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2009年10月30日

2009年10月例会ご報告 その2

山岡鉄舟研究会 例会報告
2009年10月21日(水)
「求めていると目的へのきっかけが現れる」
山岡鉄舟研究会会長/山岡鉄舟研究家 山本紀久雄氏

山本氏の発表は、「求めていると目的へのきっかけが現れる」と題し、人がそれぞれ求める目的を実現するためのきっかけについてのお話でした。
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鉄舟は浅利又七郎に敗れ、その影に打ち勝つにはどうすればよいのかを考え続けました。その答えにたどり着いたとき、大悟したわけですが、それまでの道のりはとても長いものでした。

鉄舟の禅修行は、その過程で多くの師に師事しています
安政二〜六年
文久元〜三年
元治元年
慶応元〜四年
 →願翁(埼玉・長徳寺)
明治元〜三年 →滴水(京都・天龍寺)
明治五〜七年 →星定(三島・龍沢寺)
明治十〜十二年 →滴水
明治十三年 【大悟】
この他にも相国寺・独園和尚、円覚寺・洪川和尚など、多くの和尚さんについて禅の修行をしました。
ここで山本氏はひとつの疑問を呈します。
修行をするのであれば、たくさんの師につくよりも一人の師からじっくりと学ぶ方がよいとうに思えるが、どうであろうか。
これについて、神渡良平氏はその著書『春風を斬る』で、鉄舟にこう語らせています。

「人間は生まれ育つ過程では大変両親のお世話になる。しかし、ものごころ付いて、人生の意味を問い始め、私はこの人生で何をしたらいいのかと思い悩むようになったとき、もはや両親では満足できなくなる。“肉体の親”を超えて、“魂の親”を渇仰(かつぎょう)し始めたといえる。
 人間は自分の疑問に答えてくれる人を訪ねて、何千里でも旅をする。…(中略)…
 魂の師は一人ではない。参禅しているうちに、ああ、わしはこの老師から学ぶことは終わったなということを感じ、自然に卒業の時がやってくる。そして次に師と仰ぐべき人は誰かと捜し求めていると、ピーンと閃くものがある。わしにとって、二番目の星定老師との出会いがそうであった。そして卒業のときがやって来て、次の師匠が現れる。それが滴水老師だった。…」
(『春風を斬る』神渡良平著)

すなわち、己が求め続けていれば、自然とそれに応えてくれる師を捜し、また、その師は現れてくれるということなのではないでしょうか。
このことは、剣の修行と何ら変わるものではありません。剣も、己が強くなればさらに強い相手を求めていくものでしょう。その意味で、鉄舟にとっては剣禅は一体となった修行の場であったのではないでしょうか。

勝海舟が鉄舟を評してこう述べています。

「鉄舟の武士道は、鉄舟の言うとおり、仏教すなわち禅理から得たのである。…山岡も滴水、洪川、独園等の諸師について仏理を研究し、かえってそれら諸師よりも以上の禅理を悟り得たものである…」
(『山岡鉄舟の武士道』勝部真長編)

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鉄舟は浅利又七郎に出会ってから17年間、自分にのしかかっている浅利の影をどうしたらはねのけられるのかについて、ずっと考え続けました。このことが鉄舟をして剣禅の激しい修行をせしめたのです。さらにいえば、このことが17年後、鉄舟が大悟するに至る大きな心のよりどころでもあったのではないでしょうか。

修行するということは、考え続けるということだ。
山本氏は、そう語ります。
考え続けるということは、求め続けるということであり、求めていれば、それを解く「きっかけ」が必ず現れるのです。
鉄舟にとっての「きっかけ」とは、かつて千葉道場での弟子だった平沼専蔵という実業家でした。
平沼専蔵は現在の横浜銀行の創設者で、商才に長け一代で財をなした人物でした。
平沼は鉄舟に揮毫を所望するためにやってきました。久方ぶりの再会に、鉄舟は平沼にどうしてそのように財をなすことができたのかを尋ねました。平沼はそれまでの失敗と成功の足跡を語り、その心境をこう述べました。

