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2007年04月27日

4月例会記録(2)

■山本紀久雄氏
山岡静山との出会い・・・その三


 二見さんは大変な方なので、何も申し上げることない。今いただいたアンマのパンフレットの後ろから2頁目にアンマが教育について書いている「教育には2種類あります。生きるための教育と、生きることの教育です」心を打ちますね。
 この鉄舟研究会は生きることの勉強会ですね。山岡鉄舟を勉強することは生きることの道を学ぶということ。二見さんの今のお話と通じる。

 二見さんが合気道や武士道を普及していますが、日本人はあちこちに行き普及活動をしている。フランスの女子柔道の柔道人口は日本より多い。人口は日本の半分なのに。柔道が強い天理教がヨーロッパ各地に柔道教育の拠点を作った。それがフランスの女子柔道を強くした。宗教の話ではなく、地域に広めた結果今のフランスの女子柔道がある。

1.静山に完敗し弟子入り。
 静山については、中村正直(敬宇)さんが『静山伝』を書いている。司馬遼太郎が『竜馬がゆく』を書いたが、どれも種本がある。静山についての本は、どれも中村さんが書いた短い小文を元にしている。中村さんは天保に生まれ、明治23年に亡くなっている。鉄舟が明治21年に亡くなっていますから、ほぼ鉄舟と同じ時代を生きた方。この方は昌平坂で佐藤一斎から儒学を学んで、幕末にイギリスに留学し、江戸幕府が終わったあと日本に帰り明治新政府の大蔵省に仕え、東大教授、元老院の議員・貴族院議員を歴任した。サミュエル・スマイルズの『自助論』、J.S.ミルの『自由之理』を翻訳しベストセラーになった。彼が『静山伝』を書いたので、静山のことを知ることができる。

 鉄舟が玄武館に行って、めきめきと腕を上げ、鉄舟に敵う人がいなくなると、鉄舟は鼻が高くなっていた。そこで井上清虎が鉄舟を静山先生のところに連れて行った。静山先生は門弟と立ち合わせた。
 ここまでは書いていないが、いろんなことから想像している。あるときは自分が静山に、あるときは鉄舟にならないと書けない。槍と剣の立ち合いについては困ったことに槍を持ってどう動くか想像しないと書けない。
 小さいとき、貸本屋が家の前にあった。子どものとき、その貸本屋入り浸って読んだ本は伝記本。真田、荒木又衛門、猿飛佐助、塚原卜伝、など昔の有名人を読んだ。武将の伝記物には戦いの場面が出てくるので、これを思い出して書いた。
 槍と刀だったら、槍のほうが長いわけですから、木刀持ってきても、物量でいうなら負ける。勝つなら、槍で突かれたら払うしかない。払って、もう一度槍を突っ込む間に木刀や竹刀で相手を打つしかない、と想像した。
 鉄舟は突きが得意なので、先方の門弟は負けた。鉄舟は「どうだ!強いだろう」という態度に出たのだと思う。
 先月「面影」という話をした。人はみな、人の顔をみて第一印象を受けるが、行動で人を見る。考えは顔に出ていない。行動はかくれた影(シャドウ)の部分。考え方をしっかりしないと表に出てくる。

 鉄舟は当然、まいった!といわせたわけですが、静山や清虎は一流の人間なので鉄舟の考えを見抜く。清虎が静山に「お願いします」と目で合図した。静山は「お見事!では私がお相手しましょう」という。鉄舟は喜ぶ。
 槍は真剣では倒れるから、先にタンポ(綿)をつけてある。
静山と対した鉄舟は攻め込もう、打ち込もうと思っても一歩も足が出ない。静山は5尺7寸(170センチ)、6尺2寸(185センチ)、体格はぜんぜん違う。しかし鉄舟から比べたら小さい静山の体が大きな岩のようになって、攻めてくる。じりじりと羽目板に追い詰められる。そのとき静山は穂先で誘い水をした。誘い水とわかっているが、後ろは羽目板だから誘い水に乗って打ち込むしかない。静山に掛かった瞬間空転して道場に倒れた。20貫(108キロ)の体重を生かして、静山に体当たりでぶつかろうと思った瞬間、また突かれて気を失わんばかり倒れた。鉄舟は「参りました!」となったわけです。
 今、想像の話をしています。

 静山はどうやって腕を磨いたか。22歳で幕府が新しく作った講武所の槍の師範になる。弟は山岡泥舟で「槍一本で伊勢守」といわれ、朝廷から従5位の位を貰った人。この2人は祖父から槍を学んだ。
 山岡家と高橋家は並んで建っていた。今度、文京区にある居宅跡に行ってみる。
 静山のお母さんのお父さん(高橋家)が二人の兄弟に槍を教えてくれた。
 刀心流、刃心流、中村先生は、刃心流は菅原道真が起こしたと言われている。

 ややこしいが、この時鉄太郎は小野家だった。この静山と泥舟の山岡兄弟は、下駄は歯が二つあるが、歯が一つだけの下駄を履かせられた。下駄の歯が36センチ(1尺2寸)という不安定な下駄を履かせて、義左衛門おじいさんは45センチメートル(1尺5寸)の扇型の槍みたいなものをもって、掛かってこい!といい、2人は交代に掛かって行き、倒れるまで払われ続ける。目が飛んで、吐くくらい、ふらふらになるまでやった。
 その後、静山は9キロ(15斤)の槍を持って、1日1000回槍をつく。それを30日間連続する。道場ができたら、昼間に門弟に稽古をつけたあと、午前2時になると起きて、荒縄で腹を縛って、真冬だったら氷を割って、水を何杯も体に掛けて3000~5000回槍の稽古をした。
 そういうことをした結果、山岡静山は、日本でも無双の槍の名人として名が立ち、幕府に認められて、お城にお勤めに上がった。山岡家は貧乏だがお勤めしたから給料を貰って生活をした。

 3000~5000回は本当か?中村正直先生の『静山伝』にあるから、どの本でも引用している。事実の検証をしたいと思った。けど検証のしようがない。
 横綱大鵬に会った。現在は相撲博物館館長をしており、双葉山、若乃花、大鵬、と昭和を代表する3大名横綱のお一人で、歴代優勝47回。
 しかし彼は、世間では私のことを天才という、昔から体が大きく、運動神経がすばらしく、力も強かったから順調に横綱になったのでしょう、と言われる。ライバルの柏戸は天才だった。柏戸は山形県の農家のぼんぼん育ちで体格が良く、相撲勘が良かった。大鵬は学校を出て営林署で勤務して、17歳で体が大きいからと入門した。お父さんはロシア人で、お母さんはロシア人と結婚したから北海道の実家にも帰れず苦労した。相撲界に居ればご飯が食べられるから居た。
 親方から、大鵬は中々好いと、エリート教育のしごきがはじまった。瀧見山が専門コーチになって、稽古では、土俵で捕まえては投げつけられる。気を失うと塩を口に入れられる。何度も繰り返しているうちに塩が鼻に入り蓄膿症になり、手術したという。へとへとになったあと、毎日四股を500回。四股は、足を上げるので全身運動。土に向かって、自分の足を下ろすのは、土は神、神と接する意味があるという。
 四股が終わったら、鉄砲といって柱に向かってつく練習を2000回。毎日しごきを受けたあと、500回の四股と2000回の鉄砲、それからご飯になるが、食事は胃には入らない。食べられないと胃を麻痺させるため、日本酒を飲まされる。その後どんぶり飯を食べさせられる。

 山岡静山が1日3000回槍をついたという話と、大鵬の四股500回と鉄砲2000回、はどうなのか?今の力士はそんな練習をやっている人は誰もおらず、野球選手と一緒にトレーニングしている人もいるという。相撲の筋肉は押す力で、押す力をつけるためのトレーニングが鉄砲。大鵬が経験した練習は今誰もやっていない。昭和に入って大鵬が一番やったといってよいのではないか。大鵬と静山の練習は、どっちが凄いと思いますか?事実としたら静山の方が凄いですね。

