2013年09月24日
明治天皇の侍従としての鉄舟・・・其の九
明治天皇の侍従としての鉄舟・・・其の九
2012年7月大歌舞伎は、歌舞伎座が二千十三年春まで、建て直しのため閉場されているため、新橋演舞場において「二代目市川猿翁、四代目市川猿之助、九代目市川中車」の襲名披露公演と、五代目市川團子」の初舞台が四日から二十九日まで開催された。
演目は昼の部がスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」であるが、夜の部は何と鉄舟の登場であった。真山青果作「将軍江戸を去る」で、鉄舟を市川中車、慶喜を市川團十郎、泥舟を市川海老蔵という豪華配役である。
中車はご存知のように新市川猿翁の息子である俳優の香川照之で、鉄舟を演ずることの意義を次のように述べている。
「鉄太郎が実在の人物であるということ、映像でも史上の人物を演じる時は、その時代の人間になり切ることを考えました。歌舞伎の舞台で歴史上の人間を演じる。どうなるか楽しみにしています」と。
東京新聞(七月七日 長谷部浩=評論家)によると
「上野寛永寺黒門前、山岡鉄太郎が徳川慶喜に面会を求めてきたために騒然となる。門内に入ることを拒む天野八郎(右近)とのやりとりに緊迫感がある。
大慈院の場では、はじめ慶喜と高橋伊勢守が向かい合う。政治に携わる者の責任感と裸身に戻った将軍の内心の吐露が胸を打つ。中車は裂帛の気合でこの場に加わるが、一本調子にすぎて、慶喜との肚の探り合いが見えてこない。山岡を直情径行に作りすぎている」
確かに鉄舟は直情径行型ではなく、熟慮断行の人間であるから、この評が当っていると思うが、ここで関心を持ちたいのは市川中車の襲名披露公演という記念すべき歌舞伎に、鉄舟が登場していることである。
七月十九日は鉄舟命日で、岐阜県高山市の宗猷寺、ここには鉄舟の父母の墓があり、毎年、高山地区の鉄舟ファンが集まり法要を営み、併せて筆者が記念講演を行っている。
この講演の中で、七月大歌舞伎の演目が「将軍江戸を去る」で、鉄舟を市川中車襲名披露公演していることを伝えると、参加者は皆一様に驚く。
鉄舟が少年時代を過ごした高山、ここには高山の地が持つ独自の何かがあって、それが鉄舟の奥底に入り込み、バックボーンとなって江戸無血開城という偉業につながったと考えているが、そのことに対する認識が高山地区では薄いので、大歌舞伎という舞台、それも襲名披露という記念すべき演目に、鉄舟が取り上げられた位置づけと意味を高山の人達は量りかね、意外間感を持つのである。
まだ十分に鉄舟という人物を高山では認識していないと思われるので、今後、高山の地が鉄舟に与えた要因・影響について深く研究していきたいと、改めて思っている。
今まで明治天皇と鉄舟の関係について、既に今号を含め九回に渡って検討してきたが、ようやく最終場面の入口にたどりついた。
明治天皇が、明治十年頃に見られた「引きこもり・鬱状態」から脱皮し、三十歳頃から意志を積極的に示し始め、明治二十一年(1888)三十六歳頃に示された御真影に描かれたような堂々たる君主となり、明治憲法の精神を尊重する名君として権威を高め、「明治大帝」と尊称されるまでになられたのだが、その過程でどのように鉄舟が関与していたかについて、これから順次背景を分析していきたい。
そのためのストーリーとして、①西郷政権⇒②維新三傑の亀裂⇒③天皇の鬱⇒④御真影の分析⇒⑤西郷、鉄舟、乃木の精神的役割という順序で展開していきたい。
① 西郷政権
まずは西郷政権である。読者は「西郷政権」と書くと意外な感がすると思う。
明治四年(1871)十一月十二日、岩倉全権大使と大久保利通・木戸孝允含む一行四十八人と、留学生五十四人がアメリカに向けて出発した岩倉使節団、この留守を預かったのは太政大臣三条実美と西郷隆盛であった。
三条については「維新後は何も決定せず、能力も欠如しており、実態は酒びたりだった」(明治大帝 飛鳥井雅道)という見解もあり、岩倉使節団が帰国する明治六年九月までの約二年間は、西郷政権とも言うべき政治が行われていたのであるが、西郷政権を説明するためには、西郷の出処進退について少し触れないといけない。
実は、西郷は明治元年九月の会津藩・庄内藩の降伏を受けると、鹿児島に戻ってしまっていた。維新戦争が片付いたので「ここまでこなしつづけるのがわしの役目。あとは皆さんがよろしくやってくれるだろう」という腹だった。
大久保や木戸は「西郷は無責任だ」と非難したが、西郷の「南州翁遺訓」を見ると分かるように「労は一身に引き受け、功は人に譲る」というのが西郷で、利欲の念を徹底した心がけの人物だった。
その西郷を再び東京に呼び戻そうとした背景には、維新後の混乱があった。
その一例が薩摩藩士横山安武(森有礼の兄)の諫死である。横山は集議院徴士として東京に出ていたが、明治三年七月二十六日、時弊十条の非を論じた建白書を竹頭に挟んで、集議院の門扉に掲げ、その場で割腹して果てたほど、当時の政治は混乱していた。
横山の諫死がなくとも、岩倉、大久保、木戸、三条という政府首脳部としてはあせらざるを得ない。綱紀を粛正し、姿勢を正し、新政の実をあげたいと思っているが、そのためには「何よりも、政府の基礎をかためなければならなく、それには西郷を中央に引き出して政府の一員にする必要がある」と意見が一致、十二月、岩倉と大久保が西郷の出仕を促すために鹿児島へ赴き、西郷と交渉したが難航、欧州視察から帰国した西郷の弟従道の説得で、ようやく廃藩置県等の政治改革のために上京することを承諾し、翌明治四年(1871)二月東京に着いたのである。
いわば、西郷は引きずり出されたのであって、西郷は明治初年時点においては天皇の側近くにはいなかった。
その廃藩置県であるが、明治四年七月九日に木戸孝允の邸で最終会議開かれ、会議は、新政府に対する反抗が必ずおきるであろう、その際どういう処置をとるべきかについて、木戸と大久保の間で大論争が続き結論がつかなかったが、じっと黙って二人の論争を聞いていた西郷が
「事務上の手順がついているならば、暴動がおきたら鎮圧は拙者が引受申す。ご懸念ない。直ちに実行してください」
と発言したことで廃藩置県が決まり、数日後、会議の結果を明治天皇に奏上し、天皇は当時十九歳十カ月という若さからご懸念つよくご心配され、いろいろ御下問されたが、西郷が
「恐れながら吉之助がおりますれば」
という自信に満ちた奉答に天皇はやっと安心したと伝えられ、七月十四日に廃藩置県改革がなされたのである。
この当時の西郷の威信は明治維新成立の中心人物として光り輝き、併せて、清廉潔白の人として一般人からも崇敬されていた。
さて、岩倉使節団の目的は、当初日米修好通商条約の治外法権と輸出入税率の不均等を除去するものであったが、団長の岩倉具視は米国滞在中に、米国と単独に条約を改正することは、返って日本に不利になると判断し、使節団の目的を諸国へ表敬訪問することに変更した。
岩倉全権大使一行は明治六年九月に帰国するまで、アメリカには約八ヶ月も長期滞在し、その後、大西洋を渡り、イギリス(四ヶ月)、フランス(二ヶ月)、ベルギー、オランダ、ドイツ(三週間)、ロシア(二週間)、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア(ウィーン万国博覧会を視察)、スイスの十二カ国に上った。
出発する前、参内した岩倉は、明治天皇に兵事に精励するよう申し上げ、天皇は必ず兵馬の権を「総攬(そうらん)」(掌握し治める)すると答えたが、これは岩倉が天皇に「大元帥」という武人的要素をイメージとして期待していたことがわかるが、そのイメージ形成に重要な役割を演じたのは留守を預かった西郷であった。
つまり、岩倉、大久保、木戸の欧米滞在中に、それまで天皇像イメージ形成にあまり影響力のなかった西郷隆盛が、次第に関係を強めていくのである。
その最初が、岩倉使節団出発直後の明治四年十一月二十一日から二日間、官営の横須賀造船所への行幸である。軍艦で横須賀を往復し、造船所を視察し、二日目は乗馬であって、天皇が陸軍の演習以外で乗馬での行幸は初めてであった。
また、御親兵の訓練を見学するため、日比谷門外の訓練所に乗馬で行幸し、西郷が出迎えたように、西郷が岩倉等の留守政権を主導し始めると、武士を原型とした「大元帥」イメージを強めるような行幸が行われていった。
十二月に西郷が叔父椎原與三次に宛てた手紙の中で、以下のように語っている。
「元来が英邁の質で、極めて壮健であられ、このような天皇は近来では稀であると公卿たちも言っている。天気さえよければ毎日でも馬に乗り、二、三日内には御親兵を一小隊ずつ召されて調練する予定で、今後は隔日に調練をなさるとのことである。大隊を率いて自ら大元帥をつとめられるとの御沙汰があり、なんとも恐れ入る次第で、ありがたいことである」とあり、その書状の最後のまとめとして
「この変革中の大きな成果は、天皇がまったく『尊大の風習』をなくし、君臣が非常に親密な関係になったことである」(明治天皇 伊藤之雄著 ミネルヴァ書房)と述べている。
西郷の書状で注目すべきことは、西郷は重々しい儀式や乗り物・服装で天皇を権威づけるよりも、天皇が質実剛健で実質的な能力からくる威信によって臣下を引きつけ、天皇と臣下の相互の親密な関係を作るべきだと考えていたことである。
そのためにも軍事関係を中心に、軽装で馬に乗って行事に出発することなどは、天皇像形勢に望ましい必要不可欠な必要な行動であり、それは、岩倉や大久保の考えるよりも、もっと形式にこだわらない天皇像であって、明治天皇も西郷の意向に積極的に応じたのである。
このような西郷政権によって、兵部省を廃し、陸軍省と海軍省を創設し、国民の成年男子がすべて兵役につくことを原則とする徴兵制が公布されたという意味は、西郷によって近代日本の軍事制度の大枠がつくりあげられ、天皇のあるべき「大元帥」像をほぼ固められたと言ってよいだろう。
また、その「大元帥」像つくりへの主な具体的行事を並べると、まず、明治五年(1872)一月八日、日比谷陸軍操練所(現・日比谷公園)で陸軍始めに行幸し、翌日は海軍始めで、築地の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)に馬車での行幸。
さらに、この明治五年は、天皇が実際に兵士を指揮する操練が本格化した。天皇は最初は侍従等を兵士に見立てて指揮の練習をしていたが、後には御親兵一小隊を召して実際に指揮したように、数か月で上達した指揮ぶりを発揮している。
この操練時の服装は、冬は上着・ズボン共に濃い紺色の厚手の毛織物、夏は上着・ズボン共に白いリンネル(亜麻で織った薄い織物)であった。
明治天皇服装の変化を見ると、一年八か月前の明治三年(1870)四月の陸軍連合訓練時には、直衣(のうし)を着て袴をはいて馬に乗っていたが、明治四年の操練時には洋装(軍服)となり、五月頃からは皇居内でも政務をみる御座所では洋服を着用し始めた。
明治五年九月には、天皇の陸軍大元帥と、陸軍元帥(この当時は西郷一人のみ)の服制が定められた。いずれも帽子は黒色、上着・ズボンは紺色の洋装で、帽子及び上着袖には金線があり、大元帥は大小各二条、元帥は大二条・小一条、ズボンの金線は大元帥・元帥共に大小一条、ボタンはすべて金色桜花章と決めたが、天皇は大元帥のボタンを金色菊章とし、帽子と上着にさらに金線小一条を加えさせている。
このような服装による大元帥姿を一般民衆に「見える化」し、天皇イメージを決定的にしたのは六大巡幸であった。
一回目の巡幸は、明治五年(1872)五月二十三日、明治天皇は騎馬で皇居を出発、品川沖に停泊する旗艦龍驤(りゅうじょう)*に乗船、供俸するのは西郷と弟従道等七十余人による近畿、中国、四国、九州巡幸である。以後、九年に東北、十一年に北陸、東海道、十三年には中央道、十四年は東北、北海道、十八年は山陽道と、明治十年代を通じて、それぞれ一、二カ月かけた大巡幸を六回行っている。
当時の陸軍省提出の全国要地巡幸の建議では、巡幸の持つ特殊な意義を次のように説いている。
「中世以降、天下の政治は武門が掌握し、天皇は御所の壁の内に封じ込められた。この度の巡幸は、新しい時代の幕開けを宣するものとなるだろう。天皇は日本全国を巡幸し、地理、形勢、人民、風土を視察することになる。これまで天皇に巡幸の機会を作らなかったことは、重大なる過失と言わなければならない。しかし、この過失は今こそ正されるべきである。沿海巡覧によって、天皇は大阪、兵庫、下関、長崎、鹿児島、函館、新潟その他、民衆が暮らしを立てている所、また要衝の地を親しく叡覧することになる。この巡幸は、今後全国を治める方策を立てる上で天皇に資するところ大である。残念ながら、僻地の村々においては未だ朝意の目指すところに無知な民衆が多く、これは王化があまねく行き渡っていないことを示すものである。もし、手をこまぬいてこの機を失えば、国の将来に対する不安はますます全国に拡がり、開化進歩の障害となること測り知れないものがある」と。(明治天皇紀・明治天皇 ドナルド・キーン)
この頃、天皇に対する世間の反応は、殆どの平民は関心を持たなかったと「天皇の肖像・多木浩二著」が次のように記している。
「『東京日日』に掲載された岸田吟香による随行の記録『東北御巡幸記』には、一方では奉迎する人々を記述するとともに、鳳輦が通っていくにもかかわらず、泥のなかに足を投げ出して腰かけたままの農夫や娘たち、裸の赤ん坊に乳を飲ませている女性なども描いていて、天皇に全く無関心な人々が存在したことを物語っている。その人びとには天皇を畏怖する感情は全くなかった」(天皇の肖像・多木浩二)
しかし一方、大阪では夜十時に本願寺津村別院の行(あん)在所(ざいしょ)*に到着した時には、市民たちが軒灯を掲げ、街灯をつけて天皇奉迎の意を表し、市民たちは拍手と万歳を唱えた。
この万歳を唱えたとの記録は明治天皇紀によるものだが、次のように但し書きあるので参考までに紹介したい。
「近世万歳と唱ふること、明治二十二年憲法発布の際に始まると云はる、是の日、大阪市民の万歳を唱えしこと、当時の記録によりて之れを記せるが、果たして万歳と発声せしか、或は往々本邦及び支那の古典に見えたる呼万歳の文字を用ゐて歓喜の状を形容せしに止まるか、未だ明らかならず、尚明治三年九月公布の天長節海軍礼式にも、午前十一時に皆甲板上に列し、位を正ふし、万歳を唱ふの文あり」(明治天皇 ドナルド・キーン)
いずれにしても、この巡幸期間中において、明治天皇は西郷と毎日顔をあわせているうちに、西郷の人物像がさらに分かってきて、結果として西郷が持つ人間性にひかれていったのは無理からぬことで、天皇の「武士的変化」は西郷の個性によるところが大であることは間違いない。
その一片を語るのは天皇より二歳年長と年齢の近い、親しかった公卿の西園寺公望の次の回想である。
「天皇が落馬して痛いと言った時、西郷は、どんな事があっても痛いなどとはおっしゃってはいけませんとたしなめたという」(明治天皇 伊藤之雄)
西郷について晩年まで天皇がよく語った逸話がある。
「六月十七日。午後四時に長崎港にはいる予定だった軍艦が、ともの三艦は無事入港できたのに、港の近くにきて、お召艦龍驤だけが立ち往生して二時間近くもうごかなくなった。へいぜいは、喜怒哀楽をちっとも顔にあらわさぬ西郷が、この時ばかりは、顔を真っ赤にし、どんぐりのような目をむいて、
『よりによってお召艦の入港をおくらせるとはけしからん。お上に対して申しわけないではないか』
と、たいへんな剣幕でどなりつけた。
艦長の伊東祐麿大佐(のちの黄海海戦の祐亨元帥)は、おびえきって一言も出し得ず、海軍少輔(次官)の河村純義が、
『いいえ、いえ。それは、いいえ』
と、取りなし顔に、さかんに手をふって言いわけをしようとするが、うろたえて言葉をなさない。
『いいえじゃわからん。どうしたんだ』
と、第二のかみなりが脳天の上からおちてきた。
じっさいは長崎港が浅いのに、龍驤艦は吃水が深い。海軍で潮時をはかりそこね、入港の時が引き潮にさしかかったのだ。それがわかり、別に大した手落ちでもないので、西郷も怒喝をおさめたが、一時はみんなどういう事になるかと、気をもんだ。
日ごろ柔和な公卿や女官ばかりにかしずかれておられた天皇には、これがまことの『男の怒り』の初印象だった。世のなかには、こうも激烈な感情があるものかと、びっくりせずにはおられぬほどだった。
しかしその怒りの底には、天皇に対する心からの敬虔と、誠実があふれている。しかも事情がわかると、すぐ機嫌をなおしたのは、しんねりむっつりしている公卿には、まったく見られない磊落な態度だった。
『これが世にいう英雄の心事というものか』
という気が天皇にはしたのだ。
『あの時の西郷のかんしゃく玉ときたら、たいへんなものだったぞ』
と、これは晩年まで、よく臣僚たちの陪食の席で出た話である」(明治天皇 木村毅)
このように西郷に対する明治天皇の信頼は厚く、その西郷の推薦で鉄舟が明治五年に侍従となったのだが、西郷と同じく鉄舟も天皇から絶対の信頼を得る大事件が、まだ岩倉使節団が帰国しない明治六年五月五日に発生した。
それは皇居の火事である。この火事によって元紀州藩邸の赤坂離宮が仮皇居となったが、同様にこの火事を契機として、鉄舟は赤坂離宮門直前に位置する元紀州藩家老屋敷跡に住むことになり、さらに明治天皇の身近で侍従職を全うすることになるが、その経緯は次号に続く。
2013年08月26日
明治天皇の侍従としての鉄舟・・・其の八
明治天皇の侍従としての鉄舟・・・其の八
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
このところ明治天皇に関して固い内容でお伝えしてきたので、今回は少し毛色の変わった刺青についてふれてみたい。
大阪市では2012年2月、児童福祉施設の男性職員が、子どもたちに腕の入れ墨を見せて威嚇していたことが発覚した。
橋下徹市長が問題視し、職員約3万4千人を対象に調査を実施した結果、113人が「入れ墨をしている」と申告し、そのうち98人が頭部や手足など「見えやすい部位に入れ墨がある」と回答した。 局別では環境局が75人で最多で、業種別にみると現業部門が107人だった。どうして、現業部門にはこれほど入れ墨職員が多いのか。
大阪在住の財界人はこう話す。「今回、問題となっている現業部門ですが、その根っこの部分には共通の原因が潜んでいます。それは反社会的勢力との密接なつながりです」と。
つまり、ヤクザなどの反社会的勢力と、つながりのある市職員がいるということを示唆している。
大阪で入れ墨(刺青)が多いということについては、時代は遡る131年前の明治14年(1881)12月27日の東京日々新聞で、既に以下の報道がなされている。(異史・明治天皇伝 飯沢匡著)
「英国両皇孫が刺青遊ばされ、大阪では刺青大流行で彫師多忙」
と見出しがあり、本文記事は
「さきに英国両皇孫殿下の花繍(ほりもの)(入れ墨)せられし事を聞き及び、文明国の王族さまがなさることだ、身体髪膚を毀傷せぬなどの、近い国の唐人の寝言は聞くにはおよばぬ抔(など)と、国に禁令のあるをもかまはず、大坂の下等(かとう)勇み連は同府下西町の彫徳、宗右衛門町の彫市、難波新地の彫安、天満川崎の彫政などといふ昔時名を得し花繍師の方へ押しかけ、仮令(たとえ)、御法度でも開明の真似ならわるくはあるまいと、無法を云いて頼みに来る者多しと、よしや文明国のする事なりとも、是らは真似ずもあれかし、殊に法のゆるさざるものをや 」
この新聞記事に書かれた「下等勇み連」の「下等」について、飯沢匡氏が「私の幼童のころは二言目にはこの『下等な』がお叱言となって私の耳に届いたものであった。『下等な言葉』『下等な行い』『下等なふるまい』等々。してはならないことの上には必ずこの『下等』がついたのであった」と解説している。
この飯沢匡氏見解を受け入れ、前述の大阪在住の財界人の発言と併せて考えれば、大阪に入れ墨が多いのは頷け、大阪市職員も同じ類と想定でき、明治以来の背景が今日まで伝わっているのではないかと推測している次第である。
さて、東京日々新聞の記事は、明治14年来日した英国皇太子(のちの英国国王エドワード七世)の第一王子アルバート・ヴィクター親王と、第二王子ジョージ親王(のちのジョージ五世=映画「英国王のスピーチ」のジョージ六世の父)のことである。
両王子来日前にロンドンの駐英日本大使から「最高の刺青師を用意されたし」と打電あり、何かの間違いではないかと再度返電し、やっと真意が判って大騒ぎしたという話が残っているが、「彫物師は約三時間かけ、腕一杯に身をくねらせる赤と青で描かれた一匹の大きな竜を彫った」(明治天皇 ドナルド・キーン著)とあるように、二人の王子が刺青をしたのは事実である。
ここで大阪市の職員がしている「入れ墨」と、英国両皇孫がした「刺青」という二つの用語を使い分けていることを説明したい。
「入れ墨」とは江戸時代に前科者の意味で身体に針を使って刺し、そこに墨を入れ、痕跡を残すことから使われている。一方の「刺青」とは、人類学的にいうと「身体変工」の部類に入るのであって、これは全く自らの肉体に墨を入れ装飾するものであって、「墨」を皮膚の下に入れると青く見えることから「刺青」と称している。
明治三年(1870)には太政官令によって入れ墨刑は廃止となり、明治五年(1872)には同じく太政官令によって入れ墨自体が禁止され、既に入れ墨を入れていた者に対しては警察から鑑札が発行された。だが、禁止令は無きに等しかった。
明治初年に来日した欧米人は、刺青を一種のジャポニズム・日本趣味の美として認め、馬丁に見事な刺青をさせるようになったので、横浜では刺青業が盛況となって、その背景には欧米では刺青は恥ずべきものでないという実態があって、それは今日まで伝わっている。その現象をベアトが写真に撮って残している。(1870年頃のベアト写真)
現在では、昭和二十三年(1948)の新軽犯罪法の公布とともに解かれたので禁止ではない。
ここまでは単に大阪市職員と英国両皇孫の因果関係を推測したまでだが、刺青によって明治天皇が巻き込まれた外交大問題が、十年後の明治二十四年(1891)五月に発生した。
大津事件であって、巡査津田三蔵が、来日していたロシア・ニコライ皇太子(のちの皇帝ニコライ二世)に突如斬り付け怪我をさせた事件である。
明治天皇は直ぐに京都に出向き、ホテルで加療中のニコライ皇太子を見舞いしようとしたが夜間のため断られたので、翌朝、再度、お見舞いと謝罪をホテルに出向き表し、ロシア艦艇で治療するとのことなので、港まで同行して誠意を示し、帰国時には船内で食事を共にして見送った。しかし、この際の日本側は、天皇がそのまま船で拉致されるのではないかという危惧を持ったが、明治天皇は最大の誠意を示すべく船に入られたのである。
この十三年後に日露戦争となるのだが、当時のロシアは世界の大国であり、小国であった日本が大国ロシアの皇太子を負傷させたのである。些細なことで言いがかりをつけ、戦争を仕掛け、植民地支配するということは、当時の列強大国の常套手段であったので、日本国内は、一般庶民の間でも「ロシアが攻めてくるぞ」と大激震が走った。
学校は謹慎の意を表して休校。神社、寺院、教会は皇太子平癒のための祈祷。吉原はじめ盛り場での鳴り物の禁止。ニコライの元に届けられたお見舞い電報、一万通超。
山形県金山村(現・金山町)では、「津田」の姓及び「三蔵」の命名を禁じる条例を可決した。すべてはロシアの気持ちを静めるためである。当時、二十六歳の女性「畠山勇子」が日本の恥辱として喉を突いて自害したほどであった。
では、何故にロシア皇太子ニコライが来日したのか。ニコライはサンクトペテルブルグ→トリエステ→ボンベイ→セイロン→シンガポール→ジャワ→サイゴン→バンコック→香港→広東→上海という六カ月に渡る船旅を経て長崎に上陸したのだが、それが刺青目的であったというのである。
「ニコライは右腕に竜の刺青をした。彫りあげるのに夜九時から翌朝四時まで七時間かかった」(明治天皇 ドナルド・キーン著)とあり、「長崎市摂津町、野村幸三郎・又三郎の両名は連日、皇太子殿下御乗船に御召入られ両腕に龍の刺文を施されギリシャ親王殿下及士官数名も各右両人に托し刺文せられ皇太子殿下よりは弐拾五円、ギリシャ親王よりは壱円を下賜せられ其他士官二名よりは八円を与えたる由」(長崎県立図書館資料・異史・明治天皇伝 飯沢匡著)とあって、ニコライがギリシャ親王と一緒に刺青をしたのは事実である。
ところで、明治時代における日本の刺青は世界的に評価が高く、明治十四年の英国王子に刺青したのは彫師の彫千代であるが、当時、欧米人の間では彫千代が有名で、当時NYの新聞が「刺青界におけるシェイクスピア」と称賛したという。
この彫千代らが触媒となり、日本の刺青の技は英国に伝えられ、英国社交界では19世紀後半刺青が流行した。中でも明治三十九年(1906)に明治天皇にガーター勲章奉呈のため、英国国王名代で来日したアーサー・コンノート殿下も日本で刺青しているほどである。
刺青目的で来日したニコライ皇太子に斬りつけた大津事件で、明治天皇が大変ご苦労されたことを、大阪市職員の入れ墨問題と絡めてお伝えした次第である。
本題に戻るが、少年天皇として即位した明治天皇は、その存在の非凡さ、それは威厳と慈愛に満ちたイメージを持ちつつ、数多くの国内外の問題と危機に対処した治世によって、当時の日本国民に納得感を与えられ存在になられたわけであるが、しかし、そこまでの過程では「心の修行」を成さねばならなかったいくつかの背景要因が存在していた。
これについて前号で
1.王政復古の実現、
2.父孝明天皇の思想を受け継いでいない、
の二項目を検討したが、今号でも続けたい。
先般、三笠宮寛仁(ともひと)様が薨去(こうきょ)された。また、その際に皇室の構成が左のように新聞紙上に掲載された。
これを見ると寛仁様の皇位継承順位は第六位とあり、悠(ひさ)仁(ひと)様は第三位となっているが、ここでふと疑問を持った。
明治天皇がお生まれになった時は祐宮(さちのみや)であり、九歳になられた時に親王宣下され睦(むつ)仁(ひと)親王となられている。つまり、誕生時点では親王でなかったのである。親王とは皇位継承権を持つ人物のことである。
かつては、天皇の子女の称号として皇子及び皇女が使われていたが、律令制では天皇の子及び兄弟姉妹が親王(女性形「内親王」は令の条文にはない)と改称され、平安時代以降は親王宣下をもって親王とする慣習となり、たとえ天皇の子供であっても親王宣下を受けない限り親王にはなれなかった。
逆に世襲親王家の当主などの皇孫以下の世代に相当する皇族であっても、天皇・上皇の養子・猶子となることで親王宣下を受けて親王となることもあった。
例えば、孝明天皇の祖父に当たる百十九代光格天皇は、下図の系図のように百十八代の後桃園天皇が二十二歳で崩御されたので、六代さかのぼる百十三代東山天皇の弟筋の曾孫(ひまご)で、典(のり)仁(ひと)親王(慶光院)の六男であるにもかかわらず、本家に戻って即位している。
このような継承が何故になされたのか。それは天皇に皇子が誕生しない、というよりお生まれになっても亡くなられる比率が高く、孝明天皇の父である百二十代仁孝天皇は四十七歳で崩御されるまでに十五人の子供を産ませたが、十二人が三歳までに亡くなり、育ったのは孝明天皇と徳川十四将軍家茂に嫁いだ和宮とほか一人(桂宮を継いだ淑子(すみこ)内親王)にすぎない。
実は明治天皇も同様であった。明治天皇は十七歳で明治元年(1868)十二月、一条美子・昭憲皇太后と結婚されたが、天皇より三歳年上であった皇后は、子供ができず、典(す)侍(け)から生まれた子供も明治六年の二人は即日死亡、八年生まれの第二皇女は翌年に、十年生まれの第二皇子も翌年に亡くなった。
明治十二年(1879)八月に誕生した第三皇子は、明宮(はるのみや)嘉(よし)仁(ひと)親王と命名されたが、虚弱で本当に育つのだろうかという深い心配があった。
明宮親王については改めてふれたいが、ここで気づくのは誕生と共に親王宣下されていることである。悠仁様も明宮親王と同じく誕生と共に親王宣下されている。
だが、明治天皇は誕生時点では祐宮であって、親王宣下は九歳のとき睦仁親王になられている。天皇の子供は、それまでは単に皇子・皇女にすぎず、正規に「親王」ないし「内親王」宣下を受けるまで、皇位継承権を主張できなかったのである。
大正天皇である明宮親王のあたりから、皇室の皇子・皇女に対する規定が全面的に改められたのであるが、これは、第一皇子・第二皇子が次々と亡くなり、次の第三皇子の健康に不安があって、新しい制度が導入されたのである。
即ち、皇子は生まれると同時に親王であり、親王としての名前を授かる。ということは育ちさえすれば、皇位継承権を持つということになったわけである。
長々と親王宣下について述べてきたが、ここに明治天皇の大きな悩み、というより国家としての大問題で、天皇から子供が多く誕生しても育たないということは、皇位継承が難しい環境下になることを意味することになる。
明宮親王の健康について「明治天皇紀」は以下のように記されている。誕生二十日余の条に「誕生の際より」として始まるものである。
「嘉仁親王誕生の際より全身に発疹あり、昨(九月)二十三日瘡痂(そうか)(かさ病)消散せるを以て腰湯を奉仕せるが爾後不快なり。(午後皇后が御産所に行啓したが)其の頃より親王腹部に痙攣の発するあり、漸次胸膈を衝逆す、八九時に至りて最も強盛なり、又痰喘のため一層の苦悶あり・・・(『紀』十二年九月二十四日条)」(明治大帝 飛鳥井雅道)
親王の病気の記述は、不思議にも天皇や皇后が皇子を見舞ったり、呼ぼうとしても面会出来なかった時に限って記述される。逆にいえば、身体の状態がよいと思って会う段取りになると、病気が悪化するために記述せざるをえなかったと読んでも、それほど深読みではないだろう。(明治大帝 飛鳥井雅道)
明治天皇の治世期間中、第一子から数えて合計十五人の皇子・皇女が誕生し、五人が成人となられたが、皇子が明宮親王一人であるということは、どう考えても明治天皇は不運すぎた。
(明治天皇 笠原英彦著)
明治二十二年(1889)発布の「帝国憲法」で天皇は、「国家の元首」「統治権の総攬(そうらん)*者」(統合して一手に掌握する)ことと規定され、政務をとり、陸海軍を統帥する立場としてされたが、果たして明宮親王が憲法に規定された権威に耐え得る身体であるのか、客観的に見て厳しい状況であったが、他に継承すべき皇子はいなかった。
どうしてこのように多くの子供が宮廷で亡くなるのか。
その理由は幼児期の育て方に帰する、と考えられる。明宮親王の御用掛筆頭は、侍従長たる徳大寺実則だが、実質的には天皇の外祖父・中山忠能と嵯峨実愛(明治後に正親町三条から改姓)が実権を握っていて、一時期は中山邸で育てられた。
つまり、明治天皇は自らの後継者である息子の教育を、旧勤皇公家に任せてしまったのであり、医者は漢方医でコンデンス・ミルクを飲ませることも反対したほどだった。
この反省から明治天皇は、明宮親王が結婚し皇孫殿下、即ち昭和天皇であった裕仁親王が明治34年(1901年)に誕生された時は、育て方と教育を一新し、大正天皇をとばして昭和天皇に期待を寄せるというより、昭和天皇にかけたというべき行動が見受けられた。
それが乃木希典を学習院長に任命した背景であり、裕仁親王の教育を乃木に任せたのではないかと考えている。
乃木希典については、明治天皇と鉄舟との関係のまとめで詳しくふれたいが、精神家として西郷⇒鉄舟⇒乃木のラインが明治天皇のバックボーンに深く関与しているのである。
いずれにしても、明治天皇は子供に恵まれなかった。今の時代は不測の事態が起こらない限り、大体子供は両親より長生きするのが一般的であり、明治天皇の事例は現代感覚ではちょっと考えられない境遇であるが、実際に親より早く子供を亡くされた方の悲しみは激しいものがあり、明治天皇はその子供を十人も亡くされているのである。
この状況から、侍従の藤波言忠はついに次のように直言するほどであった。
「只今の向にては、来年頃は又々御葬式の御供つかまつるべし」(明治大帝 飛鳥井雅道)
この指摘を受けるまでもなく、相次ぐ皇子・皇女の誕生後すぐ亡くなるということは、明治天皇の気持ちを暗くさせる最大要因であったが、その一方「国家の中心」として多忙な国事を冷静に勘案し遂行せねばならぬ立場を考えれば、その心中はいかばかりであっただろうか。
天皇とは我々一般人とは別次元の存在である。
そのことを先般薨去された三笠宮寛仁殿下が、櫻井よし子氏との対談で、万世一系を取り上げ述べておられるので紹介したい。(文藝春秋 平成十八年二月号 )
「天皇様というご存在は、神代の神武天皇から百二十五代、連綿として万世一系で続いてきた日本最古のファミリーであり、また神道の祭官長とでも言うべき伝統、さらに和歌などの文化的なものなど、さまざまなものが天皇様を通じて継承されてきたわけです。
世界に類を見ない日本固有の伝統、それがまさに天皇の存在です。私は天皇制という言葉が好きではありませんから、仮に天子様を戴くシステムと言いますが、その最大の意味は、国にとっての振り子の原点のようなものではないかと考えています。国の形が右へ左へさまざまに揺れ動く、とくに大東亜戦争などでは一回転するほど大きく揺れましたが、
いつもその原点に天子様がいてくださるから国が崩壊しないで、ここまで続いてきたのではないか」
このように皇族が認識していると天皇は、万世一系という重い歴史を背負っている立場である。また、孝明天皇までは国民に「見えない」存在であったものが、明治天皇は新時代となって「見える天皇」となられた。
したがって、明治天皇の心中は、相次ぐ皇子・皇女の死亡という子を失う親としてとの悲しみと、唯一の継承者が持つ虚弱性に悩みつつ、国民には「強い国家元首」としての姿を見せ続けなければならないという乖離・相克に耐え忍ばねばならなかったわけで、その克服のために「心の修行」の必要性を痛感していた。
そこに明治天皇のおそば近くに、大悟を目指して命がけで禅修行中の鉄舟が存在していた意義があった。
因みに三笠宮寛仁殿下が、鉄舟と明治天皇に関しても述べられているので紹介する。(文藝春秋 平成十八年二月号 )
「私は司馬遼太郎さんの本が好きでほとんど読んでいますが、明治天皇のエピソードがたびたび出てきます。
私が好きな話のひとつに山岡鉄舟が天皇様を相撲で投げ飛ばしたというものがあります。
山岡は賊軍である幕臣出身ですが、その人柄を見込まれて明治政府に侍従として取り立てられ、天皇様のご養育係をつとめました。
そして天皇様がまだ少年の頃、山岡に相撲を挑んだところ、山岡はいとも簡単に転がしてしまう。わざと負けてあげて『お強いですね』と持ち上げる手もあるのですが、山岡は将来、きちんとした君主に育っていただきたいという心を込めて、あえて投げ飛ばした。
さすが剣と禅の達人であった山岡です。山岡のような家来がいたことで、明治天皇は偉大な君主になられた。お若き時のよき体験であっただろうと思います」
このエピソード、鉄舟が明治天皇の「心の修行」に与えた影響の重さを物語っていると考える。
次号では、明治天皇が直面した政治的大問題にふれ、そこでも「心の修行」面で鉄舟がかかわっていることをお伝えしたい。
明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の七
明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の七
最初にパリのアンヴァリッドの長州砲について訂正したい。前号でアンヴァリッドに保管されている長州砲二門、その一門が長らく所在場所不明だったので、筆者がアンヴァリットの学芸員と館内を半日かけて探し、軍関係の管理地におかれていることを確認、この大砲を「十八封度礮(ぽんどほう)嘉永七歳次甲(きのえ)寅(とら)季春 於江戸葛飾別墅鋳之(べつしょにおいてこれをいる)」、弾の重さが十八封度礮(約8.2キログラム)とお伝えした。
しかし、以下のアーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新」(坂田誠一訳)」の記述から、長州砲を研究している大阪学院大学の郡司健教授が、大砲の弾の重さは二十四ポンドではないかという疑問を出された。
「第七砲台では、大砲が大きな車輪の砲架に乗ったまま砲座の上に装備され、旋回軸で操作されるようになっていた。砲身は青銅製で、ひじょうに長く、二十四ポンドの記号がついていたが、その実三十二ポンドの弾丸を発射していた。これらの大砲には、一八五四,年に相当する年号が記されていた。江戸で鋳造されたものであることは明らかだった」
そこで、この確認をすべく、下関市立長府博物館の田中洋一学芸員が二千十年九月アンヴァリッドに赴き、筆者が見つけた大砲を調べたところ「二四封度礮・・・」と砲身に刻まれていることを確認、アーネスト・サトウの記述通りの二十四ポンド砲であると確認されたのである。
さて、明治天皇の侍従となった鉄舟は当時、どのような状態であったか。文久三年(1863)十二月末に蟄居処分が宥免され、浅利又七郎義明と立ち合い、見事な完敗を喫し、その後もどうしても浅利に勝てなく、この壁を超えるには「心の修行しかない」と禅修行に没入邁進していた時であった。
侍従になってからの禅修行は、三島の龍択寺に参禅し、星(せい)定(じょう)*和尚についた。当時、宮内省は一と六がつく日が休みだった。そこで十と五の日に夕食をすますと、握り飯を腰に下げて、草鞋(わらじ)がけで歩いて行った。この参禅は三年続いた。(「おれの師匠」小倉鉄樹)
この話を普通の人は嘘だと思うだろう。東京から三島まで三十余里(約120㎞)、途中に箱根越えがある。龍択寺で参禅が終わると、休息する間もなく、また、東京へ引き返す。こんなに歩けるわけがないと、一般の人々は思うだろうが、鉄舟は実際に歩いた。鉄舟の健脚は有名であった。
星定和尚は、三年目に鉄舟に「よし」と初めて許しを与えた。ところが鉄舟は、まだ自分は不十分であると思い、和尚の「よし」に納得せず辞し、箱根に差し掛かった時、ふと山の端から出た富士山を見て、覚(おぼ)えず「はつ!」と、豁然(かつぜん)大悟した。
喜びのあまり、鉄舟は直ちに戻ったら「今日は間違えなく帰って来るだろうと待っていた」という。和尚は鉄舟が大悟のレベルに達し、それを自ら気づくことを見抜いていたのだった。
その際の心境を表したものが次の和歌であり、鉄舟はよく富士山の自画像に書いている。
晴れてよし 曇りてもよし 富士の山
もとの姿はかはらざりけり
しかし、この三島通いで到達した大悟は、まだ「大道」(人のふみ行うべき正しい道・広辞苑)段階であって、仕上げとなる悟りの境地に達する大悟までには、天竜寺の滴(てき)水(すい)和尚、相国寺の独(どく)園(おん)和尚、円覚寺の洪(こう)川(せん)和尚などについて修行を続け、終に滴水和尚から印可を受けたのが明治十三年(1880)三月三十日であった。
ここに鉄舟の大悟・心地の開拓が完成したのだが、侍従となったタイミングはちょうどこの大悟への過程中であった。
つまり、侍従就任時の年齢が三十七歳、大悟したのが明治十三年の四十五歳、侍従を辞したのが明治十五年(1882)の四十七歳であるから、最も精神的に鍛え上げ、心の完成期を迎えた十年間を、明治天皇のお傍近くで過ごしたことになる。
ということは、明治天皇はこの十年間の鉄舟の修行を身近で見ていたわけで、その観察プロセスの中から、何か重要な意義・価値を受けられたに違いないと容易に推察できる。
ここで侍従とはどのような職務であるのか振り返ってみたい。また、戦前の天皇に仕えていた側近はどのような配置になっていたのかも見てみたい。
明治二十二年(1889)発布の「帝国憲法」で天皇は、「国家の元首」「統治権の総攬(そうらん)者」と規定され、政務をとり、陸海軍を統帥し、側近として元老、内大臣、宮内大臣、侍従長、侍従武官長といういくつかの層が配置されていた。
主として政務にかかわったのは元老と内大臣であり、皇室いっさいの事務につき天皇を輔弼し、華族を監督、皇室令の制定などをつかさどったのは宮内大臣で、陸海軍を統帥する軍務を補佐したのが侍従武官長であり、これは日清戦争を機に設けられた。
戦後の新憲法では、宮内省は廃止され宮内庁となり内閣府に位置づけられ、元老、内大臣、宮内大臣、侍従武官長はなくなり、侍従長のみが戦前と変わらずのこっている。
