2013年09月24日

明治天皇の侍従としての鉄舟・・・其の九

明治天皇の侍従としての鉄舟・・・其の九

2012年7月大歌舞伎は、歌舞伎座が二千十三年春まで、建て直しのため閉場されているため、新橋演舞場において「二代目市川猿翁、四代目市川猿之助、九代目市川中車」の襲名披露公演と、五代目市川團子」の初舞台が四日から二十九日まで開催された。

演目は昼の部がスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」であるが、夜の部は何と鉄舟の登場であった。真山青果作「将軍江戸を去る」で、鉄舟を市川中車、慶喜を市川團十郎、泥舟を市川海老蔵という豪華配役である。

中車はご存知のように新市川猿翁の息子である俳優の香川照之で、鉄舟を演ずることの意義を次のように述べている。

「鉄太郎が実在の人物であるということ、映像でも史上の人物を演じる時は、その時代の人間になり切ることを考えました。歌舞伎の舞台で歴史上の人間を演じる。どうなるか楽しみにしています」と。
東京新聞(七月七日 長谷部浩=評論家)によると

「上野寛永寺黒門前、山岡鉄太郎が徳川慶喜に面会を求めてきたために騒然となる。門内に入ることを拒む天野八郎(右近)とのやりとりに緊迫感がある。

大慈院の場では、はじめ慶喜と高橋伊勢守が向かい合う。政治に携わる者の責任感と裸身に戻った将軍の内心の吐露が胸を打つ。中車は裂帛の気合でこの場に加わるが、一本調子にすぎて、慶喜との肚の探り合いが見えてこない。山岡を直情径行に作りすぎている」

確かに鉄舟は直情径行型ではなく、熟慮断行の人間であるから、この評が当っていると思うが、ここで関心を持ちたいのは市川中車の襲名披露公演という記念すべき歌舞伎に、鉄舟が登場していることである。

七月十九日は鉄舟命日で、岐阜県高山市の宗猷寺、ここには鉄舟の父母の墓があり、毎年、高山地区の鉄舟ファンが集まり法要を営み、併せて筆者が記念講演を行っている。

この講演の中で、七月大歌舞伎の演目が「将軍江戸を去る」で、鉄舟を市川中車襲名披露公演していることを伝えると、参加者は皆一様に驚く。

鉄舟が少年時代を過ごした高山、ここには高山の地が持つ独自の何かがあって、それが鉄舟の奥底に入り込み、バックボーンとなって江戸無血開城という偉業につながったと考えているが、そのことに対する認識が高山地区では薄いので、大歌舞伎という舞台、それも襲名披露という記念すべき演目に、鉄舟が取り上げられた位置づけと意味を高山の人達は量りかね、意外間感を持つのである。

まだ十分に鉄舟という人物を高山では認識していないと思われるので、今後、高山の地が鉄舟に与えた要因・影響について深く研究していきたいと、改めて思っている。

今まで明治天皇と鉄舟の関係について、既に今号を含め九回に渡って検討してきたが、ようやく最終場面の入口にたどりついた。

明治天皇が、明治十年頃に見られた「引きこもり・鬱状態」から脱皮し、三十歳頃から意志を積極的に示し始め、明治二十一年(1888)三十六歳頃に示された御真影に描かれたような堂々たる君主となり、明治憲法の精神を尊重する名君として権威を高め、「明治大帝」と尊称されるまでになられたのだが、その過程でどのように鉄舟が関与していたかについて、これから順次背景を分析していきたい。
そのためのストーリーとして、①西郷政権⇒②維新三傑の亀裂⇒③天皇の鬱⇒④御真影の分析⇒⑤西郷、鉄舟、乃木の精神的役割という順序で展開していきたい。

① 西郷政権

まずは西郷政権である。読者は「西郷政権」と書くと意外な感がすると思う。
明治四年(1871)十一月十二日、岩倉全権大使と大久保利通・木戸孝允含む一行四十八人と、留学生五十四人がアメリカに向けて出発した岩倉使節団、この留守を預かったのは太政大臣三条実美と西郷隆盛であった。

三条については「維新後は何も決定せず、能力も欠如しており、実態は酒びたりだった」(明治大帝 飛鳥井雅道)という見解もあり、岩倉使節団が帰国する明治六年九月までの約二年間は、西郷政権とも言うべき政治が行われていたのであるが、西郷政権を説明するためには、西郷の出処進退について少し触れないといけない。

実は、西郷は明治元年九月の会津藩・庄内藩の降伏を受けると、鹿児島に戻ってしまっていた。維新戦争が片付いたので「ここまでこなしつづけるのがわしの役目。あとは皆さんがよろしくやってくれるだろう」という腹だった。

大久保や木戸は「西郷は無責任だ」と非難したが、西郷の「南州翁遺訓」を見ると分かるように「労は一身に引き受け、功は人に譲る」というのが西郷で、利欲の念を徹底した心がけの人物だった。
その西郷を再び東京に呼び戻そうとした背景には、維新後の混乱があった。

その一例が薩摩藩士横山安武(森有礼の兄)の諫死である。横山は集議院徴士として東京に出ていたが、明治三年七月二十六日、時弊十条の非を論じた建白書を竹頭に挟んで、集議院の門扉に掲げ、その場で割腹して果てたほど、当時の政治は混乱していた。

 横山の諫死がなくとも、岩倉、大久保、木戸、三条という政府首脳部としてはあせらざるを得ない。綱紀を粛正し、姿勢を正し、新政の実をあげたいと思っているが、そのためには「何よりも、政府の基礎をかためなければならなく、それには西郷を中央に引き出して政府の一員にする必要がある」と意見が一致、十二月、岩倉と大久保が西郷の出仕を促すために鹿児島へ赴き、西郷と交渉したが難航、欧州視察から帰国した西郷の弟従道の説得で、ようやく廃藩置県等の政治改革のために上京することを承諾し、翌明治四年(1871)二月東京に着いたのである。

いわば、西郷は引きずり出されたのであって、西郷は明治初年時点においては天皇の側近くにはいなかった。

その廃藩置県であるが、明治四年七月九日に木戸孝允の邸で最終会議開かれ、会議は、新政府に対する反抗が必ずおきるであろう、その際どういう処置をとるべきかについて、木戸と大久保の間で大論争が続き結論がつかなかったが、じっと黙って二人の論争を聞いていた西郷が

「事務上の手順がついているならば、暴動がおきたら鎮圧は拙者が引受申す。ご懸念ない。直ちに実行してください」

と発言したことで廃藩置県が決まり、数日後、会議の結果を明治天皇に奏上し、天皇は当時十九歳十カ月という若さからご懸念つよくご心配され、いろいろ御下問されたが、西郷が

「恐れながら吉之助がおりますれば」

という自信に満ちた奉答に天皇はやっと安心したと伝えられ、七月十四日に廃藩置県改革がなされたのである。

この当時の西郷の威信は明治維新成立の中心人物として光り輝き、併せて、清廉潔白の人として一般人からも崇敬されていた。

さて、岩倉使節団の目的は、当初日米修好通商条約の治外法権と輸出入税率の不均等を除去するものであったが、団長の岩倉具視は米国滞在中に、米国と単独に条約を改正することは、返って日本に不利になると判断し、使節団の目的を諸国へ表敬訪問することに変更した。

岩倉全権大使一行は明治六年九月に帰国するまで、アメリカには約八ヶ月も長期滞在し、その後、大西洋を渡り、イギリス(四ヶ月)、フランス(二ヶ月)、ベルギー、オランダ、ドイツ(三週間)、ロシア(二週間)、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア(ウィーン万国博覧会を視察)、スイスの十二カ国に上った。

出発する前、参内した岩倉は、明治天皇に兵事に精励するよう申し上げ、天皇は必ず兵馬の権を「総攬(そうらん)」(掌握し治める)すると答えたが、これは岩倉が天皇に「大元帥」という武人的要素をイメージとして期待していたことがわかるが、そのイメージ形成に重要な役割を演じたのは留守を預かった西郷であった。

つまり、岩倉、大久保、木戸の欧米滞在中に、それまで天皇像イメージ形成にあまり影響力のなかった西郷隆盛が、次第に関係を強めていくのである。

その最初が、岩倉使節団出発直後の明治四年十一月二十一日から二日間、官営の横須賀造船所への行幸である。軍艦で横須賀を往復し、造船所を視察し、二日目は乗馬であって、天皇が陸軍の演習以外で乗馬での行幸は初めてであった。

また、御親兵の訓練を見学するため、日比谷門外の訓練所に乗馬で行幸し、西郷が出迎えたように、西郷が岩倉等の留守政権を主導し始めると、武士を原型とした「大元帥」イメージを強めるような行幸が行われていった。

十二月に西郷が叔父椎原與三次に宛てた手紙の中で、以下のように語っている。

「元来が英邁の質で、極めて壮健であられ、このような天皇は近来では稀であると公卿たちも言っている。天気さえよければ毎日でも馬に乗り、二、三日内には御親兵を一小隊ずつ召されて調練する予定で、今後は隔日に調練をなさるとのことである。大隊を率いて自ら大元帥をつとめられるとの御沙汰があり、なんとも恐れ入る次第で、ありがたいことである」とあり、その書状の最後のまとめとして
「この変革中の大きな成果は、天皇がまったく『尊大の風習』をなくし、君臣が非常に親密な関係になったことである」(明治天皇 伊藤之雄著 ミネルヴァ書房)と述べている。

西郷の書状で注目すべきことは、西郷は重々しい儀式や乗り物・服装で天皇を権威づけるよりも、天皇が質実剛健で実質的な能力からくる威信によって臣下を引きつけ、天皇と臣下の相互の親密な関係を作るべきだと考えていたことである。

そのためにも軍事関係を中心に、軽装で馬に乗って行事に出発することなどは、天皇像形勢に望ましい必要不可欠な必要な行動であり、それは、岩倉や大久保の考えるよりも、もっと形式にこだわらない天皇像であって、明治天皇も西郷の意向に積極的に応じたのである。

このような西郷政権によって、兵部省を廃し、陸軍省と海軍省を創設し、国民の成年男子がすべて兵役につくことを原則とする徴兵制が公布されたという意味は、西郷によって近代日本の軍事制度の大枠がつくりあげられ、天皇のあるべき「大元帥」像をほぼ固められたと言ってよいだろう。

また、その「大元帥」像つくりへの主な具体的行事を並べると、まず、明治五年(1872)一月八日、日比谷陸軍操練所(現・日比谷公園)で陸軍始めに行幸し、翌日は海軍始めで、築地の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)に馬車での行幸。

さらに、この明治五年は、天皇が実際に兵士を指揮する操練が本格化した。天皇は最初は侍従等を兵士に見立てて指揮の練習をしていたが、後には御親兵一小隊を召して実際に指揮したように、数か月で上達した指揮ぶりを発揮している。

この操練時の服装は、冬は上着・ズボン共に濃い紺色の厚手の毛織物、夏は上着・ズボン共に白いリンネル(亜麻で織った薄い織物)であった。

明治天皇服装の変化を見ると、一年八か月前の明治三年(1870)四月の陸軍連合訓練時には、直衣(のうし)を着て袴をはいて馬に乗っていたが、明治四年の操練時には洋装(軍服)となり、五月頃からは皇居内でも政務をみる御座所では洋服を着用し始めた。

明治五年九月には、天皇の陸軍大元帥と、陸軍元帥(この当時は西郷一人のみ)の服制が定められた。いずれも帽子は黒色、上着・ズボンは紺色の洋装で、帽子及び上着袖には金線があり、大元帥は大小各二条、元帥は大二条・小一条、ズボンの金線は大元帥・元帥共に大小一条、ボタンはすべて金色桜花章と決めたが、天皇は大元帥のボタンを金色菊章とし、帽子と上着にさらに金線小一条を加えさせている。

このような服装による大元帥姿を一般民衆に「見える化」し、天皇イメージを決定的にしたのは六大巡幸であった。

一回目の巡幸は、明治五年(1872)五月二十三日、明治天皇は騎馬で皇居を出発、品川沖に停泊する旗艦龍驤(りゅうじょう)*に乗船、供俸するのは西郷と弟従道等七十余人による近畿、中国、四国、九州巡幸である。以後、九年に東北、十一年に北陸、東海道、十三年には中央道、十四年は東北、北海道、十八年は山陽道と、明治十年代を通じて、それぞれ一、二カ月かけた大巡幸を六回行っている。

当時の陸軍省提出の全国要地巡幸の建議では、巡幸の持つ特殊な意義を次のように説いている。

「中世以降、天下の政治は武門が掌握し、天皇は御所の壁の内に封じ込められた。この度の巡幸は、新しい時代の幕開けを宣するものとなるだろう。天皇は日本全国を巡幸し、地理、形勢、人民、風土を視察することになる。これまで天皇に巡幸の機会を作らなかったことは、重大なる過失と言わなければならない。しかし、この過失は今こそ正されるべきである。沿海巡覧によって、天皇は大阪、兵庫、下関、長崎、鹿児島、函館、新潟その他、民衆が暮らしを立てている所、また要衝の地を親しく叡覧することになる。この巡幸は、今後全国を治める方策を立てる上で天皇に資するところ大である。残念ながら、僻地の村々においては未だ朝意の目指すところに無知な民衆が多く、これは王化があまねく行き渡っていないことを示すものである。もし、手をこまぬいてこの機を失えば、国の将来に対する不安はますます全国に拡がり、開化進歩の障害となること測り知れないものがある」と。(明治天皇紀・明治天皇 ドナルド・キーン)

この頃、天皇に対する世間の反応は、殆どの平民は関心を持たなかったと「天皇の肖像・多木浩二著」が次のように記している。

「『東京日日』に掲載された岸田吟香による随行の記録『東北御巡幸記』には、一方では奉迎する人々を記述するとともに、鳳輦が通っていくにもかかわらず、泥のなかに足を投げ出して腰かけたままの農夫や娘たち、裸の赤ん坊に乳を飲ませている女性なども描いていて、天皇に全く無関心な人々が存在したことを物語っている。その人びとには天皇を畏怖する感情は全くなかった」(天皇の肖像・多木浩二)

しかし一方、大阪では夜十時に本願寺津村別院の行(あん)在所(ざいしょ)*に到着した時には、市民たちが軒灯を掲げ、街灯をつけて天皇奉迎の意を表し、市民たちは拍手と万歳を唱えた。

この万歳を唱えたとの記録は明治天皇紀によるものだが、次のように但し書きあるので参考までに紹介したい。

「近世万歳と唱ふること、明治二十二年憲法発布の際に始まると云はる、是の日、大阪市民の万歳を唱えしこと、当時の記録によりて之れを記せるが、果たして万歳と発声せしか、或は往々本邦及び支那の古典に見えたる呼万歳の文字を用ゐて歓喜の状を形容せしに止まるか、未だ明らかならず、尚明治三年九月公布の天長節海軍礼式にも、午前十一時に皆甲板上に列し、位を正ふし、万歳を唱ふの文あり」(明治天皇 ドナルド・キーン)

いずれにしても、この巡幸期間中において、明治天皇は西郷と毎日顔をあわせているうちに、西郷の人物像がさらに分かってきて、結果として西郷が持つ人間性にひかれていったのは無理からぬことで、天皇の「武士的変化」は西郷の個性によるところが大であることは間違いない。

その一片を語るのは天皇より二歳年長と年齢の近い、親しかった公卿の西園寺公望の次の回想である。

「天皇が落馬して痛いと言った時、西郷は、どんな事があっても痛いなどとはおっしゃってはいけませんとたしなめたという」(明治天皇 伊藤之雄)

西郷について晩年まで天皇がよく語った逸話がある。

「六月十七日。午後四時に長崎港にはいる予定だった軍艦が、ともの三艦は無事入港できたのに、港の近くにきて、お召艦龍驤だけが立ち往生して二時間近くもうごかなくなった。へいぜいは、喜怒哀楽をちっとも顔にあらわさぬ西郷が、この時ばかりは、顔を真っ赤にし、どんぐりのような目をむいて、

『よりによってお召艦の入港をおくらせるとはけしからん。お上に対して申しわけないではないか』

と、たいへんな剣幕でどなりつけた。

艦長の伊東祐麿大佐(のちの黄海海戦の祐亨元帥)は、おびえきって一言も出し得ず、海軍少輔(次官)の河村純義が、

『いいえ、いえ。それは、いいえ』

と、取りなし顔に、さかんに手をふって言いわけをしようとするが、うろたえて言葉をなさない。

『いいえじゃわからん。どうしたんだ』

と、第二のかみなりが脳天の上からおちてきた。

じっさいは長崎港が浅いのに、龍驤艦は吃水が深い。海軍で潮時をはかりそこね、入港の時が引き潮にさしかかったのだ。それがわかり、別に大した手落ちでもないので、西郷も怒喝をおさめたが、一時はみんなどういう事になるかと、気をもんだ。

日ごろ柔和な公卿や女官ばかりにかしずかれておられた天皇には、これがまことの『男の怒り』の初印象だった。世のなかには、こうも激烈な感情があるものかと、びっくりせずにはおられぬほどだった。

しかしその怒りの底には、天皇に対する心からの敬虔と、誠実があふれている。しかも事情がわかると、すぐ機嫌をなおしたのは、しんねりむっつりしている公卿には、まったく見られない磊落な態度だった。

『これが世にいう英雄の心事というものか』

という気が天皇にはしたのだ。

『あの時の西郷のかんしゃく玉ときたら、たいへんなものだったぞ』

と、これは晩年まで、よく臣僚たちの陪食の席で出た話である」(明治天皇 木村毅)

このように西郷に対する明治天皇の信頼は厚く、その西郷の推薦で鉄舟が明治五年に侍従となったのだが、西郷と同じく鉄舟も天皇から絶対の信頼を得る大事件が、まだ岩倉使節団が帰国しない明治六年五月五日に発生した。

それは皇居の火事である。この火事によって元紀州藩邸の赤坂離宮が仮皇居となったが、同様にこの火事を契機として、鉄舟は赤坂離宮門直前に位置する元紀州藩家老屋敷跡に住むことになり、さらに明治天皇の身近で侍従職を全うすることになるが、その経緯は次号に続く。

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2013年08月26日

明治天皇の侍従としての鉄舟・・・其の八

明治天皇の侍従としての鉄舟・・・其の八
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

このところ明治天皇に関して固い内容でお伝えしてきたので、今回は少し毛色の変わった刺青についてふれてみたい。
大阪市では2012年2月、児童福祉施設の男性職員が、子どもたちに腕の入れ墨を見せて威嚇していたことが発覚した。

橋下徹市長が問題視し、職員約3万4千人を対象に調査を実施した結果、113人が「入れ墨をしている」と申告し、そのうち98人が頭部や手足など「見えやすい部位に入れ墨がある」と回答した。 局別では環境局が75人で最多で、業種別にみると現業部門が107人だった。どうして、現業部門にはこれほど入れ墨職員が多いのか。

大阪在住の財界人はこう話す。「今回、問題となっている現業部門ですが、その根っこの部分には共通の原因が潜んでいます。それは反社会的勢力との密接なつながりです」と。
つまり、ヤクザなどの反社会的勢力と、つながりのある市職員がいるということを示唆している。

大阪で入れ墨(刺青)が多いということについては、時代は遡る131年前の明治14年(1881)12月27日の東京日々新聞で、既に以下の報道がなされている。(異史・明治天皇伝 飯沢匡著)
「英国両皇孫が刺青遊ばされ、大阪では刺青大流行で彫師多忙」
と見出しがあり、本文記事は
「さきに英国両皇孫殿下の花繍(ほりもの)(入れ墨)せられし事を聞き及び、文明国の王族さまがなさることだ、身体髪膚を毀傷せぬなどの、近い国の唐人の寝言は聞くにはおよばぬ抔(など)と、国に禁令のあるをもかまはず、大坂の下等(かとう)勇み連は同府下西町の彫徳、宗右衛門町の彫市、難波新地の彫安、天満川崎の彫政などといふ昔時名を得し花繍師の方へ押しかけ、仮令(たとえ)、御法度でも開明の真似ならわるくはあるまいと、無法を云いて頼みに来る者多しと、よしや文明国のする事なりとも、是らは真似ずもあれかし、殊に法のゆるさざるものをや 」

この新聞記事に書かれた「下等勇み連」の「下等」について、飯沢匡氏が「私の幼童のころは二言目にはこの『下等な』がお叱言となって私の耳に届いたものであった。『下等な言葉』『下等な行い』『下等なふるまい』等々。してはならないことの上には必ずこの『下等』がついたのであった」と解説している。

この飯沢匡氏見解を受け入れ、前述の大阪在住の財界人の発言と併せて考えれば、大阪に入れ墨が多いのは頷け、大阪市職員も同じ類と想定でき、明治以来の背景が今日まで伝わっているのではないかと推測している次第である。

さて、東京日々新聞の記事は、明治14年来日した英国皇太子(のちの英国国王エドワード七世)の第一王子アルバート・ヴィクター親王と、第二王子ジョージ親王(のちのジョージ五世=映画「英国王のスピーチ」のジョージ六世の父)のことである。

両王子来日前にロンドンの駐英日本大使から「最高の刺青師を用意されたし」と打電あり、何かの間違いではないかと再度返電し、やっと真意が判って大騒ぎしたという話が残っているが、「彫物師は約三時間かけ、腕一杯に身をくねらせる赤と青で描かれた一匹の大きな竜を彫った」(明治天皇 ドナルド・キーン著)とあるように、二人の王子が刺青をしたのは事実である。

ここで大阪市の職員がしている「入れ墨」と、英国両皇孫がした「刺青」という二つの用語を使い分けていることを説明したい。

「入れ墨」とは江戸時代に前科者の意味で身体に針を使って刺し、そこに墨を入れ、痕跡を残すことから使われている。一方の「刺青」とは、人類学的にいうと「身体変工」の部類に入るのであって、これは全く自らの肉体に墨を入れ装飾するものであって、「墨」を皮膚の下に入れると青く見えることから「刺青」と称している。

明治三年(1870)には太政官令によって入れ墨刑は廃止となり、明治五年(1872)には同じく太政官令によって入れ墨自体が禁止され、既に入れ墨を入れていた者に対しては警察から鑑札が発行された。だが、禁止令は無きに等しかった。


明治初年に来日した欧米人は、刺青を一種のジャポニズム・日本趣味の美として認め、馬丁に見事な刺青をさせるようになったので、横浜では刺青業が盛況となって、その背景には欧米では刺青は恥ずべきものでないという実態があって、それは今日まで伝わっている。その現象をベアトが写真に撮って残している。(1870年頃のベアト写真)

現在では、昭和二十三年(1948)の新軽犯罪法の公布とともに解かれたので禁止ではない。

ここまでは単に大阪市職員と英国両皇孫の因果関係を推測したまでだが、刺青によって明治天皇が巻き込まれた外交大問題が、十年後の明治二十四年(1891)五月に発生した。

大津事件であって、巡査津田三蔵が、来日していたロシア・ニコライ皇太子(のちの皇帝ニコライ二世)に突如斬り付け怪我をさせた事件である。

明治天皇は直ぐに京都に出向き、ホテルで加療中のニコライ皇太子を見舞いしようとしたが夜間のため断られたので、翌朝、再度、お見舞いと謝罪をホテルに出向き表し、ロシア艦艇で治療するとのことなので、港まで同行して誠意を示し、帰国時には船内で食事を共にして見送った。しかし、この際の日本側は、天皇がそのまま船で拉致されるのではないかという危惧を持ったが、明治天皇は最大の誠意を示すべく船に入られたのである。

この十三年後に日露戦争となるのだが、当時のロシアは世界の大国であり、小国であった日本が大国ロシアの皇太子を負傷させたのである。些細なことで言いがかりをつけ、戦争を仕掛け、植民地支配するということは、当時の列強大国の常套手段であったので、日本国内は、一般庶民の間でも「ロシアが攻めてくるぞ」と大激震が走った。

 学校は謹慎の意を表して休校。神社、寺院、教会は皇太子平癒のための祈祷。吉原はじめ盛り場での鳴り物の禁止。ニコライの元に届けられたお見舞い電報、一万通超。

山形県金山村(現・金山町)では、「津田」の姓及び「三蔵」の命名を禁じる条例を可決した。すべてはロシアの気持ちを静めるためである。当時、二十六歳の女性「畠山勇子」が日本の恥辱として喉を突いて自害したほどであった。

では、何故にロシア皇太子ニコライが来日したのか。ニコライはサンクトペテルブルグ→トリエステ→ボンベイ→セイロン→シンガポール→ジャワ→サイゴン→バンコック→香港→広東→上海という六カ月に渡る船旅を経て長崎に上陸したのだが、それが刺青目的であったというのである。

「ニコライは右腕に竜の刺青をした。彫りあげるのに夜九時から翌朝四時まで七時間かかった」(明治天皇 ドナルド・キーン著)とあり、「長崎市摂津町、野村幸三郎・又三郎の両名は連日、皇太子殿下御乗船に御召入られ両腕に龍の刺文を施されギリシャ親王殿下及士官数名も各右両人に托し刺文せられ皇太子殿下よりは弐拾五円、ギリシャ親王よりは壱円を下賜せられ其他士官二名よりは八円を与えたる由」(長崎県立図書館資料・異史・明治天皇伝 飯沢匡著)とあって、ニコライがギリシャ親王と一緒に刺青をしたのは事実である。

ところで、明治時代における日本の刺青は世界的に評価が高く、明治十四年の英国王子に刺青したのは彫師の彫千代であるが、当時、欧米人の間では彫千代が有名で、当時NYの新聞が「刺青界におけるシェイクスピア」と称賛したという。

この彫千代らが触媒となり、日本の刺青の技は英国に伝えられ、英国社交界では19世紀後半刺青が流行した。中でも明治三十九年(1906)に明治天皇にガーター勲章奉呈のため、英国国王名代で来日したアーサー・コンノート殿下も日本で刺青しているほどである。

刺青目的で来日したニコライ皇太子に斬りつけた大津事件で、明治天皇が大変ご苦労されたことを、大阪市職員の入れ墨問題と絡めてお伝えした次第である。

本題に戻るが、少年天皇として即位した明治天皇は、その存在の非凡さ、それは威厳と慈愛に満ちたイメージを持ちつつ、数多くの国内外の問題と危機に対処した治世によって、当時の日本国民に納得感を与えられ存在になられたわけであるが、しかし、そこまでの過程では「心の修行」を成さねばならなかったいくつかの背景要因が存在していた。

これについて前号で
1.王政復古の実現、
2.父孝明天皇の思想を受け継いでいない、
の二項目を検討したが、今号でも続けたい。

3.誕生する皇子・皇女の相次ぐ死亡と明宮(大正天皇)の虚弱

 先般、三笠宮寛仁(ともひと)様が薨去(こうきょ)された。また、その際に皇室の構成が左のように新聞紙上に掲載された。   

これを見ると寛仁様の皇位継承順位は第六位とあり、悠(ひさ)仁(ひと)様は第三位となっているが、ここでふと疑問を持った。

明治天皇がお生まれになった時は祐宮(さちのみや)であり、九歳になられた時に親王宣下され睦(むつ)仁(ひと)親王となられている。つまり、誕生時点では親王でなかったのである。親王とは皇位継承権を持つ人物のことである。

かつては、天皇の子女の称号として皇子及び皇女が使われていたが、律令制では天皇の子及び兄弟姉妹が親王(女性形「内親王」は令の条文にはない)と改称され、平安時代以降は親王宣下をもって親王とする慣習となり、たとえ天皇の子供であっても親王宣下を受けない限り親王にはなれなかった。

逆に世襲親王家の当主などの皇孫以下の世代に相当する皇族であっても、天皇・上皇の養子・猶子となることで親王宣下を受けて親王となることもあった。

例えば、孝明天皇の祖父に当たる百十九代光格天皇は、下図の系図のように百十八代の後桃園天皇が二十二歳で崩御されたので、六代さかのぼる百十三代東山天皇の弟筋の曾孫(ひまご)で、典(のり)仁(ひと)親王(慶光院)の六男であるにもかかわらず、本家に戻って即位している。

 このような継承が何故になされたのか。それは天皇に皇子が誕生しない、というよりお生まれになっても亡くなられる比率が高く、孝明天皇の父である百二十代仁孝天皇は四十七歳で崩御されるまでに十五人の子供を産ませたが、十二人が三歳までに亡くなり、育ったのは孝明天皇と徳川十四将軍家茂に嫁いだ和宮とほか一人(桂宮を継いだ淑子(すみこ)内親王)にすぎない。

 実は明治天皇も同様であった。明治天皇は十七歳で明治元年(1868)十二月、一条美子・昭憲皇太后と結婚されたが、天皇より三歳年上であった皇后は、子供ができず、典(す)侍(け)から生まれた子供も明治六年の二人は即日死亡、八年生まれの第二皇女は翌年に、十年生まれの第二皇子も翌年に亡くなった。
 
明治十二年(1879)八月に誕生した第三皇子は、明宮(はるのみや)嘉(よし)仁(ひと)親王と命名されたが、虚弱で本当に育つのだろうかという深い心配があった。

 明宮親王については改めてふれたいが、ここで気づくのは誕生と共に親王宣下されていることである。悠仁様も明宮親王と同じく誕生と共に親王宣下されている。

 だが、明治天皇は誕生時点では祐宮であって、親王宣下は九歳のとき睦仁親王になられている。天皇の子供は、それまでは単に皇子・皇女にすぎず、正規に「親王」ないし「内親王」宣下を受けるまで、皇位継承権を主張できなかったのである。

大正天皇である明宮親王のあたりから、皇室の皇子・皇女に対する規定が全面的に改められたのであるが、これは、第一皇子・第二皇子が次々と亡くなり、次の第三皇子の健康に不安があって、新しい制度が導入されたのである。

即ち、皇子は生まれると同時に親王であり、親王としての名前を授かる。ということは育ちさえすれば、皇位継承権を持つということになったわけである。

長々と親王宣下について述べてきたが、ここに明治天皇の大きな悩み、というより国家としての大問題で、天皇から子供が多く誕生しても育たないということは、皇位継承が難しい環境下になることを意味することになる。

明宮親王の健康について「明治天皇紀」は以下のように記されている。誕生二十日余の条に「誕生の際より」として始まるものである。

「嘉仁親王誕生の際より全身に発疹あり、昨(九月)二十三日瘡痂(そうか)(かさ病)消散せるを以て腰湯を奉仕せるが爾後不快なり。(午後皇后が御産所に行啓したが)其の頃より親王腹部に痙攣の発するあり、漸次胸膈を衝逆す、八九時に至りて最も強盛なり、又痰喘のため一層の苦悶あり・・・(『紀』十二年九月二十四日条)」(明治大帝 飛鳥井雅道)

親王の病気の記述は、不思議にも天皇や皇后が皇子を見舞ったり、呼ぼうとしても面会出来なかった時に限って記述される。逆にいえば、身体の状態がよいと思って会う段取りになると、病気が悪化するために記述せざるをえなかったと読んでも、それほど深読みではないだろう。(明治大帝 飛鳥井雅道)

明治天皇の治世期間中、第一子から数えて合計十五人の皇子・皇女が誕生し、五人が成人となられたが、皇子が明宮親王一人であるということは、どう考えても明治天皇は不運すぎた。

          (明治天皇 笠原英彦著)

明治二十二年(1889)発布の「帝国憲法」で天皇は、「国家の元首」「統治権の総攬(そうらん)*者」(統合して一手に掌握する)ことと規定され、政務をとり、陸海軍を統帥する立場としてされたが、果たして明宮親王が憲法に規定された権威に耐え得る身体であるのか、客観的に見て厳しい状況であったが、他に継承すべき皇子はいなかった。

どうしてこのように多くの子供が宮廷で亡くなるのか。

その理由は幼児期の育て方に帰する、と考えられる。明宮親王の御用掛筆頭は、侍従長たる徳大寺実則だが、実質的には天皇の外祖父・中山忠能と嵯峨実愛(明治後に正親町三条から改姓)が実権を握っていて、一時期は中山邸で育てられた。

つまり、明治天皇は自らの後継者である息子の教育を、旧勤皇公家に任せてしまったのであり、医者は漢方医でコンデンス・ミルクを飲ませることも反対したほどだった。

この反省から明治天皇は、明宮親王が結婚し皇孫殿下、即ち昭和天皇であった裕仁親王が明治34年(1901年)に誕生された時は、育て方と教育を一新し、大正天皇をとばして昭和天皇に期待を寄せるというより、昭和天皇にかけたというべき行動が見受けられた。

それが乃木希典を学習院長に任命した背景であり、裕仁親王の教育を乃木に任せたのではないかと考えている。

乃木希典については、明治天皇と鉄舟との関係のまとめで詳しくふれたいが、精神家として西郷⇒鉄舟⇒乃木のラインが明治天皇のバックボーンに深く関与しているのである。

いずれにしても、明治天皇は子供に恵まれなかった。今の時代は不測の事態が起こらない限り、大体子供は両親より長生きするのが一般的であり、明治天皇の事例は現代感覚ではちょっと考えられない境遇であるが、実際に親より早く子供を亡くされた方の悲しみは激しいものがあり、明治天皇はその子供を十人も亡くされているのである。

この状況から、侍従の藤波言忠はついに次のように直言するほどであった。

「只今の向にては、来年頃は又々御葬式の御供つかまつるべし」(明治大帝 飛鳥井雅道)

この指摘を受けるまでもなく、相次ぐ皇子・皇女の誕生後すぐ亡くなるということは、明治天皇の気持ちを暗くさせる最大要因であったが、その一方「国家の中心」として多忙な国事を冷静に勘案し遂行せねばならぬ立場を考えれば、その心中はいかばかりであっただろうか。

天皇とは我々一般人とは別次元の存在である。

そのことを先般薨去された三笠宮寛仁殿下が、櫻井よし子氏との対談で、万世一系を取り上げ述べておられるので紹介したい。(文藝春秋 平成十八年二月号 )

「天皇様というご存在は、神代の神武天皇から百二十五代、連綿として万世一系で続いてきた日本最古のファミリーであり、また神道の祭官長とでも言うべき伝統、さらに和歌などの文化的なものなど、さまざまなものが天皇様を通じて継承されてきたわけです。

 世界に類を見ない日本固有の伝統、それがまさに天皇の存在です。私は天皇制という言葉が好きではありませんから、仮に天子様を戴くシステムと言いますが、その最大の意味は、国にとっての振り子の原点のようなものではないかと考えています。国の形が右へ左へさまざまに揺れ動く、とくに大東亜戦争などでは一回転するほど大きく揺れましたが、

いつもその原点に天子様がいてくださるから国が崩壊しないで、ここまで続いてきたのではないか」
このように皇族が認識していると天皇は、万世一系という重い歴史を背負っている立場である。また、孝明天皇までは国民に「見えない」存在であったものが、明治天皇は新時代となって「見える天皇」となられた。

したがって、明治天皇の心中は、相次ぐ皇子・皇女の死亡という子を失う親としてとの悲しみと、唯一の継承者が持つ虚弱性に悩みつつ、国民には「強い国家元首」としての姿を見せ続けなければならないという乖離・相克に耐え忍ばねばならなかったわけで、その克服のために「心の修行」の必要性を痛感していた。

そこに明治天皇のおそば近くに、大悟を目指して命がけで禅修行中の鉄舟が存在していた意義があった。

因みに三笠宮寛仁殿下が、鉄舟と明治天皇に関しても述べられているので紹介する。(文藝春秋 平成十八年二月号 )

「私は司馬遼太郎さんの本が好きでほとんど読んでいますが、明治天皇のエピソードがたびたび出てきます。

 私が好きな話のひとつに山岡鉄舟が天皇様を相撲で投げ飛ばしたというものがあります。

 山岡は賊軍である幕臣出身ですが、その人柄を見込まれて明治政府に侍従として取り立てられ、天皇様のご養育係をつとめました。

そして天皇様がまだ少年の頃、山岡に相撲を挑んだところ、山岡はいとも簡単に転がしてしまう。わざと負けてあげて『お強いですね』と持ち上げる手もあるのですが、山岡は将来、きちんとした君主に育っていただきたいという心を込めて、あえて投げ飛ばした。

 さすが剣と禅の達人であった山岡です。山岡のような家来がいたことで、明治天皇は偉大な君主になられた。お若き時のよき体験であっただろうと思います」

このエピソード、鉄舟が明治天皇の「心の修行」に与えた影響の重さを物語っていると考える。

次号では、明治天皇が直面した政治的大問題にふれ、そこでも「心の修行」面で鉄舟がかかわっていることをお伝えしたい。

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明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の七

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の七

最初にパリのアンヴァリッドの長州砲について訂正したい。前号でアンヴァリッドに保管されている長州砲二門、その一門が長らく所在場所不明だったので、筆者がアンヴァリットの学芸員と館内を半日かけて探し、軍関係の管理地におかれていることを確認、この大砲を「十八封度礮(ぽんどほう)嘉永七歳次甲(きのえ)寅(とら)季春 於江戸葛飾別墅鋳之(べつしょにおいてこれをいる)」、弾の重さが十八封度礮(約8.2キログラム)とお伝えした。

しかし、以下のアーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新」(坂田誠一訳)」の記述から、長州砲を研究している大阪学院大学の郡司健教授が、大砲の弾の重さは二十四ポンドではないかという疑問を出された。

「第七砲台では、大砲が大きな車輪の砲架に乗ったまま砲座の上に装備され、旋回軸で操作されるようになっていた。砲身は青銅製で、ひじょうに長く、二十四ポンドの記号がついていたが、その実三十二ポンドの弾丸を発射していた。これらの大砲には、一八五四,年に相当する年号が記されていた。江戸で鋳造されたものであることは明らかだった」

そこで、この確認をすべく、下関市立長府博物館の田中洋一学芸員が二千十年九月アンヴァリッドに赴き、筆者が見つけた大砲を調べたところ「二四封度礮・・・」と砲身に刻まれていることを確認、アーネスト・サトウの記述通りの二十四ポンド砲であると確認されたのである。

さて、明治天皇の侍従となった鉄舟は当時、どのような状態であったか。文久三年(1863)十二月末に蟄居処分が宥免され、浅利又七郎義明と立ち合い、見事な完敗を喫し、その後もどうしても浅利に勝てなく、この壁を超えるには「心の修行しかない」と禅修行に没入邁進していた時であった。

侍従になってからの禅修行は、三島の龍択寺に参禅し、星(せい)定(じょう)*和尚についた。当時、宮内省は一と六がつく日が休みだった。そこで十と五の日に夕食をすますと、握り飯を腰に下げて、草鞋(わらじ)がけで歩いて行った。この参禅は三年続いた。(「おれの師匠」小倉鉄樹)

この話を普通の人は嘘だと思うだろう。東京から三島まで三十余里(約120㎞)、途中に箱根越えがある。龍択寺で参禅が終わると、休息する間もなく、また、東京へ引き返す。こんなに歩けるわけがないと、一般の人々は思うだろうが、鉄舟は実際に歩いた。鉄舟の健脚は有名であった。

星定和尚は、三年目に鉄舟に「よし」と初めて許しを与えた。ところが鉄舟は、まだ自分は不十分であると思い、和尚の「よし」に納得せず辞し、箱根に差し掛かった時、ふと山の端から出た富士山を見て、覚(おぼ)えず「はつ!」と、豁然(かつぜん)大悟した。

喜びのあまり、鉄舟は直ちに戻ったら「今日は間違えなく帰って来るだろうと待っていた」という。和尚は鉄舟が大悟のレベルに達し、それを自ら気づくことを見抜いていたのだった。

その際の心境を表したものが次の和歌であり、鉄舟はよく富士山の自画像に書いている。

晴れてよし 曇りてもよし 富士の山
  もとの姿はかはらざりけり

しかし、この三島通いで到達した大悟は、まだ「大道」(人のふみ行うべき正しい道・広辞苑)段階であって、仕上げとなる悟りの境地に達する大悟までには、天竜寺の滴(てき)水(すい)和尚、相国寺の独(どく)園(おん)和尚、円覚寺の洪(こう)川(せん)和尚などについて修行を続け、終に滴水和尚から印可を受けたのが明治十三年(1880)三月三十日であった。

ここに鉄舟の大悟・心地の開拓が完成したのだが、侍従となったタイミングはちょうどこの大悟への過程中であった。

つまり、侍従就任時の年齢が三十七歳、大悟したのが明治十三年の四十五歳、侍従を辞したのが明治十五年(1882)の四十七歳であるから、最も精神的に鍛え上げ、心の完成期を迎えた十年間を、明治天皇のお傍近くで過ごしたことになる。

ということは、明治天皇はこの十年間の鉄舟の修行を身近で見ていたわけで、その観察プロセスの中から、何か重要な意義・価値を受けられたに違いないと容易に推察できる。

ここで侍従とはどのような職務であるのか振り返ってみたい。また、戦前の天皇に仕えていた側近はどのような配置になっていたのかも見てみたい。

明治二十二年(1889)発布の「帝国憲法」で天皇は、「国家の元首」「統治権の総攬(そうらん)者」と規定され、政務をとり、陸海軍を統帥し、側近として元老、内大臣、宮内大臣、侍従長、侍従武官長といういくつかの層が配置されていた。

主として政務にかかわったのは元老と内大臣であり、皇室いっさいの事務につき天皇を輔弼し、華族を監督、皇室令の制定などをつかさどったのは宮内大臣で、陸海軍を統帥する軍務を補佐したのが侍従武官長であり、これは日清戦争を機に設けられた。

戦後の新憲法では、宮内省は廃止され宮内庁となり内閣府に位置づけられ、元老、内大臣、宮内大臣、侍従武官長はなくなり、侍従長のみが戦前と変わらずのこっている。

侍従の制度は「大宝令」、これは四十二代文武(もんむ)天皇時代の大宝1年(701)制定の時から天皇家と共に存在し「常侍規諫(じょうじきかん)、拾遺補闋(しゅいほけつ)*」、つまり「常に天皇の側近にあって、誤りを正し、諌め、過失を補う」のが役目とされ、侍従長とは侍従を監督する長として明治四年(1871)に設けられた。

2012年5月号で紹介した、昭和天皇時代の侍従長であった入江相政著「城の中」(昭和三十四年 中央公論社)に、

「二十何年の間には、御意見と意見が合わなくて、激論になったこともある。陛下も元来非常に大きな声だし、私も決して小さいほうではない。わきで冷静にきいていたら、さだめし相当な騒音だっただろう。私はほとんど遠慮なんかしていない。ずいぶんふてぶてしいやつだとお思いになったろうし、今でもおもっていらっしゃるかもしれない。しかしそういうことがあっても、全くただその場かぎりのことで、後までひっかかりになったようなことは一度もない」

とあるように、侍従とは、常に天皇と親しく接し、遠慮なく天皇に物事を発言できる側近であって、御意見番であり相談相手であるということがわかる。

そのような職務である侍従として鉄舟が、当時二十歳代であった明治天皇の身近に仕えたということは、必然的に天皇は必死に修行している大悟前と、大悟後について、その比較を含め詳しく見つめていたであろう。

人間が大悟するということは、普通人ではなりえない境地であるから、ここで改めての解説と分析は出来ない。したがって、ここは鉄舟の身辺近く内弟子として過ごした小倉鉄樹の言葉を借りたい。

「とにかく。かうして完成せられた後の師匠(鉄舟)は、一段と立派なものになって、實に言語に絶した妙趣が備わったものだ。性来のたいぶつが、磨いて磨き抜かれたのだから、ほかの人の、形式的の印可とはまるでものが違ふ。師匠が稽古場に出て来ると、口を利かずにだゞ座っているだけだが、それでもみんながすばらしく元気になってしまって、宮本武蔵でも荒木又右衛門でも糞喰へといふ勢ひだ。給仕でおれなぞが師匠の傍に居ても、ぼっと頭が空虚になってしまってたゞ颯爽たる英気に溢れるばかりであった。客が来て師匠と話をしてゐると、何時まで経っても帰らない者が多い。甚だしいものになると夜中の二時三時頃までゐた。帰らないのは師匠と話をしてゐると、苦も何もすっかり忘れてしまって、いゝ気持になってしまふものだから、いつか帰るのをも忘れてしまふのである」(「おれの師匠」島津書房)

この小倉鉄樹の語りは、大悟後の鉄舟という人物の豊かさ、素晴らしさを示していて、大悟するということは、具体的にこういう状態になれるものだと判断できるし、鉄舟が本来持っている能力が最大限に発揮されている様子が、正直に素直に伝わってくる。

このような姿であったのだからこそ、明治中期の女の子が路地裏で遊んだ手毬歌で

「下駄はビッコで 着物はボロで 心錦の山岡鉄舟」

と時の民衆の間にまで沁み渡っていたわけである。

であるから、必然的に明治天皇も鉄舟から「何か」を、それは「精神的なもの」であろうが、多くの影響を受けたはずである。

また、践祚(せんそ)(皇嗣が天皇の位を承け継ぐこと)されてから十五年にかけての明治天皇の状況を振り返ってみれば、「心の修行」という精神的な分野に高い関心を持たざるを得ない環境下にあった。

では、明治天皇が「心の修行」を必要とした背景とはどのようなものであったか。それらについていくつかに分けて検討してみたい。

1. 「王政復古」の実現

我々は、明治天皇が歴代天皇と大きく異なる特異性についてしっかり理解しないといけない。それは歴代天皇が考えても見なかった「王政復古」を実現させたことである。

この「王政復古」、もし仮に孝明天皇がご存命であったならば、「倒幕と王政復古を目指す人々の前に立ちはだかり、なおも妨害し続けたなら、維新の実現は極めて難しいことになったに違いない。あるいは、その実現は不可能でさえあったかもしれなかった」(明治天皇 ドナルド・キーン著)とあるが、その通りであろう。

その孝明天皇は、慶応二年(1866)十二月二十五日に、断末魔の苦しみの内に三十五歳という若さで突然崩御された。

先般、三笠宮家の長男、寛仁様がご逝去された。(2012年6月6日)野田首相は「国民と飾ることなく親しく接せられる殿下に、引き続き積極的なご活動を望んでいたところ、思いもむなしく薨去(こうきょ)されましたことは、誠に痛惜の思いに堪えません」と謹話を発表したが、新聞社によっては「亡くなられた」という言葉使いが見られた。

戦前はこういう場合には必ず薨去を用いた。「薨」という字は、皇族に限らず平安時代の「殿上人」即ち「三位」以上の位階を持っていると使えたわけで、天皇の崩御と使い分けられていて、戦前の宮廷記事で誤りを犯すと記者たちの首が飛んだものだが、さすがに野田首相は薨去を使って慎重な配慮である。

ところで、明治天皇の即位の礼が執り行われたのは、慶応四年(1868)八月二十七日である。孝明天皇が崩御されたのは慶応二年十二月二十五日であり、践祚の式は慶応三年(1867)一月九日であったから、天皇即位の礼はかなり遅れている。即位の礼という大規模儀式の前に成されなければならないことが多々あり、加えて国内情勢不安定のためだった。

その成されなければならぬ中で極めて重要なものは、いままでと国体の歴史を変える慶応三年(1867)十二月九日の「王政復古の大号令」である。

家康によって始まった徳川将軍家の系統が終りを告げ、建武中興以来五百余年ぶりに天皇親政が復活したのが「王政復古」で、これを発した日の夜、朝廷内の小御所で天皇出御のもとで開かれた会議の様子は、この当時の明治天皇を分析する上で欠かせない重要なものである。

会議は冒頭、議長格の中山忠能が「王政の基礎」を確定し、「更始一新の経綸」を施すため、公議を尽くすべしと開会を宣し、山内容堂が口火を切った。

「二三の公卿、幼(よう)沖(ちゅう)(幼い)の天子を擁して、権柄を窃取せんと欲するの意あるに非(あら)ざるか。天下の乱(らん)階(かい)(乱の起こるきざし)をつくるものなり」と非難し、徳川家を公平に扱うべきという見解を述べた。

これに対し、岩倉具視は天皇の御前における会議である。言葉を慎まれよ、と次のように容堂を叱責した。

天皇は「不世出の英材」であり、「今日の挙は悉く宸断(しんだん)(天子の裁断)に出(い)ず。妄(みだ)りに幼沖天子を擁し、権柄を窃取せんとの言を作(な)す。何ぞ其れ亡礼の甚だしきや」と応酬して、議論の流れを転換したというエピソードは有名であるが、この会議の間、明治天皇は一言も発言せず、御簾のうしろで聞いていただけであった。

この一言も発しないという意味、それをどのように理解したらよいのか。

①単にまだ十六歳という年齢を理由として考えるか
②それとも御叡慮(えいりょ)として自らの意思を伝える政治的思考力と発言技術が未だしというべきなのか
③または、成人後の治世で一貫して示された「自ら明確な指示はしないという、君主としてわきまえた態度」ということをこの時点で既に発揮したのか

多分、これらが相互重なって密接に影響していたかもしれないが、十六歳という年齢を考慮すれば③という後年に示された態度を、この時点での行動と結びつけるのは少し無理があると考える。③という段階に至って偉大な明治天皇として評価が定まってきたわけで、それには鉄舟を含めた多くの功臣達の影響によって「心の修行」が成された結果であると考えたい。

ここでひとつ面白い、ちょっと考えられないことを紹介したい。この小御所会議の結果、倒幕派の「徳川家の辞官・納地」の主張はこの会議で受け入れられたが、以降も公議政体派の巻き返しは激しく、結局「慶喜の辞官」については「前(さきの)*内大臣」という称号を許すことになり、「納地」にしても朝廷からの命令ではなく、自主的に「政府御用途」に差し出すといった形式がとられることになった。

この間において、徳川慶喜は自ら積極的な外交攻勢をかけてきた。それは、大政奉還に至る自己の正当性を説き明かす文書を朝廷に提出し、外国公使六カ国を大坂城で引見し、依然として日本の外交権の保持者であることを内外に誇示する行動であって、倒幕派はとうとう手詰まりに陥った。

これを打破したのが、西郷の指示による「江戸市中での強盗放火による撹乱」であって、これらの蛮行被害にたまらず、幕府側は薩摩藩邸へ砲撃を行い、これが誘因となって慶応四年一月三日の「鳥羽伏見の戦い」につながったわけであるが、この間にこの危機的状況を茶化すかのような珍事が出来した。

それは孝明天皇の一周忌法要の費用捻出問題である。王政復古の大号令が出され、その夜に徳川家に対する処分について激しい議論がなされた二十日後の十二月二十九日に一周忌法要が無事執り行われたが、実は朝廷にはこの費用を賄う財政力はなかった。

会計事務を司る山陵奉行戸田忠(ただ)至(ゆき)に岩倉は「内大臣徳川慶喜に頼んで都合されればよい」と戸田へ示唆した。驚いたことに慶喜の辞官を要求していたはずの当の岩倉が、慶喜のことを未だに「内大臣」と呼んでいる。

戸田は大坂城に赴き、慶喜に事情を説明し、金「若干万両」の献金を依頼した。戸田にとってはこの時ほど、ばつの悪い思いをしたことは無かったに違いない。大坂城中は、王政復古推進派に対する怒りで渦巻いている。このような時に敵方に渡す金の都合などつくはずもない。慶喜は気が進まなかった。しかし、戸田は何度も訴えるように嘆願した。

ついに慶喜は、勘定奉行に命じて金千両を献じ、残りは京都の代官に命じて幕府直轄領の貢納金から出すことを約束した。

ようやく幕府費用によって、孝明天皇の一周忌法要が滞りなく執り行われたわけであるが、これは幕府と朝廷が鳥羽伏見で火蓋を切るまさに四日前の十二月二十九日であったという際どいタイミングであった。

しかし、ここで顕れたのは慶喜の孝明天皇に対する気持ちである。多分、孝明天皇がご存命ならば、大政奉還するような立場に追い込まれず、まして王政復古や倒幕という「錦の御旗」なぞは考えられないと、慶喜は心中歯ぎしりしていたであろうし、だからこそ孝明天皇の崩御に対する悲しみと苦しみを強く慶喜は持っていたので、自らの立場が厳しく問われているにも関わらず法要費用を献じたのだと推測する。

2. 孝明天皇の思想を受け継いでいない

 孝明天皇は感情が激しく、その気持ちがありのままに顕れている書簡が多く残っている。したがって、孝明天皇の分析はそれほど難しくないと言われている。

 その書簡から明確なことは、既によく知られているように「けがれた夷狄(いてき)(外国人)を一歩でも神国日本に入らせない」という本心からの攘夷思想家であったことである。

この孝明天皇の皇子である明治天皇は、当然のことながら父孝明天皇から教育を受けている。具体的には和歌で、和歌の指導を通じて人間形成と天皇学を授かったはずで、そのことを山岡荘八の「明治天皇」は次のように述べている。

「父の帝が睦仁親王の和歌の指導だけは、おんみずからなされたが、これこそ明治大帝が、父の帝から直接授けられた最も大切な『天皇学――』の一つであったのかも知れない。

大帝もまたそれを敏(さと)*くご感受なされておわしたゆえ、東京遷都の年から『御歌始めの儀』を再興なされて、その伝統は今日に及んでいる。いや、それ以上に、大帝の御生涯に詠じられた御製の総数が、あのご繁忙なご政務の座にあって十万首にも及んでいるという超人的な事実が、何よりもこれを雄弁に語り残している。

おそらく大帝は、その一首一首を詠じられるたびごとに、父の帝を想い、訓えを想うてご反省なされたのではなかろうか・・・。

とにかく明治大帝とそのご生涯の御製と、父の帝のご影響とは切りはなして考えることの出来ない密接な関係をもっている」と。

このように大和民族伝統の詩形であり、神話の昔から人間形成の必須条件として伝承されている和歌を通じ、明治天皇は父である孝明天皇から指導を受けていたのであるから、当然のごとく「孝明天皇の強い意志である攘夷思想」を受け継いでいると思われるだろう。

しかし、これを全く受け継いでいないのである。

慶応二年末に孝明天皇が崩御されたが、翌慶応三年には未だ慶喜は将軍として大坂城にいた。この当時の外交最大課題は孝明天皇が拒否していた兵庫開港であった。

慶喜は「四海同胞一視同仁」(天下の人は兄弟のごときもの、親疎の別なく平等に仁慈を施すべし)の古訓に倣い、新しい治世の始まりにあたって国を一新しなければならない、という上書をもって兵庫開港問題について朝廷説得を何度も試みた。

この結果、さしもの朝廷も、列強の脅威を無視できず、五月二十四日、摂政二条斉敬は慶喜に書を送り、将軍及び諸侯の意見に鑑み、兵庫開港は勅許せざるを得ず、と応えた。

この間の慶喜と朝廷との交渉事に「恐らく年少の明治天皇は、これら朝廷の決断にほとんど、或いは全然関わっていなかった」(明治天皇 ドナルド・キーン著)とあるように、年齢を要因として裁断を下すことが出来なかったという指摘は、裁可をするための「心の修行」が今後必要だということを示唆している。

いずれにしても、兵庫開港勅許は「攘夷ではなく開国」であるから、明治天皇は孝明天皇の思想を受け継いでいないことになる。

次号でも明治天皇が「心の修行」を成さねばならなかったいくつかの事件についてふれて、鉄舟との関わりを検討していきたい。

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2013年06月27日

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の六

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の六
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

鉄舟が明治天皇へどのように影響を与えたのか。

江藤淳氏が、鉄舟は「明治天皇の扶育係であった」と言い、山内昌之東京大学教授が「統治や統帥、知性や教養の全体を覆うバックボーンは、西郷隆盛や、その推輓(すいばん)で侍従となった幕臣、山岡鉄舟の存在に負うところが多い」と述べている。
このように、明治天皇に大きな影響を鉄舟が及ぼしていることは事実と思われるが、それを具体的に検討するためには、明治天皇の何がどう変わったのかについて分析する必要がある。

だが、この分析に入る前に、まず、人は、どのような時、どのような場面で、自らがもつ思想・考え方を変えるのかという事例をいくつかひろってみたい。

最初は、熱烈な攘夷論者であった井上聞多(馨)と伊藤俊輔(博文)が、開国論者へ変化した事例である。

文久三年(1863)長州藩は吉田松陰の意志を継ぐべく、藩士五名をロンドンへ派遣した。
この当時の攘夷論者は、まず、国家を外敵の侵略から守ることに目的をおいていた。これを後に国策となった富国強兵に例えれば「強兵」に重点をおいたわけで、その方法として勤倹尚武を説き、精神的・肉体的鍛錬によって、外国の侵略から日本を守ることが出来る、と考えていた。

ところが、ロンドンに向かう途次、まずは上海に着いて実態を目の当たりにしてみると、井上聞多は早くも開国論者に変わったのである。その井上を薄志だとこき下ろした伊藤俊輔は、ロンドンに着いた途端、開国論者に変化した。

二人を驚かせ、変化させたのは、西洋においては軍事面の発達より、経済面の成長充実であった。この時点で二人は「強兵」富国論者から、「富国」強兵論者に変わったのである。 そのことを井上は「世外侯事歴維新財政談」の中で、次のように回顧している。

「実業を盛んにせにゃならぬという考は、何からと云うと、倫敦の有様を見ても、いろいろな事を聞いても、商工業の発達というものが著しく目に見えている。読んだよりは事実を見て感じがつよくなった。農工商の発達を十分図らぬ以上は、富国強兵・・・強兵は出来るかも知れぬけれども、富国はいくら士族が勇気があって、身命を賭してやったからと云って、食わず飲まずでは行けるもんじゃないと云うのだ。つまり実際から覚えた」

井上、伊藤は外国の実態を見て、富国強兵の背後に経済発展があることを理解し、今までの考え方を急転させたのである。

さらに、翌元治元年(1864)八月の、英仏蘭米四国艦隊下関砲撃の情報をロンドンで入手すると、二人は藩主を説得しないといけないと考え、急遽六月に帰国、藩庁に出頭し、海外の情勢を説き、攘夷が無謀なことと、開国の必要性を訴えた。

しかし、結果として、二人の主張は相手にされず戦争となり、馬関(下関)と彦島の砲台を徹底的に砲撃され、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊し、大砲は勝利捕獲物として持ち去られた。

現在、この大砲の一門はフランスから、下関市立長府博物館に里帰りしている。これは本来戦争勝利記念物であるから、フランス政府は返還しないのが決まりであるところ、直木賞作家の古川薫氏が、昭和五八年(1983)当時の安倍晋太郎外務大臣に働きかけ、長府毛利家に伝わる紫(むらさき)糸(いと)威(おどし)鎧(よろい)をアンヴァリットに貸与して、相互貸与という形で天保十五年(1844)製の長州砲一門を昭和五九年(1984)に戻してもらったのである。

しかし、もう二門が、パリ・セーヌ河畔のナポレオンの墓所として有名な、アンヴァリット(廃兵院)に保管されている。
一門は入口入ったすぐのところに展示されていて、百四十八年過ぎても、世界観なき長州藩攘夷思想が引き起こした事件の傷跡として、世界中の観光客が訪れるパリで格好の見せ物になっている。

しかし、もう一門の方が、長らく所在場所が不明だったので、筆者がアンヴァリットの学芸員と館内を半日かけて探し、軍関係の管理地におかれていることを確認した。
この経緯は二〇〇九年七月号でお伝えしたが、これが「十八封度礮(ぽんどほう)嘉永七歳次甲(きのえ)寅(とら)季春 於江戸葛飾別墅鋳之(べつしょにおいてこれをいる)」であって、弾の重さが十八封度礮(約8.2キログラム)、葛飾別墅、現在の東京都江東区南砂二丁目付近に存在した、当時の長門萩藩(長州藩)松平大膳大夫(毛利家)の屋敷で、佐久間象山の指導のもと、屋敷内で大砲の鋳造を行ったものであることが判明したのである。

ここで大砲製造が佐久間象山であることに注目したい。大砲が製造されたのが嘉永七歳次甲寅(1854)であって、この当時の象山は鎖国攘夷思想であったが、十年後の元治元年(1864)に京都三条木屋町の居宅で暗殺された際には、完全な開国論者に変化していた。

象山は信濃国松代藩士で漢学者・朱子学者として早くから著名で、天保十年(1839)当時は神田お玉ヶ池で象山書院を開いていた。弟子には吉田松陰、勝海舟、河井継之助、坂本龍馬、橋本左内など、幕末・維新に多大な影響を与える精鋭が数多くいた。

象山の思想が天保十一年(1840)頃前後から大きく揺れ動きだしたのは、天保八年(1837)のアメリカ船モリソン号打払事件で、マカオで保護されていた日本人漂流民七人が乗っており、非武装船なのに打払令を実行したことへの疑問に加えて、アヘン戦争の勃発と清国の敗戦であり、国防を図るために西洋砲術を学ぼうと江川英龍門下に入り、海防意見を藩主に建議している。

その建議内容は、このままの攘夷では打払しても必敗する。必敗を必勝にするためには、オランダから戦艦を購入し、水軍軍事訓練強化を図り、その模範事例としてロシアの初代皇帝ピョートル大帝(1682-1725)がオランダから技術導入し、それによって強大国家建設成功の事例を挙げている。

この海防意見は、真田藩主真田幸貫が老中海防掛を退いたことで頓挫したが、返って海外事情を積極的に掌握しようと、オランダ語を二カ月でマスターし原書から学びつつ、理解したのは専門の朱子学と蘭学が矛盾しないということであった。

つまり、東洋の道徳は維持しつつ、西洋の科学を学びとって、国防を強化するという方法に矛盾はない、という考えに至ったちょうどその時に、幕府が漂流民中浜万次郎(ジョン万次郎)を御普請役に引き立てたことを知り、ならば弟子の吉田松陰を外国へと考えたわけで、この時点で象山は「鎖国攘夷」から、外国から科学技術を導入するが鎖国は維持するという「和親攘夷」に転換したのである。

この経緯を証明する川上貞雄氏所有の象山書翰について2011年11号でお伝えしたが、その後に続いた外国との関係、それは嘉永6年(1853)ペリー来航、安政元年(1854)ペリー再来航、安政3年(1856)ハリス下田着任、安政5年(1858)日米修好通商条約調印、万延元年(1860)勝海舟訪米等で、西欧諸国との通商が既定事実化したことの情勢変化を認識し、象山は再び理論と政策再構築に取り掛かり、ついに「和親攘夷」から「和親開国」へと思想転換したのである。

象山という思想家の思索の跡を探ると、あるときは鎖国を主張し、あるときは和親に転じ、あるときは開国に転じ、情勢の急激な展開にともなって、さまざまな変化を示しているが、バックボーンとしての朱子学は貫いている。

ドナルド・キーン氏が「晩年の明治天皇が示した態度を分析すると、幕末時代に佐久間象山が唱えた『東洋の道徳と西洋の科学の結合』が特徴づけられると判じている」と述べているが、象山の思想変化は明治天皇にも関与しているのである。

以上のように、人が変化する場合は、井上聞多と伊藤俊輔のように、実際に現地現場を体験することで、今までの主義主張を急変化させた事例、佐久間象山のように自らの専門領域に情勢・時流変化を取り入れることで、徐々に時間をかけて思想変化をとげていくという事例が見られる。

では、明治天皇はどのようなスタイルで思想変化をしたのであろうか。

それへの回答は「明治天皇には最初から最後まで思想変化はなかった」ということであろうと思っている。

天皇としての進化と、年齢とともに深められた思考力について変化はあったであろうが、井上や伊藤、そして象山のような思想的変化は必要なく、天皇として必須要件のもの、それは変化というものでない別次元となるが、そこに鉄舟が大きな影響を与えたと推測する。

しかし、ここは大事なポイントであるから、鉄舟が侍従として天皇にお仕えした時の精神・心理状態がどのような状況であったか、これを検討してから再度取り上げたい。

鉄舟が明治天皇の侍従であったのは、明治五年(1872)六月十五日から、明治十五年(1882)六月二十五日までの満十年間で、天皇が二十歳から三十歳になられるまでの、人間形成時期として最も大事な年齢時であった。

では、侍従に就任した時の鉄舟は、どのような精神・心理状態であったのか。

それを検討するためには、文久三年四月の清河八郎暗殺事件にまで遡ることが必要で、事件後、責任を追及され、幕府当局によって御役御免の上蟄居処分という状態に陥った。
蟄居とは「自宅の一室に謹慎、外出は許されない」処置であり、木刀・竹刀を構え庭で素振りは許されず、一室にて座って過ごす生活しか認めない処置である。

したがって、座っている目の前には書見台があるだけで、書見台が自分の稽古相手であって、台上には上古時代からの刀剣の歴史、江戸時代以前の古流剣法から続く諸流派教本、甲陽軍鑑などの軍学書、孫子兵法等の兵書、佐藤一斎の言志四録などの学識書、王羲之の十七帖等の書法帖など、明るいうちは書見台に向かい、暗くなると坐禅に入る生活続けることになった。

だが、世間と切り離された日々を送ってみると、改めて気づくことがあった。それは今までに無き経験であるが、自分自身の内部により深く入っていくという感覚である。

これまでの人生でも、思考することになるべく時間を取ってきたつもりだったが、中心には常に剣をおいていたため、その修行の合間に「思考時間」を取り入れたものであった。

しかし、今は違う。静思することしかできない環境下になってみてわかったのだが、改めて自分とは何者なのか、自分の奥底には何が存在しているのだろうか、つまり、自分探しの旅をしているような気がしてならず、これまでとは違う感覚に浸ることができるようになってきた。

蟄居処分が宥免されたのは文久三年十二月末で、二十八歳になっていた。「ありがたい。これで外出ができる」と自由になった喜びを叫ぶと同時に、八ヶ月間の謹慎によって自らの奥底を見つめた鉄舟は「やはり自分には剣だ」と、今後の生き方の中心を改めて定め、その第一歩を踏み出すべく立ち合ったのが浅利又七郎義明であり、結果は見事な完敗、その後もどうしても浅利に勝てない。

浅利を実際に見た人の話によると、晩年であったが、すらりとした痩躯で、巨躯とか、エネルギッシュというような感じは少しもなかったという。

浅利道場での稽古、浅利が木刀を下段に構え、ジリジリと攻めてくる。鉄舟は正眼に構え、浅利の剣尖を抑え押し返そうとするが、少しも応ぜず、盤石の構えで、まるで面前に人無きがごとく、ヒタヒタと押してくる。

既に、浅利道場で鉄舟に敵う者は浅利以外にはいない。そのたった一人の敵手、浅利に、鉄舟の豪気をもってしても、どうしても勝てない。

浅利の下段の構えを崩せず、一歩退き、二歩下がり、ついに羽目板まで追い込まれてしまう。
そこで、再び、立ち合いを所望、元の位置まで戻って木刀を構えるが、またもや同じことで、たちまち追い詰められてしまう。完全に気合負けである。

このようなことを四五回繰り返したあげく、ついに溜まりの畳の上に追い出され、仕切り戸の外まで追いやられ、ピシャリと杉戸を閉めて、浅利は奥へ入ってしまうこともある。手も足も出ないとはこのことである。

昼の浅利道場での稽古を終え、日課としている夜の自宅で座禅、眼を閉じると、たちまちすぐさま浅利がのしかかってくる。圧迫され、心が乱れどうしょうもない。そのことを明治十三年(1880)に記した「剣法と禅理」で次のように語っている。

「是より後、昼は諸人と試合をなし、夜は独り坐して其呼吸を精考す。眼を閉じて専念呼吸を凝(こら)し、想ひ浅利に対するの念に至れば、彼れ忽ち(たちま)余が剣の前に現はれ、恰も(あたか)山に対するが如し。真に当るべからざるものとす」

この大きな山を越え打ち破るためにはどうしたらよいのか。日夜真剣に考え続けてみた結果は「心の修行で立ち合うしかないだろう」ということに気づいたのである。

そこで今までの心を鍛える禅修行を思い起こしてみると、剣に比べ、追究が甘く未だしだったことを、深く自省したのである。

剣の修行は九歳から始めたが、禅修行はそれより遅かった。また、鉄舟の禅修行は何人かの師匠についている。

安政二年(1855)二十歳の時から慶応二年(1866)頃までの約十年間は、芝村(現・川口市)長徳寺の願翁和尚に師事した。

しかし、同和尚が鎌倉・建長寺、続いて慶応三年(1867)に京都・南禅寺の住職として転じたため、西郷との駿府会談時には特定の禅師を持たなかったが、明治二年(1869)頃に京都・天竜寺の滴水和尚による、東京での座禅会に出席したことから、同和尚に一時師事した。

宮内庁に出仕するようになった明治五年からの三年間は、三島の龍択寺星定和尚に師事し、その後、明治十一年(1878)頃から大悟する明治十三年までは、再び滴水和尚に師事したが、この他に相国寺の独園和尚、円覚寺の洪(こう)川(せん)和尚にも教えを受けてきたが、当時の鉄舟は「昼は諸人と試合をなし、夜は独り坐して其呼吸を精考す」(剣法と禅理)という状況であった。

つまり、剣で浅利又七郎に勝つため、心の修行である禅に没入していたタイミングに侍従となったわけである。

禅修行も激しいものであったが、その結果は、必ずや明治天皇に影響していくはず。
次号以下でそれらについてふれたい。


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2013年05月25日

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の五

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の五 
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

慶応三年(一八六七)から明治初年までの明治天皇は、その後の偉大な治世を重ねるために必要な、政策策定と推進の準備期間であったことを、5項目に整理して前号で紹介したが、その補足としていくつか加えたい。

まず、慶応三年十二月九日、王政復古の大号令によって、慶長八年(一六〇三)に家康によって始まった徳川将軍家の系統が終りを告げ、建武中興以来五百余年ぶりに天皇親政が復活したことを、日本駐在の外国使節に対し、翌慶応四年(一八六八)戊辰正月十日(太陽暦一八六八年二月三日)の日付で表明した。

「日本の天皇(エンペラー)は各国の元首および臣民に次の通告をする。将軍徳川慶喜に対し、その請願により政権返上の許可を与えた。今後われわれは国家内外のあらゆる事柄について最高の権能を行使するであろう。したがって天皇の称号が、従来条約締結の際に使用された大君(タイクーン)の称号に取ってかわることになる。外国事務執行のため、諸々の役人が我らによって任命されつつある。条約諸国の代表は、この旨を承知してほしい。」睦仁(印)

この文章は、英国が授受した漢文原文をアーネスト・サトウが訳し、その著書「一外交官の見た明治維新(下)」に記したものだが、この公式外交文書は少年明治天皇による明確な指示で書かれたとは思えなく、当然に明治新政府に関与する政策推進者によって意図されたと理解するのが妥当であろう。

同様に、慶応四年三月十四日の国是五箇条御誓文の発布から、その後に続く諸改革・政策の数々と、生活スタイルの変化は、若き明治天皇に対する教育の意図を含めたものであって、その結果として明治天皇は徐々に近代ヨーロッパ君主のように、国民の前に姿を現す方向に向かっていった。

その一つの変化は天皇に対する尊称変化である。それまでは天皇に対しては「お上」と申し上げていた。だが、明治維新後は公私の文書に「陛下」が尊称として使われだした。

この「陛下」の陛とは中国では宮殿の階段を意味し、そこを家来が戟(ほこ)を持って守っていた。奏上のおり、直接天皇に声掛けるのは畏れ多いとして、この階段の下にいる家来に取り次いでもらうのが例式で「陛下」の尊称が起こり、秦の始皇帝の時に、この尊称は天子を指すものと決められたという。

この「陛下」が維新頃から多く使われだし、「お上」「天子様」と併用されていたが、日露戦争後には「陛下」に定着した。

次の準備は、明治天皇の外見容姿と、所作・挙止の矯正であった。それまでの天皇は、大奥の暮しで身についたと思われる一種独特の歩き方であり、着ている衣装と化粧を施した顔は、一般的に見て少し異形といえ、その指摘は大久保利通などの重臣たちからも、ヨーロッパ人によっても指摘されていた。

例えば、駐日イギリス大使であって、イギリスきっての日本通であるヒュー・コータッツィは「ザ・ファー・イースト」誌の1872年(明治五年)の記事から引用し「まだブーツを履き慣れていないせいか、足取りが幾分おぼつかない」と書き、1873年(明治六年)に天皇を見たブラッシー男爵夫人の「脚は、まるで彼の持ち物ではないかのように見えた。察するに、ふだんあまり使っていなくて、正座していることが多いからだろう」についても引用指摘している。(Victorians in Japan)

もうひとつ重要な指摘事項は、明治初期における一般民衆の天皇に対す理解レベルであった。ほとんどの平民は、天皇に対して何も関心を示さなかったのである。

武門が天下を掌握し、その後の徳川幕府時代を通じ、天皇という存在は幾重にも囲まれた御所奥深く隠された神秘の中に永くあったから、その存在すら民衆には認識されていなかった。

それが、突然、明治維新を期に国民の前に天皇が君主として顕れたわけで、理解されるための対策が急務であって、それが明治五年四月二十八日に布告された中国地方および西国地方への巡幸計画であった。

この巡幸は、やがて天皇が日本全国を回ることにつながったのであるが、それは一般民衆へ天皇が姿を見せる始まりであり、それは後日に達成した「日本国民にとって厳格かつ慈愛に満ちた天皇」というイメージ像へのスタートであった。

最後にもうひとつどうしても述べたいことがある。それは、天皇がその治世で図らずも若さを露呈させたと考えられる事例である。

明治二年(一八六九)一月五日、参与横井平四郎(小楠)が駕籠で退朝の途次、寺町を過ぎた時、凶徒数人が駕籠を襲い、横井は凶刃に倒れた。

横井暗殺の報せが届いた時、天皇は大いに驚き、直ちに使いを横井のもとに遣わし、事の真偽を確かめさせ、負傷した門弟、従僕等に治療手当て、翌日熊本藩主の細川韶邦(よしくに)に横井を手厚く葬るよう命じ、祭資金として特に三百両を賜った。

この明治天皇の敏速かつ心温まる措置は、後年、横井以上に親しい存在だった人達が暗殺された時に見せた天皇の冷静さ、それは個人的な感情は絶対に見せなく、公平無私な態度を貫くことが天皇である、ということを示す行為とはいかにも対照的であって、横井暗殺時の対応は若さがそうさせたと考える。

しかし、横井小楠は偉大な人物であったのは事実で、勝海舟は、維新後にこんなことを言っている。
「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲 だ」「横井の思想を、西郷の手で行われたら、もはやそれまでだと心配して居たに、果たして西郷は出て来たワイ」(勝海舟全集21「氷川清話」講談社)

この横井が何故に暗殺されたのか。捕まった犯人達は以下のように述べている。

「横井は外国人と通じ、キリスト教を日本に流布させようとした軽蔑すべき売国奴である」「暗殺者の一人上田立夫が特に激怒したのは、横井が洋服を着て外国製の帽子をかぶり、築地の外国人地区を散策していたのを目撃したからだった」(明治天皇 ドナルド・キーン著 新潮社)

言うまでもなく、横井の意図するところは日本人をキリスト教に改宗させることは全く考えていなかった。もともと横井は熱心な儒学者であった。だが、実学へと転向し、洋学輸入の奨励、すなわち西洋の経済思想、政治思想を取り入れることに気づいた点で、当時の思想家として希有の存在だった。

「横井にとってキリスト教は、いわば実用主義ないしは合理主義を支える倫理のようなものだった。西洋の科学技術ならびに経済力と、キリスト教との間に密接な関係があることを見出した点で、横井は後年の日本の思想家より洞察力に富んでいた。つまり横井は、近代性とその裏にひそむ倫理との関係を理解したのである」「横井は、普遍的な平和と友愛の観念を説くまでに至り、一種の『一つの世界』説を提起したのである」(ドナルド・キーン)

徳川時代末期に生きた武士達は、いずれも儒教の教育を受けていた。横井もそうであった。しかし、暗殺犯の儒教と、横井の儒教では、時代の動き変化を理解し、取り入れたかどうかに、その差があった。儒教を狭く考えるか、広く考えるかということに通じ、それが横井暗殺犯の処刑が、一年十カ月後になされた背景にもつながっていた。

暗殺犯は福岡藩邸に監禁されたが、暗殺犯はやがて、藩邸内で同情の対象となった。福岡藩主は下手人に寛大な処置がとられるよう請願し、他にも藩邸内で特赦を嘆願する者が多かった。

これは明らかに明治新政府の開化された外観とは裏腹に、昔ながらの外国人嫌いが根強く残っていることを示したもので、儒教精神を持った国民が、世界に視野を広げることが如何に難しいという実態を顕していると判断できる。

この横井を師としたのが元田永孚であって、明治四年(一八七二)五月、明治天皇の侍読に就いたのである。

元田の侍読は、大久保利通の強い推薦によって決定した。当時、天皇の新しい侍読を探していた大久保は、元田の書いた建白書を見る機会があった。この建白書は、熊本県藩知事の意見として朝廷に提出された草案文であった。

「維新に際して天子のお膝もとで凶徒が暴威をむさぼるのは、すなわち朝廷の威光が発揮されていないからである。朝廷の威光が発揮されないのは、王政が実際に行われていないからである。願わくば今後は、天皇陛下が南殿(紫宸殿)に臨席し、その御前で諸大名が奏議し、その公儀を採用して天皇自ら裁断を下すならば、公明正大の政治が行われ、人心も始めて感服することになるだろう。地方に中央の政治教化が及ばないのは、地方官に人を得ていないからである。適宜人材を登用し、広く全国に政治教化を徹底させるべきである。自分のように世襲で地位を得た知事は排除されなければならない。よって、自分はここに謹んで罷免を請願する」

元田の提言の一つは、立法に関する議論は天皇の前で行い、天皇が裁断すべきというものであり、その後の明治天皇が閣議その他多くの会議に熱心に顔を出したのは、元田の感化によるものではないかと思われる。もう一つの提言要旨は、要職官吏の世襲はやめるべきという、この当時では思いきった意見であって、この建白書が大久保のところに渡って、大久保は熊本県知事に元田の人物像を問いただしたのである。

答えは「果たして元田がその任に適するかどうかはわからない。しかし、その人物は間違いなく保証する」であり、この推挙によって元田が侍読に就任したのである。

この元田永孚に対する明治天皇の信任は厚く、政府の重臣達も元田のことは無条件に認めていた。推薦者である大久保利通は、めったに他人をほめないが「この人さえ君側に居れば安心だ」と言い、副島種臣は「君徳の大を成すに一番功労のあったのは元田先生である。明治第一の功臣には先ず先生を推さねばならん」と言った。(ドナルド・キーン)

この元田が最もよく知られているのは明治二十三年(1890)、「教育勅語」の作成に関与したことであるが、その教育勅語の第一次草案を書いたのは中村正直(敬宇)である。

中村は明治三年(一八七〇)、サミュエル・スマイルズの『Self Help』を『西国立志篇』(別訳名『自助論』)で出版、100万部以上を売り上げ、福澤諭吉の『学問のすすめ』と並ぶ大ベストセラーとなった人物である。

この中村の草案は、ついに陽の目を見ず、次に書かれた元田と井上毅案とが折衷されて教育勅語が完成されたと言われている。

この教育勅語と鉄舟の関係が、巷間、論議されることがある。その理由は、鉄舟が明治二十年(一八八七)に自宅で「武士道講話」を行い、この講和の聴講者に中村正直と井上毅もいて、教育勅語に鉄舟の発想が組み込まれているというものである。この件については後日の課題として検討したいが、元田と鉄舟は明治天皇の侍読と侍従として、お互い十分に理解しあっていただろう。

司馬遼太郎が、明治天皇の好きな人物として「山岡鉄舟、元田永孚、西郷隆盛、乃木希典」(司馬遼太郎対話選集4 近代化の相克)を挙げているように、鉄舟、元田共に信頼厚き関係だったが、侍読とは、天皇の側に仕えて学問を教授する学者のことであり、その職務は明快であるが、侍従という職務は漠然としていてよくわからない。

その上、侍従という立場を経験した人物はほんのごく僅かで、特殊な職業であるから、簡単には侍従について解説できない。

だが、この侍従という職務を検討しないと、江藤淳がいう鉄舟は明治天皇の「扶育係」(勝海舟全集11巻 講談社)であるという実態に辿りつけないだろう。

そこで、侍従を経験した人物の著書から、その職務内容を推定してみたいと思う。

昭和天皇の侍従であった入江相政著として「侍従とパイプ」(昭和三十二年 毎日新聞社)と「城の中」(昭和三十四年 中央公論社)があるので、ここから侍従職とは何をするものかを検討してみたい。

最初に、「侍従とパイプ」に興味深い記述があるので、侍従職検討に直接結びつかないが、巡幸時の宿泊場所について紹介したい。

明治天皇は一般民衆へ姿を見せる目的から巡幸が始まり、昭和天皇は戦後の国民慰撫目的から巡幸がなされたが、その際の宿泊場所はどこであったのか。

「いったい御旅行の時に、陛下が宿屋にお泊りになるということは、戦前にはなかったことである。まだ皇孫さまのころ、したがってごくお小さいころ、修善寺の菊屋にお泊りになったのが、たった一つの例外というのだから」

とあるように昭和天皇は、明治天皇の孫の時、つまり、明治時代に一度だけ宿屋に泊った経験のみであり、ここから推定すると明治天皇も宿屋には泊らなかったと思われる。

では、どこに宿泊されたのか。それを明治神宮発行の「代々木 聖蹟を歩く」から見てみたい。代々木の平成二十四年新年号で、明治十一年(一八七八)九月十五日に新潟県へ巡幸された様子が以下のように記述されている。

「雨の中、地元有志の尽力によって開削された新道を通って、天皇は彌彦神社を目指されました。弥彦行在所(五十嵐邸)は、彌彦神社のすぐ前です。現在、跡地の美しい庭園には記念碑が残されています」

このように宿泊された施設は、その土地の素封家と思われる一般人屋敷や、小学校であり、宿屋には宿泊されていない。現在は、ホテル・旅館が主であるから、昔はとは状況が随分異なっている。 

さて、侍従という職務において、天皇と関わりと思われる記述を拾ってみた。

1.昭和十年の夏のことである。そのころ世間は少し異常であって、皇室に関することで、なにか失言したりすると、すぐ不敬よばわりをされ、そのために地位を失ったりすることがしばしばだった。とろがこの根元のような君側においては言論の自由は徹頭徹尾保たれていた。太平洋戦争中もそれは完全に保たれていて、吉田元総理が憲兵隊につかまったころも(注 昭和20年4月)、われわれは敗戦必至を論じて合ってはばからなかった。(侍従とパイプ)

2.私たちは、陛下とお話をする時にも、なにもそんなに、大袈裟な語法を使いはしない。第一そんな特別な語法が、日本語の、ことに口語にあるわけもないし、それに敬語というものは、さあそれではこれからひとつ使うことにしよう、というような性質のものではないのだから。私はだいたい、私にとって大事な、老先生と話す時のと、あまりかわらない言葉でお話ししている。(侍従とパイプ)

3.昭和十年の暮に、経済視察団がブラジルから帰って来た時、その団長のH氏の進講があった。話がいちおう終わったところで、陛下がいろいろおたずねになったら、H氏は「そんなこというたかてあんた、ブラジルのような広い国では・・・」とやった。つまり土地の広さがけたちがいなので、陛下の御質問のようなことは、ブラジルにおいては問題にならない、というわけなのだが「そんなこというたかてあんた」という天衣無縫の表現の美しさは、陛下もふくめたその一座を強く打ったもので、それゆえに私も今もってその時の楽しさを忘れることができない。こういうことをだんだん考えてくると、敬語法というものよりもっと手前に、あるいはもっと上に、より大切なものがあるわけで、当然のことだが、誠意とか親愛感とかいうものが、満ちあふれていさえすれば、敬語法などというような瑣末な手続は、どうでもいいということになる」(侍従とパイプ)

4.二十何年の間には、御意見と意見が合わなくて、激論になったこともある。陛下も元来非常に大きな声だし、私も決して小さいほうではない。わきで冷静にきいていたら、さだめし相当な騒音だっただろう。私はほとんど遠慮なんかしていない。ずいぶんふてぶてしいやつだとお思いになったろうし、今でもおもっていらっしゃるかもしれない。しかしそういうことがあっても、全くただその場かぎりのことで、後までひっかかりになったようなことは一度もない。(城の中)

これによると侍従とは、特に決まった業務があるわけではないが、常に天皇と親しく接し、遠慮なく天皇に物事を発言できる職務であることがわかる。

それと天皇は、直言を受け入れる度量の大きさをお持ちであったことがわかるが、驚くのは昭和二十年四月時点で、侍従が敗戦必至を唱えていたことである。これの意味するところは、玉音放送の数か月以上前から、ご聖断の覚悟があったことへつながるだろう。

侍従に定まった業務がないことは、鉄舟の内弟子だった小倉鉄樹著「俺の師匠」(島津書房)に、鉄舟が宮内省を辞めた明治十五年五月に

「これで伸々した。宮内省にいたって何の用もないのだ」と述べ、さらに、
「陛下は色々の事についてよく臣下と御議論なされた由であるが、其の折阿諛(あゆ)迎合する者を、お嫌いになり、假令(たとい)どんなにお言ひ負けになっても、それがために其の臣下を遠ざけられるようなことはなかった由に拝聞する」とある。

また、渡辺茂雄著「明治天皇(時事通信社)」では、侍従である高島鞆之助の回想として「天皇の御身辺には、いつも剛健廉直の士風をもって忠勤をはげんだが、中でも山岡鉄太郎のごときは誠忠無比の士で、ことに少年時代から心身を錬磨しているので、躬行(きゅうこう)もって君に善をすすめることを以て臣子の分とこころえ、直言してはばかるところがなかった」とある。

この中で「躬行もって」とあることに注目したい。「躬」は自分でという意味であり、「躬行実践」とも言うが、どんなに立派なことを言っても、実践躬行が伴わなくては人がついて来ないという意味である。

鉄舟がその生涯をかけて追究したのは「剣の道」であって、「剣の道」を通じてその人間の完成である大悟境地に至り、明治二十年の「武士道講話」につながったのであるが、この講和の最初で次のように述べている。

「拙者の武士道は、仏教の理より汲んだことである。それもその教理が真に人間の道を教え尽くされているからで、これらの道を実践躬行する人をすなわち、武士道を守る人というのである」

では、この実践躬行する鉄舟はどのようにして明治天皇を扶育したのか。そのためには明治五年以降の明治天皇治世の分析が必要となる。次号に続く。

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2013年04月26日

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の四

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の四

天皇という存在や制度について、極力ふれないというのが司馬遼太郎の方針であるが、山崎正和との対談では明治天皇をテーマに取り上げ、その中で鉄舟について語っている。(司馬遼太郎対話選集4 近代化の相克)
「あの人(明治天皇)の好きな人は、山岡鉄舟、元田永孚(えいふ)(注 ながざねともいう)、西郷隆盛、乃木希(まれ)典(すけ)で、きらいなのは山県有朋、黒田清隆です。要するに男性的な人物が好きだったようですね」

また、別の講演の中でも次のように語っている。

「山岡鉄舟はミスター幕臣といってよい存在でした。非常に立派な人で、侍の鑑というような感じだった。たいへん自律的な、自分を完全にコントロールできた精神の人です」

 さすがに司馬遼太郎の鉄舟像は正鵠を射ている。

明治天皇と鉄舟の縁は、明治五年(1872)六月に侍従となったことからはじまり「天皇は、多くの賢臣から薫陶を受けている。しかし、統治や統帥、知性や教養の全体を覆うバックボーンは、西郷隆盛や、その推輓(すいばん)で侍従となった幕臣、山岡鉄舟の存在に負うところが多いのではないか」(山内昌之東京大学教授)といわれるように、明治天皇に対する貢献は大きいと思われるが、それを具体的かつ客観的に解説することはかなり難しい。

つぶさに今まで世に出ている鉄舟関連諸資料を検討しても、明治天皇の輝かしい名声に見合う業績に、鉄舟が具体的に関与していたという証拠になるものは少なく、伝説的な逸話が殆どである。

また、2012年2月1日、NHKで放映された「歴史秘話ヒストリア」でも、天皇と相撲をとったことと、アンパンを献上した件が「明治天皇教育」のエピソードとして紹介されていたが、これで明治天皇への貢献が十分説明できたのか、疑問が残る。

したがって、これから展開していく「明治天皇業績への貢献」に関与する鉄舟の検討は、今まで誰もが取り上げていない難しいことへの挑戦であり、それだけに研究アプローチを妥当に採らねばならないと思っている。

そこで、まず、最初は、鉄舟が侍従になる前の明治天皇と、明治五年六月以降の天皇について、その変化を分析してみることからはじめたい。変化の内容を確認することで、明治天皇への鉄舟の関与を検討してみたいからである。

明治五年までの明治天皇については、以下の五項目から検討整理してみる。
① 少年時代の天皇
② 天皇即位
③ 東京への遷都
④ 海外事情の把握
⑤ 侍読、元田永孚の影響

初めは① 少年時代の天皇である。

十五歳で天皇になられた当時について、いくつかの資料から確認してみたい。
最初は、慶応四年(1868)閏四月一日、イギリス全権公使のハリー・パークスを、大坂の東本願寺別院で引見した際のアーネスト・サトウの記述である。

 「ハリー卿が進み出て、イギリス女王の書翰を天皇(ミカド)*に捧げた。天皇は恥ずかしがって、おずおずしているように見えた。そこで山(やま)階宮(しなのみや)の手をわずらわさなければならなかったのだが、この宮の役目は実は天皇からその書翰を受取るにあったのである。また、陛下は自分の述べる言葉が思い出せず、左手の人から一言聞いて、どうやら最初の一節を発音することができた。すると伊藤(注 伊藤博文)は、前もって用意しておいた全部の言葉を翻訳したものを読みあげた」(明治天皇 ドナルド・キーン著 新潮社)

 この明治天皇に対するサトウの描写は、まだ十分に慣れていない状況に直面した少年君主の神経過敏な様子を伝えている。

なお、パークスを謁見した場所は京都御所ではないことに注目したい。明治天皇はそれまで御所以外を体験したのは、幼年時代、蛤御門の変の砲弾を避け、前関白の近衛忠煕によって連れ出された鴨の河原だけであった。

戊辰戦争親征の途とし、大坂に向かったのは三月二十一日、官軍の最高司令官の立場からで、三月二十三日に大坂の東本願寺別院を行在所にした。

この御所を離れた意義は高かった。パークスだけでなく、この当時の政局を動かしている維新の志士たちが拝謁できたからである。御所内に止まっていては古いしきたりが壁となって、謁見は難しかった。

西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允などの維新を担う武士達は、それまで誰も直には天皇に拝謁したことがなかった。伊藤博文のみは通訳という立場から身近に出られたが、その他の中心人物たちは明治天皇を全く知らない。

いったい、新天皇はどういう人物なのか。折角、徳川幕府を倒して新政府をつくったが、天皇の器量によってはおぼつかないことになる。これが維新を進めた当時の中心武士層の最大関心事であった。 

その中で最初に拝謁できたのは大久保利通である。同じ年の四月九日、東本願寺の行在所で明治天皇御前に召された際の日記に次のように書いている。

「余一身の仕合(しあわせ)*、感涙の外これなく候。・・・藩士にては始めての事にて、実は未曾有の事と恐懼(きょうく)奉り候。二字(二時)ごろより・・・大飲に及び相祝し候」(ドナルド・キーン)
大久保は嬉しさのあまり、同藩の仲間と祝杯をあげ

「おい、みんな安心しろ。玉は大した方だ。前途多望な若様でいらっしゃる。浮世絵の殿様のように、ぞろりとしておられるのではと、心配したら大ちがい。色が浅黒く、ずんぐりと肥えて、熊の子のようにたくましくあられる。きたえようで、きっと大物になられる」と述べたという。(明治天皇 木村毅著 文芸春秋)

さらに、横井小楠は、同年五月二十四日に家人に宛てた手紙で、天皇に拝謁した時の印象を次のように記している。

「御容貌は長が御かほ、御色はあさ黒くあらせられ、御声はお(ママ)きく、御せ(背)もすらりとあらせられ候、御気量を申しあげ候へば、十人並にもあらせらるべきか。唯々、並々ならぬ御英相にて、誠に非常の御方、恐悦無限の至に存じ奉り候」(ドナルド・キーン)

サトウの記述は別として、維新の志士達が直に拝謁し「今度の天皇はなかなかおエライぞ」という自己判断をしたことが、その後の新政治を進める上でのエネルギーになったことは間違いない。

その意味で明治天皇は、英邁君主としての素質を少年時代から持っていたといえる。さらに、天皇の記憶力は抜群であった。

「宮中の種々なる儀式、典礼、其他歴史の事実に至るまで、一として御精通遊ばされざる事なく、微々たる者までも一度拝謁を賜ひし者は、決して其名を御忘れ遊ばすと云ふ事がない」と後に海軍中将有地品之允が語っている。

この天皇の記憶力については、昭和天皇も抜群であったと侍従であった入江相政が述べている(城の中 入江相政著 中央公論社)ので、天皇としての素質のひとつだろう。

このように天皇としての素質面では問題なきことが確認されたが、まだ若き時代であり、君主としての天分発揮は当然に後日になる。
 
② 天皇即位

 慶応四年八月二十七日、明治天皇の即位の礼が執り行われた。当初は前年十一月に予定されていたが、国内情勢不安定のため大がかりな式典の挙行を先に延ばしていた。

 この即位礼の儀式の様子は「明治天皇紀」に、ぎっしりつまった活字で五ページ以上にわたり極めて詳細に記述されている。

 ところで、この儀式には古来の伝統にそぐわない新しい試みが成されていた。神祇官判事の福羽美静が建言したものである。それは地球儀を即位の中心に据えることであった。この地球儀は徳川斉昭(水戸烈公)が孝明天皇に献上したものであり、その意図は孝明天皇が世界の大勢に関心をもたれるように仕向けることであったが、この地球儀が即位大礼の中心に据えられたという意義も高い。攘夷思想を排除し、外国との関係強化を、新時代の中心にすることを明確に示したものである。

 また、即位の大礼の前日、天皇と国民との間の絆を強める措置として、天皇の誕生日である九月二十三日を国民の祝日とし「天長節」と定めた。「天長」とは「天長地久」という熟語からで、天地が永久に続くごとく、天皇の長久を願う意味である。

天皇の誕生日を祝日にする歴史としては、すでに宝亀六年(775)に見られたが、この慣例は長年にわたって中断されていたものを復活させたのである。

なお、天長節は、明治六年(1873)に太陽暦が採用されて以来、十一月三日と定められた。

 九月八日には、年号が慶応から明治に改元され「一世一元の制」が定められた。なお、明治元号の出典は前号で述べた通りであるが、これで初めて明治時代という新しい世が正式にスタートしたのであるが、これらの変化について少年天皇が自ら意志を表明し、意図的な指示をしたという記録はない。

③ 東京へ遷都

江戸から東京への名称変更は八月四日に「海内一家東西同視」という配慮から「東の都」として東京が命名されていた。

その東京への遷都は簡単には決まらなかった。理由はいろいろあった。一番の理由は、八月十九日の榎本武揚率いる幕府軍艦脱走であって、東国が鎮圧されていないため時期尚早というもの。

二番目の理由は財政難であった。東京行幸には莫大な費用がかかるが、その手当てがなされていない、とういうより官軍にはお金がなかった。それに加えて、京都市民からの危惧である。京都から東京に正式に遷都されるのではないかという不安で、その心配に対し遷都ではなく行幸であると発表されていた。

しかし、この当時の東京は寂れていた。それをサトウは次のように表現している。
「出入りの商人や商店主がこれまで品物を納めていた諸大名は、今やことごとく国もとへ立ち退いてしまったので、人口も当然減少を免れなかった。江戸は極東(ファーイースト)*の最も立派な都市の一つであったから、それが衰微するというのは悲しいことだった。江戸には立派な公共建築物こそないが、町は海岸に臨み、それに沿って諸大名の遊園地が幾つもあった。城は、素晴らしく大きな濠をめぐらして、巨大な石を積み重ねた堂々たる城壁を構えていた。絵のように美しい松並み木が日陰をつくっており、市の中にも田舎びた所が多く、すべてが偉大という印象を与えていた」(一外交官の見た明治維新・下 アーネスト・サトウ著 岩波文庫)

 東京遷都の発案者である江藤新平は、旧幕府軍艦を恐れて天皇の東幸が延期されれば、新政府は信を内外に失うばかりでなく、将軍と諸大名が去った東京は寂れ果て、江戸市民は主人を奪われたも同然の思いをしており、一日も早い東京行幸が必要だ、という力強い雄弁に加えて、大久保利通の賛成と、岩倉具視の政治的判断があわさって、問題のお金は幸いにも大半を、三井次郎右衛門を始めとする京大阪の富商が請け負ったことから、九月二十日に天皇は東京へ出発した。岩倉具視、中山忠能、伊達宗城、池田章政(岡山藩主)、木戸孝允を筆頭に、供は三千三百余人にのぼった。

 この大掛かりの東京行幸中、天皇はどのような行動を民衆に示したのだろうか。明治天皇紀に記されているいくつか紹介する。

 熱田近くで米を収穫する農民から稲穂を取り寄せ、農民に菓子を賜り、その労をねぎらったり、静岡沿岸では始めて太平洋を見たり、大井川では天皇のために板橋が架けられて渡り、富士山を仰ぎ見て、箱根越えし、東京に入ったのは十月十三日で、最初の休憩は芝高輪で「では、泉岳寺はこのあたりであるな」と赤穂浪士討ち入りに関心を示した。

 天皇を迎えた江戸市民であったが
  上方のゼイ六どもがやってきて、
  トンキョウなどと江戸をなしけり
 と、東京への改称が気にくわない落首を書き  
  上からは明治などというけれど、
  治まる明(おさまるめい)と下からは読む
 と、年号変わりに対する落首など、これが当時の東京市民の気持ちを表していた。

 そこで、十一月四日、天皇は東京行幸の祝いとして東京市民に大量の酒をふるまった。下賜された酒は、約二千九百九十樽で、加えて、各町に錫(すず)瓶子(へいし)(銀製の徳利)とするめが下賜され、市民は二日間にわたって家業を休んで楽しんだ。
 
この振る舞いに対する、漢詩人・大沼枕山の七言絶句である。
「天子遷都寵(ちょう)華(か)ヲ布ク         天子が遷都し寵華を賜った
 東京ノ児女美花ノ如シ          東京の子女は花のごとく美しい
 須(すべから)ク知ルベシ鴨(おう)水(すい)ハ鷗(おう)渡(と)ニ輸スルモ 鴨水が鷗渡に及ばぬことを知って
 多少ノ簪(しん)紳(しん)家ヲ顧ミズ        公家たちは家のことなぞどうでもよくなった
 
「寵華」とは天皇が賜った酒のこと、「鴨水(京都の鴨川)」は今や、京都の公家たちにとって「鷗渡(東京の隅田川)」ほど魅力がなくなり、先祖伝来の京都の家を忘れてしまった、というのである。(ドナルド・キーン)

酒を振る舞うなどの融和策発案は、少年君主には難しいのではないかと思われ、側近たちの考えからであろう。

④ 海外事情の把握

維新の志士達が直に拝謁し「今度の天皇はなかなかおエライぞ」という自己判断をしたことは既にふれた。そうなると天皇の教育への関心が一層高まる。

それまでの教育は、中国や日本の古典の学習、それと馬術である。天皇が乗馬に対する興味に目覚めたのは慶応三年であった。女官に囲まれて育った身体を鍛えるためだったが、以来、天皇は乗馬に憑かれたように熱心になった。これについては後で詳しくふれることになる。

新しい時代の君主たるべき教育として、明治四年(1871)に教科科目に「西国立志伝」の講義が加わった。これはサミュエル・スマイルズの「自助伝」(Self-Help)の翻訳である。

さらに原書講読としてドイツ語を始めるにいたった。講師には独学でドイツ語を学んだ加藤弘之が選ばれた。当時、日本にはドイツ語の教科書はなく、美濃紙に木版刷りでつくった。その挿絵を見られたい。(木村毅著)

これを筆者が訳すると
  ドイツ語授業 第一課
  天皇―日本帝国アカデミー
  ドイツ語 初級用
大学 ナンコウ
江戸 1870年
となるが、このDaigaku Nankόとは、南殿のことではないかと考えられる。つまり、紫宸殿のことであり、紫宸殿とは内裏において天皇元服や立太子、節会などの儀式が行われた正殿のことで南殿、前殿ともいわれる。

なお、江戸をJedイエドと書いてあるのは、当時の外国人が日本人の発声から聞いて、それをローマ字で当てはめていたからで、長崎についてもNangasakiナンガサキと綴っていた時期があったことから分かり、加藤弘之もそれに従ったのであろう。

外国の皇族との交際も行われるようになってきた。明治二年九月、イギリス・ヴィクトリア女王第二王子のエジンバラ公が来日し皇居内で会見された。

さらに、外国事情の入手のひとつとして明治二年十一月、徳川慶喜の弟である水戸藩主の徳川昭武に謁を賜った。一年間のフランス留学から帰国した昭武に、天皇は外国事情を尋ねたのである。昭武の報告は天皇にとって未知のものであった。それ以来、天皇は昭武を頻繁に召している。

これは外国事情の把握であり、明治天皇が自らの意志として行動されたことは、新時代の君主として、攘夷から開国へ踏み切った姿を明確に示している。

⑤ 侍読、元田永孚の影響

 侍読として最も重要な存在である元田永孚は、明治四年五月に初めて天皇の御前に伺候した。既に五十二歳となっていた。

 元田永孚は文政元年(1818)、熊本で生まれ、家系は中流の武士階級で、二十歳になるまで横井小楠など多くの学者に学び、朱子学の学者として、熊本藩主細川護久の侍講として仕えたが、藩重臣の推薦と、三条実美の承認を得て、天皇の侍読に選ばれたのである。

 元田への天皇の信任は厚く、明治天皇に多くの感化を与えたといわれている。特に、晩年の明治天皇が示した態度を分析すると、幕末時代に佐久間象山が唱えた「東洋の道徳と西洋の科学の結合」が特徴づけられると判じているが(ドナルド・キーン)、これは元田からの影響が大きいと思われる。

 この元田については、鉄舟の侍従との関連で次号でもふれたい。何故なら、元田は侍読、鉄舟は侍従、その職務が異なり、侍読は天皇に学問を講義する立場であり、その意味である程度明確な役割であるが、侍従とは何をもって仕える職務なのかよくわからない。そのところを整理しないと鉄舟の明治天皇への貢献検討を進めることが出来ない。

さらに、侍従という立場を経験した人物はほんのごく僅かで、特殊な職業であるから、検討には一工夫の必要があると思っている。次号へ続く。

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明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の三

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の三

慶応から明治へ、一世一元の改元は、明治天皇が即位した慶応四年(1868)八月二十七日の翌月九月八日になされた。この「明治」という出典は「易経」の中に「聖人南面して天下を聴き、明に嚮(むか)いて治む」という言葉の「明」と「治」をとったものである。聖人が南面して政治を聴けば、天下は明るい方向に向かって治まるという意味である。

この元号提案者は松平春嶽(慶永)とも、または、清原(儒学の家柄)、菅原(学者の家系)両家堂上の勘文、これは朝廷の質問に答えて吉凶を占って提出する意見書であるが、その中の二・三の候補から、籤によって選んだともいわれている。いずれにしても、この明治という改元によって封建時代から近代化へ、日本は見事に変換したわけで、改元は大成功であった。

さて、明治天皇がどのような天皇であられたのか。勿論、明治時代の治世者として偉大な業績を遺されたのであるから、その業績の数々を具体的に挙げるのは簡単だろうと思われるが、これが意外と難しい。この難しい理由は後ほどとし、まずは、明治天皇がいかにバランスのとれた君主であったかを三つの側面からお伝えしたい。

最初は人格面である。明治15年(1882)にチャールズ・ランマン(日本公使館勤務)がその著書「Leading Men of Japan」で次のように書いている。

「ヨーロッパの君主や王族の多くと違って、明治天皇は放縦に身をまかせるということがなく、もっぱら精神を教化することに喜びを見出している。知識を求めるにあたって労を惜しまず、個人的不自由も厭わない。まだ若いにも拘らず(注 当時二十歳)、枢密顧問官の会議には頻繁に出席する。(中略)行政部門をよく訪れ、天皇の出席が望ましいあらゆる公務にも常に顔を出す。科学や文学にいそしむ一方で、専門的な研究に毎日数時間をあてるなど自分を厳しく律する習慣を持ち、それに厳格に従っている。性格においては賢明、断固たる決意の持主で、進歩的かつ向上心に燃えている。治世の最初から天皇のまわりには帝国きっての賢い政治的指導者が配され、これが当然のことながら天皇自身の成長にも役立っている。かくして今世紀の日本の王冠は、偉大なる尊敬に値する人物の上に輝いている」続けて「偏見から自由で、国家の繁栄の増進に有益と思われるあらゆるものを外国から採り入れる熱意ある向上心のある持主」と称え、ピョートル大帝に驚くほどよく似ていると明言している。(明治天皇 ドナルド・キーン著 新潮社)

ピョートル大帝(1672~1725)とは、ロシアのツァーリ。スェーデンとの戦争で勝利し、ヨーロッパ大国の地位を確立し、バルト海への出口を獲得、ここに新しい首都サンクトペテルブルグを建設し、国家名称をロシア帝国に昇格させ、ロシアを東方の辺境国家から脱皮させたその功績は大きく「ロシア史はすべてピョートルの改革に帰着し、そしてここから流れ出す」とも評されている人物である。

しかし、ドナルド・キーン氏は同書でランマンに異論を唱える。

「人格の上でこの二人には類似するところなぞ何一つなかった。片や粗暴で残忍とさえ言えるロシアの君主、片や誠実で極めて控えめな日本の君主である」と。

このように人格面ではピョートル大帝を否定しているが、ランマンは国家を近代化へ導いたという業績、その共通性をもって、似ていると評したのであろうと推測する。

次は、明治天皇の文化的素養である。これも外国からの評価から紹介したい。

明治天皇崩御のとき、各国のマスコミは挙げて業績をたたえ、哀悼の意を表しているが、ドイツのアンツァイゲル紙は「日本天皇の詩的宮廷」と題し、歌道に深い教養をお持ちと伝えている。(明治天皇 渡辺茂雄 時事通信社)

「そもそも日本における古来の伝統は、今日のような現代的な社会にあっても、なおその勢力を維持し、『ミカド』の宮廷をして、ミューズ(詩神)の居所たらしめ、天皇の宮廷は、あたかもトルバドール派詩人の時代におけるルネーの宮廷のごとく、いずれもみな詩人にして、詩歌をもって談話するも、廷臣にとっては決して不自然とは思われない・・・」

明治天皇は「幼少よりきわめて健康で活発な少年であり、いじめっこの風貌さえあり、相撲も一番強かった」ので、父君孝明天皇は万一行きすぎることがあっては、という心遣いから六歳の時に「今日から毎日歌をつくるように―――歌はたけき心をなごやかにするものだ」と仰せになり、その時から毎日孝明天皇に歌を差出して添削を受け、孝明天皇崩御後も歌道に励み、その生涯に十万首に及ぶ和歌を詠んでいる。

明治二年(1869)の歌会始第一回では、華族や役人のみの歌であったが、明治七年(1874)には一般国民の歌も募られるようになり、そのうちの優れたものを選歌にするようになったのは明治十二年(1879)からであった。

平成二十四年の歌会始は一月十二日、皇居・宮殿「松の間」で行われた。今年のお題は「岸」で、天皇、皇后両陛下や皇族方のお歌のほか、1万8830首の一般応募(選考対象)から入選した10人の歌が、古式ゆかしい独特の節回しで披露された。天皇陛下のお招きで歌を詠む召人は詩人・小説家の堤清二さんが務めた。

天皇陛下は2011年5月6日に東日本大震災のお見舞いで岩手県を訪れ、ヘリコプターで釜石から宮古まで移動した際に、上空から見た被災地の印象を詠まれ、皇后陛下は、俳句の季語を集めた歳時記に「岸」の項目がないことをとらえ、季節を問わずに、あちこちの岸辺でだれかの帰りを待つ人たちに思いを馳せられたという。

ドイツのアンツァイゲル紙が「日本天皇の詩的宮廷」と述べたのは、このように国民との結びつきを高く評価したのである。

また、明治天皇の和歌について、昭和を代表する二人の歌人が次のように高い評価をしている。まずは、北原白秋である。

「歌聖としての明治天皇は、その御風格において、まことに大空のごとく広大であらせられた。いかにも帝王の御製であり、御歌柄であらせられた」

斎藤茂吉も次のように述べている。
「明治天皇は和歌を好ませたまひ、且つ歌聖にましました。その歌詞の堂々たる、御心のままの直ぐなる、さながらを詠じたまひて、豪(すこし)も巧むことあらせられず、これ御製の特色と拝察したてまつるのである」

これらの発言は、明治天皇の和歌を通じた文化的教養の高さを証明するものであろう。

三つ目の側面は、江藤淳氏が言う「軍服を召した、けいけいたる眼光を光らせる写真」、つまり、前号で紹介したヒュー・コータッツィがいう、エンペラーとはラテン語のエンペラート「軍を率いる者」が語源であるが、それにふさわしい軍人としての一面である。実は、明治天皇は戦争に格別の関心を寄せている。

「天皇は、この戦争(普仏戦争1870年7月~71年5月)に格別の関心を寄せた。陸軍士官だった高島鞆之助は、回想している。天皇は、手元に届いた普仏戦争の戦況報告をつぶさに調べ、両軍が採った戦略について、しきりに侍臣たちに質問を浴びせたものだった、と。高島によれば、この戦争が終って間もなくドイツの軍隊が横浜港に寄稿した際、艦長は天皇に一枚の写真を献上した。それは普仏戦争の写真で、『砲烟天に漲り、殺気大空に満ちて一見血湧き肉踊る物凄さ』を写し出していた。ドイツ海軍士官の艦長は、よろしければ写真について説明いたしましょうか、と申し出た。天皇は直ちに許可を与えた。写真が撮影された日の両軍の戦略はもとより、戦争の結末に到るまで天皇は非常な興味をもって説明に耳を傾け、『龍願殊の外麗しく御聴取りになった』と、高島は書いている」

「天皇は明治五年(1872)四月七日、ドイツ弁理公使から普仏戦争凱旋祝祭の写真の説明を受けている。言うまでもなく、天皇が一外国人をこのような目的で御前に召すなど前例のないことだった」(明治天皇 ドナルド・キーン)

普仏戦争でフランスが敗れたことから、それまで日本陸軍はフランス式を採用していたが、この時以降、日本陸軍はドイツ方式を導入した。明治天皇の普仏戦争に対する情報収集分析結果が影響したと考えるのは容易である。

しかし、践祚されたころは、おはぐろをつけて薄化粧していた少年天皇であったわけで、その変化は国家君主として、軍の統率者として、その適性が十分あることが推測できるであろう。

このように明治天皇は、人格的にも、文化的にも、国家君主としても、バランスのとれた治世者であったことが各方面からの証言で認識できるが、そのような治世を成すには封建時代と一線を画す環境変化が前提要件として必須であった。その必須変化を招いたものは二つの改革、廃藩置県であり、これと同時に成された宮廷改革であった。

廃藩置県について、伊藤博文はその成果を欧米視察団として赴いたサンフランシスコで次のように演説している。

「数百年のあいだ強固に成立していた封建制度が、一発の弾丸も放たず、一滴の血も流さずに、一年のうちにとりはらわれた。世界のどこの国で戦争しないで封建制度を打破したであろうか」と。

確かに、このように大見得きった通りで、廃藩置県によって、個々の領地を治めていた大勢の封建領主を辞めさせ、代わって明治天皇が日本国で唯一の支配者となったわけで、近代国家への大きな道筋をつけたことは間違いない。

しかしながら、天皇の周りの環境変化も同時になされなければ、既にみたようなバランスとれた君主としての地位を、固められなかったことも容易に推測できるし、恐らく、廃藩置県と同じ月(明治四年七月)に断行した宮廷改革の方が、明治天皇にはより一層大きな影響を与えたと判断している。

改革が実行されるまでの宮廷には、数百年来の前例、旧例、古例という仕来たりが横たわっていて、五カ条の御誓文として「旧来の陋習を破る」という基本方針が出されが、宮廷だけは明治維新を成し遂げた功臣達でも、どうしょうもなく困難で、これでは若き明治天皇への教育が進められないと歎いていた。

木戸孝允は日記で、その必要性を何度も書き述べているし、岩倉具視もまた、若き天皇の周囲に適切な相談相手が必要であることを痛感し、岩倉は三条実美に宛てた書簡の中で「君徳」の培養が肝要であることを強調し、今や維新の初めにあたり天皇は年若く経験に乏しい、ゆえに「輔導の任一日も闕(か)くべからず」と述べ、公家、諸侯、徴士の中から篤実謹厳なる者、器識高遠なる者、または、和漢洋の学識ある者を選抜し、天皇の侍臣ないし侍毒に当てるべきであると勧めている。
この状況について、ドナルド・キーンは同書で次のように述べている。

「この時期まで、宮廷に仕えることが出来たのは堂上華族だけだった。古来からの系統を受け継ぎ、もっぱら先例、格式を墨守するのが彼ら堂上華族の身上だった。天皇が私生活を営む大奥もまた同様に、公家出身の女官が取り仕切っていた。その多くは、前の治世から延々と居残っている者たちだった。これら女官たちは融通の利かない保守主義のかたまりで、天皇に対する影響力を駆使してあらゆる変革の機先を制した。

政府重臣は三条実美や岩倉具視のような公家さえこの現状を嘆き、その改革を試みようとしていた。しかし、数百年来の慣習を一朝にして改革することは至難の業だった」

ここに登場したのが西郷隆盛であった。

「廃藩置県実現のため東京に来ていた西郷隆盛は、今こそ改革の時であると決意した。『華奢・柔弱の風ある旧公卿』を排斥し、『剛健・清廉の士』を天皇の側近に据えるべきである、と西郷は考えた。これを木戸孝允、大久保に謀り、さらに三条、岩倉に進言して英断を迫った。七月四日、決定が下された。薩摩藩士吉井友実が宮内大丞に任じられ、宮内省と内廷の改革の責任者となった.」(同書)

 責任者となった吉井友実は、思い切って女官たちを総免職する強硬策をとった。吉井は総免職を申し渡した明治四年八月一日のことを次のように述べている。

 「今朝女官総免職、ひるすぎ皇后御小座敷へ出御、大輔萬里(までの)小路(こうじ)*殿お取り次ぎにて典侍以下新たに任命、中には等を下げられた人もあり・・・右おわりて皇后入御、判任官、命婦、権命婦の分は余書付をわたす。これまで女房の奉書などと、諸大名へ出せし数百年来の女権、ただ一日に打ち消し愉快極まりなし」(明治天皇 渡辺茂雄)

さらに翌年五月、再び宮廷改革が実行された。これで典侍以下女官三十六人―――いままで大奥という牙城のなかに勢威をはっていた連中の大部分は罷免されてしまい、爾来、宮中奥向きのことはすべて皇后のもとに統一されることとなり、何百年かつづいた積弊は一掃されたのである。

この結果は、今後は公家であると士族であるに関わらず侍従に任じられることになり、新たに侍従として選ばれたメンバーは以下の通りであった。

鹿児島藩 高島鞆之助 村田新八
長州藩  有地品之允
越前藩  堤 正誼
熊本藩  米田虎雄
土佐藩  高谷佐兵衛
佐賀藩  島 義勇
旧幕臣  山岡鉄太郎
 
 いよいよ鉄舟の登場であるが、これら選ばれた侍従達が明治天皇に大きな影響を与えたことについて、渡辺茂雄が同書で次のように書いている。

 「いずれも戦場往来のえりぬきかの猛者ばかり、彼らがあたらしく女官や公卿にかわって君側に奉仕することになったのだから、いままでとは月とすっぽんのちがいである。いかに天皇の周辺が、剛毅闊達の気にみちてきたか、およそ想像できよう」と。

 西郷隆盛も宮廷改革について、その成果を叔父椎原與三次に宛て書簡で述べている。
「いろいろ変革が行われた中でも、なにより喜ぶべきことは、天皇ご自身の身辺にかかわることである。これまでは華族でなければ御前に出ることは出来なかったし、たまたま宮内省の官員であっても、士族は御前に出ることは出来なかった。しかし、これらの弊習はとごとく改められ、侍従でさえ士族から召し出されるようになった。公卿、武家、華族の分け隔てなく官員は選ばれることになり、特に士族出身の侍従を天皇は好まれるようで、実に結構なことである。天皇は後宮にいることをひどく嫌われ、朝から晩まで表御殿に出ておられる。和漢洋の学問に励まれ、侍従等と共に会読なされるなど、寸暇もなく修業に打ち込むあまり、服装もこれまでの大名などよりいたって身軽で、勉学の励まれようは人並み以上である。今や天皇は昔日の天皇にあらず、見違えるように意欲的になられたこと、三条、岩倉の両卿でさえ認めている。元来が英邁の質で、極めて壮健であられ、このような天皇は近来では稀であると公卿たちも言っている。天気さえよければ毎日でも馬に乗り、二、三日内には御親兵を一小隊ずつ召されて調練する予定で、今後は隔日に調練をなさるとのことである。大隊を率いて自ら大元帥をつとめられるとの御沙汰があり、なんとも恐れ入る次第で、ありがたいことである」(明治天皇 ドナルド・キーン)

 このように西郷の書簡は、見事な明治天皇の変化を書き述べている。

  また、東京大学の山内昌之教授は「明治天皇がローマ賢帝との共通性」(2011.3.31)の中で、次のように述べている。

「天皇は、多くの賢臣から薫陶を受けている。しかし、統治や統帥、知性や教養の全体を覆うバックボーンは、西郷隆盛や、その推輓(すいばん)*で侍従となった幕臣、山岡鉄舟の存在に負うところが多いのではないか。宮中を女官中心の内裏の雰囲気から変え、西欧のように武芸から学問にまで通じる活動的な青年君主に育てた人物は、まずこの2人であろう」と。

その通りと思うが、山内教授が指摘する明治天皇への鉄舟影響を具体的に述べるためには、明治天皇という立場の分析、それは当然に今上天皇とは大きく異なるわけで、その解説が必要であり、併せて、他の侍従との違いを検討しないと十分な理解が得られないだろう。

なお、2012年2月1日に、NHKは「西郷隆盛と山岡鉄舟の相棒物語」を放映した。

この放映内容になるほどと思い、同番組で鉄舟の業績を「江戸無血開城」と「明治天皇教育」と見做したことには同意するが、それを聴視者に十分納得できるものに編集していたか、という視点からは疑問を感じる。

特に、明治天皇の業績の数々を具体的に挙げ、それと関わる鉄舟について述べることはかなり難しく、簡単にはいかない作業であるが、その壁にNHKもぶち当たったので、今回の中途半端な放映になったと思っている。

しかし、この検討をしないと鉄舟を妥当に理解できないわけで、次号以下でそのところを掘り下げいきたい。

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2013年02月14日

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の二

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

鉄舟が侍従として仕えた明治天皇は、その45年間の在位期間を通じ、偉大な天皇であったことは誰もが否定できない事実であろう。

だが、明治天皇が偉大な治世者になられた背景には、当然のことながら素質に加え、様々な要件が重なっていて、その重要なポイントに鉄舟が関わっているのであるが、それに入る前に天皇について理解しておきたいことがある。

「明治天皇」とは、明治時代の天皇陛下であることは誰でも承知している。だが、「明治天皇」というお名前は、崩御された後の諡号(しごう)であり、同時にこれは元号でもある。

明治天皇の幼名は裕宮(さちのみや)で、お七夜の礼の後に父である孝明天皇によって授けられた。裕宮はのちに親王睦(むつ)仁(ひと)となって、明治天皇が治世期間中御名御璽(ぎょじ)する詔勅には睦仁として押印された。

なお、元号は一人の天皇治世の間に何度か変わるのが普通だったが、現在では一代治世間は同一元号となって、明治元号はその始まりであった。

ところで日本人は、天皇に対して「天皇」とのみ申し上げているのが常識観念であるが、外国では日本人と異なっていることを、まずは紹介したい。

「日本の天皇陛下の場合、明治天皇は睦仁、昭和天皇は裕(ひろ)仁(ひと)です。外国では『ヒロヒト』と呼びますが、日本では全然言いませんね。今の陛下は明仁(あきひと)ですが、日本では絶対に名前を使いません。英国ですと、クィーン・エリザベスといつも名前をつけるのですが、これは面白いです」(ヒュー・コータッツィ 司馬遼太郎対話選集4 文春文庫)

 この指摘通りで、今上天皇に対して日本人は「天皇」としか言わないが、外国では「アキヒト」と発音されているのである。第二次世界大戦をテーマにした外国映画で、昭和天皇を「ヒロヒト」と発言しているのを何回も見て、天皇に失礼ではないかと感じ、どうしてこのような言い方になるのか予てより疑問を持っていたが、考えてみれば米国のオバマ大統領や仏のサルコジ大統領に対しても、日頃は「オバマ」「サルコジ」と名前を言うのが通常であるから「ヒロヒト」発音は当然かもしれない。

 だが、日本人は天皇の名前を発音することはなく、多くの人は知らないのではないかと思う。日本人にとって今上天皇はお一人のみであるから、知らなくて別に問題はないわけであるが。

 天皇に関してもう一つヒュー・コータッツィが同書で指摘している。

「今、世界でエンペラーは日本だけですね。ほかに一人もいません。どうして天皇にエンペラーという言葉を与えたのでしょう。キングでもいい。エンペラーがキングより位が高いと考えたのでしょうか。しかしエンペラーは絶対適当ではないと思います。エンペラーはラテン語のエンペラート、『軍を率いる者』です。日本の天皇はそういうものではありません」

 この通りで、日本の天皇は英語ではEmperorと訳され、現在も続く王朝の中で、Emperorと表記されるのは世界でも日本の天皇だけである。

 どうしてエンペラーと称されるようになったのか。それは幕末時からであろう。親幕府であった仏のロッシュ公使が、徳川将軍に対してエンペラーと称し、外交文書にもエンペラーと書いていた。

明治維新になって日本国として天皇をどのように英語で称するか検討した際、国王・キングにするとエンペラーであった徳川将軍より下位に位置づけられることになってしまうので、天皇はエンペラーと称することにしたと思われると、司馬遼太郎が同書で語っているが、その通りであろうと思っている。

エンペラー・皇帝と国王・キングは、当然だが別呼称であり異なっている。西洋での皇帝の定義は、ナポレオンの時代以後、自称皇帝がでてくるが、本来ローマ帝国の後継国家の長をさし、基本的に皇帝は、神の代理人として、地上の統治権を与えられた者で、王の上位階級にあたる。ですから、皇帝は、王を任命する事ができるのである。

 中国の歴代皇帝は、各地に斉王とか呉王などの王を任命しているし、神聖ローマ帝国内にも、ブルグンド王国、ボヘミア王国などいくつかの王国があった。

いずれにしても日本の天皇はエンペラーと称され、世界で一人しかいないという現実実態となっている。改めて、日本国の特徴を垣間見た気がする。

さて、その睦仁の明治天皇について、前号でお伝えした江藤淳氏の「明治天皇だって、後に軍服をお召しになって、けいけいたる眼光を光らせておられる写真をみれば、どっちかというとプロシャ的な君主の感じがしますけれども、践祚されたころはおはぐろをつけて薄化粧しておられたんです」に対して、読者から「おはぐろをつけて薄化粧していたということは、体が小さいよわよわしい少年だったのか。後年の写真のイメージとは随分異なる」という問い合わせを頂きました。

 この質問は的確な疑問でありますので、まず、これについて検討してみたい。

素直に考えてみて明治天皇が「禁裏の外の世界について何も知らない女官たちの手で育てられ、武器を手にするどころか古式ゆかしい上品な公家の遊びにもっぱらふけっていた一人の皇子が、それも多くは一度も戦闘に参加したことのない歴代天皇の末裔である皇子が、どういうわけで何よりも軍人として、しかも軍服を脱いだ姿ではめったにお目にかかれないような人物として記憶されるようになったのか」(「明治天皇」ドナルド・キーン著)という指摘はその通りである。

 人の一生において成された業績に影響を与える要因は何か。それには前提要件と必要要件があるだろう。前提要件とは個人の素質と、その素質が発揮される環境の二要因である。

必要要件とは幼少時代から少年、成人する過程で受ける教育要因である。その人に合致した適切な教育が成されれば、多くの人は素質を開花させ、所属する組織体で業績を示せるであろう。

 明治天皇の場合も同様で、生まれ持った素質と、宮中の環境が影響しているはずで、西郷隆盛が断行した宮廷改革がなければ、ということは明治維新改革がなければ、明治天皇の優れた英邁な素質は発揮されなかったと思うが、宮廷改革については後述するとして、まず、素質について分析してみたい。

明治天皇の素質について、死後、天皇を知る宮中に関係した人達によって書かれたものを見ると相矛盾するものが多い。

 ある人の回想によれば「明治天皇は幼少時代にきわめて健康で活発な少年であり、いじめっこの風貌さえあり、相撲も一番強かった」という。

 ところが別の人物の回想によれば「幼少時代の天皇が虚弱で病気がちの少年であった」と述べている。さらに、蛤御門の変で初めて大砲の音を聞いて気を失ったという話が語られる一方、山岡荘八は「明治天皇」(講談社)で次のように記述している。

 「砲弾は交交御所内に落下して、親王の御座所も危なくなった。
そこで前関白の近衛忠煕は、親王を奉じて鴨の河原へ難を避けた。
恐らく老近衛は、砲弾におびえて、気もそぞろの親王を想像していたに違いない。
『―――大丈夫でございます。何もおそろしいことはございませぬ』
傍にあって鬨の声に耳を傾げておわす親王をはげました。
と、親王は、
『―――爺、戦とは勇ましいものよのう』
はじめて連れ出された河原の広さに眼を瞠(みは)っておわしたが、やがて武者震いして老近衛に言った。
  『―――爺よ! 匍えや。乗ってこの河を渡って見ようぞ』
 老近衛はついに十二歳の宮を背にして、十間ばかりの川を渡渉させられたと眼を細めて主上にこれを報告した。
 『―――宮はおそれ給うどころか、次第に勇んで来られました。麿の背にあって、ハイドウハイドウと声をかけさせられ・・・まことに豪宕(ごうとう)(注 豪放)、恐れなどは知らぬご気性にございます』」

山岡荘八の「明治天皇」は伝記小説であるから、強いてたくましい男児イメージに仕立て上げているという感じを持つかもしれないので、睦仁親王と一緒に育った乳母の子である木村禎之祐の記述を紹介したい。(「明治天皇の御幼児」太陽臨時増刊 大正元年刊)

「聖上には御勝気に在(ましま)*丈(だ)けいと性急に在(おわ)され、少しく御気に叶はぬことの出来れば、直ちに小さき御拳を固められ、誰にでも打ち給ふが例にて、自分など此御拳を幾何(いくら)頂きたるか数知れず。何分自分は一歳年下のこと故、恐れ多しといふ観念は更になき上に、固(もと)より考への足らぬ勝ちなるより、常(つねづね)に御気に逆らい奉りたること少なからず、其度(そのたび)毎(ごと)*にぽかんぽかんと打たせ給ひたり。」

この木村禎之祐の記述は、明治天皇の親しい遊び相手として仕えた人物であり、自分がげんこつで何度も殴られたという回想であって、このような回想が嘘とは思えず、さらに、明治天皇は父の孝明天皇に似て長身であったことからも、体格には恵まれていたと推察できるので、幼少時代はきわめて健康で活発な少年であるというのが妥当な理解であろう。

人の素質を見抜くためには、その人物が書き残したものを分析するのも有効な方法である。例えば、孝明天皇は多くの書簡を残していて、世の中の動きに敏感だった孝明天皇の激しい怒りに満ちた心情と考え方が理解でき、攘夷に対する姿勢が一貫していることがわかる。

ところが、明治天皇は日記をつけず、手紙も書かないに等しかったので、この文筆から検討することは難しい。さらに、明治天皇の宸筆もほとんど残っていなく、天皇の声がどのようなものであったのかも、明確には分からない。天皇を知る人達の話では、その声が大きいものであったことは分かっても、その声の質までは分からない。

天皇の写真もほとんどなく、公表されたのはせいぜい三、四枚ではないかと思われる。江藤淳氏の言う「明治天皇だって、後に軍服をお召しになって、けいけいたる眼光を光らせておられる写真」は、これは当時広く全国の学校に配布された「御真影」であり、この写真の前で幾世代もの子供たちが最敬礼したのであるが、実はこの写真は明治天皇の実物写真ではなかった。それは肖像画を写真に撮ったものであって、肖像画があまりにも真に迫っていたので、すべての人々は、それを写真と信じたのである。

明治二十一年(1888)、明治天皇三十六歳となられた際、宮内大臣土方久元は外国皇族、貴賓に贈与するために、新しい最近の肖像写真が必要と判断し、印刷局雇のイタリア人画家エドアルド・キョッソーネに、天皇に相応しい肖像画を作成依頼した。

何故なら、伊藤博文が宮内大臣時代、何度も肖像写真の撮影を奏請したが、その都度写真嫌いの天皇に断られていたので、土方はキョッソーネに密に天皇の顔を写生させることにし、一月十四日の弥生社行幸で御陪食のときに、キョッソーネは襖の陰に隠れ、正面の位置から竜顔を仰ぎ、その姿勢、談笑の表情に到るまで細心の注意を払って写生した。

このようにしてキョッソーネが描いた肖像画を気に入った土方は、それを丸木利陽に写真撮影させ、天皇に奉呈するにあたり、事前に許可を得なかったことをお詫びしたが、天皇はこの写真を見て、無言のまま良いとも悪いとも言わなかった。

このときちょうど、某国皇族から天皇の写真贈与の請願があり、土方は天皇にキョッソーネが描いた肖像画写真に署名を求めた。天皇は写真に親署した。これをもって天皇が気に入ったと判断し、それ以後はこの肖像画写真が使われるようになった。(参考 ドナルド・キーン著『明治天皇』新潮社)

唯一残された明治天皇を知る手掛かりは、御製を読む下すことである。明治天皇はその生涯に十万首に及ぶ短歌(和歌)を詠んでいる。実は、和歌の指導は父の孝明天皇が直接に熱心に幼少時代から取り組んでいた。その様子を山岡荘八の「明治天皇」が次のように語り、和歌を通じて人間形成に寄与し、天皇学を授かったと述べている。

「親王が育つにつれて、側近の誰彼の眼にも豪放勇武なご気性と見えてゆくことが、父の帝にずっと和歌のご指導を続けさせる原因になっていたと思う。

和歌は実は、大和民族の伝統の詩形であるというだけではなくて、神話の昔から人間形成の必須条件として伝承されているからだ。

したがって和歌というのは日本の歌という意味だけでではない。
人間に内在する荒(あら)魂(みたま)、和魂(にぎみたま)の、その和魂を言霊(ことだま)の調和によって表現しながら、和の世界にすすもうとする一つの修練なのだ。

言葉の調和を考えられる人間が武に偏する筈がない。人はつねに勇ましい反面に、ものの哀れを味わう和心がなければならない。

それがあってはじめてよい和歌がつくられ、人間のうちなる和魂は育っていく。
和魂のあるところに、にぎやかな庶民の繁栄と発展があると悟った大和民族独特の優雅な伝統なのだ。

父の帝が睦仁親王の和歌の指導だけは、おんみずからなされたのも、決してこの事と無縁でない。
或いはこれこそ明治大帝が、父の帝から直接授けられた最も大切な『天皇学――』の一つであったのかも知れない。

大帝もまたそれを敏(さと)くご感受なされておわしたゆえ、東京遷都の年から『御歌始めの儀』を再興なされて、その伝統は今日に及んでいる。いや、それ以上に、大帝の御生涯に詠じられた御製の総数が、あのご繁忙なご政務の座にあって十万首にも及んでいるという超人的な事実が、何よりもこれを雄弁に語り残している。

おそらく大帝は、その一首一首を詠じられるたびごとに、父の帝を想い、訓えを想うてご反省なされたのではなかろうか・・・。

とにかく明治大帝とそのご生涯の御製と、父の帝のご影響とは切りはなして考えることの出来ない密接な関係をもっている」

 和歌はご承知の通り五七五七七の韻文で、古くは倭歌とも表記され、 漢詩に対する呼称で、やまとうた、あるいは単にうたとも言い、倭詩(わし)ともいった。専門家からは、明治天皇の和歌は「天皇調」といわれ、さらりとして、すこしの滞りもなく、このような歌なら、誰でも作れそうに一応は思えるのだが、さて実践してみると、われわれが逆立ちしてもこうした格調は生まれてこないことがわかるという。

また、苦心のあとが微塵もないのに、その調べは比類なくて、洋々として広く打ちひらけて、国民の誰にでもよくわかるけれども、そのおおらかな歌境はわれらが骨身をけずるように苦心して詠んでみても遠く及ばなく、明治天皇でなくてはそこへ到り着くことができないかと讃嘆せずにはいられないという。

その一つを紹介してみたい。次の御製は「道」と題したもので、明治三十九年の御作である。

   ひろくなり 狭くなりつつ 神代より たえせぬものは 敷島の道

 「道」は広くてそこを通る人が多いときも、また、仏教や儒教に道をけずられて狭くなり、そこを通る人が少なくなることもあったが、神々の御代から一貫して断絶しないもの、これぞ「敷島の道」であると詠んでおられる。さらに、明治天皇は和歌のことを「敷島の道」と申されていたという。「敷島」という言葉の起こりは、欽明天皇が大和の磯城嶋に皇居をさだめられた時だそうである。そこから「しきしまのやまとの国」という言葉が生れ、万葉集では「しきしまの」が「やまと」の枕言葉として何度も出てくる。

はじめは「やまと」という地方の名だったが、やがて日本のくにのことになると同時に、「しきしまの」も日本の枕言葉になっている。

ここまで明治天皇の前提要件としての個人素質と、必要要件である教育要因として孝明天皇自らの和歌指導についてみてきた。

残された内容は前提要件としての環境要因であり、それは西郷隆盛が断行した宮廷改革であるが、紙数の関係で次月としたい。

また、必要要件としての孝明天皇の和歌指導以外の教育要因で、ここに鉄舟が重要な位置づけを占めているのであるが、これも次号以降で述べたい。

なお改めて、ここで再確認しておきたいことがある。

それは明治維新改革によって徳川幕府が倒れたものの、封建制度という社会体制の変革は成されていないということである。

徳川将軍に代わる王政復古が明治維新であって、藩主たちは藩知事として依然として残っていた。つまり、各地方に歴代の封建制度を象徴する為政者がいたわけで、封建制度は撤廃されていなかったのである。

この封建制度撤廃に結びつけたのは廃藩置県という一大改革であり、この宮廷版が西郷による宮廷改革であった。

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2013年01月25日

明治天皇侍従としての鉄舟・・・その一

明治天皇侍従としての鉄舟・・・その一

鉄舟は、西郷隆盛の推薦により、明治五年六月十五日から、明治十五年六月二十五日までの満十年間、侍従として明治天皇に仕えた。天皇が二十歳から三十歳になられるまでの、人間形成時期として最も大事な年齢時であった。

日本の天皇は今上天皇で百二十五代続いている。天皇制度は理屈や権力抗争で成り立ったものでなく、日本という国家構造体質と共に生まれた日本の核としての存在であり、日本が歴史的危機に陥った際に、いくたびも天皇のよって救われているように、天皇は日本の象徴である。

鉄舟が明治天皇の侍従に選任された経緯について、江藤淳氏が次のように解説している。

「天皇というのは元来、お公家さんの総帥ですね。明治天皇だって、後に軍服をお召しになって、けいけいたる眼光を光らせておられる写真をみれば、どっちかというとプロシャ的な君主の感じがしますけれども、践祚されたころはおはぐろをつけて薄化粧しておられたんです。・・・中略・・・
京都の朝廷のほうはどうかというと、古典的な教養はもちろんあります。有識故実とか、敷島の道、その他いろいろあるでしょう。しかし、武張ったことの下地はぜんぜんない。平安朝以来そういうことは北面の武士にやらせて、自分ではやらないたてまえですから。

そこで明治になってから、明治新政府をになった薩長中心の下級武士たちがはたと気がついたことは、天皇をこのままにしておいちゃいかん、天皇がみやびやかな、なよやかなものであってはならない。天皇にはもっと武士的になっていただかなければいけないということだったにちがいない。そこで山岡鉄舟が扶育係になります」(勝海舟全集11巻 講談社)

江藤淳氏は勝海舟評論の「海舟余波」という名著もあり、幕末から明治にかけての史実に大変詳しい文筆家である。その江藤氏が鉄舟を明治天皇の侍従とは表現せずに扶育係と述べている。「扶育」という意味は「世話をして育てること」(広辞苑)であるので、それをそのまま適用し理解すると、鉄舟が明治天皇を育成したことになる。

明治天皇は、その存在の非凡さ、それは威厳と慈愛に満ちたイメージを持ちつつ、数多くの国内外の問題と危機に対処した行為を意味し、そのような治世によって日本国民に納得感を与えられた天皇であられたと認識しているが、これに異論を唱える国民は少ないであろう。

また、明治政府で天皇と共に数々の改革を成し遂げた功臣たちにとっても、明治天皇は常に心の拠り所であったことは疑うべくもない事実であった。

仮に、明治天皇が改革時に逡巡し、ふらつき、浮き上がった軽薄な判断基準を持っていたならば、鎖国から目を覚ましたばかりでありながら、逸早く世界史の中に新たに位置づけられた明治時代の日本という、歴史の一ページは無かったはずである。

その偉大な治世者としての明治天皇の扶育に、鉄舟が重要な貢献を成したこと、これは鉄舟の生涯業績として賞賛すべきものである。

だがしかし、天皇に鉄舟のような武士階級出身の一般民間人が侍従として仕えること、それが明治初年当時、簡単にできたのであろうかという疑問が湧く。何かの大きな改革が断行されなければあり得なかったはずで、今上天皇と明治初年までの天皇では、その位置づけと、取り巻く人々の環境が大きく異なっていたのは事実で、まず、そのあたりを理解しないといけない。

元来、天皇は京都の御所奥深くに座しておられる立場であられ、明治天皇の父であった孝明天皇までの歴代は、古来から伝えられる仕来りを受け継いだ堂上華族によって、もっぱら先例や格式を墨守するだけが公の行事であった。

また、天皇が私生活を営む大奥も同様で、公家出身の女官がすべて取り仕切っていて、これらの女官は融通の利かない保守主義のかたまりで、天皇に対する影響力を駆使し、あらゆる変革の機先を制していた。

その一例であるが、明治天皇が即位された慶応四年(1868)の二月十四日、外国事務総督・伊達宗城はアメリカ・イギリス・フランス・オランダなど6カ国代表者と大坂の西本願寺で会見し、外国事務局を置き外交諸事に対応すると共に、近日中に天皇が各国公使を謁見すると伝え、二月三十日にフランスのレオン・ロッシュ公使、オランダのファン・ポルスブルック総領事が参朝し、紫宸殿で明治天皇との謁見を終えた。

明治天皇が元首として国際的に認識確立されるためには、この謁見行事は必要不可欠な重要なもので国際外交常識であるが、この時の宮廷内は狂ったような一大騒動であった。

即ち、明治天皇の生母である中山慶子(よしこ)を始めとする大奥の女官たちは、明治天皇が外国人と会うなどもってのほかと泣き叫び、且つ激しく抗議した。この当時伊達と同じく外国事務総督であった東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)は、主だった女官を呼び出して説得に努めたのであるが、中山慶子は父親である中山忠(ただ)能(やす)を使って、侍医が天皇の発熱を訴えているということを理由に謁見を延期するよう頼ませた。嘘の診断を主張するほどの激しい抵抗であった。

だが、岩倉具視は別の医者に診断させて、その結果体調に問題なしと結論し、ようやく謁見が予定通り行われたのである。(参照「明治天皇」ドナルド・キーン著)

勿論、このような宮廷内の実態を歎き改革しようと、明治初年に三条実美や岩倉具視のような強力な公家が動いたが、数百年来の慣習を一朝にして改革することはできず、過去の慣習のままで、孝明天皇ご逝去後の明治天皇になっても、宮廷は以前の通りであったから、とうてい公家以外の一般人が侍従という立場にはなれることなどありえなかった。

したがって、この天皇を取り囲む古き慣習の塊、これを破壊しなければ鉄舟の登場もなかったわけで、それを実行するには強烈な改革推進者が必要不可欠であり、その役割を西郷隆盛が成し遂げた経緯は後ほど述べたいが、その前に改革推進には必ず賛成と反対があって、それは両者の外国との接した体験差から発するものだということについて検討解説してみたい。

慶応四年二月三十日の明治天皇による外国公使謁見時の朝廷内で発生した反対運動は、実は外国人に会ったことも、顔を見たこともない、当然に口を交わしたこともない公家集団、まして孝明天皇が徹底した外国嫌いであった経緯もあって、強烈な反対運動が発生したのである。

しかし、当時、外国事務総督という役目を担っていた東久世通禧は、一般の公家集団とは違い外国人と接する体験を持っていた数少ない人物で、東久世がいたことで謁見がなされたのである。

東久世通禧という人物は、文久3年(1863)年)、薩摩と会津の公武合体派が画策した八月十八日の政変で失脚した尊王攘夷派公家の一人であって、長州に逃れ筑前に滞在している間に、薩摩人としてこっそり開港場の長崎に行き、蘭人医師・ボードウィン、米人宣教師・フルベッキ、英人商人・グラバーなどと会った交流経験を通じ、外国人に対する態度を変化させ、気後れもなく外国人と対応ができるようになっていた。

また加えて、それなりに気骨ある革新公家だったようで、この東久世通禧によって、ようやく外交関係の第一歩としての、新たな体制である明治天皇御親政の外国公使謁見が可能となったわけであった。

因みに、フルベッキVerbeckとは、岩倉具視を正史とした「欧米視察団」の発案者でありまとめ役の人物で、また、巷間、偽物であるが流布されている「幕末維新の志士達集合写真」の中心に座っていることでも知られている。

いずれにしても外国人と会ったことがある、という実体験差が、当時の人々の外国人への行動結果を決めているという証左にもなる明治天皇謁見行事事件であった。

つまり、外国嫌いという実態になっているのは、外国と接し得ない環境下におかれている人がなりやすいという意味をお伝えしたのである。

今、日本はTPP環太平洋経済連携協定に関与するかどうかで激しい議論が続いている。既に野田首相は関係各国に加盟交渉参加意向を伝えているが、反対論者から意見が多々出されている状況は幕末時の開国是非の当時を思い起こされる。

日本の開国は、安政五年(1858)六月の井伊大老による日米修好通商条約調印から始まったが、薩長勢力は開国を非とし「尊王攘夷」を旗印に倒幕運動に走り、倒幕が成功すると一転立ち所に「開国」が当然であったがごとく変身し、その後の明治時代を文明開化路線として突っ走ったのである。

現状のTPP反対派議論をみていると、薩長勢力の「攘夷」運動を彷彿させる。日本が人口減というどうしようもない現象下で、これからの経済成長を望み、国家の成長を図ろうとするならば、世界の七十億人口を相手に経済活動するところに活路を見出すのは自明の理であり、これは反対論者も十分に分かっているはずだが否定の論理を展開している。

勿論、TPPに参加すれば国内に問題多く、苦境に陥る産業・企業も多数輩出すると思われるが、日本全体の成長という立場から考察し、明治維新時の歴史的前例から考えてみれば、TPP参加は必要だと判断する。だがしかし、今後もTPP議論は賛成・反対の議論が平行線をたどり、はてしない闘争の世界が続いていくであろう。

何故ならば、賛成派と反対派の背景には「外国との接触経験」の度合い、つまり、海外との触れ合いと肌合いの濃密さによって見解が分かれ、既にみた公家集団を思い起こす要因が存在するからである。

常日頃から外国企業と取引する中で、日本と異なる商慣習と国民性に戸惑い、苦労と工夫で業績を挙げてきている企業・団体とそこに所属する人々は、ある意味で外国人に慣れていて、外国との接触に違和感を持たない。

しかし、外国との接点が社交的か、観光旅行程度しか経験のない人々が経営する企業・団体に所属する人々は、日本人と異なる外国人の慣習や考え方に経験が薄いため、TPPのような課題に対するといろいろ心配の方が先に生じやすい。

その事例をもうひとつ、幕末時における薩長首脳陣の心理から検討してみたい。幕末時の当初、薩長首脳陣は本心から強く外国を排除する「攘夷」を旗印にしていた。ところが、ある体験を通じ「開国」の必要性へと変化していったのである。

それは何か。外国勢力との出会いが強烈だったからである。単なる社交的つき合いというレベルを超えた体験、それが攘夷から開国への変化をもたらしたのである。

まず薩摩であるが、文久三年(1863)七月の薩英戦争で、勝敗は互角であったがイギリス艦隊からの砲撃で市街地は甚大な被害を受け、西欧国の科学力を痛切に体験した。一方長州は、元治元年(1864)八月の四国艦隊による下関攻撃によって上陸され砲台を破壊され、大砲を持ち去られ、それが今でもパリのアンバリットの庭で雨ざらしの見世物展示になっているように、壊滅的な負け方をしたことによって、外国勢力の強さを肌で体験したのである。

この薩長の外国との体験は非常時の接触であって、いわば皮膚をひき剥かれるようなものであり、正常ではない触れ合いであったが、これによって藩意識から日本国というパブリックな公の立場に立つ必要があるという意識が指導層に芽生えたのである。

このパブリックな公の立場とは何か。それは本当に外国と戦うことのできる人間になる必要があるという意味であって、西欧諸国が得意とする「戦略方針」を理解し、それに対抗するためには自らも「戦略方針」を構築し、その達成のためには「方便」も必要だという人間に変わること、つまり、外交には複層的思考力が大事であり、それを幕末で見事に実行したのであるが、そのことを徳富蘇峰が次のように解説している。(近世日本国民史)

 「文久(1861)以前はいざ知らず、文久・元治(1864)の攘夷論に至りては、其の理由や其の事情は同一ならざるも、何れも対外的よりも、対内的であったことは、断じて疑を容れない。或る場合は、他藩との対抗上から、或る場合は、勅命遵奉上から、或る場合は、自藩の冤を雪(すす)ぎ、其の地歩を保持せんとする上から、其他種々あるも、其の尤も重なる一は、攘夷を名として倒幕の實を挙げんとしたる一事だ。即ち倒幕の目的を達せんが為めに、攘夷の手段を假りたる一事だ。されば一たび倒幕の目的を達し来れば、其の手段の必要は直ちに消散し去る可きは必然にして、攘夷論は何処ともなく其影を戢(おさ)め去った。而して何人も其の行衛を尋ねんとする者は無かった。

 偶(たまた)ま真面目に攘夷論を主張たる者は、今更ら仲間の為に一杯喰わされたるを悔恨して、或は憤死し、或は絶望死した。偶ま最後まで之を行はんとしたる者は、空しく時代後れの蟷螂(とうろう)の斧に止った」

蘇峰が述べるごとく、当時の志士・武士達は真剣に指導層が唱えた攘夷論を信じ、それの実現のために戦ったのであるが、外国と非常時的な接触を持ち、皮膚をひき剥かれるような体験をしたリーダー層達は、建て前と本音を使い分ける術を習得し、それを駆使することで明治維新を成し遂げ、開国へと変化し今日の近代国家日本の礎を創ったのであった。

これは、いわば純粋な志士の気持ちを踏みにじったのであるが、これが世界政治の実態事実であるから、我々は物事の背景からよく分析しないといけないという教訓であろう。

この明治維新の歴史的事実に基づけば、TPPの議論対決は、賛成派が勝利を得て日本国を成長に結び付けられたとしたら、反対派は明治維新の時と同じく時代遅れの蟷螂の斧に止まるのであろうか。

果たしてどちらが勝利を得るのか。それぞれのリーダーの国際感覚、それは頻繁な「外国との接触経験」があるかどうかで分れるのだということを幕末時の事例からお伝えした次第で、天皇謁見も明治維新もTPP問題も、時代は異なるが同様の性質を持っているのである。

さて、鉄舟が侍従となった背景には宮廷内の旧弊打破が存在したが、その前に廃藩置県という一大政治改革があって、そこから宮廷改革に結びついているので、まず先に廃藩置県に触れてみたい。

廃藩置県の最終会議が、明治四年七月九日に木戸孝允の邸で開かれ、長州から木戸、井上薫、山県有朋、薩摩からは西郷と大久保利通、西郷従道、大山巌が出席した。

会議は、新政府に対する反抗が必ずおきるであろう、その際どういう処置をとるべきかについて、木戸と大久保の間で大論争が続き結論がつかなかった。

じっと黙って二人の論争を聞いていた西郷が
「事務上の手順がついているならば、暴動がおきたら鎮圧は拙者が引受申す。ご懸念ない。直ちに実行してください」
と発言したことで廃藩置県が決まったのである。

数日後、会議の結果を明治天皇に奏上し、天皇はいろいろ御下問された。明治天皇は当時十九歳十カ月若さからご懸念つよくご心配されたが、西郷が
「恐れながら吉之助がおりますれば」
という自信に満ちた奉答に天皇はやっと安心したと伝えられているほど、この当時の西郷の威信は明治維新成立の中心人物として光り輝き、併せて、清廉潔白の人として一般人からも崇敬されていた。

その西郷の支持を得なければ廃藩置県のような、過去数百年間も継続してきた一国独立体制、それも藩主ならびに家臣たちの多くの特権を保証してきた体制を一挙に覆そうとする大改革は成し得なかったであろう。

普通に考えれば武士階級は今までの権利を維持しようと闘うであろうし、平民は藩主以上の権威というものを知らず、藩主が天皇の命に従わないということになれば、藩全体が廃藩置県に反対という結果となったであろう。

結果として、非難囂々(ごうごう)の反対が多く出されるとの予測は当たらず、明治天皇の勅命として出された廃藩置県に逆らう声は、島津久光の猛反対以外に起こらなかった。島津久光の反対については既に述べた(2010年7月号)

いずれにしても、西郷の支持を得たことと、加えて、当時の各藩が財政窮乏という理由から、藩存続に苦しんでいたというものもあって、多くの藩知事が反対に動かなかったのである。

この廃藩置県の実態について、W・E・グリフィスWilliam Elliot Griffis(アメリカ人、牧師・著述家で明治代初期に来日し福井と東京で教鞭をとった)は、越前・福井藩主の居城のある福井で、廃藩の勅命が出された時に、そこにいて以下の感想を書き述べている。

「私は封建制度下の福井に城の中に住んでいて、この布告の直接的な影響を十分に見ることができた。三つの光景が私に強い印象を与えた。

第一は、ミカドの布告をうけた一八七一年七月十八日(陽歴)の朝、その地方の官庁での光景である。驚愕、表にあらわすまいとしてもあらわれる憤怒、恐怖と不吉な予感が、忠義の感情とまじり合っていた。私は福井で、この市における皇帝政府の代表にして一八六八年の御誓文の起草者である由利公正を殺そうと、人々が話しているのを耳にした。

第二は、一八七一年十月一日(陽歴)、城の大広間での光景である。越前の藩主は何百人もの世襲の家臣を招集し、藩主への忠誠心を愛国心にかえることを命じ、崇高な演説をして、地方的関心を国家的関心にたかめるようにと説いた。

第三は、その翌朝の光景である。人口四万の全市民(と私には思われた)が道々に集まって、越前の藩主が先祖からの城を後にし、何の政治的権力もない一個の紳士として東京に住むため、福井を去っていくのを見送った」(「明治天皇」ドナルド・キーン著)

このようなW・E・グリフィスが見た光景は、他の二百七十藩でも見受けたれたであろう。今までの雲の上にいた殿様が、一斉にお城から消えて行くのであるから、日本国家が大変化するであろうという不安と恐怖、それと少しばかりの未来への期待を持ちつつ、藩領民から日本国民に変化する自らの立場を複雑な思いで見つめたに違いない。

この大改革は西郷の力で成し遂げたのであって、次の宮廷改革も西郷によって実現されたのであるが、これについては次号で触れたい。

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鉄舟県知事就任・・・その六

鉄舟県知事就任・・・その六

鉄舟は明治四年(1871)十二月二十七日に、伊万里県に単身赴任した。この当時、伊万里県の県庁は円通寺に設置されていた。
この円通寺、JR伊万里駅から徒歩10分に位置する伊万里城山公園麓陣内にあって、臨済宗南禅寺派であり、この地を四百年間治めた伊万里氏の守護寺で、寺伝では至徳年間(1384~1387)に創建されたとある。

話は脱線するが、伊万里駅から市内を歩いていると妙な事に気づいた。それは伊万里JR駅舎と千葉県館山市のJR駅舎とがそっくりなのである。両方ともオレンジ色で二階に改札口があって、高齢者にとってはちょっと不便なところも共通している。

多分、スペインのコスタ・デル・ソル太陽海岸をイメージしたものであろう。館山のホテル経営者に駅舎のイメージを尋ねたら、その通りでスペインの明るい海岸のイメージで造られたとの説明を受けた後、「どう思うか」というので「あまり感心しない。他国の観光地を真似る発想は貧弱だ。自らの土地を掘り下げたイメージで造るべきだろう」と答えたところ、大きく頷いていたので地元でも違和感を持っているのだと推測し、伊万里も同様だと思っている。

また、伊万里市はマキが市の指定樹木という理由で、マキの木の並木道があり街並みをしっとりとさせ、落ち着きを与えている。館山市では、冬場に強く季節風が吹き荒れるので、昔から風除けに屋敷をマキの生け垣で囲った家が多く、美しい道並みをつくっている。

このマキの木で駅舎を建築した方がよかったのではないか。つまらない感想だが、鉄舟研究で各地を歩いていると妙な事に気づく。

鉄舟が県知事として赴任した伊万里県は、明治四年(1871)7月佐賀藩が佐賀県になり、この佐賀県と厳原県(旧対馬藩)を9月に合併させ伊万里県とし、11月に蓮池、小城、鹿島、唐津の四県を伊万里県に編入させた。

しかし、明治五年(1872)5月には県庁を佐賀城下町の旧佐賀藩庁に移し、佐賀県と改称した。正式な県庁も建設されない、わずか9カ月間の伊万里県であった。いかにも短い。

