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2008年12月25日

2009年1月例会のご案内

日 時:2009年1月14日(水) 午後6:30〜8:00
    ※第二週の水曜日となります。
     お間違いのないようお願いします。
場 所:東京文化会館 中会議室1
参加費:1,500円

発 表:「鉄舟研究」山岡鉄舟研究家・山本紀久雄会長


皆さまのご参加をお待ちしております。
初めてのご参加も大歓迎です。

>>>参加お申し込みはコチラ!

投稿者 lefthand : 01:46 | コメント (2)

金子マサ代表が勇退し、山本紀久雄氏が会長に就任しました

11月いっぱいをもちまして、金子マサ氏が当会の代表を勇退いたしました。
金子氏が運営されております「ぬりえ美術館」の活動が多忙になり、そちらに専念したいとのご意向がありましたので、ご本人の意志を尊重いたしました。
誠に残念ではございますが、ご発展のための卒業ですので、是非ともご声援のほど、よろしくお願い申し上げます。
かわりまして、山本紀久雄氏が会長として就任いたします。どうぞよろしくお願い申し上げます。
このような変化がございましたが、研究は粛々と続けてまいりますので、今後ともご指導ご鞭撻のほどお願い申し上げます。

投稿者 lefthand : 01:21 | コメント (0)

2008年12月20日

2008年12月例会の感想 その二

続いては、山本紀久雄氏の鉄舟研究発表です。
今回のタイトルは『新将軍誕生』です。

11月は鉄舟全国フォーラムを開催しましたため、清河八郎の話は少々ご無沙汰をしておりました。

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プロジェクターを導入しました(左右)。
今後もこのスタイルで発表いたします。

さて、清河八郎は、混迷を極める幕府の意向を敏感に感じ取り、浪士組結成の提案を幕府におこない、結成に至らしめました。
京へ上った浪士組を率いる清河は、京都に着くなり強引な論理で朝廷への上書を提出したのです。
確かに我々は幕府の手当で京都まできた。それは、尊王攘夷を遂行するためだ。
一方、我々は幕府の禄を食んでいない。幕吏ではないのだから、幕府とは別の組織となり、つまりは幕府と対等の立場にあるのだ。だから孝明天皇に直接建白し、天皇直属の組織として活動すべきだ。
清河は皆を説得し、孝明天皇に上書を提出したのです。
この、清河の一世一代の策略は見事に受け入れられ、浪士組は天皇直属の攘夷実行組織となったのです。
さらに清河は、生麦事件をネタにして再度上書を建白し、これも容れられ、攘夷実行のため江戸に向かうことになりました。

司馬遼太郎はこう言っているそうです。
『ついに清河の野望が達せられた。清河はこの瞬間、事実上の新将軍になった』
このことは、そのくらいの意味を持つ出来事であったのです。

当然このことは幕府の耳に入り、清河を暗殺せんと刺客が向けられたのです。
清河暗殺の顛末については新年の例会にて。

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鉄舟を学ぶこと。
それは、我が人生を素晴らしきものにするため、鉄舟の生き方からそれを学ぶことに他なりません。
現代社会は目まぐるしく変化しています。
しかし、それは皆同じこと。皆に同じように変化はやってくるのです。
にもかかわらず、それぞれで結果が異なる。
それはなぜでしょう。
それは、それぞれの生き方基準が異なるからです。
自分の中にしっかりした基準を持っていると、結果は素晴らしいものになるはずです。
その基準を、鉄舟を通じて学ぶのが、当会なのです。
その意味で、鉄舟は我々に様々な示唆を与えてくださいます。

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2008年最後の例会でしたので、忘年会ならぬ『望年会』と称して、一年の労をねぎらうとともに、来年に「望(のぞみ)」を託す会といたしました。
今年一年、山岡鉄舟研究会をご愛顧いただき、誠にありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

(田中達也・記)

投稿者 lefthand : 21:39 | コメント (0)

2008年12月例会の感想 その一

朝晩、そして冬の冷え込みが厳しくなってまいりました。
そんな中、鉄舟研究会、12月例会が行われました。

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今月一人目の発表は、斉藤広子氏です。
タイトルは『シニアの趣味』でした。

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斉藤氏は、多彩な趣味をお持ちです。
新しもの好きとご本人は謙遜されていますが、いきいきとご活動されているその様子から、人生を楽しく過ごしたいという前向きな姿勢を窺い知ることができます。