「…そこで自分はかくのごときことに心配をなすは、とても大事業をなすことあたわずと思い、その後何事を企つとも、まず我が心の明らかなる時にしかと思い極めおき、それから仕事に着手せば、決して是非に執着せず、ズン〃〃やることに致せり。その後は大略損得にかかわらず、本当の商人になりて、今日に至れり云々…」
(『鉄舟随感録』山岡鉄舟筆記、安部正人編。一部意訳)

この言葉に、鉄舟はピンときたのです。ともすれば気がつかず聞き流してしまうような何でもない会話の中に、鉄舟が大悟するヒントが隠されていて、瞬間、鉄舟に飛び込んできたのです。

「翌日より之を剣法に試み、夜はまた沈思精考すること約5日、従前のごとく専念呼吸をこらし、釈然として天地物なきの心境に坐せるの感あるを見ゆ」
(『鉄舟随感録』山岡鉄舟筆記、安部正人編。一部意訳)

鉄舟はついに大悟したのです。

考え続けること。
そうすれば、きっかけが向こうから現れてくれる。それは、なんでもないこと、さりげないひとことなのだが、それが大きなヒントとなるのです。
考え続け、求めること。
求めることで、身体中が敏感なセンサーになり、向こうからやってきた「きっかけ」に気づくことができるのです。
そのことを学んだ、今回の例会でした。

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次回は、歴史散策研究会です。
11月14日(土)10:00〜「生麦事件歴史散策研究会」を行います。
たくさんのご参加、お待ちしています。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 16:00 | コメント (0)

2009年10月29日

2009年10月例会ご報告 その1

山岡鉄舟研究会 例会報告 その1
2009年9月16日(水)
「人の使命について考える」
岡村紀男氏

10月の例会が行われましたので報告します。
今回は、メンバーの岡村紀男氏に、「人の使命について考える」と題し、幕末から明治維新にかけて活躍した人物の使命についてお話しいただきました。

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岡村紀男氏

岡村氏の資料は、次のような書き出しで始まっています。
「清河八郎の死から、人に与えられた使命について考えた。聖書に登場する預言者の多くは託された使命のために命を失うことを恐れず、使命を遂行した。征韓論で敗れた西郷隆盛は『だれが戦を好くものか』と言い、本来は非戦論者であった。しかし、一方では『道義(使命)を守るためには一国が滅んでも戦う』と言い、自らの命を投げ出した。以下の人物から使命の処し方・生き方について考察した」
自らの死を賭けて使命を全うするとはどんなことなのでしょう。それを岡村氏は、次の人物たちの生き様から考察されました。

1.吉田松陰「死の覚悟を超えて」
   〜自らの死によって草莽崛起の呼び水になった
2.高杉晋作「幕末長州のエネルギー」
   〜高杉は明治維新のベースを作って死んでいった
3.木戸孝允・西郷隆盛「尊王攘夷から討幕へ」
   〜明治維新実現を期に表舞台から去る
4.勝海舟「幕臣隋一の才人」
   〜幕末から彼の死まで日本にとって不可欠な存在
5.山岡鉄舟「江戸城無血開城の先駆者」
   〜今も我々に生き方を示し続ける人物
6.清河八郎「将軍を警護しつつ攘夷の魁に」
   〜浪士組組織後の2ヶ月が八郎の人生の秋

この中で印象深かったのが、高杉晋作の生き様でした。
岡村氏は山口県のご出身です。そのご関係から、彼の生き様の語り口は熱の入ったものでした。
高杉晋作は、吉田松陰の一番弟子といってもよい存在で、松下村塾のリーダーでした。
高杉の使命とはどんなものでしょう。このことを考えるにおいて、岡村氏はひとつの資料を提供してくださいました。それは、幕府による第二次長州征伐です。
第二次長州征伐は各地の防長二州の境にて行われました。幕府軍は手始めに岡村氏の出身地、大島を攻めます。幕府軍約2,000人に対して長州軍約500人。長州軍は一時大島を占領されるが、高杉の活躍で奪還を果たします。この戦勝を契機として長州軍は連戦連勝します。この戦争に投入された軍勢は、長州軍約3,500人に対して幕府軍は約122,000人でした。その差なんと約35倍。人数差が圧倒的に不利な戦争に、長州軍は勝利したのです。
この奇跡的な勝利に貢献した高杉の使命は、身分の垣根を解いた混合軍隊「奇兵隊」を創設し、全国から招集された各藩の正規軍を破ったことではないでしょうか。さらに、このことは、明治以後芽生える日本人の「国民」という思想の原型をなすもののように思います。
司馬遼太郎氏は小説『坂の上の雲』の中で、日清・日露の両戦争が、日本人をして「国民」という思想を定着せしめたと語っておられます。高杉は、その数十年前に、日本人が「国民」という意識を歴史上初めて持つ、その芽を植えた一人であると感じました。