県庁を旧佐賀藩庁に移し佐賀県とした理由はいくつかある。それを佐賀県の百年(県民百年史41)では以下のように述べている。

①伊万里は海上交通に便利だからといっても、陶磁器の積出し以外には使用されず、また、西に片寄りすぎている事。

②佐賀の方が筑後川に近く、多くの船がこの川に集まり、物価の相場がよくわかる。

③伊万里の人達は役人に慣れていなく、役人達が住む事を恐れ、嫌って、迷惑と思っている。

④佐賀から通う役人達は不便である。

⑤つまり、県庁を嫌う伊万里、県庁が欲しい佐賀、どちらにも好都合。

⑥伊万里に県庁を新たに建築すると費用が嵩むが、佐賀であれば新築しなくても城跡にすぐに使える建物がある。
 
これらの背景から県庁都市となった佐賀市は、明治5年に戸数が3481戸であったが、明治8年(1875)に商人その他増が影響し4088戸に増えているから、伊万里県から移って成功したといえるだろう。

ところで、明治5年8月には、厳原県を長崎県に合併させ、佐賀県から分離させているが、この厳原県分離については鉄舟が進言したと思われる経緯を後述する。

 鉄舟の伊万里での動向を探るために、市役所・図書館などで調べてみたが、なかなか史料は見当たらなかったが、その中で「佐賀県知事物語」(読売新聞佐賀支局編)が次のように述べている。

「明治五年二月初旬のある日、伊万里県の県庁があったいまの伊万里市の街頭に深編みガサの偉丈夫が姿をみせた。鋭い眼光、スキのないわらじばきの足取り、ビンにむらがる剛毛――は、武者修行の武芸者を思わせた。これが初代伊万里県権令の山岡鉄太郎。天下の剣豪を目のあたりに見て、ひそかにタメ息をつく娘たちもあったが、肩書きに似合わない身づくろいやしぐさから、いつしか、町人たちに『馬鹿県権令』とうわさするようになった」

「さて山岡鉄舟。町中の、ありがたくないうわさを気にするでもなく、毎日深編みガサのパトロールを続けたが、やがて無実の囚徒を放免したり不必要な書類は焼き捨てたり――など、思い切った施策をやってのけ、間もなく口さがないうわさも消えてしまった。“ボロ鉄”と異名され前任地の静岡県権大参事のころは侠客清水次郎長とも親交があっという変わりダネ。その官僚ばなれした人間的魅力が県民にうけた――ともいえそう。ただし、赴任後間もなく免官になったので、赴任旅費だけは支給したが、月給はどう取り扱うかが問題になったから『雇われ県権令』のつらさも味わった」

「伊万里県のみならず、当時の地方長官の人選は、政府が常に頭を痛めた問題だった。旧肥前国は――と見るに、藩主鍋島直大(鍋島閑叟の次男)が大納言に登り、大隈重信、副島種臣、江藤新平らの旧藩士が参議に名を連ねるなど維新政府をささえる一方の旗頭だった反面、旧唐津藩主小笠原明山が幕閣の元老だったように、佐幕的な気風も根強く、人脈は複雑だった。地理的にも辺境地であり、無気味な“噴火山”のイメージはぬぐいきれず、ここに、旧幕臣の傑物だった山岡鉄太郎を、初代県権令に起用した必然性があったといえそう」

 また、鉄舟邸の内弟子として、鉄舟側近くにいた小倉鉄樹著「おれの師匠」によると

「伊万里権令となったときの話を聞くと、伊万里県は九州で最も難治のところなので鉄舟をやれと、云ふことになったのださうである。旧藩の頑固士族は此の新令の人となりを知らずして窃(ひそか)*に軽侮する様子があった。
 師匠は毎日深編笠を冠り、供一人を召連れて市中を放吟闊歩したので、益々新令を軽侮してあからさまに『馬鹿県令』と呼ぶに至った。
 師匠は一向に介せず数旬の視察に、民情を詳知し、難治の病根を究めて、忽ち賢を抜き不能を汰し、山積の書類を焼き、無実の罪に囚われている囚徒を放ち、一刀両断、日ならずして廓清(くわくせい)*の実を挙げ、さしも難治の県も、其の剛明果断に服して昔日の観をあらためたとのことだ」とある。

 伊万里県での鉄舟の動向が書かれた史料は、上記の「佐賀県知事物語」と「おれの師匠」のみであって、他には史料が見あたらない。

しかし、鉄舟は伊万里県で活躍したのは事実であり、それらの状況を2011年10月号でも紹介した「山岡鉄舟 幕末・維新の仕事人」(佐藤寛著)から紹介したい。

「鉄太郎が辞令を受け取り単身赴任したのは、明治四年の年の瀬が迫った十二月二十七日だった。県令の単身赴任に職員は驚いたと思うが、残念ながら今回は県庁内に人がまばらだった。県庁はその日を半休として、正月五日まで閉庁するのだという。

居残っていた役人から県内の様子を聞き、その日は退庁して宿舎に戻った。普通ならば、新任の県令人事が発令された時点で鉄太郎の茨城県での噂が走り、迎える側は緊張するはずなのにその様子はなかったようだ。その原因として、鉄太郎が徳川の旧幕臣であることだけが伝わり、自分たちの佐賀藩は勤皇方であるという安心感があったかもしれない。あるいは前回派遣された参事を追い出した実績に油断していたのだろう。茨城県の役人のように着任の知らせに走り回ることもなかった。

鉄太郎は宿舎に戻ると、荷物を置いたまますぐに出かけた。県内情勢を聞いたとき、対馬の様子が緊急を要すると判断したのである」

ここで対馬について少し補足したい。対馬は鎌倉時代から平家の落人と称する宗氏で、江戸時代には朝鮮との国交窓口であった。

対馬藩も幕末時には尊王攘夷派と佐幕派の対立も深刻で、尊王攘夷派が江戸詰家老を暗殺し、国元では佐幕派が尊王攘夷派の家老を獄死させ、その国元家老も対馬藩最後の藩主重正によって殺されるというはてしないテロが藩内を混乱させていた。

幕末、対馬には諸外国船の来航が盛んで、文久一年(1861)にはロシア艦隊が軍艦難破したと偽り、その修理を理由にして半年あまりの期間、対馬に居座った。その間、勝手に建造物を造り始めたり、島民から略奪を繰り返したり、島を不法に占領しようとしたので、幕府が抗議すると、ロシア側は幕府との直接交渉を避け、与しやすい対馬藩との直接交渉をして「我々の条件をのめば、そのお返しに朝鮮をくれてやる」などと、嘘を平気でついて、対馬を乗っ取ろうとした。

結局はライバルのイギリス海軍に追い払われて、ロシアの陰謀は失敗に終わったという事件もあったが、このような緊迫した最前線外交問題等を通じ当時から出島があった長崎とは関係が深かったのである。

幕末時に混乱した対馬藩であったが、慶応四年(1868)には勤皇派に一本化し、同年四月に藩主重正が自ら大坂に出向き、天皇に拝謁している。この時、天皇から朝鮮に対して王政復古を伝達するよう命を受けた。ところが、この伝達した際に朝鮮側が示した「礼を失した態度」が、後の征韓論への導火線につながっている。

さて、対馬の人々にとっては、今まで関係が薄かった佐賀藩中心の伊万里県に編入されてしまい、元々お互い人情も異なっている上に、廃藩置県に伴う手続き変更などで煩わしく、いろいろ不便な実態となったのに、本土から派遣された県庁役人、特に佐賀藩出身者が幕末時の薩長土肥としての功績を笠にきて、むやみに威張り散らし、規則を盾にうるさく干渉し、これに反感もつ士族たちが、問題をさらに煽り立てるという事態になっていたのである。これが着任早々の鉄舟が正月休みもせず対馬に向かった理由であった。

再び「山岡鉄舟 幕末・維新の仕事人」から紹介する。

「対馬に着くと、旧対馬藩の不穏な情勢に、厳島支所の役人たちは正月休みどころではなかった。事情をヒアリングするとさっそく活動を開始。領内をくまなく歩き、不平分子とされる人たちと話し合ったのである。彼らが、着たきりの粗末な服装で正月返上で歩きまわる新任の県令に驚いたことは推測できる。残念ながらこのときの詳細は史料に残されていない。おそらく、対馬藩は朝鮮外交の出先として徳川とゆかりが深いことから、存分に大酒を酌み交わしながら、相手の話をじっくりと聞いたに違いない。彼らは勤皇方だった旧佐賀藩の役人たちの思い上がった姿勢に強い反感を持っていたのである。

対馬は、距離的には長崎より佐賀の方が近いが、歴史的に見て、対馬を伊万里県とすることには無理があると鉄太郎は思った。その場で鉄太郎は、県支所の役人たちには新時代の役人として横柄にならないように厳重に訓示し、不平分子サイドには伊万里県として不満のない行政施策を約束した。これで一触即発の事態は回避されたのである。

そして、正月六日朝、対馬に渡ったことは誰にも告げずに鉄太郎は出勤した。その後の展開は茨城県のときとまったく同じである。お屠蘇気分で昼近く出勤する幹部職員を叱り飛ばしたうえで、表情をガラリと変え、懸案事項のヒアリングに入る。そこで正月休みに対馬に行ったことを打ち明け、驚きの一同の前で、問題がおおむね解決したことを説明しただろう。そうなれば鉄太郎のペースである。その日以降、懸案事項の処理を進める軸を、派閥抗争の芽を摘み取る方向に合わせ、次々と指示を出していった。

居たたまれなくなったのは旧権力を笠に着た幹部連中である。この先も、彼らが考えることがいつも同じであることに驚かされるが、大酒を飲ませて失態を演じさせようとした。伊万里の製陶業者の集まりに照準を当て、あわよくば大酒に酔った帰りを襲ってケガをさせようとも考え、実行に移した。

ところが、大ケガをしたのは襲撃した側だった。その翌日、誰が鉄太郎を襲撃したのかは一目でわかった。鉄太郎に反感を持つ包帯姿の幹部連中は、典事の河倉をはじめ、観念して辞表を出してきた。
しかし鉄太郎は自分に不満を持つ連中を追い出して悦に入る行政トップではなかった。河倉派を追い出して、敵対している一派を県庁に呼び戻したりはしない。追い出されている一派を復帰させることを条件に辞表を受け取らないことにした。罷免を覚悟していた彼らは、意外な申し出に驚き、喜んで同意した。この鉄太郎の処置で、役人たちは新しい地域行政のあり方を理解した。

狭い世界で対立している場合ではない。多くの優れた能力が必要である。また、藩主を中心にした忠誠の構図が廃藩置県で緩みがちだが、時代は違っても私心をなくして勤務に励むという忠誠の心は変わらない。口では言わないが、鉄太郎は自らの行動で生きた手本を示したことになった」

このような状況で、赴任から二カ月後、鉄舟は東京に戻り、井上馨に伊万里県の内紛が解決した事を伝え、伊万里県令を辞任したのである。

人は物事に当面した際に、その人間の本質が顕れる。また、人間本質とは生来の性格に加え、今日までの生き方が重なって脳細胞に習慣化されたものであるが、鉄舟を見ていると「人から頼まれると引受ける」という生き方によって偉大な人物像をつくりあげたと思う。

鉄舟は六百石取りの旗本小野家に生まれ、二十歳の時に百俵二人扶持御家人の山岡家に養子に入った。師であった山岡静山の突然逝去によって、静山の妹英子が鉄舟を強く懇望し、情熱を示したことによって結婚したわけだが、当時の封建社会での身分の差を考えると、あり得ない事態であった。

後年、鉄舟は英子との結婚について次のように語っている。

「おれも若い時、今の家内に惚れられて、おれでなくちゃならぬというから、そんなら行こうと山岡へ行ったんだ」(おれの師匠)

ここに鉄舟の人物が顕れている。人から頼まれると引受ける。その端的な事例が揮毫数である。(おれの師匠)

「明治十九年五月、健康が勝れぬ為、医者の勧告で『絶筆』といって七月三十一日迄に三萬枚を書き以後一切外部からの揮毫を謝絶することが発表された。すると我も我もと詰めかける依頼者が門前市をなして前後もわからぬので、朝一番に来たものから順次に番号札を渡した云ふことだ。(明治十九年六月三日東京日日新聞)

其後は唯だ全生庵から申し込んだ分だけを例外としてゐたが、其の例外が八ヶ月間に十萬千三百八十枚(この書は全生庵執事から師匠に出す受取書によって知る)と云ふから驚く。或る人が『今まで御揮毫の墨蹟の数は大変なものでせうね』と云ふと、『なあに未だ三千五百萬人に一枚づつは行き渡るまいね』と師匠が笑われた。三千五百萬と云へば、其の頃の日本の人口なのだ。何と云っても、桁はづれの大物は、ケチな常人の了見では、尺度に合わぬものだ」

この揮毫が全部無料で書いたというのであるから、正に「金もいらず」という西郷隆盛発言通りの人物であるが、この「頼まれると引受ける」という生き方精神が、茨城県と伊万里県の知事として赴任した背景にもあった。

また、その際に短期間で示した見事な行政手腕は、駿府での西郷との会談と、静岡という難治県で体験したものの集積から体得したものであろう。

このような鉄舟に次の大仕事が待っていた。明治天皇の教育であって、それを頼みに来たのは西郷であった。いよいよ鉄舟が国体の中枢に位置する立場に入っていくのである。

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2012年11月17日

鉄舟県知事就任・・・其の五

鉄舟県知事就任・・・其の五
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

尊皇攘夷思想を同じく持ちながら、水戸藩は幕末低迷の上人材払底、長州藩は新時代を切り開く人材を多数輩出した。その差は時代を見抜く眼、時流の捉え方に要因したはずと前月の最後でお伝えした。

では、時代を捉え見抜くにはどうしたら良いのか。

それは世界事情に詳しい人物と接点を持つか、自ら外国に足を運び多くの体験を踏む事であるが、封建時代で海外渡航が禁止されている時代では、西洋知識・兵学について博識の人物から学ぶ事で身につけるしかないだろう。

この当時、西洋知識・兵学に造詣が深い人物としては、佐久間象山が第一級の人物として世上名高かった。従って、外国に興味と関心のある藩と人材は、象山と接触する事を通じて、外国事情を把握しようとしたのである。

そのひとつの証明ともなる象山書簡実物を眼にする機会があったので、少し回り道にはなるが、水戸藩と長州藩に対する背景分析に役立つ内容であるので補足したい。

先日、新潟県阿賀野市出湯(でゆ)温泉の川上貞雄氏邸にお伺いした。鉄舟書を拝見するためである。時折、各地から鉄舟書をお持ちの方からご連絡いただき出かけている。

川上氏は新潟県で知られる考古学研究者であり、何冊か専門書を書かれている。出湯温泉は、五頭(ごず)連峰西側の山裾に位置し、五頭温泉郷の一つとして、古くから湯治場として知られる静かな温泉地で、温泉街のつき当りには華報寺(けほうじ)があり、同寺を中心にした門前街を形成し、文化年間(1804~18)に発行されたと推定される温泉番付「諸国温泉功能鑑」に、出湯温泉は35枚目「越後出湯の泉」として記されている。

川上氏によると、開湯は弘法大師という謂れが遺るというが、実際の開湯歴史は700年から800年前ではないかと語る。なお、出湯温泉は平成16年(2004)までは北蒲原郡笹神村であったが、4町村が合併し、阿賀野川流域にある事から現在市名となった。

川上氏所有の鉄舟書は「為川上氏」と署名印のある貴重なものである。加えて、海舟、西郷、伊藤博文始め著名な人物の直筆書を多く拝見したが、その中でも佐久間象山の書簡は圧巻であった。

という意味は、佐久間象山に師事した吉田松陰の密航計画と、その挫折の顛末、併せて国防に関わる政策を述べており、象山と長州藩が昵懇であったと窺えるからである。

その象山書簡、まず、ジョン万次郎に対する評価から始まる。

「土州漂民万次郎預召出、御普請役に御取立て御座候を承り申、心窃(ひそ)かに欣ひ候」と述べるが「万次郎は偏鄙の地にて育ち候、猟師の子にて和漢の文字をも心得ず」「幼年にて漂流し候故に、此国普通の言語さえ差支多く候」と指摘する。

その上で「學才ある有志の士、彼地に漂流し、其形勢事情に心を付け、旁砲術兵法航海の技を学び、両三年にして帰朝候は、公邊(へん)の御重(じゅう)寶(ほう)に如何計り相成申しく、萬一公邊にて御取用ひ無之候とも、皇國一統の利益少なかる間しくと存候に付」と知者・識者が外国へ行くべき必要性を強調し、その具体的候補者として「吉田生と申者、當年廿五年の少年には候へとも、元来長州藩兵家の子にて、漢書をも達者に讀下し、膽力も有之、文才も候て、よく難苦に堪へ候」と吉田松陰が適任・適材であると断定している。

この書簡には年号がなく、四月十七日とのみ書かれている。川上氏は年号については確定できないとの見解であるが、前後に書かれた内容から安政元年(1854)ではないかと推定したい。安政元年とすれば、三月二十七日に松陰が米艦ポーハタン号に乗船し密航しようとしたすぐ後である。また、この密航事件に連座して松陰も象山も自藩に幽閉となっている。これらの関係について象山書簡を、さらに詳細分析する衝動にかられるが、当連載の趣旨とずれていくので、このあたりで止めたいが、象山と長州藩の関わりが強かったことは間違いないであろう。

その通りで実は、象山と長州藩士は多く関わっている。松陰始め、桂小五郎も象山に西洋軍学を学んでいる。

さらに、重要な史実は、長州藩の井上馨が象山によって国際情勢をつかみ、国防論の大事さを認識し、国を閉ざす攘夷思想に対し疑問を持ち始め、自らが諸外国の事情に通じる事が不可欠であると、藩の重役周布政之助らに提言・懇願し、その結果として文久三年(1863)五月十二日、以下の五人がロンドンに向かったという事実である。

   伊藤 博文  後の初代内閣総理大臣
   井上 馨   後の初代外務大臣
   井上 勝   後の鉄道庁長官
   遠藤 謹助  日本における造幣の父。大阪造幣局・桜の通り抜けの発案者。
   山尾 庸三  法制局初代長官、東大工学部創立者

 勿論、この企てには藩主毛利敬(たか)親(ちか)の同意を得ており、一人千両の資金を藩の御用商人に借財したりして苦労の上留学につながったのであるが、その発端は佐久間象山との接触、つまり、あの当時最も国際的な視野を持っていた象山から学んだ事が、ロンドン行きとなったのである。

この史実は、人は時流感覚に優れた人物から学ぶ事で、時代を見抜こうとする行動に変化する事例であり、この五人が明治時代に大きく影響する活躍を考えると、川上氏が保有する象山書簡は長州藩との深い関係を証明する貴重な記録である。

 なお、この留学について司馬遼太郎が「翔ぶが如く」(二巻)で次のように書いている。

「伊藤は井上聞多(馨)らとともに長州藩の秘密留学生として横浜を出港した。当時長州藩は攘夷の大スローガンをかかげて国内の反幕気分の代表的勢力であったことをおもうと、この秘密留学生の派遣というは異様な風景といっていい。

 攘夷とは、国際性を拒絶するという意味である。当時、桂小五郎といった木戸孝允や高杉晋作などは攘夷をもって幕府の屋台をゆさぶるてこにするというまでに政略的なものになっていたが、しかし指導層以外の長州人の九割九分はそうではなかった。かれらは本気の攘夷気分をもち、国際社会への参加を厭(いと)うことが神州をまもる唯一の道であると信じた。
 
その信仰がこの藩に強烈な熱気を生み、それが日本史がかつてもったことのないイデオロギー的結束の状態をつくりあげていた。いずれにせよ文久年間の長州藩は藩というより多分に思想団結体であり、ときには宗教団体ともいえる気分であった。

 そういう気分のなかで、伊東ら数人の若い藩費留学生は藩大衆にも幕府にも内密で英国にむかって渡航したのである」

 このように当時、過激な攘夷思想を唱え、幕府を攻撃していた長州藩、その藩主が承知して密航を企てたという事は、司馬遼太郎が述べる如く、藩の指導層は複層的思考をもち、いわば二枚舌というべき外交感覚を持っていたという意味になる。

これに対し、尊皇攘夷思想の宗家というべき水戸藩はどういう状況であったのか。

 水戸徳川家は尾張、紀州藩と並ぶ御三家である。しかし、禄高は尾張が六十二万石、紀州が五十五万石に対して三十五万石にすぎない。当主の官位も両家が二位大納言に比べて、三位権中納言と一段低い。そのかわりに両家が参勤交代の義務を課せられるのに、水戸家は永代定府ということで常に江戸におり、巷間いわれる天下の副将軍という立場にあったが、両家は将軍継嗣者を出すことができるが、水戸家はこの資格がない等の差があった。

 水戸家はさらに次のような重要な家訓があったとされる。

「晩年の慶喜自身の証言だが、二十歳のころ、斉昭に呼ばれて、『若し一朝事起りて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるゝがごときことあらんか、我等はたとひ幕府に反(そむ)くとも、朝廷に向ひて弓引くことあるべからず。是は義公(光圀)以来の家訓なり。ゆめゆめ忘るゝことなかれ』と教訓を受けたという」(「徳川慶喜」松浦玲著 中公新書)

 この義公(光圀)によって「大日本史」の編纂に着手され、やがてそれが水戸学の発祥となり、尊皇攘夷の宗家になっていくのであるが、その背景にはこのような家訓があったからだと推察できる。だが、この水戸藩で培養された尊皇主義が、他藩にも伝播し、やがて倒幕運動に発展し、徳川家をほろぼす要因になったわけであるから、歴史とは分からないものである。

また、「大日本史」の編纂が水戸藩内紛の始まりでもあった。それは小石川の本邸内にあった彰孝館、その館長である立原翠軒と、門人である藤田幽谷との間で発生した論争によって、水戸学は翠軒、幽谷の二派に分かれ対立し、二人が亡くなった後もその子の杏所と東湖に受け継がれ、その対立に藩主斉昭継嗣に伴う藩内政争が重なって、さらに複雑な派閥分裂闘争に広がり、血で血を洗う激闘の犠牲は無惨で、朝廷側で生きのこれるどころか、明治新政府に登用されるべき人材が殆ど皆無の状態になったのである。

 水戸藩の派閥闘争について、三田村鳶魚は、
「水戸の家中はみな貧乏である。三十五万石といっても実高は二十六、七万石でこんにゃくのほかには特産物もなく、国がはなはだ貧しい。藩士を扶持することもできず、馬、ヨロイなどを備えた人は少い。役職につかぬものは内職にウナギの串を削って暮さなければならない。役職につけばウナギを食う身分になれる。削るか食うかで大違いである。勢い権家にすがって役職にありつこうとする。ここに派閥が生まれ党争が起こる」(「幕末列藩流血録」徳永真一郎著 毎日新聞社)

 この三田村鳶魚の解説を裏付けるのが、茨城県発行(昭和四十九年)の「茨城県史料・近代政治社会編Ⅰ」の記述である。「常陸国風土記」では気候はいたって温和で、五穀の実らぬところはないと触れながら、

 「しかし、幕末、維新期には農村は荒廃しており、明治なってからは、産業のあまり振るわない県とみられてきた」と述べ、続いて「米穀、雑穀などの自給性の強い作物の比重が高く、商品性にとんだ原料作物はひじょうに弱い。しかも水稲の反当収量は、全国平均とくらべても、20パーセント以上も低く、農業生産力は、45府県中39位でもっとも低いほうに属する」

 これら経済的問題に加えて、既に検討したように藩主の政治力問題が絡み、混乱に拍車かけたのであった。

一方、長州藩の財政は幕末時どういう状況であったか。その証明をするのが人口数である。長州藩は幕末にかけて人口が増加している。それを「開国と幕末変革」(井上勝生著 講談社)からみてみたい。

 「十九世紀以降、幕末・維新期にかけて瀬戸内内人口の増加傾向は、一層はっきりしている。明治初年までには、1.4倍から1.9倍に増えている。その瀬戸内でも城下町の人口は減少しているから、十九世紀の瀬戸内の人口の大幅増大は、農村部の人口の増大を意味する。なかでも、明治維新で重要な役割をする長州藩(周防)と芸州藩(安芸)の瀬戸内農村部で人口が大きく増えているのが注目される」と人口推移を示している。
  
1721年(享保6) 1798年(寛政10) 1834年(天保5) 1872年(明治5)
安芸 361,431(100) 491,278(135.9)  578,516(160.1) 667,717(184.7)
周防 262,927(100) 357,507(136.0)  436,198(165.9) 497,034(189.0)
 
 この人口増加は何を物語るか。長州藩では他国から農村部で人口が増えるほどに、豊かな財政状態であり、これが高杉晋作による「奇兵隊」発案の背景にあるわけで、通説的に言われている「惨(さん)苦(く)の茅屋(ぼうおく)」という表現で「江戸時代の農民は搾取され悲惨な生活であった」というかつての歴史学者の見解は、藩毎の自主経営の結果で異なるのである。
 
では、長州藩がどうして豊かな農村になったのか。それも「開国と幕末変革」が解き明かしている。

 「本州周辺部の伯州(鳥取県)・周防(山口県)・知多(愛知県)などの木綿織物生産地では、十九世紀前半、他国から綿を買い入れて木綿織り生産をしている」と述べ「十九世紀になると、先進的な綿織物産地は高機を導入し、八、九人規模のマニファクチュアが広く生み出されていた」と解説し、結果として「商品生産をする中規模以下の経営の農民が、米を買う農家となっていた」つまり、年貢の米納制のために木綿を売り、米を買う農家が普通に見られたと指摘している。

 長州藩では、水戸藩とは大きく異なるマニファクチュア産業が生まれていたわけで、これを指導し取り入れたのは藩主と幹部であるから、これら人材の時代を見抜く眼、時流の捉え方の較差が、両藩の実態を分けたといえる。

 今の日本の政治家も、単に歴史的人物の個人名を挙げ、好き嫌いを言う前に、時代との関係をどのようにしたか、というところに心して歴史を学び、そこから今の政治を論ずる習慣を身につけてもらい。

本題に戻りたい。鉄舟は明治四年(1871)十二月二十七日に伊万里県に単身赴任した。文久三年(1863)ロンドンへ留学した井上馨からの要請によるもので、「新任参事が追い出され、県内が不穏」というのが理由であった。

ここで伊万里県、つまり、今の佐賀県であるが、何故に伊万里に県庁を置いたのかを説明する前に、廃藩置県当時の経緯を振り返り、伊万里という地の特徴をみてみたい。

明治四年(1871)七月、佐賀藩が佐賀県になり、支藩の蓮池、小城、鹿島の三藩と唐津藩は、それぞれ旧藩名をつけた四つの県となって、これらがまとめられて伊万里県となった。

その順序は、まず、九月に佐賀県と厳原県(旧対馬藩)を合併させて伊万里県とし、十一月に蓮池、小城、鹿島、唐津の四県が伊万里県を編入させたのである。

伊万里は焼き物の伊万里焼で知られ、ここにも江戸時代から窯場があったが、それより焼き物の集散地として著名で、有田町を中心に焼かれる有田焼も、積み出しを伊万里港からなされていたことにより一般的に伊万里と総称されている。

伊万里の商人は、仕入れた焼き物を販売するため各地に出向くことはせず、ひたすら他国商人が来航するのを待つという商売方法であった。「伊万里歳時記」に天保六年(1825)の「伊万里積出し凡(およそ)陶器荷高国分(くにわけ)」が記載されていて、三十一万俵の焼き物が積み出され、筑前商人二十万俵、紀州商人六万俵、残りは伊予、出雲、下関、越後の商人であった。
(「新いまりの歴史散歩」伊万里教育委員会)

では、この伊万里に県庁を置いた背景に何があったかである。

「佐賀県の百年・県政百年史」によると「伊万里に県庁を移したのは、旧佐賀本藩が改められて出来た佐賀県の希望であり、三つの旧支藩や旧唐津藩・旧対馬藩などを管轄するうえから、人心一新・海上交通の便を理由に県庁を伊万里の円通寺に移したのであった。政府に提出した願書によると、人心を一新するというのも、本当は元の武士階級を士族という名称にあらため、一般の市民に組み入れるのが困難であったからと考えられるし、また旧佐賀藩であった佐賀県としては、唐津港よりも本来領内にあった良港、伊万里港を交通の中心に考えたのであろう」と述べている。

一方「伊万里市史」によると、旧藩主が東京に移住した後「大参事古賀定雄・権大参事富岡敬明ら佐賀県庁中枢の人々は、廃藩置県に際し民部省に宛てて伺書を提出した。その中で彼らは、当年春から士族土着の制を始めとした改革に着手したものの旧来の陋習を脱することができないため、県庁移転を提起した。また、大参事・小参事以上の官員を新たに選んで中央から派遣するよう要請している(明治行政資料)」

「佐賀藩時代の禄制改革に不満を抱く百名を超える士族卒は、十二月十四・十五日と連日伊万里県庁に押しかけ、騒動になった。大蔵省から鎮撫のために派遣されていた林友幸大参事心得も加わって説得し、了解しがたい者は書面を差出すよう達したところ、十九日までには全員引き揚げ、いったん事態は鎮静した。しかも騒動の最中の十二月十六日、大参事心得林友幸・大参事古賀定雄はそろって政府に進退伺を提出したのである(明治行政資料)」。

以上が伊万里市及び佐賀市で実際に調べた資料からみた、鉄舟が伊万里県に赴く背景であって、これが井上馨の「新任参事が追い出され、県内が不穏」という内容に該当しているものであった。

いずれにしても鉄舟は伊万里県に赴任した。県庁は円通寺であったが、ここで鉄舟はどのような活躍をしたのであろうか。それを次回にお伝えするが、今年は鉄舟が伊万里県に赴いてちょうど百四十年に当る事から、佐賀県美術館で特別展「山岡鉄舟」(平成23年12月~24年1月15日)が開催されたことをお伝えし、次号では伊万里における鉄舟治世をお伝えしたい。

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2012年10月30日

鉄舟県知事就任・・・其の四

山岡鉄舟研究 鉄舟県知事就任・・・其の四
          山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

前号の終りに「鉄舟は戦略を明確にして行動する」人物とお伝えした。

この戦略を目的・目標という言葉に言い換えれば、誰でも当然に持っているものだろうと思って、今までいろいろなところで、実際に何人かに尋ねてみると「漠然と生きているので・・・」という回答を多々受け、驚いている。

これは日本人の大問題であると感じていたが、2011年8月31日の民主党両院議員総会で、野田佳彦新首相が語った「皆さんはミッドフィルターになってほしい。私を含めてセンターフォアードになりたい人はたくさんいるが、この党に今一番必要な役割は、一人ひとりのかけがえない能力が存分に発揮できる組織だ」「全体を見渡して、戦略的にパスを回せるミッドフィルターの集団が必要です」という発言を聞くと、政治家はFW気質の人が多い、つまり、首相や大臣になりたいという戦略・目的・目標を持った人物の集まりだという事になるので、少し政治家に違った感覚を持ったところだ。

このように政治家や意欲ある一般人が、積極的に生きようと戦略意識を持つことは大事で重要なことだが、これらと同じレベルで鉄舟の戦略を考えるととんでもない間違いになる。鉄舟の戦略思考は一般に認識されているものと根本的に異なっている。これを、まず補足解説したい。

それは、鉄舟と今の人達とでは、戦略構築する以前に、人間哲学思想へのアプローチに格段の開きがあるという事である。人間としての鍛え方が違い過ぎ、器に差があり過ぎるといってもよいが、比較する基準において雲泥の差がある。

どのような隔たりがあるのか、それを妥当・適切に解説するのは難しいが、あえてこの難しさの中味を解説するとしたら、本連載タイトルの「命も要らず、名も要らず、金も要らぬ」に戻らねばならない。

西郷隆盛の「南州翁遺訓」に

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹(しまつ)に困るもの也。此の仕抹に困る人ならでは艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。去れどもかような人は、凡俗の眼には見得られぬぞと申さる・・・」(荘内南州会)

これは具体的には鉄舟のことを述べたのである。慶応四年(1868)三月駿府における江戸無血開城会談時に、西郷が鉄舟と初めて接し、鉄舟という人間力に驚嘆し、それを書き述べたものである。

その西郷の驚きをひとつ一つ解説してみたいが、まずは「命もいらず」である。

鉄舟は当然に命を捨てる覚悟で、官軍が充満している道中を駿府まで赴いた。だが、この不惜(ふしゃく)身命(しんみょう)(身命を惜しまない)は鎌倉時代からの武士道であり、特に幕末時の混乱期では、多くの武士が命をかけて行動していたし、西郷の回りにいる志士の多くも同様であったので、西郷はあまり驚かなかっただろう。鉄舟の必死覚悟は当時では特異なものでないという意味である。

しかし、武士が「名もいらず」という事は、武士にとって普通レベルではない。何故なら、武士とは名を惜しむのが当たり前の行為なのである。「人は一代、名は末代」「名こそ惜しけれ」というように、武士は名・名誉に執着するのが当然の常識であって、鉄舟の「名もいらず」は武士にとって「考えられない」奇矯な指針である。

さらに、「官位も金もいらぬ」という事も、武士にとって生半可な境地でない。本来武士は、戦うための士であるから、戦場で命をかけて戦うのは、例え、戦地で自分が死んでも、その死に方によっては論功行賞に影響し、所領確保又は増地という期待に結びつき、子孫が引きたてられ、家門繁栄の成否に跳ね返る。それゆえ「官位も金もいる」のが武士であるから、鉄舟は別格なのである。

このように武士が「名を求め」「官位と金を求める」事は常識であった。同じように政治家も首相・大臣になる事を目指しているのは常識的であり、「漠然と生きている」多くの一般日本人と比較すれば立派といえるだろう。

ところが、鉄舟は違った。県知事という名誉と、官位に就く事で収入増になる事に全く興味と関心を持たないのである。というより最初からそのような意識がないのである。

鉄舟が目指したものは、今までの武士道として成り立たせてきた支柱たるべき指針・考え方・良識を否定し、常識化されていた道徳概念指針を取り払い、解放し、もっと広々とした、天下の公道にまでシフトさせ、普遍性ある理念道徳に格上げしたいというものであった。

言いかえれば、古来より伝わってきた武士という狭い仲間集団の道徳意識を、国民道徳というべき「日本人として生きる道」へ敷衍させたいというのが、鉄舟が目指す「生涯戦略」であったと考えている。

実は、ここが西郷隆盛の「敬天愛人」思想と通じ合うところであり、その思想的共感が駿府会談成功の背景にあり、西郷が明治天皇の教育掛・侍従として鉄舟を推戴した本旨であった。

また、鉄舟が侍従として皇室という国体枢機の核心に居つつ、明治十三年の大悟境地に達することで、明治二十年(1887)の「鉄舟武士道講話」につながっていくのである。

この「鉄舟武士道」は、明治33年(1900年)新渡戸稲造が著した「武士道」(日本版)、これは前年に米国において英語で出版したものだが、これとも全く異なるもので、「人間完成」という視点からは「鉄舟武士道」の方が日用に資するのではないかと思っているが、これについては鉄舟という人物をさらに追及してからお伝えすることにしたい。

さて、県知事就任を固辞する鉄舟に、大久保利通が茨城県知事(参事)を引受けさせようとした背景には一つの前提と二つの背景があった。

まず、最初は前提である。周知の通り、大久保の盟友は西郷である。同じく薩摩藩の下級武士階級出身であり、幼少よりの同志であり、幕末維新の新時代を共に切り開いてきた仲であって、当然のことながら駿府の西郷・鉄舟会談による江戸無血開城への偉業は、西郷と鉄舟の個人的な人間力によって成された事も知り抜いている。

つまり、大久保は西郷を通じ鉄舟の人間力について通じていたわけで、これが政治的内紛による「難治県」をまとめる人材として鉄舟が最適だと判断した前提であった。

背景には二つあった。

その一つは「難治県」実験シミュレーションであった静岡県の動きをつぶさに検討した結果、鉄舟を再認識した事である。

もう一つは因縁であり、大久保は次のように説得した。

「茨城県を特に貴殿にお願いしたいというのは、ご承知の通り水戸は旧幕時代以来の内紛を未だに解消できず、どうもうまく運営されていない。そこで、慶喜公とも徳川宗家とも特に縁故の深い貴殿にご出馬願いたいという事にしたわけです」

ここまで当時、飛ぶ鳥落とす勢威を持つ大久保から懇切に諭されては断る事はできない。

「では、承知いたしました。水戸に参ります」
「お引き受けいただけますか。助かります」
「但し、条件がございます」
「何でしょう」
「現在の内紛をとりまとめれば、辞めさせていただきませんか」
「どうも、それは何とも・・・。分かりました。そういう事にいたしましょう」
「では、お引き受けいたします」

鉄舟が水戸に入ったのは、茨城県が設立された日であった。明治四年(1871)七月十四日の廃藩置県によって成立した「水戸県」「笠間県」「宍戸県」「下館県」「下妻県」「松岡県」の六県が、同年十一月十三日に合併して「茨城県」となり、各県の旧石高から考え茨城県の中心は旧水戸藩領であって、県庁は水戸におかれた。

現在の茨城県体制になったのは、新治県の大部分と常陸六郡を合併した明治八年(1875)五月である。

鉄舟が水戸の県庁に着任した後の行動、その具体的な資料を水戸市の図書館・博物館等で調べてみたが見つからない。記録としてはないのかも知れないが、鉄舟関係の書籍では水戸での活躍ぶりが書かれているので、何か別に確証がある資料があるのかもしれない。その中から「山岡鉄舟 幕末・維新の仕事人」(佐藤寛著)によって紹介する。

「新茨城県が成立する前日に辞令を受け取ると、着任日を県庁に連絡することなく、鉄太郎(鉄舟)はすぐに出発した。参事決定の人事は県庁に当然知らされていただろうが、新参事が突然にふらりとやってくることは想定していない。鉄太郎は、秘書官を連れることもなく、朝の出勤時に地味な身なりで新参事と称して一人で登場した。このときの職員たちの驚きを想像するだけで痛快である。

ところが、典事、権典事など、現在でいえば局長クラスの幹部職員はそんなに早く出勤はしない。

『幹部たちは出勤していないが、どうしたのか』

鉄太郎の大きな目玉でギラリとにらまれた職員たちは、幹部の自宅に走ったに違いない。昼近くに出庁してきた増山典事をはじめ幹部たちを一喝して、その日は終了した。そして翌朝から、幹部一人一人を部屋に呼んで行政担当部門の現況報告を求め、びしびしと質問をする。しかし、けっして矢継ぎ早に表面的な数字などを追及するタイプではない。

過酷な状況下での静岡藩で得た実務経験から、ポイントをはずすことのない本質に迫る質問であっただろう。そしてすぐにその場で指示を与えていく。鉄太郎には新生日本国の新茨城県のあるベき姿が見えている。慶喜の出生の地であり、尊皇の発祥の地でもあるにもかかわらず、薩長土肥に比べて新政府内での位置が低いことにふがいなさも感じている。

しかし、面白くないのは幹部職員たちである。“よそもの”のスピーディな事務進行によって、自分たちの畑を荒らされるような思いである。

増山一派は、初日の一件も含め、仕返しのタイミングを探った。そして、近く催される歓迎会の宴席で大酒を飲ませ、新参事に失態を演じさせようと考えた。鉄太郎より自分たちの方が酒は強いと自負していたのである。

一方の鉄太郎は、内紛の原因究明とその対策のために調査を開始した。そこで、水戸の事情に詳しい石坂周造から知らされた一人の男に到達する。水戸藩内の抗争で退いていた山口正定のことである。彼の評判が良いことを確認すると、自分一人で会いに行った。人物を確かめ、施政についての考え方も聞いた。そうして彼に惚れこんだ鉄太郎は、この男の県政復帰のタイミングを図っていた。

歓迎会が水戸市内の料亭で開かれた。待っていましたとばかりに増山陣営は交代で鉄太郎に大酒攻勢をかける。とうとう一升の大盃を持ち出し、酒豪を誇る増山典事と一対一のバトルになった。三杯目を鉄太郎が飲み干し、その返杯に口をつけたとき相手は気を失って倒れた。

翌日、増山典事が出勤してきたのは昼過ぎだった。鉄太郎はこのタイミングを待っていた。遅刻を大喝し、その場で典事の職を解任、そして権参事に山口正定を据える発令を行ったのである。職員たちはこれらの人事断行に度肝を抜かれた。

水戸藩低迷の原因は内紛である。普通ならばその内紛のバランスに乗って、あるいは内紛にメスを入れると称して、自派の権勢を拡大することを考える。そこで名声を高めてさらに中央行政の階段を上がろうとする。そんな姿勢が見え隠れすると人々が心服することはない。

野心のない鉄太郎の出した答えは単純明快、内紛のガンを大きくしているトップを排除したのである。
鉄太郎の断固とした方針のもと、旧怨を捨てた山口権参事の仕事ぶりに職員の間にも共感が広まってきた。こうなれば、県庁の風土はがらりと変化する。これを見届けると、鉄太郎は参事辞任の確認を行うために東京に出張した」

これが佐藤寛氏による展開内容である。その他の鉄舟関係書籍もほぼ同様のストーリーである。

ところで、鉄舟が後を託した山口正定という人物、天保十四年(1843)生で、藩内が党派の抗争にあけくれている間、山口は終始不偏不党であり、廃藩後は閑居していたが、鉄舟に認められ権参事に任じられたのが二十八歳。後に宮内庁の侍従となり侍従長を経て狩猟局長官に昇進、明治二十九年(1896)に男爵となっている。

水戸藩出身者としては、皇后大夫香川敬三とともに宮内庁の高官として明治三十五年(1902)死去するまで、三十年間宮中にあった経歴が示すように有能であったと思われるので、鉄舟の判断は間違ってはいなかったと思っている。

いずれにしても、名にもお金にも官位にも拘泥しない鉄舟であるから、当初に定めた「内紛に一応の目途がたてば辞める」という戦略目標を達成し、水戸県知事在籍二十日あまりで辞任を申し出ようと東京に戻った。

ところが、この時、大久保利通は政府が派遣した岩倉具視団長の遣欧使節団に参加していたので不在である。そこで大久保大蔵卿の留守を預かる井上馨大輔(たゆう)、この職位は大蔵省の副大臣にあたるが、その井上馨に辞任を申し入れた。

「井上さん、茨城県での約束任務は終えましたので、参事を辞任したいと思います」
「山岡さん、そんなことを大久保卿が留守の間にいわれても困ります」
「いや、大久保さんとは内紛に目途がつけば辞めると約束し、了解いただいております」
「しかし、せめて後任を決めるまでは・・・」
「後任なら大丈夫です。権参事の山口正定がいますから。彼は公正な立派な人物です」
「うーん。これは困った」

と井上が唸っていたが、何事か思いついたらしく、急に態度を変えて

「よろしい、山岡さんの辞任を受け入れましょう」
「ありがとうございます」
「しかし、いずれそのうち、また何かお願いする事があるかもしれません。その際は、是非、ご協力願いたい」
「分かりました」

と鉄舟は差し迫った事とは考えずに井上の許から退出した。

それから十日程経った十二月中旬のある日、井上から呼び出し状が届いた。

「やぁ、山岡さん、過日は失礼した。ところで水戸の疲れはとれましたかな」
「お陰で、元気しております」
「実は、茨城県をおやめになる際に、いずれお願いしたいという事で来ていただいたわけです」
「何でしょう」
「それは、九州の伊万里県の権令(県知事)をお願いしたいのです」
「いゃ、それは・・・」
「山岡さん、約束ですぞ。手助けすると」
「どうしたのですか、伊万里県は」
「新任参事が追い出され、県内が不穏なのです」

鉄舟は年末の十二月二十七日に伊万里に単身赴任した。

ところで、野田新首相の「どじょうがさ、金魚のまねすることねんだよなあ」が評判を呼んでいる。相田みつおの引用である。

これに加えて、野田首相の発言「思惑でなく、思いを」「下心でなく、真心で」「論破でなく、説得を」等に、我が意を得て、バンザイの気持ちで大変感動したという手紙が筆者に届いている。

首相が毎年変わる機能しない政治、政治家達の内輪もめと、角突き合わせ、エコノミストの表紙に「日本化」と揶揄される現状、全ては日本国内の政治的内紛から発している事で、それを憂える国民から筆者のところまで悲憤慷慨として伝わってくるのである。

今こそ鉄舟に匹敵するレベルの人物が必要だと思うが、それは所詮無理であるから、出だし評判高き野田新首相に頑張ってもらうしかないだろうと思っているが、同じ尊皇攘夷思想を持ちながら、水戸藩は幕末低迷し人材払底、長州藩は新時代を切り開く人材を多数輩出。その差は何か。多分、時代を見抜く眼、時流の捉え方に要因したはず。

鉄舟が伊万里へ赴任する前に、そこを一度整理しておくことが、今の政治家及び一般人に対して参考になると思われるので、それを次号で述べ、伊万里県へと展開したい。

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2012年09月23日

鉄舟県知事就任・・・其の三

鉄舟県知事就任・・・其の三
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

明治四年(1871)十一月、鉄舟は大久保利通の指示をうけ茨城県に参事(県知事)として任じられた。理由は茨城県が難治県という事にあったが、茨城県に続いて伊万里県権令(佐賀県知事)にも赴いたが、ここも難治県対策としてであった。

今は難治県といってもピンとこなく、当時の実態状況を整理しないと難治県という意味が分からないだろう。

まず、明治二十五年(1892)刊行の一書によれば、難治県とは「新潟、富山、茨城、愛知、山梨、秋田、石川、鳥取、島根、高知、福島、佐賀、熊本」の十三県となっており、茨城県は第三位、佐賀県は第十二位にランクされている。(「茨城県政と歴代知事」森田美比著)

宮武外骨(明治〜昭和期のジャーナリスト)は、明治八年(1875)の朝野(ちょうや)新聞(明治七年~明治二十六年まで東京で発行された民権の政論新聞)の記事から推測して、難治県とは不平士族の多い県であり、県庁の役人が手こずる県であり、また、中央政府(大蔵省、内務省)にたてつく県をいう。

そして、七難県とは、佐賀、鹿児島、高知、山口、石川に加えて愛媛、酒田を指していったものと思うと(「府藩県制史」昭和十六年)、佐賀県をトップに位置付けている。

この明治における両年資料を比較すると、八年では鹿児島、愛媛、酒田が難治県として認識されていたが二十五年では抜け、新たに新潟、富山、茨城、山梨、秋田、鳥取、島根、福島、熊本が加わり、この中に茨城があって、鉄舟が大久保の指示でわざわざ出向いたのであるから、廃藩置県当時で既に相当難しい県と考えられていたことは間違いないであろう。

その証明ともなるのが、茨城県発行(昭和四十九年)の「茨城県史料・近代政治社会編Ⅰ」である。茨城県自体が以下のように認識している。

「明治初年の茨城は、政府-県当局側にとっても、また民衆の眼からみても激動と波瀾がたえずくりかえされていたのである。

こういうのはほかでもない。茨城地域は、日本全体が維新変革の渦中にまきこまれたその一環として位置づけられるだけでなくして、旧水戸藩を中心とする十数の小藩、数多くの天領、旗本領が幕藩制の倒壊と明治維新政権の誕生ドラマに一役演じていたからである。とりわけ幕末の元治甲子の乱( 元治元年に筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊王攘夷派によって起こされた一連の争乱)にみられる天狗、諸生の党争は、ひときわ鋭い爪跡を維新後にももちこむこととなった。

すなわち周知のように、明治維新政権が成立し、水戸藩主徳川慶(よし)篤(あつ)*も慶応四年(1868)のはじめには新政府に協力する姿勢をとっていた。しかし藩内で勢力の強い家老市川三左衛門派は、水戸城を占拠し、その後会津藩の佐幕軍と手を結んで政府軍に抵抗し、さらに水戸に舞い戻り水戸城を襲って『弘道館の戦い』(明治一年十月一日水戸城三の丸内にあった水戸藩藩校・弘道館における保守派の諸生党と改革派の天狗党の戦い)をひきおこし、新しい時代の夜明けのなかで、水戸藩内の党争は激しさをくわえていたのである。明治初年の政府派、佐幕派に分れての対立抗争や動揺、混乱は、結城とか下館などの諸藩にもみられた。

この党争は廃藩置県後にも尾をひき、対立は旧士族の間だけではなく、荒廃せる村々の内部や民衆の意識の底にも暗い重い影を投げかけていた。

彰孝館蔵(江戸時代に水戸藩が大日本史を編纂するために置いた修史局)『雨谷直見聞集』によると、このころは五派に分れ『五千ノ貫属(かんぞく)(水戸藩に属する者)一人此派ヲ遁ルヽ者ナシ市人村民ニ至ル迄亦其類ヲ媛(ひ)ク』というありさまであった。

当時の世相にかんして明治五年(1872)十一月の『茨城県および隣県状況探偵報告書』はひとつの手がかりをあたえてくれる。報告書は、その内容をみればあきらかなように、下総、上総の民情と常陸(現在の茨城県北東部)のそれを差別して、常陸の民衆は党派をかため、頑固で、猜疑心が強く、時代の変化に思いをはせる態度に欠けていると、論じている。

明治政府にとってみれば、茨城県は反政府的な空気が強いだけに目の上の瘤の存在であった事情も想像できる。茨城の『近代化』への歩みは、明治政府との関係からみて、まことに多難であった。
『自分たちの国を他国者に支配』させないというその水戸気質と、反政府的な動きこそは、幕末、維新以来の旧水戸藩内の抗争の重い遺産としてもちこまれてきていた。その遺産がまた茨城の地域にとってみれば、明治政府から継子扱いを受けざるをえなかったひとつの原因ともなっていたのである」

これらの記述は茨城県発行の史料であるから、述べられている中味は重い。さらに次のようにも書き綴られている。

「県域にはさらに多くの問題がもちあがっていた。たとえば徴兵制の免疫条項をたてにとっての徴兵忌避の傾向とか、小学校維持経費の負担の重みなどの理由で児童の就学率は男子が53パーセント、女子はなんと15パーセントにすぎなかったことは、その証左の一例であろう」

「茨城地域のなかで、明治初年に農業人口は全人口の90パーセントをうわまわり、生産物のなかでも農産物の比重は圧倒的に高かった。米穀、雑穀などの自給性の強い作物の比重が高く、商品性にとんだ原料作物はひじょうに弱い。しかも水稲の反当収量は、全国平均とくらべても、20パーセント以上も低く、農業生産力は、45府県中39位でもっとも低いほうにぞくしていた」

「茨城県内には政府から手厚い保護を受けた企業もほとんどみあたらず、この地は工業、軍事的にも重要でない地域としてとりあつかわれてきた。事実、茨城県は国是遂行のための幹線鉄道計画の対象から長期間はずされていたありさまである」

「難治県は権力の作用によってその度合いを強められ、さらに後進性を付加されていく。しかも統治のうえから作為的に後進県として扱われていけばいくほど、民衆は、『荒っぽい気質』の茨城県人の根性を表出していくのである。民衆は、大多数を構成する無気力な層や無言の抵抗者をふくめて、国の政治方針に単純に同化したり、追随していくはずがない。なかには落後者も輩出する」

これらの記述、自県をあまりにも客観的に冷静に分析しているので、これが県庁の発刊した史料とは思えない気もするが、明治新政府に水戸藩から登用されるような人材がほとんどいなかったという悲惨な実態から考えると事実であろう。

では、どうしてこのように指摘される問題県になってしまったのか。それは幕末時点の藩主の政治力に起因していることは間違いないと思う。

元々水戸藩は、家康の第十一子頼房から始まる徳川御三家という天下に由緒正しき名門であり、水戸黄門として著名な頼房の子光圀が大日本史の編纂に着手し、やがてその先に水戸学の発祥につながり、幕末時に朝廷から一般民衆まで熱く強く唱道された尊王攘夷論の発祥地である。

尊王攘夷とは、米使ペリーが、艦隊を率いて浦賀に来航した嘉永六年(1853)から、明治維新(1868)までの十五年間吹き荒れた思想だが、この始まりは、水戸烈公(斉昭)の弘道館記にある「王を尊び、夷を攘(はら)*ひ、允(まこと)*に武に、允に文に」の一句からであったように、尊王攘夷論大本山は水戸藩であり、当時の藩主は徳川斉昭(烈公)であった。

文政十二年(1829)八代藩主斎(なり)脩(のぶ)が逝去、その跡継ぎとして斎脩の弟の敬三郎が斉昭として九代目藩主となった。だが、斉昭が藩主になるに当たっては、すんなりと収まったわけでなく藩内で激しい跡継ぎ抗争があり、それがその後の水戸藩の混乱を助長させた最大要因となったが、斉昭を支えた人物の会沢正志斎、藤田幽谷とその子藤田東湖などが、いずれも攘夷論者として優秀な鋭い論客であって、その影響を受けた斉昭は強固な攘夷論を唱導する人物となり、攘夷論者から巨頭として仰がれる存在なっていた。

ところが、斉昭が六十一歳で急死。この死には水戸浪士による井伊直弼大老桜田門外の変の報復暗殺だという説もあるが、斉昭亡き後藩内が混乱を極めてきた。

それは、次の藩主慶篤、これは斉昭の子であったが、全ての判断に主体性がなく、家来からちょっと強く主張されると「それがよかろう」と答えるので、「よかろうさま」と陰口を叩かれるほどであったので、異論溢れる藩内を統一できるはずがなく、混乱に混乱を重ねて「茨城県史料」が指摘する状態になったわけである。

つまり、藩主の性格に基づく政治力の問題から茨城県は苦境に陥ったのである。

では、伊万里県はどのような状況だったのだろうか。

伊万里県は茨城県とはまったく違って、幕末時に名君鍋島直(なお)正(まさ)(閑叟(かんそう))*が登場し、明治維新立役者藩の薩長土肥という一角を占めた実力藩であり、上野の彰義隊を一気に打ち破ったアームストロング砲を製造・保有していたように、当時最も軍事改革が進んだ開明的な藩であったが、ここも茨城県とは異なる理由で難治県であった。

まず、佐賀県の特徴を佐賀県政史(昭和54年佐賀県発行)から拾ってみたい。

「県内の山野には樟(くす)が多い。昔は一層繁茂していたようで、『肥前風土記』には樟の巨樹説話があり、佐賀の地名は樟が栄えていたので名付けられたとしてある」

「佐賀平野は自然条件に恵まれ、有明海沿岸では古来不断の干拓による耕地の拡張が行われてきた。幕末、佐賀藩は均田制と称される農地改革を行い、土地所有・農業経営が合理化され、大正末年から灌漑が機械化され、いわゆる『佐賀段階』(飛躍的に農業が発展した段階)といわれる高反収の農業を確立した」

「幕藩体制が確立し、鎖国による危機感のない平和な時代を迎え、藩内のモラルが低下すると、佐賀藩士山本常朝は『葉隠』を著して、藩士の心を引きしめた。この内容は佐賀人の精神文化面に大きな影響を与えた。

幕末の名君鍋島直正は、外国船が日本沿岸をたびたび来航する中で、いち早く国防の必要性を建策、佐賀藩の独力で築地と上多布施の二か所に反射炉をつくり、鉄製大砲を鋳造した。これは日本における最初のものである。ここでつくられた大砲は品川台場、長崎台場などに備えられた。幕末の佐賀藩は日本最大の兵器廠であった。

一方、玄界灘沿岸は最も大陸に接近しているので、古来彼我の交流密接であった。『魏志倭人伝』にみえる『末蘆(まつろ)』は東西松浦郡付近とみられる。古代に銅鏡や銅剣などがいち早く輸入されたごとく、近世、中世より製陶技術が伝来して、唐津焼や有田焼の郷土産業を興す嚆矢となった」

この県政史で分かるように、佐賀県は恵まれた自然・風土にあり、そこに名君鍋島直正が登場したのであるから、幕末時の佐賀藩は全国でも有数の豊かな藩となっていた。

しかし、直正の父第九代藩主斉(なり)直(なお)の時代は財政が厳しく、藩の負債額は膨大になっていて、天保元年(1830)に直正が第十代藩主となって、江戸屋敷から国元に向かおうとした時、借金の取り立てに押しかけた商人たちのために、藩邸から出ることができず、一日延ばしたという。

これ以来、直正は倹約統治を進めた。粗衣粗食、役所の経費切りつめ、参勤交代人数と経費の減少、江戸藩邸維持費の減額を行い、続いて藩の役人人数を三分の一整理し、全ての家臣に対して知行地・切(きり)米(まい)(俸禄米)の支給をやめ、藩政を担当している「勤役(つとめやく)」の場合、千石以上の者には知行(切米)の20%を支給、役職をもたない「休息(きゅうそく)」の者には15%の相続米(生活費としての実費)を渡すことにした。

また、人事の刷新と共に行政機構の改革を進めたが、最も効果が大きかったのは「利留(りどめ)永(えい)年賦(ねんぶ)」「打(うち)切(きり)」という手段をとった事である。これは利子を払わず何十年もの年賦返済であり、一部返済し残りは踏み倒ししたりした。

その一例としては、長崎商人たちへの返済は、ほんの一部を支払うだけで、後は七十年年賦とか百年年賦というもの。大坂の豪商三井は借銀の四分の三を献金させられた。

加えて、見逃せないのは「加地子(かじし)猶予(ゆうよ)」であろう。これは藩に納めるべき年貢(地子)を確保させるために、小作人が地主に納める「加地子米」を猶予させる事であった。これは地主の立場を否定するものであって、あくまで年貢を完納させることが目的であった。

さらに、防風林・木材・薪としての榛(はん)の木の移植、綿花の栽培、甘蔗の栽培による砂糖製造、平戸からの鯨の締(しめ)(占)買(がい)(買占め)、石炭採掘などにも熱心に取り組み、藩主直正は大坂商人たちから「算盤大名」とまで呼ばれるほどであった。

加えて、教育面も重視し、医学館の建設と藩校の弘道館を拡充させ、軍事面では幕府が安政二年(1855)に設立した長崎海軍伝習所、これは海軍士官養成のためで、オランダ軍人を教師に、蘭学(蘭方医学)や航海術などの諸科学を学ばせるためのものだが、ここの伝習生百三十名のうち、幕府からは四十名だったが、佐賀藩からは四十八名を派遣させ、オランダ人との交流にも積極的だった。

したがって、幕末時の雄藩であったから佐賀県には難治県の要素がないように考えられる。だが、既にみたように明治八年、二十五年の両方資料で佐賀県は難治県として認識されている。そこには茨城県とは異なる理由が存在したが、これについては次号以下で述べたい。

さて、この両県に鉄舟が県知事として赴任したのであるが、鉄舟は必ず戦略を明確にしてから行動する人物である。戦略が明確だからこそ判断が適切・妥当となる。ここが鉄舟の最大の魅力であり、今の政治家の多くが持ち得ていない要素である。

一介の下級旗本で、一度も政治的立場に立ったことがない鉄舟が、実質官軍総司令官である西郷隆盛との外交交渉に駿府に向かうよう、徳川慶喜から直接命を受ける異例の事態となり、当時の首相の任にあった軍事総裁としての勝海舟と練り上げた戦略は「徳川慶喜の生命確保」であり、他の和平条件はすべて受け入れる事で、江戸無血開城に結び付け、日本の新時代を切り拓いたのである。いかに時流に的確な戦略が大事だという証明である。

水戸や伊万里に赴くにあたっても同様、それぞれの状況に合致した戦略を明確にし、行動した結果が、茨城県ではたったの二十数日という短期在任、伊万里県でも一か月程度で東京に戻るという背景にあった。では、その戦略とは何か、これも次号に譲りたい。

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2012年08月24日

鉄舟県知事就任・・・其の二

鉄舟県知事就任・・・其の二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

東日本大震災時の日本人行動が世界中から称賛され、その行動の底流に武士道精神があり、それは仏教に関係していると先号でお伝えした。
既に触れていることであるが、多くの日本文化人は、この称賛されている行動について、あまり詮索せずに、せいぜい日本人のDNAだろうとか、本来持っているものが顕現された、というような表現で新聞紙上に発表している。

ところが、諸外国の新聞では「何故に日本人はあのような行動がとれるのか」という本質追求、実態を探ろうとする論調での報道が多くなされている。ここが日本人の感覚と異なるところであるが、今のところそれへの解答が日本人から正式になされているとは思えず、この鉄舟連載で述べているくらいではないかと思っていたところ、あの村上春樹がバルセロナで外国人に対し解答を行ったので、それをまずは紹介したい。

2011年6月9日スペイン・バルセロナにおけるカタルーニア国際賞授賞式での講演である。

「日本語には無常(mujo)という言葉があります。いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。これは仏教から来ている 世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。

『すべてはただ過ぎ去っていく』という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。

自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、秋になれば紅葉を愛でます。それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど自明のこと であるかのように、熱心にそれらを観賞します。桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、ホテルの予約をとることもむずかしくなります。

どうしてか?

桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。

そのような精神性に、果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、僕にはわかりません。しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、ある意味では『仕方ないもの』として受け入れ、被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのは確かなところです。あるいはその体験は、我々の美意識にも 影響を及ぼしたかもしれません。

今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、普段から地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。

でも結局のところ、我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。それについて、僕はあまり心配してはいません。我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです。いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できます。

結局のところ、我々はこの地球という惑星に勝手に間借りしているわけです。どうかここに住んで下さいと地球に頼まれたわけじゃない。少し揺れたか らといって、文句を言うこともできません。ときどき揺れるということが地球の属性のひとつなのだから。好むと好まざるとにかかわらず、そのような自然と共 存していくしかありません」と。

諸行無常sabbe-saMkhaaraa-aniccaa, とは、仏教用語で、この世の諸行という一切のつくられたものや現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。

この諸行無常が古代から日本人の中に宿っていて、それが無意識に「危険や災難を目前にしたときの禁欲的な平静さ」という行動を導き、再びその精神によって復興させていくのが日本人の特性だ、と村上春樹は述べているが、その通りであろう。

やはり村上春樹は鋭いと思う。世界から日本を見ている。世界の人々が今の日本をどう見ているかという事実をつかんで、そこから外国人に向かって説明しているのである。

普通に考えれば、文学賞の受賞講演であるから、自らの文学スタイルについて話すというのが通常ではないか。

ところが、村上春樹は無情という事を通じて被災地の日本人行動を語り、次に福島原発に対する見解、それは当然に日本政府と東京電力への批判を述べたのである。世界中の人々は、日本のバカらしい政治家の争いなどには興味を持っていない。今や福島原発への関心が最大事項であり、続いて日本人の被災地行動要因について知りたいのである。

この事実を殆どの日本人識者は知っているだろうが、世界に向かって解説していない。新聞は毎日バカバカしい国内政治騒動に紙面を費やし、それを読む日本人はくだらないと思いつつ、その方面に興味と話題が向いてしまい、世界から日本を見るという視点を忘れる。その上に記者クラブ性という世界でも稀な特殊報道機関体制の日本であるから、全く正しい妥当な情報が流されているとは思えない。

福島原発問題の日本政府報道が、世界から批判されていながら、改善しないままであるから、世界の知的階級は的確な情報に飢えているのである。その証明がボストンコンサルタントグループによる調査で「訪日の安全性に関し、その情報源の評価を聞いたところ、日本政府を信頼できるとした回答はわずか14%」(2011.6.14日経新聞)という実態であるから酷いものである。

そのような状況を村上春樹は理解しているので、バルセロナの講演となったわけで、さすがと思う。講演の最後に「今回の受賞賞金は東日本大震災への義援金にする」という言葉に、盛大な拍手が鳴りやまなかった。世界で通用する作家としての本質がバルセロナで再び証明されたのである。

 さて、本題に入るが、鉄舟が県知事であった事について、多くの人が不思議がる。あの剣豪の鉄舟が、というもので、いかに鉄舟という人物像がワンパターンで世上に広まっているかの証明である。

 また、物事は当時の状況から判断しなければならない。今の時代の価値観で昔を断じてはならない。

明治四年七月十四日(1871年8月29日)の廃藩置県により、新たに藩主に代わる知事が任命されたのであるが、旧幕時代とは縁のない人物を基本的に任命した背景を理解しないといけないだろう。

廃藩置県当初は、藩をそのまま県に置き換えたため三府三百二県あり、その後明治四年十月から十一月に三府七十二県に統合された。という意味は当然に、三百二から七十二に二百三十も減ったのであるから、ひとつの県の中に旧幕時代に異なる藩主によって治められていた地区が、多く入り混じって合併されたという事になる。

当時は、藩が異なれば政治行政も違っていたし、幕府直轄地もあれば、旗本の領地もあり、それらによって領民の文化や祭りごとも生活習慣等異なっていた。いわば江戸時代265年の長きにわたって、歴代の藩主によってそれぞれ完全自主経営管理下にあった領民が、隣国や近辺国であっても、かつては敵国として戦った経緯もあったであろうし、怨讐が複雑に絡み合っていた他藩の領民と同じ県に所属し、ひとりの県知事治世の下になるという事態になったわけである。

先の戦争中、都会地の子供が地方に疎開した事を思い出せばよい。習慣も制服も言葉も違っていて、多くの子供達は馴染むのに大変苦労したものである。

従って、新たに設置された括りとしての県民同志になったとしても、中には昔からの遺恨もあるだろうし、年貢として大事な田に必要な水の確保という争い、これは南北朝時代には将軍家にまで訴訟があがり、江戸時代には一段と水争いが激しさを増し、ひとつの川筋にはいくつもの藩が絡んでいたので、たびたび幕府にまで裁定を仰いでいた歴史があるように、仲がよくない領民が一緒になるのであるから、面白くないという感覚を持つ人々が多かったはずで、簡単にはまとまった政治はできないと容易に予測がつく。

 つまり、県知事の人事は難しいのであり、中でも「難治県」といわれるところに派遣する人物選定には困ったであろう。

 その「難治県」の代表もいえる茨城県と伊万里県(佐賀県)に、鉄舟が選任されたのである。その理由は明確で静岡における鉄舟の業績にあった。

話はさかのぼるが、慶応四年(1868)五月、徳川宗家を継いだ田安家のまだ五歳の亀之助(後の徳川家(いえ)達(さと))に徳川家の禄高が七十万石、領地は駿府一円と遠江国・陸奥国と通告された。

しかし、与えられた陸奥国は当時戦争中であって、徳川藩への引き渡しは事実上できず、そこで改めて遠江国諸侯領と駿河国久能山領、三河国御領と旗本領を加えたものにしたのであるが、そのためには諸侯のいない三河国御領と旗本領以外の二国、駿河と遠江の領主を移封させ、新たなる静岡藩をつくったわけで、いろいろ難しい問題があった。

その第一は、徳川家臣とその家族の江戸からの大量移住である。家臣達の静岡での生活は激変し、特に衣食住問題への対応は厳しく苦しかったが、一気に増えた移住者によって食料が不足し、それが一般民衆の生活まで影響し、難しい困難な政治運営とならざるを得なかった。

第二には禄高七十万石にするために、幕府直轄地であった三河国御領と旗本領以外の、駿河国・沼津、小島、田中(藤枝)三藩と、遠江国の掛川、相良、横須賀(掛川市の一部)、浜松の四藩、計七藩が新たに加わった政治・行政の難しさである。

第三には駿府地区特産のお茶が諸外国へ輸出され、この地に未曽有の好景気をもたらしていた事から幕府を支持する層と、幕藩体制下で疎外されていた遠州報国隊、駿州赤心隊、伊豆伊吹隊などの、神職中心の倒幕運動層との間に発生した殺傷事件問題の後始末である。

第四はこの地が清水の次郎長に代表されるように、博徒が輩出する地域でもあった事。どうしてそのような土地柄になったのかであるが、それはこの地域の歴史的特殊性にある。東照神君の地にして徳川幕府揺籃の地三河・駿河地域は、本来徳川幕府のモデル地区として最も法令が守られ、無宿や博徒が入り込む余地がない優等生の地でなければならないはずであるが、皮肉にも徳川幕府発祥地という由緒が、大名や旗本に三河以来の地縁を求めて少しでもいいから飛び地を持つことを希望させた結果、小藩が分立し、しかも大名の交代が非常に激しかったので、常に七から十一の藩が分立し、五十二もの藩が生まれそして消えていった。中でも吉田藩(七万石)で十回、西尾藩(六万石)・刈谷藩(二万三千石)は九回領主が代わった。のみならず尾張藩、沼津藩などの飛び地や幕領が点在し、加えて六十余家に及ぶ旗本の知行所がばらまかれた。

しかも三河の譜代藩は東照神君に連なる名門の血筋であり、多くが幕閣枢要の職に就いて専ら江戸にあって幕政に腐心し、国元の治世を疎(おろそ)かにしたので、取り締まりも十分でなく博徒が輩出したのである。

このような状態下の静岡藩で鉄舟は、明治元年(1868)に勝海舟と共に幹事役となり、明治二年(1870)九月に権大参事・藩政補翼という要職へ九名と共に任じられ、それぞれ役割を分担したのである。

幼い藩主家達の年齢から考え、事実上の県知事に当たる立場で、徳川幕府崩壊という徳川家と家臣達の瀬戸際の時代を、鉄舟は静岡の地で藩政治に全力を持ってあたり奮闘したのである。

また、チーム鉄舟の高橋泥舟も志田郡田中の奉行、中条金之助と松岡万も奉行として骨を折り、剣術の師匠であった井上清虎は浜松兼中泉奉行となり晩年に第二十八国立銀行(静岡銀行の前身)の頭取となったように、明治四年七月の廃藩置県までそれぞれ精進したのであった。

さて、廃藩置県によって徳川家達が、多くの旧藩主同様に東京に集められ、家禄を与えられ静岡を去る機会に、鉄舟も他の藩士等と共に東京に戻ったのである

県知事には権大参事で藩政補翼兼御家令であった大久保一翁が任命されたが、考えてみると慶応四年から明治四年までの静岡藩の四年間は、廃藩置県によって諸問題が発生すると予測される各県のテストケースとなったのではないか。

それは意図されたものではなかったが、様々な要因が複層し混線する難しい藩経営を行わざるを得なかった結果が、廃藩置県後の「難治県」対策のとしての事前実験シミュレーションとなったのであり、その実質的リーダーとして仕切ってきた鉄舟を密かに注目していた人物がいた。

それは大蔵卿の大久保利通であった。当時の大蔵省は今の財務、総務、厚生労働、国土交通、経済産業等の省庁を包括する巨大官庁で、国内政治を一手に仕切る部門であったが、大久保の心配の種は廃藩置県によって必ず起きるだろうと予測される「難治県」での「新政府に対する反抗」に対してどういう処置をとるべきかであった。

この件は明治四年七月九日、木戸孝允の邸で開かれた廃藩置県の最終会議で、木戸と大久保の大論争で結論がつかなかったものである。

その懸念する大久保の眼に、静岡藩における鉄舟の行政手腕と功績が映ったのである。鉄舟を廃藩置県後の「難治県」対策として登用したいと。

幕末から幕府崩壊まで、鉄舟と大久保とはあまり縁はなかった。西郷隆盛とは江戸無血開城駿府会談を機に、お互い信頼し合う間柄であったが、大久保とは接点がなかった事もあり、特に親しいという間柄ではない。

その大久保から鉄舟に直々の呼び出し状が届いたのである。呼び出される内容に心当たりはなく、用件は静岡での出来事での問い合わせ事項かなと思って、大久保の前に立った。

「静岡では大変ご苦労をおかけいたしました。おかげで無事静岡県に移管する事が出来ました。ついては山岡さん、茨城県の参事をお願いしたい」

鉄舟はビックリ仰天。鉄舟は新政府の役人になるつもりは毛頭なく、さらに剣・禅の修業をと思っていたところである。

茨城県は、十一月に水戸県等周辺六県が合併して成立することになっていた。その初代参事(知事)である。

既に決定した人事であるから断れない鉄舟、辞令を受けると直ちに「難治県」の水戸に向かった。

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2012年07月15日

鉄舟県知事就任・・・その一

鉄舟県知事就任・・・その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

東日本大震災時で被災者の方々が示したすばらしい秩序と相互扶助が世界から注目を浴び、驚嘆させ、首都圏の帰宅困難者達の間にも、温かい助け合いが生まれた事についても感銘され、今でも世界各地で語られ評価されている。
2011年6月上旬、ロスアンゼルスのビバリーヒルズのブティックに立ち寄った際に、3か月が過ぎようとしているのに、ウインドウに「日本を助けよう」とポスターを大きく掲示していた。

ところで、その賞賛された行動はどこから発現されたのか。日本人の中に流れている原点的な存在から生じ、そこに武士道精神が絡んでいる事は間違いないだろうと前号で触れた。

しかし、武士道とは、人口比5%に満たないと思われる武士階級の中で培われてきた思想的精神であって、これが江戸時代を終えて143年も過ぎた東日本大震災時という突発時に、一般大衆である東日本の人々に突如一斉に顕れたのであるから、武士道のみによって賞賛される行動を説明できないだろうとも思う。

そこで改めて新渡戸稲造の武士道を読んでみると序文で次のように述べている。

「この小著の直接の発端は、私の妻がどうしてこれこれの考え方や習慣が日本でいきわたっているのか、という質問をひんぱんにあびせたからである。

ラブレー氏(ベルギーの法学者)と妻に満足のいく答えをしようと考えているうちに、私は封建制と武士道がわからなくては、現代の日本の道徳の観念は封をしたままの書物同然であることがわかった」
この文章が意味するところは、日本人が本能として認知している道徳概念は、武士階級に顕著に示されていると考え、そこで武士道を語ろうとした、つまり、日本人一般の道徳習慣を昇華させていると思われるものを、新渡戸稲造は武士道というキーワードで整理し論述したのではないかということである。

さらに第二章「武士道の源をさぐる SOURCES OF BUSHIDO」で、最初に「まず仏教から始めよう I may begin with Buddhism」と述べ、いくつか解説する中で仏教によって

「危険や災難を目前にしたときの禁欲的な平静さをもたらす that stoic composure in sight of danger or calamity」

と述べている。これに従えば被災地の人々が見せた行動は、仏教に起因しているという事になる。
因みに、東日本大震災の報道を世界の新聞が伝えたが、その中でもル・モンドは被災地の行動は仏教が関与していると分析している。

「おそらく、信者であろうとなかろうと、仏教の教えは日本人の心情にしみ込んでいる。それがゆえに、不可避の出来事を冷静に受けとめることができるのではないだろうか」

さすがは文化ブランドに長じたフランス人と思う。日本人の行動の背景を新渡戸稲造と同じく仏教から説いている。日本の新聞では、このように仏教と結び付けた解説はお目にかかっていない。諸外国ではフランス人が最も日本を知っているのではないだろうか。

なお、明治十年(1877)に来日し、ダーウィンの進化論を体系的に紹介し、大森貝塚を発見したエドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse)は、当時の日本人の群衆が秩序正しい行動をすることに驚きを示している。

「隅田川の川開きを見にゆくと、行き交う舟で大混雑しているにもかかわらず、『荒々しい言葉や叱責は一向聞こえず』、ただ耳にするのは『アリガトウ』と『ゴメンナサイ』の声だけだった」(逝きし世の面影 渡辺京二 平凡社)

これらから日本人の本能の中には、秩序正しき行動が刷りこまれているのだと思う。

ところで、武士道が世界に知られるようになった契機は、新渡戸稲造が1899年(明治三十二年)にアメリカで英文によって「BUSHIDO,The Soul of Japan」を発刊し、その後世界のさまざまな言語に翻訳されて読み継がれているからだと思っていたが、各国で武士道論議をしてみると同書を実際に読んでいる人は少ないという事が分かってきた。

勿論、武士道というキーワードは知っており、概ね妥当な理解をしているが、武士道への理解は実は映画「ラストサムライ」(The Last Samurai)による影響の方が、最近では大きい事が分かってきた。

「ラストサムライ」は2003年のアメリカ・ニュージーランド・日本の合作である。日本での興業収入は137億円、観客動員数は1410万人、2004年の興行成績第一位であったが、アメリカを含めた世界各国でも高い関心を呼び、どの国でも多くの観客を動員した。 

トム・クルーズが演ずる主人公ネイサン・オールグレンのモデルは、徳川幕府のフランス軍事顧問団として来日、函館戦争でも戦ったジュール・ブリュネ。物語アィディアの背景とした史実は、西郷隆盛等が明治新政府に対して蜂起した西南戦争や、熊本の神風連の乱と思われ、主役の「勝元」役を演じた渡辺謙の好演が評判の映画でもある。

フランスでも、アメリカでも、ブラジルでも、ペルーでも、その他の国でも同様だが、多くの方と話し合うと、この「ラストサムライ」を観た事によって、武士道という概念を知ったと全員発言する。

特に、トム・クルーズがサムライ集団と起居を共にしていくうちに、次第に武士道精神を学びとっていくプロセスがうまく描かれていると言い、ここの場面に大変興味と関心を高く持ったと言う。

そこで改めて「ラストサムライ」をCDで観てみたが、確かにこのような描き方をすれば武士道が世界中から理解されるだろうと思いつつ、しかし、日本人ではこのような脚本は書けないのではないかと感じる。つまり、世界中の人々の立場から武士道を描くというのは日本人には難しく、結局、日本人向きの武士道になってしまうだろうという事である。

もう一つ武士道が外国人に知られていくツールはマンガである。マンガに登場するサムライを通じハラキリ、カミカゼと共に武士道が伝わっているが、何故にハラキリを武士が自ら行うのか、カミカゼ特攻隊とアルカイダ自爆テロの区別等、お会いした人にひとつ一つ解説して行くと頷くが、マンガを読むだけでは十分な理解は得られず、特徴的なサムライ行動が武士道であるという捉え方になりやすく、誤解を与えかねない。このところの解説をしっかりするのが今後の課題だろうと思っている。

なお、武士道はアメリカの高校教科書にも記されている。

(教科書のタイトルと著者名)
Traditions and Encounters, 2/e
Jerry H. Bentley, University of Hawai'i
Herbert F. Ziegler, University of Hawai'i

(本文)
「The samurai were professional warriors, specialists in the use of force and the arts
of fighting. They served the provincial lords of Japan, who relied on the samurai
both to enforce their authority in their own territories and to extend their claims to
other lands. In return for these police and military services, the lords supported the
samurai from the agricultural surplus and labor services of peasants working under
their jurisdiction. Freed of obligations to feed, clothe, and house themselves and
their families, samurai devoted themselves to hunting, riding, archery, and martial
arts. They lived by an informal but widely observed code known as bushido (,,the
way of the warrior"), which emphasized above all other virtues the importance of
absolute loyalty to one's lord. While esteeming traits such as strength, courage, and '
a spirit of aggression, bushido insisted that samurai place the interests of their lords
even above their own lives. To avoid dishonor and humiliation, samurai who failed
their masters commonly ended their own lives by seppuku-ritual suicide by sometimes referred to by the cruder term hara-hiri ("belly slicing',).」

(訳文)
「侍はプロの戦士であり、戦いのための専門的武力と芸術を保持する。侍は地方大名に仕え、大名は侍を率いて自らの領地内の権威を保ち、他領地に対し権威を主張する。警備及び軍備の奉仕の代償として、大名は侍に十分な農作物を供給し、百姓の労働力の指揮権を提供した。食、衣服、住居が侍の家族に供給され、侍は家族を養う義務から開放され、狩り、乗馬、弓、武術に専心することができたのである。侍は非公式ではあるものの、広く遵守されている“武士道”と呼ばれる、主人への絶対的服従を強調した価値観規則(code) に準じて生きるものとされた。武士道は、強さ、勇気、そして攻撃性を重んずる一方で、侍は主人への忠誠心は自分の命よりも尊重するものとしている。不名誉と屈辱を避けるため、主人に仕えられなかった侍は切腹、又は更に残酷な表現では“腹切り”により自決するのが通常である」

この内容、何となく分かるが、これだけでは不十分だろう。教科書であるから十分なスペースでの記述は無理であろうが、ここでもハラキリを特徴として強調している。もっと書くべき大事な事が多々あると思う。

ここでもう一つスティーヴン・ナッシュ著「日本人と武士道」(角川春樹事務所)からの指摘を紹介したい。

「戦後の日本人は、あらゆる機会に、『国際的であれ』と自分自身に要求してきた。その要求が本気のものであるとは私には信じられない。その理由は、政治家であれ経営者であれ学生であれ、アメリカを訪れる日本人から新渡戸稲造の『武士道』のことを聞かされることはめったになかったという点にある。

新渡戸を国際的日本人の最初の代表とよんでさしつかえないであろう。しかもその書物は英語で書かれている。だから、その書は、日本語を喋れないアメリカ人と英語の下手な日本人とのあいだの、絶好の橋渡しとなりうるはずのものだ。

しかも、絶対的平和主義をもって鳴るクェーカー派に入信した新渡戸が、本来は戦争の専門家である武士の生き方について語るというのは、それだけで十分に刺激的な話題である。その折角の話題を利用しなのは、その国際主義がアメリカへの適応に流れ、日本からの発信を欠いたものであったからだと思われる」

この指摘、確かにそうだと感じ、アメリカに輸出している企業経営者に上記指摘を伝えると、新渡戸稲造の武士道は読んでいないし、武士道一般についてアメリカ人に解説できるほどの理解がないとの答えで、逆に当方に「教えてほしい」という希望を口にしたほどである。多分、日本の多くの経営者は同様であるまいか。返って「ラストサムライ」を観た外国人の方が理解している可能性が高いと思われる。

今回の東日本大震災で示された被災者の行動が賞賛された結果、武士道というキーワードは世界から一段と関心を持たれはじめたので、日本人も勉強すべきだろうと思い、少し長いが解説を加えた次第である。

さて、鉄舟が県知事となった経緯に入りたいが、その前に当時の状況を見てみたい。

まず、明治二年六月に二百七十四大名に版籍奉還が行われ、土地と人民は明治新政府の所轄するところとなった。だが、各大名は知藩事(藩知事)として引き続き藩(旧大名領)の統治に当たり、これは幕藩体制廃止の一歩となったものの現状は江戸時代と同様であった。

一方、旧天領や旗本支配地等は政府直轄地として府と県が置かれ、中央政府から地方長官として府には府知事、県には県知事がおかれた。これが明治元年末には九府三十県となっていた。このように地方行政を三つに分割統治していたので、これを府藩県「地方三治制」という。

当時、藩と府県(政府直轄地)の管轄区域は入り組んでおり、この府藩県三治制は非効率であり、廃藩置県は絶対に必要であった。廃藩地検の主目的は年貢を新政府にて取り総めること、即ち中央集権を確立して国家財政の安定を目的としたものであるが、これには欧米列強による植民地化を免れるという大前提もあった。

しかし、廃藩置県は全国約二百万人に上るとも言われる藩士の大量解雇に至るものであり、また、軍制は各藩から派遣された軍隊で構成されており、これも統率性を欠いていた上に、各藩と薩長新政府との対立、新政府内での軋轢、今の政治状況とは比べられないほど混乱していたが、そのうち藩の中には財政事情が悪化し政府に廃藩を願い出る所もあった。

このような状況であったが、明治四年七月十四日(1871年8月29日)明治政府は在東京の知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じたのである。だが、この実行背景に西郷隆盛の功績についてふれなければならないだろう。

廃藩置県には薩摩藩の藩父として隠然たる力を持つ島津久光が猛反対で、明治四年三月、西郷隆盛が御新兵を率いて東京に上る時、久光から「廃藩置県はまかりならぬ」と釘をさされていながら、廃藩置県のため奔走していた長州の山県有朋が「明治四年の廃藩置県は西郷の一諾できまった」と生涯これを爽快な政治劇の一幕として常に回想しているように、久光への裏切りとなる西郷の断行判断で実行されたのであった。

それは廃藩置県の最終会議が、明治四年七月九日に木戸孝允の邸で開かれた席上の事である。長州から木戸、井上薫、山県、薩摩からは西郷と大久保利通、西郷従道、大山巌。会議は木戸と大久保の大論争で結論がつかなかった。それは新政府に対する反抗が必ずおきるであろう、その際どういう処置をとるべきかについてであった。

西郷はじっと黙って二人の論争を聞いていたが

「事務上の手順がついているならば、暴動がおきたら鎮圧は拙者が引受申す。ご懸念ない。直ちに実行してください」

と発言したことで廃藩置県が決まったのである。

数日後、会議の結果を明治天皇に奏上し、天皇はいろいろ御下問された。明治天皇は当時十九歳十カ月というお若く、ご懸念がつよくご心配されるのが当然であったが、西郷が

「恐れながら吉之助がおりますれば」

という自信に満ちた奉答に天皇はやっと安心したと伝えられている。

廃藩置県の報が鹿児島に達した時、島津久光は激怒し、磯の別邸前の海に石炭船を浮かべ花火を終夜あげさせ、西郷への怒りを爆発させた件は知られている事である。

さて、廃藩置県の実行で、藩は県となって知藩事(旧藩主)は失職し、東京への移住が命じられた。各県には知藩事に代わって新たに中央政府から県令が派遣された。なお同日、各藩の藩札は当日の相場で政府発行の紙幣と交換されることが宣された。

当初は藩をそのまま県に置き換えたため現在の都道府県よりも細かく分かれており、三府三百二県あった。また飛地が多く、地域としてのまとまりも後の県と比べると弱かった。そこで明治四年十月から十一月に三府七十二県に統合された。

その後、県の数は明治五年(1872年)六十九県、明治六年(1873年)六十県、明治八年(1875年)五十九県、明治九年(1876年)三十五県と合併が進み(府の数は三のままである)、明治十四年(1881年)の堺県の大阪府への合併をもって完了した。

だが、今度は逆に面積が大き過ぎるために地域間対立が噴出したり、事務量が増加するなどの問題点が出て来た。そのため次は分割が進められて、明治二十二年(1889年)には三府四十三県(北海道を除く)となって最終的に落ち着いた。

統合によってできた府県境は、律令制に基づいて設置された令制(りょうせい)国(こく)*と重なる部分も多く、また、石高で三十~六十万石程度(後には九十万石まで引き上げられた)にして行財政の負担に耐えうる規模とすることを心がけたと言う。

また、新しい県令などの上層部には、旧藩とは縁のない人物を任命するために、その県の出身者を起用しない方針を採った。例外として鹿児島県令の大山綱良のように、薩摩藩士であったが数年に渡って県令を務めた者もいたが、他藩出身者による県令制は基本的に守られ、この意図から鉄舟が初代茨城県参事(知事)として赴任したのであった。

さて、茨城県であるが、明治四年十月から十一月にかけて三府七十二県に統合された際、関東七国と伊豆の府県を廃して東京府ほか十県を置き、この十県の中に茨城県が含まれ、県庁を水戸に置き、旧弘道館を庁舎にあてた。

この際、十月は府県管制で府県には知事、権知事、参事、権参事以下を置き「知事アレバ権知事ヲ不置、権知事アレバ知事を不置」と定められた。

十一月には県知事を県令と改称し、同月の県治条例で地方行政の刷新が行われ、県令(四等)、権令(五等)、参事(六等)、権知事(七等)以下の職務を定め、これが明治十九年(1886)地方官官制の公布によって知事と改称されるまで県令時代が続く。

ところで、鉄舟の県知事時代を研究すべく、東日本大震災で被害を受け、町中の建物が被災を受け、偕楽園も閉鎖されている中、水戸市に向かい改めて茨城県という地域性を考えてみると、その特異性が浮かんできた。

茨城県の明治初期は、幕末以来の尊王攘夷をめぐる藩論の分裂や激しい党派の争いが尾をひき、民心は不安定であった。元来、県民は自尊心が強く、保守的な面が強いといわれ、県北と県西、県南では地勢、風土、気質が異なることから政治経済上の利害が異なるところが多く、県の政策をめぐって各地方の対立がはっきりと現れるという実態であった。そこで、明治初期から中期にかけて、中央政府の立場からみると、茨城県は「難治県」と呼ばれていた。

茨城県の県名は、県庁の置かれた茨城郡(水戸上市)の郡名によったものであるが、何故に鉄舟がこの地に派遣されたのか。

まず、最初に考えられるのは、徳川慶喜の生地であるという事である。慶喜が上野寛永寺に蟄居した際、鉄舟が駿府掛けし西郷と江戸無血開城を成し遂げ、その後慶喜は水戸にしばらく謹慎したという徳川家と縁が深い事と、水戸藩は徳川御三家であったという関係、さらに、母の磯が鹿島神宮神官の塚原石見の二女であったことも与っていると考えられる。

しかし、最も大きな要因背景は、茨城県の「難治県」というところにあったはず。この「難治県」を解説するためには、水戸斉昭から始まる水戸藩の抗争・内紛についてふれないといけない。

水戸光圀が大日本史の編纂に着手し、やがてそれが水戸学の発祥となり、尊王攘夷の宗家のようになり、他藩に伝播し、倒幕運動に発展し、水戸藩内分裂のつながり、派閥闘争のあげく藩士が血で血を洗う抗争の犠牲になり、明治新政府になった時に登用される人材が皆無の状態になった事実の背景分析と、この地に鉄舟が初代知事として赴任したが、その在任期間が一カ月未満という事は何を意味しているか。

これらについては次号以降で展開したい。

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痩せ我慢の説と鉄舟・・・其の七

痩せ我慢の説と鉄舟・・・其の七
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

東日本大震災時に示された被災地の日本人行動が、世界から賞賛された。という事は他国では、このような行動がなされ難いという事実を示し、日本人が持つ独自の特色・徳目だという事になる。

ところで、その賞賛された行動はどこから発現されたのか。日本人の中に流れている原点的な存在から生じているに違いないが、それが何であるか。そのところの分析を、鉄舟研究をしている者として、いずれ解明したいと考えているが、武士道精神が絡んでいる事は間違いないだろう。

武士道とは、江戸時代265年の歴史によって、鍛え上げ創造した美的精神像でありながら、それが体系化されず、成文法として存在しなく、せいぜい口伝によるか、著名な武士や家臣の筆になるいくつかの格言によって成り立っているところに特性がある。

さらに、江戸時代の武士の人数、これは明確化されていないのであるが、多分、人口比5%に満たないと思われる武士階級の中で培われてきた思想的精神が、江戸時代を終えて143年も過ぎた東日本大震災時という突発時に、被災地の一般大衆国民の中で突如一斉に顕れたとすると、これまたその要因背景を解明しなければならない。

その解明は今後になるが、ひとつ考えられるのは「自己犠牲」という武士道の本質にあたる重要徳目「個人よりも公を重んじる」精神が影響している事である。

米欧世界では基本的に個人主義が特長で、父と子、夫と妻であっても、それぞれに個別の利害を認めている。したがって、人が他に対して負う義務は、日本に比較し明らかに軽減されている。

それに対し、武士道では一族の利害と、その個々の成員の利害は一体不可分である。即ち「私(わたくし)」に奉じず「公(おおやけ)」に奉じるのである。これは「滅私奉公」というような言葉として受けとめられやすく、今の時代では封建時代の不合理なものであると勘違いしやすいが、本来の意味は「私心」を捨てて「公」につくすという「高い(ノブ)身分(レス)に伴う(オブ)義務(リージュ)」精神を意味するものだ。

このあたりの解説を三島由紀夫が次のように述べている。(「最後の独白」前田宏一著)

 「サムライの条件は三つある。第一は『セルフ・リスペクト=自尊心』、第二は『セルフ・リスポンシビリティ=自己責任』、第三は『セルフ・サクリファイス=自己犠牲』。

よく外国人の作家や映画評論家、音楽家に聞かれるのだが、『サムライ精神は危険だ、ミリタリズム、ナチズムになりかねないんじゃないか』という。わかってないんだ彼らには、サムライというものが、ね。アウシュヴィッツの所長にもドイツ人としての誇り=セルフ・リスペクトはあったろうし、体制の中で自分が行わなければならんという、命令に対する自己責任感=セルフ・リスポンシビリティもあっただろう。しかし自己犠牲=セルフ・サクリファイスがなかった。 自分の命を懸けてでもそれを止めようという精神はなかった。これのないものは”サムライ精神“とは大きく違うのだと説明してやるのだが、わからん。だいたい”ミリタリズム“ってのは、ヨーロッパから入ってきたものじゃないか。日本にはなかったものだといってやるが、理解できん。武士道とミリタリズムはまったく違うものだ。サムライはそんなものじゃない。一人ひとりが、”自己犠牲の精神で生きる“ ”一個の完璧な連環を形成“していた、それが武士なんだ、といっても西洋人にはわからん」

 この発言は、昭和45年(1970)11月25日の三島由紀夫自決の一週間前に、著者の前田宏一氏、当時週刊ポストの記者で三島由紀夫にインタビューした時のもの。

 さすがに三島は的をえていると思う。自己犠牲が武士道の重要徳目と理解している。

 日本の武士道が、世界に知れ渡る事になった契機は、新渡戸稲造が1899年(明治三十二年)にアメリカで英文による「BUSHIDO,The Soul of Japan」を発刊した時からである。

日本語版は、翌年の明治三十三年(1900)に「武士道」として出版されたが、この出版タイミングに伴う妙な関係が浮かび上がってくる。

それは、今まで検討してきた福沢諭吉の「痩せ我慢の説」が、新渡戸稲造「武士道」日本語版の翌年になる明治三十四年(1901)になって、時事新報に掲載され出した事である。福沢は既に十年前の明治二十四年(1891)に書き終えていたのに、どうして新渡戸稲造の「武士道」の翌年に持ちこされたのだろうか。

その理由として一般的に言われているのは、福沢が二、三の親友に極秘として見せたが、その一人の栗本鋤雲が知人にも見せてしまい、内容が外部に漏れたので、福沢もそれなら仕方ないと、十年後の明治34年一月一日から時事新報に掲載を始めたというものである。

だが、もう一つ妙な事に「故山岡鉄舟口述、故勝海舟評論、安部正人編纂、武士道」、つまり「鉄舟武士道」が「痩せ我慢の説」の翌年、明治三十五年(1902)一月に出版された事である。明治二十年(1887)に、四谷仲町の自邸で門人等に講義を行ったものであって、出版までに十五年間要している。

整理してみると、明治三十三年に新渡戸稲造、三十四年に福沢諭吉、三十五年に鉄舟と、三年続けて武士道関連が出版されているのであるが、これは偶然な事なのだろうか。それと何かの意図があったのであろうか。

この検討には当時の状況を振り返ってみないといけない。当時の日本は明治二十八年(1895)に日清戦争勝利し、明治三十五年の日英同盟という世界の大国であるイギリスと同盟関係として結びあうことで、欧米列強の仲間入りをしようとしていた。

また、この日英同盟から二年後の明治三十七年(1904)に日露戦争を迎えるのであるが、対ロシア戦争準備を進めて行けばいくほど、科学的合理主義で国づくりしている欧米列強の力が分かってきて、ロシアに勝利するためには日本を西洋的価値観の国に変換して行かねばならぬ、という想いが強くなっていく。

一方、日本の伝統的価値観を無視し、軽視して行くことは、民族(エー)精神(トス)を失って、日本という国が変質してしまうという主張も強く指摘されてきた。

そのようなタイミングに新渡戸稲造が日本人の伝統的(アイデンテイ)精神(テイー)として「大和魂」を謳い、それが外国で日本が理解される重要なファクターとなった事が、明治維新からの「文明開化」で「日本人とは何か」を忘れかけていた明治の知識人にショックを与えた。

新渡戸「武士道」が外国人に受け入れられた背景としては、欧米との思想的比較文明論として武士道を体系化し紹介した事と、外国人の立場に立ち、外国人が分かりやすい論理展開によって述べた事が大きい。

さらに、英語版に続いて翻訳版がドイツ語、フランス語を始め様々な言語で、多くの国で出版される実態を見て、当時の日本人の方が、改めて武士道精神を見つめ直す必要性に気づいたのである。

その結果が、福沢が十年前に書いてお蔵入りとなっていた「痩せ我慢の説」を引っ張り出し、鉄舟が十五年前に講義した記録を「鉄舟武士道」として世に出したのだと推測する。

加えて、新渡戸稲造はキリスト教徒であって本来の武士ではない。サムライではない者が外国人向けに書いたもの。その文面に江戸期の精神を色濃く残す当時の日本人にとっては、新渡戸武士道は何か西洋的なものを感じる。要するにバタ臭いのである。

そういう立場で、今改めて読みなおしてみると、引用には多くの外国文献が使われているし、訳文の影響もあるだろうが、言い方も回りくどいように感じる。もっと直截・端的に武士道を語れないか。それも本物のサムライが述べ書いたものが欲しい。これが当時の明治人たちが持った素直な感覚であったであろう。

その要望に応えたのが鉄舟武士道であって、鉄舟は自分の生き方を真っ直ぐに披瀝している。剣禅書の三位一体の人物、明治中期に衆目一致した武士道的生き方実践者が、日本人に対して教訓として述べたのである。当時は新渡戸武士道より、鉄舟武士道の方が人気も出版部数も多かったのではないかと、これまた推測している。

だが、ひとつ新渡戸武士道について擁護したい事がある。

それは平成時代の人々が、新渡戸と鉄舟の武士道を読み比べると、新渡戸の方が理解しやすいという事実である。現代人は戦後の欧米感覚を取り入れた義務教育で育てられたので、新渡戸の展開する体系と論理の方が、明治期の人々よりは受け入れやすい。加えて、戦後の「国語改革」による漢字制限に始まる当用漢字の変遷もあり、鉄舟は読み難い部分が多々ある。さらに、新渡戸は原文が英語であるから、当然であるが訳文はその時代に使用されている表現文字言語になるので、現代人には読みやすく分かりやすいという事になる。

対する鉄舟については、勝部真長氏が次のように述べている。(山岡鉄舟の武士道)

「とにかくこの本は一風変わった妙な本である。山岡鉄舟でなければ、やはり言えないような、独自な、突拍子もないようなことが飛び出してくる。見方によってはわがままな、断片的ともいえようが、しかしまた他面からいえば深い人格の、無意識底から湧き出してくる暗号のようにも受けとれる。
鉄舟が『武士道』について門人たちに講和しようという気持ちになれたのは、明治十三年に『剣の道』が成就していたからで、もし鉄舟の無刀流が大悟発明されていなければ、とても武士道についてとくとくとおしゃべりなんかする気になれなかったに違いない」

大悟という境地から発した武士道講義であるから、歴史認識に浅い現代人には新渡戸武士道よりは分かりにくいというところが多々あるが、しかしながら、さすがに鉄舟は違うという事をこれから展開したい。

鉄舟宅にて門人を前に語り出す。

「拙者の武士道は、仏教の理より汲んだことである。それもその教理が真に人間の道を教え尽くされているからである。まず、世人が人を教えるに、忠・仁・義・礼・知・信とか、節義・勇武・廉恥とか、あるいは同じようなことで、剛勇・廉潔・慈悲・節操・礼譲とか、言いかえれば種々あって、これらの道を実践躬行(きゅうこう)*する人をすなわち、武士道を守る人というのである。私もそれには同意である」

ここで鉄舟らしい言葉をつなげる。

「しかし私にはなお、他に自信するところがある。その義も似たようなことであるが、物あれば則(のり)*ありというように、人のこの世の中に処するには、必ず大道を履行しなければならない。ゆえにその道の淵源(えんげん)を理解しなければならない。これを学理的に理解しようとするならば、一朝一夕の業ではないが、私はわが国の前途がすこぶる思われてならない。それゆえに国民である以上は、上は大臣首相から下は片山里の乙女、童児に至るまで、だれでも心得ねばならぬと思っている。その一部分を物語るから、それらの話をとくと味われて日本人の武士道ということを理解してもらいたい」

次に、鉄舟が武士道を悟り体得した源を語る。

「ここに一言申しおくことは、日本の武士道ということは日本人の服膺践(ふくようせん)行(こう)すべき道というわけである。その道の淵源を知らんと欲せば、無我の境に入り、真理を理解し開悟せよ。必ずや迷誤(まよい)の暗雲(くも)、直ちに散じて、たちまち天地を明朗ならしめる真理の日月の存するのを見、ここにおいて初めて無我の無我であることを悟るであろう。これを覚悟すれば、恐らく四恩(父母の恩、衆生の恩、国王の恩、仏法僧の三宝の恩)の鴻(こう)徳(とく)(大徳)を奉謝することに躊躇(ちゅうちょ)しないであろう。これすなわち武士道の発現地である」

さらに、今の時代にも当てはまる苦言も述べる。

「今日の役人どもごときは、給わる月給をいただくというよりは、月給泥棒ではあるまいか。彼等が大臣の椅子をほしがるのは、その要路にあって国家のために身命を投げ捨てて、至誠奉公するというのではなく、名利情欲が目的ではあるまいか」

「はなだしい不徳不義の徒の放言には、今日は法律があるから、法律の範囲内において権利を主張するのは、いささかの支障はないという具合」

「いったい法律というものは、社会の制裁上、人為的の仮条文には相違ないけれども、衆人集まりて済世するうえにおいては、また止むをえないことである。しかしながら、法律なるものは、人類霊性の道義の観念にまで、手だしをするものではない。否、力の及ぶものではない。この及ばないところを霊(れい)活(かつ)な精神作用をもって補わねばならない。ここがすなわち武士道の活用所である。かえすがえすもここに注意をしてもらいたい」

鉄舟は明治維新も武士道が導いたと強調する。

「維新の大業はいかにして出来たかと尋ねれば、その起因がなかなか深い。一言にてこれを言えば、武士道で出来たといえばたるようだが、これでは渺茫(びょうぼう)として理解に苦しむであろうから、今少し説明しておく」

ここで朝廷の位置づけにふれる。

「思うに政権武門に帰し、そのために武士が信用を世界に博したから、ばか者の考えには、武門のあることだけ知って、高い皇室のあることは忘れている」

次に武士についてふれる。
「さて、もののふというものは、出所進退を明らかにし、確乎(かっこ)として自己の意志を決した以上は、至誠もって一貫するのが、真の武士でまた武士道でもある。サァ世界が妙になってきた。あるところには、尊皇論と声高く、攘夷論と馳せまわる。あるいはしきりに、開港論を唱えるものがあり、また、あるいは佐幕だとか、討幕だとか、出没窮まりなく、国内一円旗幟堂々、目を当てられぬありさまとなった」

「世人はあるいは勤皇主義とか、開国主義とか、攘夷主義とか、討幕主義とか種々名づけているが、拙者は総合一括してみな勤皇というのだ。元来、わが国の人士は勤皇が本(もと)である。だからその枝葉も勤皇に違いない」

鉄舟にかかると各主義は全部勤皇となり、ここで鉄舟はいよいよその本質を述べる。

「維新の鴻業(こうぎょう)をなさしめた親様は、薩長云々のことはだれでも言うことだが、拙者のいうことも聞いてもらいたい。その義は、産母を幕府だというのである」

「拙者が、幕府を開国進取の鴻業者と言えば、薩長各藩のごときは、一功もないではないかと質問せられるかもしれぬが、世人もあまり子どもばかりでも困る。話の真相をうかがってもらわねばならない。

さて幕府を維新の元由者というのは、かの外船渡来以来、海防の設備騒ぎのころ、彼らの事情を考究させるため蘭学の修業者は多く幕府において仕えて、それらの余波はついに外交政治の機関に活用して、暗々の間に開港の誘導者となり、かの渡邊崋山が、『鴃(げき)舌(ぜつ)小記』『慎機論(しんきろん)』等を著わしてロシアと交通するべしと論じ、勝安房が『外交余勢』を論じ、高野長英が『夢物語』を著わし、その他種々これら各書は、当時の士気を誘発せしめたことは非常なものである。あるいは造船航海術修業のため、榎本釜次郎をオランダに学ばしめ、勝麟太郎(安房)長崎に行きオランダ人について海軍術をきわめ、高橋泥舟や、拙者輩をして講武所を開いて武士道を奨励せしめ、その他海軍操練所とか、蕃書取調所とか、あるいは小栗上野、大久保一翁等に内外時勢の運を視察せしめたなど、開国進取にとっては、いかに貢献したかはひそかに思われるではないか。しかして当時このような業作は、四方大反対の気焔(きえん)をもって、打ち殺せだの、刺し殺せだのとて尋常一様の話ではない。それを勇断して大胆に決行した連中等を思えば、真にその苦労のほどが千万流涙にたえない。ああ、実に忠君愛国の士で、朝日ににおう山桜とは、誠にこのような武士で日本魂のある神州健児といわねばならぬ。あるいは妙にののしる者もあるかもしれぬが、とかく拙者は感謝の意を表して、ここに一言注意を加えておく」

この程度で鉄舟武士道の引用はやめるが、鉄舟にかかっては、福沢諭吉の「痩せ我慢の説」はどこかに吹っ飛び、海舟への批判「あらかじめ必敗を期し」と、榎本への批判「二君に仕えた」という指摘などはごく細かい問題になってしまうのだ。

剣・禅の凄まじい修業を通じ、淵源に辿りつき、無我の境に入り、真理を理解し、大悟した鉄舟から見れば、つまり人間の生きる道での「上位目的」から検討すれば、福沢の指摘などは些細で大したことでない。海舟も榎本も日本国のために行動した武士道サムライであり、それを批判した福沢も、勿論武士道サムライとなる。鉄舟という人物はとてつもなく大きいのである。

次号は、鉄舟がいよいよ政治家として活躍する場面に入りたい。

投稿者 Master : 06:24 | コメント (1)

2012年05月15日

痩せ我慢の説と鉄舟・・・其の六

痩せ我慢の説と鉄舟・・・其の六
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

榎本武揚を辰之口牢獄から赦免するよう、黒田清隆に働きかけたのは福沢諭吉であるが、既に黒田は五稜郭の戦いで榎本の才能を認めていた。

凾館戦争時も終焉に近づきつつあった明治二年(1869)五月十三日、新政府征討軍陸軍参謀黒田清隆は、五稜郭の総裁の榎本に降伏勧告書を届けた。だが、榎本は拒否し、その代わりに「兵火に焼くのはしのびない。活用して欲しい」とオランダ留学時代から肌身離さず携えていたオルトラン著「万国海律全書」、自らが翻訳書写し数多くの脚注等を書き入れた、当時の日本ではまだほとんど知られていなかった国際法の研究書であるが、これを戦災から回避しようと、黒田に差出したのである。

この「万国海律全書」を見た黒田は、榎本の非凡な才に感服しつつ、十六日に返礼として酒樽と肴を贈った。榎本が切腹を図ったのはこの日の夜遅くであったが、近習に止められ断念、ここで降伏を決意、翌日、黒田のもとに向かい五稜郭は開城となった。

辰之口牢獄に送られた榎本の処置について、長州・土佐藩は断罪を叫んだが、黒田は榎本が日本にとって必要な人物と判断、加えて、福沢の赦免申し入れもあり、助命しようと各方面に熱心に助命嘆願活動を行い、頭を丸めて最終決定会議に臨み「この通りだ。この頭に免じて許してくれ」とまで懇願した。

この黒田の主張を支持したのが西郷隆盛であった。江戸無血開城の際に徳川慶喜を救った西郷が、榎本も助けたのである。

赦免された榎本は、北海道開拓使次官のポストにいた黒田から、明治五年三月開拓使に出仕するよう要請され明治政府に入り、以後要職を歴任、明治二十一年の初代伊藤博文内閣では逓信大臣、第二代黒田内閣で農商務大臣を兼任し、その後文部大臣に任じている。

またこの間に、黒田の長女と榎本の長男が結婚、両家は親戚となり、この夫妻の養女が黒田家に嫁ぐなど、二人は一段と強固につながり、終生信頼し合う仲であったという。

ところで、司馬遼太郎が、この黒田が明治維新三傑の二人、西郷と大久保を殺したという指摘を名指しで行っている。意想外な指摘であり、日本の政治裏面史として興味深いので余談となるがふれたい。

 それは司馬遼太郎著の「翔ぶが如く・第三巻」で、
「黒田は、結果としてかれが師とあおいだ西郷と大久保をともに殺したということになる」と書き述べている。

この指摘内容、まず、西郷について解説すると、黒田は薩摩藩であるので、元々西郷隆盛の支配下にあり、西郷に従っていたが、征韓論論争では西郷に対立する大久保利通側につき、大久保の指示を受け精力的に反対に動き回ったことが、西郷を下野させる要因となり、西南戦争で自決する事態につながった、というのが司馬遼太郎の見解である。

征韓論を述べだせば、それだけで一冊の本となるほどであるのでこれ以上はふれないが、黒田の動きが西郷を死にいたらしめたという主張である。

次に、大久保を殺したとはどういうことなのか。これは黒田の特異性ある二面性人格が影響しているので、少し解説を加える必要があり、再び司馬遼太郎の言葉を借りたい。(翔ぶが如く・第三巻)

「黒田清隆はかれ自身がどう制御することもできないほどの豪酒家である。酔えば人格も知能もいちじるしく低下するという精神病の範囲に入るところのアルコール性痴呆症であった。そのくせ、素面のときには謹直で、およそ人に対してかっとなったことなどはなく、浮浪者にいたるまでかれは底ぬけに親切であった。一定量の酒精が入ると人格が一変するという点では、かれに見るほどの典型症状はすくないにちがいない。いかに高官でも――かれの上司である三条実美や同僚の伊藤博文、井上薫ですら――乱酔中のかれから罵倒されたり、ピストルでおどされたりした。

この男が、その妻を斬殺したのである。夫人は多病であった。しかし素面のときの黒田はこの夫人をいたわり、他に婦人を設けるようなことはなかった。

西南戦争がおわったあとの明治十一年の三月、泥酔してもどった黒田が、ささいなことから妻を斬り、死にいたらしめたらしいのである。

当時、黒田は開拓長官を兼ねて参議でもある。現役の大臣が殺人罪を犯すという例は、それ以前にもそれ以後にもない。事件は内密にされたが、新聞が確認困難なニュースを諷刺(ふうし)のかたちで書いた」

この当時、大久保が事実上の首相であったが、大久保は広まる諷刺内容を隠蔽するよう、東京の治安を担当している大警視川路利(とし)良(なが)に指示、川路は黒田の妻の墓所を掘って棺内をあらためることにしたが、川路は棺の蓋を少しだけ開け、すぐに「これは、病死である」と断言、直ちに元どおりにして埋めてしまう。

この処理が世間に洩れて、一般大衆から「国法が大臣に及ばずということは暗黒国家である」という悲憤の声が満ち溢れ、この事が大久保を暗殺した犯人の斬奸状に書かれていたという。大久保は明治十一年五月十四日に紀尾井坂で襲撃され殺されたが、その下手人島田一郎が大久保暗殺の理由の一つあげていた事から、黒田夫人の怪死事件処理が大久保暗殺につながったのだというのが司馬遼太郎の主張である。

実は、この斬奸状に黒田夫人の殺害が具体的に書かれていたかどうか、史実確認で意見が分かれているところだが、黒田はそのような疑念を抱かせる二面性人格であったことは間違いなく、このような人物が日本の二代首相として政治を任されたのである。

もう一つ余談であるが、伊藤博文初代首相も殺人を犯している。それは井伊大老の後を継いだ坂下門外の変の安藤信正老中が、天皇の「廃帝」を図っているという噂が広まり、その「廃帝」手続きを調べ研究しているという疑念で、和学者の塙次郎が文久二年(1862)の年末、自宅に戻ったところを襲撃され斬られ、首を麹町九段目の黒板塀の忍び返しの上にさらされた。犯人は長州の伊藤俊輔(博文)と山尾庸三であった。

塙次郎は「群書類従」の編纂で知られる盲目学者の塙保己一の四男で、父の死後に家を継ぎ、幕府の和学講談所で史料編集と国史研究にあたっていた。

伊藤博文は後の首相・初代韓国統監であり、かつて千円札に肖像が印刷された人物。山尾庸三はロンドンに留学し工学関係の重職を務め、後に初代法制局長官になっている。

明治22年(1889)に大日本国憲法が公布、翌年第一回帝国議会が発足し、アジアでは初の本格的な立憲君主制・議会制民主主義国家が始まって、新たに首相制度が設置されたが、その初代・二代の首相がいずれも殺人に関わりがあったという日本の政治裏面史を理解しておきたい。現在とは比較できない程の近代化への混乱期であったという意味である。

さて、福沢諭吉の「痩せ我慢の説」に戻りたい。福沢の海舟への批判は「勝氏はあらかじめ必敗を期し、そのいまだ実際に敗れざるに先んじて、みずから自家の大権を投棄し、ひたすら平和を買わんとて勉めたるは者なれば、兵乱のために人を殺し、財を散ずるの禍をば軽くしたりといえども、立国の要素たる痩我慢の士風を傷うたるの責めは免るべからず」と、戦わないのは武士道にあるまじきものというもの。

榎本へは「氏を首領としてこれを恃(たの)み、氏のために苦戦し、氏のために戦死したるに、首領にして降参とあれば、たとい同意の者あるも、不同意の者はあたかも見捨てられたる姿にして、その落胆失望は言うまでもなく、ましてすでに戦死したる者においてをや。死者もし霊あらば必ず地下に大不平を鳴らすことならん。古来の習慣に従えば、およそこの種の人は遁世出家して死者の菩提を弔うの例あれども、今の世の風潮にて出家落飾も不似合いとならば、ただその身を社会の暗所に隠して、その生活を質素にし、いっさい万事控え目にして、世間の耳目に触れざるの覚悟こそ本意なれ」と、二君には仕えるべきでないという批判であった。

この福沢による海舟の「あらかじめ必敗を期し」と、榎本が「二君に仕えた」という指摘は鉄舟にも当てはまる。鉄舟は海舟と幕末を共にし、明治天皇の侍従となっているからである。しかし、福沢から批判は受けなかった。何故に福沢から論評を受けなかったのか、否、福沢が批判できなかったと理解すべきだが、その事を考えてみたい。

その分析に入る前に、江戸時代の武士とはどのような人間達であったのか。それを司馬遼太郎の言葉を再び借りて紹介したい。(翔ぶが如く・第一巻)

「江戸期の武士という、ナマな人間というより多分に抽象性に富んだ人格をつくりあげている要素のひとつは禅であった。禅はこの世を仮宅であると見、生命をふくめてすべての現象はまぼろしにすぎず、かといってニヒリズムは野(や)狐(こ)禅(ぜん)(注:禅に似て非なる邪禅のこと)であり、宇宙の真如(しんにょ)(注:あるがままであること・真理のこと)に参加することによってのみ真の人間になるということを教えた。

この日本的に理解された禅のほかに、日本的に理解された儒教とくに朱子学が江戸期の武士をつくった。朱子学によって江戸期の武士は志(こころざし)というものを知った。朱子学が江戸期の武士に教えたことは端的にいえば人生の大事は志であるということ以外になかったかもしれない。志とは、経世の志のことである。世のためにのみ自分の生命を用い、たとえ肉体がくだかれても悔いがない、というもので、禅から得た仮宅思想と儒教から得た志の思想が、両要素ともきわめて単純化されて江戸期の武士という像をつくりあげた」

と述べ、続けて

「西郷は思春期をすぎたころから懸命に自己教育をしてこの二つの要素をもって自分の人格をつくろうとし、幕末の激動期のなかにあってそれを完成させた」

と西郷が江戸期武士の典型であると評価している。

この司馬遼太郎に沿って鉄舟について考えれば「鉄舟は幼年期から剣禅一如(いちにょ)(注:絶対的に同一である真実の姿)を求めて、幕末から明治期にかけて大悟し自己を完成させた」人物であり西郷とは別次元での武士の典型であった。そのことを次のエピソードから紹介したい。

後に僧侶となった人物が、維新後、鉄舟宅で玄関番をしており、ある時鉄舟に尋ねた。

「剣の極意とは何でしょうか」
「それは浅草の観音さんにある」

そこで浅草寺に日参したが分からない。そこで再び鉄舟に尋ねると、
「それは寺の扁額にある施無畏(せむい)だ。あれが極意である」

との回答。施無畏とは「観音経」(妙法蓮華経観世音菩薩普門品(ふもんぽん)の経文にある「怖畏(ふい)急難の中において能(よ)く無畏を施し給う」からきている。

この「無畏を施す」とは、人間の一生は何をするのかというと、怖れのないところを掴むことで、何ものも怖れない。何ものにも怖じけない。つまり、病気を怖れず、死を怖れず、貧乏する事も怖れず、すべてに対し怖がらないという意味となる。

鉄舟は明治十三年(1860)三月三十日に大悟し、この「施無畏」境地に達し、その心境を詩で語っている。

学剣労心数十年  (剣を学び、心を労すること、数十年)
臨機応変守愈堅  (機に臨み、変に応じて、守り愈々(いよいよ)堅し)

意味は「剣を学び、心を労して数十年。相手次第で臨機応変、自由に変化して、負けることがなくなった。堅い塁壁も一朝ことごとく摧破され、痕跡もなくなった」という絶対境地である。

また、この施無畏という心境は、現代剣道でもよく説かれるという。筆者はパリ在住の剣道最高位八段で作家の好村兼一氏から、パリ訪問時にお会いし剣道についてご教示を受けている。その好村氏が今年の四月に「神楽坂の仇討」(廣済堂出版)を著した。早速読んでみると、主人公は幕末に北辰一刀流、鏡新明智流と並んで江戸三大流派と呼ばれた「神道無念流」物語であるが、その開祖「福井兵右衛門」に次のように語らせている。

「人性は即ち天性であり、私の所為ではない。性は陰陽、長短、勇弱、知愚・・・と、様々な象(かたち)として表れながら、その本源は一つなのである。本源の真理に明らかとなれば、万理に通じ、心は融通(ゆうずう)無碍(むげ)。体は鏡に揺動する影のように円滑自由である。機を窺い隙を打たんと欲するのは邪念であり心の偏(かたよ)りに他ならず、心偏れば体は凝(こ)り固まる。本源妙智の一刀を求めるには、心を無念の位に置き、己を天性に委ねるべし・・・」

この境地は鉄舟が達したと同じであり、剣の奥義に達した名人は同様な事が分かる。

さらに、好村氏は鉄舟が受け継いだ一刀流の開祖「伊藤一刀斎」も著しており、そのあとがきで「一刀斎が築いた一刀流剣術は現代剣道の根幹を成しており、極意『切落し』は今なおそこに生き続けている」と述べている。

この切落しとはどのような極意なのか。鉄舟が記した「一刀正伝無刀流十二箇条目録」に「切落之事(きりおとしのこと)」が第二極意としてある。好村氏によると「切落し」とは、相手が剣を打ち込んでくる瞬間に、間髪を容れず、こちらも真っ向から剣を振り下ろすことであるという。相手の太刀筋を受けかわすのではなく、相手から逃げず、真正面から立ち向かって、相手の剣が向かってくる時に、こちらの剣を振りきるのである。

素人流に考えれば最も危険な太刀筋と思われるが、これが四百年以上の古き時から、現代剣道の根幹をも成してつながる極意なのである。

しかし、この切落し極意を真剣勝負の太刀捌きとして熟(こな)せるのは、明治以降では鉄舟しかいなかったのではないかとも好村氏は語る。

つまり、「すべてに対し怖がらない」という大悟・施無畏の心境に達し得ていないと、真剣での命の斬りあいで「切落し」極意は使いこなせないという意味である。

ところで、鉄舟は、その死が翌年に迫った明治二十年(1887)に、四谷仲町の自邸で、門人の籠手田安定(県知事・男爵)等の求めで、ほぼ四回にわたって武士道に関する講義を行った。傍聴者に井上毅(文部大臣)、フランス人法学者ボアソナード、中村正直(文学博士)、山川浩(陸軍少将)等がいた。

その時の「山岡先生武士道講和記録」を安部正人が、籠手田安定から譲りうけて、明治三十一年(1898)十月、海舟にこれを示して「評論」を述べてもらい加えたものを一本にまとめて、嗣子山岡直記の序文と高橋泥舟の題字とをつけて「故山岡鉄舟口述、故勝海舟評論、安部正人編纂、武士道」として光融館という本屋からB6判二五二頁の書物として発行したのが、明治三十五年(1902)一月のことである。

この内容について「山岡鉄舟の武士道」(勝部真長編)で次のように解説している。

「光融館版の『武士道』はかなり売れたらしく、わたくしの所蔵するのは明治四十五年七月の奥付で第九版をかぞえている。その後、昭和十五年頃には大東出版社から同じ『武士道』の新版が山岡未亡人の序文をつけて出された。

とにかくこの本は一風変わった妙な本である。山岡鉄舟でなければ、やはり言えないような、独自な、突拍子もないようなことが飛び出してくる。見方によってはわがままな、断片的ともいえようが、しかしまた他面からいえば深い人格の、無意識底から湧き出してくる暗号のようにも受けとれる。

鉄舟という人は何よりも先ず『剣の人』である。禅もやったが、禅は剣を完成させるための手段、修業の方法の一つとしてやったので、禅をそれ自身目的としたのではない。剣を持たない武士はないから、武士道という以上、『剣の道』を離れてありえないわけである。

鉄舟がその生涯をかけて追究したのは『剣の道』であって、『剣の道』を通じてその人間を完成させていったのである。『剣』が完成しなければ『人間』も完成しない、というのが鉄舟の人生の課題であった。鉄舟が『武士道』について門人たちに講和しようという気持ちになれたのは、明治十三年にその『剣の道』が成就していたからで、もし鉄舟の無刀流が大悟発明されていなければ、とても武士道についてとくとくとおしゃべりなんかする気になれなかったに違いない」

この「故山岡鉄舟口述、故勝海舟評論、安部正人編纂、武士道」を詳しく読みすすめると「真の武士道とは」が確認でき、「真の勤皇愛国とは」が理解され、「誰が明治維新の大事業」をしたのかが解明され、その結果として福沢諭吉が主張した「痩せ我慢」は、鉄舟からみれば極々小さな問題だという事になってしまう。それを次号でお伝えしたい。

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2012年04月08日

「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の五

「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の五
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

前号に続く福沢諭吉による榎本武揚批判に入りたい。
静岡市清水区興津の清見寺境内にある「咸臨丸殉難諸氏記念碑」に、榎本が〈食人之食者死人之事〉と揮毫、読みは〈人の食(禄)を食(は*む者は人の事に死す〉であり「幕府から家禄をもらっていた者は幕府のためなら死をも辞さない」という意味となる碑を福沢諭吉が見て、幕府の重臣でありながら新政府に仕え、高官に上った榎本がよくもしゃあしゃあと書けたものだ、という怒りを爆発させたことは既にふれた。

では、何故にこのような常人感覚では書けない揮毫をしたのか。その解明の前に、この記念碑の設立経緯を紹介したい。

明治三年(1870)咸臨丸惨劇事件三周忌に建立された静岡市清水区巴河畔の「壮士之墓」で、清水次郎長は度々法要を営んでいた。
 
このあたりは江戸時代は罪人の処刑場で民家がなかったが、清水港の発展と共に人家が建ち始め、町となってきて、このままでは区画整理で墓が消滅する危険性もあるので、どこかに永久に保存できる記念碑をつくろうという案が出てきた。

 その土地探しを、当時の静岡県内務部長である永峰弥吉に委嘱したところ、明治十八年に場所を清見寺に選定したと連絡があり、榎本武揚や小林一知(文次郎・咸臨丸艦長)等が建碑願いを関係官庁に提出し許可を得た。

 碑石は根府川石(神奈川県小田原市根府川に産する輝石安山岩の石材名)で、高さ2.7m、幅1.8m余、厚さ0.18m。碑石の隣りに立つ春日形御影石の灯篭も準備できたので、明治二十年に清水港に運び、次郎長一家が総出で清見寺に運び込んだ。

 さて、問題の揮毫は、最初は当然のごとく榎本に依頼したが、当時、榎本は清国全権公使として北京に駐在中であったので、大島圭介(元陸軍奉行)に頼み〈骨枯松秀〉の篆(てん)額(がく)*題字を書いてもらった。

ところが、記念碑の工事が終る頃になって、榎本が帰国したので、再び揮毫を願うと、問題の文言が示されたのである。結果として、表面は榎本の揮毫による〈食人之食者死人之事〉、裏面が篆額大鳥の〈骨枯松秀〉となった。大島の文言は、壮士の墓建設の際の山岡鉄舟の詩である

砂濶孤松秀 空留壮士名
 水禽何所恨 飛向夕陽鳴

に因むものであった。

 では榎本の揮毫文の出典は何か。それは史記にある「淮(わい)陰(いん)侯(こう)列伝」からであり、淮陰侯とは韓(かん)信(しん)のこと。中国秦末から前漢初期にかけての武将で、劉(りゅう)邦(ほう)の元で数々の戦いに勝利し、劉邦の覇権を決定付け、張(ちょう)良(りょう)・蕭(しょう)何(か)と共に劉邦配下の三傑の一人で、世界軍事史上の名将としても知られるが、「韓信の股くぐり」でも知られている。
それは、ある日のこと、韓信は町の少年に「お前は背が高く、いつも剣を帯びているが、実際には臆病者に違いない。その剣で俺を刺してみろ。出来ないならば俺の股をくぐれ」と挑発された。韓信は黙って少年の股をくぐり、周囲の者は韓信を大いに笑ったという。大いに笑われた韓信であったが、「恥は一時、志は一生。ここでこいつを切り殺しても何の得もなく、それどころか仇持ちになってしまうだけだ」と冷静に判断していた。この出来事は「韓信の股くぐり」として知られることになる
 
この韓信に対して項羽が説客(ぜいかく)(弁論が得意で諸侯にその意見をといてまわる役割人物)の蒯(かい)通(つう)を遣わし、漢王を裏切るよう説得したときに、次のように答えた。

「漢王(劉邦)は私を非常に優遇してくださる。漢王は私を自分の車に乗せ、自分の衣服を着せ、自分の食事を勧めてくだされた。
『乘人之車者載人之患、衣人之衣者懷人之憂、食人之食者死人之事』
(人の車に乗った者は、その人の心配を背負い、人の衣服を着た者は、その人の悩みをともに抱き、人の食事を食べた者は、その人の為に死ぬ)
という言葉を先生も知っておられよう。私は、利に転び、義に背を向けることはできない。」
 
この韓信の言葉を榎本は敢えて選んだのである。だから福沢は怒ったのであるが、榎本が自ら求め書いたのであり、何かの背景があると思量するのが至当と思うが、肝心の榎本は福沢からの手紙に対して「事実相違の廉(かど)ならびに小生の所見もあらば云々との御意、拝承いたし候。昨今別して多忙につきいずれそのうち愚見申し述ぶべく候」とだけで、その後何も言わずに人生を終えている。

 しかし、ここは大事なところであるので、榎本に代わって分析してみる必要があるだろう。そこで、もう一度榎本の一生を概略振り返ってみたい。

 御家人の子として江戸に生まれ育った榎本は、昌平坂学問所を卒業したのち、幕府が長崎に設けた海軍伝習所に入る。その後、オランダ留学で知識に加えて西欧の考え方もマスターし戻った。帰国後、戊辰戦争の最後の戦いになった函館戦争で五稜郭に籠り、降伏、幽閉を経て出獄、請われて北海道開拓使として明治政府に入り、初代駐露公使とし、樺太・千島交換条約の締結に尽力。

 伊藤博文内閣では逓信大臣、以降、文部、外務、農商務大臣等の要職を歴任。日本化学会、電気学会、気象学会、家禽(かきん)*協会等の設立に関わり、初代の会長として、日本の殖産興業を支える役回りを積極的に引き受けている。

 さらに、既に紹介したように辰之口牢獄での技術分野に対する高い関心と実験等、これらは榎本が実証主義者であることを証明している。その事例として挙げられるのは、駐露公使から帰任する際にシベリアを四十五日間かけて横断し、軍事、経済、民族等の情報を記録した「西比利亜(シベリア)日記」を残しているが、このような外交官が現在いるのであろうか。

 また、明治天皇は榎本に対して、頻繁に意見を求めたと言われ、明治二十四年(1891)に発生したロシア皇太子が警備の警官に斬りつけられた「大津事件」の処理をめぐっては、急遽外務大臣に任命され、ロシアとの折衝に乗り出している。若き時代の西洋留学体験と駐露公使、その体験を実証的に発揮せしめたのである。

このように明治時代の日本近代化に高く貢献した人物である。仮に、福沢が「痩せ我慢の説」で述べた「この種の人は遁世出家して死者の菩提を弔うの例あれども、今の世の風潮にて出家落飾も不似合いとならば、ただその身を社会の暗所に隠して、その生活を質素にし、いっさい万事控え目にして、世間の耳目に触れざるの覚悟こそ本意なれ」というような生き方を送ったとしたら、日本は大きなマイナスを受けたであろうことは容易に推測がつく。

実は、福沢もこの事を分かっていた節が強い。それは福沢が書いた「明治十年丁(てい)丑(ちゅう)公論(こうろん)」に榎本についてふれている個所がある。だが、その前に、この丁丑公論の立場を明らかにしたい。

これが書かれたのは丁丑(ひのとうし)の年、干支の組み合わせ十四番目で、明治十年(1877)にあたる。ということは西南戦争(明治十年)の直後であるのに、公表されたのは明治三十四年(1901)二月の時事新報紙上であった。

何と、西南戦争から二十四年経過したタイミングと、福沢が亡くなった二月という時機であり、そこに何か政治的なものがあったと推測される。

その通りで、丁丑公論は「反政府(大久保利通)であり、親西郷隆盛」で書かれた論文なのである。明治34年(1901)5月に『瘠我慢の説』と一緒に一冊の本に合本されて時事新報社から出版された。
なお、時事新報主筆の石河幹明が序文を記し、掲載の経緯を述べている。

「丁丑公論の一書は福沢先生が明治十年西南戦争の鎭定後、直に筆を執て著述せられたるものなれども、当時世間に憚かる所あるを以て秘して人に示さず、爾來二十余年の久しき先生も自から此著あるを忘却せられたるが如し。余前年先生の家に寄食の日、竊(ひそか)に其稿本を一見したることあり、本年一月先生の旧稿瘠我慢の説を時事新報に掲ぐるや、次で此書をも公にせんことを請ひしに、先生始めて思ひ出され、最早や世に出すも差支なかる可しとて其請を許されぬ。依て二月一日より時事新報に掲載することとせしに、掲載未だ半ならず先生宿痾(しゅくあ)再発して遂に起たず、今回更らに此書を刊行するに際し一言、事の次第を記すと云ふ
明治三十四年四月  時事新報社に於て  石河幹明」

 この丁丑公論は激しい大久保批判で、執筆完了の明治十年十月二十四日に、直ちに発表していたならば、福沢は国賊として陥れられ、西郷の同調者であり、味方であると断定され、死刑となっていたかも知れない。そのような事態となっていれば、当然のことながら慶応大学は廃止され現在の姿はなかったであろう。

 それほどの内容であるので、その一部を紹介したい。まず、最初の緒言である。
「政府の專制咎(とが)む可らずと雖も、之を放頓(ほうとん)すれば際限あることなし。又これを防がざる可らず。今これを防ぐの術は、唯これに抵抗するの一法あるのみ。世界に專制の行はるる間は、之に対するに抵抗の精神を要す。其趣は天地の間に火のあらん限りは水の入用なるが如し。

近来日本の景况を察するに、文明の虚説に欺かれて抵抗の精神は次第に衰頽するが如し。苟も憂國の士は之を救ふの術を求めざる可らず。抵抗の法一樣ならず、或は文を以てし、或は武を以てし、又或は金を以てする者あり、今、西郷氏は政府に抗するに武力を用ひたる者にて、余輩の考とは少しく趣を殊にする所あれども、結局其精神に至ては間然すべきものなし」

 「明治七年内閣の分裂以來、政府の権は益々堅固を致し、政権の集合は無論、府県の治法、些末の事に至るまでも一切これを官の手に握て私に許すものなし。人民は唯官令を聞くに忙はしくして之を奉ずるに遑(いとま)あらず」
 「佐賀の乱の時には断じて江藤を殺して之を疑はず、加之この犯罪の巨魁を捕へて更に公然たる裁判もなく其場所に於て刑に処したるは之を刑と云ふ可らず、其の実は戦場に討取たるものの如し。鄭重なる政府の体裁に於て大なる欠典(点)と云ふ可し」

 如何でしょうか。明らかに正面きっての政府批判であり、大久保利通への批判なのです。大久保は明治六年(1873年)に内務省を設置し、自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握り、明治六年秋から明治十一年五月大久保暗殺までは、一般に「大久保政権」と呼ばれ、当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判されていた。

「有司」とは政府官僚を指し、議会政治によらず彼らの合議だけで国家の方針を決めている現状を指摘したものだが、現在に至るまでの日本の官僚機構(霞ヶ関官界)の基礎は、内務省を設置した大久保によって築かれたともいわれているほどである。

 いずれ西郷と鉄舟の関係、特に西南戦争前、明治天皇から西郷を東京に連れ戻すようにと、鉄舟が命を受けたと一般的に言われ、実際に鹿児島に赴いているが、そこで西郷と実際に会ったかどうか。その点は今後の研究課題であるが、明治天皇紀の明治七年(1874)三月二十八日に「鉄太郎、四月二日を以て鹿児島に着し、三日、久光の邸に至りて勅命ならびに恩賜の菓子を伝う」とある。

この時期、島津久光は内閣顧問であった。かつて廃藩置県を久光に相談なく実施、激怒し、西郷は勿論それまで久光の側近であった大久保に対しても憎悪の対象であっが、いつの間にか久光を内閣に入れていた経緯、そこに今日の官僚制度の根源問題にまでつながっていると思われる節もあるので、これについてもふれたいが、今回はこのあたりで福沢の丁丑公論分析を終えたい。
 
しかし、どうしても不可思議なことがある。榎本に対する福沢の記載個所文言である。丁丑公論の中に榎本に対する評価ともいえる文言が、以下のように記されているのである。

「猶維新の際に榎本の輩を放免して今日に害なく却て益する所大なるが如し」

 この丁丑公論が書かれた明治十年までの榎本は、明治五年一月に辰之口牢獄から出獄、三月には北海道開拓四等出仕に任官される。四等出仕とは県知事クラスである、人力車付という身分である。明治七年には海軍中将の肩書で、特命全権公使としてペテルブルグ赴任、明治八年には国境画定交渉をまとめ、樺太・千島交換条約に調印する役割をこなした。熾烈な外交交渉の結果であり、榎本のもつ海外留学経験が大いに発揮されたのであって、この事実を福沢は知っていて、丁丑公論の文言となったと思われる。つまり、この時点では榎本を高く評価していたのであって、痩せ我慢の説の評価とは大きく異なっている。

 更に問題なのは〈食人之食者死人之事〉である。福沢はこの言葉を丁丑公論で以下のように使っている。
 「近く其実証を挙れば、徳川の末年に諸藩士の脱藩したるは君臣の名分を破りたる者に非ずや、其藩士が甞て藩主の恩禄を食ひながら廃藩の議を発し或は其議を助けたるは、其食を食(はん)で其事に死するの大義に背くものにあらずや。
然り而して世論この脱藩士族を評して賤丈夫と云はざるのみならず、当初其藩を脱すること愈過激にして名分を破ること愈果斷なりし者は、今日に在て名望を收むること愈盛なるが如し」

久光の廃藩反対の意向を知りながら、断行した廃藩置県、西郷と大久保は〈人の食(禄)を食(は)む者は人の事に死す〉には当らないと言っているのである。とするならば、幕府から家禄をもらっていた榎本であっても、新政府に仕え、国家貢献に立派な業績をのこせば問題がないのではと、丁丑公論からは読み取れるのである。

ここで榎本の心情を推察してみたい。自分は何故にオランダに留学させられたのか、それは日本の近代化を進めるためであったはず。当時は幕臣という身分ではあったが、新しく明治時代になって近代化が急務の時、自分の本来目的に戻ることが、国家への貢献であると認識し直したのではないか。幕府には函館戦争で最後まで戦ったことで義理は果たした。

これからはこの時代の日本人に欠けていた合理精神、技術者としてプラグマティブ思考で生きること。一度対決した明治政府であっても、ほかに日本の近代化を託すべき主体がない以上、その新政府のもとで近代化に向けて働くこと、そこに榎本は矛盾を感じていなかったと思う。

 では、どうして福沢は明治二十四年に敢えて「痩せ我慢の説」を書き、名指して海舟、榎本を批判したのであろうか。

 これは福沢の心理を考えてみないといけないだろう。福沢の使命は何であったのか。日本を文明国に導くことであったろう。国民の意識改革を、教育に力を入れ、民間の力を重視し、実学を奨励する等を通じ、いわば「啓蒙」活動に邁進してきたことは、その一連の著作から明らかである。

つまり、福沢は和魂(わこん)洋才(ようさい)を狙ったのではないか。しかし、それは明治二十四年ごろになってみると、日本古来の精神世界が忘れられつつあり、代わりに西洋の技術と精神をより受け入れる方向に向かっている。両者を調和させ発展させていくということが難しい。欧化主義が行き過ぎているのではないか。その警句を世間に伝えようとして、強いて「痩せ我慢の説」を書き、その対象として旧知の海舟と榎本を取り上げたのだと思われてならない。

 しかし、取り上げられた海舟と榎本は、いずれも修羅場をくぐりぬけてきた人物である。

 「自分の行動は当事者でないと分かるものでない。たとえ説明したとて理解されずに、弁解と取られる。自分は信念で行動したのであり、恥じることは何もしていない。自分の行動のみが自分自身である」と海舟と榎本は言いたかったのだろうと思う。

 最後に、「痩せ我慢の説」について多くの識者が解説している。だが、おかしいことに多くの資料を集めて見て分かったことは「丁丑公論」にふれていないことである。すべての資料を検討したわけでないので断言できないが、「丁丑公論」との関係が検討されていない。それは何故だか分からない。何かあるのだとしたら、今後の研究課題として行きたい。

 次号は、「痩せ我慢の説」で何故に鉄舟が批判されなかったのか、その理由を解明する。

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「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の四

「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の四
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

江戸無血開城以後、恭順一筋で押し通した徳川藩は、慶応四年(1868)五月二十四日に駿府藩として禄高七十万石と新政府から通告され、藩主家達も八月十五日に駿府に到着、何とか安泰となって一応ホッとしたタイミングに大事件が発生した。

それは、藩の命令を無視し脱走した榎本武揚艦隊の咸臨丸が、損傷激しく満身創痍で航行不可能となり、駿府に近い清水港に九月二日たどりついたことである。

咸臨丸艦長の小林文次郎から、駿府藩に「脱走の途次、清水港へ漂流」の旨届けがあり、器材が陸揚げされ、咸臨丸は港内に停泊し、乗員は三保の民家などに宿泊した。

これは困ったことだと思案に暮れているところに、さらに、清水港を血染めにする大惨劇が勃発した。
九月十八日、新政府が追捕のため派遣した軍艦富士山・飛竜丸・武蔵丸の三隻が、柳川藩士他数十名乗せて、午後二時ごろ清水港に入ってきたのである。

この日、艦長の小林は駿府藩に出向き留守、咸臨丸には副長の春山弁蔵と弟の鉱平、長谷川徳蔵ら少人数が留まっていた。

新政府追捕隊は咸臨丸を確認すると、10間(18メートル)の至近距離から各艦5~6発撃ちはなった。咸臨丸は駿府藩からの命もあって、戦うつもりはなく、降伏のしるしに白旗を上げた。それを見た追捕隊士達は、小艇に乗り移り小銃を撃ちながら漕ぎよせ、抜刀し咸臨丸に上ると、まず、長谷川徳蔵を血祭りに上げ、春山兄弟に銃を向けた。

「待たれい。駿府藩からこの咸臨丸を大総督府に献上するよう厳命を受けております」
副長の春山弁蔵は穏やかに対応しようとしたが、
「何を申す。この大泥棒め!!。朝廷の軍艦を盗むとは不埒千万、罰は万死に値する」
と猛り立つ追捕隊士の暴言に怒った弟の鉱平が抜刀、乱戦となって春山兄弟が斬られる。
それを見た原秀郎は艦を爆沈させ追捕隊士達を道連れにしようと、同様に考えた加藤常次郎と一緒に火薬艙へ降り向かった。だが、火薬艙の鍵は艦長の小林が持っていて、仕方なく二人は散らばっている火薬を集め、扉の下隙へ入れて点火したが失敗。中の火薬まで火が届かない。
火薬庫が爆発することを怖れて、いったんは本船に逃げた追捕隊士が、火が出ないことを見て、また戻って咸臨丸の甲板に上がった。

そこに駿府で用事を終えた艦長の小林が、何事かと小舟で咸臨丸まで来て名乗ると、甲板に引き上げ、両手を縛って殴る蹴る踏みつける乱暴狼藉。小林は倒れ気絶し、十数人とともに捕らわれ追捕軍艦に運ばれた。

だが、春山弁蔵は首を打ち落され、他の死骸と一緒に海に投げ捨てられ、新政府追捕軍艦飛竜丸が咸臨丸を曳き清水港を出ていったのが午後五時であった。

この惨劇については海舟も「幕末日記」の九月二十一日に記している。
「駿州より早追にて御目付来る。咸臨丸を取巻たる官兵、肥前、土佐、柳川藩士、甚手荒く、風聞にては、春山弁蔵刃傷に及び、切害に逢ふ。経雄殿(中老服部綾雄であろう)、目付等、散々罵られ、既に害に逢はむとするの勢也と。是、去月己来(いらい)、脱艦御届も遅々、亦修覆に取掛等、其他種々不都合を御咎めこれ有という。嗚呼、諸役因循(いんじゅん)、身を致さずして私営に苦しむ。我輩百方之を言うといえども、内破かくの如し。また如何せむ」

新政府追捕隊による一方的な惨劇の一部始終を、清水の人々は陸からみていたが、終った海には血潮と死屍が漂う凄惨な状態で、船の出入りも途絶え、漁に出るものもない。

また、賊兵の死体を埋めることは慰霊したことになり、賊の片われとみなされる。だから後難を恐れて誰も始末をしない。

しかし、侠客の清水次郎長は次のように述べた。
「人の世に処る賊となり敵となる悪む所、唯其生前の事のみ若し、其れ一たび死せば復た罪するに足らんや」と。

要するに、死ねば仏だ。仏に官軍も賊軍もあるものか、国のために死んだ屍を見棄ておくのは、次郎長の任侠が許さず、港の機能が止まっていることも放置できず、子分を動員して浮屍を引き上げたのであった。

屍は七体。春山弁蔵、春山鉱平、加藤常次郎、長谷川徳蔵、長谷川清四郎、今井幾之助、他一名。これを巴川のほとり古松の下に懇ろに埋葬した。

この経緯はたちまちのうちに駿府城内に伝わり、城中の物議となった。そこに登場するのが鉄舟で、小倉鉄樹は「おれの師匠」で次のように述べている。

「藩政に参與していた師匠(鉄舟)は役目柄次郎長を呼んで糾問した。
『仮初にも朝廷に対して賊名を負うた者の死骸をどういう料簡で始末したのだ』
もとより覚悟の次郎長は悪びれた景色もなく、
『賊軍か官軍か知りませんけれども、それは生きている間の事で、死んでしまえば同じ仏じゃございませんか、仏に敵味方はござりますまい。第一死骸で港を塞がれては港の奴らが稼業に困ります。港の為と思ってやった仕事ですが、若しいけないとおっしゃるなら、どうともお咎めを受けましよう』
ときっぱり言い放った。

『そうか、よく葬ってやった奇特な志しだ』
あまり簡単に賞められてしまったので、次郎長もいささか拍子抜けだ。
『それならお咎めはございませんか』
『咎めどころか、仏に敵味方はないという其の一言が気に入った』
『有難うございます。そう承れば私も安心、仏もさぞ浮かばれましょう』
喜んで帰った次郎長は、更に港の有志を説いて自分が施主となり盛大な法要を催した。師匠は求められるままに墓標をも認めてやった。大丈夫も及ばぬ次郎長の侠骨に喜んだとは言え此の際の処置として到底小人輩の出来る芸ではない。

現在清水市の中央を貫流する巴河畔に祀られてある「壮士之墓」は即ち之である」

この「おれの師匠」記述には補足が必要である。写真で分かるように「壮士墓」は石造り、建立は次郎長である。この墓碑が咸臨丸惨劇事件の屍埋葬後直ぐに建立されるはずがない。

その通りで、鉄舟から誉められ感謝された次郎長は、港の有志を説いて自分が施主となり盛大な法要を催したが、その時は次郎長の菩提寺である不二見村の梅蔭寺、現在、この寺には次郎長の墓をはじめ、妻のお蝶、子分の大政、小政の墓や遺品があり、また、侠客としては全国で唯一人、次郎長の銅像が建てられている。この梅蔭寺住職に頼んで法要を開いたのであって「壮士墓」が建立されたのは明治三年(1870)三周忌の際で、墓標は鉄舟が書いたといわれている。

なお、鉄舟と次郎長との出会いは、この咸臨丸惨劇事件がキッカケといわれ、その後の次郎長は鉄舟の影響を受け、人間的に脱皮し明治時代の社会事業家として名を残すことになるが、全国の一般大衆にまで知られるようになったのは「東海遊侠伝」からである。

「東海遊侠伝」とは、天田愚案によって明治十二年(1879)に「次朗長一代記」が書き残され、それが鉄舟宅に預けられていたが、明治十七年(1884)に「東海遊侠伝」として題画は鉄舟自身が描き、題字は勝海舟が担当するという豪華さで公刊され、後に神田伯山によって講釈(講談)化となり、伯山の車引きをしていた広沢虎造によって浪曲となって、昭和初期に「旅ゆけば~」で爆発的な人気を誇ったのは二代目広沢虎造で、当時は寄席のオーナーが虎造をひと月呼ぶことができれば別荘を持てたという。

それほど次郎長は有名になったわけであるが、そのブームを起こした「東海遊侠伝」と鉄舟の関係については後日詳しく触れたい。

さて、鉄舟と次郎長の最初の出会い、一般的に認識されているのはこの咸臨丸惨劇事件であるが、もう一つの説がある。

それは、静岡県庵原郡由比町西倉沢「藤屋・望嶽亭」に代々口承伝承されているもので、現在の口承伝承者は望嶽亭・松永家23代当主、故松永宝蔵氏の夫人である松永さだよさん、その内容が「危機を救った藤屋・望嶽亭」(若杉昌敬編)で明確にされている。

また、この説を紹介している歴史学者に高橋敏氏(国立歴史民俗博物館名誉教授)がおられる。「鉄舟は勝海舟と相談のうえ、勝が江戸焼打事件の際、捕らえ助命した薩摩藩士の益満休之助を同道し、急遽駿府に派遣した。東海道を西下途中益満が腰痛のため三島で脱落、単身駿府を前に難所の薩埵峠まで来たところで官軍の銃撃を受け、間宿倉沢の茶屋望嶽亭の松永氏に隠れた。駿府潜入した鉄舟を助けて道案内したのが清水次郎長であった」(『清水次郎長と幕末維新』岩波書店)とあり、西郷と鉄舟による駿府会談に纏わる時が、次郎長との出会いであったという。(参照 本誌2006年1月号)

この説に立ち、鉄舟と次郎長との関係を深読みすれば、咸臨丸惨劇の浮屍を引き上げたのは、鉄舟の指示によるものではないかと思われる。

旧幕臣であり、かつては同志であった屍を海に放置しておくことは、鉄舟の真情として許せない。しかし、鉄舟が表だって動けない。駿府藩の立場がある。そこで考えついたのが望嶽亭で世話になった侠客次郎長である。次郎長に万事やらせ、そのあと詰問するという体を装って駿府藩の面目を保ち、自らの気持ちの整理をする。

このように鉄舟の立場から推測してみたが、ここで疑問を持つのは次郎長の立場である。いくら強気をくじき、弱気を助ける侠客であっても、一介のアウトローであるのだから、何も権力背景もなく、時の新政府に逆らうことになりかねない屍を引き上げる作業をするであろうか。次郎長が侠気を超える、何かの権力を保持していないと取り組まないだろう。また、それがなければ鉄舟とて旧知の間柄であっても、指示し難いだろうと思う。

そこで次郎長の権力との結びつきを調べてみると、驚くべきことが分かった。次郎長は時の警察署長の職に任命されていたのであって、その経緯は次のとおりである。

慶応四年三月はじめに官軍が駿府に陣をおき、西郷が東征軍参謀として滞在した。これに先立ち二月に官軍の先鋒隊として浜松藩家老の伏谷如(ふせやじょ)水(すい)が駿府町差配役、今でいう民政長官に任命されていた。

浜松藩は元々格式高い譜代藩で、天保の改革を行った老中・水野忠邦は浜松藩主。水野は元々九州唐津藩の藩主であったが、唐津藩では老中になれないので、実封二十五万三千石の唐津から実封十五万三千石の浜松藩への転封を、自ら願い出て実現させ老中になったほどである。

この水野忠邦が失脚し出羽山形藩へ転封、浜松藩は井上家に代わって、幕末には井上正直が藩主で、この時の家老が伏谷如水であった。

その如水が駿府一帯の治安を司るために白羽の矢を立てたのが次郎長。如水は次郎長を登用するにあたって、事前に十分調査したらしく、この男なら大丈夫と指名、断る次郎長に対し超法規的処置により、過去の罪科はすべて帳消し、帯刀を許したのである。

これで次郎長は駿府一帯の治安を預かる警察署長になったわけで、この状態が徳川家の駿府藩なっても同様職務を務めていた。

という意味は、次郎長が警察署長であるならば、事件の処理を担当するため、鉄舟から機密費を受取り、それで清水港内の屍を拾い上げ埋葬するのは当然の業務となる。しかし、これが表面に出ては、新政府に対して申し開きが立たないので、鉄舟と次郎長とで芝居を打ったというのが本当のところではないだろうか。

また、鉄舟の駿府掛けで、望嶽亭主人が官兵から鉄舟を救い、次郎長に連絡取って、西郷への会談へ結びつけたという説も、次郎長が駿府一帯の警護役としての警察権を掌握しているという前提で考えれば頷けられる。

ところで、鉄舟は巴河畔の「壮士墓」墓碑を次郎長に書いたが、その際に次の詩も与えている。
砂濶(ひろ)くして孤松秀(ひい)ず
空しくとどむ壮士の名
水禽(みずとり)何をか恨むところぞ
飛んで夕陽に向かって鳴く
また、別に唐紙に髑髏(どくろ)を描き、「生無一日歓、死有万世名(生きて一日の歓びなく、死して万世の名有り)」と賛し贈った。

さて、この咸臨丸惨殺事件から二十年、巴川の「壮士墓」建立から十七年後の明治二十年(1887)、清見寺(せいけんじ)(静岡市清水区興津)に榎本武揚が揮毫した「咸臨丸殉難諸氏記念碑」が建てられたことは既にふれた。

また、この〈人の食(禄)を食(は)む者は人の事に死す〉という意味の揮毫、これを福沢諭吉が見たことから「痩せ我慢の説」を書くキッカケになったのではということもふれた。

では何故に、榎本は「幕府から家禄をもらっていた者は幕府のためなら死をも辞さない」という意味になる文言を揮毫したのか。榎本も幕臣であった。常人感覚なら書けないし、書かないであろう。福沢が怒るのが当たり前である。この解明は次号へ。

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2012年02月18日

「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の三

山岡鉄舟研究「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の三
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

 福沢諭吉は「痩せ我慢の説」で勝海舟と榎本武揚を批判した。海舟への批判については、前号で分析したので、今号は榎本武揚について検討したい。

福沢と榎本は遠い親せき筋にあたる。その縁は福沢の妻「お錦」の関係からである。
 文久元年(1861)、福沢は中津藩士・土岐太郎八の次女「お金」と結婚した。お金は以前は「おかん」という名であったが気に入らず、両親に頼んで「お金」に変えたが、今度は字がしっくりこず、福沢との結婚後は「お錦(きん)」*と書くようになった。 このお錦の実家である土岐家と、榎本の母の実家である林家は遠い縁戚筋であった。

明治二年(1869)五月、五稜郭の戦いで榎本は降伏し、戊辰戦争が終ったが、この当時、榎本の母は息子の消息が分からず、必死で尋ね歩いていた。

ここで榎本が、函館五稜郭で降伏するまでの経緯を簡単に振り返ってみたい。明治元年(1868)榎本武揚は、徳川慶喜を水戸から清水港に護衛搬送したが、その翌月の八月、新政府軍(官軍)に引き渡すことになっていた幕府軍艦八隻をもって、陸奥に向かって脱走した。これは、榎本が徳川家の成行き、慶喜の駿府への移転を見届けてから脱走を図ったものであるが、この艦隊に咸臨丸が含まれており、この咸臨丸が座礁、台風に翻弄され清水港まで漂流し、辿り着き、乗組員が官軍に殺傷されこと、それが前号で紹介した清水の清見寺にある『咸臨丸殉難諸氏記念碑』と碑文〈食人之食者死人之事〉につながっていて、ここを訪れた福沢が碑文を読んで、怒り心頭に達し、「痩せ我慢の説」を書くキッカケとなったのである。

さて、八月に陸奥に向かった榎本艦隊は、途中台風にて一部艦船を失ったが、ようやく仙台に入った。だが、奥羽越列藩同盟の敗退により、十月には旧幕府軍と奥羽諸藩脱走兵らを乗せ、反新政府軍団として蝦夷地に向かい、函館を占領、五稜郭を拠点としたのである。

榎本は、函館占領後すぐ、函館在住の各国領事や横浜から派遣されてきた英仏海軍士官らと交渉し、この軍団が榎本を総裁とする「交戦団体」(国家に準じる統治主体)であることを認めさせ、各国に明治政府との間の戦争には局外中立を約束させた。

これは榎本の持つ国際法を活かした外交交渉の成果であるが、これに見られるように、榎本の外交国際感覚は、後に、ロシアとの国境交渉に特命全権大使として臨み、樺太・千島交換条約の調印を成し遂げたように、当時から優れた国際感覚を身につけていた。

この函館五稜郭を拠点とする「交戦団体」に対し、翌明治二年五月、新政府軍が総攻撃を行い、土方歳三が戦死、十八日に至って「交戦団体」の首脳である四名、総裁の榎本、副総裁の松平太郎、陸軍奉行の大鳥圭介、海軍奉行の荒井郁之助が、新政府軍の陣営に赴いて降伏を告げ、生きのびた将兵の赦免を請うたのである。