 しかし、これは回数の問題ではなく、何かのときに熱中した期間が必要ということ。ひとつのことに夢中になった時期が人生になければ、次の人生は転換ができない。

 鉄舟は、春風館道場の誓願 「一死を掛けて稽古す」は師匠の静山からヒントを得ていると思います。大鵬がそれほどの稽古をして大横綱になり、それを上回る稽古をしたのが静山。泥舟は静山の弟だが、10メートル離れた米俵を上げたという。二見さんのお話の人知を超えたものがあると思う。

2.坂本竜馬が海舟に弟子入りしたとの違い。

 鉄舟は上には上が居ると静山に弟子入りさせてもらったが、それから六ヶ月くらいで静山はなくなった。
 龍馬は勝海舟に弟子入りした。弟子入りするいきさつがその人を表す。龍馬は勝海舟を殺そうとして、元氷川町の家にいった。殺そうと思ったら勝海舟が地球儀を広げて、日本はここだ、小さい、イギリスも小さい、しかしイギリスは世界を征服している。日本国を世界に持っていかなくてはならないと、とうとうと説いた。弟子にしてください!と竜馬は勝海舟の弟子になった。龍馬は智の人だったから大政奉還などができた。

3.鉄舟は天性の素質があった。
 鉄舟は剣に対する素質があった。遡ると、伊藤一刀斎の高弟小野次郎右衛門忠明、小野一刀流の開祖は神子上典膳、この小野一刀流から剣を学んでいる。
 その流れが鉄太郎まで来ている。父・朝右衛門も好きだったから、陣立てをやって、幕府から疑われて自刃したいきさつもあるくらい武術の人、お母さんの磯さんは塚原家、塚原卜伝の家系。両親ともに剣の家系だから剣のセンスがあった。
 素質を伸ばすことが大事。学校は生きるための教育をしてくれる。生きることの勉強は、嫌いなことを一生懸命にしてもだめ、好きなこと、得意なこと、自分の中の才能を見つけるために生きる。

4.静山は槍術の師、何故に槍術を受け継がなかったのか。

 鉄舟は槍の師匠である静山に心服し、静山に弟子入りした。静山は槍を教える。なぜ山岡家に落ち着いたのに、鉄舟はなぜ槍ではなく剣なのか? 鉄舟は自分ということを知った。槍より剣のほうがやりやすい、と思った。
 日ごろの自分観察も大事で、槍も研究したけれど、静山からも剣の方が宜しいのではないかとアドバイスもあったと思う。
 自分が何に向いているか、自分で自分を客観的に見て、向いていることを自分で見つけないといけない。しゃべっている私を見ている私がいるから考えながらしゃべれる。見つめているもう一人の自分がいる。この関係を持つことは、子どもの教育も、夫婦喧嘩も同じこと。これがコントロール。
鉄舟もやっている自分を見つめる自分が居るので、自分をコントロールできる。頭で理解していても自分で体験して身に着けておかないとできない。

 人前で話すと緊張してしまうが、緊張しない自分を持つ。コントロールできる自分を持つことも大事。ひとつのことを10年間続ければ物になる、目先にいろいろ出てくるのは無駄道なので、自分に合ったものを見つけて10年間やればプロになれる。
 1日3000回の素振りはできないが、自分の修行のリズムを作り上げてきているので、体に無理なく楽しんで、できる。この中に自分の道筋があって続けることが宜しいのではないか。

5.鉄舟は六尺を超え、二十八貫を超す巨躯、鍛えぬいた筋肉質の体。

 鉄舟は108キロ180数センチあった。剣で鍛えた。裸になったら筋肉が凄い。

6.当時の一般武士の体と大衆層の体比較・・・逝きし世の面影「渡辺京二」

 当時武士はどのような体をしていたか、客観的事実が羅列してある『逝きし世の面影』(渡辺京三著)に書いてある。
 日本に来た外国人がほとんどの人が共通して言っているのが、上流階級の体格が貧弱であるが、肉体労働者の体は、なんと、ギリシャ彫刻のような素晴らしい肉体美をしている。たくましい男性美を黄金時代のギリシャ彫刻を理解しようとするなら、夏に日本を旅行する者があると言っている。
 なんて調和の取れたからだの線をしているのかと、日本人の体を絶賛している。
 上層と下層とでは、著しく肉体上の違いがあり、上流階級の男性は痩せて病弱だが、下層階級は背が高く筋肉が発達しており強壮で、衣服と体つき美しさの点で上流階級をしのいでいる。しかし、注意しておきたいのは、この意外な記述が見られるのは、幕末から明治初期に限られる。それ以後はだめで、欧米人は、男の容貌や肉体について醜いと述べている。

7.鉄舟研究は長年の疑問について解明してくれる。犬の散歩と鼻をかむ。

 犬を飼っているが、言うことを聞かない。
 フランスに行くと、犬はホテルのフロントでもエレベータでもレストランでも主人にコントロールされておとなしく座っている。
 日本では人間が犬の歩く方向に歩く。その原因は訓練が悪いという人もいる。日本の犬は一般的にはお犬様、わがまま放題に育っている。
 日本は江戸時代がからそうだった。欧米人が日本に来て驚いたのは、そこらじゅう犬だらけ。邪魔だからと犬に石を投げても犬は逃げない。石を投げられたことがないのではないか?
 日本人は、日本人の中に昔から伝わる「草・木・国土、ことごとく皆仏」という考えがある。
 宣教師ブラウンは、文久3年薩英戦争の頃、新約聖書が訳されて日本人に教えに来た。
“人間は神の最高の目的たる被造物だ”人間が一番偉い、という文章に出会った日本人は、地上の木や動物より人間が優れているとは何たることだ!と驚いた。ねずみ、ねこ、へび、ムカデ、牛、豚、も共に住むもの同士。肉食しなかったのもそういうことある。
 ヨーロッパは犬を調教し、自分の支配下に置いてコントロールさせるが、日本は、犬と私はお友達という考え。 
 ますます犬も猫も調教はしません。

 フランス人と会議していると男女ともにハンカチを出して大きな音で鼻をかむ。
 紙の量が江戸時代は豊かだったので、日用品として安かった。ヨーロッパは紙が貴重品だから、ハンカチで鼻をかむ。
 鉄舟を研究して、何十年と疑問が解明した。そういう効果もある。

【事務局の感想】
現場での確認、現場からの報告を旨とされている山本さんの鉄舟研究ですが、今回は大鵬さんとのお話から、鉄舟の修行の凄さ、本物度合いと確実のものとしてくださいました。
そして疑問に感じられたことをずっと考え続けることもされていますが、4月の話では、欧米人のハンカチで鼻をかむということの理由が解明されたことが発表されました。
毎回我々にとっては驚きの連続ですが、それにより、楽しく興味深く鉄舟を知ることができます。これからも新しい発見を楽しみにしています。


以上

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4月例会記録(1)

■春風 主幹    二見健吉氏

** 南インド訪問体験記 と アンマ**
2006.2.27- 3.9
                             
 なぜ南インドに行ったのか、あるいはどのようなことを感じたのか、テーマである鉄舟との関係についてお話しさせていただきたい。


 2月3日英字新聞のジャパンタイムズに南インドに行った経緯について掲載された。定年退職してボランティアをやってもらうにはどうしたらいいのか、今年インドと日本との文化協定締結50周年に当る2007年を「日印交流年」とする区切りの年でもあることが、掲載された理由のようです。
アンマについては、「世界中を抱きしめる~平和と調和のために」というパンフレットをお配りしたので後ほど説明します。ガンジーさんやキング牧師をそういう方を合わせた賞が国連にあり、アンマは表彰されている。
 インドの端・南インドに去年2月にお伺いしたとき、コーチンや地震の津波の被害のあったところなどを10日間くらい掛けてお伺いした。11年前にシンガポールに赴任していたときに、インドに行かないかと友人に誘われてお伺いした。そのときにスピリチュアルなアンマやサイババにお会いしないか、ということでインドに伺った。

南インドに訪問するまでの縁
  一昨年9月に十数年来の心友である元TDK社員 池谷啓さんと4年振りに全く偶然に出会い、
 「南インドに合気道を教えに行かないか!」と誘われた。合気道だけの紹介だけだったら他に適任者が大勢おられるので断る考えでいたが「日本の文化を伝えてほしい」といわれて、日本の文化なら!と伺うことを決めた。日本の文化、山岡鉄舟とその心をもった武士道を伝えるためなら、と仕事の忙しい時期の谷間に11年ぶりにインドに行くことができた。
 シャンタジ様=国際チャリティ協会アムリタハート(アンマの日本支部)の責任者との縁も伺うきっかけになった。アンマは、抱きしめることでその人の気持ちをほぐし、活力を与える。宗教を乗り越えたもの。