数ある斉藤氏の活動の中で、最も長いのは「木彫り」だそうです。
何と25年のキャリアだそうで、今年は所属されている木彫りの会で「25周年記念展」を開催されたそうです。

今回の発表に際して、木彫りについての様々なことを調べられ、ご発表いただきました。その中には、今回発表されることが決まり、あらためて研究していただいたこともあるようでした。木彫りの歴史や日本における木彫りの発展、また、彫り方の種類や材料となる木の種類など、私たちの知らなかった世界の一端をご紹介くださいました。

最後に、斉藤氏の人生哲学をご紹介します。
斉藤氏は現在のご自身を「第三ラウンド」にいると表現されています。
第一ラウンドは、幼少〜青年期。親に扶育されている時期です。
第二ラウンドは、社会人としての時期。働いたり、結婚して子育てをする時期です。
そして、第三ラウンドは、第一、第二ラウンドの集大成と位置づけられています。
それは、最後に残された大切な時間で、いかに充実した時間が過ごせるか、このことが最も重要であると、斉藤氏は語ります。
フランスのシャンソン歌手であり俳優のイヴ・モンタンは、彼の臨終の際にこう言ったそうです。
『ぼくは、充分に堪能した!』
自分の人生、自分自身に楽しみがあり、充実して、人生に誇りを持っている人は、決して老いない。
斉藤氏の格言です。
充実した人生を送るという基準を設け、たゆまぬ努力を続けられる斉藤氏を拝見し、喜びの人生も、嘆きの人生も、己の心がけ次第であることを感じました。
最後に斉藤氏からひと言。
『皆さん、どうか楽しいことをたくさんしましょう!』

投稿者 lefthand : 21:33 | コメント (0)

2008年12月09日

貧乏生活その四

貧乏生活その四
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

鉄舟は自ら大悟し自得した無刀流について、明治十八年次のように説明している。
「無刀とは心の外に刀なしと云事にして、三界唯一心也。一心は内外本来無一物なるが故に、敵に対する時、前に敵なく、後ろに我なく、妙法無方、朕迹を留めず。是、余が無刀流と称する訳なり」(山岡鉄舟剣禅話 徳間書店)

これは、心の外に刀はないということであり、三界にあるのはただ一心の真理だけであり、この一心とは内外ともに本来何物にも執着しないことを意味している。

つまり、刀に捉われない剣法であり、人間生れたときも死ぬときも裸であって、本来無一物であるのだから、何もないと思えば、地位や財産や名誉も関係なく、このような利欲に惑うのは愚かなことであると述べているのである。

このような境地に達したのは、明治十三年三月三十日払暁に「釈然として天地物なきの心境に坐せるの感あるを覚ゆ」という大悟に到ったからである。

大悟への修行のきっかけは、一刀流の浅利又七郎義明との立ち合いによって、自らの力量でははるかに及ばざることを知り、その後は寝ても覚めても浅利の剣が現れるという事態から、京都嵯峨天竜寺の滴水師によって授けられた禅理公案、それを解くことによってなされたのである。

この経緯については後日に詳しく検討していきたいが、大悟という心境に到って、始めて鉄舟は本来無一物と悟ったわけではない。そこに至る道には幼き頃からの精進が当然にあり、その原点を探っていくと、十五歳のときに認めた「修身二十則」に行き着く。

「修身二十則」の第一則は「うそはいふ可からず候」で始まり、その後に続く中で、己の知らざるは何人からも学べと言い、名利のために学問技芸すべからずと諌め、人にはすべて能不能あるので差別するなと説き、わが善行を誇らず、わが心に恥じざるよう務めろとある。とても十五歳の少年が書き示したものとは思えない。すでに賢者の言辞であり、この時点で本来無一物の思想、つまり「無私」の精神が顕れており、これを自己研鑽の最高の徳目に、少年時代から自己研鑽を続けていたという事実が浮かんでくる。