降伏後、榎本は政権首脳とともに、辰之口牢獄(現・パレスホテルあたり)に収監されたが、この経過を知らない静岡在住の榎本の母は、息子の消息を知ろうと何度も東京の親戚に手紙を出して、必死の捜索をしていた。しかし、多くの親戚は、みな自分に危険が及ぶ可能性があると思い、梨の礫であった。

その状況がお錦を通じて福沢に伝わって、福沢は母に同情し、榎本は辰之口牢獄に入っており、生命は無事であることを母に伝えたのである。

すると母と姉が福沢を頼って上京してきて、福沢の屋敷に泊まり、牢屋にいる息子に弁当や必要と思われるものを差し入れし、面会したいとすがる親心に、福沢は「この母を身代わりにして殺してくれ」というような鬼気迫る「哀願書」を下書きしてあげ、新政府に願いださせた。

この「哀願書」が牢役人の心を動かしたのか、何とか母子の面会が許され、次の目標は赦免に向かった。

そこで福沢は、文久元年十二月に遣欧使節竹内下野守に従い、翻訳方として渡欧した際に同行し、その後も密接な関係にあった松木弘安、明治になって外交官として活躍した後の寺島宗則であるが、この寺島から薩摩出身の官軍参謀長である黒田清隆を紹介受け面会したのである。

その黒田に向かって、福沢は榎本のために熱弁をふるった。

「榎本は新政府に対し反乱した人物であるが、命だけはとらぬようにした方が国家のために得である。この写真を参考までに差し上げるので、じっくりご検討お願いしたい」というようなことを述べ、アメリカの南北戦争で勇名を馳せた南軍のロバート・リー将軍の写真を渡した。

南北戦争もアメリカ国内の戦い、いわば戊辰戦争と同じ国内戦争、南軍が敗退したがリー将軍は助命されている。遺恨をのこさないよう、敗者への対応は寛大にすべきだという趣旨で黒田を諭したのである。

この黒田への福沢の説得が功を奏し、榎本は赦免されることになった。榎本は福沢に感謝し尽くしても、し尽くせないと思われたが、しかし、ここで意外な結果を生むことになる。それを北康利著「福沢諭吉 国を支えて国を頼らず」(講談社)から引用しよう。

「釈放される少し前、榎本は恩知らずな手紙を姉・観月院に出しているのだ。

〈お借りした本は福沢程度の学者が翻訳したものですから、私がわざわざ読むほどのものではありません。それにしても、彼が無遠慮にいろいろ言っているのが耳に届いてきて、高慢ちきだと一同大笑いいたしました。(中略)もうちょっと学問のある人物かと思っておりましたが、案外だとため息をつき、これくらいの見識の学者でも百人余の弟子がいるとは、わが国もまだまだ開化が進んでいないと思い知るべきでしょう〉

そこには信じがたい忘恩の言葉が並んでいた。諭吉のような身分の低い者が自分を助けてくれるなどとは片腹痛いということだったのかもしれないが、それにしても謙虚さや感謝の心のかけらもない」
このような過去の伏線経緯もあって、清見寺の碑文を見た瞬間、福沢は怒ったのである。

では、福沢はどのような批判を「痩我慢の説」で展開したのであろうか。その要点と思われるところを拾ってみる。(『日本の名著╱33福沢諭吉・痩せ我慢の説』中央公論社)

≪勝氏と同時に榎本武揚なる人あり。これまたついでながら一言せざるを得ず。この人は幕府の末年に勝氏と意見を異にし、あくまでも徳川の政府を維持せんとして力を尽くし、政府の軍艦数艘を率いて函館に脱走し、西軍に抗して奮戦したけれど、ついに窮して降参したる者なり。このときに当たり、徳川政府は伏見の一敗また戦うの意なく、ひたすら哀を乞うのみにして、人心すでに瓦解し、その勝算なきはもとより明白なるところなれども、榎本氏の挙はいわゆる武士の意気地すなわち痩我慢にして、その方寸の中にはひそかに必敗を期しながらも、武士道のためにあえて一戦を試みたことなれば、幕臣また諸藩士の佐幕党は氏を総督としてこれに随従し、すべてその命令に従って進退をともにし、北海の水戦、函館の籠城、その決死苦戦の忠勇はあっぱれの振舞いにして、日本(やまと)魂(たましい)の風教上より論じて、これを勝氏の始末に比すれば年を同じゅうして語るべからず。

しかるに脱走の兵、常に利あらずして勢いようやく迫り、また如何ともすべからざるに至りて、総督をはじめ一部分の人々はもはやこれまでなりと覚悟を改めて敵の軍門に降り、捕われて東京に護送せられたるこそ運のつたなきものなれども、成敗は兵家の常にしてもとより咎(とが)むべきにあらず。新政府においてもその罪をに悪(にく)んでその人を悪まず、死一等を減じてこれを放免したるは、文明の寛典と言うべし。氏の挙動も政府の処分もともに天下の一美談にして間然すべからずといえども、氏が放免ののちさらに青雲の志を起こし、新政府の朝に立つの一段に至りては、わが輩の感服すること能(あた)わざるところのものなり≫

≪氏は新政府に出身してただに口を湖するのみならず、累遷立身して特派公使に任じられ、またついに大臣にまで昇進し、青雲の志、達し得てめでたしといえども、顧みて往時を回想するときは情に堪えざるものなきを得ず。当時決死の士を糾合して北海の一隅に苦戦を戦い、北風競わずしてついに降参したるは是非なき次第なれども、脱走の諸士は最初より氏を首領としてこれを*恃(たの)み、氏のために苦戦し、氏のために戦死したるに、首領にして降参とあれば、たとい同意の者あるも、不同意の者はあたかも見捨てられたる姿にして、その落胆失望は言うまでもなく、ましてすでに戦死したる者においてをや。死者もし霊あらば必ず地下に大不平を鳴らすことならん≫

≪古来の習慣に従えば、およそこの種の人は遁世出家して死者の菩提を弔うの例あれども、今の世の風潮にて出家落飾も不似合いとならば、ただその身を社会の暗所に隠して、その生活を質素にし、いっさい万事控え目にして、世間の耳目に触れざるの覚悟こそ本意なれ≫

≪これわが輩が榎本氏の出処につき所望の一点にして、ひとり氏の一身のためのみにあらず、国家百年の謀(はかりごと)において士風消長のために軽軽看過すべからざるところのものなり≫

この「痩我慢の説」による榎本への批判についても、筋が通っており成程と思う。
しかし、いくつかの疑問が残る。その第一は福沢がアメリカ南軍のリー将軍の例を持ち出し、
助けるよう黒田清隆を諭した事実の意図である。

当時の新政府は人材不足であった。それまでは徳川幕府の長い政治体制下で、薩摩・長州藩等は幕府政治に深く関与していなかったので、実際に日本国政治を担当するようになって、様々な問題対応能力において大きな齟齬をきたしていたので、優れた人材は喉から出るほど欲しかった。

特に欧米滞在経験のある人材は、諸外国との外交問題、国内体制の近代化に必要不可欠であり、その代表的人物として渋沢栄一を2011年11月号で挙げた。渋沢は、慶喜の弟である昭武がフランス・パリ万国博覧会に将軍の名代として出席する際に随員として渡仏し、ヨーロッパ各国で先進的な産業・軍備を実見した。当時としては稀有の体験を持った人物であり、新政府に抜擢され、その後の活躍によって「日本資本主義の父」といわれ、多種多様な企業の設立・経営に関わった大物財界人となった。

これに対し、榎本はジョン万次郎に英語を学び、十九歳で蝦夷地に赴き樺太探検にも従事し、長崎海軍伝習所での蘭学による西洋の学問や航海術・舎密学(化学)などを学び、その基礎的な学力をもって文久二年の27歳から、慶応三年(1867)32歳までオランダに留学し、ハーグで蒸気機関学、軍艦運用の諸術として船具・砲術と、機械学・理学・化学・人身窮理学を学んだ。

続いて、デンマーク対プロシャ・オーストリア戦争が勃発すると、観戦武官として進撃するプロシャ・オーストリア連合軍と行動を共にし、ヨーロッパの近代陸上戦を実際に目撃した最初の日本人となった。その後も国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学び、幕府が発注した軍艦「開陽丸」で帰国したように、当時の近代化先端国である欧州の国々について全体像を体系的に学び経験してきた人物であって、榎本に比肩する人物は当時の日本では存在していなかった。

さらに、辰之口牢獄では牢名主となって、本の差し入れも許されるし、書きものもできたので、家族に手紙を出し、家族を通じて外国の技術書・科学書を数多く差し入れてもらい、片っ端から読破、外国新聞も読んでいた。

兄の勇之助宛への手紙で、様々な日用品の製造方法、石鹸・油・ロウソク・焼酎・白墨といったものを教え、その製造のための会社を起こすことを勧めている。加えて、鶏卵の孵化機の製法、養蚕法、硫酸や藍の製法といったものにまで言及し、一部はその製造模型まで、獄中で造ったのである。

この榎本の獄中での態度、一般的に考えてかなり違和感が残る。戦争で敗者となった側のトップであるから、戦争犯罪人として極刑を予測し、その日に備えての心を安らかにするために精神統一など、いざという時に見苦しい死に方をしないために備えるというのが、日本人の通常ではないか。先の大戦での日本政府指導責任者の多くは、このような精神的世界に向かい、従容として死に向かったと聞いている。武士道精神による達観した最後であったと思う。

榎本の場合は、これらとは全く異なる。当時、大村益次郎などは強く厳刑を主張していたように、極刑が下されるのではないかという憂慮される環境下で、榎本の関心事は精神世界に向かうのでなく、技術者といえる分野に関心が向かい、具体的な提案まで行っているのである。戦争を指導した人物とは思えない。

五稜郭での戦いなぞすっかり忘れ去り、関心は日本の近代化というところに向かって、そのために欧米で得て持ち帰った自らの知識と体験を、獄中でありながら明治という時代が必要であろうと思うことを提案し、それも多方面分野に渡っていることから考えると、榎本は「万能型」人間ではないと推測できる。

確かにその通りで、その後の活躍を見ると、東京農業大学の設立、電気学会・工業化学会等の会長歴任、各国との外交交渉、晩年にあらわした地質学の論文等から考え、「万能型」テクノクラートであった。

さらに加えて分析してみると、辰之口牢獄での行動から判断されるのは、この人物は何か一般人とは別次元基準で生きているということである。

実は、福沢はこの榎本の実体、何か通常の日本人とは異なる次元、知識の幅と深みを併せ持つ「万能型」テクノクラートであることを、事前に理解していたからこそ、榎本は日本の近代化に欠かせない人材だと、リー将軍の事例を黒田清隆に示したのではないかと思われる。

ところが、清水を訪れ清見寺で〈食人之食者死人之事〉を見たことで、赦免前の恩知らずな手紙のことを思い出し、併せて、新政府内での華やかな栄進出世ぶりを考えると、これは、敢えて一言批判を述べないといけないという覚悟につながり、批判としての「痩我慢の説」を展開したのではないか。そのように推測する。

さて、もう一つの疑問は重要である。榎本は何故に〈食人之食者死人之事〉という揮毫、幕府から家禄をもらっていた者は幕府のためなら死をも辞さない、という意味になる文言を、どうして咸臨丸殉難諸氏記念碑に書き込み、刻んだのかということである。

榎本が幕臣であったことは当時の誰もが熟知しているのであるから、普通感覚ならこのような文言は書けないし、書かないであろう。福沢でなくとも怒るのが当たり前である。

だが、堂々と衆人が集まる寺社の境内に揮毫している事実。榎本は、それほどの非常識人なのであろうか。それとも何かの意図があって行ったのか。

これについては福沢への返書に「事実相違の廉(かど)ならびに小生の所見もあらば」とあるのみで、他には何も残さずに世を去ったので、何が背景にあるのか榎本の記録からは出てこない。筆者が分析してみるしかないが、そのためには、清見寺境内の『咸臨丸殉難諸氏記念碑』が建てられたその咸臨丸事件から見ていかねばならない。

ここで鉄舟と次郎長が登場する。清水の次郎長、後に東海道一の大親分として世間に知られるようになった、そのキッカケはこの咸臨丸事件からである。

ここで改めて、咸臨丸のことを思い起こせば、この艦はまことに数奇な運命にもてあそばれている。長崎の海軍伝習所で訓練を始めた幕府は、嘉永六年(1853)にオランダに軍艦を発注した。当時、ロシアとトルコの戦争のため、中立国のオランダは外国向けの建艦を控えていたため、四年後の安政七年(1860)にようやく長崎港に現れた。

この咸臨丸を有名にしたのは、日本人初の太平洋横断を成し遂げたことからであった。その後、幕府の軍艦として活動していたが、既に述べたように榎本が新政府軍に引き渡すことになっていた幕府軍艦を率いて、陸奥に向かって脱走した際も、艦隊に咸臨丸が含まれており、暦では八月でも閏年なので、もう秋に入っていて、台風に遭遇し、観音﨑で暗礁に乗り上げ、それまで回天丸に曳航(えいこう)されていたが、曳綱を断って、風浪のままに漂流し大マストも切り倒すまでになり、常州那珂港沖から三宅島近くを流され、二十九日にようやく下田港にたどりついたのである。

下田港の名主と小田原藩は、咸臨丸が港に入ったことを新政府に届け出た。新政府は肥前藩海軍に「徳川の脱艦、下田港漂着につき、処置すべし」との命を下し、追捕のために軍艦三隻と柳川藩士他数十名乗せて、咸臨丸逮捕に向かった。

咸臨丸は新政府が追捕に向かっているとは知らず、下田から清水港に入り、駿府藩に「脱走の途次、清水港へ漂流」の旨届け出た。駿府藩では大騒ぎである。榎本が脱走したことも大騒ぎであったが、そこに脱走したはずの咸臨丸が徳川の本拠地に戻って来たのである。

この騒ぎに現れたのが鉄舟であり、次郎長であった。次号に続く。

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 痩我慢の説と鉄舟・・・その二

山岡鉄舟研究 痩我慢の説と鉄舟・・・その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

明治24年(1891)に福沢諭吉は「痩我慢の説」を書き、勝海舟と榎本武揚を批判したことは前号で紹介した。
その中で海舟に対する指摘を、福沢の言葉を持って総括すれば以下の二点になるだろう。
① 敵に向かいてかつて抵抗を試みず、ひたすら和を講じてみずから家を解きたること。
② 維新の朝にさきの敵国の士人と並び立って得々名利の地位に居ること。

この①について触れる前に、②を考えてみたい。確かに海舟の明治新政府における地位は華やかである。

明治五年(1872)海軍大輔となり従四位に叙せられ、翌明治六年(1873)には参議海軍卿、明治八年(1875)四月に元老院議官となるが即日辞表を呈出し、十一月に依願免官となって、その後は赤坂氷川町の隠居となった。

明治二十年(1887)に伯爵、翌明治二十一年(1888)枢密顧問官に任じられ正三位、明治二十二年(1889)憲法発布の年に勲一等瑞宝章受章、後に勲一等旭日大綬章、正二位に叙せられた。つまり、海舟の生涯の終りでは正二位勲一等伯爵という高位高官にのぼった。福沢が指摘したのはこの事実であった。

だが、この高位高官として権力中枢にいたことが、明治時代初期に発生した各地での騒乱、特に西南戦争に大きく影響していると、江藤淳が「海舟余波」(文芸春秋)で指摘しているので紹介したい。

「明治七年(1874)の佐賀の乱以後、熊本神風連の乱、萩の乱、秋月の乱、西南戦争と、士族の叛乱があいついだが、これらはすべて官軍側の内部抗争にすぎなかった。明治前半の最大の反政府運動である自由民権運動ですら、本質的には薩長に対する土肥の挑戦にほかならなかったともいえる。
この間にあって、最大の潜在的野党である旧幕臣グループは、戊辰以来三十年間、慶喜とともに異常なまでの沈黙を守りつづけた。そこに海舟の『苦学』が作用していたのである。

最初の、そしておそらくは最大の危機は、明治十年(1877)の西南戦争のときにやって来た。海舟と西郷はもとより相重んじた仲であり、江戸開城のために反対の陣営に属しながら協力しあった間柄である。もし海舟が旧幕臣を煽動し、海軍にも働きかけて西郷と呼応したならば、どのような事態が生じていたかは容易に想像し得るところであろう。しかし海舟は起たなかった。起たないどころか連日連夜奔走して、旧幕臣が叛軍に投ずるのを未然に防いでまわった」

その状況を巖本善治の「海舟余波」(女学雑誌社)では、

「明治十年の時などは、毎晩々々出て、十二時頃に帰ったほどだ。古道具屋をひやかしたり、古着屋で買ったり、アチラにやり、コチラにやりして、平和を維持した。どうして、警視などで、ゆくものかイ」
と書かれているが、それを江藤淳が次のように解説している。

「この『アチラにやり、コチラにやりして』には、彼が政治資金を巧妙に操作して、旧幕臣の生活を支えたことが暗示されている。海舟の政治資金は、おそらく岩崎がその最たるものであり、この岩崎との結びつきの背景には彼と坂本竜馬との関係が潜んでいるものと思われる。その結果、旧幕臣からは、叛軍に投じた者はもちろん、警視庁抜刀隊に参加する者すら出なかった。整然と統制され、力を抑制して、官と薩のあいだの中立勢力たる旧幕臣グループの隠然たる力を示すこと。これこそ明治十年の危機にあたって海舟が試みたことであり、かつよくなしたことであった」

この江藤説は、なるほどと思う。旧幕臣である元旗本達にとっては、戊辰戦争は不本意な結果で、自分たちの保持する戦力を十二分に発揮できずに終わったことを悔しいと思っているはず。だから、いつか官軍に対して何かの機会に遺恨を晴らしたいという輩一派がいると考えるのが当然で、それが一連の騒乱が続いている時に、どちらかの側に属し、意趣返しの謀反を起こし得ることは十分に想像できる。

前号で紹介したが、福沢諭吉が「痩我慢の説」を海舟と榎本に送った際に添えた「福沢諭吉の手簡」に「なおもってかの草稿は極秘にいたしおき、今日に至るまで二、三親友のほかへは誰にも見せ申さず候」とある。

「二、三親友」・・・それは福沢の見解に同調する旧幕臣がいたことを明かしている。
それは木村芥舟(嘉毅)と栗本鋤雲である。木村芥舟は咸臨丸で渡米した際の提督であり、栗本鋤雲は徳川昭武の補佐役としてフランスに渡り、後に外交面で活躍したが、この二人とも明治政府からその能力を評価され、出仕の誘いがあったが、幕臣として幕府に忠義を誓い謝絶している。
この栗本が「痩我慢の説」を一読し快哉を叫び、全編にわたって線を引いたり、感想を書き込んだりしていたが、とうとう黙っておれなくなり、ついに知人に見せてしまい、内容が外部に漏れたので、福沢もそれなら仕方ないと、十年後の明治34年(1901)一月一日から時事新報に掲載を始めたのである。

いずれにしても、木村芥舟と栗本鋤雲と同様、幕末時の対応に不満意識を持っていた旧幕臣は少なからずいたわけで、何かのキッカケによって爆発へのエネルギーに変化する恐れは高かった。それが、明治初年に発生した各地での騒乱に乗じて爆発したならば、鉄舟の命がけの行動によって実現した海舟・西郷会談によって切り拓かれた明治維新という成果は、国家の大騒乱に変わり、徳川家と明治天皇との関係がおかしくなり、旧幕臣たちの立場は悪化したであろう。

それを恐れた海舟は、全力を尽くして、旧幕臣グループを整然と統制され中立勢力に収めるために動いたのである。後に海舟はこう語っている。(「海舟語録」明治三十一年十月七日で)

「江戸を明け渡したからそれで治るなどといふことがあるものか。畢竟(ひっきょう)*、己が苦学の結果で、三十年間かうなって居るではないか」

と語っている。
この「苦学」とは何か・・・。それは、明治新政府をつつがなく運営していくにあたって、謀反を起こす可能性のある旧幕臣グループを問題化させないよう「なだめ」「まとめていく」ために、あらゆる行動を採ったことを「苦学」と言ったのではないかと考える。

では、この苦学を展開し「まとめていく」行くために必要条件とは何か。まず、一番に必要なのは資金であろう。その金は岩崎弥太郎から手当てを受けることができた。次に、その政治資金を使うべき自分の立場が問題となる。

明治政府内に何も権限を持たない状態では、多分、その資金を支出したとしても、有効には機能しないであろう。つまり、在野にいたのではダメで、時の権力の中枢に近ければ近いほど、使ったカネが生きてくる。これは、企業内の政治力学を考えてもわかる。平社員よりは上級幹部の行動の方が影響大きいことは当然だ。

だから、旧幕臣グループを統制するには、政権中枢と強いパイプを持っていることが必要となる・・・このように考えた海舟は、福沢に代表される批判は承知の上で、高位高官の地位を築いたのであろう。そのことを江藤淳が次のように語っている。

「朝に仕えるなら、それはかならず高位高官に任じられるのでなければならない。つまり子爵より伯爵がよく、下僚に甘んじるよりは薩長の顕官と『竝立』って枢密顧問官に列せられるほうがよい。なぜなら位階が高ければ高いほど彼の旧幕臣グループへの統制力は強まり、それだけこのグループの力は隠然と充実するからである」と。

さらに言えば、明治天皇の侍従としての鉄舟が、旧幕臣を「まとめていく」海舟に協力した事は容易に想像がつく。天皇の身近に仕えているということは、何にも勝る重しである。

さて、最初に戻って、②ついて検討してみたい。

海舟は福沢の批判について次のよう氷川清話にある。

「福沢がこの頃、痩我慢の説といふのを書いて、おれや榎本など、維新の時の進退に就いて攻撃したのを送って来たよ。ソコで『批評は人の自由、行蔵は我に存す』云々の返書を出して、公表されても差し支えない事を言ってやったまでサ。
福沢は学者だからネ。おれなどの通る道と道が違うよ。つまり『徳川幕府あるを知って日本あるを知らざる徒(ともがら)は、まさにその如くなるべし、唯(ただ)*百年の日本を憂ふるの士は、まさにこの如くならざるべからず』サ」

これは海舟の自負であり、偽らざる気持であって「批評家に局に当たらねばならない者の『行蔵』、つまり、混乱の幕末から江戸無血開城、そこから連続する政治に対応してきた『出処進退』の実践と苦しさがわかってたまるか」と率直に述べたものだろう。

また、この感覚は、政治という実践舞台で、諸問題に具体的対応を担当している者にしか分からないものであろう。マスコミや一般人は政治家が動いた結果としての事象から批評する。結果として問題点のみが指摘される傾向になる。これは現在の菅政権にも当てはまることであって、菅政治の総決算は後代が定めていくと考える。

話は海舟に戻るが、海舟の国家感はペリー来航の嘉永六年(1853)から経る歴史の中で形成されてきた。長崎での海軍伝習所や幕府内の要職経験を通じ自らの能力を磨き、かため、咸臨丸渡米で国際感覚を身につけ、それを人に伝える中から、幕府体制に対する考え方が定まってきて、それを反幕府勢力の中心人物である西郷にまで伝えた結果が、徳川幕府の崩壊につながっているのである。
つまり、福沢が「敵に向かいてかつて抵抗を試みず」と批判した行動の源には、この一連の歴史から醸成されてきたといえる。

こんな事例がある。明治維新を遡る四年前の元治元年(1864)の大坂、西郷は当時大問題であった兵庫開港延期について、幕府軍艦奉行であった海舟に意見を求めたところ「この問題は、加州(注 加賀)、備州、薩摩、肥後その他の大名を集め、その意見を採って陛下に奏聞し、更に国論を決する」という答えに西郷は唸り、その意味する重大さに驚愕したことかがあった。

なぜなら、この発言は、日本政治の最重要問題処理を、有力諸侯に主体となって当たらせるとい発言であり、これは有力諸侯を国政運営の中心に位置させるという構想につながっており、言外に「幕府には政権担当能力がない」ということを明かしているのだ。

これは当時、とうてい幕臣から発する言葉でない。だが、これを聞いた西郷にとっては、眼を輝かせる見識であり、これを突き詰めていくと、一種の「共和政治」となり、幕府内では反発が強いものだからこそ、薩摩側からみれば一層「その通りだ」ということになる。

この会談を境に薩摩は幕府を見限る方向に動き出したのであって、元治元年時点で、海舟が一度幕府を見放し、それを西郷という類稀なる戦略家に伝えたからこそ、明治維新につながったと考えられるのである。

作家の海音寺潮五郎は、大坂会談時の海舟発言を分析し「勝という人は、終始一貫、日本対外国ということだけを考えて、勤王・佐幕の抗争などは冷眼視、といって悪ければ、第二、第三に考えていた人である」(西郷隆盛 学研文庫)と解説しているが、その通りであろう。

そのような海舟であるから、福沢から批判されても揺るがないのである。所詮、海舟と福沢は生きる世界が異なり、立場の相違は大きく、すり合わせは出来ない生き方哲学の持ち主同士だった。

次は、榎本武揚に対する福沢諭吉の批判である。

実は、福沢の「痩我慢の説」は榎本への批判から始まったものである。その発端経緯を「福沢諭吉 国を支えて国を頼らず」(北 康利著・講談社)から紹介する。

「十九世紀に別れを告げ新たな二十世紀を迎える明治三十三年(1900)の大晦日、後々まで語り継がれる一大イベントが慶応義塾で開催された。『世紀送別会』がそれである。
教職員、学生総勢五百余名が午後八時に参集。諭吉は「独立自尊迎新世紀」と大書した書を一同に披露し、万雷の拍手を浴びた。
そして、大きな話題となった世紀送迎会の翌日から『時事新報』に掲載された『痩我慢の説』は、世間をさらに驚かせる。それは、新政府の重鎮である榎本武揚や勝海舟に対する痛烈な批判だったからである。

きっかけは十年前にさかのぼる。
静岡へ出かけた折、清見寺(せいけんじ)(静岡市清水区興津)に立ち寄り、境内の『咸臨丸殉難諸氏記念碑』を見る機会があった。
咸臨丸は太平洋横断の後、非武装の運搬船として使われていたが、清水港停泊中に新政府軍の攻撃を受け、多数の死傷者を出した。
新政府軍の目を気にして、誰も海上の死骸を引き上げようとしない。腐乱するままに放置されているのを見かね、侠気を出して埋葬したのが有名な清水次郎長である。清見寺の碑は、この凄惨な事件の十七回忌を記念して建てられたものであった。
この悲劇は諭吉もよく知るところだけに、感慨深げに碑文へと目をやった。撰文はあの榎本武揚である。ところが、そこに〈食人之食者死人之事〉という一節を目にした瞬間、色白の彼の顔が見る間に朱に染まっていった。

この文章は〈人の食(禄)を食(は)む者は人の事に死す〉と読み、この場合、幕府から家禄をもらっていた者は幕府のためなら死をも辞さない、という意味になる。

幕府の重臣でありながら新政府に仕え、高官に上った榎本がよくもしゃあしゃあと書けたものだ、という怒りと同時に、何人もの懐かしい顔が浮かんでは消えた。

かつて謹慎を命じられていた諭吉を助けてくれた中島三郎助などは、五稜郭落城の二日前、長男、次男ともども壮烈な戦死を遂げていた。木村嘉毅もまた、最後の幕府海軍所頭取として敏腕を振るったが、維新後は幕府に殉じて新政府からの仕官の話をすべて断り、隠居して芥舟と号し、試作などで静かな余生を送っている。

一方の榎本はと言うと、向島に数寄を凝らした別荘を構え、贅沢三昧の生活を送っていることを知らぬ者はいない。

(木村さんのような人間にしか、あの文章を書く資格はない!)
東京に戻っても怒りは収まらない。この文章を書いたのが、自分の助命した榎本だということが余計に腹立たしかった」

この清見寺で見た碑文の経緯については、福沢が「痩我慢の説」の中で自ら書き述べている。
しかし、ここで最後の「自分の助命した榎本だ」というところ、これは榎本が五稜郭落城降伏後捕らえられていたものを、福沢が時の官軍参謀長であった黒田清隆に直に面会し、赦免するよう説得熱弁をふるったことが功を奏し、牢から出されたものであるが、その背景には福沢の妻お錦が絡んでいることに触れなければならず、清見寺の碑については鉄舟を抜きには語ることができない。次号に続く。

投稿者 Master : 13:55 | コメント (0)

痩我慢の説と鉄舟・・・その二

痩我慢の説と鉄舟・・・その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

明治24年(1891)に福沢諭吉は「痩我慢の説」を書き、勝海舟と榎本武揚を批判したことは前号で紹介した。
その中で海舟に対する指摘を、福沢の言葉を持って総括すれば以下の二点になるだろう。
① 敵に向かいてかつて抵抗を試みず、ひたすら和を講じてみずから家を解きたること。
② 維新の朝にさきの敵国の士人と並び立って得々名利の地位に居ること。

この①について触れる前に、②を考えてみたい。確かに海舟の明治新政府における地位は華やかである。

明治五年(1872)海軍大輔となり従四位に叙せられ、翌明治六年(1873)には参議海軍卿、明治八年(1875)四月に元老院議官となるが即日辞表を呈出し、十一月に依願免官となって、その後は赤坂氷川町の隠居となった。

明治二十年(1887)に伯爵、翌明治二十一年(1888)枢密顧問官に任じられ正三位、明治二十二年(1889)憲法発布の年に勲一等瑞宝章受章、後に勲一等旭日大綬章、正二位に叙せられた。つまり、海舟の生涯の終りでは正二位勲一等伯爵という高位高官にのぼった。福沢が指摘したのはこの事実であった。

だが、この高位高官として権力中枢にいたことが、明治時代初期に発生した各地での騒乱、特に西南戦争に大きく影響していると、江藤淳が「海舟余波」(文芸春秋)で指摘しているので紹介したい。

「明治七年(1874)の佐賀の乱以後、熊本神風連の乱、萩の乱、秋月の乱、西南戦争と、士族の叛乱があいついだが、これらはすべて官軍側の内部抗争にすぎなかった。明治前半の最大の反政府運動である自由民権運動ですら、本質的には薩長に対する土肥の挑戦にほかならなかったともいえる。
この間にあって、最大の潜在的野党である旧幕臣グループは、戊辰以来三十年間、慶喜とともに異常なまでの沈黙を守りつづけた。そこに海舟の『苦学』が作用していたのである。

最初の、そしておそらくは最大の危機は、明治十年(1877)の西南戦争のときにやって来た。海舟と西郷はもとより相重んじた仲であり、江戸開城のために反対の陣営に属しながら協力しあった間柄である。もし海舟が旧幕臣を煽動し、海軍にも働きかけて西郷と呼応したならば、どのような事態が生じていたかは容易に想像し得るところであろう。しかし海舟は起たなかった。起たないどころか連日連夜奔走して、旧幕臣が叛軍に投ずるのを未然に防いでまわった」

その状況を巖本善治の「海舟余波」(女学雑誌社)では、

「明治十年の時などは、毎晩々々出て、十二時頃に帰ったほどだ。古道具屋をひやかしたり、古着屋で買ったり、アチラにやり、コチラにやりして、平和を維持した。どうして、警視などで、ゆくものかイ」
と書かれているが、それを江藤淳が次のように解説している。

「この『アチラにやり、コチラにやりして』には、彼が政治資金を巧妙に操作して、旧幕臣の生活を支えたことが暗示されている。海舟の政治資金は、おそらく岩崎がその最たるものであり、この岩崎との結びつきの背景には彼と坂本竜馬との関係が潜んでいるものと思われる。その結果、旧幕臣からは、叛軍に投じた者はもちろん、警視庁抜刀隊に参加する者すら出なかった。整然と統制され、力を抑制して、官と薩のあいだの中立勢力たる旧幕臣グループの隠然たる力を示すこと。これこそ明治十年の
危機にあたって海舟が試みたことであり、かつよくなしたことであった」

この江藤説は、なるほどと思う。旧幕臣である元旗本達にとっては、戊辰戦争は不本意な結果で、自分たちの保持する戦力を十二分に発揮できずに終わったことを悔しいと思っているはず。だから、いつか官軍に対して何かの機会に遺恨を晴らしたいという輩一派がいると考えるのが当然で、それが一連の騒乱が続いている時に、どちらかの側に属し、意趣返しの謀反を起こし得ることは十分に想像できる。

前号で紹介したが、福沢諭吉が「痩我慢の説」を海舟と榎本に送った際に添えた「福沢諭吉の手簡」に「なおもってかの草稿は極秘にいたしおき、今日に至るまで二、三親友のほかへは誰にも見せ申さず候」とある。

「二、三親友」・・・それは福沢の見解に同調する旧幕臣がいたことを明かしている。

それは木村芥舟(嘉毅)と栗本鋤雲である。木村芥舟は咸臨丸で渡米した際の提督であり、栗本鋤雲は徳川昭武の補佐役としてフランスに渡り、後に外交面で活躍したが、この二人とも明治政府からその能力を評価され、出仕の誘いがあったが、幕臣として幕府に忠義を誓い謝絶している。

この栗本が「痩我慢の説」を一読し快哉を叫び、全編にわたって線を引いたり、感想を書き込んだりしていたが、とうとう黙っておれなくなり、ついに知人に見せてしまい、内容が外部に漏れたので、福沢もそれなら仕方ないと、十年後の明治34年(1901)一月一日から時事新報に掲載を始めたのである。

いずれにしても、木村芥舟と栗本鋤雲と同様、幕末時の対応に不満意識を持っていた旧幕臣は少なからずいたわけで、何かのキッカケによって爆発へのエネルギーに変化する恐れは高かった。それが、明治初年に発生した各地での騒乱に乗じて爆発したならば、鉄舟の命がけの行動によって実現した海舟・西郷会談によって切り拓かれた明治維新という成果は、国家の大騒乱に変わり、徳川家と明治天皇との関係がおかしくなり、旧幕臣たちの立場は悪化したであろう。

それを恐れた海舟は、全力を尽くして、旧幕臣グループを整然と統制され中立勢力に収めるために動いたのである。後に海舟はこう語っている。(「海舟語録」明治三十一年十月七日で)

「江戸を明け渡したからそれで治るなどといふことがあるものか。畢竟(ひっきょう)、己が苦学の結果で、三十年間かうなって居るではないか」

と語っている。

この「苦学」とは何か・・・。それは、明治新政府をつつがなく運営していくにあたって、謀反を起こす可能性のある旧幕臣グループを問題化させないよう「なだめ」「まとめていく」ために、あらゆる行動を採ったことを「苦学」と言ったのではないかと考える。

では、この苦学を展開し「まとめていく」行くために必要条件とは何か。まず、一番に必要なのは資金であろう。その金は岩崎弥太郎から手当てを受けることができた。次に、その政治資金を使うべき自分の立場が問題となる。

明治政府内に何も権限を持たない状態では、多分、その資金を支出したとしても、有効には機能しないであろう。つまり、在野にいたのではダメで、時の権力の中枢に近ければ近いほど、使ったカネが生きてくる。これは、企業内の政治力学を考えてもわかる。平社員よりは上級幹部の行動の方が影響大きいことは当然だ。

だから、旧幕臣グループを統制するには、政権中枢と強いパイプを持っていることが必要となる・・・このように考えた海舟は、福沢に代表される批判は承知の上で、高位高官の地位を築いたのであろう。そのことを江藤淳が次のように語っている。

「朝に仕えるなら、それはかならず高位高官に任じられるのでなければならない。つまり子爵より伯爵がよく、下僚に甘んじるよりは薩長の顕官と『竝立』って枢密顧問官に列せられるほうがよい。なぜなら位階が高ければ高いほど彼の旧幕臣グループへの統制力は強まり、それだけこのグループの力は隠然と充実するからである」と。

さらに言えば、明治天皇の侍従としての鉄舟が、旧幕臣を「まとめていく」海舟に協力した事は容易に想像がつく。天皇の身近に仕えているということは、何にも勝る重しである。

さて、最初に戻って、②ついて検討してみたい。

海舟は福沢の批判について次のよう氷川清話にある。

「福沢がこの頃、痩我慢の説といふのを書いて、おれや榎本など、維新の時の進退に就いて攻撃したのを送って来たよ。ソコで『批評は人の自由、行蔵は我に存す』云々の返書を出して、公表されても差し支えない事を言ってやったまでサ。
福沢は学者だからネ。おれなどの通る道と道が違うよ。つまり『徳川幕府あるを知って日本あるを知らざる徒(ともがら)*は、まさにその如くなるべし、唯(ただ)百年の日本を憂ふるの士は、まさにこの如くならざるべからず』サ」

これは海舟の自負であり、偽らざる気持であって「批評家に局に当たらねばならない者の『行蔵』、つまり、混乱の幕末から江戸無血開城、そこから連続する政治に対応してきた『出処進退』の実践と苦しさがわかってたまるか」と率直に述べたものだろう。

また、この感覚は、政治という実践舞台で、諸問題に具体的対応を担当している者にしか分からないものであろう。マスコミや一般人は政治家が動いた結果としての事象から批評する。結果として問題点のみが指摘される傾向になる。これは現在の菅政権にも当てはまることであって、菅政治の総決算は後代が定めていくと考える。

話は海舟に戻るが、海舟の国家感はペリー来航の嘉永六年(1853)から経る歴史の中で形成されてきた。長崎での海軍伝習所や幕府内の要職経験を通じ自らの能力を磨き、かため、咸臨丸渡米で国際感覚を身につけ、それを人に伝える中から、幕府体制に対する考え方が定まってきて、それを反幕府勢力の中心人物である西郷にまで伝えた結果が、徳川幕府の崩壊につながっているのである。

つまり、福沢が「敵に向かいてかつて抵抗を試みず」と批判した行動の源には、この一連の歴史から醸成されてきたといえる。

こんな事例がある。明治維新を遡る四年前の元治元年(1864)の大坂、西郷は当時大問題であった兵庫開港延期について、幕府軍艦奉行であった海舟に意見を求めたところ「この問題は、加州(注 加賀)、備州、薩摩、肥後その他の大名を集め、その意見を採って陛下に奏聞し、更に国論を決する」という答えに西郷は唸り、その意味する重大さに驚愕したことかがあった。

なぜなら、この発言は、日本政治の最重要問題処理を、有力諸侯に主体となって当たらせるとい発言であり、これは有力諸侯を国政運営の中心に位置させるという構想につながっており、言外に「幕府には政権担当能力がない」ということを明かしているのだ。

これは当時、とうてい幕臣から発する言葉でない。だが、これを聞いた西郷にとっては、眼を輝かせる見識であり、これを突き詰めていくと、一種の「共和政治」となり、幕府内では反発が強いものだからこそ、薩摩側からみれば一層「その通りだ」ということになる。

この会談を境に薩摩は幕府を見限る方向に動き出したのであって、元治元年時点で、海舟が一度幕府を見放し、それを西郷という類稀なる戦略家に伝えたからこそ、明治維新につながったと考えられるのである。

作家の海音寺潮五郎は、大坂会談時の海舟発言を分析し「勝という人は、終始一貫、日本対外国ということだけを考えて、勤王・佐幕の抗争などは冷眼視、といって悪ければ、第二、第三に考えていた人である」(西郷隆盛 学研文庫)と解説しているが、その通りであろう。

そのような海舟であるから、福沢から批判されても揺るがないのである。所詮、海舟と福沢は生きる世界が異なり、立場の相違は大きく、すり合わせは出来ない生き方哲学の持ち主同士だった。

次は、榎本武揚に対する福沢諭吉の批判である。

実は、福沢の「痩我慢の説」は榎本への批判から始まったものである。その発端経緯を「福沢諭吉 国を支えて国を頼らず」(北 康利著・講談社)から紹介する。

「十九世紀に別れを告げ新たな二十世紀を迎える明治三十三年(1900)の大晦日、後々まで語り継がれる一大イベントが慶応義塾で開催された。『世紀送別会』がそれである。
教職員、学生総勢五百余名が午後八時に参集。諭吉は「独立自尊迎新世紀」と大書した書を一同に披露し、万雷の拍手を浴びた。

そして、大きな話題となった世紀送迎会の翌日から『時事新報』に掲載された『痩我慢の説』は、世間をさらに驚かせる。それは、新政府の重鎮である榎本武揚や勝海舟に対する痛烈な批判だったからである。

きっかけは十年前にさかのぼる。

静岡へ出かけた折、清見寺(せいけんじ)*(静岡市清水区興津)に立ち寄り、境内の『咸臨丸殉難諸氏記念碑』を見る機会があった。

咸臨丸は太平洋横断の後、非武装の運搬船として使われていたが、清水港停泊中に新政府軍の攻撃を受け、多数の死傷者を出した。

新政府軍の目を気にして、誰も海上の死骸を引き上げようとしない。腐乱するままに放置されているのを見かね、侠気を出して埋葬したのが有名な清水次郎長である。清見寺の碑は、この凄惨な事件の十七回忌を記念して建てられたものであった。

この悲劇は諭吉もよく知るところだけに、感慨深げに碑文へと目をやった。撰文はあの榎本武揚である。ところが、そこに〈食人之食者死人之事〉という一節を目にした瞬間、色白の彼の顔が見る間に朱に染まっていった。

この文章は〈人の食(禄)を食(は)む者は人の事に死す〉と読み、この場合、幕府から家禄をもらっていた者は幕府のためなら死をも辞さない、という意味になる。

幕府の重臣でありながら新政府に仕え、高官に上った榎本がよくもしゃあしゃあと書けたものだ、という怒りと同時に、何人もの懐かしい顔が浮かんでは消えた。

かつて謹慎を命じられていた諭吉を助けてくれた中島三郎助などは、五稜郭落城の二日前、長男、次男ともども壮烈な戦死を遂げていた。木村嘉毅もまた、最後の幕府海軍所頭取として敏腕を振るったが、維新後は幕府に殉じて新政府からの仕官の話をすべて断り、隠居して芥舟と号し、試作などで静かな余生を送っている。

一方の榎本はと言うと、向島に数寄を凝らした別荘を構え、贅沢三昧の生活を送っていることを知らぬ者はいない。

(木村さんのような人間にしか、あの文章を書く資格はない!)

東京に戻っても怒りは収まらない。この文章を書いたのが、自分の助命した榎本だということが余計に腹立たしかった」

この清見寺で見た碑文の経緯については、福沢が「痩我慢の説」の中で自ら書き述べている。

しかし、ここで最後の「自分の助命した榎本だ」というところ、これは榎本が五稜郭落城降伏後捕らえられていたものを、福沢が時の官軍参謀長であった黒田清隆に直に面会し、赦免するよう説得熱弁をふるったことが功を奏し、牢から出されたものであるが、その背景には福沢の妻お錦が絡んでいることに触れなければならず、清見寺の碑については鉄舟を抜きには語ることができない。次号に続く。

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2011年12月23日

痩我慢の説と鉄舟・・・その一

痩我慢の説と鉄舟・・・その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

福沢諭吉は明治二十四年(1891)、「痩我慢の説」で勝海舟と榎本武揚を正面切って批判した。徳川幕府と明治政府の両方に要人として仕えたことへの士道・士魂からの批判である。だが、鉄舟も同様に明治天皇の侍従として仕えたが、福沢から批判されなかった。それらの背景について今号以下で検討してみたい。

さて、この検討に入る前、鉄舟の長女である松子女史に、鉄舟の駿府での住居について直接確認している牛山栄治氏の記述を紹介したい。(「定本山岡鉄舟」新人物往来社)

牛山栄治氏は鉄舟の高弟である小倉鉄樹の薫陶を受けた人物である。

「私は鉄舟の長女である松子女史から直接きいたことがある。松子さんは文久二年(1862)正月十二日生まれであるから、明治二年には数え年八歳でよく覚えていられた。

『静岡に来てからの住居は材木町で、旧幕時代十分一と呼ばれた安倍川の岸にあった大きな徴税の役所を買いとったもので、洪水のときなど家の下まで水がおしよせて来たのを覚えています』
 といっていた。

明治五年に『壬申戸籍』(注:編製年の干支「壬申」から「壬申戸籍」と呼び慣わす)と言われる新たな戸籍が出来ているが、このときの鉄舟の住居は、駿河国安倍郡安西方七番屋敷となっているから、これは松子女史の話の通り、いまの材木町あたりを言っているのであろう。

このあたりは賤機山(しずはたやま)公園の西に隣接している静岡の中心地に近く、荒れ川で有名な安倍川に近いので、洪水には水もおしよせたであろうが、鉄舟屋敷は静岡藩では重要位置にあったのである。敷地は広大で、現在の井宮町六番地の赤石製材株式会社や疋田ガソリンスタンドの位置、水道町一番地の佐藤電気商会の位置にもおよぶといい、そこに『鉄舟屋敷跡』という碑が建っている。(注:この碑は老朽化し撤去されたままになっていたが、2010年四月に新しい記念碑が、静岡・山岡鉄舟会と地元の水道町町内会によって静岡市葵区水道町1-4に建立された)

ここで鉄舟はどんな家族といっしょに住んでいたのであろうか。壬申戸籍によると、養父山岡信吉一家がいる。信吉は天保三年(1832)七月二十日生れで、山岡静山の弟であり、高橋泥舟の兄で、鉄舟より四歳年長であるが、生来の唖であったので一応静山の家督はついだものの、鉄舟を養子に迎えたのであるから、鉄舟の養父となっていたのである。

鉄舟の家族としては、夫人英子(天保十一年四月九日生)と、長女松子、長男直記(慶応元年二月二日生)、二男静造(明治三年五月四日生)、三女しま(明治七年四月八日生)、四女多以(明治八年五月十一日生)が戸籍にはのっている。三女、四女は鉄舟が東京に出てから生まれたのでここに住んでいたのではない」

もう一つ面白い記述がある。牛山栄治氏は第二次世界大戦時の極東国際軍事裁判、東京裁判ともいうが、この裁判で日本側の弁護人に、ジョージ・ヤマオカという日系米人がいたが、これが鉄舟の曾孫であったという。(「定本山岡鉄舟」新人物往来社)

「鉄舟屋敷には、日本の石油開発の創始者になった石坂周造が、明治三年に第三回目の入獄から出牢して身を寄せ鉄舟の付籍となっていたが、鉄舟夫人英子の妹圭子を後妻にしたのでこの石坂夫婦が同居している。

この石坂には、嘉永五年三月二日に先妻との間に生まれた長男宗之助がいたが、この宗之助を鉄舟は長女松子の婿養子にして同居し、これが東京に出てから明治十六年十一月二十六日に長女まさと、明治十九年一月十四日に長男英一を生んでいる。

宗之助は温順な人柄であるが、石坂が石油会社を創立すると、八年間もアメリカのペンシルヴァニア州に留学させられ、石油採掘と精製について研究し、帰朝してからは鉄舟の養子になり、不振な石坂の石油事業にまきこまれて苦労していたが、鉄舟が死んだ明治二十一年に鉄舟の後を追うように死んでいる。

このとき長男英一は三歳になったばかりであったが、米国の知人が養育を引きうけてアメリカに連れていった。

英一はその後時計商として成功したというが、いつとはなく山岡家とは音信が絶えていた。大東亜戦が終わった後の、昭和二十一年五月三日から東京市ヶ谷台の旧陸軍省大講堂に、国際法廷が設けられて、東条英機元首相以下、A級戦争犯罪人二十八被告の極東国際裁判が開かれた。

この裁判は勝者が敗者を裁くという無理な裁判で、日本側の弁護人清瀬一郎など悲壮な努力をつづけていたが、この日本側の弁護人の中に、日系米人で、ジョージ・ヤマオカという人がいた。名刺には日本名で山岡譲治と添え書きがしてあった。

昭和二十二年七月十九日の鉄舟忌に、筆者は谷中全生庵の法要に出てこのジョージ・山岡に紹介された。彼は当時丸の内中通り、成富弁護士の事務所を借りていたがフランス人を妻にもち、その日も可愛い金髪の少女を連れていた。

このジョージ・山岡が山岡英一の子供であると鉄舟研究家の安部正人が断定してつれてきたのであるが、当人は親の家は元静岡県士族であるくらいの知識しかなく、鉄舟の曾孫であると言われてもあまり感激もない様子だったが、それでも当時としては大金の金二十万円を全生庵に寄進し、また千葉県勝浦に住んでいた鉄舟孫の龍雄君を度々訪ねて、魚釣を楽しんだという」

さて、本題である福沢諭吉「痩我慢の説」による勝海舟と榎本武揚への批判に入りたい。

福沢諭吉は天保5年(1835)生まれ、明治34年(1901)六十六歳で逝去。中津藩士、幕臣を経て新聞時事新報の創刊・発行者、東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長、慶應義塾創設者であり「学問のすすめ」「文明論の概略」「西洋事情」その他多く名著を残し、明治日本社会に大きな影響を及ぼした啓蒙思想家である。

また、興味深いことに明治維新の年(1868)には三十三歳であって、福沢の前半は江戸時代、後半が明治時代と維新を境にして半分ずつの人生を送っている。

「痩我慢の説」は二十世紀を迎えた1900年(明治三十三年)の、翌年の1901年(明治34年)一月一日から時事新報に掲載が開始された。しかし、実際に書かれたのは、これより十年前の明治二十四年(1891)であった。

福沢ほどの人物が、新聞紙上で特定の人物を名指しで、それも明治政府の重鎮として存在感を示していた二人を批判するということ、それにはそれなりの背景と理由があるわけで、これについては後述するとして、まずは明治24年に書き終え、二人に送った際の手紙と、二人からの返書を見てみよう。(「日本の名著33福沢諭吉」中央公論社)

「福沢諭吉の手簡」

 拝啓つかまつり候。のぶれば過日痩我慢の説と題したる草稿一冊を呈し候。あるいは御一読もなし下され候や。その節申し上げ候とおり、いずれこれは時節を見計らい、世に公にするつもりに候えども、なお熟孝つかまつり候に、書中あるいは事実の間違いはこれあるまじきや、または立論の旨につき御意見はこれあるまじきや、小生の本心はみだりに他を攻撃して楽しむものにあらず、ただ多年来、心に釈然たらざるものを記して世論に質し、天下後世のためにせんとするまでの事なれば、当局の御本人において云々のお説もあらば拝承いたしたく、何とぞお漏らし願いたてまつり候。要用のみ重ねて申し上げ候。
匆々(そうそう)頓首。
      二月五日                  諭吉
       ・・・・様
なおもってかの草稿は極秘にいたしおき、今日に至るまで二、三親友のほかへは誰にも見せ申さず候。これまたついでながら申し上げ候。以上。
  
  「勝安芳の答書」

 古より当路者、古今一世の人物にあらざれば、衆賢の批評に当たる者あらず。計らずも拙老先年の行為において御議論数百言、御指摘、実に慙愧に堪えず、御深志かたじけなく存じ候。
 行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与(あずか)らず我に関せずと存じ候。各人へお示しござ候とも毛頭異存これなく候。おん差し越しの御草稿は拝受いたしたく、御許容下さるべく候なり。
     二月六日                  安芳
      福沢先生
 拙、このほどより所労平臥中、筆を採るに懶(ものう)く、乱筆御海容を蒙りたく候。

「榎本武揚の答書」

 拝復。過日お示し下され候貴著痩我慢中、事実相違の廉(かど)ならびに小生の所見もあらば云々との御意、拝承いたし候。昨今別して多忙につきいずれそのうち愚見申し述ぶべく候。まずは取り敢えず回音かくのごとくに候なり。
     二月五日                  武揚
      福沢諭吉様

では、福沢はどのような批判を「痩我慢の説」で展開したのであろうか。その要点と思われるところを拾ってみる。(「日本の名著33福沢諭吉」中央公論社)

まずは勝海舟に対する批判から紹介したい。

「自国の衰頽(すいたい)に際し、敵に対してもとより勝算なき場合にても、千辛万苦、力のあらん限りを尽くし、いよいよ勝敗の極に至りて、はじめて和を講ずるか、もしくは死を決するは、立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称すべきものなり。すなわち俗に言う痩我慢なれども、強弱相対していやしくも弱者の地位を保つものは、単にこの痩我慢によらざるはなし」

「しかるにここに遺憾なるは、わが日本国において今を去ること二十余年、王政維新の事起こりて、その際不幸にもこの大切なる痩我慢の一大義を害したることあり。すなわち徳川家の末路に、家臣の一部分が早く大事の去るを悟り、敵に向かいてかつて抵抗を試みず、ひたすら和を講じてみずから家を解きたるは、日本の経済において一時の利益を成したりといえども、数百千年養い得たるわが日本武士の気風を傷(そこの)うたるの不利はけっして少々ならず。得をもって損を償うに足らざるものと言うべし」

「国家存亡の危急に迫りて勝算の有無は言うべき限りにあらず。いわんや必勝を算して敗し、必敗を期して勝つの事例も少なからざるにおいてをや。しかるを勝氏はあらかじめ必敗を期し、そのいまだ実際に敗れざるに先んじて、みずから自家の大権を投棄し、ひたすら平和を買わんとて勉めたるは者なれば、兵乱のために人を殺し、財を散ずるの禍をば軽くしたりといえども、立国の要素たる痩我慢の士風を傷うたるの責めは免るべからず。殺人、散財は一時の禍にして、士風の維持は万世の要なり。此を典して彼を買う、その功罪相償うや否や、容易に断定すべき問題にあらざるなり」

「然りといえども勝氏もまた人傑なり。当時、幕府内部の物論を耕して旗本の士の激昂を鎮め、一身を犠牲にして政府を解き、もって王政維新の成功を易くして、これがために人の生命を救い、財産を安全ならしめたるその功徳は少なからずと言うべし。

 この点につきてはわが輩も氏の事業を軽々看過するものにあらざれども、ひとり怪しむべきは、氏が維新の朝にさきの敵国の士人と並び立って得々名利の地位に居るの一事なり」

「氏の尽力をもって穏やかに旧政府を解き、よってもって殺人・散財の禍を免れたるその功は、奇にして大なりといえども、一方より観察を下すときは、敵味方相対していまだ兵を交えず、早くみずから勝算なきを悟りて謹慎するがごとき、表面には官軍に向かいて云々の口実ありといえども、その内実は徳川政府がその幕下たる二、三の強藩に敵する勇気なく、勝敗をも試みずして降参したるものなれば、三河武士の精神に背くのみならず、わが日本国民に固有する痩我慢の大主義を破り、もって立国の根本たる士気を弛めたるの罪は遁(のが)るべからず」

 この福沢諭吉の論旨になるほどと思う。立国の精神に立てば、あくまでも戦うことが必要で、一旦退く癖を国家政治が身につければ、外交問題で敵国から圧し込まれるばかりになってしまうという懸念を強調していることに同感する。

今の日本政府要人には、福沢が述べている痩我慢がなく、外交問題を目先にとらわれた安直な解決手段を弄しているような気がしてならない。政府要人は福沢の「痩我慢の説」を熟読玩味すべきであろう。

だかしかし、鉄舟の行動をつぶさに検討し、この連載を続けている者としては、福沢の言い分は筋が通ってはいるが、何か現実味が薄いという感を持たざるを得ない。

海舟という人物への好き嫌いは別として、海舟の成し遂げた業績は、鉄舟という際立った実践行動力をもった人物から命を賭する武士道精神を引き出し、共に能力の全てを傾注し、江戸無血開城をまとめ上げ、幕末から明治維新への混乱期を最小限の紛争にとどめ、日本国を近代化へと道筋をつけた最大の功労者であろう。また、この間、海舟も鉄舟も何度も刃の下をくぐる危機を経験してきている。

これに対し、福沢は同時代を学者・教育者としての道を歩んできた。福沢の教育観は、数と理をもととして、自然の法則に重きをおく科学的・合理的精神と、他方、独立自尊をモットーとし、いやしくも卑劣なことは絶対しないという精神、この二つの原則に立つものであった。

福沢は大坂に生まれ、父の死で大分県中津に移り住んで19歳まで育った。中津での幼少期の出来事としては、神罰を恐れず、稲荷神社の神体のお札を捨ててしまうという行動をとったこと、これは集団と伝統からの拘束を嫌い、自由でありたいという思考をもっていたことを表している。

その後、長崎でオランダ語を学び、大坂に出て緒方洪庵の適塾で三年間の修業で、後年の思想の礎と教育者としての性格形成を成したといわれている。

 23歳で江戸に出て、25歳には海舟が艦長の咸臨丸でアメリカへ、その際に海舟と福沢はあまり仲が良くなかったといわれ、次に26歳で幕府の遣欧使節団翻訳方としてヨーロッパへ、32歳の慶応三年幕末動乱期には日本を留守にし、幕府の軍艦受取委員の随行として再度アメリカへ渡航している。         
 翌慶応四年四月32歳のときに蘭学塾を慶応義塾と改称、芝新銭座(有馬家中屋敷の一部、現在の東京都港区浜松町1丁目、神明小学校あたり)に開設し、彰義隊壊滅の日も「いかなる変動があろうとも、慶応義塾が存する限り、わが国に学問の命脈の絶えることはない」と通常の授業を続けたことは有名である。

 このように福沢は、政治的なものへは傍観者的であり、政治とは独立した学問的な合理性を重んじたのであって、幕末政治に深く関わっていた海舟や鉄舟とは大きく立場が異なる。当然ながら後年、海舟は福沢の批判について反論したが、これは次号にお伝えしたい。

投稿者 Master : 08:49 | コメント (0)

2011年11月22日

駿府・静岡での鉄舟・・・其の三

山岡鉄舟 駿府・静岡での鉄舟・・・其の三

山岡鉄舟の立場は慶応四年(1868)三月以降急変した。

上野寛永寺大慈院に謹慎・蟄居している慶喜から命を受け、駿府の西郷との交渉に向かった時の身分は、慶喜護衛を担当する精鋭隊頭格にすぎず、俸禄は百俵二人扶持で御目見以下の御家人であった。

それが、徳川幕府が瓦解し、上野彰義隊の壊滅後の徳川宗家を継いだ家(いえ)達(さと)に新政府から新たに禄高七十万石が示された慶応四年五月には、
「勝安房守、織田和泉守、山岡鉄太郎、岩間織部正に若年寄幹事役被仰付。御政治向に関するご用向は、すべて取扱い候、その意を得らるベく候」(慶応四年五月二十二日江湖新聞)
とあるように若年寄という破格の立場になった。

若年寄とは老中に継ぐ幕府政治の要職である。だが、この当時、幕府政治に携わっていた老中や若年寄の旧大名は藩地に戻ったので、それら大名に代わって徳川藩の者が若年寄に就いたのであるが、その中に鉄舟がいたという事実は重要である。

それは、幼少より自らを鍛え続けた鉄舟の生き方が、自らの素質を見事に顕現化させ、幕府崩壊という混乱期の困難な時代に立ち向かえることができる人物に育てたことを示している。

さらに、徳川藩が静岡藩に変わった明治元年(1868)には、勝海舟と共に幹事役となっている。これは国立公文書館内閣文庫の「駿河表之召連候家来姓名録」から明らかで、明治二年(1869)正月作成の「役名便覧」でも海舟と一緒に幹事役と記されている。

その次は、明治二年(1870)九月で、新たに静岡藩権大参事・藩政補翼として名簿に記載されている。権大参事とは幼い藩主家達の年齢から考え、事実上の県知事に当たる立場と考えて間違いないが、この職務には九名が任じられそれぞれ役割を分担した。

政治掛は浅野次郎八、軍事掛は服部綾雄、会計掛は河野九郎、郡政掛は織田泉之、刑法掛は冨永雄造、公用兼監正掛は戸川平太、藩政補翼が鉄舟、藩政補翼兼御家令は大久保一翁、公議人は妻木務である。

ここで当時の状況について少し触れておきたい。

明治二年六月、二百七十四大名に版籍奉還が行われ、土地と人民は明治新政府の所轄するところとなったが、各大名は知藩事(藩知事)として引き続き藩(旧大名領)の統治に当たり、これは幕藩体制廃止の一歩となったものの現状は江戸時代と同様であった。

一方、旧天領や旗本支配地等は政府直轄地として府と県が置かれ、中央政府から地方長官として府には府知事、県には県知事がおかれた。これが明治元年末には九府三十県となっていた。このように地方行政を三つに分割統治していたので、これを府藩県「地方三治制」という。

この府藩県制の中、特に静岡藩は複雑な要因を内蔵していた。その最も大きなものは徳川家臣とその家族の大量移住である。前号で見たように家臣の静岡での生活は激変し、特に衣食住問題への対応は厳しく苦しかった。

権大参事としての鉄舟は、徳川家を頼って駿府に移住してきた家臣達に対し、最大の配慮を図るべく対応したが、一気に増えた移住者によって食料が不足し、それが一般民衆の生活まで影響し、難しい困難な政治運営とならざるを得なかった。この対応策として進めたのが牧ノ原などの荒蕪(こうぶ)の開墾である。今の牧ノ原茶畑であり、これについては後日詳述する。

第二には禄高七十万石にするために、幕府直轄地であった三河国御領と旗本領以外の、駿河国・沼津、小島、田中(藤枝)三藩と、遠江国の掛川、相良、横須賀(掛川市の一部)、浜松の四藩、計七藩が千葉に移った後にも移住者を当て込み、そこに新たに奉行を配置し政治を行ったが、この地でも同様の問題が生じた。

第三には討幕軍が静岡地区を通過する際に現出したように、駿府地区特産のお茶が諸外国へ輸出され、未曽有の好景気をもたらした幕府支持層と、幕藩体制下で疎外されていた遠州報国隊、駿州赤心隊、伊豆伊吹隊などの、神職中心の倒幕運動層との間に発生した殺傷事件問題である。

これらの静岡藩政治に鉄舟は全力を尽くし、奮闘したわけであるが、この時の鉄舟を助け働いたのは高橋泥舟であり、井上清虎であり、中条金之助、松岡万、村上忠政らかつてからの仲間であった。

高橋泥舟は志田郡田中の奉行、中条金之助と松岡万も奉行として多くの移住者を受け入れ、井上清虎は浜松兼中泉奉行となり晩年に第二十八国立銀行の頭取となった。

しかし、ここで不思議なことは、江戸無血開城を一緒に成し遂げた海舟が、明治二年九月の静岡藩役職名簿に権大参事として名がないどころか、他の役職にもついていない。名簿から名前が消えているのである。どうしたのであろうか。

実は、海舟は明治二年四月に静岡藩に退身書を提出し東京に戻って、同年七月に新政府から外務大丞に任命されていた。しかし、大丞は大官ではあるが、局長級の階級であることが理由と思われるが、海舟は直ぐに辞退している。次に再び同年十一月に兵部大丞を任命されたが、これも即日辞退し、十二月に静岡に戻っている。

しかし、翌明治三年(1870)三月には太政官より東京に来るべく旨が出され、六月に東京に行ったが、同月に再び静岡に戻っている。

このように海舟は、静岡と東京を行ったり来たりであるから、当然のごとく静岡藩での役向きには適せず、明治五年(1872)には東京赤坂氷川町の広い元旗本屋敷を買い取って転居し、静岡からは完全に去ったのである。

また、この年の五月に海軍大輔に任ぜられ新政府入りし、翌六年(1873)に参議兼海軍卿の栄職についた。

このような海舟の行動、当初から静岡藩での役割は毛頭考えず、新政府での立身出世だけを狙っていたのであろうか。それとも海舟を新政府が強く求めたのであろうか。

この海舟の身の処し方に対し、福沢諭吉が明治二十四年に「痩せ我慢の説」で批判したことは有名であるが、この件について語るには、一筋縄で計れない海舟という人物と、激変時代で遭遇した複雑な背景環境の分析、併せて福沢から一緒に批判された榎本武揚についても触れなければならず、榎本を述べるためには侠客の清水次郎長について、次郎長を取り上げると鉄舟との関連を詳しく検討しなければならないので、後日、改めて詳しくお伝えする。

しかし、事実としていえるのは新政府の人材不足と、徳川幕府には有能な人材が多くいたということであって、そこに新政府が目を付け、静岡から多くの人達が新政府に引き抜かれたということである。

その一例として渋沢栄一を挙げたい。渋沢栄一は埼玉県の農家出身であるが、縁あって一橋慶喜に仕え、慶喜の弟である昭武がフランス・パリ万国博覧会に将軍の名代として出席する際に随員として渡仏し、万博視察とヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行して、各地で先進的な産業・軍備を実見したように、当時としては稀有の体験を持った人物であって、その後の活躍によって日本資本主義の父といわれ、多種多様な企業の設立・経営に関わった大物財界人である。

この渋沢がフランスから帰国し、静岡に在住している時に、新政府から強く求められ仕官した経緯について、自叙伝「雨夜譚」の中で語っているので紹介したい。なお、「雨夜譚」を雨夜譚(あまよがたり)*(岩波文庫)とも雨夜譚(うやものがたり)(日本図書センター)とも読むが、まずはパリから静岡に向かった理由からである。

「当時朝廷に立って威張って居る人々は何れも見ず知らずの公家か諸藩士か、又は草莽(そうもう)*から成り上がった人ばかりで、知己旧識というは一人もいない。熟(つらつ)ら既往の事を回顧してみると、幕府を倒そうとして様々苦慮した身が反対に倒されて、亡国の人になって殆ど為すべき道を失ったのだから、残念でもあるが又困却もした。さればといって、目下羽振りのよい当路の人々に従って新政府の役人となることを求むるのも心に恥ずる所であるから、仮令(たとい)当初の素志ではないにもせよ、一旦に前君公(慶喜)の恩遇を受けた身に相違ないから、寧(いっ)そ駿河にいって一生を送ることに仕よう、又駿河にいって見たら何ぞ仕事があるかもしれぬ、若し何にもする事がないとすれば農業をするまでの事だと、始めて決心をしました」(日本図書センター刊、以下引用同じ)

次に、得意の商業活動に居所を見出した経緯についてである。

「この先き静岡に住居するには、農商いずれの業に従事したら宜いかという一段に至っては、頗(すこぶ)るその採択に苦慮しましたが、その頃新政府から諸藩へ石高拝借ということを許されました。これは御一新に付いて金融に著しき窮迫を告げた所から、凡(およ)そ五千万両余の紙幣を製造して、軍費その他の経費を支えたが、その紙幣は民間の流通があしきゆえ、それを全国に流布させんが為め、諸藩の石高に応じて新紙幣を貸し付け、年三歩の利子で十三箇年賦に償却するという方法でありました。・・・中略・・・静岡藩への割付総額は七十万両程であって、その年の末までに新政府から交付せられた金高は五十三万両だということは、自分が駿河へ往くと直に人から聞いて居ったに依って、前にもいう通り、商業にて聊(いささ)*か効能を顕わしたいと様々工夫して居た際であるから、この石高拝借の事に付いて一つの新案を起こしました」

渋沢はこの政府紙幣を資本とし、これに徳川幕府がパリ万国博に出品した物産の売上金を加え、さらに静岡の商人からの出資も入れ、官民合同の合資会社ごときものを設立したのである。

「詳細に方法を認めて、計算書までも添えて平岡(勘定頭)の手へ差し出したのは、明治元年の歳末でありました。明くれば明治二年の春、平岡は右の方法書に拠って終に藩庁の評議を決して、静岡の紺屋町という処に相当の家屋のあったのを事務所として、商法会所という名義で一の商会を設立し、地方の重立った商人十二名に用達を命じ、恰も銀行と商業とを混淆したような物が出来ました。自分は頭取という名を以てその運転上の主任になって業務を執ることになった」

この頃は全国各地で静岡と同様の原始的な会社企業が設立されていたが、殆どはうまく運営できなかった。だが、渋沢はフランスで学んだ企業経営の知識を活かし、参加した商人たちを巧みに指導し、設立後の運営を順調に推移させた。

渋沢自身は、以下述べるように、設立後まもなく新政府に引き抜かれたが、静岡商法会所は後に常平倉と改称され、県内物産の輸出、士族の授産事業、青田貸しという農村金融など手広く営業して、明治六、七年頃には負債を解消した。

このように成功させた渋沢は後に、日本の産業資本のほとんどの分野に巨大な足跡を残すのであるが、その下地はこの静岡商法会所の成功にあったといえよう。

その渋沢を新政府への引き抜きであるが、そのキッカケを「雨夜譚」で次のように語っている。

「諸事追々整理して来たから、今二三年を経たならば堅固で有益なる商業会社が成立するであろうと予め企望をして、精々注意して居ました。処がその歳の十月二十一日に、朝廷からの御用とあって、その頃太政官に弁官といって大弁、中弁、小弁という官職があったが、その弁官から自分に宛てた召状が来て、早速東京へ出ろということであると、藩庁から通達を受けました」

この通達に対し、渋沢はようやく商法会所の目途がついた時であり、新政府に仕えたくないと藩に申し出たが、藩としては朝旨によるお召で、断れば有用の人材を隠蔽するということになり、藩主に御迷惑をかけることになるから、とにかく一応出京するよう命令され、やむを得ず新政府に出向いた。

この時に渋沢を引き抜くよう動いたのは、新政府の民部省を握っていた大隈重信であった。この当時の民部省は、後に大久保利通が支配した内務省の前身になるもので、現在の内政全般を担当する国内行政の元締めみたいな役所だった。

大隈は大きな仕事を遂行するために貪欲に人材を求め、政府の有能な人物はすべて民部省に集まるといわれていた。

大隈は後に立憲改進党を創設し、総理大臣になり、早稲田大学を創立、明治時代の開明主義者の大物で、人に偏見をもたず、包容力が大きく、理想の高い大隈のもとには、尾崎行雄、犬養毅、高橋是清等のそうそうたる逸材が集まって、民部省は最も活動的で野心ある若者があこがれる役所だった。

その大隈が渋沢をこう言って説得したと「実業の世界・明治四十三年四月号」に掲載されている。(「徳川家臣団・第二編」前田匡一郎著)

「いまの日本は、幕府を倒して王政に復したのである。しかし、それだけで我らの任務は未だ全うしたとは言えない。さらに進んで、新しい日本を建設するのが我々の任務である。だから、今の新政府の計画に参与している者は、すなわち八百万(やおよろず)*の神達である。その神達が集まって、これからどういう具合に日本を建設しようかとの相談の最中である。何から手をつけてよいのかわからないのは君ばかりではない。皆わからないのである。

今のところは、広く野に賢材を求めてこれを活用するのが何よりの急務である。君もその賢材の一人として採用されたのだ。すなわち八百万の神達の一柱である。君が慶喜公の鴻(こう)恩(おん)を思い、公にために尽くしたいと言うのは無理もない話であるが、なにも側にいないとて尽くそうと思えば充分尽くすことができる。商法会所の経営も宜しかろう。しかし、その仕事は僅かに静岡県の一部に限られている仕事である。我々がこれからやろうと言う仕事はそんな小さなものではない。日本という一国を料理する極めて大きな仕事である。

どうか君も折角八百万の神達の一柱として迎えられたのだから、この大きな仕事のために、是非骨を折ってもらいたい」

大隈は演説の名人で、日本の雄弁術の元祖といわれる人物である。その大隈からこのような殺し文句で説かれては、渋沢ともいえども抵抗できない。この時の心境を「雨夜譚」で語っている。

「大隈大輔のお説を聴くと、成程尤も千万な意見であるし、強(た)ってお断り申す適当の返辞も出来なかったので、一応宿に戻ってなお熟孝する旨を答えてその場は別れたのであった。さて、宿に戻って種々(いろいろ)考えて見ると、大隈さんの議論が正当であり、私の我儘を通すべきでないように考えられたので、ここに初志を翻して明治政府に仕える決心をなし、その後三度大隈大輔を訪問して、御説諭に従い明治政府に御仕え申す決心をした事を御返辞したのであった」

この時に渋沢とともに民部省に引き抜かれたのは前島密で、少し遅れて杉浦譲が加わった。この三人によって多くの大事業が遂行され、大隈はこの三人を常に掘り出し者だったと述懐していたという。

さて、海舟についても同じような雄弁で新政府に引き抜いたのであろうか。それとも海舟には幕府崩壊後も日本国のために意図する何かがあったのだろうか。次号に続く。

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2011年10月12日

駿府・静岡での鉄舟・・・其の二

山岡鉄舟研究
 駿府・静岡での鉄舟・・・其の二

江戸から駿府への徳川家臣団移住は、慶応四年(1868)から明治元年へと、新しい年号に変わった十月、この一ヶ月で全員の移住を完了させよと命令が新政府からなされていた。しかし、十月二日から十二日まで明治天皇の東上、その間は徳川家移住が中止、また、家屋・家具等の整理処分に時間がかかり、実務的に一カ月では無理で、陸路は翌年まで続き、海路は十月と十一月の二カ月にかけて行われた。

移住に陸路と海路のどちらを選ぶかはお金次第であった。お金のある者は陸路、または個人で船を雇った。この雇船は商いのため江戸に立ち寄る帆前船を清水港までチャーターしたもので、お金がない者は徳川家がチャーターした大型船での移住となった。

この移住の状況、今の時代につながることも多いので、当時の記録からいくつかみてみたい。最初は陸路。それを幕末時に御徒(おかち)であった山本*政(まさ)恒(ひろ)(七十俵五人扶持)の日記からひろってみる。

御徒とは徒士・歩行とも書き、御目見以下の軽格武士御家人で、職掌は将軍近辺の警護である。この日記は原題を「政恒一代記」、それが「幕末下級武士の記録」(昭和六十年・時事通信社)として出版され、この中に東京出立前の家屋敷処分状況が記されている。

「無禄移住を願出たり。因て江戸持地面は其儘上地し、家屋は売方多く買い手少なきを格外の下落也。三年前に建直し、瓦家にて建坪二十余坪の家作、漸くにて代金弐拾円にて売渡」

政恒の住所は下谷三枚橋通仲御徒町大縄地(現・JR御徒町駅近辺)で約二百坪の敷地、政恒は多少絵心があり、自宅を絵図で遺している。これを見ると池があり築山もあって庭木も大きい。これを移住までに「悉く焚木に使用した」と記しているが、現代では豪邸となる立派な邸宅が、江戸時代の軽格武士御家人の住むところであった。

今の御徒町あたりは雑然と建て込んでいる街並みであるが、古地図を見れば御徒屋敷が整然と区画され並んでいる。

この当時の江戸は、素晴らしい調和のとれた景観都市であった。それを証明するのがイギリス人写真家「フェリックス・ベアト」の写真である。撮影したのは慶応元年(1865)から2年(1866)頃で、江戸市中をパノラマ写真として残している。特に海舟と西郷が江戸無血開城を談じた愛宕山から撮影した江戸景観は見事である。今、愛宕山から眺めると、当時の景観は望むべくもなく、ベアトと同じ位置から見た現代の東京の街並み、それに貧しさと哀れさを感じる。

このような無秩序景観になっていった始まりが、徳川家臣の駿府移住という要因から発生したと推測される。家臣の家屋が一斉に売りに出され、不動産市場の需給バランスが一気に崩れ、売り手不利で安く買いたたかれ、それを購入した江戸市民は、時間経過の中で何度か転売しつつ、その度に土地は細かく区分所有されていき、都市景観の調和美が失われていった、と政恒日記から推測され、東京の現状を成程と思った次第である。

更に、政恒に日記から移住の途中状況を見てみたい。

「明治二年(二十九歳)正月家族引纏め東京出立、川崎・藤沢・小田原・三嶋・吉原・由井・江尻の七宿へ泊し、駿府研屋町米商山本屋吉右衛門方に止宿す。予の家族は、かん・よし(七歳)・万平(五歳)・文次郎(二歳)さだ都合六人なり。因て元大御番京都へ在勤の時用ひし長持の駕籠を求め、夫へ夜具・蒲団三組を敷入れ、子供三人を乗せ、屋根へは下駄・傘・おまる等を乗せ、其他の者は歩行し、足の労れし時は駕籠を雇ひし也」

家族六人が七泊もして荷物を持って陸上を徒歩で移動したのであるから、随分お金がかかったであろう。現代の引っ越しからは考えられない状況である。

移住では家族間の悲劇も発生した。四百俵の平賀家の事例である。(「徳川家臣団第三編」前田匡一郎著)

「内匠(勝成)の妻は三枝左兵衛の娘で左兵衛が朝臣(新政府)になったので、父も内匠も大層立腹して、三百年来の徳川家の御恩を忘れたる不忠不義の武士のこんな娘は我が家には置けぬと早速離縁を申渡し、妻は女の子の幸を連れて泣く泣く三枝家へ帰った」

徳川家が禄高七〇万石では従来の生活ができないのであるから、朝廷・新政府へ仕えるよう強く勧奨し、それを受け入れた結果は夫婦別れという悲劇を生みだしたのだ。

 さて、海路であるが、これについては大正十五年(1926)静岡民友新聞に「府中より静岡へ」という記事が坂井闡(せん)という人物により連載され、その中にチャーター船の様子を述べた明治三十四年の
「塚原渋柿園」(明治期の小説家)による回想が紹介されている。(「徳川慶喜静岡の三十年」前林孝一郎著 静岡新聞社)

 「移住者を清水湊まで運んだのはアメリカの『飛脚船』ゴールデン・エージ号という船であった。長さは七十~八十間(約二百五十~二百九十メートル)、幅十二~十三間(約四十五メートルほど)の大船で品川沖の台場付近に停泊していた。乗船希望者は本願寺あるいはその付近の民家を借りて待機していたがその数は約二千五百から二千六百人に上がっていた。

むろん、その中には婦人や子供、一人では動けない老人なども含まれていた。当然のことながら持ち込み荷物は最小限に制限されていたが、みな新生活への不安から一品でも多く持ち込もうとして必死だった。出発当日は朝早くから数十隻の小船が動員された。小船は陸と船を数百回も往復したが、乗り組みがすべて完了したのは夕方六時を回っていた。

船はパンク状態で甲板はテントを張って『野営』の状態、船内も『すしを詰めたというより目刺し鰯を並べた』ような状態だったという。約二里(八キロメートル)も小船に揺られたうえに、貨物船特有の石炭のにおいにやられて船内あちこちで嘔吐するものが出た。病人の呻き声、子供の泣き声、そしてそれをなじる水夫の怒鳴り声で、船内は『牢屋どころか地獄』を思わせる様相であった。

特に困ったのは用便であった。これだけの人数に対応するだけのトイレのあろうはずもなく、船底に四斗樽を十四、五も並べて代用した。しかし男性はともかくとして女性はと言えば元旗本・御家人の奥様、お嬢様たちである。たいそうな難儀をしたが、偶然にも船内に持ち込まれていた『おまる』が引っ張り凧になった。

また樽にたまった汚物を船外に捨てようと樽を吊り上げたが、途中で綱が切れ、乗客がこれを頭から浴びるなどというハプニングも起こった。二日半かかって清水湊に到着したが、この間亡くなった人は四、五人、出産も五、六件あった」

 このような塚原の回想内容は、その後各文献でしばしば引用され、一般的にこれが海路移住の全てであったかのように伝わっている。これは大変な誤解であることを指摘したい。

外国船による大量輸送は九回行われた。これは東京都立公文書館の資料により概略確認できる。(徳川家臣団第三編)

1. 十月二日 横浜亜国商人所持蒸気飛脚船ニーヨルク 千三百八十八人
2. 十月八日             オーサカ   千四百八十一人
3. 十月十一日            アテレイン  四百十一人
4. 十月十五日     アテレイン帆前船キングフィルツリプテ 千七百五十人
5. 十月二十四日           ヤンシー   二千二十八人
6. 十月二十八日           ヤンシー   千八百九十三人
7. 十一月三日            クルリュー  四百八十四人
8. 十一月五日            ヤンシー   千四十七人
9. 十一月九日            ヤンシー   八百十四人
    合計  九便   一万千二百九十六人

 この便船の区分けは、基本的に百俵以上(御目見)と未満(御家人)に分けたようであるが、これは当初の基本方針であって、実際は様々に乗船したらしい。 

なお、上の九便リストに塚原が回想したゴールデン・エージ号が見当たらない。本人の記憶違いと思われるが、人数の多さから推察して十月二十四日五便のヤンシーではないかと考えられる。

次に、十一月五日のヤンシー千四十六人に乗船した新庄萬之助直義の記録を紹介したい。新庄は両番格(御小姓と御書院の両番を勤め得る家格)の四百石であるが、母と妹を残し、父と二人で駿府に移住するため本願寺に入った。(徳川家臣団第五編)

「此院にて長崎人にて何某作太郎とて御雇外国船の通訳をなす者に逢ひけり。其者の言に自分は少し病気にて爰(ここ)に居残り居るが、自分の乗り居るヤンシューと云える船は雇船中最大なるものゆえ其船に乗る方船暈(めまい)に罹る事少なからんとの事に他の船の出るにも係らず其船の来るを待ち、十一月五日ヤンシューに乗込、作太郎周旋にて上等の一室を借り受けたり。

船長の名をバチラと云ひ支那人のボーイ多く徘徊しチュデヤートと云ふ語を盛に誦す。其何を意たるを解する能はず。船中は板壁塗料及石炭の匂ひにて人々頭痛を感ず。父は之が為に炊出しの握飯を喰ひ得ざりしが余は別条なかりし。船は日没後に出帆し、日出前清水港に着す。軈(やが)て日出れば三保の松原は近くして緑に富士山は遠くして白し、其外見馴れぬ山海の景色に少しは紛るる事を得たり。是れ実に十一月六日の朝なりき」

このように一日で順調に海路移住した事例も記録に見られる。事実は様々な角度から検討しないといけないと思う。

一方、受け入れる駿府の住民には町触れが出されていた。

「このたび約千人ほどが東京を出発した。そのうちに当地へも到着することになるが、各町内で宿泊場所を提供してほしい。見苦しい住居でも構わないということである。到着次第、各町内へ宿割りをするので、不都合が生じないように取り計らって欲しい」

清水港に到着した移住者は、とりあえず近在の民家や寺院の本堂を借りて住みつくことになったが、彼らは「お泊まりさん」と呼ばれた。

駿府には六百九十四人、浜松七百二十一人、掛川七百一人、遠州横須賀六百八十二人、田中六百五十人、相良七百六十人、中泉七百二十九人、小島三百九十九人、三州赤坂六百二十八人、三州横須賀六百六人。いずれも一家の当主の人数である。一家五人と想定し従者も考慮に入れると、駿府周辺には約五千の人口流入があったと考えられる。

当時の駿府の戸数は四千四百七十六戸、人口は二万千四百六十六人であるから、四分の一に当たる人口の流入があったわけで、急激な人口増加であった。

先に触れた塚原の親は元二百三十俵取りの与力で、江戸市ヶ谷に四百余坪、大小合わせて十一間という屋敷を構えていた。

しかし、移住後、両親が清水に確保できた家は六畳に三畳の二間、三尺四方の台所に竈が一つ、天井はなく屋根は板葺で、半分は朽ちていた。これでも「壊れた厩に住んでいる人たちに比べればましなほう」と母親が語っていたという。

それでも屋根さえあれば雨露はしのげたが、問題は食糧の確保である。無禄移住という無収入を承知で覚悟してきたのであるから藩は養う義務はない。しかし、藩も見るに見かねて、暮れの十二月に無禄移住者に扶持米を支給することにした。

三千石以上の家臣に毎月五人扶持、これが最高扶持で最低は毎月一人扶持であった。一人扶持とは玄米一斗五升支給で、白米にして一割減であるから一日四合ほどになる。これは一家に支給される量であるから、家族の人数を考えればとても足りない。食糧が尽きて一家七人が餓死したとか、村人が哀れんで麦粥を与えたところ、一気に数杯も平らげたあげく、にわかに苦しみ息絶えたというような話が伝えられている。

瀬名村の農家に間借りした市田家は元千二百石、その子剣三郎が山に入り、たまたま椎茸の栽培地に入り込み、椎茸を思わず袂に入れたところを「泥棒」と連呼され、かっとなって刀を抜いて農民を切ってしまった。この事実を自供した剣三郎を藩庁も許すわけにいかず切腹となった。剣三郎は十九歳であった。

このような悲劇は数限りなくあるが、六十五年前の戦後、日本国民の多くは同様の食糧難に陥った。この時、筆者は田舎で親と一緒に山や川の土手で食べられる物を漁った経験があるので、徳川家臣の駿府移住は他人事ではなく感じ、深く身につまされる。

だが、全員が困ったわけでなく、地元の経済活況に関わった事例もある。静岡市伝馬町はJR静岡駅近くで、江戸時代は参勤交代の宿場町として旅人で賑っていた。しかし、幕末になってさびれる一方であった。ここに隣の鷹匠町に「お泊まりさん」が入って来た。

このお泊まりさんは貧乏幕臣とは違って、邸を与えられたそれなりの身分の者たちであった。そこで、伝馬町は町の繁栄を協議して遊郭をつくることを藩庁に届け出た。慶応四年六月のことであるから、お泊まりさんがまだ実際に移住してこないタイミングであって、如何に伝馬町はお泊まりさんに期待したことが分かる。結果は、その後芝居小屋や湯屋もでき、旅籠屋は遊女屋に代わって繁栄した。

これは戦後の進駐軍目当ての同様商売で荒稼ぎしたものと重なるが、いずれにしても一概に悲劇ばかりではなかったということを認識したい。

ところで、山本政恒のその後であるが、

「家族を伴って浜松に移住、浜松奉行井上八郎の配下に入った。やがて払い下げ金を得て、裏早馬町に敷地およそ六百坪、建坪五十坪の家屋を購入することができた。当初は、藩から『役持』(手当て金)が唯一の収入であったが、これだけでは生活できないので、屋敷内の掃除にために雇い入れた農民に農作業を教わり、耕した農地から相当の収入を得ることができるようになったという。

明治五年(1872)十月、浜松県監獄の下級役人、のち捕亡吏(警察官に相当)となったが、二年後、自分の不注意から囚人を取り逃がし、免職となってしまった。その後は張り子面作りの内職で生活せざるを得なかったが、職を得るため単身上京、翌年四月に印書局取片付け方として、さらに五月に熊谷県に職を得てやっと安定した生活を送れるようになったのだった。下級役人または警察官となるというのが、無禄移住した旧幕臣のたどった平均的なコースであった」(「徳川慶喜静岡の三十年」)

ところで、この静岡移転に伴い、徳川家臣は以下の四つに分けられたことは前号で述べた。第一は脱走して反政府活動に走った者、第二は朝廷・新政府に仕える者、第三は暇乞いして農工商になる者、第四は藩臣として無禄でも徳川家に残る者である。

この身の振り方から指摘できるのは藩側からの「リストラ」が行われなかったことである。現在の日本、企業経営が厳しくなると社員の首切りリストラが、まず、最初に行われることが多くなっている。しかし、徳川藩は70万石に合わせるような家臣の首切りは行わなかった。駿府に来る者は全員受け入れている。

これは関ヶ原の合戦後、西軍だった上杉家が会津から米沢への四分の一に減封され、その際「リストラ」は一切しなかったこと、それが平成22年のNHK大河ドラマ「天地人」主人公直江兼続によって語られたことは記憶に新しいが、これより過酷な実質四百万石から七十万石へと八割以上の減封であった徳川藩が、家臣の「リストラ」を実施しなかったことを高く評価したい。

徳川藩は武士道経営を貫いたと理解し、このような政策を決定し実行した藩経営に鉄舟が参画していたことを再認識したい。

鉄舟は慶応四年・明治元年に幹事役として海舟と二人で名前を並べ、同年九月には権大参事の藩政補翼となり、徳川から静岡藩となった政治に重要な役割を負う立場に栄進していた。

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2011年09月18日

駿府・静岡での鉄舟・・・その一

駿府・静岡での鉄舟・・・その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄


彰義隊が壊滅された慶応四年五月十五日から九日後に、徳川宗家を継いだ田安家の亀之助(後の徳川家(いえ)達(さと))に徳川家の禄高が示された。駿河国一円と、遠江国・陸奥国を含めて七十万石であった。

徳川幕府は世上領国八百万石とも言われている。八百万石ならば十分の一以下になり、旗本八万騎とも言われている幕臣は生活ができない事になってしまう。
では、この八百万石と八万騎、果たしてその実態はどの程度か。そのことを海舟が次のように解説している。

「世間云ふ、徳川氏政府の領国八百万石ありと。又、其実を察するものは冷笑して云ふ、是れ虚称其大に誇るなりと。余案ずるに、両説、共に其一を知て、また其二を知らざるなり。其全く蔵入となるべきの地は実に四百余万石にして、此中蔵米を以て給する旗下、家人(けにん)、数万家あり。政府の用度、自己の費途に充(あ)つるものは、僅々の数のみ。故に、万一非常の変に逢えば、金穀欠乏して、給せざるものあるに至るなり。而して家臣中、万石以下の知行を有する輩、其禄高三百余万石あり。此二つの者を合算すれば、七百余万石に到る。八百万石の概称、蓋(けだ)し是より出づ。

世間又云ふ、徳川氏の旗下総数八万騎と。是は、石高八百万石より誤称するが如し。旗下士の称あるものにして其禄万石に及ばざるもの、実数三万三千余のみ。然れども、世に八万騎と称するもの、またその原因あり。譜第(ふだい)の臣下にして万石以上の禄を食(は)むもの、即ち世俗に譜代大名と称する輩百数十家、是等の家臣、昔時は皆旗下の隊に編成せしものなれば、是を通算する時は、其数八万前後に及ぶべし。此輩、今皆華族に列す。其実は徳川氏の臣僕にして、万石以上を食みしものなり。嗚呼、是等の華族、朝恩殊遇、奕(えき)世(せい)*忘失すべからざるなり」(「勝海舟全集6吹(すい)塵録(じんろく)Ⅳ」講談社)

この吹塵録という記録について、国立公文書館は次のように説明している。

「勝海舟は、早くから古い書物を写し古老の話を聞き書きするなど記録の収集と保存に意欲的な人でした。

長年にわたって書写した幕府の記録類(公文書)や私記(私文書)、随筆、談話の類をまとめたのが『吹塵録』。明治17年(1884)にその草稿を見た松方正義(まつかた・まさよし 1835-1924)の尽力で、同20年に大蔵省から編集費用が支給されることになり、同年末に完成。同23年(1890)に大蔵省から『吹塵余録』と合わせて刊行されました。冒頭、大蔵大臣官房の名で、「本省先キニ幕府財政ノ実況ヲ記スルノ書ナキニ苦ミ之ヲ勝伯ニ謀ル伯為メニ此書ヲ編シ名ツケテ吹塵録ト曰フ」と、本書刊行の趣旨が述べられています。

収録されているのは、貨幣・鉱山・人口・治水・社寺・皇室・災害・蝦夷地等の史料および関係法令などで、幕府の財政経済史料集として貴重です。本書の編纂には、勘定所等で実務を担当した旧幕臣十数人が協力しました。『吹塵録』『吹塵余録』で全45冊。書名は、中国の伝説的帝王黄帝(こうてい)の「吹塵の夢」の故事(大風が天下の塵垢を払う夢を見て風后という賢相を得た話)に因んでいます」

海舟という人物は誤解を受けやすいところがある。先日も群馬県に関係する企業幹部とお会いしたら、海舟は大嫌いだ、自分は小栗上野介派だと、息巻いていました。

だが、国立公文書館に保存されている貴重な当時の記録、それは「陸軍歴史」「海軍歴史」「吹塵録」「開国起源」であるが、これを編纂した業績を高く評価すべきだろう。海舟は幕臣であって、明治政府では枢密顧問官でもあり、伯爵でもあったので、その経歴・経験を持って国家に協力したのであり、海舟にしかでき得ないと思う。

「陸軍歴史」とは陸軍史、「海軍歴史」は海軍史、「吹塵録」は財政・経済史、「開国起源」は外交史で、国家として大事にすべき幕府時代の貴重な歴史記録である。巷間喧伝されている江戸無血開城時の活躍ばかりではない。こういう事が案外知られていない。

さて、禄高七十万石は決定したが、与えられた陸奥国は戦争中であって、徳川藩への引き渡しは事実上できず、そこで改めて遠江国諸侯領と駿河国久能山領、三河国御領と旗本領を加え七十万石とした。

海舟の言う実質「七百余万石に到る」と比較しても十分の一であって、徳川家の経営が窮することに変わりはない。

また、七十万石にするためには、諸侯のいない三河国御領と旗本領以外の二国、駿河と遠江の領主が移封されることになった。

まず、駿河国の沼津、小島、田中(藤枝)の三藩と、遠江国の掛川、相良、横須賀(掛川市の一部)、浜松の四藩、計七藩は上総と安房(千葉県)に移った。ただし、浜名湖周辺の堀江藩一万石は除かれ、ここに駿府府中藩が成立した。

ただし、明治二年に静岡藩と改称されたので、以後、藩名は静岡を使用したいが、この府中というのは、天皇に対する不忠に通ずるということから改称されたとも言われている。

ここで慶応四年頃の駿府地区の人たちの動向を少し振り返ってみたい。官軍が駿府の地を江戸に向かって進軍していた当時、府中(静岡)から江尻(清水)まで駕籠に乗った旅人の耳に入ったのは、駕籠かきたちが口ずさんだ歌「行きは官軍、帰りは仏、どうせ会津にゃかなうまい」というものであったという。幕府の勝利に期待するものであったことは言うまでもない。

この背景には駿府地区特産のお茶産地としいう条件があった。日本の開国により諸外国への輸出は生糸とお茶が中心で、その産地は未曽有のブームを起こし、幕府の開港政策は茶産地の駿府住民に多大な利益をもたらし、幕府支持となって、官軍には批判的であった。

だが一方、立場の異なる側に立てば一変する。幕藩体制下の宗教政策により、僧侶が優遇され、神主は疎外されていたので、その不満を回復しようと遠江国の遠州報国隊、駿河国の駿州赤心隊、伊豆国の伊豆伊吹隊など、神職中心の倒幕運動が展開された。

このような両派の対立に加え、これらの地域は幕府の直轄地や旗本の知行所、多数の大名藩地が複雑に入り混じっていたので、複雑な動きを示していた。その状況を「民衆文化とつくられたヒーローたち」(国立民俗博物館)から引用してみる。これが今後の鉄舟と深い交わりをもった清水次郎長への理解にもつながるので。

「東照神君の地にして徳川幕府揺籃の地三河は、何故に次郎長のこよなき隠棲(いんせい)の地になったのか。本来は徳川幕府のモデル地区として最も法令が守られ、無宿や博徒が入り込む余地がない優等生の地でなければならないはずである。にもかかわらず他国者の博徒が潜入するのは、これを歓迎する根生えの博徒がいたからである。三河木綿の産出を背景に伊那街道の中馬(ちゅうま)輸送、三河湾、伊勢湾の海運の物流ルートに恵まれた三河は交通と産業の一大発展地であった。

ところが隣国尾張が尾張徳川藩六十二万石の一国支配であったのに対して三河は小藩が分立し、しかも大名の交代が非常に激しかった。江戸時代、常に七から十一の藩が分立し、五十二もの藩が生まれそして消えていった。中でも吉田藩(七万石)で十回、西尾藩(六万石)・刈谷藩(二万三千石)は九回領主が代わった。のみならず尾張藩、沼津藩などの飛び地や幕領が点在し、加えて六十余家に及ぶ旗本の知行所がばらまかれた。それらが入り組んで犬(けん)牙(が)錯綜の状況にあったのが三河国の支配であった。関八州をはるかに凌駕する支配の弱体は、より無宿や博徒を生み出すことになる。

皮肉にも徳川幕府発祥地という由緒が、大名や旗本に三河以来の地縁を求めて少しでもいいから飛び地を持つことを希望させた。しかも三河の譜代藩は東照神君に連なる名門の血筋であり、多くが幕閣枢要の職に就いて専ら江戸にあって幕政に腐心し、国元の治世を疎(おろそ)かにした。

三河の宿・町・河岸・湊など、いわば支配の隙間に縄張りを持つ博徒は、当然利害をめぐって抗争する。次郎長と結ぶ寺津間之助・型原斧八、これに対抗したのが宝飯郡平井村の平井亀吉である」

このように他国者の博徒が潜入する地域が三河国であり、この地が徳川家静岡藩となり、それが現清水市に居住した清水次郎長の動きに関係していたことがわかる。

ところで、この静岡移転に伴い、幕臣は以下の四つに身の振り方が分けられる事になった。

第一は脱走して反政府活動に走った者で、多くは東北から函館戦争に参加した。

第二は朝廷・新政府に仕える者である。新しい禄高七十万石では従来の生活は出来ないわけであるから、この道へ行くようしばしば勧奨された。

第三は暇乞いして農工商になる者、第四は藩臣として徳川家に残る者である。

これらの人数分けを「徳川家臣団・第一編」(前田匡一郎著)によると、勝海舟の記録(「海舟別記」巻1)を引用し次のように記している。

「明治初年徳川旧家臣団の始末
  徳川氏旧家臣 凡そ三万三千人 内、分離左の如し
  静岡行      一万五千人
  朝臣       五千人
  帰農       六百人
  大蔵・外務附渡し 二百四十人
  田安・一橋家従属 四千九百二十四人」

 この人数を合計すると二万五千七百六十四人となるので、七千二百人ほどが第一の脱走した人数と推定される。

 なお、いったん静岡に移住した幕臣であったが、その保有する知識と技能は新政府においても重要で、必要であったので、次々と新政府に呼び出され、相応の待遇を持って、各省へ出仕を命じられた。新政府諸官庁での幕臣の比重は高く、特に政策立案能力と政策実施部門には多く起用されている。

 次に触れなければならない事に、慶喜の静岡移転がある。慶喜は慶応四年四月十一日の江戸城の官軍引渡しと同時に、水戸の弘道館へ移住した。しかし、この水戸は恭順するにはふさわしい土地とは言えなかった。奥羽越列藩同盟が成立し、新政府に抗することなり、奥羽方面に近い水戸では危惧される事態が予測された。その状況を「徳川慶喜公伝4」渋沢栄一著が次のように述べている。

 「公思へらく『東北の諸藩一旦王師に抗したれども、心定まらば順逆の理を覚りて、ゆくゝ降伏に至らんは必定なり、其時に至らば、会津に加はれる水戸の党人等は其倚(よ)る所を失ひ、必ず水戸に復帰して積怨を霽(は)らさんとすべし、余は謹慎の身、如何にして其党禍を防ぐべき、寧(むし)ろ予(あらかじ)め難を避けて謹慎の実を全くするに如かず』と、旨を勝安房に授けて、駿府移住を大総督府に内請せしめ給ふ」と。
 
また、家達君の後見松平確堂より請願したと、次のようにも記している。

「慶喜朝命を奉じ、去る四月水戸表へ退去謹慎罷(まか)り在りしに、近日奥羽の形勢容易ならず、既に官軍の進発ともなり、常州(常陸国)近国も動揺の由に承りぬ、慶喜に於いては素より一身を顧みず謹慎すれども、兵若し水戸附近に迫らば、恭順の障害ともなりて、慶喜の素志を遂げざるにみならず、私どもに於いても深く恐懼に堪へざる所なれば、慶喜を駿府に移転仰付けられ、さしむき宝台院にて謹慎罷り在るやう御許されを蒙りたし」と。

このような慶喜の静岡移転については、もう一つの説がある。

勝海舟の「幕末日記」慶応四年七月十二日に
「山岡鉄太郎来訪、前上様駿河表へ引移御免の事、督府より仰せ渡さる。是、山岡氏尽力に因る所」とあり、続いて同月二十五日には、格別の思し召しにて、慶喜から金子百両を賜った鉄舟が海舟邸に持参した旨が書かれている。

鉄舟が慶喜の駿府移転に関わったことは明白であって、江戸が東京と改称された七月十七日から二日後の七月十九日に、慶喜は水戸を出発、銚子から榎本武揚の指揮する軍艦蟠龍にて二十三日駿河清水港に到着し、直ちに静岡の宝台院に入った。

慶喜が静岡に移転した翌月の八月九日、徳川家達は江戸を出発し、十五日に駿府に着いた。まだ五歳の幼児であり、静岡までの道中は見る物すべてが珍しく、お付きの老女に問いを発し続けたという。また一方、錦切れをつけた官軍兵士が、家達一行に対し嫌がらせをするなどの狼藉を受け、お付きの者たちが涙したとも言われている。

駿府に着いた家達は、宝台院にて慶喜に挨拶し、直ちに駿府城に入った。城中では旧幕臣が出迎えたが、家達とは殆どが初対面であった。海舟、鉄舟も家達を迎えるため駿府に来ていたが、江戸に残務があるので江戸、いや東京に戻った。

九月八日、慶応四年を明治元年とし、今後は天皇一代に年号ひとつ「一世一元」となり、
十月中に徳川家臣団は駿府への移住を完了させよとの命が出された。

この移住方法手段が大変であった。一つは陸路であるが、品川宿を例にとると、幕臣の駿府への移住、駿河と遠江から移住する七藩の千葉行き、それに加えて官軍の東上とが交錯し大混乱状態であった。もう一つの移住方法手段は海路である。これは更に大変であった。

この状況は次号で述べたいが、ここで鉄舟の駿府での住居址の紹介をしたい。以前にあった記念碑が老朽化して撤去されたままになっていたが、二千十年四月に新しい記念碑が、静岡・山岡鉄舟会と地元の水道町町内会によって建立された。現在の静岡市葵区水道町1-4である。ご関係方々のご努力に謝意を表したい。

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2011年08月17日

彰義隊壊滅・・・その二

山岡鉄舟 彰義隊壊滅・・・その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

慶応四年(一八六八年)五月十四日、鉄舟は西郷から彰義隊攻撃決定の連絡を受けた。その当時のことを明治十六年三月になって「覚王院上人と論議之記」として次のように記している。当時の鉄舟の気持ちが率直に表現されているので、それを口語体でお伝えする。

「五月十四日、東叡山に進撃するとの決定があった。西郷参謀は私を招き、ほろりと一滴の涙を落して、慰めの言葉をいってくれたのである。

『朝廷を重んじ、主家に報いようとするあなたの誠忠は、よくわかっています。いま、暴徒を攻撃するのが、あなたにとって快いものでないということもわからぬわけではありません。深くお察しします。どうか悲しまないで下さい』

わたしは厚く感謝して帰った。
その夜、わたしは寝ることができなかったのである。このようなことになってしまった原因を考えてみれば、わずか数人の人間が方向を誤ったというだけのことから、三千余人が屍をさらすのである。突き刺されるような痛みを感ぜずにはいられなかった。そう思うと、わたしは、夜がふけているのもかまわずに上野へ行き、彰義隊の隊長はどこにいるかとたずねた。すると、ある者がいうには、隊長は昨夜すでに奥州へ向けて去ったのだという。その他の隊長をたずねてみたが、どこにいるのかわからなかった。

そのなかに越後榊原(高田)藩の藩士が集まっている神木隊(しんぼくたい)というのがあり、その隊長の酒井良祐という人物を説得したところ、酒井はわたしの赤心を理解し、解散させようと四方に奔走したのである。しかし先鋒の部隊が、突然に黒門の前に畳の楯を築き、戦闘の準備をはじめてしまった。

右を説得していると左が進み、左を鎮めたかと思うと右が出る。雑踏狼藉のありさまは、いちいちことばに尽くせないほどであった。わたしは慨嘆して退いてしまったのである。

夜明け、わたしはまた上野の仲町に行った。天台の浄地も、たちまちのうちに修羅の悪場に変わっていた。わたしは恨みと歎きで見ていることができずに立ち去った。
田安門の中の徳川邸へ行こうと思い、本郷壱岐殿坂にくると、官軍の半小隊ばかりがわたしの馬を囲んだ。これは尾張藩の隊であり、そのなかには、わたしの知っている早川太郎がいた。その早川がいう
『先生、どちらへ行かれるのですか』
『徳川の邸へ行こうと思うんだが・・・』
『だめでしょう、道がふさがっています』
『きみは官軍だ、わたしを案内して徳川邸に送ってはくれまいか』
『急いでいます、お送りできません』
そこで、わたしは道を変えて家に帰り、轟々たる砲声を空しく聞いて茫然としているばかりであった。
日暮れどき、上野の伽藍は灰になってしまっていた。嗚呼」

彰義隊攻撃は大村益次郎が指揮をとっていたが、各参謀から上野に籠る人数の多さから激戦が予想されるので夜襲攻撃が提案された。

だが、大村益次郎はそれを言下に一蹴し、
「錦旗を奉じての戦いだ。白昼、堂々の戦いをする」
と述べ、攻撃の配置は以下のように手配した。
① 薩摩兵が湯島天神から黒門口正面を進み決戦を挑む。
② 肥後兵は不忍池畔から、因州(鳥取)兵は切通坂から黒門口の敵に向かう。
③ 長州、肥前、筑後、大村・佐土原の兵は根津・谷中方面から上野の山を側面攻撃する。
④ 上野から東北に当る三河島方面は、わざと開けておいて敵の逃走口とする。逃走口がないと敵は死力を尽くして戦うので損害が多い。

この攻撃計画を西郷に見せた時の、有名な逸話が残っている。
西郷は諸藩の配置計画をじっと見ていたが、
「これは、薩摩兵を皆殺しにする配置ですな」
と静かに言った。黒門口が上野の大手門であり、そこが最大の激戦地になることは全員が知っている。その地が薩摩兵のみに任されている事の指摘であった。

西郷の指摘にその場にいた参謀どもが真っ青になった。西郷が異をとなえれば、薩長は割れる。その恐れで一瞬の恐怖が走った。

大村は、しばらく、じっとして、その後に扇子を開いて閉じて、黙ったまま上を向いていたが、やがて言った。

「そうなるでしょう。薩摩兵と貴殿を殺すつもりです」

この一言で、再びその場が静まりかえって、灯りが消えたようになり、参謀たちはそろって顔を下にし、面を上げられなくなった。
西郷は、一言も論駁せず、大きな眼で大村を見入り、ゆっくりと座を立ち去った。

 五月十五日未明、官軍各藩兵は大下馬下(二重橋)に集合し、所定の攻撃口に向かって進んだ。
 ちょうど季節は梅雨時期、この日も激しい雨と風が強かった。その雨の中で上野戦争は火ぶたを切ったのである。
 
この戦いを説明しだすと、年内いっぱいかかってしまう。そこで詳細は彰義隊に関する資料で補っていただくとして、戦況を一瞬にして官軍側勝利に導いた状況をお伝えしたい。

 午前中の戦いは彰義隊が優勢で、諸門とも官軍を寄せつけず、接近しても官軍は潰走させられた。
 苦戦の戦況を一変させ、彰義隊が一気に崩れた理由に二説ある。

一つは、一般的に流布されているアームストロング砲の威力である。
午後一時ごろ、本郷台(加賀藩邸)からおこったアームストロング砲の砲声、これは江戸城の御用部屋にいる大村から佐賀藩の伝令に指示が行われた。

「アームストロングの大砲、もはやよろしかろう」といい、伝令は騎馬で本郷台に向かった。

この当時の佐賀藩は諸藩に卓越して産業技術能力を持っていて、驚くべきはアームストロング砲を二門持っていたことである。ただし、これは佐賀藩が製造したのか、それとも製造はしたが実際のアームストロング砲と同等のものだったか、又は英国製であったかについては議論が分かれているが、大村からの伝令を受けた佐賀藩は射撃を開始した。

事前に吉祥閣に照準が定められていた。古地図で吉祥閣を確認すると、黒門口から根本中堂、今は大噴水広場となっているが、この根本中堂へ向かう手前、左に朱塗りの堂に大仏殿があって、その前くらいの位置に文殊楼という山門があり、吉祥閣と書した勅額が朱塗りで掲げられていた。ここを照準にアームストロング砲が発射された。

その威力について、当時山王台で射撃指揮していた彰義隊幹部の阿部弘蔵が次のように語っている。

「樹木を裂き、石塔を砕き、社堂に中(あた)*り、隊士人夫などのこれが為に斃(たお)るるを目撃して憤慨に堪えざリしが」

阿部は砲兵の専門家だけに、この砲弾が椎ノ実形の「破裂弾」であったことを明記している。
これで彰義隊は動揺し、士気を落とし始めたその時に、薩摩兵が主力を黒門口に前進させ、防御を突破したという。

これが一般的に流布されているアームストロング砲による勝利である。

常に世には異説がある。それを伝えるのが「真説上野彰義隊 加来耕三著 NGS出版」である。

「これまで世に出された彰義隊関連の書物は、例外なく上野戦争の勝敗の要因に、このアームストロング砲の脅威を掲げている。

―――撃ち出された当初、命中率は悪かったが徐々に上野山内に落ちるようになり、その威力の前にはわずかばかりの火器と、多くを白兵戦に頼る彰義隊は敵でなく、その破音一発、多くの隊士を恐怖させ敗走させたというのだ。

たしかにアームストロング砲の命中率は徐々に上がっている。だが黒門口に一発の砲丸すら当たった形跡がないように、不忍池を越えて二、三の子院を破壊したとしても、その実、彰義隊が夜までもちこたえられないほどの脅威ではなかった。

ここに大村の最後の切り札が登場する」

と述べ、それは覆面部隊だという。

「彰義隊は天野の方針で、その氏素性、前歴をなんら咎めることなく、“来るものは拒まず”式に隊士を入隊させてきたため、当然のことながら大総督府からの間諜が多数紛れ込んでいたことは想像に難くない」

と同書で何人か遺されたスパイの談話を紹介している。

また、彰義隊の菩提寺である東京都荒川区の円通寺住職の乙部融朗氏の談話も紹介されていて、ここに大村の覆面部隊作戦が語られている。

「官軍の歴史では、大砲を撃ち込んで鎮圧したように書いてあるものもありますが、現在、円通寺に残っている黒門(注 上野寛永寺から同寺に移設されている)を見ても、大砲が当たって壊れたような個所はありません。ただし、小銃の弾痕はかなりたくさん残っています。黒門は上野の山の最前面にあるので、大砲でいちばん先に撃たれて当然のはずですが、円通寺の黒門が事実を証明しています。この弾痕の面積密度から、西軍の撃った弾数が計算できます。また、戦闘時間と小銃の数との積も、当時の小銃発射時間の間隔から求めることができます。正面攻撃では、落としてしまう自信がなかった。

それで、大村益次郎は卑怯な戦術を用いました。秘密にコトをおこなうため、手勢の長州兵を川越街道を通って江戸を離れさせ、日光街道の草加へ大迂回をさせ、前の日の十四日には千住の宿に泊まり、翌五月十五日戦いの当日の昼ごろ、会津の援兵と称して上野の山に、今の鴬谷駅のあるところにあった新門から入りこんで、文化会館の北寄りのところにある磨鉢山という古墳のところまで来たときに会津の旗をおろして、代わりに長州の旗を掲げ黒門口を中から撃ったので、山内は大混乱。こうして死ぬまで戦うつもりが、潰走しなければならなくなり、雨の中、昼を少し過ぎたころには、あっけなく崩れてしまいました。これが戦いの模様でありました」

この円通寺住職の主張が公にならなかったのは、その事実確認が消されたためであるといい、当時、この覆面部隊についてかわら版が発行されたが、官軍がこれを回収してしまったため世に明らかにならなかったが、一枚だけ残り、そのコピーを住職が保有しており、それに基づく発言であり、著者の加来耕三氏がコピーを見て、それを同書で紹介しているが、確かにかわら版には覆面部隊のことが書かれている。ただし、官軍が「卑怯な戦術を用いた」とは書いてはない。

このかわら版コピーに加え、加来耕三氏は「中外新聞外篇」之二十巻(慶応四年五月刊行)に、「官兵東叡山屯集の彰義隊を攻むる事」として、その中に次の記述があったと書いている。

「―――始め彰義隊の方大に勝利の様子相見え候処、八ツ頃官軍の大兵黒門前に寄来り、山内彰義隊の一手裏切の由にて、諸方の戦ひ、一際(ひときわ)劇敷、時に又会と相記し候旗押立候て援兵来り候様子の処、右は偽兵にて忽ち発砲、其内、山内中堂坊より煙(けむり)*焔盛に立昇り、遂に山内山外の彰義隊皆崩立ち候て、口々の官兵一度に攻入、山王山に働居候彰義隊を挟撃鏖殺(おうさつ)いたし候由。七時頃に至り全く戦い終る」

この加来氏の記述のように、アームストロング砲を合図として、上野山内に入った覆面部隊が行動したのだろうと思われるが、彰義隊のような主義主張がバラバラな混合軍隊では、裏切りが出たという情報が流されると、収拾がつかなくなるだろう。

したがって、大村の作戦として覆面部隊が考えてあったならば、この戦法が最も効果的であったと思われる。

会津からの援兵については司馬遼太郎も「花神」で次のように触れている。
「午後になって戦勢がやや逆になった。乱戦中、彰義隊のあいだで、『会津から援軍が到着した』とか、『応援の同志二千が官軍をとりまいている』といったふうの虚報がとんだ」

だが、「花神」での結論は
「この勝敗未分の戦況を決定的に変えたのは、午後一時ごろ、本郷台(加賀藩邸)からおこったアームストロング砲の砲声であった」
としているので、覆面部隊説はとっていない。

ここでアームストロング砲について検討しないと、彰義隊壊滅の要因が解明できない。この砲は、イギリスのウィリアム・アームストロングが1855年に開発した大砲の一種。マーチン・ウォーレンドルフが発明した後装式(砲の後ろから弾を込める)ライフル砲を改良したもので、装填時間は従来の数分の一から、大型砲では十分の一にまで短縮された。砲身は錬鉄製で、複数の筒を重ね合わせる層成砲身で鋳造砲に比べて軽量であった。このような特徴から、同時代の火砲の中では優れた性能を持っていた。

1858年にイギリス軍の制式砲に採用され、その特許は全てイギリス政府の物とされ輸出禁止品に指定されるなど、イギリスが誇る新兵器として期待されていた。しかし、薩英戦争の時に戦闘に参加した21門が合計で365発を発射したところ28回も発射不能に陥り、旗艦ユーリアラスに搭載されていた1門が爆発して砲員全員が死亡するという事故が起こった。その原因は装填の為に可動させる砲筒後部に巨大な膨張率を持つ火薬ガスの圧力がかかるため、尾栓が破裂しやすかったことにある。そのため信頼性は急速に失われ、イギリスでは注文がキャンセルされ生産は打ち切られ、過渡期の兵器として消えていった。

廃棄されたアームストロング砲は輸出禁止が解除され、南北戦争中のアメリカへ輸出された。南北戦争が終わると幕末の日本へ売却され、戊辰戦争で使用された。中でも江戸幕府がトーマス・グラバーを介して35門もの多数を発注したが、グラバーが引き渡しを拒絶したために幕府の手には届かなかった。

これがアームストロング砲の概要であるが、司馬遼太郎は彰義隊壊滅の主要因をこの砲としているが、加来氏の反論もある。

そこで、彰義隊が壊滅された旧暦慶応四年五月十五日、新暦では七月四日(平成二十二年)になるが、この暑い盛りの日に上野公園内を探索してみた。

まず、戦火を免れた寛永寺本坊表門に行ってみた。寛永寺はことごとく焼失したが、輪王寺宮法親王が居住していた寛永寺本坊表門のみ戦火を免れ、明治11年、帝国博物館(現、東京国立博物館)が開館すると、表門として使われ、関東大震災後、現在の本館を改築するにともない、今は日本学士院の向かいの両大師堂の隣りに移建され、門には皇室の菊の御紋が印されている。

この門を子細に見ていくと、確かに銃弾の跡がいくつも残っていて、激しい戦いが行われたことが分かるが、彰義隊幹部の阿部弘蔵が、椎ノ実形の「破裂弾」であったことを明記したアームストロング砲が当たったと思われる傷跡はない。

西郷隆盛銅像と彰義隊の墓の先に清水観音堂があり、堂内に明治期の画家五(ご)姓(せ)田(だ)芳(ほう)柳(りゅう)の描いた「上野戦争図」が掲示されているが、その絵の隣りに実物の砲弾が展示されている。これが椎ノ実型の砲弾であり、これが本郷台から発射されたアームストロング砲とすれば、大きさから見て木製の寛永寺本坊表門なぞは一発で破壊されたであろう。

ここで大村益次郎という類稀なる人物の特性、それは優れた計画性にあるが、その資質から考えるなら、薩英戦争の情報は入手しているので、英国旗艦ユーリアラス号の爆発事故は当然に把握していたであろうから、事前に佐賀藩のアームストロング砲を試射したはずで、その結果、アームストロング砲の実力を判断した上で、覆面部隊投入を考えたと理解するのが自然だと思う。

大村は必ず彰義隊を壊滅させるために、複数の作戦を組み合わせできる優れた人物であるから、司馬遼太郎が決めつけているアームストロング砲だけに頼らず、勝利するためには、敵の裏をかくということは戦法として当然にあり得るわけで、彰義隊がそれらを予測し対応をとらないことの方が問題である。戦争に負けてしまっては何もならないのだから。したがって、覆面部隊が最も効果的であったと、実際に上野公園を探索してみて感じているところである。

いずれにしても上野戦争で彰義隊は壊滅した。これで江戸での官軍の権威は回復した。そのタイミングを見計らったように、徳川家への処分通告がなされた。

「徳川亀之助を駿河国府中の城主に仰付けられ領地高七十万石下賜せらる」(徳川慶喜公伝4)
禄高七十万石は、親藩尾張藩の六十一万九千五百石よりわずか八万五千石多いだけで、加賀の前田、薩摩の島津に次いで、諸侯のうちで第三位に位置する禄高だった。

これは幕臣の生活の問題となる。また、徳川家臣の官位はこの日をもって停止された。彰義隊の壊滅は徳川家と家臣たちを駿府での困窮生活へ向かわせた。

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2011年07月20日

彰義隊壊滅・・・その一

山岡鉄舟 彰義隊壊滅・・・その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

鉄舟が上野の山に行き、彰義隊解散交渉をした相手は、上野輪王寺宮の公現法親王の陪僧・覚王院であったが、覚王院の強い信念である対官軍主戦論により、和平路線には全く聞く耳を傾けず、何回もの交渉が無駄骨に終わった。

その覚王院との交渉経過について、鉄舟は明治16年3月「覚王院上人と論議之記」で詳細に述べている。この内容は省略するが、さすがの鉄舟も苦しい胸の内を、その中で次のように述べている。

「予は屡々(しばしば)西郷海江田両参謀に面接して情実を縲述(るいじゅつ)し覚王院に論示する事、口酸を覚ふに至りて未だ寸効を見ず。且つ彰義隊の予に遇ふ、或は無状(むじょう)(無礼)を以てす。隊長等に談ずれば面前に首肯して退けば否(しか)らず」
 
当時の鉄舟は「大目付」であり、その立場から覚王院に口をすっぱくするほど説得したが頷かず、返って彰義隊士は鉄舟に無礼な振る舞いを見せるし、隊長たちもその時は承知と言うが別れると知らん顔をする、という困難な状況を披瀝している。

 では一体、この覚王院という人物はどういう立場で彰義隊に位置づけられていたか。それを司馬遼太郎は大村益次郎を描いた「花(か)神(しん)」の中で
「彰義隊の理論的指導者である覚王院義観は、説得に来た山岡を逆に罵倒した」
と書いている。理論的指導者だというのである。

 一般的に僧侶が理論的指導者となる場合、陥りやすいのは名分論である。僧侶は元々漢学中心に学ぶ。そうすると道徳上、身分に伴って必ず守るべき本分論に強くなり、そこから理論武装し主張する傾向が強くなる。覚王院は特にこの傾向が強かった。

続けて「花神」で覚王院に次のように述べさせている。
「『いまの朝廷はみとめない』と、いった。あれ(朝廷)は薩長にまどわされたもので朝廷ではない、という。さらに、わがほうにも錦(きん)旗(き)が日光におさめられており、輪王寺宮という法親王もいる。むしろ当方が朝廷である、と覚王院の議論はすさまじい。

覚王院はたしかに、「上野朝廷」であると信じていた。山岡が後年覚王院がいった内容を手記(覚王院上人と論議之記)したが、それによると、この僧は一種の伝説的なことをとうとうと述べている。『神君が』と、覚王院はさかんに家康をもち出し、家康がすでにこんにちあることを予想して、そのときのために錦旗を用意し、宮さまをひとり関東に置き、『朝廷が無茶をやれば、輪王寺宮をもって天皇に代え、万民を安んじようとされた』というのである。つまりは上野の彰義隊こそ官軍である、ということになる」

その上、覚王院の口ぐせは「かならず勝つ」というものであったが、その根拠は「江戸を死守していれば、必ず奥羽列藩同盟が大挙来襲して江戸を回復する」と説き続け、情勢にうとい旗本の子弟で固まった彰義隊士を鼓舞したのである。

彰義隊士は、この覚王院の口ぐせに加え、一般的に流されていたマスコミ情報によって奥羽列藩同盟来襲を信じていたのは事実であった。これが五月十五日の壊滅に大きく関わってくるのである。

ところで、現代に生きる者にとっては全く信じられないが、当時の江戸におけるマスコミ情報はすべて佐幕・反薩長であって、旧幕府から脱走した兵が、各地で連戦連勝している記事で占められていた。

これも「花神」に書かれているのであるが「宇都宮大合戦」という記事が「内外新報」の閏四月三日に以下のように掲載された。

「脱走方が城へのりこみ、幕軍のシンボルだった日の丸の旗に東照神君の旗数十本を押したて『はなばなしく合戦致し候。脱走方勝利』とあり、関宿での戦闘も脱走方の勝利で『その人数幾万人これあり候や』と、その勢力が日に日に大きくなっていることを告げている」

 さらに閏四月二十九日の「此花新書」という新聞では、

「下谷坂本あたりを官軍の武士が錦切れをつけて通りかかると、町角で遊んでいた幼童が『おじさんは、錦切れをつけておいでだから官軍かえ』ときくと、武士はそうだと答えた。幼童はこの武士と遊ぼうと思い『おじさんが官軍なら、坊は会津だから、坊におしたがい』といった」
 と報道されている。

 このようなマスコミ情報の背景には、官軍が軍事的に弱くモラルも悪く、会津という言葉で代表される旧幕府方に正義があり、さらに軍事的にも強大だと信じていたことからの記事掲載であり、加えて博学で金主である覚王院が「かならず勝つ」と言いつづけていたのであるから、江戸っ子気質の人のよい彰義隊士は信じ、結果的に誤った情報に固まった集団になっていた。

今の東京は地方から雑多人種が集まっているから、純粋の江戸っ子という人たちは目立たないが、江戸時代は人の移動が少なかったので、江戸の町には江戸っ子気質が溢れ鮮明だった。

その江戸人の気質は、一般的に、気が弱く、根気がなく、見栄坊で、いささかニヒルというのが定説である。礼儀正しく、粋でおしゃれなところ、向こう意気の強さ、これらは見栄を張るところから来ているのであるが、上は旗本から、下は裏長屋の住人まで、江戸っ子には共通するところがあった。いわば騙されやすい気質が江戸っ子にあったと思う。

もう一つ大きな重要で本質的な問題は、当時の日本政治が江戸で行われていなかった、ということである。

徳川将軍十四代将軍家茂が、文久二年(千八百六十二)に孝明天皇の妹和宮を正室に迎え、翌年の文久三年(千八百六十三)三月上洛したあたりから、幕末の複雑な政治の舞台は京大阪になっており、家茂が第二次長州戦争の敗報を聞きながら、慶応二年(千八百六十六)に大坂城で没し、慶喜が十五代将軍に継いだのも江戸ではなかった。

つまり、慶喜が鳥羽伏見の戦いで敗れ逃げ帰るまで、幕末の江戸城には将軍が留守であったのであるから、江戸は政治の表舞台ではなかった。結果として、時代の先端情報は京大阪から、時間軸に遅れて来る情報によって、江戸在住の武士と市民は理解するしかなかった。

これが江戸に住む人々を情報音痴の状態にさせた決定的な要因であり、旧幕府方有利という偽情報を報じるマスコミ情報を受け入れる結果となったのである。

この彰義隊が本質的に持っていた情報に対する問題点、これは現代でも通じる教訓であろう。現地、現場、現実を確認せず、一般マスコミ情報のみから物事を判断し、行動することの怖さを教えてくれる。

さて、軍防事務局判事として江戸に入った長州藩の大村益次郎は、鉄舟による覚王院説得が失敗したことの報告受けるや、彰義隊を壊滅すべく攻撃することを決めたが、ここで困ったことはその軍資金がないことだった。

大村益次郎という人物は、長州藩の村医者の息子であって、緒方洪庵の適塾で洋学を学び、塾頭を務め、シーボルトにも師事、幕府の蕃書調所教授、講武所教授方を務めた経歴から推測できるように現実派である。冷静に物事を判断する能力に長けていた。

その有能さを買われて、大村は「徴士」となったのである。この当時、新政府が京に出来たが、有能な役人が不足したので諸藩から差し出されたのが「徴士」である。

その冷静な頭脳で計算すると、彰義隊を壊滅すべく攻撃することになると五十万両という巨額の資金が必要になる。

ところが、新政府にはこの金がなかった。それもあって彰義隊への攻撃決定は延ばしていたが、その時、何と二十五万両もの大金が飛び込んできた。カモネギが来たのである。

それは大隈八太郎(後の重信)である。大隈も「徴士」で外国事務局判事であって、幕府が米国に発注し横浜港に停泊しているストーン・ウォール(甲鉄船)が、幕府転覆で内乱になって、米国公使が「双方に渡さない。かたがついてから引き渡す」と言っていたが、どうしても榎本武揚が率いる幕府艦隊に対抗するためには入手する必要があり、その交渉を兼ねて、京で有り金をかき集め二十五万両をつくり、江戸に着いたのであったが、この大隈から大村は二十五万両を取り上げてしまうのである。

残りの二十五万両は、江戸城の西の丸に入り込み、宝蔵にあった銀器、屏風などを持ち出し、横浜の西洋人に売り払い五万両、後の二十万両は越前藩より新政府の御用金取次(会計係)に出仕していた三岡八郎(後の由利公正)に手当てさせ、それが届いたので、合計五十万両が揃ったのである。

こうして最大の課題であった戦費ができ、ようやく大村は彰義隊への攻撃計画に取りかかった。

大村が同時代の人々より優れていたのは、その計画性である。目的達成に必要な調査と、それに基づく準備を徹底し、彰義隊壊滅のための計画を独りで作り上げた。

計画の第一は、情報の共有化と一元化であって、戦況ニュースというべき戦陣新聞「江城日記」を毎日発行しだした。記事は大村自ら書き、木版の彫師を江戸城内に留め置き、刷らせ、部数は千部、これを前線の兵士と諸藩に配った。ここのところが彰義隊の情報管理と雲泥の差である。

さらに、大村は「いっさい火事を出さない」という計画をつくるため、江戸の過去の大火について調べ抜いた。幕府の蕃書調所教授、講武所教授方を務めたことから、江戸には土地勘があり、毎夜、畳の上に江戸地図を広げ、風向きによってどこが焼けるか、どのように逃げるかについて検討した。

これは海舟が、官軍が江戸攻撃するならば、ロシア軍がモスクワに火を放ってナポレオン一世の野望をくじいたと同じく、官軍進撃の退路を火で断つ作戦を用意していたように、彰義隊にも知恵者がいて、上野攻撃と共に背後から火攻めを行うだろうとの推測から、その防止策を考えるためであった。

特に研究したのは「明暦の大火」であった。俗に振袖火事といわれるもので、明暦三年(千六百五十七)の正月十八日午後二時ごろ本郷丸山の本妙寺からおこった火事で、本郷丸山は上野から遠くないので参考になり、江戸の大半が焼け、焼死者十余万人を出したもので、この火事の広がり経路を地図に描き、検討した。

しかし、この検討結果は、明暦の大火は正月であり、その時は八十日も雨が降らず江戸中が乾いていたので、大火がおこったことを知り、彰義隊攻撃は五月半ば、今の季節では梅雨時に当るので、その心配はかなり薄いと考えたが、用意周到な大村は計画を練り上げていた。

次に大村が実行したのは地図である。地図の印刷を行った。上野周辺の道路図で、大村自らこれも描き、江戸城内の職人に刷らせ、配布した。

もう一つの周到な準備はアームストロング砲の配備である。このアームストロング砲は佐賀藩が所有していた。この当時の佐賀藩は諸藩に卓越して産業技術能力を持っていた。蒸気船も造れるし、工作工場、化学工場もあり、長崎警備という経験から新旧の要塞砲をもっており、中でも驚くべきはアームストロング砲を二門持っていたことである。

後装式砲(後ろから弾を込める)ライフル砲を改良したもので、伝説的に語り草になっている砲だが、これを佐賀藩が製造したのか、それとも製造はしたが実際のアームストロング砲と同等のものだったか、又は英国製であるのかについては議論が分かれている。

だが、アームストロング砲という名称の砲が佐賀江戸藩邸にあり、藩公の鍋島閑叟の意向は「この砲の威力は猛烈であり、同民族を殺傷するために使いたくない」というもので封印されていたが、大村は建物の破壊にのみに使う、という条件で佐賀藩邸から持ち出し、不忍池をへだてた加賀藩邸に配置した。

これで彰義隊攻撃の準備は整ったので、最後の仕掛けを講じた。開戦日の五日前に「太政官布告」を制札場に掲げた。

「来たる某日までの間に上野山内の賊徒を追討すべくおおせ出(いだ)さる。ついては焼打などに備えるため、家財など取り片づけおくべきこと」という布告であり、これは当然に彰義隊に伝わり、上野の山から出張っていた彰義隊の陣地、湯島や上野広小路であるが、そこに畳を積み上げ堡塁を造りだした。

しかし、来るか来るかと昼夜待機し、警戒していた彰義隊士は、官軍が動かないのを見ると、警戒を解き始め、いつしか上野の山に引き上げてしまった。

これは大村の作戦であった。彰義隊士を上野の山に集めさせる、攻撃の範囲を絞らせる、戦場を限定させる、ということを狙ったものであり、まんまと大村の策に嵌り彰義隊士は上野の山に籠ってしまったのである。

これを見た大村は「明日未明攻撃」という指示を、諸藩の指揮官に通告したのが五月十四日の午後であった。

いよいよ上野戦争が始まる。

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2011年06月07日

彰義隊・・・その五

彰義隊・・・その五
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

 鉄舟が彰義隊解散を命じるための交渉相手として向かったのは、上野輪王寺宮の公現法親王の陪僧・覚王院であった。

 ここで疑問なことは、彰義隊には隊長以下幹部がいる。頭取は当初は渋沢成一郎だったが、渋沢が屯所を置くべき場所の見解相違から離脱し、直参旗本三千五百石の本多邦之輔となり、その後本多が辞任し、小田井蔵太と池田大隅守(七千石)の二人が隊長(頭取)となり、天野八郎は副頭取である。このように彰義隊は組織化された一大勢力であるから、当然に鉄舟が交渉相手として向かう場合、これら彰義隊幹部であらねばならない。

だが、実際には覚王院との交渉にならざるを得ない結果となった、その背景を解明していきたいが、その前に官軍・新政府軍側において、権力の位置づけが変更されたこと、それは西郷の権威失墜ということであるが、これが彰義隊攻撃につながるものであるから、これをまず検討したい。

閏四月八日・九日の両日、岩倉、小松、西郷、大久保らが、京都の三条実美大納言邸で、徳川処分に対する二案の検討会議を行った。

第一案は「禄高は百万石限り、地所は駿河の国、家名相続人は田安亀之助」
第二案は「禄高と相続は一案と同じ、地所は江戸城と武蔵の国、海舟と大久保を召す」というものであった。

会議は紛糾した。十日になっても続けられたが結論が出ず、三条が関東大監察使として西郷を伴って江戸に向かうことになった。

当然に第二案は西郷が提案したものであって、西郷が官軍・新政府軍の中で重要な位置づけの状態であったならば、第二案は西郷の権威で通ったであろう。

だが、三月十二日十三日の両日、芝・高輪の薩摩屋敷において、海舟と西郷とで取り仕切り、江戸無血開城を成し遂げた当時の権威は、既に西郷にこの時なく、大勢は第一案の方向に動いて、ひとり孤立している実態を、三条大納言邸は明らかにしたのであった。

会議は西郷の面子を立て、結論は現地視察を行ってから決めることにし、佐賀藩の江藤新平を伴って江戸に向かった。江藤は新たに大総督府軍監となり、江戸民政をつかさどる江戸鎮台判事に任じられ、同行したのである。

江戸に着いた三条と江藤が見たものは、西郷が海舟の意を斟酌し、江戸市中治安取締りを彰義隊という敗者側に与えた結果として、官軍側と様々なトラブルを発生させ、混乱状態を引き起こしている実態であった。

官軍・新政府軍としては、一日でも早く江戸での権力構造を固め、会津中心に結束された奥羽列藩同盟への対処に動きたいのだが、現状では安心して東北方面に進攻できない。

そこで、三条と江藤は、彰義隊をすぐにでも討伐すべきという意志から、長州藩の大村益次郎を軍防事務局判事として、江戸につれてくる人事をうったのである。

この人事は、大総督府から軍防事務局への権力移行となり、江戸市中の治安権力を西郷から大村へ手渡したという意味になる。

大村の投入は、海舟に対する対応も一変した事を意味する。海舟は彰義隊を慶喜の江戸復帰実現のための取引材料として、最大限利用しようと賭けをうったことは前号で述べた。江戸治安維持には慶喜が必要だという主張である。

しかし、これはもともと危険極まりない賭けである。彰義隊が海舟の手で統制可能だという条件下でのみしか成功しない。ある程度の混乱は生じることは慶喜復帰に必要条件であるが、彰義隊が海舟から離れ収拾不能状態に陥ってしまっては、海舟の政治力が喪失したことになり、取引は成り立たなくなる。今やこの状態に海舟は陥っていた。そのことをこれは閏四月二十九日の『海舟日記』が示している。

「此頃彰義隊の者等、頻りに遊説し、その党倍多く、一時の浮噪(ふそう)軽挙を快とし、官兵を殺害し、東台に屯集ほとんど四千人に及ぶ。その然るべからざるを以て、頭取已(い)下に説諭すれども、あへてこれを用ひず。虚勢をはって、以て群衆を惑動す。あるひは陸奥同盟一致して、大挙を待つと唱え、あるひは法親王を奉戴して、義挙あらんと云ふ。無稽(むけい)にして着落なきを思わず。有司もまた密に同ずる者あり。はなはだしきは、君上の御内意なりと称して、加入を勧むる者あり。是を非といふ者は、虚勢を示して劫(おびやか)さむとす」
この頃の彰義隊は、海舟のいうことなぞは無視する状態に陥っていたのである。

このような中、大村は着々と武力解決への準備を始めた。五月一日に、田安中納言と彰義隊にあずけていた市中取締の任を解き、巡邏警備の権を官軍の掌中に収めたのである。この結果は当然ながら、官軍・新政府軍の態度が一変する。

五月二日の『海舟日記』は次のように記されている。
「市中取締ならびに巡邏、官兵にて仰付けらるに付、此方にて心得るに及ばざる旨、督府より御達」
考えてみれば、大総督府から「江戸鎮撫万端」を委任受けたのが、閏四月二日であったから、彰義隊は一ヶ月間のみの治安維持活動であった。またそれは、海舟が慶喜復帰の取引を行った期間であり、復帰という賭けに負けた期間でもあった。

しかし、これは海舟から見た期間である。既に見たように官軍・新政府軍は京都三条大納言邸で開かれた三日を要した閏四月十日の会議で、西郷の位置づけが変わっていたのであるから、海舟が彰義隊を慶喜復帰の切り札として実質的に使えたのは、閏四月二日から十日までの僅かな日数にすぎなかったということになる。海舟には分からなかったが、海舟の賭け、それは海舟の官軍に対する政治力が根源であるが、西郷の権力喪失と共に消えたのである。

さて、彰義隊が江戸市中取締の任を解かれたことは、上野山中に大きな衝撃となり、彰義隊士は激怒した。だが、隊士よりさらに憤激したのは、寛永寺の僧侶たちであり、それらを仕切っている覚王院であった。

五月八日の『海舟日記』に
「彰義隊戦争の企てあると聞く。官軍これを討たんといふ説紛々、隊長へきびしく説諭す」とあり、同じ日に
「彰義隊沸騰、風聞には、法王(公現法親王)を奉じて一戦せんといふ説あり。笑うべし」ともあり、五月九日には
「彰義隊東台に多人数集り、戦争の企てあり。官軍これを討たんといふ。その因て来たるところ、法王(公現法親王)三月中駿河に出駕、大総督へ辛うじて御面会、君上の御嘆願については、種々御尽力もありしにや、終に、君上単独軍門に降られなば、寛奥の御処置にも及ぶべき様、御約もありしに、我輩同月十五日、参謀(西郷)に引合、これらの御事力を奮って止めしかば、陪僧覚王院その功の成らざるを憤り、東帰後もっぱら戦争をすすめしかども、御採用なし。これより愚背を煽動して党を集め、法王を取立て政を復せんといひて小人輩を誘ふ。ついに今日の事にいたるなり」

つまり、海舟は、彰義隊の隊士共が自分の指示に従わないのは、バックに覚王院がいて、覚王院は当初から主戦論であって、その主戦論の根拠は、官軍東征の際、上野輪王寺宮の公現法親王を通じ、直接有栖川大総督に行った和平工作が失敗し、海舟・鉄舟連合に名をなさしめたという怨念・遺恨から発しているという理解であった。

さらに、覚王院の背後には、先々帝仁孝天皇の猶子、明治天皇の叔父となる皇族の公現法親王が存在しているのであるから、覚王院が強力にバックアップしている彰義隊は、独立した徳川家とは異なる新たに大きな政治勢力となったことを意味し、その勢力下に徳川家の家臣である彰義隊士達が移るという事態になる。

これは海舟にとって許されることではない。そこで鉄舟をもって、覚王院を説得し彰義隊解散させるために、上野山中の寛永寺へ向かわせたのであった。

以上の経緯が一般的に認識されている内容である。

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彰義隊・・・その四

彰義隊・・・その四
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

江戸城無血開城後、鉄舟と海舟の信頼関係は一段と深まった。
それを証明するのが、慶喜亡命計画である。いざという場合、慶喜の生命と名誉を守るため、イギリスに亡命させようとする海舟の腹積もり、それを鉄舟にだけ明かしていた。

慶応四年(一八六八年)三月二十七日の「海舟日記」、「此日、英公使パークス氏幷(ならびに)海軍惣督キップル氏を訪ふ。此程之趣意を内話す。英人、大に感ず」とあるように、英国公使と会談し、この会談の内容について「解難禄三五」(勝海舟全集1 講談社)で「密事を談じ、此艦をして一カ月滞船なさしむるを約す」と付記している。

 この「此艦」とは、当時横浜に入港中であった英国軍艦アイアン・デュークのことであり、パークスが同艦を一カ月停泊させる密約を、海舟が鉄舟に次のように語っている。

「実はいよいよとなると浜御殿の裏にバッテーラ(バッテーラとはポルトガル語で小舟を意味する)を備えて、慶喜公を乗せて英吉利の軍艦にお乗せ申すという計画がある」(海舟余波 江藤淳)

 ここでいう「いよいよとなると」というタイミングとは、何事かが突如官軍側に起こって、西郷との間で取り決めた慶喜の処置、それは水戸への退隠であり、命の保証であるが、それらが叶わぬ事態が発生した場合という意味であって、この重要な「密事」を鉄舟にだけ打ち開けていること、そこに海舟の鉄舟に対する人物評価が顕れている。鉄舟の主君慶喜への忠誠心を本物と的確に認識していたからである。

 さらに、もうひとつ指摘できるのは、当時の鉄舟がおかれた政治的立場の変化である。江戸城無血開城という偉業を成し遂げたことで、回りからの眼が違ってきた状況を「おれの師匠 小倉鉄樹」は次のように述べている。

 「此頃は師匠は勝さんと全く同格に政治向の事にも関与するやうになった。五月二十日伊豆守御渡=『勝安房守・織田和泉守・山岡鐵太郎・岩田織部正』右幹事被仰付、御政治向へ関係いたし候・・・・」(慶応四年五月二十二日江湖新聞)

 加えて「大抵の仕事は勝と相談し、又勝からも相談を受けて、勝にやらせた。勝は、師匠が幕府の大難を美事に片付けて以来、心から師匠を信頼し、大小となく師匠に相談し、師匠も亦勝の才略を知っていろいろ献策する所が尠(すくな)*くなかった。だから勝の仕事の大半は山岡の方寸から出たもので、それが勝の才気に依(よ)*って完成されたのである」

 この内容、少々鉄舟贔屓に偏っていると思われるが、いずれにしても政治的立場への重しが深まっていたことは事実である。

 彰義隊の結成は、慶喜への忠誠心から、二月十二日に慶喜が寛永寺・大慈院に謹慎したことがきっかけとなって、一橋家の家臣である渋沢成一郎、天野八郎等十七人が、雑司ケ谷の茗荷屋に会したことから始まった。(『徳川慶喜公伝』四 平凡社)

 この集りの最初は「尊王恭順有志会」と名乗ったように、尊王と恭順がイデオロギーであるから、慶喜が寛永寺に籠った目的と同じである。ところが「身命を抛(なげう)ち、君家の窘辱(きんじょく)を雪(そそ)ぎ・・・・」(『徳川慶喜公伝』四)とあるように、慶喜が謹慎という行動で目的を遂げようとするのに対し、それとは全く反対の動きであって、言葉の独り歩きのような感じであるが、その後も会合を重ね、二月二十三日に浅草本願寺に屯所を定め、この時に「彰義隊」と名乗った。

「彰義隊」とは「義」を「彰(あらわ)す」という意味で、頭取には渋沢成一郎、副頭取は天野八郎が就いた。なお、彰義隊については、慶喜の「将棋廻り」という説もある。

 「『彰義隊』の文字は以前は慶喜公の御将棋廻りで、夫(そ)から後に義を彰すと云ふ事にあった。旧(ふるく)は御将棋廻りの者であると云ひました」(『史談会速記録』幕末気分 野口武彦)

 この将棋廻りとは、武将が陣中で腰を掛ける床几(しょうぎ)の回りのことで、将軍の周囲を固める者、転じて親衛隊とでもいった意味ではないかと思われるが、後に捕らえられた天野八郎は、獄中で綴った遺書「斃休録」の末尾で、わが身を将棋の香車の駒になぞらえてこんな感慨を書き残している。

 「予、昔年(せきねん)より槍印其の外、物の印に『香車』を用ゆ。これ一歩も横へ行き、跡(後)へ引くの道なきを表するの証なり。東台(上野山)に一敗すと雖も、職業(使命)を尽くして他に譲らず。府下に潜伏して今日に至る。決して『香車』に恥ぢず。天地何をか恐れん。盤石動かすべし。我が赤心転(まろ)*ばすべからず」自分はただまっすぐ進むしか能のない将棋の駒だというのである。(『幕末気分』 野口武彦)
 
 さて、この時の官軍・新政府軍は、その権力基盤が確立できるかどうか、それが最大の課題であったが、現実には厳しい状況下にあり、大きく見て三つの不安要因を抱えていた。

 一つは、軍艦の引き渡しに応ぜず、江戸湾に居座って、睨みを利かせている榎本武揚が率いる幕府艦隊の存在。二つ目は会津中心に結束された奥羽列藩同盟の動き。三つ目が江戸の治安であった。

特に、江戸市中の治安は、江戸無血開城によって幕府の威信は失われ、町奉行所の取締りパワーも減じ、治安は乱れに乱れていた。辻斬りが横行し、夜間の通行は危険で出歩く者はなく、町々は無法状態化し、集団を組んだ盗賊が豪商を襲い、金品強奪、家人を殺傷する事件が続発していた。

 このような状況下で結成された彰義隊は、その活動の内容を「同盟哀訴申合書」書き、趣旨は「同盟決起、公(慶喜)の冤罪を条(じょう)陳(ちん)し、闕下(けつか)(天皇)に哀訴せんとする」ものを幕府側に提出した。 最初は、この「同盟哀訴申合書」を幕府側は却下したが、彰義隊に加入するものが多くなり、松平確堂の意向で隊名を公認することにし、府下の巡邏と治安維持を命じた。屯所が上野寛永寺に移されたのはこの時である。

 隊員は喜び、早速に丸提灯に朱の色で「彰」あるいは「義」の一字を筆太で書き入れ、それを持って数名ずつ上野の山から江戸市中を巡察するようになった。

その結果、犯罪は激減し、安心を得た市民たちは、感謝の念を表すために、彰義隊屯所を訪れ、金品を差し出す等が増え、彰義隊と市民の間は良好な関係となっていった。

 これを見つめていた新政府は、幕府側に治安維持の命を発したのである。そのことを海舟日記の閏四月二日に次のように記している。

「江戸鎮撫万端の儀委任候間、精勤あるべく大総督宮御沙汰候事」
 新政府は明らかに宥和策を採ってきたのであるが、そのタイミングを捉えて、またもや政治家海舟が動いた。閏四月五日、慶喜江戸復帰という大胆な策を願い出たのである。
 
ここで閏四月について説明しないと、これからの日付展開が混乱してくる。ご存じのように江戸時代は太陰太陽暦であるから十二カ月は三百五十四日で、太陽暦より一年で十一日ほど短い。このずれは十一日×三年=三十三日となるから、三年に一度、一年のどこかに一カ月を挿入して十三カ月としないと、季節とずれが生じてしまう。そこでこの挿入された月を閏月ということになる。慶応四年はその年に当たり、四月と閏四月の二つの四月が発生しているのである。

 従って、四月十一日に江戸城明け渡しが行われ、この日の暁に慶喜は上野寛永寺から水戸へと下ったのであるから、この閏四月には江戸にいなかったのである。

 さて、海舟は閏四月五日江戸城西の丸に上り、慶喜江戸復帰を求めた。理由は明快であって、次のように提言した。

 「此上府下の静謐(せいひつ)・生霊の安寧を謀らせ給はんことは、臣等が力の及ぶ所にあらず、慶喜恭順の至誠能く士民を感化せしむるものなれば、願わくは慶喜に退隠を命じて之を府内に還住せしめられなば、府下の衆庶は必ず其謹恪恭順に薫陶せられて、令せずして安靖(あんせい)ならん」加えて「此議聴かれざれば、皇国の首府を始めとして、人心の動揺は止む時なかるべし」(『徳川慶喜公伝』四)と切言したのである。

 つまり、慶喜が江戸から追放されたため、治安が悪化し、今の幕府体制では手に負えない、という一種の強迫を行ったのである。

 江戸城西の丸で対応したのは、大総督府参謀の海江田武次であり、海江田は即答をうながす海舟に対し、京都にお伺いしないと回答は出来ないと保留した。

 だが、翌閏四月六日にいたって、大総督府は金十五万両を旧幕臣に分配するよう指示がなされた。このことは、新政府側がいかに江戸の治安に困惑しているかという証明であった。

ところで彰義隊は、四月十一日に慶喜が水戸に去ると、屯所を置くべき場所の見解相違、上野は要害の地でないという持論を持つ渋沢成一郎が離隊し、武蔵飯能に向かい振武隊を組織したので、頭取は本多邦之輔になった。

この際に、彰義隊は編成を新たにし、一組を二十五人、組ごとに組頭、副長、伍長を置き、二組を連ねて頭取一名を置いた。このようにして本隊は約五百人、附属隊を合わせると総勢千五百余人に達した。(『徳川慶喜公伝』四)

 この附属隊というのは、諸藩からの脱藩者や加入者がそれぞれ勝手に参加した部隊であったが、その概要を「幕末気分」で以下のように書き述べている。

 「たとえば『純忠隊』は、何とあの竹中丹後守(重固(しげかた))が変名で隊長になっている。竹中は、鳥羽伏見での敗戦責任を問われて登城禁止の処分を受けていたが、汚名返上を図ったのであろう。もっともこの不運な人物は知行所が美濃にあって、いちはやく官軍に接収されていた。帰ろうにも帰る場所がなく、仕方なく腹を括ったという面もある。『遊撃隊』は、幕府講武所の剣士隊で、やはり鳥羽伏見の雪辱戦のつもり。『万字隊』は関宿藩脱藩者、つまり佐幕派の一隊。何と藩主の久世広文までが加わっていた。藩は勤皇派に乗っ取られたのである。『水心隊』も結城藩で同様の事情。『神木隊』は高田藩榊原家の脱藩組。多彩といえば多彩、ありていにいって寄せ集めの軍勢が天下の彰義隊の現実だったのである」

 このように上野の山に結集されてくる状況を、彰義隊メンバーより喜んだのは、輪王寺宮と一緒に駿府でコケにされた覚王院であった。
官軍によって傷つけられたプライド、その仕返しする時が来たとばかりに、この覚王院は全面的に彰義隊をバックアップし、ますます彰義隊はその存在を強めていった。

 結果として「自ら官軍と彰義隊との境界が立ちますやうな訳で、浅草門から柳原の橋々を経て、昌平橋まで内外の境界が立ちまして、皆内廊だけが官軍の往来と云ふゆうな訳でございました」(『史談会速記録』幕末気分 野口武彦)とあるように、外堀と神田川を境界線にして官軍地区と彰義隊地区が出来ていたように、江戸市中に「治外法権」が発生している状態だった。

 さらに「錦片(きんぎれ)とり」というのが流行った。新政府軍の兵士は出身が異なり、服装もそれぞれであるから、身分証明の意味で小さな錦の布切れを袖に縫い付けていた。それを彰義隊が奪うことが盛んに行われ、その延長で事件が続発した。

最初は谷中三崎町の路上、薩摩藩士と彰義隊が遭遇し、言い合いとなり、お互い抜刀し、薩摩藩士が三人惨殺され、これを多くの江戸市民が見ていたが、町役人に対し口をつぐみ、事件の糾明は行われなかった。

 次は上野三橋町で筑前藩士が彰義隊と口論となり、筑前藩士一人が殺害された。これについても誰もが口にせず、この事件も不問に終わった。同じく広小路で佐賀藩士二人が殺害された。これも不問に終わった。

 さらに大事件が発生した。白昼、鳥取藩の弾薬が彰義隊によって奪われたのである。これまでの殺害事件は、お互いの口論からの斬り合いであったが、今回は新政府に対する敵意が顕わになったもので、奥州の戦地に運ぶための弾薬数十荷が、上野の山下の坂本で強奪されたのである。

 この状況は徳川側にとって憂慮すべき事態であった。閏四月二日に「江戸鎮撫万端の儀委任」を受け、その任務を彰義隊に命じたことが裏目に出て、彰義隊の新政府に対する敵視は一層募るばかりであって、これは慶喜江戸復帰、それと家名の存続は受け入れられたが、まだ定まっていない城地と禄高決定にも影響しかねず、大きな懸念材料になってきた。

 そこで、この危機に登場するのは鉄舟である。彰義隊に上使として赴き、覚王院と対決するのである。

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 彰義隊・・・その三

彰義隊・・・その三
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

慶応四年(一八六八年)三月十四日、高輪薩摩屋敷における西郷と海舟の第二次会談で江戸城攻撃は回避された。
だが、十五日に上野輪王寺宮の公現法親王の陪僧・覚王院が駿府から戻り、一通の書状を提出したことから、海舟は肝をつぶすことになった。

その書状とは
「先ず将軍単騎にして軍門に到り降るにあらざれば、寛典の御処置に及ばず。然れども将軍これを為す能はざる時は、田安殿名代にてしかるべきか。これ大総督の御内命なり」
と書かれた有栖川宮大総督からの命令書であった。

この内容、普通に考えればおかしい。既に三月九日に行われた西郷と鉄舟会談で、和平条件が概ね決定し、十四日には江戸高輪薩摩屋敷で正式会談が執り行われている。

それなのに、この書状が提出されたことにより、和平交渉はうまくいかなかったという噂が江戸城内に広がりはじめ
「覚王院当帰後、其周旋之行届かざるを憤て、専ら一戦をすすめてやまず、漫(みだり)*に有司に会して、戦を主とす」
と海舟日記(三月十六日)にあるように、やはり江戸城は攻撃されるのか、というムードが広がり慌しくなってきた。

この気配に海舟は怒り狂った。再び同日の海舟日記を見ると
「我是を聞いて、かつ怒りかつ恨む。法親王は唯其のご寛典を懇願あられて足りなむ。何ぞ我主を辱(じょく)*するの挙を御内願あられしや。ここに二人あり。一物を買はんとするに、一は百金を出さんといひ、一は三百金を出さんといはば、その人三百金に与えて以て百金を以てする者に与えざるべし。法親王と総督の御内談、ここにいてでては、我輩の小臣切歯断腸すとも彼決して用いざるべし。今日のこと上下ともに力を用いる者なし。止(やむ)なんか、といって激論す。また参謀に書を送りて是を支(ささ)ふ」

と記されている。この最後の一行は、海舟が急いで西郷に書状を送り、第二次会談決定の再確認を求めたことを示しているが、このようなことは二元外交をした結果から生じた問題で、全く一瞬としても目が離せないと、溜息をついている海舟の顔が浮かぶ。

では、どうしてこのような二元外交交渉、誰の指示で輪王寺宮は駿府に向かったのか。それはいずれも慶喜の嘆願依頼であった。

これより以前、慶喜の同様嘆願で和宮及び天璋院から使者が、官軍に向かったが成功せず、輪王寺宮に出向くよう慶喜から再三の懇願があり、当初は固く固辞したが、重ねての願意によって、とうとう二月二十一日、慶喜の謝罪書と諸大名からの嘆願書を持ち、御輿にて上野寛永寺を出発した。

官軍が充満する東海道中、輪王寺宮の御輿と随従する覚王院や僧たちは、大変な困難・難儀を被りながら、ようやく三月七日に駿府城で有栖川宮大総督と会うことができた。

だが、謝罪書と嘆願書を一読した大総督は
「慶喜の朝廷に対する叛逆は明白であり、その大罪に対して追討の勅命が発せられたのである。それで兵を江戸に向けて進めている。今になって許しを請うても、どうにもならない」
と冷ややかな口調で述べ、しばらく駿府に留まるよう輪王寺宮に伝えた。

五日後の三月十二日、有栖川宮は駿府城で輪王寺宮に対し次のように申し述べた。
「ただ一通の謝罪書だけを提出して罪を許して欲しいというのは言語道断である」
「それでは、どのようなしたらよろしいのでしょうか」
「それについては、参謀がお伝えする」
と言い残し座敷を出て行った。

残された輪王寺宮と覚王院は、これは無礼な対応ではないかと内心憤りながら、うながされるままに別室に入ると、そこに参謀の宇和島藩士林玖十郎がいて、江戸に戻った覚王院が提出した先の書状内容が伝えられたのであった。