岡村氏は、先に挙げた人物ひとりひとりの使命を端的に解説してくださいました。人は使命を持って生きていて、その使命を果たすときは突然やってくるのではないでしょうか。その使命を全うする機におよんで、紛うことなく成し遂げる準備を、日頃からしておくこと。鉄舟は、このことを私たちに教えてくれているように感じました。
岡村紀男さん、ありがとうございました。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 12:39 | コメント (0)

2009年10月28日

高山市・田中 彰氏の講演に行ってきました

去る10月26日(月)、高山の鉄舟法要で大変お世話になりました、高山市郷土館の田中 彰氏が、東京で講演をなさるということで馳せ参じました。

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講演は、千代田区主催「街道文化講座・千代田塾」というシリーズのひとつとして行われました。
田中氏のご講演タイトルは『飛騨高山に残る江戸の面影』。
古くから交流が盛んであった高山と江戸の、互いに影響し合った文化をご紹介くださいました。
高山は江戸との交流が盛んだったそうです。地理的条件から見ますと、むしろ京都や大坂の影響を受けることが自然に思えますが、さにあらず。高山の文化風習は江戸からの影響が色濃く反映され、今でも残されているのです。

田中氏から資料として一枚の地図をいただきました。
「嘉永六年飛騨高山日下部徳立編輯街道図木版」というものです。

これを見ますと、高山から江戸までの道のりが事細かに記載されているのが分かります。だいたい二〜三里ごとに茶店や宿場があり、それを辿っていくと自動的に江戸に着くという、大変便利なものです。江戸時代は交通網が大変よく整備されていたため、こうした地図ひとつで旅をすることができたのです。
ちなみに、地図の左下に主要な目的地への距離が記載されています。これで目的地まで何日かかるか一目で分かるのですが、その中に「善光寺」が含まれています。
当時、旅行をするには通行手形が必要で、それを発行してもらって初めて旅ができたのですが、この手形は基本的には男性にしか発行されないものだったそうです。また、行き先と目的も厳しく聞かれたそうです。その中で善光寺参りは女性も参詣が許されていて、なおかつ手形の発行が「甘かった」そうで、善光寺に参ると言っておけばパスできたという事情があって、わざわざ目的地のひとつとして書き出してあるのでそうです。おもしろいですね。

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田中氏の講演は、とても分かりやすく、そしてユーモアに溢れていて大変おもしろく、心地よく聴かせていただくことができました。何より、お詳しいことに感服しました。高山の歴史、文化、風習、祭り、家屋、匠の技、伝説など、多岐にわたる内容を分かりやすく、おもしろく紹介くださいました。
そして、最後に山岡鉄舟についても触れられ、その中で我が山岡鉄舟研究会のこともご紹介くださいました。お心配り、感謝申し上げます。

田中氏の内容濃い講演は、100名を超える聴衆の割れんばかりの拍手で終了しました。田中彰様、ありがとうございました。
講演後、参加者に取り囲まれ質問攻めとサイン攻めにあっている田中氏にご挨拶し、会場をあとにしました。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 11:00 | コメント (0)

2009年10月10日

新撰組誕生その一

新撰組誕生その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

最初に訂正を申し上げたい。二〇〇八年二月号で、元治元年(1864)八月五日に行われた、いわゆる四国艦隊の下関攻撃によって奪われた長州の大砲について、翻訳家・日仏文化交流研究者の高橋邦太郎氏(1898年-1984年)が書かれた「パリのカフェテラスから」から、以下のようにお伝えした。

「四国艦隊の下関攻撃で長州藩の大砲六十門が捕獲され、このうち二門が戦利品として、フランスに持ち帰られ、今なお、パリのセーヌ河畔のナポレオンの墓所として有名な、アンヴァリット(廃兵院)前の広場にさらしものになって、パリを訪れる観光客は毛利侯の紋章を好奇の目を輝かして眺めている。山口県では、この大砲の返還をしばしばフランス政府に交渉したが、ナポレオン一世以来、戦利品を敗戦国に返した事例のない理由で容易に承知しない」