侍従の制度は「大宝令」、これは四十二代文武(もんむ)天皇時代の大宝1年(701)制定の時から天皇家と共に存在し「常侍規諫(じょうじきかん)、拾遺補闋(しゅいほけつ)*」、つまり「常に天皇の側近にあって、誤りを正し、諌め、過失を補う」のが役目とされ、侍従長とは侍従を監督する長として明治四年(1871)に設けられた。
2012年5月号で紹介した、昭和天皇時代の侍従長であった入江相政著「城の中」(昭和三十四年 中央公論社)に、
「二十何年の間には、御意見と意見が合わなくて、激論になったこともある。陛下も元来非常に大きな声だし、私も決して小さいほうではない。わきで冷静にきいていたら、さだめし相当な騒音だっただろう。私はほとんど遠慮なんかしていない。ずいぶんふてぶてしいやつだとお思いになったろうし、今でもおもっていらっしゃるかもしれない。しかしそういうことがあっても、全くただその場かぎりのことで、後までひっかかりになったようなことは一度もない」
とあるように、侍従とは、常に天皇と親しく接し、遠慮なく天皇に物事を発言できる側近であって、御意見番であり相談相手であるということがわかる。
そのような職務である侍従として鉄舟が、当時二十歳代であった明治天皇の身近に仕えたということは、必然的に天皇は必死に修行している大悟前と、大悟後について、その比較を含め詳しく見つめていたであろう。
人間が大悟するということは、普通人ではなりえない境地であるから、ここで改めての解説と分析は出来ない。したがって、ここは鉄舟の身辺近く内弟子として過ごした小倉鉄樹の言葉を借りたい。
「とにかく。かうして完成せられた後の師匠(鉄舟)は、一段と立派なものになって、實に言語に絶した妙趣が備わったものだ。性来のたいぶつが、磨いて磨き抜かれたのだから、ほかの人の、形式的の印可とはまるでものが違ふ。師匠が稽古場に出て来ると、口を利かずにだゞ座っているだけだが、それでもみんながすばらしく元気になってしまって、宮本武蔵でも荒木又右衛門でも糞喰へといふ勢ひだ。給仕でおれなぞが師匠の傍に居ても、ぼっと頭が空虚になってしまってたゞ颯爽たる英気に溢れるばかりであった。客が来て師匠と話をしてゐると、何時まで経っても帰らない者が多い。甚だしいものになると夜中の二時三時頃までゐた。帰らないのは師匠と話をしてゐると、苦も何もすっかり忘れてしまって、いゝ気持になってしまふものだから、いつか帰るのをも忘れてしまふのである」(「おれの師匠」島津書房)
この小倉鉄樹の語りは、大悟後の鉄舟という人物の豊かさ、素晴らしさを示していて、大悟するということは、具体的にこういう状態になれるものだと判断できるし、鉄舟が本来持っている能力が最大限に発揮されている様子が、正直に素直に伝わってくる。
このような姿であったのだからこそ、明治中期の女の子が路地裏で遊んだ手毬歌で
「下駄はビッコで 着物はボロで 心錦の山岡鉄舟」
と時の民衆の間にまで沁み渡っていたわけである。
であるから、必然的に明治天皇も鉄舟から「何か」を、それは「精神的なもの」であろうが、多くの影響を受けたはずである。
また、践祚(せんそ)(皇嗣が天皇の位を承け継ぐこと)されてから十五年にかけての明治天皇の状況を振り返ってみれば、「心の修行」という精神的な分野に高い関心を持たざるを得ない環境下にあった。
では、明治天皇が「心の修行」を必要とした背景とはどのようなものであったか。それらについていくつかに分けて検討してみたい。
1. 「王政復古」の実現
我々は、明治天皇が歴代天皇と大きく異なる特異性についてしっかり理解しないといけない。それは歴代天皇が考えても見なかった「王政復古」を実現させたことである。
この「王政復古」、もし仮に孝明天皇がご存命であったならば、「倒幕と王政復古を目指す人々の前に立ちはだかり、なおも妨害し続けたなら、維新の実現は極めて難しいことになったに違いない。あるいは、その実現は不可能でさえあったかもしれなかった」(明治天皇 ドナルド・キーン著)とあるが、その通りであろう。
その孝明天皇は、慶応二年(1866)十二月二十五日に、断末魔の苦しみの内に三十五歳という若さで突然崩御された。
先般、三笠宮家の長男、寛仁様がご逝去された。(2012年6月6日)野田首相は「国民と飾ることなく親しく接せられる殿下に、引き続き積極的なご活動を望んでいたところ、思いもむなしく薨去(こうきょ)されましたことは、誠に痛惜の思いに堪えません」と謹話を発表したが、新聞社によっては「亡くなられた」という言葉使いが見られた。
戦前はこういう場合には必ず薨去を用いた。「薨」という字は、皇族に限らず平安時代の「殿上人」即ち「三位」以上の位階を持っていると使えたわけで、天皇の崩御と使い分けられていて、戦前の宮廷記事で誤りを犯すと記者たちの首が飛んだものだが、さすがに野田首相は薨去を使って慎重な配慮である。
ところで、明治天皇の即位の礼が執り行われたのは、慶応四年(1868)八月二十七日である。孝明天皇が崩御されたのは慶応二年十二月二十五日であり、践祚の式は慶応三年(1867)一月九日であったから、天皇即位の礼はかなり遅れている。即位の礼という大規模儀式の前に成されなければならないことが多々あり、加えて国内情勢不安定のためだった。
その成されなければならぬ中で極めて重要なものは、いままでと国体の歴史を変える慶応三年(1867)十二月九日の「王政復古の大号令」である。
家康によって始まった徳川将軍家の系統が終りを告げ、建武中興以来五百余年ぶりに天皇親政が復活したのが「王政復古」で、これを発した日の夜、朝廷内の小御所で天皇出御のもとで開かれた会議の様子は、この当時の明治天皇を分析する上で欠かせない重要なものである。
会議は冒頭、議長格の中山忠能が「王政の基礎」を確定し、「更始一新の経綸」を施すため、公議を尽くすべしと開会を宣し、山内容堂が口火を切った。
「二三の公卿、幼(よう)沖(ちゅう)(幼い)の天子を擁して、権柄を窃取せんと欲するの意あるに非(あら)ざるか。天下の乱(らん)階(かい)(乱の起こるきざし)をつくるものなり」と非難し、徳川家を公平に扱うべきという見解を述べた。
これに対し、岩倉具視は天皇の御前における会議である。言葉を慎まれよ、と次のように容堂を叱責した。
天皇は「不世出の英材」であり、「今日の挙は悉く宸断(しんだん)(天子の裁断)に出(い)ず。妄(みだ)りに幼沖天子を擁し、権柄を窃取せんとの言を作(な)す。何ぞ其れ亡礼の甚だしきや」と応酬して、議論の流れを転換したというエピソードは有名であるが、この会議の間、明治天皇は一言も発言せず、御簾のうしろで聞いていただけであった。
この一言も発しないという意味、それをどのように理解したらよいのか。
①単にまだ十六歳という年齢を理由として考えるか
②それとも御叡慮(えいりょ)として自らの意思を伝える政治的思考力と発言技術が未だしというべきなのか
③または、成人後の治世で一貫して示された「自ら明確な指示はしないという、君主としてわきまえた態度」ということをこの時点で既に発揮したのか
多分、これらが相互重なって密接に影響していたかもしれないが、十六歳という年齢を考慮すれば③という後年に示された態度を、この時点での行動と結びつけるのは少し無理があると考える。③という段階に至って偉大な明治天皇として評価が定まってきたわけで、それには鉄舟を含めた多くの功臣達の影響によって「心の修行」が成された結果であると考えたい。
ここでひとつ面白い、ちょっと考えられないことを紹介したい。この小御所会議の結果、倒幕派の「徳川家の辞官・納地」の主張はこの会議で受け入れられたが、以降も公議政体派の巻き返しは激しく、結局「慶喜の辞官」については「前(さきの)*内大臣」という称号を許すことになり、「納地」にしても朝廷からの命令ではなく、自主的に「政府御用途」に差し出すといった形式がとられることになった。
この間において、徳川慶喜は自ら積極的な外交攻勢をかけてきた。それは、大政奉還に至る自己の正当性を説き明かす文書を朝廷に提出し、外国公使六カ国を大坂城で引見し、依然として日本の外交権の保持者であることを内外に誇示する行動であって、倒幕派はとうとう手詰まりに陥った。
これを打破したのが、西郷の指示による「江戸市中での強盗放火による撹乱」であって、これらの蛮行被害にたまらず、幕府側は薩摩藩邸へ砲撃を行い、これが誘因となって慶応四年一月三日の「鳥羽伏見の戦い」につながったわけであるが、この間にこの危機的状況を茶化すかのような珍事が出来した。
それは孝明天皇の一周忌法要の費用捻出問題である。王政復古の大号令が出され、その夜に徳川家に対する処分について激しい議論がなされた二十日後の十二月二十九日に一周忌法要が無事執り行われたが、実は朝廷にはこの費用を賄う財政力はなかった。
会計事務を司る山陵奉行戸田忠(ただ)至(ゆき)に岩倉は「内大臣徳川慶喜に頼んで都合されればよい」と戸田へ示唆した。驚いたことに慶喜の辞官を要求していたはずの当の岩倉が、慶喜のことを未だに「内大臣」と呼んでいる。
戸田は大坂城に赴き、慶喜に事情を説明し、金「若干万両」の献金を依頼した。戸田にとってはこの時ほど、ばつの悪い思いをしたことは無かったに違いない。大坂城中は、王政復古推進派に対する怒りで渦巻いている。このような時に敵方に渡す金の都合などつくはずもない。慶喜は気が進まなかった。しかし、戸田は何度も訴えるように嘆願した。
ついに慶喜は、勘定奉行に命じて金千両を献じ、残りは京都の代官に命じて幕府直轄領の貢納金から出すことを約束した。
ようやく幕府費用によって、孝明天皇の一周忌法要が滞りなく執り行われたわけであるが、これは幕府と朝廷が鳥羽伏見で火蓋を切るまさに四日前の十二月二十九日であったという際どいタイミングであった。
しかし、ここで顕れたのは慶喜の孝明天皇に対する気持ちである。多分、孝明天皇がご存命ならば、大政奉還するような立場に追い込まれず、まして王政復古や倒幕という「錦の御旗」なぞは考えられないと、慶喜は心中歯ぎしりしていたであろうし、だからこそ孝明天皇の崩御に対する悲しみと苦しみを強く慶喜は持っていたので、自らの立場が厳しく問われているにも関わらず法要費用を献じたのだと推測する。
2. 孝明天皇の思想を受け継いでいない
孝明天皇は感情が激しく、その気持ちがありのままに顕れている書簡が多く残っている。したがって、孝明天皇の分析はそれほど難しくないと言われている。
その書簡から明確なことは、既によく知られているように「けがれた夷狄(いてき)(外国人)を一歩でも神国日本に入らせない」という本心からの攘夷思想家であったことである。
この孝明天皇の皇子である明治天皇は、当然のことながら父孝明天皇から教育を受けている。具体的には和歌で、和歌の指導を通じて人間形成と天皇学を授かったはずで、そのことを山岡荘八の「明治天皇」は次のように述べている。
「父の帝が睦仁親王の和歌の指導だけは、おんみずからなされたが、これこそ明治大帝が、父の帝から直接授けられた最も大切な『天皇学――』の一つであったのかも知れない。
大帝もまたそれを敏(さと)*くご感受なされておわしたゆえ、東京遷都の年から『御歌始めの儀』を再興なされて、その伝統は今日に及んでいる。いや、それ以上に、大帝の御生涯に詠じられた御製の総数が、あのご繁忙なご政務の座にあって十万首にも及んでいるという超人的な事実が、何よりもこれを雄弁に語り残している。
おそらく大帝は、その一首一首を詠じられるたびごとに、父の帝を想い、訓えを想うてご反省なされたのではなかろうか・・・。
とにかく明治大帝とそのご生涯の御製と、父の帝のご影響とは切りはなして考えることの出来ない密接な関係をもっている」と。
このように大和民族伝統の詩形であり、神話の昔から人間形成の必須条件として伝承されている和歌を通じ、明治天皇は父である孝明天皇から指導を受けていたのであるから、当然のごとく「孝明天皇の強い意志である攘夷思想」を受け継いでいると思われるだろう。
しかし、これを全く受け継いでいないのである。
慶応二年末に孝明天皇が崩御されたが、翌慶応三年には未だ慶喜は将軍として大坂城にいた。この当時の外交最大課題は孝明天皇が拒否していた兵庫開港であった。
慶喜は「四海同胞一視同仁」(天下の人は兄弟のごときもの、親疎の別なく平等に仁慈を施すべし)の古訓に倣い、新しい治世の始まりにあたって国を一新しなければならない、という上書をもって兵庫開港問題について朝廷説得を何度も試みた。
この結果、さしもの朝廷も、列強の脅威を無視できず、五月二十四日、摂政二条斉敬は慶喜に書を送り、将軍及び諸侯の意見に鑑み、兵庫開港は勅許せざるを得ず、と応えた。
この間の慶喜と朝廷との交渉事に「恐らく年少の明治天皇は、これら朝廷の決断にほとんど、或いは全然関わっていなかった」(明治天皇 ドナルド・キーン著)とあるように、年齢を要因として裁断を下すことが出来なかったという指摘は、裁可をするための「心の修行」が今後必要だということを示唆している。
いずれにしても、兵庫開港勅許は「攘夷ではなく開国」であるから、明治天皇は孝明天皇の思想を受け継いでいないことになる。
次号でも明治天皇が「心の修行」を成さねばならなかったいくつかの事件についてふれて、鉄舟との関わりを検討していきたい。
2013年06月27日
明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の六
明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の六
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
鉄舟が明治天皇へどのように影響を与えたのか。
江藤淳氏が、鉄舟は「明治天皇の扶育係であった」と言い、山内昌之東京大学教授が「統治や統帥、知性や教養の全体を覆うバックボーンは、西郷隆盛や、その推輓(すいばん)で侍従となった幕臣、山岡鉄舟の存在に負うところが多い」と述べている。
このように、明治天皇に大きな影響を鉄舟が及ぼしていることは事実と思われるが、それを具体的に検討するためには、明治天皇の何がどう変わったのかについて分析する必要がある。
だが、この分析に入る前に、まず、人は、どのような時、どのような場面で、自らがもつ思想・考え方を変えるのかという事例をいくつかひろってみたい。
最初は、熱烈な攘夷論者であった井上聞多(馨)と伊藤俊輔(博文)が、開国論者へ変化した事例である。
文久三年(1863)長州藩は吉田松陰の意志を継ぐべく、藩士五名をロンドンへ派遣した。
この当時の攘夷論者は、まず、国家を外敵の侵略から守ることに目的をおいていた。これを後に国策となった富国強兵に例えれば「強兵」に重点をおいたわけで、その方法として勤倹尚武を説き、精神的・肉体的鍛錬によって、外国の侵略から日本を守ることが出来る、と考えていた。
ところが、ロンドンに向かう途次、まずは上海に着いて実態を目の当たりにしてみると、井上聞多は早くも開国論者に変わったのである。その井上を薄志だとこき下ろした伊藤俊輔は、ロンドンに着いた途端、開国論者に変化した。
二人を驚かせ、変化させたのは、西洋においては軍事面の発達より、経済面の成長充実であった。この時点で二人は「強兵」富国論者から、「富国」強兵論者に変わったのである。 そのことを井上は「世外侯事歴維新財政談」の中で、次のように回顧している。
「実業を盛んにせにゃならぬという考は、何からと云うと、倫敦の有様を見ても、いろいろな事を聞いても、商工業の発達というものが著しく目に見えている。読んだよりは事実を見て感じがつよくなった。農工商の発達を十分図らぬ以上は、富国強兵・・・強兵は出来るかも知れぬけれども、富国はいくら士族が勇気があって、身命を賭してやったからと云って、食わず飲まずでは行けるもんじゃないと云うのだ。つまり実際から覚えた」
井上、伊藤は外国の実態を見て、富国強兵の背後に経済発展があることを理解し、今までの考え方を急転させたのである。
さらに、翌元治元年(1864)八月の、英仏蘭米四国艦隊下関砲撃の情報をロンドンで入手すると、二人は藩主を説得しないといけないと考え、急遽六月に帰国、藩庁に出頭し、海外の情勢を説き、攘夷が無謀なことと、開国の必要性を訴えた。
しかし、結果として、二人の主張は相手にされず戦争となり、馬関(下関)と彦島の砲台を徹底的に砲撃され、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊し、大砲は勝利捕獲物として持ち去られた。
現在、この大砲の一門はフランスから、下関市立長府博物館に里帰りしている。これは本来戦争勝利記念物であるから、フランス政府は返還しないのが決まりであるところ、直木賞作家の古川薫氏が、昭和五八年(1983)当時の安倍晋太郎外務大臣に働きかけ、長府毛利家に伝わる紫(むらさき)糸(いと)威(おどし)鎧(よろい)をアンヴァリットに貸与して、相互貸与という形で天保十五年(1844)製の長州砲一門を昭和五九年(1984)に戻してもらったのである。
しかし、もう二門が、パリ・セーヌ河畔のナポレオンの墓所として有名な、アンヴァリット(廃兵院)に保管されている。
一門は入口入ったすぐのところに展示されていて、百四十八年過ぎても、世界観なき長州藩攘夷思想が引き起こした事件の傷跡として、世界中の観光客が訪れるパリで格好の見せ物になっている。
しかし、もう一門の方が、長らく所在場所が不明だったので、筆者がアンヴァリットの学芸員と館内を半日かけて探し、軍関係の管理地におかれていることを確認した。
この経緯は二〇〇九年七月号でお伝えしたが、これが「十八封度礮(ぽんどほう)嘉永七歳次甲(きのえ)寅(とら)季春 於江戸葛飾別墅鋳之(べつしょにおいてこれをいる)」であって、弾の重さが十八封度礮(約8.2キログラム)、葛飾別墅、現在の東京都江東区南砂二丁目付近に存在した、当時の長門萩藩(長州藩)松平大膳大夫(毛利家)の屋敷で、佐久間象山の指導のもと、屋敷内で大砲の鋳造を行ったものであることが判明したのである。
ここで大砲製造が佐久間象山であることに注目したい。大砲が製造されたのが嘉永七歳次甲寅(1854)であって、この当時の象山は鎖国攘夷思想であったが、十年後の元治元年(1864)に京都三条木屋町の居宅で暗殺された際には、完全な開国論者に変化していた。
象山は信濃国松代藩士で漢学者・朱子学者として早くから著名で、天保十年(1839)当時は神田お玉ヶ池で象山書院を開いていた。弟子には吉田松陰、勝海舟、河井継之助、坂本龍馬、橋本左内など、幕末・維新に多大な影響を与える精鋭が数多くいた。
象山の思想が天保十一年(1840)頃前後から大きく揺れ動きだしたのは、天保八年(1837)のアメリカ船モリソン号打払事件で、マカオで保護されていた日本人漂流民七人が乗っており、非武装船なのに打払令を実行したことへの疑問に加えて、アヘン戦争の勃発と清国の敗戦であり、国防を図るために西洋砲術を学ぼうと江川英龍門下に入り、海防意見を藩主に建議している。
その建議内容は、このままの攘夷では打払しても必敗する。必敗を必勝にするためには、オランダから戦艦を購入し、水軍軍事訓練強化を図り、その模範事例としてロシアの初代皇帝ピョートル大帝(1682-1725)がオランダから技術導入し、それによって強大国家建設成功の事例を挙げている。
この海防意見は、真田藩主真田幸貫が老中海防掛を退いたことで頓挫したが、返って海外事情を積極的に掌握しようと、オランダ語を二カ月でマスターし原書から学びつつ、理解したのは専門の朱子学と蘭学が矛盾しないということであった。
つまり、東洋の道徳は維持しつつ、西洋の科学を学びとって、国防を強化するという方法に矛盾はない、という考えに至ったちょうどその時に、幕府が漂流民中浜万次郎(ジョン万次郎)を御普請役に引き立てたことを知り、ならば弟子の吉田松陰を外国へと考えたわけで、この時点で象山は「鎖国攘夷」から、外国から科学技術を導入するが鎖国は維持するという「和親攘夷」に転換したのである。
この経緯を証明する川上貞雄氏所有の象山書翰について2011年11号でお伝えしたが、その後に続いた外国との関係、それは嘉永6年(1853)ペリー来航、安政元年(1854)ペリー再来航、安政3年(1856)ハリス下田着任、安政5年(1858)日米修好通商条約調印、万延元年(1860)勝海舟訪米等で、西欧諸国との通商が既定事実化したことの情勢変化を認識し、象山は再び理論と政策再構築に取り掛かり、ついに「和親攘夷」から「和親開国」へと思想転換したのである。
象山という思想家の思索の跡を探ると、あるときは鎖国を主張し、あるときは和親に転じ、あるときは開国に転じ、情勢の急激な展開にともなって、さまざまな変化を示しているが、バックボーンとしての朱子学は貫いている。
ドナルド・キーン氏が「晩年の明治天皇が示した態度を分析すると、幕末時代に佐久間象山が唱えた『東洋の道徳と西洋の科学の結合』が特徴づけられると判じている」と述べているが、象山の思想変化は明治天皇にも関与しているのである。
以上のように、人が変化する場合は、井上聞多と伊藤俊輔のように、実際に現地現場を体験することで、今までの主義主張を急変化させた事例、佐久間象山のように自らの専門領域に情勢・時流変化を取り入れることで、徐々に時間をかけて思想変化をとげていくという事例が見られる。
では、明治天皇はどのようなスタイルで思想変化をしたのであろうか。
それへの回答は「明治天皇には最初から最後まで思想変化はなかった」ということであろうと思っている。
天皇としての進化と、年齢とともに深められた思考力について変化はあったであろうが、井上や伊藤、そして象山のような思想的変化は必要なく、天皇として必須要件のもの、それは変化というものでない別次元となるが、そこに鉄舟が大きな影響を与えたと推測する。
しかし、ここは大事なポイントであるから、鉄舟が侍従として天皇にお仕えした時の精神・心理状態がどのような状況であったか、これを検討してから再度取り上げたい。
鉄舟が明治天皇の侍従であったのは、明治五年(1872)六月十五日から、明治十五年(1882)六月二十五日までの満十年間で、天皇が二十歳から三十歳になられるまでの、人間形成時期として最も大事な年齢時であった。
では、侍従に就任した時の鉄舟は、どのような精神・心理状態であったのか。
それを検討するためには、文久三年四月の清河八郎暗殺事件にまで遡ることが必要で、事件後、責任を追及され、幕府当局によって御役御免の上蟄居処分という状態に陥った。
蟄居とは「自宅の一室に謹慎、外出は許されない」処置であり、木刀・竹刀を構え庭で素振りは許されず、一室にて座って過ごす生活しか認めない処置である。
したがって、座っている目の前には書見台があるだけで、書見台が自分の稽古相手であって、台上には上古時代からの刀剣の歴史、江戸時代以前の古流剣法から続く諸流派教本、甲陽軍鑑などの軍学書、孫子兵法等の兵書、佐藤一斎の言志四録などの学識書、王羲之の十七帖等の書法帖など、明るいうちは書見台に向かい、暗くなると坐禅に入る生活続けることになった。
だが、世間と切り離された日々を送ってみると、改めて気づくことがあった。それは今までに無き経験であるが、自分自身の内部により深く入っていくという感覚である。
これまでの人生でも、思考することになるべく時間を取ってきたつもりだったが、中心には常に剣をおいていたため、その修行の合間に「思考時間」を取り入れたものであった。
しかし、今は違う。静思することしかできない環境下になってみてわかったのだが、改めて自分とは何者なのか、自分の奥底には何が存在しているのだろうか、つまり、自分探しの旅をしているような気がしてならず、これまでとは違う感覚に浸ることができるようになってきた。
蟄居処分が宥免されたのは文久三年十二月末で、二十八歳になっていた。「ありがたい。これで外出ができる」と自由になった喜びを叫ぶと同時に、八ヶ月間の謹慎によって自らの奥底を見つめた鉄舟は「やはり自分には剣だ」と、今後の生き方の中心を改めて定め、その第一歩を踏み出すべく立ち合ったのが浅利又七郎義明であり、結果は見事な完敗、その後もどうしても浅利に勝てない。
浅利を実際に見た人の話によると、晩年であったが、すらりとした痩躯で、巨躯とか、エネルギッシュというような感じは少しもなかったという。
浅利道場での稽古、浅利が木刀を下段に構え、ジリジリと攻めてくる。鉄舟は正眼に構え、浅利の剣尖を抑え押し返そうとするが、少しも応ぜず、盤石の構えで、まるで面前に人無きがごとく、ヒタヒタと押してくる。
既に、浅利道場で鉄舟に敵う者は浅利以外にはいない。そのたった一人の敵手、浅利に、鉄舟の豪気をもってしても、どうしても勝てない。
浅利の下段の構えを崩せず、一歩退き、二歩下がり、ついに羽目板まで追い込まれてしまう。
そこで、再び、立ち合いを所望、元の位置まで戻って木刀を構えるが、またもや同じことで、たちまち追い詰められてしまう。完全に気合負けである。
このようなことを四五回繰り返したあげく、ついに溜まりの畳の上に追い出され、仕切り戸の外まで追いやられ、ピシャリと杉戸を閉めて、浅利は奥へ入ってしまうこともある。手も足も出ないとはこのことである。
昼の浅利道場での稽古を終え、日課としている夜の自宅で座禅、眼を閉じると、たちまちすぐさま浅利がのしかかってくる。圧迫され、心が乱れどうしょうもない。そのことを明治十三年(1880)に記した「剣法と禅理」で次のように語っている。
「是より後、昼は諸人と試合をなし、夜は独り坐して其呼吸を精考す。眼を閉じて専念呼吸を凝(こら)し、想ひ浅利に対するの念に至れば、彼れ忽ち(たちま)余が剣の前に現はれ、恰も(あたか)山に対するが如し。真に当るべからざるものとす」
この大きな山を越え打ち破るためにはどうしたらよいのか。日夜真剣に考え続けてみた結果は「心の修行で立ち合うしかないだろう」ということに気づいたのである。
そこで今までの心を鍛える禅修行を思い起こしてみると、剣に比べ、追究が甘く未だしだったことを、深く自省したのである。
剣の修行は九歳から始めたが、禅修行はそれより遅かった。また、鉄舟の禅修行は何人かの師匠についている。
安政二年(1855)二十歳の時から慶応二年(1866)頃までの約十年間は、芝村(現・川口市)長徳寺の願翁和尚に師事した。
しかし、同和尚が鎌倉・建長寺、続いて慶応三年(1867)に京都・南禅寺の住職として転じたため、西郷との駿府会談時には特定の禅師を持たなかったが、明治二年(1869)頃に京都・天竜寺の滴水和尚による、東京での座禅会に出席したことから、同和尚に一時師事した。
宮内庁に出仕するようになった明治五年からの三年間は、三島の龍択寺星定和尚に師事し、その後、明治十一年(1878)頃から大悟する明治十三年までは、再び滴水和尚に師事したが、この他に相国寺の独園和尚、円覚寺の洪(こう)川(せん)和尚にも教えを受けてきたが、当時の鉄舟は「昼は諸人と試合をなし、夜は独り坐して其呼吸を精考す」(剣法と禅理)という状況であった。
つまり、剣で浅利又七郎に勝つため、心の修行である禅に没入していたタイミングに侍従となったわけである。
禅修行も激しいものであったが、その結果は、必ずや明治天皇に影響していくはず。
次号以下でそれらについてふれたい。
2013年05月25日
明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の五
明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の五
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
慶応三年(一八六七)から明治初年までの明治天皇は、その後の偉大な治世を重ねるために必要な、政策策定と推進の準備期間であったことを、5項目に整理して前号で紹介したが、その補足としていくつか加えたい。
まず、慶応三年十二月九日、王政復古の大号令によって、慶長八年(一六〇三)に家康によって始まった徳川将軍家の系統が終りを告げ、建武中興以来五百余年ぶりに天皇親政が復活したことを、日本駐在の外国使節に対し、翌慶応四年(一八六八)戊辰正月十日(太陽暦一八六八年二月三日)の日付で表明した。
「日本の天皇(エンペラー)は各国の元首および臣民に次の通告をする。将軍徳川慶喜に対し、その請願により政権返上の許可を与えた。今後われわれは国家内外のあらゆる事柄について最高の権能を行使するであろう。したがって天皇の称号が、従来条約締結の際に使用された大君(タイクーン)の称号に取ってかわることになる。外国事務執行のため、諸々の役人が我らによって任命されつつある。条約諸国の代表は、この旨を承知してほしい。」睦仁(印)
この文章は、英国が授受した漢文原文をアーネスト・サトウが訳し、その著書「一外交官の見た明治維新(下)」に記したものだが、この公式外交文書は少年明治天皇による明確な指示で書かれたとは思えなく、当然に明治新政府に関与する政策推進者によって意図されたと理解するのが妥当であろう。
同様に、慶応四年三月十四日の国是五箇条御誓文の発布から、その後に続く諸改革・政策の数々と、生活スタイルの変化は、若き明治天皇に対する教育の意図を含めたものであって、その結果として明治天皇は徐々に近代ヨーロッパ君主のように、国民の前に姿を現す方向に向かっていった。
その一つの変化は天皇に対する尊称変化である。それまでは天皇に対しては「お上」と申し上げていた。だが、明治維新後は公私の文書に「陛下」が尊称として使われだした。
この「陛下」の陛とは中国では宮殿の階段を意味し、そこを家来が戟(ほこ)を持って守っていた。奏上のおり、直接天皇に声掛けるのは畏れ多いとして、この階段の下にいる家来に取り次いでもらうのが例式で「陛下」の尊称が起こり、秦の始皇帝の時に、この尊称は天子を指すものと決められたという。
この「陛下」が維新頃から多く使われだし、「お上」「天子様」と併用されていたが、日露戦争後には「陛下」に定着した。
次の準備は、明治天皇の外見容姿と、所作・挙止の矯正であった。それまでの天皇は、大奥の暮しで身についたと思われる一種独特の歩き方であり、着ている衣装と化粧を施した顔は、一般的に見て少し異形といえ、その指摘は大久保利通などの重臣たちからも、ヨーロッパ人によっても指摘されていた。
例えば、駐日イギリス大使であって、イギリスきっての日本通であるヒュー・コータッツィは「ザ・ファー・イースト」誌の1872年(明治五年)の記事から引用し「まだブーツを履き慣れていないせいか、足取りが幾分おぼつかない」と書き、1873年(明治六年)に天皇を見たブラッシー男爵夫人の「脚は、まるで彼の持ち物ではないかのように見えた。察するに、ふだんあまり使っていなくて、正座していることが多いからだろう」についても引用指摘している。(Victorians in Japan)
もうひとつ重要な指摘事項は、明治初期における一般民衆の天皇に対す理解レベルであった。ほとんどの平民は、天皇に対して何も関心を示さなかったのである。
武門が天下を掌握し、その後の徳川幕府時代を通じ、天皇という存在は幾重にも囲まれた御所奥深く隠された神秘の中に永くあったから、その存在すら民衆には認識されていなかった。
それが、突然、明治維新を期に国民の前に天皇が君主として顕れたわけで、理解されるための対策が急務であって、それが明治五年四月二十八日に布告された中国地方および西国地方への巡幸計画であった。
この巡幸は、やがて天皇が日本全国を回ることにつながったのであるが、それは一般民衆へ天皇が姿を見せる始まりであり、それは後日に達成した「日本国民にとって厳格かつ慈愛に満ちた天皇」というイメージ像へのスタートであった。
最後にもうひとつどうしても述べたいことがある。それは、天皇がその治世で図らずも若さを露呈させたと考えられる事例である。
明治二年(一八六九)一月五日、参与横井平四郎(小楠)が駕籠で退朝の途次、寺町を過ぎた時、凶徒数人が駕籠を襲い、横井は凶刃に倒れた。
横井暗殺の報せが届いた時、天皇は大いに驚き、直ちに使いを横井のもとに遣わし、事の真偽を確かめさせ、負傷した門弟、従僕等に治療手当て、翌日熊本藩主の細川韶邦(よしくに)に横井を手厚く葬るよう命じ、祭資金として特に三百両を賜った。
この明治天皇の敏速かつ心温まる措置は、後年、横井以上に親しい存在だった人達が暗殺された時に見せた天皇の冷静さ、それは個人的な感情は絶対に見せなく、公平無私な態度を貫くことが天皇である、ということを示す行為とはいかにも対照的であって、横井暗殺時の対応は若さがそうさせたと考える。
しかし、横井小楠は偉大な人物であったのは事実で、勝海舟は、維新後にこんなことを言っている。
「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲 だ」「横井の思想を、西郷の手で行われたら、もはやそれまでだと心配して居たに、果たして西郷は出て来たワイ」(勝海舟全集21「氷川清話」講談社)
この横井が何故に暗殺されたのか。捕まった犯人達は以下のように述べている。
「横井は外国人と通じ、キリスト教を日本に流布させようとした軽蔑すべき売国奴である」「暗殺者の一人上田立夫が特に激怒したのは、横井が洋服を着て外国製の帽子をかぶり、築地の外国人地区を散策していたのを目撃したからだった」(明治天皇 ドナルド・キーン著 新潮社)
言うまでもなく、横井の意図するところは日本人をキリスト教に改宗させることは全く考えていなかった。もともと横井は熱心な儒学者であった。だが、実学へと転向し、洋学輸入の奨励、すなわち西洋の経済思想、政治思想を取り入れることに気づいた点で、当時の思想家として希有の存在だった。
「横井にとってキリスト教は、いわば実用主義ないしは合理主義を支える倫理のようなものだった。西洋の科学技術ならびに経済力と、キリスト教との間に密接な関係があることを見出した点で、横井は後年の日本の思想家より洞察力に富んでいた。つまり横井は、近代性とその裏にひそむ倫理との関係を理解したのである」「横井は、普遍的な平和と友愛の観念を説くまでに至り、一種の『一つの世界』説を提起したのである」(ドナルド・キーン)
徳川時代末期に生きた武士達は、いずれも儒教の教育を受けていた。横井もそうであった。しかし、暗殺犯の儒教と、横井の儒教では、時代の動き変化を理解し、取り入れたかどうかに、その差があった。儒教を狭く考えるか、広く考えるかということに通じ、それが横井暗殺犯の処刑が、一年十カ月後になされた背景にもつながっていた。
暗殺犯は福岡藩邸に監禁されたが、暗殺犯はやがて、藩邸内で同情の対象となった。福岡藩主は下手人に寛大な処置がとられるよう請願し、他にも藩邸内で特赦を嘆願する者が多かった。
これは明らかに明治新政府の開化された外観とは裏腹に、昔ながらの外国人嫌いが根強く残っていることを示したもので、儒教精神を持った国民が、世界に視野を広げることが如何に難しいという実態を顕していると判断できる。
この横井を師としたのが元田永孚であって、明治四年(一八七二)五月、明治天皇の侍読に就いたのである。
元田の侍読は、大久保利通の強い推薦によって決定した。当時、天皇の新しい侍読を探していた大久保は、元田の書いた建白書を見る機会があった。この建白書は、熊本県藩知事の意見として朝廷に提出された草案文であった。
「維新に際して天子のお膝もとで凶徒が暴威をむさぼるのは、すなわち朝廷の威光が発揮されていないからである。朝廷の威光が発揮されないのは、王政が実際に行われていないからである。願わくば今後は、天皇陛下が南殿(紫宸殿)に臨席し、その御前で諸大名が奏議し、その公儀を採用して天皇自ら裁断を下すならば、公明正大の政治が行われ、人心も始めて感服することになるだろう。地方に中央の政治教化が及ばないのは、地方官に人を得ていないからである。適宜人材を登用し、広く全国に政治教化を徹底させるべきである。自分のように世襲で地位を得た知事は排除されなければならない。よって、自分はここに謹んで罷免を請願する」
元田の提言の一つは、立法に関する議論は天皇の前で行い、天皇が裁断すべきというものであり、その後の明治天皇が閣議その他多くの会議に熱心に顔を出したのは、元田の感化によるものではないかと思われる。もう一つの提言要旨は、要職官吏の世襲はやめるべきという、この当時では思いきった意見であって、この建白書が大久保のところに渡って、大久保は熊本県知事に元田の人物像を問いただしたのである。
答えは「果たして元田がその任に適するかどうかはわからない。しかし、その人物は間違いなく保証する」であり、この推挙によって元田が侍読に就任したのである。
この元田永孚に対する明治天皇の信任は厚く、政府の重臣達も元田のことは無条件に認めていた。推薦者である大久保利通は、めったに他人をほめないが「この人さえ君側に居れば安心だ」と言い、副島種臣は「君徳の大を成すに一番功労のあったのは元田先生である。明治第一の功臣には先ず先生を推さねばならん」と言った。(ドナルド・キーン)
この元田が最もよく知られているのは明治二十三年(1890)、「教育勅語」の作成に関与したことであるが、その教育勅語の第一次草案を書いたのは中村正直(敬宇)である。
中村は明治三年(一八七〇)、サミュエル・スマイルズの『Self Help』を『西国立志篇』(別訳名『自助論』)で出版、100万部以上を売り上げ、福澤諭吉の『学問のすすめ』と並ぶ大ベストセラーとなった人物である。
この中村の草案は、ついに陽の目を見ず、次に書かれた元田と井上毅案とが折衷されて教育勅語が完成されたと言われている。
この教育勅語と鉄舟の関係が、巷間、論議されることがある。その理由は、鉄舟が明治二十年(一八八七)に自宅で「武士道講話」を行い、この講和の聴講者に中村正直と井上毅もいて、教育勅語に鉄舟の発想が組み込まれているというものである。この件については後日の課題として検討したいが、元田と鉄舟は明治天皇の侍読と侍従として、お互い十分に理解しあっていただろう。
司馬遼太郎が、明治天皇の好きな人物として「山岡鉄舟、元田永孚、西郷隆盛、乃木希典」(司馬遼太郎対話選集4 近代化の相克)を挙げているように、鉄舟、元田共に信頼厚き関係だったが、侍読とは、天皇の側に仕えて学問を教授する学者のことであり、その職務は明快であるが、侍従という職務は漠然としていてよくわからない。
その上、侍従という立場を経験した人物はほんのごく僅かで、特殊な職業であるから、簡単には侍従について解説できない。
だが、この侍従という職務を検討しないと、江藤淳がいう鉄舟は明治天皇の「扶育係」(勝海舟全集11巻 講談社)であるという実態に辿りつけないだろう。
そこで、侍従を経験した人物の著書から、その職務内容を推定してみたいと思う。
昭和天皇の侍従であった入江相政著として「侍従とパイプ」(昭和三十二年 毎日新聞社)と「城の中」(昭和三十四年 中央公論社)があるので、ここから侍従職とは何をするものかを検討してみたい。
最初に、「侍従とパイプ」に興味深い記述があるので、侍従職検討に直接結びつかないが、巡幸時の宿泊場所について紹介したい。
明治天皇は一般民衆へ姿を見せる目的から巡幸が始まり、昭和天皇は戦後の国民慰撫目的から巡幸がなされたが、その際の宿泊場所はどこであったのか。
「いったい御旅行の時に、陛下が宿屋にお泊りになるということは、戦前にはなかったことである。まだ皇孫さまのころ、したがってごくお小さいころ、修善寺の菊屋にお泊りになったのが、たった一つの例外というのだから」
とあるように昭和天皇は、明治天皇の孫の時、つまり、明治時代に一度だけ宿屋に泊った経験のみであり、ここから推定すると明治天皇も宿屋には泊らなかったと思われる。
では、どこに宿泊されたのか。それを明治神宮発行の「代々木 聖蹟を歩く」から見てみたい。代々木の平成二十四年新年号で、明治十一年(一八七八)九月十五日に新潟県へ巡幸された様子が以下のように記述されている。
「雨の中、地元有志の尽力によって開削された新道を通って、天皇は彌彦神社を目指されました。弥彦行在所(五十嵐邸)は、彌彦神社のすぐ前です。現在、跡地の美しい庭園には記念碑が残されています」
このように宿泊された施設は、その土地の素封家と思われる一般人屋敷や、小学校であり、宿屋には宿泊されていない。現在は、ホテル・旅館が主であるから、昔はとは状況が随分異なっている。
さて、侍従という職務において、天皇と関わりと思われる記述を拾ってみた。
