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2007年02月06日

1月例会記録(1)

■高橋育郎氏
「もう一人の私」 童謡は私の生きがい ―作詞作曲への想い―

まず皆さんに歌っていただきたいと思い曲を用意してきた。
「一月一日」(年の初めの・・・)作詞の千家尊福は出雲大社の神官。
 
 私は山岡鉄舟も好きですが、歌も好き。とりわけ童謡や唱歌が性に合っている。ぬりえ美術館で童謡の会をやっている。普段から作詞作曲をしているが、どんな活動をしているかお話したことがないので、今までの作品と想いをお話させて頂きたい。
ジャスラック(著作権)に登録されている作品が230曲ある。


 初めて作曲を手がけたのは、高校3年生の冬休み。ある自由詩をみて、作曲しやすいように定型詩になおし楽器がなかったので玩具の木琴を使って作ったのが「冬が来た」という曲。中学から高校まで美術をやっていた。高校2年生の時に絵を書いている隣の教室で合唱の練習をしており、どうしてもやりたくなり入部した。それまでは絵ばかり描いていたので、図書室で借りた『西洋音楽鑑賞法』で学んだ。

 高校3年の5月に開催された学生音楽祭のとき、指揮者が長期欠席になったとき代役を引き受けた。本番では結構評判が良かった。

 絵が好きだったが、音楽も好きだったので、進路は相当迷ったが、父から“絵は天才のさらに天才じゃないと食べていけない”と言われた。その当事職場の合唱団としては日本一だった国鉄合唱団に入りたいために国鉄に就職した。

 最初は東京駅に入った。合唱は本社でやっているので、本社へ行くために中央大学夜間部に入学し、憧れの国鉄合唱団に入団。夢が実現した。みんな実力があり楽譜を見て歌えるので、私も勉強して讀譜力をつけた。

 讀譜力がつくと、曲がつくりたくなり島崎藤村の「高根に登りて遠く望める歌」の詩を見つけて、曲を付けた。
 当時は独身寮住まいで、楽器はなく頭に浮んだメロディーを五線紙に書きとめた。楽器に頼らずできたことは、まさに奇跡である。その次に現代詩をやっている先輩から頼まれて「朝まだき」「自由詩もくれん」という詩に曲をつけた。国鉄合唱団の活動は約14年続いた。

 27歳のとき、東海道新幹線のPRの仕事についた。SLがなくなるころ業界紙に鉄道フアンの投稿詩「機関士一代」が載った。哀歓がこもった定型詩で、これに玩具の木琴で作曲して、NHK「あなたのメロディー」一般からオリジナルの曲を公募し、応募曲の中で優れたものを、6曲プロの歌手により発表され、その中から週間の優秀曲としてアンコール曲が入選した。

 自分の曲を唄は旗 照夫、NHKの管弦楽団がやっていて感動した。
バラエティ番組の「話の泉」と同時だったので、大ホールが超満員。審査員にも早々たるメンバーが並んだ。6曲が発表され、みんないい曲だったが私の曲がまさかのアンコール曲となった。輸送の仕事で忙しかったから放送されたTV番組は見られなかったが、家内が写真とテープに収めてくれた。

 転勤になって、千葉で、東京から千葉までの快速線を走らせる大工事のプロジェクトチームに入った。駅舎の改良工事に携わり曲を作る暇のない仕事人間になった。この仕事が終わったあと、少し時間に余裕のある仕事に移してもらった。

そのころは旅行会社と組んで団体旅行が盛んだった。カラオケが始まった頃で、温泉・リゾート地の大きなステージのあるホテルでカラオケをやるような企画を頼まれた。

 宴会では夜の8時くらいのフィナーレでステージと客席が「新東京音頭」で総踊りになった。こんな大きなイベントをやっているのだったら国鉄独自の歌があってもいいのではないかと考え自分で作った。

 詩を作って提案したが前例がなく処理に困っていた。交通公社にいった先輩に詩を見てもらったら、1ヵ月後くらいに先輩が歌手を連れてやってきて、国鉄団体旅行音頭「シャンシャンいい旅夢の旅」としてキングレコードから全国発売することになったといってきた。千葉テレビが目をつけて、毎日夕方16時になると放送され、団体旅行では歌手が添乗し歌う。ファンクラブもできるし人気だった。
その後キングレコードのディレクターが着て、これを機に日本音楽著作権協会(ジャスラック)の準会員になる。46歳のときだった。