合気道の紹介
 コーチンにあるアムリタ工科大学を訪問する。ここは、大学と看護学校と小学校と寺院がある。畳のある道場がないので、大学の中庭の芝生が演武場所となる。芝生に、石や堅い場所がないか事前確認をする。
 武士道の簡単な紹介と合気道の説明を加えながら、二時間実演する。見学者200人。 
(ほかコーチン医科大学  見学者100人 コインバトール工科大学・経営大学  見学者100人。)
合気道は南インドにはない。どちらかというと戦う武道である空手や少林寺拳法が多い。合気道は和の武道で相手が来たら、どう対応するかという武道である。
   合気道の概念の説明   ○Self defense Marshal art    
                   ◎Peaceful Marshal art 
 千羽鶴の手渡しと義援金
  スマトラ沖地震の津波被害の地域へ慰問に行くことになった。被災地ナーガパッティナムの小学校を訪問した際千羽鶴を手渡すことができた。一緒に、折紙教室を開き、カースト以下の不可触民の部落にも訪れて、折紙を紹介した。
  義援金を講演会で集めるようと、「現代に生きる武士道」の講話を行って、講演会のチャリティ分と自分のお金を合わせて、日本のお金で1万円を持って伺った。

 被災地でのボランティア活動
インド タミルナーヅゥ州 ナーガパッティナム地区。日本の学生が100名国際ボランティア協会の呼びかけに応じて住宅建設プロジェクトに2月下旬から参加されていた。ブロックを積み上げていく住宅建設にも関わった。
ここでは、アンマが、スマトラ沖地震の被災地救援と復興活動として、家屋再建やボート等の生業支援、医療救援に向けて、24億円かけていることの意義と成果がひしひしと感じられた。

合気道も3箇所で教えさせていただくことになった。インドに行って、鉄舟と西郷隆盛の武士道の精神、そのエッセンスは伝えることはできたかな、と思った。そうしたら「また来ていただけますね」と言われた。

私のミッションは「国づくり、人づくり」で、鉄舟も想いも「国づくり、人づくり」だと思う。
 アンマのパンフレットを無理してもらってきた。1953年生まれ、世界各国に行き、抱きしめることにより人の心を豊かにする・活力を与える活動をしている。国連でもスピーチをしている。インドでは大統領が表敬訪問したりしている。
 災害救援活動もあちこちで行っている。津波が来ることをアンマは予知した。この地区に限っては人を建物に非難させ、そのあと動物たちも避難させ、被害を食い止めた。他の地域では被害があったので、人道的援助した。クリントンが代表のNPOグループや病院にも寄付をされている。

南インドから帰国後の活動
 9月の下旬にはお釈迦様が説法された北インドから中インドに行った。
「仏国土をつくろう会」主催での仏跡巡りツアーとして参加した。
    場所  霊鷲山 ブッダガヤの大塔  ガンジス河  竹林精舎
     佐々井秀嶺師による 仏教改宗50年 世界仏教徒大会に参加
    (アンベードカル博士(インド憲法草案者 1891-1956)の遺志を継いで仏教復興に身命を)

 インドではカースト制がありますので、インドでは仏教徒が統計上は1%ですが、実際は1割くらいいるかと思う。その先頭に立って仏教改宗でインドを良くしようと活動している佐々井秀嶺師(今年73歳)にもお伺いした。インドから帰ってきてから、「仏教徒に仏教を教えることも大切だが、日本の文化合気道も教えてもらうことはできませんか」、と厚い手紙が来た。

 北インドと南インドの両方から声が掛かり、ひとつの体では両方にはいけませんから、5月末にアンマが日本に来られてからご相談しようかと思っている。うれしい悩みです。ご相談して、9月か10月にはいくことになっている。

アンマ来日プロジェクト  国際スピリチュアル&チャリティフェスティバル
 神戸会場 5月25日、26日 神戸サンボーホール  
 東京会場 5月28日、29日 味の素スタジアム
興味がありましたらどうぞ参加して下さい。日本には毎年来ておられる。

『烏雲物語』(ウユン)
 山形県の鶴岡市全40小学校に100冊寄贈に行きました。翌日、「寄贈ありがとう」と山形新聞に出た。今後10年間で300小学校に寄付することを目指している。
 鶴岡庄内に来たのでと、清河八郎の記念館などに伺った。入ったら、徳富蘇峰、頭山満の揮毫があった。恩師品川先生の先生である徳富蘇峰は当時一流のジャーナリストだった。また品川義介先生は、頭山満を尊敬されてかわいがってもらっていた。うれしくて感激しました。
今朝、鶴岡から帰ってきて直接こちらに来た。人に恩返しをすると自分に還ってくると実感しています。

インド十円日供
  一日十円(年間三千七百円)を奉納し、インド僻地医療・教育を支援する。
インドに行ったので、何とかしようと1日10円集める十円日供運動を個人で始めた。10円はわずかだけど、それを集めてインドに寄付することをやっている。今後も継続していきます。学校や病院とか、に使われている。アンマ・仏教のご縁、日本に花咲いた武士道を、合気道を通じて、インドに伝えることができたら非常に良い。私自身は山岡鉄舟の考えを実践に移して、インドへのご恩返しと夢の実現ができればといいと考えている。


  二見のミッション    「国づくり  人づくり」 
   具体的実践事項と目標値
    1「親子合気道教室」の普及           (新規 十年で100家族)
        「無心無構」  「稽古作徳」
    2「春風」誌を通じて、 「志」「徳」を伝える  (購読者 十年で200人増加)
    3「烏雲物語」寄贈と感想文募集活動       (十年で300小学校)
    4「心の仏教」実践   ①インド十円日供運動の普及  (十年で300人)
                ②写経 「延命十句観音経」の奉納    (十年で100人)
    5 日印文化交流(合気道 武士道)の橋渡し   3年間で目標値を明確にする。

【事務局の感想】
 退職されて、ますますご自身の活動を積極的にされていることが、想像をしていたことですが、やはり、という思いで今回の発表をお聞きしました。忙しい時間にも係わらず、望む方向に物事が進んでいくのは、それをするためにそのように開けて行くというように感じます。これからも
二見武士道の発展をお祈りしています。

投稿者 staff : 13:05 | コメント (0)

2007年04月19日

4月例会の感想

鉄舟サロン4月例会の様子をお知らせいたします。
今回から、お部屋を隣の大会議室に移しての開催となりました。
photo_reikai0704_02.JPG
あいにくの雨模様でしたが、初参加の方を含め大勢の方にお集まりいただき、盛況のうちに会を終えることができました。

今回の発表は、二見さんと山本さんです。
二見さんには南インドを訪問された体験記をご発表いただきました。
インドで合気道を紹介されたとのこと。
詳細は記録に譲るといたします(スミマセン、受付やら何やらでお話が伺えませんでした。記録を楽しみにしています)。

山本さんのお話は、鉄舟と山岡静山との出会い。
鉄舟が完敗し、弟子入りした山岡静山とはいかなる人物であるかについて教えていただきました。

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二見さんからいただいた資料の中にある、インドで人道活動を行っていらっしゃる「アンマ」という方の言葉です。
『教育には二種類あります。
 生きるための教育と、生きることの教育です。
 医者や弁護士、技術者を目ざして大学で学ぶ、これは生きるための教育です。
 しかし、生きることの教育となると、霊性の本質的な教えを理解していかなければならなくなります。』
山本さん曰く、我々が山岡鉄舟を学ぶということは、「生きること」を学ぶことに他ならないのではないか。
その通りだと感じました。
鉄舟はことばをほとんど残しませんでしたが、その生き方を通じて私たちが「生きること」を自身に問う、非常に大切な機会を与えてくださっているのだと感じた、今回の例会でした。

投稿者 lefthand : 09:19 | コメント (0)

2007年04月06日

3月例会記録(2)

