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2008年11月08日

10月例会記録(1)

明治維新と西洋音楽事始 第3話
「唱歌の事始と十字架の影」
 高橋育郎氏

今日は第3話ということで、「唱歌の事始と十字架の影」というテーマでお話ししたいと思います。


唱歌の事始は、まさに生みの苦しみがあった。
近年1980年代に、フェリス女学院図書室長、手代木俊一氏により研究が始められ、それを受けて山口芸術短大の安田寛氏が世界中を歩いて手代木俊一氏との共同研究の形で研究をすすめ、1993年に発表した。暗黒の話だが、この発表によって、謎のベールは少しずつ解きあかされていった。

唱歌は賛美歌で使っているものが多かった。アメリカからメーソンという音楽教育の大家を日本に呼んだ。メーソンは本音をいうと、日本に賛美歌を教えて、日本をキリスト教の国にする野心があった。メーソンは日本から要請されたときに内心非常に喜んだ。あわよくば日本をキリスト教の国にする絶好のチャンスを与えられたと思った。しかし、おおっぴらにしたら帰されるので慎重にしていた。

明治維新になって、世界に門戸を開放し、来年は開港150年目。西欧文化は急激に吸収され文明開化がもたらされたが、こと宗教に関しては鎖国時代と同じような考えで、特にキリスト教に対しては警戒の手を緩めなかった。アメリカなど西洋の列強にとってはキリスト教の国にしようと野心があった。そういった目には見えない戦いがあった。

明治4年に岩倉使節団が列強の各国を見てまわって見聞を広めた。
小学校を見て驚いた。中学校があり大学があり、教科もあり、音楽も体操もあった。音楽に合わせて体操するなんてものは日本にはない。教育の進み具合は日本では想像もつかない教育だった。刺激が強くて日本も教育の近代化をしなくてはならないと思った。

明治5年、学制が布かれ、学校を作り、寺子屋方式ではなく近代化しようとした。
明治19年に(森有礼文部大臣)学校令が布かれて小・中・高・大学といった学校が揃って、教科もほとんど確立した。
学制が始まった頃には師範学校を作り、先生を出さないといけない。師範学校の中に師範学校の付属の小学校を作る。小学校の教育はそのくらいに始まった。明治19年に小学校も全国的に広がった。その中に音楽を入れたようだった。教科の名前は「唱歌」、中学は「奏楽」と名前を変えた。しかしどういう風に教えていいかノウハウが全くなかった。

近代音楽の生みの親は先に話した伊沢修二であり、ボストンから招聘したメーソンであった。伊沢は政府の要請で米国の教育学と学校の実態をみるためボストンの師範学校に留学した。伊沢はほとんど教科をクリアしていたが、音楽だけができなかった。なぜ難しいかというと音階が日本のものとヨーロッパのものでは違う。音が聞き取れなかったり、音程が取れなかったり苦労した。「日本は地球の裏側で環境がまるっきり違い、音楽を理解するのは大変だから免除する」といわれた。伊沢は非常に悔しがった。なぜなら、伊沢は長野県の高遠藩出身で5歳くらいから西洋音楽の鼓手をやっていて、行進曲など練習した。
第一、日本を代表してきている身だ。簡単に引き下がるわけにはいかない。そんな気概があった。
伊沢は音楽を身につけるのに苦労していた頃、メーソンと劇的に出会った。偶然なようだが、実は森有礼によって内々、道筋はつけられていた。

伊沢はメーソンと出会って、音楽を理解すると、文部省に唱歌が重要な学問になると答申を出して、認めさせた。文部省に音楽取調掛が設立された。伊沢は帰国すると掛長になった。音楽取調掛は東京芸術大学の前身になる。音楽取調掛にメーソンを招聘し、伊沢と組んで教科書をつくり、つぎに師範学校で音楽を教える役割を担った。

