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2010年02月27日

2010年3月例会ご案内

日に日に暖かくなってまいりましたが、いかがお過ごしでしょうか。
3月の例会をお知らせします。

2010年3月例会のご案内
【日 時】3月17日(水) 18:30〜20:00
【会 場】東京文化会館 4F中会議室1(上野駅公園口正面の建物)
【参加費】1,500円
【内 容】『鉄舟研究発表』 山本紀久雄会長
【お問い合わせ】事務局 田中達也 info@tessyuu.jp

>>>参加お申し込みはコチラ!

投稿者 lefthand : 17:59 | コメント (0)

2010年02月26日

高山での研究会が紹介されました その2

去る2月19日(金)に行いました、岐阜県高山市での鉄舟研究会の様子が、地元高山にて紹介されました。

岐阜新聞 2010.2.21付

(クリックで拡大)

山岡鉄舟への思い語る
研究会 高山市で初の特別例会

幕末、明治の政治家で少年時代を高山市で過ごした山岡鉄舟の研究会が19日、同市宗猷寺町の宗猷寺で特別例会を開き、参加者が激動の時代を生きた鉄舟の姿に思いをはせた。
同研究会は毎月、東京都で勉強会を開催。同会が特別例会を高山で開くのは今回が初めて。
特別例会には東京都や同市内から約30人が出席。同研究会の山本紀久雄会長が講師を務め、近年の世界情勢についても自論を展開しながら、鉄舟の人物像や偉業を語った。
山本会長が「時代変化に伴い、日本人も考え方や価値観を変える必要がある。鉄舟も攘夷から考えを転換し、新しい時代に貢献した」などと話すと、参加者が熱心に聞き入っていた。

投稿者 lefthand : 18:06 | コメント (0)

2010年2月 高山での例会の感想

山岡鉄舟研究会 高山での例会の感想
2010年2月19日(金)
「鉄舟大悟す」
山岡鉄舟研究会会長/山岡鉄舟研究家 山本紀久雄氏

高山で当会の例会を執り行いましたので、ご報告いたします。
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当日は約30名あまりの熱心な地元の皆様が駆けつけてくださいました。
今回の高山例会は、東京での直近半年分のエッセンスを凝縮したポイントを、山本会長が発表いたしました。
今回のテーマは、鉄舟が大悟に至る道のりです。
鉄舟の大悟への苦悩の道のりは、「想魂錬磨」という言葉に表現されると、山本会長は語りました。
想魂錬磨とは、虚空蔵の中に一人ひとり異なる美点があって、蔵から出ることを切望しているから、自分の蔵に何があるかという探索をする、それは自分の想い・魂を尋ねることで、引き出したらその想魂を必死に練り磨き続けることです。
剣の立ち会いで浅利又七郎に敗れた鉄舟は、何が勝てぬ原因なのかを悩み抜きました。そしてある日、突然大悟したのです。
その大悟のきっかけは、千葉道場の弟子であった平沼専蔵との何気ない会話からでした。
ひとつのことをひたすらに考え続けること。そうしているとそのヒントが向こうからあらわれてくる。それは、普段聞いていると何でもないことなのだが、考え続け、求めていると体中が敏感なセンサーになり、気づくことができるのです。
大悟など我々にはそう簡単にできるものではありませんが、心に決めたひとつのことをおこない続けることが大切だ、そして、それが大悟に繋がるのだということを、鉄舟が教えてくれているのではないでしょうか。
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高山では今後、年2回の例会を行っていきたいと思います。
次回は、鉄舟の命日である7月19日(祝)、命日法要と研究会を行います。
今回ご参加の皆様、ありがとうございました。
7月の法要研究会もご期待ください。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 17:56 | コメント (0)

高山・丹生川での講演会の感想

高山市丹生川地区社会教育運営委員会主催講演の感想
2010年2月19日(金)13:00〜14:30
「山岡鉄舟の生き方から学ぶ」
山岡鉄舟研究会会長/山岡鉄舟研究家 山本紀久雄氏