この結果を受けて輪王寺宮は、これは京に上って天皇に直訴するしかないと覚悟し、再び、有栖川宮と会い、その旨伝えた。すると有栖川宮は声を荒げ
「天子様から東征大総督に任じられ、錦の御旗を授けられた身である。すべては私がとりしきっている。宮は江戸にもどられよ。それも直ちに・・・」
と甲高い声で言い放った。目に険しい光があり、蔑みにみちた顔と声で命じられたことに、輪王寺宮は屈辱を受け、みじめな気持で、駿府城を去ったのであるが、宿所で待っていた覚王院以下の僧たちは、この経緯を聞き、激怒した。

特に、覚王院は
「宮様が、わざわざ江戸からひとかたならぬ苦難をお忍びになられて来られたのに、同じ皇族の身としてそれなりの御回答があると信じていたが・・・・」
と怒りは凄まじかった。この時の激昂憤激が、その後、彰義隊をバックアップするエネルギーとなって燃え上がることになっていくのである。

一方、輪王寺宮の交渉結果を聞いて、覚王院とは異なる次元で海舟は怒り狂った。
その怒りの意味は「素人が出て行って何をしでかしてきたのか。折角に政治専門家の俺が進めた鉄舟路線の成果を帳消しにしようとしているのか」という想い、それが三月十六日の海舟日記に如実に表現されている。

海舟が輪王寺宮の交渉を素人とけなす意味は明らかである。それは覚王院が怒った言葉に明らかである。「宮様がわざわざ江戸から、ひとかたならぬ苦難をお忍びになられて参ったのに・・・」という発言、この言葉には徳川方が陥っている立場への覚悟が薄い。

鳥羽伏見の戦いはどちらが先に仕掛けたかどうか、それは別として、今や慶喜は敗軍の将として白旗を掲げ、謹慎している身である。ならば、負け戦での交渉事には、それなりの環境条件を整えて、ある一点に的を絞って交渉に向かうのが、玄人の仕事だと海舟は思ったに違いない。

輪王寺宮と覚王院は、慶喜の嘆願書を持参し、皇族としての身分ある立場で、駿府まで出向き、同じ皇族の一員である有栖川宮に切々と訴えれば何とかなる、そのように思っていたのであろう。

しかし、ここで欠けているのは、相手陣営の分析である。征討軍の指揮官として、実質的に権限を持っているのは誰かという絵解きである。表向きは有栖川宮が大総督であるが、実際の指揮官は西郷であるという認識に欠けていた。

その一点に関して、海舟の判断は的確で、鉄舟に西郷への添書を持参させたのであるが、仏寺奥深く身を置く輪王寺宮と覚王院では、そのあたりの判断は難しく無理もなかったが、結果として和議交渉はうまくいかなかった。

さらに、輪王寺宮一行は、官軍で満ち溢れている東海道筋を、誰の先導もなく敵陣を突破したのであるから、道中大変な困難・難儀を被ったことが、交渉時にも影響したであろう。それは覚王院の「ひとかたならぬ苦難をお忍びになられて参ったのに」発言に表れている。それは当然であろう。敗者側は戦地で被害を受けるものであり、皇族でありながら、実に屈辱的な待遇の連続であったこと、それが覚王院の激昂憤激につながっている。

対する鉄舟は、海舟の下に置かれていた、薩摩藩士益満休之助を先導役に立たせるという手際よさであった。

もうひとつ、最も重要なことは、政治的交渉には参謀が必要だということである。ただ単に真っ正直にぶつかっていくという戦術もあるであろうが、ここは歴史を決める江戸無血開城という一大舞台である。そのためには、手練手管を知り尽くしたスペシャリストからの助言が必要不可欠であろう。
その点でも、鉄舟は事前に海舟という政治専門家と接し、それなりの助言を受け、和平交渉の妥結点を見出すことに成功している。

ところで、輪王寺宮が有栖川宮と会ったのは、三月七日の駿府城であり、その後再び会見したのが十二日の駿府城である。では、鉄舟が西郷と駿府で会談したのはいつか。それは三月九日である。

ということは、同じ時期に、同じ駿府にいて、同じ目的の交渉を行っていて、その結果は大きく異なっていたということになる。

交渉の仕方が問題だった。つまり、輪王寺宮は海舟がいう素人交渉だったという指摘、一方、鉄舟はその武士道精神による胆力ある優れた判断行動力で駿府会談を成功させた、というのが世に伝わっている通説であるが、ここでそれに対する反論異説を紹介したい。

それは「覚王院義観の生涯――幕末史の闇と謎 長嶋進著 さきたま出版」である。この中に次のように述べられている。

「薩摩藩邸焼きうち事件の時、逃げ遅れて逮捕された益満休之助は、なぜか勝海舟の家に居候をしていて、山岡鉄太郎が『駿府駆け』をした時、官軍の中を突破する案内役をするのである。益満が西郷吉之助の腹心であり、江戸市中撹乱、挑発作戦の中心人物であるということを、勝海舟は知らなかったのであろうか。

覚王院は、これらの全く理解することのできない『謎』を解くべく、間諜の世話になった。その間諜とは志方鞆之進という男で、この当時は、細川家(肥後藩)の家臣となっていた。幕府側と朝廷に通じている。

岩倉具視とは、まだ百五十石ぐらいの貧乏公卿時代からの知り合いであったので、岩倉の間諜の中にも通じ合う仲間がいる。志方は、単に金にさえなれば同志をも裏切るという男でなく、正義に血を燃やす慷慨の士であった。覚王院とも以前から懇意で、真如院によく出入りしていたという。・・・中略・・・
ひそかに京都方面に出かけていた志方鞆之進が、真如院の覚王院のもとに帰ってきたのは、二十日以上過ぎた頃であった。

志方の報告の概要である。
駿府城会談のすべてを背後で演出していたのは、貴僧のご推察のどおり京都にいる岩倉具視である。すべては、『神道復活、廃仏、輪王寺宮の格下げ』が狙いである。
大政奉還がなされ、武家政治である徳川幕府は倒れた。鎌倉幕府以前の天皇制を復活させるには、当然、神道の復活が必要であった。

徳川幕府は仏教をもって、統治してきた。特に徳川家康は、天台宗東叡山寛永寺を天海僧正に建立させ、代々、輪王寺宮を法親王としてお迎えし、特殊な格式をもたせ、宗教界に君臨させてきた。岩倉具視にとって、輪王寺宮は目の上のタンコブである。そこで、慶喜の助命嘆願のため京都に上る輪王寺宮の使命を邪魔しようと、西郷吉之助と勝海舟に間諜を送った。輪王寺宮と有栖川宮大総督が駿府城会談を行う前後に、急遽打った手が、山岡鉄太郎の『駿府駆け』であった。

勝海舟が薩摩藩邸焼きうち事件で捕えられた西郷の腹心・益満休之助を自宅にかくまっていたのも、その時に備えていたのである。輪王寺宮が京都へ行くことを強く拒絶したのもこのためである。輪王寺宮が京都に行き、幼い明治天皇と謁見すれば、輪王寺宮が大きな功績をあげることがわかっていたので、これを許すことはできなかった。

東征軍の実質的大将は西郷吉之助である。有栖川宮は、この間のいきさつを知る由もなかった。
覚王院は志方からこの事実を知らされても呆然とするばかりで、誰にも語ることはなかった。後に、彰義隊の天野八郎とあとあとのことを考えて、範海大僧正にだけはもらしたことがあるという」
この内容、なかなか面白い記述であって、覚王院の立場から推察すれば考えられるものであろう。

さて、話は江戸に戻るが、覚王院がもたらした一通の書状によって、江戸城内は戦いもあり得るという雰囲気が出てきた。

しかし、海舟はこの事態を予測していたかのように、この時までに一番暴発しやすい要素を、事前に江戸から遠ざけていた。

三月一日、甲州鎮撫を願い出た新選組の近藤勇と土方歳三の願いを容れ、金五千両・大砲二問・小銃五百丁をあたえて、甲府へ向けて出発させた。これは陸軍総裁の職権をもってした公然の行為であった。

また、歩兵差図役古屋佐久左衛門と京都見廻組の今井信郎等が、徹底抗戦を唱え、信越方面の鎮撫を行いたいという請願を聞き入れ、両名を昇進させ、歩兵六百名と大砲三門をあたえて、信州中野郷代官所勤務を命じた。これも公然たる命令で行ったものであった。

このように海舟が陸軍総裁として、軍資金と兵器を与え江戸から厄介払いしたのであるが、この背景には別の意図が隠されていたという石井孝氏(維新の内乱 至誠堂)の指摘がある。

「勝の脱走公認政策は、たんに消極的な厄介払いにとどまるのではなく、かれらを放ってゲリラ戦をやらせ、政府軍との交渉を有利にみちびこうとする底意があったのではなかろうか。江戸開城後も勝は、江戸の治安が保てないことを口実に、政府軍から譲歩をかちとろうとしていることからも推測できるであろう」

この最後のところ、これは二月二十三日に正式結成された彰義隊を、官軍側との駆け引きに十二分に活用しようとした事を指摘している。次号からいよいよ彰義隊の実態に入っていく。

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2011年04月04日

清河暗殺その三

山岡鉄舟研究 清河暗殺その三
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄


 文久三年(1863)三月、上洛した将軍家茂は朝廷から攘夷をいつ実行するのかという、攘夷期限を明示するように執拗に厳しく責めたてられた。

朝廷が督促する攘夷という内容は、通商条約を破棄し、在留の外国商人を追い返し、貿易を中止し、それをいつ外国側に通告し、実現させるのか、というもので実態的には無理難題で、現実味がないものであったが、これが勅意であった。

とうとう四月二十日になって、将軍は攘夷期日を五月十日と答え、その旨を諸大名に通知して、ようやく将軍は江戸に六月に戻ることができた。

清河が実質リーダーである浪士組は、将軍が攘夷期日を定める前に、関白鷹司輔(すけ)煕(ひろ)から攘夷の達文が下されており、それを旗印として江戸に戻り、攘夷の一番乗りを果たそうと「横浜焼き討ち」を計画していた。その決行予定日は四月十五日であった。

しかし、決行二日前の十三日に清河は暗殺された。幕府は事前に清河の計画をつかんで、綿密な仕掛けで斬ったのである。

では、「横浜焼き討ち」が四月十五日であることを、どのようにして幕府はつかんでいたのか。

それは、「村摂記」(『未刊随筆百種第三巻』編者三田村鳶魚 中央公論社)にあるように「内命を受けたる頭は、窪田冶部右衛門、刺客は、佐々木只三郎、永峰良三郎(後に弥吉)高久左次馬等にてあと二人は記憶せず」と記述されているように、窪田冶部右衛門による密告だ、と推測するのが妥当であろう。
 では、ここで疑問が生じるのは、清河が浪士組一同に「横浜焼き討ち」決行日を明示していたかということである。

「横浜焼き討ち」は清河にとっては義挙、幕府にとっては暴挙で、正面切って宣戦布告して行う戦いではなく、相手の隙をつく仕掛けをもって急襲するものである。また、攘夷派の攻撃に対して幕府は横浜を警戒態勢下にしているのだから、攻撃日を浪士組員に伝えることは決行間際のタイミングにするか、目的を明示しないまま行進していく途上で命令する等、細心の注意をもって秘密裏に計画する。だから、事前に決行日を知っていたのは、清河が心を許した僅かな人数に過ぎないであろう。

 このように考えてくると、確かに窪田冶部右衛門は浪士組の頭の一人ではあるが、清河の腹心ではなく、決行日を把握していなかったと考えるのが妥当である。

 そこで、窪田冶部右衛門はどうやって決行日情報を入手したかが問題である。そのヒントとして、ここに神奈川奉行所組頭である窪田の息子、泉太郎が登場する。

 攻撃する側の清河の思考回路を想定すれば、焼き討ちするには、当たり前であるが、そこの地理状態を知らねばならぬわけで、そのためには横浜を事前に視察調査する必要があるが、簡単に旅するような感覚で横浜に行けたのであろうか。それは無理であった。

横浜は、もともと東海道神奈川宿から南にはずれた一漁村であったところで、幕府は神奈川開港の際、街道の要衝地を開くことを嫌って、ここに外国施設を集中させたという経緯があったので、結果として、長崎の出島のごとき対応を図っていた。

ということは、横浜に通じる道筋に関門という番所、安政六年(1859)から翌年にかけて子安・台町・芝生・石崎・暗闇坂・吉田橋の6か所と宮ノ河岸渡船場に設けられ、さらに、掘割りによって居留地が分離されると、西の橋、前田橋、谷戸橋の3か所にも設置され、役人が通行人や荷物の改めを行っていたので、簡単に横浜を事前視察することはできなかった。

そこで、清河は窪田冶部右衛門の息子・神奈川奉行所組頭である泉太郎に目を付けたのである。また、泉太郎は組頭であって、奉行の次に位する重要な役職であるから、ここから紹介受ければ横浜視察はできるだろう。

早速に清河は、得意とする策略、それは冶部右衛門を通じて「視察する正当性ある」ものであるが、その策をもって泉太郎への紹介状を書かせることに成功し、これを持参し鉄舟と斎藤熊三郎(清河の弟)、西恭介の四人で横浜に出かけたのである。四月十日のことであった。

この横浜視察では、鉄舟がひとつの事件を起こしている。そのことが中村維隆(草野剛三)自伝に次のように書かれている。

「窪田泉太郎は外国人との親交があったので、そのにおいが身についていた。室内の装飾はもちろん、御馳走として出たバターや洋菓子類がそうであった。鉄舟はそれを見ると『けがらわしい、こんなものが食えるか』と、出されたものを引ったくり、床の上に叩きつけると、翌日は早々に江戸へ引き上げた」(『維新暗殺秘録』平尾道雄 新人物往来社)

これを述べた草野剛三は横浜に同行していなかったので、状況を割り引いて考えなければならないが、鉄舟がこのような行動をとったと伝えられている。

この鉄舟の振る舞い、今までの鉄舟とはずいぶん異なる奇異な感じを受ける。鉄舟は物事をじっくり考え、人前で乱暴をするような性格ではない。だが、横浜での行動は大人げなく、芝居がかっているように感じる。わざとらしさが窺え、敢えて無理した所業に思えるのである。

これは大事なポイントである。普段の鉄舟ではない。何かある。多分、それは鉄舟が何らかを伝えるための芝居ではなかったのではないか。

横浜に来た我々清河一行は、外国人が嫌いで、外国人が滞留しているところに見学に来るような人種でない、つまり、頑強な攘夷派であるということを明らかにするサイン表示ではなかったか。そう考える背景根拠は、鉄舟が根っからの幕臣であることである。

ここで改めて清河の行動目的内容を確認したい。清河は「横浜に押し出し、市中に火をつけて、そのごたごたに乗じて、外国人を片っ端から斬りまくり、黒船は石油をかけて焼き払い、すぐに神奈川の本営を攻めて、軍資を奪い、厚木街道から、甲府城に入って、ここで、攘夷、しかも勤王の義軍を起こそうというのである」(「新撰組始末記」子母澤寛)であった。

この中の神奈川本営(奉行所)襲撃は何を意味するか。それは倒幕の蜂起軍となることにつながり、勤王の義軍を起こすということは、幕府と対峙することに直結する。

つまり、清河の本心は「攘夷」でなく「倒幕挙兵」にあることを、この頃に至ってようやく鉄舟は見抜き、そうであったからこそ愚にもつかない所業を行って、神奈川奉行所組頭・泉太郎にシグナルを送ったのではないかと推察する。

本来、鉄舟には幕府を裏切る気持ちは毛頭ない。元々攘夷とは当時の殆どの日本人が同様の気持ちを持っていたわけで、将軍家茂が朝廷に攘夷を約するために上洛した時でもあり、攘夷が時の大勢であったから、清河と親しくし、清河を保護し助け、清河の仲間となって今日まで歩んできたが、倒幕となると事は異なる。三河譜代小野家六百石旗本の血筋が蘇ってくる。

この幕臣に戻ったことは京都でもあった。清河が京に着いた夜、浪士組全員を新徳寺に集め、朝廷に上書を奉じ、勅諚を賜った一連の経緯の際、そのことを清河から知らされた鉄舟は、悩みながらも浪士取扱いの鵜殿に報告、鵜殿は老中の板倉勝静に伝えたことがあった。その時と同じ幕臣の気持ちを再び蘇らせたである。

鉄舟が倒幕に与しないことについて、藤沢周平が「回天の門」(文春文庫)で、鉄舟と清河の会話を通じて次のように述べている。

「やはり、横浜焼き討ちは攘夷でなく倒幕挙兵なのですな?」
「そう、倒幕だ」
八郎は言いきった。並んで歩いている山岡の顔を見たが、暗くて山岡の表情は見えなかった。ただ重苦しい溜息を洩らすのが聞こえた。
しばらく無言で歩いてから、山岡が言った。
「だとすると、おれは今度のくわだてには加われません」
「むろんだ」
八郎はいつかのように、幕府と手を切れとは言わなかった。いたわるような口調で、しかし明快に言った。
「君と松岡は脱けてくれ。いずれ、そう言うつもりだったのだ。このあと君は、われわれのやることを見とどけてくれるだけでよい」

藤沢周平も述べているように、鉄舟は横浜行きの前に、清河の倒幕挙兵に賛せず、行動を共にしないという決意をしていた。

さて、結果として清河は「横浜焼き討ち」決行計画二日前に暗殺されたが、幕府による暗殺隊に中に窪田泉太郎がいたことは重要である。神奈川奉行所の組頭が何故に参加していたか。この背景を解明することが、清河が斬られるまでのストーリーに関わってくる。だが、その解き明かしの前に清河が斬られた場面を述べたい。

清河については、多くの人たちが暗殺場面を取り上げているが、いろいろ読み比べてみた結果、やはり、司馬遼太郎の「幕末」(文春文庫)でお伝えしたい。

その日、清河は朝から頭痛を病んだ。文久三年四月十三日である。
ここ数日来、山岡家とは一つ家同然の隣家高橋泥舟の屋敷に寝泊りしていたが、泥舟の妻女が、
「風邪でしょう。きょうは外出はおやめなさいしまし」
と心配してくれたが、
「いや、まずい日に約束してある。先方が折角酒を買って待っているそうですから」
そう言い残して出かけた。行先は、麻布上之山藩邸のお長屋である。かつて清河とは安積良斎の塾で同学だった金子与三郎という儒官をたずねるためであった。

金子のほうではこの日、清河が訪ねてくることは数日前から連絡を受けており、酒を置いて待っていた。
約束の刻限からすこし遅れて清河がやってきた。
用件はわかっている。攘夷連名名簿に血判署名することである。すでに清河はその懐中の帳簿に五百人の署名をあつめており、日を期して挙兵し、まず横浜の外交施設を襲撃することになっていた。むろんその挙兵と同時にこの軍団は王権復興の倒幕軍に早変わりするのである。

「古い学友だ。いまさら蝶々(ちょうちょう)せずとも私の気持はわかってくれるだろう」
「わかっている。加えていただく」
金子は快く署名血判し、あとは妻女に酒を出させ、徳利をさしのべた。その徳利の口が猪口にあたってカチカチ鳴ったことに清河は気づかない。

そのころ、藩邸の裏門あたりをしきりと往き来している数人の武士がある。
裏門からの道は一筋に赤羽橋まで伸び、橋のたもとによしず張りの茶店があり、そこでも数人の武士が、茶を飲んで屯している。いずれも二、三百石取りの直参の風体であった。

そのなかで首領株の佐々木唯三郎だけが、陣笠をかぶっている。あとは講武所教授方速見又四朗、高久保二郎、窪田千太郎、中山周助。

四ッすぎ、清河は藩邸を辞した。
清河も佐々木同様、檜に黒羅紗をはった陣笠をかぶっている。
したたか酔っていたが、たしかな足どりでしかしやや歩みを落して麻布一ノ橋をわたり切ると、不意に横あいから、
「清河先生」
と佐々木唯三郎が声をかけた。
「ふむ?」
「佐々木です」
と、ここからが唯三郎が工夫しぬいた兵略だった。すぐ会釈をするふりをして陣笠をとった。
清河もやむをえない。右手に鉄扇をにぎったまま陣笠のひもに指をかけた。
とたん、背後にまわっていた速見又四朗が抜き打ちをあびせた。ほとんど横なぐりといってよく、清河は左肩の骨を割られて前のめり、一歩踏みだしてつかに手をかけようとしたが、右手首に通した鉄扇のひもが妨げて抜けない。
「清河、みたか」
致命傷は、佐々木の正面からの一太刀だった。右首筋の半分まで裂き、その勢いで清河の体は左へ数歩とんで横倒しになり、半ば切れた首がだらりと土を噛んだ。
土に、酒のかおりがむせるように匂っていたという。

これが司馬遼太郎の描いた清河の暗殺場面である。さすがに描写が真に迫り、斬られた場景を想起させるに十分であるが、ひとつだけ疑問が残る。

それは、清河はかつて佐々木唯三郎と講武所で手合せしたことがあり、その時は佐々木が、清河によって目がくらみ立ち上がれないほど打ちのめされたことがあった。

それほどの清河が、佐々木の工夫しぬいた兵略であったとしても、あまりにあっけない斬られ方、そこに何か感じるのである。

それと、どうして清河は幕府から狙われていることを分かっていたのに、何故に一人で麻布上之山藩へ金子与三郎を訪れたのだろうか。それまでは必ず数人が護衛として常に同行していたのに・・・。

これら疑問の背景には、思わぬ清河の心情変化覚悟があった。次号で述べたい。

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2011年03月11日

彰義隊・・・その二

山岡鉄舟 彰義隊・・・その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

鉄舟が西郷と駿府で、江戸無血開城会見をしたのは慶応四年(一八六八)三月九日である。実はこの日の夜、もうひとつ江戸で重要な会見が密かに行われていた。それは勝海舟陸軍総裁と、英国公使館通訳官アーネスト・サトウとの会談であった。

アーネスト・サトウとは、文久二年(一八六二)九月、生麦事件発生の六日前に来日、以後、幕末から明治時代にかけて、通産二十五年間にわたり日本に駐在し、日本人と日本語で口論するというほどの語学力で、自ら「薩道(サトウ)愛之助」と称するほど大の日本好き。日本人女性の武田兼と結婚、二男一女をもうけた。また、人一倍強い好奇心と行動力で、日本国内を精力的に駆け巡り、情報を収集した人物である。

そのサトウが海舟との会談を、次のように日記に書き記している。(アーネスト・サトウ坂田精一訳『一外交官の見た明治維新(下)』岩波文庫)

「三月三十一日(旧暦三月八日)に私は長官(英国公使ハリー・パークス)と一緒に横浜に帰着し、四月一日(旧暦三月九日)には江戸に出て、同地の情勢を探ったのである。

 私は野口と日本人護衛六名を江戸に連れて行き、護衛たちを私の家の門のそばの建物に宿泊させた。私の入手した情報の主な出所は、従来徳川海軍の首領株であつた勝安房守であった。私は人目を避けるため、ことさら暗くなってから勝を訪問することにしていた」

 このサトウと海舟の会談について「海舟日記」には三月九日と日付は立てているが、全く記していない。(『慶応四戊辰日記』勝海舟全集1講談社)

これはサトウとの会談が、かなり政治的なものであったことを暗示する証拠であり、会談目的は英国公使のパークスが、官軍及び西郷に対して持ちえる影響力を、海舟が利用しようとしたことは明白であろう。
その利用第一目的は、サトウを通じて英国ルートから和平工作を図ろうとしたことであるが、その他にもいくつかの保険的手当てがあったはずである。

それは、まず、駿府に向かった鉄舟への保険である。海舟がはじめて会った鉄舟について「旗下山岡鉄太郎に逢ふ。一見その人となりに感ず」(『慶応四戊辰日記』三月五日)と、今まで大久保一翁から「海舟の命を狙っているひとり」という風評とは全く異なる人物像に接し、西郷との会見が成功する可能性に賭け、西郷への添書を渡し、期待を持って送りだしたが、当然のことながら鉄舟に徳川家のすべてを託すというほど楽観的にはなり得ない。

さらに、西郷への保険もあった。鉄舟の駿府行きが成功し、江戸城攻撃を取りやめることを西郷が引き受けたとしても、西郷一人に徳川家の命運を預けてよいのかという不安である。つまり、西郷は大総督有栖川宮の代理であるが、代理ということは、その背後に最終決定権者が存在するということであり、そこの段階でひっくり返る可能性もあるだろうという危惧である。

この虞(おそれ)は、西郷という人物と元治元年(一八六四)九月に大坂ではじめて会って以来、海舟と西郷は理解しあえる関係にはなっていたが、今の西郷の立場は、攻撃軍の総帥であり、実際に江戸城攻撃を旗印に進軍してきているわけで、過去の面識で得た感触とは異なる人物となっている可能性が高い。

そのためにも、フランス公使レオン・ロッシュに対して事実上の外交断行を宣言し、英国との関係を構築したのであって、英国のルートからその影響下にある官軍の薩長にパイプを通そうと動いたのであった。

さて、三月十日、徳川側に一条の燭光が射し込んだ。勿論、鉄舟の西郷との会見成功の知らせが届いたことである。三月十日の「慶応四戊辰日記」は次のように書いている。

「山岡氏東帰。駿府にて西郷氏に面談。君上の御意を達し、且 総督府之御内書、御処置之箇条書を乞ふて帰れり。嗚呼(ああ)山岡氏沈勇にして、其識(しき)高く、能く君上之英意を演説して残す所なし、尤(もっとも)以て敬服に堪(たえ)たり」

これは鉄舟を称賛することで、自らの政治力を誇っているとも理解できる。それは同日の次の日記との対比からわかる。

「此(この)程(ほど)より、法親王(上野輪王寺宮の公現法親王)ならび一橋殿、参政服部筑前、河津伊豆等、駿府或(あるい)は箱根に御出張、御嘆願之事ありしが、各(おのおの)*一つも御採用とも聞へず、独り山岡氏行くに当て、総督府に達し、参謀等此御書付を渡せり。帰府後、諸官驚懼(きょうく)して、またいふ所なし」

鉄舟のみが成功した。どうだ「俺が送った鉄舟の実力をみたか」と言わんばかりの内容である。これでいよいよ江戸無血開城へ向かって、西郷と最後のつめができることになった、という気持ちが正直にあらわれている。

その西郷が鉄舟との駿府会談を終え、江戸・高輪薩摩屋敷に入ったのは三月十二日である。海舟は早速、使者に一書を持たせて連絡をとった。

既にこの時点で、官軍の司令部は池上本門寺にあり、東海道の先鋒は品川宿に、東山道軍は板橋に、甲州街道軍はすでに内藤新宿にあって、三方から江戸を包囲していた。海舟は急ぐ必要があったである。

海舟の申し出を受け、翌十三日に第一次の西郷・海舟会談が行われた。この日のことを海舟は日記に「高輪薩州之藩邸に出張、西郷吉之助に面談す」(『慶応四戊辰日記』三月十三日)と書き、後日、この事を「氷川清話」で次のように解説している。

「そこでいよいよ官軍と談判を開くことになったが、最初に、西郷と会合したのは、ちょうど三月の十三日で、この日は何もほかの事は言わずに、ただ和宮の事について一言いったばかりだ。全体、和宮の事については、かねて京都からおれのところへ勅旨が下って、宮も拠(よんどころ)ない事情で、関東へ御降嫁になったところへ、図らずも今度の事が起こったについては、陛下もすこぶる宸襟(しんきん)を悩まして居られるから、お前が宜しく忠誠を励まして、宮の御身の上に万一の事のないやうにせよとの事であった。それゆえ、おれも最初にこの事を談(はな)したのだ。『和宮の事は、定めて貴君も御承知であろうが、拙者も一旦御引受け申した上は、決して別条のあるやうな事は致さぬ。皇女一人を人質に取り奉(たてまつ)るといふごとき卑劣な根性は微塵も御座らぬ。この段は何卒御安心下されい。そのほかの御談は、いづれ明日罷(まか)り出(い)で、ゆるゆる致さうから、それまでに貴君も篤と御勘考あれ』と言い捨てて、その日は直ぐ帰宅した」

このように、海舟は江戸無血開城という最大戦略目的の本会談を、翌十四日に持ち越したわけであるが、これはかなりおかしいと言わざるを得ない。

海舟の本音としては、直ぐにでも鉄舟が持ち帰った和平条件について、正式なつめと回答を得たかったに違いない。何故なら、上野寛永寺では慶喜がこの会談に息を潜めて注目しているはずであり、江戸住民も同様であったからである。

しかし、和宮の件だけで終えた海舟は、西郷を愛宕山に誘い「江戸市中が焼け野原にならずに済み申した」とさり気なく述べただけ。これに対し西郷も「「命もいらず、名もいらず、金もいらず、といった始末に困る人」と鉄舟に対する最大の評価を述べただけ。

それだけで二人は、この日別れたのであったが、実は、この日は海舟にとっても、西郷にとっても正念場であった。この日、両軍にとってきわめて重要な会談が、横浜で開かれていることを両者は知っていたのである。

それは、東海道先鋒総督府参謀の長州藩士・木梨精一郎と、英国公使ハリー・パークスとの会談である。

木梨精一郎が西郷の命を受けて、先鋒総督府のある沼津から出発したのは三月十一日である。木梨参謀は二つの使命を帯びていた。

ひとつは「横浜表(おもて)外国人応接」であり、もうひとつは「江戸討入下知」である。この二つの使命は相互に結びついていた。つまり、木梨参謀は西郷と示し合わせて江戸に向かい、江戸城攻撃を予想しての、対外交渉を担当しようとしたものであった。(参考『維新の内乱』石井孝 至誠堂新書)

つまり、この木梨参謀の行動が意味することは、江戸城攻撃を決定すべきかどうかの最終決定を、英国公使ハリー・パークスとの会談結果如何で判断しようとしたものであったと推察でき、既にみたように海舟が仕掛けた「西郷への保険」、つまり、西郷は官軍の最終意思決定権限を持っていないという虞が当たっていたことを意味する。

そこで、ここでパークスが、当時の日本国内時局をどう判断していたか、それを検討する必要があるだろう。

パークスが兵庫(神戸)から横浜に戻ったのは、サトウの日記にあるように三月八日である。横浜という江戸に近い地に戻ったパークスは、官軍の江戸攻撃という状況に対して、外国人の安全保障の対策を立てる必要があったが、パークスの脳裡には官軍のエネルギーが「攘夷」にあるということについて深く認識していた。

そのように認識に至った背景に、最近のいくつかの事件発生があった。まず、一月十一日には、官軍に所属する備前藩兵が、行列を横切ったアメリカ水兵に発砲射殺、英・米・仏三国軍と交戦した神戸事件であるが、これをサトウは次のように日記に書いている。

「二月四日(旧暦一月十一日)、この日早朝から備前の兵士が神戸を行進しつつあったが、午後二時ごろ、その家老某の家来が、行列のすぐ前方を横ぎった一名のアメリカ人水兵を射殺した。日本人の考えからすれば、これは死の懲罰に値する無礼な行為だったのである」(『一外交官の見た明治維新(下)』)

二月十五日には、同じく官軍の一翼を占める土佐藩兵が、十一人のフランス軍艦デュプレックス号乗組員を殺害した堺事件が起きていた。また、パークス自身も京都で暴漢に襲われたという経験を持っていた。

このような官軍関係による排外的テロ行為、それは「攘夷」思想から発するものであることを知り抜いていたので、横浜でも同様事件が発生することを恐れたパークスは、横浜に帰着後すぐに列国代表会議を招集し、横浜全域を列国の共同管理に置くという非常措置をとったのであった。

そのパークスがサトウを伴って、江戸に入ったのは横浜に戻った翌日の三月九日である。既に述べたように、この九日の夜、サトウは赤坂氷川町の海舟邸を訪ね密談している。ということは、サトウを通じて幕府側の和平要求条件を知り、その後も情勢分析しているのであるから、鉄舟と西郷の駿府会談成功についてもパークスは理解していた。

そのパークスは木梨参謀との会談で、次のように発言したのである。

「慶喜が恭順の意を表して謹慎している以上、慶喜を死におとしいれる道理はないから助命されたい。江戸城を受け取りさえすれば、朝廷の目的は貫徹するはずである。万国公法の道理にもかなったことである」(『維新の内乱』)

ここで言う「万国公法」とは国際的世論のことであり、当時の外国人の間での評判であり、それを持って圧力を木梨参謀にかけのである。加えて次の発言もした。

「戦争をはじめるということになれば、居留地の安全にも関係するので、政府から外国へ正式の通知がなければならないのに、そんなこともない。これでは日本は無政府の国というものである」(『維新の内乱』)
これは慶喜が叛乱鎮圧を列国使臣に通告して出兵した、鳥羽伏見のことを前提に述べたもので、官軍側が如何に外交に無知であったかが明らかで、パークスは最後通告として

「横浜については、英仏両国の軍隊で警備にあたらせているから、さよう御承知置きいただきたい」と述べた。この発言の意味することは、江戸城攻撃で官軍が進撃し、横浜を通過する場合、英仏両国軍と戦うことになるということを示唆していた。

これでは官軍は江戸城を攻撃出来ない。正に、海舟が仕掛けた「西郷への保険」が功を奏したことを意味している。この時の海舟という人間が動いた、政治的布石は見事というしかない。

このパークスとの会談結果を西郷も、海舟も知った上で、そのことをお互いおくびにも出さず、第二次会談を高輪薩摩屋敷で開き、江戸城攻撃は回避されたのである。

しかし、海舟の前に再び大問題が発生した。それは上野輪王寺宮の公現法親王による工作の失敗と、公現法親王の陪僧・覚王院が駿府から帰ってきて、肝をつぶすような情報をもたらしたことである。この覚王院が彰義隊の背後で大きな力を発揮していくのである。

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2011年02月08日

彰義隊・・・その一

山岡鉄舟研究 彰義隊・・・その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
 

上野公園前交差点に交番がさりげなく立っている。この交番から始まる坂道が、上野台一帯を占めていた上野寛永寺への旧黒門口であり、上がりきった山王台には西郷隆盛銅像があって、そのすぐ後ろに彰義隊の墓がひっそりとある。

西郷像には通り過ぎる誰もが目を向けていくが、彰義隊墓所には気づかず通って行く。今もって勝者と敗者の姿を表しているかのように・・・。

上野寛永寺内に籠った彰義隊は、慶応四年(一八六八)五月十五日、新政府による攻撃で、たった一日で壊滅した。

その勝者側である西郷隆盛銅像が立っている場所は、彰義隊が大砲を持って最も激しく抵抗し戦ったところであり、彰義隊の墓石には鉄舟によって「戦士の墓」と書かれている。

だが、鉄舟の名は刻まれていない。しかし、鉄舟はこの彰義隊の戦い、いわゆる上野戦争に深く海舟とともに関わっていた。

今号以下では、彰義隊が生まれ、それが時の政治情勢の中で翻弄され、敗者となることによって、明治時代という黎明期へつながった経緯と、海舟と共に鉄舟がその渦中でどのような働きをしたか、それを探っていきたい。

彰義隊の誕生は、慶応四年一月十二日徳川慶喜が、鳥羽伏見の戦いで大敗し、大坂湾から幕府戦艦の開陽で、11日夜半品川沖に到着し、十二日払暁上陸し江戸城に入ったことから始まる。

この時鉄舟は、慶喜が浜離宮から江戸城へ向かう出迎え者として、騎馬にて先駆したことは「徳川制度資料」(大正十五年 小野清 仙台藩士)の記述から次のようにすでに紹介した。

「出迎者山岡鉄太郎、これに継ぐところの五騎の第一、前京都守護職会津藩主松平肥後守容保。第二、前大将軍徳川内大臣慶喜公。第三、前所司代桑名藩主松平越中守定敬(さだあき)。第四、老中松山藩主板倉伊賀守勝(かつ)静(きよ)。第五、老中唐津藩主小笠原壱岐守長行(ながみち)なり。慶喜を出迎える。海舟は西丸大手門外下乗橋にて出迎え」

この慶喜が謹慎の意をもって、二月十二日上野寛永寺大慈院に引き籠り、髭も月代(さかやき)も剃らずにひたすら恭順の態度を示し続けながら、一方では複数のルートを通じて、外交交渉に乗り出していた。

第一に、先代家茂夫人の和宮と先々代家定夫人の天璋院のパイプ、第二は、寛永寺の貫主の上野輪王寺宮・公(こう)現法(げんほう)親王(しんのう)を動かしての嘆願、第三は、海舟を通じた鉄舟の駿府入り、結果として第三のラインによって鉄舟が江戸無血開城を成し遂げたのであるが、この第二の嘆願ラインが、上野の山の彰義隊に決定的な事柄をもたらすのであるが、これについては後に詳説したい。

まず、この上野輪王寺宮の公現法親王について触れたいが、その前に当時の上野の山を振り返ってみたい。

今は春の花見と国立博物館、国立西洋美術館、上野動物園で知られているが、江戸時代は寛永寺が上野台をすべて占めていた。

上野台は江戸城の北方約一里(四キロ)の地点にあり、かつては崖下に迫る江戸湾に突き出た岬であった。その頃の海岸であった台地から貝塚がいくつも発見されている。向かい合った本郷台からは弥生式土器が出土している。昔は、上野台は忍(しのぶが)岡(おか)*、本郷台は向(むこうが)岡(おか)と呼ばれていた。

上野台から見て、東方向は下谷車坂町から多くの寺が立ち並び、その先に浅草があり隅田川に広がっている。西方向は不忍池であり、その向こうは向岡の金沢藩加賀前田上屋敷と水戸藩中屋敷である。
南方向には今は暗渠(あんきょ)*となっているが忍川が流れていて、三味線掘りを経て神田川に注がれていた。忍川には端麗な橋が三本かかっていて三橋といい、それを渡ると下谷広小路の盛り場になる。北方向は金杉から三河島村、町屋村へと田園地帯が続く。

上野台の山上はだいたい平坦で、標高は約二十メートル。広さは約三十万坪の丘陵である。江戸時代の初めは伊勢津藩主・藤堂高虎、弘前藩主・津軽信牧、越後村上藩主・堀直寄の三大名の下屋敷があったが、寛永二年(一六二五)に江戸城鎮護のため、京都の比叡山延暦寺になぞらえて、寛永寺が創建され、山号を東叡山と称した。

開基は徳川家康のブレーンの一人だった天界大僧正である。江戸城から鬼門に方角にあたるので、この地が選ばれ、根本中堂を中心に数多くの壮麗な寺院が立ち並んでいた。

根本中堂の西側には慶喜が謹慎した大慈院、彰義隊が作戦本部をおいた寒松院などを含めた十八の子院、東の下谷方向に十八の子院、これを三十六坊と唱えた。

寛永寺には全部で八つの門があった。下谷広小路に面する南の門が黒門で正門、これを起点として時計の針回りで地図(復元江戸情報地図 朝日新聞社)を確認すると、清水門、谷中門、東門、坂本門、屏風坂門、車坂門、新黒門と続き、そのいくつかが上野戦争で激戦地となった。

江戸城守護の清浄の地という寛永寺はではあるが、参拝客目当ての門前町が形成されると、繁華街の盛り場として江戸屈指の場所となった。今でも花見の上野公園として有名であるが、当時も上野といえば花見であった。毎春、身動きできないほどの人出、だが、山上は清浄の地だから、肉食を禁じていた。その分を山麓の繁華街が請け負って、山下は水茶屋と見世物で賑い、寺社地の側ではどこでも色街が栄えるように、ここも同様であり、客は武士も町人も出家もいた。

貫主は天海が没した後、弟子の毘沙門堂門跡・公海が二世貫主として入山する。その後を継いで三世貫主となったのは、後水尾天皇第三皇子の守澄法親王であり、日光山主を兼ね、天台座主を兼ね、以後、幕末の十五世公現法親王に至るまで、皇子または天皇の猶子が貫主を務めた。貫主は「輪王寺宮」と尊称され、水戸・尾張・紀州の徳川御三家と並ぶ格式と絶大な宗教的権威をもっていた。

寺領は一万石、小さな大名並であり、資金を大名貸しに回し、その利鞘で大きく稼いでいた。

また、寺社は寺社奉行の支配下であって、罪人が逃げ込むと町奉行は勝手に踏み込めない地区であり、まして寛永寺の公現法親王は宮家の後光がさしていた。

この威光を利用すべく慶喜が謹慎場所として寛永寺を選んだのも頷け、その通りで、慶喜は公現法親王というルートから、第三の官軍対策外交を展開したが、慶喜によって動いた各ルートは、お互い自分たちがしている工作以外のことは知らなかった。これも後日、彰義隊に絡んで大きなトラブルになっていく。

さて、彰義隊の結成は、一橋家以来の家臣が、二月十二日に慶喜が大慈院に謹慎したことがきっかけとなった。慶喜への忠誠心から、同日、渋沢成一郎、天野八郎等の同志十七人が、雑司ケ谷の茗荷屋に会した(徳川慶喜公伝・4)ことから始まったが、この経緯に入るためには当時の政治情勢をもう一度振り返ってみる必要がある。

一月十一日、大坂城から品川沖に到着し、十二日払暁上陸し江戸城に入った慶喜を迎え、江戸城は大混乱に陥った。連日、小栗上野介らの主戦派と、恭順派とが喧々囂々(けんけんごうごう)の議論を闘わせたが、結果として慶喜は恭順路線をとり、和平政策で徳川家の存続と地歩を確保しようとしたのであった。

二月七日、幕府歩兵の一部が脱走し、歩兵奉行だった大鳥圭介に従って北関東に集結した。二月二十六日には、朝敵にされ、新政府軍と戦う松平容保が会津に帰国、桑名藩主の松平定敬は新潟・柏崎の飛び領地に向かった。

これらの動きの前、一月二十三日に海舟は陸軍総裁に任命されていた。海舟は慶喜が江戸城に戻った後、突如として一月十七日に海軍奉行並の命を受けていたが、新たに陸軍を預かることになった。これは今までの海舟履歴からしてあり得ないことであった。いうまでもなく海舟は咸臨丸でサンフランシスコに行ったように、ずっと海軍育ちである。

陸軍は元来、海舟の政敵たちの牙城であった。その中核には陸軍奉行並小栗上野介がいて、歩兵奉行の大鳥圭介がおり、さらにその背後にはフランス公使のレオン・ロッシユと教法師(宣教師)メルメ・デ・カション以下の軍事顧問団がいる。

その上最悪なのは、第一次長州征伐以来、陸軍は連戦連敗であり、まさにその劣等感がとぐろを巻いているような部隊であった。

このような陸軍を海舟が抑えられるか。それがこの人事の要諦であった。何故なら、慶喜が恭順を実行に移すために必要な第一歩は、なによりもまず幕府内の主戦派の抑制でなければならなく、それを行うのが海舟に課せられた最大の役目であった。

しかし、実は、もっと重要な要素、海舟が陸軍総裁にならなければならない必然性が存在した。それは官軍側に送る外交シグナルである。主戦派を抑え、恭順派によって幕府内を握らしたというサイン、それが慶喜にとって必要だったからである。

さらに、この人事の背景には、もうひとつ国防に対する認識があった。それは、この時期、日本にとって守るべきは内乱であり、海外からの脅威ではないということ、つまり、海防ではなく、幕府対官軍の全面衝突という戦いと、幕府内の対立抗争という二つの争い、それは内乱であるからして当然に陸軍を抑えるという戦略となり、そのためには恭順派の代表的人物の海舟が任命されることは、ほとんど不可避の人事であった。また、それは海舟が事実上幕府の全権を背負ったという意味につながる。

陸軍総裁の海舟は、手早く対策を講じていった。就任した三日後の一月二十六日、フランス軍事顧問団のシャノワン参謀大尉が、数人のフランス陸軍士官を引き連れて海舟を訪れた。その目的は明らかである。主戦論を展開したのである。

シャノワンの主張は「今まで我々が伝習訓練してきて、幕府陸軍士官は熟練しており、士官兵隊みな勇気あり、戦えば必ず勝つだろう。意を決し戦うべきである」というものであった。

この頃、幕府とフランスの間は以前と比較し冷却化していた。小栗上野介が画策した銀六百万両の借款は拒否され、軍艦の貸与も立ち消えになっていた。だが、ロッシュ個人としては、フランス勢力伸長の可能性をあきらめていなかった。

そこで海舟は逆手をとって、シャノワンが帰るとただちに自らロッシュの所に出向き、軍事顧問団の解雇を申し渡したのである。

このような行動、その迅速さが海舟の特徴であるが、驚いたのはシャノワンである。協力する旨を海舟に伝えたのに、答えは解雇である。そこでシャノワンは翌日の一月二十七日に、再び海舟と会い解雇撤回の要請を行ったのであるが、海舟は揺るがず「要するに、なにがおころうと自分の身一つに引受ける。お前さんの御親切はかたじけないが、もはやこれまでと思ってくれ、というわけである。これは事実上の対仏断行宣言にひとしく、この瞬間から少なくとも幕仏間の特殊関係は存在しなくなった」(海舟余波 江藤淳著 文芸春秋)と伝えた。

この決断の背景には、海舟の持つひとつの時流判断があった。そのことは陸軍総裁に就任した直後の幕閣の会議で、主戦の場合の戦略について、すでに次のように述べていたことで分かる。

「およそ興廃存亡は、気数に関す。また人力の能くすべき所にあらず、今もし戦に決せば、上下一死を期すのみ」(勝海舟全集第九巻 改造社 海舟余波)

これが海舟の見通しによる天下の形勢だった。客観的な戦力分析をすれば、幕府の方が官軍より優勢かもしれない。しかし、刻一刻と時局が動き、その場その場で具体的戦術展開を行っていかねばならないが、その際の行動を結果的に左右するのは時流をつかんでいることである。つかんでいる方が勝つだろう。それも眼には見えないが、時代の大きな流れだ。そういったものが欠けていたからこそ、幕府が鳥羽伏見で大敗したのではないか、それを「気数に関す」と海舟らしい表現で述べたのであり、政治家としての炯(けい)眼(がん)*である。

この海舟の「決断」について「海舟余波」は以下のように解説している。参考になるので紹介したい。

「『決断』というものが、マクロの状況とミクロの状況を重ねて二つに切るような性質のものであることは明らかである。対仏断行は幕府内主戦派に対する抑圧であるのと同時に、国際的には英国に対する接近を意味する。もはやフランスの力を背景としない幕府方は、英国にとっての軍事的脅威ではなく、薩長の武力を行使してまで粉砕する必要のない相手である。つまりこの場合、英国は必然的に対立者の役割から仲介者の役割に移行し得る。そしてもし英国を仲介者として駆使することができれば、その影響下にある薩長にパイプを通す必要条件だけはととのうのである」

陸軍総裁として任命された海舟が政治家として動いたのは、まさにこれを意図していたのである。次号に続く。

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2011年01月18日

大悟後

山岡鉄舟研究 大悟後
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

鉄舟が大悟したのは、明治十三年(1880)三月三十日、四十五歳。この時に小野派一刀流十二代浅利又七郎から、一刀流祖伊藤一刀斎のいわゆる「夢想(無想)剣」の極意を伝えられ、同年四月、鉄舟は新たに無刀流を開いた。

その後、明治十八年(1885)三月に一刀流小野家九代小野業雄忠政から「一刀流の相伝」と、小野家伝来の重宝「瓶(かめ)割(わり)刀」を授けられ、それ以来「一刀正伝無刀流」を称することになった。

つまり、二つの流派に分かれていた一刀流が、鉄舟によって再び統括されたのである。

ここで少し一刀流についてつかんでおきたい。そうしないと「二つの流派」や、浅利又七郎からの「夢想剣」、小野業雄忠政からの「一刀流の相伝・瓶割刀」について理解ができない。

まず、最初は一刀流を創始した伊藤一刀斎について触れたい。

 伊藤一刀斎とは戦国時代から江戸初期にかけての剣客である。しかし、一刀斎の経歴は異説が多く、どれが正しいか拠り所がないが、ここでは「剣と禅」(大森曹玄著)を参考にしたい。

一刀斎は、通称を弥五郎と呼び、伊豆の人とも関西の生まれともいわれ、生国も死処も明らかでないが、身の丈は群を抜き、眼光は炯炯(けいけい)として、いつもふさふさした惣(そう)髪(はつ)をなでつけ、ちょっと見ると山伏かなにかのような風態で、実に堂々とした偉丈夫だったという。はじめ鐘捲(かねまき)自斎について中条流の小太刀と、自斎が発明した鐘捲流の中太刀を学び、両方ともその奥儀を極めたうえ、さらに、諸国を遍歴修行して諸流の極意をさぐり、また、有名な剣客と仕合をすること三十三度、そのうち真剣での勝負が七回で、一回も敗れたことがなかったという。

それらの体験から一刀流を創始したが、老年になってから秘訣を神子上(みこがみ)典膳に授け、自身は仏道に帰依して行方を晦(くら)ましたので、一層その人物像が神秘化されている。

一説には、一刀斎が徳川家の師範に神子上典膳を推挙したのを、船頭から取り立てた高弟の善鬼が恨みをいだいて憤激したので、両人を立ち合わせて勝った方に仕官を斡旋することにした。

結局、悪弟子の善鬼は敗れて死に、典膳が小野次郎右衛門と改名して将軍の師範になったのだが、それ以来、一刀斎は剣に望みを断って仏門に入り、諸国の霊場を回遊したのだという。

次に、「二つの流派」に分かれたとはどういうことか。

伝わるところでは、流祖伊藤一刀斎の次が神子上典膳(小野次郎右衛門忠明)、以下、忠常、忠於、忠一、忠方、忠喜、忠孝、忠貞、この後が鉄舟に伝えた小野業雄忠政であるが、忠方の時、次の忠喜に瓶割刀を与え、中西子(たね)定(さだ)に一刀斎自記の伝書を相続させたことにより両派が生じ、中西派も一刀流正統を称し、その系譜に浅利又七郎があり、浅利から鉄舟が夢想剣極意を伝えられたのである。

また、夢想剣については、一刀斎が剣の妙旨を授けてもらうべく、鎌倉の鶴岡八幡宮に祈って満願の日になっても、依然として神示はなく、失望した一刀斎は拝殿を降り帰りかけた。そのとき、物陰に黒い影がチラリと動く気配が感じられた途端、無意識に手が動き、刀が鞘走って、その影を斬りすてていた。
いや影を見た、というよりは感じたのと、斬ったのとがほとんど同時といってよいほどに間髪を容れない心・手一如の速さだった。

後年、この時の体験を回顧して「あれこそ自分が八幡宮に祈って得られなかった夢想の場である」と気づき、夢想剣と名づけたと伝えられている。

さらに、瓶割刀とは、一刀斎の愛刀であったと伝っているものであり、一刀斎が三島神社の従者であった頃、神社に賊が押し入った際、瓶に潜んだ賊を瓶ごと切り伏せたことから「瓶割」との異名が付いたといわれ、神子上典膳(後の小野忠明)を筆頭に、代々、一刀流小野家に受け継がれてきた。

この伊藤一刀斎を主人公にした小説が、好村兼一氏によって二〇〇九年九月「伊藤一刀斎」(廣済堂出版)で出版された。著者の好村氏は一九四九年生まれ、パリ在住の剣道最高位の八段という人物である。二〇〇七年に「侍の翼」で小説家としてデビューした際、縁あってパリでお会いしたことから親しくなり、二作目の「伊藤一刀斎」についていろいろご教示いただいた。

というのも鉄舟が明治十八年に「一刀正伝無刀流」として統括し、その際に「一刀正伝無刀流十二箇条目録」として「二之(にの)目付之事(めつけのこと)、切落之事(きりおとしのこと)、遠近之事(えんきんのこと)」など十二箇条を取り上げているが、剣については素人の身、この目録に書かれた剣技について、剣道八段の好村さんに助けてもらったわけである。

十二箇条の全部を説明するのは大変なので、好村さんが「一刀斎が築いた一刀流剣術は現代剣道の根幹を成しており、極意『切落し』は今なおそこに生き続けている」と高く評価する「切落之事」のみに触れたいが、その説明は好村さんの小説の中で、鐘捲自斎と弥五郎(一刀斎)の手合せ場面を紹介することでしたい。

「二本の竹刀が強くぶつかり合って、弥五郎の竹刀は斜め下に弾かれ、次の刹那(せつな)、自斎の竹刀先が突き込まれる。
『おっー』
かろうじて右に飛(と)*び退(すさ)*りかわすと、二の太刀が頭上目がけてきた。
――今だー
弥五郎は怯(ひる)まず、よける代わりに上から鋭く切落す・・・・。弾かれたのは、今度は自斎の竹刀であった。」

この場面から分かる通り、「切落し」とは、相手が剣を打ち込んでくる瞬間、間髪を容れず、こちらも真っ向から剣を振り下ろすことであるという。実戦の経験がないので苦しい説明だが、概略ご理解いただけたと思う。

ところで、鉄舟は何故に二つに分かれていた一刀流を「一刀正伝無刀流」としたのであろうか。

これについては、鉄舟長女の山岡松子刀(と)自(じ)が、小倉鉄樹の弟子にあたる牛山栄治氏に次のように語ったと「定本 山岡鉄舟」(牛山栄治著)にある。

「父は思うところがあって大悟した後、無刀流の一派を開きましたが、浅利先生の剣もまだ本当ではないところがあると、たえず工夫をこらしていました。晩年(明治十七年)のことですが、一刀流六代の次に中西派とわかれ、小野派の正統をついだという業雄という人が上総にいることを探し出し、自宅におつれして、その剣技を研究していましたが、これが正しいのだとさとる箇所があり、自分の研究と照らして満足したようでした」

加えて、大正十五年(1926)「東京日日新聞」(現 毎日新聞)に「五十年前」として連載された記事がある。これが「戊辰物語」(岩波書店)に収録されていて、山岡松子刀自はこの中で次のように述べている。なお、大正十五年の五十年前とは明治九年(1876)、翌年が西南戦争であった。

「小野派一刀流の祖小野次郎右衛門の末孫で同名の老人が江戸川辺で困り切っていたのを鉄舟が探し出して道場に据え、良く一刀流の組太刀の型を使わせました。この人は剣術となると空ッ下手でしたが型は大変上手で何でも知っているとの事でした」

なお、戊辰物語談話者の略歴が同書に掲載されているが、山岡松子刀自については、次のように書かれている。

「山岡鉄太郎の長女で故山岡直記子爵の姉君である。写真師某に嫁したが、死別し、その後は筑前琵琶などを弾いて暮らしていられたが、鉄舟そっくりのお顔で、娘時代には自ら竹刀をもって道場に出られた事もあるとの話であった。六十六歳」

最後の検討は、何故に鉄舟は大悟後、無刀流を開いたかである。そのことを「剣術の流名を無刀流と称する訳書」(明治十八年五月十八日)に、

「無刀とは心の外に刀なしと云事にして、三界唯一一心也。一心は内外本来無一物なるが故に、敵に対
する時、前に敵なく、後に我なく、妙応無方、朕迹(ちんせき)(兆しと跡形)を留めず。是、余が無刀流と称する訳なり」と述べている。

これについて大森曹玄は「剣と禅」の中で、以下のような見解を展開している。

「一刀流仮名字の伝書には、こうある。『一刀流と云ふは、先一太刀は一と起て十と終り、十と起ちて一と納るところなり。云々』。山岡鉄舟翁はそれを解して『万物太極の一より始まり、一刀より万化して、一刀に治まり、又一刀に起るの理有り』と、いっている。

一刀流の『一』がそのような窮極的な意義をもつものだとすれば、それはさらに深められ、その根源を突きつめてゆくとき、必然的に『無』に到達することは、大極は無極という易の道理から推しても、または禅のゼの字でもかじったものには朝飯前の問題である。一刀流は、かくて当然無刀流に展開すべき必然的因子を、はじめからもっていたといえる」

さらに続けて

「“無刀”という言葉に深い哲学的あるいは禅的な要素を含蓄させて用いたのは鉄舟先生がはじめてであって、その点では非常な見識というべきである」とも述べている。

以上、随分と固い難しいことを検討してきた。このあたりでやわらかいエピソードにしたい。

鉄舟が大悟した時、京都の滴水和尚は門下の江川鉄心の家に滞在していた。鉄心は鉄舟と同時代に修行した滴水門下の錚々たる一人である。

大悟した鉄舟は直ちに馳せ参じ、入室して見解(けんげ)を呈した。すると老師はにこにこして耳を傾けた。虫の居所が悪いと、鉄拳が飛んでくる厳しい激しい老師である。その老師が鉄心に向かって「鉄舟居士にビールでも差し上げてください」と言った。

鉄舟はこの頃から胃をおかしくしており、医者から日本酒はやめて、少量のビールにするように言われていたのである。

酒屋から取り寄せたビールを鉄心が出すと、鉄舟はたちまち一ダースを飲んでしまった。まだ欲しそうだったので、半ダース出すと、これも見る見るうちに飲みほし、意気まさに天地を圧する気概であった。

滴水和尚が「もうよいだろう。少し加減した方が胃によい」と注意すると、鉄舟は「少し過ぎましたかな」と笑いながらグラスを置いたのであった。

この姿を見ていた鉄心は「おれも、どうかあのくらいな悟りをひらきたいものだ」と人に語ったという。

最後に大変困った経験をお伝えしたい。

筆者は、このところ鉄舟の講演依頼が増えているが、先日、講演後に質問を受けた。

それは「人間が大悟するということは、全身の細胞が生まれ変わるのではないか。そうならば、鉄舟が五十三歳で、それも胃がんで亡くなるのはおかしいのでは」というもの。

この質問、一瞬、なるほどと思えるところがある。確かに人間の大悟とは、今までの自分から、あるレベルの境地への段階にシフトするものであろう。

そうであるなら、その境地へのシフトする過程で、細胞が良変化を遂げているはずである。そうでなければ、前号で紹介した林成之氏からのヒント、悟ったということは、自分自身が持つ能力、それが余すことなく、最大限に発揮される状態だろう。逆に考えれば、すべてを成し遂げられる人間力が、大悟によって備わるのであるから、細胞は変化しているはずだ、と推測できる。

しかし、筆者はその質問者に対して次のような回答をした。

「大悟したとしても、人間ですから、寿命があり、それはその人が生まれ持ったものではないでしょうか」と。

いずれにしても、大悟についての検討は大変難しい。このあたりで大悟のことから離れ、次回からは再び幕末から明治維新に戻りたい。まだまだ鉄舟が活躍した場面は多い。

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2010年12月15日

大悟する

山岡鉄舟研究 大悟する
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

鉄舟が大悟へのきっかけをつかんだのは、平沼銀行(現横浜銀行)を設立した豪商の平沼専蔵のビジネス体験話からであり、それを一言でまとめれば、「損得にこだわったら、物事は返ってうまくいかないという、心の機微を実践の中から学び、この実践を通して事業を成功させた」というものであった。

これに鉄舟は深く頷き、「専蔵、お主は禅の極意を話している」というと同時に「解けた」と叫んだのである。

しかし、このような平沼専蔵が語った内容を冷静に考えてみると、特別なことではなく、一般的によくいわれることではないか。つまり、「欲にくらませては、返ってうまくいかない」ということであり、これは巷間よくいわれることで、特に改めて感じ入り、感動するほどの内容ではないだろうと、思われる。

だが、鉄舟は、この一般的と思われる専蔵の話に深く感動したのであった。

何故に鉄舟は、この普遍的で、事例として世間によくある内容から、一般人が決して辿りつけない大悟という境地、そこへのきっかけと、なし得たのであろうか。

鉄舟も一人の人間である。この素朴な疑問を検討しておかないと、鉄舟は偉大な人物だから、当たり前の普通のことからヒントを得られたのだ、という解説で終わってしまう。

先日、北京オリンピック開催時に、金メダルの北島選手を含む水泳日本選手団を指導した林成之氏(日大医学部付属板橋病院救命救急センター部長)からお話を聞く機会があった。

林氏は、脳細胞の基本的機能からみると、他人の話を感動して聞けるようになれば、頭がよくなるし、記憶にも残る。物事を肯定的にとらえ、好きになる感情は脳にはとても大切だ。また、脳細胞が働かないのは、インプットに問題がある場合が多いと語られました。

成程と思います。林氏の主張は、人から受ける内容を、自らのものにできるかどうかは、受け止める自分サイドに鍵がある、ということを述べているのです。

どのような素晴らしいことを聞いたとしても、それを受け入れる自分自身のセンサーが鈍っていては、その情報は何ら役立たない。逆にいえば、大したことではない内容でも、求め続けていることに少しでも関係していれば、重要なヒントとしてこちらに入ってきて、結果として自らのものにできる。

平沼専蔵の体験話は、鉄舟にとって林氏の教えに当たるものではないか。すでに見てきたように、鉄舟は浅利又七郎との立ち合いから、以後17年間も浅利が日夜のしかかってきていた。今まで立ち合った剣の相手とは全く異なり、心の中まで浅利に斬り込まれ、気持を切り刻まれる状態にあった。
その状態から抜け出すため、禅僧につき、公案を受け、それを寝ても覚めても考え続けていた。そのようなとき、平沼専蔵が訪ねてきたのである。

平沼は別段、鉄舟が苦しみ求めていることを知り、それを助けようと、敢えて意図的に語ろうとしたのではないであろう。日頃から感じていた自らの体験を普通に語ったにすぎないであろう。しかし、その何気ない体験話が、鉄舟にとっても素晴らしいヒントになった。求め続け、考え続け、何とかしたいと足掻き、もがき苦しんでいたからこそ、普遍的でよくある事例でも、鉄舟には感動話として受け止められ、その感動が強い刺激となって、深く脳細胞にインプットされたのであろう。

つまり、感動して聞けば脳に肯定的に入ってくるという脳細胞の構造に合致し、それが大悟へのヒントになったのである。

では、大悟とは何か。これをある程度明確化しておかないと、抽象的な検討に終わってしまう。

大悟とは完全な悟りといい、迷いを去って真理を悟ること、と広辞苑にある。では、悟りとは何か。同じく広辞苑に、理解すること、知ること、気づくこと、感ずることとあり、仏教でいう迷いが解けて真理を会得することとある。

また、認知科学では、人間の知覚というのは、徐々に潜在意識に深く入って行き、知覚→意味付け→納得→悟りになると考えているらしい。

しかし、この悟り、悟った状態を、言葉で完全に表現することは不可能であるともいわれている。確かに、この連載を目にする読者の全ての人は悟っていないわけであるから、いくら論理的に検討しても、悟りの状態を体験的に理解することはできないであろう。

そこで、再び、林成之氏の講演内容から引用したいのであるが、林氏は冒頭「私は、人間が能力を最大限に発揮するための方法論を述べる」と語った。

これをヒントとしたい。自分自身が持つ能力、それが余すことなく、最大限に発揮されれば、誰でも素晴らしい人生を送れるはず。

能力を最大限に発揮していないから、多くの人は課題・問題をもって、不十分な環境下におかれているのではないか。また、他人に対する影響力も少なく、結果として思い通りの人生になっていないのではないか。

では、鉄舟は大悟した後、どのような状態になっていたのだろうか。それを鉄舟の身近で内弟子として同じ屋根の下で過ごした小倉鉄樹が次のように語っている。

「とにかく。かうして完成せられた後の師匠(鉄舟)は、一段と立派なものになって、實に言語に絶した妙趣が備わったものだ。性来のたいぶつが、磨いて磨き抜かれたのだから、ほかの人の、形式的の印可とはまるでものが違ふ。師匠が稽古場に出て来ると、口を利かずにだゞ座っているだけだが、それでもみんながすばらしく元気になってしまって、宮本武蔵でも荒木又右衛門でも糞喰へといふ勢ひだ。給仕でおれなぞが師匠の傍に居ても、ぼっと頭が空虚になってしまってたゞ颯爽たる英気に溢れるばかりであった。客が来て師匠と話をしてゐると、何時まで経っても帰らない者が多い。甚だしいものになると夜中の二時三時頃までゐた。帰らないのは師匠と話をしてゐると、苦も何もすっかり忘れてしまって、いゝ気持になってしまふものだから、いつか帰るのをも忘れてしまふのである」(「おれの師匠」島津書房)

この小倉鉄樹の語り、大悟後の鉄舟という人物の豊かさ、素晴らしさを示していて、大悟するということは、具体的にこういう状態になれるものだと判断できるし、鉄舟が本来持っている能力が最大限に発揮されて様子が、正直に素直に伝わってくる。

このような姿であったのだから、明治の女の子が手毬歌で遊び

「下駄はビッコで 着物はボロで 心錦の山岡鉄舟」

と歌った意味背景がよく理解できる。大悟によって鉄舟の人物像が、小倉鉄樹の感想通りに、時の民衆の間にまで沁み渡っていっていたのである。

その証明のもうひとつ、それは鉄舟亡きあと、墓前で殉死する人が相次いだのである。明治21年(1888)という明治の中頃、封建時代の江戸時代ならまだしも、近代国家としての体裁と国民意識が変革していた時、殉死という主君の後を追う臣下のように自殺するということの意味背景、それを考えると鉄舟の持つ人間性がひときわ異彩を放っていたことが分かる。恐ろしいまでのすごさである。

さて、前号に続く大悟への瞬間である。

平沼専蔵からヒントを受け、それから五日間、昼は道場で、夜は座禅三昧に集中した。燈火は消し、障子越から入る月明かりが部屋に入ってくるだけ。

肩の力を抜き、静かに長く息を吐く。折り返し吸う。臍下丹田に入っていく。いつしか今までと全く異なる心境になりつつあった三月二十九日の夜、ふっと三昧からわれに帰ると、ホンの一瞬かと思ったのに、すでに夜は明けなんとする頃になっている。気持はいつになく爽やかで、清々しく、すっきりしている。

鉄舟は座ったままで、剣を構えてみた。すると、昨日まで際(きわ)*やかに山のような重さで、のしかかってきた浅利又七郎の幻影が現れてこない。

「うむ、これはつかみ得たか」と頷きつつ、道場に向かい、木刀を握った。

すると、立つは己の一身、一剣のみ、浅利の姿は全く消えている。四肢は自由に伸び、気は四方に拡がって、開豁(かいかつ)無限である。

ついに浅利の幻影を追い払い、「無敵の極意」を得ることができたのだ。

この瞬間を鉄舟は次のように表現している。
「専念呼吸を凝らし、釈然として天地物なきの心境に坐せるの感あるを覚ゆ。時既に夜を徹して三十日払暁(ふつぎょう)とはなれり。此時坐上にありて、浅利に対し剣を振りて試合をなすの形をなせり。然るに従前と異なり、剣前更に浅利の玄身を見ず。是(ここ)に於いてか、窃(ひそか)かに喜ぶ、我れ無敵の極処を得たりと」

鉄舟が自らの剣において、極意をつかみ得た瞬間を書き述べた「剣法と禅理」の感動場面である。

鉄舟は湧きあがる気持ちを抑えつつ、門弟の籠手(こて)田(だ)安定(やすさだ)を呼び起こした。

籠手田は肥前平戸藩出身、心形刀流の免許皆伝で滋賀県・島根県・新潟県知事を歴任し、鉄舟晩年の「山岡鉄舟武士道」を口述記録した人物であり、ちょうど母屋に泊まっていたのである。

「籠手田、立ち合ってくれ」

道場の中程で、鉄舟と木刀を持って構えた籠手田、いきなり膝をつき剣をおき、

「だめです。ご勘弁願います」と叫んだ。

「どうした!!」

「長い間、先生のご指導を受けてまいりましたが、今日のような刀勢の不可思議を見たことがありません。到底、先生の前に立つことができません。このようなことが人力で為し得るものでしょうか」
と驚嘆するばかりである。

それならば、と鉄舟はすぐに浅利又七郎を招いて、試合を願った。

浅利は喜んで承諾し、鉄舟のもとに参り、木刀を持ち、互いに一礼して相対した。

道場はシーンと静まり返っている。浅利の切っ先が揺れ、右に回り、左に回って機を窺うが、鉄舟は正眼に構え、逆に浅利の切っ先を抑え、じりじりと一歩、二歩、追い込み始める。以前は、常に鉄舟が、じりじりと押され、羽目板まで追い込まれ、押し返すことができない状態だった。

それが鉄舟の気迫がすさまじく、浅利が押されて羽目板まで追いつめられた。

「参った」

と、さすがの浅利が木刀をおき、容(かたち)を正して、

「貴殿は、すでに剣の極致に達せられた。到底前日の比でなく、私も遠く及びません。一刀流の秘伝をお伝えしたい」

このように述べて、流祖伊藤一刀斎のいわゆる無想剣の極意を伝えたのである。明治十三年三月三十日、鉄舟四十五歳のことであった。

鉄舟はこの時の心境を次のようにを詠んだ。

 学剣労心数十年  剣を学び、心を労すること、数十年
 臨機応変守愈堅  機に臨み、変に応じて、守り愈々(いよいよ)堅し
 一朝塁壁皆摧破  一朝塁壁(るいへき)みな摧破(さいは)す
 露影堪如還覚全  露影堪如(ろえいたんじょ)として、還(かえ)って全きを覚ゆ

(剣を学び、心を労して数十年。相手次第で臨機応変、自由に変化して、負けることがなくなった。堅い塁壁も一朝ことごとく摧破され、痕跡もなくなった。そういう絶対の境地に達してみると、瑞々しい白露が己にこだわることなく、相手を意のままに映し出しているように、私の気分も滞ることなく、自由闊達、どこにも欠けたるものがなくなってしまった)(「春風を斬る」神渡良平)

 この年の四月、鉄舟は「聊(いさ)さか感じる所」(剣法と禅理)あって、新たに無刀流という一派を開いた。これについては次回にしたい。

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2010年11月10日

大悟へのきっかけ

山岡鉄舟研究 大悟へのきっかけ
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

鉄舟は禅修行において何人かの師匠についている。
安政二年(1855)二十歳の時から慶応二年(1866)頃までの十年間は、芝村・長徳寺の願翁和尚に師事した。

しかし、同和尚が鎌倉・建長寺、続いて慶応三年に京都・南禅寺の住職として転じたため、西郷との駿府会談時には特定の禅師を持たなかったが、明治二年(1869)頃に京都・天竜寺の滴水和尚による、東京での座禅会に出席したことから、同和尚に一時師事した。

宮内庁に出仕するようになった明治五年(1872)からの三年間は、三島の龍択寺星定和尚に師事し、その後、明治十一年(1878)頃から大悟する明治十三年(1880)までは、再び滴水和尚に師事したが、この他に相国寺の独園和尚、円覚寺の洪(こう)川(せん)*和尚にも教えを受けてきた。

この禅修行の経緯を振り返ってみてひとつの疑問が浮かぶ。それは師事する禅師を結構代えていることである。記録に残っているだけで五人、その他にもっといたであろう。

一般的に考えれば禅という自らの内部修行であるのだから、それまでのこちらの経緯を把握している同一人物に師事する方が、互いの心境について継続して分析でき、理解し合え、さらに心の奥深く確認できると思われるので、あまり師匠を代えない方がよいのでないかと、かねてより不思議に思っていた。

この疑念について、「春風を斬る」(神渡良平著 PHP出版)で次のように鉄舟に語らせている場面に出合った。

 「人間は生まれ育つ過程では大変両親のお世話になる。しかし、ものごころ付いて、人生の意味を問い始め、私はこの人生で何をしたらいいのかと思い悩むようになったとき、もはや両親では満足できなくなる。“肉体の親”を超えて、“魂の親”を渇仰(かつぎょう)し始めたといえる。その時、人間は自分の疑問に答えてくれる人を訪ねて、何千里でも旅をする。
 また、魂の師は一人ではない。参禅しているうちに、ああ、わしはこの老師から学ぶことは終わったなということを感じ、自然に卒業の時がやってくる。そして次に老師として仰ぐべき人は誰かと捜し求めていると、ピーンと閃くものがある。わしにとって、二番目の星定老師との出会いがそれだった。そして卒業のときがやって来て、次の師匠が現れる。それが滴水老師だった。
 あの人ほど、厳しい人はなかった。鉄拳で殴られたことも何度もあった。老師が人間の甘さに対して厳しかったお陰で、わしは大悟することができたのだ」

 この解説、これは鉄舟の剣修行と同じだと思う。鉄舟は剣修行において、自らを超える師を求め続け、出会えば弟子入りしている。それは井上清虎であり、山岡静山であり、浅利又七郎である。鉄舟の修行というものは、剣でも禅でも同じスタイルを貫いていたのだ。

だが、その修業において、浅利又七郎には苦しんだ。剣で立ち合い完敗し、以後、どうしても勝てない。義兄の泥舟から剣の技ではなく、心の問題だと指摘され、その通りと気づいたのであるが、日々の夜、自宅で座禅、眼を閉じると、たちまちすぐさま又七郎がのしかかって来て、圧迫され、心が乱れてどうしょうもない。

今までの剣の相手とは異なり、心の中まで又七郎が斬り込み、気持を切り刻む。神渡良平氏が指摘する“魂の親”を渇仰するといえる段階になっていたのであろう。

そのような毎日から、鉄舟は禅修行に向かい、老師を求め続けて、最終的に滴水和尚に師事し、浅利又七郎の幻影から抜け出すことができ、ようやく大悟できたのであるが、その過程は自分の内部との凄まじい葛藤とであった。

だが、その激しい戦いから抜け出し、大悟へきっかけをつかんだのは、滴水和尚から受けた公案による修行からではあったが、直接的にはたまたま訪れてきた一人のビジネスマンが述べた会話からであった。

滴水和尚に最初師事したのは明治二年頃、その際、眼鏡を例えに次の教えを受けていた。

「現在の貴公は、このことを問題とするところまで進んできているので、もし眼鏡という障害物を取り去ることができるならば、たちまち望み通りの極致に到達できるに違いない。まして貴公は、剣と禅との二つの道、ともに心境著しい人物である。眼鏡を無用と捨て去れば、いったん豁然(かつぜん)として大悟することができ、活殺自在神通(じんつう)無碍(むげ)という境地にいたるであろう。要するにただ無という一字につきる」と。

しかし、「無」の字に徹するという諭しの意味について、以後十年間、一日たりとて忘れず、日夜精考したが、どうしても体得できず、奥歯に物が詰まったような感じで、臍(ほぞ)おちせず、自得できない。要するに釈然としないのである。

そこで明治十一年頃、再び滴水和尚のところへ伺い、「無」という公案が解けず、未だ浅利又七郎の幻影から抜け出せず、悩みぬいていることを正直に伝えた。

滴水和尚は鉄舟から悩みの内容を聞くと

「それは幽霊というものだ」

といい、五位兼中(けんちゅう)至(とう)の頌(じゅ)(偈(げ)・仏教教理)、つまり、

「両刃、鋒(きっさき)を交えて避くるを須(もち)いず、好手、還って火裏の蓮に同じ、宛然として自ら衝天の気あり」

を工夫してみるようにといわれた。

このような禅問答、専門家でないと意味が分からないが、鉄舟研究で著名な大森曹玄(山岡鉄舟 春秋社)は次のように解説している。

「兼中至というのは、正即ち平等の本体と、偏即ち差別の現実とが、一如に兼ね合わさっているところで、専門語で”明暗双々底“などという境地である。
(注 明暗双々とは、昼と夜、表と裏、差別と平等、現実と理想、創造と破壊、自と他、個と普遍、ことわりとはたらき、清と濁、色と空等々の二項が対立することなく一水に融合した宛然たる禅の一境地)

それはあたかも名人と名人とが太刀を交えているように、どちらが勝れ、どちらが劣るというものではない。正がそのまま偏、偏がそのまま正だというべきで、そこを体得したものは、火の中にあってもしぼまない蓮華のように天を衝くような格外の働きがある、といった意味のことである。

両刃交鋒云々という言葉の意味は、簡単にいえば相手と刃を交えたら、その刃を避ける必要はない。いやしくも“好手”即ち名人といわれるものならば、火に入ってもしぼまないような衝天の気迫が、自らになければならないといったようなことである」

大森曹玄の解説でも難しい。もっと砕くとこうなると思われる。

「剣の名人同士が太刀を交えると、どちらが勝れ、どちらが劣るということはないから、迂闊に動けない。そうした名人とは、火中にあってもしおれることがない蓮の花と同じで、天を衝くような勢いがある」

という意味となるが、これについても頭では何となく理解できるものの、体得までに至らない。体で覚えなければ五位兼中至の頌は身につかない。

鉄舟は再び、寝ても覚めても考え始めた。

食事中にふと動きが止まり、箸を両手に持って、両刃が鋒を交えるように形を工夫したり、煙草を吸いながらキセルとキセルを構えさせ工夫したり、あるときは夜中にガバっと突然起き、夫人の英子に木刀を持たせて立ち向かわせたりしたので、英子は鉄舟が気が狂ったのではないかと、滴水和尚に訴えたこともあったほどであった。

このような毎日が三年過ぎた頃、たまたま、豪商の某が訪ねてきたことが大悟へのきっかけになったと、

「剣法と禅理」(明治13年)で書き示している。

この豪商某とは、横浜の貿易商・銀行家の平沼専蔵といわれている。平沼専蔵は天保7年(1836)、埼玉県・飯能に生まれであるから鉄舟と同じ年。

子供の頃丁稚として江戸に出て来たが、どうしても剣を修行したく、千葉道場の武者窓から稽古を眺めていて、それが縁で入門し、そこで鉄舟と知り合い、気が合って親しくなった頃、鉄舟は専蔵が剣より商売が向いていると気づき、

「これからはもう武士の世の中でない。商売の時代が来るだろうし、もう来ていることをお前は仕事を通じて分かっているだろう。今の商売でお前の能力を発揮させた方がよい」

といい、横浜の石炭店を紹介した。

専蔵はメキメキ頭角を現し、番頭になって、その後独立し、糸商に転じ、明治20年(1887)、平沼銀行(現横浜銀行)を設立した人物である。

この平沼専蔵、ちょくちょく鉄舟のところに出入りしていた。貧乏な鉄舟は専蔵からお金も借りるという仲であったが、ビジネスで成功した専蔵に、そのコツをある日聞いてみた。専蔵は語った・

「私がまだ青二才だった頃、商売がうまくいって四、五百円ばかりのお金ができました。それを元手にもっと儲けようと商品を仕入れましたが、今度は相場が下がり気味になってしまい、何とか早く売り抜けようと気ばかり焦りました。

すると取引先は私の焦りにつけ込み、買いたたきます。その時、心臓がドキドキして落ち着かず、非常に迷いました。

しかし、どうでもなれと思って放り投げておくと、再び、相場が上がり始め、先の取引先が原価の一割増しで買いたいといってきました。

ところが、私は逆に強気になっていましたから、突っぱねると、さらにもう五分高く買うといいます。その辺りで妥協すればよかったのに、欲を出し、もう少し、もう少しと売り惜しんでいると、相場が下落してしまい、結局二割以上の損失を被りました」

鉄舟は、始めは何となく聞いていたが、途中から身を乗り出し始めた。これは滴水和尚から受けた公案につながっていると閃いたからである。

「損しましたが、そのおかげで商売のコツをつかみました。つまり、大事業をしようと思ったら、損得にビクビクしていてはダメなのです。儲けようと思ったら胸がドキドキするし、損してはならないと思ったら萎縮してしまい、とても大事業はできません。

そこで、それからというもの、私はまず、心の明らかな時、気持が整理できている時、そのようなタイミングに前後のことをよく考えておき、いったん仕事に入ったら最後、決してその是非に執着せず、やるべきことをやることにしたのです。損得にこだわったら、返ってうまくいかないという心の機微を実践の中から学びました。これを実践していると、どの事業も成功し、おかげさまで人から本当の商人といわれるようになりました」

鉄舟は頷き

「専蔵、お主は禅の極意を話している」と叫ぶと同時に「解けた」とも叫んだ。この時の心境を「剣法と禅理」で次のように述べている。

「この豪商との談話は前の滴水の両刃鋒を交えて避くるを須いず云々の語句と相対照し、余の剣道と交へ考ふる時は其妙味言ふ可からざるものあり。時に明治十三年三月二十五日なり」

文久三年、浅利又七郎に出会ってから十七年、日夜苦しみぬいてきたが、ようやく平沼専蔵の語りから、何か悟りへの契機が見えてきた。

それは「勝敗にこだわったら、その瞬間すでに負けている。柳の枝は風に任せて揺れ動いているから、折れることはない。相手が押せば引き、引けば出る・・・流れのままに動く。負けてもいい、勝ちを譲ろうとすると、いつまでも負けない。そのうち相手が焦り乱れてきて、つい隙ができる。そこを打ち込めば、勝負が決まる」ということでないか・・・。

そうか。そのように悟った瞬間、鉄舟は道場の中央に立ち、木刀を握って剣先に悟りをのせてみた。
剣先の先から何が見通せるか。剣先の向こうに道場の片隅の明かり見える。しばらくするとその明りが、剣先に乗り移ってきた。道場は大きな一つの世界となって、自分がその空間のすべてに融け込み、すべての存在が剣先に帰一して、次第に、剣前に敵なく、剣後に我なしが体中に広がってきた。

何かが自分の内部から湧き上がってくる。もう少しだ。宇宙に近づいている。

それから五日間、昼は道場で、夜は座禅三昧に集中した。燈火は消し、障子越から入る月明かりが部屋に入ってくるだけ。

肩の力を抜き、静かに長く息を吐く。折り返し吸う。臍下丹田に入っていく。いつしか今までと全く異なる心境になりつつあった。大悟への瞬間である。次号へ続く。

投稿者 Master : 10:46 | コメント (0)

2010年10月12日

大悟への道

大悟への道
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

 鉄舟の偉大な業績は、駿府における西郷隆盛との会談を成功させ、江戸無血開城を事実上成し遂げたことであるが、このことは幕末時における鉄舟の人間力が、官軍の実質的リーダーとして最強の権限者であった西郷をも、説得できるほどになっていたという意味を持つ。

 鉄舟が謹慎蟄居を解かれたのが文久三年(1863)の年末、それから慶応四年(1868)三月の駿府行きまでの約四年間、鉄舟の政治的行動は明確になっていないというより、歴史の表舞台に現れていない。

 だが、この期間は鉄舟にとって自らを鍛える素晴らしい時間であったはずだ。

剣の修行は九歳から始め、禅修行は長徳寺の願翁和尚に二十歳で参じ、「本来無一物」という公案を授けられ、以後、約十年にわたって参禅修業を続けた。しかし、この間、清河八郎との攘夷運動への関わりもあり、十分なる修業はできなかった。

だが、謹慎蟄居が解かれた後に、浅利又七郎との出会いから「昼は諸人と試合をなし、夜は独り坐して其呼吸を精考す」(剣法と禅理)という毎日であったから、鉄舟の人間力は格段に向上したと思われる。
その証明ともなる資料を紹介したい。

それは仙台藩士であった小野清が、大正十五年に出版した「徳川制度史料」である。この中で、将軍慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れ、敗軍の将として江戸に戻った際、鉄舟が警固として重要な職務を担っていたと書き示している。(出典 徳川300年ホントの内幕話 徳川宗英著 だいわ文庫)

「正月十二日巳の刻頃(午前十時)、八代洲河岸林大学頭の楊溝塾を出て、芝口仙台藩邸(注 上屋敷・汐留辺り)に行く。幸橋門(注 新橋第一ホテル辺り)に至れば、武家六騎門内に入り来る。

近寄りて見れば、その先駆者は知り合いの山岡鉄太郎なり。これに継ぐところの五騎は、いずれも裏金(うらきん)陣笠(じんがさ)、錦の筒袖、小袴の服装なり。とりわけ、その第二騎の金(きん)梨子地(なしじ)鞘(ざや)、金紋拵(こしらえ)の太刀を佩きたる風貌、すこぶる注目せらる。六騎徐々馬を駆りて西丸を指して行く。予、路傍に立ち、目送これを久しうす。

後に知る。これ、徳川慶喜公。六日夜大坂天保山沖にて開陽艦に乗じて東帰し、遠州灘にて台風にあい、黒潮付近まで航して今暁浜館(注 浜離宮)に上陸し、今、鉄太郎に迎えられ江戸城に還入するものなることを。

しかしてその六騎なる者、曰く、先駆・出迎者山岡鉄太郎、これに継ぐところの五騎の第一、前京都守護職会津藩主松平肥後守容保。第二、前大将軍徳川内大臣慶喜公。第三、前所司代桑名藩主松平越中守定敬(さだあき)。第四、老中松山藩主板倉伊賀守勝(かつ)静(きよ)。第五、老中唐津藩主小笠原壱岐守長行(ながみち)なり。勝安房守義邦は、鉄太郎浜館に先発せしのち、西丸大手門外下乗橋に出て、ここに公一行を迎うという」

続けて同書に「武家治世の終焉に遭遇し、東帰して江戸城に入る前将軍と幕僚をこの目で見たことは、じつに千載一遇のことで、一人無限の感に打たれた」とある。

「徳川300年ホントの内幕話」の著者徳川宗(むね)英(ふさ)氏は、徳川御三卿(田安・一橋・清水家)の田安徳川家十一代当主にあたる。慶喜の後を継いだ徳川宗家十六代は田安家の家(いえ)達(さと)であり、その現一門当主である宗英氏は徳川家の内情に詳しい。

その徳川宗英氏が、鉄舟が慶喜護衛の第一駆者として記された、小野清なる仙台藩士の「徳川制度史料」を引用していることを事実と認識し、この前提に考えれば、幕末時において鉄舟は幕府内で相当知られた人物になっていたと判断できる上に、従来から言われている、上野・寛永寺に謹慎蟄居した慶喜公から、鉄舟が駿府行きを命じられた際、初めて慶喜公と接点が生じたという通説、これを覆すことになる非常に興味深いものである。

寛永寺の前すでに、浜離宮で慶喜公と対面していたことになる。

さて、禅修行に戻るが、願翁和尚は長徳寺から鎌倉建長寺、続いて慶応三年に京都南禅寺の住職として転じていたので、西郷との駿府会談時には特定の禅師を持たなかったが、明治に入って、三島の龍択寺星定和尚に参じる前、鉄舟は京都天竜寺の滴水和尚による、東京での座禅会に出席したことがあった。

ここで滴水和尚と称する逸話を紹介したい。

まだ宜(ぎ)牧(ぼく)という名であった岡山の曹源寺で修行していた雲水の頃、儀山(ぎざん)老師が風呂に入ったが熱すぎるので、宜牧にうめてくれるよう頼んだ。宜牧は手桶で水を入れ、手桶に余った水を何気なく地面に撒いた。その途端、儀山老師の叱責が飛んだ。

「その水を手桶に入れろ」

これに宜牧は参った。地面に滲みこんでしまった水は地上にない。以後、宜牧はこれを公案として受けとめ日夜考え続けた。ある日儀山老師が諭された。

「水一滴といえども、宇宙の命を宿している。水を使う用がすんだとしたら、何故に草木の根もとに撒かなかったのか。草木を思いやる心が欠けていたから叱ったのだ。頭で考えるな。頭でっかちになるのではない」

公案を頭で、知識から解こうとしていた宜牧に対する指導であった。この諭しを宜牧は真剣に受けとめ、以来、滴水と名を改め、一滴の水にも命を感じられるようになろうと修行した結果、天竜寺を任されるほどの名僧になった。

そのような逸話を聞いていたので、鉄舟は滴水和尚に一度会いたいと思い、座禅会に参加したのであった。滴水和尚は文政五年(1822)生まれであり、鉄舟より十四歳上である。

座禅会が終わって、鉄舟が長年引っかかっていることを訊ねた。それを「剣法と禅理」で次のように書いている。

「余、嘗て滴水に参じ禅理を聞く。先ず吾れ、剣法と禅理とを合せ、その揆一(きいち)(同じ)なる所を細論す」、つまり、剣法と禅理は一つのものでないかという考えを詳しく述べ、滴水和尚の見解を質した。

これに対し滴水和尚は次のように諭したと「剣法と禅理」にあるが、表現が堅苦しいので、読み砕いたもので紹介したい。

「貴公の言うことは正しい。しかし、自分の考えから遠慮なく批評すれば、現在の貴公は眼鏡を通して物を見ているようなものだ。たしかにレンズは透き通っているから、さほど視力を弱めることはない。しかし、もともと肉眼に何の欠点もない人は、どんなよいレンズであろうとも、普通物を見る時に使う必要がないばかりか、使うことが変則で、使わないのが自然だ。

現在の貴公は、このことを問題とするところまで進んできているので、もし眼鏡という障害物を取り去ることができるならば、たちまち望み通りの極致に到達できるに違いない。

まして貴公は、剣と禅との二つの道、ともに心境著しい人物である。眼鏡を無用と捨て去れば、いったん豁然(かつぜん)として大悟することができ、活殺自在神通(じんつう)無碍(むげ)という境地にいたるであろう。要するにただ無という一字につきる」

こうして滴水和尚は鉄舟を励まし、無の字に徹するよう求めた。

再び、鉄舟の求道が始まり、寝ても覚めても、滴水和尚の公案を解こうとした。

この滴水和尚、その指導が厳しいことで有名であった。鉄舟も見解を呈する時、答えようが悪いと拳骨で殴ることもしばしばであり、「おれの師匠」によると鉄舟も

「おれは滴水和尚の嗔(しん)拳(けん)で、厳師の有り難いことが、身に沁みた」

と語り、滴水和尚も

「鉄舟のような者は復(また)といない。わしが鉄舟に接した時は、一回一回命がけであった。わしは鉄舟のために反って磨かれた」

と称賛していたほどであった。

滴水和尚の厳しさを伝えるものとして、面白い事例が「おれの師匠」に書かれているので紹介したい。
鉄舟と同じく禅に熱心なのが、鳥尾小弥太である。

鳥尾小弥太(1847~1905)は長州出身、戊辰戦争では鳥尾隊を編成して各地を転戦し、数々の戦功をあげた。明治三年兵部省に出仕、陸軍少将兵学頭、軍務局長、大阪鎮台司令長官を経て中将、その後政治家となり枢密顧問官を務め、子爵に叙せられた人物である。

鳥尾は禅の修行をして、人に褒めそやされたので、いささか増上慢(ぞうじょうまん)になっていた。坐禅とは内省の学問であるから、人に褒められても自惚れてはいけないが、鳥尾はいい気になってしまい、一世の大居士のつもりで、師家を試そうとした。

ある日、鳥尾は滴水和尚を目白台の自邸に招待し、得意然として

「私に公案があるのですが、あなたひとつやってみませんか」

と和尚に問いかけた。滴水は鳥尾が自惚れているのを知っているから、こいつの鼻を折ってやれと思いつつ、鳥尾にあわせて、

「それはおもしろかろう。出してみなさい」

と言った。そこで鳥尾が口を開こうとすると、滴水は立ち上がって蹴飛ばした。

「何をする」

と怒って身を起こそうとすると、また蹴飛ばした。こうして蹴飛ばしを数回続けたので、鳥尾はとうとう縁側から転げ落ちてしまった。その状況を見ていた植木職人がびっくりし、

「や! 坊主が御前様を殺すぞ」

と、手に手に植木道具を持って駆けつけ、まず、鳥尾を助け起こし、次に滴水に打ってかかろうとした。

鳥尾はさすがに職人どもを抑え、座敷に上がり、滴水を座らせ、自分も威儀を正した。そこで滴水は懇々と諭した。

「お前なぞ、まだ禅の何たることもよく分かっていないのに、いっぱしの大家気取りになって、手製の公案なぞを振り回すなんて、とんだ心得違いだ。以後、慎め」

鳥尾は表面上これに服したが、腹の中では今の仕打ちが無念でたまらない。諭しを納得していない。
滴水と食事してから、一緒に庭に出て自慢の庭園を案内した。滴水は数寄を凝らした庭園に興味を持ち、いろいろ鳥尾と庭の話を交わしていると、コトンコトンと音がするので、滴水が鳥尾に

「ありゃ、何の音ですか」

と聞いた。この問いに鳥尾は喜んだ。自慢の庭園をさらに自画自賛すべく、

「あれは水車です。絶えず回っていますから、風流でよいのですが、あの音が座禅の邪魔をしていけません」

と我褒めするようにこぼした。滴水は鳥尾に対してすかさず言った。

「衆生 顚倒(てんとう)、己に迷って、物を逐う(おう)」

外物を追ったら、人間が卑しくなるという指摘である。さすがに鳥尾は禅を修行している。意味をすぐに理解した。黙って頭を下げるしかなかった。

重ね重ねの失敗に、鳥尾は以後、滴水に真剣に師事するようになった。

鉄舟でさえ引きずりまわし、ギュッと締め付ける滴水和尚だから、鳥尾程度では鯱(しゃちほこ)立ちしたって、足もとへも寄れたものでない、と「おれの師匠」にある。

もうひとつ禅師家について紹介したいものがある。

司馬遼太郎の「播磨灘物語」は黒田官兵衛を語ったものだが、その中で秀吉が備中高松城水攻めの最中、織田信長が本能寺の変によって倒れ、それを秘め伏せ毛利家と和睦を結ぶのであるが、毛利家を代表する交渉者は安国寺恵瓊(えけい)であった。

恵瓊は当代の高僧である。まだ四十の半ばの身ながら、京都の臨済宗本山東福寺の退耕庵の庵主であった。退耕庵の庵主といえばやがて東福寺の総帥となる地位であり、日本中の禅僧のなかでの序列は数人のうちの一人といっていい。その恵瓊について次のように司馬遼太郎が「播磨灘物語」で書き示している。

「安国寺恵瓊は、官兵衛と小六が出てくるのを待ちつつ、杯をかさねた。時も時だし、場所である。酒を出されても飲まないのが普通だが、恵瓊にはちょっと物事のけじめの厳格でないところがあり、なに酔わなければいいだろうとたかをくくってしまう。なまじいの禅をやった男のわるい癖である。

禅であるかぎり、悟りを開かねば田舎の一ヶ寺のあるじさえなれない。恵瓊もまた恵心のもとできびしく修行してやがて印可を得た。悟道に達したということになるが、一般に悟りというのはあるいは得ることができても、それを維持することが困難なように思える。生涯、それを維持するために精神を充実させつづける必要があるが、ふつうは、俗世間のおもしろおかしさのために、ただの人間以下にもどってしまうことが多い」

司馬遼太郎の指摘する通りではないかと思う。

では、鉄舟はどうであったのだろうか。まだまだ大悟までは厳しい修行が続くが、その姿を次回も続けたい。

(田中達也氏収集資料)
東京日日新聞が、戊辰戦争から60年経った昭和3年に『戊申物語』と題した連載を掲載しました。これは明治維新の動乱を経験した高村光雲たちからの聞き書きをもとに、当時の庶民感情などを紹介したものです。
東京日日新聞編『戊申物語』から引用します。
「…海上遠州灘でひどい暴風に遭って苦しみつつ、十一日開陽丸は浦賀へ入った。翌日将軍は金子二百両を出して小舟を雇い、これで浜御殿へ入り、ここで一先ず休憩。その日は青空ではあったがひどく寒い。将軍家は直ちに馬上江戸城へ向かった。勝安房守が御殿まで、次いで山岡鉄太郎が馬を飛ばして出迎えた。丁度巳の刻頃、つまり今の午前十時、立派な武士が六騎肥馬をつらねて芝口近く幸橋門へかかった。劈頭(へきとう)、駒の轡をしめて眼光炯々四辺をにらめ廻しつつ来るのが山岡鉄太郎。ついで第二騎、少しおくれて第三騎、錦の筒袖に、たっつけの袴、裏金の陣笠をかむり金梨地鞘に金紋拵えの太刀をはき、風貌おだやかな武家、また少しおくれて第四騎、第五騎、六騎とも実に立派なる武士ばかりであった。
…いずれも京都を落ち、淋しく江戸入りの人々であった。勝安房守はこの時はじめて伏見鳥羽の戦報を聞いた。なお詳細の説明を願ったが、すべて顔色土の如く、ただわずかに板倉伊賀守のみが、ぽつりぽつりとそれを語り得るにすぎなかった(目撃者、旧仙台藩士小野清翁)」
出所は同じ仙台藩士・小野清ですが、新聞連載の記事だけに当時は割と有名な出来事であったのではないかと思われます。
『徳川制度史料』の中で、小野清は、鉄舟と知り合いであったと書かれています。
これについても、『戊申物語』に記述があります。
その部分を引用します。
「…あさり河岸の桃井(もものい)道場士学館の先生は、春蔵直一の長男で、家芸の鏡新明知流(きょうしんめいちりゅう)よりは小野派の一刀流をよく使った(小野翁談)。左右八郎直雄(そうはちろうただお)、三十そこそこで丈六尺二寸の壮漢、講武所にも師範して元気のはち切れそうな剣客だった。この門人の上田右馬之允(うえだうまのすけ)というものがこの松田(注:料理屋)へ、よその子供をつれてある時御飯をたべに行った。何しろ一ぱいのお客、子供がうっかりして四人づれの武士の刀をちょっと蹴りつけた。飯を食って戻ろうとした四人づれが右馬之允の羽織の襟をつかんで「真剣勝負をしろ」といってきかない。先ほどからわび抜いていたところなので、右馬之允は相手にもせず、子供の手を引いて笑いながら大きなはしご段を下りて一足かけると「ヤッ!」といって四人一斉に鋭く斬り下ろした。ところが、右馬之允はよほど出来ていたと見えて、「ウム!」といって足を段にかけたまま斜めに振り返ると真先の一人を居合で払った。その武士は深胴をやられて梯子段をころがり落ちて死に、上田は血しぶきで真紅になった。
 残る三人は、子供をかばいながらまたたく間に斬り伏せてしまったが、息一つはずませてはいなかったということで、この人の帰る時は、松田の前は山のような人だかりであった。この斬り合いの様子をきいて、山岡鉄太郎なども門人を集めて、からだを斜めにして不利な立場にあり、斬り下ろされる瞬間にこれを払う型を教えたりして感心した(鉄舟長女、山岡松子刀自談)。同じく左右八郎の門弟だった小野清翁はこの「上田」を「細川」と記憶しているといっている」
つまり、小野清は鉄舟と同じく、小野派一刀流の門人だったということです。同じ道場に通っていた剣の仲間だったということでしょう。
これらのことから、慶喜は鉄舟とすでに面識があり、西郷との談判に鉄舟が推薦されたとき、慶喜の頭の中に鉄舟が具体的に思い描かれたため、素直に受け容れたのではないでしょうか

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2010年09月08日

修禅への道

 修禅への道
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

文久三年(1863)、鉄舟二十八歳、謹慎解け、浅利又七郎義明と立ち合いし完敗。直ちに弟子入り、以後、毎日のように浅利又七郎の許に出向き、稽古の日が続いた。
浅利又七郎を実際に見た人の話によると、晩年であったが、すらりとした痩躯で、巨躯とか、エネルギッシュというような感じは少しもなかったという。

浅利道場での稽古、浅利又七郎が木刀を下段に構え、ジリジリと攻めてくる。鉄舟は正眼に構え、又七郎の剣尖を抑え押し返そうとするが、少しも応ぜず、盤石の構えで、まるで面前に人無きがごとく、ヒタヒタと押してくる。

既に、浅利道場で鉄舟に敵う者は又七郎以外にはいない。それはすぐに明らかになった。だが、そのたった一人の敵手、又七郎に、鉄舟の豪気をもってしても、どうしても勝てない。又七郎の下段の構えを崩せず、一歩退き、二歩下がり、ついに羽目板まで追い込まれてしまう。

そこで、再び、立ち合いを所望、元の位置まで戻って木刀を構えるが、またもや同じことで、たちまち追い詰められてしまう。完全に気合負けである。

このようなことを四五回繰り返したあげく、ついに溜まりの畳の上に追い出され、仕切り戸の外まで追いやられ、ピシャリと杉戸を閉めて、又七郎は奥へ入ってしまうこともある。手も足も出ないとはこのことである。

昼の浅利道場での稽古を終え、日課としている夜の自宅で座禅、眼を閉じると、たちまちすぐさま又七郎がのしかかってくる。圧迫され、心が乱れどうしょうもない。そのことを明治十三年に記した「剣法と禅理」で次のように語っている。

「是より後、昼は諸人と試合をなし、夜は独り坐して其呼吸を精考す。眼を閉じて専念呼吸を凝(こら)し、想ひ浅利に対するの念に至れば、彼れ忽ち(たちま)余が剣の前に現はれ、恰も(あたか)山に対するが如し。真に当るべからざるものとす」

人は悩んだ時、相談する相手は、やはり信頼する人物になる。今まで鉄舟が最も敬愛した師は山岡静山、その弟で義兄となる高橋泥舟は隣家に住んでいて、静山亡き後の最も近しく親しい仲であり、何事も話せる。ある日、苦しい胸中を、正直に伝えてみた。

「義兄上、どうした訳でしょう」
「うーむ。鉄さんがそれほどになるのだから、浅利又七郎は大物だ」
「自分の何かが、欠けているのだと思っているのですが」
「剣の技を磨くだけでは無理かもしれない」
「剣の稽古だけではダメということですか」
「そう思う。心の修行で立ち合うしかないだろう」
「そうですか。そうか・・・。やはり修禅によって立ち向かうしかないのか」

鉄舟は頷き、なるほどと思い、今までの禅修行を思い起こし、剣に比べ、追究が甘く未だしだったこと、それが、又七郎の下段の構えを打ち崩せない理由だとすぐに飲み込む。こういうところが鉄舟という人物の素晴らしさである。気づきが素直で、問題解決に向かって決して逃げず、前向きに対応する。

 禅修行によって大悟に達した鉄舟の境地について、近代の名僧と名高い京都・天竜寺の滴(てき)水(すい)和尚は「鉄舟は別物じゃ」といい、同じく京都・相国寺の独(どく)園(おん)和尚も「ありゃ、一世や二世の人じゃない」といったくらいで、その境地は遠く褒貶(ほうへん)の域を超脱して、禅宗の師家という師家が誰でも鉄舟に敬意を払っていたという。(『おれの師匠』小倉鉄樹)

鉄舟が禅に取り組む気持ちになったのは、父親の小野朝右衛門からの教えにより、十三歳の時だったという。(『父母の教訓と剣と禅に志せし事』元治元年1864)

「苟(いやしくも)も斯道(しどう)(人の人たる道)を極めんと欲せば、形に武芸を講じ、心に禅理を修練すること第一の肝要なりと仰せられたり。故に余は爾後斯(こ)の二道に心を潜めんと欲するに至れり」

なお、大燈国師(大徳寺開山1282- 1337)の遺誡(ゆいかい)(訓戒を後人に遺すこと)を見て感心してからだという説もある。(『おれの師匠』)

 いずれにしても少年時代、禅に志し、始めて禅寺に参じたのは二十歳の頃、芝村(現・埼玉県川口市)長徳寺の願翁和尚であった。

 願翁和尚は早速「本来無一物」という公案を授け、つぎのように補足した。

「貴公は剣の達人だそうだが、試合の際、相手が凄まじい気魄と技でぐんぐんと迫ってきたら、どのような心境になるかな。多少でも気おくれしたり、恐怖心がおき、動揺するようではダメじゃな。もしこの本来無一物ということが、本当に体得できれば、たとえ白刃が迫ってきても、動ずることなく、冷静に、あたかも平らな道を歩くように平気でいられるであろう」

 このように言われても、まだ、二十歳の青年剣士である。すぐさま本来無一物の境地なぞになれるものでない。無とは何か。この根本問題を問い、それを体得し理解するのは相当に難しい。

しかし、その難しい「本来無一物」を求めて、毎日、昼は浅利道場で稽古、夜は自宅に坐して思量を深め、思うところあれば願翁和尚の許に参じ、疑問を願翁膝下に質すこと、これを約十年間一日も倦むことなく続けたが、どうしても霧の中にあって、向こう側がはっきり見えない。

「一進一迷、一退一惑、口これを状すべからざるものあり」と述懐している。(『父母の教訓と剣と禅に志せし事』)

鉄舟とは恐ろしき人物だと思う。二十歳で禅寺に参じ、修行を志す人は多々例があるだろう。だが、禅僧に師事、授けられた公案を十年間一日も倦むことなく続けるということ、そのようなことをできるのは、よほどバカでなければできない。

鉄舟は自らを「鈍根」と称している。が、この称する通りに徹することは至難であろう。正に「鈍根」という自らの特性を貫かせたことが、バカを別物にしたと思う。

先日、比叡山、高野山、大峰山で千二百日の荒行体験を重ねた、経営コンサルタントの方からお話を聞く機会があった。

山奥に入って、一人、雪降るなか、大きな岩に向かって座禅を続ける。肩に膝に雪が積もってくる。それでも朝から夕方まで座り続ける。何日も続けたある日、自分が岩の背後に聳え立つ杉の大木に乗り移っていることに気づいた。そこで、杉の大木に向かって、つまり、自分に向かって問いかけた。このような苦しいことをする意味は何か。もうそろそろ解答を示してほしいと。

そうすると、杉の中にいる自分がひとこと答えた。それは「想魂錬磨」だと。

これが千二百日の荒行体験を続けた結論だったという。想いを磨き、魂を磨くこと。想いがすべてで、想いが定まったら練り磨くしかない。

想いが実現しないのは、磨き方、練り方が不足しているからだ。本当に想い磨き練れば、何事もできるし、達成できる。

以後、この解答で、経営コンサルタント業務を進めているという。これになるほどと思い、鉄舟はこれなのだと理解した。

道を定めたら、道に迷わず、道を外さず、道を求めて、道を極める、これを鉄舟は実行し続けたのだ。
ところが、このように日々修行し続けても、相変わらず「愈々(いよいよ)修むれば、愈々迷う」という状態で、暗闇からなかなか抜け出すことができなかった。

宮内省に出仕するようになった頃になって、三島の龍択寺に参禅し、星(せい)定(じょう)和尚についた。この三島の龍択寺通いは有名な話である。

当時、宮内省は一と六がつく日が休みだった。そこで十と五の日に夕食をすますと、握り飯を腰に下げて、草鞋(わらじ)がけで歩いて行った。(『おれの師匠』)

この話を普通の人は嘘だと思うだろう。東京から三島まで三十余里(約120㎞)、途中に箱根越えがある。龍択寺で参禅が終わると、休息する間もなく、また、東京へ引き返す。こんなに歩けるわけがないと、一般の人々は思うだろう。

しかし、鉄舟は実際に歩いた。鉄舟の健脚は有名で大変なものだった。このようなエピソードがある。参禅の帰途、夜になって山道を歩いていると、雲助が十四、五人、焚き火を囲んで暖をとっている。明治初年であるからまだ山道は物騒だが、修行に張り切っている鉄舟には夜も昼もなく、泊まれという宿屋の主人を振り切って山に入ったのだ。

雲助を避けて通るのも返って危ないと思い、「タバコの火を貸してもらいたい」と焚き火に近づいた。

「さあ、おあんがなさい」

というので、一服して暖をとり、立ち去ろうとすると、

「旦那、夜、箱根山を越すからには、ここの掟をご存じでしょうね」

一人がドスをきかせた。

「ああ、よく存じておる。ここはお前たちの縄張りだが、この山道でわしに追いついたら望み通り何でも進上しよう」

言うや、スタコラ駈け出した。三四人立ちあがって追いかけてきたが、足の速い鉄舟には追いつくことができなかった。

龍択寺には三年通った。

龍択寺に着くと、すぐに星定和尚の部屋に入って見解(けんげ)を呈する。この当時の心境を「自分の誠心が足りないためか、それほどまでにやっても、まだ豁然(かつぜん)たるところまで至らない。けれども十年一日の如く怠りなくやってきたので、十年の昔に比べれば、その上達は幾倍といってもよいくらいだ」(『父母の教訓と剣と禅に志せし事』)と述懐しているが、ある日、星定和尚が初めて鉄舟に「よし」と許した。

だが、鉄舟はとんと「よし」とは思わない。内心「なんだ、つまらぬ。こんなことでよいなら、三年通ってバカをみた」と、辞去して箱根に差しかかると、山の端からぬっと富士山が現れた。

この一瞬「はっ」、豁然として悟るところがあった。機縁というのは妙なものだ。何かの時に悟りがくる。
喜びの余り、鉄舟は直ちに踝(くびす)を廻(めぐ)らして、星定和尚のもとに走り戻った。

和尚は鉄舟の姿を見ると、にこにこして
「今日は、お前が、間違いなく、帰ってくるだろうと、待っていた」と言った。和尚には鉄舟の心機一転悟りの様子が分かっていたのだ。

その悟りの境地を鉄舟は次のように詠んだ。

「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿は かはらざりけり」

この詠みは、鉄舟がよく富士山を描く自画像に書いている。

この当時、鉄舟に対して「あいつは徳川の直参だったのに、今は踝を返して宮中に仕えている。かつては忠節の鉄舟と言われたはずだ。節操がない野郎だ」という陰口を叩く声があった。

人からの蔭口は無視しているものの、鉄舟も人の子、やはり心を曇らせていたが、富士のお山はどうなのか。晴れた日も、曇った日も、変わることなく爽やかに気高く聳えている。それに対して、人は自分の都合に合わせて、雨の富士はよくねぇ、霧の中では見えねぇ、なぞと勝手にぼやいている。

富士山はいつも変わらないのに、見る人の心のあり様でお山に対する評価を変えている。そう思った瞬間、悟りの境地に達したのであった。

こうして大道を会得した鉄舟は、このあと、天竜寺の滴水和尚、相国寺の独園和尚、円覚寺の洪(こう)川(せん)和尚らについて仕上げをめざした。

独園和尚に会った時、若気の至りで、鉄舟は「本来空」のおのれの禅哲学をとうとうと弁じたという。黙ってしゃべらしていた独園和尚は、ぷかぷか煙管(きせる)をくゆらせていたが、その煙管をちょっと取り直すと、いきなり鉄舟の頭を打った。

「何なさる」

憤然とする鉄舟に、独園和尚はただ一言、

「無という奴はよく怒るもんじゃな」と言った。

以来、鉄舟は独園和尚についた。

小石川鷹匠町(現・小石川五丁目)時代の鉄舟、毎夜自宅で二時頃まで座禅していた。貧乏であるから、家はひどく、壁や天井は破れ放題、畳は家中で三枚しかなく、鉄舟が座っている畳はすり切れて、シンが出ているという有様だった。

その上、生来の殺生嫌いのため、鼠が昼夜の別なく大っぴらに出てくる。だが、不思議に鉄舟が座りだすと、鼠が一匹も出てこなくなる。英子夫人がそのことを指摘すると

「おれの座禅は鼠の案山子だなぁ」

と笑ったという。これは事実であり、鉄舟の禅は本物に向かいつつある証明であった。

次回も鉄舟の禅修行が続く。

投稿者 Master : 08:06 | コメント (0)

2010年08月20日

大きな壁

山岡鉄舟 大きな壁
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

「下駄はビッコで 着物はボロで 心錦の山岡鉄舟」

時は明治の中ごろ、往来で女の子たちが鉄舟を謳う手まり歌で遊んでいる。
今は子供が戸外で遊ぶことが少なくなったが、戦前までは路地で手まり歌を歌いながらまりをつく少女の姿が見られたものだ。手まりは、当初は、芯にぜんまい綿などを巻き、弾性の高い球体を作り、それを美しい糸で幾何学的に巻いて作られた江戸時代からの玩具。
これが明治の中期頃からゴムが安価になり、よく弾むゴムまりがおもちゃとして普及し、正月だけでなく通年の遊びとなっていた。

その手まり歌に鉄舟が登場したという意味は、鉄舟の人気が民衆の間で、いかに高かったということを証明するものであり、多分、時期は明治十五年(一八八二)、宮内省を辞し、翌年、邸内に春風館道場を開いた四十六・七歳ころであろう。

この当時、赤坂離宮に仮皇居が置かれていた。明治六年五月五日の火事により皇居は丸焼けになったことから移転し、鉄舟邸から仮皇居は至近距離であった。

鉄舟邸について「今の赤坂離宮のあるところが舊紀州家の屋敷跡、其の横の大きな榎のある所に、明治七八年頃から師匠の邸があった。紀州家の家老の家なので宏大なものであった」(『おれの師匠』小倉鉄樹)とあるように、鉄舟の屋敷は四ツ谷仲町3丁目、今の学習院初等科のある新宿区若葉一丁目あたりである。
 
さて、文久三年(一八六三)十二月、鉄舟は謹慎宥免となった。二十八歳。八ヶ月間の謹慎中を、鉄舟はわが身の修行と受け止め、自らの奥底を訪ねる旅を送ってみて、改めて分かったことは「自分の道は剣だ」ということへの再確認と、それを続けてきた今までの生き方への得心であった。

顧みれば以前、槍の山岡静山に師事し、ひととき槍術を志した頃にも、確認したことがあった。
「おれはな、御隠居(高橋義左衛門)にも紀一郎(山岡静山)どのにもいわれたのだ。お前はずいぶん稽古するが槍よりは先ず剣をやれ、槍はやっても免許から奥にはすすめんとな。はっはっ、その通りだ、その言葉をおれがこの頃井上先生(井上清虎)から血嘔吐を出す程にひっぱたかれてな、やっと解りかけて来ているんだ。凡そ武芸は技ではねえ、だから稽古だけではどうすることも出来ねえものがあるんだ。おれは今になってはじめて剣を遣うのが面白くなってきた」(『逃げ水』子母澤寛)

 この鉄舟の語りは、自分の無意識にあるもやもやとしたものに、はっきりとした輪郭を与えられたことを示している。静山という稀有の槍の名人に出会うことによって、槍への限界能力を悟らされ、もともと潜在的に剣に志向していたのだと、改めて思い知らされ、目覚めさせてくれ、それ以来一直線に剣に励んできた。

改めて、これを謹慎によって確認できたタイミングに、またもや高山以来の師である井上清虎が、鉄舟の生涯を決めた剣客と会わせてくれた。小野派一刀流の浅利又七郎であり、立ち合って静山以来の惨敗を喫することになった。

井上清虎が最初に導いてくれたのは山岡静山であった。安政二年(一八五五)鉄舟二十歳、すでに千葉周作の玄武館道場において、鉄舟と五分で立ち合える者がいないという状態になって、鉄舟に驕慢な感じが表れ、自信が態度に表れ、それを嗅ぎ取った井上が、静山と立ち合わせてくれた。

静山に竹刀を構えたものの、足が一歩も出なく、間合いが詰められず、身動きできず、逆に、たんぽ槍の穂先が真槍の鋭さをもって、にじりじりと迫り、とうとう背中が道場の羽目板につくところまで圧された。何んとか打開したいと「エイー」と諸手突きを、静山の喉元めがけ打ち込んだ。

その瞬間、息が止まった。体が反転した。自分の体がどうなったか分からない。気がつくと道場の床に這いつくばっていた。しかし、必死に立ち上がり、低い姿勢から静山に向って体当たりしようとした瞬間、再び、穂先が喉元に突き刺さった。どうしようもできない速さの突き。巨体がのぞけり、どうと倒れ、道場内に大きく響き渡った。

「参りました」意識が朦朧で、喉を突かれ、声にならない声で、両膝を折った。完膚無き負け。敗北感が全身をおおった。

それまでこのような徹底的な敗北感、その感覚を味わったことはなかった。九歳のときに真影流久須美閑適斎の道場で剣術を習い始め、高山に移ってから井上に師事し、江戸に戻って玄武館道場に入門し、すぐに鬼鉄と称される腕前になっている。その自信が完全にたたき落とされた。

この立ち合いによって、静山に傾倒・心酔し、結果として静山亡きあと山岡家の養子となったのであった。

この静山以来の惨敗を喫した人物が、小野派一刀流の浅利又七郎であり、鉄舟が長い年月目標とした人物である。

さて、その浅利又七郎とはどのような剣客であったのか。
浅利又七郎には二代あって、初代は浅利又七郎義信、次代が又七郎義明であり、この二代目の義明が鉄舟の前に大きな壁として立ちはだかったのである。

初代の義信から述べたいが、この浅利又七郎を調べてみて、鉄舟に関する書籍・資料に必ず登場する重要な人物であるのに、意外に研究がなされていない。初代義信は、若狭小浜藩酒井家に仕えたので、先日、福井県小浜市の教育委員会・文化遺産活用課に伺い、小浜市のパンフレットに掲載されている「剣豪・浅利又七郎」について説明を受けようとしたが、学芸員と思える若い担当者があらわれ、詳しい資料はない、このパンフレットに記載されている以外のことは分からないということ。

そこで、国会図書館などでいろいろ調べてみたが、確かに明確に書かれた資料は少ない。しかし、いくつかの資料を検討していくと、次の通り分かってきた。因みに、小浜市のパンフレットは重大な誤りがあり指摘した。

初代浅利又七郎義信は、安永七年(一七七八)下総松戸宿の農家に生まれ、少年時代は又七といい、家が貧しかったので、毎日のように江戸に出て、浅蜊を売って生計を立てていた。その帰途、下谷練塀町(今のJR秋葉原駅近く)の中西忠兵衛道場に立ち寄り、剣術の稽古を見るのを楽しみにしていた。

そのような光景を見ていた三代目中西忠兵衛子啓が内弟子にした。又七はみるみるうちに腕を上げ、並いる先輩剣士たちを追い越して、中西道場の高弟にのしあがり、若狭小浜藩酒井家江戸屋敷詰師範として任じられ、その際に、初心忘れるべからずと、浅蜊の虫偏を取って、浅利又七郎義信を名乗ったという。

しかし、もうひとつ説があって、又七郎は浅蜊屋の息子として生まれたが、浅蜊屋を嫌って紺屋の奉公に行き、この頃から剣術に熱心となり、剣術が道楽の米問屋を営む糠屋の手代に代わり、主人の相手をしながら腕を上げ、主人の計らいで江戸の中西道場に入門したという。どうもこちらの方が信憑性あるらしい。

なお、この初代義信はかの北辰一刀流・千葉周作と深い関係がある。幕末当時、江戸で有名な剣術道場としては、北辰一刀流・千葉周作の玄武館、鏡新明智流・桃井春蔵の士学館、神道無念流・斎藤弥九朗の練兵館、この三道場を称して江戸三大道場と称し「位は桃井、力は斎藤、技は千葉」と評されていた。

千葉周作は奥州出身で、父に連れられて江戸に向かう途中、松戸に住みつき、浅利又七郎義信の道場に入門し剣を修行し、気に入られて義信の姪と結婚し、夫婦養子となったが、組太刀について独創の組型を案出し、それに反対する義信と意見が衝突し、親子の義を絶って、江戸で新たに北辰一刀流・玄武館道場を開き大成功した。

剣法に「守・破・離」ということがある。「守」はまもる(・・・)で、その流派の極意を守ること。「破」はやぶる(・・・)で、必ずしも極意になじまず、定法を一段破って修行すること。「離」ははなれる(・・・・)で、破よりさらに一段も二段も立ち勝った、新境地に達するをいう。

すなわち、未熟は守り、連熟は破り、新境地は当然離れることで、周作は工夫熱心で独創の組型を案出したのだが、古法を守る義父に反対され、別れ江戸に向かったのである。

だが、これを浅利家側の話によると、周作はいかにも才物で、あらゆる方面に如才なく、養父の妾まで籠絡したので、浅利家を不縁になり、中西道場からも破門された。そこで江戸に出て、奥州生まれであり、千葉家の守り本尊が北辰妙見であることから、新たに北辰一刀流と名付けたとのこと。

何れが真実かは分からないが、周作の玄武館は、簡易な言葉を使い、合理的な練習法を編み出し、それまで八段階に定められていた一刀流の修行段階を初目録、中目録、大目録の三段階に簡略化するなどの工夫をしたので「他流では目録を取るまで三年かかるところを、北辰一刀流では一年でもらえる」と評判になり、多くの門弟を獲得し、当時、門人三千余人といわれたことから敷衍して考えれば、組太刀の見解相違が真実ではないだろうか。

 なお、鉄舟は千葉周作の玄武館道場で修行し、周作の後に浅利家の養子となった二代義明に負けたことから、後日詳述するが大悟に達することができ、明治中期「民衆に最も高き人気」という存在になれたのであるから、初代義信と周作の別れが鉄舟人生につながっている。人との因縁は分からないものである。

義信は嘉永六年(一八五三)七六歳で死去したが、千葉周作を離縁した後、四代目中西忠兵衛子正の次男を養子とし、二代目浅利又七郎義明とした。鉄舟と立ち合った当時、義明は四十二歳の男盛りであった。

義明の試合ぶりというのは変わっていることで有名であった。じっと竹刀を構えていて、相手の隙を見つけると、静かに

「拙者の勝ちですな」
と言う。できる相手は、大抵、その時に頭を下げる。

しかし、相手が「何を、バカな」と反発すると、容赦なく打ち込み、突きを入れてくる。
鉄舟も突きが得意技である。鉄舟と義明の立ち合いは、少し違った形をとった。
義明が下段につけて構えた。鉄舟は正眼に構え、得意の突きで打ち込もうとした、その瞬間、義明の竹刀の先がさっと上り、鉄舟の喉元に向けられ、その形のままに、義明は、
「突き・・・」
と言った。

実際に突きを受けたわけでない。だが、鉄舟は一歩も前に出られなくなっていた。喉元に竹刀が食らいついていて、切っ先を外そうと右に回ると、右についてくる。左に避ければ左についてくる。後ろに退くと、またもぴったりついてくる。

いつの間にか、じりじりと押され、羽目板まで追い込まれ、押し返すことができない。
「参った」
鉄舟が叫んだ。

面当てを取ると、実際には竹刀が全く当たっていないのに、喉首が激しい突きを喰ったかのように痛む。
これは、到底、自分なぞが敵う相手でない。二十歳で山岡静山に完膚なき敗北を期して以来の完敗である。上には上があるものだ。鉄舟は完全に頭を下げ、

「弟子にしていただきたく、入門をお許し願います」
と、浅利道場に通うことになったが、このことを明治十三年に記した「剣法と禅理」で次のように述べている。

「果して世上流行する所の剣術と大に其趣きを異にするものあり。外柔にして内剛なり。精神を呼吸に凝(こら)し*、勝機を未撃(いまだうたざる)*に知る。真に明眼の達人と云ふ可し。

是より試合をするごとに遠く其不及(そのおよばざる)*を知る。爾後修業不怠(おこたらず)*と雖も、浅利に可勝(かつべき)*の方法あらざるなり」

以後、鉄舟は、浅利又七郎と立ち合うたびに、遠く及ばざるを確認するだけの日々が続き、浅利が大きな壁として聳え立ち、それを克服するために次の修行段階に入ることになる。

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2010年07月10日

山岡鉄舟 謹慎解ける

山岡鉄舟研究 謹慎解ける
  山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

鉄舟の謹慎の日々は続いた。

本当は木刀・竹刀を構え、道場で稽古するように、庭で素振りをしたいところだが、それは許されない。一室に座るのみしかない。したがって、座る目の前には書見台があるだけ。そういう環境に陥ってみると、その書見台が自分の稽古相手であって、それに集中でき、没頭できる新しい自分を発見でき、今までとは異なる自分に気づく。

振り返ってみると、今までの剣に対する道は、若き時から、厠の中でも、寝床の中でも、相手を想定し、工夫が浮かぶと、飛び出し、飛び起き、試してみる。さらに、道を歩いていても、傍らの建物から竹刀の音が少しでもすると、すぐに飛び込んで行き、稽古を所望するという剣一筋の毎日だった。

また、高山から江戸に戻って入門した玄武館は、江戸随一の人気道場であり、優れた剣客も多く、例えば、水戸藩に高禄で抱えられた高弟海保帆平、新撰組の藤堂平助や山南敬助、盟友となった清河八郎等がいて、稽古相手には不自由しなかったので、思う存分に修行でき、メキメキと腕を上げ「鬼鉄」と称されるまでになった。

しかし、今はそのような稽古はできず、書見台と向き合うのみだ。書見台上には上古時代からの刀剣の歴史、江戸時代以前の古流剣法から続く諸流派教本、甲陽軍鑑などの軍学書、孫子兵法等の兵書、佐藤一斎の言志四録などの学識書、王羲之の十七帖等の書法帖など、明るいうちは書見台に向かい、暗くなると坐禅に入る。

このように世間と切り離された日々を送ってみると、今までに無き経験だが、自分自身の内部により深く入っていけるような気がしてならない。これまでの人生でも、思考することになるべく時間を取ってきたつもりだったが、それは生活の中心に剣という存在をおき、その合間に取り入れたものであった。

しかし、今は違う。静思することしかできないのである。異なる環境下になってみてわかったのだが、改めて自分とは何者なのか、自分の奥底には何が存在しているのだろうか、つまり、自分探しの旅をしているような気がしてならず、これまでとは違う感覚に浸ることができた。

謹慎の日々、正式には一切の来訪者は認められないが、裏門からの内密の出入りは大目に見られている。日が経つにつれ、裏門からそっと訪ねて来る者が増え、それらの人々が、次々と起きる時代の変革をもたらしてくれる。

陽の光が強くなり、若葉が濃く茂る頃が過ぎ、梅雨がやって来たある日、鉄舟のすぐ下の弟、旗本酒井家に養子に出した金五郎が息せき切って飛び込んできた。謹慎していることも忘れたかのように、激しく入って来て

「兄上!!」
と大きな声を発した。金五郎は玄武館道場の若手の中では、相当な遣い手になっていて、体つきも兄に似て立派になってきている。
「何だ、慌ただしいぞ」
と静かに書見台から眼を放して金五郎を見つめた。
「兄上、やりましたよ、長州が」
「何を」
「攘夷ですよ、この十日、下関で外国船を砲撃して追っ払ったのです」
「うーん、そうか、五月十日が攘夷実行の日だったな・・・」

文久三年五月十日(乙卯)は太陽暦で1863年 6月 25日にあたり梅雨時であった。

この攘夷期限、これは将軍家茂が朝廷から「一体いつから攘夷をやるのか、はっきりその期日を誓え」と攻めに責めたてられ、とうとう苦し紛れに「五月十日」と言上した日限であったが、その日に横浜から長崎を経て上海に行く途中の米国商船を、さらに、二週間ほどして仏通信艦を、その三日後に蘭軍艦を砲撃し、オランダ側は死者と重傷者を出す被害を受け、長州藩は大いに気勢を上げた。

なお、この商船と通信艦への砲撃は、当時の近代国際法に違反しており、弁護できない行為であったという見解があることを付言しておきたい。(井上勝生著「幕末維新」)

だが、長州藩の優勢は、これが最後であった。六月一日、横浜から下関に向かった米海軍が、下関海峡で長州藩の軍艦二隻を撃沈させ、四日後の五日には、仏軍艦が陸戦隊を上陸させ、砲台を占拠し破壊させた。

七月二日には、英艦隊が鹿児島湾で薩摩藩と戦った、いわゆる薩英戦争が勃発した。鹿児島市街が焼失被害を受け、イギリス側も多数の死傷者が出て、二日後に鹿児島湾を去って行った。
このような薩摩藩と長州藩による外国との戦争行為は、結局、内外に幕府の統制が利かなくなっていることを示すことになった。

金五郎の情報はまだ続く。京都では薩摩と長州の主導権争いが深刻化、薩摩が会津と組んで長州を京都から追い出した八月十八日の政変によって、朝廷内では公武合体派が再び勢力を握り、公家の急進派の一部は大和で天誅組として挙兵したが失敗。これに参加していた藤本鉄石が戦死した。この藤本とは、清河八郎も少年時代教えを受け、鉄舟も高山から伊勢神宮参りへ向かった道中で教えを受けた人物であった。

さらに、新撰組隊長の芹沢鴨が暗殺され、近藤勇が隊長になったことも、鉄舟と関係があっただけに感慨深き事件であった。

ここで翌年の元治元年(1864)にも少し触れたい。六月には京都河原町三条の旅館池田屋に集まった約30名の尊王攘夷激派を新撰組が襲撃し、多数の死傷者が出た。

池田屋事件に反発した長州藩の尊王攘夷派は、奇兵隊に続いて武士と庶民混成で結成された遊撃隊などを率いて上京する。

七月、御所外郭西側の蛤門で長州藩と薩摩藩、会津藩が戦い、慶喜が戦場で指揮をとった。この蛤御門の変(禁門の変)で、長州藩が撃退された。この時、二万八千軒が焼失し、下京の町々はほとんど全焼「鉄砲焼け」が後代まで語られることになった。

また、この蛤御門の変の半月後である八月五日、前年に下関海峡で欧米諸国に攘夷砲撃をした長州藩に対して「いかなる妨害を排除しても、条約を励行し、通商を続行する」という欧米の決意を示すために、英・仏・蘭・米の四カ国の軍艦十七隻、砲二百八十八門、兵員五千名余の大艦隊が、周防灘から英艦隊の最新鋭アームストロング砲百十ポンド巨砲によって、四キロ以上離れた長州藩の砲台を正確に命中させた。

さらに、上陸した陸戦隊は、奇兵隊が中心の長州藩諸隊と、激しい銃撃戦で戦ったが、奇兵隊はゲベール銃、対する四カ国軍は新鋭のミニエー銃(ライフル銃)で、命中率、威力とも問題にならない差があり、砲台のすべてを占拠された長州藩の完敗に終わり、ほとんどが旧式の青銅製カノン砲であった長州藩の大砲は捕獲され持ち去られた。

この戦争で、仏艦隊に捕獲されたものが、現在、パリのセーヌ河畔のナポレオンの墓所として有名な、アンヴァリット(廃兵院)に展示されていることと、このうちの一門が下関市立長府博物館に戻っていることを二〇〇八年十月号で以下のようにお伝えした。

「山口県が長州砲の返還をしばしばフランス政府に交渉したが、世界各国とも戦利品を敗戦国に返した事例はなく難航。そこで直木賞作家の古川薫氏が、昭和五八年(1983)当時の安倍晋太郎外務大臣に働きかけ、ようやく長府毛利家に伝わる紫(むらさき)糸(いと)威(おどし)鎧(よろい)をアンヴァリットに貸与して、相互貸与という形で天保一五年(1844)製の長州砲一門が、昭和五九年(1984)に戻った。

この里帰りの経緯については、古川薫氏の『わが長州砲流離譚(りゅうりたん)』に詳しく記されている。だが、同書によれば、アンヴァリットにはまだ二門の長州砲が残されていると書かれ、そのうちの一門の行方が不明で心配だ、ということも記されている。そこで、古川氏に連絡を取って、筆者が再度現地に行き、確認してくることになった」

今年の三月三十日、アンヴァリットの学芸員とようやく連絡がとれ、現地で長州砲を再確認してみた。一門は門を入ってすぐの庭に展示されている。これは古川氏も分かっている。問題はもう一門である。まだ若き長身の学芸員が、もうひとつ日本の大砲があると言い、建物の中に入って二階の通路に案内してくれたが、そこにあった大砲は1876年製という明治維新(1868)の8年後である。記録を見るとカサゴンという人物の手を経て入手とあると言う。確かに漢字で「百目玉」とは書いてあるが、長州砲ではなく、発射する装置の部分が破損欠けている。

これは長州砲でないと言うと「もう他にはない」と断言する。ご存じのとおりこういう時のフランス人は強硬である。シラクやサルコジ大統領の外交を見ればわかる。しかし、ここで引き下がっては折角のアンヴァリット訪問目的が達しない。ねばりに粘る。古川氏から受けた手紙と写真、それと昭和五九年の山口新聞記事などを使って何回も説明し、どこかにあるはずだとしつこく追及する。

こちらの剣幕にとうとう学芸員は考え込み始め、では、一緒に館内を探してみようと歩きはじめる。多分、普通の展示場ではないだろうと推測し、倉庫や鍵の掛っていて入れない場所を回って歩いたうちの一か所、ここは軍関係の管理地だから入れないというところ、そこの鍵がかかっている柵の間から覗くと、遠くに長州砲らしきものが見える。これだと叫ぶと、学芸員は慌てて事務所に鍵を借りに行く。ここには自分も入れないところだと言いながら。

鍵が来て開けて入り、走りたい気持ちを抑えつつ大砲のところに行くと、嘉永七年の文字が見える。やはりあったのだ。学芸員もびっくり。知らなかったのだ。アンヴァリットには九百門の大砲があるというが、その記録に欠けていたのだ。

早速に記録化を依頼すると、この「砲身の文字は何と書いてあって、どういう意味だ」という質問を受ける。長州砲に彫られた文字は薄れて判読が難しい。日本に戻ったら古川氏に確認して連絡すると約束しアンヴァリットを失礼した。

後日、古川氏から連絡受け送付したものが「十八封度礮(ぽんどほう)嘉永七歳次甲(きのえ)寅(とら)季春 於江戸葛飾別墅鋳之(べつしょにおいてこれをいる)」である。

十八封度礮とは、大砲の弾の重さであり、約8.2キログラムで、葛飾別墅とは現在の東京都江東区南砂二丁目付近に存在した、当時の長門萩藩(長州藩)松平大膳大夫(毛利家)の屋敷を指し、佐久間象山の指導のもと、屋敷内で大砲の鋳造を行ったのである。

今回の調査証明のため、長州砲を囲んで学芸員と写真を撮り、古川氏に報告できほっとしたところである。

話は鉄舟謹慎に戻る。

謹慎後七か月経過した文久三年十一月十五日の夕刻、突然、火の見櫓の警鐘が乱打された。泥舟と鉄舟は二人揃って、高橋宅の二階に上がって見ると、江戸城の方向が真っ赤に燃えている。これは大変だ。お城が火事だ。二人は眼を合わせた。どうするか。お互い謹慎の身で、屋敷から一歩も外に出られない身である。だが、二人が同時に叫んだ。「駆けつけるぞ」と。

この当時、幕臣が最も恐れたのは、かつて慶安の昔にあった由比正雪一党の、江戸城の内外に火を放ち、城を乗っ取るという策謀であった。幕末時は特に攘夷運動の激化で危険を感じていたのである。
二人が支度していると、松岡万や高橋道場の門弟たちがやってきた。いずれも「こんな時こそ、禄米を受けているご奉公だ。謹慎中でも黙って座視できないだろう。お咎めは覚悟の上で、市中取締りのために出動するはずだ」と、期せずして、同じ考えを持って駆け付けたのである。

この時の状況を泥舟が次のように述べている。(参考:泥舟遺稿)

「この夜の装束は、下に白無垢を重ね、上には黒羽二重の小袖、黒羅紗の火事羽織を被り、黄緞子の古袴で、栗毛の馬にまたがった。鉄舟は、三尺の大刀を佩(お)び、槍を持ち、馬の左に、松岡は長巻をたずさえて、馬の右に付き添った。いずれも幽閉のためあごひげと髪の毛が茫々で鐘馗(しょうき)のようだ。
一行はまず、寄合肝煎(よりあいきもいり)*の禄高五千石の佐藤兵庫邸に行き、兵庫に面会するや言い放った。『我らは今日、お城の炎上只事ならず、君上の大事にも及ぶべしと心得、幽閉の禁を犯して君上を警衛せんと欲して、あえて出馬つかまった。しかれどもわれ、ほしいままにこれをなさば、肝煎の役柄に対してお咎めあらんかと存じまして、一応、お断りに来るなり。しかしてわれは今日、禁を犯せる上は、直ちに割腹の命あるものと心得、その仕度も調えてきたり。我が禁を犯せし義は、もとより肝煎の落ち度でなく、まったくのわれの所為なれば、よろしくこの意を言上あられたし』

これに対し、兵庫はしばし黙然としてわれの顔を見ていたが、ハラハラと涙を流して言った。『今に始めぬ貴下の誠忠、まことに感ずるに余りある。さりながら貴下の身、もし大事におよばば君上も股肱(ここう)の忠臣を失わることになる。貴下、今日のことはこれを思い止まりて、邸内に帰り謹慎せられよ。忠を尽くすは今日に限らぬであろう。予は、不肖ながら貴下の御為悪しくは取り計らいもうさぬぞ』

われは応じた『もっともの事なり。君上に尽くすは今日にも限るまじ。未来無限の日月あるべし。さりながら老少不定の世のならい、又という日は期すべからず。いわんやわれ既に心を決し来たれり。今生きて還るの心なし。後日の事を論ずるに暇(いとま)*あらんや』と突き放し、門外に出るや、馬に乗ってお城を目指した。

この一隊がお城の周りを何回も見回った。その異風の装束を見て、その場にいた人々が驚愕した。火の手は午後十時になって、ようやく収まった。ホッとして大手前の酒井雅楽頭(うたのかみ)の番所に暫時休憩を申し出たが、この番所は江戸市中で最も厳しき所だが、われらの威勢を恐れて何も言わなかった。

鎮火し夜も明けたころ、われらは引き上げたが、帰途、一橋門に差しかかると、講武所奉行の沢左近将監の一隊に出会った。左近はわれらを見て、馬を進めてきた。われらも馬を進め、双方が止まり、左近は大音声をあげ『勢州(当時われは伊勢守のためこのように呼ばれていた)、貴殿、いまお城を警衛して帰邸せらるると覚ゆるぞ。よくこそ禁を犯してこの挙におよばれた。われ、これを知らずして曩(さき)に貴下を罵ったのが悔しいぞ。幽閉の身であるのに、かかる火災時に、君上を警衛するとは、さすがに忠臣と聞こえたる勢州じゃ』と大いに讃嘆された。

われは答えた『われ君上のためには、すでに身を犠牲に供したり。今日は殊に幽閉の禁を犯し、この挙に及びたれば、何時、割腹を命ぜられんも期しがたしと心得、予めその仕度して出馬せしなり。しかるに未だその命に接せざれば、かく帰邸の道につきしなり。後刻にいたらば定めし御処分もあるべければ、貴君との面会ももはや只今限りと覚ゆるぞ。わが亡き後は、貴君らよろしく君上を保護したまわれ』と粛然と述べた。左近はこれを聞き、感激のため、馬上にうつ伏して頭を上げられなく、声を呑んでむせび泣いた。われは一礼して別れ、自邸に戻ってひたすら御沙汰を待った」

馬上で頷いた左近は、その足で閣老・参政に対して「高橋こと、閉門謹慎の制禁を犯しましたが、ひとえに誠忠奉公の心からであり、何とぞ御寛大なご処置を」と訴えたという。そのためか、泥舟と鉄舟にはお咎めの上使は、結局、やってこなかった。不問に付されたのである。

ところで、西丸御殿の造営工事が始まったのは、年が明けた元治元年正月、七月に完成し将軍家茂が入ったが、これが江戸城最後の建築であり、明治維新後の明治六年(1873)の炎上まで存在したものである。因みに江戸城の火災は結構多い。防火対策上最重要拠点としてとして警護されていたのに、家康の時代から数えて三六回の火災が発生している。七年に一回という多さである。

さて、十二月十日、高橋泥舟に謹慎宥免(ゆうめん)の沙汰があり、老中の許に出頭すると「二の丸留守居役席、槍術師範を命ず」の沙汰であった。元の職務になったわけである。

続いて、十二月二十五日に鉄舟、松岡万などにも謹慎宥免の沙汰が下った。

「ありがたい。これで外出ができる」と自由になった喜びに叫んだが、八ヶ月間の謹慎は鉄舟の心に大きな変化を与えていた。謹慎という状況を、わが身の修行に切り替え、自らの奥底を訪ねる旅に変えてきた鉄舟には、目指すものが微かながら見えてきたのであり、早速にその第一歩を踏み出したが、それはとてつもなき大きな壁にぶつかることになり、その壁が一生を貫く目標になったのであった。

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2010年06月17日

新たなる環境化へ

山岡鉄舟研究 新たなる環境化へ
   山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
 

清河八郎が暗殺された翌日に、幕府当局は関係者の処分を行った。主な処分者の内容は以下であった。
高橋伊勢守(泥舟)・・・御役御免の上蟄居
 山岡鉄太郎・・・・・・   同じ
 松岡 万・・・・・・・   同じ
 窪田冶部右衛門・・・・御役御免の上差控・・・後に小普請入り
いずれも御役御免であるが、泥舟、鉄舟、松岡は蟄居、窪田は差控えである。

蟄居とは「自宅の一室に謹慎、外出は許されない」処置であり、差控は「自宅に謹慎ではあるが、行動はあまり制限されない、外出も可能」というもので、蟄居よりは処罰が軽く、加えて、小普請入とは御役御免なのであるから当然で、窪田に対する処罰は実質無罪と同じであった。

それを証明するように、窪田は二カ月後函館奉行に再登用され、その後すぐに神奈川代官となり、続いて西国郡代に就任している。

このような窪田の登用を考えると、やはり「村摂記」(『未刊随筆百種第三巻』 編者三田村鳶魚 中央公論社)に記されていたように、清河暗殺は窪田冶部右衛門の協力によって行われたものであり、同じ浪士組幹部であったため、表面上一時的に処罰めいた処分をしたが、実際は論功行賞としての人事が行われたと考えるのが妥当であろう。

ここで今まで分析がなされず、書き残した事を追記したい。窪田の息子の泉(千)太郎についてである。神奈川奉行所で奉行の次の組頭という幹部である泉太郎が、何故に清河暗殺の場面にいたかということである。

横浜には外国施設が集中し、長崎の出島のごとき対応になっているので、横浜に通じる道筋には関門・番所が設けられ、通行人改めや荷物の検査を行っている。したがって、簡単には横浜を事前視察することはできない。そこで、清河は窪田冶部右衛門を通じ、泉太郎への紹介状を書かせ、清河と鉄舟他二名で横浜視察に出かけることができた。四月十日のことであった。

この視察で鉄舟がひとつの事件を起こしたが、それは鉄舟から泉太郎に送ったサインであったとの推察はすでに触れた。

そのサインとは「清河は頑強な攘夷派の大物である」というものであったが、それを受け泉太郎は父親冶部右衛門に通告し、具(つぶさ)に清河について調べ抜いた結果、清河の視察目的が「横浜焼き討ちを」であることを知り、驚愕した。

仮に、これが実行された場合、親子共々処分は免れなく、罰せられ、お家断絶になる可能性大だ。ならば、積極的に防止策に参加するしかない。幕府が計画している清河を亡きものにすることへの協力、それが「村摂記」に記された内容であった。

さらに、泉太郎には、より確実に事前視察させた失点を挽回させるため、組頭という要職でありながら、清河に手を下すことへ直接参加させたものと推察する。

因みに、清河を横浜に入れてしまったことを比喩して考えれば、パレスチナの過激派リーダーを、イスラエル側陣地に入れてしまったことと同じだと思えば、事の重大さが理解できる。

さて、清河暗殺の犯人が、佐々木只三郎他であったと判明するのは、ずっと後のことであるが、不思議にこれら暗殺参加者は、終わりを全うしていない。

そのことを泥舟が次のように書きのこしている。(『泥舟遺稿』島津書房)
「因みに記す、正明(清河)を要撃したる連類者は、一も其終を克(よく)したるものあることなし、金子與三郎は、薩邸打拂の時流(ながれ)丸(だま)に当たりて死し、佐々木只三郎も、伏見の役に流丸に斃(たお)れ*、速見又四朗も同じく流丸に当たり、一時その瘡(きず)平癒せしと雖も(いえども)其後その跡瘡と変し、之れが為めに死す、高久某(高久保二郎)は公用を帯び、早追(昼夜兼行で早駕籠を飛ばした使者)にて凾嶺(箱根)を越ゆる時、俄然背に疼痛を覚え、日ならずして死し、永井某(永井寅之助)は自宅に於て頓死す、獨(ひとり)窪田冶郎(部)右衛門は幸ひに天壽を以て終るが如しと雖も、子孫先だちて死し、今は一家斷絶して、祀らざるの鬼となれり、古来有為の士冤(うらみ)を呑んで死する者皆曰く、死して知ること無くんば則ち己む、苟(いやしく)も知ることあらば、要(かならず)唯獨り死せずと、此言信ずるに足らずと雖も、匪(ひ)謀(ぼう)を遂ぐるものゝ終を克くせざる事、今古一轍に帰す、亦以て殷譼(いんかん・戒めとする前例)(鍳となすべき而巳(のみ)」

また、窪田泉太郎も鳥羽伏見の戦いにおいて最後を遂げている。(『窪田冶部右衛門の賦』西沢隆治)
 上記のように、泥舟が清河暗殺者の境遇について語っている背景には、清河という人物を高く評価していたという事実がある。そのことを清河との初対面での印象を次のように記していることで分かる。(『泥舟遺稿』)

 「鐵太郎(鉄舟)正明を率ひ来りて予に見へしむ、予初めて正明に面し、其風采を熟視するに、天性猛烈にして、義気強邁、身材(体)堂々として、威風凛々たり、音聲鐘の如くにして、眼光人を射る、予一見して超凡の俊傑なるを知る」

 いずれにしても泥舟と鉄舟は、清河暗殺を機に謹慎蟄居となった。

 しかし、この謹慎蟄居に関して泥舟と鉄舟が別なる見解を遺していることについて触れておきたい。どちらも通説とは異なるが・・・。

 まず、泥舟遺稿によれば、泥舟は様々な局面で幕府に建言したが、いずれも用いられず辞職したが、逆心の疑いありとして無期限の幽閉を命じられたとある。

 次に、鉄舟については「おれの師匠」(小倉鉄樹)に次のように書かれている。

 「どうして山岡が謹慎申し付けられたかといふと、それはかういう譯なのである。
 御殿山にどこかの公使か忘れたが(多分英国だったと思ふが)公使館が設けられた。ところが世の中が物騒なので、麾下(きか)*の旗本三百人程にその守護を仰付けた。攘夷熱の盛んな折柄、毛唐人の警護は心外千萬であるといふので、一同申し合せて公使館の警衛に行かなかった。すると「幕府の命令を聴かぬ不届き者は切腹を申付ける」という厳命があった。それをきくと一人減り二人減って段々残る人数が少なくなって来た。『愈々明日は切腹である』となったらその前夜まで残ったのが僅か六十人ぎりになってしまひ、切腹当日は山岡一人になった。

『愈々おれ一人か』と山岡は朝から身を淨め、衣装を着替へて上使の来るのを待ち受けた。やがて上使が見えた。山岡はそれを上座に招じ、慇懃に挨拶して断罪の旨を承った。切腹と覚悟をきめていたところ、案外にも『殊勝に付き切腹を免じ謹慎を仰付ける』とのことであった。かうして山岡の門前は青竹で囲はれ、山岡は一歩も外へ出ることが出来なく、同志の連中は夜陰を図って裏口から出入していた」
 
 さて、泥舟と鉄舟は謹慎蟄居となり、行動は制限された。勿論、外出は厳禁。日課の剣にもふれない。月代も髭を剃ることも遠慮しなければならないので、たちまちのうちに二人とも頭髪はぼうぼうとなり、髭は伸び放題となった。 

こういう逆境におかれた時、人はその本性が出るものである。
どうしてこのような境遇になったのか、そのことを嘆き、憂い、そうなったことを自分以外の要因に求め、不満を述べ続け、挙句の果てに自暴自棄に陥り、酒浸りとなる。

また、得てしてこういう生活状態になると、いつも気持ちが落ちつかないので、心中穏やかならず、不満がさらに講じ、結局は身体の変調となって、自分自身を失っていく。

しかし反対に、今の逆境に立ちいたったのは、何か自分自身へシグナルを送ってくれたのだと受け止め、だからこそ、それに正しく対応することが必要だと気づき、今までできなかったことをしてみようと考えつくと、順調時に見えなかった自分のことが分かっていく。つまり、自分自身を内観視することにつながるのである。

鉄舟は当然に後者であって、少年時代から思考と行動を一致させようと修行してきた人間であり、そのプロセス経緯を記録として次のように書きのこしてきた。

① 嘉永三年(1849)十五歳  修身二十則
② 安政五年(1858)二十三歳 心胆錬磨之事
③   々            宇宙と人間
④   々            修心要領
⑤ 安政六年(1859)二十四歳 生死何れが重きか
⑥ 万延元年(1860)二十五歳 武士道
⑦ 元治元年(1864)二十八歳 某人傑と問答始末
⑧   々            父母の教訓と剣と禅とに志せし事
⑨ 明治二年(1869)三十三歳 戊辰の変余が報告の端緒

この後、明治に入ってからも記録は続くが、上記の⑥「武士道」から⑦「某人傑と問答始末」の間、約四年間であるが、この期間何も書きのこしていない。

この空白の期間は何を意味しているか。それは、清河と知り合い、清河を中心として結成した尊王攘夷党、別名「虎(こ)尾(び)の会」ともいう勤王鎖国論者同士の秘密結社をつくった以後、清河が暗殺された期間までと一致している。

つまり、この四年間は攘夷運動の中で行動の期間であったのであり、謹慎蟄居を受けて再び思惟の時間になって、最初に書き示したのが「某人傑と問答始末」であったのである。

ということは、この「某人傑と問答始末」の内容が、清河暗殺に関する総決算的な心情を述べていると思われる。

その通りで、「某人傑と問答始末」の中で鉄舟が議論している相手は、氏名を明示していないが、清河であると推察されているが、その概要は以下である。

「このごろ、人傑として名声の高まっている人物がいて、その人物が鉄舟に向かって、貴君の心が君のため、国のため、人のために身命を賭している覚悟になっているかどうか疑わしいと迫ってきた。
これに対し、君のため、国のため、人のために尽くすということは、自負心であり、自惚れに過ぎないと答えると、彼の先生は大いに怒って、それはどういうことだと問い詰めてきたので、次のように答えた。
人間にはこの世において行わなければならない仕事がある。そのことについて、君のため、国のためなどと、もったいをつけるのは、ただの口実に過ぎない、もっともっと踏みこみ、虚心坦懐にその理の意味を理解すれば、君のため、国のため、人のためなどと洒落ごとを言う気にならないはずだ。

こう述べると、彼はうなずいた。さすが名士といわれるだけのことがあり、何か大事なことを悟って、それ以後はずいぶん親切な対応に変わった。
だが不幸なことに、抱負が遠大に過ぎ、また勝気な精神のため、俗世界から非難され、ついに刺客によって殺されてしまったのである」

この記録から考えられることは、清河という人物を高く評価しつつも、さらに深く清河を考察すれば、やはり何か無理があったと言いたいのであろう。

いずれにしても、謹慎蟄居の日々が続いた。

しかし、鉄舟のような人物には、逆境から這いあがらせる事件が顕れて来るものであって、その事件に対してどういう態度で対応するか。それは鉄舟が持っている本来の判断力にかかってくる。

事件は文久三年(1863)十一月に発生した。江戸城二の丸炎上である。お城が燃えているのであり、直参旗本であるならば、直ちに火消しに馳せ参じなければならない。

だがしかし、今は謹慎蟄居を命じられている身であった。屋敷から一切外部に出られない環境下、鉄舟と泥舟はどう対応したのだろうか。人は事件時の対応でその本性が出るものである。次号に続く。

投稿者 Master : 10:48 | コメント (0)

2010年05月21日

清河暗殺その四

山岡鉄舟研究 清河暗殺その四
  山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

清河八郎が暗殺されたのは、横浜を襲撃し攘夷決行と倒幕への狼煙をあげようとした、文久三年(1863)四月十五日の二日前の十三日、年僅かに34歳であった。

場所は麻布の出羽三万石上山藩上屋敷で金子与三郎と会い、退去し、屋敷前の一の橋を渡りきったところ、大和郡山藩十五万石下屋敷の前であった。

当時は、その屋敷や家の前の道路などで変死人があると、一番近い家のものが、役人が出役するまで、これを監視する義務があったので、大和郡山藩が見張っていた。

上山藩士の増戸武兵衛が、明治になって史談会で次のように述べている。
「七ッ頃すなわち今の午後四時頃に表門の方で人殺しがあるというから出てみた。一の橋を渡って一間か二間ほど行きますと、立派な侍が倒れて首が右に落ちかかって転がって居りました。その様子は左の方の後ろから横に斬られたものと見えて、左の肩先一、二寸ほどかけて右の方首筋の半ば過ぎまで見事に斬られております。その上に顎の下までに更に一刀痕があります。多分倒れた後で一刀添えられたものと見えます」(「山岡鉄舟」小島英煕)

この史談会発言内容、当時の大事件であったのであろう、鮮明に清河暗殺場面を想像させるリアルさがある。
「刀、脇差は立派なものでした。羽織は黒で甲斐絹の裏付きで右手に鉄扇を持って居りましたとみえ、右手をのべてその側に棄ててありました。髪は総髪でした。そこに大勢よって誰だろうと言うている中に、中村平助という者は、これは清河八郎のようであると申しました。私もなるほどと感じました。その訳は後で申します。・・・・

私は必ず金子が関係していると思いました。その訳は、その少し前に、ある夕、金子を訪ねたら、これから丸の内の小笠原閣老に行くと申しました。その頃金子は刺客に狙われているという噂でしたから、一人の夜行を援護するつもりでついて行きました。着いたのは夜の五つ頃(午後八時)です。

閣老はまだ殿中より帰らず、小笠原の重役の多賀隼人という人を訪ねました。金子の用向は小笠原の娘を当藩主の奥方に貰うという打ち合わせでした。・・・中略・・・・金子が言うに、実は清河八郎を暗殺しようという者もあるが、どういうものかと問うた。多賀は一寸考えて、至極よかろうと答えた。金子は暗殺といえば西国か水戸のものでもなければ出来ないことのように思っているが、今度のは幕府の御家人だそうですと、幕臣にも弱い者ばかりでないという意味を含ませ、多賀を喜ばしむるような語気にとれました。私は側に聞いていて、近日中、浪士組に何か騒動があるだろうと思っていたが、そのうちに清河が金子にきて帰りに右の事が起こったのだから、金子の話の結果があらわれた事だと思いました」

この暗殺は大変な騒ぎとなって、同志の一人石坂周造にもたらされ、その後の経緯を「石坂周造翁遺談」で次のように語っている。(「新撰組始末記」子母澤寛)

「直ちに四ッ手駕籠の大早というものを雇って赤羽に馳せつけました。見ると有馬(注筑後久留米藩有馬中務大輔頼咸(よりしげ))の足軽と松平山城守(注 出羽上山藩)の足軽とが警護してなかなか側へ近付けませぬ。遠くすかして見ると、八郎が朝別れる時の檜木で編んだ陣笠を被って、羽織の紋も八郎の紋でありましたから、それへ進もうとした所が、なかなか警吏が寄せつけませぬ。そこで自分は一策を考えて、其警吏に向い、彼処に倒れて居る者は清河八郎というものと承って居る。彼れは拙者の為めに仇で、君父の仇は倶に天を戴かず、拙者が害すべきものを何者が害したか、実に遺憾の至り、屍と雖も一刀恨みをせにゃならぬ。妨げをすれば汝らも倶に斬るぞ。と自分が長剣を抜きました。

