのであった。

さて、茨城県であるが、明治四年十月から十一月にかけて三府七十二県に統合された際、関東七国と伊豆の府県を廃して東京府ほか十県を置き、この十県の中に茨城県が含まれ、県庁を水戸に置き、旧弘道館を庁舎にあてた。

この際、十月は府県管制で府県には知事、権知事、参事、権参事以下を置き「知事アレバ権知事ヲ不置、権知事アレバ知事を不置」と定められた。

十一月には県知事を県令と改称し、同月の県治条例で地方行政の刷新が行われ、県令(四等)、権令(五等)、参事(六等)、権知事(七等)以下の職務を定め、これが明治十九年(1886)地方官官制の公布によって知事と改称されるまで県令時代が続く。

ところで、鉄舟の県知事時代を研究すべく、東日本大震災で被害を受け、町中の建物が被災を受け、偕楽園も閉鎖されている中、水戸市に向かい改めて茨城県という地域性を考えてみると、その特異性が浮かんできた。

茨城県の明治初期は、幕末以来の尊王攘夷をめぐる藩論の分裂や激しい党派の争いが尾をひき、民心は不安定であった。元来、県民は自尊心が強く、保守的な面が強いといわれ、県北と県西、県南では地勢、風土、気質が異なることから政治経済上の利害が異なるところが多く、県の政策をめぐって各地方の対立がはっきりと現れるという実態であった。そこで、明治初期から中期にかけて、中央政府の立場からみると、茨城県は「難治県」と呼ばれていた。

茨城県の県名は、県庁の置かれた茨城郡(水戸上市)の郡名によったものであるが、何故に鉄舟がこの地に派遣されたのか。

まず、最初に考えられるのは、徳川慶喜の生地であるという事である。慶喜が上野寛永寺に蟄居した際、鉄舟が駿府掛けし西郷と江戸無血開城を成し遂げ、その後慶喜は水戸にしばらく謹慎したという徳川家と縁が深い事と、水戸藩は徳川御三家であったという関係、さらに、母の磯が鹿島神宮神官の塚原石見の二女であったことも与っていると考えられる。

しかし、最も大きな要因背景は、茨城県の「難治県」というところにあったはず。この「難治県」を解説するためには、水戸斉昭から始まる水戸藩の抗争・内紛についてふれないといけない。

水戸光圀が大日本史の編纂に着手し、やがてそれが水戸学の発祥となり、尊王攘夷の宗家のようになり、他藩に伝播し、倒幕運動に発展し、水戸藩内分裂のつながり、派閥闘争のあげく藩士が血で血を洗う抗争の犠牲になり、明治新政府になった時に登用される人材が皆無の状態になった事実の背景分析と、この地に鉄舟が初代知事として赴任したが、その在任期間が一カ月未満という事は何を意味しているか。

これらについては次号以降で展開したい。

投稿者 Master : 06:36 | コメント (1)

痩せ我慢の説と鉄舟・・・其の七

痩せ我慢の説と鉄舟・・・其の七
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

東日本大震災時に示された被災地の日本人行動が、世界から賞賛された。という事は他国では、このような行動がなされ難いという事実を示し、日本人が持つ独自の特色・徳目だという事になる。

ところで、その賞賛された行動はどこから発現されたのか。日本人の中に流れている原点的な存在から生じているに違いないが、それが何であるか。そのところの分析を、鉄舟研究をしている者として、いずれ解明したいと考えているが、武士道精神が絡んでいる事は間違いないだろう。

武士道とは、江戸時代265年の歴史によって、鍛え上げ創造した美的精神像でありながら、それが体系化されず、成文法として存在しなく、せいぜい口伝によるか、著名な武士や家臣の筆になるいくつかの格言によって成り立っているところに特性がある。

さらに、江戸時代の武士の人数、これは明確化されていないのであるが、多分、人口比5%に満たないと思われる武士階級の中で培われてきた思想的精神が、江戸時代を終えて143年も過ぎた東日本大震災時という突発時に、被災地の一般大衆国民の中で突如一斉に顕れたとすると、これまたその要因背景を解明しなければならない。