1.昭和十年の夏のことである。そのころ世間は少し異常であって、皇室に関することで、なにか失言したりすると、すぐ不敬よばわりをされ、そのために地位を失ったりすることがしばしばだった。とろがこの根元のような君側においては言論の自由は徹頭徹尾保たれていた。太平洋戦争中もそれは完全に保たれていて、吉田元総理が憲兵隊につかまったころも(注 昭和20年4月)、われわれは敗戦必至を論じて合ってはばからなかった。(侍従とパイプ)
2.私たちは、陛下とお話をする時にも、なにもそんなに、大袈裟な語法を使いはしない。第一そんな特別な語法が、日本語の、ことに口語にあるわけもないし、それに敬語というものは、さあそれではこれからひとつ使うことにしよう、というような性質のものではないのだから。私はだいたい、私にとって大事な、老先生と話す時のと、あまりかわらない言葉でお話ししている。(侍従とパイプ)
3.昭和十年の暮に、経済視察団がブラジルから帰って来た時、その団長のH氏の進講があった。話がいちおう終わったところで、陛下がいろいろおたずねになったら、H氏は「そんなこというたかてあんた、ブラジルのような広い国では・・・」とやった。つまり土地の広さがけたちがいなので、陛下の御質問のようなことは、ブラジルにおいては問題にならない、というわけなのだが「そんなこというたかてあんた」という天衣無縫の表現の美しさは、陛下もふくめたその一座を強く打ったもので、それゆえに私も今もってその時の楽しさを忘れることができない。こういうことをだんだん考えてくると、敬語法というものよりもっと手前に、あるいはもっと上に、より大切なものがあるわけで、当然のことだが、誠意とか親愛感とかいうものが、満ちあふれていさえすれば、敬語法などというような瑣末な手続は、どうでもいいということになる」(侍従とパイプ)
4.二十何年の間には、御意見と意見が合わなくて、激論になったこともある。陛下も元来非常に大きな声だし、私も決して小さいほうではない。わきで冷静にきいていたら、さだめし相当な騒音だっただろう。私はほとんど遠慮なんかしていない。ずいぶんふてぶてしいやつだとお思いになったろうし、今でもおもっていらっしゃるかもしれない。しかしそういうことがあっても、全くただその場かぎりのことで、後までひっかかりになったようなことは一度もない。(城の中)
これによると侍従とは、特に決まった業務があるわけではないが、常に天皇と親しく接し、遠慮なく天皇に物事を発言できる職務であることがわかる。
それと天皇は、直言を受け入れる度量の大きさをお持ちであったことがわかるが、驚くのは昭和二十年四月時点で、侍従が敗戦必至を唱えていたことである。これの意味するところは、玉音放送の数か月以上前から、ご聖断の覚悟があったことへつながるだろう。
侍従に定まった業務がないことは、鉄舟の内弟子だった小倉鉄樹著「俺の師匠」(島津書房)に、鉄舟が宮内省を辞めた明治十五年五月に
「これで伸々した。宮内省にいたって何の用もないのだ」と述べ、さらに、
「陛下は色々の事についてよく臣下と御議論なされた由であるが、其の折阿諛(あゆ)迎合する者を、お嫌いになり、假令(たとい)どんなにお言ひ負けになっても、それがために其の臣下を遠ざけられるようなことはなかった由に拝聞する」とある。
また、渡辺茂雄著「明治天皇(時事通信社)」では、侍従である高島鞆之助の回想として「天皇の御身辺には、いつも剛健廉直の士風をもって忠勤をはげんだが、中でも山岡鉄太郎のごときは誠忠無比の士で、ことに少年時代から心身を錬磨しているので、躬行(きゅうこう)もって君に善をすすめることを以て臣子の分とこころえ、直言してはばかるところがなかった」とある。
この中で「躬行もって」とあることに注目したい。「躬」は自分でという意味であり、「躬行実践」とも言うが、どんなに立派なことを言っても、実践躬行が伴わなくては人がついて来ないという意味である。
鉄舟がその生涯をかけて追究したのは「剣の道」であって、「剣の道」を通じてその人間の完成である大悟境地に至り、明治二十年の「武士道講話」につながったのであるが、この講和の最初で次のように述べている。
「拙者の武士道は、仏教の理より汲んだことである。それもその教理が真に人間の道を教え尽くされているからで、これらの道を実践躬行する人をすなわち、武士道を守る人というのである」
では、この実践躬行する鉄舟はどのようにして明治天皇を扶育したのか。そのためには明治五年以降の明治天皇治世の分析が必要となる。次号に続く。
2013年04月26日
明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の四
明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の四
天皇という存在や制度について、極力ふれないというのが司馬遼太郎の方針であるが、山崎正和との対談では明治天皇をテーマに取り上げ、その中で鉄舟について語っている。(司馬遼太郎対話選集4 近代化の相克)
「あの人(明治天皇)の好きな人は、山岡鉄舟、元田永孚(えいふ)(注 ながざねともいう)、西郷隆盛、乃木希(まれ)典(すけ)で、きらいなのは山県有朋、黒田清隆です。要するに男性的な人物が好きだったようですね」
また、別の講演の中でも次のように語っている。
「山岡鉄舟はミスター幕臣といってよい存在でした。非常に立派な人で、侍の鑑というような感じだった。たいへん自律的な、自分を完全にコントロールできた精神の人です」
さすがに司馬遼太郎の鉄舟像は正鵠を射ている。
明治天皇と鉄舟の縁は、明治五年(1872)六月に侍従となったことからはじまり「天皇は、多くの賢臣から薫陶を受けている。しかし、統治や統帥、知性や教養の全体を覆うバックボーンは、西郷隆盛や、その推輓(すいばん)で侍従となった幕臣、山岡鉄舟の存在に負うところが多いのではないか」(山内昌之東京大学教授)といわれるように、明治天皇に対する貢献は大きいと思われるが、それを具体的かつ客観的に解説することはかなり難しい。
つぶさに今まで世に出ている鉄舟関連諸資料を検討しても、明治天皇の輝かしい名声に見合う業績に、鉄舟が具体的に関与していたという証拠になるものは少なく、伝説的な逸話が殆どである。
また、2012年2月1日、NHKで放映された「歴史秘話ヒストリア」でも、天皇と相撲をとったことと、アンパンを献上した件が「明治天皇教育」のエピソードとして紹介されていたが、これで明治天皇への貢献が十分説明できたのか、疑問が残る。
したがって、これから展開していく「明治天皇業績への貢献」に関与する鉄舟の検討は、今まで誰もが取り上げていない難しいことへの挑戦であり、それだけに研究アプローチを妥当に採らねばならないと思っている。
そこで、まず、最初は、鉄舟が侍従になる前の明治天皇と、明治五年六月以降の天皇について、その変化を分析してみることからはじめたい。変化の内容を確認することで、明治天皇への鉄舟の関与を検討してみたいからである。
明治五年までの明治天皇については、以下の五項目から検討整理してみる。
① 少年時代の天皇
② 天皇即位
③ 東京への遷都
④ 海外事情の把握
⑤ 侍読、元田永孚の影響
初めは① 少年時代の天皇である。
十五歳で天皇になられた当時について、いくつかの資料から確認してみたい。
最初は、慶応四年(1868)閏四月一日、イギリス全権公使のハリー・パークスを、大坂の東本願寺別院で引見した際のアーネスト・サトウの記述である。
「ハリー卿が進み出て、イギリス女王の書翰を天皇(ミカド)*に捧げた。天皇は恥ずかしがって、おずおずしているように見えた。そこで山(やま)階宮(しなのみや)の手をわずらわさなければならなかったのだが、この宮の役目は実は天皇からその書翰を受取るにあったのである。また、陛下は自分の述べる言葉が思い出せず、左手の人から一言聞いて、どうやら最初の一節を発音することができた。すると伊藤(注 伊藤博文)は、前もって用意しておいた全部の言葉を翻訳したものを読みあげた」(明治天皇 ドナルド・キーン著 新潮社)
この明治天皇に対するサトウの描写は、まだ十分に慣れていない状況に直面した少年君主の神経過敏な様子を伝えている。
なお、パークスを謁見した場所は京都御所ではないことに注目したい。明治天皇はそれまで御所以外を体験したのは、幼年時代、蛤御門の変の砲弾を避け、前関白の近衛忠煕によって連れ出された鴨の河原だけであった。
戊辰戦争親征の途とし、大坂に向かったのは三月二十一日、官軍の最高司令官の立場からで、三月二十三日に大坂の東本願寺別院を行在所にした。
この御所を離れた意義は高かった。パークスだけでなく、この当時の政局を動かしている維新の志士たちが拝謁できたからである。御所内に止まっていては古いしきたりが壁となって、謁見は難しかった。
西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允などの維新を担う武士達は、それまで誰も直には天皇に拝謁したことがなかった。伊藤博文のみは通訳という立場から身近に出られたが、その他の中心人物たちは明治天皇を全く知らない。
いったい、新天皇はどういう人物なのか。折角、徳川幕府を倒して新政府をつくったが、天皇の器量によってはおぼつかないことになる。これが維新を進めた当時の中心武士層の最大関心事であった。
その中で最初に拝謁できたのは大久保利通である。同じ年の四月九日、東本願寺の行在所で明治天皇御前に召された際の日記に次のように書いている。
「余一身の仕合(しあわせ)*、感涙の外これなく候。・・・藩士にては始めての事にて、実は未曾有の事と恐懼(きょうく)奉り候。二字(二時)ごろより・・・大飲に及び相祝し候」(ドナルド・キーン)
大久保は嬉しさのあまり、同藩の仲間と祝杯をあげ
「おい、みんな安心しろ。玉は大した方だ。前途多望な若様でいらっしゃる。浮世絵の殿様のように、ぞろりとしておられるのではと、心配したら大ちがい。色が浅黒く、ずんぐりと肥えて、熊の子のようにたくましくあられる。きたえようで、きっと大物になられる」と述べたという。(明治天皇 木村毅著 文芸春秋)
さらに、横井小楠は、同年五月二十四日に家人に宛てた手紙で、天皇に拝謁した時の印象を次のように記している。
「御容貌は長が御かほ、御色はあさ黒くあらせられ、御声はお(ママ)きく、御せ(背)もすらりとあらせられ候、御気量を申しあげ候へば、十人並にもあらせらるべきか。唯々、並々ならぬ御英相にて、誠に非常の御方、恐悦無限の至に存じ奉り候」(ドナルド・キーン)
サトウの記述は別として、維新の志士達が直に拝謁し「今度の天皇はなかなかおエライぞ」という自己判断をしたことが、その後の新政治を進める上でのエネルギーになったことは間違いない。
その意味で明治天皇は、英邁君主としての素質を少年時代から持っていたといえる。さらに、天皇の記憶力は抜群であった。
「宮中の種々なる儀式、典礼、其他歴史の事実に至るまで、一として御精通遊ばされざる事なく、微々たる者までも一度拝謁を賜ひし者は、決して其名を御忘れ遊ばすと云ふ事がない」と後に海軍中将有地品之允が語っている。
この天皇の記憶力については、昭和天皇も抜群であったと侍従であった入江相政が述べている(城の中 入江相政著 中央公論社)ので、天皇としての素質のひとつだろう。
このように天皇としての素質面では問題なきことが確認されたが、まだ若き時代であり、君主としての天分発揮は当然に後日になる。
② 天皇即位
慶応四年八月二十七日、明治天皇の即位の礼が執り行われた。当初は前年十一月に予定されていたが、国内情勢不安定のため大がかりな式典の挙行を先に延ばしていた。
この即位礼の儀式の様子は「明治天皇紀」に、ぎっしりつまった活字で五ページ以上にわたり極めて詳細に記述されている。
ところで、この儀式には古来の伝統にそぐわない新しい試みが成されていた。神祇官判事の福羽美静が建言したものである。それは地球儀を即位の中心に据えることであった。この地球儀は徳川斉昭(水戸烈公)が孝明天皇に献上したものであり、その意図は孝明天皇が世界の大勢に関心をもたれるように仕向けることであったが、この地球儀が即位大礼の中心に据えられたという意義も高い。攘夷思想を排除し、外国との関係強化を、新時代の中心にすることを明確に示したものである。
また、即位の大礼の前日、天皇と国民との間の絆を強める措置として、天皇の誕生日である九月二十三日を国民の祝日とし「天長節」と定めた。「天長」とは「天長地久」という熟語からで、天地が永久に続くごとく、天皇の長久を願う意味である。
天皇の誕生日を祝日にする歴史としては、すでに宝亀六年(775)に見られたが、この慣例は長年にわたって中断されていたものを復活させたのである。
なお、天長節は、明治六年(1873)に太陽暦が採用されて以来、十一月三日と定められた。
九月八日には、年号が慶応から明治に改元され「一世一元の制」が定められた。なお、明治元号の出典は前号で述べた通りであるが、これで初めて明治時代という新しい世が正式にスタートしたのであるが、これらの変化について少年天皇が自ら意志を表明し、意図的な指示をしたという記録はない。
③ 東京へ遷都
江戸から東京への名称変更は八月四日に「海内一家東西同視」という配慮から「東の都」として東京が命名されていた。
その東京への遷都は簡単には決まらなかった。理由はいろいろあった。一番の理由は、八月十九日の榎本武揚率いる幕府軍艦脱走であって、東国が鎮圧されていないため時期尚早というもの。
二番目の理由は財政難であった。東京行幸には莫大な費用がかかるが、その手当てがなされていない、とういうより官軍にはお金がなかった。それに加えて、京都市民からの危惧である。京都から東京に正式に遷都されるのではないかという不安で、その心配に対し遷都ではなく行幸であると発表されていた。
しかし、この当時の東京は寂れていた。それをサトウは次のように表現している。
「出入りの商人や商店主がこれまで品物を納めていた諸大名は、今やことごとく国もとへ立ち退いてしまったので、人口も当然減少を免れなかった。江戸は極東(ファーイースト)*の最も立派な都市の一つであったから、それが衰微するというのは悲しいことだった。江戸には立派な公共建築物こそないが、町は海岸に臨み、それに沿って諸大名の遊園地が幾つもあった。城は、素晴らしく大きな濠をめぐらして、巨大な石を積み重ねた堂々たる城壁を構えていた。絵のように美しい松並み木が日陰をつくっており、市の中にも田舎びた所が多く、すべてが偉大という印象を与えていた」(一外交官の見た明治維新・下 アーネスト・サトウ著 岩波文庫)
東京遷都の発案者である江藤新平は、旧幕府軍艦を恐れて天皇の東幸が延期されれば、新政府は信を内外に失うばかりでなく、将軍と諸大名が去った東京は寂れ果て、江戸市民は主人を奪われたも同然の思いをしており、一日も早い東京行幸が必要だ、という力強い雄弁に加えて、大久保利通の賛成と、岩倉具視の政治的判断があわさって、問題のお金は幸いにも大半を、三井次郎右衛門を始めとする京大阪の富商が請け負ったことから、九月二十日に天皇は東京へ出発した。岩倉具視、中山忠能、伊達宗城、池田章政(岡山藩主)、木戸孝允を筆頭に、供は三千三百余人にのぼった。
この大掛かりの東京行幸中、天皇はどのような行動を民衆に示したのだろうか。明治天皇紀に記されているいくつか紹介する。
熱田近くで米を収穫する農民から稲穂を取り寄せ、農民に菓子を賜り、その労をねぎらったり、静岡沿岸では始めて太平洋を見たり、大井川では天皇のために板橋が架けられて渡り、富士山を仰ぎ見て、箱根越えし、東京に入ったのは十月十三日で、最初の休憩は芝高輪で「では、泉岳寺はこのあたりであるな」と赤穂浪士討ち入りに関心を示した。
天皇を迎えた江戸市民であったが
上方のゼイ六どもがやってきて、
トンキョウなどと江戸をなしけり
と、東京への改称が気にくわない落首を書き
上からは明治などというけれど、
治まる明(おさまるめい)と下からは読む
と、年号変わりに対する落首など、これが当時の東京市民の気持ちを表していた。
そこで、十一月四日、天皇は東京行幸の祝いとして東京市民に大量の酒をふるまった。下賜された酒は、約二千九百九十樽で、加えて、各町に錫(すず)瓶子(へいし)(銀製の徳利)とするめが下賜され、市民は二日間にわたって家業を休んで楽しんだ。
この振る舞いに対する、漢詩人・大沼枕山の七言絶句である。
「天子遷都寵(ちょう)華(か)ヲ布ク 天子が遷都し寵華を賜った
東京ノ児女美花ノ如シ 東京の子女は花のごとく美しい
須(すべから)ク知ルベシ鴨(おう)水(すい)ハ鷗(おう)渡(と)ニ輸スルモ 鴨水が鷗渡に及ばぬことを知って
多少ノ簪(しん)紳(しん)家ヲ顧ミズ 公家たちは家のことなぞどうでもよくなった
「寵華」とは天皇が賜った酒のこと、「鴨水(京都の鴨川)」は今や、京都の公家たちにとって「鷗渡(東京の隅田川)」ほど魅力がなくなり、先祖伝来の京都の家を忘れてしまった、というのである。(ドナルド・キーン)
酒を振る舞うなどの融和策発案は、少年君主には難しいのではないかと思われ、側近たちの考えからであろう。
④ 海外事情の把握
維新の志士達が直に拝謁し「今度の天皇はなかなかおエライぞ」という自己判断をしたことは既にふれた。そうなると天皇の教育への関心が一層高まる。
それまでの教育は、中国や日本の古典の学習、それと馬術である。天皇が乗馬に対する興味に目覚めたのは慶応三年であった。女官に囲まれて育った身体を鍛えるためだったが、以来、天皇は乗馬に憑かれたように熱心になった。これについては後で詳しくふれることになる。
新しい時代の君主たるべき教育として、明治四年(1871)に教科科目に「西国立志伝」の講義が加わった。これはサミュエル・スマイルズの「自助伝」(Self-Help)の翻訳である。
さらに原書講読としてドイツ語を始めるにいたった。講師には独学でドイツ語を学んだ加藤弘之が選ばれた。当時、日本にはドイツ語の教科書はなく、美濃紙に木版刷りでつくった。その挿絵を見られたい。(木村毅著)
これを筆者が訳すると
ドイツ語授業 第一課
天皇―日本帝国アカデミー
ドイツ語 初級用
大学 ナンコウ
江戸 1870年
となるが、このDaigaku Nankόとは、南殿のことではないかと考えられる。つまり、紫宸殿のことであり、紫宸殿とは内裏において天皇元服や立太子、節会などの儀式が行われた正殿のことで南殿、前殿ともいわれる。
なお、江戸をJedイエドと書いてあるのは、当時の外国人が日本人の発声から聞いて、それをローマ字で当てはめていたからで、長崎についてもNangasakiナンガサキと綴っていた時期があったことから分かり、加藤弘之もそれに従ったのであろう。
外国の皇族との交際も行われるようになってきた。明治二年九月、イギリス・ヴィクトリア女王第二王子のエジンバラ公が来日し皇居内で会見された。
さらに、外国事情の入手のひとつとして明治二年十一月、徳川慶喜の弟である水戸藩主の徳川昭武に謁を賜った。一年間のフランス留学から帰国した昭武に、天皇は外国事情を尋ねたのである。昭武の報告は天皇にとって未知のものであった。それ以来、天皇は昭武を頻繁に召している。
これは外国事情の把握であり、明治天皇が自らの意志として行動されたことは、新時代の君主として、攘夷から開国へ踏み切った姿を明確に示している。
⑤ 侍読、元田永孚の影響
侍読として最も重要な存在である元田永孚は、明治四年五月に初めて天皇の御前に伺候した。既に五十二歳となっていた。
元田永孚は文政元年(1818)、熊本で生まれ、家系は中流の武士階級で、二十歳になるまで横井小楠など多くの学者に学び、朱子学の学者として、熊本藩主細川護久の侍講として仕えたが、藩重臣の推薦と、三条実美の承認を得て、天皇の侍読に選ばれたのである。
元田への天皇の信任は厚く、明治天皇に多くの感化を与えたといわれている。特に、晩年の明治天皇が示した態度を分析すると、幕末時代に佐久間象山が唱えた「東洋の道徳と西洋の科学の結合」が特徴づけられると判じているが(ドナルド・キーン)、これは元田からの影響が大きいと思われる。
この元田については、鉄舟の侍従との関連で次号でもふれたい。何故なら、元田は侍読、鉄舟は侍従、その職務が異なり、侍読は天皇に学問を講義する立場であり、その意味である程度明確な役割であるが、侍従とは何をもって仕える職務なのかよくわからない。そのところを整理しないと鉄舟の明治天皇への貢献検討を進めることが出来ない。
さらに、侍従という立場を経験した人物はほんのごく僅かで、特殊な職業であるから、検討には一工夫の必要があると思っている。次号へ続く。
明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の三
明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の三
慶応から明治へ、一世一元の改元は、明治天皇が即位した慶応四年(1868)八月二十七日の翌月九月八日になされた。この「明治」という出典は「易経」の中に「聖人南面して天下を聴き、明に嚮(むか)いて治む」という言葉の「明」と「治」をとったものである。聖人が南面して政治を聴けば、天下は明るい方向に向かって治まるという意味である。
この元号提案者は松平春嶽(慶永)とも、または、清原(儒学の家柄)、菅原(学者の家系)両家堂上の勘文、これは朝廷の質問に答えて吉凶を占って提出する意見書であるが、その中の二・三の候補から、籤によって選んだともいわれている。いずれにしても、この明治という改元によって封建時代から近代化へ、日本は見事に変換したわけで、改元は大成功であった。
さて、明治天皇がどのような天皇であられたのか。勿論、明治時代の治世者として偉大な業績を遺されたのであるから、その業績の数々を具体的に挙げるのは簡単だろうと思われるが、これが意外と難しい。この難しい理由は後ほどとし、まずは、明治天皇がいかにバランスのとれた君主であったかを三つの側面からお伝えしたい。
最初は人格面である。明治15年(1882)にチャールズ・ランマン(日本公使館勤務)がその著書「Leading Men of Japan」で次のように書いている。
「ヨーロッパの君主や王族の多くと違って、明治天皇は放縦に身をまかせるということがなく、もっぱら精神を教化することに喜びを見出している。知識を求めるにあたって労を惜しまず、個人的不自由も厭わない。まだ若いにも拘らず(注 当時二十歳)、枢密顧問官の会議には頻繁に出席する。(中略)行政部門をよく訪れ、天皇の出席が望ましいあらゆる公務にも常に顔を出す。科学や文学にいそしむ一方で、専門的な研究に毎日数時間をあてるなど自分を厳しく律する習慣を持ち、それに厳格に従っている。性格においては賢明、断固たる決意の持主で、進歩的かつ向上心に燃えている。治世の最初から天皇のまわりには帝国きっての賢い政治的指導者が配され、これが当然のことながら天皇自身の成長にも役立っている。かくして今世紀の日本の王冠は、偉大なる尊敬に値する人物の上に輝いている」続けて「偏見から自由で、国家の繁栄の増進に有益と思われるあらゆるものを外国から採り入れる熱意ある向上心のある持主」と称え、ピョートル大帝に驚くほどよく似ていると明言している。(明治天皇 ドナルド・キーン著 新潮社)
ピョートル大帝(1672~1725)とは、ロシアのツァーリ。スェーデンとの戦争で勝利し、ヨーロッパ大国の地位を確立し、バルト海への出口を獲得、ここに新しい首都サンクトペテルブルグを建設し、国家名称をロシア帝国に昇格させ、ロシアを東方の辺境国家から脱皮させたその功績は大きく「ロシア史はすべてピョートルの改革に帰着し、そしてここから流れ出す」とも評されている人物である。
しかし、ドナルド・キーン氏は同書でランマンに異論を唱える。
「人格の上でこの二人には類似するところなぞ何一つなかった。片や粗暴で残忍とさえ言えるロシアの君主、片や誠実で極めて控えめな日本の君主である」と。
このように人格面ではピョートル大帝を否定しているが、ランマンは国家を近代化へ導いたという業績、その共通性をもって、似ていると評したのであろうと推測する。
次は、明治天皇の文化的素養である。これも外国からの評価から紹介したい。
明治天皇崩御のとき、各国のマスコミは挙げて業績をたたえ、哀悼の意を表しているが、ドイツのアンツァイゲル紙は「日本天皇の詩的宮廷」と題し、歌道に深い教養をお持ちと伝えている。(明治天皇 渡辺茂雄 時事通信社)
「そもそも日本における古来の伝統は、今日のような現代的な社会にあっても、なおその勢力を維持し、『ミカド』の宮廷をして、ミューズ(詩神)の居所たらしめ、天皇の宮廷は、あたかもトルバドール派詩人の時代におけるルネーの宮廷のごとく、いずれもみな詩人にして、詩歌をもって談話するも、廷臣にとっては決して不自然とは思われない・・・」
明治天皇は「幼少よりきわめて健康で活発な少年であり、いじめっこの風貌さえあり、相撲も一番強かった」ので、父君孝明天皇は万一行きすぎることがあっては、という心遣いから六歳の時に「今日から毎日歌をつくるように―――歌はたけき心をなごやかにするものだ」と仰せになり、その時から毎日孝明天皇に歌を差出して添削を受け、孝明天皇崩御後も歌道に励み、その生涯に十万首に及ぶ和歌を詠んでいる。
明治二年(1869)の歌会始第一回では、華族や役人のみの歌であったが、明治七年(1874)には一般国民の歌も募られるようになり、そのうちの優れたものを選歌にするようになったのは明治十二年(1879)からであった。
平成二十四年の歌会始は一月十二日、皇居・宮殿「松の間」で行われた。今年のお題は「岸」で、天皇、皇后両陛下や皇族方のお歌のほか、1万8830首の一般応募(選考対象)から入選した10人の歌が、古式ゆかしい独特の節回しで披露された。天皇陛下のお招きで歌を詠む召人は詩人・小説家の堤清二さんが務めた。
天皇陛下は2011年5月6日に東日本大震災のお見舞いで岩手県を訪れ、ヘリコプターで釜石から宮古まで移動した際に、上空から見た被災地の印象を詠まれ、皇后陛下は、俳句の季語を集めた歳時記に「岸」の項目がないことをとらえ、季節を問わずに、あちこちの岸辺でだれかの帰りを待つ人たちに思いを馳せられたという。
ドイツのアンツァイゲル紙が「日本天皇の詩的宮廷」と述べたのは、このように国民との結びつきを高く評価したのである。
また、明治天皇の和歌について、昭和を代表する二人の歌人が次のように高い評価をしている。まずは、北原白秋である。
「歌聖としての明治天皇は、その御風格において、まことに大空のごとく広大であらせられた。いかにも帝王の御製であり、御歌柄であらせられた」
斎藤茂吉も次のように述べている。
「明治天皇は和歌を好ませたまひ、且つ歌聖にましました。その歌詞の堂々たる、御心のままの直ぐなる、さながらを詠じたまひて、豪(すこし)も巧むことあらせられず、これ御製の特色と拝察したてまつるのである」
これらの発言は、明治天皇の和歌を通じた文化的教養の高さを証明するものであろう。
三つ目の側面は、江藤淳氏が言う「軍服を召した、けいけいたる眼光を光らせる写真」、つまり、前号で紹介したヒュー・コータッツィがいう、エンペラーとはラテン語のエンペラート「軍を率いる者」が語源であるが、それにふさわしい軍人としての一面である。実は、明治天皇は戦争に格別の関心を寄せている。
「天皇は、この戦争(普仏戦争1870年7月~71年5月)に格別の関心を寄せた。陸軍士官だった高島鞆之助は、回想している。天皇は、手元に届いた普仏戦争の戦況報告をつぶさに調べ、両軍が採った戦略について、しきりに侍臣たちに質問を浴びせたものだった、と。高島によれば、この戦争が終って間もなくドイツの軍隊が横浜港に寄稿した際、艦長は天皇に一枚の写真を献上した。それは普仏戦争の写真で、『砲烟天に漲り、殺気大空に満ちて一見血湧き肉踊る物凄さ』を写し出していた。ドイツ海軍士官の艦長は、よろしければ写真について説明いたしましょうか、と申し出た。天皇は直ちに許可を与えた。写真が撮影された日の両軍の戦略はもとより、戦争の結末に到るまで天皇は非常な興味をもって説明に耳を傾け、『龍願殊の外麗しく御聴取りになった』と、高島は書いている」
「天皇は明治五年(1872)四月七日、ドイツ弁理公使から普仏戦争凱旋祝祭の写真の説明を受けている。言うまでもなく、天皇が一外国人をこのような目的で御前に召すなど前例のないことだった」(明治天皇 ドナルド・キーン)
普仏戦争でフランスが敗れたことから、それまで日本陸軍はフランス式を採用していたが、この時以降、日本陸軍はドイツ方式を導入した。明治天皇の普仏戦争に対する情報収集分析結果が影響したと考えるのは容易である。
しかし、践祚されたころは、おはぐろをつけて薄化粧していた少年天皇であったわけで、その変化は国家君主として、軍の統率者として、その適性が十分あることが推測できるであろう。
このように明治天皇は、人格的にも、文化的にも、国家君主としても、バランスのとれた治世者であったことが各方面からの証言で認識できるが、そのような治世を成すには封建時代と一線を画す環境変化が前提要件として必須であった。その必須変化を招いたものは二つの改革、廃藩置県であり、これと同時に成された宮廷改革であった。
廃藩置県について、伊藤博文はその成果を欧米視察団として赴いたサンフランシスコで次のように演説している。
「数百年のあいだ強固に成立していた封建制度が、一発の弾丸も放たず、一滴の血も流さずに、一年のうちにとりはらわれた。世界のどこの国で戦争しないで封建制度を打破したであろうか」と。
確かに、このように大見得きった通りで、廃藩置県によって、個々の領地を治めていた大勢の封建領主を辞めさせ、代わって明治天皇が日本国で唯一の支配者となったわけで、近代国家への大きな道筋をつけたことは間違いない。
しかしながら、天皇の周りの環境変化も同時になされなければ、既にみたようなバランスとれた君主としての地位を、固められなかったことも容易に推測できるし、恐らく、廃藩置県と同じ月(明治四年七月)に断行した宮廷改革の方が、明治天皇にはより一層大きな影響を与えたと判断している。
改革が実行されるまでの宮廷には、数百年来の前例、旧例、古例という仕来たりが横たわっていて、五カ条の御誓文として「旧来の陋習を破る」という基本方針が出されが、宮廷だけは明治維新を成し遂げた功臣達でも、どうしょうもなく困難で、これでは若き明治天皇への教育が進められないと歎いていた。
木戸孝允は日記で、その必要性を何度も書き述べているし、岩倉具視もまた、若き天皇の周囲に適切な相談相手が必要であることを痛感し、岩倉は三条実美に宛てた書簡の中で「君徳」の培養が肝要であることを強調し、今や維新の初めにあたり天皇は年若く経験に乏しい、ゆえに「輔導の任一日も闕(か)くべからず」と述べ、公家、諸侯、徴士の中から篤実謹厳なる者、器識高遠なる者、または、和漢洋の学識ある者を選抜し、天皇の侍臣ないし侍毒に当てるべきであると勧めている。
この状況について、ドナルド・キーンは同書で次のように述べている。
「この時期まで、宮廷に仕えることが出来たのは堂上華族だけだった。古来からの系統を受け継ぎ、もっぱら先例、格式を墨守するのが彼ら堂上華族の身上だった。天皇が私生活を営む大奥もまた同様に、公家出身の女官が取り仕切っていた。その多くは、前の治世から延々と居残っている者たちだった。これら女官たちは融通の利かない保守主義のかたまりで、天皇に対する影響力を駆使してあらゆる変革の機先を制した。
政府重臣は三条実美や岩倉具視のような公家さえこの現状を嘆き、その改革を試みようとしていた。しかし、数百年来の慣習を一朝にして改革することは至難の業だった」
ここに登場したのが西郷隆盛であった。
「廃藩置県実現のため東京に来ていた西郷隆盛は、今こそ改革の時であると決意した。『華奢・柔弱の風ある旧公卿』を排斥し、『剛健・清廉の士』を天皇の側近に据えるべきである、と西郷は考えた。これを木戸孝允、大久保に謀り、さらに三条、岩倉に進言して英断を迫った。七月四日、決定が下された。薩摩藩士吉井友実が宮内大丞に任じられ、宮内省と内廷の改革の責任者となった.」(同書)
責任者となった吉井友実は、思い切って女官たちを総免職する強硬策をとった。吉井は総免職を申し渡した明治四年八月一日のことを次のように述べている。
「今朝女官総免職、ひるすぎ皇后御小座敷へ出御、大輔萬里(までの)小路(こうじ)*殿お取り次ぎにて典侍以下新たに任命、中には等を下げられた人もあり・・・右おわりて皇后入御、判任官、命婦、権命婦の分は余書付をわたす。これまで女房の奉書などと、諸大名へ出せし数百年来の女権、ただ一日に打ち消し愉快極まりなし」(明治天皇 渡辺茂雄)
さらに翌年五月、再び宮廷改革が実行された。これで典侍以下女官三十六人―――いままで大奥という牙城のなかに勢威をはっていた連中の大部分は罷免されてしまい、爾来、宮中奥向きのことはすべて皇后のもとに統一されることとなり、何百年かつづいた積弊は一掃されたのである。
この結果は、今後は公家であると士族であるに関わらず侍従に任じられることになり、新たに侍従として選ばれたメンバーは以下の通りであった。
鹿児島藩 高島鞆之助 村田新八
長州藩 有地品之允
越前藩 堤 正誼
熊本藩 米田虎雄
土佐藩 高谷佐兵衛
佐賀藩 島 義勇
旧幕臣 山岡鉄太郎
いよいよ鉄舟の登場であるが、これら選ばれた侍従達が明治天皇に大きな影響を与えたことについて、渡辺茂雄が同書で次のように書いている。
「いずれも戦場往来のえりぬきかの猛者ばかり、彼らがあたらしく女官や公卿にかわって君側に奉仕することになったのだから、いままでとは月とすっぽんのちがいである。いかに天皇の周辺が、剛毅闊達の気にみちてきたか、およそ想像できよう」と。
西郷隆盛も宮廷改革について、その成果を叔父椎原與三次に宛て書簡で述べている。
「いろいろ変革が行われた中でも、なにより喜ぶべきことは、天皇ご自身の身辺にかかわることである。これまでは華族でなければ御前に出ることは出来なかったし、たまたま宮内省の官員であっても、士族は御前に出ることは出来なかった。しかし、これらの弊習はとごとく改められ、侍従でさえ士族から召し出されるようになった。公卿、武家、華族の分け隔てなく官員は選ばれることになり、特に士族出身の侍従を天皇は好まれるようで、実に結構なことである。天皇は後宮にいることをひどく嫌われ、朝から晩まで表御殿に出ておられる。和漢洋の学問に励まれ、侍従等と共に会読なされるなど、寸暇もなく修業に打ち込むあまり、服装もこれまでの大名などよりいたって身軽で、勉学の励まれようは人並み以上である。今や天皇は昔日の天皇にあらず、見違えるように意欲的になられたこと、三条、岩倉の両卿でさえ認めている。元来が英邁の質で、極めて壮健であられ、このような天皇は近来では稀であると公卿たちも言っている。天気さえよければ毎日でも馬に乗り、二、三日内には御親兵を一小隊ずつ召されて調練する予定で、今後は隔日に調練をなさるとのことである。大隊を率いて自ら大元帥をつとめられるとの御沙汰があり、なんとも恐れ入る次第で、ありがたいことである」(明治天皇 ドナルド・キーン)
このように西郷の書簡は、見事な明治天皇の変化を書き述べている。
また、東京大学の山内昌之教授は「明治天皇がローマ賢帝との共通性」(2011.3.31)の中で、次のように述べている。
「天皇は、多くの賢臣から薫陶を受けている。しかし、統治や統帥、知性や教養の全体を覆うバックボーンは、西郷隆盛や、その推輓(すいばん)*で侍従となった幕臣、山岡鉄舟の存在に負うところが多いのではないか。宮中を女官中心の内裏の雰囲気から変え、西欧のように武芸から学問にまで通じる活動的な青年君主に育てた人物は、まずこの2人であろう」と。
その通りと思うが、山内教授が指摘する明治天皇への鉄舟影響を具体的に述べるためには、明治天皇という立場の分析、それは当然に今上天皇とは大きく異なるわけで、その解説が必要であり、併せて、他の侍従との違いを検討しないと十分な理解が得られないだろう。
なお、2012年2月1日に、NHKは「西郷隆盛と山岡鉄舟の相棒物語」を放映した。
この放映内容になるほどと思い、同番組で鉄舟の業績を「江戸無血開城」と「明治天皇教育」と見做したことには同意するが、それを聴視者に十分納得できるものに編集していたか、という視点からは疑問を感じる。
特に、明治天皇の業績の数々を具体的に挙げ、それと関わる鉄舟について述べることはかなり難しく、簡単にはいかない作業であるが、その壁にNHKもぶち当たったので、今回の中途半端な放映になったと思っている。
しかし、この検討をしないと鉄舟を妥当に理解できないわけで、次号以下でそのところを掘り下げいきたい。
2013年02月14日
明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の二
明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
鉄舟が侍従として仕えた明治天皇は、その45年間の在位期間を通じ、偉大な天皇であったことは誰もが否定できない事実であろう。
だが、明治天皇が偉大な治世者になられた背景には、当然のことながら素質に加え、様々な要件が重なっていて、その重要なポイントに鉄舟が関わっているのであるが、それに入る前に天皇について理解しておきたいことがある。
「明治天皇」とは、明治時代の天皇陛下であることは誰でも承知している。だが、「明治天皇」というお名前は、崩御された後の諡号(しごう)であり、同時にこれは元号でもある。
明治天皇の幼名は裕宮(さちのみや)で、お七夜の礼の後に父である孝明天皇によって授けられた。裕宮はのちに親王睦(むつ)仁(ひと)となって、明治天皇が治世期間中御名御璽(ぎょじ)する詔勅には睦仁として押印された。
なお、元号は一人の天皇治世の間に何度か変わるのが普通だったが、現在では一代治世間は同一元号となって、明治元号はその始まりであった。
ところで日本人は、天皇に対して「天皇」とのみ申し上げているのが常識観念であるが、外国では日本人と異なっていることを、まずは紹介したい。
「日本の天皇陛下の場合、明治天皇は睦仁、昭和天皇は裕(ひろ)仁(ひと)です。外国では『ヒロヒト』と呼びますが、日本では全然言いませんね。今の陛下は明仁(あきひと)ですが、日本では絶対に名前を使いません。英国ですと、クィーン・エリザベスといつも名前をつけるのですが、これは面白いです」(ヒュー・コータッツィ 司馬遼太郎対話選集4 文春文庫)
この指摘通りで、今上天皇に対して日本人は「天皇」としか言わないが、外国では「アキヒト」と発音されているのである。第二次世界大戦をテーマにした外国映画で、昭和天皇を「ヒロヒト」と発言しているのを何回も見て、天皇に失礼ではないかと感じ、どうしてこのような言い方になるのか予てより疑問を持っていたが、考えてみれば米国のオバマ大統領や仏のサルコジ大統領に対しても、日頃は「オバマ」「サルコジ」と名前を言うのが通常であるから「ヒロヒト」発音は当然かもしれない。
だが、日本人は天皇の名前を発音することはなく、多くの人は知らないのではないかと思う。日本人にとって今上天皇はお一人のみであるから、知らなくて別に問題はないわけであるが。
天皇に関してもう一つヒュー・コータッツィが同書で指摘している。
「今、世界でエンペラーは日本だけですね。ほかに一人もいません。どうして天皇にエンペラーという言葉を与えたのでしょう。キングでもいい。エンペラーがキングより位が高いと考えたのでしょうか。しかしエンペラーは絶対適当ではないと思います。エンペラーはラテン語のエンペラート、『軍を率いる者』です。日本の天皇はそういうものではありません」
この通りで、日本の天皇は英語ではEmperorと訳され、現在も続く王朝の中で、Emperorと表記されるのは世界でも日本の天皇だけである。
どうしてエンペラーと称されるようになったのか。それは幕末時からであろう。親幕府であった仏のロッシュ公使が、徳川将軍に対してエンペラーと称し、外交文書にもエンペラーと書いていた。
明治維新になって日本国として天皇をどのように英語で称するか検討した際、国王・キングにするとエンペラーであった徳川将軍より下位に位置づけられることになってしまうので、天皇はエンペラーと称することにしたと思われると、司馬遼太郎が同書で語っているが、その通りであろうと思っている。