■山本紀久雄氏
「山岡静山との出会い・・・そのニ」

 われわれは明治以来、教育によって、頭の中を洗脳されたと思う。全国フォーラムで井上先生が紹介してくれた『逝きし世の面影』(渡辺京三氏著)を読むと、江戸時代は民主的で素晴らしい時代があった。日本人ではなく日本に来た外国からの著述を集めて実証した。客観的な評価から日本をあぶりだしてきた。明治の日本人は外国人にコンプレックスがなかった。現在コンプレックスがあるとしたら、それ以後の結果である。
 今に続く面白いことが出ており、ニコライ(ニコライ堂を作った人)が、日本人は非常に恵まれた状態なのに政府に文句を言う、そして言い分が口にできるというのが民主的であると言っている。江戸時代から政府に文句が言えた。封建的に抑えられていなかった。日本はそういう人種。

1.鉄舟の生き方から学ぶこと、それは生きるためのセオリー

 朝日新聞2月27日版に茨城大学助教授磯田道史さんが鉄舟の貧乏について書いている。貧乏は極に達した。山岡の家には柏の大木があった。あるとき柏餅屋が来て葉を売ってくれといった。奥さんは、売ることは武士だからできない。ただ餅に変えてもらって、子供に食べさせた。鉄舟が帰ってきて、奥さんが柏の葉を餅に変えたことを言うと、柏の大木を伐ってしまった。徹底的に山岡鉄舟は武士道を極めた。
 出典を磯田さんにお聞きしないとならないが、これはあることを示していると思う。我々はお金ないときはどうしますか?お金がないから、仕事をする。昔の武士たちでも武芸に励むのは立身出世のためで、立身すればお金が入ってくる。目的と方法があって、目的をお金にすると、方法は剣の腕を磨いて出世することになる。
 来年柏の葉が出れば餅になったのに、鉄舟は伐った。鉄舟の目的はお金ではない。お金がすぐに簡単にほしい、という人がいた。金は何かをするために必要なものでしょう。お金が目的だったら、お金を手にしたら死んでしまう。何のためのお金でしょうか。
 鉄舟の目的は何だったのでしょうか。鉄舟の目的が金だったら、柏の木を伐らないでしょう。お金がなかったら働いて、お金を握ったら、その先にある、目的に向かう。目標を明確にしたい。ここがぶれると方法論が狂ってしまう。

 ある会社に行ったら、ちょうど新入社員の入社式をしていた。社長は新入社員に目標を持ってやってほしいといった。
 目標はロマンだ、戦略だという人がたくさんいる。目標は簡単に持てる。目標を簡単に持つと簡単になくなる。挫折する。目的は簡単にできる。あまりにも大きい目的を持ちすぎると達成できない、達成できないと挫折するでしょう。挫折し続けると小さくなる。意外にここが難しい。
 目的がはっきりしない限り、方法論がはっきりしない。鉄舟は目的がはっきりしている。だから柏の木を伐ってしまう。子供が餅を欲しがっていても。ここが違う。
 新聞を見ても、鉄舟は貧乏したんだなぁ、と思っているだけではだめ。なぜ貧乏したか、鉄舟は腕が立つのだからアルバイトをすればいい。近藤勇は自分の道場に人が来ないから、剣ひとつもって家庭教師に歩いた。でなければ食べられない。
 鉄舟は絶対しない。目的のレベルが違う。目的の内容をどうするかです。

 前回までのお話はペリーが来航したとき、鉄舟は18歳だった。過去日本にはいろんな国が来たのに追い返していた。ペリーはその事実を知って追い返されないような戦略で来た。そのおかげで日本はペリーを陸上にあげてしまった。
 インターネットはなかったけれど、このことは日本中に知れ渡った。情報はインターネットがあるから知れ渡るのではなく、すごくショックなものは口こみですごく早く情報が知れ渡る。
 鉄舟は18歳の若者、鉄舟もペリーが来たことによって、日本はどうなるか、どうすべきか、と玄武館の道場連中や周りの人と議論をした。
 鉄舟は井上清虎の「日本中そうなのだから仕方ない。ペリーのことについて議論しているときなのか、おまえは」という一言で鉄舟は気がついた。
 アメリカの船が来てあちこち忙しいと鉄舟は高山に手紙を書いており、その手紙が残っている。しかし鉄舟は「はっ」と気がついて剣の修行に戻り、腕が上がった。腕が上がった結果、井上清虎もかなわないほどの腕になった。玄武館ではかなう人がいないほどの腕前になった。さすがの鉄太郎も驕慢な振る舞いが出てきた。そのときに井上清虎が出てきて、何をしたかはまた後の話になるわけです。

2.童謡「赤とんぼ」の故郷「竜野」

 今月はロンドンとパリに行き、そのあとまた仕事で兵庫県の相生に行きました。山陽本線で「相生駅」の隣駅が「竜野駅」で、ここは童謡「赤とんぼ」の街として有名。竜野に下車して1泊しました。日本の旅館はいいですね。夕食は部屋に運んでくれるし、食べ終わると布団を敷いてくれる。
 お城はあるし、一番気に入ったのは、城下町の町屋に残された雛人形を無料で公開している。ちょうど行ったその日から始まったお祭りで、普通の家に入り昔からあった明治・大正・昭和のお雛さまを見られる。私は古い家に入った、屋根の瓦は天保時代、鉄舟が生まれた時代、お雛様も江戸時代だった。
 こんなお祭りが日本で行われている。タクシーに乗って欧米人は来るか聞いたが、姫路城までで竜野までは来ないと言っていた。姫路からすぐそばです。
 「赤とんぼ」を作詞した三木露風の出身地で、毎年童謡コンクールがあります。町を歩く人はみんな親切です。

3.日本のイメージ「BBC調査結果」から考える

 日本は本当にいい。日本の人気は絶好調です。世界で一番の人気。
 3月5日にロンドンに行ったときにBBC(英国放送)が新聞に発表しました。27カ国・2万7000人に世界で最も好まれている国、嫌われている国はどこか、アンケートをとった。嫌われている国は戦争をする国、戦争を仕掛けている国で、イスラエル・イラン3位が北朝鮮。
 世界に最も良い影響を与えている国の1位が日本とカナダです。カナダは日本の27倍の土地を持っている、人口は4分の1です。自然環境にあふれている。行ってみたいと思うじゃないですか。香港の人たちが、中国に返還されるときお金もちはカナダに移住した。
 27カ国のうち2カ国だけは日本のことを怪しからんと言っている。中国と韓国。中国では日本に対して良い印象を持っていない人が63%います。しかし、イスラエルもイランもアメリカ、北朝鮮、インドも悪いという人もいる。
 韓国が一番嫌いな国は北朝鮮、イスラエル・イラン、その次が日本です。
 どこの国が一番日本に良い印象を持っているか、日経新聞には載っていないが、たまたまイギリスに居たのでわかった。日本に対する好感度が一番高い国はインドネシアで84%、2位カナダ・ケニヤ74%、4位フィリピン、チリ、アメリカ、ナイジェリア、ブラジル、イギリス、ギリシャ、そういう国が日本に好感度を持っているベスト10です。

 昔は日本の評判は最悪だったと思います。60・70年前、満州に進出する、中国と戦争する。インドシナに進出する、翻って真珠湾攻撃する、世界中に戦争を仕掛けた国。評判は変わります。今の評判がいいから昔がいいとは限らない、でもそのまた昔は良かった。日露戦争で驕慢になった日本を諌めるために新渡戸稲造は『武士道』を書いた。
 評価は変わる。戦後急速に経済成長した。バブルのとき、日本が世界中に土地を買い求めに出た。レストランに行っても一番高い店に行って、真ん中に座っていた。元気がいいので、どんどんお金を使っていた。どの世界もバブルが崩壊したが、日本だけが15年くらい長引いた。
 バブルが崩壊した結果、日本も普通の国だったのかと。それまでは戦争に負けて脅威の回復をして、世界の経済を征服するんじゃないかと思われていた。フランスの女性の大統領もヨーロッパ中日本製品であふれると警戒し、車の輸入を制限、アニメーションも50%に制限した。
 普通の国に戻ったときに改めて日本という国を普通の目でみられた。日本のマンガの良さに気が付き出した。読み出したら日本という国はこんな国なのか、ドラえもん、アルプスの少女ハイジ、こういうものをつくる国か、と見る目が変わった。これは推測ですが。