その解明は今後になるが、ひとつ考えられるのは「自己犠牲」という武士道の本質にあたる重要徳目「個人よりも公を重んじる」精神が影響している事である。

米欧世界では基本的に個人主義が特長で、父と子、夫と妻であっても、それぞれに個別の利害を認めている。したがって、人が他に対して負う義務は、日本に比較し明らかに軽減されている。

それに対し、武士道では一族の利害と、その個々の成員の利害は一体不可分である。即ち「私(わたくし)」に奉じず「公(おおやけ)」に奉じるのである。これは「滅私奉公」というような言葉として受けとめられやすく、今の時代では封建時代の不合理なものであると勘違いしやすいが、本来の意味は「私心」を捨てて「公」につくすという「高い(ノブ)身分(レス)に伴う(オブ)義務(リージュ)」精神を意味するものだ。

このあたりの解説を三島由紀夫が次のように述べている。(「最後の独白」前田宏一著)

 「サムライの条件は三つある。第一は『セルフ・リスペクト=自尊心』、第二は『セルフ・リスポンシビリティ=自己責任』、第三は『セルフ・サクリファイス=自己犠牲』。

よく外国人の作家や映画評論家、音楽家に聞かれるのだが、『サムライ精神は危険だ、ミリタリズム、ナチズムになりかねないんじゃないか』という。わかってないんだ彼らには、サムライというものが、ね。アウシュヴィッツの所長にもドイツ人としての誇り=セルフ・リスペクトはあったろうし、体制の中で自分が行わなければならんという、命令に対する自己責任感=セルフ・リスポンシビリティもあっただろう。しかし自己犠牲=セルフ・サクリファイスがなかった。 自分の命を懸けてでもそれを止めようという精神はなかった。これのないものは”サムライ精神“とは大きく違うのだと説明してやるのだが、わからん。だいたい”ミリタリズム“ってのは、ヨーロッパから入ってきたものじゃないか。日本にはなかったものだといってやるが、理解できん。武士道とミリタリズムはまったく違うものだ。サムライはそんなものじゃない。一人ひとりが、”自己犠牲の精神で生きる“ ”一個の完璧な連環を形成“していた、それが武士なんだ、といっても西洋人にはわからん」

 この発言は、昭和45年(1970)11月25日の三島由紀夫自決の一週間前に、著者の前田宏一氏、当時週刊ポストの記者で三島由紀夫にインタビューした時のもの。

 さすがに三島は的をえていると思う。自己犠牲が武士道の重要徳目と理解している。

 日本の武士道が、世界に知れ渡る事になった契機は、新渡戸稲造が1899年(明治三十二年)にアメリカで英文による「BUSHIDO,The Soul of Japan」を発刊した時からである。

日本語版は、翌年の明治三十三年(1900)に「武士道」として出版されたが、この出版タイミングに伴う妙な関係が浮かび上がってくる。

それは、今まで検討してきた福沢諭吉の「痩せ我慢の説」が、新渡戸稲造「武士道」日本語版の翌年になる明治三十四年(1901)になって、時事新報に掲載され出した事である。福沢は既に十年前の明治二十四年(1891)に書き終えていたのに、どうして新渡戸稲造の「武士道」の翌年に持ちこされたのだろうか。

その理由として一般的に言われているのは、福沢が二、三の親友に極秘として見せたが、その一人の栗本鋤雲が知人にも見せてしまい、内容が外部に漏れたので、福沢もそれなら仕方ないと、十年後の明治34年一月一日から時事新報に掲載を始めたというものである。

だが、もう一つ妙な事に「故山岡鉄舟口述、故勝海舟評論、安部正人編纂、武士道」、つまり「鉄舟武士道」が「痩せ我慢の説」の翌年、明治三十五年(1902)一月に出版された事である。明治二十年(1887)に、四谷仲町の自邸で門人等に講義を行ったものであって、出版までに十五年間要している。