エンペラー・皇帝と国王・キングは、当然だが別呼称であり異なっている。西洋での皇帝の定義は、ナポレオンの時代以後、自称皇帝がでてくるが、本来ローマ帝国の後継国家の長をさし、基本的に皇帝は、神の代理人として、地上の統治権を与えられた者で、王の上位階級にあたる。ですから、皇帝は、王を任命する事ができるのである。
中国の歴代皇帝は、各地に斉王とか呉王などの王を任命しているし、神聖ローマ帝国内にも、ブルグンド王国、ボヘミア王国などいくつかの王国があった。
いずれにしても日本の天皇はエンペラーと称され、世界で一人しかいないという現実実態となっている。改めて、日本国の特徴を垣間見た気がする。
さて、その睦仁の明治天皇について、前号でお伝えした江藤淳氏の「明治天皇だって、後に軍服をお召しになって、けいけいたる眼光を光らせておられる写真をみれば、どっちかというとプロシャ的な君主の感じがしますけれども、践祚されたころはおはぐろをつけて薄化粧しておられたんです」に対して、読者から「おはぐろをつけて薄化粧していたということは、体が小さいよわよわしい少年だったのか。後年の写真のイメージとは随分異なる」という問い合わせを頂きました。
この質問は的確な疑問でありますので、まず、これについて検討してみたい。
素直に考えてみて明治天皇が「禁裏の外の世界について何も知らない女官たちの手で育てられ、武器を手にするどころか古式ゆかしい上品な公家の遊びにもっぱらふけっていた一人の皇子が、それも多くは一度も戦闘に参加したことのない歴代天皇の末裔である皇子が、どういうわけで何よりも軍人として、しかも軍服を脱いだ姿ではめったにお目にかかれないような人物として記憶されるようになったのか」(「明治天皇」ドナルド・キーン著)という指摘はその通りである。
人の一生において成された業績に影響を与える要因は何か。それには前提要件と必要要件があるだろう。前提要件とは個人の素質と、その素質が発揮される環境の二要因である。
必要要件とは幼少時代から少年、成人する過程で受ける教育要因である。その人に合致した適切な教育が成されれば、多くの人は素質を開花させ、所属する組織体で業績を示せるであろう。
明治天皇の場合も同様で、生まれ持った素質と、宮中の環境が影響しているはずで、西郷隆盛が断行した宮廷改革がなければ、ということは明治維新改革がなければ、明治天皇の優れた英邁な素質は発揮されなかったと思うが、宮廷改革については後述するとして、まず、素質について分析してみたい。
明治天皇の素質について、死後、天皇を知る宮中に関係した人達によって書かれたものを見ると相矛盾するものが多い。
ある人の回想によれば「明治天皇は幼少時代にきわめて健康で活発な少年であり、いじめっこの風貌さえあり、相撲も一番強かった」という。
ところが別の人物の回想によれば「幼少時代の天皇が虚弱で病気がちの少年であった」と述べている。さらに、蛤御門の変で初めて大砲の音を聞いて気を失ったという話が語られる一方、山岡荘八は「明治天皇」(講談社)で次のように記述している。
「砲弾は交交御所内に落下して、親王の御座所も危なくなった。
そこで前関白の近衛忠煕は、親王を奉じて鴨の河原へ難を避けた。
恐らく老近衛は、砲弾におびえて、気もそぞろの親王を想像していたに違いない。
『―――大丈夫でございます。何もおそろしいことはございませぬ』
傍にあって鬨の声に耳を傾げておわす親王をはげました。
と、親王は、
『―――爺、戦とは勇ましいものよのう』
はじめて連れ出された河原の広さに眼を瞠(みは)っておわしたが、やがて武者震いして老近衛に言った。
『―――爺よ! 匍えや。乗ってこの河を渡って見ようぞ』
老近衛はついに十二歳の宮を背にして、十間ばかりの川を渡渉させられたと眼を細めて主上にこれを報告した。
『―――宮はおそれ給うどころか、次第に勇んで来られました。麿の背にあって、ハイドウハイドウと声をかけさせられ・・・まことに豪宕(ごうとう)(注 豪放)、恐れなどは知らぬご気性にございます』」
山岡荘八の「明治天皇」は伝記小説であるから、強いてたくましい男児イメージに仕立て上げているという感じを持つかもしれないので、睦仁親王と一緒に育った乳母の子である木村禎之祐の記述を紹介したい。(「明治天皇の御幼児」太陽臨時増刊 大正元年刊)
「聖上には御勝気に在(ましま)*丈(だ)けいと性急に在(おわ)され、少しく御気に叶はぬことの出来れば、直ちに小さき御拳を固められ、誰にでも打ち給ふが例にて、自分など此御拳を幾何(いくら)頂きたるか数知れず。何分自分は一歳年下のこと故、恐れ多しといふ観念は更になき上に、固(もと)より考への足らぬ勝ちなるより、常(つねづね)に御気に逆らい奉りたること少なからず、其度(そのたび)毎(ごと)*にぽかんぽかんと打たせ給ひたり。」
この木村禎之祐の記述は、明治天皇の親しい遊び相手として仕えた人物であり、自分がげんこつで何度も殴られたという回想であって、このような回想が嘘とは思えず、さらに、明治天皇は父の孝明天皇に似て長身であったことからも、体格には恵まれていたと推察できるので、幼少時代はきわめて健康で活発な少年であるというのが妥当な理解であろう。
人の素質を見抜くためには、その人物が書き残したものを分析するのも有効な方法である。例えば、孝明天皇は多くの書簡を残していて、世の中の動きに敏感だった孝明天皇の激しい怒りに満ちた心情と考え方が理解でき、攘夷に対する姿勢が一貫していることがわかる。
ところが、明治天皇は日記をつけず、手紙も書かないに等しかったので、この文筆から検討することは難しい。さらに、明治天皇の宸筆もほとんど残っていなく、天皇の声がどのようなものであったのかも、明確には分からない。天皇を知る人達の話では、その声が大きいものであったことは分かっても、その声の質までは分からない。
天皇の写真もほとんどなく、公表されたのはせいぜい三、四枚ではないかと思われる。江藤淳氏の言う「明治天皇だって、後に軍服をお召しになって、けいけいたる眼光を光らせておられる写真」は、これは当時広く全国の学校に配布された「御真影」であり、この写真の前で幾世代もの子供たちが最敬礼したのであるが、実はこの写真は明治天皇の実物写真ではなかった。それは肖像画を写真に撮ったものであって、肖像画があまりにも真に迫っていたので、すべての人々は、それを写真と信じたのである。
明治二十一年(1888)、明治天皇三十六歳となられた際、宮内大臣土方久元は外国皇族、貴賓に贈与するために、新しい最近の肖像写真が必要と判断し、印刷局雇のイタリア人画家エドアルド・キョッソーネに、天皇に相応しい肖像画を作成依頼した。
何故なら、伊藤博文が宮内大臣時代、何度も肖像写真の撮影を奏請したが、その都度写真嫌いの天皇に断られていたので、土方はキョッソーネに密に天皇の顔を写生させることにし、一月十四日の弥生社行幸で御陪食のときに、キョッソーネは襖の陰に隠れ、正面の位置から竜顔を仰ぎ、その姿勢、談笑の表情に到るまで細心の注意を払って写生した。
このようにしてキョッソーネが描いた肖像画を気に入った土方は、それを丸木利陽に写真撮影させ、天皇に奉呈するにあたり、事前に許可を得なかったことをお詫びしたが、天皇はこの写真を見て、無言のまま良いとも悪いとも言わなかった。
このときちょうど、某国皇族から天皇の写真贈与の請願があり、土方は天皇にキョッソーネが描いた肖像画写真に署名を求めた。天皇は写真に親署した。これをもって天皇が気に入ったと判断し、それ以後はこの肖像画写真が使われるようになった。(参考 ドナルド・キーン著『明治天皇』新潮社)
唯一残された明治天皇を知る手掛かりは、御製を読む下すことである。明治天皇はその生涯に十万首に及ぶ短歌(和歌)を詠んでいる。実は、和歌の指導は父の孝明天皇が直接に熱心に幼少時代から取り組んでいた。その様子を山岡荘八の「明治天皇」が次のように語り、和歌を通じて人間形成に寄与し、天皇学を授かったと述べている。
「親王が育つにつれて、側近の誰彼の眼にも豪放勇武なご気性と見えてゆくことが、父の帝にずっと和歌のご指導を続けさせる原因になっていたと思う。
和歌は実は、大和民族の伝統の詩形であるというだけではなくて、神話の昔から人間形成の必須条件として伝承されているからだ。
したがって和歌というのは日本の歌という意味だけでではない。
人間に内在する荒(あら)魂(みたま)、和魂(にぎみたま)の、その和魂を言霊(ことだま)の調和によって表現しながら、和の世界にすすもうとする一つの修練なのだ。
言葉の調和を考えられる人間が武に偏する筈がない。人はつねに勇ましい反面に、ものの哀れを味わう和心がなければならない。
それがあってはじめてよい和歌がつくられ、人間のうちなる和魂は育っていく。
和魂のあるところに、にぎやかな庶民の繁栄と発展があると悟った大和民族独特の優雅な伝統なのだ。
父の帝が睦仁親王の和歌の指導だけは、おんみずからなされたのも、決してこの事と無縁でない。
或いはこれこそ明治大帝が、父の帝から直接授けられた最も大切な『天皇学――』の一つであったのかも知れない。
大帝もまたそれを敏(さと)くご感受なされておわしたゆえ、東京遷都の年から『御歌始めの儀』を再興なされて、その伝統は今日に及んでいる。いや、それ以上に、大帝の御生涯に詠じられた御製の総数が、あのご繁忙なご政務の座にあって十万首にも及んでいるという超人的な事実が、何よりもこれを雄弁に語り残している。
おそらく大帝は、その一首一首を詠じられるたびごとに、父の帝を想い、訓えを想うてご反省なされたのではなかろうか・・・。
とにかく明治大帝とそのご生涯の御製と、父の帝のご影響とは切りはなして考えることの出来ない密接な関係をもっている」
和歌はご承知の通り五七五七七の韻文で、古くは倭歌とも表記され、 漢詩に対する呼称で、やまとうた、あるいは単にうたとも言い、倭詩(わし)ともいった。専門家からは、明治天皇の和歌は「天皇調」といわれ、さらりとして、すこしの滞りもなく、このような歌なら、誰でも作れそうに一応は思えるのだが、さて実践してみると、われわれが逆立ちしてもこうした格調は生まれてこないことがわかるという。
また、苦心のあとが微塵もないのに、その調べは比類なくて、洋々として広く打ちひらけて、国民の誰にでもよくわかるけれども、そのおおらかな歌境はわれらが骨身をけずるように苦心して詠んでみても遠く及ばなく、明治天皇でなくてはそこへ到り着くことができないかと讃嘆せずにはいられないという。
その一つを紹介してみたい。次の御製は「道」と題したもので、明治三十九年の御作である。
ひろくなり 狭くなりつつ 神代より たえせぬものは 敷島の道
「道」は広くてそこを通る人が多いときも、また、仏教や儒教に道をけずられて狭くなり、そこを通る人が少なくなることもあったが、神々の御代から一貫して断絶しないもの、これぞ「敷島の道」であると詠んでおられる。さらに、明治天皇は和歌のことを「敷島の道」と申されていたという。「敷島」という言葉の起こりは、欽明天皇が大和の磯城嶋に皇居をさだめられた時だそうである。そこから「しきしまのやまとの国」という言葉が生れ、万葉集では「しきしまの」が「やまと」の枕言葉として何度も出てくる。
はじめは「やまと」という地方の名だったが、やがて日本のくにのことになると同時に、「しきしまの」も日本の枕言葉になっている。
ここまで明治天皇の前提要件としての個人素質と、必要要件である教育要因として孝明天皇自らの和歌指導についてみてきた。
残された内容は前提要件としての環境要因であり、それは西郷隆盛が断行した宮廷改革であるが、紙数の関係で次月としたい。
また、必要要件としての孝明天皇の和歌指導以外の教育要因で、ここに鉄舟が重要な位置づけを占めているのであるが、これも次号以降で述べたい。
なお改めて、ここで再確認しておきたいことがある。
それは明治維新改革によって徳川幕府が倒れたものの、封建制度という社会体制の変革は成されていないということである。
徳川将軍に代わる王政復古が明治維新であって、藩主たちは藩知事として依然として残っていた。つまり、各地方に歴代の封建制度を象徴する為政者がいたわけで、封建制度は撤廃されていなかったのである。
この封建制度撤廃に結びつけたのは廃藩置県という一大改革であり、この宮廷版が西郷による宮廷改革であった。
2013年01月25日
明治天皇侍従としての鉄舟・・・その一
明治天皇侍従としての鉄舟・・・その一
鉄舟は、西郷隆盛の推薦により、明治五年六月十五日から、明治十五年六月二十五日までの満十年間、侍従として明治天皇に仕えた。天皇が二十歳から三十歳になられるまでの、人間形成時期として最も大事な年齢時であった。
日本の天皇は今上天皇で百二十五代続いている。天皇制度は理屈や権力抗争で成り立ったものでなく、日本という国家構造体質と共に生まれた日本の核としての存在であり、日本が歴史的危機に陥った際に、いくたびも天皇のよって救われているように、天皇は日本の象徴である。
鉄舟が明治天皇の侍従に選任された経緯について、江藤淳氏が次のように解説している。
「天皇というのは元来、お公家さんの総帥ですね。明治天皇だって、後に軍服をお召しになって、けいけいたる眼光を光らせておられる写真をみれば、どっちかというとプロシャ的な君主の感じがしますけれども、践祚されたころはおはぐろをつけて薄化粧しておられたんです。・・・中略・・・
京都の朝廷のほうはどうかというと、古典的な教養はもちろんあります。有識故実とか、敷島の道、その他いろいろあるでしょう。しかし、武張ったことの下地はぜんぜんない。平安朝以来そういうことは北面の武士にやらせて、自分ではやらないたてまえですから。
そこで明治になってから、明治新政府をになった薩長中心の下級武士たちがはたと気がついたことは、天皇をこのままにしておいちゃいかん、天皇がみやびやかな、なよやかなものであってはならない。天皇にはもっと武士的になっていただかなければいけないということだったにちがいない。そこで山岡鉄舟が扶育係になります」(勝海舟全集11巻 講談社)
江藤淳氏は勝海舟評論の「海舟余波」という名著もあり、幕末から明治にかけての史実に大変詳しい文筆家である。その江藤氏が鉄舟を明治天皇の侍従とは表現せずに扶育係と述べている。「扶育」という意味は「世話をして育てること」(広辞苑)であるので、それをそのまま適用し理解すると、鉄舟が明治天皇を育成したことになる。
明治天皇は、その存在の非凡さ、それは威厳と慈愛に満ちたイメージを持ちつつ、数多くの国内外の問題と危機に対処した行為を意味し、そのような治世によって日本国民に納得感を与えられた天皇であられたと認識しているが、これに異論を唱える国民は少ないであろう。
また、明治政府で天皇と共に数々の改革を成し遂げた功臣たちにとっても、明治天皇は常に心の拠り所であったことは疑うべくもない事実であった。
仮に、明治天皇が改革時に逡巡し、ふらつき、浮き上がった軽薄な判断基準を持っていたならば、鎖国から目を覚ましたばかりでありながら、逸早く世界史の中に新たに位置づけられた明治時代の日本という、歴史の一ページは無かったはずである。
その偉大な治世者としての明治天皇の扶育に、鉄舟が重要な貢献を成したこと、これは鉄舟の生涯業績として賞賛すべきものである。
だがしかし、天皇に鉄舟のような武士階級出身の一般民間人が侍従として仕えること、それが明治初年当時、簡単にできたのであろうかという疑問が湧く。何かの大きな改革が断行されなければあり得なかったはずで、今上天皇と明治初年までの天皇では、その位置づけと、取り巻く人々の環境が大きく異なっていたのは事実で、まず、そのあたりを理解しないといけない。
元来、天皇は京都の御所奥深くに座しておられる立場であられ、明治天皇の父であった孝明天皇までの歴代は、古来から伝えられる仕来りを受け継いだ堂上華族によって、もっぱら先例や格式を墨守するだけが公の行事であった。
また、天皇が私生活を営む大奥も同様で、公家出身の女官がすべて取り仕切っていて、これらの女官は融通の利かない保守主義のかたまりで、天皇に対する影響力を駆使し、あらゆる変革の機先を制していた。
その一例であるが、明治天皇が即位された慶応四年(1868)の二月十四日、外国事務総督・伊達宗城はアメリカ・イギリス・フランス・オランダなど6カ国代表者と大坂の西本願寺で会見し、外国事務局を置き外交諸事に対応すると共に、近日中に天皇が各国公使を謁見すると伝え、二月三十日にフランスのレオン・ロッシュ公使、オランダのファン・ポルスブルック総領事が参朝し、紫宸殿で明治天皇との謁見を終えた。
明治天皇が元首として国際的に認識確立されるためには、この謁見行事は必要不可欠な重要なもので国際外交常識であるが、この時の宮廷内は狂ったような一大騒動であった。
即ち、明治天皇の生母である中山慶子(よしこ)を始めとする大奥の女官たちは、明治天皇が外国人と会うなどもってのほかと泣き叫び、且つ激しく抗議した。この当時伊達と同じく外国事務総督であった東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)は、主だった女官を呼び出して説得に努めたのであるが、中山慶子は父親である中山忠(ただ)能(やす)を使って、侍医が天皇の発熱を訴えているということを理由に謁見を延期するよう頼ませた。嘘の診断を主張するほどの激しい抵抗であった。
だが、岩倉具視は別の医者に診断させて、その結果体調に問題なしと結論し、ようやく謁見が予定通り行われたのである。(参照「明治天皇」ドナルド・キーン著)
勿論、このような宮廷内の実態を歎き改革しようと、明治初年に三条実美や岩倉具視のような強力な公家が動いたが、数百年来の慣習を一朝にして改革することはできず、過去の慣習のままで、孝明天皇ご逝去後の明治天皇になっても、宮廷は以前の通りであったから、とうてい公家以外の一般人が侍従という立場にはなれることなどありえなかった。
したがって、この天皇を取り囲む古き慣習の塊、これを破壊しなければ鉄舟の登場もなかったわけで、それを実行するには強烈な改革推進者が必要不可欠であり、その役割を西郷隆盛が成し遂げた経緯は後ほど述べたいが、その前に改革推進には必ず賛成と反対があって、それは両者の外国との接した体験差から発するものだということについて検討解説してみたい。
慶応四年二月三十日の明治天皇による外国公使謁見時の朝廷内で発生した反対運動は、実は外国人に会ったことも、顔を見たこともない、当然に口を交わしたこともない公家集団、まして孝明天皇が徹底した外国嫌いであった経緯もあって、強烈な反対運動が発生したのである。
しかし、当時、外国事務総督という役目を担っていた東久世通禧は、一般の公家集団とは違い外国人と接する体験を持っていた数少ない人物で、東久世がいたことで謁見がなされたのである。
東久世通禧という人物は、文久3年(1863)年)、薩摩と会津の公武合体派が画策した八月十八日の政変で失脚した尊王攘夷派公家の一人であって、長州に逃れ筑前に滞在している間に、薩摩人としてこっそり開港場の長崎に行き、蘭人医師・ボードウィン、米人宣教師・フルベッキ、英人商人・グラバーなどと会った交流経験を通じ、外国人に対する態度を変化させ、気後れもなく外国人と対応ができるようになっていた。
また加えて、それなりに気骨ある革新公家だったようで、この東久世通禧によって、ようやく外交関係の第一歩としての、新たな体制である明治天皇御親政の外国公使謁見が可能となったわけであった。
因みに、フルベッキVerbeckとは、岩倉具視を正史とした「欧米視察団」の発案者でありまとめ役の人物で、また、巷間、偽物であるが流布されている「幕末維新の志士達集合写真」の中心に座っていることでも知られている。
いずれにしても外国人と会ったことがある、という実体験差が、当時の人々の外国人への行動結果を決めているという証左にもなる明治天皇謁見行事事件であった。
つまり、外国嫌いという実態になっているのは、外国と接し得ない環境下におかれている人がなりやすいという意味をお伝えしたのである。
今、日本はTPP環太平洋経済連携協定に関与するかどうかで激しい議論が続いている。既に野田首相は関係各国に加盟交渉参加意向を伝えているが、反対論者から意見が多々出されている状況は幕末時の開国是非の当時を思い起こされる。
日本の開国は、安政五年(1858)六月の井伊大老による日米修好通商条約調印から始まったが、薩長勢力は開国を非とし「尊王攘夷」を旗印に倒幕運動に走り、倒幕が成功すると一転立ち所に「開国」が当然であったがごとく変身し、その後の明治時代を文明開化路線として突っ走ったのである。
現状のTPP反対派議論をみていると、薩長勢力の「攘夷」運動を彷彿させる。日本が人口減というどうしようもない現象下で、これからの経済成長を望み、国家の成長を図ろうとするならば、世界の七十億人口を相手に経済活動するところに活路を見出すのは自明の理であり、これは反対論者も十分に分かっているはずだが否定の論理を展開している。
勿論、TPPに参加すれば国内に問題多く、苦境に陥る産業・企業も多数輩出すると思われるが、日本全体の成長という立場から考察し、明治維新時の歴史的前例から考えてみれば、TPP参加は必要だと判断する。だがしかし、今後もTPP議論は賛成・反対の議論が平行線をたどり、はてしない闘争の世界が続いていくであろう。
何故ならば、賛成派と反対派の背景には「外国との接触経験」の度合い、つまり、海外との触れ合いと肌合いの濃密さによって見解が分かれ、既にみた公家集団を思い起こす要因が存在するからである。
常日頃から外国企業と取引する中で、日本と異なる商慣習と国民性に戸惑い、苦労と工夫で業績を挙げてきている企業・団体とそこに所属する人々は、ある意味で外国人に慣れていて、外国との接触に違和感を持たない。
しかし、外国との接点が社交的か、観光旅行程度しか経験のない人々が経営する企業・団体に所属する人々は、日本人と異なる外国人の慣習や考え方に経験が薄いため、TPPのような課題に対するといろいろ心配の方が先に生じやすい。
その事例をもうひとつ、幕末時における薩長首脳陣の心理から検討してみたい。幕末時の当初、薩長首脳陣は本心から強く外国を排除する「攘夷」を旗印にしていた。ところが、ある体験を通じ「開国」の必要性へと変化していったのである。
それは何か。外国勢力との出会いが強烈だったからである。単なる社交的つき合いというレベルを超えた体験、それが攘夷から開国への変化をもたらしたのである。
まず薩摩であるが、文久三年(1863)七月の薩英戦争で、勝敗は互角であったがイギリス艦隊からの砲撃で市街地は甚大な被害を受け、西欧国の科学力を痛切に体験した。一方長州は、元治元年(1864)八月の四国艦隊による下関攻撃によって上陸され砲台を破壊され、大砲を持ち去られ、それが今でもパリのアンバリットの庭で雨ざらしの見世物展示になっているように、壊滅的な負け方をしたことによって、外国勢力の強さを肌で体験したのである。
この薩長の外国との体験は非常時の接触であって、いわば皮膚をひき剥かれるようなものであり、正常ではない触れ合いであったが、これによって藩意識から日本国というパブリックな公の立場に立つ必要があるという意識が指導層に芽生えたのである。
このパブリックな公の立場とは何か。それは本当に外国と戦うことのできる人間になる必要があるという意味であって、西欧諸国が得意とする「戦略方針」を理解し、それに対抗するためには自らも「戦略方針」を構築し、その達成のためには「方便」も必要だという人間に変わること、つまり、外交には複層的思考力が大事であり、それを幕末で見事に実行したのであるが、そのことを徳富蘇峰が次のように解説している。(近世日本国民史)
「文久(1861)以前はいざ知らず、文久・元治(1864)の攘夷論に至りては、其の理由や其の事情は同一ならざるも、何れも対外的よりも、対内的であったことは、断じて疑を容れない。或る場合は、他藩との対抗上から、或る場合は、勅命遵奉上から、或る場合は、自藩の冤を雪(すす)ぎ、其の地歩を保持せんとする上から、其他種々あるも、其の尤も重なる一は、攘夷を名として倒幕の實を挙げんとしたる一事だ。即ち倒幕の目的を達せんが為めに、攘夷の手段を假りたる一事だ。されば一たび倒幕の目的を達し来れば、其の手段の必要は直ちに消散し去る可きは必然にして、攘夷論は何処ともなく其影を戢(おさ)め去った。而して何人も其の行衛を尋ねんとする者は無かった。
偶(たまた)ま真面目に攘夷論を主張たる者は、今更ら仲間の為に一杯喰わされたるを悔恨して、或は憤死し、或は絶望死した。偶ま最後まで之を行はんとしたる者は、空しく時代後れの蟷螂(とうろう)の斧に止った」
蘇峰が述べるごとく、当時の志士・武士達は真剣に指導層が唱えた攘夷論を信じ、それの実現のために戦ったのであるが、外国と非常時的な接触を持ち、皮膚をひき剥かれるような体験をしたリーダー層達は、建て前と本音を使い分ける術を習得し、それを駆使することで明治維新を成し遂げ、開国へと変化し今日の近代国家日本の礎を創ったのであった。
これは、いわば純粋な志士の気持ちを踏みにじったのであるが、これが世界政治の実態事実であるから、我々は物事の背景からよく分析しないといけないという教訓であろう。
この明治維新の歴史的事実に基づけば、TPPの議論対決は、賛成派が勝利を得て日本国を成長に結び付けられたとしたら、反対派は明治維新の時と同じく時代遅れの蟷螂の斧に止まるのであろうか。
果たしてどちらが勝利を得るのか。それぞれのリーダーの国際感覚、それは頻繁な「外国との接触経験」があるかどうかで分れるのだということを幕末時の事例からお伝えした次第で、天皇謁見も明治維新もTPP問題も、時代は異なるが同様の性質を持っているのである。
さて、鉄舟が侍従となった背景には宮廷内の旧弊打破が存在したが、その前に廃藩置県という一大政治改革があって、そこから宮廷改革に結びついているので、まず先に廃藩置県に触れてみたい。
廃藩置県の最終会議が、明治四年七月九日に木戸孝允の邸で開かれ、長州から木戸、井上薫、山県有朋、薩摩からは西郷と大久保利通、西郷従道、大山巌が出席した。
会議は、新政府に対する反抗が必ずおきるであろう、その際どういう処置をとるべきかについて、木戸と大久保の間で大論争が続き結論がつかなかった。
じっと黙って二人の論争を聞いていた西郷が
「事務上の手順がついているならば、暴動がおきたら鎮圧は拙者が引受申す。ご懸念ない。直ちに実行してください」
と発言したことで廃藩置県が決まったのである。
数日後、会議の結果を明治天皇に奏上し、天皇はいろいろ御下問された。明治天皇は当時十九歳十カ月若さからご懸念つよくご心配されたが、西郷が
「恐れながら吉之助がおりますれば」
という自信に満ちた奉答に天皇はやっと安心したと伝えられているほど、この当時の西郷の威信は明治維新成立の中心人物として光り輝き、併せて、清廉潔白の人として一般人からも崇敬されていた。
その西郷の支持を得なければ廃藩置県のような、過去数百年間も継続してきた一国独立体制、それも藩主ならびに家臣たちの多くの特権を保証してきた体制を一挙に覆そうとする大改革は成し得なかったであろう。
普通に考えれば武士階級は今までの権利を維持しようと闘うであろうし、平民は藩主以上の権威というものを知らず、藩主が天皇の命に従わないということになれば、藩全体が廃藩置県に反対という結果となったであろう。
結果として、非難囂々(ごうごう)の反対が多く出されるとの予測は当たらず、明治天皇の勅命として出された廃藩置県に逆らう声は、島津久光の猛反対以外に起こらなかった。島津久光の反対については既に述べた(2010年7月号)
いずれにしても、西郷の支持を得たことと、加えて、当時の各藩が財政窮乏という理由から、藩存続に苦しんでいたというものもあって、多くの藩知事が反対に動かなかったのである。
この廃藩置県の実態について、W・E・グリフィスWilliam Elliot Griffis(アメリカ人、牧師・著述家で明治代初期に来日し福井と東京で教鞭をとった)は、越前・福井藩主の居城のある福井で、廃藩の勅命が出された時に、そこにいて以下の感想を書き述べている。
「私は封建制度下の福井に城の中に住んでいて、この布告の直接的な影響を十分に見ることができた。三つの光景が私に強い印象を与えた。
第一は、ミカドの布告をうけた一八七一年七月十八日(陽歴)の朝、その地方の官庁での光景である。驚愕、表にあらわすまいとしてもあらわれる憤怒、恐怖と不吉な予感が、忠義の感情とまじり合っていた。私は福井で、この市における皇帝政府の代表にして一八六八年の御誓文の起草者である由利公正を殺そうと、人々が話しているのを耳にした。
第二は、一八七一年十月一日(陽歴)、城の大広間での光景である。越前の藩主は何百人もの世襲の家臣を招集し、藩主への忠誠心を愛国心にかえることを命じ、崇高な演説をして、地方的関心を国家的関心にたかめるようにと説いた。
第三は、その翌朝の光景である。人口四万の全市民(と私には思われた)が道々に集まって、越前の藩主が先祖からの城を後にし、何の政治的権力もない一個の紳士として東京に住むため、福井を去っていくのを見送った」(「明治天皇」ドナルド・キーン著)
このようなW・E・グリフィスが見た光景は、他の二百七十藩でも見受けたれたであろう。今までの雲の上にいた殿様が、一斉にお城から消えて行くのであるから、日本国家が大変化するであろうという不安と恐怖、それと少しばかりの未来への期待を持ちつつ、藩領民から日本国民に変化する自らの立場を複雑な思いで見つめたに違いない。
この大改革は西郷の力で成し遂げたのであって、次の宮廷改革も西郷によって実現されたのであるが、これについては次号で触れたい。
鉄舟県知事就任・・・その六
鉄舟県知事就任・・・その六
鉄舟は明治四年(1871)十二月二十七日に、伊万里県に単身赴任した。この当時、伊万里県の県庁は円通寺に設置されていた。
この円通寺、JR伊万里駅から徒歩10分に位置する伊万里城山公園麓陣内にあって、臨済宗南禅寺派であり、この地を四百年間治めた伊万里氏の守護寺で、寺伝では至徳年間(1384~1387)に創建されたとある。
話は脱線するが、伊万里駅から市内を歩いていると妙な事に気づいた。それは伊万里JR駅舎と千葉県館山市のJR駅舎とがそっくりなのである。両方ともオレンジ色で二階に改札口があって、高齢者にとってはちょっと不便なところも共通している。
多分、スペインのコスタ・デル・ソル太陽海岸をイメージしたものであろう。館山のホテル経営者に駅舎のイメージを尋ねたら、その通りでスペインの明るい海岸のイメージで造られたとの説明を受けた後、「どう思うか」というので「あまり感心しない。他国の観光地を真似る発想は貧弱だ。自らの土地を掘り下げたイメージで造るべきだろう」と答えたところ、大きく頷いていたので地元でも違和感を持っているのだと推測し、伊万里も同様だと思っている。
また、伊万里市はマキが市の指定樹木という理由で、マキの木の並木道があり街並みをしっとりとさせ、落ち着きを与えている。館山市では、冬場に強く季節風が吹き荒れるので、昔から風除けに屋敷をマキの生け垣で囲った家が多く、美しい道並みをつくっている。
このマキの木で駅舎を建築した方がよかったのではないか。つまらない感想だが、鉄舟研究で各地を歩いていると妙な事に気づく。
鉄舟が県知事として赴任した伊万里県は、明治四年(1871)7月佐賀藩が佐賀県になり、この佐賀県と厳原県(旧対馬藩)を9月に合併させ伊万里県とし、11月に蓮池、小城、鹿島、唐津の四県を伊万里県に編入させた。
しかし、明治五年(1872)5月には県庁を佐賀城下町の旧佐賀藩庁に移し、佐賀県と改称した。正式な県庁も建設されない、わずか9カ月間の伊万里県であった。いかにも短い。
県庁を旧佐賀藩庁に移し佐賀県とした理由はいくつかある。それを佐賀県の百年(県民百年史41)では以下のように述べている。
①伊万里は海上交通に便利だからといっても、陶磁器の積出し以外には使用されず、また、西に片寄りすぎている事。
②佐賀の方が筑後川に近く、多くの船がこの川に集まり、物価の相場がよくわかる。
③伊万里の人達は役人に慣れていなく、役人達が住む事を恐れ、嫌って、迷惑と思っている。
④佐賀から通う役人達は不便である。
⑤つまり、県庁を嫌う伊万里、県庁が欲しい佐賀、どちらにも好都合。
⑥伊万里に県庁を新たに建築すると費用が嵩むが、佐賀であれば新築しなくても城跡にすぐに使える建物がある。
これらの背景から県庁都市となった佐賀市は、明治5年に戸数が3481戸であったが、明治8年(1875)に商人その他増が影響し4088戸に増えているから、伊万里県から移って成功したといえるだろう。
ところで、明治5年8月には、厳原県を長崎県に合併させ、佐賀県から分離させているが、この厳原県分離については鉄舟が進言したと思われる経緯を後述する。
鉄舟の伊万里での動向を探るために、市役所・図書館などで調べてみたが、なかなか史料は見当たらなかったが、その中で「佐賀県知事物語」(読売新聞佐賀支局編)が次のように述べている。
「明治五年二月初旬のある日、伊万里県の県庁があったいまの伊万里市の街頭に深編みガサの偉丈夫が姿をみせた。鋭い眼光、スキのないわらじばきの足取り、ビンにむらがる剛毛――は、武者修行の武芸者を思わせた。これが初代伊万里県権令の山岡鉄太郎。天下の剣豪を目のあたりに見て、ひそかにタメ息をつく娘たちもあったが、肩書きに似合わない身づくろいやしぐさから、いつしか、町人たちに『馬鹿県権令』とうわさするようになった」
「さて山岡鉄舟。町中の、ありがたくないうわさを気にするでもなく、毎日深編みガサのパトロールを続けたが、やがて無実の囚徒を放免したり不必要な書類は焼き捨てたり――など、思い切った施策をやってのけ、間もなく口さがないうわさも消えてしまった。“ボロ鉄”と異名され前任地の静岡県権大参事のころは侠客清水次郎長とも親交があっという変わりダネ。その官僚ばなれした人間的魅力が県民にうけた――ともいえそう。ただし、赴任後間もなく免官になったので、赴任旅費だけは支給したが、月給はどう取り扱うかが問題になったから『雇われ県権令』のつらさも味わった」
「伊万里県のみならず、当時の地方長官の人選は、政府が常に頭を痛めた問題だった。旧肥前国は――と見るに、藩主鍋島直大(鍋島閑叟の次男)が大納言に登り、大隈重信、副島種臣、江藤新平らの旧藩士が参議に名を連ねるなど維新政府をささえる一方の旗頭だった反面、旧唐津藩主小笠原明山が幕閣の元老だったように、佐幕的な気風も根強く、人脈は複雑だった。地理的にも辺境地であり、無気味な“噴火山”のイメージはぬぐいきれず、ここに、旧幕臣の傑物だった山岡鉄太郎を、初代県権令に起用した必然性があったといえそう」
また、鉄舟邸の内弟子として、鉄舟側近くにいた小倉鉄樹著「おれの師匠」によると
「伊万里権令となったときの話を聞くと、伊万里県は九州で最も難治のところなので鉄舟をやれと、云ふことになったのださうである。旧藩の頑固士族は此の新令の人となりを知らずして窃(ひそか)*に軽侮する様子があった。
師匠は毎日深編笠を冠り、供一人を召連れて市中を放吟闊歩したので、益々新令を軽侮してあからさまに『馬鹿県令』と呼ぶに至った。
師匠は一向に介せず数旬の視察に、民情を詳知し、難治の病根を究めて、忽ち賢を抜き不能を汰し、山積の書類を焼き、無実の罪に囚われている囚徒を放ち、一刀両断、日ならずして廓清(くわくせい)*の実を挙げ、さしも難治の県も、其の剛明果断に服して昔日の観をあらためたとのことだ」とある。
伊万里県での鉄舟の動向が書かれた史料は、上記の「佐賀県知事物語」と「おれの師匠」のみであって、他には史料が見あたらない。
しかし、鉄舟は伊万里県で活躍したのは事実であり、それらの状況を2011年10月号でも紹介した「山岡鉄舟 幕末・維新の仕事人」(佐藤寛著)から紹介したい。
「鉄太郎が辞令を受け取り単身赴任したのは、明治四年の年の瀬が迫った十二月二十七日だった。県令の単身赴任に職員は驚いたと思うが、残念ながら今回は県庁内に人がまばらだった。県庁はその日を半休として、正月五日まで閉庁するのだという。
居残っていた役人から県内の様子を聞き、その日は退庁して宿舎に戻った。普通ならば、新任の県令人事が発令された時点で鉄太郎の茨城県での噂が走り、迎える側は緊張するはずなのにその様子はなかったようだ。その原因として、鉄太郎が徳川の旧幕臣であることだけが伝わり、自分たちの佐賀藩は勤皇方であるという安心感があったかもしれない。あるいは前回派遣された参事を追い出した実績に油断していたのだろう。茨城県の役人のように着任の知らせに走り回ることもなかった。
鉄太郎は宿舎に戻ると、荷物を置いたまますぐに出かけた。県内情勢を聞いたとき、対馬の様子が緊急を要すると判断したのである」
ここで対馬について少し補足したい。対馬は鎌倉時代から平家の落人と称する宗氏で、江戸時代には朝鮮との国交窓口であった。
対馬藩も幕末時には尊王攘夷派と佐幕派の対立も深刻で、尊王攘夷派が江戸詰家老を暗殺し、国元では佐幕派が尊王攘夷派の家老を獄死させ、その国元家老も対馬藩最後の藩主重正によって殺されるというはてしないテロが藩内を混乱させていた。
幕末、対馬には諸外国船の来航が盛んで、文久一年(1861)にはロシア艦隊が軍艦難破したと偽り、その修理を理由にして半年あまりの期間、対馬に居座った。その間、勝手に建造物を造り始めたり、島民から略奪を繰り返したり、島を不法に占領しようとしたので、幕府が抗議すると、ロシア側は幕府との直接交渉を避け、与しやすい対馬藩との直接交渉をして「我々の条件をのめば、そのお返しに朝鮮をくれてやる」などと、嘘を平気でついて、対馬を乗っ取ろうとした。
結局はライバルのイギリス海軍に追い払われて、ロシアの陰謀は失敗に終わったという事件もあったが、このような緊迫した最前線外交問題等を通じ当時から出島があった長崎とは関係が深かったのである。
幕末時に混乱した対馬藩であったが、慶応四年(1868)には勤皇派に一本化し、同年四月に藩主重正が自ら大坂に出向き、天皇に拝謁している。この時、天皇から朝鮮に対して王政復古を伝達するよう命を受けた。ところが、この伝達した際に朝鮮側が示した「礼を失した態度」が、後の征韓論への導火線につながっている。
さて、対馬の人々にとっては、今まで関係が薄かった佐賀藩中心の伊万里県に編入されてしまい、元々お互い人情も異なっている上に、廃藩置県に伴う手続き変更などで煩わしく、いろいろ不便な実態となったのに、本土から派遣された県庁役人、特に佐賀藩出身者が幕末時の薩長土肥としての功績を笠にきて、むやみに威張り散らし、規則を盾にうるさく干渉し、これに反感もつ士族たちが、問題をさらに煽り立てるという事態になっていたのである。これが着任早々の鉄舟が正月休みもせず対馬に向かった理由であった。
再び「山岡鉄舟 幕末・維新の仕事人」から紹介する。
「対馬に着くと、旧対馬藩の不穏な情勢に、厳島支所の役人たちは正月休みどころではなかった。事情をヒアリングするとさっそく活動を開始。領内をくまなく歩き、不平分子とされる人たちと話し合ったのである。彼らが、着たきりの粗末な服装で正月返上で歩きまわる新任の県令に驚いたことは推測できる。残念ながらこのときの詳細は史料に残されていない。おそらく、対馬藩は朝鮮外交の出先として徳川とゆかりが深いことから、存分に大酒を酌み交わしながら、相手の話をじっくりと聞いたに違いない。彼らは勤皇方だった旧佐賀藩の役人たちの思い上がった姿勢に強い反感を持っていたのである。
対馬は、距離的には長崎より佐賀の方が近いが、歴史的に見て、対馬を伊万里県とすることには無理があると鉄太郎は思った。その場で鉄太郎は、県支所の役人たちには新時代の役人として横柄にならないように厳重に訓示し、不平分子サイドには伊万里県として不満のない行政施策を約束した。これで一触即発の事態は回避されたのである。
そして、正月六日朝、対馬に渡ったことは誰にも告げずに鉄太郎は出勤した。その後の展開は茨城県のときとまったく同じである。お屠蘇気分で昼近く出勤する幹部職員を叱り飛ばしたうえで、表情をガラリと変え、懸案事項のヒアリングに入る。そこで正月休みに対馬に行ったことを打ち明け、驚きの一同の前で、問題がおおむね解決したことを説明しただろう。そうなれば鉄太郎のペースである。その日以降、懸案事項の処理を進める軸を、派閥抗争の芽を摘み取る方向に合わせ、次々と指示を出していった。
