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2008年03月30日

3月例会記録(2) 

■山本紀久雄氏

「清河八郎研究」 

今井さんからいいお話を聞きました。鉄舟会清規の中に信条の一「自己と世界についての正しい見方」いいですね。今でも当然使えるわけですが、自己と世界、当時の大森曹玄さんが描いた世界と今の世界は違う。

チベットの問題、マラソン選手が“空気が悪いから”とオリンピックに出場しないとか、世界はそういう風に広がっていますから、その「世界」の意味が当時とどう違うか、正しい生き方はグローバルになったけれど、どう違うかを近いうちに再び今井さんに講演をお願いしたいと思います。
今井さんは中村天風先生の幹部でしたからね。中村天風先生の修練会に行くと、後ろにものを置いて3つのものを並べ替えて見ないでどう並べ替えたか直感的に分かるようになります。それから竹がきれいに割れるようにならないと、卒業できません。

1.前月の尊王攘夷の復習
 ① 尊王攘夷は中国周の時代に発した言葉
突然日本に起きて15年間日本中を駆け巡った精神であり行動であった。この言葉の意味がよく分からないままに出ているので、系譜をお話しした。周の末の時代、2500年くらい前の紀元前の話、周の王様の権力が落ちたときに王様を大事にしなければならないと発せられた言葉が「尊王」で、他国から蛮族が来たので「攘夷」という言葉が出た。
 ②それが約2500年経って幕末の水戸藩で蘇った
 ③水戸藩の改革のスローガンとして水戸斉昭が主唱
水戸藩を良くするために外に敵を作り、藩内をまとめようとして「攘夷」という言葉を使った。
 ④尊王攘夷思想の一方は幕府改革へ、もう一方は倒幕運動へ
2つの攘夷運動へ分かれた。当初は幕府を敬う「敬幕」だったが、「倒幕」に変化した。
 ⑤倒幕への背景は「安政の大獄への反発」「修好通商条約の違勅」「貿易によって発生した国内混乱」「外国人の態度への反発」など
アメリカと最初に結んだ和親条約は孝明天皇も認めたけれど、修好通商条約は孝明天皇が認めていなかったのに井伊大老が締結してしまった。孝明天皇の存在が一般に知られており、幕府の上に天皇が居るのに判を押したことは違勅であるといわれた。
通商条約が締結されヨーロッパの品物が入ってくるが、輸出するものがない。生糸が外国に輸出され品薄になり、インフレーションが起きて、生活が苦しくなった。文明国と非文明国が貿易すると非文明国が苦しくなる。外国人のアレルギーが「攘夷」になった。
 ⑥明治維新が成立した途端に尊王攘夷は消えうせた。最後まで取り組んだ者は蟷螂(とうろう)の斧(はかない抵抗)に終わった
政府と政府が修好条約を結んでおり、開国しているのに“攘夷”と矛盾したことを言っている。リーダーは矛盾に気づきながら、矛盾していることを言って、一般の人たちを扇動した。幕府を倒すためのスローガンにしてしまった。真面目に攘夷と言ってきた融通の利かない頭の硬い人たちは、時代がわからなくて抵抗して、はかない抵抗に終わり、片隅に追いやられて消えていった。
「攘夷」は、幕府を倒すために誰かが考えて言われたこと。水戸藩の「攘夷」も藤田東湖とかブレーンが言った言葉。

政治はブレーンが大事です。福田総理にはブレーンはいるのだろうか?安倍内閣はお友達内閣と言われていた。でも安倍さんが入院するときに誰かに相談すれば、もしかしたら、まだ安倍内閣は続いていたかもしれない。小泉さんのブレーンは竹中平蔵。
藤田東湖が死んでしまったから斉昭は頑固親父になってしまった。ブレーンが時代によって世界を変えてあげる。参謀です。水戸家の参謀だった藤田東湖は安政の大地震のとき江戸の水戸屋敷におり、倒れてきた屋敷の下敷きになって死んでしまった。尾張家・紀伊家は高台に屋敷をもらっている。水戸屋敷は小石川にあり、沼地で低いから地震の被害が大きかった。その結果水戸家がたくさん死んでしまい、ばらばらになった。ここまでが前回の復習。