この「無私」の精神を実行している過程に、英子との結婚生活が存在したのであるから、結果として酷い貧乏生活とならざるを得なかった。前回に続いて貧乏話に触れたい。

鉄舟の家では、家財道具から着物まで売り払い、畳まで売って八畳の間に畳がたった三枚残っただけで、あとはがらがらの空家になってしまった。この畳三枚の中の一つに机があって、他の畳二枚は寝たり食べたり客を通したりする席になっていた。勿論、何年経っても畳替えも出来ないから、段々ぼろぼろになり、机の前の鉄舟の座るところは、畳が丸くくぼんで、それがしまいに床板に届いたという。

夜など敷く夜具がなく、たった一つの蚊帳、それもぼろぼろの古蚊帳にくるまって夫婦で寒中抱き合って寝て寒さを凌いだ。

「どうしてあの蚊帳だけが残ったものか。余程のぼろなので屑屋が持っていかなかったのかもしれない」と鉄舟が何かのとき、話したほどである。(おれの師匠)

鉄舟の家の庭木は薪物にするため伐られて行った。その庭木の中に柏の木が一本あった。隣が菓子屋で、毎年柏餅の時節になると、鉄舟のところへ柏の葉を貰いに来て、そのお礼だといって英子に幾ばくかのお金を置いていくのであった。

庭の木が追々伐られてしまうのを見て、菓子屋の主人が英子に「あの柏の木だけは伐らないようにしてください」と言った。

菓子屋の主人の心は、この柏の葉でいくらかの生活費に充て得るなら、伐らぬ方がよいという老婆心もあって言ったのである。

鉄舟は英子から隣の主人の言った話を聞いて、菓子屋風情に憐れみを受けるのが心外でならなかった。英子の話を聞き終わると、鋸を持ち出して、庭に下りて、柏の木を伐りだした。これを見た隣の主人が飛んできて、

「山岡さん、どうしてその木を伐ってしまうのですか。残しておいたらいいでしょう」と詰る如く問うた。
「がさがさ枯葉の音がして、勉強の邪魔になってうるさくていけねー」
と、とうとう伐り倒してしまった。(おれの師匠)

 自宅の庭木が他人の役に立って、そのお礼といえる報酬さえ拒否する。物凄まじいまでの徹底したつらぬきであるが、これを「無私」の精神という説明だけでは不十分と思う。もう一つ何かがあるだろうと考えたい。

鉄舟は当然ながら、内職するということなぞ全く存念になかった。だが、当時の下級武家は内職が当たり前であった。江戸時代の武家の内職について「江戸の夕栄(鹿島萬兵衛)中公文庫」は次のように解説している。因みに著者の鹿島萬兵衛は、数え年で二十歳が明治元年であるから、江戸時代に少年時代を過ごした人物であるので、当時の実態をある程度正確に把握していたと思われる。

「俗に三ピンといふ下役の武家家来あり。足軽・小者の輩ならん。一ヵ年金三両に一人扶持(ゆえに三一といふ)。二本差もあり。それのみにては自分だけをも支えるに足らぬゆゑ、種々の内職をする。大名の中下の邸にてはないしよの表向きとして許されありしなり。傘、提灯張り、扇、団扇、下駄の表、麻裏草履、摺物、その他数多くあり。本職よりかへつて収入多きなりしと」

多くの武家が内職を当然とした時代、鉄舟はアルバイトなどを存念に全くおかなかった。何故だろうか。妻子を養うという思考はなかったのだろうか。

この点について、茨城大学磯田道史助教授は次のように解説している。(朝日新聞二〇〇七年二月十日)
「山岡の辞書に『暮らし向き』という文字はなかった。だから、妻にとっては過酷そのもの。山岡の死後、妻は語った。『夫婦になったはよいが、鉄太郎(鉄舟)という人は、これまた、とんでもない変人で、何にも気の付かない人です。妻子を養うには、かくせねばならぬ、と云う如き事には更に無頓着な人』つまり、山岡にとっては、妻子を養うのは私事であり二の次、義にあつい彼は、妻子が飢えても、客には食べさした」

ここで指摘されているのは、妻子を養うのは私事ということであり、たとえ家族が飢えようと私事では行動しない鉄舟像であるが、ならば、私事でなければ何を基盤に行動したのであろうか。

それは公事しか考えられない。

ここで改めて西郷隆盛の鉄舟に対する評価を振り返ってみたい。西郷が始めて鉄舟を知ったのは、江戸無血開城を決めた駿府会談であった。駿府の松崎屋源兵衛宅で示された、鉄舟の持つ武士道精神によって、西郷は江戸無血会場を約束し引き受け、四日後の慶応四年(1868)三月十三日に芝高輪の薩摩屋敷で、正式に勝海舟幕府陸軍・軍事総裁と、西郷隆盛東征軍大総督府参謀による第一回の会見・交渉が開かれたのであった。