教科書の選曲に非常な苦労があった。明治13年に唱歌集第一集を出した。小学校の教科書といっても和綴じの和紙で、文字も毛筆で草書体であり、今の人には読めないようなものだった。
まずは、おたまじゃくし・音階に慣れるように単純な歌から始まった。ドとレとミだけの狭い範囲の音階練習が繰返され、子どもは一向に興味はそそられない。「唱歌校門を出ず」とまでいわれた。家に帰ってきても学校で習った歌はやらないで、あいかわらずわらべ歌で遊んでいた。第一集半ばあたりからメロディらしいメロディが出てきた。「蛍の光」「庭の千草」「美しき」などのいまも愛唱歌として歌われている歌が出てきて、広く歓迎されるようになった。

日本の音階はドレミソラの5音(5声)、西洋はドレミファソラシドの7音(7声)で、5声音階の日本の歌に近いのはスコットランドやアイルランドの歌に多かった。
表向きはアイルランドの「民謡」などが「日本人の耳に親しみやすいだろう」とアイルランドの歌を取り入れたが、実は教会で歌われている賛美歌であり、これをカモフラージュしながら歌集に入れたのだ。

しかし、愛唱歌といわれた「見わたせば」「結んで開いて」「あまつみくには」「うつくしき」などは賛美歌だった。唱歌の編纂者は、賛美歌であることを隠した。賛美歌であることを気づかれないよう、大変な気苦労をしたのである。歌詞は儒教の教えにして、賛美歌であることをカモフラージュしていた。

メーソンは日本をキリスト教の国にしようと宣教師と手を組んで企んでいる、地下活動のように宣教師と時々会っている。そうした密告があった。そして15年、第2集の唱歌集の編纂を始めた時、突如解任され、志半ばで帰国を余儀なくされた。しかし唱歌集は16年に第2集、17年に第3集と続き、伊沢の手で編纂発行され、第3集をもって完結した。勿論,メーソンの意向は残っていた。

唱歌集が出たころ文部省を牛耳っていたのは田中不二麿で、彼も貢献者のひとりだった。13年、唱歌集が出たあと、田中は旅行中に突然解任された。

森は留学生のとき洗礼を受けており、伊沢も洗礼を受けた。伊沢ら留学生の監督官、目加田種太郎も、唱歌にたずさわった関係者の多くはクリスチャンだった。留学して外国で近代的なものを身につけて洗礼を受ける。そういう人は開明派、洋学派と呼ばれた。

それに対して日本の教育の中心は儒教、宗教は神道と仏教でこれは明治維新後も引きずっている。儒教派の最高位は元田永ざねだった。元田は明治天皇の侍従であり、開明派を嫌った。(元田は、井上毅と23年発布の教育勅語を起草 鉄舟との関わりは表面には二人の関係が出てこない。明治天皇に日常的に接触しているから教育勅語のはなしなど、これからの研究でわかってくると良いと思っている)

森有礼が文部大臣になった。元田は森を政敵とみて、任命した時の総理、伊藤博文に森みたいなも激しく詰った。

森有礼も伊沢修二も目加田も、儒教の教育をうけて育った者で、根は立派な日本人であり政治家であったが、元田が思うような売国奴などで決してなかった。多分に誤解を受けていたといえる。

そして、1889(明治22年)2月、大日本憲法発布の日の朝、森有礼は自宅の玄関を出るとき、壮士西田文太郎に刺され、病院に運ばれ、翌日死去した。
横井小楠(よこいしょうなん)も同じような理由でその前に刺されている。
新聞には数行の記事に止まり、こんなにもセンセーショナルな事件にも関わらず、闇のうちに葬られ、真犯人は黒幕に覆われ分からないまま今日に至る。

唱歌の大部分は賛美歌だったのだ。である。

最近になって分かったのが唱歌集第五十三番の「仰げば尊し」は伊沢修二が作曲したといわれている。ほかにも第四十四番の「皇御国」(すめらみくに)が伊沢である。
以上

投稿者 staff : 2008年11月08日 11:51

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