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2004年09月26日

西郷との会見時における鉄舟の身分・・・2

前回に続いて鉄舟の身分を検討してみたい。

前回に述べたように、鉄舟が西郷との会見に行くことを、直接、慶喜から指示されたのは事実である。だが、鉄舟の身分「百俵二人扶持」という立場では、当時の封建制度の中では慶喜に謁見することは絶対に無理である。
そこで、慶喜から直接に指示されたということについて、何らかの合理的理由を見出せねばならない。
そのことについて引き続いて検討してみる。

1. 御家人

旗本については前回述べたので、今回は将軍に御目見できない御家人について整理することからはじめてみる。
御家人とは将軍の直臣であるが、禄高一万石未満で、将軍に謁見できない御目見以下の者である。これに対し、旗本は将軍の直臣で、禄高一万石未満、将軍に謁見できる御目見以上の者である。
御家人の人数は時代によって変化するが、宝永期(1704~1711)ごろの総人数は約17000人であった。
御家人のほとんどが小禄の蔵米取りであった。役職に就けるものは僅かであったので、拝領屋敷を賃貸して地代収入を得たり、雑多な手内職をして家計を補っていた。特に草花の栽培、季節の虫類や金魚の飼育、傘張、提灯張などが多かった。
蔵米の支給・売却を請け負っていた札差からの借金は代を重ねるごとに増大し、御家人の生活は非常に苦しいものであった。
こうした困窮の中、御家人の席を株と称して売却する者も発生した。この場合、株の買い手を売り手の養子として届け出て、その後、売り手が退役して買い手が家督相続する、という形式が一般的である。

2. 鉄舟の身分

鉄舟は御家人である。だから、江戸時代の体制では御家人では絶対に将軍に会えないのである。しかし、鉄舟は慶喜から指示を受けている。このところの疑問に対して、今まで多くの資料・研究書・小説も含めて、誰も疑問を持たずに、高橋泥舟の推薦によって慶喜から指示を受けたとある。
確かに直接に指示を受けたのであるから、鉄舟はその当時、将軍に会える立場にあったのでなければ合理的でない。
つまり、御目見以上の身分、旗本になっていなければ、慶喜に謁見できないのであるから、鉄舟はその身分になっていたという仮説が成り立つ。
だが、誰もこの身分について検討せずに、百俵二人扶持のままの身分にしておいて、その身分では将軍に謁見できない制度であるという事実に対して疑問を持たずに、上野寛永寺の塔頭(たつちゅう)大慈院において、慶喜に直々拝謁したと書いている。

ここに疑問を持ったわけである。すべての物事は常識から考えてみることが必要である。常識とは、当時の江戸時代の仕組み・体制の中での常識であって、一旦はこの時代の感覚に戻って考えてみなければならないと思う。
今の時代であっては、一般人でも割合簡単に首相に会うことが可能であるだろう。それにしても首相に会う理由があってのことである。
それが、江戸時代であるのから、大政奉還し将軍の地位を退いたといっても、徳川幕府の15代将軍であった慶喜に、一介の御家人が簡単に謁見できるわけがないと思うのが、常識である。

この点について、長い間疑問に思い、多くの資料を集め、その内容を検討していたが、国会図書館で次の書籍に出会った。
それは「江戸開城論・山岡鉄舟伝」であり、著者は「山口義信」である。発行年度をメモするのを怠ったため、ここに書くことが出来ないが、山口義信氏は、「江戸開城論」の中で鉄舟の身分について、次のように書いている。

「当時鉄舟は33歳、幕命にて『精鋭隊頭歩兵頭被申付』ついで『作事奉行大目付被申付』ていたが、この高級青年将校は幕府要人ならびに幕閣などにいわしめれば、ある意味での要注意人物の1人であり、しかも鉄舟の剣名は非常なものがあったので、よけい恐れられていた」とある。

これは大変な驚きである。
いつのまにか百俵二人扶持の身分であったものが、作事奉行と大目付になっている。
作事奉行とは何か。それは次のとおりである。(徳川幕府事典)

「幕府の諸施設・諸屋敷の土木・営繕は、寛永九年(1632)に常置された作事奉行が一切統括していた。承応元年(1652)に土木関係を普請奉行に移管し、ついで、貞享(じょうきょう)二年(1685)に営繕部門を担当する小普請奉行が常置された。この3職は、寺社・町・勘定の三奉行に対し、下(した)三奉行と呼ばれていた。幕末の文久二年(1862)に普請奉行、小普請奉行が廃され、職務は作事奉行に統合された。作事奉行は2000石である」

鉄舟は2000石の大身旗本になっているのである。

次に、大目付であるが、これについては以下のとおりである。(徳川幕府事典)

「幕府の監察官には、大名および老中支配の諸職を対象とする大目付と、旗本・御家人と若年寄支配の諸職を対象とする目付がある。大目付は諸大名の席次や殿中の礼法を監し、諸大名への伝達、訴獄逮捕のことや、諸士の分限・服忌・日記のことなど一切の政務を監察した。3000石。定員は4~5名であったが、幕末には大幅に増員された」

鉄舟は大目付も兼ねていたのであるから、3000石の身分であっことになる。

だが、鉄舟が作事奉行であり、大目付であっとしても、どうしてそのような身分になれたのか。それが次の疑問となってくる。昇進・昇格理由はどのようなものであったのか。それが疑問である。

次回に続く。

投稿者 Master : 21:12 | コメント (0)