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2011年11月25日

2011年12月例会案内

2011年12月例会のご案内をいたします。

開催日 2011年12月21(水)
場所  東京文化会館第一中会議室
時間  18:30から20:00
参加費 1500円
発表者 末松正二氏と山本紀久雄が担当いたします。

① 末松正二氏

11月に続き「終戦工作」をご発表頂きます。

昭和20年8月9日23:50より開催された最高戦争指導会議で、昭和天皇は
「このような状況で本土決戦に突入したならばどうなるか誠に心配である。日本民族は皆死んでしまうことになるのではないか。日本という国を子孫に伝える為に、一人でも多くの国民に生き残ってもらい、その人達に将来再び立ち上がってもらうほか道は無い。私としては忠勇なる軍隊の降伏や武装解除は忍びがたいことであり、戦争責任者の処罰という事も、その人達が皆忠誠を尽くした人であることを思うと耐え難いことである。しかし国民全体を救い、国家を維持する為には、この忍びがたいことも忍ばねばならぬと思う」

と述べられ、戦争終結の決心をされ、外務省は8月10日7:00頃にスイス、スウェーデンを通じ連合国に対し、ポツダム宣言について  「右宣言は、天皇の国家統治の大権を変更する要求を包含しおらざることの了解の下に受託す」と聖断によって回答したわけです。

この条件に対する連合国側の回答を巡って第二回目の聖断がなされ、また陸軍の軍事クーデター計画等がありました。

これらについて12月にご発表頂きますが、いずれにしても末松氏の「終戦工作」は日本人として把握すべき重要な内容ですので、皆様が関心持たれご参加される事を期待しております。
 
② 山本紀久雄

明治天皇の治世は15歳から61歳までの46年間であり、「偉大な天皇」として日本を世界歴史の一ページに登場させた業績は誰もが否定できない事実です。

また、その明治天皇の侍従として鉄舟が貢献したことも、重要な事実として認識されています。

しかし、鉄舟という武士階級出身者が天皇の身近に仕える侍従になる事は、当時の社会常識では考えられないことだったのです。

どうして「考えられないことなのか」と、何故に「侍従になれた」のか。それには廃藩置県に匹敵する宮廷改革がなされたからですが、それらの改革までのプロセスと、鉄舟の対応について考察いたします。

さらに、明治天皇のなされた事が、終戦後の昭和天皇にまでつながっている経緯をお伝えいたします。

2012年1月例会は以下のように開催いたします。

開催日 2012年1月18日(水)
場所  東京文化会館第一中会議室
時間  18:30から20:00

発表者 岡村紀男氏と山本紀久雄が担当いたします

① 岡村紀男氏のご発表は「ほっとスペースじいちゃんち」です。

岡村氏は自宅を週1回、乳幼児連れの親子を招き交流できる場所を提供されています。
鉄舟の生き方から、今の時代の生き方を学ぶ我々にとって、このような「生き方」を選択され実行している岡村氏から学ぶ事は大きく、1月のご発表をお願いした次第です。

日経新聞10月26日(夕刊)「高齢者男性が子育て支援」記事に岡村氏が登場しておりますのでご参考ください。

② 山本紀久雄の発表は、鉄舟研究を行います。
                                                      以上

投稿者 Master : 06:37 | コメント (0)

2011年11月開催結果

11月例会は末松正二氏と山本紀久雄が発表いたしました。
    

① 末松正二氏
「終戦工作」を11月・12月二カ月ご発表頂く、その第一回目でした。
終戦工作は、岡田啓介を中心とする重臣グループ(総理経験者)、高松宮、近衛文麿、木戸内大臣等を中心とする宮中グループがその有力なグループで、他にも多数の工作がありました。

また、終戦は政府が閣議で決定し、枢密院の同意を得、天皇の決定により成立します。
よって終戦を実現するには、政府の各閣僚の賛成を得、閣議で審議されるようにもってゆくことが必要です。

当時の総理大臣は東條英機で、開戦時の総理でもあり、陸軍大臣、参謀総長も兼ねていて、陸軍の全ての決定権を持っていました。

東條は戦争継続、徹底抗戦を主張しており、従って、終戦工作は東條内閣を倒閣させることから始まるのです。

このように末松氏は終戦工作について、事実に基づき時系列に整理され解説されましたが、我々はその事実を正確につかんでいなかった、というのが正直な感想で反省でした。
今の社会体制は全て終戦からつながっています。その事を末松氏からのご発表で改めて振り返るよい機会でした。