整理してみると、明治三十三年に新渡戸稲造、三十四年に福沢諭吉、三十五年に鉄舟と、三年続けて武士道関連が出版されているのであるが、これは偶然な事なのだろうか。それと何かの意図があったのであろうか。

この検討には当時の状況を振り返ってみないといけない。当時の日本は明治二十八年(1895)に日清戦争勝利し、明治三十五年の日英同盟という世界の大国であるイギリスと同盟関係として結びあうことで、欧米列強の仲間入りをしようとしていた。

また、この日英同盟から二年後の明治三十七年(1904)に日露戦争を迎えるのであるが、対ロシア戦争準備を進めて行けばいくほど、科学的合理主義で国づくりしている欧米列強の力が分かってきて、ロシアに勝利するためには日本を西洋的価値観の国に変換して行かねばならぬ、という想いが強くなっていく。

一方、日本の伝統的価値観を無視し、軽視して行くことは、民族(エー)精神(トス)を失って、日本という国が変質してしまうという主張も強く指摘されてきた。

そのようなタイミングに新渡戸稲造が日本人の伝統的(アイデンテイ)精神(テイー)として「大和魂」を謳い、それが外国で日本が理解される重要なファクターとなった事が、明治維新からの「文明開化」で「日本人とは何か」を忘れかけていた明治の知識人にショックを与えた。

新渡戸「武士道」が外国人に受け入れられた背景としては、欧米との思想的比較文明論として武士道を体系化し紹介した事と、外国人の立場に立ち、外国人が分かりやすい論理展開によって述べた事が大きい。

さらに、英語版に続いて翻訳版がドイツ語、フランス語を始め様々な言語で、多くの国で出版される実態を見て、当時の日本人の方が、改めて武士道精神を見つめ直す必要性に気づいたのである。

その結果が、福沢が十年前に書いてお蔵入りとなっていた「痩せ我慢の説」を引っ張り出し、鉄舟が十五年前に講義した記録を「鉄舟武士道」として世に出したのだと推測する。

加えて、新渡戸稲造はキリスト教徒であって本来の武士ではない。サムライではない者が外国人向けに書いたもの。その文面に江戸期の精神を色濃く残す当時の日本人にとっては、新渡戸武士道は何か西洋的なものを感じる。要するにバタ臭いのである。

そういう立場で、今改めて読みなおしてみると、引用には多くの外国文献が使われているし、訳文の影響もあるだろうが、言い方も回りくどいように感じる。もっと直截・端的に武士道を語れないか。それも本物のサムライが述べ書いたものが欲しい。これが当時の明治人たちが持った素直な感覚であったであろう。

その要望に応えたのが鉄舟武士道であって、鉄舟は自分の生き方を真っ直ぐに披瀝している。剣禅書の三位一体の人物、明治中期に衆目一致した武士道的生き方実践者が、日本人に対して教訓として述べたのである。当時は新渡戸武士道より、鉄舟武士道の方が人気も出版部数も多かったのではないかと、これまた推測している。

だが、ひとつ新渡戸武士道について擁護したい事がある。

それは平成時代の人々が、新渡戸と鉄舟の武士道を読み比べると、新渡戸の方が理解しやすいという事実である。現代人は戦後の欧米感覚を取り入れた義務教育で育てられたので、新渡戸の展開する体系と論理の方が、明治期の人々よりは受け入れやすい。加えて、戦後の「国語改革」による漢字制限に始まる当用漢字の変遷もあり、鉄舟は読み難い部分が多々ある。さらに、新渡戸は原文が英語であるから、当然であるが訳文はその時代に使用されている表現文字言語になるので、現代人には読みやすく分かりやすいという事になる。

対する鉄舟については、勝部真長氏が次のように述べている。(山岡鉄舟の武士道)