岐阜県高山市丹生川(にゅうかわ)地区社会教育運営委員会様からの依頼で、山岡鉄舟の講演を、山本紀久雄会長が行いました。
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当日は80名あまりの参加者においでいただきました。
鉄舟は10歳から17歳までを、高山で過ごしました。高山は青春期の鉄舟がその人間力の基礎を育んだ地であり、現代においてはミシュランガイドで日本の観光地として三つ星を獲得した、文化の香り高き地でもあります。
その地で育った地元の皆様に、鉄舟のお話をさせていただくことは大変意義深いものがあります。
講演は、鉄舟の生き方を現代の我々の生き方に結びつけその指針とする内容で、高山の皆様にとっては単なる歴史上の偉人の紹介だけに留まらない、示唆に富んだ刺激的なものであったと確信します。

高山をはじめ、日本は外国から高い評価を受けています。それは、鉄舟のような優れた人物のDNAが我々の身体に宿り、日本人らしさのようなものを醸成しているからではないでしょうか。その日本人らしさを再確認するために、歴史を学び、鉄舟という人物に触れることは大変大きな意義があるのです。
今の時代にも通じる鉄舟の精神、それは世界が注目する日本のスピリットともいうべきものではないでしょうか。それを、世界に発信していきたい。これが山本会長の願いであることを結びとし、講演を終了いたしました。
ご静聴くださいました皆様、ありがとうございました。
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(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 17:47 | コメント (0)

2010年02月25日

2010年2月例会報告

山岡鉄舟研究会 例会の感想
2010年2月17日(水)
「戦略的思考 彰義隊・・・その二」
山岡鉄舟研究会会長/山岡鉄舟研究家 山本紀久雄氏

今月の山本会長の発表は、勝海舟の戦略的思考と、それに基づく役割を見事に果たした豪傑たちの歴史的瞬間をお話しいただきました。
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標題にあります、戦略的思考とは、立場を分析することと、山本会長は語ります。
立場を分析するとは、それに関係する人間の視点から多面的に考えることではないかと思います。
勝海舟の戦略的思考は、自分や西郷、それを取り巻く状況を分析し、手を打ったことにあらわれています。官軍との和平交渉において海舟は、入念に保険をかけたと、山本会長は表現されました。
官軍へ恭順を示し、和議を結ぶにあたり、鉄舟が西郷との直談判に臨みました。海舟は鉄舟に一目会って、その「人となりに感」じ、会談成功の可能性に賭けたわけですが、成功を確実なものにするため、海舟は「保険」をかけたのでした。
海舟はアーネスト・サトウと英国公使パークスと3月9日夜に赤坂の海舟邸で会談を行いました。海舟はサトウ・パークスを通じて英国ルートからの和平工作を図ったのです。その後3月13日、パークスと官軍参謀・木梨精一郎が横浜にて会談を行いました。パークスは海舟との会談結果とその後の情勢から、木梨の江戸城攻撃に強く反対し、江戸城への攻撃を実行すれば、外国とも戦争状態になりかねないと圧力をかけたのです。結果、歴史は江戸無血開城へと向かっていったのです。
海舟のかけた「保険」は、官軍との和議を決定的なものにしました。しかし、最も重要なのは、鉄舟が慶喜の命を帯び、駿府にて西郷と会談し、見事和議に成功した。という事実があったからこそ海舟の「保険」が効いたのです。英国を動かした背景に、鉄舟が誰もが成し遂げられなかった駿府行き、命を賭した切落し行動があったという事を、理解することが大事なのです。
鉄舟の人間力が、江戸無血開城を実現しました。その裏には、海舟の卓越した戦略的思考のもと周到な下交渉が行われていたのです。これは本当に凄いことだと感嘆するほかにありません。

このことは、私たちに、立場に立脚した視点からの多面的な考察が、事を成し遂げるに必要なことであることを教えてくれます。
歴史は、私たちに今の生き方、戦略的思考を教えてくれるのです。

山本会長の研究は続きます。
来月の山岡鉄舟研究会も、ご期待ください。

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3月は2010年3月17日(水)18:30〜東京文化会館 中会議室1です。
皆様のご参加をお待ち申し上げます。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 07:45 | コメント (0)