末松氏から学ぶことは多く、12月のご発表も期待できます。

② 山本紀久雄

山岡鉄舟という偉大な人物について研究していくと、いつも新鮮な感覚になります。

11月はドイツで一般人・企業経営者・大学教授・武道家等、多くの人達と接し、ドイツ人は「しっかりしている」と改めて感じ、いつの間にか戦後66年を経てユーロ圏は「ドイツが盟主」になっていて、各国首脳が「メルケル首相詣で」をしている実態に、新鮮な驚きを感じています。

ドイツ人がしっかりしている事例として「武道家が武士道を一人で理解した経緯」と、ハンブルグのMiniatur Wunderland ミニチュア・ワンダーランドでの新鮮な驚きと集客力について解説いたしましたが、これらと鉄舟の茨城県・伊万里県での行動は

① 想像する県知事と異なる発想の人物⇒新鮮
② 行動がダイナミック⇒面白い
③ 定めた目標を達成したら直ちに辞任する⇒驚き

という三項目と類似している内容を解説申し上げました。

何事にも成功する背景には共通する「セオリー」があり、それは時代を超えたものであるともお伝えしました。

投稿者 Master : 06:33 | コメント (0)

2011年11月22日

駿府・静岡での鉄舟・・・其の三

山岡鉄舟 駿府・静岡での鉄舟・・・其の三

山岡鉄舟の立場は慶応四年(1868)三月以降急変した。

上野寛永寺大慈院に謹慎・蟄居している慶喜から命を受け、駿府の西郷との交渉に向かった時の身分は、慶喜護衛を担当する精鋭隊頭格にすぎず、俸禄は百俵二人扶持で御目見以下の御家人であった。

それが、徳川幕府が瓦解し、上野彰義隊の壊滅後の徳川宗家を継いだ家(いえ)達(さと)に新政府から新たに禄高七十万石が示された慶応四年五月には、
「勝安房守、織田和泉守、山岡鉄太郎、岩間織部正に若年寄幹事役被仰付。御政治向に関するご用向は、すべて取扱い候、その意を得らるベく候」(慶応四年五月二十二日江湖新聞)
とあるように若年寄という破格の立場になった。

若年寄とは老中に継ぐ幕府政治の要職である。だが、この当時、幕府政治に携わっていた老中や若年寄の旧大名は藩地に戻ったので、それら大名に代わって徳川藩の者が若年寄に就いたのであるが、その中に鉄舟がいたという事実は重要である。

それは、幼少より自らを鍛え続けた鉄舟の生き方が、自らの素質を見事に顕現化させ、幕府崩壊という混乱期の困難な時代に立ち向かえることができる人物に育てたことを示している。

さらに、徳川藩が静岡藩に変わった明治元年(1868)には、勝海舟と共に幹事役となっている。これは国立公文書館内閣文庫の「駿河表之召連候家来姓名録」から明らかで、明治二年(1869)正月作成の「役名便覧」でも海舟と一緒に幹事役と記されている。

その次は、明治二年(1870)九月で、新たに静岡藩権大参事・藩政補翼として名簿に記載されている。権大参事とは幼い藩主家達の年齢から考え、事実上の県知事に当たる立場と考えて間違いないが、この職務には九名が任じられそれぞれ役割を分担した。

政治掛は浅野次郎八、軍事掛は服部綾雄、会計掛は河野九郎、郡政掛は織田泉之、刑法掛は冨永雄造、公用兼監正掛は戸川平太、藩政補翼が鉄舟、藩政補翼兼御家令は大久保一翁、公議人は妻木務である。

ここで当時の状況について少し触れておきたい。

明治二年六月、二百七十四大名に版籍奉還が行われ、土地と人民は明治新政府の所轄するところとなったが、各大名は知藩事(藩知事)として引き続き藩(旧大名領)の統治に当たり、これは幕藩体制廃止の一歩となったものの現状は江戸時代と同様であった。