居たたまれなくなったのは旧権力を笠に着た幹部連中である。この先も、彼らが考えることがいつも同じであることに驚かされるが、大酒を飲ませて失態を演じさせようとした。伊万里の製陶業者の集まりに照準を当て、あわよくば大酒に酔った帰りを襲ってケガをさせようとも考え、実行に移した。
ところが、大ケガをしたのは襲撃した側だった。その翌日、誰が鉄太郎を襲撃したのかは一目でわかった。鉄太郎に反感を持つ包帯姿の幹部連中は、典事の河倉をはじめ、観念して辞表を出してきた。
しかし鉄太郎は自分に不満を持つ連中を追い出して悦に入る行政トップではなかった。河倉派を追い出して、敵対している一派を県庁に呼び戻したりはしない。追い出されている一派を復帰させることを条件に辞表を受け取らないことにした。罷免を覚悟していた彼らは、意外な申し出に驚き、喜んで同意した。この鉄太郎の処置で、役人たちは新しい地域行政のあり方を理解した。
狭い世界で対立している場合ではない。多くの優れた能力が必要である。また、藩主を中心にした忠誠の構図が廃藩置県で緩みがちだが、時代は違っても私心をなくして勤務に励むという忠誠の心は変わらない。口では言わないが、鉄太郎は自らの行動で生きた手本を示したことになった」
このような状況で、赴任から二カ月後、鉄舟は東京に戻り、井上馨に伊万里県の内紛が解決した事を伝え、伊万里県令を辞任したのである。
人は物事に当面した際に、その人間の本質が顕れる。また、人間本質とは生来の性格に加え、今日までの生き方が重なって脳細胞に習慣化されたものであるが、鉄舟を見ていると「人から頼まれると引受ける」という生き方によって偉大な人物像をつくりあげたと思う。
鉄舟は六百石取りの旗本小野家に生まれ、二十歳の時に百俵二人扶持御家人の山岡家に養子に入った。師であった山岡静山の突然逝去によって、静山の妹英子が鉄舟を強く懇望し、情熱を示したことによって結婚したわけだが、当時の封建社会での身分の差を考えると、あり得ない事態であった。
後年、鉄舟は英子との結婚について次のように語っている。
「おれも若い時、今の家内に惚れられて、おれでなくちゃならぬというから、そんなら行こうと山岡へ行ったんだ」(おれの師匠)
ここに鉄舟の人物が顕れている。人から頼まれると引受ける。その端的な事例が揮毫数である。(おれの師匠)
「明治十九年五月、健康が勝れぬ為、医者の勧告で『絶筆』といって七月三十一日迄に三萬枚を書き以後一切外部からの揮毫を謝絶することが発表された。すると我も我もと詰めかける依頼者が門前市をなして前後もわからぬので、朝一番に来たものから順次に番号札を渡した云ふことだ。(明治十九年六月三日東京日日新聞)
其後は唯だ全生庵から申し込んだ分だけを例外としてゐたが、其の例外が八ヶ月間に十萬千三百八十枚(この書は全生庵執事から師匠に出す受取書によって知る)と云ふから驚く。或る人が『今まで御揮毫の墨蹟の数は大変なものでせうね』と云ふと、『なあに未だ三千五百萬人に一枚づつは行き渡るまいね』と師匠が笑われた。三千五百萬と云へば、其の頃の日本の人口なのだ。何と云っても、桁はづれの大物は、ケチな常人の了見では、尺度に合わぬものだ」
この揮毫が全部無料で書いたというのであるから、正に「金もいらず」という西郷隆盛発言通りの人物であるが、この「頼まれると引受ける」という生き方精神が、茨城県と伊万里県の知事として赴任した背景にもあった。
また、その際に短期間で示した見事な行政手腕は、駿府での西郷との会談と、静岡という難治県で体験したものの集積から体得したものであろう。
このような鉄舟に次の大仕事が待っていた。明治天皇の教育であって、それを頼みに来たのは西郷であった。いよいよ鉄舟が国体の中枢に位置する立場に入っていくのである。
2012年11月17日
鉄舟県知事就任・・・其の五
鉄舟県知事就任・・・其の五
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
尊皇攘夷思想を同じく持ちながら、水戸藩は幕末低迷の上人材払底、長州藩は新時代を切り開く人材を多数輩出した。その差は時代を見抜く眼、時流の捉え方に要因したはずと前月の最後でお伝えした。
では、時代を捉え見抜くにはどうしたら良いのか。
それは世界事情に詳しい人物と接点を持つか、自ら外国に足を運び多くの体験を踏む事であるが、封建時代で海外渡航が禁止されている時代では、西洋知識・兵学について博識の人物から学ぶ事で身につけるしかないだろう。
この当時、西洋知識・兵学に造詣が深い人物としては、佐久間象山が第一級の人物として世上名高かった。従って、外国に興味と関心のある藩と人材は、象山と接触する事を通じて、外国事情を把握しようとしたのである。
そのひとつの証明ともなる象山書簡実物を眼にする機会があったので、少し回り道にはなるが、水戸藩と長州藩に対する背景分析に役立つ内容であるので補足したい。
先日、新潟県阿賀野市出湯(でゆ)温泉の川上貞雄氏邸にお伺いした。鉄舟書を拝見するためである。時折、各地から鉄舟書をお持ちの方からご連絡いただき出かけている。
川上氏は新潟県で知られる考古学研究者であり、何冊か専門書を書かれている。出湯温泉は、五頭(ごず)連峰西側の山裾に位置し、五頭温泉郷の一つとして、古くから湯治場として知られる静かな温泉地で、温泉街のつき当りには華報寺(けほうじ)があり、同寺を中心にした門前街を形成し、文化年間(1804~18)に発行されたと推定される温泉番付「諸国温泉功能鑑」に、出湯温泉は35枚目「越後出湯の泉」として記されている。
川上氏によると、開湯は弘法大師という謂れが遺るというが、実際の開湯歴史は700年から800年前ではないかと語る。なお、出湯温泉は平成16年(2004)までは北蒲原郡笹神村であったが、4町村が合併し、阿賀野川流域にある事から現在市名となった。
川上氏所有の鉄舟書は「為川上氏」と署名印のある貴重なものである。加えて、海舟、西郷、伊藤博文始め著名な人物の直筆書を多く拝見したが、その中でも佐久間象山の書簡は圧巻であった。
という意味は、佐久間象山に師事した吉田松陰の密航計画と、その挫折の顛末、併せて国防に関わる政策を述べており、象山と長州藩が昵懇であったと窺えるからである。
その象山書簡、まず、ジョン万次郎に対する評価から始まる。
「土州漂民万次郎預召出、御普請役に御取立て御座候を承り申、心窃(ひそ)かに欣ひ候」と述べるが「万次郎は偏鄙の地にて育ち候、猟師の子にて和漢の文字をも心得ず」「幼年にて漂流し候故に、此国普通の言語さえ差支多く候」と指摘する。
その上で「學才ある有志の士、彼地に漂流し、其形勢事情に心を付け、旁砲術兵法航海の技を学び、両三年にして帰朝候は、公邊(へん)の御重(じゅう)寶(ほう)に如何計り相成申しく、萬一公邊にて御取用ひ無之候とも、皇國一統の利益少なかる間しくと存候に付」と知者・識者が外国へ行くべき必要性を強調し、その具体的候補者として「吉田生と申者、當年廿五年の少年には候へとも、元来長州藩兵家の子にて、漢書をも達者に讀下し、膽力も有之、文才も候て、よく難苦に堪へ候」と吉田松陰が適任・適材であると断定している。
この書簡には年号がなく、四月十七日とのみ書かれている。川上氏は年号については確定できないとの見解であるが、前後に書かれた内容から安政元年(1854)ではないかと推定したい。安政元年とすれば、三月二十七日に松陰が米艦ポーハタン号に乗船し密航しようとしたすぐ後である。また、この密航事件に連座して松陰も象山も自藩に幽閉となっている。これらの関係について象山書簡を、さらに詳細分析する衝動にかられるが、当連載の趣旨とずれていくので、このあたりで止めたいが、象山と長州藩の関わりが強かったことは間違いないであろう。
その通りで実は、象山と長州藩士は多く関わっている。松陰始め、桂小五郎も象山に西洋軍学を学んでいる。
さらに、重要な史実は、長州藩の井上馨が象山によって国際情勢をつかみ、国防論の大事さを認識し、国を閉ざす攘夷思想に対し疑問を持ち始め、自らが諸外国の事情に通じる事が不可欠であると、藩の重役周布政之助らに提言・懇願し、その結果として文久三年(1863)五月十二日、以下の五人がロンドンに向かったという事実である。
伊藤 博文 後の初代内閣総理大臣
井上 馨 後の初代外務大臣
井上 勝 後の鉄道庁長官
遠藤 謹助 日本における造幣の父。大阪造幣局・桜の通り抜けの発案者。
山尾 庸三 法制局初代長官、東大工学部創立者
勿論、この企てには藩主毛利敬(たか)親(ちか)の同意を得ており、一人千両の資金を藩の御用商人に借財したりして苦労の上留学につながったのであるが、その発端は佐久間象山との接触、つまり、あの当時最も国際的な視野を持っていた象山から学んだ事が、ロンドン行きとなったのである。
この史実は、人は時流感覚に優れた人物から学ぶ事で、時代を見抜こうとする行動に変化する事例であり、この五人が明治時代に大きく影響する活躍を考えると、川上氏が保有する象山書簡は長州藩との深い関係を証明する貴重な記録である。
なお、この留学について司馬遼太郎が「翔ぶが如く」(二巻)で次のように書いている。
「伊藤は井上聞多(馨)らとともに長州藩の秘密留学生として横浜を出港した。当時長州藩は攘夷の大スローガンをかかげて国内の反幕気分の代表的勢力であったことをおもうと、この秘密留学生の派遣というは異様な風景といっていい。
攘夷とは、国際性を拒絶するという意味である。当時、桂小五郎といった木戸孝允や高杉晋作などは攘夷をもって幕府の屋台をゆさぶるてこにするというまでに政略的なものになっていたが、しかし指導層以外の長州人の九割九分はそうではなかった。かれらは本気の攘夷気分をもち、国際社会への参加を厭(いと)うことが神州をまもる唯一の道であると信じた。
その信仰がこの藩に強烈な熱気を生み、それが日本史がかつてもったことのないイデオロギー的結束の状態をつくりあげていた。いずれにせよ文久年間の長州藩は藩というより多分に思想団結体であり、ときには宗教団体ともいえる気分であった。
そういう気分のなかで、伊東ら数人の若い藩費留学生は藩大衆にも幕府にも内密で英国にむかって渡航したのである」
このように当時、過激な攘夷思想を唱え、幕府を攻撃していた長州藩、その藩主が承知して密航を企てたという事は、司馬遼太郎が述べる如く、藩の指導層は複層的思考をもち、いわば二枚舌というべき外交感覚を持っていたという意味になる。
これに対し、尊皇攘夷思想の宗家というべき水戸藩はどういう状況であったのか。
水戸徳川家は尾張、紀州藩と並ぶ御三家である。しかし、禄高は尾張が六十二万石、紀州が五十五万石に対して三十五万石にすぎない。当主の官位も両家が二位大納言に比べて、三位権中納言と一段低い。そのかわりに両家が参勤交代の義務を課せられるのに、水戸家は永代定府ということで常に江戸におり、巷間いわれる天下の副将軍という立場にあったが、両家は将軍継嗣者を出すことができるが、水戸家はこの資格がない等の差があった。
水戸家はさらに次のような重要な家訓があったとされる。
「晩年の慶喜自身の証言だが、二十歳のころ、斉昭に呼ばれて、『若し一朝事起りて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるゝがごときことあらんか、我等はたとひ幕府に反(そむ)くとも、朝廷に向ひて弓引くことあるべからず。是は義公(光圀)以来の家訓なり。ゆめゆめ忘るゝことなかれ』と教訓を受けたという」(「徳川慶喜」松浦玲著 中公新書)
この義公(光圀)によって「大日本史」の編纂に着手され、やがてそれが水戸学の発祥となり、尊皇攘夷の宗家になっていくのであるが、その背景にはこのような家訓があったからだと推察できる。だが、この水戸藩で培養された尊皇主義が、他藩にも伝播し、やがて倒幕運動に発展し、徳川家をほろぼす要因になったわけであるから、歴史とは分からないものである。
また、「大日本史」の編纂が水戸藩内紛の始まりでもあった。それは小石川の本邸内にあった彰孝館、その館長である立原翠軒と、門人である藤田幽谷との間で発生した論争によって、水戸学は翠軒、幽谷の二派に分かれ対立し、二人が亡くなった後もその子の杏所と東湖に受け継がれ、その対立に藩主斉昭継嗣に伴う藩内政争が重なって、さらに複雑な派閥分裂闘争に広がり、血で血を洗う激闘の犠牲は無惨で、朝廷側で生きのこれるどころか、明治新政府に登用されるべき人材が殆ど皆無の状態になったのである。
水戸藩の派閥闘争について、三田村鳶魚は、
「水戸の家中はみな貧乏である。三十五万石といっても実高は二十六、七万石でこんにゃくのほかには特産物もなく、国がはなはだ貧しい。藩士を扶持することもできず、馬、ヨロイなどを備えた人は少い。役職につかぬものは内職にウナギの串を削って暮さなければならない。役職につけばウナギを食う身分になれる。削るか食うかで大違いである。勢い権家にすがって役職にありつこうとする。ここに派閥が生まれ党争が起こる」(「幕末列藩流血録」徳永真一郎著 毎日新聞社)
この三田村鳶魚の解説を裏付けるのが、茨城県発行(昭和四十九年)の「茨城県史料・近代政治社会編Ⅰ」の記述である。「常陸国風土記」では気候はいたって温和で、五穀の実らぬところはないと触れながら、
「しかし、幕末、維新期には農村は荒廃しており、明治なってからは、産業のあまり振るわない県とみられてきた」と述べ、続いて「米穀、雑穀などの自給性の強い作物の比重が高く、商品性にとんだ原料作物はひじょうに弱い。しかも水稲の反当収量は、全国平均とくらべても、20パーセント以上も低く、農業生産力は、45府県中39位でもっとも低いほうに属する」
これら経済的問題に加えて、既に検討したように藩主の政治力問題が絡み、混乱に拍車かけたのであった。
一方、長州藩の財政は幕末時どういう状況であったか。その証明をするのが人口数である。長州藩は幕末にかけて人口が増加している。それを「開国と幕末変革」(井上勝生著 講談社)からみてみたい。
「十九世紀以降、幕末・維新期にかけて瀬戸内内人口の増加傾向は、一層はっきりしている。明治初年までには、1.4倍から1.9倍に増えている。その瀬戸内でも城下町の人口は減少しているから、十九世紀の瀬戸内の人口の大幅増大は、農村部の人口の増大を意味する。なかでも、明治維新で重要な役割をする長州藩(周防)と芸州藩(安芸)の瀬戸内農村部で人口が大きく増えているのが注目される」と人口推移を示している。
1721年(享保6) 1798年(寛政10) 1834年(天保5) 1872年(明治5)
安芸 361,431(100) 491,278(135.9) 578,516(160.1) 667,717(184.7)
周防 262,927(100) 357,507(136.0) 436,198(165.9) 497,034(189.0)
この人口増加は何を物語るか。長州藩では他国から農村部で人口が増えるほどに、豊かな財政状態であり、これが高杉晋作による「奇兵隊」発案の背景にあるわけで、通説的に言われている「惨(さん)苦(く)の茅屋(ぼうおく)」という表現で「江戸時代の農民は搾取され悲惨な生活であった」というかつての歴史学者の見解は、藩毎の自主経営の結果で異なるのである。
では、長州藩がどうして豊かな農村になったのか。それも「開国と幕末変革」が解き明かしている。
「本州周辺部の伯州(鳥取県)・周防(山口県)・知多(愛知県)などの木綿織物生産地では、十九世紀前半、他国から綿を買い入れて木綿織り生産をしている」と述べ「十九世紀になると、先進的な綿織物産地は高機を導入し、八、九人規模のマニファクチュアが広く生み出されていた」と解説し、結果として「商品生産をする中規模以下の経営の農民が、米を買う農家となっていた」つまり、年貢の米納制のために木綿を売り、米を買う農家が普通に見られたと指摘している。
長州藩では、水戸藩とは大きく異なるマニファクチュア産業が生まれていたわけで、これを指導し取り入れたのは藩主と幹部であるから、これら人材の時代を見抜く眼、時流の捉え方の較差が、両藩の実態を分けたといえる。
今の日本の政治家も、単に歴史的人物の個人名を挙げ、好き嫌いを言う前に、時代との関係をどのようにしたか、というところに心して歴史を学び、そこから今の政治を論ずる習慣を身につけてもらい。
本題に戻りたい。鉄舟は明治四年(1871)十二月二十七日に伊万里県に単身赴任した。文久三年(1863)ロンドンへ留学した井上馨からの要請によるもので、「新任参事が追い出され、県内が不穏」というのが理由であった。
ここで伊万里県、つまり、今の佐賀県であるが、何故に伊万里に県庁を置いたのかを説明する前に、廃藩置県当時の経緯を振り返り、伊万里という地の特徴をみてみたい。
明治四年(1871)七月、佐賀藩が佐賀県になり、支藩の蓮池、小城、鹿島の三藩と唐津藩は、それぞれ旧藩名をつけた四つの県となって、これらがまとめられて伊万里県となった。
その順序は、まず、九月に佐賀県と厳原県(旧対馬藩)を合併させて伊万里県とし、十一月に蓮池、小城、鹿島、唐津の四県が伊万里県を編入させたのである。
伊万里は焼き物の伊万里焼で知られ、ここにも江戸時代から窯場があったが、それより焼き物の集散地として著名で、有田町を中心に焼かれる有田焼も、積み出しを伊万里港からなされていたことにより一般的に伊万里と総称されている。
伊万里の商人は、仕入れた焼き物を販売するため各地に出向くことはせず、ひたすら他国商人が来航するのを待つという商売方法であった。「伊万里歳時記」に天保六年(1825)の「伊万里積出し凡(およそ)陶器荷高国分(くにわけ)」が記載されていて、三十一万俵の焼き物が積み出され、筑前商人二十万俵、紀州商人六万俵、残りは伊予、出雲、下関、越後の商人であった。
(「新いまりの歴史散歩」伊万里教育委員会)
では、この伊万里に県庁を置いた背景に何があったかである。
「佐賀県の百年・県政百年史」によると「伊万里に県庁を移したのは、旧佐賀本藩が改められて出来た佐賀県の希望であり、三つの旧支藩や旧唐津藩・旧対馬藩などを管轄するうえから、人心一新・海上交通の便を理由に県庁を伊万里の円通寺に移したのであった。政府に提出した願書によると、人心を一新するというのも、本当は元の武士階級を士族という名称にあらため、一般の市民に組み入れるのが困難であったからと考えられるし、また旧佐賀藩であった佐賀県としては、唐津港よりも本来領内にあった良港、伊万里港を交通の中心に考えたのであろう」と述べている。
一方「伊万里市史」によると、旧藩主が東京に移住した後「大参事古賀定雄・権大参事富岡敬明ら佐賀県庁中枢の人々は、廃藩置県に際し民部省に宛てて伺書を提出した。その中で彼らは、当年春から士族土着の制を始めとした改革に着手したものの旧来の陋習を脱することができないため、県庁移転を提起した。また、大参事・小参事以上の官員を新たに選んで中央から派遣するよう要請している(明治行政資料)」
「佐賀藩時代の禄制改革に不満を抱く百名を超える士族卒は、十二月十四・十五日と連日伊万里県庁に押しかけ、騒動になった。大蔵省から鎮撫のために派遣されていた林友幸大参事心得も加わって説得し、了解しがたい者は書面を差出すよう達したところ、十九日までには全員引き揚げ、いったん事態は鎮静した。しかも騒動の最中の十二月十六日、大参事心得林友幸・大参事古賀定雄はそろって政府に進退伺を提出したのである(明治行政資料)」。
以上が伊万里市及び佐賀市で実際に調べた資料からみた、鉄舟が伊万里県に赴く背景であって、これが井上馨の「新任参事が追い出され、県内が不穏」という内容に該当しているものであった。
いずれにしても鉄舟は伊万里県に赴任した。県庁は円通寺であったが、ここで鉄舟はどのような活躍をしたのであろうか。それを次回にお伝えするが、今年は鉄舟が伊万里県に赴いてちょうど百四十年に当る事から、佐賀県美術館で特別展「山岡鉄舟」(平成23年12月~24年1月15日)が開催されたことをお伝えし、次号では伊万里における鉄舟治世をお伝えしたい。
2012年10月30日
鉄舟県知事就任・・・其の四
山岡鉄舟研究 鉄舟県知事就任・・・其の四
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
前号の終りに「鉄舟は戦略を明確にして行動する」人物とお伝えした。
この戦略を目的・目標という言葉に言い換えれば、誰でも当然に持っているものだろうと思って、今までいろいろなところで、実際に何人かに尋ねてみると「漠然と生きているので・・・」という回答を多々受け、驚いている。
これは日本人の大問題であると感じていたが、2011年8月31日の民主党両院議員総会で、野田佳彦新首相が語った「皆さんはミッドフィルターになってほしい。私を含めてセンターフォアードになりたい人はたくさんいるが、この党に今一番必要な役割は、一人ひとりのかけがえない能力が存分に発揮できる組織だ」「全体を見渡して、戦略的にパスを回せるミッドフィルターの集団が必要です」という発言を聞くと、政治家はFW気質の人が多い、つまり、首相や大臣になりたいという戦略・目的・目標を持った人物の集まりだという事になるので、少し政治家に違った感覚を持ったところだ。
このように政治家や意欲ある一般人が、積極的に生きようと戦略意識を持つことは大事で重要なことだが、これらと同じレベルで鉄舟の戦略を考えるととんでもない間違いになる。鉄舟の戦略思考は一般に認識されているものと根本的に異なっている。これを、まず補足解説したい。
それは、鉄舟と今の人達とでは、戦略構築する以前に、人間哲学思想へのアプローチに格段の開きがあるという事である。人間としての鍛え方が違い過ぎ、器に差があり過ぎるといってもよいが、比較する基準において雲泥の差がある。
どのような隔たりがあるのか、それを妥当・適切に解説するのは難しいが、あえてこの難しさの中味を解説するとしたら、本連載タイトルの「命も要らず、名も要らず、金も要らぬ」に戻らねばならない。
西郷隆盛の「南州翁遺訓」に
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹(しまつ)に困るもの也。此の仕抹に困る人ならでは艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。去れどもかような人は、凡俗の眼には見得られぬぞと申さる・・・」(荘内南州会)
これは具体的には鉄舟のことを述べたのである。慶応四年(1868)三月駿府における江戸無血開城会談時に、西郷が鉄舟と初めて接し、鉄舟という人間力に驚嘆し、それを書き述べたものである。
その西郷の驚きをひとつ一つ解説してみたいが、まずは「命もいらず」である。
鉄舟は当然に命を捨てる覚悟で、官軍が充満している道中を駿府まで赴いた。だが、この不惜(ふしゃく)身命(しんみょう)(身命を惜しまない)は鎌倉時代からの武士道であり、特に幕末時の混乱期では、多くの武士が命をかけて行動していたし、西郷の回りにいる志士の多くも同様であったので、西郷はあまり驚かなかっただろう。鉄舟の必死覚悟は当時では特異なものでないという意味である。
しかし、武士が「名もいらず」という事は、武士にとって普通レベルではない。何故なら、武士とは名を惜しむのが当たり前の行為なのである。「人は一代、名は末代」「名こそ惜しけれ」というように、武士は名・名誉に執着するのが当然の常識であって、鉄舟の「名もいらず」は武士にとって「考えられない」奇矯な指針である。
さらに、「官位も金もいらぬ」という事も、武士にとって生半可な境地でない。本来武士は、戦うための士であるから、戦場で命をかけて戦うのは、例え、戦地で自分が死んでも、その死に方によっては論功行賞に影響し、所領確保又は増地という期待に結びつき、子孫が引きたてられ、家門繁栄の成否に跳ね返る。それゆえ「官位も金もいる」のが武士であるから、鉄舟は別格なのである。
このように武士が「名を求め」「官位と金を求める」事は常識であった。同じように政治家も首相・大臣になる事を目指しているのは常識的であり、「漠然と生きている」多くの一般日本人と比較すれば立派といえるだろう。
ところが、鉄舟は違った。県知事という名誉と、官位に就く事で収入増になる事に全く興味と関心を持たないのである。というより最初からそのような意識がないのである。
鉄舟が目指したものは、今までの武士道として成り立たせてきた支柱たるべき指針・考え方・良識を否定し、常識化されていた道徳概念指針を取り払い、解放し、もっと広々とした、天下の公道にまでシフトさせ、普遍性ある理念道徳に格上げしたいというものであった。
言いかえれば、古来より伝わってきた武士という狭い仲間集団の道徳意識を、国民道徳というべき「日本人として生きる道」へ敷衍させたいというのが、鉄舟が目指す「生涯戦略」であったと考えている。
実は、ここが西郷隆盛の「敬天愛人」思想と通じ合うところであり、その思想的共感が駿府会談成功の背景にあり、西郷が明治天皇の教育掛・侍従として鉄舟を推戴した本旨であった。
また、鉄舟が侍従として皇室という国体枢機の核心に居つつ、明治十三年の大悟境地に達することで、明治二十年(1887)の「鉄舟武士道講話」につながっていくのである。
この「鉄舟武士道」は、明治33年(1900年)新渡戸稲造が著した「武士道」(日本版)、これは前年に米国において英語で出版したものだが、これとも全く異なるもので、「人間完成」という視点からは「鉄舟武士道」の方が日用に資するのではないかと思っているが、これについては鉄舟という人物をさらに追及してからお伝えすることにしたい。
さて、県知事就任を固辞する鉄舟に、大久保利通が茨城県知事(参事)を引受けさせようとした背景には一つの前提と二つの背景があった。
まず、最初は前提である。周知の通り、大久保の盟友は西郷である。同じく薩摩藩の下級武士階級出身であり、幼少よりの同志であり、幕末維新の新時代を共に切り開いてきた仲であって、当然のことながら駿府の西郷・鉄舟会談による江戸無血開城への偉業は、西郷と鉄舟の個人的な人間力によって成された事も知り抜いている。
つまり、大久保は西郷を通じ鉄舟の人間力について通じていたわけで、これが政治的内紛による「難治県」をまとめる人材として鉄舟が最適だと判断した前提であった。
背景には二つあった。
その一つは「難治県」実験シミュレーションであった静岡県の動きをつぶさに検討した結果、鉄舟を再認識した事である。
もう一つは因縁であり、大久保は次のように説得した。
「茨城県を特に貴殿にお願いしたいというのは、ご承知の通り水戸は旧幕時代以来の内紛を未だに解消できず、どうもうまく運営されていない。そこで、慶喜公とも徳川宗家とも特に縁故の深い貴殿にご出馬願いたいという事にしたわけです」
ここまで当時、飛ぶ鳥落とす勢威を持つ大久保から懇切に諭されては断る事はできない。
「では、承知いたしました。水戸に参ります」
「お引き受けいただけますか。助かります」
「但し、条件がございます」
「何でしょう」
「現在の内紛をとりまとめれば、辞めさせていただきませんか」
「どうも、それは何とも・・・。分かりました。そういう事にいたしましょう」
「では、お引き受けいたします」
鉄舟が水戸に入ったのは、茨城県が設立された日であった。明治四年(1871)七月十四日の廃藩置県によって成立した「水戸県」「笠間県」「宍戸県」「下館県」「下妻県」「松岡県」の六県が、同年十一月十三日に合併して「茨城県」となり、各県の旧石高から考え茨城県の中心は旧水戸藩領であって、県庁は水戸におかれた。
現在の茨城県体制になったのは、新治県の大部分と常陸六郡を合併した明治八年(1875)五月である。
鉄舟が水戸の県庁に着任した後の行動、その具体的な資料を水戸市の図書館・博物館等で調べてみたが見つからない。記録としてはないのかも知れないが、鉄舟関係の書籍では水戸での活躍ぶりが書かれているので、何か別に確証がある資料があるのかもしれない。その中から「山岡鉄舟 幕末・維新の仕事人」(佐藤寛著)によって紹介する。
「新茨城県が成立する前日に辞令を受け取ると、着任日を県庁に連絡することなく、鉄太郎(鉄舟)はすぐに出発した。参事決定の人事は県庁に当然知らされていただろうが、新参事が突然にふらりとやってくることは想定していない。鉄太郎は、秘書官を連れることもなく、朝の出勤時に地味な身なりで新参事と称して一人で登場した。このときの職員たちの驚きを想像するだけで痛快である。
ところが、典事、権典事など、現在でいえば局長クラスの幹部職員はそんなに早く出勤はしない。
『幹部たちは出勤していないが、どうしたのか』
鉄太郎の大きな目玉でギラリとにらまれた職員たちは、幹部の自宅に走ったに違いない。昼近くに出庁してきた増山典事をはじめ幹部たちを一喝して、その日は終了した。そして翌朝から、幹部一人一人を部屋に呼んで行政担当部門の現況報告を求め、びしびしと質問をする。しかし、けっして矢継ぎ早に表面的な数字などを追及するタイプではない。
過酷な状況下での静岡藩で得た実務経験から、ポイントをはずすことのない本質に迫る質問であっただろう。そしてすぐにその場で指示を与えていく。鉄太郎には新生日本国の新茨城県のあるベき姿が見えている。慶喜の出生の地であり、尊皇の発祥の地でもあるにもかかわらず、薩長土肥に比べて新政府内での位置が低いことにふがいなさも感じている。
しかし、面白くないのは幹部職員たちである。“よそもの”のスピーディな事務進行によって、自分たちの畑を荒らされるような思いである。
増山一派は、初日の一件も含め、仕返しのタイミングを探った。そして、近く催される歓迎会の宴席で大酒を飲ませ、新参事に失態を演じさせようと考えた。鉄太郎より自分たちの方が酒は強いと自負していたのである。
一方の鉄太郎は、内紛の原因究明とその対策のために調査を開始した。そこで、水戸の事情に詳しい石坂周造から知らされた一人の男に到達する。水戸藩内の抗争で退いていた山口正定のことである。彼の評判が良いことを確認すると、自分一人で会いに行った。人物を確かめ、施政についての考え方も聞いた。そうして彼に惚れこんだ鉄太郎は、この男の県政復帰のタイミングを図っていた。
歓迎会が水戸市内の料亭で開かれた。待っていましたとばかりに増山陣営は交代で鉄太郎に大酒攻勢をかける。とうとう一升の大盃を持ち出し、酒豪を誇る増山典事と一対一のバトルになった。三杯目を鉄太郎が飲み干し、その返杯に口をつけたとき相手は気を失って倒れた。
翌日、増山典事が出勤してきたのは昼過ぎだった。鉄太郎はこのタイミングを待っていた。遅刻を大喝し、その場で典事の職を解任、そして権参事に山口正定を据える発令を行ったのである。職員たちはこれらの人事断行に度肝を抜かれた。
水戸藩低迷の原因は内紛である。普通ならばその内紛のバランスに乗って、あるいは内紛にメスを入れると称して、自派の権勢を拡大することを考える。そこで名声を高めてさらに中央行政の階段を上がろうとする。そんな姿勢が見え隠れすると人々が心服することはない。
野心のない鉄太郎の出した答えは単純明快、内紛のガンを大きくしているトップを排除したのである。
鉄太郎の断固とした方針のもと、旧怨を捨てた山口権参事の仕事ぶりに職員の間にも共感が広まってきた。こうなれば、県庁の風土はがらりと変化する。これを見届けると、鉄太郎は参事辞任の確認を行うために東京に出張した」
これが佐藤寛氏による展開内容である。その他の鉄舟関係書籍もほぼ同様のストーリーである。
ところで、鉄舟が後を託した山口正定という人物、天保十四年(1843)生で、藩内が党派の抗争にあけくれている間、山口は終始不偏不党であり、廃藩後は閑居していたが、鉄舟に認められ権参事に任じられたのが二十八歳。後に宮内庁の侍従となり侍従長を経て狩猟局長官に昇進、明治二十九年(1896)に男爵となっている。
水戸藩出身者としては、皇后大夫香川敬三とともに宮内庁の高官として明治三十五年(1902)死去するまで、三十年間宮中にあった経歴が示すように有能であったと思われるので、鉄舟の判断は間違ってはいなかったと思っている。
いずれにしても、名にもお金にも官位にも拘泥しない鉄舟であるから、当初に定めた「内紛に一応の目途がたてば辞める」という戦略目標を達成し、水戸県知事在籍二十日あまりで辞任を申し出ようと東京に戻った。
ところが、この時、大久保利通は政府が派遣した岩倉具視団長の遣欧使節団に参加していたので不在である。そこで大久保大蔵卿の留守を預かる井上馨大輔(たゆう)、この職位は大蔵省の副大臣にあたるが、その井上馨に辞任を申し入れた。
「井上さん、茨城県での約束任務は終えましたので、参事を辞任したいと思います」
「山岡さん、そんなことを大久保卿が留守の間にいわれても困ります」
「いや、大久保さんとは内紛に目途がつけば辞めると約束し、了解いただいております」
「しかし、せめて後任を決めるまでは・・・」
「後任なら大丈夫です。権参事の山口正定がいますから。彼は公正な立派な人物です」
「うーん。これは困った」
と井上が唸っていたが、何事か思いついたらしく、急に態度を変えて
「よろしい、山岡さんの辞任を受け入れましょう」
「ありがとうございます」
「しかし、いずれそのうち、また何かお願いする事があるかもしれません。その際は、是非、ご協力願いたい」
「分かりました」
と鉄舟は差し迫った事とは考えずに井上の許から退出した。
それから十日程経った十二月中旬のある日、井上から呼び出し状が届いた。
「やぁ、山岡さん、過日は失礼した。ところで水戸の疲れはとれましたかな」
「お陰で、元気しております」
「実は、茨城県をおやめになる際に、いずれお願いしたいという事で来ていただいたわけです」
「何でしょう」
「それは、九州の伊万里県の権令(県知事)をお願いしたいのです」
「いゃ、それは・・・」
「山岡さん、約束ですぞ。手助けすると」
「どうしたのですか、伊万里県は」
「新任参事が追い出され、県内が不穏なのです」
鉄舟は年末の十二月二十七日に伊万里に単身赴任した。
ところで、野田新首相の「どじょうがさ、金魚のまねすることねんだよなあ」が評判を呼んでいる。相田みつおの引用である。
これに加えて、野田首相の発言「思惑でなく、思いを」「下心でなく、真心で」「論破でなく、説得を」等に、我が意を得て、バンザイの気持ちで大変感動したという手紙が筆者に届いている。
首相が毎年変わる機能しない政治、政治家達の内輪もめと、角突き合わせ、エコノミストの表紙に「日本化」と揶揄される現状、全ては日本国内の政治的内紛から発している事で、それを憂える国民から筆者のところまで悲憤慷慨として伝わってくるのである。
今こそ鉄舟に匹敵するレベルの人物が必要だと思うが、それは所詮無理であるから、出だし評判高き野田新首相に頑張ってもらうしかないだろうと思っているが、同じ尊皇攘夷思想を持ちながら、水戸藩は幕末低迷し人材払底、長州藩は新時代を切り開く人材を多数輩出。その差は何か。多分、時代を見抜く眼、時流の捉え方に要因したはず。
鉄舟が伊万里へ赴任する前に、そこを一度整理しておくことが、今の政治家及び一般人に対して参考になると思われるので、それを次号で述べ、伊万里県へと展開したい。
2012年09月23日
鉄舟県知事就任・・・其の三
鉄舟県知事就任・・・其の三
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
明治四年(1871)十一月、鉄舟は大久保利通の指示をうけ茨城県に参事(県知事)として任じられた。理由は茨城県が難治県という事にあったが、茨城県に続いて伊万里県権令(佐賀県知事)にも赴いたが、ここも難治県対策としてであった。
今は難治県といってもピンとこなく、当時の実態状況を整理しないと難治県という意味が分からないだろう。
まず、明治二十五年(1892)刊行の一書によれば、難治県とは「新潟、富山、茨城、愛知、山梨、秋田、石川、鳥取、島根、高知、福島、佐賀、熊本」の十三県となっており、茨城県は第三位、佐賀県は第十二位にランクされている。(「茨城県政と歴代知事」森田美比著)
宮武外骨(明治〜昭和期のジャーナリスト)は、明治八年(1875)の朝野(ちょうや)新聞(明治七年~明治二十六年まで東京で発行された民権の政論新聞)の記事から推測して、難治県とは不平士族の多い県であり、県庁の役人が手こずる県であり、また、中央政府(大蔵省、内務省)にたてつく県をいう。
そして、七難県とは、佐賀、鹿児島、高知、山口、石川に加えて愛媛、酒田を指していったものと思うと(「府藩県制史」昭和十六年)、佐賀県をトップに位置付けている。
この明治における両年資料を比較すると、八年では鹿児島、愛媛、酒田が難治県として認識されていたが二十五年では抜け、新たに新潟、富山、茨城、山梨、秋田、鳥取、島根、福島、熊本が加わり、この中に茨城があって、鉄舟が大久保の指示でわざわざ出向いたのであるから、廃藩置県当時で既に相当難しい県と考えられていたことは間違いないであろう。
その証明ともなるのが、茨城県発行(昭和四十九年)の「茨城県史料・近代政治社会編Ⅰ」である。茨城県自体が以下のように認識している。
「明治初年の茨城は、政府-県当局側にとっても、また民衆の眼からみても激動と波瀾がたえずくりかえされていたのである。
こういうのはほかでもない。茨城地域は、日本全体が維新変革の渦中にまきこまれたその一環として位置づけられるだけでなくして、旧水戸藩を中心とする十数の小藩、数多くの天領、旗本領が幕藩制の倒壊と明治維新政権の誕生ドラマに一役演じていたからである。とりわけ幕末の元治甲子の乱( 元治元年に筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊王攘夷派によって起こされた一連の争乱)にみられる天狗、諸生の党争は、ひときわ鋭い爪跡を維新後にももちこむこととなった。
すなわち周知のように、明治維新政権が成立し、水戸藩主徳川慶(よし)篤(あつ)*も慶応四年(1868)のはじめには新政府に協力する姿勢をとっていた。しかし藩内で勢力の強い家老市川三左衛門派は、水戸城を占拠し、その後会津藩の佐幕軍と手を結んで政府軍に抵抗し、さらに水戸に舞い戻り水戸城を襲って『弘道館の戦い』(明治一年十月一日水戸城三の丸内にあった水戸藩藩校・弘道館における保守派の諸生党と改革派の天狗党の戦い)をひきおこし、新しい時代の夜明けのなかで、水戸藩内の党争は激しさをくわえていたのである。明治初年の政府派、佐幕派に分れての対立抗争や動揺、混乱は、結城とか下館などの諸藩にもみられた。
この党争は廃藩置県後にも尾をひき、対立は旧士族の間だけではなく、荒廃せる村々の内部や民衆の意識の底にも暗い重い影を投げかけていた。
彰孝館蔵(江戸時代に水戸藩が大日本史を編纂するために置いた修史局)『雨谷直見聞集』によると、このころは五派に分れ『五千ノ貫属(かんぞく)(水戸藩に属する者)一人此派ヲ遁ルヽ者ナシ市人村民ニ至ル迄亦其類ヲ媛(ひ)ク』というありさまであった。
当時の世相にかんして明治五年(1872)十一月の『茨城県および隣県状況探偵報告書』はひとつの手がかりをあたえてくれる。報告書は、その内容をみればあきらかなように、下総、上総の民情と常陸(現在の茨城県北東部)のそれを差別して、常陸の民衆は党派をかため、頑固で、猜疑心が強く、時代の変化に思いをはせる態度に欠けていると、論じている。
明治政府にとってみれば、茨城県は反政府的な空気が強いだけに目の上の瘤の存在であった事情も想像できる。茨城の『近代化』への歩みは、明治政府との関係からみて、まことに多難であった。
『自分たちの国を他国者に支配』させないというその水戸気質と、反政府的な動きこそは、幕末、維新以来の旧水戸藩内の抗争の重い遺産としてもちこまれてきていた。その遺産がまた茨城の地域にとってみれば、明治政府から継子扱いを受けざるをえなかったひとつの原因ともなっていたのである」
これらの記述は茨城県発行の史料であるから、述べられている中味は重い。さらに次のようにも書き綴られている。
「県域にはさらに多くの問題がもちあがっていた。たとえば徴兵制の免疫条項をたてにとっての徴兵忌避の傾向とか、小学校維持経費の負担の重みなどの理由で児童の就学率は男子が53パーセント、女子はなんと15パーセントにすぎなかったことは、その証左の一例であろう」