先日、パリに行ったついでにアンヴァリットに立ち寄り、広い庭に展示されている各国から捕獲した大砲を全部チェックしてみたところ、日本の大砲は見当たらなく、建物内回廊にある大砲も調べてみたが、長州砲は見当たらない。見落としたかと思い翌日も行き、再確認してみたがやはりない。

そこで、いろいろ調べてみたところ、何とすでに日本に里帰りしていることが判明した。戻っている場所は下関市立長府博物館。早速訪問し、学芸員の方から詳しく事情をお伺いしたところ、直木賞作家の古川薫氏の努力と、一九八三年(昭和五八年)当時の安倍晋太郎外務大臣による交渉によって、長府毛利家に伝わる紫糸威鎧をアンヴァリットに貸与して、相互貸与という形で天保一五年(1844)製の長州砲一門が、一九八四年(昭和五九年)に戻っていたのである。

この里帰りの経緯については、古川薫氏の「わが長州砲流離譚 毎日新聞社刊」に詳しく記されている。だが、同書によれば、アンヴァリットにはまだ二門の長州砲が残されていると書かれ、その実在有無と保管状況が心配だ、ということも記されている。そこで、古川氏に連絡を取って、筆者が再度現地に行き、確認してくることになった。次回はアンヴァリットの管理当局に正式なアポイント取って聞いてみるつもりである。

下関市立長府博物館に保管されているのは「荻野流一貫目青銅砲」である。砲身の長さ1.6メートル、内径8.7センチ、砲身に郡司喜平冶信安作と銘があり、唐草模様の装飾がほどこされている。

さて、清河八郎に戻りたい。

つまらない理由で、伏見寺田屋事件に巻き込まれず、生き残った清河は、文久二年(1862)江戸にもどり鉄舟と再会、その後水戸に向かい、そこで大赦嘆願書「幕府に執事に上る書」を書き上げ、鉄舟を通じ政治総裁松平慶永(春嶽)に提出した結果、文久三年(1863)一月、北町奉行浅野備前守から、正式の赦免の沙汰がおりることになった経緯は前号でお伝えした。

実は、この正式赦免がおりる前、同様に多くの者からも大赦願いが提出されており、幕府内でも捨て置きがたく、検討の動きが出始めていたことを鉄舟から聞いた清河は、突如として一つの謀策を閃かした。その閃き着想原点は幕府の懐に飛び込むことであった。

清河の動きを跡付けていくと、方向転換・転向に当たり、ひとつの原則に則っていることに気づく。それは時代変化という条件の活用である。

例えば清河は、桜田門外の変を契機として国事に奔走しはじめたのであるが、これは、世の中の変化はもはや儒者となって世に尽くすことではなく、動乱の中から新しい仕組みを作り上げていく時代だと認識したこと。

その契機は、井伊大老暗殺事件を自らの手で分析整理し、美濃紙二十枚にも及ぶ「霞ヶ関一条」を書き上げたとき、時代は変わっている、名も身分もなき者、自分と同じような出自の者、それが天下を動かし、変えることが出来る時代になっているのだと認識した途端、今まで目指していた学者を捨て、時代の改革者に向かおうと、自己変革を起こしたのであるが、これは時代・時流の変化という条件を活用した転換であった。

さらに、文久元年(1861)五月、虎尾の会を潰し、清河を逮捕する口実をつくる罠だった岡っ引き殺害事件から、全国逃亡の旅に出たのであるが、これを機会として京都で田中河内介を知り、中山忠愛の親書を受け、「廃帝」の噂を広めつつ九州各地を遊説し、島津久光の上京を機に、三百人ほどの尊攘志士を京都に集めた手腕である。それは「薩摩藩出兵」という事実条件を、自分に都合よく利用したものではあるが、時代・時流をチャンスとしてとらえるという、条件活用力に優れていることを示している。