 ナポレオン1世は今ヨーロッパに行くと、“活躍した人物”程度の評価。
 1790年代は、ナポレオンは、イタリアに遠征、エジプトに遠征し、ドイツを破って、モスクワに行く、と世界中に戦争を仕掛け、このせいで200万人死んだ。200万人というとたいしたことがないように思うかもしれないが、人口は今の10分の1の時代で今の時代で言うと2000万人殺したことになる。極悪非道の罪悪人。戦争をどんどん仕掛けて、モスクワで負けて、ワーテルローで負けて、ざまみろと思われていた。

 60年くらいたって、1868年~1870年ごろ、フランス人のロッシュ公使が日本に来て、フランスが徳川に味方しますから、お金出しますから、薩長軍と戦争しなさい、北海道を担保に陸軍を出しますと言った。幕府は日本に居たフランス陸軍の協力を得て、東北で戦って、フランスの将校は、函館戦争にも参加した。 そういうときに、フランスがだめになった。プロシャと戦争して負けて、フランス領土だったところが取られて、フランスはしゅんとした。フランスの国力が落ちたわけですから、フランスは脅威ではない。軍事力は勝っているときは脅威だが、負けたら脅威ではない。軍事力が弱くなるとフランスに対して好意的な見方になってくる。ナポレオンは、王政を倒すために第一弾目にやってくれた人物だったと評価が変わる。

 温泉の専門家ですから、その頃、フランスの中に温泉ブームが起きた。それまでのフランスの金持ちはドイツのバーデンバーデンとかチェコの温泉に行った。負けた結果フランス国内でナショナリズムが起きて、外国の温泉には行くな、フランス国内で探そうと温泉開発ブームが起きた。
 フランスの作家モーパッサン(『女の一生」の著者)が『モントリオール』という本で温泉が舞台の小説を書いた。この本を見ると、今のヨーロッパの温泉は科学的だが、当時は男女が知り合う場所だったというのが延々と書いてある。
 ロシアの劇作家チェーホフ(『かもめ』『桜の園』の著者)『犬を連れた奥さん』は、幕末の作品で、モスクワの上品な奥さんが犬を連れて温泉に行き、そこに居た男とできて、帰った奥さんを男が追っかけてくる話。温泉はそういうイメージだった。

 今アメリカはどういう状況かというと、経済は順調、来年の11月には大統領選挙がある。候補者は決まっていない。候補者を決めるための、パーティをやって、ヒラリーさんは一晩で3億円くらい集めた。金がないと選挙はできない。大統領の予備選挙で一億ドルを使う。選挙本番では5億ドル、日本円で600億円かかる。
 NYの一番いいホテルで、一番いいシャンパンやワイン、料理をどんどん出す。政財界に私は元気だ!私が大統領候補に決まる!という勢いを見せたい。オバマは130万ドル集めた。クリントンやオバマ、ジュリアーニはそういうことをしている。
 民主党の党員でありながら政府の中に入っていけない人がいる。共和党が負けて民主党が勝ったとする。出た大統領は、共和党の幹部を全員排して、民主党の政権をつくる。上の役人がかわる。政権に食い込もうと思ったら、来年の11月に大統領が決まってから支持してもだめ。誰が当選するかわからないときに「あなたにかけます!」と言った人が登用される。1年10ヶ月前に大統領に誰がなるか、出世しようと思ったらそれが最大の関心事。人物を見抜かないとだめ。

 『逝きし世の面影』の「面=面・表・思い・目標・目的でもある」「影=シャドウ」
 人は顔では判断できない。顔を見たら、顔の奥にある影の部分、人は考え方・影が顔に出てくる。その人の行動を見て、行動の結果をみて、その人の人間性や考え方を判断する。
 鉄舟の本を読んで、鉄舟は貧乏だったとあるが、ではなぜ貧乏だったのか。腕は立つのだから、働けばいい。働かないから、子供も栄養不足で死んでしまった。行動を見ればなぜ貧乏だったかがわかる。
 クリントンをどうみるか、オバマ、ジュリアーニ、上院議員マケイン、誰をどう考えて、今そこに徹底的に投資するか、2008年に変わる。投資具合によって政権に入れるかが決まる。政権に入らないと自分の能力が出せない。経済、国防、をやりたいという思いを持っている人は、誰が大統領に当選するかを今からかける。間違ったらおしまい。行動というのは相手の行動を見て、自分の行動を決めていく。相手の行動を見て、相手を判断する。
 鉄舟の評価は変わらない。鉄舟が変わっていないから。日本、ナポレオンの評価は時代に寄って変わったが、鉄舟の評価は変わらない。鉄舟の読み方を変えていく

4.鉄舟は人を斬らなかったという「本当の理由」

 剣は何のために学んだか、剣を磨いて、人を切るために剣道の修行をしたわけではい。目的があった。
 幕末から明治に活躍した人物で、一度もきらなかった人に木戸孝允(桂小五郎)がいる。池田屋騒動で長州の人が殺されたときも偶然か逃げる。池田屋に時間を間違えて来たのが木戸(桂小五郎)で、誰もいなくて長州屋敷に帰ったあとに池田屋騒動が起きた。そうやって生き延びた。逃げの小五郎といわれた。
 鉄舟とは殺さなかった理由が違う。鉄舟は人も殺さない、アルバイトもしない、子供が死んでも反省しない、柏の葉を餅にかえたら木を伐ってしまう。
 自分がすべきことを若いときから考えていた。15歳のときにつくった修身二十則の中の一つ「名のために学問・武芸をすべからず」名を上げ、食を得るために、学問・修行をするのではいけない、といっている。

 23歳のときに「宇宙と日本」を書いた。その中で、日本には天皇陛下がいて、ほか武士、公家、商人・・・みな同じ、みな公平と書いている。天皇を中心にする国体をつくるために不肖鉄太郎は修行すると、鉄舟は人間修行を国家レベルにおいていた。
 個人レベルではなく、国家レベルの目的のための剣と禅。目的は国家、国家を優先したときは、自分のことは顧みない。鉄舟の生き方から学ぶべきこと。

 皆さんは国家レベルに目的をおくと、明日から働くことが必要なくなってしまうから、皆さんは目的を国家レベルにしても、しないにしても、それでもお金が目的ではあまりにもさびしい。自分の持っている面影の中に入っている、顔つきではなく、自分の中にある自分の存在意義を目的にしたら良いのではないか、自分の世に生まれた意義を鉄舟から学んだ。

 BSテレビで「本と出合う」という番組に30分ほど出ましたが、取材の中で「脳力開発と鉄舟はどう関係しますか?」という質問があった。
 脳力開発の目的は戦略指向、鉄舟は戦略思考をもったから、ああいうことができたんです、と答えた。「秀逸でした」とあとでディレクターから手紙が来た。

5.山岡静山の屋敷に行く

 鉄舟と静山の出会いは、井上清虎が山岡静山先生の下に、生意気になったからと鉄舟を連れていき、静山の弟子にさせる。
 鉄舟と高橋泥舟の住んでいた場所を教えます。茗荷谷から5分で行けるところにある。今日は時間がなくなりましたが、次回は静山との出会いを話します。

以上

【事務局の感想】
 今月も鉄舟の柏の木と切った話から、鉄舟の哲学、人生の目的について大事なことを教えていただきました。つい生まれて生きている自分の存在意義を忘れてしまいがちでありますし、その点に考えがおよばないという人々が多いとおもいます。
 存在意義は何かぜひ振り返ってみたいと思います。

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3月例会記録(1)

■松村三喜男氏

「日本再生のキーワード」
“Culture & Science”(日本文化と科学)

 兄弟が8人おりまして、3番目でございます。親が名前を番号でつけたしだいで、人生で3回喜ぶ男と考えております。生まれは長野県の富士見町です。
 素晴らしい鉄舟21サロンでお話することは恐縮ですが、役目を果たしたいと思います。資料に書きすぎて、とてもこれだけ話す時間がございませんので、端折ってポイントだけお話したいと思います。私の独断と偏見が入っていると思いますが、ご容赦いただければと思います。

