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2008年02月24日

2月例会記録(2) 1/2

■山本紀久雄氏
「尊王とは、攘夷とは」1/2

 井上さんの講演、声が大きくすごい迫力でしたね。井上さんは自分の得意なことを極めようとしています。自分の得意なことを極めると自分というものが発展していきます。得意なことの中に自分の世界がありますから、自分の得意なものを知ることが大事です。私も自分を訪ねる旅をしています。ソクラテスが紀元前に「汝自身を知れ」という言葉を残しています。自分が得意なものを掴んだ人は、幸せとか成功が入ってくるということを井上さんが言ってくれたのだと思います。
鉄舟の勉強会も縁ですよね。鉄舟を全然知らなくても集まり、仲間の中に世間とは違ったグループが出来て、気持ちの良い何かが入ってきています。


昨日は田中淳一さんという静岡の中学校の先生から、神田の古本屋を歩いていたら静岡藩~明治2年に廃藩置県で静岡藩になり、その後静岡県になる一瞬の間~の名簿が手に入りましたと送ってくれました。山岡鉄舟のことが書いてありました。これもネットワークです。嬉しいですよね。
神田の古本屋街は財産です。あれだけのものは世界にはないと思います。

前回は山岡鉄舟に影響を与えた清河八郎のことをお話して、今日はいよいよ「尊王とは攘夷とは」についてお話します。尊王攘夷運動が世間を騒がせたのは日本の歴史の中でたったの15年間です。ペリーが日本に来て明治維新になりました。その15年間日本国中を吹き荒れたのが尊王攘夷でした。明治維新以後「尊王攘夷」という言葉はなくなりました。それ以前もありませんでした。激しい言葉の動きでした。
「15年」というのは因縁のある年数で、バブル崩壊以後日本が立ち直ったのが15年です。みなさんも15年くらい続けたことはありますか?私はこの仕事をはじめたのがちょうど11年前です。最近は良いことばかりです。仕事はどんどん忙しくなるし、体は絶好調だしね。

1.尊王か、尊皇か
「そんのう」は「尊王」「尊皇」と両方あります。昭和7年頃から「尊皇」を使っている人が多いのは「天皇家」だからです。誰が「尊皇」を使い出したかというと徳富蘇峰、徳富蘆花のお兄さんです。徳富蘇峰は『近世日本国民史』を書きました。全50冊です。徳富蘇峰は当時とても有名な方で尊皇攘夷について書いています。その徳富蘇峰が、“私が「尊皇」を使いました”と言っています。

2.中国・周時代に遡る(紀元前770~前221年)
「詩経」魯頌に「戎狄是れ膺ち、荊舒是れ懲らす」

「尊王」は中国から出た言葉です。当時中国は戦国時代でした。
不思議なことに地球はあるとき偉人が一気に出るときがあります。2500年前
に今我々が勉強している老子・孔子・孟子・孫子が出て、それ以後ぴたっと出ないですね。そういう時代が中国の2500年前にありました。
『詩経』は五経のひとつで、五経は、『易経』・『書経』・『詩経』・『礼経』・『春
秋経』です。『詩経』の「魯頌(褒め称えるの意)」という項目の中に「戎狄是
れ膺ち、荊舒是れ懲らす」(西北の蛮族をうち、南の荊舒を懲らしめる)とあり、
これが「攘夷」という言葉の元です。「尊王」は、周の時代王様を尊重しない人
が多かったので、みんなで王様を尊敬しましょうと尊王論が出ました。周の王
様を尊敬して、周王朝を守るため侵入する周辺諸民族を打ち払いました。これが尊
王攘夷です。これをペリーが来たときに思い出して使ったわけです。誰が最初
にこれを使ったかというと、水戸藩の徳川斉昭が使いました。