2.清河は何故に尊王攘夷の志士といわれるまでになったか
清河は鉄舟を同志と呼んでいる。鉄舟もそれも甘んじた。清河は概して評判が良くない。行動が信用置けないとか、山師、策士、出世心。鉄舟のイメージと清河八郎のイメージは異なるが、間違いなく同志であったし、清河は亡くなる前の日まで鉄舟の家に住んでいた。清河は体調が悪いが用事があると出掛け暗殺された。命を狙われていて、鉄舟の家にいないと危険だった。そのことを解明しないとならない。
物事の結論は簡単ですが、プロセスが大事です。清河は司馬遼太郎が本を書いている。無位無官の志士なのに天主まで先導した者は清河八郎より他はいないだろうと書いたが、評論家の佐高信が司馬遼太郎を批判している。「無位無官」は賛辞でしか使わない。私自身どこにも所属しないで自分の主張を言い続けているので無位無官を誇りに思っている。それを「無位無官のくせに」というような言い方はけしからんと言っている。
藤沢周平は山形県の出身で清河の同郷で、清河はかなり誤解されており、山師・策士・出世主義者と言われているが、この呼び方は誇張と曲解があると言っている。鉄舟や高橋泥舟と親しく交際しながら一方で浪士組を一転して攘夷の党に染め替えて手中に握ったのが誤解の元になっていると思われる。清河八郎の足跡を辿れば誤解であることが明らかになると藤沢周平が愛情を込めて書いている。

①生まれ:
山形新幹線「新庄駅」から陸羽線に乗り換えて「清川駅」に到着。ここから歩いて10分くらいのところに清河神社がある。清河八郎は神様になっている。鉄舟は神様にはなっていない。鉄舟は全生庵にいるだけなのに、なぜ清河は神様なのか?靖国神社に祀られているから。幕府に殺されている。清河は1830年生まれ、鉄舟より6歳上。
②育ち:
酒屋・斉藤家の長男に生まれ、金持ちの士分格。7歳頃から論語などをおじいさんから学んで、10歳のときに母方の鶴岡で塾に入ったがいたずら者で戻ってきた。13歳のときに清川の関所役人畑田さんのところに入って勉強したら、優秀だということがわかったが、14歳から遊郭狂い。
藤沢周平は、清河の性格を「ど不適」と言っている。自分を貫き通すためには何が起きても恐れない性格、どんな権威がきても黙殺して自分の主張を曲げない。勇気があるといえるが、自分の主張を曲げないのである面では傲慢と見られる人柄を言う。親友ができにくい。
とにかく清河は非常に頭が良くて、鉄舟との関係は清河が17歳の時で、藤本鉄石に会ったのも17歳のとき。鉄石の家に長逗留させてもらって学んだ。  
鉄舟は高山に居たときに父親の代参したお伊勢参りで藤本に会って、鉄石から林子平の『海国兵談』を写させてもらった。
  藤本鉄石は、岡山藩を脱藩して、免許を受け、諸国を遊学し、私塾を開いて、倒幕に参加し、天誅組みに参画した攘夷思想の人。
藤本は学問も出来て、剣もたつ文武両道の人であったので、清河も、何れ藤本鉄石のようになりたいと思った。
松下村塾は吉田松陰が27歳で開いた塾。
清河は25歳で塾を開いた。文武両道で開きたいという希望を持っていた。

③江戸へ
17歳のときに藤本ににあって、田舎に居てはだめだと18歳のときに江戸に出た。総領だから許してくれないので、家出した。1回目の旅です。

④旅へ
2回目の旅は、江戸に居る間に親が許してくれて、江戸に出てきたおじさんと一緒に京都、大坂、岩国、四国、奈良、伊勢、江戸に戻ってきた。

⑤学問
跡継ぎの弟が病死した。仕方なく山形に帰ったら遊郭通いが再発。7里の道を毎晩遊郭通った。金があるから狂ってしまった。が、ある瞬間勉強したいと父親に申し出て京都に勉強しに行った。京都には良い先生がいないので、九州に行った。小倉、長崎、長崎に出島があって、オランダ商人館に連れて行ってもらって、オランダ人と会っている。島原、熊本、別府、長津を経て江戸に戻った。三回目の旅。
江戸時代、一般の人はあまり旅を許されていなかった。温泉か伊勢参りや善光寺参り。その時代にこれだけ回っている。そして全部日記を書いている。この日記11冊が清河記念館に残っている。17歳までは親から聞いたことを書いたが、その後は自分で学んだことを日記にした。食事終わったあとに寝るまで事細かに書いているので残っている。

⑥剣
江戸で東条塾に入って勉強して、隣の千葉周作の道場に22歳のときに入って、剣道を習い始めたのが、22歳。遅れている。しかし人に教えて良い中目録を3年かかるところ1年でやった。