2010年02月24日

高山での研究会が紹介されました

去る2月19日(金)に行いました、岐阜県高山市での鉄舟研究会の様子が、地元高山にて紹介されました。

中日新聞 2010.2.23付

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『鉄舟の人生に学ぶ』
高山 宗猷寺で研究会例会

山岡鉄舟研究会(東京都)が、高山市宗猷寺町の宗猷寺で例会を開いた。会員や市民ら30人が参加し、幕末に江戸無血開城に貢献した鉄舟の生き方から人生の粋を学んだ。
研究会は、鉄舟の偉業と人物像から、現代人の指針を見出そうと研究を続けている。
鉄舟は幼少時を高山で過ごし書を学んだ。研究会の例会が高山で開かれるのは初めて。
同会会長で経営コンサルタントの山本紀久雄さんが「鉄舟大悟す」と題して講演。剣術の世界では「向かうところ敵無し」だった鉄舟が幕末の剣客、浅利又七郎との立ち会いで完敗したことを挙げ「鉄舟は負けたことを簡単には忘れず、自分の過去を整理してその後の人生に生かした。人間の多くは過去を思い出だけにしておくが、鉄舟のように生きていくことが大事だ」と語った。

本例会で、鉄舟の生き方を高山の方々に伝えることができ、皆様の生き方のヒントとなればこの上ない幸せです。
今後も高山での例会は7月19日の鉄舟法要とあわせ、年2回のペースで行っていく予定です。
鉄舟の人間力を育んだ高山の皆様に、地元の豪傑の人生を知っていただき、誇りに感じてくださることを祈念いたします。

投稿者 lefthand : 11:07 | コメント (0)

高山・丹生川地区講演会の反響をいただきました

去る2月19日(金)、岐阜県高山市・丹生川地区での講演会の感想をいただきました。
ご紹介します。

「山本紀久雄先生

2月19日(金)高山市丹生川町ホールの鉄舟の講演を一般参加で拝聴させていただきました。
大変興味深く、楽しく聞かせていただきました。
とても分かりやすかったです。
司馬遼太郎や龍馬との接点などもっと聞きたかったです。
いち市民として少しは知っておくべき部分を勉強できよかったです。
ありがとうございました。

一般市民」

ご感想をお寄せいただき、ありがとうございました。
高山は鉄舟のふるさとです。
これからも皆様と共に学びあいたいと思います。

投稿者 lefthand : 10:36 | コメント (0)

2010年02月13日

高山研究会が新聞に掲載されました

来たる2月19日(金)に開催いたします、岐阜県高山市での鉄舟研究会が、地元新聞で紹介されました。
高山での鉄舟研究会は地元でも話題になっています。
高山も、次第に鉄舟研究熱が上がっているようで、嬉しい限りです。

新聞記事をご紹介します。

■岐阜新聞(2010.1.10)
山岡鉄舟研究会
2月19日午後4時から、高山市宗猷寺町の宗猷寺本堂で。同研究会(東京都)の特別例会。
少年時代を高山で過ごした鉄舟の人物像について同研究会の山本紀久雄会長が講演。
参加費1500円。同日午後6時30分からは参加費3500円で懇親会も開かれる。
申し込みは高山世話人の水口さん。

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■高山市民時報(2010.1.13)
高山で幼少期を過ごし、明治維新の際には江戸無血開城に貢献するなど、政治・思想家として活躍した山岡鉄舟。その偉業と人物像を広く知ってもらおうという「山岡鉄舟研究会」(東京都)が、2月19日夕4時から宗猷寺で特別例会を開く。
同研究会長・山本紀久雄さんが、鉄舟の生き方を研究した成果を発表する。
参加1500円。
申し込み、問い合わせは高山側の世話人を努める水口さん。

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■中日新聞(2010.2.5)
高山ゆかり 鉄舟知って
江戸無血開城に貢献

幼少期を高山で過ごし、明治維新の時に江戸無血開城に貢献した政治家、山岡鉄舟の偉業をしのぶ研究会や講演会が19日に高山市内の2会場で開かれる。

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>>>高山・丹生川地区講演会

>>>高山・特別例会

投稿者 lefthand : 22:59 | コメント (0)

2010年02月04日

清河暗殺その一

山岡鉄舟研究 清河暗殺その一
  山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

「村摂記」なるものがある。一橋家の家臣で、慶喜の小姓であった村井鎮、後に久五郎と言い摂津守ともなったが、これが明治になって、その体験を回想し記述した書である。

もともとこの書には名前がついていなかったが、三田村鳶魚が「村摂記」と名付けたものであって、この中に清河暗殺について次のように記述されている。(未刊随筆百種第三巻 編者三田村鳶魚 中央公論社)
 