今回もそうである。大赦嘆願という動きが出て、幕府とつながりができそうな環境条件下になったと認識した途端、一つの謀を浮かべたのである。

幕府が関心持つであろうこと、つまり、幕府が困っていることで、それを解決することによって、幕府の懐に飛び込める策、それは、浪士の募集であった。

巷には浪士が溢れていた。仕官していない武士は、何かを求めて世に生きようとしているが、それが幕末という時代情勢下、犯罪または、天誅という名のもとに問題を起こす浪士たちに幕府は手を焼いていた。これに目をつけたのが清河の「浪士募集」策だったのである。

この「浪士募集」策を、鉄舟を通じ松平上総介から、自分の意見として幕府閣僚に献策してもらったのが同年十月。松平は家康の六男忠輝の後胤である名門であり、講武所の剣術師範役並出という立場からの見解であり、かつ、浪士を集めて取り締まり、非常の用に役立てるという趣旨も時局に合致しているので、政治総裁松平慶永、老中板倉勝静が受け入れることになったのである。

これを見た清河はさらに次の手をうった。それは翌月十一月の「急務三策」献策であった。「攘夷の勅命を報じること」「天下に大赦をほどこすこと」「天下の英才を教育すること」の三つであり、これは大赦令と浪士募集の両者を画策するものであり、これを政治総裁松平慶永と関白近衛忠煕に建白書として提出したが、その冒頭は次の如くであった。

「臣聞く。国家の将に興らんとするや、必ず大なる機会あり。その将に亡びんとするや必ず此の機会を失う。機会は勢いなり。勢いの至るは至るの日に至るにあらず。必ずや善積して然るのみ。一日これを失えば必ず他人の有となる。深く察せざるべからざるなり。故に敢えて当今『急務三策』を陳ぶ」(山岡鉄舟 小島英煕 日本経済新聞社)

唸るばかりの鋭さと、時流をとらえたタイミングである。ここに清河の本来姿が顕れている。それは理論家としての本質である。もともと学者を目指した本質が出ていると思う。頭で説得するという性向であろう。

結果は同年十二月に、幕府は大獄関係者の釈放に手をつけ始め、松平上総介に対し、正式に浪士募集が下命された。松平はすぐに水戸にいる清河に使いを出して、江戸に来るよう伝えた。この時点では、鉄舟から浪士募集策の発案者が清河であることを聞いていたので、実務推進の協力を求め、早速に打ち合わせをもつためである。

このとき、幕府内からは、この機会に清河を幕臣に取り立ててはどうかという声が上がり、清河に対し浪士募集の補助役として重用したいと伝え、召し出しを年末暮れにしようとしたが、清河は丁重ではあるがきっぱり断った。しかし、これは清河という人物に対し、やはり油断がならぬ男だという警戒心を幕府首脳に与えたが、清河は意に介さなかった。

何故なら、すでに清河の心中には次の謀策が芽生えていたからである。これは最も親しい鉄舟にも漏らせない密計であった。その訳は、清河には「たとえ渇しても、幕府の水は飲めない」という強い執着した一念と積怨があり、鉄舟が幕臣である限り口を滑らすことができない筋書きであったが、これが清河の命を落とすことに通じる結果となるものであった。

浪士組結成には、責任者の浪士取扱いとして松平上総介と、子普請組隠居の鵜殿鳩翁が任命された。鵜殿とはペリー再来航時、日米和親条約締結の際の応対係を命じられた海防掛で、安政の将軍継嗣問題においては一橋慶喜(徳川慶喜)を支持し、井伊大老に反抗して左遷させられたという気骨ある老練な幕吏である。

浪士取締役には、鉄舟と虎男の会同志であった幕臣松岡万が就任、同仲間の池田徳太郎、石坂周造、村上正忠と、清河の実弟熊三郎らが主要メンバーとして参加した。

浪士の応募条件は「公正無二、身体強健、気力荘厳の者、貴賤老少にかかわらず」とあるがほとんど無条件で浪士を取り込み始めた。

こうして集めた浪士は多士済々であった。浪士とは主家を去り、禄を離れた武士であって、本来浪人と称していたはずだが、この頃になると町人や地方の豪族の子弟などで剣を学び、書を読むようになった連中が、国事を語り攘夷を論じ、勝手に苗字を名乗り、刀を帯び、武士の仲間入りをしてしまうことが多くなっていて、幕府はこれらを取締する力を失っていた。時代は時の階級制度を崩しつつあったのである。これを証明するように、集まった顔ぶれは異彩の人材であふれていた。