だが、第一回では静寛院宮の安全についてのみ確認し合い、あとの議題は翌日の第二回会談に回し、海舟が西郷を愛宕山に誘った。

愛宕山は海抜26メートル、さほど高くない丘であるが、台地の東端にあり、ここから見下ろすと、江戸の町が北から南まで見渡せ、その先に広々とした海と白帆の船を望むことができる。また、徳川家康が建立した愛宕神社があって、江戸城南方の鎮護として当時も今も名所であり、神社に参拝するためには、寛永十一年(1634)曲垣平九郎が馬で上った急勾配、その男坂八十六階段を海舟と西郷も上がり、そこで、西郷があの有名な言辞を発したのである。

「命もいらず、名もいらず、金もいらず、といった始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如きでしょう」と。

これが、後年、西郷の「南州翁遺訓」の中に一節として記され、西郷が鉄舟に対して示した評価であったが、この評価言辞の意味は、鉄舟という人物は「普遍的な公」という立場から事態に対処してくる、「普遍的な公」というものにしか仕えていない人物だ、と西郷が認めたと理解したい。

では、ここでいう「普遍的な公」とは何か。そのためには、再び、当時の政治状況を振り返って見なければならない。

鳥羽伏見の戦いに敗れ、薩長軍は官軍、幕府軍は賊軍となり、慶喜は大坂湾から船で脱出、江戸に慶応4年1月12日に戻った。江戸城では恭順派と抗戦派に分かれ議論が紛糾し、その議論に揺れ動いた慶喜も、最後は恭順策を採り、その意を表すべく、上野の寛永寺一室に謹慎・蟄居した。

この恭順の真意は、江戸無血開城であり、その結果として国内の争い回避と、外国勢力の介入防止であり、この状況は今後誰が日本国内の政権担当能力を持つのかを問われるものであった。

それまでは徳川家が、将軍職として国内政治を掌握していたのであり、この実態を「日常状態」と認識すれば、慶喜の恭順は「非日常事態」の発生であり、例外状態であるから、その状況下では人の判断基準は分かれる上に、今までの「日常状態」での判断基準は参考にならない。その結果として多くの異論が噴出、争いが生ずるのである。

これが幕末時に生じた政治実態であったが、この事態を後世の歴史家が認める「明治維新」という大業まで成し遂げた起点は江戸無血開城である。

つまり、「非日常事態」の中から、後世に認められるような「普遍的な公」を採りえたことが、「明治維新」を成立させたのである。

しかし、幕末時という「非日常事態」の渦中に実在した多くの人々は、未来を見通すことが適わない一人の人間として、それぞれ「考え方」を持って行動していた。

人間であるから当然であろう。また、その「考え方」でつらぬきたいと思ったら、それに見合う意志力を持ち努力し行動していくことが肝要となろう。これは、「考え方」を実現しようと思うならば、それに見合う努力が必要だということであり、これを平たく言えば「やる気」を持ち続けることであ。そして、その「やる気」がぶつかり合うことで争いが生れる。

つまり、「考え方」があり、「やる気」があり、「争い」が生まれ、その先に後世の歴史家が認める「結果」が生じることになる。一介の人間がそのすべてを見通すことはありえない。ただ状況に翻弄されるがせいぜいだろう。

その渦中に鉄舟は存在し、重要な役割を担ったのである。では、当時の鉄舟の「考え方」と「やる気」とは、どのようなものであったのか。

まず、「考え方」は「武士道」であったろう。鉄舟は「武士道」について次のように解説している。
「日本の武士道ということは日本人の服膺践行すべき道というわけである。その道の淵源を知らんと欲せば、無我の境に入り、真理を理解し開悟せよ。・・・中略・・・これすなわち国体の精華、いよいよ真美を重ねて、国家の福祉はますます増進するのである」(勝部真長編「山岡鉄舟の武士道」角川ソフィア文庫)
ここで述べていることは、自らが大悟した結果理解した内容であり、それは国家の大道をもつながるものであるが、これは真のサムライとしての生きた鉄舟であるから当然であって、「仕える」対象の存在は「私」ではなく、「公」に仕え奉ずることになる。

