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2004年07月26日

大森曹玄氏の見解

鉄舟を研究する者にとって、大森曹玄先生の著書「山岡鉄舟」は基本書である。大森先生は高歩院ご住職で鉄舟師家(しけ・学徳のある禅僧)である。
この大森先生が昭和43年、つまり、明治から百年の年(1968年)に「山岡鉄舟」を出版されたのである。
今回はこの大森先生の「山岡鉄舟」をご紹介したい。

まず「序」に次のように書かれている。

「この人、剣道、書道の名人であり、そして禅の大家である。ことに剣においては、山田治朗吉先生が名著『日本剣道史』の中で、榊原健吉とともに日本固有の剣道の殿(しんがり)の名人として尊敬し、その死をもって『剣道のある世紀の終末』だと言っているほどである。この両名人の亡きのちは『名の実に副わず、技の法に叶はざるもの多く、撃剣は熾んなるに似たるも、道術は破れるにちかし』とさえ嘆いている。
不肖私は、不思議な法縁をもって、鉄舟翁の参禅の師、天竜の滴水禅師の法系に連なるものであり、そして私の学んだ書道は、これまた鉄舟翁が第五十二世をつぐところの入木道である。そのうえ更に、私がいま住職している小庵は、鉄舟翁の旧邸趾であり、その諱(いみな)を襲うて高歩院(鉄舟は山岡鉄太郎で姓は藤原、名は高歩・たかゆき・字は曠野、鉄舟と号す)という。
むしろ宿縁ともいうべきこの重なる縁故によって、私の翁に対する心酔度はあるいは倍加されているかもしれない。といって身贔屓は、ひいきのひき倒しになる。いま評伝を書くに当たっては、つとめて公平を期したつもりであるが、けれども、どう見ても偉い人は偉いのである。
ところが、鉄舟翁の伝記類は相当数に上がるが、偉い人のつねで訛伝や誤りが少なくない。信頼できるのは『全生庵記録抜粋』と、鉄舟翁晩年の門下、小倉鉄樹氏の『おれの師匠』のほかにはないといわれる。私はこんどこれを書くに当たって、改めてできる限りのものを読んでみたが、概ね右の両書を出るものはなかった。したがって私もまた、この両書によるほかはなかった」・・・カッコ内は今回加えたもの。以下同じ。

この序に書かれているように、大森曹玄先生と鉄舟は正に多くの縁でつながれているように感じる。したがって、大森先生は鉄舟のことを語るに相応しい人物であると認識し、多くの世評も大森先生の鉄舟研究を的確と評価していることから、その主張を参考にしたいと思う。
そこで、大森先生の書き表した鉄舟像、それを妥当な姿として受け入れ、大森先生が認めている鉄舟の業績、大森先生は功業(功績の顕著な事業)と書かれているが、その功業について触れているところを今回まず最初にご紹介したい。

「鉄舟という人は、最後の門人であった小倉鉄樹氏の書いた『おれの師匠』を読んでもわかるように、豪傑である反面に細かいところにもよく気がつく人だったようである。幼少の頃からいろいろの感想を明細に手記して残している。この駿府に行ったことも、『戊辰の変、余が報告の端緒』と題して、『明治二年己巳八月』(巳・み・時刻を意味し明け四つ。今の午前十時、およびその前後二時間。一説に、その後二時間)に手記しており、そして『西郷氏と応接之記』を『明治十五年三月』に、書いている。
ただし、『戊辰の変、余が報告の端緒』については、小倉鉄樹老人は『おれの師匠』の中で、この書は出所が明らかでないから信をおけぬといい、また、文章が師匠のものと違うようだともいっている。
『西郷氏と応接之記』は三条公の求めに応じて書いたもので、のちに『両雄会心録』と題し、鉄舟自筆の石版本が公刊されているから間違いない。だからそれを読めば事実の経過は明瞭である」・・・山岡鉄舟28ペ-ジ

大森先生はこのように「両雄会心録」が鉄舟によって書かれた西郷隆盛との会見・交渉内容であると断定している。そこでこの「両雄会心録」を少し紹介してみたい。

「旧主徳川慶喜儀は、恭順謹慎、朝廷に対し公正無二の赤心にて、譜代家士等に示すに恭順謹慎の趣旨を厳守すべきを以てす、若し不軌の事を計る者あらば、予に刃するが如しと達したり、故に余、旧主に述るに、今日切迫の時勢恭順の趣旨は如何なる考に出候哉と問う、旧主示すには予は朝廷に対し公正無二の赤心を以て謹慎すといえども、朝敵の命下りし上は、とても予が生命を全うする事は成まじ、斯く迄衆に悪まれし事、返す返すも嘆かわしき事と、落涙せられたり、・・・・・」・・・山岡鉄舟207ペ-ジ

この「両雄会心録」の内容をみれば、鉄舟が慶喜から直接指示を受けるために、寛永寺に御在所に行き、対面し、将軍より直接指示を受けたことは明白となる。

しかし、多くの学者は「鉄舟が慶喜から指示を受けた」とは、明示していない。学者によっては鉄舟の業績を無視する見解、海舟の使者として駿府に行ったという見解、泥舟の推薦というだけの記述、また、誰が駿府に行くことを決めたのかということが明らかにしない書き方等が多くみられる。

鉄舟は慶喜から直接命を受けて駿府の西郷隆盛のところに交渉に行った、という立場からみて、多くの学者の見解には不満が残るが、これもそれぞれの立場で主張する見解なので、それを否定することはしないが、学者の中にも井上清氏、この人は東京大学教授であった人物であるが、その井上清氏の「日本の歴史20巻・中公文庫」には鉄舟が慶喜の命を受けて、西郷との交渉に向かったと記述されているという。
だが、その書かれた現物を実際に見て確認していないので、ここでは紹介できない。井上清氏の本についていろいろ探しているが手元に入手していないので、この確認は後日となるが、このような見解の学者もいるということである。

今回は鉄舟が誰の指示で最後との会談に向かったのかについて、大森曹玄先生の「山岡鉄舟」からひろってみた。

投稿者 Master : 21:10 | コメント (0)