 昭和61年に国鉄記念として、千葉局がお座敷電車「なのはな号」の運転を開始した。お座敷電車の名前は、千葉の県花から「なのはな号」となり、PRソングを管理局長からじきじきに頼まれた。
「黄色菜の花、青は海、ツートンカラーのなのはな号」という詩が浮かんで、つくった。一流の作曲家と歌手もつけてくれて、クラウンからカセットテープで発売された。
JR記念グッズ「なのはな号音頭手拭」も千葉局の全駅で発売。私の書いた字が手ぬぐいに入っていた。
 同年、房総の観光ソング「房総半島ひとめぐり」(曲と詞・音頭調)「ハッピーランド房総」(詞のみ・ハワイアン)をレコード製作協会から発売。

 国鉄が民営化される際、52歳くらいで管理職をやっている人は退職か出向の二者択一を迫られたが、JRを一年間経験させてもらった。JR退職後は本来なら関連企業に行く予定だったが、第2の人生好きなことをやりたいと断った。


 JR退職後は、音楽イベントの企画会社を先輩と立ち上げた。現実は厳しかったが、幸いなことに、ライフ・ベンチャークラブを紹介してもらい、そこの事務所の一部を提供してもらい仕事をした。ライフ・ベンチャークラブが銀座8丁目にあって、その近くに日本旅行の企画会社が入り、一緒に仕事をするようになった。

 大手芸能人集団と日本旅行とのタイアップで、音楽列車や、名刺交換列車というのを出した。名刺交換列車はNHKや民法から取材がきた。インタビューをしたのが放映され、交換したもの同士のその後を追跡調査し第2部も放映した。
 コロムビアレコードと提携して、JRパノラマ電車を使ってヴァイオリンの佐藤陽子さんと音楽イベントを行った。 

 平成に入ってから不況に見舞われた。第2弾は400名くらい集めなきゃいけないのに40名くらいしか集まらなかった。天皇が病気になったときに歌舞音曲はだめになって、景気にかげりが出た。

 イベント業から手をひいたが、培った人脈のおかげで音楽学校を経て、銀行に就職して9年間勤めた。65歳で退社したあと、ライフベンチャーのセミナーの休憩時間に3曲くらい歌を歌うこの活動が目に止まり、生活余暇開発士のお世話で、会場の面倒も見てもらって、「歌う会」を始めた。そのほかステージ活動を体験する。日経新聞に記事を載せてもらった結果、100名の申し込みが入り、月に2回、2グループに分けて、社会教育会館で活動を行っている。

 戦後50年として、引き揚げ船が入る港のひとつ、佐世保に引き揚げ港平和記念公園が作られた。その記念の曲の作曲依頼が知人を通じて来た。作詞は長崎県立大学教授で、満州から引き揚げて上陸したときの苦しみを詩にした。戦時中、父がタイにいて復員してきたのもあって共感して曲を作って送った。

 記念の歌『あぁ浦頭』(浦頭=佐世保港の船の到着した地域)の反応は想像以上で、地元の合唱団が合同で演奏会をやって、その後佐世保市が市民音楽祭として演奏会をやった。
5年後、JTBとJR九州が主催で『あぁ浦頭』を歌う全国の集いを長崎ハウステンボスで開催された。5日間にわたり開催され5日間で、延べ5万人の方が全国から来場した。
「ああ浦頭」を広める会ができて、テープが発売され、テレビ長崎など地元で取上げられ、NHKの「おーい長崎県」では、長崎の歌ベスト50に選ばれた。

 日本童謡協会会員になり、同会主催の童謡祭に作品を提出参加。「大きな木はいいな」(作詞)は、全国童謡サミットにて21世紀に残す歌の中に入った。カワイ出版『みんなの童謡200』というタイトルで出された本に入った。
その後、「めだかの学校・歌の会」(朝霞市保育園)発足、 14年8月「ぬりえ童謡の会」(町屋ぬりえ美術館)をオープン当初からやっている。  

 無謀な冒険と思いつつ歌の世界に飛び込んだが、周りのあたたかいご支援があったおかげで不可能と思われることが、自分の意思以上に可能になった。温かいご支援を忘れてはならない。先ずは感謝です。


【事務局の感想】
高橋先生には、ぬりえ美術館の開館以来童謡の会を毎月開催していただいています。
今回始めて、先生の人生を振り返っていただき、歌との係わりをお話していただきました。
歌は高橋先生にとって、人生そのものではないかと思います。ぜひ、この歌を通じた高橋先生の歴史を次回は綴っていただきたいと願っております。

投稿者 staff : 2007年02月06日 12:07

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