言葉を代えれば「ノーブレス・オブリージ」(高い身分と地位に相応しい義務と責任)がすべてを律することになる。

次の「やる気」とは、「武士道」が前提思想であるから、単なる「やろう」というような気持ちではなく、サムライが一度決めたことは、命がけで守るという「気概」に昇華させたものであったろう。

この「気概」があるからこそ、十五歳で認めた「修身二十則」の弛みなき実行につながり、その結果は「妻子を養うのは私事」という極貧の家庭生活につながり、「非日常事態」における西郷との駿府会談では、決死の気合と論説の鋭さによって「普遍的な公」を示すという行動につながったのである。

しかし、今ひとつ理解できないことがある。駿府会談で示した「普遍的な公」とは、結局、幕府を潰すことにつながったのである。幕府が消えるという「普遍的な公」の背景精神はどこから発したのだろうか。

その背景精神は、家族を犠牲にした貧乏とつながっているはずである。次回に続く。

投稿者 Master : 08:48 | コメント (1)

2008年12月02日

12月の例会ご案内

日 時:12月17日(水)第三水曜日 午後6:30〜8:00
場 所:東京文化会館 中会議室1
参加費:1,500円

発表1:斉藤広子氏の発表
発表2:「鉄舟研究」山岡鉄舟研究家・山本紀久雄氏

※例会終了後、「望年会」を行います。
 時 間:20:15〜22:00ぐらいまで
 場 所:上野ぶんか亭(上野駅公園口真上)
 参加費:4,000円程度

※予約をいたしますので、必ず事前にお申し込みの上、ご参加
 くださいますようお願い申し上げます。

皆さまのご参加をお待ちしております。
初めてのご参加も大歓迎です。

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投稿者 lefthand : 10:13 | コメント (1)

2008年12月01日

第五回 鉄舟全国フォーラムの感想 その二

続いては、山岡鉄舟研究家・山本紀久雄氏による鉄舟研究発表です。

山本氏の今回の発表は、「鉄舟のブレない生き方に学ぶ」でした。

鉄舟のブレない生き方とは如何なるものか。それを語るのに、同時期に活躍した人物との比較を以て語るという手法を、山本氏は試みられました。

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幕末、幕府のご威光は下降の一途を辿っていました。
一方、孝明天皇を中心とする朝廷の名を借りて、薩摩や長州が政治に対する発言権を強めていたのです。
このころ、政治の指示系統は2つになっていたことを理解する必要がある、と山本氏は指摘されました。
すなわち、朝廷と幕府です。
孝明天皇のご存命中、日本は「京都朝幕政権」という体制になっていました。すなわち、一橋慶喜、松平容保(会津)、松平定敬(桑名)の一会桑が攘夷に向けた政権を担い、一方、幕府側では十四代家茂が開国政策を行っていたのです。孝明天皇のご威光のもと、幕府と朝廷は微妙なバランスながらお互いが成立し得ていたのです。
しかし、そのバランスは孝明天皇の崩御とともに崩れ去ったのです。

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孝明天皇崩御から明治維新に至る変革の中で、時の英雄たちはどのように振る舞ったのでしょうか。
山本氏は今回、勝海舟、榎本武揚、そして山岡鉄舟といった幕臣たちの人間像を浮き彫りにすることで、鉄舟の「ブレない」生き方に迫りました。

勝海舟と榎本武揚。
両者の考え方は異なる方向性を持っていましたが、共通するものがあります。
それは、世界を見聞し、世界から日本を見つめたことです。
勝は、外国語を学び、大海軍構想を打ち立て老中に進言しました。
榎本は、デンマークで得た「外でうしなったものは、内で取り戻す」という発想をもとに、函館に新国家の建設を企みました。
その根底には、幕藩制度の限界がありました。
「幕府はもうダメだ。幕府を壊して、新しい国家を築かねば諸外国に対抗できない」
勝は、幕臣の身でありながら西郷にそう話したといいます。
その意味で勝は、政治家であり、政策を重視した人物でした。

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勝と榎本、そして鉄舟。
三人とも幕臣であり、かつ維新後新政府に出仕した共通点があります。
しかし、鉄舟は他の二名と決定的に異なる点があります。
それは、明治天皇に直接仕えたこと。
そして、没後、悪評がまったくといっていいほどのぼっていないことです。