資料の解説
 ビッグサイトの展示会に行ったときに、咸臨丸の資料(臨海エリアのフリーマガジン『SEASIDE』)を見つけました。海舟のことを勉強しておりましたので、船の科学館で冊子をもらって参りました。12・13ページ「船の科学館へ“咸臨丸”を見に行こう」にあるように、当時わが国には蒸気軍艦がなく、初の蒸気軍艦として作られたのが咸臨丸です。勝海舟が艦長として大変活躍されたということが書かれております。
茶色の資料「蒸気軍艦“咸臨丸”」これも後でご覧いただければと思います。
 A4サイズの資料「山岡鉄舟を祭る文」(勝安房=勝海舟の親友)は、私が生まれた年月に出版された『最新作文教典』という分厚い本からです。この本は、子供の頃家にあって見た記憶があります。最近たまたま見たら、鉄舟のことが書かれておりましたので、お持ちしました。どれだけ大変な世の中で活躍されたかが書いてあります。あとでご覧いただければと思います。

 カルチャーとサイエンスから、日本の再生を考えてみる、ということを、実際に生活、現場を歩いたこと、少し勉強した中で、皆さんに発表できればいいかなと思います。

竹中さんの講演より
 昨年11月10日に竹中平蔵さんの特別講演があって聞きました。その時言われたことがいくつかありました。世界の金融や経済学は様変わりをしているということを言っておられて、大臣のときにいろいろおやりになったわけですが、金融論者、経済学者、エコノミストの発言は全く参考にならなかった、志のある実務家の話しだけしか役に立たなかった、教育の改革については大学の改革からやらなければとおっしゃっておりました。もうひとつは構造改革を小泉さんから安倍さんと引き継いでやられているわけですが、“改革の戦略は細部に宿る”と、小泉さんは改革をする上では大変緻密な計画を立てて実行してきているのですよ、とおっしゃっていた。竹中さんが最近書かれた本にも載っているのではないかと思うのですが、非常に緻密な計画の上にやってきた結果、それなりに評価されています。小泉さんは改革の情熱・パッションがあり、国民の支持を得、それで、それなりの成果を得たのではないか、という話があったわけでございます。

 藤原正彦さん『国家の品格』を書かれておりますが、御茶ノ水女子大の講演を聞かせていただいたときに、教育について特にいわれたのは、小学生のときの教育が大事だ、週に24時間しかない中ですべてを教えることはとてもできない、まず国語、算数など絞って、徹底して基礎を教えないといけないと話しをされていました。日本の教育は厳しさがないことが、世界の教育と比較して感じることだとおっしゃっておりました。あとでお話しする食育の服部先生も同じことを言われており、厳しさが欠けていると感じるわけでございます。

日本の大学生
 私はバブルのさなかに、オリンパス光学という会社で人事のマネージャーをやっていて、全国の主要な大学を歩きました。そのときに感じたのは、大学生がバブルに浮かれて勉強しなくなったことです。東京大学、信州の大学も機械工学、精密工学の7割8割の学生が、給料が高いからと金融や証券会社に入社しました。東大の教授も日本の将来はないと嘆いていました。
 学生の成績分布がある、成績上位20%はバブルの時代も今の時代も変わっていないと思います。一番困ったことは、中間の人たちが下の方にずっこけて、大学も大学院もレベルが落ちてきていることです。日本の大学は、世界の100に入っているところがひとつもないとおっしゃる先生もいらっしゃる。

 大変景気が良くなったということで、就職も学生が売り手市場になってきて、学生の皆さんが勉強してしっかりした社会人になってくれないと困ります。
 半月ほど前に青山学院大学の石川先生にお話を伺うことがありました。科学技術、世界の国際会議に出て感じることは、最近は日本人が出る幕がない、来ている人も少ないと、石川先生は日本の科学技術教育は破綻したと嘆いておりました。

 大学、大学院のレベルの低下について、大学は高校の教育が悪いと言うし、高校は中学の教育が足りない、中学は小学校の教育が悪いとなってくるわけで、ALL日本無責任国家になってしまったのではないかと感じているわけでございます。

服部先生の講演より
 昨日服部学園の服部先生の食文化についての講演がありました。調理・料理はもちろんですけれど、昨年、服部先生が提案した「食育基本法」がようやく国会で制定されて各学校などが動き出しております。
 世界76カ国の中で、食事をしながらテレビを見ることを容認するのは日本だけ、世界で他にない、テレビを見ながらの食事は食の文化が乱れる、日本の教育を立て直すには、食事のときにテレビを見ることをやめなければいけないとおっしゃっておりました。

 脳の成長は8歳~10歳が最も生育するので、その時期に冒険心とか創造する心とか、教え込まないとだめだということを強調されておりました。毎日いろんな事件が起きておりますが、20年前は今出ているような事件は数件しかなかったが、去年は40件近くなったといいます。新聞やテレビに出ない隠れた事件が10倍はあるようです。5年後には100件、10年後には300件くらいになる、困ったことだというようなことでした。

 昔は少年団など群れの教育がありました。今は地域の社会教育的なものがなくなってきてしまっている。一番の原因は、他人からも親からも注意されることがなく従って免疫がないので、ちょっと注意されると感情的になってしまいます。食の栄養バランスが崩れているのではないかと思います。長野県の上田の方の町長さんが地域の学校の栄養バランスを考えた結果、きれる子供や貧血を起こす子供がなくなった、ということがありまして、素晴らしいデータもありました。注意されないことと栄養のアンバランスが原因ではないかと思います。

 教育の基本は、幼稚園では自分のものと人のものを区別すること、小学校は協調性を、中学校では社会性・国のしくみ、高校生以上は志をいかにもつようにするか、教育の基本でやらないとなりません。

 先生や親に対する尊敬度について、たとえば北京は先生に対しての尊敬度は80%、アメリカ82%、EUでも82、数パーセント、韓国84%に対し、日本は21%です。親に対する尊敬度の世界の平均は83.2%ですが、日本は50%以下です。50%以下というのは国が危なくなる限界だそうでございます。先生に対する尊敬度を71%にするには100年かかり、親に対する尊敬度を50%以上にするには50年かかる、それほど教育は時間がかかるそうです。
 さっきもお話しましたが、教育の現場における優しさ・楽しさ・厳しさという面で、欧米は3つとも揃っていますが、日本には「厳しさ」がありません。
 子供の自立の年齢が日本の場合、昔は20歳でしたが、最近は30歳になってもまだ自立は無理みたい、うかうかすると40歳になっても自立できないという話もございました。
 上下関係がわからなくなっているそうです。挨拶ができない、志が不足している、飽きっぽい、我慢できない、無気力・無責任が子供たち学生たちの実態だそうでございます。

 日本に来た留学生にアンケートを取って尋ねたところ、「日本の印象は」すべての国の留学生が「日本の学生はだらしがない」と言っているそうです。

 食の教育の3つのキーワードは、安心・安全・健康です。正食の進め、食のしつけを家庭・学校・地域社会でやる必要があります。テレビを見ないで食事をするしつけをしないとなりません。次は食のグローバル教育です。

自給率について
 残飯の話が出まして日本は年に2300万トン残飯を捨てています。世界の貧困の状態を見ると、餓死、食べ物がない生活、栄養不良の子供たちがおり、2300万トンを捨てないで世界に生かせば、世界の相当数の人たちを救えます。日本はまず、残飯をなくすことだということでした。結びの言葉は「食の再生は今日から、今から」今の話を一人が5人くらいに広めていけば何とかなるのではないでしょうか。服部先生のポイントをお話させていただきました。

環境について
 元アメリカの副大統領のアル・ゴア氏が「不都合な真実」という本と映画を作られました。素晴らしいことと思います。翻って日本をみたときに、福田元総理が、自分の退職金3億円はたいて京都会議をおはじめになりました。年に3000万円使って、10年くらい続けられるでしょう。世界の人たちを招いて、環境について話し合う場をある程度定着していけるのではないでしょうか。
 ESDという資料をお配り致しましたので、あとでぜひ読んでいただきたいのですが、小泉さんが国連に提案して、取り上げられてESD(持続可能な開発のための教育)、教育の10年としてスタートとなりました。ぜひこの点も知っておいていただきたいことです。日本も提案の責任がありますので、ESDジャパンが日本の展開について話し合う場がありまして私も出てみましたが、皆さんが暗中模索ありますが、それぞれ努力してやっております。
 日本がアジアの諸国、韓国・中国・タイ・フィリピンなどを巻き込んでやっていこうとして動いていることも知っておいていただきたいと思います。