さて、その時分の人物は弱いもので此勢い恐れて先ず左右へ開きました。そこで、ずっと進んで、八郎の首を引立てて見ると、未だ討手は上手な者でないと見えて、首が一寸程も喰付いて居ります。酒臭かった。
自分の目のつけるのは、決して先方の首ではない。五百名の連名帳が官吏の手に落ちれば、即ち、自分はじめ五百名の者の勤王者が連鎖される。是はどうしても、自分の命を捨てるまでにも取って来にゃならぬというのが私の望みでござります。

なれども警吏が見ておりますから、先ず斬り残してある首を撥(はじ)きまして、そうして其羽織に包んで居る中に、自分の附属の者(浪士組)が、ぞろぞろ後ろ鉢巻で押込んできて来ました。両藩の足軽どもは、其勢に恐れて皆逃げて終った。
それから当人の懐中を探すと、感心な男でござりまして、平生は頓(とん)と金子(かね)などを持って居った風もござりませぬが、胴巻を調べて見ますと、百両以上の用意金もござりまする。それからまあ連名帳も無事でござりまするから、それで自分は誠に安堵をして、是さえ手に入れば、外に望む物はない。なれども、八郎の首を、どうも此大道に棄置くは如何にも遺憾でありますから、羽織を脱がして、其羽織へ包んで、附属の者に持たして、山岡鉄太郎へそれを送りました」(石坂周造翁遺談)

「山岡はこの首をすぐに砂糖漬にして押入れへかくしたが、どうも臭くていけない。毎日毎夜、家のまわりを、町方の目明しが、うろうろしていて離れない。旗本の山岡へは、うっかり踏み込めないが、充分睨んでいる事は明瞭だから、山岡も、故意(わざ)と今度はゴミ箱へ埋めた。やはり臭い。

道場の板を上げて、その真下へ埋めたがこれもいけない。最後には遂々(とうとう)裏の大きなグミの木の下へ五尺も掘り下げて埋めておいた。ゴミ箱から首を引き出そうとして髪をつかんだら、ずぶりずぶりと抜けて来て、どうにも手のつけようがなかった。(山岡松子刀自談)」

「鉄舟は、この首を、伝通院の子院処(しょ)静院(せいいん)の住職に頼んで、窃(ひそ)かに同寺内へ埋葬し、墓も建ててやった。今、伝通院内に、妾阿(めかけお)蓮(れん)の墓と共にあるのが、それである。明治二年、更に郷里荘内清川村に改葬した。

屍は、柳沢候(注 大和郡山藩)の手により、その頃、大名の勤番武士及び引取人のない無縁者を葬る事になっていた麻布宮村町正念寺に葬ったが、この寺は、明治二十年廃寺となったので、今は訪ぬる由もない」(「新撰組始末記」子母澤寛)

このように清河は暗殺された。だが、暗殺された当日を辿っていくと、日頃の清河らしからぬいくつかの行動があり、疑問が生じる。

これまで清河の行動を分析してきたが、その内容を一言で述べれば「清河らしい」ということ、つまり、頭よく事前の思考力は優れているものの、行動は強引極まりないものであった。藤沢周平が「回天の門」で、清河の性格を「ど不敵」述べているがその通りである。

「ど不敵とは、自我をおし立て、貫き通すためには、何者もおそれない性格のことである。その性格は、どのような権威も、平然と黙殺して、自分の主張を曲げないことでは、一種の勇気とみなされるものである。しかし半面自己を恃(たの)む気持が強すぎて、周囲の思惑をかえりみない点で、人には傲慢と受けとられがちな欠点を持つ。孤立的な性格だった」

このような強腰性格の男であったが、暗殺された四月十三日当日は、いつもの清河でなく、強気の言動を発するものの、それが何かに囚われおり、どこかに固執していて、そのこだわりは死出の山を越えるためのものであった、そのような気がしてならないのである。

その一つは、何故に金子与三郎のところに一人で出かけたかである。清河は浪士組の頭として何かと目立ち、その行動も疑問を持って見られている。したがって、清河を狙う者がいても当然であるから、いつも身辺警備については配慮しており、鉄舟の家や隣家の高橋泥舟宅に泊まり込んでいたのもその理由からであり、清河が外出する時は、大抵何人かの者をつけて出すように気をつかっていた。

その清河が、この日鉄舟宅を出る際、ちょうどやって来た石坂周造と出会った。当然に石坂は一人で出かけることを危惧した。鉄舟は昨夜から戻っていなかった。
「一人で出掛けるのですか」
「うむ、上山藩上屋敷まで金子与三郎を訪ねて」
「大事決行の日も迫っている。他出はやめられないですか」
「もう約束してしまっている」
「では、私がついていきます」
「君は金子を知らんだろう。ついてきてはおかしい」
「おかしくてもいい」
と石坂は執拗に迫ったが、清河は受けつけなかった。これが第一の疑問である。
 
第二の疑問点は、何故に朝風呂に入ったかである。清河は十一日横浜視察から戻った時に風邪をひき、そのまま寝込んでいたが、十三日の朝、清河は朝早く起きると近所の風呂屋に行った。
 朝風呂は、この頃の江戸ッ子が最も好んでおり、どの風呂屋も早朝から営業していたが、風邪ひきには風呂がよくないことは誰でも知っている。
 そのいけない風呂に入って、身を清めたことが第二の疑問である。
 
第三は、風呂から戻った後のことである。風呂上りの、手拭いを下げたままで隣の高橋泥舟宅へ庭から入って行った。登城の支度をしていた泥舟が
「何だ。朝風呂とは、ご機嫌だな」
「ええ、今日は久しぶりに上山藩上屋敷まで金子与三郎を訪ねていきますので、病み上がりの格好ではまずいと思いまして」
「金子与三郎というと、あの儒者のことか」
「ご存知でしたか。金子とは安積塾の同窓でして、著述物も預かってもらっている仲です」
「いつか小笠原殿のところで会ったことがある。大分親しげに見えたが」
「金子が小笠原殿とは知り合いとは知りませんでした」
「気をつけた方が良い。小笠原殿と金子に何かの関係があるかもしれない」
「はぁ、十分気をつけます」
と清河が言いつつ、泥舟の妻女お澪(みお)に白扇を求めた。
「どうなさるのです」
「なに、風呂に入っている間に、二、三首浮かんだので・・・」
清河はすらすらと三首の和歌を書き流した。その一首が
「魁(さきが)けてまたさきがけん死出の山 迷いはせまじすめらぎの道」
また、もう一首は
「砕けてもまた砕けても寄る波は 岩角をしも打砕くらむ」
であった。
どちらも辞世ともよめるものであった。
「何だ・・・。これは・・・。不吉だ。今日は出かけないことだ」
と厳しく言い残し、泥舟は登城するため玄関を出て行ったが、そのすぐ後に清河はお澪が必死に止めるのも聞かず、約束だからやはり行くと出かけたのであった。

ここで清河の立場になって考えてみたい。

清河は、若き時から儒者をめざし故郷を出で、江戸で一流の学者となるべき勉学時に、桜田門外の変に出遭った。これを機縁に攘夷・勤王に走り、日本国中を遊説し、多くの人物と交り合ってきた。その後、江戸に戻ってきて、四月十一日に横浜を視察したのであるが、その衝撃は大きなものであった。

横浜では、日本人と欧米人がビジネスとしての交易を盛んに行っており、それは輸出入の実態としてすでに国の中に組み込まれていて、日本という国は世界と付き合っているという事実、その認識を現場で持った時、清河に大きな疑問がわきあがったのである。

今まで追求してきた国体としての攘夷、それは概念価値として立派であっても、その実現は世界と向かい合っている日本の実態にそぐわない方向に行くのではないか。

また、仮に横浜襲撃が成功したとしても、その結果は諸外国と全面的な戦争になり、日本の現状では負けることが必定であろう。

そうなってしまえば清国の二の舞になる。自分の攘夷という行動結果が、かえってこの国を焼く業火になるのではないか。
横浜で見聞きしたことが、清河の腸に深く刃を刺し込み、それが風邪という体調変化と化し、熱で冒された脳裡に、はじめて自分に対する疑問が浮かんできた。

どうすればよいのか。ここで横浜焼き討ちをやめてしまっては、浪士組を攘夷倒幕に持っていくことは消えるし、もう同志は走りはじめている。

横浜での実態から新たに目覚めた清河の心中に、生まれてはじめて矛盾・混乱・ジレンマのうめき声が発しだしたのである。

その時に金子与三郎から、会いたいと言ってきたのである。金子の思想は穏健な公武合体論であった。そのため、尊攘派、佐幕開国派の両方につき合いがあり、その金子から時勢のことで相談があるので、誰も連れずに一人で来られるかという誘いがあったのである。

清河はこの誘いに乗る決心を選択した。金子の罠かもしれない。しかし、その罠にのってみようと決めた。多分、金子が今の自分の矛盾・混乱・ジレンマに決着をつけてくるだろう。

焼き討ちをやめ、虎尾の会の志をのこすには・・・それには今の自分を投げ出すしかないだろう。清河は気持ちを整理して、金子に会うことを決めたのである。

清河八郎は希代の策士といわれてきた。だが、その策士は、最後に日本という国の未来を考えたのだと思う。
さすがに鉄舟が刎頸の交わりをした清河八郎だと思う。鉄舟ほどの人物が本心から付き合った清河である。
清河は、自らの処置を、自らで決着をつけたのである。

清河暗殺は、鉄舟と泥舟を歴史の舞台からいったん身を引かせることになった。

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2010年04月19日

清河暗殺その三

山岡鉄舟研究 清河暗殺その三
 山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

 
文久三年(1863)三月、上洛した将軍家茂は朝廷から攘夷をいつ実行するのかという、攘夷期限を明示するように執拗に厳しく責めたてられた。

朝廷が督促する攘夷という内容は、通商条約を破棄し、在留の外国商人を追い返し、貿易を中止し、それをいつ外国側に通告し、実現させるのか、というもので実態的には無理難題で、現実味がないものであったが、これが勅意であった。

とうとう四月二十日になって、将軍は攘夷期日を五月十日と答え、その旨を諸大名に通知して、ようやく将軍は江戸に六月に戻ることができた。

清河が実質リーダーである浪士組は、将軍が攘夷期日を定める前に、関白鷹司輔(すけ)煕(ひろ)から攘夷の達文が下されており、それを旗印として江戸に戻り、攘夷の一番乗りを果たそうと「横浜焼き討ち」を計画していた。その決行予定日は四月十五日であった。

しかし、決行二日前の十三日に清河は暗殺された。幕府は事前に清河の計画をつかんで、綿密な仕掛けで斬ったのである。

では、「横浜焼き討ち」が四月十五日であることを、どのようにして幕府はつかんでいたのか。

それは、「村摂記」(『未刊随筆百種第三巻』編者三田村鳶魚 中央公論社)にあるように「内命を受けたる頭は、窪田冶部右衛門、刺客は、佐々木只三郎、永峰良三郎(後に弥吉)高久左次馬等にてあと二人は記憶せず」と記述されているように、窪田冶部右衛門による密告だ、と推測するのが妥当であろう。

 では、ここで疑問が生じるのは、清河が浪士組一同に「横浜焼き討ち」決行日を明示していたかということである。

「横浜焼き討ち」は清河にとっては義挙、幕府にとっては暴挙で、正面切って宣戦布告して行う戦いではなく、相手の隙をつく仕掛けをもって急襲するものである。また、攘夷派の攻撃に対して幕府は横浜を警戒態勢下にしているのだから、攻撃日を浪士組員に伝えることは決行間際のタイミングにするか、目的を明示しないまま行進していく途上で命令する等、細心の注意をもって秘密裏に計画する。だから、事前に決行日を知っていたのは、清河が心を許した僅かな人数に過ぎないであろう。

 このように考えてくると、確かに窪田冶部右衛門は浪士組の頭の一人ではあるが、清河の腹心ではなく、決行日を把握していなかったと考えるのが妥当である。

 そこで、窪田冶部右衛門はどうやって決行日情報を入手したかが問題である。そのヒントとして、ここに神奈川奉行所組頭である窪田の息子、泉太郎が登場する。

 攻撃する側の清河の思考回路を想定すれば、焼き討ちするには、当たり前であるが、そこの地理状態を知らねばならぬわけで、そのためには横浜を事前に視察調査する必要があるが、簡単に旅するような感覚で横浜に行けたのであろうか。それは無理であった。

横浜は、もともと東海道神奈川宿から南にはずれた一漁村であったところで、幕府は神奈川開港の際、街道の要衝地を開くことを嫌って、ここに外国施設を集中させたという経緯があったので、結果として、長崎の出島のごとき対応を図っていた。

ということは、横浜に通じる道筋に関門という番所、安政六年(1859)から翌年にかけて子安・台町・芝生・石崎・暗闇坂・吉田橋の6か所と宮ノ河岸渡船場に設けられ、さらに、掘割りによって居留地が分離されると、西の橋、前田橋、谷戸橋の3か所にも設置され、役人が通行人や荷物の改めを行っていたので、簡単に横浜を事前視察することはできなかった。

そこで、清河は窪田冶部右衛門の息子・神奈川奉行所組頭である泉太郎に目を付けたのである。また、泉太郎は組頭であって、奉行の次に位する重要な役職であるから、ここから紹介受ければ横浜視察はできるだろう。

早速に清河は、得意とする策略、それは冶部右衛門を通じて「視察する正当性ある」ものであるが、その策をもって泉太郎への紹介状を書かせることに成功し、これを持参し鉄舟と斎藤熊三郎(清河の弟)、西恭介の四人で横浜に出かけたのである。四月十日のことであった。

この横浜視察では、鉄舟がひとつの事件を起こしている。そのことが中村維隆(草野剛三)自伝に次のように書かれている。

「窪田泉太郎は外国人との親交があったので、そのにおいが身についていた。室内の装飾はもちろん、御馳走として出たバターや洋菓子類がそうであった。鉄舟はそれを見ると『けがらわしい、こんなものが食えるか』と、出されたものを引ったくり、床の上に叩きつけると、翌日は早々に江戸へ引き上げた」(『維新暗殺秘録』平尾道雄 新人物往来社)

これを述べた草野剛三は横浜に同行していなかったので、状況を割り引いて考えなければならないが、鉄舟がこのような行動をとったと伝えられている。

この鉄舟の振る舞い、今までの鉄舟とはずいぶん異なる奇異な感じを受ける。鉄舟は物事をじっくり考え、人前で乱暴をするような性格ではない。だが、横浜での行動は大人げなく、芝居がかっているように感じる。わざとらしさが窺え、敢えて無理した所業に思えるのである。

これは大事なポイントである。普段の鉄舟ではない。何かある。多分、それは鉄舟が何らかを伝えるための芝居ではなかったのではないか。

横浜に来た我々清河一行は、外国人が嫌いで、外国人が滞留しているところに見学に来るような人種でない、つまり、頑強な攘夷派であるということを明らかにするサイン表示ではなかったか。そう考える背景根拠は、鉄舟が根っからの幕臣であることである。

ここで改めて清河の行動目的内容を確認したい。清河は「横浜に押し出し、市中に火をつけて、そのごたごたに乗じて、外国人を片っ端から斬りまくり、黒船は石油をかけて焼き払い、すぐに神奈川の本営を攻めて、軍資を奪い、厚木街道から、甲府城に入って、ここで、攘夷、しかも勤王の義軍を起こそうというのである」(「新撰組始末記」子母澤寛)であった。

この中の神奈川本営(奉行所)襲撃は何を意味するか。それは倒幕の蜂起軍となることにつながり、勤王の義軍を起こすということは、幕府と対峙することに直結する。

つまり、清河の本心は「攘夷」でなく「倒幕挙兵」にあることを、この頃に至ってようやく鉄舟は見抜き、そうであったからこそ愚にもつかない所業を行って、神奈川奉行所組頭・泉太郎にシグナルを送ったのではないかと推察する。

本来、鉄舟には幕府を裏切る気持ちは毛頭ない。元々攘夷とは当時の殆どの日本人が同様の気持ちを持っていたわけで、将軍家茂が朝廷に攘夷を約するために上洛した時でもあり、攘夷が時の大勢であったから、清河と親しくし、清河を保護し助け、清河の仲間となって今日まで歩んできたが、倒幕となると事は異なる。三河譜代小野家六百石旗本の血筋が蘇ってくる。

この幕臣に戻ったことは京都でもあった。清河が京に着いた夜、浪士組全員を新徳寺に集め、朝廷に上書を奉じ、勅諚を賜った一連の経緯の際、そのことを清河から知らされた鉄舟は、悩みながらも浪士取扱いの鵜殿に報告、鵜殿は老中の板倉勝静に伝えたことがあった。その時と同じ幕臣の気持ちを再び蘇らせたである。

鉄舟が倒幕に与しないことについて、藤沢周平が「回天の門」(文春文庫)で、鉄舟と清河の会話を通じて次のように述べている。

「やはり、横浜焼き討ちは攘夷でなく倒幕挙兵なのですな?」
「そう、倒幕だ」
八郎は言いきった。並んで歩いている山岡の顔を見たが、暗くて山岡の表情は見えなかった。ただ重苦しい溜息を洩らすのが聞こえた。
しばらく無言で歩いてから、山岡が言った。
「だとすると、おれは今度のくわだてには加われません」
「むろんだ」
八郎はいつかのように、幕府と手を切れとは言わなかった。いたわるような口調で、しかし明快に言った。
「君と松岡は脱けてくれ。いずれ、そう言うつもりだったのだ。このあと君は、われわれのやることを見とどけてくれるだけでよい」

藤沢周平も述べているように、鉄舟は横浜行きの前に、清河の倒幕挙兵に賛せず、行動を共にしないという決意をしていた。

さて、結果として清河は「横浜焼き討ち」決行計画二日前に暗殺されたが、幕府による暗殺隊に中に窪田泉太郎がいたことは重要である。神奈川奉行所の組頭が何故に参加していたか。この背景を解明することが、清河が斬られるまでのストーリーに関わってくる。だが、その解き明かしの前に清河が斬られた場面を述べたい。

清河については、多くの人たちが暗殺場面を取り上げているが、いろいろ読み比べてみた結果、やはり、司馬遼太郎の「幕末」(文春文庫)でお伝えしたい。

その日、清河は朝から頭痛を病んだ。文久三年四月十三日である。

ここ数日来、山岡家とは一つ家同然の隣家高橋泥舟の屋敷に寝泊りしていたが、泥舟の妻女が、
「風邪でしょう。きょうは外出はおやめなさいしまし」
と心配してくれたが、

「いや、まずい日に約束してある。先方が折角酒を買って待っているそうですから」
そう言い残して出かけた。行先は、麻布上之山藩邸のお長屋である。かつて清河とは安積良斎の塾で同学だった金子与三郎という儒官をたずねるためであった。

金子のほうではこの日、清河が訪ねてくることは数日前から連絡を受けており、酒を置いて待っていた。
約束の刻限からすこし遅れて清河がやってきた。

用件はわかっている。攘夷連名名簿に血判署名することである。すでに清河はその懐中の帳簿に五百人の署名をあつめており、日を期して挙兵し、まず横浜の外交施設を襲撃することになっていた。むろんその挙兵と同時にこの軍団は王権復興の倒幕軍に早変わりするのである。

「古い学友だ。いまさら蝶々(ちょうちょう)せずとも私の気持はわかってくれるだろう」
「わかっている。加えていただく」

金子は快く署名血判し、あとは妻女に酒を出させ、徳利をさしのべた。その徳利の口が猪口にあたってカチカチ鳴ったことに清河は気づかない。

そのころ、藩邸の裏門あたりをしきりと往き来している数人の武士がある。

裏門からの道は一筋に赤羽橋まで伸び、橋のたもとによしず張りの茶店があり、そこでも数人の武士が、茶を飲んで屯している。いずれも二、三百石取りの直参の風体であった。

そのなかで首領株の佐々木唯三郎だけが、陣笠をかぶっている。あとは講武所教授方速見又四朗、高久保二郎、窪田千太郎、中山周助。

四ッすぎ、清河は藩邸を辞した。

清河も佐々木同様、檜に黒羅紗をはった陣笠をかぶっている。

したたか酔っていたが、たしかな足どりでしかしやや歩みを落して麻布一ノ橋をわたり切ると、不意に横あいから、
「清河先生」
と佐々木唯三郎が声をかけた。
「ふむ?」
「佐々木です」

と、ここからが唯三郎が工夫しぬいた兵略だった。すぐ会釈をするふりをして陣笠をとった。
清河もやむをえない。右手に鉄扇をにぎったまま陣笠のひもに指をかけた。

とたん、背後にまわっていた速見又四朗が抜き打ちをあびせた。ほとんど横なぐりといってよく、清河は左肩の骨を割られて前のめり、一歩踏みだしてつかに手をかけようとしたが、右手首に通した鉄扇のひもが妨げて抜けない。

「清河、みたか」
致命傷は、佐々木の正面からの一太刀だった。右首筋の半分まで裂き、その勢いで清河の体は左へ数歩とんで横倒しになり、半ば切れた首がだらりと土を噛んだ。

土に、酒のかおりがむせるように匂っていたという。

これが司馬遼太郎の描いた清河の暗殺場面である。さすがに描写が真に迫り、斬られた場景を想起させるに十分であるが、ひとつだけ疑問が残る。

それは、清河はかつて佐々木唯三郎と講武所で手合せしたことがあり、その時は佐々木が、清河によって目がくらみ立ち上がれないほど打ちのめされたことがあった。

それほどの清河が、佐々木の工夫しぬいた兵略であったとしても、あまりにあっけない斬られ方、そこに何か感じるのである。

それと、どうして清河は幕府から狙われていることを分かっていたのに、何故に一人で麻布上之山藩へ金子与三郎を訪れたのだろうか。それまでは必ず数人が護衛として常に同行していたのに・・・。

これら疑問の背景には、思わぬ清河の心情変化覚悟があった。次号で述べたい。

投稿者 Master : 10:04 | コメント (0)

2010年03月10日

山岡鉄舟 清河暗殺その二

山岡鉄舟 清河暗殺その二
  山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

清河八郎は、文久三年(1863)四月十三日の午後三時ごろ、江戸麻布の出羽三万石上山藩の上屋敷を退出し、一の橋を渡りきったところで暗殺された。

佐々木只三郎以下の暗殺チームによってである。その経緯は別途述べたいが、幕府はその翌朝には、残された浪士組の宿舎を取り囲むため、荘内、小田原等六藩の兵二千名を動員した。この時を待つように周到な準備をしていたのである。

この頃、浪士組は京都から戻った二百数十名に、江戸で新たに加わった百六十名程、計約四百名となっていたが、浪士組人数の五倍にあたる二千名を動員したこと、これが京都から帰ってくる途中の中山道で、清河を暗殺できなかった理由を意味している。

京都を出る直前、清河暗殺隊として、旗本の中で屈指の使い手である佐々木只三郎他六人が投入されたのであるから、一対一でも、また、策を弄し、取り囲み、斬ることは可能であった。だが、それを実行し得ず、暗殺したのは江戸に戻ってからであった。

理由は、清河を道中で暗殺することは危険性が高い、と幕府が判断したからである。

その一つの理由は、道中で清河を斬った場合、一緒に江戸まで戻りつつある清河を頭と仰ぐ仲間たちが、おとなしく帰順し、捕縛され、そのまま江戸に戻るとは考えられず、凄絶な死闘が繰り広げられることになり、幕府側もかなり傷を負うことになる。

さらに、清河を斬った後、残りの浪士組メンバーがどのような行動にでるか、それが向背不明であって、反乱ということも予想される。確実に相手を抑えつけ、反攻の戦意を失わせ、混乱を起こさないためには、通常相手の三倍から五倍の人数を要するだろう。

仮に、その人数を動員しようとするならば、道中であるゆえに、幕府の名において中山道筋の藩から兵を出させることになるが、浪士組二百数十名を考慮すると、最低でも千人余の兵が必要になる。

しかし、当時の諸藩における兵の動員力は、十万石大名でもせいぜい千人であった。家康から家光の戦国気分がさめやらぬ時代では、十万石大名で二千名の兵を優に動員できたが、二百五十年も続いた天下泰平の結果、各藩動員兵力は半減してしまっている。

したがって、浪士組に対応する兵力の動員には、一藩では無理で、数藩に依頼することになり、それも騒ぎが起きてから老中に報告、それから街道筋の藩主に動員協力を指示することになり、そのための手続きが煩わしく、かつまた、実際に兵士が動員されるまでには時間を要するであろうから、その間、騒乱は続き、かえって幕府の権威を落とすことにつながる。このような見通しを持ったのであった。

結局、中山道において清河暗殺は無理であった。高橋泥舟浪士取扱いの役目は道中の乱暴狼藉を少なくし、無事に江戸に着くことを目的とし、暗殺隊の佐々木只三郎他六人は、江戸に戻ってから、その時のための念入りな計画をつくるため、中山道を清河と共に歩いたのであった。

ところで、この当時幕府には、この清河をどうしても暗殺しなければならない、新たな強い背景が発生していた。

清河が幕府に対し浪士組献策を行い、そこから進めて来た一連の行動は、結局、体制と権力は利用するが、幕府を無視して朝廷から勅諚を賜ったことを含め、成果は自分の益にするものであって、結果として清河の存在自体が憎しみをもたれ、それが清河の身に翳してくるのは当然で、暗殺命令が幕府体制側から出され、京都出発時に六人の刺客が放たれた理由であった。

だが、しかし、江戸に戻ってみると、もっともっと重要な外交問題が関係しており、清河暗殺は焦眉の急となっていた。

それは、清河を生かしておくと、生麦事件から発した国際的な大問題にもつながっていくからであった。

生麦事件とは、島津久光が幕政改革を目指し、勅使大原重徳とともに江戸に向かい、その目的をほぼ達し帰国の途中、東海道生麦村を通りかかった際に発生したイギリス人殺傷事件である。文久二年(1862)八月のことであった。

イギリス本国は激怒し、文久三年の年明け早々イギリス外務大臣ラッセルから賠償金支払いと、これを拒否する場合は横浜港の艦隊が武力行動に出るなどの厳しい通告がなされ、幕府は進退窮まっていた。

というのも、朝廷からは攘夷実行を督促され、生麦事件に関するイギリスからの要求は一切拒否すべき
と朝議されたほどであったから、イギリスに賠償金を支払って艦隊からの攻撃を避けることもできず、しかし、イギリスに賠償金を支払わなければ、イギリス艦隊の攻撃に対し、勝算はないものの応戦することになる。

イギリス艦隊との戦力差を知る幕府は、結局賠償金の支払いを受け入れることになったが、支払い条件などで頑強に抵抗し、期限を延ばしに延ばし、イギリスも延期に応じたが、戦争開始の噂が巷間に流れ、幕府も一方では勝算なきものの、諸藩に合戦準備を命じ、家族たちを国許や知行地に避難させ始め、その動きに江戸市中や横浜は大混乱に陥っていた。

この当時の外交交渉について「幕末・維新」(井上勝生著)は次のように表現している。

「外国奉行は、要求に応じられない『真の問題』は攘夷派大名の反対があるからだと説明する。英仏の外交部は、攘夷派大名を倒すために軍事援助の用意があると申し出た。外国奉行竹本正雅は、即座に『幕府は自分の手でかれらを屈服させたいし、且つ屈服させるつもりである』と拒否する。

激しい応酬があった日英仏の外交交渉の様子は、英仏外交文書を駆使した萩原延壽の大作『遠い崖』に再現されている。江戸と横浜を往復し、戦争回避の外交交渉に孤軍奮闘した外国奉行竹本は、当時は目立たなかったが、有能で誠実な幕臣であった。そのころ、江戸での外交の現場にいた旧幕府外国掛出身で、のちに明治政府の外交官になる田辺太一は『幕末外交談』で、そのように回顧している」

もう少し苦しい幕府の外交交渉をつづけたい。

「一八六三(文久三年)五月、ようやく賠償金支払い交渉が分割払いでまとまってゆく。そこに朝廷から届くのが攘夷実行の勅であった。そのため、突然、償金支払い停止が、幕府からイギリス側に通告される。イギリス外交部は、海軍の手に事態をゆだね、横浜は緊張の極に達した。幕府側は、事態をありのままに説明し、イギリスは、事態の解決の見通しと期限を問い、再度、英仏共同の軍事援助を提案するが、幕府はやはりことわった。

攘夷実行期日の前日(五月九日)、幕府は、朝廷の制止を無視して賠償金全額を一度に支払い、そして、横浜鎖港の外交交渉にはいることを宣告した。

生麦事件償金支払いを知った京都の孝明天皇が『震怒(しんど)』し、自筆の勅書を幕府に発する。『皇祖神に対したてまつり、申し訳これなく』、『たとえ皇国、一端、黒土になりそうろうとも、開港交易は決して好まず』、と。開港交易は、皇祖神(天皇の先祖)に対して申し訳ないという。日本の一部(江戸)が『黒土』(焼け野原)になっても、開港は拒めと。続く文章では、『不心得の儀、唱えそうろうもの』には、『きっと沙汰』あるべしと。『不心得』とは、江戸の外国奉行竹本らのことである。ついで、戦争が始まることを予期し、風(かぜ)日祈宮(ひのみのみや)(伊勢市。蒙古襲来に神功があったとの伝説をもつ)に神助を祈った。かつて堀田が言った『正気の沙汰とは存じられず』という事態が繰り返されたのである。

イギリス艦隊七隻が、本国外務省訓令に従って、鹿児島湾に入る。七月初旬、暴風雨のなか二日間、砲撃戦がつづいた。旧式砲ながら薩摩藩砲兵は、実戦を想定しなかったイギリス側に戦死者十三名という損害を与えた。

一方、イギリス側は、110ポンド・アームストロング砲を含む砲撃で圧倒的威力を示し、鹿児島市街を焼失させる。アームストロング砲は後装施条式の巨砲で、イギリス海軍は、薩英戦争で初めて実戦に使用した。戦況自体は、イギリス軍の被害も大きく、勝敗不明という評価も出るほどである」(幕末・維新)

文久二年八月に突発した生麦事件は、一年経過後の文久三年には、上記のように激しく、苦しい、厳しい外交交渉の連続となっていたが、まさに、その途中に浪士組が京都から江戸に帰着したのであった。

江戸に戻った清河の目的は明確である。それは「虎尾の会」の盟約書に記していた横浜の外国人居留地の焼き討ちであり、その先に攘夷挙兵という壮大な企みであった。

ここで冷静になって考えてみたい。幕府は生麦事件の後始末で苦しい外交交渉を強いられている。朝廷からは賠償金の支払いは拒否するよう勅命があり、一方では戦争回避をしなければならない。結局、幕府は賠償金支払いの方向で解決しようとしているとき、清河が目的としている「横浜焼き討ち」がなされたら、その成否は別として、外国人に被害が発生したとしたら、どのようなことになったであろうか。

清河の狙う実行内容は「大挙して横浜に押し出し、市中に火をつけて、そのごたごたに乗じて、外国人を片っ端から斬りまくり、黒船は石油をかけて焼き払い、すぐに神奈川の本営を攻めて、軍資を奪い、厚木街道から、甲府城に入って、ここで、攘夷、しかも勤王の義軍を起こそうというのである」(「新撰組始末記」子母澤寛)であった。

もし、これが実行されていたらどうなったか。結果を最小限に見積もっても、生麦事件の解決は賠償金支払いというレベルを超え、他のこと、それは日本側が不利になり、さらに外交関係の紛擾と軋轢が激しくなったであろうことは容易に予測つく。

次に、清河が狙うターゲットとした横浜に住む外国人からみた情勢を、アーネスト・サトウ著「一外交官の見た明治維新」(第七章 賠償金の要求)からいくつかひろってみたい。

まず、賠償金の交渉で英仏と会談時に「イギリスとフランスの代表から、攘夷派の横浜襲撃に対する防御策を講ずることを申し入れて、日本側の承諾を得た」と記されているが、これは幕府から何かの事前サインがあったことを意味している。

さらに、「この時分は、浪人という日本人の一種不可思議な階級がいだいている目的と意図について、よほど警戒すべきものがあった。この浪人というのは、大名へ仕官をせずに、当時の政治的な撹乱運動へととびこんできた両刀階級の者たちで、これらは二重の目的を有していた。

その第一は、天皇を往古の地位に復帰させること、否むしろ、大君(タイクーン)を大諸侯と同列まで引き下げること。

第二は、神聖な日本の国土から『夷狄』を追い払うことであった。彼らは、主として日本の西南部の出身者であったが、東部の水戸からも輩出していたし、その他のあらゆる藩からも多少は出ていた。五月の末には、浪人が神奈川襲撃をたくらんでいるという風説があったので、神奈川にまだ居残っていたアメリカ人も何がしかの『騒動に対する補償金』をもらって、余儀なく住居を横浜に移さなければならなくなった」。

これは外国人たちが襲われることを予期しており、その情報が幕府から伝えられたことを意味している。

また、「六月の初めに、六人の浪人どもがこの土地に潜伏しているという情報があったので、別手組(江戸の公使館に護衛兵を出す団体)が、訓練された若干の部隊とともに横浜へやってきて、野毛山の下に新築された建物内に駐屯した。その時から一八六八年の革命(注:明治維新)のずっと後まで、われわれは断えず日本の兵士の厄介になっていた。私は、この別手組の中に数名の顔なじみの者がいるのに気がついたが、それは前述のように、私が江戸に行っていた間に親しくなった者たちであった」と、幕府が護衛をつけた事実を述べ、清河を頭とする「横浜焼き討ち」情報を、事前に幕府はつかんでいたことを証明している。

アーネスト・サトウがいう「五月の末」を、五月三十一日と考えれば、旧暦四月十四日(庚寅)となり、同じく「六月の初め」を、六月一日と考えれば、旧暦四月十五日(辛卯)となる。清河が横浜襲撃と予定したのは四月十五日である。幕府は清河を危険人物として十分に監視していたからこそ、その動向について詳しく把握していたのである。

しかし、ここで幕府にとって困る厄介な問題があった。清河の動向はつかんで警戒し、身柄を拘引逮捕したいのであるが、表向き難しいのである。

それは、清河には朝廷・関白鷹司輔煕から達文が下されていたからである。

「イギリスからの三カ条の儀申し立て、いずれも聞き届け難き筋につき、そのむね応接におよび候間、すみやかに戦争に相成るべきことに候。よって、その方引き連れ候浪士ども、早々帰府いたし、江戸表において差図を受け、尽忠粉骨相勤め候よう致さるべく候」というものである。

清河は忠実に朝廷の指示を実行しようとするのであるから、正規の召し捕りを行って、勾留することは難しいのである。従って、当然の策として秘密裏に抹殺するしかなかった。しかし、この抹殺は権力によるテロ行為であって、テロは本来国家権力がとるべき手段ではないが、朝廷に絡んでいる場合はテロしかなかったのであろう。その分だけ幕府は慎重に実行計画をつくりあげていた。

それが清河を斬った翌日には、直ちに浪士組人数の五倍にあたる二千名、それも幕府直轄兵の多くが京都に駐留していたので、計画的に荘内・小田原等六藩から動員された状況から判断できる。

清河八郎という一介の素浪人が、幕府にとって国の行方を左右するほどの国際問題上重要人物になっていたのである。

次号では幕府の手堅い動きと、それに対する鉄舟の動向、清河暗殺の状況についてふれたい。

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2010年02月04日

清河暗殺その一

山岡鉄舟研究 清河暗殺その一
  山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

「村摂記」なるものがある。一橋家の家臣で、慶喜の小姓であった村井鎮、後に久五郎と言い摂津守ともなったが、これが明治になって、その体験を回想し記述した書である。

もともとこの書には名前がついていなかったが、三田村鳶魚が「村摂記」と名付けたものであって、この中に清河暗殺について次のように記述されている。(未刊随筆百種第三巻 編者三田村鳶魚 中央公論社)
 
「時の御老中もなんとも手のつけかたがないから、頭のうちに清川にも恐れず、可なり議論もある者一人に秘密に命じて、清川を打果たせしむることになった、其頭の門人に剣術体術ともにすぐれた人を五人選抜して」とあり、特記事項として「左の人名は本文に掲ぐべからず」とした上で、「御老中は小笠原壱岐守、当時図書頭と云ふ、頭は、松平上野介、前主税之助と云ふ、高橋伊予守、精一郎と云ふ、山岡鉄太郎、内命を受けたる頭は、窪田冶部右衛門、刺客は、佐々木只三郎、永峰良三郎(後に弥吉)高久左次馬等にてあと二人は記憶せず」と記述されている。

「村摂記」で明らかになったのは、浪士組の頭として泥舟と鉄舟などに加えて、窪田冶部右衛門という人物がいて、この窪田が清河暗殺の命を受け動いたということであるが、この窪田は今まで浪士組に関わる諸資料に、ほとんど登場しなかった人物である。

一体、窪田冶部右衛門とはどのような人物であったのか。

その前に、清河暗殺に関して、誤解を与えかねないような記述があるので少し触れてみたい。まず、最初にこの「村摂記」を引用した野口武彦著の「幕末パノラマ館」(新人物往来社)を見てみたい。

 「この回想には『左の人名は本文に掲ぐべからず』と特記した上で、老中は小笠原壱岐守、頭は高橋精一郎(泥舟)、山岡鉄太郎(鉄舟)だったと当時の機密が漏らされている」とあるが、ここで「村摂記」の引用が切られている。つまり、「内命を受けたる頭は、窪田冶部右衛門」という部分が抜け落ちているのである。

 また、この野口氏の見解を引用したものに小島英煕著の「山岡鉄舟」(日本経済新聞社)があり、そこでは次のように記されている。

 「野口武彦神戸大学教授によれば、慶喜の小姓役だった村井久五郎が『村摂記』にこういうことを書いている。・・・途中略・・・『左の人名は本文に掲ぐべからず』と特記して、老中は小笠原壱岐守、頭は高橋精一郎(泥舟)、山岡鉄太郎(鉄舟)だったという。にわかには信じられない話で、真実は闇の中だが、もし関与したとすれば、高橋だろうか。政治の暗闇を思わせる話だが」

 ここで重要なことは、清河暗殺に高橋(泥舟)が関わっているのではないかという推測を小島英煕著が述べている点である。もしかしたら鉄舟をも疑ったかもしれないような書き方である。

 しかし、実際の「村摂記」による記述は、明確に「内命を受けたる頭は、窪田冶部右衛門」と記述しているのであるから、全く泥舟と鉄舟は関わっていない。

 それを証明するのは清河暗殺後の処分である。暗殺事件後勘定奉行から取り調べを受けたが、泥舟・鉄舟と松岡万は勘定奉行所で行われた。つまり、現代でいえば警察署に出頭して事情聴取されたのである。

 だが、窪田は中条金之助の邸で事情聴取されたのであって、現代の政財界人が任意で「某所にて」というものに似ている。

 さらに明確なのは処罰結果である。

 高橋伊勢守(泥舟)・・・御役御免の上蟄居
 山岡鉄太郎・・・・・・   同じ
 松岡 万・・・・・・・   同じ
 窪田冶部右衛門・・・・御役御免の上差控・・・後に小普請入り

まず、この御役御免であるが、浪士組は新徴組に改編しようとしていたことでもあり当然の処罰であるが、問題は蟄居と差控の内容である。

蟄居とは「自宅の一室に謹慎、外出は許されない」が、差控は「自宅に謹慎ではあるが、行動はあまり制限されない、外出も可能」というもので、蟄居よりは処罰が軽いのであり、加えて、小普請入とは御役御免なのであるから当然で、どうもこの窪田に対する処罰は実質無罪と同じと思われるのである。

この処罰後、しばらく泥舟と鉄舟は幕府から干され、時代の歴史から隠れるが、窪田は二カ月後函館奉行に再登用され、その後すぐに神奈川代官となり、続いて西国郡代に就任しているのである。

このような窪田の動向から推測できるのは、やはり「村摂記」にあるように、清河暗殺には窪田冶部右衛門が絡んでいて、浪士組幹部処罰の手前、表面上一時的に処罰めいた処分をしたが、実際は論功行賞としての人事が行われたと考えるのが妥当と思われる。

 では、窪田冶部右衛門とはどのような経歴か。それを佐倉藩家老で、明治二三年貴族院議員になった西村茂樹が次のように述べている。 

「窪田冶部右衛門といへるは元肥後熊本の藩士なりしが、故ありて藩を出で幕府の士となれり。其居宅は、江戸巣鴨にあり、其邸地の広さ数萬坪ありて周囲に杉を植付け(杉数四萬本ありと云う)其外、梅、柿、桃を多く植え、梅は千本、柿は其実十三駄(注 駄とは牛馬一頭が積む荷物)を得という。其他は尽く麦畑と為し、一家皆耕作を事とし土着武士の風を行う。

 窪田、武芸に長じ、慷慨勇壮の士なり。邸内に七十間の馬場ありて日々乗馬を為し、孫娘の十三四才なるがありしが其娘にも乗馬を学ばしむという。常に幕府初め諸藩の士気の衰敗し士風の惰弱になれるを慨し、やく腕して時勢を談ず。又軍具足を制作することに長ず、(中略)窪田の子は西洋銃陣の法を学び、幕府の歩兵奉行となり、備前守と称す。明治元年鳥羽の戦に戦士す。」(窪田冶部右衛門の賦 西沢隆治著)

 このような窪田について書かれていることから推測すると、窪田冶部右衛門はかなり特異な御家人であったと思われる。なお、窪田の子泉太郎は後日鉄舟と絡む人物であり、この経緯は次回でお伝えしたいが、もう少し同書を敷衍して窪田という人物をみてみたい。

まず第一は、御目見え以下の御家人として七十俵五人扶持という身分なのに、大名の下屋敷に匹敵する広大な土地に住み、耕作に従事し半農半士の生活であることである。

 次に、具足の製作に長じていたようで、この技術力をもって具足の修理から仕立てまでの内職を手広く行っていた。時代はペリーが来航してから、それまでは具足は正月用の飾りものであったのが、急に手入れを行い、新しく作る必要性が発生し、この突如訪れた具足整備ブームによって、窪田家は内職の域を脱する家内工業的な忙しさとなった。当時は皮等をいじるのは下賤の仕事として、卑しく思われていたが、全く気にしないで引き受けていたことも、窪田の特異性を示す。

 加えて、窪田は武芸に長じていた。剣術、槍術、柔術、馬術、水練、鉄砲という武士のたしなみはすべて練達していた。窪田の邸には、親交の深かった川路聖謨(かわじとしあきら)の孫たちや、坂本竜馬を斬ったとされている今井信郎も柔術の稽古に通っていたという。

その窪田の武芸はとうとう講武所にも認められ、すでに五十一歳になっていたが、教授方になり、御家人から御目見得以上の旗本となり、奥詰に出世したのである。

幕末時の奥詰とは、文久元年(1861)に創設された、将軍警護を預かる親衛隊で、総員六十名ともいわれ、講武所の教授方を務めた武芸名誉の旗本・御家人から選任したものである。時の将軍家茂から奥詰衆への信頼は厚く、設置以降必ず将軍の上洛に随行し、長州征伐でも、奥詰は小姓・小納戸といった将軍の身の回りの世話をする者と共に近侍しており、その信頼の厚さは数多い武官の中でも群を抜いていた。

この窪田の手引きによって、実際に清河暗殺が実行されたのは江戸に戻ってからであった。だが、浪士組が京都から江戸に戻るべく出立しようとした矢先、幕命によって新たに浪士組取締として着任したのが佐々木只三郎他であり、いずれも講武所教授方で、旗本の中では屈指の使い手という暗殺チームであったが、どうして江戸への道中で暗殺を実行しなかったのだろうか。道中であるから清河と接する機会は多かったと思われるのに・・。

これについていくつか紹介したい。

まずは司馬遼太郎著の「幕末」からである。

「途中、中山道馬篭の宿の本陣島崎吉左衛門方に入った時、佐々木は、山岡鉄太郎の部屋に余人がおらず山岡が独り坐禅を組んでいるのを見きわめてから、そばににじりよった。

『山岡さん話がある』
『なんだ』
『隣室を確かめてよいか』
『その必要はない。隣りは無人だ。相談というのは、清河を斬ることだろう』
『知っていたのか』
『いや、知らん。あんたが不意に浪士組取締になったのはそんな含みだろうと思った。差金は板倉(伊賀守・老中)さんだな』
『ご想像にまかせる。とにかく、八郎奇妙なり、とさる閣老が申される。あの清河がこのさき江戸に入れば、希代の策士だ。勅諚を笠になにをやりだすか。おそらく江戸、神奈川で攘夷騒ぎをまきおこして、あわよくば天下の一角に旗をあげようとするだろう』
『しかし』
山岡は口をつぐんでから、やがて、
『あんたに八郎が斬れるかね』
『斬れる』
『一人で?』
と、山岡はこわい顔をしてみせた。
『いや、兵略は答えるすじではなかろう。ただ相談役としてあんたに一言申しておくべきだと思って罷り越した。ただしこのこと、くれぐれも清河に明かしてくださるな』
『ご心配には及ばん。口のかたいことだけがわしの取り柄だ。ただし言っておくが、清河をわしはあくまでかばうよ。あれは百世に一人という英雄だ。ただ惜しいことに背景を持たぬ。われわれには大公儀という背景がある。薩長の縦横家たちにも藩の背景がある。そこへゆくとあの男はたった一人だ。一人で天下の大事をなそうとすれば、あちらをだまし、こちらをだまし、とにかく芸がこまかくなる。いますこし、あの男が英雄らしくなるまで生かしておいたらどうだろう』
『上意ですよ』
『あんたは板倉閣老の家来かね。われわれ直参で上意といえば将軍家がおわすだけだ』

 もう一つ紹介したい。子母澤寛著の「逃げ水」である。

 京都から江戸に中山道を十一里下って、第一夜を近江武佐の本陣丸屋一室で迎えたときの、泥舟と鉄舟の会話である。

「謙三郎(泥舟)は声を落して山岡へ耳を貸せというような格好をした。
『新任の出役六名、ちと穏かならん面つきだ。気をつけよ』
『は、わたしもあの時からそれは感じた。六人悉く眼光に殺気がある。隙あらば清河さんをやる気だろう。ね、兄上―――』
とこんどは山岡が謙三郎の耳元へ、
『周防守様から命じられて―――』
といったら、
『これっ』
と謙三郎は激しい声で、
『滅多なことは云うものではねえ』
『は』
『斬っても、斬られても、道中、事があっては、わたしの責が果たせぬ。充分に見張らなくてはならない。旅宿は、殊に眼をはなせんよ』
『承知した』
『江戸へ行って、総人数を確と引き渡した上では、何があろうと、わたしの関せんことだがね。尤も、清河も心得のある人間だ。もうその辺は感づいているだろうな』

いずれにしても、中山道では清河暗殺は未遂に終わったが、それにはもう一つ時代が持つ重要な理由が隠されていたのである。次回に続きたい。

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2010年01月15日

新将軍誕生

山岡鉄舟 新将軍誕生
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

武士など支配特殊階級を除く江戸時代の人口は、幕府が調査を始めた享保六年(1721)で2606万人、最も少ない時で寛政四年(1792)の2489万人、最も多い時で天保五年(1834)の2706万人で(新編日本史図表)、きわめて安定的に推移していた。

武士を含む総人口は、江戸時代後期(1720 年頃)から明治元年(1868 年)までの150 年で、3,100 万人から3,400 万人強へと1.1 倍になった(第一生命経済研レポート 2005.6)と言われているので、この両者人数差の四・五百万人程度が武士など支配特殊階級と推察される。

この階級の中で、幕末期にどの程度の人間が日本の行く先を考え、それに向かって行動したのであろうか。

殆どの武士達は大勢順応主義であって、波のまにまに漂う生き方を送ったのではないかと思う。ただただ、わが身わが家大事に、なるべく傷がつかなきことを祈って、あとは成り行きに任せようとする生き方で、多分、これが90%を占めていたであろう。

残りの10%が真剣に考えていたと思うが、この中でも多くの人間は大勢を批判し、打開策を講じようとしたものの、封建制度の中でどっぷり浸かっていたのであるから、過去からの道徳基盤規準の範囲内で行動せざるを得なく、これが10%の九割方あったと推測する。

残りの10%の一割方、人数でいえば四・五万人程度の人間が、新時代構築に向け、居面打開を図るため、生死を賭してそれぞれの路線上で行動したと思う。

その路線の違いによるぶつかり合いが、幕末時の京都を舞台に政治対決を闘ったのであり、
それは、
①正常期の幕府優位体制への復帰を志向する将軍譜代結合、
②幕府を排除し朝廷と有力外様大名集団、
③孝明天皇と結合した一会桑グループ
であった。

では、清河八郎はどの路線に属していたのだろうか。

清河はどの路線にも入らず、別物で破格のものであったと述べるのは司馬遼太郎である。

清河が浪士組を京都新徳寺に集め、尊王攘夷の志を直接天皇に上書する内容を読み上げたことは前号で述べたが、その上書の最後に以下の文言が付されていた。

「万一皇命をさまたげ、私意を企て候輩、これ有るにおいては、たとい有司(注 役人)の人たりとも、いささか容赦なく譴責(けんせき)仕りたく、一統の決心御座候間、この段威厳を顧みず言上仕り候」

この文言の意味は、皇命に反すれば、幕府の高官役人、つまり、京都守護職であろうが、京都所司代であろうが容赦せずとがめるという意味であり、この上書に朝廷から「上書を嘉納する旨と、攘夷にはげむべきこと」と関白鷹司(たかつかさ)輔(すけ)煕(ひろ)から勅諚を賜ったのであるから、見方を変えれば幕府より上位機関を樹立させたのであり、

このことを持って司馬遼太郎は

「ついに清河の野望が達せられた。清河はこの瞬間、事実上の新将軍になった。あとは浪士組の名において天皇を擁しさえすればよく、その手は、むかし木曾義仲をはじめ織田信長、豊臣秀吉などの歴代の覇王がやってきたところである」と記している。(幕末・奇妙なり八郎 文春文庫)

出羽(山形)庄内・清川村の酒造業斉藤家の長男である清河が、野望としていた「回天の一番乗り」、つまり、天下の情勢を変えるための手段を持ち得、司馬遼太郎が言う新将軍となったわけであるから、一大事件であり、時代を覆すほどの意味ある清河の策であった。

しかし、この成果の見返りは大きい代償となって清河を襲ってきた。それは、組織力を持つ権力側から見れば、不遜で頭が高い体制無視の行動であり、加えて、清河が採った方策は、体制と権力は利用するが、その見返りは自分の益にするものであって、結果として清河の存在自体が憎しみをもたれ、それが清河の身に翳してくるのは当然であった。

つまり、暗殺命令が体制側から出されることになったのである。

だが、徒手空拳の清河には策を講じるしかなかった。上書を再び提出したのである。それは、その時、外交大問題になっていた生麦事件に関する建白であった。

生麦事件とは、島津久光が幕政改革を目指し、勅使大原重徳とともに江戸に向かい、その目的をほぼ達し帰国の途中、東海道生麦村を通りかかった際に発生したイギリス人殺傷事件である。

島津久光の行列と行きあったイギリス人は四人共騎馬であった。騎乗のまま向かってくる四人に、薩摩藩士が手振り身振りで、下馬し道を譲るよう指示したが、これを「わきを通れ」といわれたと思いこみ、わきに寄ろうとしたが四間(7.2メートル)幅の道は狭く、さらに、道に面して民家の生垣があるので、それ以上は寄れず、一瞬馬の足が乱れ、四人の一人リチャードソンの馬が、久光の駕籠が位置する小姓組の列の中に踏み込んでしまった。

その時、供頭の奈良原喜左衛門が走ってきて、長い刀を抜くと同時にリチャードソンの脇腹を深く斬り上げ、刀を返し爪先を立てて左肩から斬り下げた。野太刀自顕流の「抜」と称する得意技である。リチャードソンは騎乗のまま逃げたが、少し離れたところで落馬し、薩摩藩供目付海江田武次によって「楽にしてやる」ととどめを刺された。

もう二人、マーシャルとクラークにも、小姓組の者たちがそれぞれ抜刀し、斬りかかり、深手を負わせたが、アメリカ領事館に逃げ駆け込み、ヘボン博士の手術で命は助かり、もう一人の女性マーガレットは、帽子を飛ばされたが逃げ切ることができた。

これが生麦事件の概要であるが、イギリス本国は激怒し、文久三年(1863)の年明け早々イギリス外務大臣ラッセルから以下の三カ条が申し入れされた。

それは、生麦事件についてイギリス国女王をはじめ政府の最高首脳部が激怒していることが、長々とつづられた後に、以下の三カ条の要求であった。

① 十分に誠意のこめられた謝罪書を、イギリス女王に提出し、賠償金十万ポンドを支払うこと。この二項目の回答は本日より二十日間猶予をあたえるが、これを拒否する場合は横浜港の艦隊が武力行動に出る。

② 薩摩藩に対しては、艦隊を薩摩に派遣し、リチャードソンを殺害し他の者に重傷を負わせた薩摩藩士を捕え、吟味の後、イギリス海軍士官の眼前で首を刎ね、殺傷されたイギリス人の親族に賠償金として二万五千ポンドを支払うこと。

③ これを薩摩藩主が拒否した場合は、提督が全艦隊に対し「相応と思う強劇なる措置」を指令する。

さらに、末尾には殺人を容認した者として、久光処刑を要求すると書き添えられていた。

幕府閣僚たちは、イギリス側の要求について、ある程度覚悟はしていたが、予想以上の厳しいものであることから混乱、落着きを失い、善後策を講じはしたが、雄藩薩摩藩に対して指示できず、また、指示しても無視され、通告された期限が近づくに従い、イギリス艦隊の攻撃に対し、勝算はないものの応戦することになるであろうから、諸藩に合戦準備を命じ、家族たちを国許や知行地に避難させ始め、その動きに江戸市中は大混乱に陥った。

ところで、生麦事件発生当時の日本側の感覚はどうであったのであろうか。

まず、幕府は怒り狂う各国外交官たちに、ひたすら恐縮するばかりで窮地に立ちいたったが、当事者である島津久光は、幕府を無視し、仮名の足軽「岡野新助」なるものが殺傷し、同人は行方不明であるとの届を老中板倉勝静に提出し、行列をそのまま進めて行った。

また、江戸の薩摩藩屋敷では、今回の藩士の処置を当然とし、賞賛する声が高く、さらに、東海道筋の庶民も「さすがに薩州さま」と歓呼し、京都の薩摩藩邸に久光が到着した際には、久光の行列を見ようとして多くの男女がむらがり、薩摩藩を賞賛する声がしきりであり、朝廷も「生麦事件に関するイギリスからの要求は一切拒否する」という朝議をしたほどであった。

このようなタイミングに、またしても清河は以下の上書を奉ったのである。

「私ども儀、微賤ながら尽忠報告のため罷り出で候えば、かく外国御拒絶の期なり候上は、関東において何時戦争相はじまり候もはかりがたく候間、すみやかに東下、攘夷の御固めにお差しむけ下さるべく・・・」

浪士組を、攘夷の固めとして江戸に帰すよう、命令を頂きたいと願ったのである。これに対し、関白鷹司輔煕から達文(たっしふみ)が下された。

「イギリスからの三カ条の儀申し立て、いずれも聞き届け難き筋につき、そのむね応接におよび候間、すみやかに戦争に相成るべきことに候。よって、その方引き連れ候浪士ども、早々帰府いたし、江戸表において差図を受け、尽忠粉骨相勤め候よう致さるべく候」

確かに、関東ではイギリス艦隊の攻撃によって戦争になるという騒動で、またしても清河の策は時宜にかなっていたが、実は、清河の腹の中には別の謀略が潜んでいた。

それは「虎(こ)尾(び)の会」の盟約書に記していた横浜の外国人居留地の焼き討ちであり、その先に攘夷挙兵という壮大な企みであった。

今まで最終目的をここにおき、手の込んだ細工を弄して、浪士組を編成し、京都まできて、勅諚を賜ったのであるから、それを御旗に目的を果たすためには、江戸に帰らないといけない。そのための上書であり、その回答が達文であった。

この達文は浪士組責任者の鵜殿浪士取扱から、将軍家茂に付き従い上京した老中板倉勝静に報告され、板倉はこれら清河の策を見通せなかったことに怒りと憎悪を持ち、

「それにしても、清河をこのままに捨ておけんな。いずれは始末せねばならぬ男だ。京都におくと危険だろう。江戸に返すことにしたい」と、達文を逆に利用して、京都から清河を追い払い、心中に清河を屠る決心を固めたのである。

それ以後の経緯と、新撰組誕生、及び同時に清河八郎暗殺の内命が芹沢以下に伝えられたことは前号で述べた。(永倉新八口述記録「新撰組顛末記」新人物往来社)

さて、その清河暗殺について、同じく「新撰組顛末記」に記されているので紹介したい。

「ある日八郎(清河)が山岡鉄太郎とただふたり、当時土州候の旅館にあてられた大仏寺へでかけることが芹沢の耳にはいった。そこで好機逸すべからずというので十三名は二手にわかれ、芹沢は新見、山南、平山、藤堂、野口、平間の六人とともに四条通り堀川に、近藤は土方、沖田、永倉、井上、原田の五人を同行して仏光寺通りの堀川にいずれも帰途を擁して目的をはたそうと待ち伏せる。永倉の組ではもし待ち伏せしているところへ清川らが通りかかったら永倉がまず飛びだして山岡を後方へ引き倒し『お手向かいはいたさぬ暫時御容赦!』というを合図に、近藤ら五名は清川を斬ってすてるという手順であった。

夜はふけて人通りもまれに水を打ったような京の巷、清川、山岡の両人はなに心なく四条の堀川を通りかかった。とみた芹沢は刀の柄の目貫をしめし足音をしのばせて清川のうしろから抜打ちしようと鯉口まで切ったがふと山岡の懐中に御朱印のあることに気がついてハッと身をしりぞいた。

御朱印というのは将軍家から山岡と松岡万にあたえられた『道中どこにても兵を募ること苦しからず』とあるもので、山岡は江戸発足の当時から天鵞絨(ビロード)の嚢(ふくろ)にいれ肌身離さず持っている。御朱印に剣をかざすは将軍家に敵対するとおなじ意味に当時の武士は考えていたものだ。これがため芹沢はついに剣を抜かずにしまったので清川はあぶない命をまっとうした。また近藤や永倉らがいまかいまかと待っていた仏光寺通りへは清川が通りかからなかったのでこれも無事にすむ。会津候はますます清川を暗殺せよと焦慮するのであった」

ここで言う会津候とは幕府側からの指示と読みかえた方がよいが、いずれにせよ京都では清河暗殺が失敗したのである。

ところで、浪士組が江戸に戻るべく出立しようとした矢先、江戸から幕命によって新たに浪士組取締として六人の旗本が着任した。佐々木只三郎他であって、いずれも講武所教授方で、旗本の中では屈指の使い手である。

勿論、これは幕府による清河暗殺の実行部隊である。次回は清河暗殺とそれに鉄舟がかかわる動きについてふれたい。

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2010年01月05日

山岡鉄舟研究・・・新撰組誕生その三

山岡鉄舟研究  新撰組誕生その三
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

浪士組一行は、文久三年(1863)二月二十三日京都に入った。ちょうど等持院の足利三代木像を梟首するという事件が発生したタイミングで、京都がテロ続発する無政府的状態であり、幕府の権威が地に落ちている実態を改めて知ることになった。

浪士組の本部を壬生村の新徳寺におき、ここで鵜殿浪士取扱いの訓示を受けた後、その日はそれぞれ定められた宿舎、鵜殿や鉄舟以下幕府側は郷士前川壯司宅に入り、他の浪士たちはそれぞれ分散して指定された宿舎に入ったが、落ち着く間もなく、浪士たちには再度本部に集まるよう呼び出しがあり、その日の夜、再び新徳寺に集められた。

何事かと本堂に集まった浪士たちの前には無人の円座があり、それを大蝋燭が煌々と照らしていた。誰によって自分たちは集められたのか、あの円座には誰が座るのか、それを訝しげに見つめていると、やがて清河が入ってきて、円座にぴたりと座ると一瞬ざわめきが広がったが、静まるひと時を待っていたかのように、清河が語りだした。

「お疲れのところ集まっていただいた趣旨について説明したい。そもそも今回の上洛目的は何であったのか。将軍を警備するためという理由であったが、よく考えていただきたい。将軍が上洛するのは何ゆえか。それは尊皇の誠意を示し、朝廷に攘夷を宣するためである。われわれ浪士組も尽忠報国の志ある者は来たれという、募集に応じて集まった草莽の英才であるが、その行動目的は尊皇の誠意を示し、攘夷を実行することである。ならば、将軍と同じ目的であり、そうならばわれらの尽忠報国の志を、出来得べくば上聴に達することが叡慮に奉じることではないだろうか」

将軍と自分達浪士組を対等の地位におく、強引極まる論理である。だが、清河の弁舌には鬼気迫るものがあった。今まで多くの修羅場をくぐり抜けてきた清河のすべてが、この一瞬に凄まじい激流エネルギーとなって、本堂内を漲り通り過ぎ、その迫力に誰も口を聞けず、次の清河の姿を見入った。

「ここに、今申したわれわれの志をしたためた上書がござる。お読みいたそう。よろしいか」と、鋭い視線で一同を眺め渡し、読み上げ始めた。

「謹んで上言奉り候。今般私ども儀上京仕り候儀は、大樹公においてご上洛の上、皇命を尊戴し、夷賊を攘払するの大義、ご雄断遊ばされ候御事につき・・・私どもも同じくただ尊攘の大義のみ相期し奉り候・・・これは幕府のお世話にて上京仕り候えども、禄位等は相受け申さず候。ただただ尊攘の大義のみ相期し候、これ我ら一統の決心にて御座候、この段威厳を顧みず言上仕り候」

つまり、将軍警護ということで上京はしたが、まだ具体的に幕府に命で行動に服していなく、我らの本来使命は尊王攘夷であるから、直接に天皇に上書を奉ることを許可願いたい、という要旨であるが、これが長文となって朗々と読み上げられるので、その文中に尊王攘夷の趣旨とともに、倒幕に転じられる字句が慎重に加えられていることを聞き取れるはずもなく、ただただ圧倒され、反論する余地もなく、清河が読み終わっても、浪士たちは茫然とし、粛然としたままであった。

だがしかし、しばらくすると一人だけ清河に対して野太い声での発言があった。それは芹沢鴨であった。

「奉書はともかくとして、そうするといったいわれわれの身分はどうなるのか」と。この無遠慮な声ではっと気づき同調する者が、芹沢の周囲から上がり、近藤勇の一派もうなずき、微妙な雰囲気になりかけたが、

「ただいまの意見は上書を奉ることに反対ではないと理解する」と、あくまでも強腰で進める清河によって、朝廷に上書を奉ることについてこの場は終わった。

翌日、清河が選んだ六名が、受け付けられなければ腹を切る覚悟で上書を学習院の国事参政取次役に提出、予想通り壁は厚かったが何とか受理され、その結果は二十九日に知らされたが、その際、何とこの年に関白となった鷹司(たかつかさ)輔(すけ)煕(ひろ)から

「上書の言、叡聞に達し、主上は叡感斜めならず、なお言上したき場合は、学習院に参上せよ」との言葉とともに、勅諚を賜ったのである。

勅諚には「上書を嘉納する旨と、攘夷にはげむべきこと」と記した簡単な文言だったが、清河にとっては望外の首尾であった。

何故ならば、これによって浪士組は勅命を受けた真の尊王攘夷党に変身し、勅諚という錦の御旗を持ったゆえ、幕府が簡単に手を出せない存在となってしまい、清河はこの二百名余を実質的に自らの配下として握ることになったからであった。

ところで、ここまでの間、清河は鉄舟に対しても、一連の行動を相談せず報告もしなかったが、決死の六名が学習院に向かった後、前夜の顛末を含めて伝えた。

さすがに鉄舟は驚き、強引なやり方に一瞬沈痛な顔つきとなったが、結末を鵜殿に報告、鵜殿は老中の板倉勝静に伝えたのである。

板倉は驚き、怒り、清河に対する不信感をさらに増したが、勅諚を握られていては何とも致し方ない。
「それにしても、清河をこのままに捨ておけんな。いずれは始末せねばならぬ男だ。京都におくと危険だろう。江戸に返すことにしたい」と独り言のように述べ、

「清河を江戸へ追いやるが、二百名をすべて与えることはない。党というものは、必ずその中に不平の者がいるはずだ」
「確か、芹沢鴨や近藤勇などが異論を持っているようで」
「それだ。京都に残ってあくまでも将軍警護に励みたいという者を切り崩すのだ」
「弱音を吐くようでございますが、こうなりますとそれがし一人では荷が重く、しかるべき人物を頭株にお加えいただきとうございます」

この申し出に板倉は苦笑しつつ、すでに頭の中にはある人物を思い浮かべていた。

それは将軍に伴って上洛した奥詰槍術師範の高橋謙三郎(泥舟)であった。早速、泥舟を諸太夫に任じ、伊勢守とし、新たに浪士取り扱いとしたのである。

一方、鵜殿は内々京都残留者を募り、予測どおりそれに応募してきたのが芹沢、近藤等十三名であった。

二月二十九日、浪士組は全員新徳寺に集められ、席上、江戸への帰還が伝えられたが、異議を申し出たのが芹沢であり、近藤であった。

この経緯については、新撰組幹部生き残りである永倉新八が口述した記録「新撰組顛末記」(新人物往来社)に以下のように記されている。

「芹沢鴨以下十三名の同志に江戸帰還を反対された清河八郎はいかり心頭に発し、『お勝手に召されい』とばかり、畳をけって席を立った。十三名はその足で鵜殿鳩翁をたずね委細を話すと鵜殿も芹沢らの意見にしごく同意し『そのしだいは拙者から会津候へ伝達するであろう』ということとなり、会津候すなわち松平肥後守は『この十三名は当藩であずかる』と芹沢らをあずかることになった。そこで八木の邸宅の前へ『壬生村浪士屯所』と大きな看板をかかげ十三名はここに独立した。同時に清川八郎暗殺の内命は会津候から芹沢以下に伝えられたのである」

ここに京都守護職である会津藩のお預かりとして、新撰組が誕生し、幕末史を血で染めるテロ集団がスタートしたのであった。

このように近藤勇や芹沢鴨のグループが、会津藩を頼って浪士組を離脱したわけであるが、ここで検討しなければならないのは、何故に会津藩が京都に在勤しており、会津藩が新選組をお抱えにしたかである。

それは、会津藩が「京都守護職」に任命されたからであるが、この新たに設置された京都守護職という機関は、文久二年(1862)六月、島津久光とともに幕政改革の勅使として大原重徳が派遣された結果、七月に一橋慶喜が「将軍後見職」に、松平慶永が「政治総裁職」となり、この二人の決定により八月に「京都守護職」が設置されたのである。

その経緯を渋沢栄一編の『昔夢会筆記/徳川慶喜公回想談』(平凡社)、これは明治も終わりに近い頃、かつて一橋家の家臣であった渋沢栄一が中心になって、まだ元気だった慶喜を囲んで、幕末当時の事情を聞くための座談会を開いてまとめたものであるが、その中で慶喜は次のように語っている。

「京都の方は昔から所司代で間に合うのだ。けれども所司代は兵力が足らない。ところで浪人だの藩士だのが大勢京都へ集まり、なかにも長州だとか薩州だとか、所司代の力で押さえることはできかねる。そこで守護職というものができたんだ。その守護職のできた最初の起こりというものは、所司代の力が足らぬから兵力を増そう、そこで兵力のある者をあすこに置こうというのが一番最初の起こりだ。それで肥後守が守護職になった」

しかし、この慶喜の発言と異なる別の背景があったことが、徳富蘇峰著『近世国民史/文久大勢一變』(民友社)によって述べられている。

「元来井伊家は、其の封を江州彦根に享けて以来、京都の保護を、其の任務の一としてゐた。然るに外交問題の発生以来、水戸斉昭が、頻りに京畿の防備の不完全なるを痛論し、・・・(途中略)・・・主上にも井伊家の防備にては御安心あらせられず。殊に萬延元年三月三日井伊直弼の横死以後は、猶更らのことにて、京師の防備は、刻下の急須なる問題となって来た。加之(しかのみならず)京都には諸浪士入り込み、随分血醒(ちなまぐさ)き仕業も出で来り、愈々其の安寧秩序を維持するに、武装的實力を必要とする場合となって来たから、守護職の制定は、一日も忽(ゆるがせ)にす可からざる事となった。

折しも島津久光が、大兵を率ゐて上京したから、朝廷にては薩藩をして、此の任に當らしめんとの思召(おぼしめし)が無いでも無かったが、それには薩藩と相對の地位を占むる長藩では固(もと)より懌(よろこ)ばず、さりとて幕府に於ても、之を薩の一手に任ずるは、尤も危険としたる所にして、斯(か)くて幕府とは切っても切れない関係ある會津が、其撰に中りたるは、當然過ぎる程當然であった」

また加えて、蘇峰は同じ『近世国民史/尊皇攘夷篇』で次のように補足している。

「惟(おも)ふに幕府が會津藩主を、京都守護職に任じたるは、當時の政策としては、尤も機宜に適したるものであった。會津藩は薩長二藩に對抗する程の實力を有しなかったが、それでも各一藩に對しては、互角の勝負をなす可き位置を占めた。第一其の資望は、所謂(いわゆる)る幕府御家門の一であれば、固より申分は無かった。藩祖正之以来尊皇奉幕を、唯一の目標としたれば、公武合體(がったい)は、傳家の政綱と云ふも可なりだ。加之従来文武を奨励し、特に北方の強として聞こえたれば、誰も其の武を侮るものは無かった」続けて

「松平容保は明けて文久三年正月二日始めて参代し、小御所に於て龍顔を拝し、天盃を賜った。且つ傳奏を以て、前年幕府に建白し、勅使待遇の禮を改め、君臣の名分を明らかにしたる功を叡感あらせられ、特に緋の御衣を下賜せられ、戦袍(せんぼう)(注:陣羽織)若しくは直垂(ひたたれ)(注:武家の礼服)に製す可しとの御沙汰を被った」さらに

「松平容保は、始めて天顔を拝したが、爾来彼は孝明天皇より少からざる御信頼を忝くし、専ら輦轂(れんこく)(注:天皇の乗り物)の下にありて、安寧秩序の維持に任じ、誠心誠意その對揚につとめた」

このような蘇峰の記述は何を意味しているのだろうか。

それは、京都守護職という幕府によって新設された機関が、一方で幕府の命を受けつつも、同時に朝廷の命令・指示も不断に直接受領する存在になっていたという事実実態であった。つまり、朝廷と幕府の結合と融合を第一目的とするために、幕末期における特有の新しい政治機関が誕生していたという実態認識と、孝明天皇が松平容保へ強い信頼をおいていたという事実であり、さらに、これは会津藩が京都守護職という立場を通じ、朝臣化への動きにつながっていったと思われるのである。

このことが一般的にあまり理解されていないが、これを鋭く指摘しているのは前国立歴史民俗博物館館長である宮地正人著『歴史の中の新選組』(岩波書店)である。

「将軍後見職の一橋慶喜も、一八六四(元治元年)年三月、“禁裏守衛総督摂海防禦指揮”に、朝廷から直接に任命されたように、幕府の指揮圏から離れ、朝臣化の途をたどることとなる。さらにその直後の四月11日京都所司代に、京都守護職会津藩主松平容保の実弟で桑名藩主の松平定(さだ)敬(あき)が就任するに至り、ここにおいて、時の世に『一会桑』と称せられる、京都の朝廷と江戸の幕府を政治的に媒介する“京都朝幕政権”とでも表現しうるものが成立してくるのである。

従って、幕末期の政治過程は、
① 正常期の幕府優位体制への復帰を繰り返し執拗に志向する、私の用語でいえば『将軍譜代結合』といいうる政治集団、
② 幕府を排除しつつ朝廷と諸大名(特に有力な外様諸大名)との直接結合を狙う、長州や薩摩などの外様諸藩の政治集団、そして
③ 孝明天皇とのしっかりとした結合の中のみ、幕府の唯一の活路が見いだせるとした一会桑グループという、三つの政治集団の複雑で錯綜した政治闘争の過程にほかならない」と。

このあたりの理解がないと、慶喜の江戸無血開城におけるすっきりしない行動心理背景と、官軍が会津藩攻撃を徹底目的とした背景がつかめないと思う。

いずれにしても、新撰組の誕生の背景には、このような新しい政治動向関係が複雑に絡み合っていたことを理解したい。次回は清河が江戸に戻り非業の最後をとげ、それに鉄舟がどう関わっていたかについてふれたい。

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2009年11月10日

新撰組誕生その二

 新撰組誕生その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

徳川幕府が、安政五年(1858)に米英仏蘭露の五カ国と修好通商条約を結んで150年に当たる2008年、この記念として各国で様々なイベントが開催され、そのひとつとしてロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館(V&A)で「山岡鉄舟書展」が開催されたが、こちらは鉄舟没後120年も併せてであり、期間は二〇〇八年九月三日から十二月十四日まで開催された。鉄舟も国際的に認識されつつある。

早速にV&Aを訪ねてみた。同館はロンドンのサウスケンジントン駅から歩いて10分。
世界中から蒐集された膨大なコレクションが所蔵展示されている。
 
正面玄関を入り、ホールを右手に行くとJAPN展示室があり、そこを入って右側壁面全部に鉄舟書が展示されている。真ん中あたりに展示されている「龍虎」大書が眼に飛び込んでくる。鉄舟の書はロンドンでも異彩を放つ迫力である。

 鉄舟のほかに海舟と泥舟の書もあり、最後に故寺山旦中先生の書も展示されていることから分かるように、二松学舎大学教授であられた寺山先生所蔵書によっての開催である。

 寺山先生は筆禅道、これは筆で禅を行ずる意味であるが、その由来は鉄舟が大悟され「余、剣・禅の二道に感ずる処ありしより、諸法皆揆一なるを以て書も亦其の筆意を変ずるに至れり」と覚他されたこと、つまり、剣と禅で自覚するところがあったら、書の筆勢が変わったということであるが、この後継者が寺山先生で、二〇〇一年にもV&Aで寺山先生所蔵の書展を開催していたことから、今回も展示されたのである。

さて、本題に戻って清河八郎であるが、その動きを跡付けていくと、方向転換・転向に当たり、ひとつの原則に則っていることに気づく。それは時代の変化を見逃さず、それを活用するということである。と前号で述べ、その事例として、幕末時の巷には浪士が溢れ、犯罪または、天誅という名のもとに問題を起こしている、そこに目をつけた浪士組結成献策提案であったことをお伝えした。

では、何故に結成したばかりの浪士組が、寛永年間の三代将軍家光の入洛以来二百数十年ぶりの家茂上洛に先立って、京都に先行することになったのか。

それは、時の政治が朝廷に移り、京都では凄まじいまでのテロが続発していた、という現実状況をつかまないと理解できない。少し遠回りになるが、そのあたりをお伝えしたい。

島津久光が一千余の藩兵をひきいて京に乗り込み、朝廷の承認を得て幕府改革を目指すべく大原重徳とともに江戸に向かったのが文久二年(1862)六月であるが、この久光出兵は公武合体論、つまり「航海遠略策」を認識したものであった。

「航海遠略策」とは長州藩の長井雅楽が説いたもので

「京の朝廷は条約の即時破約を仰せ出されているが、一旦外国と結んだ条約を理由もなく破棄すれば、たちまち戦争になるだろう。そうなれば数百年太平に慣れた武士を戦に使ってもどれほどの戦力になろうか。戦争というのは十分の勝算をもってやるのが古今の名将の道である。軽々しく戦いをおこして無策の戦争をし、国を敗亡させた例は古来かぞえきれない」

と長井は攘夷の愚を説き、さらに続けて

「皇国のためには、京都、関東ともこれまでのわだかまりを氷解して、朝廷のほうから改めて航海を開き、武威を海外に揮い、外夷の脅迫をおしかえす方策を関東に命じれば、ご威光も保たれ、関東もこの勅命にしたがって列藩に命令を下すだろう。そうなれば国是遠略は天朝から出て、幕府がこれを実行に移すという、君臣の位次も正しくなり、たちまち海内一和となり、海軍を整備し、士気が奮いたてば、五大洲を圧倒するのは容易であろう」

というもので、孝明天皇も幕府も最もであると、これに飛びついたのである。

だが、この動きに危機感をもったのが長州である。これでは攘夷は不可能となる。あくまで攘夷を実行せねばならない。そのためには我が長州藩から出した説ではあるが、これを破棄し、主唱した長井雅楽を切腹させ、尊攘路線に戻すべきであると、京都三条河原町の藩邸で、藩主毛利敬親出席の下に御前会議を開き、従来路線の「航海遠略策」から大きく一転させ、「破約攘夷」という攘夷実行路線に藩是を決定したのが七月初旬であり、これによって京都での主導権挽回を図ろうとしたのであった。

また、この路線変更は表向き孝明天皇の叡慮を奉じたものであった。天皇は攘夷策を「断然」堅持すると繰り返して言明されていた。幕府が攘夷策を捨てるならば、その時は「決心」して、天皇自ら攘夷の親征を行うと表明するほどだったが、この叡旨を実行すべく藩論を統一した長州は「幕府が独断で締結した条約はあくまで拒絶され、破約攘夷を幕府に申し付けられますように」と、急進派公家三条実美らと組んで、強烈な巻き返しを始めた。

この長州藩の動きによって、抑圧されていた尊王攘夷派が表舞台に登場し始め、朝廷は幕府に攘夷実行の勅使として三条実美・姉小路公知の二人を江戸に派遣したのが同年十一月。将軍家茂は江戸城で勅旨を受け取り、「破約攘夷」を奉ずるべく上洛を了承し、勅使は「臣家茂」と署名した奉書を持って京都に帰った。将軍上洛は徳川家が天皇の下にあることを天下に示す狙いであり、また、この動きの背景に長州藩がいることは天下周知であって、これは京都における尊皇攘夷運動の主導権を長州が握ったことを意味した。

ところで、長州藩が「航海遠略策」から「破約攘夷」に一転させた頃、文久二年夏あたりから京都では天誅という暗殺、脅迫がしきりに起きるようになっていた。尊攘過激派による巻き返しを狙ったテロである。
テロに狙われたのは、安政の大獄などで幕府のために活躍し、尊攘派の怨みをかった者や公武合体運動、とくに和宮降嫁に関係した公卿などであった。

天誅の第一弾は同年七月、幕府派の九条関白家家臣、島田左近であった。犯人は薩摩藩士田中新兵衛らであり、左近の首は四条大橋に梟首された。その経緯が「妾宅で行水しているところを襲われ、耳を切り、鼻をそぎ、目玉をくりぬき、両手の指を引き裂き、舌を引き抜いた後、首を切りちぎった胴体を路上に放置、何者の死体か分からないまま検視が済んだが、その後四条大橋に梟首された」という惨い殺され方が、京都市左京区の岩倉実相院の日記、これはこの寺の歴代門主に仕えた坊官が二百六十年にわたって書きついだものであるが、この中に書かれている。

また、公武合体運動を進めた岩倉具視、千種有文、富小路敬直、久我建道と、女官の今城重子と堀河紀子は「四奸二嬪」とされ、一部廷臣や尊攘過激派に脅迫され、ついに官を辞し、頭を丸めて京都郊外に住む身となった。岩倉邸には幕府派浪士の片腕が投げ込まれるほどだった。九条関白も辞職し、同じく頭を丸めて謹慎した。

当時の脅迫者について中山忠能は次のように述べている。

「かれらは長薩藩士でなく、浮浪烏合の者で、勤王問屋といわれている。まったく勤王を名として、今日を暮らし、その説が追い追いに伝染している」(開国と攘夷 小西四郎)

ところが、近年、明らかになったのは、「四奸二嬪」に対する排撃と天誅は、驚くべきことに摂家の近衛家から薩摩藩への依頼によってなされていたのである。だが、近衛家も、九条家の動向には疑心暗鬼、九条家側の配下による暴力におびえきっていて、公卿政争は、幕府側(前関白九条ら)と薩摩派(関白近衛ら)の陰惨きわまる暗闘にも発展していたのである。(幕末・維新 井上勝生)

次の天誅標的は同年八月の目明し文吉であった。安政の大獄の際、志士の逮捕に当たった者であり、屍は三条河原にさらしものにされた。

同じ八月に、外国貿易を行っていて、以前から天誅を加えると脅迫されていた、葭屋町大和屋庄兵衛の店を浪士が襲い放火した。

さらに十一月、井伊大老の謀臣長野主善の妾たかが、隠れ家を襲われ捕われ、三条大橋の柱に縛り付けられ、生き晒しにされた。捨て札に「この女、長野主善妾として、戊午(安政五)年以来、主善の奸計あい働き、まれなる大胆不敵の所業をすすめ」とあった。

天誅は京都町奉行所の与力、同心、その手先や関係者にも及んだ。結果として奉行所全体が士気沮喪し、治安機能が喪失していった。

翌文久三年(1863)二月には、平田国学(平田篤胤の主張した尊王国学)の有力門人が中心となって、等持院の足利三代木像を梟首するという事件が発生した。

岩倉実相院日記に「足利氏のように朝廷を軽んじて、自分のしたい放題のものは、たとえ今の将軍であっても、このように梟首するのだ」と斬奸状が記録されているように、これは幕府を侮辱したものであるから、京都守護職が犯人を逮捕しようとしたが、町奉行永井尚志や与力等は、在京の諸藩・浪士を逆に激昂させるだけだと、反対するほど消極的であった。だが、何とか逮捕した結果は、長州藩はじめとして外様諸藩が猛然と抗議を広げ、在京の浪士も同調するなど無政府的状態となっていた。幕府の権威は地に落ちていた。

この実態を清河はよく知っていた。全国を歩き、その地の状況を記録し、多くの志士と激論を交わし、島津久光の上京を機として事を図ろうと画策したわけであるから、京阪地区の混乱は当然熟知しており、それを把握していたからこそ浪士組を発想したのである。

また、幕府中枢部も同様に京都における混乱状態は十分に把握し、問題視していたからこそ清河の献策について、時宜を得たものとして受け入れ、無政府状態の京都に将軍家茂が上洛するのであるから、事前に将軍警備強化目的で浪士組を派遣したのである。だが、もうひとつの理由は清河に対する不信感である。

浪士組という時を得、的を射た献策に納得し、幕府内からはこの機会に清河を幕臣に取り立ててはどうかという声が上がり、清河に対し浪士募集の補助役として重用したいと伝えたが、清河はきっぱり断ったことは前号で述べた。

この結果は、やはりこの男は油断ならぬ、幕府に対し何かを仕掛けるのではないかという警戒心をもたせ、浪士組組織体制から清河を外すことにつながったが、加えて、出自も明らかでない二百数十名もの浪士混ぜこぜ部隊が江戸にいては、何かの問題を起こすのではないかという懸念もあったので、京都へ先行させたのであった。

さて、浪士組は板橋を通って中仙道を木曽路に向かった。この道中、問題は芹沢鴨である。芹沢は神道無念流の免許で、力量人にすぐれ、平素「尽忠報国の士芹沢鴨」と彫った三百匁(約1.1キロ)の鉄扇を握って、何か気に喰わないと、喉が裂けるほどに怒号したという。常陸芹沢村の郷士で、元天狗党である。本名は木村継次、短気で我儘で乱暴で、ひとかどの人物ではあるが扱いにくい。

天狗党時代、潮来の宿で、何かいささか気に喰わぬことがあるといって、部下三名を土壇場(斬罪を執行するために築いた壇)に並ばせ、片っ端から首を斬ったり、鹿島神宮へ参詣して、拝殿の太鼓があまり大きくて目障りだといって、鉄扇で叩き破るなど、その行状の悪さに事欠かない。

道中は板橋、蕨、浦和、大宮、上尾、桶川、鴻巣、熊谷、深谷を経て本庄宿に着いた。道中の宿割りは取締付池田徳太郎の手伝役として近藤勇が担当していたが、本庄宿に着いた時、どうしたわけか芹沢の宿手配を忘れしてしまっていた。

池田も近藤もしまったと思い、すぐに芹沢のところへ「芹沢先生、拙者の粗忽で申し訳ない。他の宿を手配するのでしばしお待ち願いたい」と詫びをいれた。だが、芹沢は横向いたまま「いやご心配は無用。宿無しの拙者に考えがござる。今夜は篝火を焚いて暖をとる。その篝が少し大きいかもしれないが心配なさるな」と言い、日が暮れるとすぐに木材を手当たり次第集め、それを宿の真ん中道で天にも上るような焚き火をしだした。火の粉は本庄宿中に飛び散って、住人はいつ火事になるか心配で、水桶を提げてはらはらして火を見つめるばかりである。

この一件は、池田と近藤が三拝九拝して、ようやく芹沢をなだめたが、その後も我儘はやめない。さすがに鉄舟はこれに勘弁なりかねて、あと四日で京都に入る中山道五十三番目の加納宿に入った時に、芹沢に向かって「拙者は、ここで辞職し江戸に帰るので、なにぶんよろしく」と挨拶した。

これには芹沢も面食らった。この浪士組の実際のリーダーは鉄舟である。浪士取扱いの鵜殿鳩翁は高齢でもあり、駕籠でついてくるだけである。浪士取締役には虎男の会同志であった松岡万や池田徳太郎、石坂周造、村上正忠と、清河の実弟熊三郎らが幹部として携わっていたが、仲間から一目置かれている鉄舟が実質的に責任者である。

その鉄舟に辞められては浪士組がうまく機能しなくなり、その結果は幕府との関係もまずくなる、とさすがに芹沢は判断し「拙者の我儘についてさような事を仰せられるならば、拙者は今後充分行動を慎む」と、鉄舟を引きとめたのであった。(新撰組始末記 子母沢寛)

次号は清河の謀略によって、浪士組から新撰組が誕生する経緯を述べたい。

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2009年10月10日

新撰組誕生その一

新撰組誕生その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

最初に訂正を申し上げたい。二〇〇八年二月号で、元治元年(1864)八月五日に行われた、いわゆる四国艦隊の下関攻撃によって奪われた長州の大砲について、翻訳家・日仏文化交流研究者の高橋邦太郎氏(1898年-1984年)が書かれた「パリのカフェテラスから」から、以下のようにお伝えした。

「四国艦隊の下関攻撃で長州藩の大砲六十門が捕獲され、このうち二門が戦利品として、フランスに持ち帰られ、今なお、パリのセーヌ河畔のナポレオンの墓所として有名な、アンヴァリット(廃兵院)前の広場にさらしものになって、パリを訪れる観光客は毛利侯の紋章を好奇の目を輝かして眺めている。山口県では、この大砲の返還をしばしばフランス政府に交渉したが、ナポレオン一世以来、戦利品を敗戦国に返した事例のない理由で容易に承知しない」

先日、パリに行ったついでにアンヴァリットに立ち寄り、広い庭に展示されている各国から捕獲した大砲を全部チェックしてみたところ、日本の大砲は見当たらなく、建物内回廊にある大砲も調べてみたが、長州砲は見当たらない。見落としたかと思い翌日も行き、再確認してみたがやはりない。

そこで、いろいろ調べてみたところ、何とすでに日本に里帰りしていることが判明した。戻っている場所は下関市立長府博物館。早速訪問し、学芸員の方から詳しく事情をお伺いしたところ、直木賞作家の古川薫氏の努力と、一九八三年(昭和五八年)当時の安倍晋太郎外務大臣による交渉によって、長府毛利家に伝わる紫糸威鎧をアンヴァリットに貸与して、相互貸与という形で天保一五年(1844)製の長州砲一門が、一九八四年(昭和五九年)に戻っていたのである。

この里帰りの経緯については、古川薫氏の「わが長州砲流離譚 毎日新聞社刊」に詳しく記されている。だが、同書によれば、アンヴァリットにはまだ二門の長州砲が残されていると書かれ、その実在有無と保管状況が心配だ、ということも記されている。そこで、古川氏に連絡を取って、筆者が再度現地に行き、確認してくることになった。次回はアンヴァリットの管理当局に正式なアポイント取って聞いてみるつもりである。

下関市立長府博物館に保管されているのは「荻野流一貫目青銅砲」である。砲身の長さ1.6メートル、内径8.7センチ、砲身に郡司喜平冶信安作と銘があり、唐草模様の装飾がほどこされている。

さて、清河八郎に戻りたい。

つまらない理由で、伏見寺田屋事件に巻き込まれず、生き残った清河は、文久二年(1862)江戸にもどり鉄舟と再会、その後水戸に向かい、そこで大赦嘆願書「幕府に執事に上る書」を書き上げ、鉄舟を通じ政治総裁松平慶永(春嶽)に提出した結果、文久三年(1863)一月、北町奉行浅野備前守から、正式の赦免の沙汰がおりることになった経緯は前号でお伝えした。

実は、この正式赦免がおりる前、同様に多くの者からも大赦願いが提出されており、幕府内でも捨て置きがたく、検討の動きが出始めていたことを鉄舟から聞いた清河は、突如として一つの謀策を閃かした。その閃き着想原点は幕府の懐に飛び込むことであった。

清河の動きを跡付けていくと、方向転換・転向に当たり、ひとつの原則に則っていることに気づく。それは時代変化という条件の活用である。

例えば清河は、桜田門外の変を契機として国事に奔走しはじめたのであるが、これは、世の中の変化はもはや儒者となって世に尽くすことではなく、動乱の中から新しい仕組みを作り上げていく時代だと認識したこと。

その契機は、井伊大老暗殺事件を自らの手で分析整理し、美濃紙二十枚にも及ぶ「霞ヶ関一条」を書き上げたとき、時代は変わっている、名も身分もなき者、自分と同じような出自の者、それが天下を動かし、変えることが出来る時代になっているのだと認識した途端、今まで目指していた学者を捨て、時代の改革者に向かおうと、自己変革を起こしたのであるが、これは時代・時流の変化という条件を活用した転換であった。

さらに、文久元年(1861)五月、虎尾の会を潰し、清河を逮捕する口実をつくる罠だった岡っ引き殺害事件から、全国逃亡の旅に出たのであるが、これを機会として京都で田中河内介を知り、中山忠愛の親書を受け、「廃帝」の噂を広めつつ九州各地を遊説し、島津久光の上京を機に、三百人ほどの尊攘志士を京都に集めた手腕である。それは「薩摩藩出兵」という事実条件を、自分に都合よく利用したものではあるが、時代・時流をチャンスとしてとらえるという、条件活用力に優れていることを示している。

今回もそうである。大赦嘆願という動きが出て、幕府とつながりができそうな環境条件下になったと認識した途端、一つの謀を浮かべたのである。

幕府が関心持つであろうこと、つまり、幕府が困っていることで、それを解決することによって、幕府の懐に飛び込める策、それは、浪士の募集であった。

巷には浪士が溢れていた。仕官していない武士は、何かを求めて世に生きようとしているが、それが幕末という時代情勢下、犯罪または、天誅という名のもとに問題を起こす浪士たちに幕府は手を焼いていた。これに目をつけたのが清河の「浪士募集」策だったのである。

この「浪士募集」策を、鉄舟を通じ松平上総介から、自分の意見として幕府閣僚に献策してもらったのが同年十月。松平は家康の六男忠輝の後胤である名門であり、講武所の剣術師範役並出という立場からの見解であり、かつ、浪士を集めて取り締まり、非常の用に役立てるという趣旨も時局に合致しているので、政治総裁松平慶永、老中板倉勝静が受け入れることになったのである。

これを見た清河はさらに次の手をうった。それは翌月十一月の「急務三策」献策であった。「攘夷の勅命を報じること」「天下に大赦をほどこすこと」「天下の英才を教育すること」の三つであり、これは大赦令と浪士募集の両者を画策するものであり、これを政治総裁松平慶永と関白近衛忠煕に建白書として提出したが、その冒頭は次の如くであった。

「臣聞く。国家の将に興らんとするや、必ず大なる機会あり。その将に亡びんとするや必ず此の機会を失う。機会は勢いなり。勢いの至るは至るの日に至るにあらず。必ずや善積して然るのみ。一日これを失えば必ず他人の有となる。深く察せざるべからざるなり。故に敢えて当今『急務三策』を陳ぶ」(山岡鉄舟 小島英煕 日本経済新聞社)

唸るばかりの鋭さと、時流をとらえたタイミングである。ここに清河の本来姿が顕れている。それは理論家としての本質である。もともと学者を目指した本質が出ていると思う。頭で説得するという性向であろう。

結果は同年十二月に、幕府は大獄関係者の釈放に手をつけ始め、松平上総介に対し、正式に浪士募集が下命された。松平はすぐに水戸にいる清河に使いを出して、江戸に来るよう伝えた。この時点では、鉄舟から浪士募集策の発案者が清河であることを聞いていたので、実務推進の協力を求め、早速に打ち合わせをもつためである。

このとき、幕府内からは、この機会に清河を幕臣に取り立ててはどうかという声が上がり、清河に対し浪士募集の補助役として重用したいと伝え、召し出しを年末暮れにしようとしたが、清河は丁重ではあるがきっぱり断った。しかし、これは清河という人物に対し、やはり油断がならぬ男だという警戒心を幕府首脳に与えたが、清河は意に介さなかった。

何故なら、すでに清河の心中には次の謀策が芽生えていたからである。これは最も親しい鉄舟にも漏らせない密計であった。その訳は、清河には「たとえ渇しても、幕府の水は飲めない」という強い執着した一念と積怨があり、鉄舟が幕臣である限り口を滑らすことができない筋書きであったが、これが清河の命を落とすことに通じる結果となるものであった。

浪士組結成には、責任者の浪士取扱いとして松平上総介と、子普請組隠居の鵜殿鳩翁が任命された。鵜殿とはペリー再来航時、日米和親条約締結の際の応対係を命じられた海防掛で、安政の将軍継嗣問題においては一橋慶喜(徳川慶喜)を支持し、井伊大老に反抗して左遷させられたという気骨ある老練な幕吏である。

浪士取締役には、鉄舟と虎男の会同志であった幕臣松岡万が就任、同仲間の池田徳太郎、石坂周造、村上正忠と、清河の実弟熊三郎らが主要メンバーとして参加した。

浪士の応募条件は「公正無二、身体強健、気力荘厳の者、貴賤老少にかかわらず」とあるがほとんど無条件で浪士を取り込み始めた。

こうして集めた浪士は多士済々であった。浪士とは主家を去り、禄を離れた武士であって、本来浪人と称していたはずだが、この頃になると町人や地方の豪族の子弟などで剣を学び、書を読むようになった連中が、国事を語り攘夷を論じ、勝手に苗字を名乗り、刀を帯び、武士の仲間入りをしてしまうことが多くなっていて、幕府はこれらを取締する力を失っていた。時代は時の階級制度を崩しつつあったのである。これを証明するように、集まった顔ぶれは異彩の人材であふれていた。

例えば、芹沢鴨は水戸藩を脱藩し、天狗党に加わって暴れまわっていた人物。松前藩の浪人永倉新八、松山藩の脱藩者原田左之介、仙台の浪人山南敬助などもいた。

百姓出身もいた。代表的な存在は近藤勇である。小石川の天然理心流試衛館道場主だが、もとは武州の農民三男である。近藤と同志の農民四男の土方歳三もいて、ご存じのとおり後に新鮮組局長、副長として活躍するが、幕末史に一瞬の光彩を放った新鮮組の産みつけは、清河の策謀によりなされたといえるのである。この詳しい経緯は次号にお伝えしたい。

中には無頼漢もいた。山本仙之助であり、甲斐の祐天として知られたばくち打ちである。子分二十余名を連れて応募してきた。

まさに玉石混合の混ぜこぜであり、文久三年(1863)二月四日小石川伝通院の子院処静院に集まった人数は二百人を突破した。当初、清河が計画した人数は五十名である。予定していた手当金で間に合わなく、当然、責任者の松平上総介は問題として清河を責めたが、押し切られ、責任をとって松平は浪士取扱い辞任することになった。

浪士組は将軍家茂の二月十四日上洛に先立って、京都に先行することになった。ただし、この度の将軍家茂上洛には幕府内で激しい議論が闘わされていた。

前年の六月、幕府への勅使として大原重徳が派遣され、一橋慶喜を「将軍後見職」に、松平慶永を「政治総裁職」という幕政改革とともに、「将軍が上洛し国内一和、攘夷決行を議す」ことを伝え、十月には三条実美、姉小路公知を勅使として、再び攘夷を督促してきた。

朝廷の矢つぎ早の攘夷督促の背後には、京都における長州、土佐の尊攘勢力がけしかけていたのであるが、幕府内では既成事実である開国を、一変鎖国攘夷に転じるのは、外国に対する信義を失い、戦争状態になる愚挙であるという意見と、朝廷からの攘夷を天下の公論とし、一時は攘夷を実行した後、改めて開国を論じられるべきとの論とが真っ向から対立した。

それは一橋慶喜と松平慶永の対立であったが、最終的に、ともかく攘夷一本にまとまり、将軍上洛を文久三年の春に実現し、勅諚の攘夷日程、方策について上洛の際に委細申し上げると、奉答書を出したのであった。

将軍の上洛は、寛永年間の三代家光の入洛以来二百数十年ぶりのことである上に、この度の上洛は京都に尊攘派が待ち構えている。

新たに徴募した浪士組は、将軍上洛の護衛として、京都に先行すべく二月八日江戸を出発、中仙道を選んだ。

浪士組は一班三十名で七班、それに取締付きが加わって二百数十名。その隊員の中に清河の名はなかった。その清河は隊伍に加わらず、鉄扇を手に、隊の後になり、先になり悠然と歩いて行く。

しかし、隊のすべての者がいつの間にか「あれが清河か」と、浪士組募集の発案者であることを知るところとなったが、隊に加わらず、かつ、離れずに道中を進める清河を訝しく見つめるのであった。

だが、玉石混合の混ぜこぜ隊では、起こるべくして当然のいざこざが発生する。それは暴れ者の芹沢鴨によって引き起こされ、これを鉄舟が処理するのであるが、その経緯と京都に着いてからの清河の謀略と、そこから発生した新撰組誕生については次回お伝えする。

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2009年09月10日

尊皇攘夷・・・清河八郎その六

尊皇攘夷・・・清河八郎その六
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

薩摩藩の島津久光が藩兵千人を率いて上京したのは、前藩主島津斉彬の意図を継ぐもので、兵力をバックに幕府に改革を迫るものであったが、その行動は周囲に大きな波及効果をもたらした。
それは、周囲にいまにも「攘夷」が決行されるかのような雰囲気を生じさせ、それに乗じた清河八郎の檄文攻勢によって、続々と京都に尊攘志士達が集合したのである。

しかし、これほどあからさまな誤解はなかった。久光の意図を冷静に推察すれば「攘夷」を実行しそうな気配はなかったのだが、時勢にはそのような履き違いをおこさせ、尊攘志士達が沸き立ってしまうことを抑えきれない何かが存在していた。

結果は伏見寺田屋事件となって、薩摩藩同士の斬りあいになり、そこにいた他藩士と浪人が捕縛され、その後、殺害された事例として田中河内介のことを前号でお伝えした。

これについて読者から以下のコメントが寄せられました。

「もう30年ほども前のことですが、宮崎に居りましたときに、明治維新関係の古い秘話本を読んで、日向市のある港に維新三志士が葬られていることを知りました。信用できる書籍だとは思っておりませんでしたので、半信半疑のまま、探索を始めました。地元出身の神職さんの誰に聞いても知らないと言うのです。

当時薩摩の港は日向では細島です。薩摩の支藩がありました。実地調査しかないなと現地で聞きまわると、何と当時墓守をしていたお宅に直ぐにたどり着いたのです。かつて網元をしていたそのお宅は清掃の行き届いた!古いお宅で、品のいいおばあさんが対応してくれ、時計を見ながら、『ご案内しますが、しばらくお話しましょう』と言うのです。三志士が斬殺された当時の言い伝えを話してくれたのです。

それは単なる斬殺ではありません、惨殺です。住民に見られないよう船上で縄付きのまま、何十手もの太刀を受け、切り刻まれての殺害でした。

なぜか。秘密保持のためです。士分の全員が刀傷を入れ、秘密を共有することで保持したのです。そして船上から海へ破棄され、見つけた網元によって小島の小さな墓になりました。

そろそろ参りましょうと案内されてみると小島に渡る白州が細く続いていました。干潮で無ければ渡れない島なのです。時計をわざわざ見られた意味がはじめて分かりました。今は文化財に指定され整備されているようですが、当時『ここをわざわざ調べ、お参りされたのは貴方がはじめてです』とおばあちゃんに言われました。墓は海賀宮門、中村主計、千葉郁太郎とありました」

読者のご指摘通りで、海賀宮門は秋月藩士、中村主計は京都浪人、千葉郁太郎は河内介の甥で、三人は確かに薩摩藩によって殺されました。三人が船上で田中河内介の殺害について、薩摩人の不信義を追求したからという理由のようですが、実際は最初から殺すつもりでした。

 伏見寺田屋事件は薩摩藩士同士の斬りあいですから、他藩士と浪人は本来関係ありません。ですから、その場にいたということだけで、薩摩藩が殺す理由は成り立たなく、さらに、海賀宮門は秋月藩士ですから、藩に送り届ければよいのに殺しました。

これは薩摩藩の幕末維新史の汚点であり、その後、三人が維新三志士と称されるようになったことも、何かやりきれない気持ちにさせられる。

ところで、本来、清河は寺田屋にいたはずで、いたならば同じ運命となったはずである。だが、諸国に檄文を飛ばし嗾け煽り立てた本人は、つまらない理由で寺田屋にいなかった。

ある日、大坂薩摩屋敷の二十八番長屋に本間精一郎が訪ねてきた。本間は越後寺泊の豪商の長男で、武士にあこがれ家を出て、お金が潤沢である上に、いっぱしの志士きどりで、弁舌が立ち、一部に人気があったというが、言うことが激烈であるわりには、言行が伴わないというので嫌われているところもある人物だが、清河は江戸の安積艮斎塾で一緒だったこともあり親しくしていた。

その本間が清河を舟遊びに誘った。それを受けた清河は折角だからと、少年時代に深い感銘を与えてくれた藤本鉄石や、二十八番長屋にいた数人と宇治川に浮かんで、海に出ようとして舟番所にさしかかると、船頭が番所に名前を届ける必要があるので、名前を書くよういわれた際、もうすでに芸妓に三味線をひかせて派手に飲んでいたので、つい「酔いに乗じて悉く奇名を記す」(清河著「潜中紀事」)とあるように、勝手な変名を名乗り、多分、「荒木又右衛門とか後藤又兵衛とか言うよう名を書き連ねた」(海音寺潮五郎「寺田屋騒動」)と思われる。

これでは番所役人も黙っていない。公儀幕府役人のプライドがある。馬鹿にするなと、問い質す番所役人に対し、本間が舟を降り番所に乗り込み、得意の弁舌でやり込めるという失態を演じてしまった。

舟遊びを終えたこの日は、それぞれ止宿先に戻ったが、これが問題にならないわけはなく、本間のところに役人が張り付き、調べだし、捕縛の可能性も出てきたので、逃げ場として清河のいる大坂薩摩屋敷の二十八番長屋に転がり込んできたのである。

しかし、役人の追及が続き、本間が薩摩屋敷にかくれたことをつきとめ、問いただしてきたので、清河と親しい柴山愛次郎と橋口壮介も困って、軽率行動を厳しく責めてきた。藩と役人の間で板ばさみになっている柴山と橋口の立場も考え、清河は
「申し訳ない。迷惑をかけたのであるから、ここを出て行く」
 と述べ、京都三条河原町にある医者の飯居簡平宅に移った。飯居宅は長州藩邸にも近く、薩摩藩屋敷の同志が決起するときは、長州藩邸にも連絡があるので、それを待ちつつ飯居宅にいたところに、伏見寺田屋事件が発生したのであった。

清河はつまらないことで寺田屋にいず、死なずにすんだが、このつまらないことが大業を成し遂げ得ず、生涯を終えたことに通じていると思う。

清河は、元来「相手の意表に出て鼻をあかす」という面があった。これは出羽庄内という田舎の酒造業出身という武士でないという劣等感と、その裏返しの気持ちから、人一倍負けたくないという感情が強く入り交じって、時に意表に出て、それが結果としてやり過ぎになる傾向があった。

それが舟遊びでも顕れた。酒に酔ったとはいえ、本間精一郎の醜行を止めえず見逃し、かえって役人何するものぞ、と同調した一面につながったのである。

この薩摩屋敷退去によって、全国逃亡生活から、田中河内介を知り、中山忠愛の親書をもち、九州各地を遊説し、久光の上京を機に、念願の倒幕一番乗りという、晴れの舞台になる可能性もあった寺田屋、そこに参じることができなかったのであるが、今回はこの性癖ゆえに助かったのである。

さて、久光の目的は幕府の改革であった。その改革の要点は、さきに安政の大獄で処分されたままになっている公卿や大名の罪を許すこと、つまり、大赦を行うこと、ついで、一橋慶喜を将軍後見職とし、前越前藩主松平春嶽(慶永)を大老につけることなどであって、これを島津家と縁戚にあたる近衛忠房を通じて朝廷の承認をとりつけ、文久二年(1862)五月、江戸へ派遣する勅使として、岩倉具視に劣らぬ剛直さで「鵺(ぬえ)卿(きょう)」と呼ばれた大原重徳を差し下してもらうことになった。

幕府は抵抗したものの、とうとう押し切られる形で一橋慶喜を将軍後見職に、松平慶永を「政治総裁職」につけた。「政治総裁職」という役職にしたのは、大老は譜代大名がつくもので、徳川家の親戚である家門筆頭の越前松平家に相応しくないという理由からであったが、これらの動向は清河にとってまだまだ運が残っていることを示していた。

それは一連の改革の中で出された大赦の動きだった。うまくいけば文久元年(1861)五月、虎尾の会を潰し、清河を逮捕する口実をつくる罠だった岡っ引き殺害事件、この結果、清河は全国逃亡の旅に出たのであるが、これがご赦免になるかもしれないという希望だった。

文久二年八月、清河は江戸に戻り、ひそかに、小石川鷹匠町の山岡鉄舟を訪ねた。
「無事でしたか」
鉄舟は清河を懐かしそうにみて、すぐに英子が用意した酒を飲みながら、逃亡を始めた文久元年五月以来の状況を語り合い、幕閣の変化と、それによって希望が出てきた清河の大赦について語り合った。

この時、幕閣は大きく変わっていた。安藤老中と久世老中は辞職し、安政の大獄で辣腕をふるった京都所司代酒井忠義も罷免されていた。代わって幕閣を動かしているのは、備中松山藩主板倉勝静、山形藩主水野忠精、竜野藩主脇坂安宅の三閣僚と将軍後見職一橋慶喜、政治総裁松平慶永という目をみはるような変化だった。

「大赦を掛け合うには、今が好機だ。幕府はこれまでのように尊王攘夷について、無闇矢鱈に弾圧できない状況になっている」
「そう思う。ご赦免の請願書を書いてみようと思っている」

清河は水戸に向った。水戸では逃亡中に立ち寄ったときとは、雲泥の差の歓待を受ける羽目になった。清河が来る、という噂はすぐに広まり、多くの人物が清河の前に現れて、寺田屋の件を語り、策は直前で破れたものの、清河の呼び掛けで三百人ほどの尊攘志士が京都に集まったことを賞賛するのであった。

水戸にいる間に清河は「幕府に執事に上(たてまつ)る書」を書き上げ、鉄舟に送り、政治総裁松平慶永の手許に届けるように依頼した。

結果は清河に対し、文久三年(1863)一月、北町奉行浅野備前守から、正式の赦免の沙汰がおりることになった。

この日清川は、出羽庄内藩江戸留守居役黒川一郎に付き添われて、麻裃に身なりを改めて奉行所に出頭し、次の示達を聞いた。
「御家来にて、出奔致し候清河八郎召捕方の儀、先達相違し置き候ところ、右者此の上召捕に及ばす候間、なおまた此段申し達し候事」

同じ日に、浪士取扱いの松平上総介から、次のような伺書が奉行所に出された。
「出羽庄内 清河八郎
右者有名の英士にて、文武兼備尽忠報国の志厚く候間、御触れ出しの御趣旨もこれあり、私方へ引取り置き、他日の御用に相立て申したく此段伺い奉り候」

この二通の公式文書で、清河は晴れて赦免の身になると同時に、松平上総介に身柄を引取られることになったが、これは一種の軟禁状態におく意味合いがあった。

松平上総介とは、鉄舟も関与している講武所の剣術師範役並出であり、直心影流を学び男谷下総守と同門で、他にも伊庭軍兵衛に心形刀流を学び、柳剛流にも通じている剣客である。

ここで、ちょっと寄り道になるが柳剛流にふれてみたい。あまり馴染みのない流派である。柳剛流は武州北足立郡蕨の農家生れの岡田総右衛門奇良を流祖とし、特徴は上段から長大な竹刀をふりかぶって思い切り振り落とし、面にきたなと思っていると、そのまま相手のすねを狙い撃ちする剣法。それも一撃ではなく、はずされれば二撃、三撃と相手がかわし切れなくなるまで続け、相手の体勢が崩れたところを狙い打つので、幕末の剣豪たちが軒並み総崩れで敗退したという。その後、何度も苦杯を喫してようやく対策を編み出し、撃退できるようになったというが、撃退法もかなりの修練を要するもので、幕末の著名な剣豪たちは柳剛流を相手にするのを大変嫌がったという。

それを示すように、千葉周作もその著書の中で、
「柳剛流は足を多く打ってくる流派である。相手が足を打ってきた場合、足を揚げようとしては遅れてしまい、多分打たれてしまう。早くするためには、踵で自分の尻を蹴るような気持ちで足を挙げるとよい。また、太刀先を下げて止めるのもよい。この場合も受け止めようとするのではなく、切っ先で板間土間をたたく気持ちで止めるべきである」と述べているが、この柳剛流の名手が松平上総介であった。

その上、松平上総介の家柄は名門だった。松平は家康の六男忠輝の後胤で、わずか二十人扶持の捨て扶持であったが、白無垢を着て登城すると、譜代大名の上席に付く格式を備えていた。

ここに目をつけたのが清河である。松平上総介に身柄を引取られ、一種の軟禁状態という条件を有利に活用しようと、愈愈その「意表に出る」能力を発揮したのである。さすがは伏見寺田屋事件を潜り抜け、生き残ったしぶとさといわざるを得ない。

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2009年08月10日

尊王攘夷・・・清河八郎その五

尊王攘夷・・・清河八郎その五
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

2008年のNHK大河ドラマ「篤姫」は高い評価で終わりました。
天璋院篤姫は第13代将軍家定の御台として、家定死後は第14代将軍家茂に嫁いできた、孝明天皇の妹・和宮(静寛院宮)とともに、徳川家を守ろうと江戸無血開城を成功させるストーリーでしたが、史実とドラマのフィクションとを巧みに編集整理され展開されたことが、評判を高めた要因でしょう。

また、本土最南端の薩摩の地で、桜島の噴煙を見ながら、錦江湾で遊ぶ純朴で利発な一少女が、将軍家の正室となり、3000人もの大奥を束ねるという、ただならぬ人生の歩み、それが多くの視聴者に受け入れられてきた背景でもあります。

過去の歴史が今の時代に共感されるためには、現代人からの認識、理解、共鳴、同感が条件であるが、この点で「篤姫」は成功し、現代に篤姫を蘇えさせていると思う。

現代に歴史を蘇えさせているのは、ドラマだけでない。各地に造られている史跡もそのひとつである。読者から群馬県の草津温泉に、清河八郎の石塔があるとご連絡いただいた。

確かに、草津温泉の湯畑を囲む石の柵・石塔に清河八郎の名が刻まれている。草津が町制百年を記念して、草津を訪れた著名百人を選んだ中に清河が入ったのである。滞在したのは文久元年(1861)お盆の時期で、江戸を追われ全国各地を逃亡する途中、しばし草津の湯で疲れを癒したのであろう。

ここで清河の人相を、手配された人相書きから確認してみたい。
「酒井左衛門尉家来出羽荘内清河八郎歳三十位。中丈、江戸お玉ヶ池に住居。太り候方。顔角張。総髪。色白く鼻高く眼するどし」とあり、人相書きは荘内藩領内一円に布告とともに出され、清河の父は謹慎、実家の商売である酒販売が禁止された。

だが、すでに清河は京都で田中河内介と出会い、中山忠愛の親書と田中の周旋状を持ち、勇躍、下関から小倉、久留米を経て肥後に向っていた。

肥後での清河は「ど不適」という性格どおり、何者も恐れず、自らが認識している時代情報分析と方向性を強烈に展開していった。つまり、キーワードである「廃帝の噂」の強調と、もはや「尊王攘夷ではなく倒幕王政だ」という新しい主張であった。

この清河の過激とも思える論弁に対し、当然反発もあったが、平野次郎、宮部鼎三、河上彦(げん)斎(さい)、真木和泉など、九州各地の著名尊攘志士達に対し大きな影響を与えた。

さらに、薩摩藩の動向を掴むため、つまり、島津久光が一千余の藩兵をひきいて京都に乗りこむという噂の確認のため、京都から同行した虎尾の会同志で、薩摩出身の伊牟田尚平と、清河に共鳴した平野次郎を薩摩に潜入させた。

伊牟田と平野はそれぞれ別ルートで、苦労して間道から薩摩に入ったが、二人ともすぐに見つかって捕縛され、所持していた中山忠愛の親書と田中の周旋状などすべて取り上げられた。厳罰を覚悟したが、思いがけず御納戸役の大久保一蔵が出てきて、旅費として十両ずつ渡し、親書などの趣旨はよく検討する旨の発言を受け釈放された。

実は、これが久光を清河が認識する齟齬のはじまりだった。倒幕王政という思惑を持って、二人が薩摩入りしたにもかかわらず、処分を受けなかったことを、清河は自分に都合よく理解し、独り合点し、翌文久二年(1862)一月に京都の田中のもとに戻ったのである。

九州遊説の成果を聞いた田中が質問を発した。
「どのような思惑で、薩摩の島津久光は上京するのだろうか」
「それは朝廷に倒幕の勅諚を乞いに来るためでしょう」
「どうして、そのように断定できるか」
「それは平野と伊牟田の薩摩入り時の対応で分かります」
「うーむ。それはどういうことか」
「二人が倒幕王政の趣旨を述べたのに、処罰されず、かえって旅費を差し出されたことです」
「旅費程度のことでは断定できないだろう」
「旅費を渡したのが、久光の側近である大久保一蔵であったということが重要です。それと、藩内に二人を処分し難い何らかの理由、それは薩摩上層部が幕府に対して好意を持っていないと考えられることと、さらに、藩内の過激尊攘派が強い勢力を持っていると想定できるからです。倒幕の勅諚目的上京はまちがいないと思います」

このような会話をしているところに、肥後から宮部鼎三が訪ねてきた。清河が肥後を去った後、肥後人の間で清河が展開した背景について議論が続き、その根拠を確かめるべきだということになり、その確認のために宮部が上京してきたのであった。

そこで翌日、宮部を歓迎する名目で、中山忠愛、田中と清河が酒席をもった。その酒宴の最中に田中の家から使いが来て、坂下門外の変が知らされた。

それを聞いた田中が「廃帝の古例を調べさせたのが襲撃された原因だ」と叫んだ。

この叫びは、肥後で清河が強調したことが、事実だと立証する形となり、酒席はにわかに活気を帯び、宮部はすぐに肥後に戻って、同志にここで確認した状況を伝えるということになった。

さらに、突然、薩摩藩士の柴山愛次郎と橋口壮介も清河を訪ねてきた。いずれも薩摩過激尊攘派の中心人物である。用件は久光の上京が決定したことを知らせるものであった。

急き込んで上京目的を尋ねる清河に、二人は語った。
「故順聖公(斉彬)のご意志を継ぎ、勅命を頂いて幕府に改革を迫るためです」
「倒幕ではないのですか」
「もし順聖公が生きておられれば、今の情勢なら、そういうことも考えたかも知れんが、久光公では・・・」
「というと、やはり幕府改革ということなのか・・・」

清河はしばし黙したが、すぐに
「しかし、この機会を逃す手はない。絶好の好機だ」
「その意味は・・・」
「薩摩藩が出兵上京という噂、それが事実となったことが大事なのです。これで同志を日本国中から集められる理由がつきますから」
「分かった。我々もその深意に沿って動く」

清河と柴山、橋口の三人は、それ以上語らなくても、お互いにある意味を了解しあい、共通認識を持ち合ったのである。その共通認識とは、清河が「薩摩藩が出兵する」という火種を武器に、日本各地に檄をとばし、尊攘派を京都に集合させることであり、薩摩藩士の柴山、橋口はその動きを受けて、一気に藩内を反幕府体制に持っていくことであった。

早速、清河は田中と相談し、檄文つくりに取りかかった。清河はこれまでのすべてをこの檄文に没入させ、田中と連盟にし、遊説先の九州は勿論、尊王攘夷に心寄せる諸国のあらゆる知人に送ったのである。

清河はこの檄文に対して、勝算があった。時代は、公武合体という妙な政治停滞によって出口がふさがれ、変化を求めるエネルギーが、噴出しようとうねって何かを探している。そのうねりに、この檄文が火をつけ、発破となるであろうと。

結果はその通りであった。全国各地から続々と京都に集まった、三分類に分けられる志士達は、その数三百名にも及んだ。

一つは薩摩藩士たちである。柴山愛次郎と橋口壮介を中心とした薩摩過激尊攘派であり、屯ったのは中の島のはたご屋魚田である。

二つ目は長州藩士たちで、これは長州藩蔵屋敷に入っていた。長州は関が原の役で、西軍の主将に祭り上げられたが、実際には毛利輝元が大坂に居座って出兵しなかったのに、家康は毛利家を百二十万石から三分の一という三十六万石に削ったので、もともと幕府に対しうらみを持っている藩で、薩摩過激尊攘派と連絡をとり、貧乏な薩摩藩士に経済的援助を行うなどで反幕勢力と通じあっていて、久光上京を聞くと、藩をあげて動いてきた。

三つ目は大坂薩摩屋敷である。これは勿論、清河と田中の連名檄文によって上京した志士達であって、当初田中の屋敷に入っていたが、たちまち巣窟と化し、京都所司代の監視が厳しくなってきたので、清河と昌平黌書寮で顔見知りの薩摩藩士堀次郎の斡旋により、薩摩藩邸に移りたいと交渉・了解を受け、大坂薩摩屋敷の二十八番長屋に入ったのである。

さて、肝心の久光であるが、文久二年四月大坂に入ると、直ちに以下の訓令を下した。

1.諸藩士や浪人らへ私的に面会してはならない。
2.命によらずして、みだりに諸方へ奔走してはならない。
3.万一、異変が出来しても、敢て動揺せず、命令のないうちはその場に駆けつけてはならない。
4.酒色を相慎むべきこと。

この趣は以前からしばしば申し渡してきたことではあるが、これからも益々守るべし。もし違背する者は容赦なく罪科に処するであろう。

この訓令と同じ趣旨のものが、薩摩を出立する際にも出していたが、これらから考えても久光が倒幕など念頭にないことが明らかであり、実際に朝廷に差し出した建白書には、安政の大獄で処分された公卿や一橋(慶喜)、尾張(慶勝)、越前(慶永)などの謹慎を解くべきという、幕府改革に通じる内容のものであった。

この状況を受けて、総勢三百名にも及ぶ三分類の志士達は何回かの会合を持ち、最終的に久光を頼らず、決起する企てを決め、薩摩過激尊攘派と大坂薩摩屋敷の二十八番長屋の志士達は、ひそかにその決起集結地である伏見の寺田屋へ向った。その際、長州藩は伏見に向う淀川の船の費用などを協力し、事の勃発を今か今かと藩邸で待つ態勢でいた。

だが、しかし、この企みは久光の耳に入ることになってしまった。久光が知るまでには、様々な背景経緯があるが、いずれにしても久光はこの薩摩藩士が参加している計画を暴挙と断定し、非常な怒りをもち、特に長州藩がバックアップしていることに不快感をもったが、まず自藩士のことであると思い直し指示を下した。

「首謀者をここに連れてまいれ。わしが自ら説諭するであろう」
「もし、おとなしく命を奉じることなく、拒みましたら、いかがいたしましようか」
「その時はいたし方なし。臨機の処置をとれ」

この臨機の処置とは「上意討ち」にせよという意味になるわけで、その使者として九名の武技に優れた者を選び寺田屋に向かい、結果は説得できず戦いとなった。これが世に名高い「文久二年四月二十三日の伏見寺田屋事件」である。

この事件で討手一人と寺田屋にいた薩摩藩士六名が死亡、二人が負傷し、生き残った薩摩藩士と、田中河内介や真木和泉などは京都の薩摩藩邸に収容され、以下の処置となった。

「薩摩藩士で暴発に加担した者は国許に送り返す。他に藩籍ある者はそれぞれの藩に引き渡す。田中河内介その他の浪人などは、薩摩で預かって、国許送還の薩摩藩士とともに薩摩に連れて行く」
だが、田中河内介は薩摩行きの船の上で殺害され、死体は海中に遺棄され、後日、小豆島に流れ着いたといわれている。

後日談であるが、田中は権大納言中山忠能に仕えた諸大夫であり、明治天皇の生母は忠能の娘中山慶子であったため、田中は幼少時の祐宮のお守役をつとめたことから、天皇は田中のことを記憶にあり「河内介爺はどうしただろうか」と案じていたので、側近が「田中はしかじかのことで、薩摩藩によって殺されました。その際の当局者は内務卿大久保利通でございます」と言上したが、大久保は下を向いたままだったという。

しかし、ここでおかしいのは、伏見寺田屋にいるはずの清河八郎がいなかったことである。寺田屋にいたならば田中と同じ運命になったであろう。しかし、清河は悪運というか、幸運というか、つまらない事件で大坂薩摩屋敷を出る羽目になり、結果として伏見寺田屋事件に関与しなかったのである。

次回は、その経緯と、伏見寺田屋事件後江戸に戻り、急転、幕府から大赦を受け、鉄舟とともに再び京都に赴くことになることをお伝えしたい。

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2009年07月16日

尊皇攘夷・・清河八郎その四

尊皇攘夷・・清河八郎その四
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

清河八郎が江戸を追われ、全国各地の逃亡先で出会った中に、京都の田中河内介がいた。田中は但馬出石の医師の第二子であったが、京都に遊学している間に、権大納言中山忠能に召し抱えられ、中山家の家臣である田中近江介の家を継ぎ、諸大夫となった。

諸大夫とは、公卿に次ぐ家柄で、朝廷から親王・摂関・大臣家などの家司、つまり、事務を司る職位で、四位・五位の官人である。

 ここで権大納言中山忠能(1809-88)に触れなければならない。後日、鉄舟と同じく明治天皇を囲む酒飲み仲間となった人物であり、明治天皇の外祖父である。

祐宮(明治天皇)の生母は忠能の娘中山慶子で、嘉永五年(1852)9月22日に、中山家敷地内に設けられた、浴室と厠のついた二間だけという質素な産所で誕生したが、この産所を建築する際に、借金をしなければならないという貧しい中山家であった。

いまでもこの産所は京都御所を取り巻く御苑の北の端に、板塀で仕切られた屋敷跡があって、その庭の一角に残っている。明治天皇がこのような質素な産所で生れたのは、宮中の慣習によるものであった。出産は建物を穢す、と古くから信じられていたからであり、代々、天皇の御子は宿下がりした生母の家近くで生まれるのが普通であった。

 明治五年、鉄舟が明治天皇の侍従番長として宮中に出仕するようになって、明治天皇と鉄舟については多くの逸話が残っている。後日詳しく展開する予定であるが、ここでは中山忠能との関係を、侍従高島鞆之助の語ったものから紹介したい。

「御酒量も強く、時々御気に入りの侍臣等を集めて御酒宴を開かせられしが、自分は酒量甚だ浅く畏れ多き事ながら何時も逃げ隠れる様にして居た。所が彼の山岡鉄舟や中山大納言(忠能)の如きは却々の酒豪で、斗酒猶辞せずと云ふ豪傑であったから聖上には何時も酒宴を開かせ給ふ毎に、此等の面々を御召し寄せになっては、御機嫌殊に麗はしく、勇壮な御物語りを御肴として玉杯の数を重ねさせ給ふを此上なき御楽しみとせられた」(『明治天皇』ドナルド・キーン著 新潮社)

このように、鉄舟と中山忠能は明治天皇の「御気に入りの侍臣」であり、酒宴の常連メンバーであった。

さて、時は文久元年(1861)に戻るが、当時の中山忠能は、それまで祐宮の外祖父として威勢をふるい、外国との条約勅許にも強硬に反対したが、一転、皇女和宮の降嫁では推進斡旋役に回ったことから、尊攘派からにらまれ、逼塞せざるを得ない状況下にあり、対外的には子息の中山忠愛が動き、ここに清河は目をつけていた。

 清河と田中河内介の出会いは、田中と旧知である虎尾の会同志の北有馬太郎から、田中が剛毅な性格で頑固な尊王論を持ち、京都では知られた人物であると聞いていたので訪ねたのである。

清河は誘われるままに、田中の屋敷で一泊し、得意の弁舌で尊皇攘夷・倒幕論を説きながら、噂話であるがという前提つきで「皇女和宮を人質にとって孝明天皇に条約勅許を迫り、天皇があくまでこばめば廃帝を断行する、そのために和学者の塙次郎に古例を調べさせている」と切り出したところ、田中の反応は予想以上に多きいものだった。

「怪しからんことだ。それが本当なら、言うも憚る不逞なことだ。しかし、その噂はどこから出たものか」
「水戸です」
「水戸? なるほど水戸か」
「水戸藩内には、この噂に憤激し、安藤信正老中を刺そうとする動きがあります」
「そうだろう。この噂を聞いて水戸が黙っているはずはない」
「しかし、それがしは安藤老中を討ち果たしても時代は変わらないと思います」
「なぜた?」
「それは今まで二百数十年、天下を仕切ってきた幕府の骨組みは意外にしたたかで、容易には倒れないと考えるべきで、井伊大老が首を斬り取られても、すぐに安藤に代わり、その安藤が井伊を上回る狡知をもって、皇女和宮の降嫁により事態をうやむやに収めようとしている動きを考えれば、他の方策が必要だからです」
「うーん。そうかも知れん。そこで、そこもとに打開策があるのか」
「ございます」
「話されい」
「ご承知の通り、九州は元々勤皇の土地柄です。九州に下り、有志に義挙を説き、同志を募り糾合し、京に上がります」
「そのようなことが、貴殿に出来るか。それに一人では無理だろう」
「その通りです。そこで田中様にお願いに来たのです」
「何か」
「それは、大納言中山忠能卿のご子息中山忠愛卿は英邁な方と伺っています。田中様のお力で一度お会わせいただき、忠愛卿から親書を賜りたいのです。それと田中様は九州の尊攘志士と親しいとお伺いしております。それがしを、かの地の志士達に周旋する書状を書いていただきたいのです」
「親書や周旋状をどういうように使うのか」
「九州に参り、青蓮院宮の密使と偽って呼びかけます」
「青蓮院宮を騙るなぞ、穏やかならぬことだ」
「いや、順序が前後するだけでしよう。京に糾合した同志によって、京都所司代を討ち、青蓮院宮を奪い奉って尊王倒幕義軍の総帥に頂く、というのがそれがしの企てで、その後に諸国の尊皇攘夷の士に呼びかけるなら、天下の草莽の志士達は一斉に宮の下に集まり、倒幕の一大義軍が出来ます」
「うーむ・・・。危険な策だが・・・。もしかしたら出来るかもしれないな。よし、周旋状を書き、中山忠愛卿に会えるようにしよう」
「ありがとうございます。九州の説得は必ずやり遂げて見せます」

 ここに現れた青蓮院宮とは、伏見宮邦家親王の第四子で、のちに孝明天皇の養子になり、京都郊外粟田口の青蓮院に住んでいた。朝廷が政治の表面に出るようになって、孝明天皇の諮問に応える形で、条約勅許問題では、最も強硬な反幕姿勢を打ち出し、尊攘派公卿の中心的存在となり、井伊大老ににらまれ、慎みを言い渡され、相国寺内に幽閉される身分となっていたが、諸国の尊攘派志士達からは、ひとつの拠り所とされていた人物であった。

 その青蓮院宮の密使と偽るためにも、祐宮の外祖父として権威のある中山忠能の子息忠愛から、親書を書いてもらう必要があったのだ。実際に田中の斡旋で忠愛とも会え、親書を書いてもらうことが出来、田中の周旋状を持ち、勇躍して九州に向ったのであるが、それを可能にしたのは田中を説得できたことであり、説くための切り札は「廃帝」の噂であった。

 では、「廃帝」の噂が当時事実として存在したのか。これを検討してみたいが、そのためには、井伊大老の後を継いだ安藤信正老中に触れなければならない。

井伊大老後の政治は安藤・久世広周政権となって、この政権が行ったことは、皇女和宮と第十四代将軍家茂との婚儀を整えることで、いわゆる公武合体政策の推進であったが、この結果は尊攘志士から狙われることになり、文久二年一月の坂下門外の変となった。

だがしかし、かねてから、この事あろうと安藤側では屈強な藩士を警護に当てていたので、襲撃した水戸浪士六人全員斬り伏せられ、安藤の生命に別状なかった。だが、警護の一瞬の隙から駕籠の外から刀で貫かれ、頭部と背部に傷を負った。

 その後、この傷は思いのほか日がたつにつれて深くなっていった。まず、第一の傷は非難する声の高まりである。安藤が武士にあるまじき、後ろ傷を負ったということである。駕籠の後ろから刺されたので、後ろ傷を負うのは当然であるが、戦わずして背後から斬られたように聞える非難である。

次の傷は、三月になって全快したので、再登城しようとしたところ、幕府大目付、目付衆がこぞって反対したことであり、これらの雰囲気を感知した安藤は、自ら願い出て老中を辞任してしまった。

 なお、これら動きには薩摩藩も同調した。薩摩藩主島津忠義の父久光が一千余の藩兵をひきいて、京都に乗りこみ朝廷に差し出した建白書には、安政の大獄で処分された公卿や一橋(慶喜)、尾張(慶勝)、越前(慶永)等の謹慎を解くべきというものから、安藤老中を速やかに辞めさせるようにとも、書き込んであったほどである。

 このように述べてくると、安藤の評判はいたって悪いということになりそうだが、実はかなりの有能な人物であったらしい。

 そのことを述べているのが福地桜痴である。福地は天保十二年(1841)生れの幕臣、明治になってからはジャーナリストとして活躍し、その著書に幕末政治家(岩波文庫)がある。そこに安藤について次のように書いている。

 「英国オールコック公使を説きて、英国が五ヶ年間の開市延期を承諾し、これに対する報酬は、輸入物品中幾分の減額に止まらん事を談判し、その坂下御門の変に、頭部および背部に負傷して病牀にあるを顧みず、創を包み傷みを忍びて英公使を引見し頻りにその尽力を望みたりしかば、英公使も安藤が憂国心の厚きに感じて、しからば自ら英国に請暇帰朝して、事情を詳細に外務大臣に具陳し、日本のために竹内等(筆者注 欧州使節として派遣された竹内下野守)を助け、以てこの談判を都合よく帰着せしむべしと請合い、果してまず英国をして、第一に延期承諾の覚書に調印するに至らしめたり。これ実に安藤が特別の功労あらずや」

と書き、このような外国との交渉成果は、明治時代であるならば、勲一等に叙せられるほどだと高く評価しているし、その他多くの識者も安藤を認めている例は多いから、確かに有能であったのだろう。
 
この安藤老中が「廃帝」を図っているというのである。では、その出所はどこか。それは坂下門外の変の斬奸趣意書の中に次のように書かれていた。

 「このたび皇妹御縁組の儀も、表向きは天朝より下しおかれ候ようにとりつくろい、公武合体の姿を示し候えども、実は奸謀威力をもって強奪し奉り候も同様の筋に御座候ゆえ、この儀必ず皇妹を枢機として、外夷交易御免の勅諚を推して申下し候手段にこれあるべく、その儀かなわざる節は、ひそかに天子の御譲位をかもし候心底にて、すでに和学者どもへ申しつけ、廃帝の古例を調べさせ候始末、実に将軍家を不義に引き入れ、万世の後まで悪逆の御名を流し候よう取計い候所行にて、北条、足利にもまさる逆謀は、われわれども切歯痛憤の至り、申すべき様もこれなく候」(『幕末閣僚伝』徳永真一郎著 PHP文庫)

 この斬奸趣意書は坂下門外の変を陰で指導したという、宇都宮の儒者で尊攘家の大橋訥庵が書いたといわれているが、この結果、和学者の塙次郎が暗殺されるという事態となった。塙次郎は「群書類従」の編纂で知られる盲目学者の塙保己一の四男で、父の死後に家を継ぎ、幕府の和学講談所で史料編集と国史研究にあたっていた。

坂下門外の変があった文久二年の年末、自宅に戻ったところを襲撃され斬られ、首を麹町九段目の黒板塀の忍び返しの上にさらされた。犯人は長州の伊藤俊輔(博文)と山尾庸三であった。

伊藤博文は後の首相・初代韓国統監であり、かつて千円札に肖像が印刷された人物。山尾庸三はロンドンに留学し工学関係の重職を務め、後に初代法制局長官になっている。幕末時の異常・非常混乱事態下とはいえ、暗殺犯が後日、日本のトップリーダーになっているということ、何か割り切れない気持である。

さて、清河は京都で成功した「廃帝」の噂を武器に、勇躍九州へ向い、その結果続々として尊攘志士達が上洛、合わせて薩摩藩島津久光が一千余の藩兵をひきいて乗りこみ、幕末風雲の動きは京都で一段と激しさを増す。次回は清河の九州遊説と薩摩藩の動向をお伝えしたい。

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2009年06月10日

尊王攘夷・・清河八郎その三

尊王攘夷・・清河八郎その三
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

桜田門外の変を契機として、清河八郎は国事に奔走しはじめた。お玉が池の清河塾机上から儒書が消え、土蔵に出入りする武士たちが増え、その中から清河を含む14名の同志によって「虎(こ)尾(び)の会」が結成された。時期は安政六年(1859)または万延元年(1860)といわれている。

「虎尾の会」は尊王攘夷党であり、「虎尾」とは「書経」の「心の憂慮は虎尾を踏み、春氷を渡るごとし」より起った言葉で、「危険を犯す」という意味のとおり、後に出てくるように結成後多くの危機に遭遇している。

発起人は清河八郎以下次のメンバーであった。

薩摩藩   伊牟田尚平 樋渡八兵衛 神田橋直助 益満休之助
肥前有馬  北有馬太郎
川越浪士  西川錬蔵
芸州浪人  池田徳太郎
下総    村上正忠 石坂周造
江戸    安積五郎 笠井伊蔵
幕臣    山岡鉄太郎 松岡万
 
また、盟約書は次のように書かれていた。

「およそ醜慮(しゅうりょ)(外国人)の内地に在る者、一時ことごとくこれを攘わんには、その策、火攻めにあらずんば能わざるなり。しかして檄を遠近に馳せ、大いに尊王攘夷の士を募り、相敵するものは醜慮とその罪を同じうし、王公将相もことごとくこれを斬る。

一挙してしかるのち天子に奏上し、錦旗を奉じて天下に号令すれば、すなわち回天の業を樹てん。もしそれ能わずば、すなわち八州を横行し、広く義民と結び、もって大いにそのことを壮んにせん。いやしくも性命あらば、死に至るもこの議をやすんずるなし」

清河が主張する尊王攘夷思想を盛り込んだもので、この中に「火攻め」とあるのは、横浜の外国人居留地の焼き討ちを意味している。

この当時の尊王攘夷志士達は、しきりに横浜の外国人居留地の焼き討ちを狙っていた。

例えば長州藩の桂小五郎も、万延元年に品川沖停泊中の軍艦丙辰丸で、水戸藩の有志と会し、幕政改革を意図した次の盟約を結んでいる。(寺田屋騒動 海音寺潮五郎)

「幕府の要路の大官を殺すか、横浜の外人居館を焼き討ちすれば、天下震動して、幕府は戦慄するであろうから、この役目は水戸人が引き受ける。長州人は幕府に建言して、幕政を改革して、安政の大獄の裁判を撤回させる役目を引き受ける」

この盟約は、水戸藩内の混乱で実行にいたらなかったが、「火攻め」の対象は常に横浜の外国人居留地であった。

その要因は天皇の勅許を得ない日米修好通商条約の調印と、この結果生じている国内経済の混乱、外国人の日本人への侮蔑行動、つまり、夷狄に屈服して、神国をその蹂躙にまかせる幕府は、もはやたのむに足らない。

加えて、違勅調印を攻撃すれば、幕府は安政の大獄によって弾圧を加えてくる。このような幕府の政策を変更させ、なんとか天皇の意志を奉じて、攘夷をしなければ、日本は滅亡するのではないか。この危機感が多くの人々に浸透していった結果が、「虎尾の会」の盟約書であり、桂小五郎のそれであった。

この「虎尾の会」に薩摩藩の益満休之助がいたことの事実は重要である。

これから八年後、鉄舟と益満は東海道を駿府へ向って急いでいた。東征軍参謀西郷隆盛と会見するためであったが、その道中は官軍で満ち溢れていた。その中を駿府まで通過する通行手形は、薩人益満の薩摩弁であった。独特の薩摩訛りは他国者に真似できない。益満がいたからこそ通行を邪魔されずに、慶応四年三月九日西郷と「江戸無血開城」の談判が出来たのであった。

その駿府行きの鉄舟と、益満と慶応四年の再会は、赤坂氷川神社裏の勝海舟邸であった。一介の旗本に過ぎず、それまで一度も政治的立場に立ったことがない鉄舟が、将軍徳川慶喜から幕府存亡危機を救う外交交渉に向かうよう命を受け、政治的立場の上層部に相談しようと、何人かの幕府上層部人物を訪れ、相談し指示を仰いだのであるが、皆、単独で駿府へ行くことなどは無謀であり、不可能であるからといって相手にしてくれない。そこで、最後に、今でいえば当時の首相の任にあった、軍事総裁としての海舟のところに向かったのであった。そこに「虎尾の会」以来の旧知、益満がいたのである。

ところで、清河を毛嫌いしていたのは海舟であった。海舟は清河と同型の人物ではないかと思う。清河の才気に国際的要素を加え、ひとまわり大きくし、純情さを一味少なくし、手練手管の芸を加えた人物、それが海舟であると思う。人は自分と同型を好まない傾向があるような気がするが、鉄舟は清河が暗殺された五年後、清河と同型の海舟と莫逆の交わりを結ぶことになった。それも鉄舟と清河が初めて会った瞬間に親しくなったように、海舟も鉄舟と出会い、ひとこと言葉を交わした瞬間、与(くみ)する仲になった。時間軸を隔てて同型の清河と海舟との深い交わりは、鉄舟という人物の一面を示していると思う。

氷川神社裏の海舟邸に益満がいた理由は、海舟日記(三月二日)で明らかである。

「旧歳、薩州の藩邸焼討のをり、訴え出でしところの家臣南部弥八郎、肥後七左衛門、益満休之助らは、頭分なるを以て、その罪遁るべからず、死罪に所せらるゝの旨にて、所々に御預け置れしが、某申す旨ありしを以て、此頃このひと上聴に達し、御旨に叶ふ。此日右三人某へ預終はる」

つまり、対官軍用の工作要員として、牢から引き出し受け入れたもので、鉄舟が訪れる三日前の三月二日という絶妙タイミングである。さすがに政治的能力の高い海舟ならであるが、それよりも鉄舟と益満とが同志として盟約を結んでいた仲であったことを、海舟が熟知していたことの意義は深い。

歴史とは偶然の重なりで、偉大な業績を積み重ねていく。益満と鉄舟の出会いは清河の「虎尾の会」。時が移って、益満が鉄舟の通行手形となるのは海舟邸での出会い。

もし仮に、若き益満と鉄舟が、横浜の外国人居留地の焼き討ちを図りつつ、お玉が池の清河塾土蔵の中で「豪傑踊り」をし合った仲間でなかったならば、果たして駿府行きの道中はあれほどスムースに成し得たであろうか。二人の阿吽の呼吸が効を奏したのだと思う。

一般的に「江戸無血開場」と清河は無関係とされているが、鉄舟と益満のつながりを考察すれば、清河も因子のひとつとして絡んでいたと断じざるをえない。

ここで「豪傑踊り」を説明しないといけないだろう。

「虎尾の会」の中に幕臣の松岡万がいた。この松岡が夜になると辻斬りに出た。また、薩摩の伊牟田尚平は始末に終えぬ乱暴者で、その他のメンバーも所在無さにいろいろ悪さをしに市中を出歩く。

そこで鉄舟が考えた乱暴・悪さ予防対策が「豪傑踊り」であった。まず、鉄舟が真っ裸になって、褌まで外して土蔵の真ん中で四斗樽の底を叩き出す。すると土蔵の中にいる全員が鉄舟を取り巻いて、これも真っ裸になって「えいやさ、えいやさ!」と拳固を振り回して踊りだす。みんなが踊り疲れると酒を飲む。酒が回るとまた鉄舟が樽を叩きだすので、再び踊りだす。こうして踊り疲れてごろごろその場に寝てしまって朝になる。というのが「豪傑踊り」であった。

この「豪傑踊り」の意義は高い。それは鉄舟が持っていた懸念への対策だった。外国人居留地の焼き討ちを実行させ、日本国内に騒乱を起こすことへの杞憂。徳川幕府体制内に身をおく立場として、実行をさせることの理非。さらに、情報が集中している江戸の真ん中に生き、開国はやむなしという認識を持ちつつ、その流れに反逆することの是非。

後年、静岡の金谷・牧の原台地で、お茶畑開墾頭として功績のあった中条景昭も「豪傑踊り」に加わっていたが、当時を回顧して次のように語っている。(おれの師匠 小倉鉄樹)

「今になって思えばまるで山岡に馬鹿にされてゐたようなものだ。なにせ山岡が志氣を鼓舞するのだと云って眞先に素ッ裸になって樽を叩き出すのだから、それに乗って皆が裸で踊り出したのだ。まさか裸体じゃ辻斬にも出られるものじゃない」

清河も鉄舟の意図を分かりつつ、この「豪傑踊り」に巻き込まれ、妻のお蓮に「山岡の考えは姑息すぎる」と愚痴をこぼしている。(回天の門 藤沢周平)

鉄舟は分かっていたのだ。仮に清河を首謀者とした浪人集団が事を起しても、国家体制という時代改革への行動には火がつかないと。

改革に対する読みの冷静さは鉄舟だけでない。

維新の三傑の一人、大久保利通も若き頃から次のように述べている。(寺田屋騒動)

「浪人運動では力が知れている。ろくなことは出来はせん。何として、藩全体でやることを考えなければならん。老公は見込みはないが、もう六十九というお年だ。長くなか。あとはきっと久光様が政治後見になりなさる。・・・中略・・・こちらとしては、うまく説きつけて天下のことに目ざめさせればよかのじゃ。それには先ず近づくことじゃ」

大久保利通はわかっていた。有志としての個人集団では、一時の成功や快があっても、時代を転換させるという大事業はできない。薩摩藩という七十七万石の総力を結集するしかない。そのためには久光をいだいて進めるしかない。この冷静な感覚が維新の三傑と称される人物となった基因であろう。立場と事例が異なるが、「虎尾の会」の鉄舟に通じる。

そろそろ清河が、何故に大坂薩摩屋敷に滞留し、伏見寺田屋事件に関与するような、天下の一流志士として認められたかについて触れたい。それは江戸から逃亡することになった事件に関わっている。

まず、その遠因には水戸の天狗党が絡んでいる。天狗党も横浜を襲撃するつもりで、軍資金を集めているらしいと聞きつけた清河が、文久元年(1861)一月に水戸行きを決行した。結局、天狗党とは会えずに江戸に戻ったのだが、この行動が幕吏に目をつけられることにつながり、清河塾には得体の知れない連中が、頻繁に出入りしているとにらまれ、監視されることになった。

塾の近くに信濃屋というそば屋があった。そこからそばを取り寄せて食べていたが、そのそば屋の亭主が奉行所と裏でつながっている岡っ引で、昼間は清河塾を見張り、夜になると土蔵の下に下っ引を忍びこませていたのである。このあたりが個人集団の弱さである。逐一奉行所に伝わって、首謀者の清河への対策が講じられつつあった。

書画会というものが当時盛んであった。料理屋が会場となって、客は祝儀の金を包んで行き、その場で揮毫される書や画を譲り受け帰るという催しであった。

文久元年五月、清河はひとつの書画会に出席した。水戸藩の関係者が出席すると聞いたからであった。だが、水戸藩士が居たにはいたが、政治談議は出来ず、もっぱら飲み食いに終始し、清河は少し悪酔いし、帰り道で異様な職人風の若者に絡まれることになった。

 書画会のあった両国から甚左衛門町(今の日本橋人形町あたり)に来たとき、手に棒を持ち、構え、清河の行く手を執拗に塞いだり、避けるとその方向に素早く寄ったりして、明らかに清河を狙って嗾(けしか)けてくる。

 何かの意図を含む挑発だと分かりつつも、棒が清河の体に直接向ってきたとき、無声の気合と共に腰をひねって刀が光り、すっと鞘の中に納まり、男の首が飛び、傍らの瀬戸物屋の店先に落ちた瞬間、その時を待っていたかのように、二三十人の捕り方が清河を囲んだ。明らかに仕掛けられたのだ。「虎尾の会」を潰し、頭領の清河を逮捕する口実をつくる罠だった。

 それ以後の清河は全国を逃亡することになる。水戸から越後奥州路へ、さらに木曽路から京都、中国、九州まで。この逃亡遍歴は、結果的に清河を一流の志士として全国的に認めさせる旅となった。

禍変じて福であり、その切っ掛けは「廃帝」の噂であった。幕府が「皇女和宮を人質にとって孝明天皇に条約勅許を迫り、天皇があくまでこばめば廃帝を断行する、そのために和学者の塙次郎に古例を調べさせている」という噂を入手したとき、清河の内部に戦慄が走った。これは使える。使わなければならない。

それ以後の清河の動きに対し司馬遼太郎が、「幕末の風雲は、この清河八郎の九州遊説から開幕したといってよい」(幕末・奇妙なり八郎)と述べているほどであるが、その経緯については次回にお伝えしたい。

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2009年05月10日

尊王攘夷・・清河八郎編その二

尊王攘夷・・清河八郎編その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

幕末維新の時代は、日本の歴史の中で、戦国中期以後の時代とならび、英雄時代といってよい時期で、さまざまな型の英雄が雲のごとく出た。

その中で特によく知られているのは維新の三傑としての西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允である。幕府側にも幕末三舟の鉄舟、海舟、泥舟が存在し、また、異色ではあるが、清河八郎も同様であり、その他にも多くの英雄といえる人材が輩出したからこそ、あのような偉大な改革が遂行されたのである。

その山形・清川村の酒造業の息子の清河が、江戸で儒学者を目指していたのに倒幕思想へ転換し、「回天の一番乗り」目指し、薩摩藩大坂屋敷に逗留するほどの人物になり、伏見寺田屋事件や幕府の浪士組から新撰組の登場にまで絡んでいき、最後は幕府によって暗殺されるのであるが、今号は何故に学者から倒幕思想へ人生目的を戦略転換させたか、その過程で鉄舟とどう関わっていたのか、それを検討してみたい。

清河は学問を志し、江戸神田三河町に「経学、文章指南、清河八郎」塾を安政元年(1854)十一月に開いたが、その年末に火事で消滅したことは前号で述べた。

そこで、次の塾として薬研堀の家屋を購入したが、これも安政二年(1855)十月の大地震によって壊れ、塾開設をあきらめざるを得なくなって、この前は火事で、今度は地震、自分の将来へ一抹の不安を暗示しているのではないかと、一瞬脳裏に宿ったが、それを打ち消すかのように郷里で猛烈な著述活動を開始した。

清河の多くの著述の大半はこの時期になされた。
「古文集義 二巻一冊」(兵機に関する古文の集録)
「兵鑑 三十巻五冊」(兵学に関する集録)
「芻蕘(すうじょう)論学庸篇」(大学贅言(ぜいげん)と中庸贅言の二著を併せたもので、芻蕘とは草刈りや木こりなどの賤しい者を意味し、自分を卑下した言葉で、この本の道徳の本義を明らかにし、後に大学・中庸を学ぶ者に新説を示したもの)
 「論語贅言 二十巻六冊」(論語について諸儒の議論をあげ、独特の説を示したもの)
 「芻蕘論文道篇 二巻一冊」(尚書・書経を読み、百二篇の議論をあげ、独特の説を示したもの)
 「芻蕘武道篇」(兵法の真髄を説いたもの)

その他に論文もあり、これらの著述でわかるように、清河の勉学修行は並ではない。だが、この猛烈なる漢学の勉学が生涯の運命を決めた、と述べるのは牛山栄治氏である。

「清河は漢学によって名分論(道徳上、身分に伴って必ず守るべき本分)から結局は維新の泥沼にまきこまれて短命に終わり、勝海舟などは蘭学の道にすすんだために時代の波に乗っている。人の運命の分れ道とはふしぎなものである」(牛山栄治著 定本 山岡鉄舟)
 
 清河の薬研堀塾を諦めさせた安政の大地震は、攘夷運動にも大きな影響をもたらしている。既に検討したように、日本の攘夷論の大本山は水戸藩であり、その藩主は徳川斉昭(烈公)であって、この当時の斉昭は幕府の海防参与に任じられて、猛烈に過激な攘夷論を主張していて、それを強力に支えていたブレーンは藤田東湖であった。

 ともすれば暴走しがちな斉昭を操って適当にブレーキをかけ、どうにかこうにハンドルを切らせていたのであるが、この東湖が安政大地震で倒壊した家屋の下敷きになって圧死したのである。東湖を失って、斉昭の言動はバランスを欠いたところが目立ち始め、これが幕末政治の混乱に拍車をかけたともいわれている。

 また、東湖の死が、東湖を攘夷運動の先達と仰いでいた志士達に与えた影響も大きかった。例えば西郷隆盛は江戸から鹿児島に送った手紙で
「さて去る(十月)二日の大地震には、誠に天下の大変にて、水戸の両田(藤田・戸田)もゆい打ち(揺り打ち?)に逢われ、何とも申し訳なき次第に御座候。とんとこの限りにて何も申す口は御座なく候」(野口武彦著 幕末の毒舌家 中央公論新社)
と悲嘆したほど、東湖の死はその後の歴史に影響を与えたが、ここで不思議なことは水戸藩だけが地震による死者が多いことである。

 ご存知のように水戸藩は徳川御三家である。尾張六十万石、紀伊五十五万石、これに対し水戸藩は二十五万石と禄高に差があり、将軍の身辺を守る役目という意味から「定府の制」という藩主の江戸在住が義務付けられていて、これが一般に「天下の副将軍」といわれている所以であるが、その代わりに将軍の後継ぎは出せないという差別化が、屋敷の立地条件でも表れていた。
 
尾張藩上屋敷は市ヶ谷(現在、防衛省)であり、紀伊藩上屋敷は赤坂(現在、迎賓館)であったように、いずれも台地のしっかりした岩盤の上に位置する地形である。それに対し水戸藩上屋敷は本郷台地と小日向台地に挟まれた谷間地(現在、水道橋の後楽園)で地盤は軟弱である。この地形の差が安政大地震に表れたのである。

 幕府への被害状況届出を見ると、尾張・紀伊藩邸の被害は建物の大破程度、比べて水戸藩邸の被害を「水戸藩資料」から見れば、「邸内の即死四十六人、負傷八十四人に及べり」とあり、塀と下級武士の住居をかねていた表長屋が一面に倒壊し原型をとどめず、江戸在住の重臣たちが住む内長屋も潰れ死傷者が出て、その一人が東湖で、梁の下敷きになったのである。(幕末の毒舌家)
 
後に将軍継嗣問題で争うことになった、井伊大老の彦根藩上屋敷は外桜田にあった。現在の憲政記念館あたりで、後楽園とは江戸城を挟んで対峙する地形であるが、彦根藩は堅固な地形で、届出も「怪我いたし候と申すほどの義はこれなく候」と全く被害軽微であった。いずれにしても当時の攘夷論をリードしていた水戸藩は大きな打撃を受け、その後の藩内混乱に走っていくのである。

 さて、清河は大地震の余波が収まった安政四年(1857)四月に、妻お蓮と弟の熊三郎をつれて学者になるべく再び江戸に出た。お蓮は元々遊女であったため、素封家の斉藤家長男に嫁として迎えることは大反対を受け、ひとかたならぬ悶着があったが、ようやく結婚でき、熊三郎は千葉道場に入門するためであった。

 江戸でこの年の八月、清河は駿河台淡路坂に塾を開いた。しかし、塾には思ったほど門人は集まらなかった。最初に開いた三河町塾は大勢の門人に囲まれ繁盛したのに、今回は少ない。その変化に遭遇し、その中に何か時代の流れ、それは、世の中が険しくなってきている、じっくり学問をする雰囲気が少なくなっている、日本全体が殺気立っている。

このような感覚を清河は持ったが、この時点ではあまりそれらを気にせず、学問と千葉道場での剣に励んだのであるが、ここで鉄舟との出会いがあったのである。

 清河と鉄舟は、会った瞬間から気が通じ合い、お互いを理解し、その後の同志としてのつき合いが始まったのである。

その要因としては、まず、清河の学問研鑽力と、日本諸国を重ねて旅し、それを記録し、実態を把握し、それらを相手に伝える能力、それらが鉄舟に大きな魅力として、清河に惹きつけられたに違いない。何故なら、鉄舟は幕臣として行動が制約されていたからであるが、だが、もう一つ本質的な一致があったと思う。出会った瞬間に、互いが同一の性格・性向を持つ人間であると理解し合えたのである。