例えば、芹沢鴨は水戸藩を脱藩し、天狗党に加わって暴れまわっていた人物。松前藩の浪人永倉新八、松山藩の脱藩者原田左之介、仙台の浪人山南敬助などもいた。

百姓出身もいた。代表的な存在は近藤勇である。小石川の天然理心流試衛館道場主だが、もとは武州の農民三男である。近藤と同志の農民四男の土方歳三もいて、ご存じのとおり後に新鮮組局長、副長として活躍するが、幕末史に一瞬の光彩を放った新鮮組の産みつけは、清河の策謀によりなされたといえるのである。この詳しい経緯は次号にお伝えしたい。

中には無頼漢もいた。山本仙之助であり、甲斐の祐天として知られたばくち打ちである。子分二十余名を連れて応募してきた。

まさに玉石混合の混ぜこぜであり、文久三年(1863)二月四日小石川伝通院の子院処静院に集まった人数は二百人を突破した。当初、清河が計画した人数は五十名である。予定していた手当金で間に合わなく、当然、責任者の松平上総介は問題として清河を責めたが、押し切られ、責任をとって松平は浪士取扱い辞任することになった。

浪士組は将軍家茂の二月十四日上洛に先立って、京都に先行することになった。ただし、この度の将軍家茂上洛には幕府内で激しい議論が闘わされていた。

前年の六月、幕府への勅使として大原重徳が派遣され、一橋慶喜を「将軍後見職」に、松平慶永を「政治総裁職」という幕政改革とともに、「将軍が上洛し国内一和、攘夷決行を議す」ことを伝え、十月には三条実美、姉小路公知を勅使として、再び攘夷を督促してきた。

朝廷の矢つぎ早の攘夷督促の背後には、京都における長州、土佐の尊攘勢力がけしかけていたのであるが、幕府内では既成事実である開国を、一変鎖国攘夷に転じるのは、外国に対する信義を失い、戦争状態になる愚挙であるという意見と、朝廷からの攘夷を天下の公論とし、一時は攘夷を実行した後、改めて開国を論じられるべきとの論とが真っ向から対立した。

それは一橋慶喜と松平慶永の対立であったが、最終的に、ともかく攘夷一本にまとまり、将軍上洛を文久三年の春に実現し、勅諚の攘夷日程、方策について上洛の際に委細申し上げると、奉答書を出したのであった。

将軍の上洛は、寛永年間の三代家光の入洛以来二百数十年ぶりのことである上に、この度の上洛は京都に尊攘派が待ち構えている。

新たに徴募した浪士組は、将軍上洛の護衛として、京都に先行すべく二月八日江戸を出発、中仙道を選んだ。

浪士組は一班三十名で七班、それに取締付きが加わって二百数十名。その隊員の中に清河の名はなかった。その清河は隊伍に加わらず、鉄扇を手に、隊の後になり、先になり悠然と歩いて行く。

しかし、隊のすべての者がいつの間にか「あれが清河か」と、浪士組募集の発案者であることを知るところとなったが、隊に加わらず、かつ、離れずに道中を進める清河を訝しく見つめるのであった。

だが、玉石混合の混ぜこぜ隊では、起こるべくして当然のいざこざが発生する。それは暴れ者の芹沢鴨によって引き起こされ、これを鉄舟が処理するのであるが、その経緯と京都に着いてからの清河の謀略と、そこから発生した新撰組誕生については次回お伝えする。

投稿者 Master : 12:03 | コメント (0)

2009年10月02日

2009年10月例会のご案内

秋の足音が近づいてまいりましたね。皆様いかがお過ごしでしょうか。
山岡鉄舟研究会・10月の例会をお知らせいたします。

日 時:2009年10月21日(水) 午後6:30〜8:00
場 所:東京文化会館 中会議室1
参加費:1,500円
内 容:『人の使命について考える』岡村紀男氏
    『鉄舟研究発表』山本紀久雄会長

皆さまのご参加をお待ちしております。
初めてのご参加も大歓迎です。

>>>参加お申し込みはコチラ!

投稿者 lefthand : 10:27 | コメント (0)