「時の御老中もなんとも手のつけかたがないから、頭のうちに清川にも恐れず、可なり議論もある者一人に秘密に命じて、清川を打果たせしむることになった、其頭の門人に剣術体術ともにすぐれた人を五人選抜して」とあり、特記事項として「左の人名は本文に掲ぐべからず」とした上で、「御老中は小笠原壱岐守、当時図書頭と云ふ、頭は、松平上野介、前主税之助と云ふ、高橋伊予守、精一郎と云ふ、山岡鉄太郎、内命を受けたる頭は、窪田冶部右衛門、刺客は、佐々木只三郎、永峰良三郎(後に弥吉)高久左次馬等にてあと二人は記憶せず」と記述されている。

「村摂記」で明らかになったのは、浪士組の頭として泥舟と鉄舟などに加えて、窪田冶部右衛門という人物がいて、この窪田が清河暗殺の命を受け動いたということであるが、この窪田は今まで浪士組に関わる諸資料に、ほとんど登場しなかった人物である。

一体、窪田冶部右衛門とはどのような人物であったのか。

その前に、清河暗殺に関して、誤解を与えかねないような記述があるので少し触れてみたい。まず、最初にこの「村摂記」を引用した野口武彦著の「幕末パノラマ館」(新人物往来社)を見てみたい。

 「この回想には『左の人名は本文に掲ぐべからず』と特記した上で、老中は小笠原壱岐守、頭は高橋精一郎(泥舟)、山岡鉄太郎(鉄舟)だったと当時の機密が漏らされている」とあるが、ここで「村摂記」の引用が切られている。つまり、「内命を受けたる頭は、窪田冶部右衛門」という部分が抜け落ちているのである。

 また、この野口氏の見解を引用したものに小島英煕著の「山岡鉄舟」(日本経済新聞社)があり、そこでは次のように記されている。

 「野口武彦神戸大学教授によれば、慶喜の小姓役だった村井久五郎が『村摂記』にこういうことを書いている。・・・途中略・・・『左の人名は本文に掲ぐべからず』と特記して、老中は小笠原壱岐守、頭は高橋精一郎(泥舟)、山岡鉄太郎(鉄舟)だったという。にわかには信じられない話で、真実は闇の中だが、もし関与したとすれば、高橋だろうか。政治の暗闇を思わせる話だが」

 ここで重要なことは、清河暗殺に高橋(泥舟)が関わっているのではないかという推測を小島英煕著が述べている点である。もしかしたら鉄舟をも疑ったかもしれないような書き方である。

 しかし、実際の「村摂記」による記述は、明確に「内命を受けたる頭は、窪田冶部右衛門」と記述しているのであるから、全く泥舟と鉄舟は関わっていない。

 それを証明するのは清河暗殺後の処分である。暗殺事件後勘定奉行から取り調べを受けたが、泥舟・鉄舟と松岡万は勘定奉行所で行われた。つまり、現代でいえば警察署に出頭して事情聴取されたのである。

 だが、窪田は中条金之助の邸で事情聴取されたのであって、現代の政財界人が任意で「某所にて」というものに似ている。

 さらに明確なのは処罰結果である。

 高橋伊勢守(泥舟)・・・御役御免の上蟄居
 山岡鉄太郎・・・・・・   同じ
 松岡 万・・・・・・・   同じ
 窪田冶部右衛門・・・・御役御免の上差控・・・後に小普請入り

まず、この御役御免であるが、浪士組は新徴組に改編しようとしていたことでもあり当然の処罰であるが、問題は蟄居と差控の内容である。

蟄居とは「自宅の一室に謹慎、外出は許されない」が、差控は「自宅に謹慎ではあるが、行動はあまり制限されない、外出も可能」というもので、蟄居よりは処罰が軽いのであり、加えて、小普請入とは御役御免なのであるから当然で、どうもこの窪田に対する処罰は実質無罪と同じと思われるのである。

この処罰後、しばらく泥舟と鉄舟は幕府から干され、時代の歴史から隠れるが、窪田は二カ月後函館奉行に再登用され、その後すぐに神奈川代官となり、続いて西国郡代に就任しているのである。

このような窪田の動向から推測できるのは、やはり「村摂記」にあるように、清河暗殺には窪田冶部右衛門が絡んでいて、浪士組幹部処罰の手前、表面上一時的に処罰めいた処分をしたが、実際は論功行賞としての人事が行われたと考えるのが妥当と思われる。