鉄舟は既に検討してきたように、飛騨高山の少年時代、宗猷寺の鐘を和尚が冗談に「欲しければあげるから持っていきなされ」と言ったことから徹底的に頑張る性情、また、江戸から成田まで足駄の歯がめちゃゝに踏み減って、全身泥の飛沫にまみれ一日で往復するという、酒席で某人と約束したことの実行など、一度言い出したらきかない強い性格である。

清河も同じで、前号でふれた「ど不適」な性格と、江戸で学問を学ぶためには家出してしまうという強さ、この似通った性格の二人が出会いの瞬間に、お互いを認め合い、通じ合えたのではないかと思う。

さらに、清河の塾は変事をくり返した。折角開いた淡路坂の塾が、二年後の安政六年(1859)、隣家からのもらい火で焼けてしまうのである。清河は迷信などを信じない強い性格であるが、一度ならず二度までも塾が焼失し、もう一度は大地震で壊れたことを思うと、清河が目指している文武二道指南の道を何かが妨げているような気がしてならなかった。

しかし、何事によらず始めたことは徹底するのが清河の性癖である。その年の六月に、今度はお玉が池近くに移転した。その家には土蔵があった。この土蔵がこれからの清河の変化に大きく影響を与えていくとは知る由もなく、土蔵で著述活動に励んだが、ふと、筆をとめるたびに世間での大騒ぎ、それは「安政の大獄」であるが、橋本左内や吉田松陰の死刑など、井伊大老の強行政治の行く末はどうなるのか、それを考えることが多くなっていった。

井伊大老は結局、翌安政七年(1860)三月三日雪の日、桜田門外の変で倒れるのであるが、井伊大老を刺殺し首をあげたのは、関鉄之助以下の水戸浪士に、薩摩藩士の有村冶左衛門を加えた十八人の壮士であった。

この事件は世間に一大衝撃を与えた。天下の大老が登城途中に首を奪われたのである。そのころの落書に次のものがある。(青山忠正著 幕末維新奔流の時代)

「去る三日、外桜田にて大切の首、あい見え申さず候間、御心あたりの御方これあり候はば、御知らせ下さるべく候。
   三月十四日     彦根家中」

それまでであったならば、こういう落書を張り出しただけで、御政道誹謗の罪に問われるのであるが、幕府も動転しており取り締まりもなく、加えて、このような落書・狂歌が多く出回り出したことは、幕府政治の行き詰まりを示すものであった。

幕府は大老が変死するという大変事が起ったのは不祥だと、三月十七日に万延元年と改元したが、清河にも強い衝撃を与え、桜田門外の変の記録を土蔵で書き始めた。

それは「霞ヶ関一条」と名づけた美濃紙二十枚にも及ぶ、水戸浪士の井伊襲撃のあらましであり、これを故郷に送る綴りであったが、清河自身が精力的に現場に出向き、知人を訪ね、事件の風聞を聞き集め、関係する資料を分析し、事件の全体をまとめたものである。

その綴りをつくる作業中、清河は新鮮な驚きともいえる感慨に、何度も筆をとめざるをえなかった。

それは、水戸浪士の禄高一覧表であり、胸に迫ってくるものがあった。幕府の最高権力者として、安政の大獄を指導し、世の中を恐怖に震え上がらせた井伊大老を倒し、その座から引きずり下ろしたのは、雄藩諸侯でなく、歴とした士分の者でない。二百石が最高の禄高で、多くは軽輩か部屋住み、士分外の者たちであり、祠官、手代、鉄砲師もいたのである。一生うだつの上がらない、日陰の暮らしを余儀なくされるであろう名もなき人たちであったこと、それが清河の心底深く、楔として打ち込まれたのであった。

時代は変わっている。名も身分もなき者、自分と同じような出自の者、それが天下を動かし、変えることが出来る時代になっているのだ。

今までは、学問に励み、剣を磨き、江戸で文武二道の塾を開き、名をあげることが清河の戦略目標だった。世の中が攘夷だ、尊王だと騒いでいる時勢については十分に知っていたが、その動きと接することは、自らの戦略目標達成に差しさわりがあるので、つとめてその動きの外に立とうとしていた。

しかし、水戸浪士の禄高一覧表から目をあげた清河の心は、もはや塾で人を教える時代ではないかもしれない。そういえば看板を掲げても人が集まらなくなっていた。これが時代の証明なのか。動乱の世になったのだ。新しい世の中の仕組みが求められているのか。

清河の志が変わった瞬間であった。

次号は清河が薩摩藩大坂屋敷に逗留するほどの人物となり、伏見寺田屋事件に関わっていく経過について検討したい。

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2009年04月13日

尊王攘夷・・清河八郎編その一

尊王攘夷・・清河八郎編その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

尊王攘夷論が日本国中に跋扈したのは、嘉永六年(1853)から明治維新(68)が成立するまでの十五年間であり、その後はピタッと消え失せたのであるが、この尊王攘夷の風雲の始まりは「清河八郎の九州遊説から開幕したといってよい」と述べるのは司馬遼太郎である。(幕末・奇妙なり八郎 文春文庫)

さらに、司馬遼太郎は同書で「幕閣老から八郎奇妙なり」と評せられたと述べ、清河が天子に上書したことをもって「奮怒せよ、と無位無官の浪人のくせに天子まで煽動した幕末の志士は、おそらく清河八郎をおいていないだろう」と書いている。

この点を突いて評論家の佐高信は「言葉尻をとらえるようだが、私は『無位無官の浪人』を賛辞としてしか使わない。私自身もその一人であることを誇りに思っている。ものかきは本来そういうものだと思うが、司馬は違うようである」と批判した。(山岡鉄舟 小島英煕著 日本経済新聞社)

清河八郎を主題に取り上げたものに「回天の門」(藤沢周平著 文春文庫)があり、この中で同郷の想いもこめて藤沢周平は次のように語っている。

「清河八郎は、かなり誤解されているひとだと思う。山師、策士あるいは出世主義者といった呼び方まであるが、この呼称には誇張と曲解があると考える。

おそらく幕臣の山岡鉄舟や高橋泥舟などと親しく交際しながら、一方で幕府に徴募させた浪士組を、一転して攘夷の党に染め変えて手中に握ったりしたことが、こうした誤解のもとになっていると思われる。
しかし、それが誤解だということは、八郎の足跡を丹念にたどれば、まもなく明らかになることである」と。

このように清河の評価は分かれるが、幕末の複雑化・混沌化した尊王攘夷の中、清河はどのような役割を果たしたのか。また、その果たすまでの経緯はどのようなものであったのか。それを今号と次号で追ってみたい。それが鉄舟の理解にもつながるからである。

山形新幹線の終点駅新庄から陸羽西線に乗り換え、三四十分で清川駅に着く。駅から歩くと十数分のところに一つの神社がある。清河神社である。鳥居近くに縁起が掲示されていて、これによると創立は昭和八年(1933)で、御祭神は「清河八郎正明公」、由緒沿革に「幕末の激動期に尊皇攘夷を唱え、天下に奔走し維新回天の先覺者として大義に殉じ、明治四十一年特使を以って正四位を贈られる」と書かれている。

清河は天保元年(1830)出羽(山形)庄内・清川村の酒造業斉藤家の長男として出生した。名前を斉藤元司といい、同家は大庄屋格で士分として十一人扶持を与えられている。

余談となるが、清河八郎が亡くなり、妹辰の息子正義が跡を継ぎ、正義は七男四女の子沢山で、四女栄の夫が作家の柴田錬三郎である。(山岡鉄舟 小島英煕著)

元司は七歳で祖父から孝経の素読を受け、ついで論語の素読も受け、十歳で鶴岡の母の実家から清水郡治の塾と伊達鴨蔵の塾に学ぶ。しかし、従順な子どもでなく、十三歳で退学し、清川に戻って関所の役人畑田安右エ門に師事したが、十四歳ごろから酒田の遊郭通いを始めるという早熟な子どもであった。

元司の性格は「ど不敵」であったと藤沢周平が「回天の門」で解説している。

「ど不敵とは、自我をおし立て、貫き通すためには、何者もおそれない性格のことである。その性格は、どのような権威も、平然と黙殺して、自分の主張を曲げないことでは、一種の勇気とみなされるものである。しかし半面自己を恃(たの)む気持が強すぎて、周囲の思惑をかえりみない点で、人には傲慢と受けとられがちな欠点を持つ。孤立的な性格だった」

元司の頭脳は明敏で、師の畑田安右エ門を驚かせたが、この頃、斉藤家に藤本鉄石が立ち寄り、長逗留することになった。

藤本鉄石(1816-63)とは岡山藩士、脱藩して長沼流軍学を学び、一刀新流の免許を受け、諸国を遊歴し、私塾を伏見に開き、文久二年(1862)に真木和泉ら尊攘派と倒幕を計画、翌年天誅組を組織し挙兵したが惨敗、和歌山藩陣営に斬りこんで戦死した人物であって、鉄舟とも後日縁が生じた人物である。

その縁とは飛騨高山時代の鉄舟が、嘉永三年(1850)十五歳の時、父の代参で異母兄の鶴次郎(小野古風)とお伊勢参りに出発したが、その旅の途中で鉄石と出会い、林子平(1738-93)「海国兵談」の写本を借り写し終え、海外情勢を説いてくれた人物であった。

その鉄石が弘化三年(1846)、元司が十七歳のときに斉藤家に滞在したのである。鉄石が鉄舟と出会う四年前である。元司も鉄石から大きな影響を受けた。それはアヘン戦争のことであり、世界には大国の清を簡単に打ち負かす力を持った国々があるという国際情勢であり、長沼流軍学・一刀新流の免許を持つという文武二道の鉄石の生き方であった。

これらの影響もあって、江戸遊学の願いをもち、父に申し出たが、当然ながら跡取りであることから激しく叱られ、とうとう十八歳で家出をして江戸に向った。

元司はいいにつけ、悪いにつけ徹底しなければやめない性格であり、自分自身が押し流されるまでもの集中力をみせ、それが学問にも、遊蕩にもあらわれるのだが、鉄石から広い世界を知った結果は、江戸へという家出になったのである。

江戸で神田お玉が池の儒者、東条一堂塾に入門する頃になって、ようやく事後承諾という形で遊学を認められ、故郷から訪ねてきた伯父たちと一緒に旅に出た。京都、大坂から中国路を岩国まで行き、四国の金毘羅参りし、奈良、伊勢を回った。元司はその後も全国各地を歩き回ることになるが、その最初の旅であった。

最初の江戸遊学中に、斉藤家の跡継ぎを予定した弟の熊次郎が突然に病死となり、帰郷を余儀なくされ、しばらく家業を手伝うことになったが、ここでまたもや放蕩の虫が騒ぎ始め、酒田の遊郭通いが激しさを増し、それがゆきつくところまでいくと、突然の如く、再び学問への望みを志し、父から三年間の許しを得て、今度は京都に向った。だが、京都では良師に巡り会えず、九州の旅に出た。

九州では小倉から佐賀へ、長崎でオランダ船を見物し、オランダ商館に入って異人を近くに見るという経験を踏み、島原、熊本、別府、中津を経て小倉から江戸に戻ったのである。

江戸では、東条一堂塾に入りなおし、東条塾と隣り合わせの玄武館千葉周作道場に入門した。当時、江戸で有名な剣術道場としては、北辰一刀流・千葉周作の玄武館、鏡新明智流・桃井春蔵の士学館、神道無念流・斎藤弥九朗の練兵館、この三道場を称して江戸三大道場と称し「位は桃井、力は斎藤、技は千葉」と評されていた。これに心形刀流・伊庭軍兵衛の練武館を加え、四大道場という場合もある。
元司は二十二歳という当時の剣術修行としては晩学であったが、その分熱心に千葉道場で汗を流して東条塾に帰ると、深夜まで学問に励んだ。

その頃、元司はひそかに、諸国から英才が集まる、幕府の昌平黌に入りたいという気持ちを強く持ち始めた。昌平黌に入るためには、昌平黌の儒官をつとめる学者の私塾に入って推薦を受けなければならない決まりがある関係上、安積(あさか)良(ごん)斎(さい)塾に入った。また、千葉道場の初目録を受けることができ、これは通常三年掛かるところを一年で受けたもので、千葉周作から非凡との誉め言葉を貰うと共に、心中に江戸で文武二道を教授する塾を開けたら、という望みを浮かべたのであったが、ここで父と約束した三年という期間が過ぎ、故郷清川村に戻ったのである。

だが、嘉永六年(1853)のペリー来航から始まった幕末の複雑化・混沌化世情の中で、元司はまたもや江戸へという気持ちを抑えきれなくなり、父へ申し出、ペリーが再来航した安政元年(1854)に江戸に戻り、元司は二十五歳になっていたが、念願の昌平黌にはいることができた。

このときに斎藤元司から「清河八郎」に名前を変えている。清河とは、勿論、故郷清川村の地名をわが名としたのである。なお、この名前については神田三河町に私塾を開設したときに改めたという説もある。

しかし、氏名を改め、気持ちを新たに入った昌平黌は、清河にとって意外に収穫の少ない学問所だった。諸藩から集まった秀才たちは、あまり勉学に力を入れず、集まると天下国家を論ずるという風で、遊びも激しかった。清河はこの雰囲気に馴染めなかった。

さらに、昌平黌の講義そのものが期待するほどのレベルではないことに気づき、失望を味わい、再び東条塾に戻って、昌平黌は自然退学という形になり、東条塾を手伝う、つまり、通い門人に素読をさずけるということを行いながら、自分の中に何かが醸成し、形つくられていくのを感じた。それは、自分の塾を開くことであった。

故郷の父に相談し、開塾の許しを得ると、神田三河町に武家の貸地があったので、ここに建坪二十一坪の新築を行って「経学、文章指南、清河八郎」の看板を掲げた。安政元年十一月であった。

いざ開塾してみると、いたって評判がよく、清河を慕って昌平黌からも、東条塾からも転じてくるものがいて、賑やかな好スタートを切ったのであった。

この評判のよさは容易に推測がつく。当時の儒学者は書籍上の講義だけであったろう。ところが清河は違った。十八歳の家出から始まり、既に日本各地を回っており、長崎では異人オランダの状況も見聞きしたという実践行動は、清河の語り口に従来の儒学者を超えたものがあったはずである。

これは吉田松陰の松下村塾も同様である。松蔭と清河は同年である。松蔭は二十歳まで長州を出たことがなかったが、二十一歳のときの九州半年間の旅に続いて、江戸、東北、ついには安政元年三月、下田に停泊中の黒船に乗り込もうとするほどの行動力をみせた。松蔭の方針は「飛(ひ)耳(じ)長目(ちょうもく)」(遠方のことを見聞することができる耳や目)で「ただ情報を集めるだけでなく、行動せよ」と門下生に教示したことが、明治維新の志士達を育てたのである。

なお、松蔭の松下村塾開設は二十七歳であったが、清河塾は二十五歳での開設という早さであった。
だが、好事魔多しである。この塾は年末の二十九日に、神田三河町一帯を襲った火事で、あっけなく消滅してしまった。

これが今後の清河の姿を暗示する事件であったが、本人は不運とも思わず、父への金策願いも兼ねて故郷に戻ったのである。

戻ってみて、十八歳の家出から二十五歳までの七年間、両親に孝養を尽くさなかったことを悔やみ、母を連れて半年間、周防岩国まで旅をした。北陸から名古屋に出て、お伊勢参りをして、関西から四国、周防を回って江戸を経て戻る大旅行であった。

江戸滞在中、訪ねてくる友人・知人が皆、清河塾の再開を奨めるのを聞いた母は、自分の息子の出来映えを理解し、塾開設にむけて資金援助を申し出たので、早速に薬研掘に売家を見つけ手金を払って、三月二十日から続いた旅を終えるべく九月十日に清川村に戻った。

ここで読者の方々が、少々不思議な感じをもたれかもしれない。清河の旅の道程について詳しく述べたからである。清河は記録を詳細に記していた。鉄舟にはこのような記録はなく、それが研究者に苦労を強いるところだが、清河は違った。

なぜなら、清河は少年時代からよく日記を書き、それが現在でも「旦起私乗(たんきしじょう)」三冊、「私乗後編」三冊、「西遊紀事」一冊、計七冊が遺っていて、「旦起私乗」は生年より十七歳頃までの父母より聞いたこと、十八歳からは日録となっていて、清河八郎記念館に保管されている。また、「西遊紀事」は母を連れた旅の半年間の記録であるが、これが「西遊草」(清河八郎著 小山松勝一郎校注 岩波文庫)として出版されている。

もうひとつ大事な特徴は、清河の旅の多さである。この時代、基本的に目的のない旅は本来許されていなかったはずで、それは農民の離散を招く恐れから農業生産の低下をもたらすことに通じ、年貢の減少につながるからであった。商工業者にとっても同様であり、また、住所不定の輩が増えることは治安の問題を引き起こすことにつながるので、江戸では無宿人狩りが頻繁に行われていた。とにかく人の移動を自由にするということは、住所不定の人間を増やすことにつながるからである。

だから旅は本来難しいはずだが、清河が旅した回数は当時としては異常に多い。例外的であろう。松陰も旅をしたが、松蔭は武士であった。清河は士分とはいえ出自が異なる。その出自を埋め合わせるような旅の多さであり、その旅の記録を残すという勤勉な行為、その結果は清河の頭脳に各地の実態が刻み込まれ、それと学問と剣術が加わり、攪拌され、多分、清河は当時の最先端人間になっていたであろう。

つまり、時代の動きを体現していたのであり、それが、幕臣として動きの不自由な鉄舟や泥舟をとらえた真因であろう。次回も清河分析がつづく。

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2009年03月07日

尊王攘夷・・・その二

尊王攘夷・・・その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

前月では、鉄舟に影響を与えた人物である清河八郎を取上げ、何故に山形・清川村の酒造業の息子である清河が、尊王攘夷の著名急進派志士と称され、雄藩の大坂薩摩藩邸に滞留するほどの人物となったのか。この検討のため当時の政治状況を振り返ってみた。

今月は、清河はじめ著名な人物が争って唱え行動した尊王攘夷運動とは何か、つまり、尊王という意味、攘夷とはどういう内容か、この理解なくしては当時の政治状況を理解できないので、改めて考察してみたい。

まず、尊王ではなく、一般的に尊皇と書く事例が多い。

これは昭和初期ごろから、本来は尊王であるものを、尊皇に変わったと指摘されている。(小西四郎著 開国と攘夷 中公文庫)その通りで、これは徳富蘇峰が「元来尊王と云うが、記者は故ら尊皇と改めた」と昭和八年に述べたことからである。(徳富蘇峰著 近世日本国民史49巻 民友社)

本論では尊王を採り、以下、小西・徳富著を参考に検討をつづけたい。

尊王攘夷というのは、癸丑(みずのとうし)・甲寅(きのえとら)から丁卯(ひのとう)・戊辰(つちのえたつ)、つまり、嘉永六年(1853)・安政元年(1854)ごろから慶応三年(1867)・明治元年(1868)までの、志士間における、通り言葉であった。

つまり、米使ペリーが、艦隊を率いて浦賀に来航した嘉永六年から、明治維新までの十五年間が尊王攘夷の嵐が吹き荒れ、複雑化・混沌化した期間で、この尊王攘夷を風靡させた始まりは、水戸烈公(斉昭)の弘道館記にある「王を尊び、夷を攘ひ、允(まこと)に武に、允に文に」の一句からである。

また、この尊王攘夷という文言の淵源を遡ると、中国・東周(紀元前770~前221年)末となり、当時、諸侯が跋扈(ばっこ)して周王を無視したので、特に、尊王の大義を掲げたことからである。

この尊王論が日本で強力に主張されるようになったのは、ペリー来航によって外国との交渉が始まったあたりからで、それまでは、表面的に幕府は朝廷を尊敬したが、実際は完全な統制化においていて、一般の尊王認識は薄い実態だった。幕末時の外交問題を通じて天皇の存在が改めて認識され、ここに尊王論が浮かび上がってきたのである。

ペリーが持参した米大統領の手紙の宛名は「日本皇帝陛下」と記していたが、その後、将軍はあくまで天皇の臣下であることが一般にわかってきて、対外的に皇帝と称するわけにいかなく、そこで考えられたのが「大君(たいくーん)」(Tycon)であり、これは既に朝鮮との間で「日本国大君殿下」と使われていたので、これが一般的となって、天皇は「帝」と称されるようになった。

尊王論は水戸藩の学者によって主導された。

藤田幽谷は「将軍が天皇を尊ぶならば、大名もまた将軍をあがめ、大名が将軍をあがめるならば、藩士もまた大名をうやまうであろう。こうして、上下関係は緊密にたもたれ、国内は一致協力態勢がとれる」と主張し、その子藤田東湖は「すべて人々はその直属の主君に対して忠誠を尽くすことが必要であり、将軍が天皇を尊ぶべきであって、この階層をのりこえて、例えば大名や藩士が直接朝廷に忠義を尽くすような行動をとることは行ってはならない」と述べている。

このような尊王論は、封建的な上下関係を強固にするための主張であって、現在の秩序を維持するための論拠であった。

この尊王論が攘夷論と結びついて尊王攘夷論となり、やがて次第に反幕的色彩を持っていくのであるが、その検討に入る前に攘夷という文言の淵源をみてみたい。

攘夷も周時代である。周時代は、夷狄(いてき)との交渉が頻繁であって、「詩経」魯頌(ろしょう)に「戎狄(じゅうてき)是れ膺(う)ち、荊舒(けいじょ)是れ懲らす」、即ち「西北の蛮族を討ち、南の荊族・舒(楚のこと)をこらしめる」とあるように、これが「攘夷の已む可からざる所以」を語った始まりである。

しかし、この攘夷という語源と異なった活用を日本人は行っていくのであるが、これについては後述するとして、まず、日本人が持っていた攘夷思想について考えてみたい。

元々日本人はその本質からして決して攘夷傾向でなく、日本人の開放的感覚は、世界でも少ないのではないかと思われる。外国人を排斥する傾向は、日本人より中国人や欧米人の方が強く、日本人は攘夷なぞというより、外国人を優待し、海外品を受け入れる傾向が強いのではないか。

 この感覚は、日本上古の歴史を見ても明らかである。当時、中国・韓国その他地域から移民を受け入れたばかりでなく、これを奨励し歓迎する傾向にあった。上古時代は中国・韓国・インド、いずれも日本より文化的に先進国であった。

したがって、自然にその先進国と先進国民を崇敬した。これがあまりに甚だしくなったので、それを矯正するために、聖徳太子はことさらに国民的自覚を促したほどである。さらに、近世史の始まりである信長・秀吉・家康の如きも、決して攘夷傾向でなく、鎖国傾向でもなかった。

 では、何故に、徳川幕府が鎖国制度を採ったか。それにはキリスト教布教活動の活発化が、種々の問題を引き起こすなどの理由があったほかに、外国との通商が、自国内に混乱を起すと判断していたからであった。

ペリーの第二回目来航時、交渉に当たった幕府全権代表の林大学頭復斎が、ペリーが交易によって「国々富強にもあいなり」と通商を要求したことに対し「外国の品がなくとも日本は十分」と述べ拒否している。これは隣国の清国がアヘン戦争によって貿易港を増やされ、その結果清国の輸入が増加し、その支払いの銀が増え、結果的に銀貨の値が高くなり、清国人の暮らしを厳しくしている事例を承知していたのである。

つまり、外国との交易が行われれば、日本から輸出する物品、茶や生糸が国内から出て行き、その分、国内で品薄となり、値上がりを招くことになり、釣られて他の物品も値上がりすることになって、人々の暮らしは苦しくなったのであるが、このことを幕府は既に理解していたし、事実その通りの状況となった。

その上、通商を求める外国の態度にも脅威を抱いた。それはロシアの北方からの侵入であり、ペリーが許可無く浦賀から品川まで入って来たという、日本の主権を脅かし、恫喝・威嚇する態度での交渉、これらが攘夷思想を強化させたことにつながった。
 
既に述べたように、この当時、日本の攘夷論の大本山は水戸藩であり、その藩主は徳川斉昭(烈公)であった。この斉昭という人物、文政十二年(1829)八代藩主斎(なり)脩(のぶ)が逝去し、その跡継ぎとして斎脩の弟の敬三郎が九代目藩主斉昭として就いた。斉昭が藩主になるに当たっては、すんなりと収まったわけでなく藩内で跡継ぎ抗争があり、それがその後の水戸藩の混乱を助長させ、斉昭が四十五歳(弘化元年1844)のとき隠居謹慎となり、慶篤が十三歳で家督相続し、斉昭の謹慎が解けるのは嘉永二年(1849)で、五年が経っていた。

この間、斉昭を支えた人物は会沢正志斎、藤田幽谷とその子藤田東湖などであったが、いずれも攘夷論者として著名であって、その影響を受けて斉昭は強固な攘夷論を唱導して、攘夷論者から巨頭として仰がれる存在なっていた。

この時点での尊王論は天皇・朝廷を尊ぶことであるから、尊王イコール倒幕になっていなく「尊王であり、敬幕であった」というのが安政の大獄までの実態で、桜田門外の変で井伊大老を襲撃した水戸の尊攘志士もそうであったし、西郷隆盛が倒幕という意志を固めたのは、慶応元年(1865)あたりであって、その前年の長州征伐に当たって西郷は幕府側につき、実質の司令官的な役目を果している。

尊攘志士が倒幕に変わっていくのは、時代の変化からである。

まず、その変化の第一は、安政の大獄で志士達が弾圧された後、踏みつけられた雑草がますます強くなるように頭を持ち上げてきたこと。

第二は、井伊大老による日米修好通商条約の調印、これは天皇の勅許を得ない、つまり、違勅調印である。

第三は、その結果によって開始された貿易によって起きた、国内経済の混乱、第四は、外国人=夷狄の国内横行であった。

夷狄に屈服して、神国をその蹂躙にまかせる幕府は、もはやたのむに足らない。違勅調印を攻撃すれば、幕府は弾圧を加えてくる。このような幕府の政策を変更させ、なんとか天皇の意志を奉じて、攘夷をしなければ、日本は滅亡するのではないか。この危機感が多くの人々に浸透していった。

これらの時局変移を通じて、極めて少数だった尊攘志士は拡大し、底辺が広がり、大きな政治勢力になっていき、幕府をたのむに足らない、という考えは、幕府の構造改革を目指す方向と、もっと進めて幕府の存在を否定する倒幕に向う方向に大きく分かれていった。

その幕府の構造改革を狙う意図で、攘夷思想を主導したのが水戸藩主斉昭であることを、その子である徳川慶喜が語り、それを受けて倒幕派が攘夷思想をどのように展開していったかを解説しているのが徳富蘇峰であるので、この両者論を以下に紹介したい。

まず、当時の攘夷という内容がどのようなものであったか。それを渋沢栄一編の「昔夢会筆記・徳川慶喜公回想談」から拾ってみたい。

これは明治も終わりに近い頃、かつて一橋家の家臣であった渋沢栄一が中心になって、まだ元気だった慶喜を囲んで、幕末当時の事情を聞くための座談会を開いて、それをまとめたもので、第一回の明治四十年に慶喜が次のように述懐している。

「烈公(斉昭)の攘夷論は、必ずしも本志にあらず。烈公いまだ部屋住たりし時より、しばしば戸田銀次郎等を引見して、水戸藩政の改革せざるべかざることども論議し給い、哀公(水戸斎脩卿)の後を受けて水戸家を相続し給いてよりは、いよいよ日頃思うところを実際に施さんとて鋭意し給いしが、非常の改革を行うには、何等かの名目なかるべからざるをもつて、一時の権宜として、改革は武備充実のためなり、武備の充実は、近頃頻々近海に出没する異船を打攘わんがためなりと称せられたるなり。

すなわち、攘夷の主張は全く藩政改革の口実たるに過ぎざりしが、後に至りては名目が目的となり行きて、形のごとき攘夷論者となり給いぬ。されば烈公は、異船来ると見ば有無をいわせず直ちに打攘わんというがごとき、無謀の攘夷論者にはあらず。もとより我が砲術の拙さを知り給えば、新たに西洋の砲術を学びて神発流と名づけ、胡服(注 中国北方の民族の胡人の着る着物・・広辞苑)は一切用い給わざりしも、つとに藩士をして、甲冑を廃して筒袖・陣羽織に古風の烏帽子を戴かしめ、自ら師範者となりて藩士を訓練せられたり」

つまり、攘夷論の強硬論者である斉昭は、十分に外国勢力の実態を承知していたゆえに、攘夷論を主導したというのである。

 この慶喜の述べたことについて、徳富蘇峰は次のように解説しているので紹介したい。(近世日本国民史)

 「以上は烈公の愛子徳川慶喜の自ら語る所、父を知るは子に若(し)くは無し。我等は之によりて烈公の本意が、必ずしも攘夷で無かったことを知るを得た。烈公尚然り、況や其他をやだ」

さらに続けて
 「文久(1861)以前はいざ知らず、文久・元治(1864)の攘夷論に至りては、其の理由や其の事情は同一ならざるも、何れも対外的よりも、対内的であったことは、断じて疑を容れない。或る場合は、他藩との対抗上から、或る場合は、勅命遵奉上から、或る場合は、自藩の冤を雪(すす)ぎ、其の地歩を保持せんとする上から、其他種々あるも、其の尤も重なる一は、攘夷を名として倒幕の實を挙げんとしたる一事だ。即ち倒幕の目的を達せんが為めに、攘夷の手段を假りたる一事だ。されば一たび倒幕の目的を達し来れば、其の手段の必要は直ちに消散し去る可きは必然にして、攘夷論は何処ともなく其影を戢(おさ)め去った。而して何人も其の行衛を尋ねんとする者は無かった。

 偶(たまた)ま真面目に攘夷論を主張たる者は、今更ら仲間の為に一杯喰わされたるを悔恨して、或は憤死し、或は絶望死した。偶ま最後まで之を行はんとしたる者は、空しく時代後れの蟷螂(とうろう)の斧に止った」

 如何でしょうか。嘉永六年から明治維新までの十五年間の尊皇攘夷論、それを理解することは一筋縄で行かぬもので、まだまだ検討不十分である。

しかし、このあたりで切り上げ、本論に戻り、複雑化・混沌化した政情の中、清河八郎はどのような役割を果たし、その同士と称された鉄舟は、心中に何を持ち時代に対応していたのか。次月以下で究明したい。

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2009年02月11日

尊王攘夷・・・その一

尊王攘夷・・・その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

 鉄舟に影響を与えた人物に清河八郎がいる。
 
 清河八郎とは、天保元年(1830)出羽(山形)庄内・清川村の酒造業の長男として出生、十八歳で故郷を出て、幕末、尊王攘夷運動の一翼をにない「回天の一番乗り」を目指した人物である。「回天」とは「天下の情勢を変えること」を意味している。鉄舟より六歳上である。

 清河については、明治・大正初期に活躍した山路愛山が次のように評している。

「(八郎)かつて書を同志山岡鉄太郎に与えていわく、予は回天の一番をなさんとするものなりと。その剣客たる風概もって想うべきにあらざるや」と。(山岡鉄舟 小島英煕著 )
また、その清河が、同志山岡鉄太郎に与えたという手紙は、次の内容である。(清河八郎 成沢米三著)

「先程より度々芳意(注:親切に対する尊敬語)を得候通り、最早各邦の義士参会、則ち近日中、義旗相飜えし、回天の一番乗仕るべく心底に御座候。折角御周旋甲士(注:甲州の土橋鉞四郎)に早々御手配成さるべく候、塚田には内々国元に遣わし候もの、頼み遣わし候間、彼も義気あるもの故必らずうけがいくれ申すべく存じられ候。千万御苦心仰奉り候 頓首  
   初夏 十一日                正明
山岡高歩君
   薩の和泉殿(久光)明日当邸に着也

初夏十一日とは文久二年(1862)の四月のことであり、正明とは清河の號(いみな)、宛名の山岡高歩(たかゆき)とは鉄舟の名前で、鉄舟は號であるが、この時清河は大坂の薩摩藩邸に滞留していた。

何故に山形・清川村の酒造業の息子が薩摩藩邸にいたのか、また、鉄舟が何故に清河の同志と呼ばれるようになったのか。さらに、この手紙の最後「薩の和泉殿明日当邸に着也」にあるように、薩摩藩主島津忠義の後見役である、父親の島津久光が京都に入るタイミングに、何故に回天の一番乗りを果そうとする意気込みを述べたのか。

これらの疑問を解明するためには、当時の政治状況を振り返って見なければならない。

安政の大獄で反対派を弾圧した大老井伊直弼が、万延元年(1860)三月三日桜田門外で暗殺されたあと、政治は一気に混沌化した。井伊大老は、幕府を元来の幕府に戻し、保とうとしたのであるが、暗殺されるという不始末は、目指していた方向が、時代に逆らっており無理だということを、満天下に示すことになってしまった。

この変化は、井伊大老の後の幕府の運営が、老中久世大和守広周と同安藤対馬守信睦になって、朝廷に対する対応が変化したことでわかる。

また、この変化は、幕府の権威が次第に失墜すると共に、尊王攘夷運動が急テンポで展開されてきていたことへの対応でもあった。

つまり、井伊大老の時代は朝廷を統制しようとする意図が強かったが、久世・安藤政権になると朝廷の権威を借りて幕府の権力を強固にするという方向に変わったのである。これは、抑えるというより、利用・協調するという形、これを公武合体というが、幕府側の一歩後退であり、妥協であった。

もうひとつの背景は、当時の尊王攘夷運動というものが、反幕府勢力結集のスローガンとなっていて、幕府がこのスローガンに対抗するためには公武合体が必要だ、という考えからでもあった。

実際問題として、攘夷実行なぞは、安政五年(1858)六月の日米修好通称条約、その後七月に蘭・露・英と、九月には仏と調印済みで、その後年々貿易が盛んとなっている状況下では全く無理である。

という条件を考えれば、とるべき対応策は尊王となる。現実的に考えて、攘夷の実行は不可能であるから無視する。一方、尊王については、反幕府側の主張と同じ立場になることによって、反幕府側が反対できないようにする方策、これが公武合体であり、具体的には皇妹・和宮の降嫁という発想になったのである。

つまり、「かたじけなくも皇妹が将軍の御台所になるならば、これ以上の公武合体はないし、尊王のあらわれはない」という理屈であった。

したがって、幕府は無理押ししても、皇妹・和宮の降嫁を実現しようと動いた。

この幕府の申し出に対し、孝明天皇は反対であった。すでに有栖川宮と婚約が整っており、和宮も「何とぞこの儀は、恐れ入り候えども、幾重にも御断申上度、願いまいらせ候。御上御そばはなれ申し上げ、はるばる参り候こと、まことに心細く、御察しいただきたく、呉々も恐れ入り候えども、よろしく願い入りまいらせ候」(開国と攘夷 小西四郎著)と固く辞退したが、さまざまな朝廷内や幕府の工作が激しく行われ、とうとう孝明天皇は承諾された。

その承諾に当たっての最大の要因は「念願とする攘夷が、和宮の降嫁という公武合体によって実現するかもしれない」という強い希望であり、攘夷が実行されるのならば、どのような犠牲を払ってもと考えたからであった。

この孝明天皇の意思を変えさせた、朝廷内における有力な見解は、天皇の諮問に答えて上書した岩倉具視であった。

「幕府の権威がすでに地に堕ち、昔のような威力がないことは、大老が白昼に暗殺されたことで明らかである。したがって幕府は、国政の大権をあずかる力はない。・・・・だが朝廷の権力の回復を急ぐあまり、武力をもって幕府と争うことは、現在の国情ではかえって国内の争乱をおこし、外国の侵略を招く恐れがある。そこで名を捨て、実を採ることが肝心である。いま幸いに幕府が熱心に和宮の降嫁を請願しているので、公武合体を表面の理由として許可し、今後外交問題はもとより、内政についても大事はかならず奏聞の後、施行するよう幕府に命ぜられたならば、結局幕府が大政委任の名義を有していても、政治の実権は朝廷にあることになる。・・・・まず幕府に条約の破棄を命じ、もし幕府が本当にこれを承るとならば、国家のためと考えられて、降嫁の願いを勅許せらるべきである」(開国と攘夷 小西四郎著)

 理路整然とした意見書であって、孝明天皇はこれによって、大きく気持ちが動いたのである。

実際に幕府は、万延元年(1860)七月に、和宮の降嫁が実現すれば、攘夷を実行するとの誓約を行った。二年前に調印した五カ国との修好通称条約ということを考えれば、全く無責任極まる誓約であり、現実の実態を無視したものであった。

幕府としては本当に攘夷をしようとする気はなかったのであるが、何が何でも皇妹・和宮の降嫁を実現したいという立場から、偽りともいえる誓約であったが行ったのである。

その後、この誓約の実行を、再三再四朝廷から攻め立てられ、とうとう三年後の文久三年(1863)五月十日を攘夷期限と上奏、その旨を諸大名にも通知した。

この機会を待っていた長州は、五月十日に関門海峡を通りかかったアメリカ商船を、二十二日にはフランス軍艦を、二十六日にはオランダ軍艦を砲撃した。しかし、この砲撃結果は六月に入ってアメリカ・フランス両国軍艦による報復を受け、陸戦隊の上陸も許し、大損害を受け、翌年の元治元年(1864)八月五日に行われた、いわゆる四国艦隊の下関攻撃とつながっていくのである。この経緯については後日に詳しく検討したい。

なお、翻訳家・日仏文化交流研究者の高橋邦太郎氏(1898年-1984年)が、次のように述べている。(パリのカフェテラスから 高橋邦太郎著)

「四国艦隊の下関攻撃で長州藩の大砲六十門が捕獲され、このうち二門が戦利品として、フランスに持ち帰られ、今なお、パリのセーヌ河畔のナポレオンの墓所として有名な、アンヴァリット(廃兵院)前の広場にさらしものになって、パリを訪れる観光客は毛利侯の紋章を好奇の目を輝かして眺めている。山口県では、この大砲の返還をしばしばフランス政府に交渉したが、ナポレオン一世以来、戦利品を敗戦国に返した事例のない理由で容易に承知しない」

さて、このような情勢下にあって、諸藩の動きも大きな変化が生じてきた。それを一言でまとめると「雄藩の中央政界への進出」である。

これまで外様大名は、幕府政治体制の中に組み込まれておらず、藩主が個々に発言することはあったが、政治への参加はなされていなかった。

しかし、この時点になると、藩の力を背景に公然と政治活動を行うようになり、その代表が長州と薩摩であった。このように藩が政治活動を行うことを「国事周旋」といい、具体的には、朝廷と幕府の関係に割り入り、雄藩が発言権を発揮しようする工作が行われてきた。

だが、藩の中も複雑である。藩の中に尊王攘夷運動が高まって、その動きの方向に簡単に進む、と考えたいが、そう単純にはいかないのである。藩主-重臣-上級階層-中級階層-下級階層という封建的身分関係があり、その間に軋轢や微妙な考え方の差があり、それらが統一されていくのはもっともっと先になる。

これらについても後日詳しく検討したいが、今回は清河八郎が、何故に回天の一番乗りを果そうとする意気込みを、鉄舟への手紙で述べ、そのために島津久光が京都に入るタイミングを待っていたのか、これを検討してみたい。

薩摩藩は藩主島津斉彬が安政五年(1858)七月に亡くなって、斉彬の弟である久光の長男忠義が藩主になり、久光が後見役となって藩政の実権を握った。

久光は薩摩藩の実力を背景に中央政界に乗り出そうとし、大久保利通を重用し、その大久保の請願で西郷隆盛を流罪地から呼び戻した。

薩摩藩の尊王攘夷派の中でもいろいろな考え方があった。まず、久光の意図は、あくまでも幕政を改革し、公武合体を実現することであって、大久保や西郷は久光の意見に従いながら、次第に尊王攘夷勢力と薩摩藩の発言権を強めていこうとしていた。
ところが、尊王攘夷の急進派は、幕府を見限り、挙兵による倒幕に向かうべきという強攻策を主張していた。

この久光が文久二年(1862)三月、藩兵千人を率いて鹿児島を出発した。これまで、このような大兵で、一藩が動き、京都に行くということは考えられず、それも藩主の後見役とはいえ、正式の藩主ではない、無位無官の久光の示威行動が許されたということ、このようなことは井伊直弼が、桜田門外で暗殺される以前ではあり得なかった。まさに時代の変化を示す大事件であった。

その久光の京都入りの目的は、安政の大獄で処分されたままになっている公家や大名の罪を許すこと、松平慶永(春嶽)を大老に(実際は政治総裁職)、一橋慶喜を将軍後見職にすることであり、それを朝廷の承認をとりつけ、勅旨として大原重徳を差し下ししてもらうことであった。

また、久光は鹿児島出発時に「過激な説を唱え、各地の有志者と交わりを結び、容易ならざる企てをする動きがあるようだが、そのようなことは決してならぬ」と藩士に戒めている。つまり、倒幕とは反対の、幕府維持体制の改革を狙った大兵を率いた行動だったのである。

ところが、尊王攘夷の各地急進派志士たちは、この久光の目的を理解していなかった。今こそ、薩摩の軍事力で倒幕の道に行くべき時がきたと、薩摩の急進派をはじめとして、著名な急進派志士が、ぞくぞくと京都・大坂に集結したのである。

真木和泉(久留米水天宮祠官)、筑前藩の平野国臣、長州藩の久坂玄瑞、それと鉄舟に手紙を書き送った庄内出身の清河八郎であり、これら当時の一流志士と認められていた人物たちが、久光の京都入りを首を長くして待っていて、その多くは、大坂の薩摩藩邸に滞在していたのである。

四月十六日、京都に入った久光は、当然ながら急進派志士たちが期待する行動は起さず、その気配もなかった。それもそのはずで、久光は、急進派過激浪士を取り締まろうと考えていたのである。この大きな両者の齟齬から伏見寺田屋事件が発生し、清河八郎の「回天の一番乗り」の夢は絶たれたのである。次号に続く。

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2009年01月21日

貧乏生活・・・その五

貧乏生活・・・その五
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

 日本経済も世界経済も、金融危機の影響で経済停滞に追い込まれた。これほど低迷するとは、「まさか」の実態で、これを例外問題状況として捉えるか、それとも米国経済が世界を引っ張ってきたトレンドの終焉と捉えるか、その判断が問われる事態となっている。

 だが、誰が見ても、明らかに例外状況の時代であったと判断できるのは、幕末時であろう。嘉永六年(1853)のペリー来航から15年間で、徳川幕藩体制という封建制度を壊し、明治という近代国家に変身させたのであるから、日本歴史の中でも特別の激動期間であったと思う。

 また、この15年間という時間軸を、ついこの間のバブル崩壊後の対応時間と比較するとよく分かる。現代の日本人は、バブル崩壊の処理に15年間を要した上に、銀行の不良債権を処理することが、バブル崩壊後の最適処方箋と理解するまでに、巨額の公共投資をし続けるという愚かな政策で、世界に冠たる赤字国債発行残高を抱えるという不始末をしてしまった。

 ところが、幕末時の日本人達は、たったの15年間で、明治維新という世界中から高く評価される、近代国家への無血大改革を行ったのである。

 それも開国と攘夷という激しい政治体制の闘いに加えて、嘉永から慶応までの期間は様々な災害・被害が発生した中での改革であった。

 安政元年(1854)11月は、4日間という僅かな間にマグニチュード8.4の安政東海大地震と安政南海地震、加えてM7.4の豊予海峡を震源地とする巨大地震が三つ、安政二年(1855)のM6.9の江戸大地震、安政三年(1856)の大嵐と海嘯(潮津波)、安政五年(1858)の江戸コレラ流行、文久二年(1862)の江戸麻疹流行、文久三年(1863)の江戸と大坂の大火、加えて、凶悪犯罪の多発と、諸国の凶作や物価高騰も激しく、全国的に大変な時代環境であった。

 特に、米相場は激しかった。ペリー来航の嘉永六年に米百俵の平均が49両であったものが、15年後の慶応四年(1868)には350両と7倍以上になった。この間、相場は騰がったり下がったりしたが、最も高騰したのは慶応三年(1867)の420両である。これでは庶民の生活は大変だったろうと思う。(参考「江戸の夕栄」鹿島萬兵衛著 中公文庫)

 このように、幕末15年間は、社会病理が連鎖する中で、徳川幕府体制が崩壊へ向かって、誰が次の政権担当能力を持つかということを問い続けた時代であった。つまり、それまでの鎖国体制下の太平の世とは、大きく違った非日常状態・例外状況の連続であった。

 その入り乱れた混迷例外時勢の中で、新たなる時代の主権者を定める舞台に、突如として無名の鉄舟が登場し、明治維新への一大活路を切り開いたのであるが、その役者としての鉄舟は酷い貧乏であった。

 既に貧乏話を長いこと続けたので、今回で終わりとしたいが、最後は攘夷との関係で検討してみたい。

 鉄舟の弟子小倉鉄樹が次のように語っている。(『おれの師匠』島津書房)
「武田耕雲斎が常陸に事を起して、山岡へ訣別に来た。帰りしなに耕雲斎が奥さんに、『お英さん、これで一生の別れだ。かたみに何か置いて行かう。』と、自分の體を見廻したが、締めていた兵子帯を解いて奥さんに置いて行った。それは新調のみづみづしい濱縮緬であった。貧乏で絹ものなど、手にしたことがなかった時、この餞別は奥さんには非常に嬉しいものであった。早速仕立てて腰巻にこしらへ上げた。
 ちやうどそれが仕立てあがった時、どうしても金のいることが起って、まだ一度も身に着けない腰巻を、質に入れなくちゃならぬことになってしまった。其後質から出したい出したいと思ってゐたが、とうとう出せずに流してしまった。
 それを考へると今でも惜しいと思ふと奥さんはよく語られた」
 
 貧乏するとオシャレもままならない。英子は女性としてとても残念だったろう。

 しかし、ここでおやっと思うことは武田耕雲斎の登場である。

 武田耕雲斎とは水戸藩士で、戸田忠太夫、藤田東湖と並び水戸の三田と称され、徳川斉昭の藩主擁立に尽力した功績などから、参政に任じられ斉昭の尊王攘夷運動を支持し、斉昭の藩政を支えた人物である。
 
 しかし、万延元年(1860)に斉昭が病死すると水戸藩内は混乱を極め、耕雲斎は斉昭死後の混乱を収拾しようと各派閥の調整に当たったが、混乱は収まらなかったばかりか、元治元年(1864)には藤田小四郎(藤田東湖の四男)が天狗党を率いて挙兵してしまう。耕雲斎は小四郎に早まった行動であると諌めたが、逆に小四郎は斉昭時代の功臣である耕雲斎に、天狗党の首領になってくれるように要請し、耕雲斎は初めは拒絶していたが、小四郎の熱望に負けて止む無く首領となった。

 だが、水戸藩内部抗争の激化と、それに介在した幕府から追討を受けることになった天狗党は、上洛して斉昭の子で当時は京都にいた徳川慶喜に会い、尊王攘夷の志を訴え、朝廷に取り次いでもらい、生死を朝命に任せようと、八百名の将兵を率いて中山道を進軍したが、前途を彦根、大垣藩に塞がれていることを知り、道を北へ転じ越前に向った。このころから激しい吹雪と寒気に悩まされ、とうとう敦賀(越前国新保)で幕府軍に降伏した。

 降伏したのは、頼みの慶喜が鎮撫の役を買って出て、追討軍の総指揮官として、諸藩の兵に攻撃を命じるという事態を知り、すっかり失望し進退に窮したからであった。降伏後、簡単な取調べを受けた後、耕雲斎は小四郎と共に斬首の刑となったが、この時福井藩は残酷な首切り役を拒否し、その役目は彦根藩に任された。彦根藩兵は相手が桜田門外で前藩主井伊直弼が討たれた復讐だと、勇躍して斬首の太刀をふるったという。

 この斬首は合計三百五十名にも及び、さらに、耕雲斎の首が水戸に着いた日に、妻・二人の子・三人の孫も打ち首になった。

 この天狗党の処置について、安政の大獄でも死罪処分は吉田松陰以下八名に過ぎなかったのに、残忍極まるとの非難、加えて、水戸藩出身の慶喜の冷たさを厳しく責める見解もあることを付言しておきたい。

以上が武田耕雲斎の簡単な略歴である。これで分かるように耕雲斎は、当時の尊王攘夷運動のリーダーの一人であった。その人物が天狗党の首領となるに当たって、鉄舟に挨拶に来たのである。ということは、耕雲斎が挨拶に来た元治元年時点で、鉄舟は29歳、攘夷運動では知られた人物になっていたことが分かる。

 鉄舟と攘夷運動については、次号以下で詳しく検討するが、ここで攘夷思想について簡単に触れておきたい。それが鉄舟の貧乏生活と結びつくからである。

 まず、当時の攘夷という内容がどのようなものであったか。それを渋沢栄一編の「昔夢会筆記・徳川慶喜公回想談」から拾ってみたい。

 これは明治も終わりに近い頃、かつて一橋家の家臣であった渋沢栄一が中心になって、まだ元気だった慶喜を囲んで、幕末当時の事情を聞くための座談会を開いて、それをまとめたものが「昔夢会筆記・徳川慶喜公回想談」(平凡社)である。

 座談会は、慶喜を招じて座談応答する催しと、編集員が慶喜の邸に赴いて稿本について批正を仰ぐ場合とがあった。前者が本式の昔夢会で、これは十七回催された。後者は、いわば準昔夢会というべく、これは八回催され合計25回であった。

 この中の第七回の会、開催日は明治四十二年十二月八日、渋沢の兜町事務所で開かれたが、そこで攘夷のことが話題になった。参加していた旧桑名藩士の江間政発が、三日前に東久世通禧に会って聞いたという話を披露している。東久世通禧とは、文久三年の八月十八日の政変「七鄕落ち」の一人、つまり、当時の朝廷内強行攘夷論者である。

 「あの当時攘夷ということが流行しましたが、攘夷は夷を攘うということで、何でも眼色の変わった奴は、片端から斬殺してしまうというのが攘夷の原則で、攘夷を大別しますと、水戸の攘夷、長州の攘夷、それから天子様の御攘夷と、こう三つと見まして、水戸の攘夷などというものは、私ども(江間)考えると本当の攘夷ではない、ためにするところあっての攘夷、あなた(東久世)はどうお考えなさるかと申し試みましたところが、長州の攘夷もそうだよ、何も攘夷をしたいというわけでない・・・。してみると攘夷ということは、今日から忌憚なく申すと、反対党を叩き潰す看板である、そう言ってもよろしい」


 この「反対党を叩き潰す看板」という表現、これをそのまま受け入れれば、あの歴史に残る文久三年の八月十八日の政変は何であったのか。これは朝彦親王、近衛忠房らと薩摩藩・会津藩らの公武合体派によって緻密に計画されたものであって、長州藩と尊王攘夷激派が京都から追放された事件であった。

 これについてここでは詳しく論じないが、この政変の中にあった主導者の東久世通禧が、自らの攘夷思想を「争うための唱道」であったといっているのである。明治維新の熱も冷めた明治42年の頃であるから、往時の反省を込めて語ったのかもしれないが、この第七回の会に出席していたのは旧幕府側に立つ人物たち、いわば「叩き潰された」側だから、その通りというような雰囲気で会が進んでいる。
肝心要の慶喜はどう反応したかであるが、話が一段落したあたりで「攘夷にもいくとおりもある」と一言挟んだだけであった。

 ここで乱暴なまとめ方であるが、簡単にいってしまえば、当時の攘夷思想というものの本質は、幕府のやり方を批判するために使われていたということである。

 しかし、このような乱暴な尊王攘夷思想では、あの明治維新の政局を動かすだけの力にはなれず、改革は成り立たなかっただろう。

 では、幕末時において、全国津々浦々から草莽の志士がうねり生じた、あの強烈な改革への情熱の塊はどこから生じたのだろうか。そのためには「攘夷論」ではなく「尊王論」を検討しなければ分からない。

 天皇をもっとも価値ある存在とみなすという意味での尊王論は、江戸時代では通念となっていた思想であった。また、日本を中華とみなし、西洋を夷狄とする華夷思想も普通に論じられていた。尊王論は、国内の人間関係を君臣関係で位置づけようとし、華夷思想は、
国際関係を華夷関係という価値の姿として位置づけようとする。
 
 その意味で、この二つの思想は結合する関係を持っていた。したがって、外国勢力の圧力を強く意識せざるを得なくなって、「尊王論」と「華夷論」は結合し、ここに「尊王攘夷思想」が生れたのであった。
 
 こうした尊王攘夷思想を最初に唱えたのが水戸藩であった。その内容は天皇-幕府-藩主-藩士という封建的ヒエラルキーが設定され、武士は直接の君主に忠誠を尽くす、それが尊王思想であると意味された。この思想では、武士の尊王行為は幕藩体制を補強するものであっても、敵対化するものにはなり得ない。

 しかしながら、こうしたいわば佐幕的尊王思想を、体制破壊の尊王思想に変えた一人が、吉田松陰であった。

 吉田松陰の尊王思想特色は、天皇への個人的・主体的忠誠を重視するところにあった。松陰は、全国の日本人は、階級・身分にかかわらず、天皇に忠誠を尽くすものであるという「一君万民論」を説いたのである。

 このような尊王思想が、「国事」に深い関心を持ちながら、身分が低いゆえに活動を制限されていた下級武士に勇気を与えた。松陰の主催する「松下村塾」には、こうした下級武士が多く学んだが、それは松陰の思想が集めたのであった。

 このような尊王攘夷思想を求めた下級武士たちは、長州藩だけに限らなかい。彼ら草莽の志士は、天皇に忠誠を尽くすという一点に立ち、上下の身分を超え、藩の大小・区分を超え、横断的結合をもって幕末を動かしていったのである。


 ここで以前に紹介した「宇宙と人間」図について触れたい。鉄舟は二十三歳の若さで一つの思想体系を創りあげている。

 この「宇宙と人間」図を掲載するとページ数が増えるので省略するが、その内容を二〇〇六年十月号で次のように補足説明した。

 「安政の大獄(1858年9月)の四ヶ月前に『宇宙と人間』は書かれた。図では最初に『宇宙界』という言葉を持ってきている。当時の日本人で、まして封建社会の武士階級身分の人物が、『宇宙』という今でも新しい響きを持たせる言葉を使っていることに驚きを禁じえない。加えて、この図に徳川幕府という表現がないことにも、徳川家の旗本である立場からは奇異で斬新、とうてい考えられないことである。
日本国を天皇の下に、『公卿』『部門』『神官、僧侶、諸学者等』『農、工、商、民』と四区分しながらも、その区分間に身分差なく、公平に並べ扱っていることにも驚く。『上下尊卑の別あるに非ず』と、つまり、人間に本来貴賎の別はないことを明言している。民主主義という言葉と内容は、まだ日本には伝わっていなかった時代に、二十三歳の下級一旗本がこのように記しているのは驚くばかりである」


 ここで読者は何かに気づかれたと思う。それは吉田松陰の「尊王思想」との一致である。松陰は、全国の日本人は、階級・身分にかかわらず、天皇に忠誠を尽くすものであると説いたのである。鉄舟も天皇の下、身分差なく公平に並べ扱っている。同じである。

 鉄舟が松陰と出会った記録はない。小説「山岡鉄舟」(南條範夫)では、黒船見物時に鉄舟と松陰が会い、「草莽崛起論」を説かれたとあるが、真偽は分からない。

 しかし、松陰が唱道した思想が鉄舟に影響している可能性はある。当時の社会で松陰の名は響き渡っていたであろうし、その思想主張を漏れ聞く機会もあったであろう。

 そこで前号の疑問に戻りたい。西郷との駿府会談で示した鉄舟の「普遍的な公」とは、結局、幕府を潰すことにつながったのであり、これは、家族を犠牲にした貧乏とつながっているはずであるということである。

 結局、鉄舟は自らの生き様を「宇宙と人間」で書き示したように、天皇の臣民として生きる覚悟を定めていたのである。だから、鉄舟にとっては、妻子を養うのは私事であり二の次となり、その延長から志向する思考体系は「臣民」であって、一個の自由な「人間」ではなかったということになる。いわば鉄舟は、いつも「臣民」としてのみ思考し行動していたのである。

 恐ろしいまでの徹した「尽忠」理念であって、これを貫く先には、当然に貧乏生活が存在したのである。

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2008年12月09日

貧乏生活その四

貧乏生活その四
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

鉄舟は自ら大悟し自得した無刀流について、明治十八年次のように説明している。
「無刀とは心の外に刀なしと云事にして、三界唯一心也。一心は内外本来無一物なるが故に、敵に対する時、前に敵なく、後ろに我なく、妙法無方、朕迹を留めず。是、余が無刀流と称する訳なり」(山岡鉄舟剣禅話 徳間書店)

これは、心の外に刀はないということであり、三界にあるのはただ一心の真理だけであり、この一心とは内外ともに本来何物にも執着しないことを意味している。

つまり、刀に捉われない剣法であり、人間生れたときも死ぬときも裸であって、本来無一物であるのだから、何もないと思えば、地位や財産や名誉も関係なく、このような利欲に惑うのは愚かなことであると述べているのである。

このような境地に達したのは、明治十三年三月三十日払暁に「釈然として天地物なきの心境に坐せるの感あるを覚ゆ」という大悟に到ったからである。

大悟への修行のきっかけは、一刀流の浅利又七郎義明との立ち合いによって、自らの力量でははるかに及ばざることを知り、その後は寝ても覚めても浅利の剣が現れるという事態から、京都嵯峨天竜寺の滴水師によって授けられた禅理公案、それを解くことによってなされたのである。

この経緯については後日に詳しく検討していきたいが、大悟という心境に到って、始めて鉄舟は本来無一物と悟ったわけではない。そこに至る道には幼き頃からの精進が当然にあり、その原点を探っていくと、十五歳のときに認めた「修身二十則」に行き着く。

「修身二十則」の第一則は「うそはいふ可からず候」で始まり、その後に続く中で、己の知らざるは何人からも学べと言い、名利のために学問技芸すべからずと諌め、人にはすべて能不能あるので差別するなと説き、わが善行を誇らず、わが心に恥じざるよう務めろとある。とても十五歳の少年が書き示したものとは思えない。すでに賢者の言辞であり、この時点で本来無一物の思想、つまり「無私」の精神が顕れており、これを自己研鑽の最高の徳目に、少年時代から自己研鑽を続けていたという事実が浮かんでくる。

この「無私」の精神を実行している過程に、英子との結婚生活が存在したのであるから、結果として酷い貧乏生活とならざるを得なかった。前回に続いて貧乏話に触れたい。

鉄舟の家では、家財道具から着物まで売り払い、畳まで売って八畳の間に畳がたった三枚残っただけで、あとはがらがらの空家になってしまった。この畳三枚の中の一つに机があって、他の畳二枚は寝たり食べたり客を通したりする席になっていた。勿論、何年経っても畳替えも出来ないから、段々ぼろぼろになり、机の前の鉄舟の座るところは、畳が丸くくぼんで、それがしまいに床板に届いたという。

夜など敷く夜具がなく、たった一つの蚊帳、それもぼろぼろの古蚊帳にくるまって夫婦で寒中抱き合って寝て寒さを凌いだ。

「どうしてあの蚊帳だけが残ったものか。余程のぼろなので屑屋が持っていかなかったのかもしれない」と鉄舟が何かのとき、話したほどである。(おれの師匠)

鉄舟の家の庭木は薪物にするため伐られて行った。その庭木の中に柏の木が一本あった。隣が菓子屋で、毎年柏餅の時節になると、鉄舟のところへ柏の葉を貰いに来て、そのお礼だといって英子に幾ばくかのお金を置いていくのであった。

庭の木が追々伐られてしまうのを見て、菓子屋の主人が英子に「あの柏の木だけは伐らないようにしてください」と言った。

菓子屋の主人の心は、この柏の葉でいくらかの生活費に充て得るなら、伐らぬ方がよいという老婆心もあって言ったのである。

鉄舟は英子から隣の主人の言った話を聞いて、菓子屋風情に憐れみを受けるのが心外でならなかった。英子の話を聞き終わると、鋸を持ち出して、庭に下りて、柏の木を伐りだした。これを見た隣の主人が飛んできて、

「山岡さん、どうしてその木を伐ってしまうのですか。残しておいたらいいでしょう」と詰る如く問うた。
「がさがさ枯葉の音がして、勉強の邪魔になってうるさくていけねー」
と、とうとう伐り倒してしまった。(おれの師匠)

 自宅の庭木が他人の役に立って、そのお礼といえる報酬さえ拒否する。物凄まじいまでの徹底したつらぬきであるが、これを「無私」の精神という説明だけでは不十分と思う。もう一つ何かがあるだろうと考えたい。

鉄舟は当然ながら、内職するということなぞ全く存念になかった。だが、当時の下級武家は内職が当たり前であった。江戸時代の武家の内職について「江戸の夕栄(鹿島萬兵衛)中公文庫」は次のように解説している。因みに著者の鹿島萬兵衛は、数え年で二十歳が明治元年であるから、江戸時代に少年時代を過ごした人物であるので、当時の実態をある程度正確に把握していたと思われる。

「俗に三ピンといふ下役の武家家来あり。足軽・小者の輩ならん。一ヵ年金三両に一人扶持(ゆえに三一といふ)。二本差もあり。それのみにては自分だけをも支えるに足らぬゆゑ、種々の内職をする。大名の中下の邸にてはないしよの表向きとして許されありしなり。傘、提灯張り、扇、団扇、下駄の表、麻裏草履、摺物、その他数多くあり。本職よりかへつて収入多きなりしと」

多くの武家が内職を当然とした時代、鉄舟はアルバイトなどを存念に全くおかなかった。何故だろうか。妻子を養うという思考はなかったのだろうか。

この点について、茨城大学磯田道史助教授は次のように解説している。(朝日新聞二〇〇七年二月十日)
「山岡の辞書に『暮らし向き』という文字はなかった。だから、妻にとっては過酷そのもの。山岡の死後、妻は語った。『夫婦になったはよいが、鉄太郎(鉄舟)という人は、これまた、とんでもない変人で、何にも気の付かない人です。妻子を養うには、かくせねばならぬ、と云う如き事には更に無頓着な人』つまり、山岡にとっては、妻子を養うのは私事であり二の次、義にあつい彼は、妻子が飢えても、客には食べさした」

ここで指摘されているのは、妻子を養うのは私事ということであり、たとえ家族が飢えようと私事では行動しない鉄舟像であるが、ならば、私事でなければ何を基盤に行動したのであろうか。

それは公事しか考えられない。

ここで改めて西郷隆盛の鉄舟に対する評価を振り返ってみたい。西郷が始めて鉄舟を知ったのは、江戸無血開城を決めた駿府会談であった。駿府の松崎屋源兵衛宅で示された、鉄舟の持つ武士道精神によって、西郷は江戸無血会場を約束し引き受け、四日後の慶応四年(1868)三月十三日に芝高輪の薩摩屋敷で、正式に勝海舟幕府陸軍・軍事総裁と、西郷隆盛東征軍大総督府参謀による第一回の会見・交渉が開かれたのであった。

だが、第一回では静寛院宮の安全についてのみ確認し合い、あとの議題は翌日の第二回会談に回し、海舟が西郷を愛宕山に誘った。

愛宕山は海抜26メートル、さほど高くない丘であるが、台地の東端にあり、ここから見下ろすと、江戸の町が北から南まで見渡せ、その先に広々とした海と白帆の船を望むことができる。また、徳川家康が建立した愛宕神社があって、江戸城南方の鎮護として当時も今も名所であり、神社に参拝するためには、寛永十一年(1634)曲垣平九郎が馬で上った急勾配、その男坂八十六階段を海舟と西郷も上がり、そこで、西郷があの有名な言辞を発したのである。

「命もいらず、名もいらず、金もいらず、といった始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如きでしょう」と。

これが、後年、西郷の「南州翁遺訓」の中に一節として記され、西郷が鉄舟に対して示した評価であったが、この評価言辞の意味は、鉄舟という人物は「普遍的な公」という立場から事態に対処してくる、「普遍的な公」というものにしか仕えていない人物だ、と西郷が認めたと理解したい。

では、ここでいう「普遍的な公」とは何か。そのためには、再び、当時の政治状況を振り返って見なければならない。

鳥羽伏見の戦いに敗れ、薩長軍は官軍、幕府軍は賊軍となり、慶喜は大坂湾から船で脱出、江戸に慶応4年1月12日に戻った。江戸城では恭順派と抗戦派に分かれ議論が紛糾し、その議論に揺れ動いた慶喜も、最後は恭順策を採り、その意を表すべく、上野の寛永寺一室に謹慎・蟄居した。

この恭順の真意は、江戸無血開城であり、その結果として国内の争い回避と、外国勢力の介入防止であり、この状況は今後誰が日本国内の政権担当能力を持つのかを問われるものであった。

それまでは徳川家が、将軍職として国内政治を掌握していたのであり、この実態を「日常状態」と認識すれば、慶喜の恭順は「非日常事態」の発生であり、例外状態であるから、その状況下では人の判断基準は分かれる上に、今までの「日常状態」での判断基準は参考にならない。その結果として多くの異論が噴出、争いが生ずるのである。

これが幕末時に生じた政治実態であったが、この事態を後世の歴史家が認める「明治維新」という大業まで成し遂げた起点は江戸無血開城である。

つまり、「非日常事態」の中から、後世に認められるような「普遍的な公」を採りえたことが、「明治維新」を成立させたのである。

しかし、幕末時という「非日常事態」の渦中に実在した多くの人々は、未来を見通すことが適わない一人の人間として、それぞれ「考え方」を持って行動していた。

人間であるから当然であろう。また、その「考え方」でつらぬきたいと思ったら、それに見合う意志力を持ち努力し行動していくことが肝要となろう。これは、「考え方」を実現しようと思うならば、それに見合う努力が必要だということであり、これを平たく言えば「やる気」を持ち続けることであ。そして、その「やる気」がぶつかり合うことで争いが生れる。

つまり、「考え方」があり、「やる気」があり、「争い」が生まれ、その先に後世の歴史家が認める「結果」が生じることになる。一介の人間がそのすべてを見通すことはありえない。ただ状況に翻弄されるがせいぜいだろう。

その渦中に鉄舟は存在し、重要な役割を担ったのである。では、当時の鉄舟の「考え方」と「やる気」とは、どのようなものであったのか。

まず、「考え方」は「武士道」であったろう。鉄舟は「武士道」について次のように解説している。
「日本の武士道ということは日本人の服膺践行すべき道というわけである。その道の淵源を知らんと欲せば、無我の境に入り、真理を理解し開悟せよ。・・・中略・・・これすなわち国体の精華、いよいよ真美を重ねて、国家の福祉はますます増進するのである」(勝部真長編「山岡鉄舟の武士道」角川ソフィア文庫)
ここで述べていることは、自らが大悟した結果理解した内容であり、それは国家の大道をもつながるものであるが、これは真のサムライとしての生きた鉄舟であるから当然であって、「仕える」対象の存在は「私」ではなく、「公」に仕え奉ずることになる。

言葉を代えれば「ノーブレス・オブリージ」(高い身分と地位に相応しい義務と責任)がすべてを律することになる。

次の「やる気」とは、「武士道」が前提思想であるから、単なる「やろう」というような気持ちではなく、サムライが一度決めたことは、命がけで守るという「気概」に昇華させたものであったろう。

この「気概」があるからこそ、十五歳で認めた「修身二十則」の弛みなき実行につながり、その結果は「妻子を養うのは私事」という極貧の家庭生活につながり、「非日常事態」における西郷との駿府会談では、決死の気合と論説の鋭さによって「普遍的な公」を示すという行動につながったのである。

しかし、今ひとつ理解できないことがある。駿府会談で示した「普遍的な公」とは、結局、幕府を潰すことにつながったのである。幕府が消えるという「普遍的な公」の背景精神はどこから発したのだろうか。

その背景精神は、家族を犠牲にした貧乏とつながっているはずである。次回に続く。

投稿者 Master : 08:48 | コメント (1)

2008年11月14日

貧乏生活その三

貧乏生活その三
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

鉄舟の貧乏は家庭に悲劇をもたらした。妻英子が最初の子を生んだが、乳が出ないので栄養不良で亡くなってしまったのだ。鉄舟は立派で丈夫な体であるから問題がないかもしれないが、赤ちゃんは母からしか栄養が摂れない身。その母である英子が栄養不足では赤ちゃんは育たない。鉄舟夫婦の食生活は、鉄舟自ら次のように述懐しているように酷かった。

「何も食わぬ日が月に七日位あるのは、まぁいい方で、ことによると何にも食えぬ日がひと月のうちに半分位あることもあった」(小倉鉄樹著『おれの師匠』島津書房)

その赤ちゃんの出産は真冬だったが布団も十分にない。鉄舟は自分の着ていた着物を脱いで、英子に掛けてあげ、鉄舟は褌一本で英子の枕元に座り、看護しながら座禅を組んでいる。目を覚ました英子がビックリして
「それでは風をひきます。せめて羽織だけでも着てください」
というので
「そうか」
と、裸に羽織を着たが、英子が再び寝てしまうと、またそっと羽織を英子に掛けてあげる。また、英子が、ふっと目を覚まし、裸で座禅を組んでいるのを見て起き上がろうとするのを
「心配するな。裸の寒稽古をしているのだ。禅では寒中裸修行は当然だ」
と笑い飛ばす。

後年、鉄舟は弟子の小倉鉄樹に述懐している。

「こんなおれになんだって惚れて夫婦になる気になったものだろう。寝ている妻の顔を眺めては我知らず不憫の涙がこぼれたことがある」(『おれの師匠』島津書房)

 貧乏の話には事欠かない。

 鉄舟は出かけることが多く、一度外出すると二三日戻らないことが多々あった。
英子は、家財道具を売り飛ばし、畳まで売ってしまい、八畳の間に残った三枚の畳だけのがらんどうの家、その上、食べるものもなく、その後生れた赤ちゃんがひもじさに乳房にしがみつくのを、あやしだまし縁側に出た。

夫は今頃どこで何をしているのだろうか、寂しく夕闇の空を眺めていたところ、突然、塀の外から一つの包みが抛りこまれた。

 何だろうと包みを開けてみると、中には蕎麦のもりが三つ入っている。不思議なことがあるものだ。どうしたのだろうかと思い、食べてよいのだろうかと躊躇いつつ、包みを持って家の中に入り、お腹が空ききっている身、天の与えだと、押し頂いて食べてしまった。

 それも醤油がないので、水で喉を潤しながら食べてしまった。三日間何も食べていなかったので、そのうまさは何ともいえないほどだった。

 翌日、鉄舟が帰宅した。
 「昨夕、友人と家の前を通ったのだが、用事の都合で寄れなかった。きっとおまえが腹を減らして居るだろうと思って、蕎麦屋で食べ残したもりを包んで、通りがけに外から抛り込んだが食べたか」
と言われたときには、鉄舟の心のうれしさで胸がいっぱいになってしまって、英子は涙ぐむばかりだったという。これも小倉鉄樹が書き残している。(『おれの師匠』島津書房)

 また、英子は家の敷地内に野菜をつくったりしていた。さらに、近所の空き地や森に生えている草、食べられそうなものを採っては食べていた。これを見て近くに住んでいる人たちは、鉄舟の家の周りは草も生えないと揶揄するほどであった。

 当時の鉄舟の住まいは小石川鷹匠町である。現在の地下鉄丸の内線茗荷谷駅から歩いて近い小石川五丁目辺り、桜並木が綺麗な播磨坂へ春日通りから入ったすぐのところ、昭和四十一年までは竹早町といった辺りであるが、ここには下級の旗本屋敷が並んでいた。

 当時の切絵図(安政三年)を見ると、幕府からの拝領屋敷である高橋泥舟の家と山岡家は並んでいて、山岡家の敷地面積は図面上から判断すると高橋家の約1.5倍ある。高橋家の敷地は百四十坪といわれているので、この1.5倍であるから二百十坪となり、今の感覚では広い敷地である。

 比較のために町奉行所配下の町方与力の屋敷を見てみると、北町与力の谷村猪十郎の天保八年当時の屋敷図面が残っていて(天保撰要類集128)、敷地面積は三百二十坪あり、道路に面した部分を医師二人に貸している。当時の与力は屋敷の一部を医師、学者、儒者、剣道指南、手習い師匠などに貸すことが多かったが、これは支給される禄高だけでは生活が苦しかったことと、人に貸せるほど広かったことを意味している。

 与力の禄高は現米取で大体百六十石から二百三十石で敷地は三百二十坪、それに対し鉄舟の切米取百俵二人扶持はこれより少ないが、この両者の禄高を勘案し考えると、山岡家の敷地が二百十坪というのはほぼ妥当な広さではないか思う。

 この二百十坪の敷地で、英子は慣れない家庭菜園をし、周りの空き地や森で草を採って食べていた。

 このような英子の自然の草花採集による食料調達を、可哀想で不憫と思うか、それとも別の考えを持つのか、それは当時の状況を整理してみないと簡単には判断が出来ない。

 まず、江戸時代の小石川鷹匠町辺りは、どのような環境下であったのだろうか。ちょっと寄り道になるが、当時の鉄舟自宅辺りの自然実態を探ってみたい。
 
高橋家と山岡家の所在地辺りの切絵図(安政三年)を見ると、両家の左下側に「伝明寺」があり、今でも存在している古刹であり、ここは別名「藤寺」とも呼ばれている。

「藤坂は箪笥町より茗荷谷へ下るの坂なり、藤寺のかたはらなればかくいへり」(改撰江戸志)。ここで詠われて藤寺とは伝明寺のことであり、その謂れは慶安三年(1650)閏十月二十七日、三代将軍家光が鷹狩りの帰り道、伝明寺に立ち寄り、庭一面に藤があるのを見て「これこそ藤寺なり」と上意されたことからである。(東京名所図会)

さらに、この伝明寺の傍らの坂からは、富士山が望まれ、坂下の谷からは清水が湧き出ていて、一帯は湿地で、河童(禿)がいたので富士坂とも禿坂ともいわれた。

詩人の太田水穂が「藤寺のみさかをゆけば清水谷 清水ながれて蕗の薹もゆ」と詠ったように、明治時代でも豊かな自然が溢れていて、地下鉄丸の内線茗荷谷駅名が示すように、ここは小日向村の畑地で茗荷畑だったところである。

このように山岡家の周りは自然が溢れ、そこには食せる草花が多かったのである。

現在、日本のカロリーベースの食料自給率は39%(2006年)で、先進国ではスイスの40%に次ぐ低さで輸入に頼っているが、その主要輸入先としての中国が問題である。

既知の如く中国では水源不足であり、有害物質の投棄による水質汚染の拡大があり、加えて食材生産に大量抗生物質投入や農薬の過剰使用など行われていることから、消費者は中国産の購買を敬遠しつつある。しかし、外食や大手食品メーカーでは、中国産食材抜きでは事業が成り立たないのが実態で、中国産食品の二〇〇六年輸入額は九千三百五十億円と前年比で八%増となっている。

このように日本人は安全性を心配しつつ、中国産の食材を食べ続けなければいけない状況下にある一方、メタボリックシンドロームなど飽食が問題となるほどのグルメ化で、テレビやレストランの「究極のグルメ」などが話題を呼び関心事となっている。

しかし、その「究極のグルメ」が伝えるメッセージ内容をよく見てみると、結局「採りたて」「つくりたて」「焼きたて」「本物」「無農薬生産」などであるが、これを改めて考えてみれば、何のことはない江戸時代から戦前までは、普通に食されていたことである。

別にグルメとして騒ぐことではなく、六十七年前までの一般人が食する食材はこの内容どおりであり、それが安い価格であった。今は本物の豆腐といって一丁何百円もするのを、ありがたく高い価格で買っているが、昔ならば全部本物で、それは普通の価格で売っていた。

その上、冷蔵庫もなかったし、毎日、行商が取り立ての魚やしじみ、作りたての豆腐や納豆、それは防腐剤も着色剤も使用していないのであるから、今から考えると幸せな食生活をしていたことになり、そこに原点を持つ日本食が、今や世界的ブームとなっている。

京都の老舗料亭「菊乃井」の社長村田吉弘氏が、先日「KAISEKI」を出版した。英文の日本料理本で、フランスで「ベスト・シェフ・ブック・イン・ザ・ワールド」という世界料理本賞を受賞した。

日本料理が海外で評判になるに連れて、外国人による日本料理店の展開が増え、まゆをひそめたくなる“日本料理”に出合うことが多くなって危機感を覚えたことと、いままで日本料理全体を網羅した紹介書がないことから、今回の出版なったと発言しているが、日本料理の興隆は江戸時代からであった。

徳川幕府体制が確立した「島原の乱」以後、国内で戦いがなくなり、安定化してくると急速に食べ物の種類が増えてきた。寛永二十年(1643)の将軍家光時代に出版された「料理物語」には、魚90種、獣7種、鳥18種、青物77種などの食材によって作られた料理が多彩になってきている。

弘化三年(1846)の山東京山の随筆「蜘蛛の糸巻」によると、江戸で最初の飲食店は天和の時代(1681~1683)の頃に浅草にできた「奈良茶飯」の店とのことであり、随分繁盛したらしい。
またもや横道に入るが、この「茶飯」は元来、奈良の寺院食であった茶粥からきたもので、茶を煮出した汁で煮た飯であり、これを即席に作るのが所謂茶漬けであった。

因みに、茶粥とは今のかゆではなく、今の飯が当時かゆと呼ばれて、今のかゆは当時姫がゆと呼ばれていたので、今の茶飯は昔の茶粥に当たる。(樋口清之著「史実江戸四巻」芳賀書店)

「徳川禁令考」、これは明治27年(1894)に幕府遺蔵の書を中心に、司法省が編纂した江戸幕府の法令集102巻で、前聚は公家・武家・寺社・庶民・外国関係の法令を編年収録したもので、後聚は司法警察関係の資料であるが、その中で文化元年(1804)には、江戸で食べ物商売している店は総数で六千百六十軒あったという。

しかも、この数は吉原・堺町・葺屋町・木挽町の芝居茶屋と、その日稼ぎの振り売りは除外したものである。江戸の人口は文化十三年(1816)に501,161人(「新編日本史図表」第一学習社)であるから、八十一人当たりに一軒の食べ物屋があったということになる。この数は決して少なくないと考える。

つまり、江戸時代は外食産業が盛んであったということであり、これらの店がいずれも「採りたて」「つくりたて」「焼きたて」「本物」「無農薬生産」などの食材を使用していたのであるから、今の時代に生きる我々より「究極のグルメ」であったと推察でき、食生活は江戸時代の方が幸せであったと思う。日本料理の原点は安全だったのである。

話は鉄舟に戻るが、英子は百俵二人扶持という禄高で不足する生活を、屋敷の庭や、恵まれた周りの自然環境から採取できる自然の食べ物で補っていたが、これだけでは当然限界があり、何も食えない日が続く生活をしていた。

しかしながら、ここで最大の疑問が浮かぶ。

貧しくて食えなければ、そこから脱皮するために何かをする、お金を稼ぐために何かをする。これが当たり前の一般的な行動手段であるが、鉄舟の場合、その当たり前のことをしていない。

鉄舟は後年、小野道風に比せられたほどの書家でもあったから、自宅屋敷で書道塾を開いて収入を図るということも、剣の達人であるから剣術指南をするという方法もあったであろうが、それらの収入の道を図った記録も、また、考えた気配が一切ない。

これをどのように理解したらよいのか。普通人の考え方では理解不可能だろう。

明治維新を成立させた江戸無血開場、その対官軍交渉は静寛院宮(14代家茂夫人)、天璋院(13代家定夫人)、輪王寺宮公現法親王による打開工作も通ぜず手詰まって、官軍先鋒は品川まで迫り、江戸城総攻撃は必至となり、そうなれば江戸市中は戦火の坩堝となる時に、最後の奇策として鉄舟の投入であった。

この普通人では不可能と思える江戸無血開城交渉を、鉄舟は単身で駿府に乗り込み、実質の官軍総司令官西郷隆盛と会見し成功させたのであるが、その偉業の背景には、敢えて若き時代に極度の貧乏に耐え忍んだ生活、これが、必ず関係しているはずである。

そのことについて次回検討したい。

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2008年10月12日

貧乏生活其の二

貧乏生活其の二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

山岡鉄舟の貧乏は世間の常識を超えていた。

しかし、山岡家に養子として入るまでは貧乏とは縁がなかった。六百石の旗本小野家子息であり、その後飛騨高山代官という恵まれた経済環境の下で子ども時代を過ごし、両親の死去により江戸に戻ってからも、遺産相続のお金があったため、貧乏とは関係ない生活をしていた。

だが、山岡静山の剣に感服し、人格に心服した結果、静山の長女英子の懇望もあって山岡家に養子に入って生活環境は一変した。

当時の山岡家の経済状況は弟子の小倉鉄樹が「山岡家はその当時は没落してたしか二人扶持金一両という足軽身分である」(『おれの師匠』島津書房)と語ったように、もともと貧乏家庭であり、娘に習字手習いをさせていなかったほど、山岡静山の家計は相当厳しかったのである。 

その事実を小倉鉄樹が次のように述べている。

「英子は貧乏生活のため、読書にいそしむことがないまま鉄舟と結婚したが、その後は読書、習字を一心不乱に学び、晩年はなかなか上手くなって、手紙等をみると師匠と間違えるほどであった。絵も上手になった。

明治21年12月3日の大阪毎日新聞の記事に『山岡紅谷女史は故鉄舟居士の未亡人なるが頗る写生画に巧みにして来春を期し当地に来り揮毫せんと、即今其の支度中の由に聞く』とあるが、これは偽者で当時鉄舟の名声が高かったので、こういう偽者が各所に出没したのである」(『おれの師匠』島津書房)

このように英子は貧乏であったから、鉄舟と結婚してからから文字を習ったのである。
 
このような貧乏山岡家に、生来衣食住に関心がない性格の鉄舟が入ったのであるから、さらに大変であった。一般の人であれば、貧乏ならば何かで働くということで、収入の道を探すことが普通であるが、鉄舟の関心事は剣・禅の修行のみで、他のことには一切興味がなかったから、結果はますます貧乏になっていった。

しかし、鉄舟自身は貧乏なことには一切執着しない心の修練を積んでいたので、周りからみれば貧乏生活で大変だと思っても、鉄舟にとってはなんということなき毎日であった。

 その貧乏の程度であるが、ご飯などは三度々々食べられることは、一ヶ月のうちに何回もなかったという。大抵は一度か二度で、全く食べるものがなく水を飲んで過ごすことの多々あったらしく、その状況を次のように鉄舟自ら述懐している。

「何も食わぬ日が月に七日位あるのは、まぁいい方で、ことによると何にも食えぬ日がひと月のうちに半分位あることもあった。なぁに人間はそんなことで死ぬものじゃねえ。これはおれの実験だ。一心に押して行けば、生きて行けるものだ。おまへ等もやって見るがい、死にはせんよ」(『おれの師匠』島津書房)

これを聞いた小倉鉄樹が「大燈国師(妙超・南北朝時代の禅宗の僧)の遺戒にも『道を修る者、衣食の為にする勿れ』と戒めているのと思い合わせて、山岡などの心の用い方が常人と違っていることがしみじみ感じられる」と述べているが、これに対して現代の我々はどのように考えたらよいのであろうか。

確かに、太平洋戦争敗戦時に、国民は飢えに苦しんだ過去がある。だが、これは日本人全員に降りかかってきた災難であり、そこから脱皮すべく努力した結果が今日の繁栄をもたらし、今では、飽食が問題でメタボリックシンドロームなど肥満が多い生活環境下になって、空腹ということを経験したことがない人が殆どである。

 また、貧しくて食えなければ、そこから脱皮するために何かをする、お金を稼ぐために何かをする、それが時には悪事に走ってまでお金に執着することが当たり前になるほどの世相であるが、鉄舟の場合、その当たり前のことをした気配がない。

これをどのように理解したらよいのか。普通人の考え方では理解不可能である。

 鉄舟の貧乏話を続ければキリがない。

 食うものがなく幾日も過ぎ、とうとう知人のところに行って、米を貰ってこようと出かけようとしたが、山岡家には外出するために履く下駄がなかった。下駄はあるにはあったが、履き古して薄っぺらとなり、片方は割れてしまっていたのである。

 そこで鉄舟は、雑巾を懐中にしまい、裸足で知人の屋敷に出かけたのである。知人の屋敷玄関に着き、懐から取り出した雑巾で足を拭き、玄関から客室に上がり、そこで申し訳ないが米を貸してもらえないかと無心したことがあった。

 知人は「今は当家の米も少ないので、これを持っていって米に換えてください」と若干のお金を差し出して、ところで、久し振りだから一杯やりましょうと酒が出された。

 酒宴が終わり、鉄舟は懐にお金を入れ、お礼を述べて帰ろうとしたので「山岡さんのお帰りだ!」と知人が大きな声を出し、女中が急いで玄関に行って下駄を取り揃えようとしたが、鉄舟の下駄がないのでうろうろしている。

 そこに鉄舟が玄関に現れ、奥さんと女中が「おかしい」とまごつき下駄を探している中、「御免」と一声、脱兎の如く裸足で玄関を飛び出し去った。

 翌日、知人が新しい下駄を使いに持たせてくれたという。

 次は、鉄舟が子爵に叙せられた時のことである。 

鉄舟が亡くなる少し前、明治二十年五月のこと、子爵内命を受けた時に詠ったのが
 「食ふて寝て働きもせぬ御褒美に 蚊族(華族)となりて又も血を吸ふ」であった。
また、当時勝海舟にも子爵に叙すべき内命があって、海舟は次のように気持ちを詠んだ。
 「いままでは人並の身と思ひしが 五尺に足らぬ四尺(子爵)なりとは」
と一首を吟じて辞爵し、その結果、ついに伯爵を得たといわれている。

この経緯をもって、二人の人格を表していると論評し、海舟を貶す人が時折いる。

 さらに、海舟も若い時は鉄舟に負けないほどの貧乏で、座敷の裏板を剥がして薪物に代えたほどであったが、亡くなる時は蓄財があったので、そのことも鉄舟との比較で「海舟は死して金を残し、鉄舟は徳を積んで無一物であって、そこに二人の人間としての差がある」とも述べる人もいる。

 しかし、これは海舟がかわいそうである。幕末から江戸にかけての海舟の業績は誰もが認めるものであり、海舟が持ちえた広い世界観があったからこそ、江戸から明治へ大波乱なく時代が動いたのである。

また、若い時の貧乏時代の苦しみを忘れず、二度とそのような事態に陥らないよう、生活設計を講じていく生き方は普通のことであり、死ぬ時に財産を残したといって非難されるのは心外であろう。海舟の場合、一大混乱期を一生懸命国のために働き、生き抜いた結果の証明として、財産が残ったと考えたいし、多くの人が子どもや子孫のために、相続財産を残して逝く実態を批判されるなら、財産相続を否定することになりかねないし、そのような生き方をしている方へ冒瀆ともなりかねない。

 だが、ここで考えてみたいのは、鉄舟の生き方を海舟と比較することである。鉄舟は世にも稀な人間であり、普通人ではない。

 第一回の連載(2005年6月)で司馬遼太郎の鉄舟評価をお伝えした。

「山岡鉄舟はミスター幕臣といってよい存在でした。非常に立派な人で、侍の鑑というような感じだった。自分を完全にコントロールできた精神の人です」と述べているように、極めて高い人間力の人物で、一般常識では判断できないほどのすごさなのですから、鉄舟を誉めることはよいとしても、鉄舟と海舟と比較評価し、海舟を陥れるような論評はしない方がよいと思う。それだけ鉄舟は偉大な存在である。

さて、鉄舟は講武所世話役として入所したが、講武所の稽古が形式的で生ぬるいのに憤慨し、木剣を構え講武所道場の一寸ばかりの欅羽目板めがけ、得意の諸手突きを入れ一寸欅板を突き破ったという逸話を前号でお伝えした。

では、どうして講武所の稽古が形式的で生ぬるい状態であったのか。

このことを説明するには教授頭の男谷精一郎について触れなければならない。男谷は積極的に他流試合を行ったが、その試合ぶりが変っていた。

最初の一本は必ず自分がとる。次の一本は相手にゆずり、三本目はまた必ず自分がとるのである。どれほど強い相手でも、どれほど弱い相手でも同じであった。何とかしてもう一本とろうとして向かっていっても、誰も同じ試合の結果となってしまう。一体、どこまで強いのか底が知れない、というのが男谷精一郎であった。

性格は柔和で、妻や召使を叱ったことはなく、朝は自ら座敷を掃除し、射場で弓を試み、静かに朝餉をいただく。さらに、武芸以外に文学に深く、静斎と称して書画をよくした。男谷家も下級旗本であったが、次第に出世し、文久二年(1862)には従五位以下に叙し下総守に任じている。海舟と男谷が従兄弟同士であることは前号で触れた。

この男谷精一郎に鉄舟は師として尊敬したのは当然であろう。だが、日が経つにつれて男谷の持つ柔らかな強さと、鉄舟が持つ容赦しない若さの強さの間、そこに何か違和感を鉄舟は感じてきた。剣技のおける資質の違いともいえよう。

十年後の鉄舟であるなら、男谷の境地を理解し、自分自身を反省させ、自らに男谷の絶妙の剣技を取り入れたであろう。

男谷は鉄舟に対し、しばしば忠告した。

「お主の剣は鋭すぎる」と。また、「酒に溺れてはいかぬ」と。さらに、「女に溺れてはいかぬ」ともいう。
鉄舟にとってはそのとおりの指摘で、反論する余地はないが、何となく敬遠するようになっていった。男谷を尊敬しながらも、避けるようになっていったのである。当然、講武所の稽古に出向くことが少なくなる。

もう一つ、鉄舟が講武所を避けた理由は、講武所風という異様な風俗に問題を感じたからであった。

この当時の講武所へ通う侍は、第一に、帯をゆるく締めていたことであった。これは長い刀を帯していたので、それを抜こうとして居合腰になる都合上、わざと帯をゆるくしめたのであった。

第二は、髷のゆるいことであった。これは面を被る時に、あまり堅く締まっていない方がよいということからであった。

ここに月代を狭くし、冬は鼠色木綿、夏は生平の割羽織、真岡木綿の揃いの袴に黒緒の下駄、白柄朱鞘の大小に、撃剣道具を肩に担いで大道を闊歩し、喧嘩は吹っかけるし、乱暴も働いた。

さらに、この頃、いしたたき張という煙管が流行り始めていた。いしたたき張というのはいしたたき(石敲き。槌で鉱石を打ち砕く意味で、たえず尾を上下に動かす習性からセキレイの別称)の尻尾のように吸口の方が細くなっているものであり、講武所に通う者たちが、面をつけたままで、ヒゴ(面の鉄籠)から煙管を吸うために、こういうものをつくりあげて、世の中に広めていった。

当時流行った「ちょぼくれ」、これは小さい木魚二個を叩きながら、阿呆陀羅経などに節をつけて口早に謡う一種の俗謡であって、それを謡いながら米銭を乞い歩いた乞食僧であるが、江戸時代の幕政批判をこめていたといわれている。頭に「ちょぼくれ、ちょぼくれ」の囃子詞を入れていたものであるが、このちょぼくれで講武所が批判された。

「講武所始めたところが、稽古にゃなるまい。剣術教授大馬鹿たわけが、何を知らずに、勝手は充分、初心につけ込み、道具のはずれを、打ったり突いたり、足柄かけては、ずどんと転ばせ、怪我をさせても平気な面付、本所のじいさん(男谷精一郎)師範なんぞはよしてもくんねえ、高禄いただき、のぞんでいるのがお役じゃあるめえ、門弟中には、たわけをつくすを、叱らざなるめえ・・・」

男谷の余りにも温和な性格が、「ちょぼくれ」で批判されていたことが分かる。

幕府も、この風儀の頽廃に対して、以下の様に掟書を出して諫めた。

一、武を講ずるは肝要なり、弓剣槍の芸も学び、礼儀廉直を基として、武道専ら研究致すべき候こと。

二、生質不器用にて弓剣槍は能く致さず共、五倫の道に叶ひ、行状正しく候へば、恥辱とすべからざること。
上の条々一統大切に心得、油断なく相励むべく候・・・面々心得違いなく勉励致すべきものなり。

鉄舟は、このような講武所風という異様な風俗に嫌気がさしていた。

勿論、鉄舟の激しい試合振りも、粗暴という点から指摘されるべきところがあり、ちょぼくれの批判に該当したかもしれないが、鉄舟は何よりも武芸を怠ること、見栄体裁優先の外形的な講武所から去り、再び玄武館の方に熱心に通い出した。

この頃、山岡家の貧困はその極に達していた。次回も貧乏物語をお伝えする。

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2008年09月11日

鉄舟の新婚時代・・・貧乏生活その一

鉄舟の新婚時代・・・貧乏生活その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

安政二年(1855)に、鉄太郎(鉄舟)20歳と山岡英子16歳は結婚した。まだ少女からぬけ出たばかりの面影を残す英子と、ボロ鉄、鬼鉄と称された無骨な大男、その二人の新婚生活は尋常一様でなかった。
初夜の翌朝、鉄舟は、昨夜の初めての経験で、夫の前で恥ずかしく顔をあげられない気持ちの英子に向かって、やさしい情緒的な言葉をかけるのでなく、懐からお金を差し出した。
「俺はこれしか持っていない。これで何とか次の禄米が出るまで頼む」と投げ出したのが、僅かのお金であった。

飛騨高山の代官であった父を亡くし、その際に鉄舟に残された遺産は三千五百両という大金であった。この三千五百両という金額、これについては、いろいろ条件をあげて試算した結果、今の金額に換算し、億円単位となる大金であることは既に述べた。(2007年8月掲載号) 

この大金は、剣術師範の井上清虎の勧めもあって、弟たちを養子に出す持参金に使った。当時の旗本・御家人は生活に困窮している者が多く、身元確かで多額の持参金のある子どもは、引き取り手が多く、五人の弟に各五百両をもって養子に出し、兄の小野鶴次郎にも渡し、鉄舟は残り百両だけ手許に置いた。

したがって、百両というお金が、英子との結婚に際し持参金として、ある程度使ったとしても、まともならば相当額残っていたはずである。だが、初夜の翌朝ぶっきらぼうに投げ出したお金はほんの僅かであった。

弟達の世話から解放された鉄舟は、剣に、女に、そのお金と若さをぶつけてしまい、結婚する時にはもう僅かしか残っていなかったのである。

一生を金銭に恬淡として生きた鉄舟であるから、これは考えられる事態ではあったが、これからの生活を暗示させる初夜の翌朝の事件であった。

鉄舟は粗雑な人物ではなく、家庭では大声をたてるようなこともなく、英子をいたわり、やさしく接するので、この点では申し分なかったが、金銭と家庭内経営については、全く無関心、無責任ともいえる人物であった。

山岡静山も金銭には欲がなかった。槍一筋の道を貫いて、道場の束脩(入門料)と僅かな指南料で、細々と家計を維持してきた山岡家である。

山岡家は本来、元高百俵二人扶持であるが、鉄舟の弟子であった小倉鉄樹は、その著書「『おれの師匠』島津書房」で、当時の山岡家の経済状況について「山岡家はその当時は没落してたしか二人扶持金一両という足軽身分である」と述べ、注釈として「鉄舟先生長女松子刀自は当時五十人扶持だったかと聞いていると言われた」とも記している。

このような経済状況下の山岡家に入婿した鉄舟は、静山に輪をかけた金銭に無頓着さであったので、日に日に生活は困窮化していった。

ここで少し気になるのは、鉄舟は御城勤めをしなかったのかと言うことである。静山は勘定方として御城勤めをしていた。その後を継いだのであるから、普通ならば勘定方の一員となったはずである。

しかし、鉄舟に関する文献の数々を調べても、勘定方として御城勤めをしていたとの記録はどこにもない。ただ一つだけ南條範夫の小説「山岡鉄舟」に「鉄太郎が山岡家当主として、御勘定方に隔日勤務をすることとなった」と記されているだけである。

鉄舟が一度も御城勤めなきままに過ごしたとすれば、結婚した翌年の安政三年(1856)に新しく設置された講武所の世話役に就任した時、これは実質的には準教官であるが、この時が始めて公的な仕事としての勤務となる。

ここで講武所について少し触れたい。講武所とは、幕末に幕府が設置した武芸訓練機関である。旗本、御家人とその子弟が対象で、剣術をはじめ洋式兵学、砲術等を教授した。

相次ぐ外国船の来航や、列強の近代的軍備に刺激された幕府が、幕政改革の一環として開いたもので、最初築地に講武場として発足したが、まもなく講武所として改組し、万延二年(1861)に現日本大学法学部図書館のある水道橋三崎町の地に移転した。慶応二年(1866)には廃止となり、陸軍所に吸収されて砲術訓練所となった。

講武所は総裁の下に、教官としてその道の大家がずらりと並んだ。

剣術は、男谷精一郎、榊原健吉、伊庭軍兵衛、井上清虎など。槍術は、勿論、高橋泥舟など、砲術は、高島秋帆などであったが、ここで名前を挙げるとキリがないほどの人材が投入された。

鉄舟を講武所世話役として推薦したのは、飛騨高山時代からの剣術の師井上清虎であった。講武所での鉄舟は、すぐに例の強烈な突きで鬼鉄と恐れられる存在なった。

それを証明する逸話が残っている。講武所の稽古が形式的で生ぬるいのに憤慨した鉄舟は、あるとき木剣を構え講武所道場の一寸ばかりの欅羽目板めがけ「えいっ」と、得意の諸手突きを入れた。すると、木剣は一寸欅板を突き抜けるというすごい話が伝えられている。正に「鬼鉄」と言われる所以であり、玄武館の鬼鉄から、講武所の鬼鉄となり、同時にこの異名が江戸市中に広まった。

この当時、鉄舟が講武所の中で、師として尊敬したのは教授頭の男谷精一郎と言われている。
男谷精一郎は直心影流の達人で、当時、剣神と呼ばれていた。直心影流は本来他流試合を禁止いたが、男谷はその禁止を破って、盛んに他流試合を行い、諸国の剣士との試合を一度も拒んだことがないと言われているほどである。

この男谷精一郎と勝海舟は従兄弟同士である。海舟の父小吉は男谷家の三男として生まれ、小吉は勝家に養子に行き、海舟が生まれたのである。海舟はこの男谷精一郎の高弟である島田虎之助から剣を学んだが、一介の剣士から開明政治家として名を成した始まりは、男谷からの忠告からであったと言われている。

その忠告とは「これからは蘭学を学び、西洋の事情に通じなければダメだ」という一言で、赤坂溜池の福岡藩屋敷内に住む永井青崖に弟子入りし、必死の勉強を行って、幕府に海防意見書を提出し、老中阿部正弘の目にとまり、幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから念願の役入りを果たし、人生の運をつかむことができたのである。

その後、江戸無血開城時に鉄舟が勝海舟と交わることになった背景に、鉄舟が講武所世話役として男谷精一郎に私淑したことも無縁ではない。

鉄舟は男谷から剣を学んで鬼鉄の名を世に知らしめ、海舟は男谷の忠告で蘭学を志したことから世に出た。その男谷と絡む因縁の二人が、江戸から明治への橋渡しに協力しあったことを考えると、人は何か見えない縁で結ばれていると考えざるを得ない。

さて、鉄舟の新婚時代に話を戻したい。

鉄舟は金銭に恬淡として、収入も少ない。熱心になるのは自分の修行だけであり、その上、修行仲間が山岡家に食客として訪れてくるので、その食事の負担が英子の肩に掛かってきて、貧乏生活は日に日に深刻になっていった。

この当時の貧乏話はいくつも伝わっているが、その一つを紹介したい。

ある日、鉄舟の友人である関口隆吉が訪ねてきた。

「御免、御免」
と声をかけたが、誰も出てこない。狭い家なので声は通っているはずだし、気配から見て、家の中に誰かいる様子なので、さらに、大声で声をかけると、
「はい」
と、襖の陰から英子が顔だけ出したが、頬を赤らめて、うつむく。
どうしたのか、何かあったのかと、覗き込んだ関口が、慌てて首を引っ込め、
「や、また来ます」
と、逃げ帰ったことがある。英子はたった一枚の浴衣を選択して、乾く間、襦袢一枚だったので、玄関に出られなかったのである。

夏冬一枚きりの着物で、冬は夏物の裾にボロ綿を縫いこんで、冬物に見せかけたこともあったらしい。とにかく酷い貧乏であったことは事実である。

しかし、鉄舟という人物は極貧の生活に負けず、明るく、どこか子どもっぽい、つまらぬことにやせ我慢をはるという、自分の性格を正直にごまかさずに生きていた。

そのエピソードの一つを小倉鉄樹が次のように紹介している。(『おれの師匠』島津書房)

若い時のこと・・・たぶん二十一歳頃のこと、友人と某氏に招かれてご馳走になった。その席上主人が一杯機嫌で自分の健脚を自慢し、
「おれは明日下駄履きで成田さんにお参りして来るつもりだが、誰か一緒に行くものはないか」
と、一座を見回した。
江戸から成田までは十七、八里ある。それを下駄で一日に往復しようというのだから誰も辟易して返事する者がなかった。

主人はそれと見て、
「どうだ、どうだ」と一人一人訊くのであった。
師匠は主人の傲慢さが癪に障ったので、主人から訊かれると、
「成田なんかなんでもない」
と言った。

「むゝ? 貴公行くつもりか、そいつは面白い。それじゃ明日の朝夜が明けたら直ぐに出発するからそれまでおれのところに来い」
と、約束した。

それからまたいろいろと話がはずんで解散したのは夜の一時過ぎであった。

翌朝山岡が眼を覚ますと、雨がざつゝと雨戸を打って風も加わっている。けれども乗りかかったら屹とやる主義なので、天候なんか眼中に置かず、足駄を履いて、某氏を訪問した。

ところが某氏は昨夜の飲み過ぎで、手拭で頭を縛り、
「とても頭が痛くて行かれぬ」
と閉口していた。

「そうですか、そんなら私だけ行って来ましょう」
と、すたゝ雨の中を出て行った。

其の日の夜十一時頃に再び某氏を訪れた山岡は、足駄の歯がめちゃゝに踏み減って、全身泥の飛沫にまみれていた。

「今、帰って来ました」
と、玄関で挨拶した時には、某氏もさすがに恥ずかしくて、まともに山岡の顔が見られなかった。

今の時代、このような無茶をする人はいないだろうし、バカな行いだと批判するだろう。
だが、鉄舟のこういう捨て身でやりぬく気概があったからこそ、江戸無血開城という一大業績を成り立たせたのだと思う。

人間力の差といってしまえば、それまでだが、今の時代に鉄舟がいたとすれば、どのような気持ちで現代の状況を判断するだろうか。次号もエピソードを続けたい。

投稿者 Master : 10:18 | コメント (0)

2008年08月07日

鉄太郎の結婚その二

鉄太郎の結婚その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

安政二年(1855)に小野鉄太郎(鉄舟)20歳と、山岡英子16歳は結婚し、鉄太郎は山岡家の信吉の養子となり、口が利けない信吉に代わって山岡家を継いだ。いよいよ山岡鉄舟となったわけである。

当初、鉄太郎は山岡家に婿入りする気持ちは全く無かったが、槍術の師山岡静山の突然の逝去という事態になり、家督相続者として、静山の妹英子が、鉄太郎を懇望し情熱を示したことによって結婚したのであった。

後日、これを証明する言葉として、弟子の小倉鉄樹に次のように語っている。
「おれも若い時、今の家内に惚れられて、おれでなくちゃならぬというから、そんなら行こうと山岡へ行ったんだ」(俺の師匠 島津書房)

ここで素直に考えて疑問が残る。

結果として、鉄舟は山岡家を家督相続したが、師である山岡静山との厚い信頼関係、それは一年に満たない僅かな期間であったが、静山は武術というものを単なる技量とせず、人間陶冶の道と考え修行していたから、鉄舟から見て静山という人物は理想像であり、静山から鉄舟を見れば自分の分身とも見える関係として、お互い理解が通じ合っていた。

そのような関係であったから、山岡家の関係者と隣家の高橋泥舟家でも、鉄舟が最適な家督相続者として認識していた。これは当然であろう。

ところが、鉄舟の方では、英子と結婚する気が全然見られなかったのである。どうして鉄舟はその気がなかったのであろうか。

勿論、山岡家や泥舟から鉄舟に家督相続の話を持ち込めば、鉄舟の性格からして結婚を直ちに決心承知したであろう。事実その通りになったわけであるが、何故に自ら家督相続に対して最初に意思を表明しなかったのであろうか。つまり、鉄舟は最も尊敬し、敬愛した師、静山の後継者に誰がなるかということ、そのような重大事項に関心を持ちえていなかったのである。不思議ではないか。

その理由として、考えられることはいくつかある。

まず一つは年齢である。鉄舟は20歳、英子の16歳は当時の女性が結婚する適齢期であるが、男性の20歳はまだ若い。

江戸時代の平均結婚年齢をいろいろ調べてみると、男性は20歳前半、女性は10代半ばといわれている。井原西鶴「好色一代女」(貞享三年 1686)に、娘盛りを15歳から18歳とあることからも、女性は10代半ばあたりが適齢期と考えられる。

一方、男性はどうか。町人の例を見ると比較的遅く、町人としての職が自立できるのが20代の半ば過ぎで、その頃が結婚適齢期であった。これは食べることが出来なければ結婚できないということからも頷ける。だが、大店の奉公人として暖簾分けしてもらえる立場の場合は、40歳近くにならないと結婚を許されなかった。それだけ、暖簾分けするには厳しい奉公期間が必要であったのだろう。余談だが、性の面は遊郭や岡場所が多く、独身男性はそちらに行っていたようである。

武士の結婚適齢期はハッキリしない。家督相続なども様々なケースがあり一概に言えず、平均としての年齢は分からない。

だが、20歳の鉄舟は、結婚することは考えていなかったであろう。

何故なら、当時の鉄舟にはすべきことが多々あった。

まず、第一は剣の修行である。剣の道で自らの才能を発揮したいと玄武館道場で一直線修行にはいり、ボロ鉄から鬼鉄とまで言われるようになり、若くして翌年幕府が開設する予定の講武所に、世話役として推薦されるほどの実力者となっていたから、結婚という考えは持ち得なかったであろう。

もう一つは色道修行である。「嘉永六年六月四日(1853)の朝、鉄太郎は内藤新宿の女郎屋で目を醒ました」と南條範夫の小説「山岡鉄舟」(文春文庫)にあるように、ペリー提督が浦賀に来航した日にも色道修行をしていたほどであった。

この時期の鉄舟、高山から一緒に江戸へ戻った弟たちを、すべて持参金付で養子に出し、一人身の自由を謳歌していた上に、六百石の旗本の子息であるから、小遣いには不自由なかった。恵まれた環境下で剣と色道修行に励んでいたのである。

だがしかし、このような理由もあったが、英子との結婚が胸中になかった、その最も大きく重要な理由は、剣への志にあった。

師の山岡静山は、槍術の名人である。そこに弟子入りした鉄舟は、当然、槍の稽古に励んだが、その槍と剣とで苦しみもがくことになった。

本来、人は自分のことを知らない。ソクラテスの「汝自身を知れ」の通りである。自分とは何かを解明することが生きる上で最大の課題であり、鉄舟も同様であった。

鉄舟が剣の道に入ったのは九歳の時。久須美閑適斎に心影流を学び、後に井上清虎から北辰一刀流、続いて玄武館道場、その間、ずっと殆ど狂気のような修行で頭角を現し、周りに敵うものがいなくなり、驕慢な態度が表れてきた頃、山岡静山と出会い、立合いし、木っ端微塵に打ち砕かれ、自分より遥かに強い剣客がいることを再認識した結果、静山に弟子入りしたのであった。

それまで、剣一筋に歩んで、剣の道で奥義を極めれば、相手が何で来ようと、立派に対応できると思っていたが、槍の静山に完膚無き負けを喫し、今までの決心がぐらつき、このまま剣の道でいくか、それとも槍も併せて学ぶのか。どちらに自分は向うことが適切なのか。人生の岐路に立っていた。

それも、身近に静山という、自分が目指すべき理想像に接し得たために、師のような人物になるのか、それとも師とは異なる方向性に行くべきなのか、返って迷い、それに、子どもの頃から負けず嫌いで、一度思いこんだら徹底的になるという鉄舟の性格であったため、鉄舟はこの時期、相当悩み、考え込んだ。
その時、静山からも、隣家泥舟の義父にあたる高橋義左衛門からも、次のように言われたと、子母澤寛は小説「逃げ水」(嶋中文庫)で、鉄舟に語らせている。

「おれはな、御隠居(高橋義左衛門)にも紀一郎(山岡静山)どのにもいわれたのだ。お前はずいぶん稽古するが槍よりは先ず剣をやれ、槍はやっても免許から奥にはすすめんとな。はっはっ、その通りだ、その言葉をおれがこの頃井上先生(井上清虎)から血嘔吐を出す程にひっぱたかれてな、やっと解りかけて来ているんだ。凡そ武芸は技ではねえ、だから稽古だけではどうすることも出来ねえものがあるんだ。おれは今になってはじめて剣を遣うが面白くなってきた」

 この鉄舟の語りは、自分の中に内在する無意識分野イメージ、それを自我意識分野に取り込んだことを示していると思う。静山という稀有の槍の名人に出会うことによって、槍への限界能力を悟らされ、鉄舟はもともと潜在的に剣に志向していたのだと、改めて確認し目覚めさせてくれたのである。

したがって、槍については静山の弟泥舟もいるし、静山の弟子達もいるのであるから、自分が山岡家を継ぐという意識を持ち得なかったのである。鉄舟の立場からは当然であった。

しかし、結果として鉄舟は山岡家に入った。それは英子の情熱からであったが、そのことに併せ、生前の静山が鉄舟を評していた言葉を、改めて知ったことも深く影響した。

それは、山岡家の家督相続者に困った泥舟が、酒井家に養子にいった鉄舟の実弟金五郎を通じ、実は、金五郎は泥舟に槍の稽古受けている関係で、次のように鉄舟に伝えたのであった。

「静山は生前よく、“世間に青年はたくさんいるが、技が達者なものは勇気に欠け、気性の勝ったものは技がまずい。そういう中で小野鉄太郎(鉄舟)は世間で<鬼鉄>といわれている通り剛毅なうえに、精神の寛やかなことは菩薩の再来ともいえるほどだ。彼は将来必ず天下に名を成すものになるだろう。実に頼もしい青年だ”といって嘱望していた。しかし、山岡家と小野家とでは身分格式の差がありすぎるので、養子に来てくれともいえぬしなぁ・・・・」(山岡鉄舟 大森曹玄著 春秋社)

これを聞いた鉄舟は、心から尊敬する静山が、自分をそれほどまでに信頼していてくれたのかと感激し、加えて、英子の気持ちも知り、自ら進んで山岡家の家督相続者になったのであった。

これについて、勝海舟は次のように鉄舟の人柄を評している。

「自分の家の方が高禄で、山岡家とはとても話にならんほど格式が上で、おまけに小野家の相続者である鉄舟が高橋(泥舟)の心中を察し、思い静山に至り、名利を忘れ、決然起って山岡家相続に出かけた」と心情を語った上で「以上の話で、どのくらい鉄舟が馬鹿正直か、いかに潔白かが彷彿としてお前の心中に浮かぶであろう」(山岡鉄舟 大森曹玄著 春秋社)

また、その頃飛騨高山の書の師匠である岩佐一亭に宛てて「小生事も様々、今年相応の養子口出来、身分も先々堅り候」と手紙を出している。(山岡鉄舟 小島英煕 日本経済新聞社)

ここで改めて鉄舟の業績を振り返ってみたい。

それは、まず「江戸無血開城」である。駿府で官軍総参謀西郷隆盛を説得し得たことによって、明治維新は大混乱なくスタートできたのである。

では、鉄舟が駿府掛けしたのは誰の指示か。勿論、15代将軍徳川慶喜である。しかし、鉄舟は身分低き一介の旗本、慶喜が上野の寛永寺に蟄居しているとはいえ、お目通りできる身分でない。だが、慶喜の護衛役として寛永寺につめていた泥舟の推薦によって、鉄舟は慶喜から直接指示を受け、世に出たのである。

仮に、鉄舟が静山と泥舟の妹英子と結婚していなければ、泥舟の推薦があったか疑わしい。英子と結婚したことよって、泥舟は鉄舟をより身近で見聞き接し、その人物を熟知していた。だからこそ、泥舟は敢えて鉄舟を投入したのである。

というのも、この時、幕府の対官軍交渉は手詰っていた。静寛院宮(14代家茂夫人)、天璋院(13代家定夫人)、輪王寺宮公現法親王による打開工作も通ぜず、官軍先鋒は品川まで迫っていた。
最後の奇策としての鉄舟投入であり、鉄舟はその重大な意味を理解し、十分承知していた。鉄舟が失敗すれば、江戸城総攻撃となり、江戸市中は戦火の坩堝となる。

今までの交渉者に比し、あまりにも身分・格が低き鉄舟であったが、ただ持ち得ている剣修行で鍛えぬいた身体から発する鉄舟の「決死の覚悟」のみが、この危機を救う手段であると泥舟が判断し、海舟も納得し、西郷説得という一大事を鉄舟に掛けたのであった。結果は見事に成功し、江戸無血開城となり、明治の世へ道が開いたのであった。

考えてみると恐ろしい。人とは「才能と努力と運」で決まる。鉄舟が英子から思慕されなければ山岡家に入れず、泥舟の推薦を受けることにならなかった。いくら鉄舟が剣の才能と、剣の修行を続けていても、剣客として世に名を残したではあろうが、英子と結婚していなかったならば西郷説得という場面には登場しなかった。

つまり、鉄舟を江戸無血開城という、時代を画する一大出来事に遭遇させた要因を遡って考えてみれば、英子と結婚して山岡鉄舟になったことであるといえよう。

六百石の旗本身分から、極貧の生活に陥ったことが、鉄舟に「運」を与えたのである。

人はいくら才能があっても、運にめぐり合えなければ才能を発揮できない。

また、人はどのように努力しても、努力が報われるような運に出会えなければ、その人の努力は水泡に帰する。

つまり、人は運が最も大事で、その運は計算して出会えるものでなく、それらを超えたレベルから授かるものである。

そのことを鉄舟の結婚が教えてくれ、その鉄舟に巡ってきた運が江戸無血開城につながったのである。

次回は、講武所世話役としての新婚家庭の状況をお伝えしたい。

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2008年07月20日

鉄太郎の結婚その一

鉄太郎の結婚その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

鉄舟が最も敬愛した師山岡静山は、安政二年六月に逝去し、文京区白山下から小石川植物園脇の御殿坂へ行く道筋の蓮華寺に葬られた。
静山の葬儀が終わり、しばらくたった後、蓮華寺の住職が静山の弟である高橋精一(泥舟)を訪れ、妙なことを伝えた。

「実は、困ったことがあります」
「なんでしょう。静山についてですか」
「はぁ、言い難いのですが、静山先生の墓辺りで、毎夜妖怪が現れると言うのです」
「誰がそのように言っているのですか」
「はぁ、近所の方々ですが、見たといって、大変怖がっているのです」
「それで、ご住職は見たのですか・・・」
「いや、その・・・、それがちょっと・・・。怖くて拙僧は、まだ・・・」
「そうですか。では、拙者が今夜でも現場でたしかめてみしょう」

泥舟は内心、そんなバカバカしい妖怪なぞ、出るはずがないと思っている。まして、静山の墓に関わって妖怪が現れるとは。よし、今夜、必ず確かめてやる。と夜半にいたって身支度し、出かけようとしたが、その夜は夜半過ぎから、雷をともなう大雨となった。

しかし、そのようなことでひるむ泥舟ではない。尊敬する兄静山に関わることだ。小石川鷹匠町の屋敷からそれほど遠い距離ではない。大雨の中、蓮華寺に着くと、静山の墓を見通せる墓石の間に、全身ずぶ濡れで身を隠した。

しばらく待っていると、本堂のほうから足跡が聞えてきた。いよいよ来たか妖怪め。と身構え、じわっと近づいていって、あっと驚いた。

何と、その妖怪とは鉄太郎(鉄舟)ではないか。大雨の中、鉄舟が走ってきて、その走る姿を雷の青い光が照らし出す。

鉄舟は泥舟がいることなぞ知るよしもなく、静山の墓に向って手を合わせ、着ていた合羽をすっぽり墓にかぶせた。

「先生。鉄太郎が参りました。もう雷は心配に及びません」

実は、静山は雷が大嫌いだった。天下無双の槍の名人でも苦手があった。

「そうだったのか。妖怪とは鉄さんだったのか・・・」

夜な夜な静山の墓に、鉄舟がお参りしていたのだ。泥舟は鉄舟の兄を思う気持ちに感涙した。

 静山の死は早すぎた。突然の逝去で山岡家は跡継ぎの問題が残った。山岡家には末弟に信吉がいる。当然、順序であるから、この信吉が山岡家を継ぐことになる。

しかし、信吉は言葉が出なかった。生来から口を利けなかったのではない。幼い時蝉取りに行った夏、突如として大風が吹き荒れ、夕立が激しく、それを避けようと閻魔堂に雨宿りをしていたところに、境内の杉の木に雷が落ち、そのとき信吉は気絶し、小石川鷹匠町の屋敷に担ぎ込まれたときは、不幸にも口が利けなくなってしまっていた。両親はじめ、隣家の高橋家も一緒に、医者はもとより加持祈祷師のところを回ったが、とうとう今日まで口を聞けない状態であった。

ところで、この信吉、血筋は争えず、後日、槍をとっては相当の達人になった。

後年、宮内大輔(天皇の補佐役)の杉孫七郎と御前試合をした時、杉孫七郎が押し込まれ「参った。参った」と、連発して叫んでも、信吉は聞えなく、御前試合で興奮していたので、ますます猛烈に突きたてたので、ビックリして鉄舟が槍先をくぐって飛び込み、大事に到らずに済んだことがあると、鉄舟の内弟子である小倉鉄樹が語っている。(参考 「おれの師匠」島津書房)

この信吉を、跡継ぎとして一応届けてあるが、口が聞けないので公の務めが出来ない。したがって、養子を貰って家督相続を決めないと山岡家は廃絶の憂き目となる。

「困ったのう」
「どうしたらよいでしょうか」

山岡家と隣家の高橋家で頭を悩ましているのは、山岡家の家督相続候補者のことである。ここで跡目相続と、家督相続の違いを理解したい。幕法で跡目相続とは主が死後に相続する場合を言い、家督相続は主が存命中に相続する場合を意味した。したがって、信吉は跡目相続となり、信吉に養子を貰うので家督相続となる。

さて、家督相続について困っている最大の理由は、最適の候補者が明らかであるのに、その人物に対して持ちかけられない、というジレンマがあることである。

山岡家と高橋家の誰もが最適と望む人物とは、それは鉄舟である。静山と鉄舟が師弟として交じり合ったのは、一年に満たない僅かだった。だが、静山がその後の鉄舟に対して与えた影響は計り知れない。単なる武術としての槍術だけでなく、人格的な教えを多々受けたが、それも静山が鉄舟という人物を心底から好ましく、自分の弟のように思って接していたからであった。亡き静山に聞くことが出来れば、後継者として鉄舟の名を挙げることは間違いないであろう。

しかし、どうして鉄舟に山岡家相続の件を持出せないのか。その理由を検討する前に、養子として迎え、その人物の伴侶となる十五歳の英子に、静山の弟子の中から、鉄舟以外の人物を何人も挙げ、気持ちを内々確かめてみたが、いずれの人物にも

「私、いやです」

と、驚くほどはっきり言い張る。

これも家督相続候補者について、頭を悩ます一因であった。英子には意中の人物がいるのだった。それは鉄舟であった。

鉄舟が始めて静山に道場で出会い、完膚無き徹底的な敗北を味わい、静山宅で弟子入りを申し出た座敷に、英子がお茶を運んだ時から、すでに好意的に鉄舟を見、受け入れ、その後、事あるごとに静山と泥舟が鉄舟を話題に出し、その人物像を誉めそやしているのを聞いているうちに、次第に特別の感情を持つようになった。多くの弟子の中から、兄二人の評価が抜群であり、日頃、道場で接する機会が多く、その評価振りを確認できる立場であったから、十五歳の萌える気持ちが恋心になったのも自然だと思う。

 では、最適の候補者として誰もが認識し、伴侶となるべき英子も恋心を持っている鉄舟に、何故に山岡家の家督相続を切り出せないのか。

 その最大の理由は「家柄・身分が違う」ということである。鉄舟の小野家は六百石の旗本、山岡家は百俵二人扶持の御家人、武芸の上では鉄舟は静山の弟子ではあるが、当時の封建時代の社会的身分では、遥かに鉄舟の方が上位に所属している。その頃の人々の意識の中には、この身分感覚は強く深く染み渡っていたから、その障害を乗り越えるのは容易でなかった。小野家と山岡家では釣り合いが取れないのである。今の時代に生きている我々ではちょっと考えられない無理な相談というレベルであった。

 もう一つは、鉄舟という人物への配慮であった。
 鉄舟のことは、山岡家と高橋家に関わる人たちは熟知している。鉄舟の人柄を知っている。多分、無理にでも頼むなら、鉄舟は「やむを得ず、承諾するであろう」という見通しもある。それだけに「こちらから申し出ることが出来ない」というジレンマがあった。当時の武家意識というものであろう。

 ここで一つ検討しておきたいことがある。実は、鉄舟は十歳で父の高山代官への赴任に伴い移転し、その後の17歳で江戸に戻ったとされている。とすると、七年間一度も江戸に帰らなかったのか、という疑問がある。

この点について、一部の文献資料では十二、十三歳頃に江戸に剣の修行で一時戻ったとあるが、多くの鉄舟研究家は江戸に戻ったことについて何も論及していない。

江戸に戻ったか、戻らなかったか、どうでもよいではないかと思われるかもしれない。しかし、鉄舟が他家に養子に行くには、当時の常識条件というものがあった。養子に行く為の資格である。武士として持たねばならないある教養、それは「番入」と言われる資格を持っていたかどうかである。

「番入」とは、徳川幕府の学問所である聖堂(昌平坂学問所)、この昌平とは、孔子が生まれた村の名前で、そこからとって孔子の諸説、儒学を教える学校の名前にしたのであるが、ここの試験「素読吟味」に合格すると貰える資格であって、この「番入」資格がないと一人前の武士として扱われなかった。また、「素読吟味」に合格しないようでは、他家に養子など決していけなかった。

ということは、鉄舟は山岡家に養子縁組候補者と挙げられていたのであるから、この「番入」資格、「素読吟味」に合格していたことになる。そうすると聖堂で「素読吟味」を受験したことになり、そのためには江戸に戻っていたことになる。

当時の「徳川幕府直参武士の教育制度」についてみてみたい。教育として文と武があったことは知られている。その文事については、普通五歳頃から七歳までに手習いをし、七歳になると「読み書き」を始める。この読み書きは、最初に大学・中庸(儒教の経書)などを家の父兄から教えてもらい、八歳頃になると普通は師匠について正式な学びに入っていく。

 十歳までの間に、四書(大学・中庸・論語・孟子の総称)、五経(易経・詩経・書経・春秋・礼記)などを素読で学び、十一、十二歳の二年間は、これまで習った書物の復習をする。この復習する目的は、徳川幕府の学問所である聖堂で「素読吟味」を受けるためである。十三歳になるといよいよ「素読吟味」を受験することになる。受験するタイミングは毎年十月、十一月と決まっていた。

 「素読吟味」の試験場所は、聖堂の大広間で、正面には林大学頭が、その他に儒者が十人ほど控えていて、その前で一人ずつ素読を行った。試験の日は、朝七つ(午前四時)までに聖堂に集めさせられたから、もう寒くなりかけた十月、十一月であり、いくら武士の子弟とはいえ子供であったから、送る親も、受験する子供も大変だったと思う。

 実際の試験は、大抵半枚くらい読ませて、その出来不出来を儒者が記録し、一ヶ月くらい経つと合格者には「何日の五つ半(午前九時)に聖堂へ出よ」という達しがある。落第したものは、また翌年に願書を提出し受験するが、三度続けて落第すると、もう受験資格を剥奪されてしまう。

 この「素読吟味」は、現在の義務教育みたいなもので、これに合格しておかないと「番入」資格がなく、家督相続は絶対にできないという幕法であった。

 この事について、今までの鉄舟研究家で述べている人がいないが、「徳川幕府直参武士の教育制度」から考察すると、鉄舟はこの「素読吟味」に合格していたはずであり、そのためには十三歳の十月か十一月に江戸に戻っていたはずである。

 余談だが、朝七つ(午前四時)という常識外の時間帯に子供を集めておきながら、実際の試験は五つ半(午前九時)、子供の習性からどういう状態が発生するかというと、必ず喧嘩が始める。その喧嘩も御目見え以上の者と、以下の者の間で始まる。御目見え以上は身分を笠に立て、以下の者を蔑視し、された方は僻み、そこに軋轢が生じることからお互い喧嘩となった。(参考 「風俗江戸物語」岡本綺堂 河出出版)

 鉄舟は英子の情熱によって、山岡家の養子となり結婚した。だが、疑問が残る。関係者が家督相続候補者として鉄舟を最適であると認識していたのに、何故に鉄舟自身はそのことを認識していなかったのか。また、それがどうして可能となったのか。次回検討したい。

投稿者 Master : 10:18 | コメント (0)

2008年06月07日

山岡静山との出会い・・・その四

山岡静山との出会い・・・その四
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

山岡静山と鉄太郎が師弟として交じり合ったのは、既に静山が病魔に冒されていた時だったが、そのさなかでも静山の修行は凄まじかった。そのことを記録として遺したのは中村正直(天保三年・1832~明治24年・1891)で、鉄舟(天保七年・1836~明治21年・1888)とほぼ同じ時代を生きた人物である。

中村正直は幕臣の子、昌平坂学問所で佐藤一斎に学び、慶応二年(1866)渡英、同四年(1868)帰国、明治になって大蔵省出仕、その後東大教授、元老院議官、貴族院議員等を歴任した。サミュエル・スマイルズの「西国立志編」やJ・S・ミルの「自由之理」を翻訳者として知られ、これらは当時広く読まれた。この中村正直に「山岡静山先生伝」(原文は漢文)という小文がある。この小文から静山を分析したい。

「近来、槍法の絶技なるもの、山岡先生に踰ゆるなし」で始まり、「人と為り剛直阿らず、質朴を重じ、気節を尚び、人倫に篤く、家甚だ富まざるも、食客門に満つ、後多く名士を出す」とあり、「親に事へて孝なり、父没し母多病なれば、先生看護懈らず、書室に牌を掲げて曰く、七の日省墓、三八聴講、一六按摩と、按摩を以て課を立ては、古今絶えて無き所なり」と続く。

このように中村正直が書き遺した静山像とは、人格的に優れ、人柄を慕って多くの人が集まり、城勤めの合間に道場で門弟に稽古をつけるので、暇というのがないのであるが、その中でも日課表として紙に書いて実行したのが、七の日は必ず亡父の墓に詣で、三と八の日は学問の日とし講義し、一と六の日は病気がちの母に対して按摩した。

槍法の絶技なる静山が、武道のほかに精神面でも門弟を心服させたのは、このような孝行振りにもあつた。

鉄太郎(鉄舟)も高山時代に見られたように親孝行であり、稽古修行についても熱心で、武術というものを単なる技量とせず、人間陶冶の道と考えている。鉄太郎から見て静山という人物は理想像であり、静山から鉄太郎を見れば自分の分身とも見える。お互い深い底からの理解が通じ合ったと思う。

静山は、幼き頃より諸芸を学んだが、十九歳の時に省吾し、その後は槍に専念し、二十二歳で天下にその名が轟くようになった。

山岡家は元高百俵二人扶持、父の市郎右衛門が御勘定方に出仕していた時は、足高百五十俵であった。屋敷は下級旗本が多い小石川鷹匠町、今の小石川五丁目にあった。隣家は高橋家、静山の弟謙三郎が養子に行き高橋泥舟として名を遺した。

静山・泥舟兄弟の槍の師匠は、静山の母の父である高橋義左衛門。高橋家は元高四十俵二人扶持、総領鏈之助が御勘定方に出仕して足高三百俵。この鏈之助の体が弱く早世したので、高橋家を謙三郎(泥舟)が継いだ。

高橋義左衛門の槍は刀心流。伝えるところによると始まりは菅原道真に発するという。この義左衛門の静山・泥舟兄弟に対する稽古は猛烈だった。義左衛門が樫で拵えた一尺五寸(45cm)程の扇子型を構え、兄弟には高さ一尺二寸(36cm)の一本歯の高下駄を履かせ、何十回何百回ともなく突っ込んでこさせ、兄弟二人がふらふらとなり昏倒することも珍しくないくらいだったという。

もともと兄弟二人は天才的な槍の才能を持っていたが、そこに義左衛門による猛稽古と、静山自身もこの修行鍛錬を好むタイプであったから、没入し、激烈を極め、その成果として二十二歳で天下にその名が轟くようになったのである。

しかし、その稽古修行は凄まじいものであった。厳冬寒夜に荒縄で腹をしめ、氷を割って水を浴び、東の日光廟を拝して、丑の時(午前二時)ごろから、重さ十五斤(9kg)の重槍をひっさげ、突きを一千回、これを三十日続ける。

平常の昼は門弟に稽古をし、夜は突きを三千回から五千回、時には黄昏から夜明けまでに三万回続けたという。中村正直の「山岡静山先生伝」はこのように書き示しているが、果たしてこれが事実かどうか。常人では不可能な稽古修行である。

先日、たまたま第四十八代横綱大鵬親方に親しくお話を聞く機会があった。現在は相撲博物館館長として大相撲の発展に寄与されているが、現役時代の思い出として次のように語られた。

「マスコミなどで、私はよく『百年に一人の天才』と言われたから努力もしないで横綱になったと思われている。いろんな人から『大鵬は、最初から大きくて強かったのでしょう』とも言われる。とんでもない。生まれた時から大きかったわけじゃない。しかも小児喘息で死にかけた。その意味では柏戸さんの方がよっぽど天才だ。山形の農家のぼんぼん育ちでそんなに苦労していない。しかも稽古だってそれほどやった方じゃない。それでも強かった。それに比べたら私はむしろ努力型だ。私が天才と言われるとすれば、それは臆せず何でも果敢に挑戦した、という意味でだと思う」

「相撲界のエリート教育を受けてきた。このエリート教育というのはしごきのことで、稽古場でのしごきで、気が遠くなることがしばしばだった。コーチ役の十両、滝見山さんからぶつかり稽古で土俵にたたきつけられ、これでもかこれでもかと引きずり回されたから、見ている人は『もういい加減にやめさせろ』と言った。へとへとに倒れこむと、口の中に塩を一つかみガバッと入れられる。またぶつかって気が遠くなりかけると、バケツの水や砂を口の中にかまされる」

「この特訓の上に一日四股五百回、鉄砲二千回のノルマがあった。最初は苦しくてごまかしたこともあったが、そういう自分が恥ずかしいので、きつくても黙々とやり通すしかなかった」

天才横綱大鵬も、厳しいしごきに耐え、その後の自主稽古で一代年寄りの名誉を受けることになったのである。このしごき稽古、静山は高橋義左衛門、大鵬は滝見山によって鍛えられた。このような人に会えたのが結果的に大成する要因となったのだが、一般人は仮に会えたとしても我慢できず逃げ出すことになるだろう。優れた人物は耐える力も並でないことが分かる。

大鵬の自らに課した一日に四股五百回、鉄砲二千回という回数、これは今の力士が行わない凄いものであると言う。だが、しかし、静山の突きを三千回から五千回、時には黄昏から夜明けまでに三万回続けたというのは、また、別格と思う。相撲と槍では比較できないことを承知の上で、天才大鵬横綱の稽古量レベルを上回っているのが静山と感じる。

中村正直に「山岡静山先生伝」に、次の逸話が紹介されている。

ある時、母に代わって寺参りに行ったが、そこで二十人ばかりの男どもが一人の侍を取り囲み、殴る蹴るの暴行、侍は血まみれで今にも死にそう。助けを静山に求めた。「いい加減で許してあげなさい」と頼んだが、男どもは聞かないので、大喝し、「窮鳥、懐に入れば、猟師も殺さずと。いわんや侍が助けを求めているのだから、座視できない。お前らの敵は拙者だ」。すると男どもは静かになったので、倒れている侍を見ると、これがかつての門弟であったが、静山を背いて去ったものであった。借金をして返さず、そのために殴る蹴るの暴行を受けていたのだ。静山は借金を代わりに返してあげ、訓戒をしてお金まで与えたのである。この逸話の後に次のように続いている。

「先生、嘗て曰く、凡そ人に勝たんと欲せば、須らくまず徳を己に修むべし。徳勝て而して敵自ら屈す。是を真勝となす。若し技芸孼刺に由て而して得べしと謂は、即ち大に謬れり」
このような静山の教えは鉄太郎の気質に合い、もっとも好むところであったろう。

勝海舟が静山について語っている。(英傑 巨人を語る「日本放送協会」)

「静山が常にいうには、道によってなすことは勇気が出るが、少しでも我が策をめぐらす時は、何となく気脱けがすると言うておったそうだ。これは分かりきったようで、凡俗にはなかなかそれで承知しないから困るよ。また静山が、常に二尺足らずの木刀を帯しておったが、いまなお泥舟が保管しているそうだ。その刀の片方には、『人の短所を言うなかれ、己の長所を説くなかれ』と記し、その裏の片方には『人に施すに慎みを念うなかれ、施しを受くるに慎みを忘れるなかれ』と自記して携えていたそうだ。その筆蹟のごときも、静山が二十歳ばかりの手跡だそうだ」

海舟も認めていた静山の素晴らしさである。

静山は子供のころに痘瘡(天然痘)を病んで、少し顔に白あばたがあった。

江戸時代、日本人に痘瘡が多いことは「『逝きし世の面影』渡辺京二著 平凡社」の中で、外国人が多く指摘している。

「痘瘡については、長崎で病院を開いたポンペが書いている。『どこの国でも、日本のように天然痘の痕跡のある人の多い国はない。住民の三分の一は顔に痘瘡をもっているといってもさしつかえない』ポンペは少し誇張しているかもしれない。幕末の人物写真を見ると、幕府のフランス語通訳塩田三郎がみごとなあばた面である。オールコックは言う。『労働者階級のあいだでは、各種の皮膚の吹き出物はありふれている。疥癬もやはりありふれた病気である』」この他にも眼病もまた多かったようである。「『世界のどこの国をとっても、日本ほど盲目の人の多いところはない』とポンペは言う」(同書)

静山は身長五尺六寸(170cm)、色白で眉濃く目はぱっちりして秀麗であった。しかし、どうしたものか子供のときから、時々、にわかに胸痛のうめきをすることがあった。

だが、構わず烈しい稽古修行を続けていたが、日増しに顔色が良くなくなっていく。胸痛も酷くなって、動悸がして、めまいがすることが多くなっていった。弟の謙三郎も、母も、妹の英子も心配し、時折注意するのだが、いつもと同じ烈しい稽古を続けていた。

しかし、とうとう安政二年(1855)六月晦日、心身共に難行苦行を続けた無理が静山の命を奪うことになってしまった。古今の名手といわれ、幕府講武所が開設され、師範として正にこれから花も実も咲こうとした時に、誠に惜しい死であった。墓は戒名「清勝院殿法授静山居士」として文京区白山二丁目の蓮華寺にある。若過ぎた行年二十七歳であった。

静山の死については異説がある。鉄舟の弟子であった小倉鉄樹は、その著書「『おれの師匠』島津書房」で静山に次のように語っている。

「静山が脚気に罹って寝てゐると、静山の水泳の師匠が、仲間から嫉妬を受けて今日隅田川で謀殺されるといふことを、母がどこからか人の話を聞いて来て静山に話した。静山はおどろいて、是非師匠の急を救はうと、褥を蹴って起き出で、病を推して隅田川に到り、水泳中、衝心して死なれたのである。然しこれは自宅で病気で死んだと云ふ説もあり、師匠の奥さんにきいて見てもさういふが、水泳中死んだいふのが本当らしい」

死因について、南條範夫「山岡鉄舟」は「水泳中に意識を失ったと言う。衰弱したからだが、もう気力だけでは持ち切れなくなっていたのだ。三日の間、苦痛にうめきつづけた。卒痛(心臓炎)と医師は診断した」とあり、子母澤寛が高橋泥舟を主題に書いた「逃げ水」では、道場で稽古中に急変し「くたくたと折れて片膝をついた。血が一筋、すうーと顎へたれて来た」と、やはり痃癖卒痛(心臓炎)としている。

鉄太郎が二十歳の時、静山は逝った。多くの門弟の中で、最も嘆き悲しみにおちいったのは鉄太郎であった。間もなく奇怪な噂が立った。蓮華寺に夜な夜な妖怪が現れるというのである。それは何ものか。次回に続く。

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2008年05月17日

山岡静山との出会い・・・その三

山岡静山との出会い・・・その三
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

 鉄太郎は槍との立合いは始めてであったが、「なに、剣も槍も同じだ」と相手に対した。しばらく睨み合いが続き、相手が「トウーー」の掛け声とともに繰り出してきた槍を左に払い、相手がバランスを崩したところに、鉄太郎得意の突きで相手の喉を強烈に刺した。

後ろによろめき倒れた相手が「参った」という声とともに、勝負は一瞬に終わった。鉄太郎の完勝で、瞬間であったが肩を聳やかしたのを静山も井上清虎も見逃さなかった。

「お見事」という静山の声が道場にこだまし、静山は井上清虎を振り返る。清虎は「あの態度を懲らしめ鍛えてやってくれ」という眼差しを静山に送る。

頷いた静山、「では、拙者がお相手いたす。遠慮なく」と、鉄太郎の前に立った。
「ありがとうございます」鉄太郎の期待は深まり、玄武館で鍛えてきた腕が試せると、深々と静山に一礼する。

静山に向って竹刀を構えてみて、鉄太郎は唸った。足が一歩も前に出ない。間合いが詰められない。身動きができない。逆に、たんぽ槍の穂先が真槍の鋭さをもって、にじりじりと迫り、とうとう道場の羽目板に背中がつくところまで圧された。

五尺六寸(170センチ)あまりの静山の体が、六尺(180センチ)を超す鉄太郎にのしかかってくる。静山が巨岩になっている。圧迫で息が苦しい。何とかしたい。だが、体が動かない。何かに縛られている感じだ。背中を汗が伝わり流れる。

その時、静山が穂先をわずか下げた。相手を誘う動きだ。誘い水だと分かっていたが、金縛りの状態を打開するには、このチャンスしかない。相打ちでいこう。鉄太郎は「エイー」と諸手突きを、静山の喉元めがけ打ち込んだ。

その瞬間、鉄太郎の息が止まった。体が反転した。自分の体がどうなったか分からない。気がつくと道場の床に這いつくばっていた。

しかし、鉄太郎は必死の形相で立ち上がりながら、低い姿勢から一気に静山に向って体当たりしようとした瞬間、再び、穂先が鉄太郎の喉元に突き刺さった。どうしようもできない速さの突き。鉄太郎の巨体がのぞけり、どうと倒れ、道場内に大きく響き渡った。

「参りました」意識が朦朧で、喉を突かれ声にならない声で、両膝を折った。完膚無き負け。敗北感が全身をおおった。

鉄太郎はそれまでこのような徹底的な敗北感、その感覚を味わったことはなかった。九歳のときに真影流久須美閑適斎の道場で剣術を習い始め、高山に移ってから井上清虎に師事し、江戸に戻って玄武館道場に入門し、すぐに鬼鉄と称される腕前になっている。

書にしても、師岩佐一定に提出した十五歳の時に書いた誓約書「書法入門之式一札」が現在に残っているように、見事な筆跡であり、これを提出してからわずか半年後、一定が鉄舟に弘法流の免状を与えたことが示すように、優れた才能を示してきた。

もともと剣と書について天性の素質を持っていた。特に、剣は小野家の祖先高寛が、伊藤一刀斎の直弟子小野次郎右衛門と小太刀半七の両士の門に入り、剣法に達し、禅道の薀蓄を極めたと、鉄舟居士自叙伝にあるように代々武術に興味がある家系であった。

それを証明するかのように、鉄太郎の父朝右衛門は、高山代官であった時に盛んに武道を奨勵し、幾度か陣立を行った爲に、幕府にうたがはれ、遂に違法として咎を受け、自刃したと言う説があるほど武術に興味があった。

また、母磯の生家である塚原家は、塚原卜伝を輩出したように武術家の血筋である。このような両家の遺伝を受けた鉄太郎の剣はもともと優れた天分があった。

だから、今までの剣の修行は厳しく激しいものであったが、自らを磨くという意味で、その厳しさも、激しさも、次への段階への鍛えとしての充実感が漲り、残るものであった。だから、今回味わった徹底的な敗北感という感覚、それとは今まで無縁であった。

だが、静山の槍は、今までの修行レベルを超えていた。充実感なぞという感覚は吹っ飛ぶレベルだった。「完敗」という感覚が体の奥底から巻き上がってきた。

 「このくらいでよろしいですかな」と、井上清虎に語りかける静山の乱れのない静かな声が、まだ朦朧としている鉄太郎の頭上に聞えた。

 「鉄太郎、身繕い終わったら静山先生のお宅に参れ」という井上清虎の呼び掛けに、「承知いたしました」という声も出せず、崩れた姿勢の中から、ようやく頭を下げるのが精一杯であった。

道場の裏側にある井戸端で、鉄太郎は赤く腫れた喉元を冷やし、汗を拭こうと見事な筋肉で締まっている上半身裸となった。桜の大木から花吹雪が飛んできて、花びらが上半身にまといつくのも気がつかず、鉄太郎の中にある想いが決意となって凝結する。

静山の「すごさ」が畏敬の念となり、それが塊となって「師として仕える」決心を固めさせたのである。鍛えぬいた上半身を拭い、改めて静山の屋敷を見つめる鉄太郎の目が、期待感で輝き弾んだ。

鉄太郎の肉体は当時でも際立っていた。身長は六尺(180センチ)を超え、体重は二十八貫(105キロ)という巨躯、相撲取り並である上に、剣の修行で鍛え抜いていたので筋肉隆々とした偉丈夫であった。
この時代、武士の体はどうであったのだろうか。武術で鍛えているから鉄太郎を含め一般的に立派な体であったのだろうか。

しかし、意外な事実であったことを「『逝きし世の面影』渡辺京二著 平凡社」が伝えている。支配者層であった武士は一般的に体格が貧弱だった反面、下層階級の人々の体は肉体美にあふれていたという。

 そこで、ちょっと寄り道になるが、鉄太郎が過ごした幕末から明治初期の日本人の体格について、外国人が賞讃する下層階級に所属する人たちの肉体美について同書からみてみたい。

 「エミール・ギメは人力と車夫という典型的な肉体労働者の体格を次のように描写する。『ほっそりと丈が高く、すらりとしていて、少ししまった上半身は、筋骨たくましく格好のよい脚に支えられている』。荷車を曳く車力は『非常にたくましく、肉付きがよく、強壮で、肩は比較的広く、いつもむき出しの脚は、運動する度に筋肉の波を浮き出させている』

ヒューブナーも日本人船頭の『たくましい男性美』を賞揚し、『黄金時代のギリシャ彫刻を理解しようとするなら、夏に日本を旅行する必要がある』という」
また、ギメの乗った船が明治九年、横浜港に着いた時、同乗していた主人を迎えに来た若い日本人たちを
「『彼らの主人の荷物の上に、浅浮彫にみられる風情で、どっかり腰を下した。優美な襞、きまった輪郭、むき出しの腕のポーズ、組んだ足、下げた頭、衣服と組み合わされて調和のとれた体の線、すべてが古代の彫刻の荘重な美を思い出させる』。そしてギメは問う。『なぜ主人があんなに醜く、召使がこれほど美しいのか』」と。続けて「上層と下層とで、日本人の間にいちじるしい肉体上の相違があることは多くの観察者が気づくところだった。チェンバレンは端的にいう。『下層階級は概して強壮で、腕や脚や胸部がよく発達している。上流階級はしばしば病弱である』。メーチニコフも『日本の肉体労働者は衣服と体つきの美しさという点で、中流、上流の人々をはるかにしのいでいる』という事実に気づいた。スエンソンは『下層の労働者階級はがっしり逞しい体格をしているが、力仕事をして筋肉を発達させることのない上層階級の男はやせていて、往々にして貧弱である』。ヴェルナーは『下流の者の間では、まるで体操選手を思わせるような、背が高く異常に筋肉の発達したタイプにめぐりあう』」

同書はさらに続けて「注意しておきたいのは、日本労働大衆についてのこういう意外な記述がみられるのは、幕末から明治初期の記録に限られることだ」としている。また、「後年、日本を訪うた欧米人は、日本の男の容貌や肉体についてしばしば゛醜い゛と記述している」とも書いている。

武士階級は武術で鍛えていたはずだから、一般的に逞しい肉体を保持していたと思い込みやすいが、実は貧弱だったと言う外国人の指摘結果、その反面、江戸時代の労働大衆は素晴らしい肉体美を持っていたという事実に、思いがけない江戸という時代を認識する。

 身繕いを整えた鉄太郎は、山岡家の玄関に立ち案内を乞った。
 奥から現れたのは十五歳の英子である。近い将来、この大男が自分の伴侶となることなぞ露知らず「小野様、奥へ・・・」と案内してくれる。
 奥の部屋には静山と井上清虎が対座している。二人の顔は和やかである。多分、鉄太郎の剣筋について話し合っていたのだろう。

 鉄太郎は、敷居の手前でぴたりと座り、両手をつき井戸端で決意したことを述べた。
「山岡先生、私をご門弟の端にお加え賜りたく、伏してお願い申し上げます」
「鉄太郎、どうだ、分かったか。上には上があるだろう」と井上清虎、「ハハー」と鉄太郎は畏れ入り「今までの振る舞い、ただただ、忸怩たる思いでございます」
「それが分かったか。よろしい。山岡先生、拙者からもお願いしたい。鉄太郎をご門下に入れてやっていただけないか」
「鉄太郎氏の師である井上先生が、そのようなお気持ちでござれば、遠慮なく当道場へいつかからでも参られい」と静山は答え、「お城勤めの身、不在の時は、弟の高橋精一(泥舟)がお相手するときもあるでしょう」と加える。
「ありがたき幸せにございます」と敷居の手前の縁側で、大きな体を深々と頭を下げる。

そこへ英子がお茶を運んできて、鉄太郎の振る舞いを好意的な眼差しで見た。
「鉄太郎、この方は山岡静山先生のお嬢さんで、英子さんだ」と井上清虎、続けて「英子さん。この大男は小野鉄太郎、別名鬼鉄という暴れん坊です。今日から静山先生の弟子となりましたので、厳しく扱ってください」
「まぁ、厳しくなんて・・・。こちらこそよろしくお願い申し上げます。それにしてもそのような大きな体で敷居際におられますと、私が出入りできませんので、どうぞ中にお入りください」
「これは気がつかずに失礼いたしました」
四人の明るい笑いが座敷に満ちた。


これが鉄舟が真に傾倒した静山という人物との出会いであり、生涯を変えることになった英子との出会いであった。鉄舟の弟子であった小倉鉄樹は、その著書「『おれの師匠』島津書房」で静山に次のように語っている。

「鉄舟が真に心を傾倒した師匠が一人ある。それは槍術の師、山岡静山その人である。静山は当時日本で一か二かと推奨せられた槍術家であったが、鉄舟はその技倆に感服したのではなくて、その人格に心服したのである。このことは後に鉄舟が小野姓から山岡姓を名乗る因ともなったのである。そんなら静山といふ人はどんな人であったか。
静山は號で、通称は紀一郎、名は正視、字は子厳と云ひ、幕臣の極く軽い身分であったが、槍法では天下を鳴らしたもので、当時関西槍術の雄築後柳川の南里紀介と立ち合って、四時間も勝負がつかず、二人の槍先が砕けて一寸余りも短くなったといふ話がある。けれども静山の優れたところは、かかる技倆の問題よりも寧ろその人格にあった。親には大変孝行で、たった一人の母のいふことは、どんなことでも聴き、また母の用事はなんでも自分でやった。母の肩が凝るので、毎晩その肩を按摩してやったのだが、段々弟子も増えて身辺が忙しくなり、按摩して居る暇が無くなってきたので、一六の日は母の按摩と定め、どんな用事があっても屹とこの日は母の肩を揉むことにしてゐた」

静山と鉄太郎が師弟として交じり合ったのは、一年に満たない僅かだった。静山が二十七歳の若さで突然亡くなったからだが、その後の鉄舟に対して与えた影響は計り知れない。単なる武術としての槍術だけでなく、人格的な教えを多々受けた。また、静山の激しい猛稽古は、後年、鉄舟が春風道場を開いたときの「誓願」猛稽古、その意味は一死を誓って稽古をするということであるが、これも静山の猛稽古からヒントを得たと思う。

では、その激しい静山の稽古はどのようなものであったか。次回に述べたい。

投稿者 Master : 04:38 | コメント (0)

2008年04月05日

山岡静山との出会い・・・その二

山岡静山との出会い・・・その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

嘉永六年六月四日(西暦七月九日)の朝、鉄太郎は内藤新宿の女郎屋で目を醒ました。と南條範夫の小説「山岡鉄舟」にある。

鉄太郎は十八歳、弟たちの身の振り方をつけ、生活に不自由がなくなり、ようやく自らの修行に突き進むことができる環境となった。ここでいう修行とは、剣のみでなく、禅でもあり、もうひとつは色道修行であり、いずれの修行も猛烈であった。その色道修行の一端を示すものが冒頭の南條範夫の小説の一文である。小説ではあるが、鉄太郎の性格から見てありえることであると思う。

朝帰りで異母兄の小野鶴次郎屋敷玄関は入り難い。だが、鶴次郎は江戸城に出仕していて留守である。すぐに玄武館道場に向った。道場にはいつになく、稽古もなく、片隅で頭を寄せて何かを話している。「どうしたのだ」という鉄太郎の問いに「鬼鉄は知らないのか」
「何を」「昨日の夕方、アメリカの黒船が四隻、浦賀沖に来たのだ。沿岸警備の各藩は総出動だ」「うーむ。知らなかった」「みんな知っているぞ。どこかにしけこんでいたのだろう」 その通りなので鉄太郎は何も言えない。
 
今日は稽古が休みだと、鉄太郎は井上清虎のところに向った。高山時代からの剣道師範である井上清虎なら、詳しい経緯が聞けるだろうと考え、場合によっては浦賀沖まで出かけ、アメリカの黒船をこの目で見たいと思ったのだ。

この頃の鉄太郎の行動については、高山の岩佐一亭に次のような手紙を、日付が不明ながら書いている。
 「アメリカの一件で、あちこちへ軍学などの用向きで出掛け、忙しくて困ります」(『山岡鉄舟』小島英熙「日本経済新聞社」)
 
鉄太郎もペリー来航を国難と受け止め、いろいろ行動していたのだと推察される。多分、玄武館道場の仲間達と、攘夷論、開国論を、口角泡を飛ばして論じていたのだろう。眼前に黒船という外国勢力が現れたのであるから、それに対して幕府は、日本はどうするか、そのことに関心が向くのは当然であり、やむをえないことである。

だが、この国家戦略議論に熱中しすぎると、必然的に剣の修行が疎かになりやすい。そのことを危惧した井上清虎は、ある日、鉄太郎に注意を与えた。
 「まだ修行中の身だ。みんなと一緒にバタバタするな。このような時こそじっくり構えることが大事だ。自分づくりの時だぞ」

鉄太郎は井上清虎の言葉に、ハッと気づいた。このハッと気づくことはなかなか出来ない。目前に夢中になることが発生し、そこに没入しているときは、殆どの人が忠告を聞かない。逆に忠告する人を煙ったがり、行動に反対する敵として忠告者を捉えやすい。

ところが、鉄太郎は違った。気づいたのである。地頭がいいともいえるが、このところが肝心要の人間力の差である。

実は、鉄舟は一生の間に一人も殺したことがないのである。人を斬る目的でつくられた剣の修行、それもきちがい呼ばわりされるほど熱中し、無刀派をつくりあげた腕前なのに、誰も斬らなかった。

それは何故か。その解明をいずれ行っていくが、かいつまんで言えば、鉄舟にとって命がけの修行であった剣と禅は、自分磨きのため、自分つくりのためであり、その自分とは23歳(安政五年 1858)のときに記した「宇宙と人間」(2006年10月号参照)に明示されている。

すなわち、世界を諸外国と日本国に分け、日本国は天皇のもとに公卿・武門・農工商民・神官僧侶学者等の四区分臣民は皆平等であるということと、その平等下にいる臣民の行うべきことについて以下の如く記している。

「蓋(けだ)し本邦の天子は萬世一統にして、臣庶は各自世々禄位を襲ひ、君主庶民を撫育(ぶいく)して以て祖業を継ぎ、忠孝を以て君父に事へ、君民一體忠孝一揆なるは、独り我が皇国にあらざるか。是れ余が昼夜研究を要するところにして他日其極致に達せんことを期す。図の如く、唯だ我の感ずる所を署すと雖も、敢て他人に示すものあらず。これ自ら戒むるの目標のみ」

意味は「天皇は万世一統、つまり、祖先から長く同一の系統が続いて、庶民をやさしく育んできているし、臣民は忠孝のこころで君父である天皇に仕え、天皇と臣民・庶民が一体であるべき姿になることが日本国の姿であるから、自分はそのようになるよう日夜研究し、これが実現することを期する」であり「これは他人に説明するために記したものでなく、自らの目標を記したのみ」とある。

つまり、人間修行の目的を明確に国家レベルにおいていたことと、その達成手段が剣であり禅であったことを、井上清虎の言葉によって、ハッと気づいたのであった。

眼前に現れた黒船は確かに国の行く末を左右させる大事件である。しかし、この大事件に自分が囚われていけば、自分の目的を達成することが遅れる。勿論、日本人として、幕府旗本の一員として、ペリー来航に対して対処し、疎かにはできない、だがしかし、自分の人生修行上位目的は何のためであったのか、そのことを考えると今は剣の修行に戻るべきだ。現状の問題点対応という目的と、自らが達すべき修行目的との比較、つまり、自分のおかれた立場に戻り冷静に考えれば、どちらが目的として上位概念・レベルに位置するのか。そのことを暗黙のうちに鉄太郎は気がついたのだ。