 埼玉県に40数年住んでおりますが、以前所沢でダイオキシンの問題がありまして、知事を先頭にNOダイオキシン運動を展開しました。私も地元の代議士と一緒に活動しまして、その後所沢の焼却炉を取り払いましたが、土壌がどうなっているかは知りません。仲間たちと騒がれた当時、雨水の顕微鏡写真を撮りました。
 ダイオキシンが入っている雨水は結晶になりませんが、最近取った雨水は結晶ができているので、それなりに良くなっているのかなと思います。

 酸性雨の問題もありまして、青森・秋田・山形県の日本海側の木が枯れてきています。長野も一部、感じるところがあります。中国から偏西風に乗って、酸性雨が降ってくるわけでございます。環境問題は、世界が取り組まないと大変なことだな、と思います。
 日本でも福田さんや小泉さんが活動されておりますので、われわれも、一人一人がやっていく必要があると思います。

日本語について
 日本文化の素晴らしさは皆さんも感じていることだと思いますが、藤原正彦さんも日本語を評価しています。
 私の知っている大平さんが、日本語というのが、他の国の言葉と違って8次元でできているという見方がありまして、確かにそうだな、と勉強を始めさせていただいたところです。元素周期一覧表というのがあって、一昨年、文部省が元素周期一覧表を作りまして一家に一枚持つようにしたいと1枚100円で分けてくれます。元素周期一覧表と同じように言葉を次元に分けて考えたのが、日本語だというお話です。中身の話は時間がないので、しませんが、日本語が8次元でできている。こう言う言葉は世界にないということで、また機会があればお話したいと思います。

テクノロジー
 日本の科学技術・先端技術は進んでいます。日本の農業・健康・環境問題にしても日本が一番進んでいます。ナノテクノロジー、今その先のスーパーナノテクノロジーに入ってきているわけですが、ナノテクを、健康のため、町おこしなど、農業の改革、環境とかに利用できると思っております。
 栃木県で“とちおとめ”で残留農薬があることが問題になりましたが、優れた技術を使って、私の仲間たちが農薬を使った場合でも、ある技術を使えば残留農薬がゼロになっている、りんごでもそういう例が富山でも出ています。
 農薬や化学肥料を使わないのがいいのですが、農薬使わないと農家の経営は成り立たないというわけです。
 新しい技術の新しい水ができています。新しい水をつかって、農薬や化学肥料を使わないでも農業ができるといわれており、実績もできています。
 ブルーベリーは農薬使わないで収穫が5倍になります。
 また、ある装置を使って収穫するとお米を反あたり8俵だったのを15俵取れます。農業も今までの農薬や化学肥料を使う農業を変えて、使わない新しい農業に換わっていくのではないか、そうしないと開けていかないのではないかと思います。組織の中できないかもしれないが、テクノロジーがそこまで行っています。
 長野の百姓の例ですが、かぼちゃを作ったことがありますが、かぼちゃは一般的に1本の木に食べられる大きさのものは3個しかならないのですが、新しい水を使うと初年度に80個くらい、2年目は125個とか、3年目は250個とかそういう実績が出ているわけです。

 そういうテクノロジーを使えば、世界で問題になっている食糧、水、環境エネルギーの問題が日本の技術で相当改善できます。持続可能な開発教育、世界のインフラを解決できるのは、日本だろうと思います。


 話が飛んでしまいましたが、今日はありがとうございます。


【事務局の感想】
 松村さんが大変勉強家であることがわかる今回の発表でございました。いくつものテーマがでてきましたので、時間がたりないほどでした。次回には、松村さんの一番関心のあるテーマに絞って発表をしていただきたいと思います。

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2007年04月03日

飛騨高山の少年時代 その二

飛騨高山の少年時代 その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

幕末の志士や明治時代の初めに活動した青年達を、ほめあげる政治家や歴史家が多くいる。ほめられて当然の働きをしたわけでこれに異論はない。しかし、「ほめる」側に何か基本的認識レベルで欠けているような気がしてならない。何か重要な前提を忘れている。

当時の人物は「命がけ」であった。行動は常に「死」に面していた。命を失ってもかまわないという覚悟があった。死ぬ覚悟で日本を変えようとした背景に「一人の人間の決断で国の運命を変える」という思想哲学を持っていた。そうでなければ、あのように死に対して恐がらず、死に急ぐことは出来なかったと思う。

このことを現代の「ほめる」側は、理解していないのではないかと思う。今の我々に「命がけ」の気概があるのか、と問われれば忸怩たるものがある。時代環境が違うといってしまえばそれまでであるが、当時の青年達は立派であった。

ただし、その覚悟のできた青年達にも、ひとつだけ残念なことがあった。それは当時の志士達に共通しているのだが、自らの心情や時代情景を、上手に文章化する力が欠けていたことだ。政治上の建白や公憤を詩文に託すことは巧みであったが、時の政治状況や社会状況を観察し、そこでうごめいている人々の情感機微を伝える文章力、それが一様に不十分であった。それらを工夫表現することがなされていれば、もっともっと当時の状況が鮮明になっていたであろうと思うし、死ぬことへの急ぎは少なくなっていたのではないかと思う。

同様なことを司馬遼太郎が「歴史の中の日本(中公文庫)」で指摘し、ただし二人の人物だけが例外であったと述べている。それは坂本竜馬と西郷隆盛である。

竜馬は国許の姉への手紙などに俗語を大胆にとり入れ、西郷は薩摩の俗語をつかって、京都から情勢分析を報道的に国許に送っていた。

特に西郷は、現実の生々しい機微をつかんだ表現で手紙を書き続け、時局の判断を誤らないように薩摩藩を導いていったのである。

そのことを司馬遼太郎は高く評価し「西郷は一流の報道家の資性を備えていて、優秀な新聞記者が務まる能力を有している」と認めている。

その優れた報道家的資性を備えていた西郷が「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」と鉄舟の本質を的確に表現し、それが「南州翁遺訓」として現代に残されている。西郷の的確表現力によって、鉄舟の人物像が今日まで明確・妥当に伝わっていることに感謝したい。

その鉄舟も、多くの志士達と同じく文章は残さなかった。だが書は大量に残してくれた。鉄舟の生涯でどのくらいの枚数を書したか。それを鉄舟宅の内弟子として、晩年の鉄舟の食事の給仕や身の回りの世話などを、取り仕切っていた小倉鉄樹の著書「おれの師匠」(島津書房)から見てみたい。

「明治十九年五月、健康が勝れぬ為、医者の勧告で『絶筆』といって七月三十一日迄に三萬枚を書き以後一切外部からの揮毫を謝絶することが発表された。すると我も我もと詰めかける依頼者が門前市をなして前後もわからぬので、朝一番に来たものから順次に番号札を渡した云ふことだ。(明治十九年六月三日東京日日新聞)

其後は唯だ全生庵から申し込んだ分だけを例外としてゐたが、其の例外が八ヶ月間に十萬千三百八十枚(この書は全生庵執事から師匠に出す受取書によって知る)と云ふから驚く。

或る人が『今まで御揮毫の墨蹟の数は大変なものでせうね』と云ふと、『なあに未だ三千五百萬人に一枚づつは行き渡るまいね』と師匠が笑われた。三千五百萬と云へば、其の頃の日本の人口なのだ。何と云っても、桁はづれの大物は、ケチな常人の了見では、尺度に合わぬものだ」