3.尊王論は水戸藩・・・徳川斉昭(烈公)、会沢正志斎、藤田幽谷、藤田東湖など
弘道館に掲げた「王を尊び、夷を攘ひ、允に武にして允に文に、以て太平の基を開けり」というものが、王を尊び、夷を払い、「尊王攘夷」となりました。しかし、当時言い始めたときは「倒幕」になっていませんでした。

4.攘夷論は大きく分けて二方向・・・
  ① 尊王であり、敬幕
  ② 倒幕の手段

京都にいる天皇陛下を敬いましょう。江戸幕府も日本を治めているのだから敬いましょうと言っていました。しかしあるときから敬幕が倒幕になりました。そしてもう一方は幕府の構造改革になりました。

アメリカ・ウィスコンシン州では大統領候補のオバマ氏が勝利しましたね。オバマ氏が選挙で勝ったらアメリカはどうなりますかね。アメリカの歴史200年間誰がリードしましたか?インディアンを殺して誰が作りましたか?侵略したのはキリスト教の国の人で、その人たちが住み着いたのですから、アングロサクソン、白人でしょう。アメリカは「WASP」(ワスプ:「ホワイト・アングロサクソン、プロテスタント」)が根本にあり、これではない人間はアメリカでは偉くなれないと言われていました。オバマ氏が大統領になったらどうなりますか?長い伝統がなくなるということです。これは価値観の変化です。今後もしかしたらプロテスタントが仏教やイスラムになるかもしれません。
アメリカの中心がなくなるのは民主主義の名の下に大統領が選ばれてきたからです。日本は違います。小泉・安倍・福田と首相が変わっても、天皇は昔からいて、中心が定まっています。「尊王」があるので中々変わりません。アメリカは“日本は変らないからけしからん”と言います。日本には中心が定まった2000年の歴史がありますが、アメリカはごろっと変ります。
幕末時でも天皇陛下が居られたから、井伊大老が日米修好通商条約を締結して揉めても簡単に変わりません。ところがあるとき「尊王攘夷」が消えるのも日本の珍しいところです。
いつ頃から倒幕になったのか?
ペリーは何のために来て何を要求しましたか。開国させて日本と交易しようとして日本の林大学頭と交渉しました。ペリーは交易すれば良いことありますよ、と言って来ましたが、林は“我が国は、そういうことは必要ないです”と交易を外して和親条約を結びました。アメリカが困ったら薪や水や野菜は与えますが取引はしませんという内容です。
アメリカは目的が交易だからどうしても交易したくて、孝明天皇が反対しましたが、井伊大老が日米修好通商条約結んでしまいました。その結果日本に大インフレが起こりました。
インフレが起こるのは、アヘンでやられた清(中国)の例でわかっていました。日本からは輸出するものは生糸くらいで、輸出すれば国内で品薄になり、日本人が買おうとしたら値段が上がり、それにつられて他の物の値段も上がります。幕末はインフレで苦労しましたが、それを乗り越えないと世界に入っていけないので、井伊大老は構造改革を実行しました。
 一般の人たちは、一つは、外国と通商条約を締結したから生活が苦しくなった、二つ目は、孝明天皇が反対しているのに幕府は日米修好通商条約を結んだ、尊王ではない、三つ目は、安政の大獄をやり、文句いうやつを捕まえて牢屋に入れて、その反発が起きました。こういうことが重なって外国人は夷敵!日本を汚している!と倒幕に走っていきました。 
何とかしたいと思った人の中に徳川斉昭がおり、反対に清河八郎は倒幕に走りました。その同志が鉄舟です。
当時外国の人たちは日本の偉い人に会うために土産を持ってきました。ハリスは13代家定へのお土産として、シャンパン、シェリー酒、リキュール酒、切子硝子、特性火筒(鉄砲)、硝子瓶、望遠鏡、博物図鑑、などを持ってきました。将軍は、羽二重などの服、生地を上げました。向こうは科学的なものを持ってきました。

投稿者 staff : 2008年02月24日 15:22

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