「とにかくこの本は一風変わった妙な本である。山岡鉄舟でなければ、やはり言えないような、独自な、突拍子もないようなことが飛び出してくる。見方によってはわがままな、断片的ともいえようが、しかしまた他面からいえば深い人格の、無意識底から湧き出してくる暗号のようにも受けとれる。
鉄舟が『武士道』について門人たちに講和しようという気持ちになれたのは、明治十三年に『剣の道』が成就していたからで、もし鉄舟の無刀流が大悟発明されていなければ、とても武士道についてとくとくとおしゃべりなんかする気になれなかったに違いない」

大悟という境地から発した武士道講義であるから、歴史認識に浅い現代人には新渡戸武士道よりは分かりにくいというところが多々あるが、しかしながら、さすがに鉄舟は違うという事をこれから展開したい。

鉄舟宅にて門人を前に語り出す。

「拙者の武士道は、仏教の理より汲んだことである。それもその教理が真に人間の道を教え尽くされているからである。まず、世人が人を教えるに、忠・仁・義・礼・知・信とか、節義・勇武・廉恥とか、あるいは同じようなことで、剛勇・廉潔・慈悲・節操・礼譲とか、言いかえれば種々あって、これらの道を実践躬行(きゅうこう)*する人をすなわち、武士道を守る人というのである。私もそれには同意である」

ここで鉄舟らしい言葉をつなげる。

「しかし私にはなお、他に自信するところがある。その義も似たようなことであるが、物あれば則(のり)*ありというように、人のこの世の中に処するには、必ず大道を履行しなければならない。ゆえにその道の淵源(えんげん)を理解しなければならない。これを学理的に理解しようとするならば、一朝一夕の業ではないが、私はわが国の前途がすこぶる思われてならない。それゆえに国民である以上は、上は大臣首相から下は片山里の乙女、童児に至るまで、だれでも心得ねばならぬと思っている。その一部分を物語るから、それらの話をとくと味われて日本人の武士道ということを理解してもらいたい」

次に、鉄舟が武士道を悟り体得した源を語る。

「ここに一言申しおくことは、日本の武士道ということは日本人の服膺践(ふくようせん)行(こう)すべき道というわけである。その道の淵源を知らんと欲せば、無我の境に入り、真理を理解し開悟せよ。必ずや迷誤(まよい)の暗雲(くも)、直ちに散じて、たちまち天地を明朗ならしめる真理の日月の存するのを見、ここにおいて初めて無我の無我であることを悟るであろう。これを覚悟すれば、恐らく四恩(父母の恩、衆生の恩、国王の恩、仏法僧の三宝の恩)の鴻(こう)徳(とく)(大徳)を奉謝することに躊躇(ちゅうちょ)しないであろう。これすなわち武士道の発現地である」

さらに、今の時代にも当てはまる苦言も述べる。

「今日の役人どもごときは、給わる月給をいただくというよりは、月給泥棒ではあるまいか。彼等が大臣の椅子をほしがるのは、その要路にあって国家のために身命を投げ捨てて、至誠奉公するというのではなく、名利情欲が目的ではあるまいか」

「はなだしい不徳不義の徒の放言には、今日は法律があるから、法律の範囲内において権利を主張するのは、いささかの支障はないという具合」

「いったい法律というものは、社会の制裁上、人為的の仮条文には相違ないけれども、衆人集まりて済世するうえにおいては、また止むをえないことである。しかしながら、法律なるものは、人類霊性の道義の観念にまで、手だしをするものではない。否、力の及ぶものではない。この及ばないところを霊(れい)活(かつ)な精神作用をもって補わねばならない。ここがすなわち武士道の活用所である。かえすがえすもここに注意をしてもらいたい」

鉄舟は明治維新も武士道が導いたと強調する。

「維新の大業はいかにして出来たかと尋ねれば、その起因がなかなか深い。一言にてこれを言えば、武士道で出来たといえばたるようだが、これでは渺茫(びょうぼう)として理解に苦しむであろうから、今少し説明しておく」