 では、窪田冶部右衛門とはどのような経歴か。それを佐倉藩家老で、明治二三年貴族院議員になった西村茂樹が次のように述べている。 

「窪田冶部右衛門といへるは元肥後熊本の藩士なりしが、故ありて藩を出で幕府の士となれり。其居宅は、江戸巣鴨にあり、其邸地の広さ数萬坪ありて周囲に杉を植付け(杉数四萬本ありと云う)其外、梅、柿、桃を多く植え、梅は千本、柿は其実十三駄(注 駄とは牛馬一頭が積む荷物)を得という。其他は尽く麦畑と為し、一家皆耕作を事とし土着武士の風を行う。

 窪田、武芸に長じ、慷慨勇壮の士なり。邸内に七十間の馬場ありて日々乗馬を為し、孫娘の十三四才なるがありしが其娘にも乗馬を学ばしむという。常に幕府初め諸藩の士気の衰敗し士風の惰弱になれるを慨し、やく腕して時勢を談ず。又軍具足を制作することに長ず、(中略)窪田の子は西洋銃陣の法を学び、幕府の歩兵奉行となり、備前守と称す。明治元年鳥羽の戦に戦士す。」(窪田冶部右衛門の賦 西沢隆治著)

 このような窪田について書かれていることから推測すると、窪田冶部右衛門はかなり特異な御家人であったと思われる。なお、窪田の子泉太郎は後日鉄舟と絡む人物であり、この経緯は次回でお伝えしたいが、もう少し同書を敷衍して窪田という人物をみてみたい。

まず第一は、御目見え以下の御家人として七十俵五人扶持という身分なのに、大名の下屋敷に匹敵する広大な土地に住み、耕作に従事し半農半士の生活であることである。

 次に、具足の製作に長じていたようで、この技術力をもって具足の修理から仕立てまでの内職を手広く行っていた。時代はペリーが来航してから、それまでは具足は正月用の飾りものであったのが、急に手入れを行い、新しく作る必要性が発生し、この突如訪れた具足整備ブームによって、窪田家は内職の域を脱する家内工業的な忙しさとなった。当時は皮等をいじるのは下賤の仕事として、卑しく思われていたが、全く気にしないで引き受けていたことも、窪田の特異性を示す。

 加えて、窪田は武芸に長じていた。剣術、槍術、柔術、馬術、水練、鉄砲という武士のたしなみはすべて練達していた。窪田の邸には、親交の深かった川路聖謨(かわじとしあきら)の孫たちや、坂本竜馬を斬ったとされている今井信郎も柔術の稽古に通っていたという。

その窪田の武芸はとうとう講武所にも認められ、すでに五十一歳になっていたが、教授方になり、御家人から御目見得以上の旗本となり、奥詰に出世したのである。

幕末時の奥詰とは、文久元年(1861)に創設された、将軍警護を預かる親衛隊で、総員六十名ともいわれ、講武所の教授方を務めた武芸名誉の旗本・御家人から選任したものである。時の将軍家茂から奥詰衆への信頼は厚く、設置以降必ず将軍の上洛に随行し、長州征伐でも、奥詰は小姓・小納戸といった将軍の身の回りの世話をする者と共に近侍しており、その信頼の厚さは数多い武官の中でも群を抜いていた。

この窪田の手引きによって、実際に清河暗殺が実行されたのは江戸に戻ってからであった。だが、浪士組が京都から江戸に戻るべく出立しようとした矢先、幕命によって新たに浪士組取締として着任したのが佐々木只三郎他であり、いずれも講武所教授方で、旗本の中では屈指の使い手という暗殺チームであったが、どうして江戸への道中で暗殺を実行しなかったのだろうか。道中であるから清河と接する機会は多かったと思われるのに・・。