このような気づきは、行動指針としての目的概念が明確になっていないとできない。

鉄舟の生き方から学ぶ点はここにある。常に自分の生きる目的を明確にし、そこに向って修行を続けたのであるが、その目的を国家レベルの高次元においたことである。高次な目的を持ちえたこと、それが鉄舟の生涯修行を支えた真の要因であった。いずれこれについても詳細検討してみたい。

さて、鉄太郎は井上清虎の言葉を素直に受けとめ、さらに修行に猛進していった。その頃の逸話が小倉鉄樹の著書「『おれの師匠』島津書房」にある。

「山岡が撃剣を熱心に稽古している頃は殆ど狂気のようなもので厠でも、褥中でも、不断に試合の勢を擬し、又途中何処でも竹刀の音を聞けば直ぐに飛び込んで試合を申入れ、又自邸の訪客には誰彼れの区別なく、直ちに稽古道具を持出し『サア一本』と挑まれた。早朝出入商人が来ると、自分は素裸になって『俺の身体中どこでも勝手に打て』『サアモウ一本』『モウ一本』と際限なく打ちかからせるので御用聞きが来なくなったと云う話もある」
 
このような猛烈な修行の結果、もはや、玄武館道場において、鉄太郎と五分で立ち合える者がいないという状態になった。師の井上清虎も敵わないほどであった。
 
こうなってくると、如何に鉄太郎といえども、剣の腕前に驕慢な感じが表れてくる。自信が態度に表れてくる。このあたりの状況について南條範夫の小説『山岡鉄舟』は次のように述べている。

 「鉄太郎。武芸は剣のみに限らぬ」
「は?」
「例えば、槍だ。お前は槍を剣ほど使えるか」
「槍術は知りません。しかし、先生・・・」
「しかし、何だ」
「特に槍術を学ばなくても、剣の道で奥義を極めれば、相手が何で来ようと、立派に対応できると思います」
「本当にそう思うか」
「はい」と鉄太郎はきっぱり言い切った。
 
 多分、このような会話が鉄太郎と井上清虎の間で交わされたのだろう。
 
その会話の結果は鉄太郎を山岡静山のもとへ連れて行くことになった。
 
山岡静山の屋敷は小石川鷹匠町にあった。近い将来、この屋敷の主として住み着く身とは知らず、鉄太郎は井上清虎とともに向った。

 山岡静山の屋敷は高橋泥舟の屋敷とつながっていて、現在の地図で説明すると、東京メト丸の内線の茗荷谷駅から春日通りに出て、後楽園方向に向って歩くと小石川四丁目のバス停があり、そのすぐ先が播磨坂である。春は桜並木で美しい公園通りとなっているが、その播磨坂を春日通りから入ったすぐのところ、そこに山岡静山と高橋泥舟の屋敷があった。茗荷谷駅から歩いて五分である。今はマンションとなっていて昔の面影はないが、文京区教育委員会が平成17年3月に住居跡の説明文を掲示してくれ、現住所は小石川五丁目である。
 
井上清虎が山岡静山の屋敷へ連れて行った理由は明白である。剣の腕前に驕慢な感じが表れてきた鉄太郎に、上には上がいることを教え、高慢な鼻をくじいてもらおうというのである。
 
当時の山岡静山、槍をとっては天下無双の名声を得ていた。そのことは鉄太郎も知っていた。ただ、いままで一度も面識がなく、手合わせしたことがなかった。
 
井上清虎と山岡静山は旧知である。まず、玄関先で静山に鉄太郎を紹介すると、さすがに静山は玄武館の鬼鉄の名は知っていて、井上清虎が鉄太郎を連れてきた目的を直ちに察し、道場へ案内してくれる。
 
道場は静山の外祖父高橋義左衛門の屋敷にある。つまり、静山の弟の泥舟が養嗣子になって家督を継いだ高橋家の庭に建てられていたが、高橋家も元高四十俵二人扶持の下級旗本であったから、玄武館とはとうてい比較にならない狭くみすぼらしい道場である。山岡家と高橋家は自由に行き来できるように塀の一角から通れるようになっていて、道場内からは激しい稽古の声がしている。まだ、道場主の高橋泥舟はまだ城から戻っていないが、静山はつかつかと道場内に入り、そこで稽古していた弟子の一人に鉄太郎との立合いを指名した。
 
玄武館の鬼鉄の名は知れ渡っているから、指名された弟子も鉄太郎の腕前を承知している。鉄太郎は支度をして竹刀を持った。相手は当然に槍。鉄太郎にとって始めての槍との立合いである。
二人は道場の中央に相対した。

鉄太郎はいつものように眼光鋭く相手をにらみつける。
たが、相手も静山が指名するほどの遣い手、その上、玄武館の鬼鉄であるから警戒して慎重に構えた。
果たしてこの勝負はどうなったか。

次回に続く。

投稿者 Master : 14:52 | コメント (0)

2008年03月08日

山岡静山との出会い・・・その一

山岡静山との出会い・・・その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

 山岡鉄舟が小野性から山岡に変わった背景に、鉄舟が真から心酔し傾倒した人物との出会いがあった。その名は山岡静山である。
 静山の墓碑は文京区白山二丁目の蓮華寺にあり、寺の紹介板が白山下から小石川植物園脇の御殿坂へ通じ、蓮華寺へ上る道端に立っている。

「『蓮華寺即ち蓮花寺といへる法華宗の傍なる坂なればかくいへり。白山御殿跡より指ヶ谷町の方へ出る坂なり』と改撰江戸志にある。蓮華寺は、天正十五年(1587)高橋図書を開基、安立院日雄を開山として創開した寺院で明治維新までは、塔頭が六院あったという」(文京区教育委員会)
 
 日蓮宗・本松山蓮華寺の開山は、豊臣秀吉が小田原の北條氏を滅亡させ全国統一を成し遂げた三年前、ヨーロッパではイギリスが無敵のスペイン艦隊を撃破した二年前にあたる。古刹である。
 
 蓮華寺は別名「武士寺」と称された名残で、武士の墓地が多いと言われ、その墓地は本堂横から奥に広がっている。墓地を入ってすぐ目につくのは、石組み外柵に囲まれ、水鉢・花立の両側に重々しい灯篭が配置された、格式高い一つの墓碑である。正面墓碑には山岡累世墓「るいせいぼ」と書かれている。「代々の墓」という意味である。書かれた書体は鉄舟のものと思えるが、なかなかその場で判読できず、後日専門家にお尋ねしようやく分かった次第である。

 また、背面の墓誌にも多くの法名が彫られており、最後に明治十年丁丑六月山岡鐵太郎建之とある。明治十年(1877)西南戦争の年であるから、それから百三十年、風雪に耐えてきたので大変読みにくい。ようやく判読すると、彫られた法名の最後から六人目に「清勝安政二年乙卯年六月晦日」とある。
 
 静山は安政二年六月晦日に逝去し、戒名が「清勝院殿法授静山居士」であるから、この中の「清勝」という名と、逝去日で静山と判読できる。御霊はここに刻まれているのである。

何故に鉄舟が小野性から、山岡姓になったのか。また、何故に静山に傾倒したのか。その経緯をお伝えするには、当時の時代背景から語らねばならない。

 鉄太郎が飛騨高山から両親の死去により、江戸に戻ったのは嘉永五年(1852)17歳、異母兄の小野鶴次郎屋敷で、冷たい待遇を受けながら、二歳の乳飲み子を含む五人の弟達を必死に面倒を見、持参金付で他家に養子に出し、自らは百両のみ手許に置き、身辺整理を終えたのが翌年の嘉永六年(1853)、十八歳であった。

 この年、日本は未曾有の大事件を迎えていた。それは、米国ペリーの来航であった。日本が始めて正式外交として米国と接し、鎖国体制に壁を開けられた大事件である。当時の日本人の誰もが目の前に現れた外国という存在を意識し、大きな関心事として受け止めたが、当然、玄武館道場で剣の修行に励んでいた鉄太郎にも大きな影響を与えた。このペリー来航による鉄太郎の行動結果が、静山との出会いをつくったのである。


 しかし、この説明に入る前に、当時の日本人が一般的にペリー来航に対してとった行動、それは、従来、ある一つの見方から、一律的に当時の人々を描き語られているのであるが、実は大きく異なっていたことを解明しなければならない。この誤解を解くことが日本人の本質的な検討につながり、鉄舟分析にも通じることになるので、少し横道にそれるようであるが、今回と次回で触れていきたい。また、この検討のためには、ペリー来航の際に行われた外交交渉についても、その要約を押さえておくことが必要である。

 筆者が関係している「山岡鉄舟全国フォーラム」は、2006年12月、北海道大学文学部井上勝生教授をお迎えした。その講演の中で井上教授は次のように結論付けされた。それは、「当時の日本人は、今の日本人が持つ西洋人に持つコンプレックスのかけらもなかった」という事実指摘である。これについて井上教授講演内容と、同氏著書「『開国と幕末維新』講談社」から以下要約をお伝えするが、井上教授講演内容は本号巻末のホームページを参考にしていただきたい。

 さて、沖縄を経由したペリーは嘉永六年六月三日(西暦の七月八日)、旗艦はサスケハナ号(二千四百五十トン)以下四隻の艦隊で、夕方浦賀に碇を降ろした。ペリー一行は、富士山が綺麗に見渡せる浦賀に入る前後から、日本の多くの船と遭遇しているうちに、浦賀奉行所与力の中島三郎助が乗船した一艘の番船がサスケハナ号漕ぎよせられた。日本側は中央の帆柱に旗を掲げているのが「旗艦」だという「外国の法」を知っていたのである。

 これが日米最初の交渉が始まる瞬間だった。この交渉の様子は「対話書」に明らかである。「対話書」とは現場の応接掛や奉行が作成し幕閣へ届けた公式史料で、現在は外務省外交史料館にある。

 三郎助「船は、何国の船にて、何らの訳あり、当港へは、渡り来たりそうろうや」

 アメリカ「船は、北アメリカ合衆国の船にて、本国首都、ワシントンより、大統領より日本国帝に呈しそうろう書簡、所持いたしそうろう。高官の者、乗り組みおりそうろうあいだ、日本の高官の人にこれなくては、応接あいなりがたくそうろう」

 三郎助「日本の国法にて、これまでたびたび、異国船も渡来いたしそうらえども、高官の者、異国船へ乗り組み、応接いたしそうろう儀、一切これなく・・・」

この冒頭の対話で見るように、最初から日米の激しい論争が始まっている。ペリーは、国書を持っているが故に、「高官」との交渉を要求し、日本側は、「高官」との応接は「日本の国法」に適わないと拒否した。

 この論争の背景には、当時の国際法と日本国内法との違いがあった。当時の国際法は、欧米諸国だけに構成員を限定したもので、さまざまな点で今の国際法と異なっているので、今の「現代国際法」と区別され「近代国際法」と呼ばれている。しかし、この当時の国際法に則ってペリーが外交を開始しようとするのは当然であり、大統領書簡を持ち、東インド艦隊司令長官兼遣日特使という、権限を大統領から与えられたのであるから、日本高官との応接を求めるのは当然であり、結果は
「反船(ボート)を以て、上陸いたし、高官の人に直にあい渡し申しべくそうろう」
と、実力行使の上陸強行を表明したが、これはペリーの砲艦外交を示すものであった。

 これに対し、中島三郎助は次のように答えた。
「国にはその国の国法これあり、その法を犯しそうろう儀は、あいなりがたし、いずれにもぜひぜひ次官の者にても面会したくそうろう」

 この応答は現在の国際法に合致しており、当時の近代国際法にも完全に合致していた。
米国側は妥協し、中島三郎助はサスケハナ号に乗船し、ペリーの副官と応接した。これが正式な日米外交のはじまりだった。
 
 翌日の四日(西暦七月九日)には、浦賀奉行の香山栄左衛門がサスケハナ号を訪れ会見したが、その会見の間に、ペリーは江戸湾を測量すべく、測量船を蒸気軍艦ミシシッピー号に守らせて江戸湾に侵入させた。ミシシッピー号(千六百九十二トン)は、サスケハナ号よりは一回り小型船であるが、日本の千石船は百トンであるから、比較にならない彼我の船舶差であった。

 この江戸湾への侵入に対し、香山栄左衛門は抗議を行ったが、米国の法律によって測量する義務を有するとしてペリーは強行したのである。

 ミシシッピー号とそれを阻止しようと対峙する様子が、ペリーに同行した画家のハイネによって描かれて残っている。陣笠・陣羽織姿の役人が、扇を挙げて測量船を制止し、鑓も突き出され、米側には銃剣を向けている兵士もいる。

 この強攻策は功を奏して、日本側の譲歩によって水路を開けさせ、羽田沖十二丁、約一.三キロメートルに迫った。当時の領海は三カイリ(約五.六キロメートル)と近代国際法で決められていた。三カイリは砲弾の到達距離である。このころの炸裂弾も備えたパクサンズ型の滑腔大砲の有効射程距離は、三カイリをはるかに超えていた。江戸城が竹芝沖から射程に入るのである。

 サスケハナ号で中島三郎助が「船尾へ足を運んで巨砲を見ると、これはパクサンズ砲ではないのか」と船員に尋ねたとウィリアムズの「ペリー日本遠征随行記」が記しているように、日本側は新型大砲について知識があり、射程距離を気にしていたことが分かる。

 この測量船の江戸湾侵入によって、翌日、幕閣の評議は米大統領の国書受け取りを決断した。反激論もあったが「大国の中国でもついに国を挟められし程の国害」(「老中覚」六月)と、浦賀奉行への書取(命令書)付属文書に明記されているように、アヘン戦争での中国の敗戦が、幕府に大きく影響を与えていた。

 当時の近代国際法では、世界の国々を「文明国」「半未開国」と、国とは扱わない「未開」
の三群に区分していた。文明国とは欧米の国家群であり、半未開国とは半文明国としてトルコ、ペルシャ、シャム、タイ、中国、朝鮮と日本を指し、法律のあることは承認されていたが「文明の法」とは認知されず、主権を制限され、領事裁判権等の特例を設けられていた。これにしたがってペリーは日本に対応していたのである。
 
 さらに、ペリーの江戸湾侵入は、久里浜での国書受け取りの九日(西暦七月十四日)の翌日十日(西暦七月十五日)にも強行された。このようなペリーの対応は江戸という首都の弱点を事前に十分知って練られたものと言われている。江戸の地勢は海に近接している。その上食糧自給率は低いので、浦賀水道が閉ざされると、江戸は危機に陥ることが予測される。臨海政治都市江戸の姿は、日本が海からの防衛に不利な軍事的弱国であることを示している。

 このことは異国船打払令が出された翌年の文政九年(1826)、シーボルトは「江戸参府紀行」の中で、江戸は「異常に大きい人口」を持っており、江戸への海上輸送が一週間途絶えれば「大名屋敷にいちじるしい圧迫を及ぼし、貧困な庶民階級は飢餓に苦しむ」と記し、海上輸送のストップが江戸を窮地に陥れることを見抜いていた。この指摘内容を理解していた幕閣は、ペリーの強攻策によって国書受け取りとなったのであった。

 ところで、このペリー艦隊に対する日本国内の反応はどうであったのであろうか。
 「太平の眠りをさます正喜撰(蒸気船)たった四杯で夜も寝られず」と、当時の落書にあり、「市中はあげて大混乱に陥った。処処方々に、子どもをかかえた母親や老母を背負った男たちが逃げまどい・・・軍馬のひづめの響き、武装したサムライのわめき声、ひしめき合う荷馬車の騒音、隊をなして走る火消し組、乱打される半鐘の音、女たちの金切り声に混じって、泣き叫ぶ子どもたち・・・」(ダルス著 辰巳訳「日米交渉秘史」読売新聞社)
と一般的に表現されている。
 
 ところが、「ペルリ提督日本遠征記」には次のように記されている。
 「測量船が下ろされ、湾の奥を測量する。入江があり、漕ぎ上る。そこへ外国人を見たいと住民が集まってきた。『人民の或る者はあらゆる身振り手真似で歓迎の意を表してボートに挨拶をし、ボートへ喜んで、水と、すばらしい梨を幾個か提供してくれた』。たがいに友情がわいて、『煙草を交換し合って喫んだ』。士官が短銃を見せ、『それを発射して、初めてそれを見た群衆を面白がらせ、日本人をいたく驚かせ喜ばせた』。帰還した水兵たちは、『日本人の親切な気質と国土の美しさに、有頂天になっていた』」とある。
 
 住民が差し出した「すばらしい梨」、梨は通常秋に収穫される。果たして遠征記に記されたように、梨が七月に収穫されていたのか、そのことを神奈川県の農業技術センターに問い合わせた結果、ペリー側の水兵がもらった梨は、江戸後期に栽培されていた「わせろく」で、六月下旬から収穫できた青い梨であるとの調査経緯を、「山岡鉄舟全国フォーラム」で井上教授が語ってくれた。
 
 さらに井上教授は加えて「幕末の民衆が、親切で社交的で快活な振る舞いをみせるのは、じつは珍しいことではない。一面化をおそれず言えば、その方が普通なのである。文明開化以前には『外人』などと恐れたりしなかった」と断言し、「ペルリ提督日本遠征記」の記述の事実関係の信憑性は高い、と伝えるのである。
 
 多くの文献が、ペリー来航によって日本人は「慌てふためいた」と表現しているが、事実は「ペルリ提督日本遠征記」に記されている姿が実態なのである。
 勿論、鉄太郎も慌てふためかず、ペリー来航に対して鉄太郎らしい行動をとったのである。

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2008年02月06日

玄武館道場に入門

玄武館道場に入門
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

 
前々号で、鉄舟は「人間の出来がもともと違う」と思わざるを得ない事例として、二十三歳で「心胆錬磨之事」から「武士道」まで一連の思惟基盤をまとめ得たことを述べ、前号では、義兄高橋泥舟の鉄舟に対する目利き力が、江戸無血開城の偉業につながり、歴史に鉄舟を登場させたことをお伝えした。

また、今までの連載で、飛騨高山の少年時代から、両親の死によって十七歳で江戸に戻り、異母兄の小野鶴次郎屋敷に転がり込み、二歳の乳飲み子を含む五人の弟達を、鶴次郎から冷たい待遇を受けながら必死に面倒を見て、その生活を見かねた剣道師範の井上清虎からの勧めもあり、両親から受け継いだお金を持参金として、弟達を他家に養子に出し、自らは百両のみ手許に置き、残りは鶴次郎に贈って身辺整理を終えたまでをお伝えしてきた。この時、鉄太郎(鉄舟)は十八歳であった。

今号からは、鉄太郎の江戸での生活について、各方面から述べていきたい。

弟達の養育から解放された鉄太郎は、飛騨高山時代からの剣術の師・井上清虎の紹介で嘉永六年(一八五三)千葉周作の玄武館道場に十八歳で入門した。

ただし、入門した年齢は二十歳という説もある。だが、これには疑問が残る。鉄太郎は二十一歳の安政三年(一八五六)に、幕府が武芸訓練機関として設置した講武所に、世話役として入所している。つまり、二十一歳の時点で鉄太郎は既に剣の使い手として、幕府内で認められていたことになる。とすると、世話役就任一年前の二十歳入門では早すぎる感がある。その前に剣を鍛えていた期間が必要と思われるので、身辺整理を終えた直後の十八歳で玄武館道場入門、というのが妥当な見解と考える。

さて、当時の江戸には剣術道場が軒を並べていた。これは幕末の時代背景が生れさせた現象であった。嘉永六年(一八五三)にペリーが浦賀にやって来る前から、中国・清がアヘン戦争(一八四〇~四二)でイギリスに負け、国土を割譲されたことに、日本の支配層である大名・武士・知識人たちは危機感を募らせていた。そのときペリーが四隻の黒船を率いて日本に開国を求めてきたのである。

これは戦慄すべき事態であった。日本が大国と認識していた中国・清と、同じ運命になるかもしれない。その強烈な危機感は、現代の我々にとって想像を超えるものであった。

この危機を凌ぐためにはどうすべきか。対策は現状の日本を西欧諸国に対抗できる国家に造り変えるしかなく、そこに向うあるべき姿の模索と、その方法論をめぐって、国中に凄まじい戦いが始まり、その中で精神を、肉体を燃焼させるためには、まず、もう一度自ら自身が強くならねばならない。その想いが全国に六百流派とも言われる剣術道場を派生させた背景であった。

これは日本刀つくりにも顕れた。戦国時代が終わり、泰平の世が続き、武士の魂であった刀も、本来の戦うための武器から、威厳を示すもの、外装を重視する装飾的な拵え物となっていたが、幕末時には実戦本位の刀に変化してきた。自己を守るため、敵を斬るための強靭な武器として、幕末刀の登場である。

さらに、剣術道場が流行った理由として稽古の変化もあった。それまで武家諸法度で武芸者同士の真剣勝負は禁じられ、元禄文化のなかで実用を離れ華やかな技法への風潮によって、打ち合い勝負で稽古することを避けていたものが、宝暦年間(一七五一~六四)に一刀流中西派の中西忠蔵が、現代の竹刀と防具にほぼ近い形の自由打ち突き突稽古を完成させ、これを多くの流派が採用するようになったことも、多くの人達を剣術道場に向わせた理由であった。

また、これら道場の門をたたいたのは、武士の子弟だけでなく農民や町民の子弟も多かった。加えて、江戸には全国から大志を抱く若者が集まった。坂本龍馬が江戸に出てきたように、地方の下級武士の子弟たちにとって江戸はもともと憧れの地であり、地元の窮屈な身分制度を抜け出して、江戸の道場に遊学することがブームとなった。

江戸で有名な剣術道場としては、北辰一刀流・千葉周作の玄武館、鏡新明智流・桃井春蔵の士学館、神道無念流・斎藤弥九朗の練兵館、この三道場を称して江戸三大道場と称し「位は桃井、力は斎藤、技は千葉」と評されていた。これに心形刀流・伊庭軍兵衛の練武館を加え、四大道場という場合もある。

これら有名道場では、従来の型稽古を中心とした古流とは異なる、当時の時代風潮であった「手っ取り早く習えて、上達が早い」という、いわば顧客志向の稽古方法や剣術理論を採り入れていった。中でも鉄太郎が入門した北辰一刀流は、古流剣法が権威を誇り守るため、難解な言葉と剣術を哲学や宗教と結びつける傾向が強かったのに対し、簡易な言葉を使い、合理的な練習法を編み出し、それまで八段階に定められていた一刀流の修行段階を初目録、中目録、大目録の三段階に簡略化するなどの工夫をした。そのため「他流では目録を取るまで三年かかるところを、北辰一刀流では一年でもらえる」と評判になり、多くの門弟を獲得し、当時、門人三千余人といわれた。
 
また背後に有力な庇護者を持てた事も、大道場として隆盛する要因といえる。玄武館は水戸藩、士学館は土佐藩、練兵館は水戸藩・長州藩、練武館は亀山藩と強い絆を持っていた。なお、後の新撰組組長近藤勇も当時、牛込に天然理心流・試衛館道場を構えていた。

このような背景の中で鉄太郎が北辰一刀流・千葉周作の玄武館に入門したのであった。

余談になるが、千葉周作の弟である千葉定吉は千葉道場、この道場は現在の中央区八重洲二丁目にあたる桶町にあったので「桶町千葉」、また、兄の周作と区別するために「小千葉」とも呼ばれたが、ここに坂本竜馬が入門している。

竜馬は勝海舟の門下になることによって、時代の新しい国家感覚に目覚め、後の活躍につながったのであるが、竜馬が海舟の門下になった経緯には、この千葉定吉の長男である千葉重太郎が絡んでいる。
重太郎と龍馬の二人は、勝海舟が唱えていた開国論に反発し、海舟の暗殺をすべく赤坂元氷川下の勝屋敷を訪ねた。だが、龍馬が海舟の識見に感激し、その場で師と仰ぎ門下入りしたのであった。このところを司馬遼太郎は「竜馬がゆく」(三巻)で臨場感溢れる表現力を持って展開しているが、それをまとめると次のようになる。

海舟は訪れた竜馬に向って、地球儀を回し、日本と同じ小さなイギリスが何故に世界一の大国になったのかを解説し、日本国百年の興国大構想を滔滔と論じているうちに、その内容に引き込まれた竜馬は、海舟の論弁が終わった途端「勝先生、わしを弟子にして任ァされ」と弟子入りする情景、竜馬が時代感覚に鋭敏であることも理解させる、見事な文体で表現し、秀逸である。


余談のついでにもう一つ余談であるが、歴史作家の加来耕三氏が主張する「竜馬は剣客でなかった」という説が、朝日新聞(2000.3.12)に大きく掲載された。従来、竜馬が剣客とされる根拠は安政五年(一八五八)に、千葉定吉から与えられた「北辰一刀流長刀兵法目録」とされているが、これは「短期講習会の修了書」みたいなものだと「免許皆伝」説を否定している。また、インターネットでフリー百科事典「ウィキペディア」を検索すると、竜馬が授けられた「北辰一刀流長刀兵法目録」は、北辰一刀流に含まれていた長刀術(薙刀術)の目録とあり「剣術の皆伝を示すものでない」とある。

竜馬が免許皆伝剣客でなかったとすると、司馬遼太郎がつくりあげた「日本人に最も人気の高い偉人」という竜馬イメージ、これは果たしてどうなるのであろうか。

だがしかし、本題の主人公である鉄太郎は、正真正銘の本物剣豪である。

鉄太郎は、弟たちの身の振り方をつけ、生活に不自由がなくなり、ようやく自らの修行に突き進むことができる環境となった。ここでいう修行とは、剣のみでなく、禅でもあり、もうひとつは色道修行であり、いずれの修行も猛烈であった。それらについて今後順次お伝えしていくが、まずは剣の修行について見ていきたい。

鉄太郎はもともと身辺を飾るタイプではない。今でいうフアッション感覚には関係ない方である。その上に両親を早く亡くして、身近で親身に服装の世話をしてくれる人はいなかったので、身繕いはいつもかまわなかった。

一方、玄武館は江戸随一の人気道場であり、隣には老中首座の阿部正弘に諸般の助言をした、儒学者東条一堂の学問塾もあった上に、千葉と東条は親しかったので、塾生の多くは両方に通って文武両道の修行をするものが多く、必然的に良家の子弟が多く入門していた。

また、優れた剣客も多く、例えば、水戸藩に高禄で抱えられた高弟海保帆平、新撰組の藤堂平助や山南敬助、東条一堂学問塾の秀才の誉れ高かった清河八郎等がいて、鉄太郎の修行には好都合であったが、何せ身繕いをかまわないので、いつもボロ姿であり「ボロ鉄」と綽名される一方、剣道はめっぽう強く、修行態度も純粋真剣であったので、畏敬の念を持って「鬼鉄」とも言われていた。

この「鬼鉄」と称される逸話が残っている。講武所の稽古が形式的で生ぬるいのに憤慨した鉄舟は、あるとき木剣を構え講武所道場の一寸ばかりの欅羽目板めがけ「えいっ」と、得意の諸手突きを入れた。すると、木剣は一寸欅板を突き抜けるというすごい話が伝えられている。正に「鬼鉄」と言われる手並みを示す逸話である。

鉄舟は剣の道に関して、明治十三年四月に認めた「剣法と禅理」、これは同年三月三十日払暁に、剣の極意を大悟して無刀流を創始したのちに書かれたものであるが、その中で次のように書いている。

「余、少壮の頃より武芸を学び、心を禅理に潜むること久矣(ひさし)。感ずる所は必らず形に試み、以て今日に至る。年九歳の頃、初めて剣法を久須美閑適斎に学び、続ゐて井上清虎、千葉周作、或は斉藤、桃井等に受け、其他諸流の壮士と共に試合する事、其数幾千万なるを知らず」
 
其数幾千万という表現、余りにも過大な表現でないかとも思われるかもしれないが、狂気ともいえる剣の修業について述べたものと理解したい。

それは、厠の中でも、寝床の中でも、相手との剣術稽古気勢を持つと、飛び出し、飛び起き、木剣を持ち工夫をする。道を歩いていても、竹刀の音がすると、飛び込んでいき稽古を受けることが常だった、という姿を表しているのである。

そのような鉄舟の性格を証明するのが、鉄舟宅の内弟子として、晩年の鉄舟の食事の給仕や身の回りの世話などを、取り仕切っていた小倉鉄樹の著書「『おれの師匠』島津書房」である。鉄舟の性格について次のように書かれている。

「師匠は子供の時からひどく負け嫌ひで、どんなことでもやり出したら吃とやり徹してしまはぬと気が済まなかった。この気象が『鬼鉄』の綽名を受けた原因で、事の大小に拘わず、面と向かつたが最後、死んでもあとへは退かぬことときめて居た。『悪いと気がついても、乗りかゝつたらぐつと目をつむつて辛抱するんだ。その中にひとりでに片づいて来る』といふのが山岡の筆法だ。けれども普通の人はこの辛抱が出来ないから、中途で逃げ出したり、泣言いつたりするようになる。こんなことを今時の人が聞いたら、馬鹿だと一笑に附してしまふが、それだけ今の人は腰がないからいざといふ時、間に合ふ力が乏しい。何も修業だ」

これを単なる勇猛心と捉えてはいけないと思う。後に修行により到達した鉄舟の人間力にオーバーラップさせて考えれば、現在、我々が失った、反省させられるべき、気づき多き人間の底流・原点を述べているものである。


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2008年01月07日

泥舟と鉄舟武士道

泥舟と鉄舟武士道
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

 世上、「幕末三舟」と称されるのは勝海舟、山岡鉄舟、それと高橋泥舟である。

 頭山満はその著「幕末三舟伝」(島津書房)の中で「幕臣中に、三舟あり。官軍中に南洲のごとき大器あり。相俟ってはじめて時局を収拾し、外侮をふせぐことが出来たので、もし凡人庸才が、この活舞台に登場したとすれば、維新の終局は、あれほど円満な解決をつげずして、いっそう混乱したかもしれない」と述べ、続けて「主家の安全を期し庶民の困苦を救い、すすんで尊王の至誠を披瀝しようとしても、周囲の守旧派がこれをさえぎっている。この際、一死を賭して、白刃の間を往来した態度は、尋常人の企て及ぶべきところでない」と、三舟によって明治維新の偉業が成り立ったことを高く評価している。

 この「幕末三舟」の一人、高橋泥舟について、この連載で触れることが少なかった。今回は泥舟について触れ、鉄舟との意味合いを考えてみたい。

 ところで、「幕末三舟」と称されるようになったのは、いつごろからであろうか。三舟が実際に活躍した幕末維新の変革・動乱時には「幕末三舟」と称されていなかった。もっとずっと時代が過ぎた頃と思われるが、その時期を松本健一氏はつぎのように推測している。

 「明治体制が憲法の発布や帝国議会の開設を終えて、いちおうの安定をむかえたあとで、さてそれでは、このように変革・動乱の時代をうまく乗り切れたのはだれのおかげか、と回顧的な眼差しを社会がもったときのことではないか、と推測される」(「高級な日本人」の生き方『新潮選書』)

 この推測の通りと思う。日清・日露戦争に勝利し、明治時代の体制が固まった頃に、改めてペリー来航から混乱時代を振り返ってみて、日本が躍進出来た最大の要因は、幕末・維新時に江戸無血開城という偉業を成し遂げたことだ、という共通の歴史観、それが定着したからこそ、維新の功績者として「幕末三舟」が再認識されたのだと思う。

 さらに付け加えれば、鉄舟が世を去り(明治二十一年)、一番年長の海舟が亡くなり(明治三十二年)、追うように泥舟が終えて(明治三十六年)、棺を蓋いて事定まる例えの通り、三人の働きを称え、幕末三舟と称されるようになったものと思われる。

 また、昭和三年(1928)、この年は明治維新から六十年にあたり、当時の東京日日新聞が「戊辰物語」の連載を始めたが、この時には「幕末三舟」の名声は既に知れ渡っていて、冒頭の頭山満著「幕末三舟伝」が出版された昭和五年(1930)あたりで、さらにしっかりと日本中に確立したと思われる。

 「幕末三舟」の一人泥舟は、幕末維新でどのような功業を挙げたのか。それを一言でいえば、将軍慶喜に対し、駿府の西郷への使者として鉄舟を推薦したことである。泥舟の推薦がなければ、歴史に鉄舟の登場はなく、鉄舟の駿府駆けがなければ、官軍と幕軍は戦火を交えて日本は混乱の極に達し、国が二分され、外国に占領されたかも知れない。

 つまり、泥舟の鉄舟に対する目利き力が、江戸無血開城の偉業を成し遂げた背景に存在していたのである。

 しかし、鉄舟の駿府掛けを海舟が鉄舟に命じたという説もある。その根拠は時の軍事総裁として、徳川側の実権を一手に握っていたことと、海舟が西郷に宛てた手紙を鉄舟が持参したということからである。

 だが、この海舟説には問題がある。その理由は、駿府駆け直前の海舟日記(慶応四年3月5日)に「旗本山岡鉄太郎に逢う。一見その人となりに感ず」とあるように、海舟は鉄舟とそれまで一面識もなかったわけで、突然に鉄舟を選ぶということには無理がある。また、鉄舟も自らの評判を「安房(海舟)は余が粗暴の聞えあるを以て少しく不信の色あり」(西郷氏と応接之記)と自ら記しているのであるから、時代を分ける重要な使者に、よく知らない鉄舟を海舟が指名することは難しいであろう。

 そこで、慶喜に鉄舟を推薦したのは泥舟であるという説になり、その根拠は慶喜と泥舟との信頼関係である。当時、泥舟は上野寛永寺大慈院に恭順・蟄居した慶喜の護衛頭として任命されていたように、当時の慶喜は泥舟の武道と忠誠心を高く評価し信頼していた。その上、ひたすら一室で恭順姿勢を示している孤独の立場であるから、この慶喜と会い接する人物は限られるわけで、当然、隣の部屋に護衛として詰めている泥舟との関係密度がさらに深まり濃くなっていく。このような状況下で泥舟が鉄舟を駿府駆け使者として慶喜に推薦し、信頼している泥舟からであったゆえに、鉄舟が選ばれたと考える。

 次に、泥舟が何故に慶喜から信頼され、護衛頭となったのかついて検討してみたい。実は泥舟は当時の幕府内で「異例の速さの出世」を遂げた人物だった。その要因の一つは人格識見が際立って優れていたことと、二つ目は講武所槍術師範役として天下無双名人であったということからであった。
泥舟は天保六年(1835)に小石川鷹匠町の山岡家に生れた。幼名山岡謙三郎、長じて忍斎と号し、泥舟と称したのはずっと後のことである。山岡家は禄高百俵二人扶持、この隣家の高橋家も禄高四十俵二人扶持、お互い下級旗本であった。高橋家は刃心流の槍術道場を兼ねていて、そこへ十七歳で養子に入って、安政二年(1855)二十歳で高橋家を継ぎ、勘定方に就いた。

 なお、鉄舟は泥舟の兄、山岡家当主靜山の死去により、小野家から婿養子に入って、泥舟の妹英子と結婚したので、泥舟と鉄舟は義兄弟となる。

 その泥舟は二十一歳の時、講武所が発足した際に槍術教授方となり、同年に新御番、二十二歳で御書院番として足高三百俵、二十五歳で講武所槍術師範役、二十六歳で御書院番と御小姓番の両御番の上席となり足高は千石。この地位は従来上流旗本の子弟に限られていた役職で、高橋家の家柄を考えると抜群の出世であった。さらに、講武所上席槍術師範役となり、二十七歳の時に奥詰之者取締御心得、これは桜田門外の変の時に増やした江戸城泊り武芸者の取締役であるが、この時に十四代将軍家茂の後見職一橋慶喜の警護頭にもなった。この時点で忠誠を励む泥舟との信頼関係が出来たと思われるが、さらに留守居役から徒頭上席へ進み将軍家茂の警護役となり、とうとう「従五位下伊勢守」という勅許を受け作事奉行上席に昇ったわけである。禄高四十俵二人扶持貧乏微禄旗本が、槍一筋で「従五位下伊勢守」である。戦国時代とは異なる封建階級体制下では、とても考えられないほどの出世であるが、これは泥舟の人格と槍とがいかに高く評価されていたかを示すものである。

 このように泥舟は破格の出世を遂げたのであるが、清河八郎が暗殺される事件があり、清河と親交深かった鉄舟の黒幕に泥舟がいたはずだと疑われ、二人は蟄居・閉門となった。だが、江戸城二の丸炎上時における火消し活動の働きによって本来の忠誠心が認められ、再び遊撃隊副頭として復帰したのであった。このあたりの経緯は、大変込み入っているので後日詳しく別号で展開したい。

 その後、将軍慶喜は大政奉還、鳥羽伏見の戦いの敗戦を経て、上野寛永寺大慈院に恭順することになり、選ばれて泥舟は慶喜の警護頭となり、結果として、鉄舟を官軍西郷への使者に推薦したわけであった。

 泥舟が破格の出世を遂げる一方、鉄舟は出世とは全く無縁であった。剣の道では「鬼鉄」と恐れられる武道修行、私生活では放蕩とも誤解される色道修行、対外的には清河八郎等の浪士との交わり、その上、出世と無縁のため収入は増えず極端な貧乏生活、これが泥舟の義弟で隣に住む鉄舟の実態であった。

 ところが、このような生活状態でありながら、既に見たように基礎的な人間修行のための考察をし続けていた。即ち、十五歳の時の「修身二十則」に始まり、二十三歳の時に「心胆練磨之事」「宇宙と人間」「修心要領」、続いて二十四歳の時に「武士道」を認め記しているのであって、ここが一般人とは人間の出来が違うところである。

 鉄舟は晩年、亡くなる一年前の明治二十年(1887)、門人らの求めに応じて武士道に関する講義をし、それが「山岡先生武士道講話記録」となり、明治三十五年(1902)に「故山岡鉄舟口述、故勝海舟評論、安部正人編纂、武士道」として出版された。これは現在「山岡鉄舟の武士道」(勝部真長編 角川ソフィア文庫)として見ることが出来るもので、一般に「山岡鉄舟の武士道」という場合は、この口述版を意味している。

 一方、武士道に関する書籍としては新渡戸稲造の「武士道」があまりにも有名である。この本は原題を「Busi-do,Soul of Japan」と言い、1900年(明治三十三年)にアメリカにおいて英文で出版された。その後日本語版が出版され、今日では世界中で読まれ学ばれている状況であって、日本の「武士道」と言えばこれを指し示すほどである。

 だが、この新渡戸稲造の「武士道」より十三年前に、鉄舟の武士道が口述されていることを見逃してはいけない。出版は確かに明治三十五年であるので、新渡戸稲造より遅いが、武士道を述べたのは鉄舟の方が早いのである。

 では、何故に明治二十年に講義したものが、十五年後に改めて出版されたのか。この疑問については、後日、新渡戸稲造の「武士道」との比較で詳しくその共通点と相違点について論じたいが、簡単に言えば新渡戸稲造が日本的道徳観を中心に述べているのに対し、鉄舟武士道は「エートスとしての日本武士道」を論じていること、つまり、武士ではない新渡戸稲造に対し、本物のサムライが語った「武士道」としての対比、それを意図した出版であったと推測する。また、その背景には明治時代の体制がほぼ固まり、「幕末三舟」のイメージも定着したタイミングであったことも影響していたと思う。

 しかしながら、もっとすごいことは、既に鉄舟は二十四歳の時に「武士道」を認め記していたという事実である。それは、晩年に講話した内容に遡ること二十七年前の万延元年(1860)であるから、新渡戸稲造の「武士道」が出版された時より四十年前にあたる。

 その上、「武士道」という文言表現を始めて名付けたのは鉄舟である、と自ら述べていることである。武士道ということは鉄舟が言い始めたのである。原文が読みづらいので口語体で以下ご紹介する。

 「わが国の人びとのあいだには、一種微妙な道の思想がある。それは神道や儒教でなく、また仏教でもなく、その三道が融和してできた思想であって、中古の時代から主として武士の階層においていちじるしく発達してきたのである。わたしはこの思想を武士道と呼ぶ。しかし、この思想が文書としてまとめられたり体系化されて伝えられているものは、これまで一度も見たことがなかった。要するに、人の世の移り変わりや、いろいろの歴史的経験によって、われわれの物の考えのなかにつくられた道徳の一種であるといえばよいだろう」(山岡鉄舟 剣禅話 『徳間書店』)

 全文は長いのですべてを紹介できないので、ご関心ある方は同書を御覧いただきたい。

 鉄舟は「修身二十則」から、この「武士道」に到達するまでの一連の基礎的努力と、その後の命を削るような修行によって明治十三年(1880)に開眼し、悟りの境地に達することによって、武士道精神を完成させ、その考察結果を講義したのであるが、正に鉄舟の一生は修行であった。

 鉄舟は、明治十三年に開眼し悟りの境地に達した際、このことを泥舟へ報告した。

 「それはお目出度い」と泥舟は膝を打った後

 「しかし、禅に引っかかってだいぶお手間をとられましたな」と言った。

 既に、泥舟は若き時代の必死なる槍術修行によって、はっきりと禅の道を究めていたという自負が、この泥舟発言背景であり、この会話に泥舟と鉄舟の人物像が示されている。

 泥舟は年若くして完成された人物であり、鉄舟は一生を通じて完成した人物であった。

 なお、泥舟は明治維新を機に一切の官職を断って、世間に埋もれてその後を生き、鉄舟は江戸無血開城を機に世に出、明治天皇の師父とも謳われるようになった。二人は明治維新を境に対比的な生き方をしたのであった。

 今、泥舟は谷中の長昌山・大雄寺の樹齢二百年の大くすのきの根本に眠っている。

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2007年12月06日

人間の出来が違う

人間の出来が違う
    山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

鉄舟は晩年「世間は吾が有、衆生は吾が児」、即ち「世の中の出来事は一切自分の責任である、生きとし生けるものは、すべて自分の子供である」という境地に達した。宇宙界のすべての現象が我が身と直結しているという、空恐ろしいまでの心境である。

何故に鉄舟がこのように、計り知れない心境にまでなり得たのか。それを解明する糸口として、少年時代と青年時に認め記した「修身20則」と「宇宙と人間」について前号と前々号で検討した。

今回は、もう一つ鉄舟が若き時に書き残した「心胆練磨之事(しんたんれんまのこと)」について検討してみたいが、その前に鉄舟が扶育係として、二十歳から三十歳までの十年間携わった明治天皇への影響、それを明治天皇の「御真影」を基に考えてみたい。

江藤淳氏は明治天皇について次のように述べている。(『勝海舟全集11巻』講談社)

「ほんとうは明治天皇は和服がお好きだったそうです。自分一代は和服で通したいといっておられたそうです。ところがそうもいっておられなくなった。日清戦争のときには一日も軍服を脱がれなかったそうですが、あれ以後、公の場所では常に軍服でおいでになった。この逸話を拝見しても、明治天皇には非常に強い使命感があって、自己改造をなさったんだと思うのです。その自己改造の過程で、公家的なものに武士的なものが焼きつけられた」 
と述べ、その自己改造結果の論拠として、明治天皇の「軍服をお召しになって、けいけいたる眼光を光らせておられる写真」を挙げている。

この「けいけいたる眼光」の写真、これは当時広く全国の学校に配布された「御真影」であった。この写真の前で幾世代もの子供たちが最敬礼したのであるが、実はこの写真は明治天皇の実物写真ではなかった。それは肖像画を写真に撮ったものであって、肖像画があまりにも真に迫っていたので、すべての人々は、それを写真と信じたのである。

明治天皇は終生の写真嫌いであったと言われている。明治天皇を撮影した最初の写真は、明治四年(1871)横須賀を訪れたときの記念写真で、このときは「小直衣(このうし)に切袴を着け、金巾子(きんこじ)の冠を被った」、まだ断髪されていない姿であった。この写真は記録として明治天皇紀にあるが公開されていない。天皇の断髪は明治六年(1873)三月であり、このときに始めて洋風に断髪され、同年十月、内田九一によって撮影されたものが、その後十五年間に渡って外国の君主に贈られた写真となった。二十一歳であった。

明治二十一年(1888)、三十六歳となられた明治天皇の肖像が、二十一歳のときのものでは相応しくないと考えたと推測するが、宮内大臣土方久元は外国皇族、貴賓に贈与するために、新しい最近の肖像写真が必要と判断し、印刷局雇のイタリア人画家エドアルド・キョッソーネに、天皇に相応しい肖像画を作成依頼した。最も手軽な方法は、天皇の写真を撮ることであった。

しかし、伊藤博文が宮内大臣時代、何度も肖像写真の撮影を奏請したが、その都度写真嫌いの天皇に断られていたので、土方はキョッソーネに密に天皇の顔を写生させることにし、その適切な機会を待った。

好機は一月十四日に訪れた。弥生社行幸で御陪食のときに、キョッソーネは襖の陰に隠れ、正面の位置から竜顔を仰ぎ、その姿勢、談笑の表情に到るまで細心の注意を払って写生した。このようにしてキョッソーネが描いた肖像画を気に入った土方は、それを丸木利陽に写真撮影させ、天皇に奉呈するにあたり、事前に許可を得なかったことをお詫びしたが、天皇はこの写真を見て、無言のまま良いとも悪いとも言わなかった。

このときちょうど、某国皇族から天皇の写真贈与の請願があり、土方は天皇にキョッソーネが描いた肖像画写真に署名を求めた。天皇は写真に親署した。これをもって天皇が気に入ったと判断し、それ以後はこの肖像画写真が使われるようになった。(参考 ドナルド・キーン著『明治天皇』新潮社)

この肖像画写真を江藤淳氏が「けいけいたる眼光を光らせておられる」と表現しているわけであるが、確かに鋭く光り輝く眼光が偉大なる明治天皇を現していると感じる。

明治天皇については様々な称賛の言葉が語られているが、身近で天皇を知る人々に共通しているのは「抜群の記憶力」である反面、明らかに「いわゆる知識人」ではなかったと言う。また、論語の「剛毅木訥仁に近し」、つまり、意志が強固で飾りけがなく、口数の少ない人物で、人として最高の徳である仁に近い人物であり、常に沈着冷静であったと言われている。

この人物評価から、これに近似した人物として誰を想起されるだろうか。それは、明らかに鉄舟である。鉄舟は悟りの境地へ辿りつくため、生涯、修行者だった。その鉄舟の生き様と明治天皇はイメージが重なり合う。

天皇が二十歳から三十歳までの最も重要な人間育成期に、鉄舟との御酒宴を「御機嫌殊に麗はしく、勇壮な御物語を御肴として玉杯の数を重ねさせ給ふを此上なき御楽しみとせられた」と語られた十年間、御傍近くに仕えたことで、天皇の治世精神に何らかの影響を与えたことは容易に考えられるし、その結果が「けいけいたる眼光」の「御真影」につながっているとも推測する。

なお、キョッソーネが日本滞在中に蒐集した美術品の数々は、現在、イタリア・ジェノヴァ「東洋美術館」で公開されている。それを実際にジェノヴァに行き見学してみたが、丁寧な展示と優れた保存状態であって、明治天皇の肖像画制作者としてのキョッソーネが持つ日本に対する気持ちが伝わってくる。皆さんも是非行かれると参考になると思う。因みに、キョッソーネは天皇から感謝のしるしと思われるが、晩餐に二度招待されている。

さて、鉄舟は二十三歳、安政五年(1858)三月に「心胆錬磨之事」、五月に「宇宙と人間」、七月に「修心要領」を、二年後の万延元年(1860)三月に「武士道」を認め記している。これらを併せ読み、考えてみると、この安政五年から万延元年までの二年間は、鉄舟の思惟基盤構築の年であったと感じる。
今回は「心胆錬磨之事」を紹介するが、長文であるので全文を紹介することは省きたい。ご興味のある方は「『山岡鉄舟・剣禅話』徳間書店」を参考にしていただきたい。

「心胆錬磨之事」の出だしを口語体に直し、紹介すると以下のとおりである。

「ひとたび思いをきめて事に当たれば、猛火の熱も厳氷の冷たさも、弾の雨も白刃も気にかからなくなってしまうものだ」とある。しかし、

「世間では、こういうような人間をさして気魂の豪気な者と思い、あれこれと称賛してやまない。だがわたしは、これをほんとうの豪気と思ったことは一度もない」と言い、

「ほんとうの豪気というものは、問題に当たるときに心を決め、それから大いに奮闘するというようなものではないのだ。『やるぞ!』と決意しないうちからすでに決意しているところがあるということ、

つまり、決意するとかどうとかをまったく考えていないのがほんとうの豪気なのである」と続けた後に、「ほんとうに胆が豪であるものは、時と事らに応じて縦横に変化することをいうのであり、人間にはその詳しい経過を知ることができないのである」と述べ、

「では、どのようにすれば胆を豪気なものにすることができるのか。まず第一に、思念を生と死のあいだに潜めてしまうことであり、生と死とは一つことに帰着するということを知覚するのである」と結論付けしている。だが、

最後に自省として
「わたしは小さいときから心胆錬磨のことをいろいろ工夫してきたのではあるが、いまになっても真理をつかむことができない。それは一つには、自分の熱意が足りないからであろう。これを書いたのは、自分で感じたところを楽書しておいたのである。修練の余暇には、ときどきこれを読んでみて自分を励まし、いっそう勤勉して心胆錬磨の源に到達しようとするものである」と終わっている。

上記の「思念を生と死のあいだに潜めてしまうこと」、この境地に達するために、生涯、鉄舟は禅修行に打ち込んだ。鉄舟の禅は実学であるから、禅の理は直ちに剣の道に試みられている。大森曹玄先生は、このことを「剣禅の道」と称するのが正しいと述べられている。(『山岡鉄舟』春秋社)

ところで、この「心胆錬磨之事」に対して勝海舟が評論しているのが「英傑 巨人を語る」(日本放送協会)である。これは昭和十七年の安部正人編で、初版の序は鉄舟長女の山岡松子が述べ、校閲は高橋泥舟という豪華さである。

この中で、海舟の評論が面白いので紹介したいが、この内容は江藤淳編「勝海舟全集」(講談社)には収められていないことを付言しておきたい。

まず、海舟は次のように述べている。

「全体、山岡という男は正直熱性なる方だから、何事でも子どもの頃より信じた事はむやみに熱中した形跡がみえる。こんな事は一方から見ると、馬鹿の骨頂だ。しかし馬鹿もあれくらいな馬鹿になると違う所があるよ。なに山岡だって、他人だって、別に異なることはないよ。このくらいなことは、少し考えのあるものは誰でも書けるよ。彼がその当時より、後日の山岡鉄舟に成るのだと予期していたわけでもあるまいよ。またそんな思いがあるようでは、とても本当にやれるものではない。何でもかでもやろうと決心したならば、名利に執着せず、吾我を忘れて、その事に忠実なるを要するのだ。しかる時はついにはその道の源に到着することが出来るものだ」

更に続けて

「何事に限らず、何業によらず、その一芸に長じたるものには、確かにある道筋を往来している人だ。ところがそこに精神上の極意が存在するのだ。それは外でもない。一芸に長じたとて、他芸は必ずしも出来るものではない。けれども各芸ともになすべき精神上の呼吸は同じだということが分からなければ駄目だ・・・(途中略)・・・真に一芸に長じ得たものならば、自ら他芸をなさずとも、他芸もまた必ず同一呼吸の存在するものだということは、承知せられるものだ。これは単に技芸の事ではないよ。人間処世の活道はここにあるのだ。おれが禅機は万機に応用出来るものだということは、ここいらの意味さ」

さすがに幕末維新を生き抜いた苦労人だけに、軽妙洒脱で言外に妙味がある。禅修業についても次のように述べている。

「山岡が禅学修行の為、江戸より箱根を越えて伊豆の竜沢寺まで往来し、また剣法修行のため、飲食を忘れて昼夜を徹したこともしばしばであったそうだ。おれらも、十七、八の頃より、馬鹿正直にも剣師島田虎之助の教えを守って、寒中に稽古着一枚で、王子権現の社に到って、徹夜木剣を素振りするやら、あるいは牛島の広徳寺に到って、坊主と共に禅堂に座ったり、このごとくして得たるところの精神上の利益は、なかなか大なるものである。しかしこれはただ一場の口演に述べつくさるものでない。決して口では言われないよ」

最後に次のように締めている。

「山岡でもこれを書いた当時は、五里霧中でありながら、一生懸命であったに違いない。和尚も小僧の成り上がりだからなあ。心身の養生法などは、理屈ばった法律ずくめや、憲法政治でゆくものではない」この最後のところ、これにホッとする。確かに「和尚も小僧の成り上がり」で、最初から大和尚はあり得ず、鉄舟も海舟も天性に加えて、命をかけた修行をしたから、あの偉大な功績を遺せたのだと思う。

しかしながら、鉄舟が二十三歳でこの「心胆錬磨之事」から「武士道」まで一連の思惟基盤をまとめ得たということは、やはり鉄舟は「人間の出来がもともと違う」と思わざるを得ない。

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2007年11月08日

無私の精神

無私の精神
   山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

山岡鉄舟が明治天皇の侍従に選任された経緯について、江藤淳氏が次のように解説している。

「天皇というのは元来、お公家さんの総帥ですね。明治天皇だって、後に軍服をお召しになって、けいけいたる眼光を光らせておられる写真をみれば、どっちかというとプロシャ的な君主の感じがしますけれども、践祚されたころはおはぐろをつけて薄化粧しておられたんです。・・・中略・・・

京都の朝廷のほうはどうかというと、古典的な教養はもちろんあります。有識故実とか、敷島の道、その他いろいろあるでしょう。しかし、武張ったことの下地はぜんぜんない。平安朝以来そういうことは北面の武士にやらせて、自分ではやらないたてまえですから。
そこで明治になってから、明治新政府をになった薩長中心の下級武士たちがはたと気がついたことは、天皇をこのままにしておいちゃいかん、天皇がみやびやかな、なよやかなものであってはならない。天皇にはもっと武士的になっていただかなければいけないということだったにちがいない。そこで山岡鉄舟が扶育係になります」(勝海舟全集11巻 講談社)

江藤淳氏は勝海舟評論の「海舟余波」という名著もあり、幕末から明治にかけての史実に大変詳しい文筆家である。その江藤氏が鉄舟を明治天皇の侍従とは表現せずに扶育係と述べている。「扶育」という意味は「世話をして育てること」(広辞苑)であるので、それをそのまま適用し理解すると鉄舟が明治天皇を育成したことになる。

慶応四年(千八百六十八)一月十五日に、明治天皇は元服の儀を執り行われた。十五歳であられた。この十五歳という年齢から勘案すれば、維新ならびにそれら続く多くの重大な改革・変革時に、天皇自らの御発意で治世上重要な貢献をなしたとは考えにくい。

しかし、明治天皇はその治世時から後世に至るまで、その御存在が改革・変革期における日本人の心の拠り所であった、ということは疑うべくもない事実である。

つまり、明治天皇は自らの研鑽努力により、その類稀なる資質を見事に開花させたのである。しかし、その開花の初期揺籃期に、鉄舟が御傍近くで日常深く接していたということが大きく、そのことについて江藤氏が「扶育係」と述べた理由と解釈したい。

しかしながら、扶育係の目的を「もっと武士的になっていただかなければいけない」と述べていることには異論がある。

明治天皇の日常生活と行動を記録している宮内庁編「明治天皇紀」(吉川弘文館刊)、これを基にしてロナルド・キーン氏が明治時代史「明治天皇」上下二巻(新潮社)を出版している。つまり、明治天皇の伝記を著しているのであるが、この中で鉄舟が登場するのはただ一ヶ所だが、その部分は重要な意味合いを持っている。

「天皇の酒の強さについては、近臣たちの数々の思い出話が残っている。例えば、侍従高島鞆之助は次のように語っている。『御酒量も強く、時々御気に入りの侍臣等を集めて御酒宴を開かせられしが、自分は酒量甚だ浅く畏れ多き事ながら何時も逃げ隠れる様にして居た。所が彼の山岡鉄舟や中山大納言(忠能)の如きは却々の酒豪で、斗酒猶辞せずと云ふ豪傑であったから聖上には何時も酒宴を開かせ給ふ毎に、此等の面々を御召し寄せになっては、御機嫌殊に麗はしく、勇壮な御物語を御肴として玉杯の数を重ねさせ給ふを此上なき御楽しみとせられた。而も聖上の当時用ゐさせ給ひし玉盃は普通の小さいのではなくて下々の水飲茶碗を見るが如き大きなる玉盃に、並みゝと受けさせられては満を引かせ給ふが常であった』」

このように鉄舟は明治天皇が御酒宴を開くときの格好の相手であり、その御酒宴では「勇壮な御物語を御肴として玉杯の数を重ね」とあるように、話に花が咲いて明治天皇にとってもっとも楽しいひと時であったことが容易に推察できる。

鉄舟の酒量は並でなく、晩年は胃を悪くして酒量を制限したが、それでも晩酌は一升ずつであったと、鉄舟宅の内弟子として、晩年の鉄舟の食事の給仕や身の回りの世話などを、取り仕切っていた小倉鉄樹が(『おれの師匠』島津書房)で述べているほどの酒豪であったから、若い頃から酒の上での逸話は事欠かない。いずれ詳しく述べたいが、酒豪の鉄舟は明治天皇の御酒宴を開くときの常連メンバーであった。

酒飲みならばお分かりと思うが、気の合わない人と酒を飲んでもつまらない。酒は気心許した人と飲むのが一番である。ということは明治天皇の御酒宴に付き合う人は、明治天皇が気を許した人物ということになり、その人物、つまり、御気に入りの侍臣等を相手に多くのお話をすることになって、そこでは当然ながら明治天皇からの御発問と、それに対する侍臣等からの御応えが会話となって、時によっては談論風発、明治天皇の心身に大きな影響を与えたことは容易に予測がつく。

さらに、明治天皇が京都の朝廷育ちであるから、世情、民情、下情、つまり世相に対しても詳しくない上に、御酒宴に付き合う鉄舟は極端な貧乏暮らしを嘗め、その上江戸無血開城から始まる多くの修羅場を踏んで来ているのであるから、明治天皇にとっては世間、巷間、俗間という世上を知る格好の相手であったろう。

つまり、明治天皇の一般社会に対する理解の基本を、鉄舟が御酒宴を付き合うことによって御奏上したことになったはずである。全く生きた世界が違う同士であったが故に、鉄舟の御奏上が明治天皇の心身に入っていったと思う。このことを江藤淳氏が「扶育係」と表現した真の意義と考えたい。単に「武士的になっていただかなければいけない」という意味ではないと考える。

だがしかし、いくら鉄舟が明治天皇にとって、世間、巷間、俗間という世上を知る格好の相手であったとしても、それだけでは偉大で賢明であられた明治天皇は納得しなかったであろう。京都の朝廷内で古典的な教養、有識故実とか、敷島の道、その他いろいろと学んでおられたのであるから、単なる下世話的な会話のみでは好まない。そこには天皇として、為政者として、何かあるべき姿への参考となり、得るべきものが存在していなければ、いくら酒豪であっても御酒宴のお相手は続かなかったであろう。

その明治天皇がお持ちになれず、鉄舟が持ち得ていたもの。それは何か・・・。

前号でお伝えしたように、鉄舟が二十三歳のときに一人で創りあげた「宇宙と人間」、それは「民主主義ともいえる概念」であって、今の時代に生きている人間には当たり前で何ら不思議はない。

だが、ただの一度も外国に行っておらず、勝海舟が咸臨丸でアメリカ・サンフランシスコに向かった万延元年(1860)より二年前の安政五年(1858)五月、これは安政の大獄は九月であるからその四ヶ月前に、独りで「宇宙と人間」図を創りあげていること、それは、鉄舟という人間が只者でないこと証明している。

その只者でない鉄舟が持ち得ていた「民主主義ともいえる概念」を基盤に発する鉄舟との御酒宴内容は、明治天皇にとってはこれからの時代を見通す新しい思想を感じられる場であり、驚きであり、新鮮な感覚であったと推察される。それらが重なって鉄舟が明治天皇に評価され、受け入れられたのではないかと考えたい。

さらに、鉄舟が「宇宙と人間」として図表化できたのは、物事を整理する力量があることを示している。しかし、注意したいのは、ここで言う整理する力とは、一般的な意味での整理力ではない。社会から発する物事の基礎的な分野から、組み立てていけるという意味での整理力である。

社会は矛盾だらけである。矛盾を呑み込まなければ生きていけない。だから、多くの人は矛盾を呑み込むことをよしとする世界に行く。

ところが、鉄舟という人間は違った。社会の矛盾をとことんまで突き詰めること、矛盾を乗り越えるというよりは、矛盾の中へ忍び込み、矛盾の向こうに突き抜けてしまうということを鉄舟はしたに違いない。

黙って矛盾という大海原の中に身を投げ出し、その海底から這いずり上がる過程で、「宇宙と人間」という思想体系を創りだし、加えて、鉄舟が持つ本来の稚気とも独特の義勇ともいえる人間的魅力をも引き出したこと、それを整理力と表現したいのであるが、その結果として、明治天皇からもっとも親しい人物として受け入れられたのだと考えたい。

さて今回は、どうしてそのような只者でない思想を明瞭に体系化でき、どうしてそのような独特とも考えられる魅力的な人間力になれたのか。その解明をしたいと思って検討しているのであるが、その解明にはもう少し鉄舟の子ども時代を検討しないと難しい。

鉄舟が十五歳の正月、次のように修身二十則を認めた。

(修身二十則)
1. うそはいふ可からず候
2. 君の御恩は忘る可からず候
3. 父母の御恩は忘る可からず候
4. 師の御恩は忘る可からず候
5. 人の御恩は忘る可からず候
6. 神仏並に長者を粗末にす可からず候
7. 幼者をあなどる可からず候
8. 己れに心よかざることは、他人に求む可からず候
9. 腹を立つるは、道にあらず候
10. 何事も不幸を喜ぶ可からず候
11. 力の及ぶ限りは、善き方につくす可く候
12. 他をかへりみずして、自分の好き事ばかりす可からず候
13. 食するたびに、かしょくのかんなんを思ふ可し、すべて草木土石にても、粗末にす可からず候
14. 殊更に着物をかざり、或はうはべをつくらふものは、心ににごりあるものと心得可く候
15. 礼儀を乱る可からず候
16. 何時何人に接するも、客人に接する様に心得可く候
17. 己の知らざる事は、何人にてもならふ可く候
18. 名利の為に、学問技芸す可からず候
19. 人にはすべて能不能あり、いちがいに人をすて、或はわらふ可からず候
20. 己の善行をほこりがほに人に知らしむ可からず、すべて我が心に恥ぢざるに務む可く候

 嘉永三年庚戌正月 行年十五歳の春謹記
                        小野鉄太郎

この修身二十則を認めた嘉永三年(千八百五十)十五歳の年は、鉄舟にとっていろいろと記念すべき年であった。

まず、正月に今の成人式に当たる元服を迎え、この年に書の師匠である岩佐一定から弘法大使入木道五十二世を伝承され、さらに父の小野朝右衛門高幅の代理として伊勢神宮参拝し、この旅で二人のすぐれた人物、藤本鉄石からは林子平(1738-93)の「海国兵談」の写本を借り読み写し、当時の先端的国際情勢をつかみ、もう一人は伊勢神宮神主の子であって、歌学、律令、有職故実に通じ、特に古典の考証にすぐれ多数の著述を残している足代弘訓から、国学思想を学んだ。

このように十五歳という嘉永三年は、その後の鉄舟に大きな影響を与える特記的事項が続いた。しかし、弘法大使入木道五十二世を伝承しようとも、藤本鉄石や足代弘訓から学ぼうとも、それを受け入れる体制が鉄舟に備わっていなければ、焼け石に水であり、猫に小判である。いくら型が与えられても、また、教えられても、受け入れる側の対応力が不十分であれば糠に釘である。

だが、鉄舟は違った。この十五歳の正月に認めた修身二十則をじっくり読んでいただきたい。何ら奇抜なことはなく、平凡ともいえる内容であるが、平凡であるがゆえに全く異常ともいえる並外れたものである。

利得や享楽を求める現代人の多くの人たちにとっては、信じられない項目ばかりである。一つひとつを解説する必要はないと思う。一読すれば理解できる内容である。しかしながら、このような心得とも戒律ともいえるものを定める人はいると思うが、それを実行している人が存在しているかどうか。実行することはかなり難しい。しかし、鉄舟はこれを自ら認めると同時に実践したのである。

また、十五歳の少年が元服という記念の日に認めたということ、それはそれ以前から思想としてこのような精神と道徳感を持ち合わせていて、それを純粋に自らが行動する規範原則として整理できる能力を所有していたことを示している。

中でも、己の知らざるは何人からも学べと言い、名利のために学問技芸すべからずと諌め、人にはすべて能不能あるので差別するなと説き、わが善行を誇らず、わが心に恥じざるよう務めろとあるが、これは既に立派な大人であって、賢者ともいえるレベルの精神状態に達していて、とても十五歳の少年が書き示したものとは思えない。

人間の出来がもともと違うのだ、といってしまえば終わりである。何ら鉄舟から学ぶことができない結果になる。鉄舟ほどにはなれないけれども、鉄舟がどうしてこのような精神の高貴さを持ちえたのか。その本質的なところを解明しなければならないと思う。

そのヒントに考えられるのは「無私」の精神ではないかと思う。鉄舟は「無私」を自己研鑽の最高の徳目にしていたのではないかと考えたい。

その「無私」の精神を支えるには条件があるだろう。

その一つの条件は「真実を判断する力」ではないだろうか。様々な情報が目の前を通っていくのであるが、知的に自由な曇りなき目を持った柔軟な精神でないと真実は見ることができないはずである。歪んだ立場からの判断は真実を見つけられないのである。

もう一つは「徹底的に強靭な思想」を持つことではないだろうか。いかなる困難に出会い、その困難がどれだけ長く続いても、絶対に絶望しないで戦い抜くという意志を思想として持つこと。この強靭な思想を持っていないと、問題が発生するとすぐに逃げる道に向っていくことになってしまう。

この「真実を判断する力」と「徹底的に強靭な思想」を両立させることは、相当に難しいことである。並みの人間にはできないことであろう。

逆に言えば、この二つの条件を達成させようとするためには、その人の根本に「無私」の精神が存在していないとできないはずだろう。

そのことを鉄舟は十五歳までの人生体験から整理したのである。

しかしながら、この検討で鉄舟の並外れた人間力を解明したことには到底なり得ない。

次回も鉄舟のすごさについて、さらに思想面から検討を深めていきたい。

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2007年10月11日

二十三歳でつくった思想体系「宇宙と人間」

二十三歳でつくった思想体系「宇宙と人間」
        山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

飛騨高山から江戸に戻った十七歳の鉄舟、五人の弟たちを持参金付で養子に出し、自らは槍術の師・山岡静山の急死に伴って、二十歳のときに山岡家の養子に入り、山岡静山の妹・英子と結婚。

二十一歳のときに幕府講武所の世話役となり、二十四歳のときに清河八郎との出会いから尊皇攘夷党「虎尾の会」の発起人となり、清川八郎献策による浪士隊を募集・結成し上席浪士取締役として京に向かい、在京二十日で江戸に戻り、清河八郎暗殺後に閉門を命じられ、閉門が解かれた後は幕末の風雲事に関係せず、剣・禅の修業に明け暮れていた。三十三歳のとき、突如、徳川慶喜から命を受け、西郷隆盛を駿府に訪ね交渉、江戸無血開城を説得・納得させ、明治維新への道を開いたのであった。その後は明治天皇の侍従とし、多くの課題を解決し、四十五歳のときに大悟し、明治時代において、国民からもっとも慕われ敬愛された人物となった。

これが飛騨高山から戻った後の鉄舟の軌跡である。

人は自らの人生に節目を持っている。そのときは分からないが、後から考えると「あのときが節目だった」と思うときがある。

鉄舟の人生の節目はどうであったのか。鉄舟研究者として名高い大森曹玄氏は、鉄舟の節目を次のように解説している。
「鉄舟の生涯の“節”ともいうべきものを考えれば、まず十七歳にして父を失ったときがその第一節、二十四歳にして尊皇攘夷党を結成したのが第二節、三十三歳にして駿府に使いをした頃からが第三節、四十五歳の大悟が第四節、しかして四十九歳で庭の草花を見て機を忘じたのが第五節完成期、はなはだ大胆な分け方だが、このように見ていいのではないかとおもう」(山岡鉄舟 春秋社)

この中で「四十九歳で庭の草花を見て機を忘じたのが第五節完成期」とあるところ、ここは少し解説を加えないと分からないと思う。鉄舟は一時、色情修行という放蕩生活を続けたことがあった。これについては後日詳しく述べたいと思うが、鉄舟は自らの色情修行について次のように語っている。
「自分は二十一歳のときから色情を疑い、爾来三十年、婦人に接すること無数。その間、実に言語に絶する苦辛をなめた。例の“両刃、鋒を交えて”の句に徹して、一切処において物我不二の境涯を失わなかったのは四十五歳であったが、仔細に点検すると、その頃にはまだ毫末ほど男女間の習気が残っていた。それが四十九歳の春、ある日、庭の草花を見て、忽然として我れを忘じたが、それ以来、生死の根本を截断することができた」(山岡鉄舟 春秋社 原出典『全生庵記録抜粋』)

また、ここで述べている色情について、弟の飛馬吉の質問「色情なんて年をとれば誰でも自然になくなりますよ」に対して「馬鹿なことをいうな。お前のいう“色情”とは、肉体的欲望、性欲のことだ。そんなものならおれは三十の頃から、心を動かさなかった。しかし、男女という差別の観念が、根こそぎなくならなければ、ほんものではない」(同書)と答え、大森曹玄氏が次のように解説を加えている。「鉄舟のいわゆる“色情修行”とは、一切の相対的分別の根本ともいうべき、男女相対の念を超越することである。そして生死から自由になることをいうのである」と。(同書)

さて、大森曹玄氏は鉄舟が五つの節目を持っていたという解釈であるが、これとは別の見解を検討してみたい。その検討ポイントは「人の思考力であり思想」である。

人は必ず脳細胞の指示によって行動している。意識していないときの行動は潜在意識によって、意識しているときの行動は顕在意識で行動する。また、人の性格というものは、生まれた幼少期から子ども時代に形成されていく。親からの影響が一番大きいと思われるが、幼少期・子ども時代に接する相手からの影響によって自己が養成されていき、これが潜在意識として人の脳の中に組み込まれ、それが思考・思想として、その後の人生の節目としての結果行動に顕れていく。

鉄舟の潜在意識も、幼少期から子ども時代に形成されていった。旗本六百石の武家であり飛騨高山代官の父と、「家刀自」の母に庇護された恵まれた家庭で育ち、さらに、親の代参でお伊勢参りに行き、そこで出会った藤本鉄石と足代弘訓によって、時代の先端思想にも触れることが出来た。この環境下でたくましい身体と明るい人柄と、研ぎすまされた時代感覚が醸成されていった。

しかし、突然に襲ってきた両親の相次ぐ死と、残された幼い弟達の世話に明け暮れた苦闘、それらの幸不幸がすべて混在しあって、鉄舟のDNAを構成し、潜在意識に影響していったはずである。

だが、このようなことは、体験する内容の質と事の大小はあっても、すべての人が幼少期を通過し、子ども時代を過ごして成長していくのであるから、同様のプロセスを経てDNAを構成し、潜在意識に影響されていくので、当たり前の経過である。

ところが、鉄舟が通常の人間と異なるところがある。それはこの幼少期から子ども時代に形成された潜在意識の中味を、思想として顕在化し体系化したことである。

一般の人々は、自分がどのような性格であり、どのようなDNAであるか、それに興味を持って何らかの方法で知ろうとし、仮に知ったとしてもそれを自分の思想、この思想とは自らの行動の基本とすべき原理原則のことであるが、ここまで自らの内部を整理する人は殆どいない。だが、鉄舟は二十三歳の若さで行ったのである。

それは結婚し、幕府講武所の世話役となり、清河八郎との出会う一年前の安政五年(1858)五月であるが、鉄舟は一つの思想体系を創りあげた。
それが「宇宙と人間」である。

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 図の後に次の言葉が続く。
「凡皇国に生を亨けたるものは、須く皇国の皇国たる所以を知らざるべからず。余謹んで皇史を案ずるに、蓋し本邦の天子は萬世一統にして、臣庶は各自世々禄位を襲ひ、君主庶民を撫育して以て祖業を継ぎ、忠孝を以て君父に事へ、君民一體忠孝一揆なるは、独り我が皇国にあらざるか。是れ余が昼夜研究を要するところにして他日其極致に達せんことを期す。図の如く、唯だ我の感ずる所を署すと雖も、敢て他人に示すものあらず。これ自ら戒むるの目標のみ。図の如く宇宙の道理を系統して図解するに當り、我窃に思ひらく、抑も人の此の世に在るや各其執る所の職責種々なりと雖も、其務むる所の業にして、上下尊卑の別あるに非ず。本来人々に善悪の差あるにもあらず、人間済世の要として、一段の秩序あるのみ。されば何人によらず各本来の性を明め、生死の何者たるを悟り、旁吾人現在社会の秩序に随い、生死を忘れて、其職責を盡すべきなり。其責を盡すは則ち、天地自然の道によるものにして苟くも逆らふべからざるものとす。若し斯道に逆らふ事あらば、自業自得の罰苦に陥るも、亦是れ自然の理なり。よくよく慎む可き事乎。
  安政五年戊午夏五月五日認     山岡鐵太郎 行年二十三歳」


これを書いた年は安政の大獄と同じ年であるが、安政の大獄は九月であるからその四ヶ月前である。図では最初に「宇宙界」という言葉を持ってきている。だが、当時の人間で、まして封建社会の武士階級身分の人物が、「宇宙」という今でも新しい響きを持たせる言葉を使っていることに驚きを禁じえない。

加えて、この図に徳川幕府という表現がないことにも、徳川家の旗本である立場からは奇異で斬新で、とうてい考えられないことである。
更に、日本国を「公卿」「部門」「神官、僧侶、諸学者等」「農、工、商、民」と四区分しながらも、その区分間に身分差なく、公平に並べ扱っていることにも驚く。「上下尊卑の別あるに非ず」、つまり、人間に本来貴賎の別はないことを明言しているが、これは民主主義の原点思想であり、これを当時二十三歳の下級一旗本が述べていることをどのように理解したらよいのだろうか。多分、民主主義という言葉と内容は、まだ日本には伝わっていなかったと思われる時代に、既に鉄舟は図に記しているのである。驚くばかりである。

ここで、当時の対外国との関係を振り返ってみたい。

勝海舟が咸臨丸でアメリカ・サンフランシスコに向かったのは万延元年(1860)である。鉄舟が密に「宇宙と人間」を図に描いた二年後のことである。
その海舟は、アメリカで何を一番学んだか。それは帰ってから各地で多く発言している内容から分かる。それはアメリカ初代大統領、ジョージ・ワシントンのことである。

当時の日本人が持つ常識感覚では、ジョージ・ワシントンは日本でいえば初代幕府将軍徳川家康にあたった。つまり、江戸時代の幕府が奉った「神君家康公」である。

この神君にあたるジョージ・ワシントンの子孫について、海舟は当然に尋ねた。何故、当たり前のごとく、子孫のことを聞いたのか。それは家康の子どもである秀忠は二代将軍、その子の家光は三代将軍と続いたように世襲制度が常識であるから、当然にジョージ・ワシントンの子孫も大統領とはいわないまでも、何かの重要な立場か役職に就いていると思って、当たり前の質問をしたわけである。

ところが、回答は「そんなことは誰も知らない」という事実にビックリ仰天した。上院議員にも聞いたところ「たしか女の子がいたが、いまはどこでどうしているか知らない」という。加えて、大統領は四年で交替する制度であることも知って、これはいったいどうなっているのか。大統領と徳川幕府将軍とはどのように違うのか。それらの政治的基盤構造が、咸臨丸の一行にはなかなか理解できなかった。

しかし、海舟はジョージ・ワシントンの子孫に対する回答を聞いたとき、一瞬にして「これが民主主義だ」と理解したのであった。ここが海舟の鋭さであり、幕末時に海舟のような国際的感覚人がいなかったならば、明治維新は違った方向に向ったと思われる所以である。

この海舟は、横井小楠を高く評価している。氷川清話に「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南州とだ」(勝海舟全集21 講談社)と述べている。その高い評価の始まり原点は、小楠にアメリカ大統領選挙と初代ジョージ・ワシントンの話をした際「それは尭舜の世ですな」一瞬にして答えたことからであった。

尭、舜とは、中国古代の聖天子。尭帝は朝廷の門前に鼓をおいて、もし自分の政治にあやまちがあれば、人民にいさめの鼓を打たせ、また舜帝は門前に木(板)を立てておいてそれに諫めの言葉を書かせたという故事、つまり、国民に対して民主的な政治を行ったのが尭舜であるが、この古事を持ち出してアメリカを理解したわけである。

小楠は一度も外国に行ったことがなく、素養の原点は漢学一辺倒であったが、今までに全く関係なく知らなかった別の国の政治体制実態を聞いて、一瞬にしてそれを別の事例に飛躍し理解できるという、その頭脳を海舟は高く評価したわけである。

しかし、小楠は海舟というアメリカ帰りの博学者と会えたことで、民主主義という実態を聞くことができ理解したのであるが、外国へ一度も行けないレベルの環境下にあった鉄舟が、身近に海舟のような外国に詳しい人物が存在しない中で、それも海舟がアメリカへ向かう二年前に、二十三歳の若さで「民主主義ともいえる概念」を整理していたという事実、これは鉄舟の只者でないことを示している。

その只者でないことは「宇宙と人間」で図示したことの背景、それはこのような思想体系を自らの過去経験の集積化から整理し作り上げる、つまり、幼少期から子ども時代に形成された潜在意識の中味を、思想として整理したことである。

ではどのようにして、潜在意識の中味を思想として整理できたのか。それは二十三歳以前の鉄舟が持った思想の節目を更に検討しないと分からない。次回に検討してみたい。

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2007年09月12日

弟たちの世話に明け暮れる

  弟たちの世話に明け暮れる
    山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

嘉永五年(1853)七月、鉄太郎(鉄舟)は両親の相次ぐ死で、飛騨高山から江戸に戻った。戻った先は異母兄の小野鶴次郎(古風)の屋敷であり、鉄太郎の後ろに五人の弟が連なっていた。金五郎、忠福、駒之助、飛馬吉、それと末弟の務は二歳の乳飲み子であった。

異母兄である小野鶴次郎の屋敷は、元治元年(1864)の江戸切絵図に掲載されている。当時の歩兵屯所の跡地が現在の靖国神社、その青銅の大鳥居の北側に九段高校、白百合学園があり、その奥に衆議院議員宿舎があるが、その中間あたりに鶴次郎の屋敷があって、今の住所は千代田区富士見二丁目である。なお、このあたりは旗本屋敷が多く、年々歳々役職が変わっていくので、そのたびに移転が多く、切絵図は度々改変されている。因みに安政三年(1856)の切絵図を見ると、同所は小野朝右衛門で六百石となっていて、切絵図の記載から鶴次郎が小野家を継いだことが分かる。

この鶴次郎について鉄舟宅の内弟子として、晩年の鉄舟の食事の給仕や身の回りの世話などを、取り仕切っていた小倉鉄樹の著書「『おれの師匠』島津書房」に

「異母兄小野古風は凡庸の資で、取り立てて云ふほどのこともない。晩年には師匠(注 鉄舟)の人格に深く傾倒して、弟を『先生、先生』と呼んでいた程の好人物であったが、飛騨から多勢押しかけた事については、お互いの不幸を嘆く前に一方ならず迷惑視したらしく、冷やかな待遇を興へてゐる。末弟の務は生後僅かに二歳で、しきりに乳を求めるので、鐵舟は兄に乳母を雇って貰い度いと懇願したが、とんと取りあっては呉れなかった。仕方がないので、鐵舟は務をいだいて、近所に貰ひ乳をしてあるき、夜は重湯に蜜をといで、枕邊にあたためて置き、毎夜自分が添寝をして育てたと云ふことである。十七歳の若年鐵舟を鍛錬したものは決して剣禪のみでなく、幸福なるべき六百石の若殿は、早くも浮世の辛酸と雄々しくも戰闘を開始して、不退轉の心情を陶冶してゐたのである」
とある。

飛騨高山では乳母がいたので末弟務の世話はしなくてすんだが、江戸に戻ってからは何から何まで鉄太郎が面倒を見なければならない。次弟の金五郎ではまだ赤ん坊の面倒は無理である。乳母も雇ってもらえず、鉄太郎が一切の子育てをしたのであるが、これはなかなか十七歳の少年に出来ることではない。

父母を失うという已む得ない事情と、鶴次郎から冷たい待遇を受けながらも、鉄太郎は必死に弟たちの面倒を見て江戸での生活をスタートさせたのであった。このようなことを通じ後年の鉄舟人間の基礎が出来ていったのである。

さて、父小野朝右衛門の死については、巷間自刃説が伝わっていると前回お伝えした。小倉鉄樹の著書「『おれの師匠』島津書房」には次のように記されている。

「小野郡代の急死については當時色々の取沙汰があったが、朝右衛門が盛んに武道を奨勵し、幾度か陣立を行った爲に、幕府にうたがはれ、遂に違法として咎を受け、自刃したと云ふ説がある」しかし、この後に「然し師匠自身は『父は脳溢血で死んだのだ』と言われている。發喪せられたのは死後四ヶ月もすぎた六月五日で、其の時の廻状等今も残っている」とも記しているので、前号では脳溢血による病死と解説した。

だが、以上は正史の類であり、小野朝右衛門の死については、不審な異説がある旨の主張を、小島英煕著「山岡鉄舟」(日本経済新聞社)で展開しているので、その概要をお伝えしたい。

「異説の主張者は鉄舟の血筋という成川勇治氏である。成川勇治氏は、鉄舟にほれ込んで、弟子入りした人物の成川忠次郎の孫である。孫となる経緯は、鉄舟の長男山岡直記、この人物は鉄舟の子どもと思えない出来の悪い存在だったが、その直記の子どもである武男を、事情あって成川忠次郎が引取り育て、忠次郎の長男精一の娘と結婚させ、生れたのが勇治氏であるから、確かに鉄舟の血筋を引いている。この勇治氏が、やはり山岡直記の娘であるきくの孫と結婚している。鉄舟の血筋を守ろうとした武男の考えであったという」

この武男の祖母にあたる、鉄舟の長女松子から聞かされた話として、以下の記述が同書にあるのでそのまま紹介したい。

「鉄舟は彼女(注 松子)に『小野家が郡代の時、うちに竹矢来を組まれ、父は蟄居、切腹させられたのだ』と語っていた。しかも、母の磯は幕府隠密の手によって毒殺されたという。小倉鉄樹の語った噂を松子は真実として話したことになる。
勇治氏の話をまとめれば、当時、高福(注 朝右衛門)には謀反の疑いがあった。幕府に無断で陣立を実行したからだ。小野家では毎年、近在の農家に行って、栗粥を食べる行事があった。この時、農家の者が幕吏に脅迫されて粥に毒を入れて、みせしめのために磯を殺した。これによって磯の三千両蓄積疑惑が浮かんだ。高福も一連の責めを負い、切腹させられた。
それが喪を長く伏せた理由であり、その間に疑惑は晴れた、ということらしい。小野家は断絶せず、鉄舟の異母兄の鶴次郎が相続したからだ」

このように小島英煕著「山岡鉄舟」に書かれているが、これは鉄舟の血筋という成川勇治氏へのインタビュー結果からである。成川勇治氏は高山まで行き、いろいろ調べたが誰からも相手にされずに、結局、嫌気がさして小島英煕氏に語るまで沈黙してきたという。

だが、これが真実だとしたら、鉄舟が江戸無血開城に動いた幕府への忠誠心と、この両親の不審死よる幕府への葛藤心理、それらをどのように内面的に調整していったのか。母が毒殺され、父が切腹させられたことへの屈折した感覚、それが鉄舟の幕府不信へとつながる可能性は大きいと思うが、鉄舟は慶喜を助け、結果として江戸無血開城を成し遂げている。自らの深い心の陰影を押し殺し、それを超え、鉄舟は江戸無血開城に動いたことになる。成川勇治氏の発言は重い意味を持っている。

なお、この成川勇治氏とは、数年前に埼玉県小川町でお会いしたことがあるが、その際にこのような内容について、何もお話しがなかったことを記憶している。

成川勇治氏は、鉄舟の長男山岡直記の三男武男を父としている。山岡直記が武男を成川忠次郎の養子に出したから、成川勇治氏が生れたのである。

山岡直記の評判はいたって悪い。いずれ詳述することになると思うが、勝海舟も明治三十一年十月二十三日に「山岡にもよわるよ。母(山岡未亡人英子)の方へは、月に百円ずつ、千駄ヶ谷(徳川宗家)から出るが、直記はワシの方に来て困るよ。モウ切ってあるのだが、まだ来て困るよ」(『海舟座談』岩波文庫)と述べているほどである。また、事件を起こし鉄舟が受けた爵位も取り上げられ、生活に困窮したようで、その結果、子どもを養子に出したのであり、その一人が武男であった。

山岡直記については記録があまり残っていないし、関係者の間では禁句になっているようで、実際の姿は不明であるが、偉大な鉄舟の子息としては残念ながら不出来の人間である。どうして鉄舟のような親から直記のような「山岡家を潰した」人物が生れたのか。

鉄舟の生き様を研究している者として、ずっと疑問に思っている大きな問題点の一つであるが、最近、ふと手にした河合隼雄著「『影の現象学』講談社学術文庫」に次の内容があった。

「宗教家、教育者といわれる人で、他人から聖人、君子のように思われている人の子供が手のつけられない放蕩息子であったり、犯罪者であったりする場合が、それである。世間の人はどうして親子でありながら、あれほど性質が異なるのか、といぶかったりも息子の親不孝ぶりをなじったりする。あるいは、聖人、君子と言われていても案外子供には冷たいのではないかとか、親子関係の悪さを勘ぐったりする。しかし、これはそのような次元では了解できないことであり、たとえ、親子関係に一般的な意味での問題がないとしても、親の「影のない」生き方自身に、子供の肩代わりの現象を呼び起こす力が存在しているのである。一般に信じられているように、親が悪いから子供が悪くなるという図式で了解されるような場合は、治療も簡単である。しかし、いわば親が良いために子供が悪くなっているとでも言うべきときは、治療はなかなか難しいのである」

鉄舟の長男である山岡直記は、この河合隼雄氏の見解に該当するのではないかと思っている。人間はなかなか難しいものである。

両親を失った鉄太郎の手許には三千五百両というお金があった。父母が遺してくれた財産であった。この三千五百両について、いろいろの試算計算結果から、今のお金に換算して大金であることは前号で述べた。

このような大金をどうやって蓄財したのか。母磯の死が三千両蓄積疑惑に絡んだものであり、後日疑惑が解けたにせよ、大金蓄財が疑問視されたと成川勇治氏が指摘している。
しかし「磯の父である塚原石見の遺産に加えて、日々の生活を切り詰めて貯めたものだ」という見解もある。(佐藤寛著「山岡鉄舟 幕末・維新の仕事人」光文社新書)

ここで江戸時代の代官の収入についてみてみたい。

「郡代、代官はその家禄を有するわけですが、代官の職務を行うための属僚の手当ておよび役所の諸入費に当てるため、はじめ口米や口永と称して、年貢の中より徴収していたが、享保十年(1725)には、口米や口永は幕府の収入とし、代官にはその支配高に応じて、一定の米金を給することにした。支配高五万石につき米は七十人扶持、金は西国が七百五十両、中国が六百七十両、その他の地方では六百両でした」(石井良助著「江戸時代漫筆」井上書房)とあるように、飛騨高山代官所は石高十万石を超えていたので、普通の代官所の倍の手当てを受けていたはずで、約七年もの代官所郡代としての期間、収入を大事に節約していけば、三千五百両の貯金はそれほど無理なく貯まると思われるので、不正蓄財ではなかったと考える。

ところで、江戸に戻った鉄太郎は弟たちの世話に明け暮れていたが、それを見かねた剣道師範の井上清虎は弟たちを養子に出すことを勧めた。

井上清虎は千葉周作の玄武館道場の四天王として名声があり、その井上清虎を小野朝右衛門が飛騨高山に迎え、鉄太郎の指導者となったのであるが、この井上によって鉄太郎の剣が一段と伸び、その後も二人の間は信頼の関係でつながっていて、鉄太郎の育児苦労に対する救いの手段として養子を勧めたのであった。

当時の旗本・御家人は生活に困窮している者が多く、身元確かで多額の持参金のある子どもは、引き取り手が多く、五人の弟に各五百両をもって養子に出し、鉄太郎は百両だけ手許に置き、残りすべてを小野鶴次郎に渡して三千五百両を整理したのであった。

鉄太郎のもとに残した百両は、自らが貧乏な山岡家に養子に行くに当たっての持参金としたのであったが、ここに金銭に恬淡として生きた鉄舟の人柄が顕れている。

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2007年08月06日

父の死と遺された三千五百両

父の死と遺された三千五百両
 山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

鉄太郎(鉄舟)に両親の死が突然、訪れた。16歳の時、母磯の死、その五ヵ月後に父小野朝右衛門の死、相次ぐ両親の死は鉄太郎のもとに五人の弟の養育という任務を残した。その時、末弟の務は二歳であった。まだ乳飲み子である。

ここで特筆すべきことは、父である小野朝右衛門が亡くなった年齢、それが七十九歳であったということである。飛騨高山代官所の郡代である人物の年齢が七十九歳という事実、そのことに驚きを禁じえない。七十九歳まで現役の代官であったということは、江戸時代の人材登用には定年制度というものが無かった、ということを示している。

小野朝右衛門は蔵前で御蔵奉行として六百石取りの旗本から、飛騨高山代官として赴任したのであるが、そのときすでに七十二歳であった。

この七十二歳という小野朝右衛門の事例は特別であったのであろうか。一例をもってすべてを判断することは危険である。

そこで、江戸時代の代官について研究した資料から見てみたい。資料は法政大学講師の西沢敦男氏による「徳川幕府のサラリーマン」(日経新聞2002年3月5日)である。これは「江戸の転勤族、代官の悲劇」と題して、代官の実態を分析したものであるが、まずは代官の実態についていろいろ説明しているのでご紹介したい。

これによると江戸自体に代官は1183人。代官を配置したところは政治的に重要な都市、軍事や交通の要衝、鉱山に天領を置き、四十七カ国に配置し、総石高は約四百万国。代官が執務する陣屋は、江戸中期には東北の尾花沢から九州の冨高まで六十三カ所あった。代官の一カ所の平均在任期間は六年、異動は二から三回。

現在の財務省にあたる勘定所に所属し派遣された。派遣先の地元では「殿様」と呼ばれる身分であったが、一般的に代官の幕府内での地位は低かった。だが、無事勤め上げれば江戸での出世が待っていた。

派遣元の勘定奉行まで上り詰めたのは、江戸後期天明年間の久保田十左衛門政邦ら四人いた。長崎、境、函館などの遠国奉行に昇進した者も八人いる。幕末の竹垣三右衛門直道は代官から皇女和宮の用人になって明治維新を迎えた事例もある。

勿論、このような昇進組は三分の一以下で、病気や老齢で依願免職となった者が二十二%、自分や部下の失態で罷免、遠島、追放になったのは十二%おり、三十八%は在任中に死亡した。鉄太郎の父小野朝右衛門も在任中に亡くなっているが、一般的になかなか厳しい仕事であったことが伺われる。

さらに、代官と聞くとテレビの影響で、悪徳商人と結託した悪代官をイメージする人も多いが、実際には代官を恩人として顕彰した碑が残っているところが少なくない。例えば長野県須坂町で慶応二年(1866)まで代官だった甘利八衛門為徳を「甘利社」として祀っている。

さて、小野朝右衛門が亡くなった七十九歳の年齢、この年齢まで代官として現職であった事例は特別なのかということであるが、勿論、七十九歳は当時では相当の高高齢であったので、通常でないことは容易に推測つく。しかし、江戸中期の平岡彦兵衛良寛は元文元年(1736)の美作代官を皮切りに、駿河代官まで九カ所を勤め上げ、最後に退任したのは寛政元年(1789)で、この時の年齢は喜寿の七十七歳であった。この平岡彦兵衛良寛が西沢敦男氏調査で、最高転勤回数人物として記録に残っているが、喜寿で退任した事実から、小野朝右衛門に近い高齢者代官が存在したことを証明している。

という事実は何を意味しているのか。当時でも周りには若い旗本が大勢いたはずであるが、その中で高齢者に重要拠点である代官所の行政責任を任せるということ、それは年齢によって人を差別せず、人物本位の人事が行われていたということを証明している。江戸時代には定年制度が存在していなかったのである。能力があっても年齢で統一的に第一線を退去させるという現代の定年制度を、改めて疑問視させる。

さらに、鉄太郎の父小野朝右衛門について驚くことがある。それは鉄太郎が誕生した時の小野朝右衛門の年齢である。六十三歳である。母磯が三番目の妻であって、二十六歳という若さで鉄太郎を産み、それから五人も男子を産んでいる。母磯がいくら若いといっても、父小野朝右衛門が七十七歳の時に末弟の務が生まれているのであるから、そのエネルギーには驚かされる。

またさらに驚くのは、母磯と結婚した時の父小野朝右衛門の年齢が、現代の定年年齢である六十歳を過ぎていたということである。現代の通常の感覚で考えれば、六十歳以後は第二の人生ということで、生活設計を見直すことが行われるが、改めて定年を機会に結婚する人は殆ど見当たらない。

しかし、父小野朝右衛門は、小野家所領地の管理を塚原石見に依頼していた関係で、塚原家の娘である磯を見初め、結婚を申し入れしたのである。六百石取の旗本であっても、六十歳過ぎの男と三十歳以上離れた若い娘の磯との結婚は難しく、結婚するに当たって「生涯不自由はさせない。倅の代になっても粗略にすることはないことを申し渡す」という念書が交わされたという。それだけ魅了した磯であったのであろう。


しかし、それだけエネルギッシュな父小野朝右衛門にも死は訪れる。亡くなったのは黄疸とも、脳溢血とも言われ、その唐突な死に自刃説も流れた。

だが、七十七歳で鉄太郎の末弟の務をもうけるほどの小野朝右衛門が、簡単に病気で亡くなるはずがないと思う。死因は病気であってもそこにいく着くプロセスに何らかの理由があったはずである。そうでなければ六人もの子ども、それも乳飲み子まで残している状況では、この子が育つまでは何とか元気で生きよう、と思うのが通常の父親の感覚だろう。

しかし、父小野朝右衛門は母磯の死後五ヶ月で急死してしまった。七十歳を過ぎてから重要拠点である飛騨高山代官所を任せられるほどの人物であるのに、あまりにもあっけない。何かの事情があるはずで、このところから自刃説が言われているのであるが、鉄舟は後年「父は脳溢血で死んだのだ」(『おれの師匠』小倉鉄樹 島津書房)と語っているのであるから、やはり病気で亡くなったのだろう。

とすると元気であった人が突然亡くなるには、何らかの心的な要因があるはずである。それは妻磯の死であったと思う。前号で分析したように磯は「家刀自」であった。家刀自とは久しく聞かない言葉であるが、代官としての夫小野朝右衛門の行政内容には口は挟まないが、肝心なところは家刀自として配慮し支援し、子供の教育にも熱心に情熱を傾ける。家庭内の雰囲気醸成と責任行動分配権限が、実は母であり主婦である磯にあり、実体的な家庭運営者は磯だった。つまり、人が日々の暮らしを生きるというその生活の中枢に、女性が位置しているという、伝統世界の女性の力を代表することを「家刀自」と言うのであるが、これが飛騨高山代官の小野家の実態だった。

その家庭運営の統率者であって統率者であって責任者であった母磯の突然の死、その打撃は鉄太郎以下の兄弟よりも、父小野朝右衛門に大きな影響を与えたのである。今まで心の支えであり、相談相手であり、実質的な家庭運営者であった磯を失ったことは、高齢である朝右衛門の精神状態に厳しく圧し掛かってきた。飛騨高山代官所の行政にも情熱が湧かなくなったのであろう。それが磯に続く小野朝右衛門の突然の死の真因ではないかと思う。

精神力の衰えは身体に影響する。死期が訪れたことを知った朝右衛門は、枕元に鉄太郎以下兄弟を呼び「わしは間もなく逝く。まだ幼い弟たちをそちの任せるしかなくなったが、鉄太郎ならば立派に育ててくれるだろう」と、鉄太郎の手を握って後事を託し、大きな息を吸うと、そのまま息を引き取ったのであった。
両親を失った鉄太郎の手許には三千五百両というお金があった。父母が遺してくれた財産であった。
この三千五百両、現在の円に換算するとどのくらいになるか。それを検討してみたい。

江戸時代のお金を今の価格に当てはめるのは意外に難しい。それは、①江戸時代は金貨、銀貨、銭貨の三種類があって、それぞれが別相場となっていたからである。一つの国の中に円とドルとユーロが共存しているような関係であり、②江戸時代の前期と後期では改鋳によって品質が低下していき、貨幣価値が変動し、③飢饉の頻発があり、その都度物価が高騰し、場所や季節によって貨幣価値が変わり、④今とは経済財貨の内容が異なるので、一概に物の価格を持って換算できない等の理由であるが、それでもいろいろの方法で換算してみないと、鉄太郎が両親から受け継いだ三千五百両の価値が判明しないことになる。

そこで、いくつかの仮説前提ではあるが算出してみたい。

年代を比較的に物価が安定していた文政時代(1818~1829年)でみると、金一両=銀六十~六十五匁=銭六千五百~七千文であって、これで江戸の食べ物を基準に換算してみると一両=四~二十万円、平均をとると十二万円、労賃を基準にすると一両=二十~三十五万円、平均とると二十七万円となる。

遺産三千五百両は食べ物を基準で四億二千万円(三千五百×十二)、労賃を基準で九億四千五百万円(三千五百×二十七)となる。現在ではちょっと考えられない大金を父母が遺したことになる。

次に、貨幣の価値算定は大変難しいという前提付であるが、日銀貨幣博物館のデータを参考にしてみたい。一応の試算として江戸時代中期の米価基準で一両=約四万円、労賃基準で約三十~四十万円、そば代基準で十二~十三万円としている。ただし、米価基準による一両については、江戸時代初期で十万円、中後期で三~五万円、幕末時期で三~四千円と、時代によって大きく較差があると注記している。

この基準を基に三千五百両を計算してみると、米価基準で一億四千万円(三千五百×四)、労賃基準で十二億二千五百万円(三千五百×労賃基準の平均値三十五)、そば代基準で四億二千万円(三千五百×十二)となる。

そこで幕末時期の一両=三千円で計算してみると千五十万円となるが、これでは少なすぎると感じる。鉄太郎の父小野朝右衛門が亡くなった嘉永五年(1852)は明治維新の十六年前であり、ペリー来航(1853)の一年前であるから、幕末時期直前であるので、この千五十万円は除外して、計算した金額を高い順から整理してみると、十二億二千五百万円、九億四千五百万円、四億二千万円、一億四千万円となる。いずれにしても大金で、現代の普通のサラリーマンの退職金は足許にも及ばない金額だ。この試算結果が妥当かどうか、それは読者の判断にお任せしたい。


さて、鉄太郎には五人の弟が残され、まだ末弟は二歳の乳飲み子であったが、代官としての父の死は、飛騨高山代官所の住居を引き払う必要があった。父小野朝右衛門が亡くなったのは嘉永五年(1852)の二月で、「発喪されたのは死後四ヵ月後」(『おれの師匠』小倉鉄樹 島津書房)とあるように、鉄太郎は父小野朝右衛門の死後、何らかの理由で後片付けに時間を要し、江戸に戻ったのは七月となった。兄弟六人が身を寄せたのは、異母兄である小野鶴次郎(小野古風)の屋敷であった。

戻った江戸では、異母兄の小野鶴次郎夫婦から冷たく扱われ、二歳の末弟の乳探しと育児等、鉄太郎の奮闘・苦労が続くのであるが、鉄太郎に遺された三千五百両、今の価格で破格の金額と思われる大金は、両親がどうやって蓄財したのか、また、それを鉄太郎はどのように使ったのか。そこに鉄舟の生き様が顕れている。次回に続く

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2007年07月05日

飛騨高山の少年時代その五

飛騨高山の少年時代その五
 山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

 人の現在は過去に影響される。特に子供時代の出来事が、成人後の自分に大きく投影されることが多い。鉄舟も同じである。
鉄太郎としての少年時代を、エピソード的に前号までにお伝えしてきた。その一つは、町人百姓の子供教育施設である「寺子屋」で学んだことである。飛騨高山郡代の子息が、町方の子供と一緒に机を並べるということは、身分上、通常あり得ないのであるが、両親は周りの意を介さずに通わせた。結果的に鉄舟の民主的思考に大きな影響を与えた。


 二つ目は、書法を全く知らなかった鉄太郎が、後年、小野道風に比せられるまでになれたのは、飛騨高山で岩佐一定という書の良き師に出会え、潜在していた書の能力を開花できたからであった。

 三つ目は、宗猷寺の鐘楼の鐘を、和尚さんが「くれてやる」と言った冗談を本気で受け止め、それに対してねばりにねばった尋常でない気質。それは生来の正直一途、一本気、剛直、剛情さを正しく証明している逸話であって、当時の江戸っ子旗本気質である、気が弱くて、根気がなくて、見栄坊で、いささかニヒルという一般的評価とは、全く異なる性格の証明であった。

 四つ目は、父の代参でのお伊勢参りの旅、そこで出会った藤本鉄石によって国際情勢を、伊勢神宮神主の足代弘訓から国学思想を学ぶことができたこと。この二人との出会いは、高山という山深い小さな地域では、とても入手し難い時代の先端的思考を養うことになり、江戸無血開城という対官軍和平路線への伏線となった。

 以上が前号までお伝えした内容であるが、五つ目となる今回は両親との別れである。人は両親から受ける影響が最も大きいが、その両親が子供時代に相次いで亡くなるという事態に接すると、子供心に受ける打撃は計り知れない。

 鉄太郎にとって両親の死は突然訪れた。鉄太郎が十六歳の時、母磯が脳卒中で倒れ、その五ヶ月後父小野朝右衛門が亡くなった。

 まず、今月号では母磯について述べたい。磯は「至って丈高く色黒く気分鋭し」」(『おれの師匠』小倉鉄樹著)にあるように、頭脳鋭き長身の女性であり、飛騨高山郡代の奥方身分になっても、決しておごらず威張らず変わらずに人に接していた。陣屋での生活でも、いつも自分で身体を動かす陰日なたのない明るい性格であったので、小野朝右衛門が七十歳を超える高齢でありながら、飛騨高山郡代の重責を立派に取り仕切れたのは、磯の協力が大きかった。小野家の中心人物でもあった。

 その母が突然倒れ、言葉を交わすまもなく、亡くなったのである。嘉永四年(1851)九月のことであった。高山の秋は早く深く訪れるが、その宗猷寺の深夜、一人の少年が山門をくぐり、鐘楼の鐘を右に見ながら左に向かう。そこには高山の町を見下ろす一本の老松があった。その根元に「喬松院雪操貞顕大姉」母磯の石墓がある。それに向かう姿が鉄太郎であった。四十九日まで夜毎墓前に参り、観音経の読経と、話しかけをするのであった。その姿は当然代官所や近所の評判になった。

 鉄太郎と磯のエピソードが残っている。ある夜、母の部屋で鉄太郎は書の解釈を母に教えてもらっていた。その日は「忠孝」についてで、その出典である「孝経」の「孝を以って君に事うれば、則ち忠なり」の意味を母に問うてみた。
「忠も孝も人間の心の柱、土台石。人間として守りつとめる道。忠とは、君に正しく命がけで仕えること。孝とは、子として親を喜ばすよう正しく仕えること」。その解釈を聞いた鉄太郎は、何気なく無心で「では母上は、上様に、父上に、どのような忠孝を実践されているのですか」と反問してきた。そのとき磯は、天から咎めがあったごとく、痛烈な自分への打撃と受けとめ、鉄太郎の目を見てしばらく絶句した。そして「母は何も身につけないままでした。忠孝心の何も。鉄太郎に話せることは何もありません。まだまだ出来ていない母をゆるしておくれ」と目に涙するばかりであったという。

 磯は素晴らしい人物であったと思う。子供心から発する無心で素直な問い、それが人間の心の真理を問うものであればあるほど、答えに窮するものである。つい適当にぼやかしてしまうことになりやすい。だが、磯は違った。鉄太郎の問いに、出来ていない自分をさらけ出して正直に答えている。この磯の飾らぬ率直さが鉄太郎の中に深く入ったことは間違いない。後年の鉄舟の生き方に顕れている。この母磯の生き方を見てみると、死語に近いが「家刀自」という言葉を思い出す。

 磯は当時、特別な女性であったのだろうか。江戸時代の後期、女はどのような生き方をしていたのであろうか。磯を知るためにも、当時の女の実態を少し検討してみる必要がある。江戸の開府時に江戸には女は少なかった。男臭い街だった。それはそうだろう。天正十八年(1590)家康が江戸城を居城とし、慶長三年(1598)に江戸幕府を開くと、都市づくりのために、地方から働き手が多勢集められ、土木工事が活発に行われ始められた。殺伐な男どもの街であった。
 
 そのような江戸に女達が増え始めたのは、享保時代(1716~36)の八代将軍吉宗の時代だった。幕府開府から百年以上経って、ようやく女の比率が35%くらいになったといわれている。女が増えるということは、生活するにふさわしい街になってきたことを意味する。生活の基本は世帯として家族を持つことである。したがって、男は嫁探し、女は婿選びをすること、そこから江戸の新しい男女関係がようやく芽生え始め、そこに今までと異なった新しい女の姿が現れてきたのである。

 当時の女達の実態を知るのは結構難しい。歴史の表面に女があまり登場してこないからである。しかし、当時の女達が江戸時代の暮らしぶりを語り綴った文章がある。それは才女として名高い只野真葛の「むかしばなし」であり、今泉みねの「名ごりの夢」であり、読み本や芝居で表現された女達であるが、これらは江戸の暮らしを中心としたものであって、鉄太郎の母磯のように高山という地方生活者にはあてはまらない。そこで、地方女性の目から検討してみたい。

 それは、紀州和歌山の一隅から、静かに時代の推移を見守って、一人の主婦が綴った日記、綴り手は「川合小梅」である。小梅と磯とは、一つの共通性が存在する。

 その共通性とは何か。それは「家刀自」ということである。家刀自とは久しく聞かない言葉であるが、これについて「『江戸の娘がたり』(本田和子著)」は次のように述べている。

 「『刀自』という語は、柳田国男によれば英語のMATRONマトロン(既婚の婦人)と対比され、語の本義は独立した女性を意味するという。即ち男性の『刀禰』の対語か、とされるのである。刀禰が、官・民いずれかの有力者の総称であるとすれば、その対として、刀自もまた、権威と力を持った女性。従って、『家刀自』と呼ばれる主婦には、相応の任務と権能と、そしてそれに伴う尊敬とが付与されていたと言うのである」

 「主婦権の象徴として、杓子が挙げられるが、それは、『分配権』が彼女らの掌中にあったということ。そして、それと並んで、あるいはそれ以上に、重要であったのは、酒の分配と供与に関する権能であって、酒造りに携る者たちを『トジ(杜氏)』と呼ぶのは、女と酒の結び付きを示す名残りではないかと見るのである。神を祭り、人が集う『ハレの日』に、無くてはならぬ特別の飲みものが酒である。その醸成と分配の権限が、女性の手にある・・・。ことの真偽は別とて、柳田が強調するのは、人が日々の暮らしを生きるというその生活の中枢に、女性が位置していたというそのことであり、伝統世界の女性の力を代表するものとしての『家刀自』の姿であった」。

 さらに、この時代の特性、つまり「多くの男たちが、花に酔うことを忘れてひたすらに国事に奔走し、眦を決し肩をいからせて体制にいどんだとされるこの日々、彼女たちは、変わることのない毎日の暮しに心を砕き肉体を労した。家族の身辺を気づかい、近隣の人々との和を重んじ・・・。一ときも休むことのない家刀自の務めを、彼女たちは淡々とこなしながら、周囲に対しても時代に対しても、そのために自ずから要請される必要な目配りを怠らない」と述べている。

 その家刀自の典型例を、紀州藩儒者川合豹蔵(梅所)の妻小梅の日記から見てみたい。慶応三年(1867)十月十四日、この日は十五代将軍慶喜が朝廷に大政奉還を行い、薩長へ倒幕の蜜勅が出された日であった。日本の運命の転換日として知られているその日、小梅は次のように記している。(『江戸の娘がたり』)

 「十四日 快晴。今日雄輔引。宿のけいこ有。小梅ははり物。畳紙も二つかく。日高常吉来る。かき・みかん箱入持参。又参るとてかへる。小梅夕方障子はり抔して又風引かへし、一向気分あしく、夜大にせきくるしく、おかのは久家の丁へ行。朝がたぱらぱら。夜も時雨一しきり降」(『小梅日記』2)

 「雄輔とは当時三十四歳の長男のこと、父と同じ儒者として藩の学習館に勤務していた。『宿のけいこ』とは、川合家で開いていた家塾での稽古のことで、帰宅後の雄輔が、家塾でも教鞭を取ったという意であろう。いずれにせよ、この日川合家では、何事もなく、いつものような日常が淡々とくり広げられていたのだ。誠実に職務に精出す長男、知人からの到来ものがあり、一家の家刀自として小梅はそれを書き記す。風邪を押しての障子張りなど、女主人はそれなりに忙しい。朝と夜にしぐれがあって、秋が深まっていく」

 日本の歴史が転換した日であったが、紀州藩の一人の主婦の一日は、常と何ひとつ変らない平穏無事であった。徳川御親藩の紀州家に仕える身分でありながら、この日記を見るかぎり何事も変化がない。身のまわりにあわただしさが起こってくるのは、十日以上も経つ十月二十六日である。この日に藩士たちに総登城の触れが出された。しかし、学習館勤務の雄輔にはその知らせがなく、日記には「今日も雄輔宿にいる」と記されている。従って、川合家では、のんびりと風呂など焚いて休日を過ごしていたが、流石に城の様子が気になるらしく日記の後半には、次のように記されている。

 「惣登 城の様子。人にたづね候へ共、しかと不分。近日被。仰出有之筈。いか様の事にてもたへ忍び、先をたのしみ、こゞと不申様にとの事よし」(『小梅日記』2)
総登城した藩士たちに何が起こったのか。何が伝達されたのか。人に聞いても「しかと不分(わからず)」で、「近日被(近日通知する)」からといわれ「たへ忍び(耐え忍べ)、先をたのしみ(希望を持て)、こゞと不申様に(不平を言うな)」とのみである。

 不安な一日であったが、表向きには淡々と日常的雑務をこまにこなす、常と同じ一日でもあった。ようやく十月二十八日になって、事の次第が分かってくるのであるが、大政奉還の奉聞文を入手し、それを詳細に書き写した後に記したのは、知人に依頼されていた短冊に和歌を書いたりして、常に変らぬ家刀自の暮らしのことであった。

 天下の大政変によって、いずれは自分の身にも大変化がくることを分かっていたであろうが、微動だにしないその日常を見ると、誠に素晴らしいと思う。女だからといって、政治や社会のことに興味がなく、分からないというのでなく、知識としては几帳面に情報収集し記録した上で、自分の日常はいつもと変らず、あわてず淡々と主婦の役目をこなしていく。これが家刀自なのだと感じる。前号でお伝えした鉄舟について語った、歌舞伎役者の八代目坂東三津五郎の内容と同じである。大事変が発生しても自らの仕事を平時と同じく務めているのである。

 鉄太郎の母磯も川合小梅のような女性ではなかったと思う。代官としての夫小野朝右衛門の行政内容には口は挟まないが、肝心なところは家刀自として配慮し支援し、子供の教育にも熱心に情熱を傾ける。家庭内の雰囲気醸成と責任行動分配権限が、母であり主婦である磯にあったのである。実体的な家庭運営者は家刀自の磯だった。その母磯の突然の死は鉄太郎に大きな影響を与え、その五ヵ月後に父小野朝右衛門を失ったのである。父の死は経済的裏づけを失うことであった。二歳過ぎを含め五人の弟の養育が、鉄太郎の小さな肩にかかってきた。父母の死と弟達の養育――苦労する少年鉄太郎について次回も続く。

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2007年06月11日

飛騨高山の少年時代 その四

飛騨高山の少年時代 その四
  山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

 昭和二十年八月十五日の玉音放送、始めて聞いた昭和天皇の肉声によって、その意味する敗戦の事実を知った日本国民は、ショックで一瞬にして虚脱状態に陥り、町中異常な静けさに覆われたことを、子ども心にも確り強く記憶している。

これと同様の悲哀を江戸市民も今から138年前に味わった。今まで将軍様より偉い人は知らなかった江戸っ子にとって、京に天子様がいるなぞということは、ずっと長い間意味のない存在だった。その身近で最も偉い将軍様であった十五代将軍徳川慶喜が、突然大坂から戻ってきて、江戸城で喧喧諤諤の大評定をしていると思っていたら、突然上野の山に隠れてしまって、代わりに京の天子様の命令で、薩長の輩が官軍という名聞で江戸城に攻めてくるという。攻撃されると江戸市中は火の海になって、壊滅するかもしれない。店や住まいが燃えてしまう。これは大変だ。どうしたらよいのか。町中大騒ぎになって、ただ右往左往しているだけだった。今まで考えたこともなかった事態が突如発生し、混乱の極に陥っていた。

 この時に山岡鉄舟が登場したのであるが、そのことを歌舞伎役者の八代目坂東三津五郎が次のように述べている。
「山岡鉄舟先生は、江戸城総攻めの始末がついてからのち、それでなくとも忙しいからだを、つとめて人に会うようになすった。それも庶民階級、まあ、出入りの植木屋さんから大工さん、畳屋さんから相撲取りから、話し家、役者、あらゆる階級の人たちに会って、鉄舟さんのおっしゃった言葉は『おまえたちが今、右往左往したってどうにもならない。たいへんな時なんだけれども、いちばんかんじんなことは、おまえたちが自分の稼業に励み、役者は舞台を努め、左官屋は壁を塗っていればよいのだ。あわてることはない。自分の稼業に励めばまちがいないんだ』と言うのです。このいちばん何でもないことを言ってくださったのが、山岡鉄舟先生で、これはたいへんなことだと思うんです。
 今度の戦争が済んだ終戦後に、われわれ芝居をやっている者は、進駐軍がやってきて、これから歌舞伎がどうなるかわからなかった。そのような時に、私たちに山岡鉄舟先生のようにそういうことを言ってくれる人は一人もおりませんでしたね」(『日本史探訪・第十巻』角川書店)

 さすがに歌舞伎界の故事、先達の芸風に詳しく、生き字引と言われ、随筆集「戯場戯語」でエッセイストクラブ賞を受賞した八代目坂東三津五郎(1906~75)である。鉄舟にも詳しい。それもそのはずで「慶喜命乞い」の芝居を演じた際に鉄舟を随分研究している。前述の「日本史探訪・第十巻」は、当時の鉄舟研究第一人者である大森曹玄先生との対談で語られたものであるが、鉄舟の子ども時代から江戸無血開城の経緯、明治天皇の侍従時代、剣・禅・書についても詳しくふれている。さすがに芸術院賞受賞者である。

 しかし、八代目が「山岡鉄舟先生のようにそういうことを言ってくれる人は一人もおりませんでした」と述べているが、実際には同様のことを述べた人物はいたはずだ。日本人はそれほど愚かではない。敗戦と言う事実に直面し、混乱している殆どの人たちの中にあって、冷静に明日以降の日本について考察した人物が日本各地でいたはずである。

 だが、鉄舟と同様のことを述べたとしても、鉄舟とは比較にならない影響力であったと思う。人物の器が違っている。鉄舟ほど一般大衆に対して大きな感化力を持つ人物が、敗戦直後の日本には存在しなかった。180度転換する価値観激変社会状況下にあって、一般大衆に、それぞれが持つ自らの仕事と関係付けて、分かりやすい言葉をもって語りかけ、それが素直に納得され、受け入れられていくような教え諭し、このようなことができる人物が本当の政治家ではないかと思うが、そのような人物がいなかったという事実を八代目が述べたのだと思う。つまり、鉄舟の偉大さを語るために八月十五日と江戸無血開城をつなげて語ったのだ。

 さて、鉄舟の少年時代に入りたい。当時、それなりの武士にとっては、剣と禅は当然のたしなみであり、それが武士として修行する一つの型であった。今の時代は、その生きる型がなくなっている。それを自由と言い換えればそれまでだが、生き方の型を知らないと言うことは、定石を知らずにして囲碁・将棋を指すのと同じである。良い型を持たない人物は大成しないと思う。

 鉄太郎(鉄舟)は九歳のときから、真影流久須美閑適斎の道場で剣術を習い始め、高山に移ってから朝は陣屋の剣道場で撃剣、午後は寺子屋で手習い、夕方は習字の習いを日課としていた。だが、武士としての型である禅修業には入っていなかった。父小野朝右衛門から「禅を学べ」と言われたのは十三歳の時であったが、機会に恵まれず、始めたのはようやく二十歳になってからであるが、修業に入ると半端ではなく、明治十三年(1880)三月三十日払暁「釈然として天地物なきの心境に坐せるの感あるを覚ゆ」(『剣法と禅理』山岡鉄舟)と「大悟」するまで、禅修業は命懸けであった。大悟とは悟りを得ることである。

 ここで悟りということについて、先日あるお坊さんからお聞きしたことをお伝えしたい。このお坊さんがおっしゃるには「悟りとはご大層なものではなく、日常に転がっている、生活の中のあらゆる気づきが悟りであり、朝起きて、ああ、今日はいい天気だ、とか、そうだ、今日はゴミの日だ、などと気がつくこと、これも立派な悟りである」と言い、「漢字も悟るだけでなく、覚、知、体、解、それらすべてサトルと読み、それらが意味しているものすべてが悟りである。つまり、覚える、知る、体得する、解る、悟る、すべてが『サトル』ということになる」というお話であった。この内容をお聞きし、一瞬そうかなと思ったのであるが、改めて鉄舟の「大悟」に至るまでの命がけ修行を振り返ってみれば、このお坊さんのお話されている「悟り」と、鉄舟の「悟り」とではその間に大きな開き、それは雲泥の差とも霄壤の差とも言えるほどのレベル差があるのである。これについては後日、鉄舟禅修業の姿で詳しくお伝えしたい。鉄舟の修行は一般人と桁が違うのである。

 さて、鉄舟の少年時代で外してはならない、大きな影響を受けたものにお伊勢参りがある。嘉永三年(1850)十五歳の時、父の代参で異母兄の鶴次郎(小野古風)と、供を二人連れてお伊勢参りに出発した。鉄太郎の元服儀式に伴って父が与えてくれたお祝いだという説もあるが、始めての長旅は鉄太郎にとって新鮮な感動の連続だった。

 ところで江戸時代は、基本的に目的のない旅は本来許されていなかった。農民の離散は、農業生産の低下をもたらすことに通じ、年貢の減少につながるからであった。商工業者にとっても同様であり、また、住所不定の輩が増えることは治安の問題を引き起こすことにつながるので、江戸では無宿人狩りが頻繁に行われていた。とにかく人の移動を自由にするということは、住所不定の人間を増やすことにつながるので、人々が観光などの遊び目的の旅は制限されていたのである。

 しかし、そのような状況下であっても、お伊勢参りに代表される寺社詣でと、病気治療を理由とした温泉への湯治は認められていた。寺社詣でと温泉はセットで江戸時代を通じ盛況産業であり、そのためのシステムが組まれていた。特にお伊勢参りは「伊勢講」という組織が各町や村につくられ、メンバーが旅行費用を積み立て、順番に毎年人数を決めて、その人が代表ということ、これを「代参講」と称していたが、このシステムでお伊勢参りに行くのである。一番規模が大きかった年は享保三年(1718)で、享保の改革を断行し「幕府中興の祖」の八代将軍吉宗の時代であるが、年間参拝者数が約五十万人であった。この人数は第二位の寺社詣でが、善光寺参りが幕末頃時点で約二十万人であったことを考えると、如何にお伊勢参りが群を抜いていたことが分かる。

 この「代参講」は家単位で加入するシステムで、加入者は檀家と呼ばれ、安永六年(1777)の「伊勢講」檀家数は全国で四百三十九万軒以上になっていた。一世帯を五人と推定すると二千二百万人となるが、安永三年(1774)の人口が二千五百九十九万人だったことを考えると、約八十五パーセントに当たる人々が「伊勢講」に加入していたことになる。貧しさ等の理由で参加できない人以外は、日本人全員が加入していたと言っても過言でないすごさである。

 また、この寺社詣でが盛況となった理由のもうひとつは、旅に温泉がセットされていたことであった。例えば江戸からお伊勢参りに行く場合、行きに箱根湯本温泉で一泊、伊勢神宮に参拝した後は四国に渡って道後温泉に一泊、帰り途中に京都見物をして中山道を通って善光寺を廻って詣で、戸倉温泉や伊香保温泉に一泊し、ようやく江戸に戻る長丁場の旅であった。このルートはどう見ても観光旅行であり、このような旅に国民の八十五パーセントが参加していたということは、当時から日本人は旅を好み、泊るのは温泉と相場が決まって、その習慣が今日までつながっているのである。日本人の温泉好きは江戸時代の寺社詣でに原点があっと思われる。

 さて、鉄太郎のお伊勢参りは高山からであるから、ルートは益田街道を下り、飛田川(益田川)に沿って中山七里の奇勝を観て、美濃加茂から名古屋を経て伊勢湾に出て、松阪から宇治山田(伊勢市)に行く行程であるから、下り坂が多いので、さして困難な道ではないが、少年鉄太郎にとって距離は相当あった。

 この旅で、鉄太郎は二人のすぐれた人物に邂逅した。一人は藤本鉄石であり、もう一人は足代弘訓(注ルビ、あじろひろのり)である。(『定本山岡鉄舟』牛山栄治著))

 藤本鉄石(1816-63)は岡山藩士、脱藩して長沼流軍学を学び、諸国を遊歴し、私塾を伏見に開き、文久二年(1862)に真木和泉ら尊攘派と倒幕を計画、翌年天誅組を組織し挙兵したが惨敗、和歌山藩陣営に斬りこんで戦死した人物である。また、鉄石は後日鉄舟と因縁の友となる清河八郎とも因縁があり、清河八郎が十七歳の時、生家のある羽前斎藤家で多大な影響を与え、その関係から万延元年(1860)に清河八郎が、鉄舟らと共に尊皇攘夷党を結成した時には幹事として名を連ねた。

 この鉄石とは偶然の機会から旅宿を一緒にすることになり、鉄太郎に林子平(1738-93)「海国兵談」の写本を貸し与え、それをもとに海外の情勢を説き明かしてくれた。林子平とは江戸中期の経世家で幕臣の二男、長崎に遊学しオランダ商館長のフェイトに海外事情を聞くなどして新知識の吸収につとめ、「三国通覧図鑑」「海国兵談」を著した。「三国通覧図鑑」では朝鮮・琉球・蝦夷の地理民俗とロシア南下の防衛として蝦夷地を開拓する必要性を説き、「海国兵談」では海国たる日本の沿岸防衛を説いたが、幕府の不興を買い、版木・製本ともに没収され蟄居を命じられ病死した。

 この林子平著の写本「海国兵談」を、鉄太郎は旅の間に写し終えるということをしたと言う。その結果は鉄太郎の若い頭脳に、最新の海外事情が入ったことが容易に予測つく。

 更に、足代弘訓(1784-1856)とは江戸後期の国学者で、伊勢神宮神主の子であって、歌学、律令、有職故実に通じ、特に古典の考証にすぐれ多数の著述を残した。大坂町奉行所の与力で、大塩の乱の首謀者である大塩平八郎とも親交があり、志士と交わり尊皇憂国を説いた人物である。この足代弘訓にも鉄太郎は接することができ、数度自室に招かれて、日本の国体について講義を受けたと言う。

 このようにこのお伊勢参りで、当時の先端的国際情勢と国学思想に接することができたのであるが、それはどのような内面的変化を、少年鉄太郎に派生させたのであろうか。高山という山深い小さな小都市で、朝は陣屋の剣道場で撃剣、午後は寺子屋で手習い、夕方は習字の習いという変らない日常を過ごしていた鉄太郎、旅という非日常場面の連続と、時流を伝えてくれた二人によって、内面に大きな影響を受け、思想変化をもたらしたのであるが、その結果として偉大な業績江戸無血開城につながっていったのである。これについては後日詳しくお伝えしたい。

 さて、お伊勢参りに代表される寺社詣でと、温泉の旅が盛んに行われたという意味と、十五歳の鉄太郎が遠い道のりを歩いて何泊もする旅ができたということ、これをどのように理解したらよいであろうか。それは江戸時代が庶民にとって物見遊山の旅に出かけられるほどの安全な体制下であったことを意味する。このことを徳川宗家十八代当主の徳川恒考氏は、この当時世界で子ども女性が安心して旅ができたのは日本だけだったと力説している。街道、旅籠、茶店の整備等の旅をする基盤が整備されていたことを意味する。やはり、このようなことから考えても、江戸という時代は豊かな社会であったといえる。

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2007年05月06日

飛騨高山の少年時代 その三

飛騨高山の少年時代 その三
  山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

 
 鉄舟の揮毫数は想像を絶する。その事実を鉄舟宅の内弟子として、晩年の鉄舟の食事の給仕や身の回りの世話などを、取り仕切っていた小倉鉄樹が次のように述べている。

 「師匠(鉄舟)の揮毫数は實におびたゞしいものだ。一日に五百枚でも千枚でも忽ちに書いて仕舞ふと云ふことをきいて、當時の書家長三州が『そんなに書けるものではない』とどうしても本當にしなかったが、後に事實であるのを知って舌を巻いて驚いたと云ふことだ。師匠は此の事をきいて『そりや長さんは字を書くのだから骨が折れるが、おれのは墨を塗るのだからわけのない話だ。』と言ったさうであるが、晩年の病身で、一日五百とか千とかの墨蹟をのこすのは、やはり剣禪で鍛へた賜で、かうなると隱居藝ではない。
 師匠が揮毫に用ゐる墨は、奈良の鈴木梅仙が一手に供給してゐた。『梅仙墨』等と云ふのを作っておさめてゐたが、あまり需要が多いので一時墨すり機こしらへてやってゐたが、やっぱり手でする程うまくゆかないので、十五六の若い小僧を四五人、師匠専屬に朝から晩まで墨をすらせてゐた。
梅仙があまり墨の事で骨を折るので、師匠は『墨癲居士』と云ふ居士號をやったものだ。然し梅仙は師匠の爲に墨で儲けて身代をおこした。
 當時師匠の玄關には朝から晩まで、揮毫を頼みに来る人があとをたゝなかつた。何せ無料でやるのだから、いくら書いてもあとからあとから持ち込んで来る。しまひには蕎麥屋の看板まで書かされた程だ。然し師匠はちつともいやな顔はしなかつたね。そりや来たもんだよ」(『おれの師匠』島津書房)
 
鉄舟の書は本物

 当時の書家「長三州」とは、豊後日田生まれで、幕末維新時に長州の奇兵隊で活躍した志士であり、後に文部省学務局長や東宮侍書を努めた人物で、書家として著名である。この長三州が前述のように「そんなに書けるものでない」と言ったのであるが、鉄舟の書を初めて見たときに「これ程の達者とは思わなかった」と述べ「草書では三百年来の書き手であると感嘆」しのている。鉄舟の書は本物である。
その本物の鉄舟による蕎麦屋の看板が、全国各地に散在しているので、その書を拝見するためその蕎麦屋を時折訪れるのであるが、その際「当店の看板は鉄舟の書です」と胸張って自慢し、勿体ぶって解説をいただくことが多い。だが、この看板に書かれた書が、小倉鉄樹が述べたように無料で鉄舟が書いてあげたものかと思うと、信じられなく空恐ろしい気になってくる。

旅先で見つける

 筆者は世界の温泉研究もしていて、著書(『笑う温泉・泣く温泉』)もあり、今も各地の温泉を取材し研究しているが、先頃、東鳴子温泉で、『宮城県温泉小誌』という上下の二冊子を偶然手に取った。明治十五年に編纂された貴重な逸品資料であるので、大事にこの古びた小誌の表紙をめくると、すばらしい筆跡が現れた。「ああ、これは鉄舟だな」と感じ、中の綴じ込み部分に書かれた氏名を確認してみると「山岡公題字」とある。間違いなくやはり鉄舟である。

金ではない

 鉄舟が鳴子温泉に行ったという話は聞いたことがないので、宮城県の温泉関係者が鉄舟の自宅に持ち込み、揮毫を依頼したのだろう。当時の鉄舟は自慢ではないが酷い貧乏であったが、これも多分無料でしてあげたのだろう。
すべての行動は金のためだということで動き回る人が今も昔も多いのだが、鉄舟の行動を「特別の人間で桁が違うのだ」と言って別格の存在に奉り、その厚意を当たり前とすませてしまったとすればそれまでだが、今の感覚ではとうてい捉えることができない巨大で深い存在、それが鉄舟である。

墨を塗る

 そのうえに、「書」を「墨を塗る」と表現する感覚、ぬりえに色を塗っていくのとは意味と質が違うのであって、何もない白い空間にあのようなすばらしい墨蹟が、コンマ以下の秒速で塗られていく姿、それを想像するだけで鳥肌が立ってくる。人間とはそのようにまで自らの潜在力を開拓でき、人々に奉仕できる存在になれるものなのか。鉄舟を研究していくと人間の無限力というすごさに圧倒され、
鉄舟がこのように「墨を塗る」という感覚になれたのは、鉄舟が若い頃に定めた人生戦略・目的を達成するために、自らの命を削る修行を行ってきた結果である。鉄舟が最初からこのような桁違いな人物であったわけではない。

鉄舟は江戸っ子

 鉄舟は江戸に生まれた江戸っ子旗本である。一般的に江戸人の気質は、気が弱くて、根気がなくて、見栄坊で、いささかニヒルというのが定説である。礼儀正しく、粋でおしゃれなところ、向こう意気の強さ、これらは見栄を張るところから来ているのであるが、上は旗本から、下は裏長屋の住人まで、江戸っ子には共通するところがあった。
今の東京は地方から雑多人種が集まっているから、純粋の江戸っ子という人たちは目立たないが、江戸時代は人の移動が少なかったので、江戸の町には江戸っ子気質が溢れ鮮明だった。しかし、この江戸っ子気質の旗本でも「元禄(1688年~1703年)の少し前あたりと、幕末は大分毛色の違っている人物が輩出した」と作家の海音寺潮五郎が語っている。(『講座近代仏教』第二巻)
元禄以前は戦国の習気がまだ濃厚であった時代であり、まだ三河武士の一本気が残っていたのであろうし、幕末には仕える幕府の屋台骨が揺るぎ始めた不安から、自然に引き締まったのであろうと、海音寺潮五郎が解説しているがそのとおりと思う。また、中でも鉄舟は、幕末時に輩出した「江戸っ子気質ではない旗本」の典型例であった。

飛騨高山

 その江戸っ子らしくない毛色の違っている人物としての片鱗を、飛騨高山の少年時代から探ってみたい。
飛騨高山は、代官所より規模が大きく、全国でも四か所しかなかった郡代役所であった。その四か所とは九州日田十一万七千五百石、美濃笠松十万千五百石、関東江戸八十三万四千石。それに飛騨高山十一万四千石。一万石以上を大名と称したのであるから、十万石を超える飛騨高山天領は幕府にとって重要な拠点であり、そこの郡代として鉄太郎(鉄舟)の父小野朝右衛門高幅が赴任したのである。
高山の町は東方の山裾に寺社が数多く集まっていて、そこに宗猷寺という由緒正しい名刹がある。そこの和尚と父小野朝右衛門は親しく、よく行き来していた。因みに現在、この宗猷寺に鉄舟の父母のお墓がある。

宗猷寺

 父と和尚が仲良いものであるから、鉄太郎もよく宗猷寺に遊びに行っていた。この寺の山門をくぐると右側に大きな鐘楼がある。なかなか立派である。この鐘楼の鐘は、鉄太郎がここで遊んでいた時代と同じく、今も朝な夕な高山の町に響き渡る。
ある時、寺の鐘楼の前で、この大きな鐘をしみじみと鉄太郎が見上げていたことがあった。和尚はそれを見て、
「鉄さん、この鐘がほしいですかえ。ほしければあげますから、持っていきなされ」
と冗談を言った。どうせ子どもには持ち運べるものでないという考えがあったので、軽口をたたいてからかったのである。
「和尚さん、ほんとにくれる?」
「ああ、あげますわい」
「ありがとう」
子どもは軽口であっても素直に受けとめる。鉄太郎は大喜びで代官所に走りかえって、父小野朝右衛門に報告した。
「宗猷寺の鐘を和尚さんがくれると言いました。和尚さんから貰ってきたいと思います」
「ほう、それはそれはよかったな。それなら貰ってくるがよい」
勿論、父も鉄太郎をからかっての発言であり、和尚の冗談がどうなっていくか、その結果へのいたずら心もあったのだろう。
鉄太郎はこの父の言葉に元気一杯、代官所の家来人足を大勢つれて宗猷寺へ向かった。宗猷寺と代官所は歩いて二十分もかからない。家来人足も代官の息子の鉄太郎が言い張って頑張るので、冗談とは思っていたが仕方なしに形だけでもついて行こうと思ったに違いない。だが、鉄太郎はいたって真面目で真剣である。宗猷寺に着くと、鉄太郎は早速に指図して鐘楼に梯子をかけ、縄を鐘に巻き始めだした。それを見た和尚は驚いて飛び出してきた。

納得しない

 「鉄さん、鉄さん、あんた何しなさる。これは寺の大事な鐘ですよ。さっきの話は冗談に決まっているでしょ。ありゃ本気にしてはいけません」
と言ったが、こうなってくると鉄太郎はきかない。一本気であるから引き下がらない。
「ほんとにくれるかと念をおしたら、ほんとにくれると和尚さんは言ったじゃないですか。お坊さんは嘘をつかないでしょ。和尚さんは人を騙してはいけないといつも言っているではありませんか」
と口を尖らせて食ってかかる。和尚が反論できない立派な筋論である。
「冗談を言うて悪かった。あやまるから堪忍してくだされ」
しかし、鉄太郎は納得しない。
「鉄さん、あんた、鐘など運んでどうしなさる。鐘は寺にこそあって高山の人たちに役立つが、鉄さんが持っていっても、しょうがないでしょうに」
「しょうがあろうがなかろうが、あたしの勝手じゃ。あれほど念をおしてくれると言ったから、父上にもお許しをいただいてきた。この鐘は鉄太郎のものだ。もらっていく」
と、どうしても頑張る。
和尚は困り果て、代官所に走り、小野朝右衛門に詫びを入れて、一緒に朝右衛門に来てもらい、二人で鉄太郎を説得しようとした。
 鉄太郎は納得がいかなかったが、父まで出で来て和尚と同じことを言うので、やっとあきらめることにした。これが高山に残っている鉄舟の子ども時代の話である。
 
尋常でない

 子どもは正直で一本気なものであるが、ここまでねばるのは尋常でないと思う。この話は、鉄舟が持っている本来の気質を正確に表している。生来、正直一途で、一本気で剛直であり剛情であることを正しく証明している話で、気が弱くて、根気がなくて、見栄坊で、いささかニヒルという江戸っ子気質の旗本とは格段に異なる。
こういう子どもでなければ、江戸無血開城を成し遂げ「書を墨を塗る」と表現できる人物にはなれないと思う。
 
江戸時代は素晴らしかった

 しかし、このような話が残る子ども時代を過ごせたのも、父小野朝右衛門による飛騨高山代官政治が安定していたからであり、その背景には日本全体の安定があったからだと思う。
現在の日本が世界で評価されている背景には三つの要因があると、ハーバート大学ジョセフ・ナイ教授は言う。「第一は伝統文化であり、第二は世界の若者を惹きつけているポップカルチャーとしてのクール・ジャパン現象であり、第三は非軍事による対外協力である」(『日経新聞』06年4月3日付)。この伝統文化とは江戸時代に遡り、ポップカルチャーもその源流をたどって行けば江戸時代につながっていく。つまり、現在の日本が評価される源は江戸時代にあったのである。

「百姓一揆」

 ところが、徳川幕府の政治は上意を下に達するのみで強権的であり、民意を権力に届ける方法などはなかったと従来言われ教えられてきた。しかし、徳川政治の実際はそれは全く異なる、というのが最近の歴史学研究結果である。その代表例に「百姓一揆」がある。「竹やり」と「むしろ旗」をもった暴力的な蜂起、それが我々の持つ一揆イメージであるが、実はこれは近代になってつくられた「虚像」にすぎなく「虚像」を打ち壊して見れば、そこには新しい豊かな江戸時代像が浮かぶ。この一揆についてもう少し次回でふれたい。

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2007年04月03日

飛騨高山の少年時代 その二

飛騨高山の少年時代 その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

幕末の志士や明治時代の初めに活動した青年達を、ほめあげる政治家や歴史家が多くいる。ほめられて当然の働きをしたわけでこれに異論はない。しかし、「ほめる」側に何か基本的認識レベルで欠けているような気がしてならない。何か重要な前提を忘れている。

当時の人物は「命がけ」であった。行動は常に「死」に面していた。命を失ってもかまわないという覚悟があった。死ぬ覚悟で日本を変えようとした背景に「一人の人間の決断で国の運命を変える」という思想哲学を持っていた。そうでなければ、あのように死に対して恐がらず、死に急ぐことは出来なかったと思う。

このことを現代の「ほめる」側は、理解していないのではないかと思う。今の我々に「命がけ」の気概があるのか、と問われれば忸怩たるものがある。時代環境が違うといってしまえばそれまでであるが、当時の青年達は立派であった。

ただし、その覚悟のできた青年達にも、ひとつだけ残念なことがあった。それは当時の志士達に共通しているのだが、自らの心情や時代情景を、上手に文章化する力が欠けていたことだ。政治上の建白や公憤を詩文に託すことは巧みであったが、時の政治状況や社会状況を観察し、そこでうごめいている人々の情感機微を伝える文章力、それが一様に不十分であった。それらを工夫表現することがなされていれば、もっともっと当時の状況が鮮明になっていたであろうと思うし、死ぬことへの急ぎは少なくなっていたのではないかと思う。

同様なことを司馬遼太郎が「歴史の中の日本(中公文庫)」で指摘し、ただし二人の人物だけが例外であったと述べている。それは坂本竜馬と西郷隆盛である。

竜馬は国許の姉への手紙などに俗語を大胆にとり入れ、西郷は薩摩の俗語をつかって、京都から情勢分析を報道的に国許に送っていた。

特に西郷は、現実の生々しい機微をつかんだ表現で手紙を書き続け、時局の判断を誤らないように薩摩藩を導いていったのである。

そのことを司馬遼太郎は高く評価し「西郷は一流の報道家の資性を備えていて、優秀な新聞記者が務まる能力を有している」と認めている。

その優れた報道家的資性を備えていた西郷が「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」と鉄舟の本質を的確に表現し、それが「南州翁遺訓」として現代に残されている。西郷の的確表現力によって、鉄舟の人物像が今日まで明確・妥当に伝わっていることに感謝したい。

その鉄舟も、多くの志士達と同じく文章は残さなかった。だが書は大量に残してくれた。鉄舟の生涯でどのくらいの枚数を書したか。それを鉄舟宅の内弟子として、晩年の鉄舟の食事の給仕や身の回りの世話などを、取り仕切っていた小倉鉄樹の著書「おれの師匠」(島津書房)から見てみたい。

「明治十九年五月、健康が勝れぬ為、医者の勧告で『絶筆』といって七月三十一日迄に三萬枚を書き以後一切外部からの揮毫を謝絶することが発表された。すると我も我もと詰めかける依頼者が門前市をなして前後もわからぬので、朝一番に来たものから順次に番号札を渡した云ふことだ。(明治十九年六月三日東京日日新聞)

其後は唯だ全生庵から申し込んだ分だけを例外としてゐたが、其の例外が八ヶ月間に十萬千三百八十枚(この書は全生庵執事から師匠に出す受取書によって知る)と云ふから驚く。

或る人が『今まで御揮毫の墨蹟の数は大変なものでせうね』と云ふと、『なあに未だ三千五百萬人に一枚づつは行き渡るまいね』と師匠が笑われた。三千五百萬と云へば、其の頃の日本の人口なのだ。何と云っても、桁はづれの大物は、ケチな常人の了見では、尺度に合わぬものだ」

後年、小野道風に比せられた鉄舟の書は、少年時代を過ごした飛騨高山で基礎が築き上げられた。飛騨高山で岩佐一定に師事したことからなされたものである。

岩佐一定、名は善倫、通称市衛門は飛騨高山に生まれ、家は代々荒木屋という呉服商で
家督を継いだが、書道への思い断ちがたく、家督を弟に譲って書道に専念した。

始めは旧家の八賀仁助の手ほどきを受け、その後尾張蜂須賀村の蓮華寺の住職で、弘法大使を遠祖とする入木道五十世大道定慶に入門し、一という字を三年間書いたという逸話が伝わっているほど修行し、ついに一定は弘法流の書道極意を究め、五十一世の免許を授与された。その一定は、鉄太郎(鉄舟)が飛騨高山に来たときはすでに六十七歳であった。

一定に書を習い始めたとき、鉄太郎は書法を全く知らなかった。そこで最初に一定は「千字文」一巻を書いて、手本として鉄舟に与えた。「千字文」とは中国六朝時代の四言古詩二百五十句を集めたもので、書道を志す者が手本としたものである。

鉄太郎はそれにしたがって練習すること約一ヶ月過ぎた頃、父の小野朝右衛門高幅が「これまで稽古した字を、この紙に清書せよ」と、鉄太郎に美濃半紙を渡し命じたことがあった。

鉄太郎は自室にて「千字文」に取り組み、楷書で「千字文」を書き終え、年月日と署名を入れた六十三枚の美濃半紙を父のところに持っていった。朝右衛門高幅はまだ文字が湿っている美濃半紙に書かれたその筆跡を一見し、その見事なことに驚嘆し褒め、我が子ながら鉄太郎の才能に感心し、今後の精進を励ました。

次の日、朝右衛門は一定を陣屋に招いて、昨夜の清書を見せた。「なるほど、見事なものです。他人が見たらとても子どもの字とは思いますまい。ことにそれがわずかの日数で、これまで上達するとは驚くほかありません。まことに末頼もしいお子様です」と一定も驚嘆した。その場には剣道師匠の井上清虎、御用絵師の松原梅幸もいて、いずれも鉄太郎を賞賛し励ました。かくて鉄舟は更に書道を熱心に精進した。

鉄舟が師岩佐一定に提出した誓約書が現在残っている。日付を見ると、鉄舟はこのとき十五歳である。「書法入門之式一札」とあるが、このとき始めて師事したのではなく、おそらく弘法大使の伝統を受けんがための正式の入門書ではあるまいか。(おれの師匠)

見事な筆跡であり、この「書法入門之式一札」を提出してからわずか半年後、一定が鉄舟に弘法流の免状を与えていることを合わせ考えると、弘法大使の伝統を受けんがための正式の入門書であると考えられる。

いずれにしても後年、鉄舟に対して依頼される揮毫数はおびただしい枚数であり、その事実が鉄舟の書のすばらしさを証明しているが、これは子ども時代に周りの大人達によって潜在していた能力を開花してもらった結果であり、この事例から考えられることは「子どもは将来の宝」であるという前提認識が、暗黙の合意として社会全体にあることが必要であるということである。そうでなければ子どもを大事に育成するということにならないであろう。

では、当時の日本の子どもに対する社会習慣はどのようなものであったのであろうか。

幕末に日本を訪れた欧米人が書いた記録によって確認してみたい。
例えばイギリス初代駐日総領事オールコックは『大君の都』で「子どもの楽園」と記し、『ペリー艦隊日本遠征記』では「児童書はユーモアのセンスをそなえ、滑稽なことを絵にすることができ、気のきいた戯画を気持ちよく笑える国民」と今日のアニメーションに通じることを述べ、スエンソンは『江戸幕末滞在記』で「日本人は、子どもが楽しむものの開発に抜きん出ていて、大人でさえ何時間も楽しむことができる」などと、日本の国民性について記述している。

つまり、江戸時代の日本は子どもを大事にする社会であり、そのような社会には前提として「国の豊かさ」が存在していたと思われる。

一国の豊かさの基準算定として使われているのがGDP(国民総生産)である。江戸時代のGDPはどの程度であったか。それをアメリカの経済学者、サイモン・クズネッツが推計している。

それによると幕末の慶応元年(千八百六十五)における一人当たりGDPは五十四ドルになっている。当時の西ヨーロッパ諸国、日本よりいち早く工業化をスターとさせていて、低い国でも二百ドルに達していたから、日本のGDP水準はいかにも低い。江戸時代の経済的実態は貧弱であったという見解は、この推計が根拠になる。

しかし、第二次世界大戦後のアジア諸国、例えば韓国の経済成長スタート時の一人当たりGDPのスタートは八十七ドルであったことを考えると、一概に数字だけを持ってその国の豊かさを判定できない。

豊かさとは、そこに暮らす国民の文化度、ライフスタイル、健康状態、寿命の実態などを勘案しなくてはならないだろうし、S・B・ハンレーは幕末の生活水準が同時代の西欧と肩を並べるほどの高水準にあったという見解も述べている。

最近の歴史学において有力な説は、人口は停滞したが社会や経済は成熟を迎えていたという見方であり、成熟進展の指標として注目されるのが、寺子屋に代表される庶民の教育水準である。(開国と幕末変革 井上勝生著『講談社』)

このような最近の歴史学研究結果が意味するところは、江戸という時代は豊かな社会であったという事実である。

だが一方、鉄舟が生まれた天保の時代は、享保の飢饉、天明の飢饉とならぶ、江戸三大飢饉の天保飢饉(天保三年~十年・千八百三十二~三十九)の時であり、一揆が多いことで知られている。したがって、鉄舟が生まれ育った時代は、大きな社会混乱の時であった。

そのことから江戸時代は一般的に百姓を始めとして、庶民の生活は苦しかったというが通説であり、その要因が飢饉によるものであるといわれている。確かにその通りで、飢饉の発生は人々の生活状態に重大な影響を与えた。

しかし実は、飢饉という異常実態は江戸時代において通常とまではいわないまでも、飢饉の発生原因である異常気象は日常的であったという指摘があり、以下、例示しよう。(『江戸の生活と経済』 宮林義信著)
① 天正19年(1591)~寛永12年(1635)44年間多雨期
② 寛永13年(1636)~天和3年(1683) 47年間多雨期
③ 貞享1年(1684)~元禄13年(1700)16年間干ばつ期
④ 元禄14年(1701)~明和2年(1765) 64年間多雨期
⑤ 明和3年(1766)~安永3年(1774)  8年間干ばつ期
⑥ 安永4年(1775)~寛政3年(1791)  16年間多雨期
⑦ 寛政4年(1792)~文化11年(1814) 22年間干ばつ期
⑧ 文政7年(1824)~安政2年(1855)  31年間干・冷期
⑨ 安政3年(1856)~明治5年(1872)  16年間多雨期

この中で江戸時代に該当する年数を合計してみると二百五十一年間になる。何と江戸時代が二百六十八年間続いたうちの94%に該当する年度が異常気象になり、これはいかにも多すぎる。しかし、このデータが事実とすれば、飢饉のリスクは当たり前の日常的であったと推測される。

江戸時代の百姓や一般庶民が食えない貧しい生活を強いられたことを、徳川幕府の政治のあり方、苛斂誅求の政策として語られているが、事実は異常気象による飢饉によるものとしたら、徳川封建制度の見方は大きく変わってくる。

自然の気候条件によって左右されるのであるから、いったん天変地異異変が発生すれば人々飢えに苦しむことになる。鎖国時代であるから外国から輸入もできず、藩同士が弾力的に救済しあうという関係がなかったので、地区によって人々の生活は千差万別であった。

ところがここで大事な事は、このように江戸時代は全体的に寒冷かつ異常気象の下にありながら、米の生産は増加していったのである。江戸時代の初期は全国の米生産高は千八百万石であったものが、鉄舟の生れた天保期になると三千万国に増加している。

この事実を見落としてはならない。このような状況を考えれば、その背景に江戸時代は、まず一般的に平和であり、平和であったからこそ農民は米生産増に邁進し、勤勉に働けたはずである。これは飛騨高山でも同じである。

飛騨高山の人々が平和な暮らしをおくっていたことは、鉄太郎が代官の子息でありながら、何の憂いもなく書と剣と寺子屋にと文武両道に熱心に励むことができたことからもうかがえる。次号でも鉄舟の少年時代を検討し、当時の時代背景をお伝えしていく。

投稿者 Master : 05:23 | コメント (0)

2007年03月16日

飛騨高山の少年時代その一

飛騨高山の少年時代その一
  山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
   

駿府における西郷隆盛と山岡鉄舟の会談において、西郷は鉄舟に江戸無血開場への言質を与えた。それは勿論、鉄舟の「すべてを捨て去り迫ってくる人間力」に感動したことからであったが、もう一つその背景に西郷の政治家としてのしたたかな計算があったに違いない。それは徳川幕府の体制を新政府として最大限に活用しようという強い意志である。

新政府樹立を目前にした西郷の頭の中には、倒幕後の政治体制が描かれていたはずである。徳川幕府を徹底的に壊さないと新体制は不可能であると思っていたに違いない。したがって、徳川幕府のシンボルである十五代将軍慶喜を抹殺すること、それが革命の最大目標であって、敵の最高指導者を現存させることは、真の革命成功とならないと考えていた。

これは過去の歴史が指し示す教訓である。一時は革命が成功したように思えても、敵の大将を温存させたばかりに逆転された事例を多くの歴史が物語っている。それを十分に知っている西郷は、慶喜の生命を生きながらせることは、最大の危険を残すことにつながると危惧していたはずである。

しかし結果的に、西郷は慶喜抹殺策どころか、江戸無血開場という和平策に転換した。それは、西郷が鉄舟という一介の旗本によって、鉄舟のような優れた人材を輩出する徳川幕府の懐の深さと徳川政治システムのよさを改めて認識し、それを可能な限り活かしたいという方向へ戦略転換したのであった。

考えてみれば、一九世紀後半当時、欧米先進諸国は植民地を求めてアハジア・アフリカなどへ進出、極東に位置する日本にも侵略の足音はひたひたと押し寄せていた。そんな状況下、日本という国をスムースに新体制へ戦略転換するためには、革命の混乱を最小限にしなければならない。そのためには徳川幕府のよさを最大限残し、それを新体制へうまく取り入れていく革命方向が望ましい――そのような弾力的な思考が西郷の中に生まれたとしてもおかしくはない。

否、そのような変化は、実質的な官軍総司令官としての西郷にとっては、当然の思考であったと推測する。当時の西郷は人生で最も輝き冴えていた時であり、西郷の意思ひとつで日本の針路を決まるという重責を担っていた。

その優れて弾力的な西郷の頭脳の中に、鉄舟が登場し、鉄舟の示した言動に幕府体制を再認識し、幕府システムへの評価を変え、その結果として江戸無血開場戦略に変更したのであった。鉄舟が西郷の内面に与えた影響力は大きい。

小泉政権によって国と地方の「税配分」を見直す三位一体改革が、他の改革とあわせて進めらた。この改革の出発点は危機的状況にある国家財政をどう立て直すかにあった。そのためには「地方分権型社会」への転換しなければならない――これは国民誰しもが頷くところであろう。

では、江戸時代は中央集権型であったのか地方分権型であったのか、どちらであったのだろうか。
一言でいえば、幕府と各藩の関係は「各藩の十割自治」であり、各藩の各藩の自治に任せていた。

したがって、いかに大名家が財政難で困窮の度合いを深めても、基本的に幕府は援助をしない。つまり、現在の地方交付金や補助金などに該当するものは存在しなかった。

とはいうものの各藩は、幕府が実施する普請(土木工事)・作事(建築)に労働力や資材・金品を負担させられ、徳川将軍に対する忠誠心を表明させる制度、参勤交代制の遵守を強いられた。これらの経済的負担は大変であったといえる。

幕府は藩経営について「お手並み拝見」という態度をもち、仮に財政破綻して、藩が危機に瀕すれば「家事不行き届き」の名において、その大名の改易(潰すこと)が行われた。徳川時代の信賞必罰は過酷であった。

さらに、大名改易は幕府体制確立期においては、意図的に行って直轄領を増やす政策を採っていたので、問題のある藩政治・経営をすることは直ちにお家断絶につながる恐れが生じた。幕府はそれだけの権限をもっていたのであるが、藩経営には直接的には介入しないという「各藩十割自治」システムを基本としていた。

小泉政権による三位一体改革は、明治新政府が中央集権体制システムによってスタートさせた結果、発生した問題点の改革であり、江戸時代には三位一体改革なぞの必要性はまったく存在しなかったということを理解する必要がある。

さて、幕府の各藩に対する「十割自治」政策は、幕府直轄地=天領にも該当した。天保九年(1838)当時における天領は六十二か所、規模は豊臣秀吉から与えられた関東八か国を中心に、北海道を除く全国各地に散在していた。

天領には郡代・代官を置き、警察や裁判を担当する「公事方」と、租税・経理などの一般行政を担当する「地方」に分かれていた。

飛騨高山は、代官所より規模が大きく、全国でも四か所しかなかった郡代役所であった。その四か所とは九州日田十一万七千五百石、美濃笠松十万千五百石、関東江戸八十三万四千石。それに飛騨高山十一万四千石。一万石以上を大名と称したのであるから、十万石を超える飛騨高山天領は幕府にとって重要な拠点であり、そこの郡代として小野鉄太郎(鉄舟)の父小野朝右衛門高幅が赴任したのである。