鉄舟は記録を遺さなかったといわれていますが、いくつかの自戒を書き遺しています。
嘉永3年(1850)15歳、『修身二十則』
安政5年(1858)23歳、『宇宙と人間』、『心胆錬磨之事』、『修心要領』

『我れ幼年の時より、心胆錬磨の術を講ずる事、今日に及ぶと雖も、未だ其蘊奥(極意の意)を極むる事能はざる所以のものは、一ツに我が誠の足らざるが故なり。右は只だ其感ずる所を楽書し、習練の余暇、時々之を披(ひら)きて以て自ら励まし、爾後益々勤勉して、其源に到達せん事を期す』
(心胆錬磨之事より)
『故に余の剣法を学ぶは、偏に心胆錬磨の術を積み、心を明めて以て己れ亦天地と同根一体の理、果たして釈然たるの境に到達せんとするのみ』
(修心要領より)

鉄舟は、己の過去経験を整理し、活かすことを修行としたのです。
自分の中にあるものから、自分に相応しいものを引き出す努力をもって、修行としたのでした。
その結果、自在に自分をコントロールする胆力を持ち得る人物となり、そのことが西郷と面しても憶さず、無血開城の談判に遺憾なく発揮されたのです。

鉄舟は「人間の出来が違う」人物だったのではない。
自らを厳しく鍛錬し、その結果「人現の出来が違う」人物と周りを唸らしめた人物になったのだ。
これが、鉄舟のブレない生き方なのだ。
山本氏の研究は、このことを私たちに教えてくださいました。

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ご両名のご講演は、大変実りあるものでした。
明治天皇の思想的背景となったのは、鉄舟の真摯なる教育姿勢であったこと、そして、鉄舟がそれを成し得たのは「心胆錬磨」という自己実現のためのブレない鍛錬であったことを学びました。
佐藤一伯権禰宜と山本紀久雄氏に感謝を延べ、感想としたいと思います。

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フォーラム終了後、懇親会を行いました。
フォーラムご参加の方の多くが代々木駅近くの居酒屋に移動し、盛大に盛り上がりました。

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今回の全国フォーラムは、明治神宮・神楽殿の参拝〜フォーラム講演会〜懇親会と、丸一日がかりの行事になりました。
ご参加くださいました皆さま、誠にありがとうございました。

(田中達也・記)

投稿者 lefthand : 07:49 | コメント (0)

第五回 鉄舟全国フォーラムの感想 その一

第五回 鉄舟全国フォーラムが明治神宮にて盛大に行われました。
当日は雲ひとつない日本晴れでした。
縁深き明治神宮での開催を、鉄舟が喜んでくださっているようでした。

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当日は結婚式や七五三といった行事が重なり、お忙しい中をご無理申し上げフォーラムを開催いたしました。
結婚式に至ってはこの日何と13組の挙式が組まれており、てんやわんやの状態であったにもかかわらず、明治神宮様にはこの上ない歓待をいただきました。誠にありがとうございました。

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明治神宮は、申し上げるまでもなく明治天皇と昭憲皇太后をお祀りする神社です。
三が日で300万人が初詣をする日本一の初詣スポットであり、全国から献木されたおよそ10万本、365種の人工林が70万平方メートルの広大な敷地に広がり、憩いの場所として親しまれています。

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神楽殿での参拝の後、昼休憩をはさみフォーラム開始。

最初の講演は、明治神宮権禰宜であり、国際神道文化研究所の研究員、佐藤一伯氏です。

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明治天皇と山岡鉄舟のご縁はとても深く、鉄舟は若き日の明治天皇の侍従を勤めただけでなく、その後も宮内省の御用掛として関わりました。
今回は、明治天皇、そして鉄舟の生き方を通じて、国際神道文化研究所の研究員としてのお立場から日本文化を探るご発表をいただきました。

今年は明治維新140年です。
この時期に、明治維新を学ぶ。
これには、いかなる意味があるのでしょうか。
佐藤氏は次の御製(天皇の短歌)を例に出され、こうお話しされました。