「茨城地域のなかで、明治初年に農業人口は全人口の90パーセントをうわまわり、生産物のなかでも農産物の比重は圧倒的に高かった。米穀、雑穀などの自給性の強い作物の比重が高く、商品性にとんだ原料作物はひじょうに弱い。しかも水稲の反当収量は、全国平均とくらべても、20パーセント以上も低く、農業生産力は、45府県中39位でもっとも低いほうにぞくしていた」
「茨城県内には政府から手厚い保護を受けた企業もほとんどみあたらず、この地は工業、軍事的にも重要でない地域としてとりあつかわれてきた。事実、茨城県は国是遂行のための幹線鉄道計画の対象から長期間はずされていたありさまである」
「難治県は権力の作用によってその度合いを強められ、さらに後進性を付加されていく。しかも統治のうえから作為的に後進県として扱われていけばいくほど、民衆は、『荒っぽい気質』の茨城県人の根性を表出していくのである。民衆は、大多数を構成する無気力な層や無言の抵抗者をふくめて、国の政治方針に単純に同化したり、追随していくはずがない。なかには落後者も輩出する」
これらの記述、自県をあまりにも客観的に冷静に分析しているので、これが県庁の発刊した史料とは思えない気もするが、明治新政府に水戸藩から登用されるような人材がほとんどいなかったという悲惨な実態から考えると事実であろう。
では、どうしてこのように指摘される問題県になってしまったのか。それは幕末時点の藩主の政治力に起因していることは間違いないと思う。
元々水戸藩は、家康の第十一子頼房から始まる徳川御三家という天下に由緒正しき名門であり、水戸黄門として著名な頼房の子光圀が大日本史の編纂に着手し、やがてその先に水戸学の発祥につながり、幕末時に朝廷から一般民衆まで熱く強く唱道された尊王攘夷論の発祥地である。
尊王攘夷とは、米使ペリーが、艦隊を率いて浦賀に来航した嘉永六年(1853)から、明治維新(1868)までの十五年間吹き荒れた思想だが、この始まりは、水戸烈公(斉昭)の弘道館記にある「王を尊び、夷を攘(はら)*ひ、允(まこと)*に武に、允に文に」の一句からであったように、尊王攘夷論大本山は水戸藩であり、当時の藩主は徳川斉昭(烈公)であった。
文政十二年(1829)八代藩主斎(なり)脩(のぶ)が逝去、その跡継ぎとして斎脩の弟の敬三郎が斉昭として九代目藩主となった。だが、斉昭が藩主になるに当たっては、すんなりと収まったわけでなく藩内で激しい跡継ぎ抗争があり、それがその後の水戸藩の混乱を助長させた最大要因となったが、斉昭を支えた人物の会沢正志斎、藤田幽谷とその子藤田東湖などが、いずれも攘夷論者として優秀な鋭い論客であって、その影響を受けた斉昭は強固な攘夷論を唱導する人物となり、攘夷論者から巨頭として仰がれる存在なっていた。
ところが、斉昭が六十一歳で急死。この死には水戸浪士による井伊直弼大老桜田門外の変の報復暗殺だという説もあるが、斉昭亡き後藩内が混乱を極めてきた。
それは、次の藩主慶篤、これは斉昭の子であったが、全ての判断に主体性がなく、家来からちょっと強く主張されると「それがよかろう」と答えるので、「よかろうさま」と陰口を叩かれるほどであったので、異論溢れる藩内を統一できるはずがなく、混乱に混乱を重ねて「茨城県史料」が指摘する状態になったわけである。
つまり、藩主の性格に基づく政治力の問題から茨城県は苦境に陥ったのである。
では、伊万里県はどのような状況だったのだろうか。
伊万里県は茨城県とはまったく違って、幕末時に名君鍋島直(なお)正(まさ)(閑叟(かんそう))*が登場し、明治維新立役者藩の薩長土肥という一角を占めた実力藩であり、上野の彰義隊を一気に打ち破ったアームストロング砲を製造・保有していたように、当時最も軍事改革が進んだ開明的な藩であったが、ここも茨城県とは異なる理由で難治県であった。
まず、佐賀県の特徴を佐賀県政史(昭和54年佐賀県発行)から拾ってみたい。
「県内の山野には樟(くす)が多い。昔は一層繁茂していたようで、『肥前風土記』には樟の巨樹説話があり、佐賀の地名は樟が栄えていたので名付けられたとしてある」
「佐賀平野は自然条件に恵まれ、有明海沿岸では古来不断の干拓による耕地の拡張が行われてきた。幕末、佐賀藩は均田制と称される農地改革を行い、土地所有・農業経営が合理化され、大正末年から灌漑が機械化され、いわゆる『佐賀段階』(飛躍的に農業が発展した段階)といわれる高反収の農業を確立した」
「幕藩体制が確立し、鎖国による危機感のない平和な時代を迎え、藩内のモラルが低下すると、佐賀藩士山本常朝は『葉隠』を著して、藩士の心を引きしめた。この内容は佐賀人の精神文化面に大きな影響を与えた。
幕末の名君鍋島直正は、外国船が日本沿岸をたびたび来航する中で、いち早く国防の必要性を建策、佐賀藩の独力で築地と上多布施の二か所に反射炉をつくり、鉄製大砲を鋳造した。これは日本における最初のものである。ここでつくられた大砲は品川台場、長崎台場などに備えられた。幕末の佐賀藩は日本最大の兵器廠であった。
一方、玄界灘沿岸は最も大陸に接近しているので、古来彼我の交流密接であった。『魏志倭人伝』にみえる『末蘆(まつろ)』は東西松浦郡付近とみられる。古代に銅鏡や銅剣などがいち早く輸入されたごとく、近世、中世より製陶技術が伝来して、唐津焼や有田焼の郷土産業を興す嚆矢となった」
この県政史で分かるように、佐賀県は恵まれた自然・風土にあり、そこに名君鍋島直正が登場したのであるから、幕末時の佐賀藩は全国でも有数の豊かな藩となっていた。
しかし、直正の父第九代藩主斉(なり)直(なお)の時代は財政が厳しく、藩の負債額は膨大になっていて、天保元年(1830)に直正が第十代藩主となって、江戸屋敷から国元に向かおうとした時、借金の取り立てに押しかけた商人たちのために、藩邸から出ることができず、一日延ばしたという。
これ以来、直正は倹約統治を進めた。粗衣粗食、役所の経費切りつめ、参勤交代人数と経費の減少、江戸藩邸維持費の減額を行い、続いて藩の役人人数を三分の一整理し、全ての家臣に対して知行地・切(きり)米(まい)(俸禄米)の支給をやめ、藩政を担当している「勤役(つとめやく)」の場合、千石以上の者には知行(切米)の20%を支給、役職をもたない「休息(きゅうそく)」の者には15%の相続米(生活費としての実費)を渡すことにした。
また、人事の刷新と共に行政機構の改革を進めたが、最も効果が大きかったのは「利留(りどめ)永(えい)年賦(ねんぶ)」「打(うち)切(きり)」という手段をとった事である。これは利子を払わず何十年もの年賦返済であり、一部返済し残りは踏み倒ししたりした。
その一例としては、長崎商人たちへの返済は、ほんの一部を支払うだけで、後は七十年年賦とか百年年賦というもの。大坂の豪商三井は借銀の四分の三を献金させられた。
加えて、見逃せないのは「加地子(かじし)猶予(ゆうよ)」であろう。これは藩に納めるべき年貢(地子)を確保させるために、小作人が地主に納める「加地子米」を猶予させる事であった。これは地主の立場を否定するものであって、あくまで年貢を完納させることが目的であった。
さらに、防風林・木材・薪としての榛(はん)の木の移植、綿花の栽培、甘蔗の栽培による砂糖製造、平戸からの鯨の締(しめ)(占)買(がい)(買占め)、石炭採掘などにも熱心に取り組み、藩主直正は大坂商人たちから「算盤大名」とまで呼ばれるほどであった。
加えて、教育面も重視し、医学館の建設と藩校の弘道館を拡充させ、軍事面では幕府が安政二年(1855)に設立した長崎海軍伝習所、これは海軍士官養成のためで、オランダ軍人を教師に、蘭学(蘭方医学)や航海術などの諸科学を学ばせるためのものだが、ここの伝習生百三十名のうち、幕府からは四十名だったが、佐賀藩からは四十八名を派遣させ、オランダ人との交流にも積極的だった。
したがって、幕末時の雄藩であったから佐賀県には難治県の要素がないように考えられる。だが、既にみたように明治八年、二十五年の両方資料で佐賀県は難治県として認識されている。そこには茨城県とは異なる理由が存在したが、これについては次号以下で述べたい。
さて、この両県に鉄舟が県知事として赴任したのであるが、鉄舟は必ず戦略を明確にしてから行動する人物である。戦略が明確だからこそ判断が適切・妥当となる。ここが鉄舟の最大の魅力であり、今の政治家の多くが持ち得ていない要素である。
一介の下級旗本で、一度も政治的立場に立ったことがない鉄舟が、実質官軍総司令官である西郷隆盛との外交交渉に駿府に向かうよう、徳川慶喜から直接命を受ける異例の事態となり、当時の首相の任にあった軍事総裁としての勝海舟と練り上げた戦略は「徳川慶喜の生命確保」であり、他の和平条件はすべて受け入れる事で、江戸無血開城に結び付け、日本の新時代を切り拓いたのである。いかに時流に的確な戦略が大事だという証明である。
水戸や伊万里に赴くにあたっても同様、それぞれの状況に合致した戦略を明確にし、行動した結果が、茨城県ではたったの二十数日という短期在任、伊万里県でも一か月程度で東京に戻るという背景にあった。では、その戦略とは何か、これも次号に譲りたい。
2012年08月24日
鉄舟県知事就任・・・其の二
鉄舟県知事就任・・・其の二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
東日本大震災時の日本人行動が世界中から称賛され、その行動の底流に武士道精神があり、それは仏教に関係していると先号でお伝えした。
既に触れていることであるが、多くの日本文化人は、この称賛されている行動について、あまり詮索せずに、せいぜい日本人のDNAだろうとか、本来持っているものが顕現された、というような表現で新聞紙上に発表している。
ところが、諸外国の新聞では「何故に日本人はあのような行動がとれるのか」という本質追求、実態を探ろうとする論調での報道が多くなされている。ここが日本人の感覚と異なるところであるが、今のところそれへの解答が日本人から正式になされているとは思えず、この鉄舟連載で述べているくらいではないかと思っていたところ、あの村上春樹がバルセロナで外国人に対し解答を行ったので、それをまずは紹介したい。
2011年6月9日スペイン・バルセロナにおけるカタルーニア国際賞授賞式での講演である。
「日本語には無常(mujo)という言葉があります。いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。これは仏教から来ている 世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。
『すべてはただ過ぎ去っていく』という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。
自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、秋になれば紅葉を愛でます。それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど自明のこと であるかのように、熱心にそれらを観賞します。桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、ホテルの予約をとることもむずかしくなります。
どうしてか?
桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。
そのような精神性に、果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、僕にはわかりません。しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、ある意味では『仕方ないもの』として受け入れ、被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのは確かなところです。あるいはその体験は、我々の美意識にも 影響を及ぼしたかもしれません。
今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、普段から地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。
でも結局のところ、我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。それについて、僕はあまり心配してはいません。我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです。いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できます。
結局のところ、我々はこの地球という惑星に勝手に間借りしているわけです。どうかここに住んで下さいと地球に頼まれたわけじゃない。少し揺れたか らといって、文句を言うこともできません。ときどき揺れるということが地球の属性のひとつなのだから。好むと好まざるとにかかわらず、そのような自然と共 存していくしかありません」と。
諸行無常sabbe-saMkhaaraa-aniccaa, とは、仏教用語で、この世の諸行という一切のつくられたものや現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。
この諸行無常が古代から日本人の中に宿っていて、それが無意識に「危険や災難を目前にしたときの禁欲的な平静さ」という行動を導き、再びその精神によって復興させていくのが日本人の特性だ、と村上春樹は述べているが、その通りであろう。
やはり村上春樹は鋭いと思う。世界から日本を見ている。世界の人々が今の日本をどう見ているかという事実をつかんで、そこから外国人に向かって説明しているのである。
普通に考えれば、文学賞の受賞講演であるから、自らの文学スタイルについて話すというのが通常ではないか。
ところが、村上春樹は無情という事を通じて被災地の日本人行動を語り、次に福島原発に対する見解、それは当然に日本政府と東京電力への批判を述べたのである。世界中の人々は、日本のバカらしい政治家の争いなどには興味を持っていない。今や福島原発への関心が最大事項であり、続いて日本人の被災地行動要因について知りたいのである。
この事実を殆どの日本人識者は知っているだろうが、世界に向かって解説していない。新聞は毎日バカバカしい国内政治騒動に紙面を費やし、それを読む日本人はくだらないと思いつつ、その方面に興味と話題が向いてしまい、世界から日本を見るという視点を忘れる。その上に記者クラブ性という世界でも稀な特殊報道機関体制の日本であるから、全く正しい妥当な情報が流されているとは思えない。
福島原発問題の日本政府報道が、世界から批判されていながら、改善しないままであるから、世界の知的階級は的確な情報に飢えているのである。その証明がボストンコンサルタントグループによる調査で「訪日の安全性に関し、その情報源の評価を聞いたところ、日本政府を信頼できるとした回答はわずか14%」(2011.6.14日経新聞)という実態であるから酷いものである。
そのような状況を村上春樹は理解しているので、バルセロナの講演となったわけで、さすがと思う。講演の最後に「今回の受賞賞金は東日本大震災への義援金にする」という言葉に、盛大な拍手が鳴りやまなかった。世界で通用する作家としての本質がバルセロナで再び証明されたのである。
さて、本題に入るが、鉄舟が県知事であった事について、多くの人が不思議がる。あの剣豪の鉄舟が、というもので、いかに鉄舟という人物像がワンパターンで世上に広まっているかの証明である。
また、物事は当時の状況から判断しなければならない。今の時代の価値観で昔を断じてはならない。
明治四年七月十四日(1871年8月29日)の廃藩置県により、新たに藩主に代わる知事が任命されたのであるが、旧幕時代とは縁のない人物を基本的に任命した背景を理解しないといけないだろう。
廃藩置県当初は、藩をそのまま県に置き換えたため三府三百二県あり、その後明治四年十月から十一月に三府七十二県に統合された。という意味は当然に、三百二から七十二に二百三十も減ったのであるから、ひとつの県の中に旧幕時代に異なる藩主によって治められていた地区が、多く入り混じって合併されたという事になる。
当時は、藩が異なれば政治行政も違っていたし、幕府直轄地もあれば、旗本の領地もあり、それらによって領民の文化や祭りごとも生活習慣等異なっていた。いわば江戸時代265年の長きにわたって、歴代の藩主によってそれぞれ完全自主経営管理下にあった領民が、隣国や近辺国であっても、かつては敵国として戦った経緯もあったであろうし、怨讐が複雑に絡み合っていた他藩の領民と同じ県に所属し、ひとりの県知事治世の下になるという事態になったわけである。
先の戦争中、都会地の子供が地方に疎開した事を思い出せばよい。習慣も制服も言葉も違っていて、多くの子供達は馴染むのに大変苦労したものである。
従って、新たに設置された括りとしての県民同志になったとしても、中には昔からの遺恨もあるだろうし、年貢として大事な田に必要な水の確保という争い、これは南北朝時代には将軍家にまで訴訟があがり、江戸時代には一段と水争いが激しさを増し、ひとつの川筋にはいくつもの藩が絡んでいたので、たびたび幕府にまで裁定を仰いでいた歴史があるように、仲がよくない領民が一緒になるのであるから、面白くないという感覚を持つ人々が多かったはずで、簡単にはまとまった政治はできないと容易に予測がつく。
つまり、県知事の人事は難しいのであり、中でも「難治県」といわれるところに派遣する人物選定には困ったであろう。
その「難治県」の代表もいえる茨城県と伊万里県(佐賀県)に、鉄舟が選任されたのである。その理由は明確で静岡における鉄舟の業績にあった。
話はさかのぼるが、慶応四年(1868)五月、徳川宗家を継いだ田安家のまだ五歳の亀之助(後の徳川家(いえ)達(さと))に徳川家の禄高が七十万石、領地は駿府一円と遠江国・陸奥国と通告された。
しかし、与えられた陸奥国は当時戦争中であって、徳川藩への引き渡しは事実上できず、そこで改めて遠江国諸侯領と駿河国久能山領、三河国御領と旗本領を加えたものにしたのであるが、そのためには諸侯のいない三河国御領と旗本領以外の二国、駿河と遠江の領主を移封させ、新たなる静岡藩をつくったわけで、いろいろ難しい問題があった。
その第一は、徳川家臣とその家族の江戸からの大量移住である。家臣達の静岡での生活は激変し、特に衣食住問題への対応は厳しく苦しかったが、一気に増えた移住者によって食料が不足し、それが一般民衆の生活まで影響し、難しい困難な政治運営とならざるを得なかった。
第二には禄高七十万石にするために、幕府直轄地であった三河国御領と旗本領以外の、駿河国・沼津、小島、田中(藤枝)三藩と、遠江国の掛川、相良、横須賀(掛川市の一部)、浜松の四藩、計七藩が新たに加わった政治・行政の難しさである。
第三には駿府地区特産のお茶が諸外国へ輸出され、この地に未曽有の好景気をもたらしていた事から幕府を支持する層と、幕藩体制下で疎外されていた遠州報国隊、駿州赤心隊、伊豆伊吹隊などの、神職中心の倒幕運動層との間に発生した殺傷事件問題の後始末である。
第四はこの地が清水の次郎長に代表されるように、博徒が輩出する地域でもあった事。どうしてそのような土地柄になったのかであるが、それはこの地域の歴史的特殊性にある。東照神君の地にして徳川幕府揺籃の地三河・駿河地域は、本来徳川幕府のモデル地区として最も法令が守られ、無宿や博徒が入り込む余地がない優等生の地でなければならないはずであるが、皮肉にも徳川幕府発祥地という由緒が、大名や旗本に三河以来の地縁を求めて少しでもいいから飛び地を持つことを希望させた結果、小藩が分立し、しかも大名の交代が非常に激しかったので、常に七から十一の藩が分立し、五十二もの藩が生まれそして消えていった。中でも吉田藩(七万石)で十回、西尾藩(六万石)・刈谷藩(二万三千石)は九回領主が代わった。のみならず尾張藩、沼津藩などの飛び地や幕領が点在し、加えて六十余家に及ぶ旗本の知行所がばらまかれた。
しかも三河の譜代藩は東照神君に連なる名門の血筋であり、多くが幕閣枢要の職に就いて専ら江戸にあって幕政に腐心し、国元の治世を疎(おろそ)かにしたので、取り締まりも十分でなく博徒が輩出したのである。
このような状態下の静岡藩で鉄舟は、明治元年(1868)に勝海舟と共に幹事役となり、明治二年(1870)九月に権大参事・藩政補翼という要職へ九名と共に任じられ、それぞれ役割を分担したのである。
幼い藩主家達の年齢から考え、事実上の県知事に当たる立場で、徳川幕府崩壊という徳川家と家臣達の瀬戸際の時代を、鉄舟は静岡の地で藩政治に全力を持ってあたり奮闘したのである。
また、チーム鉄舟の高橋泥舟も志田郡田中の奉行、中条金之助と松岡万も奉行として骨を折り、剣術の師匠であった井上清虎は浜松兼中泉奉行となり晩年に第二十八国立銀行(静岡銀行の前身)の頭取となったように、明治四年七月の廃藩置県までそれぞれ精進したのであった。
さて、廃藩置県によって徳川家達が、多くの旧藩主同様に東京に集められ、家禄を与えられ静岡を去る機会に、鉄舟も他の藩士等と共に東京に戻ったのである
県知事には権大参事で藩政補翼兼御家令であった大久保一翁が任命されたが、考えてみると慶応四年から明治四年までの静岡藩の四年間は、廃藩置県によって諸問題が発生すると予測される各県のテストケースとなったのではないか。
それは意図されたものではなかったが、様々な要因が複層し混線する難しい藩経営を行わざるを得なかった結果が、廃藩置県後の「難治県」対策のとしての事前実験シミュレーションとなったのであり、その実質的リーダーとして仕切ってきた鉄舟を密かに注目していた人物がいた。
それは大蔵卿の大久保利通であった。当時の大蔵省は今の財務、総務、厚生労働、国土交通、経済産業等の省庁を包括する巨大官庁で、国内政治を一手に仕切る部門であったが、大久保の心配の種は廃藩置県によって必ず起きるだろうと予測される「難治県」での「新政府に対する反抗」に対してどういう処置をとるべきかであった。
この件は明治四年七月九日、木戸孝允の邸で開かれた廃藩置県の最終会議で、木戸と大久保の大論争で結論がつかなかったものである。
その懸念する大久保の眼に、静岡藩における鉄舟の行政手腕と功績が映ったのである。鉄舟を廃藩置県後の「難治県」対策として登用したいと。
幕末から幕府崩壊まで、鉄舟と大久保とはあまり縁はなかった。西郷隆盛とは江戸無血開城駿府会談を機に、お互い信頼し合う間柄であったが、大久保とは接点がなかった事もあり、特に親しいという間柄ではない。
その大久保から鉄舟に直々の呼び出し状が届いたのである。呼び出される内容に心当たりはなく、用件は静岡での出来事での問い合わせ事項かなと思って、大久保の前に立った。
「静岡では大変ご苦労をおかけいたしました。おかげで無事静岡県に移管する事が出来ました。ついては山岡さん、茨城県の参事をお願いしたい」
鉄舟はビックリ仰天。鉄舟は新政府の役人になるつもりは毛頭なく、さらに剣・禅の修業をと思っていたところである。
茨城県は、十一月に水戸県等周辺六県が合併して成立することになっていた。その初代参事(知事)である。
既に決定した人事であるから断れない鉄舟、辞令を受けると直ちに「難治県」の水戸に向かった。
2012年07月15日
鉄舟県知事就任・・・その一
鉄舟県知事就任・・・その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
東日本大震災時で被災者の方々が示したすばらしい秩序と相互扶助が世界から注目を浴び、驚嘆させ、首都圏の帰宅困難者達の間にも、温かい助け合いが生まれた事についても感銘され、今でも世界各地で語られ評価されている。
2011年6月上旬、ロスアンゼルスのビバリーヒルズのブティックに立ち寄った際に、3か月が過ぎようとしているのに、ウインドウに「日本を助けよう」とポスターを大きく掲示していた。
ところで、その賞賛された行動はどこから発現されたのか。日本人の中に流れている原点的な存在から生じ、そこに武士道精神が絡んでいる事は間違いないだろうと前号で触れた。
しかし、武士道とは、人口比5%に満たないと思われる武士階級の中で培われてきた思想的精神であって、これが江戸時代を終えて143年も過ぎた東日本大震災時という突発時に、一般大衆である東日本の人々に突如一斉に顕れたのであるから、武士道のみによって賞賛される行動を説明できないだろうとも思う。
そこで改めて新渡戸稲造の武士道を読んでみると序文で次のように述べている。
「この小著の直接の発端は、私の妻がどうしてこれこれの考え方や習慣が日本でいきわたっているのか、という質問をひんぱんにあびせたからである。
ラブレー氏(ベルギーの法学者)と妻に満足のいく答えをしようと考えているうちに、私は封建制と武士道がわからなくては、現代の日本の道徳の観念は封をしたままの書物同然であることがわかった」
この文章が意味するところは、日本人が本能として認知している道徳概念は、武士階級に顕著に示されていると考え、そこで武士道を語ろうとした、つまり、日本人一般の道徳習慣を昇華させていると思われるものを、新渡戸稲造は武士道というキーワードで整理し論述したのではないかということである。
さらに第二章「武士道の源をさぐる SOURCES OF BUSHIDO」で、最初に「まず仏教から始めよう I may begin with Buddhism」と述べ、いくつか解説する中で仏教によって
「危険や災難を目前にしたときの禁欲的な平静さをもたらす that stoic composure in sight of danger or calamity」
と述べている。これに従えば被災地の人々が見せた行動は、仏教に起因しているという事になる。
因みに、東日本大震災の報道を世界の新聞が伝えたが、その中でもル・モンドは被災地の行動は仏教が関与していると分析している。
「おそらく、信者であろうとなかろうと、仏教の教えは日本人の心情にしみ込んでいる。それがゆえに、不可避の出来事を冷静に受けとめることができるのではないだろうか」
さすがは文化ブランドに長じたフランス人と思う。日本人の行動の背景を新渡戸稲造と同じく仏教から説いている。日本の新聞では、このように仏教と結び付けた解説はお目にかかっていない。諸外国ではフランス人が最も日本を知っているのではないだろうか。
なお、明治十年(1877)に来日し、ダーウィンの進化論を体系的に紹介し、大森貝塚を発見したエドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse)は、当時の日本人の群衆が秩序正しい行動をすることに驚きを示している。
「隅田川の川開きを見にゆくと、行き交う舟で大混雑しているにもかかわらず、『荒々しい言葉や叱責は一向聞こえず』、ただ耳にするのは『アリガトウ』と『ゴメンナサイ』の声だけだった」(逝きし世の面影 渡辺京二 平凡社)
これらから日本人の本能の中には、秩序正しき行動が刷りこまれているのだと思う。
ところで、武士道が世界に知られるようになった契機は、新渡戸稲造が1899年(明治三十二年)にアメリカで英文によって「BUSHIDO,The Soul of Japan」を発刊し、その後世界のさまざまな言語に翻訳されて読み継がれているからだと思っていたが、各国で武士道論議をしてみると同書を実際に読んでいる人は少ないという事が分かってきた。
勿論、武士道というキーワードは知っており、概ね妥当な理解をしているが、武士道への理解は実は映画「ラストサムライ」(The Last Samurai)による影響の方が、最近では大きい事が分かってきた。
「ラストサムライ」は2003年のアメリカ・ニュージーランド・日本の合作である。日本での興業収入は137億円、観客動員数は1410万人、2004年の興行成績第一位であったが、アメリカを含めた世界各国でも高い関心を呼び、どの国でも多くの観客を動員した。
トム・クルーズが演ずる主人公ネイサン・オールグレンのモデルは、徳川幕府のフランス軍事顧問団として来日、函館戦争でも戦ったジュール・ブリュネ。物語アィディアの背景とした史実は、西郷隆盛等が明治新政府に対して蜂起した西南戦争や、熊本の神風連の乱と思われ、主役の「勝元」役を演じた渡辺謙の好演が評判の映画でもある。
フランスでも、アメリカでも、ブラジルでも、ペルーでも、その他の国でも同様だが、多くの方と話し合うと、この「ラストサムライ」を観た事によって、武士道という概念を知ったと全員発言する。
特に、トム・クルーズがサムライ集団と起居を共にしていくうちに、次第に武士道精神を学びとっていくプロセスがうまく描かれていると言い、ここの場面に大変興味と関心を高く持ったと言う。
そこで改めて「ラストサムライ」をCDで観てみたが、確かにこのような描き方をすれば武士道が世界中から理解されるだろうと思いつつ、しかし、日本人ではこのような脚本は書けないのではないかと感じる。つまり、世界中の人々の立場から武士道を描くというのは日本人には難しく、結局、日本人向きの武士道になってしまうだろうという事である。
もう一つ武士道が外国人に知られていくツールはマンガである。マンガに登場するサムライを通じハラキリ、カミカゼと共に武士道が伝わっているが、何故にハラキリを武士が自ら行うのか、カミカゼ特攻隊とアルカイダ自爆テロの区別等、お会いした人にひとつ一つ解説して行くと頷くが、マンガを読むだけでは十分な理解は得られず、特徴的なサムライ行動が武士道であるという捉え方になりやすく、誤解を与えかねない。このところの解説をしっかりするのが今後の課題だろうと思っている。
なお、武士道はアメリカの高校教科書にも記されている。
(教科書のタイトルと著者名)
Traditions and Encounters, 2/e
Jerry H. Bentley, University of Hawai'i
Herbert F. Ziegler, University of Hawai'i
(本文)
「The samurai were professional warriors, specialists in the use of force and the arts
of fighting. They served the provincial lords of Japan, who relied on the samurai
both to enforce their authority in their own territories and to extend their claims to
other lands. In return for these police and military services, the lords supported the
samurai from the agricultural surplus and labor services of peasants working under
their jurisdiction. Freed of obligations to feed, clothe, and house themselves and
their families, samurai devoted themselves to hunting, riding, archery, and martial
arts. They lived by an informal but widely observed code known as bushido (,,the
way of the warrior"), which emphasized above all other virtues the importance of
absolute loyalty to one's lord. While esteeming traits such as strength, courage, and '
a spirit of aggression, bushido insisted that samurai place the interests of their lords
even above their own lives. To avoid dishonor and humiliation, samurai who failed
their masters commonly ended their own lives by seppuku-ritual suicide by sometimes referred to by the cruder term hara-hiri ("belly slicing',).」
(訳文)
「侍はプロの戦士であり、戦いのための専門的武力と芸術を保持する。侍は地方大名に仕え、大名は侍を率いて自らの領地内の権威を保ち、他領地に対し権威を主張する。警備及び軍備の奉仕の代償として、大名は侍に十分な農作物を供給し、百姓の労働力の指揮権を提供した。食、衣服、住居が侍の家族に供給され、侍は家族を養う義務から開放され、狩り、乗馬、弓、武術に専心することができたのである。侍は非公式ではあるものの、広く遵守されている“武士道”と呼ばれる、主人への絶対的服従を強調した価値観規則(code) に準じて生きるものとされた。武士道は、強さ、勇気、そして攻撃性を重んずる一方で、侍は主人への忠誠心は自分の命よりも尊重するものとしている。不名誉と屈辱を避けるため、主人に仕えられなかった侍は切腹、又は更に残酷な表現では“腹切り”により自決するのが通常である」
この内容、何となく分かるが、これだけでは不十分だろう。教科書であるから十分なスペースでの記述は無理であろうが、ここでもハラキリを特徴として強調している。もっと書くべき大事な事が多々あると思う。
ここでもう一つスティーヴン・ナッシュ著「日本人と武士道」(角川春樹事務所)からの指摘を紹介したい。
「戦後の日本人は、あらゆる機会に、『国際的であれ』と自分自身に要求してきた。その要求が本気のものであるとは私には信じられない。その理由は、政治家であれ経営者であれ学生であれ、アメリカを訪れる日本人から新渡戸稲造の『武士道』のことを聞かされることはめったになかったという点にある。
新渡戸を国際的日本人の最初の代表とよんでさしつかえないであろう。しかもその書物は英語で書かれている。だから、その書は、日本語を喋れないアメリカ人と英語の下手な日本人とのあいだの、絶好の橋渡しとなりうるはずのものだ。
しかも、絶対的平和主義をもって鳴るクェーカー派に入信した新渡戸が、本来は戦争の専門家である武士の生き方について語るというのは、それだけで十分に刺激的な話題である。その折角の話題を利用しなのは、その国際主義がアメリカへの適応に流れ、日本からの発信を欠いたものであったからだと思われる」
この指摘、確かにそうだと感じ、アメリカに輸出している企業経営者に上記指摘を伝えると、新渡戸稲造の武士道は読んでいないし、武士道一般についてアメリカ人に解説できるほどの理解がないとの答えで、逆に当方に「教えてほしい」という希望を口にしたほどである。多分、日本の多くの経営者は同様であるまいか。返って「ラストサムライ」を観た外国人の方が理解している可能性が高いと思われる。
今回の東日本大震災で示された被災者の行動が賞賛された結果、武士道というキーワードは世界から一段と関心を持たれはじめたので、日本人も勉強すべきだろうと思い、少し長いが解説を加えた次第である。
さて、鉄舟が県知事となった経緯に入りたいが、その前に当時の状況を見てみたい。
まず、明治二年六月に二百七十四大名に版籍奉還が行われ、土地と人民は明治新政府の所轄するところとなった。だが、各大名は知藩事(藩知事)として引き続き藩(旧大名領)の統治に当たり、これは幕藩体制廃止の一歩となったものの現状は江戸時代と同様であった。
一方、旧天領や旗本支配地等は政府直轄地として府と県が置かれ、中央政府から地方長官として府には府知事、県には県知事がおかれた。これが明治元年末には九府三十県となっていた。このように地方行政を三つに分割統治していたので、これを府藩県「地方三治制」という。
当時、藩と府県(政府直轄地)の管轄区域は入り組んでおり、この府藩県三治制は非効率であり、廃藩置県は絶対に必要であった。廃藩地検の主目的は年貢を新政府にて取り総めること、即ち中央集権を確立して国家財政の安定を目的としたものであるが、これには欧米列強による植民地化を免れるという大前提もあった。
しかし、廃藩置県は全国約二百万人に上るとも言われる藩士の大量解雇に至るものであり、また、軍制は各藩から派遣された軍隊で構成されており、これも統率性を欠いていた上に、各藩と薩長新政府との対立、新政府内での軋轢、今の政治状況とは比べられないほど混乱していたが、そのうち藩の中には財政事情が悪化し政府に廃藩を願い出る所もあった。
このような状況であったが、明治四年七月十四日(1871年8月29日)明治政府は在東京の知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じたのである。だが、この実行背景に西郷隆盛の功績についてふれなければならないだろう。
廃藩置県には薩摩藩の藩父として隠然たる力を持つ島津久光が猛反対で、明治四年三月、西郷隆盛が御新兵を率いて東京に上る時、久光から「廃藩置県はまかりならぬ」と釘をさされていながら、廃藩置県のため奔走していた長州の山県有朋が「明治四年の廃藩置県は西郷の一諾できまった」と生涯これを爽快な政治劇の一幕として常に回想しているように、久光への裏切りとなる西郷の断行判断で実行されたのであった。
それは廃藩置県の最終会議が、明治四年七月九日に木戸孝允の邸で開かれた席上の事である。長州から木戸、井上薫、山県、薩摩からは西郷と大久保利通、西郷従道、大山巌。会議は木戸と大久保の大論争で結論がつかなかった。それは新政府に対する反抗が必ずおきるであろう、その際どういう処置をとるべきかについてであった。
西郷はじっと黙って二人の論争を聞いていたが
「事務上の手順がついているならば、暴動がおきたら鎮圧は拙者が引受申す。ご懸念ない。直ちに実行してください」
と発言したことで廃藩置県が決まったのである。
数日後、会議の結果を明治天皇に奏上し、天皇はいろいろ御下問された。明治天皇は当時十九歳十カ月というお若く、ご懸念がつよくご心配されるのが当然であったが、西郷が
「恐れながら吉之助がおりますれば」
という自信に満ちた奉答に天皇はやっと安心したと伝えられている。
廃藩置県の報が鹿児島に達した時、島津久光は激怒し、磯の別邸前の海に石炭船を浮かべ花火を終夜あげさせ、西郷への怒りを爆発させた件は知られている事である。
さて、廃藩置県の実行で、藩は県となって知藩事(旧藩主)は失職し、東京への移住が命じられた。各県には知藩事に代わって新たに中央政府から県令が派遣された。なお同日、各藩の藩札は当日の相場で政府発行の紙幣と交換されることが宣された。
当初は藩をそのまま県に置き換えたため現在の都道府県よりも細かく分かれており、三府三百二県あった。また飛地が多く、地域としてのまとまりも後の県と比べると弱かった。そこで明治四年十月から十一月に三府七十二県に統合された。
その後、県の数は明治五年(1872年)六十九県、明治六年(1873年)六十県、明治八年(1875年)五十九県、明治九年(1876年)三十五県と合併が進み(府の数は三のままである)、明治十四年(1881年)の堺県の大阪府への合併をもって完了した。
だが、今度は逆に面積が大き過ぎるために地域間対立が噴出したり、事務量が増加するなどの問題点が出て来た。そのため次は分割が進められて、明治二十二年(1889年)には三府四十三県(北海道を除く)となって最終的に落ち着いた。
統合によってできた府県境は、律令制に基づいて設置された令制(りょうせい)国(こく)*と重なる部分も多く、また、石高で三十~六十万石程度(後には九十万石まで引き上げられた)にして行財政の負担に耐えうる規模とすることを心がけたと言う。
また、新しい県令などの上層部には、旧藩とは縁のない人物を任命するために、その県の出身者を起用しない方針を採った。例外として鹿児島県令の大山綱良のように、薩摩藩士であったが数年に渡って県令を務めた者もいたが、他藩出身者による県令制は基本的に守られ、この意図から鉄舟が初代茨城県参事(知事)として赴任したのであった。