後年、小野道風に比せられた鉄舟の書は、少年時代を過ごした飛騨高山で基礎が築き上げられた。飛騨高山で岩佐一定に師事したことからなされたものである。

岩佐一定、名は善倫、通称市衛門は飛騨高山に生まれ、家は代々荒木屋という呉服商で
家督を継いだが、書道への思い断ちがたく、家督を弟に譲って書道に専念した。

始めは旧家の八賀仁助の手ほどきを受け、その後尾張蜂須賀村の蓮華寺の住職で、弘法大使を遠祖とする入木道五十世大道定慶に入門し、一という字を三年間書いたという逸話が伝わっているほど修行し、ついに一定は弘法流の書道極意を究め、五十一世の免許を授与された。その一定は、鉄太郎(鉄舟)が飛騨高山に来たときはすでに六十七歳であった。

一定に書を習い始めたとき、鉄太郎は書法を全く知らなかった。そこで最初に一定は「千字文」一巻を書いて、手本として鉄舟に与えた。「千字文」とは中国六朝時代の四言古詩二百五十句を集めたもので、書道を志す者が手本としたものである。

鉄太郎はそれにしたがって練習すること約一ヶ月過ぎた頃、父の小野朝右衛門高幅が「これまで稽古した字を、この紙に清書せよ」と、鉄太郎に美濃半紙を渡し命じたことがあった。

鉄太郎は自室にて「千字文」に取り組み、楷書で「千字文」を書き終え、年月日と署名を入れた六十三枚の美濃半紙を父のところに持っていった。朝右衛門高幅はまだ文字が湿っている美濃半紙に書かれたその筆跡を一見し、その見事なことに驚嘆し褒め、我が子ながら鉄太郎の才能に感心し、今後の精進を励ました。

次の日、朝右衛門は一定を陣屋に招いて、昨夜の清書を見せた。「なるほど、見事なものです。他人が見たらとても子どもの字とは思いますまい。ことにそれがわずかの日数で、これまで上達するとは驚くほかありません。まことに末頼もしいお子様です」と一定も驚嘆した。その場には剣道師匠の井上清虎、御用絵師の松原梅幸もいて、いずれも鉄太郎を賞賛し励ました。かくて鉄舟は更に書道を熱心に精進した。

鉄舟が師岩佐一定に提出した誓約書が現在残っている。日付を見ると、鉄舟はこのとき十五歳である。「書法入門之式一札」とあるが、このとき始めて師事したのではなく、おそらく弘法大使の伝統を受けんがための正式の入門書ではあるまいか。(おれの師匠)

見事な筆跡であり、この「書法入門之式一札」を提出してからわずか半年後、一定が鉄舟に弘法流の免状を与えていることを合わせ考えると、弘法大使の伝統を受けんがための正式の入門書であると考えられる。

いずれにしても後年、鉄舟に対して依頼される揮毫数はおびただしい枚数であり、その事実が鉄舟の書のすばらしさを証明しているが、これは子ども時代に周りの大人達によって潜在していた能力を開花してもらった結果であり、この事例から考えられることは「子どもは将来の宝」であるという前提認識が、暗黙の合意として社会全体にあることが必要であるということである。そうでなければ子どもを大事に育成するということにならないであろう。

では、当時の日本の子どもに対する社会習慣はどのようなものであったのであろうか。

幕末に日本を訪れた欧米人が書いた記録によって確認してみたい。
例えばイギリス初代駐日総領事オールコックは『大君の都』で「子どもの楽園」と記し、『ペリー艦隊日本遠征記』では「児童書はユーモアのセンスをそなえ、滑稽なことを絵にすることができ、気のきいた戯画を気持ちよく笑える国民」と今日のアニメーションに通じることを述べ、スエンソンは『江戸幕末滞在記』で「日本人は、子どもが楽しむものの開発に抜きん出ていて、大人でさえ何時間も楽しむことができる」などと、日本の国民性について記述している。

つまり、江戸時代の日本は子どもを大事にする社会であり、そのような社会には前提として「国の豊かさ」が存在していたと思われる。

一国の豊かさの基準算定として使われているのがGDP(国民総生産)である。江戸時代のGDPはどの程度であったか。それをアメリカの経済学者、サイモン・クズネッツが推計している。

それによると幕末の慶応元年(千八百六十五)における一人当たりGDPは五十四ドルになっている。当時の西ヨーロッパ諸国、日本よりいち早く工業化をスターとさせていて、低い国でも二百ドルに達していたから、日本のGDP水準はいかにも低い。江戸時代の経済的実態は貧弱であったという見解は、この推計が根拠になる。

しかし、第二次世界大戦後のアジア諸国、例えば韓国の経済成長スタート時の一人当たりGDPのスタートは八十七ドルであったことを考えると、一概に数字だけを持ってその国の豊かさを判定できない。

豊かさとは、そこに暮らす国民の文化度、ライフスタイル、健康状態、寿命の実態などを勘案しなくてはならないだろうし、S・B・ハンレーは幕末の生活水準が同時代の西欧と肩を並べるほどの高水準にあったという見解も述べている。

最近の歴史学において有力な説は、人口は停滞したが社会や経済は成熟を迎えていたという見方であり、成熟進展の指標として注目されるのが、寺子屋に代表される庶民の教育水準である。(開国と幕末変革 井上勝生著『講談社』)

このような最近の歴史学研究結果が意味するところは、江戸という時代は豊かな社会であったという事実である。

だが一方、鉄舟が生まれた天保の時代は、享保の飢饉、天明の飢饉とならぶ、江戸三大飢饉の天保飢饉(天保三年~十年・千八百三十二~三十九)の時であり、一揆が多いことで知られている。したがって、鉄舟が生まれ育った時代は、大きな社会混乱の時であった。

そのことから江戸時代は一般的に百姓を始めとして、庶民の生活は苦しかったというが通説であり、その要因が飢饉によるものであるといわれている。確かにその通りで、飢饉の発生は人々の生活状態に重大な影響を与えた。

しかし実は、飢饉という異常実態は江戸時代において通常とまではいわないまでも、飢饉の発生原因である異常気象は日常的であったという指摘があり、以下、例示しよう。(『江戸の生活と経済』 宮林義信著)
① 天正19年(1591)~寛永12年(1635)44年間多雨期
② 寛永13年(1636)~天和3年(1683) 47年間多雨期
③ 貞享1年(1684)~元禄13年(1700)16年間干ばつ期
④ 元禄14年(1701)~明和2年(1765) 64年間多雨期
⑤ 明和3年(1766)~安永3年(1774)  8年間干ばつ期
⑥ 安永4年(1775)~寛政3年(1791)  16年間多雨期
⑦ 寛政4年(1792)~文化11年(1814) 22年間干ばつ期
⑧ 文政7年(1824)~安政2年(1855)  31年間干・冷期
⑨ 安政3年(1856)~明治5年(1872)  16年間多雨期

この中で江戸時代に該当する年数を合計してみると二百五十一年間になる。何と江戸時代が二百六十八年間続いたうちの94%に該当する年度が異常気象になり、これはいかにも多すぎる。しかし、このデータが事実とすれば、飢饉のリスクは当たり前の日常的であったと推測される。

江戸時代の百姓や一般庶民が食えない貧しい生活を強いられたことを、徳川幕府の政治のあり方、苛斂誅求の政策として語られているが、事実は異常気象による飢饉によるものとしたら、徳川封建制度の見方は大きく変わってくる。

自然の気候条件によって左右されるのであるから、いったん天変地異異変が発生すれば人々飢えに苦しむことになる。鎖国時代であるから外国から輸入もできず、藩同士が弾力的に救済しあうという関係がなかったので、地区によって人々の生活は千差万別であった。

ところがここで大事な事は、このように江戸時代は全体的に寒冷かつ異常気象の下にありながら、米の生産は増加していったのである。江戸時代の初期は全国の米生産高は千八百万石であったものが、鉄舟の生れた天保期になると三千万国に増加している。

この事実を見落としてはならない。このような状況を考えれば、その背景に江戸時代は、まず一般的に平和であり、平和であったからこそ農民は米生産増に邁進し、勤勉に働けたはずである。これは飛騨高山でも同じである。

飛騨高山の人々が平和な暮らしをおくっていたことは、鉄太郎が代官の子息でありながら、何の憂いもなく書と剣と寺子屋にと文武両道に熱心に励むことができたことからもうかがえる。次号でも鉄舟の少年時代を検討し、当時の時代背景をお伝えしていく。

投稿者 Master : 05:23 | コメント (0)