⑦文武両道
勉強して、昼間は道場に行き、帰ってきたら12時まで勉強して、また朝4時に起きて勉強して、徹底的に勉強した。こういうことを日記に書いてある。昌平黌にも通ったが入ったらつまらないので辞めて東条塾で先生の代行をした。25歳になって自分の清河塾を開いた。そうしたら昌平黌からも、東条塾からも生徒が来る。いたって評判が良く生徒がいっぱい集まった。どうしてこんなに人が集まったのか?
神田に土地を借りて新築した。それだけではない。お母さんを連れて、江戸から四国まで4回目の旅をしている。25歳までにこんなに旅をした人はいないんじゃないですか?旅行してつぶさに土地の状況を日記書いている。昼間見たことを書くということは頭に入る。その上に若いときから論語とか勉強して素養がある。他の塾では論語の書いてあることを解説するだけ、清河の場合は、論語のこと、自分が見てきたことを組み合わせて実体験として講義する。時代は変わっていく。日本の最先端です。人気があった。

 今度の日曜日から上海に行く。上海でお世話になるコンサルタント会社から届いた費用の見積もりを見てびっくりした。今まであちこちまわっていますが、今までの何十倍の金額の見積もりを送られてきた。スポンサーに送って、紹介してくれたところに交渉してもらっている。
世界中同じ調査をしている、NY,ロンドンの順に高かったが、その何倍も高い金額を請求してきた。給料が日本の3分の一や5分の一と言われている。
初めてだったら知らないで高いと思いながらも払ってしまったかもしれない。

アテネに行った。小学校6年生で日本語を勉強している子が居るから見てほしいというので会ってみた。どういう教育しているかと聞くと自宅で家庭教師を頼んでいる。家庭教師は自分の家庭教師料は高いと言う。
見てくださいと持ってきた紙にドラゴンボールが描いてある。インターネットで世界一アクセス数が多いのが鳥山明です。ドラゴンボールです。そのことを知らないといけない。これを本に書いている東大の先生がいます。
その小学校6年生が突然、「上杉謙信に子どもは居ますか?」と質問してきた。“上杉謙信は独身だった”。「織田信長は悪者ではないですか?」“日本では一番人気のある武将です。なぜなら日本を統一したから”。「明智光秀に殺されましたね」とか知っている。英語の戦国時代系図譜で勉強している。
英語は高校生レベルです。小学校6年生で日本に行きたいからと勉強しており、普通の家庭だけれど親は高い給料を払って勉強させている。日本に行きたいと子どもは目的がはっきりしている。
清河八郎もただ単に旅をしたのではない。今までに江戸にない塾を開いた。ここが優れているところ。優れていなかったら天皇を動かすことはできないでしょう。どうしてそこから鉄舟と結びついたか。

3.鉄舟と清河は何故に気が合ったのか
 ① 性格が似ているところ
 ② 時代のつかみ方が優れていた
 ③ 性格が違っていたところ
清河と鉄舟は違うけれど最も親しい間柄。死ぬ直前まで鉄舟の家にいたから。清河が信用している人が鉄舟。けれども清河八郎は良い評判がない。それなのになぜ同志と言われたのか。そのことを解明していかないと鉄舟のことはわかりません。最後は大悟徹底したけれど、そこに行き着くまではいろんなことがある。それを研究している。
アテネの小学生は目的があって勉強しているから親がお金を出してあげている。今の時代に目的を持つことを学んでいかないといけない。

吉田松陰は20歳まで長州を出ませんでした。21歳で江戸に出て、東北をまわって色々学んだときにペリーが来ました。これからは外国に行くべきだと思った。吉田松陰は「飛耳長目(ひじちょうもく)」と言っています。20歳まで学問をして、21歳から旅を初めて、学問と比較して広めた。下田でペリーの船に乗り込もうとしてつかまった。旅の回数でいうと吉田松陰は清河より少ない。
清河は25歳までに4回旅に出ている。京都に遊説に行きます。薩摩屋敷に集まれと扇動した。幕末の風雲は清河の九州遊説から始まったと言われている。
吉田松陰と比較するわけではないが、当時旅をした人が少なかった。鉄舟も旅をする機会が少なかった。
以上

【事務局の感想】
清河八郎のイメージはよくありませんでしたが、今回の山本さんの話で時代の最先端の塾を開いていた文武両道の人ということが分かり、イメージが変わりました。
この清河八郎と鉄舟がどのように展開して、二人が同志関係になったのか、今後の山本さんの研究が楽しみです。

投稿者 staff : 2008年03月30日 17:18

コメント

 その当時清河八郎が刊行した書物が埼玉県立文書館に蔵されています。
 当時の清河の人気が浮かばれます。
 機会があったら参加したいと思います。

投稿者 あさくらゆう : 2008年04月01日 18:56

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