さて、茨城県であるが、明治四年十月から十一月にかけて三府七十二県に統合された際、関東七国と伊豆の府県を廃して東京府ほか十県を置き、この十県の中に茨城県が含まれ、県庁を水戸に置き、旧弘道館を庁舎にあてた。
この際、十月は府県管制で府県には知事、権知事、参事、権参事以下を置き「知事アレバ権知事ヲ不置、権知事アレバ知事を不置」と定められた。
十一月には県知事を県令と改称し、同月の県治条例で地方行政の刷新が行われ、県令(四等)、権令(五等)、参事(六等)、権知事(七等)以下の職務を定め、これが明治十九年(1886)地方官官制の公布によって知事と改称されるまで県令時代が続く。
ところで、鉄舟の県知事時代を研究すべく、東日本大震災で被害を受け、町中の建物が被災を受け、偕楽園も閉鎖されている中、水戸市に向かい改めて茨城県という地域性を考えてみると、その特異性が浮かんできた。
茨城県の明治初期は、幕末以来の尊王攘夷をめぐる藩論の分裂や激しい党派の争いが尾をひき、民心は不安定であった。元来、県民は自尊心が強く、保守的な面が強いといわれ、県北と県西、県南では地勢、風土、気質が異なることから政治経済上の利害が異なるところが多く、県の政策をめぐって各地方の対立がはっきりと現れるという実態であった。そこで、明治初期から中期にかけて、中央政府の立場からみると、茨城県は「難治県」と呼ばれていた。
茨城県の県名は、県庁の置かれた茨城郡(水戸上市)の郡名によったものであるが、何故に鉄舟がこの地に派遣されたのか。
まず、最初に考えられるのは、徳川慶喜の生地であるという事である。慶喜が上野寛永寺に蟄居した際、鉄舟が駿府掛けし西郷と江戸無血開城を成し遂げ、その後慶喜は水戸にしばらく謹慎したという徳川家と縁が深い事と、水戸藩は徳川御三家であったという関係、さらに、母の磯が鹿島神宮神官の塚原石見の二女であったことも与っていると考えられる。
しかし、最も大きな要因背景は、茨城県の「難治県」というところにあったはず。この「難治県」を解説するためには、水戸斉昭から始まる水戸藩の抗争・内紛についてふれないといけない。
水戸光圀が大日本史の編纂に着手し、やがてそれが水戸学の発祥となり、尊王攘夷の宗家のようになり、他藩に伝播し、倒幕運動に発展し、水戸藩内分裂のつながり、派閥闘争のあげく藩士が血で血を洗う抗争の犠牲になり、明治新政府になった時に登用される人材が皆無の状態になった事実の背景分析と、この地に鉄舟が初代知事として赴任したが、その在任期間が一カ月未満という事は何を意味しているか。
これらについては次号以降で展開したい。
痩せ我慢の説と鉄舟・・・其の七
痩せ我慢の説と鉄舟・・・其の七
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
東日本大震災時に示された被災地の日本人行動が、世界から賞賛された。という事は他国では、このような行動がなされ難いという事実を示し、日本人が持つ独自の特色・徳目だという事になる。
ところで、その賞賛された行動はどこから発現されたのか。日本人の中に流れている原点的な存在から生じているに違いないが、それが何であるか。そのところの分析を、鉄舟研究をしている者として、いずれ解明したいと考えているが、武士道精神が絡んでいる事は間違いないだろう。
武士道とは、江戸時代265年の歴史によって、鍛え上げ創造した美的精神像でありながら、それが体系化されず、成文法として存在しなく、せいぜい口伝によるか、著名な武士や家臣の筆になるいくつかの格言によって成り立っているところに特性がある。
さらに、江戸時代の武士の人数、これは明確化されていないのであるが、多分、人口比5%に満たないと思われる武士階級の中で培われてきた思想的精神が、江戸時代を終えて143年も過ぎた東日本大震災時という突発時に、被災地の一般大衆国民の中で突如一斉に顕れたとすると、これまたその要因背景を解明しなければならない。
その解明は今後になるが、ひとつ考えられるのは「自己犠牲」という武士道の本質にあたる重要徳目「個人よりも公を重んじる」精神が影響している事である。
米欧世界では基本的に個人主義が特長で、父と子、夫と妻であっても、それぞれに個別の利害を認めている。したがって、人が他に対して負う義務は、日本に比較し明らかに軽減されている。
それに対し、武士道では一族の利害と、その個々の成員の利害は一体不可分である。即ち「私(わたくし)」に奉じず「公(おおやけ)」に奉じるのである。これは「滅私奉公」というような言葉として受けとめられやすく、今の時代では封建時代の不合理なものであると勘違いしやすいが、本来の意味は「私心」を捨てて「公」につくすという「高い(ノブ)身分(レス)に伴う(オブ)義務(リージュ)」精神を意味するものだ。
このあたりの解説を三島由紀夫が次のように述べている。(「最後の独白」前田宏一著)
「サムライの条件は三つある。第一は『セルフ・リスペクト=自尊心』、第二は『セルフ・リスポンシビリティ=自己責任』、第三は『セルフ・サクリファイス=自己犠牲』。
よく外国人の作家や映画評論家、音楽家に聞かれるのだが、『サムライ精神は危険だ、ミリタリズム、ナチズムになりかねないんじゃないか』という。わかってないんだ彼らには、サムライというものが、ね。アウシュヴィッツの所長にもドイツ人としての誇り=セルフ・リスペクトはあったろうし、体制の中で自分が行わなければならんという、命令に対する自己責任感=セルフ・リスポンシビリティもあっただろう。しかし自己犠牲=セルフ・サクリファイスがなかった。 自分の命を懸けてでもそれを止めようという精神はなかった。これのないものは”サムライ精神“とは大きく違うのだと説明してやるのだが、わからん。だいたい”ミリタリズム“ってのは、ヨーロッパから入ってきたものじゃないか。日本にはなかったものだといってやるが、理解できん。武士道とミリタリズムはまったく違うものだ。サムライはそんなものじゃない。一人ひとりが、”自己犠牲の精神で生きる“ ”一個の完璧な連環を形成“していた、それが武士なんだ、といっても西洋人にはわからん」
この発言は、昭和45年(1970)11月25日の三島由紀夫自決の一週間前に、著者の前田宏一氏、当時週刊ポストの記者で三島由紀夫にインタビューした時のもの。
さすがに三島は的をえていると思う。自己犠牲が武士道の重要徳目と理解している。
日本の武士道が、世界に知れ渡る事になった契機は、新渡戸稲造が1899年(明治三十二年)にアメリカで英文による「BUSHIDO,The Soul of Japan」を発刊した時からである。
日本語版は、翌年の明治三十三年(1900)に「武士道」として出版されたが、この出版タイミングに伴う妙な関係が浮かび上がってくる。
それは、今まで検討してきた福沢諭吉の「痩せ我慢の説」が、新渡戸稲造「武士道」日本語版の翌年になる明治三十四年(1901)になって、時事新報に掲載され出した事である。福沢は既に十年前の明治二十四年(1891)に書き終えていたのに、どうして新渡戸稲造の「武士道」の翌年に持ちこされたのだろうか。
その理由として一般的に言われているのは、福沢が二、三の親友に極秘として見せたが、その一人の栗本鋤雲が知人にも見せてしまい、内容が外部に漏れたので、福沢もそれなら仕方ないと、十年後の明治34年一月一日から時事新報に掲載を始めたというものである。
だが、もう一つ妙な事に「故山岡鉄舟口述、故勝海舟評論、安部正人編纂、武士道」、つまり「鉄舟武士道」が「痩せ我慢の説」の翌年、明治三十五年(1902)一月に出版された事である。明治二十年(1887)に、四谷仲町の自邸で門人等に講義を行ったものであって、出版までに十五年間要している。
整理してみると、明治三十三年に新渡戸稲造、三十四年に福沢諭吉、三十五年に鉄舟と、三年続けて武士道関連が出版されているのであるが、これは偶然な事なのだろうか。それと何かの意図があったのであろうか。
この検討には当時の状況を振り返ってみないといけない。当時の日本は明治二十八年(1895)に日清戦争勝利し、明治三十五年の日英同盟という世界の大国であるイギリスと同盟関係として結びあうことで、欧米列強の仲間入りをしようとしていた。
また、この日英同盟から二年後の明治三十七年(1904)に日露戦争を迎えるのであるが、対ロシア戦争準備を進めて行けばいくほど、科学的合理主義で国づくりしている欧米列強の力が分かってきて、ロシアに勝利するためには日本を西洋的価値観の国に変換して行かねばならぬ、という想いが強くなっていく。
一方、日本の伝統的価値観を無視し、軽視して行くことは、民族(エー)精神(トス)を失って、日本という国が変質してしまうという主張も強く指摘されてきた。
そのようなタイミングに新渡戸稲造が日本人の伝統的(アイデンテイ)精神(テイー)として「大和魂」を謳い、それが外国で日本が理解される重要なファクターとなった事が、明治維新からの「文明開化」で「日本人とは何か」を忘れかけていた明治の知識人にショックを与えた。
新渡戸「武士道」が外国人に受け入れられた背景としては、欧米との思想的比較文明論として武士道を体系化し紹介した事と、外国人の立場に立ち、外国人が分かりやすい論理展開によって述べた事が大きい。
さらに、英語版に続いて翻訳版がドイツ語、フランス語を始め様々な言語で、多くの国で出版される実態を見て、当時の日本人の方が、改めて武士道精神を見つめ直す必要性に気づいたのである。
その結果が、福沢が十年前に書いてお蔵入りとなっていた「痩せ我慢の説」を引っ張り出し、鉄舟が十五年前に講義した記録を「鉄舟武士道」として世に出したのだと推測する。
加えて、新渡戸稲造はキリスト教徒であって本来の武士ではない。サムライではない者が外国人向けに書いたもの。その文面に江戸期の精神を色濃く残す当時の日本人にとっては、新渡戸武士道は何か西洋的なものを感じる。要するにバタ臭いのである。
そういう立場で、今改めて読みなおしてみると、引用には多くの外国文献が使われているし、訳文の影響もあるだろうが、言い方も回りくどいように感じる。もっと直截・端的に武士道を語れないか。それも本物のサムライが述べ書いたものが欲しい。これが当時の明治人たちが持った素直な感覚であったであろう。
その要望に応えたのが鉄舟武士道であって、鉄舟は自分の生き方を真っ直ぐに披瀝している。剣禅書の三位一体の人物、明治中期に衆目一致した武士道的生き方実践者が、日本人に対して教訓として述べたのである。当時は新渡戸武士道より、鉄舟武士道の方が人気も出版部数も多かったのではないかと、これまた推測している。
だが、ひとつ新渡戸武士道について擁護したい事がある。
それは平成時代の人々が、新渡戸と鉄舟の武士道を読み比べると、新渡戸の方が理解しやすいという事実である。現代人は戦後の欧米感覚を取り入れた義務教育で育てられたので、新渡戸の展開する体系と論理の方が、明治期の人々よりは受け入れやすい。加えて、戦後の「国語改革」による漢字制限に始まる当用漢字の変遷もあり、鉄舟は読み難い部分が多々ある。さらに、新渡戸は原文が英語であるから、当然であるが訳文はその時代に使用されている表現文字言語になるので、現代人には読みやすく分かりやすいという事になる。
対する鉄舟については、勝部真長氏が次のように述べている。(山岡鉄舟の武士道)
「とにかくこの本は一風変わった妙な本である。山岡鉄舟でなければ、やはり言えないような、独自な、突拍子もないようなことが飛び出してくる。見方によってはわがままな、断片的ともいえようが、しかしまた他面からいえば深い人格の、無意識底から湧き出してくる暗号のようにも受けとれる。
鉄舟が『武士道』について門人たちに講和しようという気持ちになれたのは、明治十三年に『剣の道』が成就していたからで、もし鉄舟の無刀流が大悟発明されていなければ、とても武士道についてとくとくとおしゃべりなんかする気になれなかったに違いない」
大悟という境地から発した武士道講義であるから、歴史認識に浅い現代人には新渡戸武士道よりは分かりにくいというところが多々あるが、しかしながら、さすがに鉄舟は違うという事をこれから展開したい。
鉄舟宅にて門人を前に語り出す。
「拙者の武士道は、仏教の理より汲んだことである。それもその教理が真に人間の道を教え尽くされているからである。まず、世人が人を教えるに、忠・仁・義・礼・知・信とか、節義・勇武・廉恥とか、あるいは同じようなことで、剛勇・廉潔・慈悲・節操・礼譲とか、言いかえれば種々あって、これらの道を実践躬行(きゅうこう)*する人をすなわち、武士道を守る人というのである。私もそれには同意である」
ここで鉄舟らしい言葉をつなげる。
「しかし私にはなお、他に自信するところがある。その義も似たようなことであるが、物あれば則(のり)*ありというように、人のこの世の中に処するには、必ず大道を履行しなければならない。ゆえにその道の淵源(えんげん)を理解しなければならない。これを学理的に理解しようとするならば、一朝一夕の業ではないが、私はわが国の前途がすこぶる思われてならない。それゆえに国民である以上は、上は大臣首相から下は片山里の乙女、童児に至るまで、だれでも心得ねばならぬと思っている。その一部分を物語るから、それらの話をとくと味われて日本人の武士道ということを理解してもらいたい」
次に、鉄舟が武士道を悟り体得した源を語る。
「ここに一言申しおくことは、日本の武士道ということは日本人の服膺践(ふくようせん)行(こう)すべき道というわけである。その道の淵源を知らんと欲せば、無我の境に入り、真理を理解し開悟せよ。必ずや迷誤(まよい)の暗雲(くも)、直ちに散じて、たちまち天地を明朗ならしめる真理の日月の存するのを見、ここにおいて初めて無我の無我であることを悟るであろう。これを覚悟すれば、恐らく四恩(父母の恩、衆生の恩、国王の恩、仏法僧の三宝の恩)の鴻(こう)徳(とく)(大徳)を奉謝することに躊躇(ちゅうちょ)しないであろう。これすなわち武士道の発現地である」
さらに、今の時代にも当てはまる苦言も述べる。
「今日の役人どもごときは、給わる月給をいただくというよりは、月給泥棒ではあるまいか。彼等が大臣の椅子をほしがるのは、その要路にあって国家のために身命を投げ捨てて、至誠奉公するというのではなく、名利情欲が目的ではあるまいか」
「はなだしい不徳不義の徒の放言には、今日は法律があるから、法律の範囲内において権利を主張するのは、いささかの支障はないという具合」
「いったい法律というものは、社会の制裁上、人為的の仮条文には相違ないけれども、衆人集まりて済世するうえにおいては、また止むをえないことである。しかしながら、法律なるものは、人類霊性の道義の観念にまで、手だしをするものではない。否、力の及ぶものではない。この及ばないところを霊(れい)活(かつ)な精神作用をもって補わねばならない。ここがすなわち武士道の活用所である。かえすがえすもここに注意をしてもらいたい」
鉄舟は明治維新も武士道が導いたと強調する。
「維新の大業はいかにして出来たかと尋ねれば、その起因がなかなか深い。一言にてこれを言えば、武士道で出来たといえばたるようだが、これでは渺茫(びょうぼう)として理解に苦しむであろうから、今少し説明しておく」
ここで朝廷の位置づけにふれる。
「思うに政権武門に帰し、そのために武士が信用を世界に博したから、ばか者の考えには、武門のあることだけ知って、高い皇室のあることは忘れている」
次に武士についてふれる。
「さて、もののふというものは、出所進退を明らかにし、確乎(かっこ)として自己の意志を決した以上は、至誠もって一貫するのが、真の武士でまた武士道でもある。サァ世界が妙になってきた。あるところには、尊皇論と声高く、攘夷論と馳せまわる。あるいはしきりに、開港論を唱えるものがあり、また、あるいは佐幕だとか、討幕だとか、出没窮まりなく、国内一円旗幟堂々、目を当てられぬありさまとなった」
「世人はあるいは勤皇主義とか、開国主義とか、攘夷主義とか、討幕主義とか種々名づけているが、拙者は総合一括してみな勤皇というのだ。元来、わが国の人士は勤皇が本(もと)である。だからその枝葉も勤皇に違いない」
鉄舟にかかると各主義は全部勤皇となり、ここで鉄舟はいよいよその本質を述べる。
「維新の鴻業(こうぎょう)をなさしめた親様は、薩長云々のことはだれでも言うことだが、拙者のいうことも聞いてもらいたい。その義は、産母を幕府だというのである」
「拙者が、幕府を開国進取の鴻業者と言えば、薩長各藩のごときは、一功もないではないかと質問せられるかもしれぬが、世人もあまり子どもばかりでも困る。話の真相をうかがってもらわねばならない。
さて幕府を維新の元由者というのは、かの外船渡来以来、海防の設備騒ぎのころ、彼らの事情を考究させるため蘭学の修業者は多く幕府において仕えて、それらの余波はついに外交政治の機関に活用して、暗々の間に開港の誘導者となり、かの渡邊崋山が、『鴃(げき)舌(ぜつ)小記』『慎機論(しんきろん)』等を著わしてロシアと交通するべしと論じ、勝安房が『外交余勢』を論じ、高野長英が『夢物語』を著わし、その他種々これら各書は、当時の士気を誘発せしめたことは非常なものである。あるいは造船航海術修業のため、榎本釜次郎をオランダに学ばしめ、勝麟太郎(安房)長崎に行きオランダ人について海軍術をきわめ、高橋泥舟や、拙者輩をして講武所を開いて武士道を奨励せしめ、その他海軍操練所とか、蕃書取調所とか、あるいは小栗上野、大久保一翁等に内外時勢の運を視察せしめたなど、開国進取にとっては、いかに貢献したかはひそかに思われるではないか。しかして当時このような業作は、四方大反対の気焔(きえん)をもって、打ち殺せだの、刺し殺せだのとて尋常一様の話ではない。それを勇断して大胆に決行した連中等を思えば、真にその苦労のほどが千万流涙にたえない。ああ、実に忠君愛国の士で、朝日ににおう山桜とは、誠にこのような武士で日本魂のある神州健児といわねばならぬ。あるいは妙にののしる者もあるかもしれぬが、とかく拙者は感謝の意を表して、ここに一言注意を加えておく」
この程度で鉄舟武士道の引用はやめるが、鉄舟にかかっては、福沢諭吉の「痩せ我慢の説」はどこかに吹っ飛び、海舟への批判「あらかじめ必敗を期し」と、榎本への批判「二君に仕えた」という指摘などはごく細かい問題になってしまうのだ。
剣・禅の凄まじい修業を通じ、淵源に辿りつき、無我の境に入り、真理を理解し、大悟した鉄舟から見れば、つまり人間の生きる道での「上位目的」から検討すれば、福沢の指摘などは些細で大したことでない。海舟も榎本も日本国のために行動した武士道サムライであり、それを批判した福沢も、勿論武士道サムライとなる。鉄舟という人物はとてつもなく大きいのである。
次号は、鉄舟がいよいよ政治家として活躍する場面に入りたい。
2012年05月15日
痩せ我慢の説と鉄舟・・・其の六
痩せ我慢の説と鉄舟・・・其の六
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
榎本武揚を辰之口牢獄から赦免するよう、黒田清隆に働きかけたのは福沢諭吉であるが、既に黒田は五稜郭の戦いで榎本の才能を認めていた。
凾館戦争時も終焉に近づきつつあった明治二年(1869)五月十三日、新政府征討軍陸軍参謀黒田清隆は、五稜郭の総裁の榎本に降伏勧告書を届けた。だが、榎本は拒否し、その代わりに「兵火に焼くのはしのびない。活用して欲しい」とオランダ留学時代から肌身離さず携えていたオルトラン著「万国海律全書」、自らが翻訳書写し数多くの脚注等を書き入れた、当時の日本ではまだほとんど知られていなかった国際法の研究書であるが、これを戦災から回避しようと、黒田に差出したのである。
この「万国海律全書」を見た黒田は、榎本の非凡な才に感服しつつ、十六日に返礼として酒樽と肴を贈った。榎本が切腹を図ったのはこの日の夜遅くであったが、近習に止められ断念、ここで降伏を決意、翌日、黒田のもとに向かい五稜郭は開城となった。
辰之口牢獄に送られた榎本の処置について、長州・土佐藩は断罪を叫んだが、黒田は榎本が日本にとって必要な人物と判断、加えて、福沢の赦免申し入れもあり、助命しようと各方面に熱心に助命嘆願活動を行い、頭を丸めて最終決定会議に臨み「この通りだ。この頭に免じて許してくれ」とまで懇願した。
この黒田の主張を支持したのが西郷隆盛であった。江戸無血開城の際に徳川慶喜を救った西郷が、榎本も助けたのである。
赦免された榎本は、北海道開拓使次官のポストにいた黒田から、明治五年三月開拓使に出仕するよう要請され明治政府に入り、以後要職を歴任、明治二十一年の初代伊藤博文内閣では逓信大臣、第二代黒田内閣で農商務大臣を兼任し、その後文部大臣に任じている。
またこの間に、黒田の長女と榎本の長男が結婚、両家は親戚となり、この夫妻の養女が黒田家に嫁ぐなど、二人は一段と強固につながり、終生信頼し合う仲であったという。
ところで、司馬遼太郎が、この黒田が明治維新三傑の二人、西郷と大久保を殺したという指摘を名指しで行っている。意想外な指摘であり、日本の政治裏面史として興味深いので余談となるがふれたい。
それは司馬遼太郎著の「翔ぶが如く・第三巻」で、
「黒田は、結果としてかれが師とあおいだ西郷と大久保をともに殺したということになる」と書き述べている。
この指摘内容、まず、西郷について解説すると、黒田は薩摩藩であるので、元々西郷隆盛の支配下にあり、西郷に従っていたが、征韓論論争では西郷に対立する大久保利通側につき、大久保の指示を受け精力的に反対に動き回ったことが、西郷を下野させる要因となり、西南戦争で自決する事態につながった、というのが司馬遼太郎の見解である。
征韓論を述べだせば、それだけで一冊の本となるほどであるのでこれ以上はふれないが、黒田の動きが西郷を死にいたらしめたという主張である。
次に、大久保を殺したとはどういうことなのか。これは黒田の特異性ある二面性人格が影響しているので、少し解説を加える必要があり、再び司馬遼太郎の言葉を借りたい。(翔ぶが如く・第三巻)
「黒田清隆はかれ自身がどう制御することもできないほどの豪酒家である。酔えば人格も知能もいちじるしく低下するという精神病の範囲に入るところのアルコール性痴呆症であった。そのくせ、素面のときには謹直で、およそ人に対してかっとなったことなどはなく、浮浪者にいたるまでかれは底ぬけに親切であった。一定量の酒精が入ると人格が一変するという点では、かれに見るほどの典型症状はすくないにちがいない。いかに高官でも――かれの上司である三条実美や同僚の伊藤博文、井上薫ですら――乱酔中のかれから罵倒されたり、ピストルでおどされたりした。
この男が、その妻を斬殺したのである。夫人は多病であった。しかし素面のときの黒田はこの夫人をいたわり、他に婦人を設けるようなことはなかった。
西南戦争がおわったあとの明治十一年の三月、泥酔してもどった黒田が、ささいなことから妻を斬り、死にいたらしめたらしいのである。
当時、黒田は開拓長官を兼ねて参議でもある。現役の大臣が殺人罪を犯すという例は、それ以前にもそれ以後にもない。事件は内密にされたが、新聞が確認困難なニュースを諷刺(ふうし)のかたちで書いた」
この当時、大久保が事実上の首相であったが、大久保は広まる諷刺内容を隠蔽するよう、東京の治安を担当している大警視川路利(とし)良(なが)に指示、川路は黒田の妻の墓所を掘って棺内をあらためることにしたが、川路は棺の蓋を少しだけ開け、すぐに「これは、病死である」と断言、直ちに元どおりにして埋めてしまう。
この処理が世間に洩れて、一般大衆から「国法が大臣に及ばずということは暗黒国家である」という悲憤の声が満ち溢れ、この事が大久保を暗殺した犯人の斬奸状に書かれていたという。大久保は明治十一年五月十四日に紀尾井坂で襲撃され殺されたが、その下手人島田一郎が大久保暗殺の理由の一つあげていた事から、黒田夫人の怪死事件処理が大久保暗殺につながったのだというのが司馬遼太郎の主張である。
実は、この斬奸状に黒田夫人の殺害が具体的に書かれていたかどうか、史実確認で意見が分かれているところだが、黒田はそのような疑念を抱かせる二面性人格であったことは間違いなく、このような人物が日本の二代首相として政治を任されたのである。
もう一つ余談であるが、伊藤博文初代首相も殺人を犯している。それは井伊大老の後を継いだ坂下門外の変の安藤信正老中が、天皇の「廃帝」を図っているという噂が広まり、その「廃帝」手続きを調べ研究しているという疑念で、和学者の塙次郎が文久二年(1862)の年末、自宅に戻ったところを襲撃され斬られ、首を麹町九段目の黒板塀の忍び返しの上にさらされた。犯人は長州の伊藤俊輔(博文)と山尾庸三であった。
塙次郎は「群書類従」の編纂で知られる盲目学者の塙保己一の四男で、父の死後に家を継ぎ、幕府の和学講談所で史料編集と国史研究にあたっていた。
伊藤博文は後の首相・初代韓国統監であり、かつて千円札に肖像が印刷された人物。山尾庸三はロンドンに留学し工学関係の重職を務め、後に初代法制局長官になっている。
明治22年(1889)に大日本国憲法が公布、翌年第一回帝国議会が発足し、アジアでは初の本格的な立憲君主制・議会制民主主義国家が始まって、新たに首相制度が設置されたが、その初代・二代の首相がいずれも殺人に関わりがあったという日本の政治裏面史を理解しておきたい。現在とは比較できない程の近代化への混乱期であったという意味である。
さて、福沢諭吉の「痩せ我慢の説」に戻りたい。福沢の海舟への批判は「勝氏はあらかじめ必敗を期し、そのいまだ実際に敗れざるに先んじて、みずから自家の大権を投棄し、ひたすら平和を買わんとて勉めたるは者なれば、兵乱のために人を殺し、財を散ずるの禍をば軽くしたりといえども、立国の要素たる痩我慢の士風を傷うたるの責めは免るべからず」と、戦わないのは武士道にあるまじきものというもの。
榎本へは「氏を首領としてこれを恃(たの)み、氏のために苦戦し、氏のために戦死したるに、首領にして降参とあれば、たとい同意の者あるも、不同意の者はあたかも見捨てられたる姿にして、その落胆失望は言うまでもなく、ましてすでに戦死したる者においてをや。死者もし霊あらば必ず地下に大不平を鳴らすことならん。古来の習慣に従えば、およそこの種の人は遁世出家して死者の菩提を弔うの例あれども、今の世の風潮にて出家落飾も不似合いとならば、ただその身を社会の暗所に隠して、その生活を質素にし、いっさい万事控え目にして、世間の耳目に触れざるの覚悟こそ本意なれ」と、二君には仕えるべきでないという批判であった。
この福沢による海舟の「あらかじめ必敗を期し」と、榎本が「二君に仕えた」という指摘は鉄舟にも当てはまる。鉄舟は海舟と幕末を共にし、明治天皇の侍従となっているからである。しかし、福沢から批判は受けなかった。何故に福沢から論評を受けなかったのか、否、福沢が批判できなかったと理解すべきだが、その事を考えてみたい。
その分析に入る前に、江戸時代の武士とはどのような人間達であったのか。それを司馬遼太郎の言葉を再び借りて紹介したい。(翔ぶが如く・第一巻)
「江戸期の武士という、ナマな人間というより多分に抽象性に富んだ人格をつくりあげている要素のひとつは禅であった。禅はこの世を仮宅であると見、生命をふくめてすべての現象はまぼろしにすぎず、かといってニヒリズムは野(や)狐(こ)禅(ぜん)(注:禅に似て非なる邪禅のこと)であり、宇宙の真如(しんにょ)(注:あるがままであること・真理のこと)に参加することによってのみ真の人間になるということを教えた。
この日本的に理解された禅のほかに、日本的に理解された儒教とくに朱子学が江戸期の武士をつくった。朱子学によって江戸期の武士は志(こころざし)というものを知った。朱子学が江戸期の武士に教えたことは端的にいえば人生の大事は志であるということ以外になかったかもしれない。志とは、経世の志のことである。世のためにのみ自分の生命を用い、たとえ肉体がくだかれても悔いがない、というもので、禅から得た仮宅思想と儒教から得た志の思想が、両要素ともきわめて単純化されて江戸期の武士という像をつくりあげた」
と述べ、続けて
「西郷は思春期をすぎたころから懸命に自己教育をしてこの二つの要素をもって自分の人格をつくろうとし、幕末の激動期のなかにあってそれを完成させた」
と西郷が江戸期武士の典型であると評価している。
この司馬遼太郎に沿って鉄舟について考えれば「鉄舟は幼年期から剣禅一如(いちにょ)(注:絶対的に同一である真実の姿)を求めて、幕末から明治期にかけて大悟し自己を完成させた」人物であり西郷とは別次元での武士の典型であった。そのことを次のエピソードから紹介したい。
後に僧侶となった人物が、維新後、鉄舟宅で玄関番をしており、ある時鉄舟に尋ねた。
「剣の極意とは何でしょうか」
「それは浅草の観音さんにある」
そこで浅草寺に日参したが分からない。そこで再び鉄舟に尋ねると、
「それは寺の扁額にある施無畏(せむい)だ。あれが極意である」
との回答。施無畏とは「観音経」(妙法蓮華経観世音菩薩普門品(ふもんぽん)の経文にある「怖畏(ふい)急難の中において能(よ)く無畏を施し給う」からきている。
この「無畏を施す」とは、人間の一生は何をするのかというと、怖れのないところを掴むことで、何ものも怖れない。何ものにも怖じけない。つまり、病気を怖れず、死を怖れず、貧乏する事も怖れず、すべてに対し怖がらないという意味となる。
鉄舟は明治十三年(1860)三月三十日に大悟し、この「施無畏」境地に達し、その心境を詩で語っている。
学剣労心数十年 (剣を学び、心を労すること、数十年)
臨機応変守愈堅 (機に臨み、変に応じて、守り愈々(いよいよ)堅し)
意味は「剣を学び、心を労して数十年。相手次第で臨機応変、自由に変化して、負けることがなくなった。堅い塁壁も一朝ことごとく摧破され、痕跡もなくなった」という絶対境地である。
また、この施無畏という心境は、現代剣道でもよく説かれるという。筆者はパリ在住の剣道最高位八段で作家の好村兼一氏から、パリ訪問時にお会いし剣道についてご教示を受けている。その好村氏が今年の四月に「神楽坂の仇討」(廣済堂出版)を著した。早速読んでみると、主人公は幕末に北辰一刀流、鏡新明智流と並んで江戸三大流派と呼ばれた「神道無念流」物語であるが、その開祖「福井兵右衛門」に次のように語らせている。
「人性は即ち天性であり、私の所為ではない。性は陰陽、長短、勇弱、知愚・・・と、様々な象(かたち)として表れながら、その本源は一つなのである。本源の真理に明らかとなれば、万理に通じ、心は融通(ゆうずう)無碍(むげ)。体は鏡に揺動する影のように円滑自由である。機を窺い隙を打たんと欲するのは邪念であり心の偏(かたよ)りに他ならず、心偏れば体は凝(こ)り固まる。本源妙智の一刀を求めるには、心を無念の位に置き、己を天性に委ねるべし・・・」
この境地は鉄舟が達したと同じであり、剣の奥義に達した名人は同様な事が分かる。
さらに、好村氏は鉄舟が受け継いだ一刀流の開祖「伊藤一刀斎」も著しており、そのあとがきで「一刀斎が築いた一刀流剣術は現代剣道の根幹を成しており、極意『切落し』は今なおそこに生き続けている」と述べている。
この切落しとはどのような極意なのか。鉄舟が記した「一刀正伝無刀流十二箇条目録」に「切落之事(きりおとしのこと)」が第二極意としてある。好村氏によると「切落し」とは、相手が剣を打ち込んでくる瞬間に、間髪を容れず、こちらも真っ向から剣を振り下ろすことであるという。相手の太刀筋を受けかわすのではなく、相手から逃げず、真正面から立ち向かって、相手の剣が向かってくる時に、こちらの剣を振りきるのである。
素人流に考えれば最も危険な太刀筋と思われるが、これが四百年以上の古き時から、現代剣道の根幹をも成してつながる極意なのである。
しかし、この切落し極意を真剣勝負の太刀捌きとして熟(こな)せるのは、明治以降では鉄舟しかいなかったのではないかとも好村氏は語る。
つまり、「すべてに対し怖がらない」という大悟・施無畏の心境に達し得ていないと、真剣での命の斬りあいで「切落し」極意は使いこなせないという意味である。
ところで、鉄舟は、その死が翌年に迫った明治二十年(1887)に、四谷仲町の自邸で、門人の籠手田安定(県知事・男爵)等の求めで、ほぼ四回にわたって武士道に関する講義を行った。傍聴者に井上毅(文部大臣)、フランス人法学者ボアソナード、中村正直(文学博士)、山川浩(陸軍少将)等がいた。
その時の「山岡先生武士道講和記録」を安部正人が、籠手田安定から譲りうけて、明治三十一年(1898)十月、海舟にこれを示して「評論」を述べてもらい加えたものを一本にまとめて、嗣子山岡直記の序文と高橋泥舟の題字とをつけて「故山岡鉄舟口述、故勝海舟評論、安部正人編纂、武士道」として光融館という本屋からB6判二五二頁の書物として発行したのが、明治三十五年(1902)一月のことである。
この内容について「山岡鉄舟の武士道」(勝部真長編)で次のように解説している。
「光融館版の『武士道』はかなり売れたらしく、わたくしの所蔵するのは明治四十五年七月の奥付で第九版をかぞえている。その後、昭和十五年頃には大東出版社から同じ『武士道』の新版が山岡未亡人の序文をつけて出された。
とにかくこの本は一風変わった妙な本である。山岡鉄舟でなければ、やはり言えないような、独自な、突拍子もないようなことが飛び出してくる。見方によってはわがままな、断片的ともいえようが、しかしまた他面からいえば深い人格の、無意識底から湧き出してくる暗号のようにも受けとれる。
鉄舟という人は何よりも先ず『剣の人』である。禅もやったが、禅は剣を完成させるための手段、修業の方法の一つとしてやったので、禅をそれ自身目的としたのではない。剣を持たない武士はないから、武士道という以上、『剣の道』を離れてありえないわけである。
鉄舟がその生涯をかけて追究したのは『剣の道』であって、『剣の道』を通じてその人間を完成させていったのである。『剣』が完成しなければ『人間』も完成しない、というのが鉄舟の人生の課題であった。鉄舟が『武士道』について門人たちに講和しようという気持ちになれたのは、明治十三年にその『剣の道』が成就していたからで、もし鉄舟の無刀流が大悟発明されていなければ、とても武士道についてとくとくとおしゃべりなんかする気になれなかったに違いない」
この「故山岡鉄舟口述、故勝海舟評論、安部正人編纂、武士道」を詳しく読みすすめると「真の武士道とは」が確認でき、「真の勤皇愛国とは」が理解され、「誰が明治維新の大事業」をしたのかが解明され、その結果として福沢諭吉が主張した「痩せ我慢」は、鉄舟からみれば極々小さな問題だという事になってしまう。それを次号でお伝えしたい。
2012年04月08日
「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の五
「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の五
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
前号に続く福沢諭吉による榎本武揚批判に入りたい。
静岡市清水区興津の清見寺境内にある「咸臨丸殉難諸氏記念碑」に、榎本が〈食人之食者死人之事〉と揮毫、読みは〈人の食(禄)を食(は*む者は人の事に死す〉であり「幕府から家禄をもらっていた者は幕府のためなら死をも辞さない」という意味となる碑を福沢諭吉が見て、幕府の重臣でありながら新政府に仕え、高官に上った榎本がよくもしゃあしゃあと書けたものだ、という怒りを爆発させたことは既にふれた。
では、何故にこのような常人感覚では書けない揮毫をしたのか。その解明の前に、この記念碑の設立経緯を紹介したい。
明治三年(1870)咸臨丸惨劇事件三周忌に建立された静岡市清水区巴河畔の「壮士之墓」で、清水次郎長は度々法要を営んでいた。
このあたりは江戸時代は罪人の処刑場で民家がなかったが、清水港の発展と共に人家が建ち始め、町となってきて、このままでは区画整理で墓が消滅する危険性もあるので、どこかに永久に保存できる記念碑をつくろうという案が出てきた。
その土地探しを、当時の静岡県内務部長である永峰弥吉に委嘱したところ、明治十八年に場所を清見寺に選定したと連絡があり、榎本武揚や小林一知(文次郎・咸臨丸艦長)等が建碑願いを関係官庁に提出し許可を得た。
碑石は根府川石(神奈川県小田原市根府川に産する輝石安山岩の石材名)で、高さ2.7m、幅1.8m余、厚さ0.18m。碑石の隣りに立つ春日形御影石の灯篭も準備できたので、明治二十年に清水港に運び、次郎長一家が総出で清見寺に運び込んだ。
さて、問題の揮毫は、最初は当然のごとく榎本に依頼したが、当時、榎本は清国全権公使として北京に駐在中であったので、大島圭介(元陸軍奉行)に頼み〈骨枯松秀〉の篆(てん)額(がく)*題字を書いてもらった。
ところが、記念碑の工事が終る頃になって、榎本が帰国したので、再び揮毫を願うと、問題の文言が示されたのである。結果として、表面は榎本の揮毫による〈食人之食者死人之事〉、裏面が篆額大鳥の〈骨枯松秀〉となった。大島の文言は、壮士の墓建設の際の山岡鉄舟の詩である
砂濶孤松秀 空留壮士名
水禽何所恨 飛向夕陽鳴
に因むものであった。
では榎本の揮毫文の出典は何か。それは史記にある「淮(わい)陰(いん)侯(こう)列伝」からであり、淮陰侯とは韓(かん)信(しん)のこと。中国秦末から前漢初期にかけての武将で、劉(りゅう)邦(ほう)の元で数々の戦いに勝利し、劉邦の覇権を決定付け、張(ちょう)良(りょう)・蕭(しょう)何(か)と共に劉邦配下の三傑の一人で、世界軍事史上の名将としても知られるが、「韓信の股くぐり」でも知られている。
それは、ある日のこと、韓信は町の少年に「お前は背が高く、いつも剣を帯びているが、実際には臆病者に違いない。その剣で俺を刺してみろ。出来ないならば俺の股をくぐれ」と挑発された。韓信は黙って少年の股をくぐり、周囲の者は韓信を大いに笑ったという。大いに笑われた韓信であったが、「恥は一時、志は一生。ここでこいつを切り殺しても何の得もなく、それどころか仇持ちになってしまうだけだ」と冷静に判断していた。この出来事は「韓信の股くぐり」として知られることになる
この韓信に対して項羽が説客(ぜいかく)(弁論が得意で諸侯にその意見をといてまわる役割人物)の蒯(かい)通(つう)を遣わし、漢王を裏切るよう説得したときに、次のように答えた。
「漢王(劉邦)は私を非常に優遇してくださる。漢王は私を自分の車に乗せ、自分の衣服を着せ、自分の食事を勧めてくだされた。
『乘人之車者載人之患、衣人之衣者懷人之憂、食人之食者死人之事』
(人の車に乗った者は、その人の心配を背負い、人の衣服を着た者は、その人の悩みをともに抱き、人の食事を食べた者は、その人の為に死ぬ)
という言葉を先生も知っておられよう。私は、利に転び、義に背を向けることはできない。」
この韓信の言葉を榎本は敢えて選んだのである。だから福沢は怒ったのであるが、榎本が自ら求め書いたのであり、何かの背景があると思量するのが至当と思うが、肝心の榎本は福沢からの手紙に対して「事実相違の廉(かど)ならびに小生の所見もあらば云々との御意、拝承いたし候。昨今別して多忙につきいずれそのうち愚見申し述ぶべく候」とだけで、その後何も言わずに人生を終えている。
しかし、ここは大事なところであるので、榎本に代わって分析してみる必要があるだろう。そこで、もう一度榎本の一生を概略振り返ってみたい。
御家人の子として江戸に生まれ育った榎本は、昌平坂学問所を卒業したのち、幕府が長崎に設けた海軍伝習所に入る。その後、オランダ留学で知識に加えて西欧の考え方もマスターし戻った。帰国後、戊辰戦争の最後の戦いになった函館戦争で五稜郭に籠り、降伏、幽閉を経て出獄、請われて北海道開拓使として明治政府に入り、初代駐露公使とし、樺太・千島交換条約の締結に尽力。
伊藤博文内閣では逓信大臣、以降、文部、外務、農商務大臣等の要職を歴任。日本化学会、電気学会、気象学会、家禽(かきん)*協会等の設立に関わり、初代の会長として、日本の殖産興業を支える役回りを積極的に引き受けている。