一方、旧天領や旗本支配地等は政府直轄地として府と県が置かれ、中央政府から地方長官として府には府知事、県には県知事がおかれた。これが明治元年末には九府三十県となっていた。このように地方行政を三つに分割統治していたので、これを府藩県「地方三治制」という。

この府藩県制の中、特に静岡藩は複雑な要因を内蔵していた。その最も大きなものは徳川家臣とその家族の大量移住である。前号で見たように家臣の静岡での生活は激変し、特に衣食住問題への対応は厳しく苦しかった。

権大参事としての鉄舟は、徳川家を頼って駿府に移住してきた家臣達に対し、最大の配慮を図るべく対応したが、一気に増えた移住者によって食料が不足し、それが一般民衆の生活まで影響し、難しい困難な政治運営とならざるを得なかった。この対応策として進めたのが牧ノ原などの荒蕪(こうぶ)の開墾である。今の牧ノ原茶畑であり、これについては後日詳述する。

第二には禄高七十万石にするために、幕府直轄地であった三河国御領と旗本領以外の、駿河国・沼津、小島、田中(藤枝)三藩と、遠江国の掛川、相良、横須賀(掛川市の一部)、浜松の四藩、計七藩が千葉に移った後にも移住者を当て込み、そこに新たに奉行を配置し政治を行ったが、この地でも同様の問題が生じた。

第三には討幕軍が静岡地区を通過する際に現出したように、駿府地区特産のお茶が諸外国へ輸出され、未曽有の好景気をもたらした幕府支持層と、幕藩体制下で疎外されていた遠州報国隊、駿州赤心隊、伊豆伊吹隊などの、神職中心の倒幕運動層との間に発生した殺傷事件問題である。

これらの静岡藩政治に鉄舟は全力を尽くし、奮闘したわけであるが、この時の鉄舟を助け働いたのは高橋泥舟であり、井上清虎であり、中条金之助、松岡万、村上忠政らかつてからの仲間であった。

高橋泥舟は志田郡田中の奉行、中条金之助と松岡万も奉行として多くの移住者を受け入れ、井上清虎は浜松兼中泉奉行となり晩年に第二十八国立銀行の頭取となった。

しかし、ここで不思議なことは、江戸無血開城を一緒に成し遂げた海舟が、明治二年九月の静岡藩役職名簿に権大参事として名がないどころか、他の役職にもついていない。名簿から名前が消えているのである。どうしたのであろうか。

実は、海舟は明治二年四月に静岡藩に退身書を提出し東京に戻って、同年七月に新政府から外務大丞に任命されていた。しかし、大丞は大官ではあるが、局長級の階級であることが理由と思われるが、海舟は直ぐに辞退している。次に再び同年十一月に兵部大丞を任命されたが、これも即日辞退し、十二月に静岡に戻っている。

しかし、翌明治三年(1870)三月には太政官より東京に来るべく旨が出され、六月に東京に行ったが、同月に再び静岡に戻っている。

このように海舟は、静岡と東京を行ったり来たりであるから、当然のごとく静岡藩での役向きには適せず、明治五年(1872)には東京赤坂氷川町の広い元旗本屋敷を買い取って転居し、静岡からは完全に去ったのである。

また、この年の五月に海軍大輔に任ぜられ新政府入りし、翌六年(1873)に参議兼海軍卿の栄職についた。

このような海舟の行動、当初から静岡藩での役割は毛頭考えず、新政府での立身出世だけを狙っていたのであろうか。それとも海舟を新政府が強く求めたのであろうか。

この海舟の身の処し方に対し、福沢諭吉が明治二十四年に「痩せ我慢の説」で批判したことは有名であるが、この件について語るには、一筋縄で計れない海舟という人物と、激変時代で遭遇した複雑な背景環境の分析、併せて福沢から一緒に批判された榎本武揚についても触れなければならず、榎本を述べるためには侠客の清水次郎長について、次郎長を取り上げると鉄舟との関連を詳しく検討しなければならないので、後日、改めて詳しくお伝えする。

しかし、事実としていえるのは新政府の人材不足と、徳川幕府には有能な人材が多くいたということであって、そこに新政府が目を付け、静岡から多くの人達が新政府に引き抜かれたということである。

