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2008年08月24日
7月例会記録(1) 「明治維新と西洋音楽事始」その1
■高橋育郎氏
「明治維新と西洋音楽事始」その1 ペリー艦隊の軍楽隊がやって来た
西洋音楽と改めて言いましたけど、要するにドレミの音階でできている音楽で、邦楽とは、聞いてのとおり全くちがうものです。
いまでは日本中どこでも西洋音楽が、日常茶飯事に溢れています。しかし、明治の始めに西洋音楽を導入するに当たっては、大変な苦労がありました。特に唱歌の事始は想像を絶する命がけの取り組みがありました。
信長の時代には、キリスト教の伝来にともなって、グレオリア聖歌(教会音楽)が入ってきましたが、間もなく禁止され、普及するまでにはいたらず、隠れキリシタンによりわずかに残された程度でした。
年表をみながら話をすすめましょう。文久2年に生麦事件がありました。NHK大河ドラマ「篤姫」に久光が出ていますが、事件の話はこれから出てくるでしょう。
久光の行列に英国人が、前を横切り「無礼者」と薩摩藩士に斬られたのです。これが薩英戦争に発展しました。ただあの頃は、艦上の大砲から放つ弾丸があまり遠くに飛ばなかったので、陸から顔が見えるほどの接近して停泊していました。
艦上では、朝な夕なに軍楽隊がパレードを行い、兵士は歩調をとって行進し、太鼓に合わせて挙手の礼をしたり、一糸乱れぬ行動をしました。
日本では足並みをそろえて行進する風習はありませんでした。またその音楽は精神を揺さぶる素晴らしいもので、薩摩の兵士や集まった群集は聞きほれてしまったそうです。
そうしたことで維新後、薩摩の兵士がいちはやく軍楽伝習生となって、習ったそうです。習った場所は、横浜山手の妙香寺境内で、指導は英国歩兵軍楽隊長のフェントンでした。
薩英戦争で薩摩は英国と仲良くし、森有礼が英国へ留学したり、薩摩にとってよい影響がもたらされたのですから面白いですね。
軍楽は薩摩をはじめ各雄藩が競って、習い始めました。はじめは洋太鼓で、最も力を入れました。太鼓は信号です。信号とは、命令を伝える。行進や行動に使う。といった二つの役割を持ちました。「気をつけ、前にならえ、敬礼、前にすすめ、とまれ」といった一連の動作を太鼓によって規制したのです。太鼓用の楽譜もありました。
このように太鼓を軍事用として用い、西洋音楽に近づいていったのです。
1854(嘉永7)横浜村沖にペリー艦隊は停泊、日米和親条約交渉が大詰めになったときに、林大学頭ほか5名の幕府交渉委員をポータハン号に招いて午餐会を催しました。
甲板では軍楽隊の演奏があり、そのあと「エチオピア人ミンストレル一座」のショーがあって、これを見た林大学頭ら一行は抱腹絶倒したそうです。同時代のフォスターの曲は盛んに歌われていた時で、「おおスザンナ」や「草競馬」は演奏されたでしょう。日本人が最初に聞いた西洋音楽でした。
明治4年、岩倉欧米使節団は、横浜を出発しました。オーケストラやオペラに接し見聞を広め、大きな収穫を持ち帰りました。
【事務局の感想】
西洋音楽の歴史は幕末から明治にかけて生まれてきたようです。日本人が規律良く並ぶことができなかったとは、驚きの事実でした。音楽の世界でも、西欧に追いつくために非常な努力をしていたことが、分かりました。9月の唱歌の流れについても楽しみです。
投稿者 staff : 2008年08月24日 11:47