『いそのかみ 古きためしを たづねつつ 新しき世の こともさだめむ』

これは現在、明治神宮の「代々木の舞(神楽舞)」にもなっている言葉だそうですが、故きを温ねて新しきを知る、つまり温故知新を謳っておられるのです。140年前に行われた世界に類例のない革命は、きっと現代の私たちに何かの示唆を与えてくれるに違いない…。佐藤氏は私たちにそう教えてくださいました。

皇室の正式な記録に、山岡鉄舟は登場します。
それは、『明治天皇紀』という、宮内庁編纂の書物によって私たちも確認することができます。
『明治天皇紀』宮内省臨時帝室編修局編修・吉川弘文館発行

佐藤氏によりますと、その中での鉄舟の取り扱いは破格だそうです。
例えば、宮内少輔の後継に順当な人事をあえて変更し、鉄舟を飛び越し任命したこと。飛び越しの任命もさることながら、その人事を明治天皇が自ら指示されたと記録にはあります。天皇自らが人事に口を出されるというのはとても異例であったそうです。
また、「済寧館(さいねいかん)」という、宮内省の職員のための武道場を建て、その指導官に鉄舟を任命しました。
このことは、侍従時代の鉄舟が説いた「武士道」が、明治天皇に大いなる影響を与えた結果であろうことが考えられるのです。
さらに、鉄舟薨去の時の様子も記述があります。
そこには、「資性廉直にして躬行能く奉仕せり」という一文があります。鉄舟の人柄を表現した一文です。
『明治天皇紀』全編を通じて、一般の人物の人となりが語られているところは非常に稀で、また鉄舟薨去のくだりも長い行を割いて記述されており、鉄舟への思い入れが感じられると、佐藤氏は分析されています。

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このように、明治天皇が行った様々な政策に、鉄舟の影響が垣間見えることを、佐藤氏は私たちに示してくださいました。
それは、「徳」でした。

明治15年(1882)1月4日、『軍人勅諭』を詔勅。
明治23年(1890)10月30日、『教育勅語』を下賜。

上記の詔勅の前、明治12年に、『聖旨教学大旨』という、明治天皇のご発言の記録があります。
これには、下記のようなお言葉が天皇よりあった旨が記されています。

『教学の要、仁義・忠孝を明らかにして、智識・才芸を究め、以て人道を尽くすは、我祖訓、国典の大旨、上下一般の教とする所なり。
・・・(中略)・・・
其流弊、仁義・忠孝を後にし、徒に洋風是競ふに於ては将来の恐るる所』

明治天皇はこのころには道徳の大切さを認識し、自らを含め、国民にも広く道徳が重要であることを説いておられるのです。
天皇のこのお考えに多大なる影響を与えたのが、鉄舟をはじめとする天皇の侍従たちでした。
鉄舟が明治天皇の思想に影響を与えた逸話として、道徳と法律の議論が交わされたことが、全生庵発行の『鉄舟居士の真面目(しんめんもく)』に記されています。
詳細は省略いたしますが、道徳はもう古い、これからは法律で治めるべきだと宣う陛下に対し、鉄舟は、日本を法律のみで治めれば、国民は伊勢神宮を拝まなくなるでしょうと、遠回しに諫言したそうです。
このことは明治天皇の逆鱗に触れましたが、やがて天皇はご自身の非をお認めになり謝罪されたのだそうです。
この逸話は、鉄舟が明治天皇の思想的背景の大きな拠り所となっていたことを示すといえるでしょう。

教育勅語は、次の文章で締めくくられています。
『朕爾(なんじ)臣民と倶(とも)に 拳拳服膺して 咸(みな)其徳を一にせんことを庶幾ふ(こいねがふ)』
(私自身も、国民の皆さんと一緒に、これらの教えを一生大事に守って高い徳性を保ち続けるため、ここで皆さんに「まず、自分でやってみます」と明言することにより、その実践に努めて手本を示したいと思います)


鉄舟のような優れた人材により、明治天皇は為政者として大成されました。
明治神宮も、明治天皇が目指された国づくり、すなわち
「国民一人ひとりが、真心を輝かせて幸せになっていく国づくり」
に貢献したいと願っていると、佐藤氏は話され、講演を結ばれました。
宗教ではなく、思想でもない、皆が幸せになれる社会づくりの象徴として、明治神宮はあることを実感した、佐藤氏のご講演でした。

(田中達也・記)

投稿者 lefthand : 07:10 | コメント (0)