その一例として渋沢栄一を挙げたい。渋沢栄一は埼玉県の農家出身であるが、縁あって一橋慶喜に仕え、慶喜の弟である昭武がフランス・パリ万国博覧会に将軍の名代として出席する際に随員として渡仏し、万博視察とヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行して、各地で先進的な産業・軍備を実見したように、当時としては稀有の体験を持った人物であって、その後の活躍によって日本資本主義の父といわれ、多種多様な企業の設立・経営に関わった大物財界人である。

この渋沢がフランスから帰国し、静岡に在住している時に、新政府から強く求められ仕官した経緯について、自叙伝「雨夜譚」の中で語っているので紹介したい。なお、「雨夜譚」を雨夜譚(あまよがたり)*(岩波文庫)とも雨夜譚(うやものがたり)(日本図書センター)とも読むが、まずはパリから静岡に向かった理由からである。

「当時朝廷に立って威張って居る人々は何れも見ず知らずの公家か諸藩士か、又は草莽(そうもう)*から成り上がった人ばかりで、知己旧識というは一人もいない。熟(つらつ)ら既往の事を回顧してみると、幕府を倒そうとして様々苦慮した身が反対に倒されて、亡国の人になって殆ど為すべき道を失ったのだから、残念でもあるが又困却もした。さればといって、目下羽振りのよい当路の人々に従って新政府の役人となることを求むるのも心に恥ずる所であるから、仮令(たとい)当初の素志ではないにもせよ、一旦に前君公(慶喜)の恩遇を受けた身に相違ないから、寧(いっ)そ駿河にいって一生を送ることに仕よう、又駿河にいって見たら何ぞ仕事があるかもしれぬ、若し何にもする事がないとすれば農業をするまでの事だと、始めて決心をしました」(日本図書センター刊、以下引用同じ)

次に、得意の商業活動に居所を見出した経緯についてである。

「この先き静岡に住居するには、農商いずれの業に従事したら宜いかという一段に至っては、頗(すこぶ)るその採択に苦慮しましたが、その頃新政府から諸藩へ石高拝借ということを許されました。これは御一新に付いて金融に著しき窮迫を告げた所から、凡(およ)そ五千万両余の紙幣を製造して、軍費その他の経費を支えたが、その紙幣は民間の流通があしきゆえ、それを全国に流布させんが為め、諸藩の石高に応じて新紙幣を貸し付け、年三歩の利子で十三箇年賦に償却するという方法でありました。・・・中略・・・静岡藩への割付総額は七十万両程であって、その年の末までに新政府から交付せられた金高は五十三万両だということは、自分が駿河へ往くと直に人から聞いて居ったに依って、前にもいう通り、商業にて聊(いささ)*か効能を顕わしたいと様々工夫して居た際であるから、この石高拝借の事に付いて一つの新案を起こしました」

渋沢はこの政府紙幣を資本とし、これに徳川幕府がパリ万国博に出品した物産の売上金を加え、さらに静岡の商人からの出資も入れ、官民合同の合資会社ごときものを設立したのである。

「詳細に方法を認めて、計算書までも添えて平岡(勘定頭)の手へ差し出したのは、明治元年の歳末でありました。明くれば明治二年の春、平岡は右の方法書に拠って終に藩庁の評議を決して、静岡の紺屋町という処に相当の家屋のあったのを事務所として、商法会所という名義で一の商会を設立し、地方の重立った商人十二名に用達を命じ、恰も銀行と商業とを混淆したような物が出来ました。自分は頭取という名を以てその運転上の主任になって業務を執ることになった」

この頃は全国各地で静岡と同様の原始的な会社企業が設立されていたが、殆どはうまく運営できなかった。だが、渋沢はフランスで学んだ企業経営の知識を活かし、参加した商人たちを巧みに指導し、設立後の運営を順調に推移させた。

渋沢自身は、以下述べるように、設立後まもなく新政府に引き抜かれたが、静岡商法会所は後に常平倉と改称され、県内物産の輸出、士族の授産事業、青田貸しという農村金融など手広く営業して、明治六、七年頃には負債を解消した。