ここで朝廷の位置づけにふれる。

「思うに政権武門に帰し、そのために武士が信用を世界に博したから、ばか者の考えには、武門のあることだけ知って、高い皇室のあることは忘れている」

次に武士についてふれる。
「さて、もののふというものは、出所進退を明らかにし、確乎(かっこ)として自己の意志を決した以上は、至誠もって一貫するのが、真の武士でまた武士道でもある。サァ世界が妙になってきた。あるところには、尊皇論と声高く、攘夷論と馳せまわる。あるいはしきりに、開港論を唱えるものがあり、また、あるいは佐幕だとか、討幕だとか、出没窮まりなく、国内一円旗幟堂々、目を当てられぬありさまとなった」

「世人はあるいは勤皇主義とか、開国主義とか、攘夷主義とか、討幕主義とか種々名づけているが、拙者は総合一括してみな勤皇というのだ。元来、わが国の人士は勤皇が本(もと)である。だからその枝葉も勤皇に違いない」

鉄舟にかかると各主義は全部勤皇となり、ここで鉄舟はいよいよその本質を述べる。

「維新の鴻業(こうぎょう)をなさしめた親様は、薩長云々のことはだれでも言うことだが、拙者のいうことも聞いてもらいたい。その義は、産母を幕府だというのである」

「拙者が、幕府を開国進取の鴻業者と言えば、薩長各藩のごときは、一功もないではないかと質問せられるかもしれぬが、世人もあまり子どもばかりでも困る。話の真相をうかがってもらわねばならない。

さて幕府を維新の元由者というのは、かの外船渡来以来、海防の設備騒ぎのころ、彼らの事情を考究させるため蘭学の修業者は多く幕府において仕えて、それらの余波はついに外交政治の機関に活用して、暗々の間に開港の誘導者となり、かの渡邊崋山が、『鴃(げき)舌(ぜつ)小記』『慎機論(しんきろん)』等を著わしてロシアと交通するべしと論じ、勝安房が『外交余勢』を論じ、高野長英が『夢物語』を著わし、その他種々これら各書は、当時の士気を誘発せしめたことは非常なものである。あるいは造船航海術修業のため、榎本釜次郎をオランダに学ばしめ、勝麟太郎(安房)長崎に行きオランダ人について海軍術をきわめ、高橋泥舟や、拙者輩をして講武所を開いて武士道を奨励せしめ、その他海軍操練所とか、蕃書取調所とか、あるいは小栗上野、大久保一翁等に内外時勢の運を視察せしめたなど、開国進取にとっては、いかに貢献したかはひそかに思われるではないか。しかして当時このような業作は、四方大反対の気焔(きえん)をもって、打ち殺せだの、刺し殺せだのとて尋常一様の話ではない。それを勇断して大胆に決行した連中等を思えば、真にその苦労のほどが千万流涙にたえない。ああ、実に忠君愛国の士で、朝日ににおう山桜とは、誠にこのような武士で日本魂のある神州健児といわねばならぬ。あるいは妙にののしる者もあるかもしれぬが、とかく拙者は感謝の意を表して、ここに一言注意を加えておく」

この程度で鉄舟武士道の引用はやめるが、鉄舟にかかっては、福沢諭吉の「痩せ我慢の説」はどこかに吹っ飛び、海舟への批判「あらかじめ必敗を期し」と、榎本への批判「二君に仕えた」という指摘などはごく細かい問題になってしまうのだ。

剣・禅の凄まじい修業を通じ、淵源に辿りつき、無我の境に入り、真理を理解し、大悟した鉄舟から見れば、つまり人間の生きる道での「上位目的」から検討すれば、福沢の指摘などは些細で大したことでない。海舟も榎本も日本国のために行動した武士道サムライであり、それを批判した福沢も、勿論武士道サムライとなる。鉄舟という人物はとてつもなく大きいのである。

次号は、鉄舟がいよいよ政治家として活躍する場面に入りたい。

投稿者 Master : 06:24 | コメント (1)