鉄舟宅の内弟子として、晩年の鉄舟の食事の給仕や身の回りの世話などを、取り仕切っていた小倉鉄樹の著書「おれの師匠」(島津書房)に「父朝右衛門高幅は、あまり聞かぬところをみると尋常の人であったらしい」とあるが、幕府直轄地として全国に四か所しかない郡代に任命されるほどであるから、それなりの人物であったと考えたい。

飛騨高山は現在でも観光客が集まる人気の高い町である。二〇〇五年二月に周辺の九町村と合併して、約二千百八十平方キロメートルの面積を持つ日本一広い高山市となった。その魅力とは、豪華絢爛な屋台が街中を巡行する春と秋の祭や、宮川沿いの朝市、低い軒先に出格子の町家がつづく趣のある家並み、江名子川の東山地区一帯に雲龍寺、大雄寺、宗猷寺などの由緒ある神社仏閣が数多く点在するなど、古い歴史と格式に満ちた町並みにあるといえよう。年間の観光客数が三百万人ともいわれているが、これは現地を訪ねれば頷けるところである。

郡代代官の子息・鉄太郎の住まいは高山陣屋であった。その広さは生れた江戸本所の御蔵奉行役宅とは大違いである。番所がついた大門は十万石の格を示す御門で、両脇には葵の御紋が入った高張提灯が提げられている。その大門を入って石畳の道を十間も進むと、式台のある玄関の間がある。そこから廊下伝いに、御役所、御用場、帳綴場、書役部屋、大広間、使者之間と続き、その奥、北西には渡り廊下で郡代役宅が続いている。

この郡代役宅への渡り廊下の先で、少年鉄太郎が生活していたかと思うと、役宅が今の時代に生き返ってくるような気がする。

というのも鉄太郎が走り回った当時の役宅を、96年までの数次にわたる復元工事で再現されているからである。渡り廊下すぐに座敷があり、その先に居間、扇面之間、嵐山之間、茶室、浴室がつづき、どの部屋からも広大な庭が見渡せ、池のほとりにはツツジが配してある。感慨ひとしおである。

陣屋の東側には年貢米を収めていた御蔵が十二棟建っていた。地震があっても潰れないように、四方の壁が内側にわずかに傾斜し、先すぼみになっている。四方転びといわれるつくりである。陣屋が火事になっても、中まで火が通らないように工夫されていた。

高山での鉄太郎は、朝は陣屋の剣道場で撃剣、午後は寺子屋で手習い、夕方は習字の習いを日課とした。鉄太郎が寺子屋に通うこと、その意味は町方の子供と一緒に机を並べるということであり、飛騨高山郡代の子息である鉄太郎には相応しくない、という問題提起もあったが、両親、特に母の磯は意に介さなかった。

磯は常陸の国鹿島神宮神官の娘であったが、武家ではなく農耕もする百姓も兼ねていた。神官の父が小野家所領地の管理を担当していた関係で、磯は小野家に奉公していたところを、朝右衛門に見初められた後妻であった。磯は「至って丈高く色黒く気分鋭し」」(『おれの師匠』)とあるように、頭脳鋭き長身の女性であったが、飛騨高山郡代の奥方身分になっても、決しておごらず威張らず変わらずに人に接していた。陣屋での生活でも、いつも自分で身体を動かす陰日なたのない明るい性格であった。

このような磯であったからこそ、鉄太郎を寺子屋に通わせることにしたのであろう。寺子屋とは町人や下級武士の子弟が通っていた民間の初等教育機関であって、全国に設立していた。江戸で寺子屋を営んでいたのは、勤番の余暇を生かした御家人や町人による専業経営者が多く、入学金・月謝などは家々の経済状態によって融通がきき、これが就学率をあげる大きな要因になっていたが、これは高山でも同様であったと思われる。

この草の根庶民教育の広がりと、教育水準の高さが、明治維新になって日本の近代化を推進するための大きな力になったのであった。しかし、草の根教育施設であるから、郡代の子息が通うということは異論を呼ぶことになった。

だが、母の磯は鉄太郎を町中の町民と同じ教育を受けさせた。豊かな自然環境のもと、町方の普通の子供と一緒に学んだ鉄太郎は、当然のことながら明るい物事にこだわらない性格を構成していった。

一方、郡代としての父小野朝右衛門高幅は有能な郡代であったと、「飛騨天領史」(高山市教育委員会発行)は以下のように述べている。
「郡代は幕末三舟の一人、山岡鉄舟の父です。幕府・旗本の出で、通称を朝右衛門といいます。弘化二年(1845)四月八日、飛騨郡代に任ぜられ、同年八月二十四日、高山陣屋に入りました。『高山市史』と『岐阜県史』は、小野郡代は豊田郡代(注 前任の郡代)の行った天保改革政策のあとを受けて、その維持につとめたと、ひとしくのべています。市史には具体例として、町会所を利用して医師が会談することをすすめ、飛騨人がもつ丙午出世児の迷信を打破するよう諭し、この頃宗門人別帳が形式的であったものを、より実際的にするよう指導し、また、八十歳以上の長寿者に褒美を与えるなど、具体的な例をあげています。当時日本の国では、外国船がひんぱんに出入りするなど、緊迫した世情でもあり、それに備えて嘉永五年(1852)閏二月、城山で狼煙の実演を行い、上野(三福寺)では陣立を実施しています」

陣立とは、軍勢を整え、隊伍を連ねることですから、小野朝右衛門郡代は時代の感覚に敏感な人物であったと想定される。しかし、この陣立によって小野朝右衛門が死を招いたという説もあり、それを伝えるのは小倉鉄樹の著書「おれの師匠」である。

「小野郡代の急死については当時色々の取沙汰があったが、朝右衛門が盛んに武道を奨励し、幾度か陣立を行った為に、幕府にうたがわれ、遂に違法として咎を受け、自刃した云ふ説がある。然し師匠(注 鉄舟のこと)自身は『父は脳溢血で死んだのだ』と言われている。発喪せられたのは死後四ヶ月もすぎた六月五日で其の時の廻状等今も残っている。遺骸は宗猷寺に葬られ、法謚は、徳照院殿雄道賢達大居士である」

真実は分からないが、第二十一代飛騨高山郡代の小野朝右衛門高幅という人物の一面を示していると考えたい。

このような両親との高山陣屋での生活は、鉄舟の生き方に大きく影響を与えていった。次号も鉄太郎の豊かな感性を育ててくれた、高山時代とその背景をお伝えする。

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2007年02月22日

鉄舟誕生とその時代背景

鉄舟誕生とその時代背景
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

2005年九月十一日の衆議院総選挙で多くの新人議員が誕生した。その八十三人に対し昨年末、日経新聞の田勢康弘氏が「政治家の心構え」として、西郷隆盛の「南洲翁遺訓」を手渡し、次のように語った。(日経新聞2005年12月5日)

この「南洲翁遺訓」に「国のリーダーとしての生き方がすべて書いてある。ぜひ読んでほしい」。また、要点は一つだと読み上げたのが「命もいらず名もいらず、官位も金もいらぬ人はしまつに困るものなり。このしまつに困る人ならでは艱難をともにし、国家の大業はなし得られぬなり」であった。

西郷はこのくだり、誰をイメージして遺訓に書き残したのか。それは山岡鉄舟であった。駿府における江戸無血開城交渉・談判において「すべてを捨て去り迫ってくる鉄舟の人間力」に感動した西郷は、勝海舟との江戸薩摩屋敷における正式会談後、江戸市中を見渡せる愛宕山に登り、鉄舟を評して語った言葉が「南洲翁遺訓」に記され、これが本連載のタイトルにもなっているのである。

山岡鉄舟は小野鉄太郎として天保七年(千八百三十六)六月十日に、本所大川端四軒屋敷の御蔵奉行役宅、今の蔵前橋辺りの隅田川端に生まれた。時は明治維新前三十二年、日本が未曾有の大改革を目前にして、国全体が風雲急なる時代であった。

二十歳のとき山岡家に養子に入り、以後山岡姓となるが、小野鉄太郎として生まれた御蔵奉行役宅を、安政三年(千八百五十六)の切絵図と現代地図で確認してみると、台東区蔵前一丁目の都立蔵前工業高校から二丁目の東京都下水道局あたりで、蔵前橋通りに沿った蔵前橋に近いところに「浅草御蔵跡」の碑が立っている。

御蔵奉行は時期により定員が三名から九名に変わり、したがって役宅もいくつかあり、そのひとつで鉄舟が誕生したのである。御蔵奉行とは勘定奉行の管轄下で、全国各地の幕府領地から送られてくる年貢米の出納、保管、御蔵の営繕管理などを行う役目であり、札差の手を経て、市中に渡す手続きが行われたところである。札差とは旗本・御家人の蔵米取の代理人として、御蔵から支給される俸禄米を米問屋に売り払い、手数料を得ることを本業とする商人であったが、いつしか旗本・御家人に蔵米を担保として金貸しを行う、武士御用達の金融機関となった。

さて、その御蔵奉行としての父小野朝右衛門高幅は、六百石取の旗本であり、母は常陸の国鹿島神宮神官である塚原石見の二女磯であり、後妻であった。

鉄舟宅の内弟子として、晩年の鉄舟の食事の給仕や身の回りの世話などを、取り仕切っていた小倉鉄樹の著書「『おれの師匠』島津書房」に、「鉄舟の同胞」と題して鉄舟の兄弟一覧が掲載されている。これによると鉄舟が生まれる前、すでに男四人、女三人の子供がいて、長男の幾三郎が早世とあるので六人の子供がいたことになる。ここに嫁いで来た磯は三番目の妻となるのであるが、結婚に当たって、最初は塚原石見に断られたようである。

当時小野朝右衛門は、塚原石見の家の近くにある小野家所領地の管理を塚原に依頼しており、その縁で磯を見初めたのであるが、六百石取の旗本であっても、五十半ば過ぎの男と、三十歳以上離れた若い娘の磯との結婚は難しかった。

そこで、結婚するに当たって念書が交わされたという。小野朝右衛門と塚原石見の間で「生涯不自由はさせない。倅の代になっても粗略にすることはないことを申し渡す」として、署名をしたものが山岡家に残っているという。(『山岡鉄舟 幕末維新の仕事人』佐藤寛著 光文社新書)

朝右衛門を魅了した磯については「當時師匠と同門だった富田某の日記に『至って丈高く色黒く気分鋭し』」(おれの師匠)とあるように、頭脳鋭き長身の女性であった。一方、朝右衛門は「父朝右衛門高幅は、あまり聞かぬところをみると尋常の人であったらしい」(おれの師匠)とあるように、特別に目立つ人物ではなかったようである。

なお、朝右衛門は「身長五尺七寸(百七十三センチ)当時としては大柄ではある」(山岡鉄舟 幕末維新の仕事人)と両親共に長身であった。また、「師匠の六尺二寸二十八貫の體軀も母に似たものと思はれる」(おれの師匠)とあるように、鉄舟の立派な体格は両親の血筋を受けていた。

朝右衛門と磯との間には、鉄太郎(鉄舟)をはじめとして六人の男の子が生まれた。したがって、朝右衛門は十三人の子供を生んだことになる。なお、鉄太郎は朝右衛門の五男となるが、鉄太郎と長男を意味する「太郎」を名づけられたこと、それは磯にとっては長男であることからと思われるが、ここにも朝右衛門と磯との力関係が伺える。

さて、鉄太郎は十歳のときに、朝右衛門が飛騨高山の郡代として赴任することになり、一緒に飛騨高山に向かったのであるが、それまでの鉄太郎については、九歳のときから真影流久須美閑適斎の道場で剣術を習い始めたという程度のみで、特別に言い伝えられていることは残っていない。

というのも鉄舟は生涯を通じて、日記や自叙伝を残さなかったので記録がない。小倉鉄樹が、鉄舟の自叙伝を筆記したいと相談したところ「そんなことはしなくともよい。書かなくつたつて残るものなら後世に残るし、残らぬものならいくら詳しく書いたつて消えてしまう」と相手にされなかったと述べている(おれの師匠)。したがって、身近に居た人や、周辺の人が書きとめておいたもの以外に史料がないのである。

しかし、飛騨高山に移ってからは、富田節斎の日記で知ることができる。鉄太郎に習字や素読を教え、小野家と日常的に接していたため、日記で鉄太郎の行動が分かるので、これについては次回以降、順次お伝えしていきたい。

さて、鉄舟のすごさは「南洲翁遺訓」にある通りで、さすがに西郷隆盛である。鉄舟の本質を一瞬にして見抜き、的確に表現している。またそれが、鉄舟が生きた時代と今とは大きく異なるのに、一国の政治運営を司ることになった小泉チルドレンに対する心構えとして、それも最も大事な要点として伝えられたこと、その意味するところは重要である。

人はその存在した時代にしか生きられず、必ずその生きた時代から影響を受けるものであって、これは鉄舟も同じである。だが、百三十八年前の幕末時の生き方が現代の政治家に心構えとして示された事実を考えると、鉄舟の生き方の中に、何か時代を超える本質的なものが存在していると思う。

また、これを検討することが、本連載のタイトルである「命も、名も、金も要らぬ」と評される人間になれたのか、それを解明することに通ずるはずである。しかし、その検討の糸口を何に求めたらよいのであろうか。難しい課題である。

それは、やはり西郷から始めたいと思う。愛宕山での西郷から検討したいと思う。

江戸無血開城の正式会談後、愛宕山に海舟と向かったことは前述した。そこで以下の会話が両者間でなされたと海舟が述べている。
「西郷はためいきをついて言うには、”流石は徳川公だけあって、エライ宝をおもちだ“というから、どうしたと聴いたら、イヤ山岡さんのことですというから、ドンナ宝かと反問すると、”イヤあの人は、どうの、こうのと、言葉では尽くせぬが、何分にも腑の脱けた人でござる“」(『山岡鉄舟』 大森曹玄著 春秋社)

この後に、冒頭の「南洲翁遺訓」に記された内容が続くのであるが、ここでは西郷が発した「エライ宝物」という表現に注目したい。それは、当然に鉄舟を指してはいるが、その言葉の裏に徳川幕府に対する評価もあると考えたいのである。ということは、徳川幕府が倒壊する時に至って、突如として一介の軽輩旗本を、それも江戸を戦火から救う重要な交渉・談判に登場させ、見事に成し遂げさせたというところ、そこに徳川幕府における人材層の豊かさと、懐の深さを感じ、これは西郷も同様ではなかったと推測したいのである。

さすがに幕府には隠された優れた人物がいるものだと、鉄舟を目の当たりにして思ったに違いない。それが「エライ宝物」ということになったのだと思う。この推測が妥当とするならば、その意味するところは徳川政治というもの、それは封建体制下ではあったが、意外にすばらしい政治が行われていたと考えられ、西郷の「エライ宝物」発言は問題の本質を突いているのではないかと思われるのである。

そのあたりの研究が進み、実は、最近の歴史研究では「暗黒の江戸時代」というのは、虚像であったと指摘されつつある。「明治政府は幕府を転覆して権力を掌握したから、幕府政治をことさらに暗黒なものとして描く必要にせまられた。しかも『暗黒の近世』という虚像は、反政府の運動を展開した自由民権運動家をもとらえた。自由民権家も、文明開化という時代の波にとらえられ、江戸時代を『未開』、『暗黒』と決めつけた点においては明治政府と異口同音であった」と指摘するのは「『開国と幕末変革』井上勝生著 講談社」である。江戸時代の実態が解明され、従来認識から変化すべきと主張しているのである。

つまり、鉄舟が生まれ育った江戸時代は、我々が思い込んでいるような実態とは異なっていて、割合自由なシステムで運営されていたのではないかと思われるのである。

そこで、まず鉄舟の生まれ育った、天保という時代(千八百三十年~四十三年)までの歴史の流れを、ざっと振り返ってみることから検討してみたい。

江戸時代には三大改革の時代があった。享保、寛政、天保であるが、その系譜を振り返ると、そのスタートは元禄時代にある。元禄時代(千六百八十八~千七百三)は五代将軍綱吉の時代にあたり、側用人柳沢吉保が権威をふるった時期で、華やかだが賄賂が横行し、生類憐れみの令などの悪法が出され、幕府の財政が困難を迎えた。

この後に八代将軍吉宗が登場し、享保時代(千七百十六~三十五)の改革を行った。これは政治改革ともいうべきもので、幕政を引き締めて倹約を励行し、財政を好転させ幕府を立て直して、吉宗は「幕府中興の祖」と呼ばれた。

ところが、その後の十代将軍家治の時代に側用人田沼意次が強い権勢をふるい、賄賂、汚職の腐敗した政治が行われた田沼時代となった。天明七年(千七百八十七)に筆頭老中に松平定信が就任し、田沼の政治を悪政であると徹底的に批判し、厳しい倹約と文武の奨励による綱紀の粛正などの寛政の改革を断行した。

しかしながら、十一代将軍家斉の五十五人もの子女をもうけた大御所時代になると、老中水野忠成が権勢をふるい、田沼時代の再来かのような賄賂、汚職がはびこった時代が来て、家斉の没後その大御所政治を徹底的に批判して改革を行ったのが、老中水野忠邦で天保の改革と呼ばれている。

このように見てくると、幕府政治は緩みと緊張を繰り返し、「悪政」の後に「善政」あるいは改革が行っていることになるが、その中の徳川幕府最後の天保改革時に鉄舟が幼少時代を過ごしたのである。

一般的に人は幼少時代の過ごし方で、性格に影響を受けることが多い。鉄舟の性格は後年の貧乏時代であっても、また、いくら要職に就いていても、あまりカネとモノにこだわらない性格であった。これは「南洲翁遺訓」に記されている通りであるが、この鉄舟のすばらしい性格も、その育った時代環境から影響を受けているはずである。

では、鉄舟が育った天保時代は、そのような性格を作ってくれる、豊かで問題の少ない社会であったのであろうか。

実は、この天保の時代は享保の飢饉、天明の飢饉とならぶ、江戸三大飢饉の天保飢饉(天保三年~九年・千八百三十二~三十八)の時で、異常気象から七年間も凶作が続き「七年ケカチ(飢渇)」といわれる時代で、中でも鉄舟が生まれる三年前の天保四年は、冷雨、大雨、大洪水が重なって、大凶作となった年で「巳年のケカチ」として長く記憶されるほどであった。また、天保の時代は一揆が多いことで知られている。鉄舟が生まれた二年後の天保九年には、全国で九十件以上の一揆や騒動がおきているし、その前後の年にも多発している。

このように見ていくと、鉄舟が生まれ育った時代は、災害が多く暗い混乱の社会であったと思われるのだが、しかし、実態は異なっていて、豊かな感性の鉄舟を育むに足る安定した社会であったというのが、最近の歴史研究の成果から判明した事実である。次回はその事実をいくつかの事例で証明し、少年鉄太郎が飛騨高山で、豊かに育つ姿をお伝えする。

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2007年02月21日

望嶽亭に伝わる真実

 望嶽亭に伝わる真実
 
 まず、近代日本のスタートとなった幕末維新という時代を、もう一度ざっと振り返ってみたい。
 
 まず、当時の基本的背景状況としては、徳川幕府がその本来の姿ではなくなっていたことがあげられる。歴代の徳川幕府将軍は征夷大将軍として、朝廷から兵権と政権を掌握し、日本全体を取り仕切る権限を与えられていたから、たとえ大藩大名といえども幕府政治に直接参画できないことになっていたはずである。

ところが、幕末になると、薩摩を代表とする、いわゆる雄藩が朝廷とともに、国内政治に参画し始めた。どうしてこのような実態となったのだろうか。
 
 すべての始まりは嘉永6年(1853)6月3日の、米国東インド艦隊司令長官ペリーが率いる黒船艦隊四隻が来航し浦賀(現在の久里浜)に上陸したことであった。
当時、欧米諸国は19世紀中頃から資本主義が進展し、市場を求めてアジアに急接近しつつあった。ペリーはアメリカ大統領の親書を携え、大砲で脅しをかけながら、日本に開国を迫った。それに逆らうことは、隣国の清国のように、欧米諸国の蚕食される可能性が高かった。
侵略されつつある中国の実情を、日本の支配層は的確に把握しており、それに対して強い戦慄と、強烈な危機感を持ち、日本をどのような国家にしていくかという方向性と方策をめぐって、様々な混乱・衝突・戦いが発生した。
 
 安政期(1854~60)は、ペリー再航と通商条約の勅許と将軍継嗣問題、それをきっかけとした安政の大獄、その結果、大老井伊直弼が桜田門外で暗殺され、これで政治状況は一気に混沌化した。
 文久から元治期(1861~64)は、長州を中心に「攘夷」思想が日本中をかき回した。慶応期(1865~68)に入ると、薩摩が長州との「雄藩連合」を率いて幕府と対立し始め、幕府による江戸薩摩藩邸焼き討ちから、鳥羽伏見の戦いでの幕府軍敗退、江戸無血開城へと、幕末維新激流が一気になだれ込み、明治維新が成立したのであった。
 
 この最後の江戸無血開城に、わが主人公の山岡鉄舟が突如登場し、官軍の実質的リーダーである西郷隆盛との駿府会談を成功させたのである。

 しかし、何故に時代は西郷という人物を、国家体制の局面を左右させるタイミングに、リーダーとして登場させたのであろうか。 

 これに対する答えは極めて錯綜していて容易ではないが、西郷が持つ時代への変革方向性、それは新時代体制への考え方であり、方策であったが、それが時代の流れをつかんでいた、ということが最大要因であったと思われる。
だが、この西郷には豹変ともいえる考え方の変化があったこと、その事実を指摘しなければならない。時代の流れを一貫してつかんでいたとはいえないのである。

 実は、第一次長州征伐まで、西郷は長州に対して強い姿勢で臨んでいた。つまり、幕府側を代表する重要な人物であった、という事実である。これは幕府が征長総督府を組織したとき、薩摩藩を代表して西郷が総督府参謀となったことでも分かり、総督は尾張藩の徳川慶勝であったが、実際の指揮は西郷が全て仕切っていたのであった。

 その西郷が、なぜに自らの考え方・方針を変え、長州と同盟を組み、幕府に対抗し、官軍参謀として、対幕府戦争の前面に登場してきたのであろうか。この西郷の変心から明治維新への構想が実質的にスタートした、といっても過言でないほど重要な事件であった。

 それは、勝海舟との出会いによってもたらされた。元治元年(1864)の9月11日、西郷は時の幕府軍艦奉行であった海舟と会うため、大阪の旅館に出向いた。西郷は「轡の紋のついた黒縮緬の羽織」だったと海舟が述懐しているが、そこで海舟が西郷に語ったことが、西郷を動かし、西郷の考え方を反転変化させ、これが明治維新へ大きく動くきっかけとなったであった。

 人は自覚的に、つまり、自らがもつ物事へのとらえ方や考え方を自分で変える、ということはかなり難しい。それも価値観に属する分野については、特に難しい。
 だが、時代を左右する大人物には、その特に難しいと思われる自覚的変化によって、自らの考え方を大転回させ、次の時代を創りあげていくものである。その最適例がこのときの西郷であった。
 
 海舟は、西郷が尋ねた時の大問題であった兵庫開港延期について、次のように語った。
「小生は、別段この談判(注 兵庫開港延期問題)を難件とは思はない。小生がもし談判委員となったら、まづ外国の全権に、君らは、山城なる天皇を知って居るかと尋ねる。すると彼らは、必ず知って居ると答えるだろう。そこで、しからば、その天皇の叡慮を安んじ奉るために、しばらく延期してくれと頼むのサ。そして一方に於いては、加州(注 加賀)、備州、薩摩、肥後その他の大名を集め、その意見を採って陛下に奏聞し、更に国論を決するばかりサ」(『勝海舟全集・21・氷川清話』講談社)

 この海舟発言を聞き、西郷は唸り、その意味する重大さに驚愕した。何故なら、日本政治の最重要問題処理を、有力諸侯に主体となって当たらせるとい発言であり、これは有力諸侯を国政運営の中心に位置させるという構想につながり、その背景には「幕府には政権担当能力がない」という含みを持たせていたからであった。

 これは以前から海舟の持論ではあったが、とうてい幕臣から発言される内容ではない。しかし、逆に西郷にとっては眼を輝かせる見解であった。海舟の持論の意図するところを突き詰めると、一種の「共和政治」を志向するものであり、それだけに幕府内では反発が強く、実際に海舟は、この年の10月に軍艦奉行の役を降ろされたうえ、蟄居を命じられてしまう。
 
 だが、幕府内部の反発が強いということは、薩摩側からみれば「その通りだ」という見解になるので、当然、西郷はこの「共和政治」構想に触発され納得し受け入れ、この会談を境に幕府を見限る方向に動き出したのであった。

 その動きの第一弾は、対長州政策の変更であった。ここで長州を攻め潰すのは幕府を助ける結果になってしまう。ここは長州の政治的力量を温存し、「共和政治」の一翼を担ってもらうことの方が得策である。と考えるのは自然であり、その結果、第一次長州征伐・征長総督府参謀でありながら妥協的に終わらせる、という結果を西郷は図ったのである。

 西郷について詳しい作家の海音寺潮五郎氏は、大坂会談時の海舟発言を次のように推察している。「長州征伐のことについて、勝は西郷にある程度の忠告をこころみたように思われるのである。おそらく、その忠告はこうではなかったか。『長州は征伐しなければなりませんが、そうひどく苦しめるのは、わたしは賛成出来ませんね。ひどく痛めつけるとなると、どうしても長くかかります。今は日本人同士が長く内輪喧嘩していていい時ではありません。欧米列強が野心を抱いて、日本のすきをうかがっていることを、われわれはいつも考えていなければならんのですよ。長州が恭順謝罪の意を表するなら、適当にその実をあげさせるというくらいで、ゆるしてやるべきでしょう』勝という人は、終始一貫、日本対外国ということだけを考えて、勤王・佐幕の抗争などは冷眼視、といって悪ければ、第二、第三に考えていた人である。明治になってからの彼のことばだが『愛国ということを忘れた尊王など、意味のないものだ』というのがある。西郷とのこの最初の出会いの時、勝が上述のようなことを言わないはずはないと、ぼくは思うのである」(『西郷隆盛』学研文庫)

 この海舟・西郷会談が、その後の西郷の考え方を大きく変えさせ、結果として薩摩藩の方針を変化させ、長州と結びつき、反幕府体制をつくっていくきっかけとなった。

 さて、鉄舟に話を変えたい。鉄舟が西郷と会談するため駿府にたどり着くこと、それが江戸無血開城成功への転換点であったが、駿府までの行程には従来から三つの説がある。

 一つは、駿府まで薩人益満休之助が同行していたという説であり、これが一般的に唱えられている。二つ目は、益満は体調を崩し、箱根からは鉄舟の単独行であったという説である。もう一つは途中で体調を崩した益満が追いついたという説である。

 この三説については、鉄舟自ら記録を残していないので、関係者間で長年にわたって論議されているところであるが、この中で記録といえるものが存在しているのは第二説のみである。その記録とは静岡県庵原郡由比町西倉沢「藤屋・望嶽亭」に代々口承伝承されているもので、現在の口承伝承者は望嶽亭・松永家23代当主、故松永宝蔵氏の夫人である松永さだよさん(80歳)であり、その内容が「危機を救った藤屋・望嶽亭」(若杉昌敬編)で明確にされており、前号で要約抜粋して紹介した。

 今回、改めて望嶽亭を訪れ、さだよさんの語りをお聞きしているうちに、不思議な新鮮感覚に包まれた。さだよさんの語りがあまりにも瑞々しいのである。代々伝えてきている時代は、遠い幕末時で、今を遡る138年前のことなのに、さながら昨日の事件のように感じてくるのである。これはどうしたのか。どうしてこのような新鮮な感動が湧き上がってくるのか。

 さだよさんの穏やかな笑顔を見続け、身体を捉えたこの不思議感覚を考えているうちに、ある一つのヒントを得ることができた。それは代々という歴代的な言い伝え、という意味合いと反対側の概念である「記憶が短い」ということである。口承伝承を生んだ20代松永七郎平の女房「かく」との時間的距離が近く短いのである。口承伝承してきた人が少ないという意味でもある。

 望嶽亭に代々口承伝承され始めたのは、当時の望嶽亭20代松永七郎平の女房「かく」からであった。慶応4年(1868)の3月7日夜半にかくが、鉄舟を助けるために体験した強烈な出来事、それが鮮烈な印象としてかくの脳裏に深く刻まれ残って、以後、代々口承伝承されてきたのであった。というこの経緯から、伝承は代々何人もが経由して伝えてきた歴史をもち、昔からの古臭い物語ではないか、という思いを当然一般的に持つ。確かに、時代は幕末時で、138年前であったので、そのような感覚に陥りやすい。

 しかし、望嶽亭・松永家の系図を調べてみると、「かく」が体験したこと、それが現在のさだよさんに伝わる間には、たったの一人しか間に介在していないのであった。
かくが官軍と対応したときは33歳、75歳までご存命で73歳のときに、孫に嫁いできた「その」に直接語り伝承させ、その「その」が55歳の時に、現在のさだよさんが18歳でお嫁に来て、伝承を受け継いだのであるから、望嶽亭を語る伝承の道は「かく⇒その⇒さだよ」という最短時間で伝承されてきている、という事実である。

 これは重要である。口承伝承として記憶され、残され、伝えられている時間は長いのであるが、伝承者として携わった人は少ない。つまり「記憶が短い」のであり、歴史は短いのである。この説を採る人物に作家の江崎惇氏がおられる。著書「誰も書かなかった清水次郎長」(スポニチ出版)で望嶽亭説を唱えている。

 また、この説を紹介している歴史学者に高橋敏氏(国立歴史民俗博物館名誉教授)がおられる。「鉄舟は勝海舟と相談のうえ、勝が江戸焼打事件の際、捕らえ助命した薩摩藩士の益満休之助を同道し、急遽駿府に派遣した。東海道を西下途中益満が腰痛のため三島で脱落、単身駿府を前に難所の薩埵峠まで来たところで官軍の銃撃を受け、間宿倉沢の茶屋望嶽亭の松永氏に隠れた。駿府潜入した鉄舟を助けて道案内したのが清水次郎長であった」(『清水次郎長と幕末維新』岩波書店)と著書にあるように、高橋敏氏は実際に望嶽亭まで調査に行かれている。

 鉄舟の駿府行きは本連載で何度も書くように、鉄舟意外にはなし得なかった偉業である。そしてこの偉業をひそかに助けた人たちがいたはずである。その事実を伝える松永さだよさんの語りは魅力的であった。

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2006年12月21日

危機を救った「望嶽亭」

危機を救った「望嶽亭」
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

時代の変革とは、偉大な人物の登場によってなされ、それらの人物に共通しているのは時流を捉え、つかみ、編集し、行動できる力量を備えていることではないかと思う。
徳川幕府時代から明治への大変換時、その起点となった江戸無血会場、そこへ直接的に関わって成功させた人物は、西郷隆盛であり、勝海舟であり、山岡鉄舟であったが、この三人に共通していたことは、時流に適合した改革者としての要件を保持していたことであった。つまり、その時代のなかで、抜きんでる力量を備えていたのである。

では、その抜きんでていた力量とはどのようなものであったか。それを当時、お互いに相手を評価した記録から確認してみたい。ただし、鉄舟については、今後も本連載で人物像を詳細に評価・検討していくので、ここでは海舟と西郷、この二人についてお伝えしたい。

まず、海舟が西郷をどのように評価していたかである。
≪おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南州とだ。
横井は、西洋の事も別に沢山は知らず、おれが教えてやったくらゐだが、その思想の高調子な事は、おれなどは、とても梯子を掛けても、及ばぬと思った事がしばゝあったヨ。おれはひそかに思ったのサ。横井は、自分に仕事をする人ではないけれど、もし横井の言を用ゐる人が世の中にあったら、それこそ由々しき大事だと思ったのサ。
その後、西郷と面会したら、その意見や議論は、むしろおれの方が優るほどだッたけれども、いわゆる天下の大事を負担するものは、果たして西郷ではあるまいかと、またひそかに恐れたよ。
そこで、おれは幕府の閣老に向って、天下にこの二人があるから、その行末に注意なされと進言しておいたところが、その後、閣老はおれに、その方の眼鏡も大分間違った、横井は何かの申分で蟄居を申付けられ、また西郷は、漸く御用人の職であって、家老などいふ重き身分でないから、とても何事も出来まいといった。けれどもおれはなほ、横井の思想を、西郷の手で行われたら、もはやそれまでだと心配して居たに、果たして西郷は出て来たワイ≫(『勝海舟全集・21・氷川清話』講談社)
また横井小楠の人となりを『氷川清話』の「注意書き」でこう言っている。
≪横井小楠は、西郷ほど有名ではないが、肥後出身の儒学者で、一時は越前藩に招かれて藩公の賓師となり、松平春嶽が文久二年に幕府の政治総裁職になったときは、その顧問格で幕政にあずかった。その年の暮、江戸で襲われて無腰で逃げるという事件があり、翌年、肥後藩に戻って士籍没収の処分を受ける。「横井は何かの申分で蟄居を申付けられ」とは、そのことを指す≫

海舟が「果たして西郷は出て来たワイ」と指摘した通り、西郷は幕府の前に東征軍大総督府参謀として登場し、立ちはだかってきた。海舟の人物観は正しかったのである。
その立ちはだかる西郷に、幕府は和平使者を幾人も差し向けたが、撥ねられ、受け入れられず、和平への道は閉ざされたかと思ったそのときに、突如として一介の旗本である鉄舟が時代の前面に登場し、決死の駿府駆けを成し遂げ、江戸薩摩屋敷における西郷・海舟会談につなげ、ここに近代日本の基点が成立したのである。
この明治新日本のスタート時に、海舟と西郷という人物が存在しなかったならば、別の展開になっていたと思われるほど、この二人の人物が果たした役割は偉大である。
つまり、日本の近代化がスタートした明治時代の幕開けというタイミングに、時の官軍に東征軍参謀として西郷が存在し、一方の幕府に海舟という時代の流れを国家的に編集できる人物がいたこと、それが明治維新を成功させた背景であった。
もう少し海舟の西郷評をみてみよう。
≪官軍が品川まで押し寄せて来て、今にも江戸城へ攻め入ろうといふ際に、西郷は、おれが出した僅か一本の手紙で、芝、田町の薩摩屋敷まで、のそゝ談判にやってくるとは、なかゝ今の人では出来ない事だ。
あの時の談判は、実に骨だったヨ。官軍に西郷が居なければ、談はとても纏まらなかっただろうヨ。その時分の形勢といへば、品川からは西郷などが来る。板橋からは伊地知などが来る。また江戸の市中では、今にも官軍が乗込むといって大騒ぎサ。しかし、おれはほかの官軍には頓着せず、たゞ西郷一人を眼においた≫(同上)
正に海舟が述べたとおり「たゞ西郷一人を眼においた」交渉作戦は、西郷という人物の偉大さを示し、時代が西郷を迎え、西郷によって新しい時代がつくられていくこと、それを海舟が知っていたことを示している。このように海舟が認識した西郷という人物は、当時の日本で際立つ力量の人物であった。

では、その際立った人物の西郷からみた海舟、それはどのような人物像であったのか。
西郷が海舟に初めて会ったのは、元治元年(1864)の9月11日。海舟が神戸の海軍操練所から老中の阿部豊後守に呼ばれて大坂まで出てきた際、旅館の一室に西郷が訪ねてきたときであった。
当時の政治的国家重大事件は第一次長州征伐であり、兵庫開港問題であった。このころの西郷は征長に非常に熱心で、幕府の戦争準備が手緩いのをはがゆがって、軍艦奉行の海舟の意見を問いただし、諸外国の兵庫開港要求についても海舟の意見を聞きに来たのであった。この西郷に対し海舟は、得意の相手の逆手をつく論法をもって、現状幕府の腐敗しきった内情を暴露し、雄藩の手で政治を一新しなければだめだと説いたのであった。これを聞いた西郷は、その結果の報告を含めた大久保一蔵へあてた手紙で、海舟を次のように語った。
≪勝氏へはじめて面会仕り候ところ、実におどろき入り候人物にて、最初は打叩くつもりにて差越し候ところ、とんと頭を下げ申し候。どれだけ知慧のあるやら知れぬ塩梅に見受け候。まづ英雄肌合の人にて、佐久間(象山)より事の出来候儀は、一層も越し候らはん。学問と見識とにおいては、佐久間抜群のことに御座候へども、現時に望み候ては、この勝先生を、ひどく惚れ候≫(『海舟余波』江藤淳著)
これは殆ど「べたほめ」といえる内容である。この手紙は大久保公爵家に保存されていたが、このとき西郷と同道して海舟に会った伯爵吉井友美(幸輔)が、明治20年ごろになって大久保家から入手し、明治天皇の天覧に供した。そのとき吉井が海舟にもそれを見せたところ、海舟は西郷の勝評を見て涙を流さんばかりに感激し、のちに側近にむかって、
≪あの手紙には感じたよ。勝は喰えない男だ、といふくらゐに思はれていたろうと思ったら、かくのごとく見てくれたことは真に感謝にたへない≫(同上)と言ったという。
これらの記録から分かることは、人物は人物をお互い評価し合っていることである。
なお、この大坂での会談は、結果的に西郷が持っていた幕府に対する考え方を、大きく変えるきっかけになった。西郷が考え方を変えたということは、薩摩藩の幕府に対する方針が変わったという重要な歴史的会談である。これについては次回に解説したい。
 
さて、主題を鉄舟に戻したい。鉄舟が駿府にたどり着き、西郷に会うこと、そのことこそが江戸無血開城へのターニングポイントであった。何故ならば、西郷はその独特の人物判定価値観により、たちどころに鉄舟の本質である「すべてを捨て去ることができる力量」に感服し、鉄舟の戦略目的であった「慶喜の生命安全」について、「吉之助が請け負う」という言質を鉄舟に与えたからだ。
では、どうやって鉄舟は駿府にたどりつけたのか。それを明らかにする一つの秘話がある。その秘話を語るのは、静岡県庵原郡由比町西倉沢「藤屋・望嶽亭」の松永家23代当主、故松永宝蔵氏の夫人である松永さだよさんである。望嶽亭に代々口承伝承されてきた内容、それは慶応4年(1868)3月7日深夜、藤屋・望嶽亭の玄関の大戸を密かに叩く一人の侍がいた、ということから始まる。以下は松永さだよさんが語り、それをまとめた「危機を救った藤屋・望嶽亭」(若杉昌敬編)からの要約抜粋である。

 慶応4年3月7日の深夜である。
 鉄舟は、「由比」倉沢の薩埵峠に差し掛かった。ここは五十三次の中でも難所中の難所といわれ、海岸沿いの道は、波にさらわれないで渡りきる潮時が難しく「親知らず子知らず」と呼ばれている。もう一方の山道は切り立った崖に沿って曲がりくねった細い峠越えの道であり、鉄舟はここを急ぎ足で登りだした。そのとき「止まれ!誰か!」と官軍の誰何。薩摩藩の益満休之助は、箱根で体調を崩して同行していない。如何に鉄舟といえども一人では官軍の中を突破できない。鉄舟は急いでもとの山道を引き返した。官軍は怪しいとみて鉄舟の背に鉄砲を撃ってくる。急坂を降り走って、薩埵峠の麓まで戻ると、そこは望嶽亭の前であった。
 「たのむ!たのむ!」「たのむ!たのむ!」「・・・・・・」
 官軍に悟れぬよう、押し殺した必死の声で大戸を叩く。ようやく望嶽亭の中で、大戸の近くに人が立つ気配がし、そーと戸を開けかかったその瞬間に、鉄舟がすべり込む。大戸を開けたのは望嶽亭20代松永七郎平の女房「かく」であった。 
 「駿府の大総督府に行かねばならぬ大事な身である。官軍に捕まるわけにはいかない。匿ってもらいたい」と低く重い声で、一途に頼み込む鉄舟をみた七郎平は「これは深い訳のある人だ」と瞬時に判断、母屋と切り離された15畳の蔵座敷に通し、厚く重い漆喰つくりの扉を閉めた。客間でもある蔵座敷で、改めて鉄舟から事の次第を聞いた七郎平は「それならば陸路は危ない。海路しかない」と、鉄舟を漁師姿に着替えさせ、船の手配と共に、清水の侠客次郎長に「この方は、大事なお方だから無事駿府の大総督府に届けてもらいたい」と手紙を書いた。

 表の通りに官軍の足音が迫ってきた。蔵座敷から海に抜ける階段を駆け降り、望嶽亭お抱え漁師の栄兵衛が待つ櫓舟に乗り込む。「栄兵衛、頼むぞ」の声と共に、艫(とも)を沖に向け押し出し、栄兵衛も満身の力を込めて水棹(みさお)を突き、引き潮に乗って江尻湊(現清水港)を目指した。無事、江尻湊に漕ぎ着き、鉄舟は栄兵衛の案内で次郎長のところへ向った。七郎平の手紙を読み終えた次郎長は「倉沢の望嶽亭・七郎平の頼みとありゃこの次郎長、命に懸けて守りやしょう」と子分に家の周りを警戒させ、鉄舟を座敷に上げる。翌3月8日、鉄舟は、はやる気持ちを抑えて次郎長宅で休息した。
いよいよ9日、鉄舟は次郎長と子分に守られ、清水から駿府の西郷が宿泊していた伝馬町・松崎屋源兵衛宅に向かい、そこで西郷と会見した。

以上が「危機を救った藤屋・望嶽亭」の粗筋であるが、実は望嶽亭20代の松永七郎平が鉄舟との対応に追われている間、女房「かく」は大変なことになっていた。
というのも、官軍が大戸を破れんばかりに叩き「官軍じゃ!早く開けろ」と叫び、開けた途端に「ここに武士が逃げ込んできたであろう」と跳びこんできたからであった。
官軍は、かくの頬に刀の鎬地(しのぎぢ)を当て「隠すと為にならんぞ」と厳しく問い詰めた。武家の出のかくは落ち着いて「お疑いでしたら、屋敷内をお探し下さい」と答える。「よし、くまなく探せ」という隊長の命で、布団部屋から納戸まで銃剣や刀で突き刺し探したが、鉄舟は既に海の上であったので見つからない。すると、官軍は「騒がしてすまなかった」と詫び、小判をおいて立ち去ったが、このときの出来事がかくの脳裏に深く刻まれ、以後、藤屋・望嶽亭に代々口承伝承されてきたのである。
この秘話について、歴史学者は記録がないという立場から認めていない。だが、今回、改めて23代当主夫人の松永さだよさんにインタビューし、これは真実ではないかと確信を持つに至った材料を確認した。これについては次回にお伝えしたい。

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2006年11月07日

西郷の人物判断基準

西郷の人物判断基準
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

慶応4年(1868)3月10日、鉄舟は駿府における西郷との会談結果を持って江戸に戻った。その時の状況を鉄舟が「西郷氏と応接之記」で次のように記している。
「益満と共に馬上談じ、急ぎ江戸城に帰り、即大総督宮より御下げの五ヶ条、西郷氏と約せし云々を詳に参政大久保一翁軍事総裁勝安房に示す。両氏其他の重臣等、官軍と徳川との間事情貫徹せし事を喜べり。旧主徳川慶喜の欣喜、言語を以て言ふ可からず」

益満休之助と共に江戸に戻った鉄舟は、江戸城で大久保と海舟に報告し、すぐに上野寛永寺大慈院一室に謹慎・蟄居している慶喜にも報告した。慶喜の喜びは鉄舟が書き記したように「言葉に表せない程」であった。慶喜が恭順の姿勢を示した謹慎・蟄居、その真意がようやく官軍に伝わったのである。早速に江戸市中に高札を立てて布告した。その大意は「大総督府下参謀西郷吉之助殿へ応接がすんで、恭順謹慎の実効が相立つ上は、寛典の御処分になることになったから、市中一同動揺することなく、家業にいそしむように」であり、この高札によって江戸市民はようやく一安心できたのであった。

この鉄舟の偉業について、海舟はその日記で次のように称えている。
「山岡氏帰東。駿府にて西郷氏へ面談。君上の御意を達し、かつ総督府の御内書、御処置の箇条書を乞ふて帰れり。嗚呼山岡氏沈勇にして、その識高く、よく君上の英意を演説して残すところなし、いよいよもって敬服に堪へたり」(海舟日記3月10日)
更にまた「山岡の帰るにあたり、西郷は大総督府陣営通行の割符を差し出し、山岡に渡し、山岡は深く厚意を謝して暇を告げ、陣営においては、営門にまで山岡を見送ることとなり、山岡は西郷に別辞を告げ、薩人益満を従え、東を指してゆうゆう江戸城に帰りきて、大総督府の宮よりご命令せられた、五ヶ条にもとづき、西郷と盟約をなした顛末を参政大久保一翁やおれらに披露した。おれはそのときの山岡こそ真の日本人と思うて今なお感謝する。そのとき幕府は、直ちにこれを高札として府中に布告した。よって人心初めて安堵の緒についた」(勝部真長編『山岡鉄舟の武士道』)と高く賞賛しているが、この賞賛した背景を考えてみる必要がある。

というのも、すでにみたように徳川側は官軍へ慶喜の恭順姿勢を伝える使者として、静寛院宮(14代家茂夫人)、天璋院(13代家定夫人)、輪王寺宮公現法親王や諸侯からの陳情・嘆願を行ったが、いずれも効果なく、和議嘆願はことごとく手詰まっていた。
そこで再び、海舟が自ら嘆願書を持って上京することを意図し、2月25日上野寛永寺大慈院一室で、慶喜謹慎後はじめてお目通りした。謹慎・蟄居している慶喜の寒々と痩せた肩が海舟の目をうち、この日のことを海舟日記に次のように記している。
「東台(注、東の台嶺すなわち東叡山寛永寺)拝趨、此日、京都へ御使被命べる旨なり。よって陸軍総裁御免を願ふ。夜に入って、諸有司申すところあり、御使の事免さる。軍事之儀取扱ふべき旨仰せ渡さる」「・・・途中省略・・・有司我が帰府を止められ、京師あるひは途中に躊躇せむ時は、ふたたびこれを解かんの術なし」
つまり、海舟の上洛を慶喜は認めたが、その後諸役が評議した結果、海舟が官軍に抑留される恐れがあり、そうなった場合海舟に代わって指揮を執りえる人物がいないことから取りやめになったのであった。
これは去る1月17日、海軍奉行並を命ぜられた海舟が、初仕事として松平慶永に「嘆願書」を出し、この書状をもって海舟が上洛する、ということを提案したときの繰り返しであった。海舟が官軍との和平工作に不可欠の人物であることは、海軍奉行並となった1月の時より更に周りから強く認識されていたが、その理由ゆえ、海舟を特使として派遣することの難しさがなお増していた。
仮に、海舟が官軍側に抑留された場合、海舟に代わりえる人物はいない。それほど海舟が徳川側にとって、かけがえのない人物となっていたことは誰にも分かっていた。何故なら、西郷という大総督府下参謀と親密な関係を持ち得ている人物、それは海舟しか徳川側にはいなかったのである。

そのようなタイミングに鉄舟が突如登場したのである。鉄舟はその時、精鋭隊頭として慶喜を守るため上野寛永寺大慈院につめていた。その鉄舟が慶喜から直接に指示を受けるという異常事態が発生したのである。鳥羽伏見の戦いに敗れ、敗軍の将となったといえども、慶喜は徳川第15代将軍である。一介の精鋭隊頭である旗本がお目通りできるはずはなく、まして直接に命を受けるということは通常考えられない。だが、鉄舟は直接に慶喜から指示を受けたのであった。
加えて、鉄舟は当然に敵将の西郷とは全く面識もなく、官軍と何の交渉ルートももちえていない。これは当たり前である。一介の旗本にすぎないのであるから。その鉄舟が何故に徳川側の運命を左右する大役の交渉人として選ばれたのか。いずれこのところを解明しなければならないが、今はそれにはふれずに西郷との会談結果について検討してみたい。検討するポイントは「どうして鉄舟は西郷との会見・交渉に成功し得たのか」である。

交渉ごととは「自らの利益は何か」を見極めることが、もっとも重要なことであると9月号で解説した。鉄舟が西郷との会談・交渉において、最終的戦略目的としたことは「慶喜の生命の安全確保」である。このことを時の首相の任にあった海舟に相談し、指示を受けるために、氷川神社裏の海舟邸を訪ね、戦略目的を定め、その達成のために薩人益満休之助という強力な随行者を得ることができたが、最終的に西郷を説得しなければならない。
一方、西郷の戦略目的は討幕の蜜勅詔書にあるように「慶喜の殄戮(てんりく●意味・殺しつくす)」である。全く相反する戦略目的を持つ西郷を方向転換させなければならない。そのための特使が鉄舟であった。
確かに駿府において発揮した、鉄舟の全身全霊から噴出した決死の気合と論説の鋭さ、それは正に武士としての絶対忠誠心を理念として昇華させた強固で真摯な抵抗精神であり、後年、真の武士道体現者と謳われた鉄舟ならではの働きであった。だがしかし、それだけで西郷が心底納得したであろうか。理屈・理論だけで西郷は納得し得たのか。疑問が残る。
慶応4年3月13日、江戸無血開城を話し合った江戸薩摩屋敷における海舟・西郷会談後、二人は愛宕山に登ったが、そのとき西郷が「命もいらず、名もいらず、金もいらず、といった始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如きでしょう」と語った。
この内容が、後年西郷の「南州翁遺訓」の中に一節として記されたのであったが、西郷は鉄舟が慶喜を救うための発する鋭い気合と論説、それを聞き、うなずきつつも別の何か、それは西郷の心情を強く打つものであったが、それを鉄舟から感じ取ったからこそ、愛宕山での賛辞の言葉となったのであった。
即ち、西郷が持つ人物評価の判断基準、人の価値を認める信条、人とはこうであらねばならないという思惟規準、それらに照らし合わせ、それに適う人物として鉄舟を認めたからこそ、西郷は「然らば徳川慶喜殿の事に於ては吉之助屹と引受取計ふ可し、先生必ず心痛する事なかれと誓約せり」(西郷氏と応接之記)となったと推察する。
一般的には五箇条のうちの「慶喜を備前に預けること」について、薩摩藩島津候と慶喜の立場を入れ替えた鉄舟の説得論理によって、西郷が納得したといわれているが、そのような論理力だけでは、真のところで西郷は動かされなかったと思う。西郷という人物は特別で、別の判断基準が存在した。

西郷の人物判定観とは、どのようなものであったのであろうか。
西郷の人生で島暮らしが二度ある。大島と徳之島である。最初の大島のときは僧月照と入水自殺した責任をとって大島に流された。徳之島のときは島津久光の逆鱗にふれ配流されたのであったが、この経緯を説明し始めると主題の鉄舟にたどりつかないので、いずれの機会にしたい。
大島での西郷は読書のかたわら、山に猟銃に行ったり、海に漁に行ったりして日を送ったが、ある時頼まれ島民の子を教育することになった。この頃の西郷の教育ぶりとして、島に伝承されている話がある。ある日、西郷は子どもらに聞いた。
「一家が仲よく暮らせる方法は何じゃと思うか。皆、よく考えて、言うてみよ」子どもらはそれぞれ意見を述べたが「もっと身近なところにあるはずじゃ。さあ、何だ」と西郷が訊ねる。子どもらは更に考えたが、分からないという。西郷が言った。
「欲を忘れることだ。ここに一つの菓子があるとせよ。たいへんおいしい菓子だ。皆食べたい。そこを、皆ががまんして、兄は弟にゆずり、弟は兄にゆずり、子は父母にゆずり、父母は祖父母にゆずるというように、皆が欲を忘れてゆずれば、一家は必ず仲よくなる」
西郷の教育のやり方は、こんな風であったが、この欲を忘れるということは、西郷が生涯の目標にしたことであり、これが前述の「南州翁遺訓」に残されている内容であった。

鉄舟が、駿府松崎屋源兵衛宅に慶喜の使者として現れ、交渉条件として西郷が示した五箇条のうち、「慶喜の生命の安全確保」に絞って「備前に預けること」の変更を断固として交渉する鉄舟、そこに徳川主家に対する「赤誠」、その「赤誠」に西郷は自分のもつ価値観を重ね合わせたのではないかと思う。
西郷が生涯の目標とした「欲を忘れる」ということ、そのことを徳川の一家臣として「命も、名も、金も」すべてを捨て去って、慶喜に対する「赤誠」のみを持って迫り訴えかけてくる姿、そこに西郷は自ら生涯目標とした理想の体現者として、鉄舟を理解し受け入れたのであろう。そうでなければ、いくら全身全霊から噴出した決死の気合と論説の鋭さがあっても、大総督府下参謀の立場ではあったが、すべての権限を握っているわけではない西郷が敵将慶喜の身柄を「吉之助屹と引受取計ふ可し」と断言し、戦略転換することはなかったであろう。
人は自らの価値観と同じ人物を認めるものである。特に西郷は生涯を通じて求道者的側面が強く、剣・禅・書で鍛えあげた特別の人物である鉄舟の見事な人柄に、心から感心し「ほれた」のであった。これが駿府会談・交渉の真の成功要因であったと思う。
 したがって、鉄舟が西郷に会い、そこで鉄舟の人物像を西郷が正しく理解さえすれば、徳川側の戦略目的は達成したと考えられる。とするならば、鉄舟が江戸から駿府にたどり着くことこそが、江戸無血開城のために最大にして最高の条件整備であったと考えられる。
しかしながら、江戸から駿府までの行程が、鉄舟の記した「西郷氏と応接之記」にあるように、通行を邪魔されることなくたどり着くことが出来たのであろうか。戦時下であるから、常識的には様々な危険・問題があっと想像する方が妥当であろう。
これを唱えるのが、前号で紹介した「誰も書かなかった清水次郎長」(江崎淳著)で「益満休之助、断じて駿府に来らず」と書き、その説をなしていた人物として静岡市に居住し、鉄舟の子息の山岡直紀氏の書生をしていた、日本画家の大石隆正氏をあげ、箱根の関所までは益満が一緒だったが、その後忽然と益満は消えたと主張し、駿府における西郷との会見・交渉にも益満はいなかったという。

 では、どうやって駿府にたどりついたのか。それを明らかにする一つの秘話がある。その秘話を語るのは、静岡県庵原郡由比町西倉沢「藤屋・望嶽亭」の松永家23代当主、故松永宝蔵氏の夫人である松永さだよ氏である。藤屋・望嶽亭に代々口承伝承されてきた内容、それは慶応4年3月7日深夜、藤屋・望嶽亭の玄関の戸を密かに叩く一人の侍がいた、ということから始まる。
 従来、この望嶽亭についてはあまり信憑性を持たれなかった。しかし、山岡鉄舟研究を長年続けておられる、地元静岡市清水在住の若杉昌敬氏が、松永さだよ氏の語る内容を多角度から分析・検討し「危機を救った藤屋・望嶽亭」を書き表し、この中で望嶽亭説の妥当性を力説している。次号は、松永さだよ氏にインタビューした結果を紹介したい。

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2006年10月10日

随行する薩摩藩士・益満休之助

 随行する薩摩藩士・益満休之助
  山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

徳川慶喜から官軍との交渉について、直接指示を受けた鉄舟は、慶応4年(1868)3月5日、赤坂・氷川神社裏の海舟邸を訪ねた。玄関口で厳しく警戒されたが、ようやく海舟と会えた経緯については既にお伝えした。
だが、海舟邸に益満休之助がいることに鉄舟は驚いた。

薩摩藩士の益満休之助がどうして海舟のもとにいるのか。鉄舟と益満とは、お互い若い頃「尊王攘夷党」で意気投合した仲間であった。尊王攘夷党とは、清河八郎を中心に安政6年(1859)又は万延元年(1860)に結成したといわれる、別名「虎尾の会」ともいう勤王鎖国論者同士の秘密結社であった。当時、鉄舟は23・24歳、氷川神社裏の海舟邸を訪ねたときは32歳、約10年前に益満とは尊王攘夷党で活動しあった親しい関係だった。
尊王攘夷党の中心人物である清河八郎については、後日詳述しなければならないが、若き鉄舟が深く付き合い、影響を受けた人物である。しかし、概して清河八郎の評価は芳しくない。清河八郎と関わったことが、当時「山岡鉄太郎は危険人物だ。海舟を狙っている。注意しろ」と、大久保一翁から言われ警戒される素因となっていた。
司馬遼太郎は清河八郎について、その著書「奇妙なり八郎」の中で「憤怒せよ、と無位無冠の浪人のくせに天子まで煽動した幕末の志士は、おそらく清河八郎をおいていないだろう」と述べ、あまり高く評価していない。
しかし、藤沢周平はその著書「回天の門」で「誤解は、八郎の足跡を丹念にたどれば、まもなく明らかになることである」と書き、「ひとり清河八郎は、いまなお山師と呼ばれ、策士と蔑称される。その呼び方の中に、昭和も半世紀をすぎた今日もなお、草莽を使い捨てにした、当時の体制側の人間の口吻が匂うかのようだといえば言い過ぎだろうか」と同じ山形県同郷出身者としての気持ちを込めて述懐している。

さて、氷川神社裏の海舟邸に戻りたい。海舟が「旗本山岡鉄太郎に逢う。一見その人となりに感ず」(海舟日記3月5日)とあるように、鉄舟と会った海舟は、今までの誤解・懸念を解くとともに、駿府行きについて「臨機応変は胸中にある」と「縷々と説明し、その毅然とした決心の固いのには感服した」と鉄舟を認め、この出会いを「莫逆の交わりを結ぶ媒介となった」(勝部真長編『山岡鉄舟の武士道』)と述べているほどである。
そこで海舟は「おれは手を拍って『よし、かくまで至誠確乎たる決心ならば、よもや仕損じはあるまい』と答えて、薩人益満休之助を随行させ、更に西郷に宛てた添書を与えた」(勝部真長編『山岡鉄舟の武士道』)のであった。
この益満が海舟邸預かりになった経緯は、海舟日記(3月2日)に「旧歳、薩州の藩邸焼討のをり、訴え出でしところの家臣南部弥八郎、肥後七左衛門、益満休之助らは、頭分なるを以て、その罪遁るべからず、死罪に所せらるゝの旨にて、所々に御預け置れしが、某申す旨ありしを以て、此頃このひと上聴に達し、御旨に叶ふ。此日右三人某へ預終はる」とあり、この目的は対官軍用の工作要員として、牢から引き出し受け入れたものであった。しかもそのタイミングは鉄舟が訪れる3日前の3月2日という絶妙さであった。さすがに政治的能力の高い海舟の直感行動力である。

ここで薩摩藩邸焼討について触れないと、益満と海舟の関係が整理できない。薩摩藩の上屋敷は三田四国町にあった。今の港区芝三丁目のセレスティンホテルあたりである。広大な敷地の藩邸で、ここを幕府のお雇い武官であるフランスのブリューネも参加し、砲撃を加えたのである。攻撃の主力は庄内藩で、その他に上之山藩や鯖江藩なども加わった。
この経緯について「徳川慶喜公伝4」(渋沢栄一編)と、当時、外国奉行並町奉行であった「朝比奈甲斐守昌弘(閑水)」の手記を要約してものが「西郷隆盛」(海音寺潮五郎著)にあり、それらを整理すると次の通りである。
「慶応3年10月頃から江戸市中で、強盗が富商の家に侵入して、江戸府内をさわがせたので、町奉行で調査したところ、このうちの七八人あるいは十人余の賊は三田の薩舟邸から出ていることが判明した。しかし、この頃の町方与力や同心らは軟弱な輩ばかりで、手に負えないので、庄内藩主酒井忠篤に市中の取締りをさせることにしたが、なおやまなかった。酒井家に新徴組を所属させて、これもまた市中巡視にあたらせたが、やはりそれほどの効果はなかった。
幕閣では種々協議したが、薩摩藩邸を攻撃すべきという意見と、事前に京都にいる慶喜の指示を仰ぐべきであるという意見が対立し、議論は三昼夜に及んだが、朝比奈の意見で慶喜の指図を仰ぐという意見が通ったのが12月24日。この決定を早速攻撃派に伝えたが頑強に抵抗され、すぐに攻撃すべきだと逆に強行主張され、圧され、とうとう閣老らは攻撃策に踏み切ってしまい、翌25日、遂に薩摩藩邸とその支藩佐土原藩の三田の邸を焼いた」
 この薩摩藩邸焼き討ちのときに、首謀者として捕らえられたのが益満であった。幕閣の協議で擦った揉んだのあげく、ようやく決定した薩摩藩邸攻撃であるから、簡単に首謀者の益満を牢から釈放放免できるはずがない。しかし、益満は海舟によって助け出され、それも鉄舟が訪れることを分かっていたかのように、3日前から海舟邸にいたのである。
ここで分かることは海舟の権力である。鳥羽伏見の戦いを誘発した薩摩藩邸焼き討ち、その要因を謀った死罪となるべき敵方薩摩藩の政治犯を、釈放放免させることができる権力、それは、この当時、海舟が徳川政権の実権を握っていたことを証明するものであった。
何故にこのような権力を持ちえたか、これについては当時の幕府内の政治的動向と、諸外国との関係を解説しないと分かり難く、これも後日詳述したい。

 ところで、海舟はいつ益満と知り合っていたか。益満を和平工作の武器として使える人材であることを知っていたからこそ、海舟は益満を牢から出したのである。ということは益満をよく知っていたということになる。
 海舟が益満を知った経緯は諸説ありはっきりしないが、当時、海舟のところによく出入りしていた薩摩藩江戸留守居添役の柴山良助が、益満を海舟邸に連れてきたのではないかと思われる。柴山良助は西郷の添書をもつて、初めての江戸留守居添役着任時に挨拶に来たことから、その後、しばしば海舟のところに出入りするようになっていた。これには元治元年(1864)9月、大坂で海舟と西郷が会談し、海舟が展開する時局展望に西郷が驚嘆し、以後、海舟を高く評価し、柴山に海舟と親しくするよう西郷が指示したという背景が存在した。なお、文久2年(1862)4月の伏見寺田屋事件で、殺された柴山愛次郎はこの柴山良助の弟である。
 
 この当時、海舟は官軍との打開工作に手詰まって苦しんでいた。その打開のための和平工作要員として薩摩藩士三人を確保したのであるが、そのタイミングを計ったように、3月5日にいたって身の丈六尺有余という一人の剣客、鉄舟があらわれたのであった。
 和平工作要員としての薩摩藩士三人は、江戸留守居役南部弥八郎、同添役肥後七左衛門と益満であったが、海舟が益満を選び、鉄舟に随行させることにしたのは、尊王攘夷党時代の鉄舟との関係を知っていたからと推察できる。
 さて、鉄舟が記した「西郷氏と応接之記」からその経緯をみてみたいが、文章が漢文体のため口語体に大意を書き直し紹介したい。
「江戸を出発し、品川、大森を過ぎて、六郷川を渡ると官軍の先鋒が銃列をなして満ちていたが、その中を鉄舟と益満は誰何されることなくすたすたと歩いていった。
 ふと見ると、隊長の宿舎らしきところがあった。鉄舟は中に案内も乞わずに宿舎に入って行き、隊長はどこだと尋ねた。その尋ねた先に隊長と思える面構えの人物がいるので、この人物を後から聞くと篠原国幹であったが、その篠原の前で
「朝敵徳川慶喜の家来、山岡鉄太郎、大総督府へまかり通る」と怒鳴った。
「えっ!。朝敵!。トクガワヨシノブ!」と篠原はつぶやく。
篠原は誰のことなのか、咄嗟に分からなかったのだ。当時の習慣で将軍については直接名前をあげることなく、敬称として将軍、大樹公、上様などと称することが常識であった。
また、徳川将軍にお見えすることなどかなわない陪臣である篠原にとっては、ヨシノブという言葉が将軍であるということ、それを理解することは一瞬にはできない。
「よし。通れ」と思わず言ってしまう。
篠原の前から宿舎外に出て、鉄舟は益満と再び早足で歩き出す。鉄舟の早足は有名で、若き時代から足腰は鍛え抜いてあって、歩き出すとぐんぐん速度が上がり、瞬く間に篠原から見えなくなった。この後、篠原は気づいて後を追ったがすでに鉄舟ははるか先を歩いており、鉄舟を捕らえることは出来ない。
横浜を過ぎ、神奈川の宿に入ると、もう長州藩の領域で、ここからは益満が先に立って歩いた。益満の薩摩弁が役立つ。独特の薩摩弁は他国者には真似できない。益満の薩摩弁の訛りが通行手形であった。無印鑑であったがいずれも礼をもって通行を邪魔されることなかった。
こうやって昼夜兼行し駿府に到着でき、伝馬町の松崎屋源兵衛宅で東征軍大総督府参謀西郷と会談ができたのであった」

 これが鉄舟の記した駿府までの経緯である。これによると益満の同行によって、難なく駿府の西郷のところに到着したことになっているが、果たして、その通りであろうか。
当時の緊迫した戦争・騒乱状態下、つまり、日本を二分する一方の官軍軍勢が勢い強く充満している東海道筋、そのなかを幕府旗本武士が官軍の進路と逆コースをとり、すんなり行動できたと考えるのは常識的ではない。何かトラブル・危険・問題があったと考える方が妥当であろう。
 そのことを主張するのが「誰も書かなかった清水次郎長」(江崎淳著)であって、「益満休之助、断じて駿府に来らず」と書き、その説をなしていた人物として静岡市に居住し、鉄舟の子息の山岡直紀氏の書生をしていた、日本画家の大石隆正氏をあげ、箱根の関所までは益満が一緒だったが、その後忽然と益満は消えたと主張し、駿府における西郷との会見・交渉にも益満はいなかったという。確かに鉄舟が記した「西郷氏と応接之記」において、西郷との会見・交渉の場に益満がいたとは書かれていない。
 とすると、鉄舟は箱根関所を越えてから駿府まで単独で行動したのか、という疑問が生じてくる。駿府の所在した大総督府の近くになればなるほど、官軍陣営は密集して旅営しているはずであるから、幕臣旗本として鉄舟の通行は困難であったと考えるのが常識的な判断である。
 
 箱根から駿府の間の行程については、三つの説があり、謎に満ちている。
 一つは駿府まで鉄舟と益満が一緒だったという説である。これが一般的に従来から唱えられている。もう一つは前記の江崎淳氏を代表とする説、つまり、益満は駿府に行かなかった。その理由として箱根で益満が体調を崩したために、鉄舟が単独で駿府に行ったというものであり、この場合は誰かが鉄舟を助けたはずである。三つ目は途中で体調を崩した益満が回復して駿府で追いついたという説であるが、これも誰かの助けが必要であった。

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2006年09月22日

海舟と鉄舟の最終目標

海舟と鉄舟の最終目標
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

上野寛永寺大慈院の一室で、徳川慶喜から「恭順の意を官軍に正確に伝えるべく」、駿府に向かうよう直接指示を受けた鉄舟は、軍事総裁・勝海舟のところに向かった。慶応4年(1868)3月5日のことであった。
その当時の勝海舟は徳川政権の実権を握っていた。何故に海舟が、そこまで実験を握るまでに到ったのか。まず、その経緯をかいつまんで説明したい。

慶応4年1月11日夜半、鳥羽伏見の戦いに敗れた慶喜は船で品川沖に到着し、翌12日払暁上陸した。海舟日記に「開陽艦、品海へ錨を投ず。使いありて、払暁、浜海軍所へ出張、御東帰の事」とあるように、海舟は出迎え、その日、慶喜は江戸城に入った。
江戸城へは、慶喜が15代将軍に宣下されたのは京都においてであったから、将軍なってから初めてであった。江戸城では直ちに大太鼓が打ち鳴らされて総登場が命ぜられ、この日夜半から大評定が始まった。
議論は当然紛糾し、何日も続いたが、主戦論を唱える勘定奉行・小栗上野介忠順、この小栗という人物は「幕府の経綸を以て己が任とし、その精励は実に常人の企及する所にあらざりけり。その人となり精悍敏捷にして多智多弁」(幕末政治家・福地桜痴著)とあるように、有能多弁な小栗が滔滔と主戦論を展開し、それに海軍副総裁榎本武揚、歩兵奉行大鳥圭介等が支持し、曖昧ではっきりしない慶喜の態度もあって、一度は官軍と戦をすることに決定したという。
そこで、小栗は自分の主張を通したことに快然として、一先ず駿河台の屋敷に帰って、とろとろと一睡して、再び登城したが、しかし、そのときはもう恭順論にひっくり返っていたのである。
小栗は、これに対し慶喜に直諫し、慶喜をやり込め、慶喜が言に窮して、座を立つのを、ぐいと、その裾を押さえて、睨みつけたという。さすがに慶喜は怒りを抑えきれずに、その場で小栗は慶喜から勘定奉行も何もかも罷免される事態となった。幕府の重要な役人が罷免される場合、将軍から老中に命が下り、老中から通達があるのが常例だが、小栗は慶喜から直接罷免を申し渡されるという異例さで、これが1月15日のことであった。
後日談であるが、官軍東征のとき、軍監を勤めた後の司法卿江藤新平がこれを聞いて「小栗はそういう間抜けだから首を斬られることになったのだ。(慶応4年4月5日知行地群馬県権田村で官軍によって刑死)議論が一決したからとて、危急存亡の際、自分の屋敷に帰るべら棒があるものか、その場で即刻部署を定め、誰々はなんの兵をもって、どこへ行くと、きっぱり発表し、できたら少数でも直ちに兵を動かしてしまうべきだ」(勝海舟・子母沢寛著)といったという。だが、江藤新平のいうとおり小栗上野介が行動していれば、江戸無血開城はなかったであろう。

いずれにしても、この小栗の罷免は慶喜を恭順論に傾かせ、方向づける重要な事件であったが、それまでの慶喜の心情は常に揺れ動き、定まらなく、恭順論に自らの心情を決定するまでには、まだいくつかの変遷があった。
というのも小栗の罷免から2日後の17日、慶喜が福井藩主・松平慶永と土佐藩主・山内豊信へ送った書簡がある。この書簡で慶喜は、鳥羽伏見の戦いは、自分とは関係のない先供のものが勝手にやったことであるのに、追討令を受けるにいたっては「甚だ以て心外の至り」であるとして、両人に朝廷へのとりなしを依頼している。この態度はとうてい「恭順」とはいえないであろう。当時の慶喜は「強気と弱気」の間を彷徨し、極めて複雑で解せない心情の繰り返しであった。
ところが、この同じ17日夜に、突如、海舟は海軍奉行並を命ぜられた。海舟は大久保一翁とならぶ「ハト派」の巨頭であり、それまで政治の中枢から疎外されていたが、小栗上野介の罷免を機にその「ハト派」の海舟が海軍奉行並に命ぜられたのである。
続いて23日に海舟は陸軍総裁、大久保一翁は会計総裁の重職に任命された。これは海舟・一翁連立の「ハト派」内閣の成立を意味し、異例の抜擢であった。この時点で慶喜は「恭順」方向にほぼ固まったといえ、徳川政権の方向性を海舟に預けたともいえる。

さて、17日に海軍奉行並を命ぜられた海舟の初仕事は、松平慶永に「嘆願書」を出し、この書状をもって海舟が上洛するということであった。仮に、海舟がこの時点で上洛したとするならば、単に松平慶永に「嘆願書」を提出するばかりでなく、旧知の西郷隆盛と会うことで、当時の誰よりも詳しかった得意の国際情勢分析を披瀝し、事態の収拾方向について話し合うことが可能で、その後の政局は異なった展開をみせたであろう。
 しかし、海舟が上洛する件は間もなく沙汰止みになった。もし海舟が上洛しそのまま抑留されたら、今後官軍と交渉できる人物がいなくなるという反対意見が出たからであった。確かにその通りで、海舟ほど官軍とのネットワークを裏表に作り上げている人物は幕府内にいなかった。
 その後官軍には、静寛院宮(14代家茂夫人)、天璋院(13代家定夫人)、輪王寺宮公現法親王による打開工作を行ったがいずれも通ぜず、すでに官軍征東軍先鋒は品川まで迫っていた。そのときに突如として山岡鉄舟が海舟の前に現れたのであった。

 この当時、海舟は赤坂・氷川神社裏に住んでいた。正確にいえば氷川神社裏で盛徳寺の隣を屋敷としていた。盛徳寺はすでに今はなく、海舟屋敷跡は現在マンションとなっていて、道路端に「勝海舟屋敷跡」木製標識がポツンと立っているが、海舟は赤坂で三度住居を移転している。最初は赤坂田町で、長崎海軍伝習を終えて江戸に戻った安政6年(1859)に氷川神社裏に転居し、明治5年(1872)に赤坂六丁目の旧氷川小学校跡に移転し、ここが終の棲家になった。
さて、赤坂・氷川神社は、8代将軍吉宗が造営した由緒ある神社で、今でも緑豊かな風情を残して、幕末三舟の書を所蔵している。三舟とは勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の三能筆家を称したものである。鉄舟の書の見事さについては後日詳述したい。
この氷川神社裏の対官軍交渉で手詰っていた海舟宅に、突如現れた鉄舟が「臨機応変は胸中にある」と述べ、その鉄舟の「相手のなすままに対応しようとする、清みきった心境」と、それに対する海舟の判断結果については前月号で述べたので、今回は海舟と鉄舟の間で何が取り決められたか、それを推測してみたい。
というのも鉄舟の役割は何であったかという本質的な疑問である。
確かに慶喜から「恭順の意を官軍に正確に伝えるべく」駿府に向かうよう指示を受けたが、それだけでは曖昧であって、その背後に存在する交渉の目的が明確になっていない。鉄舟が駿府において西郷隆盛に、恭順謹慎の実態を正しく妥当に伝えることができたとしても、その結果、何が慶喜と徳川方に見返りとして生じ、何を担保として持ち帰り得るのか。つまり、駿府において交渉するこちら側の条件、それは、これさえ得られれば目的にかなうという意味での戦略的な最終目的、その内容が鉄舟には明確になっていなかった。
ここで交渉とは何かについて考えてみたい。交渉というイメージから一般的には「駆け引き」と考え、相手に勝つことであると考える人が多いが、そうではなく「自分の利益を実現すること」が最大のポイントであり、そのためには「自らの利益は何か」を見極めることが、まずもっとも重要なことである。
一介の旗本に過ぎず、一度も政治的立場に立ったことがない鉄舟が、徳川政権存亡危機を救う外交交渉に向かうよう命を受けたのである。鉄舟は官軍と交渉するにあたって、その交渉する「徳川政権の利益」を明らかにしなければならなかったし、そのためには政治的立場の上層部に相談し指示を受ける必要があった。
その相談を行い、指示を受ける相手として、時の徳川政権の実権を握っている海舟のところに訪ねたのは当然の行動であった。

時の首相の任にあった海舟は何を考えていたか。
考えていたこと、それは、駿府にて西郷に対して鉄舟が強く反論し、主張した内容であった。西郷から示された五箇条の条件の一つ「慶喜を備前に預けること」、これに鉄舟が鋭く厳しく反論し、西郷から「再考する」旨を引き出したが、慶喜を敵方である備前藩に引き渡すこととは、徳川慶喜の生命の危険を冒すことにつながる。
つまり、海舟と鉄舟の最終的な戦略目標は「慶喜の生命の安全確保」であることをお互い確認しあい、これを最終交渉条件・目的とした、と考えることが順当であろう。

ところで、駿府までの東海道道筋には官軍が充満している中、単身鉄舟がどのように西郷との会見交渉に辿りつけたのか。その手段工作を偶然かそれとも図っていたのか、鉄舟の訪れを予期した如き一手を海舟が3日前に打っていた。それは、薩人・益満休之助の確保であった。この益満休之助と決死の東海道駿府行きについては次号でお伝えしたい。

投稿者 Master : 11:23 | コメント (2)

2006年08月19日

臨機応変は胸中にある

臨機応変は胸中にある
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

上野寛永寺大慈院の一室で、徳川慶喜から「恭順の意を官軍に正確に伝えるべく」、駿府に向かうよう直接指示を受けた鉄舟は、軍事総裁・勝海舟のところに向かった。慶応4年(1868)3月5日のことであった。
その当時の勝海舟は徳川政権の実権を握っていた。何故に海舟が、そこまで実験を握るまでに到ったのか。まず、その経緯をかいつまんで説明したい。

慶応4年1月11日夜半、鳥羽伏見の戦いに敗れた慶喜は船で品川沖に到着し、翌12日払暁上陸した。海舟日記に「開陽艦、品海へ錨を投ず。使いありて、払暁、浜海軍所へ出張、御東帰の事」とあるように、海舟は出迎え、その日、慶喜は江戸城に入った。
江戸城へは、慶喜が15代将軍に宣下されたのは京都においてであったから、将軍なってから初めてであった。江戸城では直ちに大太鼓が打ち鳴らされて総登場が命ぜられ、この日夜半から大評定が始まった。
議論は当然紛糾し、何日も続いたが、主戦論を唱える勘定奉行・小栗上野介忠順、この小栗という人物は「幕府の経綸を以て己が任とし、その精励は実に常人の企及する所にあらざりけり。その人となり精悍敏捷にして多智多弁」(幕末政治家・福地桜痴著)とあるように、有能多弁な小栗が滔滔と主戦論を展開し、それに海軍副総裁榎本武揚、歩兵奉行大鳥圭介等が支持し、曖昧ではっきりしない慶喜の態度もあって、一度は官軍と戦をすることに決定したという。
そこで、小栗は自分の主張を通したことに快然として、一先ず駿河台の屋敷に帰って、とろとろと一睡して、再び登城したが、しかし、そのときはもう恭順論にひっくり返っていたのである。
小栗は、これに対し慶喜に直諫し、慶喜をやり込め、慶喜が言に窮して、座を立つのを、ぐいと、その裾を押さえて、睨みつけたという。さすがに慶喜は怒りを抑えきれずに、その場で小栗は慶喜から勘定奉行も何もかも罷免される事態となった。幕府の重要な役人が罷免される場合、将軍から老中に命が下り、老中から通達があるのが常例だが、小栗は慶喜から直接罷免を申し渡されるという異例さで、これが1月15日のことであった。
後日談であるが、官軍東征のとき、軍監を勤めた後の司法卿江藤新平がこれを聞いて「小栗はそういう間抜けだから首を斬られることになったのだ。(慶応4年4月5日知行地群馬県権田村で官軍によって刑死)議論が一決したからとて、危急存亡の際、自分の屋敷に帰るべら棒があるものか、その場で即刻部署を定め、誰々はなんの兵をもって、どこへ行くと、きっぱり発表し、できたら少数でも直ちに兵を動かしてしまうべきだ」(勝海舟・子母沢寛著)といったという。だが、江藤新平のいうとおり小栗上野介が行動していれば、江戸無血開城はなかったであろう。

いずれにしても、この小栗の罷免は慶喜を恭順論に傾かせ、方向づける重要な事件であったが、それまでの慶喜の心情は常に揺れ動き、定まらなく、恭順論に自らの心情を決定するまでには、まだいくつかの変遷があった。
というのも小栗の罷免から2日後の17日、慶喜が福井藩主・松平慶永と土佐藩主・山内豊信へ送った書簡がある。この書簡で慶喜は、鳥羽伏見の戦いは、自分とは関係のない先供のものが勝手にやったことであるのに、追討令を受けるにいたっては「甚だ以て心外の至り」であるとして、両人に朝廷へのとりなしを依頼している。この態度はとうてい「恭順」とはいえないであろう。当時の慶喜は「強気と弱気」の間を彷徨し、極めて複雑で解せない心情の繰り返しであった。
ところが、この同じ17日夜に、突如、海舟は海軍奉行並を命ぜられた。海舟は大久保一翁とならぶ「ハト派」の巨頭であり、それまで政治の中枢から疎外されていたが、小栗上野介の罷免を機にその「ハト派」の海舟が海軍奉行並に命ぜられたのである。
続いて23日に海舟は陸軍総裁、大久保一翁は会計総裁の重職に任命された。これは海舟・一翁連立の「ハト派」内閣の成立を意味し、異例の抜擢であった。この時点で慶喜は「恭順」方向にほぼ固まったといえ、徳川政権の方向性を海舟に預けたともいえる。

さて、17日に海軍奉行並を命ぜられた海舟の初仕事は、松平慶永に「嘆願書」を出し、この書状をもって海舟が上洛するということであった。仮に、海舟がこの時点で上洛したとするならば、単に松平慶永に「嘆願書」を提出するばかりでなく、旧知の西郷隆盛と会うことで、当時の誰よりも詳しかった得意の国際情勢分析を披瀝し、事態の収拾方向について話し合うことが可能で、その後の政局は異なった展開をみせたであろう。
 しかし、海舟が上洛する件は間もなく沙汰止みになった。もし海舟が上洛しそのまま抑留されたら、今後官軍と交渉できる人物がいなくなるという反対意見が出たからであった。確かにその通りで、海舟ほど官軍とのネットワークを裏表に作り上げている人物は幕府内にいなかった。
 その後官軍には、静寛院宮(14代家茂夫人)、天璋院(13代家定夫人)、輪王寺宮公現法親王による打開工作を行ったがいずれも通ぜず、すでに官軍征東軍先鋒は品川まで迫っていた。そのときに突如として山岡鉄舟が海舟の前に現れたのであった。

 この当時、海舟は赤坂・氷川神社裏に住んでいた。正確にいえば氷川神社裏で盛徳寺の隣を屋敷としていた。盛徳寺はすでに今はなく、海舟屋敷跡は現在マンションとなっていて、道路端に「勝海舟屋敷跡」木製標識がポツンと立っているが、海舟は赤坂で三度住居を移転している。最初は赤坂田町で、長崎海軍伝習を終えて江戸に戻った安政6年(1859)に氷川神社裏に転居し、明治5年(1872)に赤坂六丁目の旧氷川小学校跡に移転し、ここが終の棲家になった。
さて、赤坂・氷川神社は、8代将軍吉宗が造営した由緒ある神社で、今でも緑豊かな風情を残して、幕末三舟の書を所蔵している。三舟とは勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の三能筆家を称したものである。鉄舟の書の見事さについては後日詳述したい。
この氷川神社裏の対官軍交渉で手詰っていた海舟宅に、突如現れた鉄舟が「臨機応変は胸中にある」と述べ、その鉄舟の「相手のなすままに対応しようとする、清みきった心境」と、それに対する海舟の判断結果については前月号で述べたので、今回は海舟と鉄舟の間で何が取り決められたか、それを推測してみたい。
というのも鉄舟の役割は何であったかという本質的な疑問である。
確かに慶喜から「恭順の意を官軍に正確に伝えるべく」駿府に向かうよう指示を受けたが、それだけでは曖昧であって、その背後に存在する交渉の目的が明確になっていない。鉄舟が駿府において西郷隆盛に、恭順謹慎の実態を正しく妥当に伝えることができたとしても、その結果、何が慶喜と徳川方に見返りとして生じ、何を担保として持ち帰り得るのか。つまり、駿府において交渉するこちら側の条件、それは、これさえ得られれば目的にかなうという意味での戦略的な最終目的、その内容が鉄舟には明確になっていなかった。
ここで交渉とは何かについて考えてみたい。交渉というイメージから一般的には「駆け引き」と考え、相手に勝つことであると考える人が多いが、そうではなく「自分の利益を実現すること」が最大のポイントであり、そのためには「自らの利益は何か」を見極めることが、まずもっとも重要なことである。
一介の旗本に過ぎず、一度も政治的立場に立ったことがない鉄舟が、徳川政権存亡危機を救う外交交渉に向かうよう命を受けたのである。鉄舟は官軍と交渉するにあたって、その交渉する「徳川政権の利益」を明らかにしなければならなかったし、そのためには政治的立場の上層部に相談し指示を受ける必要があった。
その相談を行い、指示を受ける相手として、時の徳川政権の実権を握っている海舟のところに訪ねたのは当然の行動であった。

時の首相の任にあった海舟は何を考えていたか。
考えていたこと、それは、駿府にて西郷に対して鉄舟が強く反論し、主張した内容であった。西郷から示された五箇条の条件の一つ「慶喜を備前に預けること」、これに鉄舟が鋭く厳しく反論し、西郷から「再考する」旨を引き出したが、慶喜を敵方である備前藩に引き渡すこととは、徳川慶喜の生命の危険を冒すことにつながる。
つまり、海舟と鉄舟の最終的な戦略目標は「慶喜の生命の安全確保」であることをお互い確認しあい、これを最終交渉条件・目的とした、と考えることが順当であろう。

ところで、駿府までの東海道道筋には官軍が充満している中、単身鉄舟がどのように西郷との会見交渉に辿りつけたのか。その手段工作を偶然かそれとも図っていたのか、鉄舟の訪れを予期した如き一手を海舟が3日前に打っていた。それは、薩人・益満休之助の確保であった。この益満休之助と決死の東海道駿府行きについては次号でお伝えしたい。

投稿者 Master : 09:47 | コメント (0)

2006年07月03日

鉄舟の臨機応変行動力

鉄舟の臨機応変行動力
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

JR田町駅近く、都営浅草線三田駅を上がったところ、第一京浜と日比谷通り交差点近くのビルの前に「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 会見の地 西郷吉之助書」と書かれた石碑が立っている。その石碑の下前面、向かって左側に「この敷地は、明治維新前夜慶応4年(1868)3月14日幕府の陸軍参謀勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた『勝・西郷会談』の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所である・・・。」と書かれ、石碑の下前面、向かって右側に高輪邉繒圖が描かれている。

この薩摩藩蔵屋敷で会う前日の3月13日、海舟と西郷は芝高輪薩摩屋敷で第一回の会談を行った。駿府において行われた鉄舟と西郷との会見結果を受け、正式に海舟は幕府陸軍・軍事総裁、西郷は東征軍大総督府参謀として会見・交渉に臨んだのであった。
海舟と西郷はすでに元治元年(1864)の第一次長州征伐時に、大坂で会っていた。
この時は西郷が海舟を訪ね、海舟が滔滔と展開した時流見識に、完全に圧倒された西郷であったが、今は立場が逆転し、海舟が西郷を訪ねたのであった。

二人の間では、静寛院宮の安全についてのみ確認し合い、あとの議題は翌日に回し、海舟が西郷を愛宕山に誘った。
愛宕山は海抜26メートル、さほど高くない丘であるが、台地の東端にあり、ここから見下ろすと、江戸の町が北から南まで見渡せ、その先に広々とした海と白帆の船を望むことができる。また、徳川家康が建立した愛宕神社があって、江戸城南方の鎮護として当時も今も名所となっている。愛宕神社に参拝するためには、寛永11年(1634)の曲垣平九郎が馬で上った急勾配、その男坂86階段を上らなければならないが、海舟と西郷もここを上ったことであろう。

愛宕山の見晴らしのいい場所に西郷を案内し、海舟は「江戸市中が焼け野原にならずにすみ申した」とぽつりとつぶやいた。その言葉の背景には、官軍の江戸城攻撃による戦災を防げたという意味と、海舟の準備した焦土作戦、それは官軍が江戸に入ったならば、ロシア軍がモスクワに火を放ってナポレオン一世の野望をくじいたと同じく、官軍進撃の退路を火で断つ作戦があったこと、それを言外に漂わせたものであった。

この当時の江戸は素晴らしい調和のとれた景観都市であった。それを証明するのがイギリス人写真家「フェリックス・ベアト」の写真である。撮影したのは慶応元年(1865)から2年(1866)頃で、江戸市中をパノラマ写真として残している。海舟と西郷もベアト写真が証明している整然とした江戸景観を眺め、西郷に海舟がいろいろ説明したであろう。
今、愛宕山から眺めると、ベアトが撮影した当時の景観は望むべくもない。ベアトと同じ位置から見た現代の東京の街並み、それを今回改めて撮影したので、見比べて欲しい。貧しく哀れさを感じるほど、現代は調和美が失われている。

ここでベアトの写真を研究している小川福太郎氏(元NHK放送博物館)の見解を紹介したい。小川氏によると「①写真の中に人物が殆ど写っていないという。当時のカメラは露出時間が長く、移動する対象人物等は乾板に写らなかったと推測される。②しかし、よく見ると愛宕山下の真福寺庫裏玄関右に、住職と思える人物が一人上方の屋根を見ている。また、中央の片桐石見守屋敷の庭で屋根に梯子をかけて一人が休んでいて、右側の青松寺先の屋根物干し台に三人いることが分かる。③つまり、合計五人が止まった状態にいたので写っており、いずれも屋根に関わった位置にいて、その見ている屋根方向が一様に壊れていている状態を併せ考えると、江戸の町は台風が襲来し被害を受けた時期、多分、8月から9月に撮影されたと思われ、撮影時刻は瓦職人の昼食の休み時間であろう」と推測している。なかなか面白い見解であり紹介したい。

さて、上野寛永寺大慈院一室で、将軍慶喜から直接命を受ける異例の事態となった鉄舟、その後はどのような行動を採ったのであろうか。それについて「西郷氏と応接之記」に次のように鉄舟が記している。
「余は、国家百万の生霊に代りて生命を捨るは素より余が欲する所なりと、心中青天白日の如く一点の曇りなき赤心を一二の重臣に謀れども、其事決して成り難しとて肯ぜず。当時軍事総裁勝安房は余素より知己ならずと雖も、曽て其胆略あるを聞く。故に往て之を安房に謀る」
一介の旗本に過ぎず、一度も政治的立場に立ったことがない者が、幕府存亡危機を救う外交交渉に向かうよう命を受けたのである。一般的にそのような状況に立ち至ったとき、どのような行動を採るであろうか。常識的には政治的立場の上層部に相談するであろう。鉄舟も同じであった。何人かの幕府上層部人物を訪れ、相談し指示を仰いだのであるが、皆、単独で駿府へ行くことなどは無謀であり、不可能であるからといって相手にしてくれない。そこで、最後に、今でいえば当時の首相の任にあった、軍事総裁としての海舟のところに向かったのであった。

そのころの鉄舟は「山岡鉄太郎は危険人物だ。海舟を狙っている。注意しろ」と、大久保一翁からいわれるほどの警戒人物であった。事実警戒される背景要因も過去の鉄舟にあり、これについては後日詳しく述べたいが、これらから当然に鉄舟と海舟は面識がなかった。更に、和戦派の首領であった海舟は、主戦派から官軍に屈した憎き男として、刺客に付けねらわれていたことから常日頃用心深くしていた。
そこに現れたのが鉄舟である。当然、居留守を使ったが、六尺二寸、二十八貫という巨躯の鉄舟が「主命を帯び、火急の用事があって、会いにきているのだ。取り次げ」と大喝する気迫に「玄関口ではとても謝絶しかね」とうとう会うことになった。
鉄舟も自らの評判を知っていて「安房は余が粗暴の聞えあるを以て少しく不信の色あり」(西郷氏と応接之記)と自ら記している。
だが、海舟は一瞬にして鉄舟の本質を理解した。海舟日記に「旗本山岡鉄太郎に逢う。一見その人となりに感ず」(3月5日)と記し、その上、後年海舟は次のように回想している。
「おれにことの仔細を告げて、答弁を求められたけれども、おれもこれまで山岡のことは、名だけ聞いていたけれども、いまだその心事がしれんから、即答せずにひそかに山岡の言動を察するところ、なんとなく機の失うべきでないことを悟っているふうに見えたから、おれが山岡に問いを発した。『まず、官軍の陣営に行く手段はいかにするや』と。山岡答えて、『臨機応変は胸中にある』と縷々と説明したが、毅然とした決心の固いのには感服したよ」

この時点で官軍は品川に迫っていた。目前の敵中を突破しなければならない立場になったとき、普通の人間は何を考えるであろうか。多分、敵中突破の方法論を検討するであろう。駿府までの距離・時間を計り、陸路か海路か、馬の用意、変装用具など、多くの手段を考え講ずるに違いない。それが当たり前の一般的な準備としての考え方である。
しかし、鉄舟は違った。海舟に「縷々と説明した」こととは、方法論ではなく開ききった心境であり、これが鉄舟の「臨機応変は胸中にある」という次の内容であった。
「余の曰く、官軍の営中に到れば彼ら必ず余を斬るか将た縛るか外なかるべし。然る時は余は双刀を解きて彼らに渡し、縛るなら尋常に縛に就き、斬るならば斬らす可し。何事も先方に任して処置を受く可し。去りながら、何程敵人とて、是非曲直を問わず只空しく人を殺すの理なし、何の難き事あらんと」(西郷氏と応接之記)
己の身を、すべて目的遂行のために投げ出し、敵に対して小細工を用いず、相手のなすままに対応しようとする清みきった心境、それが鉄舟の「臨機応変」なのである。

後日、海舟が鉄舟の「臨機応変」について次のように評している。
「これが本当だよ。もしこれを他人にしたならば、チャンと前から計画するに違いない。そんな事では網を張って鳥を得んと思うの類だ。決して相手はそうくるときまってはないからナァ。ところが山岡なぞは作戦計画はなさずして作戦計画が出来ているのだから、抜目があるとでも評しようよ。まァ御覧よ。彼が西郷との談判工合やら、敵軍中を往来する事、恰も坦途広路を往くが如く、真に臨機応変のところ、ホトホト感心なるものだ」
海舟は鉄舟を正しく、妥当に評価したからこそ、幕府の運命を鉄舟に託したのであった。

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2006年06月12日

江戸無血開城其の二 鉄舟の武士道

江戸無血開城其の二 鉄舟の武士道
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

JR静岡駅北口から歩いて五分、紺屋町の料亭浮月楼門口に「徳川慶喜公屋敷跡」と表示した石塔が立っている。
慶応4年(1868)2月、上野寛永寺に謹慎・蟄居した慶喜は、江戸総攻撃回避から一ヵ月後の同年4月、水戸・弘道館に移ったが、当時の水戸藩は尊皇攘夷過激派の天狗党残党と、反天狗党である諸生派との内紛、更に当主徳川慶篤(慶喜の兄)の急死等で騒然としていた。それらの事態が関与してくることを恐れた慶喜は、駿府に移りたいと希望した。駿府を希望した理由は、明治新政府が徳川宗家を御三卿・田安家当主亀之助をもって、石高70万石とし、駿府にて相続させると決定していたからであった。

同年7月、慶喜は陸路と船、銚子港からは榎本武揚指揮下の蟠龍丸で清水港に上陸、直ちに駿府の宝台院に入り謹慎・蟄居を続けた。だが、鳥羽伏見の戦い以来幕府側についた諸藩主の謹慎・蟄居が明治2年(1869)9月に赦免され、それと共に慶喜も許されたので、現在の料亭浮月楼である元代官屋敷に、同年10月に住居を移転した。それから20年間、慶喜はここで「毎日が日曜日」という趣味三昧の日々に耽った。
因みに、榎本武揚は慶喜を清水港に護衛搬送した翌月、官軍に引き渡すことになっていた幕府軍艦八隻をもって、陸奥に向かって脱走した。これは、榎本が主家の成行きを見届けるまで脱走を待っていたというべきであろう。

紺屋町の料亭浮月楼「徳川慶喜公屋敷跡」から、東に五六分歩いた伝馬町に「西郷・山岡会見の史跡」石碑がある。当然、慶喜は会見の場となった当時の松崎屋源兵衛宅を知っていたであろうが、現在の石碑が個人所有物であることを知る人は少ない。
明治維新大業への一歩を示した重要なる会見場所、ここが史跡と認定され、石碑が建立された背景には、親子二代23年にわたる奔走物語があった。
戦後の昭和20年、松崎屋源兵衛宅跡で鮮魚業を営み始めた原田鐡雄氏が、この地の重要性を知り、史跡とすべく活動し始めたが、志半ばで病に倒れ、その意志を継いだ娘婿の原田勇氏の熱誠・執念によって、明治維新から百年を記念する昭和43年(1968)に、「西郷・山岡会見の史跡」石碑が建立されたのである。

さて、静岡に移り住んだ慶喜には何も仕事がなかった。何も仕事しない33歳の元将軍の日常は、「徳川慶喜家家扶日記」で行動が明らかとなっている。近村での鷹狩り、清水港での投網、写真に夢中になり、油絵も描くなど多彩な趣味に没頭した。慶喜が<とりわきていふべきふしはあらねども、たゞおもしろくけふもくらしつ>と詠ったように、今日一日が面白ければ、それでいいじゃないか、という達観した自然体の悟りの生きかたでもあった。
このように、慶喜が静岡で安定した趣味三昧の日々を過ごせたのは、西郷・山岡会見で江戸無血開城が事実上決定し、明治維新が最小限の混乱で成立したからであったが、何ゆえにそのような偉大な功業を、一介の幕臣にすぎなかった鉄舟が成し遂げ得たのか。
今回はその解明を、上野寛永寺大慈院一室から解きほぐしてみたい。

鉄舟が書き残した「西郷氏と応接之記」に、慶喜の謹慎・蟄居に対して、鉄舟が次のように疑念を呈したと記している。
「余、旧主に述ぶるに、今日切迫の時勢、恭順の趣旨は如何なる考に出候哉と問ふ。
旧主示すに、予は朝廷に対し公正無二の赤心を以て謹慎すと雖も、朝敵の命下りし上は迚も予が生命を全する事はなるまじ。斯迄衆人に悪まれ、遂に其志を果さずと思えば返々も歎かはしき事と落涙せられたり。
余、旧主に述ぶるに、何を弱きツマラヌ事を仰せらるゝや。謹慎とあるは詐りにても有んか、何か外にたくまれし事にてもあらざるか」と。
何と驚くべきことに、身分低き一幕臣鉄舟が、初の将軍御目見えである上野寛永寺大慈院一室にて、慶喜に向かって厳しく謹慎・蟄居の真意を問い質しているのである。封建時代の当時では考えられないことであったが、これが正に鉄舟の武士道精神で発露であった。

ここで武士道の思想と行動を考えてみたい。武士道研究家の第一人者である笠谷和比古教授(国際日本文化研究センター)は、著書(武士道その名誉と掟)で武士道の二つの側面を述べている。
「武士道の一つの側面は『忠義』の観念で、それは『主君-家臣』というタテの関係である。もう一つの側面は『名誉』の観念で、これは個々の武士の『武士としての自我意識・矜持』としてのヨコの関係として存在する」と。
この二つの側面を今の時代に当てはめ、会社組織に例えていえば「忠義」は社長・上司との関係、会社の組織一員として働く立場からは「名誉」を「人間としての規範・矜持」、言葉を替えて言えば、自らが持つ「志・大義・理念・良心」に当たる。

この時代、将軍からの命令・指示に対して、諸大名や旗本は畏まって受け入れるのが、武士道「忠義」の観念から当たり前であった。
しかし、鉄舟は異なった。将軍慶喜からの直接指示に対して畏まらず、返って謹慎・蟄居の姿勢に対する疑義を唱え、問い質し、以下の回答を引き出したのであった。
「旧主曰く、予は別心なし。如何なる事にても朝命に背かざる無二赤心なりと。
余曰く、真の誠意を以て謹慎の事なれば、臣之を朝廷に貫徹し、御疑念氷解は勿論なり。鉄太郎に於て其辺は屹と引受、必ず赤心徹底可致様尽力可仕。鉄太郎眼の黒き内は決して御配慮有之間敷と断言す」
鉄舟が慶喜に対して疑義を呈し、問い詰めたのは理由があった。慶喜は家康の再来といわれたほど評判の高き俊才であったが、第二次対長州戦争の突如中止や、鳥羽伏見の戦いで示した優柔不断な命令と、敗色濃くなるといち早く大坂湾から船で江戸に逃げ帰った行動、それらにみられる慶喜の行動は「二心殿」と陰口されるほど、気持ちが揺れ動き、腹が据わっていない。
だから、今回の官軍による江戸城攻撃に対しても、状況がちょっと変化すれば、すぐに慶喜の謹慎・蟄居姿勢もまた変わるのではないか、そのところを鉄舟は厳しく慶喜に問い質したのである。だが、この鉄舟の言動は、当時の武士道忠義の観念からみて、非常識極まるものであった。

この時、幕府の対官軍交渉は手詰っていた。静寛院宮(14代家茂夫人)、天璋院(13代家定夫人)、輪王寺宮公現法親王による打開工作も通ぜず、官軍先鋒は品川まで迫っていた。最後の奇策としての鉄舟投入であり、鉄舟はその重大な意味を理解し、十分承知していた。鉄舟が失敗すれば、江戸城総攻撃となり、江戸市中は戦火の坩堝となる。
だが、しかし、今までの交渉者に比し、あまりにも身分・格が低き鉄舟。ただ持ち得るのは剣・禅修行で鍛えぬいたこの身しかない。
鉄舟は自分の中に「決死の覚悟」を植えつけるしかなかった。自分で自分の「人間としての規範・矜持」に火をつけ、自らを追い込むことしかなかった。
そのためには、敢えて忠義の観念に逆らう対応を行い、慶喜から「予は別心なし」の意志再確認を引き出し、我が身を「責任は死より重し」という覚悟にし、「必ず赤心徹底可致様尽力可仕」の状態に追い込む必要があった。
西郷との会見・交渉でみせた「決死の気合と鋭い論鋒」は、このように生れたのであり、その背景には、武士道もう一つの側面、名誉の観念の発露があったのである。

話は変わるが、4月25日に発生したJR西日本福知山線脱線事故の当日、天王寺車掌区の43人がボウリング大会を開催した。その際、複数の若手社員が「まずい」と思ったという。「人間としての規範・矜持・良心」がこの若手社員に存在したのであり、仮に、その中の一人が中止を諫言・進言し、上司が受け入れてボウリング大会を取り止めていたら、事故後のJR西日本に対する風当たりは、少しは異なっていたであろう。残念である。

投稿者 Master : 09:57 | コメント (0)

2006年05月02日

江戸無血開城(其の一)西郷・山岡会見

山岡鉄舟研究家の山本紀久雄でございます。山岡鉄舟の研究を志し、毎月の鉄舟21サロンで発表させて頂いておりますが、そこでの内容を改めて整理し、まとめ直し、今月から「鉄舟研究」として毎月掲載してまいります。鉄舟の生き方から現代に生きる我々に指針を提供できればと思って、各角度と現代とのつながりも考えて述べてまいります。

江戸無血開城(其の一)西郷・山岡会見
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
西郷・山岡会見の地
JR静岡駅北口から歩いて5分、昨年9月オープンした地上21階・地下2階のペガサートビルの前、この伝馬町の通りに一つの石碑が立っている。高さは約1.5m、横幅は約1mの御影石でつくられた石碑、向かって右側に山岡鉄舟、左側に西郷隆盛の顔が銅版ではめ込まれている。両者の顔銅版の下方に「ここは慶応4年3月9日東征軍参謀西郷隆盛と幕臣山岡鐡太郎の会見した松崎屋源兵衛宅跡でこれによって江戸が無血開城されたので明治維新史上最も重要な史跡であります」と刻字されている。

今を去ること137年前、日本は江戸時代から明治時代への大転換期にあった。時の15代将軍徳川慶喜は、慶応4年(1868)正月2日に勃発した鳥羽伏見の戦いに敗れ、薩長軍は官軍、幕府軍は賊軍となり、慶喜は大坂湾から船で脱出、江戸に1月12日に戻った。江戸城では恭順派と抗戦派に分かれ議論が紛糾したが、慶喜は恭順策を採り、その意を表すべく、上野の寛永寺一室に謹慎・蟄居した。
しかし、薩摩・長州を中心とした官軍は、総勢5万人といわれる兵力を結集し、朝敵徳川慶喜の居城江戸城を攻めるべく、続々と京都を下っていた。
この状況下において、慶喜は恭順の意を正確に官軍に伝え、かつ、江戸を戦火から防ぐべく、当時、全くの無名であった幕臣山岡鐡太郎(=山岡鉄舟、以下「鉄舟」と略する)に、単身、江戸から駿府に乗り込み、実質の官軍総司令官であった西郷隆盛と会見・交渉することを命じ、鉄舟は見事その任務を全うした。
官軍による正式な江戸攻撃中止は、慶応4年(1868)3月14日芝・田町の薩摩屋敷における、第二回目の幕府陸軍軍事総裁勝海舟と西郷との会談で決定したのであるが、その前に駿府における鉄舟・西郷会談で江戸無血開城が事実上決まっていたことを、伝馬町の石碑史跡が物語っている。

山岡鉄舟という人物
鉄舟は天保7年(1836)生まれで、安政2年(1855)20歳のときに、旗本・御家人に武道を習得するため安政元年に設置された講武所に入った。このときを一人前の幕臣としての出発と考えると、明治5年(1872)に明治天皇の侍従として皇居に奉職するときまでの17年間を徳川家に仕えたことになる。
それから明治21年(1888)53歳で逝去するまでの17年間は、侍従・宮内省御用掛として明治政府に奉職したのであるから、ちょうど徳川家と明治政府に17年間毎、つまり、半分ずつの公的生活という経歴である。
時代の一大変換期とはいえ、幕府時代は盟主である将軍から直接指示を受け功績を残し、新時代にあっては明治天皇を誉れ高き名君とする功績を示したこと、つまり、封建時代も近代化の時代にも、鉄舟は時の盟主と直接関わる仕事をしていたという事実が、鉄舟の人間力を証明している。
司馬遼太郎は作品としては鉄舟を取り上げなかったが、講演の中で次のように語っている。
「山岡鉄舟はミスター幕臣といってよい存在でした。非常に立派な人で、侍の鑑というような感じだった。たいへん自律的な、自分を完全にコントロールできた精神の人です」と。  さすがに司馬遼太郎は鉄舟に対して、正鵠を得た見方をしていると思う。

西郷との交渉結果
鉄舟は明治15年三条実美賞勲局総裁の求めに応じ、慶応4年3月9日の駿府での西郷との会見模様を「西郷氏と応接之記」として自ら書き残しているが、この中で最も重要な「慶喜の命を守り江戸総攻撃を取り止めさせる」という主目的に対し、西郷からは以下の五箇条の条件が出されたと記されている。
1. 城を明け渡すこと
2. 城中の人数を向島へ移すこと
3. 兵器を渡すこと
4. 軍艦を渡すこと
5. 徳川慶喜を備前に預けること
鉄舟は1条から4条は受け入れるが、断じて5条の「徳川慶喜を備前に預けること」については受け入れなかった。以下のように強く反論している。
「余(鉄舟)曰く、主人慶喜を独り備前へ預る事、決して相成らざる事なり。如何となれば、此場に至り徳川恩顧の家士決して承伏不致なり。詰る所兵端を開き、空く数万の生命を絶つ。是、王師のなす所にあらず。果して然らば先生は只の人殺しなる可し。故に拙者、此条に於ては決して不肯なり。
西郷氏曰く、朝命なり、と。
余曰く、たとひ朝命なりと雖も拙者に於て承伏せざるなり、と断言す。
西郷氏又強いて、朝命なり、と云ふ。
余曰く、然らば先生と余と其位置を易へて暫く之を論ぜん。先生の主人島津公、若し誤りて朝敵の汚名を受け官軍征討の日に当り、其君恭順謹慎の時に及んで、先生余が任に居り、主家の為尽力するに当り、主人慶喜の如き御処置の朝命あらば、先生其命を奉戴し、速に其君を差出し、安閑として傍観する事、君臣の情、先生の義に於て如何ぞや。此義に於ては鉄太郎決して忍ぶ事能はざる所なり、と激論せり。
西郷氏黙然、暫ありて云く、先生の説、最然り。然らば徳川慶喜殿の事に於ては吉之助屹と引受取計ふ可し、先生必ず心痛する事なかれと誓約せり」
 この会見における鉄舟の全身全霊から噴出した決死の気合と論説の鋭さ、それは正に武士としての絶対忠誠心を理念として昇華させた強固で真摯な抵抗精神であり、後年、真の武士道体現者と謳われた鉄舟ならではの働きであった。
ここに江戸無血開城が事実上決まり、これによって明治維新大業への一歩が示されたのであり、鉄舟の個としての行動戦略性によって、近代日本の扉が開いたのである。

命も名も官位も金もいらず
 この交渉から4日後の慶応4年3月13日、勝海舟と西郷の第一回会談が芝高輪の薩摩屋敷で行われた。海舟と西郷はすでに面識があり、会談後2人は愛宕山に登った。そのとき西郷が「命もいらず、名もいらず、金もいらず、といった始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如きでしょう」と語った。この内容が、後年西郷の「南州翁遺訓」の中に一節として記されたが、これは正に鉄舟の武士道精神真髄を示したものであった。

鉄舟という人物のすごさは、誰も見通しをつけられなかった幕末維新の歴史的課題に、徒手空拳で立ち向うという天晴れな豪胆武勇さと、西郷との会見でみせた政治外交力、それらを併せ持ったところにあるが、何故に、このように優れた人物になり得たのか。この解明こそが本連載の主旨であり、鉄舟を論ずることを通じて、改めて明治維新の現代的意義を検討し、21世紀の日本人論についても言及したいと思っている。

投稿者 Master : 08:58 | コメント (0)

2005年12月25日

西郷・山岡会見の地

改めて連載を始めます
2005年も鉄舟研究を続けて参りました山本紀久雄です。毎月の鉄舟サロンでの講演と、全国フォーラムでの講演、また、静岡への研究旅行、鉄舟ファンの人たちと楽しく明るい面白い研究の毎日です。その内容をこれから毎月皆さんにお伝えしてまいります。最初は「西郷・山岡会見の地」です。

西郷・山岡会見の地

JR静岡駅北口から歩いて5分、昨年9月オープンした地上21階・地下2階のペガサートビルの前、この伝馬町の通りに一つの石碑が立っている。高さは約1.5m、横幅は約1mの御影石でつくられた石碑、向かって右側に山岡鉄舟、左側に西郷隆盛の顔が銅版ではめ込まれている。

両者の顔銅版の下方に「ここは慶応4年3月9日東征軍参謀西郷隆盛と幕臣山岡鐡太郎の会見した松崎屋源兵衛宅跡でこれによって江戸が無血開城されたので明治維新史上最も重要な史跡であります」と刻字されている。
今を去ること137年前、日本は江戸時代から明治時代への大転換期にあった。時の15代将軍徳川慶喜は、慶応4年(1868)正月2日に勃発した鳥羽伏見の戦いに敗れ、薩長軍は官軍、幕府軍は賊軍となり、慶喜は大坂湾から船で脱出、江戸に1月12日に戻った。江戸城では恭順派と抗戦派に分かれ議論が紛糾したが、慶喜は恭順策を採り、その意を表すべく、上野の寛永寺一室に謹慎・蟄居した。
しかし、薩摩・長州を中心とした官軍は、総勢5万人といわれる兵力を結集し、朝敵徳川慶喜の居城江戸城を攻めるべく、続々と京都を下っていた。
この状況下において、慶喜は恭順の意を正確に官軍に伝え、かつ、江戸を戦火から防ぐべく、当時、全くの無名であった幕臣山岡鐡太郎(=山岡鉄舟、以下「鉄舟」と略する)に、単身、江戸から駿府に乗り込み、実質の官軍総司令官であった西郷隆盛と会見・交渉することを命じ、鉄舟は見事その任務を全うした。
官軍による正式な江戸攻撃中止は、慶応4年(1868)3月14日芝・田町の薩摩屋敷における、第二回目の幕府陸軍軍事総裁勝海舟と西郷との会談で決定したのであるが、その前に駿府における鉄舟・西郷会談で江戸無血開城が事実上決まっていたことを、伝馬町の石碑史跡が物語っている。

山岡鉄舟という人物

鉄舟は天保7年(1836)生まれで、安政2年(1855)20歳のときに、旗本・御家人に武道を習得するため安政元年に設置された講武所に入った。このときを一人前の幕臣としての出発と考えると、明治5年(1872)に明治天皇の侍従として皇居に奉職するときまでの17年間を徳川家に仕えたことになる。
それから明治21年(1888)53歳で逝去するまでの17年間は、侍従・宮内省御用掛として明治政府に奉職したのであるから、ちょうど徳川家と明治政府に17年間毎、つまり、半分ずつの公的生活という経歴である。
時代の一大変換期とはいえ、幕府時代は盟主である将軍から直接指示を受け功績を残し、新時代にあっては明治天皇を誉れ高き名君とする功績を示したこと、つまり、封建時代も近代化の時代にも、鉄舟は時の盟主と直接関わる仕事をしていたという事実が、鉄舟の人間力を証明している。
司馬遼太郎は作品としては鉄舟を取り上げなかったが、講演の中で次のように語っている。
「山岡鉄舟はミスター幕臣といってよい存在でした。非常に立派な人で、侍の鑑というような感じだった。たいへん自律的な、自分を完全にコントロールできた精神の人です」と。  さすがに司馬遼太郎は鉄舟に対して、正鵠を得た見方をしていると思う。

西郷との交渉結果

鉄舟は明治15年三条実美賞勲局総裁の求めに応じ、慶応4年3月9日の駿府での西郷との会見模様を「西郷氏と応接之記」として自ら書き残しているが、この中で最も重要な「慶喜の命を守り江戸総攻撃を取り止めさせる」という主目的に対し、西郷からは以下の五箇条の条件が出されたと記されている。
1. 城を明け渡すこと
2. 城中の人数を向島へ移すこと
3. 兵器を渡すこと
4. 軍艦を渡すこと
5. 徳川慶喜を備前に預けること
鉄舟は1条から4条は受け入れるが、断じて5条の「徳川慶喜を備前に預けること」については受け入れなかった。以下のように強く反論している。
「余(鉄舟)曰く、主人慶喜を独り備前へ預る事、決して相成らざる事なり。如何となれば、此場に至り徳川恩顧の家士決して承伏不致なり。詰る所兵端を開き、空く数万の生命を絶つ。是、王師のなす所にあらず。果して然らば先生は只の人殺しなる可し。故に拙者、此条に於ては決して不肯なり。
西郷氏曰く、朝命なり、と。
余曰く、たとひ朝命なりと雖も拙者に於て承伏せざるなり、と断言す。
西郷氏又強いて、朝命なり、と云ふ。
余曰く、然らば先生と余と其位置を易へて暫く之を論ぜん。先生の主人島津公、若し誤りて朝敵の汚名を受け官軍征討の日に当り、其君恭順謹慎の時に及んで、先生余が任に居り、主家の為尽力するに当り、主人慶喜の如き御処置の朝命あらば、先生其命を奉戴し、速に其君を差出し、安閑として傍観する事、君臣の情、先生の義に於て如何ぞや。此義に於ては鉄太郎決して忍ぶ事能はざる所なり、と激論せり。
西郷氏黙然、暫ありて云く、先生の説、最然り。然らば徳川慶喜殿の事に於ては吉之助屹と引受取計ふ可し、先生必ず心痛する事なかれと誓約せり」
 この会見における鉄舟の全身全霊から噴出した決死の気合と論説の鋭さ、それは正に武士としての絶対忠誠心を理念として昇華させた強固で真摯な抵抗精神であり、後年、真の武士道体現者と謳われた鉄舟ならではの働きであった。
ここに江戸無血開城が事実上決まり、これによって明治維新大業への一歩が示されたのであり、鉄舟の個としての行動戦略性によって、近代日本の扉が開いたのである。

命も名も官位も金もいらず

 この交渉から4日後の慶応4年3月13日、勝海舟と西郷の第一回会談が芝高輪の薩摩屋敷で行われた。海舟と西郷はすでに面識があり、会談後2人は愛宕山に登った。そのとき西郷が「命もいらず、名もいらず、金もいらず、といった始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如きでしょう」と語った。この内容が、後年西郷の「南州翁遺訓」の中に一節として記されたが、これは正に鉄舟の武士道精神真髄を示したものであった。

鉄舟という人物のすごさは、誰も見通しをつけられなかった幕末維新の歴史的課題に、徒手空拳で立ち向うという天晴れな豪胆武勇さと、西郷との会見でみせた政治外交力、それらを併せ持ったところにあるが、何故に、このように優れた人物になり得たのか。この解明こそが本連載の主旨であり、鉄舟を論ずることを通じて、改めて明治維新の現代的意義を検討し、21世紀の日本人論についても言及したいと思っている。

投稿者 Master : 13:52 | コメント (0)

2005年01月22日

「巣鴨に住んでいた徳川慶喜」

会員の森田悦功さんより以下の情報が寄せられました。

「巣鴨に住んでいた徳川慶喜」

徳川慶喜が巣鴨に移り住んだのは明治30年から明治34年までの4年間であった。
61歳から住み移ったのである。大政奉還後静岡で暮らしていたが、明治31年には皇居に参内し、明治35年には侯爵となり復権への道を歩んだ期間であった。

その住まいの巣鴨邸は、中仙道(現白山通り)に面して門があり、庭の奥は故郷水戸に因んだ梅林となっており、町の人からは「ケイキさんの梅林」と呼ばれて親しまれたという。

その後文京区小日向に移ったが、その理由は巣鴨邸の直ぐ近くを鉄道(目白−田端)の豊島線、現在の山手線であるが、これが通ることが決まり、その騒音を嫌ってのことであった。
今は巣鴨駅近くの白山通りに面して「徳川慶喜巣鴨屋敷跡」の石表示が立っている。

投稿者 Yamamoto : 14:37 | コメント (0)

2005年01月05日

鉄舟の活躍

鉄舟研究会の皆様へ、 本日新しい情報を入手しました。安田火災保険の創業者は安田善次郎ですが、この善 次郎と鉄舟は昵懇でして、安田火災保険の第一号契約者として鉄舟になってもらい、 保険の普及に尽力したのです。パンの普及に協力したのと同じです。資料取り寄せま して詳しく報告します。このように明治になってからの鉄舟は社会の進化に役立って います。山本紀久雄



投稿者 Yamamoto : 15:35 | コメント (0)

2004年12月26日

謎の人物、白井音次郎

1. 謎の人物白井音次郎

謎の人物白井音次郎とは「清水次郎長と明治維新 田口英爾著 新人物往来社」に書かれていたものである。
今までの資料にない新しい人物であるので、今回はこの人物についてこの本に基づいて紹介したい。
この本の中に、白井音次郎の子孫、愛媛県宇摩郡土居町の井出家に鉄舟の手紙があるといい、その手紙には次のように書かれている。

「駿府中ニ西郷氏出張ニ付、夫迄罷越候間、益満兄ヨリ篠原氏迄、貴兄御繰込之一書、相頼候間、都合宜敷出来候ハバ大急ギ御出張奉願候、怱々
  三月八日
白井音次郎様  山岡鉄太郎
    急用
  
  この手紙の内容と意味について検討してみたい。

2. 白井音次郎は徳川慶喜の家臣だった

「清水港開港100年史」の編纂携わった著者の田口氏が大正6年発行「清水町沿革誌」から「明治8年に白井音次郎に港の一部31,000坪の土地を払い下げ受け、価格は60円であった」という内容を見つけたのである。明治初年と今の物価価格を比較して、仮に2万倍とすると「60円」というのは「120万円」となる。坪当たり約40円となり、いくらなんでも安過ぎる。この払い下げと価格に対して地元民は県庁に異議申し立てしたが「徳川家のことであるから」という理由で説得され、やむなく引き下がったという事情も書かれている。つまり、慶喜の家臣だったのである。

3. 白井音次郎は港造りのために土地提供ここに次郎長の末廣が開業された

白井音次郎が払い下げされた土地というのは、清水港の心臓部や市役所の周辺がすっぽり入る中心地に当る重要場所であった。
外海港とすべく波止場の造成をする必要上、白井音次郎の土地を提供受ける必要があって、その交渉を白井音次郎と行った。白井は協力的であり、所有地のうち、繋船場に必要な5400坪の土地を提供した。
この土地の一部に次郎長が晩年の住居ともした船宿「末廣」が明治19年に開業したのである。

4.鉄舟から白井音次郎に宛てた手紙の意味
   
1項で記載した鉄舟から白井音次郎に宛てた手紙の意味は何を示すか。日付は3月8日である。2日前に海舟の手紙を持って江戸を出ている。海舟のすすめで、鉄舟は薩摩藩士益満休之助を随行させた。品川宿を通過して六郷川を渡ると官軍先鋒部隊が布陣している。隊長は薩摩藩士篠原国幹だ。鉄舟は「朝敵徳川慶喜家来山岡鉄太郎、大総督府へまかり通る」と大声で怒鳴り通り過ぎた。
   ここで1項の手紙を再確認してみたい。「益満兄ヨリ篠原氏迄、貴兄御繰込之一書」とある。これは益満が篠原に宛てた手紙を、白井音次郎が送り届けたことを示唆している。鉄舟の行動が阻止されないよう、白井音次郎が先回りして工作したのだ。そうでなければ「朝敵徳川慶喜家来」と名乗っているのに咎めないはずはない。
   この手紙は白井音次郎の子孫である井出家に秘蔵されたままになっていて、歴史の表舞台に出ることがなかった。
   江戸から駿府まで官軍陣営を強行突破した鉄舟の背後には、白井音次郎の工作が見え隠れしている。白井音次郎は慶喜のお庭番、すなわち隠密だったらしい。

以上が田口英璽著から引用した内容である。これが事実とすると鉄舟の行動の背景を解明する糸口になると思われる。
但し、この見解は白井音次郎の子孫である井出家にある鉄舟の手紙が本物であるかどうかにかかっている。この確認をしてから田口氏の見解について再検討してみたいが、このようなことはあっても不思議でなく、当時の背景を探る重要な資料と思えるので今回採り上げてみた。

皆様のご意見をお待ちしております。

投稿者 Master : 21:13 | コメント (1)

2004年10月26日

西郷との会見時における鉄舟の身分・・最終回

1.鉄舟の抜擢昇進
鉄舟が百俵二人扶持の身分では、幕末の混乱期とはいえ、当時の封建体制下では、絶対、将軍に御目見えできない。しかし、鉄舟は慶喜に拝謁している。
この解明を二回にわたって研究してきたが、山田義信氏の「江戸開城論」に書かれている「鉄舟は高級旗本である」という身分になっていれば、当然拝謁できることになる。
 この拝謁できる身分になったのは何時か。その究明が次の研究となるが、江戸時代には抜擢昇進事例も数多くあり、鉄舟が慶喜護衛としての「精鋭隊歩兵頭被申付」に就任している事実から、作事奉行・大目付もありえると考える。

この時代、新撰組の近藤勇は一万石の大名になり、土方歳三は寄合格であるから三千石であるので、幕末当時は混乱時でもあり、当時の常識から離れて、多くの異例状況が発生し、その中で近藤・土方のように直参に採り上げられ、また軽輩旗本身分の鉄舟が異例の抜擢昇進したとしても不思議はない。
 特に鉄舟は将軍の地位を降りたとはいえ、15代将軍であった慶喜の護衛隊頭であったのであるから、大事な職務であるから抜擢昇進はありえると考える。
 また、幕府の昇進制度として足高制度、養子制度、御家人株の売買などがあり、それらを考えると意外に幕府時代は弾力的な人事制度が存在していたと思われるので、鉄舟が慶喜から直接指示を受けたことも不思議でないと判断する。

2.視点を変えて、慶喜側から鉄舟への直接指示があり得るかを検討してみる
参照 小説 渋沢栄一 曖々(あいあい)たり 津本陽
      (曖々・・・薄暗い様 おぼろなさま)
 津本陽の小説に曖々たりがある。渋沢栄一の生涯を描いたものである。
その主人公である渋沢栄一は一橋慶喜の家来であったのであるが、農民であった渋沢栄一が一橋家に採用される経緯が書かれている。
当時、将軍徳川慶喜は一橋家の主であった。一橋家とは御三卿の一つである。御三卿とは八代将軍吉宗の子供と孫が立てたもので、吉宗の二男宗武が創始した田安家、三男宗尹が創始した一橋家、九代将軍家重の二男重好が創始した清水家である。
 小説の中に
「この頃の一橋家では時勢の紛糾にそなえ、浪人、百姓を問わず相当の学問、武芸をそなえる人物であれば、新規召抱えをおこなっていた。
渋沢栄一は現在の埼玉県深谷市の百姓であったが、江戸に出て千葉周作の玄武館道場に入塾し、多くの人物と知り合いとなった。その中に一橋家用人の平岡円四郎がいて知遇を得た。その縁で一橋家の家来になるのである。
 家来になるにあたって、渋沢栄一は慶喜に意見書を提出し、拝謁を願い出た。この拝謁は前例がなく、御目見以下の身分の者を殿様に会わせることはありえないことであったが、平岡は遠乗りする慶喜のところについていく機会を渋沢に与え、慶喜から内々の御目見を仰せつかり、意見を述べたのである。慶喜は黙って聞いていたが、その後無事に渋沢栄一は家来になることが出来た」
とある。

 これを見ると慶喜は権威ということについて恬淡とした人物であったことが解釈できる。
とすると、鉄舟の身分が御目見以下であったとしても、自らの立場が孤立している状況では、身分という権威を超えて行動できるという個性を発揮して、鉄舟に対して直接指示をすることもあったと考えられる。
また慶喜護衛隊頭であれば当然に指示したといえる。加えて、警護責任者として信頼している泥舟の義弟であるということも、信用して直接指示した要因であると思う。

以上、三回にわたって鉄舟が慶喜から直接指示された背景について検討してきた。まだ不十分であるが、この検討内容については今回で一応の区切りをつけたい。検討内容についてご見解があればご連絡をお待ちしています。

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2004年09月26日

西郷との会見時における鉄舟の身分・・・2

前回に続いて鉄舟の身分を検討してみたい。

前回に述べたように、鉄舟が西郷との会見に行くことを、直接、慶喜から指示されたのは事実である。だが、鉄舟の身分「百俵二人扶持」という立場では、当時の封建制度の中では慶喜に謁見することは絶対に無理である。
そこで、慶喜から直接に指示されたということについて、何らかの合理的理由を見出せねばならない。
そのことについて引き続いて検討してみる。

1. 御家人

旗本については前回述べたので、今回は将軍に御目見できない御家人について整理することからはじめてみる。
御家人とは将軍の直臣であるが、禄高一万石未満で、将軍に謁見できない御目見以下の者である。これに対し、旗本は将軍の直臣で、禄高一万石未満、将軍に謁見できる御目見以上の者である。
御家人の人数は時代によって変化するが、宝永期(1704~1711)ごろの総人数は約17000人であった。
御家人のほとんどが小禄の蔵米取りであった。役職に就けるものは僅かであったので、拝領屋敷を賃貸して地代収入を得たり、雑多な手内職をして家計を補っていた。特に草花の栽培、季節の虫類や金魚の飼育、傘張、提灯張などが多かった。
蔵米の支給・売却を請け負っていた札差からの借金は代を重ねるごとに増大し、御家人の生活は非常に苦しいものであった。
こうした困窮の中、御家人の席を株と称して売却する者も発生した。この場合、株の買い手を売り手の養子として届け出て、その後、売り手が退役して買い手が家督相続する、という形式が一般的である。

2. 鉄舟の身分

鉄舟は御家人である。だから、江戸時代の体制では御家人では絶対に将軍に会えないのである。しかし、鉄舟は慶喜から指示を受けている。このところの疑問に対して、今まで多くの資料・研究書・小説も含めて、誰も疑問を持たずに、高橋泥舟の推薦によって慶喜から指示を受けたとある。
確かに直接に指示を受けたのであるから、鉄舟はその当時、将軍に会える立場にあったのでなければ合理的でない。
つまり、御目見以上の身分、旗本になっていなければ、慶喜に謁見できないのであるから、鉄舟はその身分になっていたという仮説が成り立つ。
だが、誰もこの身分について検討せずに、百俵二人扶持のままの身分にしておいて、その身分では将軍に謁見できない制度であるという事実に対して疑問を持たずに、上野寛永寺の塔頭(たつちゅう)大慈院において、慶喜に直々拝謁したと書いている。

ここに疑問を持ったわけである。すべての物事は常識から考えてみることが必要である。常識とは、当時の江戸時代の仕組み・体制の中での常識であって、一旦はこの時代の感覚に戻って考えてみなければならないと思う。
今の時代であっては、一般人でも割合簡単に首相に会うことが可能であるだろう。それにしても首相に会う理由があってのことである。
それが、江戸時代であるのから、大政奉還し将軍の地位を退いたといっても、徳川幕府の15代将軍であった慶喜に、一介の御家人が簡単に謁見できるわけがないと思うのが、常識である。

この点について、長い間疑問に思い、多くの資料を集め、その内容を検討していたが、国会図書館で次の書籍に出会った。
それは「江戸開城論・山岡鉄舟伝」であり、著者は「山口義信」である。発行年度をメモするのを怠ったため、ここに書くことが出来ないが、山口義信氏は、「江戸開城論」の中で鉄舟の身分について、次のように書いている。

「当時鉄舟は33歳、幕命にて『精鋭隊頭歩兵頭被申付』ついで『作事奉行大目付被申付』ていたが、この高級青年将校は幕府要人ならびに幕閣などにいわしめれば、ある意味での要注意人物の1人であり、しかも鉄舟の剣名は非常なものがあったので、よけい恐れられていた」とある。

これは大変な驚きである。
いつのまにか百俵二人扶持の身分であったものが、作事奉行と大目付になっている。
作事奉行とは何か。それは次のとおりである。(徳川幕府事典)

「幕府の諸施設・諸屋敷の土木・営繕は、寛永九年(1632)に常置された作事奉行が一切統括していた。承応元年(1652)に土木関係を普請奉行に移管し、ついで、貞享(じょうきょう)二年(1685)に営繕部門を担当する小普請奉行が常置された。この3職は、寺社・町・勘定の三奉行に対し、下(した)三奉行と呼ばれていた。幕末の文久二年(1862)に普請奉行、小普請奉行が廃され、職務は作事奉行に統合された。作事奉行は2000石である」

鉄舟は2000石の大身旗本になっているのである。

次に、大目付であるが、これについては以下のとおりである。(徳川幕府事典)

「幕府の監察官には、大名および老中支配の諸職を対象とする大目付と、旗本・御家人と若年寄支配の諸職を対象とする目付がある。大目付は諸大名の席次や殿中の礼法を監し、諸大名への伝達、訴獄逮捕のことや、諸士の分限・服忌・日記のことなど一切の政務を監察した。3000石。定員は4~5名であったが、幕末には大幅に増員された」

鉄舟は大目付も兼ねていたのであるから、3000石の身分であっことになる。

だが、鉄舟が作事奉行であり、大目付であっとしても、どうしてそのような身分になれたのか。それが次の疑問となってくる。昇進・昇格理由はどのようなものであったのか。それが疑問である。

次回に続く。

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2004年08月26日

西郷との会見時における鉄舟の身分

鉄舟が徳川慶喜から直接指示を受け、勝海舟と相談し、駿府の西郷のところに向かったことは、鉄舟自ら三条公の求めに応じて書いた「両雄会心録」と題し、鉄舟自筆の石版本が公刊されているから間違いない、と大森曹玄先生が著書「山岡鉄舟」の中で述べられている。
したがって、この大森先生の説を妥当と受け入れるものであるが、そこで次の疑問が発生してくる。

それは鉄舟が徳川慶喜から直接に命令を受けたという事実である。慶喜は大政奉還した時から日本国の政治をつかさどる将軍ではなくなって、日本でもっとも石高の大きい大名となったわけであるが、それにしても江戸時代という階級社会での最上級に君臨した存在である。
その最上級の存在者としての慶喜、その人物から鉄舟という下級旗本が混乱期といえ直接御目見え拝謁し、大事な政治交渉の指示を受けることができたのであろうか、という疑問である。

鉄舟の禄高は百俵二人扶持という低い身分の御家人であった。(神渡良平 山岡鉄舟)このような身分の者が果たして徳川家の15代慶喜に拝謁できたのであろうかという、率直な疑問である。
このような素直な疑問を検討している鉄舟関係の資料に今まで出会っていないが、その当時の武士社会のことを諸資料で推量してみれば、将軍としての地位にあった人物が、一介の御家人としての立場の人物に会うことは不可能であると思われる。即ち、百俵二人扶持という身分では絶対に会えないという体制・制度が、江戸幕府の中にしっかり確立されていたからこそ265年という長期間の徳川政権が続いたのである。それだけ体制・制度が素晴らしかったといえるのである。

しかし、鉄舟は西郷との会見・交渉に行くことを、直接、慶喜から指示を受けたということは事実であるから、そこに何かの合理的理由を見出さなければ鉄舟が世に出た発端の解明につながらないと思う。これを何回かに分けて検討してみたい。

まず徳川幕府における旗本という制度を整理してみることから検討を始めたい。参考とした資料は「徳川幕府事典 竹内誠編 東京堂出版」その他である。

1.旗本の成立と人数

旗本とは、将軍の直臣で、禄高一万石未満で将軍に謁見できる御目見以上の者のことである。御目見以下は御家人といい、この両者をあわせて直参と総称した。
住いは江戸在府を義務づけられ、家禄に応じた拝領屋敷に家族と家臣とともに居住していた。
旗本の人数は時代とともに変化するが、寛政期(1789~1801)ごろの総人数は約5300人であった。 
いわゆる「旗本八万期」とは、これに幕府軍役規定による陪臣(諸大名の直臣を将軍に対して呼んだ称・・・広辞苑)の人数、約67500人を加えた数と考えられる。

ここで陪臣ということについて少し触れなければならないが、その前に将軍の家来としては大きく分けて三種類あった。
一つは大名であり、この大名は親藩と譜代と外様に分かれる。親藩は徳川家の親類大名で御三家、御三卿、家門、連枝に分かれる。
御三家は、徳川家康の九男義直を祖とする尾張家、十男頼宣を祖とする紀伊家、十一男頼房を祖とする水戸家である。
御三卿は、八代将軍吉宗の子供と孫が立てたもので、吉宗の二男宗武の創始した田安家、三男宗尹が創始した一橋家、九代将軍家重の二男重好の創始した清水家である。
家門とは、家康の次男秀康を祖とする越前家につながる津山松平家、越前松平家、松江松平家、前橋松平家、明石松平家である。また、その他の家門大名として三男秀忠の子、家光の異母弟の保科正之を祖とする会津松平家等がある。
連枝は、御三家の支流で、尾張家支流の高須松平家、紀伊家支流の伊予西条松平家、水戸家支流の高松松平家がある。

大名のうち譜代とは、関が原の戦い以前に徳川家に仕えている一万石以上の者をいい、旗本でも加増されて一万石以上になれば、譜代大名となる。譜代大名の序列は、彦根の井伊家が筆頭で、前橋の酒井家(後に姫路)、越後高田の榊原家、出羽庄内の酒井家、若狭小浜の酒井家等が続く。
外様大名とは、関が原の戦い以後に徳川家に従った大名である。元は徳川家と肩を並べていた武士たちである。幕府は外様大名を政治には参加させなかったが、高い格式は認めていた。外様大名は領地の大きい大名が多くいた。加賀金沢百万石の前田家を筆頭に、薩摩鹿児島の島津家、奥州仙台の伊達家、長州萩の毛利家、備前岡山、因幡鳥取の両池田家、安芸広島の浅野家、出羽米沢の上杉家、伊勢津の藤堂家、肥後熊本の細川家、筑前福岡の黒田家、肥前佐賀の鍋島家、土佐高知の山内家、阿波徳島の蜂須賀家等である。

ここで陪臣に戻るが、幕府軍役規定の内容を確認していないので、明確には分からないが、陪臣とは御親藩の家来と旗本の家来をいうものではないかと思われる。

旗本の出自は、三河以来の譜代の家臣を中心にし、新たに召抱えられた駿河、甲斐、信濃などの武士、大名や旗本の分家や名家の子孫、学問や技芸によって登用された者などである。また、御目見以上の職を歴任した御家人が旗本に取り立てられることもあった。

2.旗本の役職

旗本は軍事を主に司る番方と、行政を主に司る役方に分かれる。
番方は、江戸城や二条城・大坂城の警護、将軍への随従を主務とし、大番・書院番・小姓組・新番・小十人組の五番方があった。
役方は、町奉行や勘定奉行など行政・財政に関する諸役に従事した。
無役の旗本は3000石以上を寄合、それ以下は小普請組に編入された。
役職につかない代償として、禄高に応じた小普請金を上納しなければならなかった。さらに、すべての旗本は幕府の軍役規定により、一定の人馬や武器などを負担した。

鉄舟はこの旗本ではない身分である。
将軍に謁見できない御目見以下の身分としての御家人であった。
したがって、鉄舟が慶喜から直接に西郷との会見・交渉を指示されたということは、この当時の体制・制度からはありえないことであったのである。

次回に続く。

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2004年07月26日

大森曹玄氏の見解

鉄舟を研究する者にとって、大森曹玄先生の著書「山岡鉄舟」は基本書である。大森先生は高歩院ご住職で鉄舟師家(しけ・学徳のある禅僧)である。
この大森先生が昭和43年、つまり、明治から百年の年(1968年)に「山岡鉄舟」を出版されたのである。
今回はこの大森先生の「山岡鉄舟」をご紹介したい。

まず「序」に次のように書かれている。

「この人、剣道、書道の名人であり、そして禅の大家である。ことに剣においては、山田治朗吉先生が名著『日本剣道史』の中で、榊原健吉とともに日本固有の剣道の殿(しんがり)の名人として尊敬し、その死をもって『剣道のある世紀の終末』だと言っているほどである。この両名人の亡きのちは『名の実に副わず、技の法に叶はざるもの多く、撃剣は熾んなるに似たるも、道術は破れるにちかし』とさえ嘆いている。
不肖私は、不思議な法縁をもって、鉄舟翁の参禅の師、天竜の滴水禅師の法系に連なるものであり、そして私の学んだ書道は、これまた鉄舟翁が第五十二世をつぐところの入木道である。そのうえ更に、私がいま住職している小庵は、鉄舟翁の旧邸趾であり、その諱(いみな)を襲うて高歩院(鉄舟は山岡鉄太郎で姓は藤原、名は高歩・たかゆき・字は曠野、鉄舟と号す)という。
むしろ宿縁ともいうべきこの重なる縁故によって、私の翁に対する心酔度はあるいは倍加されているかもしれない。といって身贔屓は、ひいきのひき倒しになる。いま評伝を書くに当たっては、つとめて公平を期したつもりであるが、けれども、どう見ても偉い人は偉いのである。
ところが、鉄舟翁の伝記類は相当数に上がるが、偉い人のつねで訛伝や誤りが少なくない。信頼できるのは『全生庵記録抜粋』と、鉄舟翁晩年の門下、小倉鉄樹氏の『おれの師匠』のほかにはないといわれる。私はこんどこれを書くに当たって、改めてできる限りのものを読んでみたが、概ね右の両書を出るものはなかった。したがって私もまた、この両書によるほかはなかった」・・・カッコ内は今回加えたもの。以下同じ。

この序に書かれているように、大森曹玄先生と鉄舟は正に多くの縁でつながれているように感じる。したがって、大森先生は鉄舟のことを語るに相応しい人物であると認識し、多くの世評も大森先生の鉄舟研究を的確と評価していることから、その主張を参考にしたいと思う。
そこで、大森先生の書き表した鉄舟像、それを妥当な姿として受け入れ、大森先生が認めている鉄舟の業績、大森先生は功業(功績の顕著な事業)と書かれているが、その功業について触れているところを今回まず最初にご紹介したい。

「鉄舟という人は、最後の門人であった小倉鉄樹氏の書いた『おれの師匠』を読んでもわかるように、豪傑である反面に細かいところにもよく気がつく人だったようである。幼少の頃からいろいろの感想を明細に手記して残している。この駿府に行ったことも、『戊辰の変、余が報告の端緒』と題して、『明治二年己巳八月』(巳・み・時刻を意味し明け四つ。今の午前十時、およびその前後二時間。一説に、その後二時間)に手記しており、そして『西郷氏と応接之記』を『明治十五年三月』に、書いている。
ただし、『戊辰の変、余が報告の端緒』については、小倉鉄樹老人は『おれの師匠』の中で、この書は出所が明らかでないから信をおけぬといい、また、文章が師匠のものと違うようだともいっている。
『西郷氏と応接之記』は三条公の求めに応じて書いたもので、のちに『両雄会心録』と題し、鉄舟自筆の石版本が公刊されているから間違いない。だからそれを読めば事実の経過は明瞭である」・・・山岡鉄舟28ペ-ジ

大森先生はこのように「両雄会心録」が鉄舟によって書かれた西郷隆盛との会見・交渉内容であると断定している。そこでこの「両雄会心録」を少し紹介してみたい。

「旧主徳川慶喜儀は、恭順謹慎、朝廷に対し公正無二の赤心にて、譜代家士等に示すに恭順謹慎の趣旨を厳守すべきを以てす、若し不軌の事を計る者あらば、予に刃するが如しと達したり、故に余、旧主に述るに、今日切迫の時勢恭順の趣旨は如何なる考に出候哉と問う、旧主示すには予は朝廷に対し公正無二の赤心を以て謹慎すといえども、朝敵の命下りし上は、とても予が生命を全うする事は成まじ、斯く迄衆に悪まれし事、返す返すも嘆かわしき事と、落涙せられたり、・・・・・」・・・山岡鉄舟207ペ-ジ

この「両雄会心録」の内容をみれば、鉄舟が慶喜から直接指示を受けるために、寛永寺に御在所に行き、対面し、将軍より直接指示を受けたことは明白となる。

しかし、多くの学者は「鉄舟が慶喜から指示を受けた」とは、明示していない。学者によっては鉄舟の業績を無視する見解、海舟の使者として駿府に行ったという見解、泥舟の推薦というだけの記述、また、誰が駿府に行くことを決めたのかということが明らかにしない書き方等が多くみられる。

鉄舟は慶喜から直接命を受けて駿府の西郷隆盛のところに交渉に行った、という立場からみて、多くの学者の見解には不満が残るが、これもそれぞれの立場で主張する見解なので、それを否定することはしないが、学者の中にも井上清氏、この人は東京大学教授であった人物であるが、その井上清氏の「日本の歴史20巻・中公文庫」には鉄舟が慶喜の命を受けて、西郷との交渉に向かったと記述されているという。
だが、その書かれた現物を実際に見て確認していないので、ここでは紹介できない。井上清氏の本についていろいろ探しているが手元に入手していないので、この確認は後日となるが、このような見解の学者もいるということである。

今回は鉄舟が誰の指示で最後との会談に向かったのかについて、大森曹玄先生の「山岡鉄舟」からひろってみた。

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2004年06月26日

鉄舟は誰の指示で西郷との会談に向かったか

鉄舟研究 その2・・・駿府での会談は誰の指示か、学者の見解

山岡鉄舟の最大業績は、「江戸無血開城」を事実上決定させた「西郷隆盛」との駿府での会談・交渉・妥結であった。この最大業績のために、当時、政治的には無名であり下級旗本であり、一剣客であった鉄舟が彗星のごとく登場し、幕末から明治維新の功績者として世に認められたのである。この事実を鉄舟の研究をしているものとして疑問の余地を持たないのであるが、歴史研究の学者間には様々な見解があるのも事実である。

「鉄舟を研究する」という作業はこれらの学者の見解もひろって、その見解の根拠も確認してみることが必要である。なぜなら、他の見解も尋ね、その根拠も確認する、という幅広い見識を持たねば、鉄舟の単なるマニアになってしまうからである。
一つの歴史的事実の研究ということは、それが正しい事実であったとしても、その事実に対する立場が異なれば見方が違ってくる。つまり、異論という分野が存在することになり、その異論という主張を否定してはならない。異論を否定し、排除するということは「唯我独尊」に陥ってしまい、一つの立場からの狭い範囲の研究ということになってしまうだろう。
また、そのような研究態度を取り続けていくと、その研究は多くの人から支持されずに、鉄舟を世の中に正しく伝えるという役割に対してマイナス効果を及ぼすことになりかねない。また、鉄舟という大きな、偉大な、素晴らしい人物を、狭い、一方的な角度からみた人物像としてしまい、本来の実像を曇らしてしまうということになりやすい。
したがって、多くの異論についても取り上げて研究することが必要不可欠である。

その意味で、今回は歴史学者が「江戸無血開城」について、どのような見解を持っているかについて、いくつか紹介していきたい。つまり、鉄舟の関わりについてどのような見解なのかみてみたい。

まず、田中彰氏(札幌学院大学教授1995年当時)が編者となった「近代日本の軌跡第一編・・明治維新 吉川弘文館」からみてみたい。この本の第六章「倒幕と統一国家の形成」を松尾正人氏(中央大学文学部教授1995年当時)が書いているが、その中で以下のように記載されている。

「新政府は、嘉彰親王を征夷大将軍に任じ、山陰道・東海道・東山道・北陸道などに鎮撫総督を派遣し、正月七日に徳川慶喜征討の令を発した。二月三日に親征の令が発せられ、九日には有栖川宮熾仁親王が東征大総督に任じられた。諸道を進撃した新政府軍は三月一三日に江戸城を包囲している。周知のように江戸開城をめぐって勝海舟と西郷隆盛の会談が行なわれ、結果は、徳川の家名を残して慶喜の死罪が許され、いっぽうで慶喜の水戸での謹慎および開城と旧幕臣の退去・謹慎などが命じられた。開城交渉の際には、彰義隊などの旧幕臣の一部が上野に立てこもり、榎本武揚がひきいる旧幕府海軍が江戸湾から新政府側に圧力をかけた。関東各地で一揆や打ちこわしが激化し、イギリス特派全権公使ハ-リ-・パ-クスらも江戸城攻撃に批判的な姿勢をとったのである(石井孝『増訂 明治維新の国際的環境』)」・・・119ペ-ジから120ペ-ジ。

これによると、江戸無血開城は勝海舟と西郷隆盛の会談だけで、それも世間に周知されていることになっている。鉄舟の働きはどこにも表現されていない。

次に、前述の田中彰編者で、松尾正人著で引用された石井孝氏の別の著書「明治維新の舞台裏 岩波新書」からみてみたい。同書のⅦ章「徳川政権の終末」の中で次のように書いてある。

「徳川政権の『軍事取扱』として軍事上の実験を掌握した勝は、駿府の西郷のもとへ使者として山岡鉄太郎(鉄舟)を派遣した。三月九日、西郷が山岡に交付した徳川処分案も、やはり軍議決定のものと同じ線で、つぎのとおりである。
1.慶喜は備前藩へお預けとする。
2.江戸城を明渡す。
3.軍艦・兵器をすべて渡す。
4.城内居住の徳川家臣は向島に移り謹慎する。
5.慶喜の暴挙を助けたものをきびしく調査し、謝罪の途を立てる。
6.暴挙をくわだてるものがあり、手に余れば、官軍の力で鎮定する。
山岡は、慶喜の備前藩お預けに強く反対したほか、政府軍が江戸に入らないように請い、軍艦・兵器の引渡しにも難色を示したという」・・・196ペ-ジ。

これにみるように、鉄舟は勝海舟の使者としての取扱であり、将軍慶喜から直接指示を受けたとは認識していない書き方である。

更に、もう一人松本健一氏(麗澤大学国際経済大学部教授 2000年当時)の「幕末の三舟 講談社選書」をみてみたい。同書の第三章「江戸無血開城」には次のように書かれている。

「三月十三日に東征軍大総督府参謀の西郷隆盛と幕府の陸軍総裁--陸軍大臣であるが、このときはすでに臨時首相といってもよかった--の勝海舟が無血開城、江戸城攻撃中止の交渉をするために、高輪にある薩摩藩の江戸藩邸で会見することになった。
その交渉の行なわれる前、三月五日の段階で、海舟は西郷に手紙を書いている。海舟には幕府を追討し「朝敵」徳川慶喜を血祭りに上げる東征軍の動きがわかっており、『江戸の幕府は恭順の意を表しているし、慶喜は謹慎している状態だから、江戸攻撃はやめてくれ、それは国内を大混乱に陥れる』という内容の手紙である。これを総督府の西郷に届ける使者として、海舟はまず高橋泥舟を選んだ。
このとき高橋泥舟三十四歳・・・以下中間省略・・・・
ところが選ばれた泥舟は、『それは大変ありがたいが、もし自分が慶喜の護衛を離れると、謹慎した将軍慶喜を守るという幕府の秩序形態が崩れ、恭順反対派の侍たちが騒ぎだす(じじつ、寛永寺の僧侶・義観が彰義隊を結成するイデオロ-グとなり、渋沢栄一の従兄である渋沢成一郎や天野八郎らがそう動いた)。いってみれば自分は慶喜を守っているだけでなくて、徳川家全体の治安を守る役割を果たしているので、護衛長である自分は慶喜のそばから離れることはできない。実は自分より一つ年下だが、山岡鉄舟という者がいる』と推挽したのが山岡鉄舟であった。
そこで、三月六日に山岡鉄舟がその手紙を届けることになった。そのとき、すでに西郷が参謀を務める東征軍は静岡で十五日の江戸城総攻撃の命を発していた。鉄舟は品川のさき、六郷川(多摩川の下流)まで到着していた東征軍の先鋒部隊をかきわけながら、『朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎、大総督府へ通る』と、敵の陣営の中をずんずん進んで行った。・・・以下中間省略・・・
こうして山岡鉄舟は一人で、いや海舟が供につけてくれた益満休之介とともに、敵陣のなかを歩いて、西郷のいる総督府大本営までたどりつくのである」・・・64ペ-ジから67ペ-ジ

この松本健一著でも、鉄舟は海舟の手紙を預かった使者として扱われているが、駿府に交渉に行くという指示が誰から発したかということには触れていない。

もう一人の学者の著書からひろってみたい。松浦玲氏(桃山学院大学教授 1997年当時)の「徳川慶喜 中公新書」である。以下、同書のⅥ章「壮年閑居」から関係するところは次のとおりである。

「大慈院での生活は二ヶ月ほどだった。その真ん中の三月十四日に、翌十五日の予定であった江戸城総攻撃が回避され、無血開城が決まる。槍の高橋伊勢守(泥舟)が身辺警護の留守を引き受け、精鋭隊頭で泥舟義弟の山岡鉄太郎(鉄舟)が、勝安房守(海舟)と相談の上で駿府まで赴き、三月十日西郷隆盛と談判した」・・・186ペ-ジ

この内容でも、鉄舟が駿府に向かったのは慶喜からの指示とは書かれていない。また、鉄舟が海舟の指示を受けて、海舟の使者として手紙を持って西郷隆盛のもとへ向かったとも書いていない。海舟と鉄舟とが相談して駿府に向かったという見解である。したがって、誰が西郷隆盛へ交渉をするということの意思決定したかが明確になっていない書き方である。

今回は鉄舟が西郷隆盛との会談・交渉に向かった基の指示が誰から出されたのか、という視点から学者の文献を整理してみた。
その結果は「鉄舟は慶喜から指示を受けた」とは明示していないことが分かった。鉄舟の業績を無視した見解、海舟の使者という見解、泥舟の推薦という見解、誰が決めたか明確でない書き方、これが学者が鉄舟に対する理解・認識である。このような学者の見解もあることを今回整理してみた。

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2004年05月26日

鉄舟研究を連載するにあたって

このページで鉄舟研究を連載するにあたって   山本紀久雄

鉄舟・21・サロンの鉄舟研究ペ-ジにようこそいらっしゃいました。
山岡鉄舟の研究を行っている山本紀久雄です。
研究の内容と成果は、毎月の鉄舟・21・サロンの例会で発表しておりますが、その発表したものの中から、皆様に連載としてご案内申し上げたい内容を、この「鉄舟研究」というこのペ-ジ上でお伝えいたしたいと思います。

そこで、今回は最初ですから、まず何故に山岡鉄舟を研究するのか、ということにつきましてご説明申し上げたいと思います。
つまり、「何故、山岡鉄舟を研究するのか」という問いを自らに再度確認した内容をご案内申し上げることで、これからの連載の目的を定義いたします。

何故、山岡鉄舟を研究するのか

日本の近代史を考察すれば、日本が欧米諸国に植民地化されなかったことが、その後の国家発展にいかに寄与しているかということが分かります。
   仮に、江戸幕府の末期に植民地化されていたならば、日本自身の発展成長だけでなく、アジア諸国が植民地から脱却するタイミングまで影響したであろうと推察できます。つまり、日本が明治維新から急速に国力を増強してきたことは、不幸にも第二次世界大戦を発生させるという結果を招きましたが、そのタイミングに多くのアジア諸国が独立を成し遂げたことは歴史として事実であるからです。日本の国力発展が結果的にアジア諸国に影響を与えたということであり、その日本の国力発展の源を遡れば、幕末から明治に国内を二分する大戦争なく、明治維新という近代国家への道を歩むことが出来たこと、この歴史事実を確認できるのです。
   
ですから、日本の発展近代史の原点は江戸時代から、明治時代に無血転換できたことにあり、その無血転換という大事業を成し遂げた偉人たちに、現在に生きている我々は最高の感謝と、最大の関心を持つべきであると思います。

   山岡鉄舟という人物、この剣・禅・書の三位一体の達人も、日本発展近代史の一ペ-ジを大きく飾る偉人です。幕末時、たったの百俵二人扶持という御目見え以下の身分低き旗本でした。その最下級身分に所属していた山岡鉄舟が、あの封建時代の古きしきたりと身分制度の中でありながら、彗星のごとく突如として時代の大転換の表舞台に登場し、明治維新へ転換する岐路となった交渉、それは、実質の官軍総司令官であった西郷隆盛との駿府での会見、それも西郷隆盛とは全くの初対面であったのに、その会見で「江戸無血開城」という世界の歴史上でも稀有の出来事を成し遂げたのです。

   山岡鉄舟という偉人なくして、今日の日本の発展はなかったといっても過言ではありません。
この山岡鉄舟が西郷隆盛との使者に選ばれなかったら、今日の日本の姿は異なっていたものであったと推察できます。
   
ですから、この山岡鉄舟が時代に登場したことの解明、

・ つまり、何故に最下級身分の立場でありながら歴史の岐路を決めた最大の交渉の場に臨む使者として選ばれたのか

・ また、突如として歴史上最大の役割を授けられたにもかかわらず、その役目を立派に成し遂げることが出来る力量をいつにどのように磨いてあったのか
  
この解明を行うこと、そこに最大の興味と関心をもって、山岡鉄舟の研究を行っていきたいと思っています。
   さらに、研究を継続し深めることによって、山岡鉄舟が行動し示してくれた時代を切り開くための行動指針とセオリ-を解明し、その内容を現代に生きる人々に伝えるということも、大きな研究目的とします。

投稿者 Master : 10:58