このように成功させた渋沢は後に、日本の産業資本のほとんどの分野に巨大な足跡を残すのであるが、その下地はこの静岡商法会所の成功にあったといえよう。

その渋沢を新政府への引き抜きであるが、そのキッカケを「雨夜譚」で次のように語っている。

「諸事追々整理して来たから、今二三年を経たならば堅固で有益なる商業会社が成立するであろうと予め企望をして、精々注意して居ました。処がその歳の十月二十一日に、朝廷からの御用とあって、その頃太政官に弁官といって大弁、中弁、小弁という官職があったが、その弁官から自分に宛てた召状が来て、早速東京へ出ろということであると、藩庁から通達を受けました」

この通達に対し、渋沢はようやく商法会所の目途がついた時であり、新政府に仕えたくないと藩に申し出たが、藩としては朝旨によるお召で、断れば有用の人材を隠蔽するということになり、藩主に御迷惑をかけることになるから、とにかく一応出京するよう命令され、やむを得ず新政府に出向いた。

この時に渋沢を引き抜くよう動いたのは、新政府の民部省を握っていた大隈重信であった。この当時の民部省は、後に大久保利通が支配した内務省の前身になるもので、現在の内政全般を担当する国内行政の元締めみたいな役所だった。

大隈は大きな仕事を遂行するために貪欲に人材を求め、政府の有能な人物はすべて民部省に集まるといわれていた。

大隈は後に立憲改進党を創設し、総理大臣になり、早稲田大学を創立、明治時代の開明主義者の大物で、人に偏見をもたず、包容力が大きく、理想の高い大隈のもとには、尾崎行雄、犬養毅、高橋是清等のそうそうたる逸材が集まって、民部省は最も活動的で野心ある若者があこがれる役所だった。

その大隈が渋沢をこう言って説得したと「実業の世界・明治四十三年四月号」に掲載されている。(「徳川家臣団・第二編」前田匡一郎著)

「いまの日本は、幕府を倒して王政に復したのである。しかし、それだけで我らの任務は未だ全うしたとは言えない。さらに進んで、新しい日本を建設するのが我々の任務である。だから、今の新政府の計画に参与している者は、すなわち八百万(やおよろず)*の神達である。その神達が集まって、これからどういう具合に日本を建設しようかとの相談の最中である。何から手をつけてよいのかわからないのは君ばかりではない。皆わからないのである。

今のところは、広く野に賢材を求めてこれを活用するのが何よりの急務である。君もその賢材の一人として採用されたのだ。すなわち八百万の神達の一柱である。君が慶喜公の鴻(こう)恩(おん)を思い、公にために尽くしたいと言うのは無理もない話であるが、なにも側にいないとて尽くそうと思えば充分尽くすことができる。商法会所の経営も宜しかろう。しかし、その仕事は僅かに静岡県の一部に限られている仕事である。我々がこれからやろうと言う仕事はそんな小さなものではない。日本という一国を料理する極めて大きな仕事である。

どうか君も折角八百万の神達の一柱として迎えられたのだから、この大きな仕事のために、是非骨を折ってもらいたい」

大隈は演説の名人で、日本の雄弁術の元祖といわれる人物である。その大隈からこのような殺し文句で説かれては、渋沢ともいえども抵抗できない。この時の心境を「雨夜譚」で語っている。

「大隈大輔のお説を聴くと、成程尤も千万な意見であるし、強(た)ってお断り申す適当の返辞も出来なかったので、一応宿に戻ってなお熟孝する旨を答えてその場は別れたのであった。さて、宿に戻って種々(いろいろ)考えて見ると、大隈さんの議論が正当であり、私の我儘を通すべきでないように考えられたので、ここに初志を翻して明治政府に仕える決心をなし、その後三度大隈大輔を訪問して、御説諭に従い明治政府に御仕え申す決心をした事を御返辞したのであった」

この時に渋沢とともに民部省に引き抜かれたのは前島密で、少し遅れて杉浦譲が加わった。この三人によって多くの大事業が遂行され、大隈はこの三人を常に掘り出し者だったと述懐していたという。

さて、海舟についても同じような雄弁で新政府に引き抜いたのであろうか。それとも海舟には幕府崩壊後も日本国のために意図する何かがあったのだろうか。次号に続く。

投稿者 Master : 06:54 | コメント (0)