これについていくつか紹介したい。

まずは司馬遼太郎著の「幕末」からである。

「途中、中山道馬篭の宿の本陣島崎吉左衛門方に入った時、佐々木は、山岡鉄太郎の部屋に余人がおらず山岡が独り坐禅を組んでいるのを見きわめてから、そばににじりよった。

『山岡さん話がある』
『なんだ』
『隣室を確かめてよいか』
『その必要はない。隣りは無人だ。相談というのは、清河を斬ることだろう』
『知っていたのか』
『いや、知らん。あんたが不意に浪士組取締になったのはそんな含みだろうと思った。差金は板倉(伊賀守・老中)さんだな』
『ご想像にまかせる。とにかく、八郎奇妙なり、とさる閣老が申される。あの清河がこのさき江戸に入れば、希代の策士だ。勅諚を笠になにをやりだすか。おそらく江戸、神奈川で攘夷騒ぎをまきおこして、あわよくば天下の一角に旗をあげようとするだろう』
『しかし』
山岡は口をつぐんでから、やがて、
『あんたに八郎が斬れるかね』
『斬れる』
『一人で?』
と、山岡はこわい顔をしてみせた。
『いや、兵略は答えるすじではなかろう。ただ相談役としてあんたに一言申しておくべきだと思って罷り越した。ただしこのこと、くれぐれも清河に明かしてくださるな』
『ご心配には及ばん。口のかたいことだけがわしの取り柄だ。ただし言っておくが、清河をわしはあくまでかばうよ。あれは百世に一人という英雄だ。ただ惜しいことに背景を持たぬ。われわれには大公儀という背景がある。薩長の縦横家たちにも藩の背景がある。そこへゆくとあの男はたった一人だ。一人で天下の大事をなそうとすれば、あちらをだまし、こちらをだまし、とにかく芸がこまかくなる。いますこし、あの男が英雄らしくなるまで生かしておいたらどうだろう』
『上意ですよ』
『あんたは板倉閣老の家来かね。われわれ直参で上意といえば将軍家がおわすだけだ』

 もう一つ紹介したい。子母澤寛著の「逃げ水」である。

 京都から江戸に中山道を十一里下って、第一夜を近江武佐の本陣丸屋一室で迎えたときの、泥舟と鉄舟の会話である。

「謙三郎(泥舟)は声を落して山岡へ耳を貸せというような格好をした。
『新任の出役六名、ちと穏かならん面つきだ。気をつけよ』
『は、わたしもあの時からそれは感じた。六人悉く眼光に殺気がある。隙あらば清河さんをやる気だろう。ね、兄上―――』
とこんどは山岡が謙三郎の耳元へ、
『周防守様から命じられて―――』
といったら、
『これっ』
と謙三郎は激しい声で、
『滅多なことは云うものではねえ』
『は』
『斬っても、斬られても、道中、事があっては、わたしの責が果たせぬ。充分に見張らなくてはならない。旅宿は、殊に眼をはなせんよ』
『承知した』
『江戸へ行って、総人数を確と引き渡した上では、何があろうと、わたしの関せんことだがね。尤も、清河も心得のある人間だ。もうその辺は感づいているだろうな』

いずれにしても、中山道では清河暗殺は未遂に終わったが、それにはもう一つ時代が持つ重要な理由が隠されていたのである。次回に続きたい。

投稿者 Master : 16:14 | コメント (0)

静岡で鉄舟展が開催されます

山岡鉄舟と明治の群像展講談と講演で語る山岡鉄舟

静岡県の成立と近代教育の夜明けと題し「山岡鉄舟と明治の群像展」が静岡駅前の【駿府博物館】で、2010年3月10日(水)〜22日(月)まで開催されます。
鉄舟ゆかりの「全生庵」所蔵の文化財約45点が静岡で初公開されます!!

また、期間中、特別イベント「講談と講演で語る山岡鉄舟」が、3月20日(土)14:00〜開催されます。
講談は宝井馬琴氏、講演は直木賞作家の山本兼一氏です。
山本兼一氏は近々、山岡鉄舟の本をご出版予定です。

鉄舟の書や所縁の品の数々と、直木賞作家・山本兼一氏のお話に出会えるまたとないチャンスです。
是非、足をお運びください。

■「山岡鉄舟と明治の群像展」
期間:2010年3月10日(水)〜22日(月)
   9:30〜17:00まで
会場:駿府博物館(静岡駅前)
   静岡市葵区紺屋町15-4
   駿府博物館サイト

*鉄舟ゆかりの「全生庵」所蔵文化財約45点静岡初公開!!

休館日:3月15日(月)
入場料:一般 300円

■特別イベント:「講談と講演で語る山岡鉄舟」
 入場無料/事前申し込み
日時:3月20日(土)14:00〜
場所:グランシップ 6階交流ホール
   JR東静岡駅南口からメインエントランスまで徒歩3分
   グランシップサイト
出演:宝井馬琴(講談師)、山本兼一(小説家)
申込方法:FAX.E−mailは、郵便番号、住所、氏名、電話番号、
     参加人数を明記ください。
TEL:054−203−5714、FAX:054−203−5718
E−mail:info@granship.or.jp

投稿者 lefthand : 11:54 | コメント (0)