さらに、既に紹介したように辰之口牢獄での技術分野に対する高い関心と実験等、これらは榎本が実証主義者であることを証明している。その事例として挙げられるのは、駐露公使から帰任する際にシベリアを四十五日間かけて横断し、軍事、経済、民族等の情報を記録した「西比利亜(シベリア)日記」を残しているが、このような外交官が現在いるのであろうか。
また、明治天皇は榎本に対して、頻繁に意見を求めたと言われ、明治二十四年(1891)に発生したロシア皇太子が警備の警官に斬りつけられた「大津事件」の処理をめぐっては、急遽外務大臣に任命され、ロシアとの折衝に乗り出している。若き時代の西洋留学体験と駐露公使、その体験を実証的に発揮せしめたのである。
このように明治時代の日本近代化に高く貢献した人物である。仮に、福沢が「痩せ我慢の説」で述べた「この種の人は遁世出家して死者の菩提を弔うの例あれども、今の世の風潮にて出家落飾も不似合いとならば、ただその身を社会の暗所に隠して、その生活を質素にし、いっさい万事控え目にして、世間の耳目に触れざるの覚悟こそ本意なれ」というような生き方を送ったとしたら、日本は大きなマイナスを受けたであろうことは容易に推測がつく。
実は、福沢もこの事を分かっていた節が強い。それは福沢が書いた「明治十年丁(てい)丑(ちゅう)公論(こうろん)」に榎本についてふれている個所がある。だが、その前に、この丁丑公論の立場を明らかにしたい。
これが書かれたのは丁丑(ひのとうし)の年、干支の組み合わせ十四番目で、明治十年(1877)にあたる。ということは西南戦争(明治十年)の直後であるのに、公表されたのは明治三十四年(1901)二月の時事新報紙上であった。
何と、西南戦争から二十四年経過したタイミングと、福沢が亡くなった二月という時機であり、そこに何か政治的なものがあったと推測される。
その通りで、丁丑公論は「反政府(大久保利通)であり、親西郷隆盛」で書かれた論文なのである。明治34年(1901)5月に『瘠我慢の説』と一緒に一冊の本に合本されて時事新報社から出版された。
なお、時事新報主筆の石河幹明が序文を記し、掲載の経緯を述べている。
「丁丑公論の一書は福沢先生が明治十年西南戦争の鎭定後、直に筆を執て著述せられたるものなれども、当時世間に憚かる所あるを以て秘して人に示さず、爾來二十余年の久しき先生も自から此著あるを忘却せられたるが如し。余前年先生の家に寄食の日、竊(ひそか)に其稿本を一見したることあり、本年一月先生の旧稿瘠我慢の説を時事新報に掲ぐるや、次で此書をも公にせんことを請ひしに、先生始めて思ひ出され、最早や世に出すも差支なかる可しとて其請を許されぬ。依て二月一日より時事新報に掲載することとせしに、掲載未だ半ならず先生宿痾(しゅくあ)再発して遂に起たず、今回更らに此書を刊行するに際し一言、事の次第を記すと云ふ
明治三十四年四月 時事新報社に於て 石河幹明」
この丁丑公論は激しい大久保批判で、執筆完了の明治十年十月二十四日に、直ちに発表していたならば、福沢は国賊として陥れられ、西郷の同調者であり、味方であると断定され、死刑となっていたかも知れない。そのような事態となっていれば、当然のことながら慶応大学は廃止され現在の姿はなかったであろう。
それほどの内容であるので、その一部を紹介したい。まず、最初の緒言である。
「政府の專制咎(とが)む可らずと雖も、之を放頓(ほうとん)すれば際限あることなし。又これを防がざる可らず。今これを防ぐの術は、唯これに抵抗するの一法あるのみ。世界に專制の行はるる間は、之に対するに抵抗の精神を要す。其趣は天地の間に火のあらん限りは水の入用なるが如し。
近来日本の景况を察するに、文明の虚説に欺かれて抵抗の精神は次第に衰頽するが如し。苟も憂國の士は之を救ふの術を求めざる可らず。抵抗の法一樣ならず、或は文を以てし、或は武を以てし、又或は金を以てする者あり、今、西郷氏は政府に抗するに武力を用ひたる者にて、余輩の考とは少しく趣を殊にする所あれども、結局其精神に至ては間然すべきものなし」
「明治七年内閣の分裂以來、政府の権は益々堅固を致し、政権の集合は無論、府県の治法、些末の事に至るまでも一切これを官の手に握て私に許すものなし。人民は唯官令を聞くに忙はしくして之を奉ずるに遑(いとま)あらず」
「佐賀の乱の時には断じて江藤を殺して之を疑はず、加之この犯罪の巨魁を捕へて更に公然たる裁判もなく其場所に於て刑に処したるは之を刑と云ふ可らず、其の実は戦場に討取たるものの如し。鄭重なる政府の体裁に於て大なる欠典(点)と云ふ可し」
如何でしょうか。明らかに正面きっての政府批判であり、大久保利通への批判なのです。大久保は明治六年(1873年)に内務省を設置し、自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握り、明治六年秋から明治十一年五月大久保暗殺までは、一般に「大久保政権」と呼ばれ、当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判されていた。
「有司」とは政府官僚を指し、議会政治によらず彼らの合議だけで国家の方針を決めている現状を指摘したものだが、現在に至るまでの日本の官僚機構(霞ヶ関官界)の基礎は、内務省を設置した大久保によって築かれたともいわれているほどである。
いずれ西郷と鉄舟の関係、特に西南戦争前、明治天皇から西郷を東京に連れ戻すようにと、鉄舟が命を受けたと一般的に言われ、実際に鹿児島に赴いているが、そこで西郷と実際に会ったかどうか。その点は今後の研究課題であるが、明治天皇紀の明治七年(1874)三月二十八日に「鉄太郎、四月二日を以て鹿児島に着し、三日、久光の邸に至りて勅命ならびに恩賜の菓子を伝う」とある。
この時期、島津久光は内閣顧問であった。かつて廃藩置県を久光に相談なく実施、激怒し、西郷は勿論それまで久光の側近であった大久保に対しても憎悪の対象であっが、いつの間にか久光を内閣に入れていた経緯、そこに今日の官僚制度の根源問題にまでつながっていると思われる節もあるので、これについてもふれたいが、今回はこのあたりで福沢の丁丑公論分析を終えたい。
しかし、どうしても不可思議なことがある。榎本に対する福沢の記載個所文言である。丁丑公論の中に榎本に対する評価ともいえる文言が、以下のように記されているのである。
「猶維新の際に榎本の輩を放免して今日に害なく却て益する所大なるが如し」
この丁丑公論が書かれた明治十年までの榎本は、明治五年一月に辰之口牢獄から出獄、三月には北海道開拓四等出仕に任官される。四等出仕とは県知事クラスである、人力車付という身分である。明治七年には海軍中将の肩書で、特命全権公使としてペテルブルグ赴任、明治八年には国境画定交渉をまとめ、樺太・千島交換条約に調印する役割をこなした。熾烈な外交交渉の結果であり、榎本のもつ海外留学経験が大いに発揮されたのであって、この事実を福沢は知っていて、丁丑公論の文言となったと思われる。つまり、この時点では榎本を高く評価していたのであって、痩せ我慢の説の評価とは大きく異なっている。
更に問題なのは〈食人之食者死人之事〉である。福沢はこの言葉を丁丑公論で以下のように使っている。
「近く其実証を挙れば、徳川の末年に諸藩士の脱藩したるは君臣の名分を破りたる者に非ずや、其藩士が甞て藩主の恩禄を食ひながら廃藩の議を発し或は其議を助けたるは、其食を食(はん)で其事に死するの大義に背くものにあらずや。
然り而して世論この脱藩士族を評して賤丈夫と云はざるのみならず、当初其藩を脱すること愈過激にして名分を破ること愈果斷なりし者は、今日に在て名望を收むること愈盛なるが如し」
久光の廃藩反対の意向を知りながら、断行した廃藩置県、西郷と大久保は〈人の食(禄)を食(は)む者は人の事に死す〉には当らないと言っているのである。とするならば、幕府から家禄をもらっていた榎本であっても、新政府に仕え、国家貢献に立派な業績をのこせば問題がないのではと、丁丑公論からは読み取れるのである。
ここで榎本の心情を推察してみたい。自分は何故にオランダに留学させられたのか、それは日本の近代化を進めるためであったはず。当時は幕臣という身分ではあったが、新しく明治時代になって近代化が急務の時、自分の本来目的に戻ることが、国家への貢献であると認識し直したのではないか。幕府には函館戦争で最後まで戦ったことで義理は果たした。
これからはこの時代の日本人に欠けていた合理精神、技術者としてプラグマティブ思考で生きること。一度対決した明治政府であっても、ほかに日本の近代化を託すべき主体がない以上、その新政府のもとで近代化に向けて働くこと、そこに榎本は矛盾を感じていなかったと思う。
では、どうして福沢は明治二十四年に敢えて「痩せ我慢の説」を書き、名指して海舟、榎本を批判したのであろうか。
これは福沢の心理を考えてみないといけないだろう。福沢の使命は何であったのか。日本を文明国に導くことであったろう。国民の意識改革を、教育に力を入れ、民間の力を重視し、実学を奨励する等を通じ、いわば「啓蒙」活動に邁進してきたことは、その一連の著作から明らかである。
つまり、福沢は和魂(わこん)洋才(ようさい)を狙ったのではないか。しかし、それは明治二十四年ごろになってみると、日本古来の精神世界が忘れられつつあり、代わりに西洋の技術と精神をより受け入れる方向に向かっている。両者を調和させ発展させていくということが難しい。欧化主義が行き過ぎているのではないか。その警句を世間に伝えようとして、強いて「痩せ我慢の説」を書き、その対象として旧知の海舟と榎本を取り上げたのだと思われてならない。
しかし、取り上げられた海舟と榎本は、いずれも修羅場をくぐりぬけてきた人物である。
「自分の行動は当事者でないと分かるものでない。たとえ説明したとて理解されずに、弁解と取られる。自分は信念で行動したのであり、恥じることは何もしていない。自分の行動のみが自分自身である」と海舟と榎本は言いたかったのだろうと思う。
最後に、「痩せ我慢の説」について多くの識者が解説している。だが、おかしいことに多くの資料を集めて見て分かったことは「丁丑公論」にふれていないことである。すべての資料を検討したわけでないので断言できないが、「丁丑公論」との関係が検討されていない。それは何故だか分からない。何かあるのだとしたら、今後の研究課題として行きたい。
次号は、「痩せ我慢の説」で何故に鉄舟が批判されなかったのか、その理由を解明する。
「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の四
「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の四
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
江戸無血開城以後、恭順一筋で押し通した徳川藩は、慶応四年(1868)五月二十四日に駿府藩として禄高七十万石と新政府から通告され、藩主家達も八月十五日に駿府に到着、何とか安泰となって一応ホッとしたタイミングに大事件が発生した。
それは、藩の命令を無視し脱走した榎本武揚艦隊の咸臨丸が、損傷激しく満身創痍で航行不可能となり、駿府に近い清水港に九月二日たどりついたことである。
咸臨丸艦長の小林文次郎から、駿府藩に「脱走の途次、清水港へ漂流」の旨届けがあり、器材が陸揚げされ、咸臨丸は港内に停泊し、乗員は三保の民家などに宿泊した。
これは困ったことだと思案に暮れているところに、さらに、清水港を血染めにする大惨劇が勃発した。
九月十八日、新政府が追捕のため派遣した軍艦富士山・飛竜丸・武蔵丸の三隻が、柳川藩士他数十名乗せて、午後二時ごろ清水港に入ってきたのである。
この日、艦長の小林は駿府藩に出向き留守、咸臨丸には副長の春山弁蔵と弟の鉱平、長谷川徳蔵ら少人数が留まっていた。
新政府追捕隊は咸臨丸を確認すると、10間(18メートル)の至近距離から各艦5~6発撃ちはなった。咸臨丸は駿府藩からの命もあって、戦うつもりはなく、降伏のしるしに白旗を上げた。それを見た追捕隊士達は、小艇に乗り移り小銃を撃ちながら漕ぎよせ、抜刀し咸臨丸に上ると、まず、長谷川徳蔵を血祭りに上げ、春山兄弟に銃を向けた。
「待たれい。駿府藩からこの咸臨丸を大総督府に献上するよう厳命を受けております」
副長の春山弁蔵は穏やかに対応しようとしたが、
「何を申す。この大泥棒め!!。朝廷の軍艦を盗むとは不埒千万、罰は万死に値する」
と猛り立つ追捕隊士の暴言に怒った弟の鉱平が抜刀、乱戦となって春山兄弟が斬られる。
それを見た原秀郎は艦を爆沈させ追捕隊士達を道連れにしようと、同様に考えた加藤常次郎と一緒に火薬艙へ降り向かった。だが、火薬艙の鍵は艦長の小林が持っていて、仕方なく二人は散らばっている火薬を集め、扉の下隙へ入れて点火したが失敗。中の火薬まで火が届かない。
火薬庫が爆発することを怖れて、いったんは本船に逃げた追捕隊士が、火が出ないことを見て、また戻って咸臨丸の甲板に上がった。
そこに駿府で用事を終えた艦長の小林が、何事かと小舟で咸臨丸まで来て名乗ると、甲板に引き上げ、両手を縛って殴る蹴る踏みつける乱暴狼藉。小林は倒れ気絶し、十数人とともに捕らわれ追捕軍艦に運ばれた。
だが、春山弁蔵は首を打ち落され、他の死骸と一緒に海に投げ捨てられ、新政府追捕軍艦飛竜丸が咸臨丸を曳き清水港を出ていったのが午後五時であった。
この惨劇については海舟も「幕末日記」の九月二十一日に記している。
「駿州より早追にて御目付来る。咸臨丸を取巻たる官兵、肥前、土佐、柳川藩士、甚手荒く、風聞にては、春山弁蔵刃傷に及び、切害に逢ふ。経雄殿(中老服部綾雄であろう)、目付等、散々罵られ、既に害に逢はむとするの勢也と。是、去月己来(いらい)、脱艦御届も遅々、亦修覆に取掛等、其他種々不都合を御咎めこれ有という。嗚呼、諸役因循(いんじゅん)、身を致さずして私営に苦しむ。我輩百方之を言うといえども、内破かくの如し。また如何せむ」
新政府追捕隊による一方的な惨劇の一部始終を、清水の人々は陸からみていたが、終った海には血潮と死屍が漂う凄惨な状態で、船の出入りも途絶え、漁に出るものもない。
また、賊兵の死体を埋めることは慰霊したことになり、賊の片われとみなされる。だから後難を恐れて誰も始末をしない。
しかし、侠客の清水次郎長は次のように述べた。
「人の世に処る賊となり敵となる悪む所、唯其生前の事のみ若し、其れ一たび死せば復た罪するに足らんや」と。
要するに、死ねば仏だ。仏に官軍も賊軍もあるものか、国のために死んだ屍を見棄ておくのは、次郎長の任侠が許さず、港の機能が止まっていることも放置できず、子分を動員して浮屍を引き上げたのであった。
屍は七体。春山弁蔵、春山鉱平、加藤常次郎、長谷川徳蔵、長谷川清四郎、今井幾之助、他一名。これを巴川のほとり古松の下に懇ろに埋葬した。
この経緯はたちまちのうちに駿府城内に伝わり、城中の物議となった。そこに登場するのが鉄舟で、小倉鉄樹は「おれの師匠」で次のように述べている。
「藩政に参與していた師匠(鉄舟)は役目柄次郎長を呼んで糾問した。
『仮初にも朝廷に対して賊名を負うた者の死骸をどういう料簡で始末したのだ』
もとより覚悟の次郎長は悪びれた景色もなく、
『賊軍か官軍か知りませんけれども、それは生きている間の事で、死んでしまえば同じ仏じゃございませんか、仏に敵味方はござりますまい。第一死骸で港を塞がれては港の奴らが稼業に困ります。港の為と思ってやった仕事ですが、若しいけないとおっしゃるなら、どうともお咎めを受けましよう』
ときっぱり言い放った。
『そうか、よく葬ってやった奇特な志しだ』
あまり簡単に賞められてしまったので、次郎長もいささか拍子抜けだ。
『それならお咎めはございませんか』
『咎めどころか、仏に敵味方はないという其の一言が気に入った』
『有難うございます。そう承れば私も安心、仏もさぞ浮かばれましょう』
喜んで帰った次郎長は、更に港の有志を説いて自分が施主となり盛大な法要を催した。師匠は求められるままに墓標をも認めてやった。大丈夫も及ばぬ次郎長の侠骨に喜んだとは言え此の際の処置として到底小人輩の出来る芸ではない。
現在清水市の中央を貫流する巴河畔に祀られてある「壮士之墓」は即ち之である」
この「おれの師匠」記述には補足が必要である。写真で分かるように「壮士墓」は石造り、建立は次郎長である。この墓碑が咸臨丸惨劇事件の屍埋葬後直ぐに建立されるはずがない。
その通りで、鉄舟から誉められ感謝された次郎長は、港の有志を説いて自分が施主となり盛大な法要を催したが、その時は次郎長の菩提寺である不二見村の梅蔭寺、現在、この寺には次郎長の墓をはじめ、妻のお蝶、子分の大政、小政の墓や遺品があり、また、侠客としては全国で唯一人、次郎長の銅像が建てられている。この梅蔭寺住職に頼んで法要を開いたのであって「壮士墓」が建立されたのは明治三年(1870)三周忌の際で、墓標は鉄舟が書いたといわれている。
なお、鉄舟と次郎長との出会いは、この咸臨丸惨劇事件がキッカケといわれ、その後の次郎長は鉄舟の影響を受け、人間的に脱皮し明治時代の社会事業家として名を残すことになるが、全国の一般大衆にまで知られるようになったのは「東海遊侠伝」からである。
「東海遊侠伝」とは、天田愚案によって明治十二年(1879)に「次朗長一代記」が書き残され、それが鉄舟宅に預けられていたが、明治十七年(1884)に「東海遊侠伝」として題画は鉄舟自身が描き、題字は勝海舟が担当するという豪華さで公刊され、後に神田伯山によって講釈(講談)化となり、伯山の車引きをしていた広沢虎造によって浪曲となって、昭和初期に「旅ゆけば~」で爆発的な人気を誇ったのは二代目広沢虎造で、当時は寄席のオーナーが虎造をひと月呼ぶことができれば別荘を持てたという。
それほど次郎長は有名になったわけであるが、そのブームを起こした「東海遊侠伝」と鉄舟の関係については後日詳しく触れたい。
さて、鉄舟と次郎長の最初の出会い、一般的に認識されているのはこの咸臨丸惨劇事件であるが、もう一つの説がある。
それは、静岡県庵原郡由比町西倉沢「藤屋・望嶽亭」に代々口承伝承されているもので、現在の口承伝承者は望嶽亭・松永家23代当主、故松永宝蔵氏の夫人である松永さだよさん、その内容が「危機を救った藤屋・望嶽亭」(若杉昌敬編)で明確にされている。
また、この説を紹介している歴史学者に高橋敏氏(国立歴史民俗博物館名誉教授)がおられる。「鉄舟は勝海舟と相談のうえ、勝が江戸焼打事件の際、捕らえ助命した薩摩藩士の益満休之助を同道し、急遽駿府に派遣した。東海道を西下途中益満が腰痛のため三島で脱落、単身駿府を前に難所の薩埵峠まで来たところで官軍の銃撃を受け、間宿倉沢の茶屋望嶽亭の松永氏に隠れた。駿府潜入した鉄舟を助けて道案内したのが清水次郎長であった」(『清水次郎長と幕末維新』岩波書店)とあり、西郷と鉄舟による駿府会談に纏わる時が、次郎長との出会いであったという。(参照 本誌2006年1月号)
この説に立ち、鉄舟と次郎長との関係を深読みすれば、咸臨丸惨劇の浮屍を引き上げたのは、鉄舟の指示によるものではないかと思われる。
旧幕臣であり、かつては同志であった屍を海に放置しておくことは、鉄舟の真情として許せない。しかし、鉄舟が表だって動けない。駿府藩の立場がある。そこで考えついたのが望嶽亭で世話になった侠客次郎長である。次郎長に万事やらせ、そのあと詰問するという体を装って駿府藩の面目を保ち、自らの気持ちの整理をする。
このように鉄舟の立場から推測してみたが、ここで疑問を持つのは次郎長の立場である。いくら強気をくじき、弱気を助ける侠客であっても、一介のアウトローであるのだから、何も権力背景もなく、時の新政府に逆らうことになりかねない屍を引き上げる作業をするであろうか。次郎長が侠気を超える、何かの権力を保持していないと取り組まないだろう。また、それがなければ鉄舟とて旧知の間柄であっても、指示し難いだろうと思う。
そこで次郎長の権力との結びつきを調べてみると、驚くべきことが分かった。次郎長は時の警察署長の職に任命されていたのであって、その経緯は次のとおりである。
慶応四年三月はじめに官軍が駿府に陣をおき、西郷が東征軍参謀として滞在した。これに先立ち二月に官軍の先鋒隊として浜松藩家老の伏谷如(ふせやじょ)水(すい)が駿府町差配役、今でいう民政長官に任命されていた。
浜松藩は元々格式高い譜代藩で、天保の改革を行った老中・水野忠邦は浜松藩主。水野は元々九州唐津藩の藩主であったが、唐津藩では老中になれないので、実封二十五万三千石の唐津から実封十五万三千石の浜松藩への転封を、自ら願い出て実現させ老中になったほどである。
この水野忠邦が失脚し出羽山形藩へ転封、浜松藩は井上家に代わって、幕末には井上正直が藩主で、この時の家老が伏谷如水であった。
その如水が駿府一帯の治安を司るために白羽の矢を立てたのが次郎長。如水は次郎長を登用するにあたって、事前に十分調査したらしく、この男なら大丈夫と指名、断る次郎長に対し超法規的処置により、過去の罪科はすべて帳消し、帯刀を許したのである。
これで次郎長は駿府一帯の治安を預かる警察署長になったわけで、この状態が徳川家の駿府藩なっても同様職務を務めていた。
という意味は、次郎長が警察署長であるならば、事件の処理を担当するため、鉄舟から機密費を受取り、それで清水港内の屍を拾い上げ埋葬するのは当然の業務となる。しかし、これが表面に出ては、新政府に対して申し開きが立たないので、鉄舟と次郎長とで芝居を打ったというのが本当のところではないだろうか。
また、鉄舟の駿府掛けで、望嶽亭主人が官兵から鉄舟を救い、次郎長に連絡取って、西郷への会談へ結びつけたという説も、次郎長が駿府一帯の警護役としての警察権を掌握しているという前提で考えれば頷けられる。
ところで、鉄舟は巴河畔の「壮士墓」墓碑を次郎長に書いたが、その際に次の詩も与えている。
砂濶(ひろ)くして孤松秀(ひい)ず
空しくとどむ壮士の名
水禽(みずとり)何をか恨むところぞ
飛んで夕陽に向かって鳴く
また、別に唐紙に髑髏(どくろ)を描き、「生無一日歓、死有万世名(生きて一日の歓びなく、死して万世の名有り)」と賛し贈った。
さて、この咸臨丸惨殺事件から二十年、巴川の「壮士墓」建立から十七年後の明治二十年(1887)、清見寺(せいけんじ)(静岡市清水区興津)に榎本武揚が揮毫した「咸臨丸殉難諸氏記念碑」が建てられたことは既にふれた。
また、この〈人の食(禄)を食(は)む者は人の事に死す〉という意味の揮毫、これを福沢諭吉が見たことから「痩せ我慢の説」を書くキッカケになったのではということもふれた。
では何故に、榎本は「幕府から家禄をもらっていた者は幕府のためなら死をも辞さない」という意味になる文言を揮毫したのか。榎本も幕臣であった。常人感覚なら書けないし、書かないであろう。福沢が怒るのが当たり前である。この解明は次号へ。
2012年02月18日
「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の三
山岡鉄舟研究「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の三
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
福沢諭吉は「痩せ我慢の説」で勝海舟と榎本武揚を批判した。海舟への批判については、前号で分析したので、今号は榎本武揚について検討したい。
福沢と榎本は遠い親せき筋にあたる。その縁は福沢の妻「お錦」の関係からである。
文久元年(1861)、福沢は中津藩士・土岐太郎八の次女「お金」と結婚した。お金は以前は「おかん」という名であったが気に入らず、両親に頼んで「お金」に変えたが、今度は字がしっくりこず、福沢との結婚後は「お錦(きん)」*と書くようになった。 このお錦の実家である土岐家と、榎本の母の実家である林家は遠い縁戚筋であった。
明治二年(1869)五月、五稜郭の戦いで榎本は降伏し、戊辰戦争が終ったが、この当時、榎本の母は息子の消息が分からず、必死で尋ね歩いていた。
ここで榎本が、函館五稜郭で降伏するまでの経緯を簡単に振り返ってみたい。明治元年(1868)榎本武揚は、徳川慶喜を水戸から清水港に護衛搬送したが、その翌月の八月、新政府軍(官軍)に引き渡すことになっていた幕府軍艦八隻をもって、陸奥に向かって脱走した。これは、榎本が徳川家の成行き、慶喜の駿府への移転を見届けてから脱走を図ったものであるが、この艦隊に咸臨丸が含まれており、この咸臨丸が座礁、台風に翻弄され清水港まで漂流し、辿り着き、乗組員が官軍に殺傷されこと、それが前号で紹介した清水の清見寺にある『咸臨丸殉難諸氏記念碑』と碑文〈食人之食者死人之事〉につながっていて、ここを訪れた福沢が碑文を読んで、怒り心頭に達し、「痩せ我慢の説」を書くキッカケとなったのである。
さて、八月に陸奥に向かった榎本艦隊は、途中台風にて一部艦船を失ったが、ようやく仙台に入った。だが、奥羽越列藩同盟の敗退により、十月には旧幕府軍と奥羽諸藩脱走兵らを乗せ、反新政府軍団として蝦夷地に向かい、函館を占領、五稜郭を拠点としたのである。
榎本は、函館占領後すぐ、函館在住の各国領事や横浜から派遣されてきた英仏海軍士官らと交渉し、この軍団が榎本を総裁とする「交戦団体」(国家に準じる統治主体)であることを認めさせ、各国に明治政府との間の戦争には局外中立を約束させた。
これは榎本の持つ国際法を活かした外交交渉の成果であるが、これに見られるように、榎本の外交国際感覚は、後に、ロシアとの国境交渉に特命全権大使として臨み、樺太・千島交換条約の調印を成し遂げたように、当時から優れた国際感覚を身につけていた。
この函館五稜郭を拠点とする「交戦団体」に対し、翌明治二年五月、新政府軍が総攻撃を行い、土方歳三が戦死、十八日に至って「交戦団体」の首脳である四名、総裁の榎本、副総裁の松平太郎、陸軍奉行の大鳥圭介、海軍奉行の荒井郁之助が、新政府軍の陣営に赴いて降伏を告げ、生きのびた将兵の赦免を請うたのである。
降伏後、榎本は政権首脳とともに、辰之口牢獄(現・パレスホテルあたり)に収監されたが、この経過を知らない静岡在住の榎本の母は、息子の消息を知ろうと何度も東京の親戚に手紙を出して、必死の捜索をしていた。しかし、多くの親戚は、みな自分に危険が及ぶ可能性があると思い、梨の礫であった。
その状況がお錦を通じて福沢に伝わって、福沢は母に同情し、榎本は辰之口牢獄に入っており、生命は無事であることを母に伝えたのである。
すると母と姉が福沢を頼って上京してきて、福沢の屋敷に泊まり、牢屋にいる息子に弁当や必要と思われるものを差し入れし、面会したいとすがる親心に、福沢は「この母を身代わりにして殺してくれ」というような鬼気迫る「哀願書」を下書きしてあげ、新政府に願いださせた。
この「哀願書」が牢役人の心を動かしたのか、何とか母子の面会が許され、次の目標は赦免に向かった。
そこで福沢は、文久元年十二月に遣欧使節竹内下野守に従い、翻訳方として渡欧した際に同行し、その後も密接な関係にあった松木弘安、明治になって外交官として活躍した後の寺島宗則であるが、この寺島から薩摩出身の官軍参謀長である黒田清隆を紹介受け面会したのである。
その黒田に向かって、福沢は榎本のために熱弁をふるった。
「榎本は新政府に対し反乱した人物であるが、命だけはとらぬようにした方が国家のために得である。この写真を参考までに差し上げるので、じっくりご検討お願いしたい」というようなことを述べ、アメリカの南北戦争で勇名を馳せた南軍のロバート・リー将軍の写真を渡した。
南北戦争もアメリカ国内の戦い、いわば戊辰戦争と同じ国内戦争、南軍が敗退したがリー将軍は助命されている。遺恨をのこさないよう、敗者への対応は寛大にすべきだという趣旨で黒田を諭したのである。
この黒田への福沢の説得が功を奏し、榎本は赦免されることになった。榎本は福沢に感謝し尽くしても、し尽くせないと思われたが、しかし、ここで意外な結果を生むことになる。それを北康利著「福沢諭吉 国を支えて国を頼らず」(講談社)から引用しよう。
「釈放される少し前、榎本は恩知らずな手紙を姉・観月院に出しているのだ。
〈お借りした本は福沢程度の学者が翻訳したものですから、私がわざわざ読むほどのものではありません。それにしても、彼が無遠慮にいろいろ言っているのが耳に届いてきて、高慢ちきだと一同大笑いいたしました。(中略)もうちょっと学問のある人物かと思っておりましたが、案外だとため息をつき、これくらいの見識の学者でも百人余の弟子がいるとは、わが国もまだまだ開化が進んでいないと思い知るべきでしょう〉
そこには信じがたい忘恩の言葉が並んでいた。諭吉のような身分の低い者が自分を助けてくれるなどとは片腹痛いということだったのかもしれないが、それにしても謙虚さや感謝の心のかけらもない」
このような過去の伏線経緯もあって、清見寺の碑文を見た瞬間、福沢は怒ったのである。
では、福沢はどのような批判を「痩我慢の説」で展開したのであろうか。その要点と思われるところを拾ってみる。(『日本の名著╱33福沢諭吉・痩せ我慢の説』中央公論社)
≪勝氏と同時に榎本武揚なる人あり。これまたついでながら一言せざるを得ず。この人は幕府の末年に勝氏と意見を異にし、あくまでも徳川の政府を維持せんとして力を尽くし、政府の軍艦数艘を率いて函館に脱走し、西軍に抗して奮戦したけれど、ついに窮して降参したる者なり。このときに当たり、徳川政府は伏見の一敗また戦うの意なく、ひたすら哀を乞うのみにして、人心すでに瓦解し、その勝算なきはもとより明白なるところなれども、榎本氏の挙はいわゆる武士の意気地すなわち痩我慢にして、その方寸の中にはひそかに必敗を期しながらも、武士道のためにあえて一戦を試みたことなれば、幕臣また諸藩士の佐幕党は氏を総督としてこれに随従し、すべてその命令に従って進退をともにし、北海の水戦、函館の籠城、その決死苦戦の忠勇はあっぱれの振舞いにして、日本(やまと)魂(たましい)の風教上より論じて、これを勝氏の始末に比すれば年を同じゅうして語るべからず。
しかるに脱走の兵、常に利あらずして勢いようやく迫り、また如何ともすべからざるに至りて、総督をはじめ一部分の人々はもはやこれまでなりと覚悟を改めて敵の軍門に降り、捕われて東京に護送せられたるこそ運のつたなきものなれども、成敗は兵家の常にしてもとより咎(とが)むべきにあらず。新政府においてもその罪をに悪(にく)んでその人を悪まず、死一等を減じてこれを放免したるは、文明の寛典と言うべし。氏の挙動も政府の処分もともに天下の一美談にして間然すべからずといえども、氏が放免ののちさらに青雲の志を起こし、新政府の朝に立つの一段に至りては、わが輩の感服すること能(あた)わざるところのものなり≫
≪氏は新政府に出身してただに口を湖するのみならず、累遷立身して特派公使に任じられ、またついに大臣にまで昇進し、青雲の志、達し得てめでたしといえども、顧みて往時を回想するときは情に堪えざるものなきを得ず。当時決死の士を糾合して北海の一隅に苦戦を戦い、北風競わずしてついに降参したるは是非なき次第なれども、脱走の諸士は最初より氏を首領としてこれを*恃(たの)み、氏のために苦戦し、氏のために戦死したるに、首領にして降参とあれば、たとい同意の者あるも、不同意の者はあたかも見捨てられたる姿にして、その落胆失望は言うまでもなく、ましてすでに戦死したる者においてをや。死者もし霊あらば必ず地下に大不平を鳴らすことならん≫
≪古来の習慣に従えば、およそこの種の人は遁世出家して死者の菩提を弔うの例あれども、今の世の風潮にて出家落飾も不似合いとならば、ただその身を社会の暗所に隠して、その生活を質素にし、いっさい万事控え目にして、世間の耳目に触れざるの覚悟こそ本意なれ≫
≪これわが輩が榎本氏の出処につき所望の一点にして、ひとり氏の一身のためのみにあらず、国家百年の謀(はかりごと)において士風消長のために軽軽看過すべからざるところのものなり≫
この「痩我慢の説」による榎本への批判についても、筋が通っており成程と思う。
しかし、いくつかの疑問が残る。その第一は福沢がアメリカ南軍のリー将軍の例を持ち出し、
助けるよう黒田清隆を諭した事実の意図である。
当時の新政府は人材不足であった。それまでは徳川幕府の長い政治体制下で、薩摩・長州藩等は幕府政治に深く関与していなかったので、実際に日本国政治を担当するようになって、様々な問題対応能力において大きな齟齬をきたしていたので、優れた人材は喉から出るほど欲しかった。
特に欧米滞在経験のある人材は、諸外国との外交問題、国内体制の近代化に必要不可欠であり、その代表的人物として渋沢栄一を2011年11月号で挙げた。渋沢は、慶喜の弟である昭武がフランス・パリ万国博覧会に将軍の名代として出席する際に随員として渡仏し、ヨーロッパ各国で先進的な産業・軍備を実見した。当時としては稀有の体験を持った人物であり、新政府に抜擢され、その後の活躍によって「日本資本主義の父」といわれ、多種多様な企業の設立・経営に関わった大物財界人となった。
これに対し、榎本はジョン万次郎に英語を学び、十九歳で蝦夷地に赴き樺太探検にも従事し、長崎海軍伝習所での蘭学による西洋の学問や航海術・舎密学(化学)などを学び、その基礎的な学力をもって文久二年の27歳から、慶応三年(1867)32歳までオランダに留学し、ハーグで蒸気機関学、軍艦運用の諸術として船具・砲術と、機械学・理学・化学・人身窮理学を学んだ。
続いて、デンマーク対プロシャ・オーストリア戦争が勃発すると、観戦武官として進撃するプロシャ・オーストリア連合軍と行動を共にし、ヨーロッパの近代陸上戦を実際に目撃した最初の日本人となった。その後も国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学び、幕府が発注した軍艦「開陽丸」で帰国したように、当時の近代化先端国である欧州の国々について全体像を体系的に学び経験してきた人物であって、榎本に比肩する人物は当時の日本では存在していなかった。
さらに、辰之口牢獄では牢名主となって、本の差し入れも許されるし、書きものもできたので、家族に手紙を出し、家族を通じて外国の技術書・科学書を数多く差し入れてもらい、片っ端から読破、外国新聞も読んでいた。
兄の勇之助宛への手紙で、様々な日用品の製造方法、石鹸・油・ロウソク・焼酎・白墨といったものを教え、その製造のための会社を起こすことを勧めている。加えて、鶏卵の孵化機の製法、養蚕法、硫酸や藍の製法といったものにまで言及し、一部はその製造模型まで、獄中で造ったのである。
この榎本の獄中での態度、一般的に考えてかなり違和感が残る。戦争で敗者となった側のトップであるから、戦争犯罪人として極刑を予測し、その日に備えての心を安らかにするために精神統一など、いざという時に見苦しい死に方をしないために備えるというのが、日本人の通常ではないか。先の大戦での日本政府指導責任者の多くは、このような精神的世界に向かい、従容として死に向かったと聞いている。武士道精神による達観した最後であったと思う。
榎本の場合は、これらとは全く異なる。当時、大村益次郎などは強く厳刑を主張していたように、極刑が下されるのではないかという憂慮される環境下で、榎本の関心事は精神世界に向かうのでなく、技術者といえる分野に関心が向かい、具体的な提案まで行っているのである。戦争を指導した人物とは思えない。
五稜郭での戦いなぞすっかり忘れ去り、関心は日本の近代化というところに向かって、そのために欧米で得て持ち帰った自らの知識と体験を、獄中でありながら明治という時代が必要であろうと思うことを提案し、それも多方面分野に渡っていることから考えると、榎本は「万能型」人間ではないと推測できる。
確かにその通りで、その後の活躍を見ると、東京農業大学の設立、電気学会・工業化学会等の会長歴任、各国との外交交渉、晩年にあらわした地質学の論文等から考え、「万能型」テクノクラートであった。
さらに加えて分析してみると、辰之口牢獄での行動から判断されるのは、この人物は何か一般人とは別次元基準で生きているということである。
実は、福沢はこの榎本の実体、何か通常の日本人とは異なる次元、知識の幅と深みを併せ持つ「万能型」テクノクラートであることを、事前に理解していたからこそ、榎本は日本の近代化に欠かせない人材だと、リー将軍の事例を黒田清隆に示したのではないかと思われる。
ところが、清水を訪れ清見寺で〈食人之食者死人之事〉を見たことで、赦免前の恩知らずな手紙のことを思い出し、併せて、新政府内での華やかな栄進出世ぶりを考えると、これは、敢えて一言批判を述べないといけないという覚悟につながり、批判としての「痩我慢の説」を展開したのではないか。そのように推測する。
さて、もう一つの疑問は重要である。榎本は何故に〈食人之食者死人之事〉という揮毫、幕府から家禄をもらっていた者は幕府のためなら死をも辞さない、という意味になる文言を、どうして咸臨丸殉難諸氏記念碑に書き込み、刻んだのかということである。
榎本が幕臣であったことは当時の誰もが熟知しているのであるから、普通感覚ならこのような文言は書けないし、書かないであろう。福沢でなくとも怒るのが当たり前である。
だが、堂々と衆人が集まる寺社の境内に揮毫している事実。榎本は、それほどの非常識人なのであろうか。それとも何かの意図があって行ったのか。
これについては福沢への返書に「事実相違の廉(かど)ならびに小生の所見もあらば」とあるのみで、他には何も残さずに世を去ったので、何が背景にあるのか榎本の記録からは出てこない。筆者が分析してみるしかないが、そのためには、清見寺境内の『咸臨丸殉難諸氏記念碑』が建てられたその咸臨丸事件から見ていかねばならない。
ここで鉄舟と次郎長が登場する。清水の次郎長、後に東海道一の大親分として世間に知られるようになった、そのキッカケはこの咸臨丸事件からである。
ここで改めて、咸臨丸のことを思い起こせば、この艦はまことに数奇な運命にもてあそばれている。長崎の海軍伝習所で訓練を始めた幕府は、嘉永六年(1853)にオランダに軍艦を発注した。当時、ロシアとトルコの戦争のため、中立国のオランダは外国向けの建艦を控えていたため、四年後の安政七年(1860)にようやく長崎港に現れた。
この咸臨丸を有名にしたのは、日本人初の太平洋横断を成し遂げたことからであった。その後、幕府の軍艦として活動していたが、既に述べたように榎本が新政府軍に引き渡すことになっていた幕府軍艦を率いて、陸奥に向かって脱走した際も、艦隊に咸臨丸が含まれており、暦では八月でも閏年なので、もう秋に入っていて、台風に遭遇し、観音﨑で暗礁に乗り上げ、それまで回天丸に曳航(えいこう)されていたが、曳綱を断って、風浪のままに漂流し大マストも切り倒すまでになり、常州那珂港沖から三宅島近くを流され、二十九日にようやく下田港にたどりついたのである。
下田港の名主と小田原藩は、咸臨丸が港に入ったことを新政府に届け出た。新政府は肥前藩海軍に「徳川の脱艦、下田港漂着につき、処置すべし」との命を下し、追捕のために軍艦三隻と柳川藩士他数十名乗せて、咸臨丸逮捕に向かった。
咸臨丸は新政府が追捕に向かっているとは知らず、下田から清水港に入り、駿府藩に「脱走の途次、清水港へ漂流」の旨届け出た。駿府藩では大騒ぎである。榎本が脱走したことも大騒ぎであったが、そこに脱走したはずの咸臨丸が徳川の本拠地に戻って来たのである。
この騒ぎに現れたのが鉄舟であり、次郎長であった。次号に続く。
痩我慢の説と鉄舟・・・その二
山岡鉄舟研究 痩我慢の説と鉄舟・・・その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
明治24年(1891)に福沢諭吉は「痩我慢の説」を書き、勝海舟と榎本武揚を批判したことは前号で紹介した。
その中で海舟に対する指摘を、福沢の言葉を持って総括すれば以下の二点になるだろう。
① 敵に向かいてかつて抵抗を試みず、ひたすら和を講じてみずから家を解きたること。
② 維新の朝にさきの敵国の士人と並び立って得々名利の地位に居ること。
この①について触れる前に、②を考えてみたい。確かに海舟の明治新政府における地位は華やかである。
明治五年(1872)海軍大輔となり従四位に叙せられ、翌明治六年(1873)には参議海軍卿、明治八年(1875)四月に元老院議官となるが即日辞表を呈出し、十一月に依願免官となって、その後は赤坂氷川町の隠居となった。
明治二十年(1887)に伯爵、翌明治二十一年(1888)枢密顧問官に任じられ正三位、明治二十二年(1889)憲法発布の年に勲一等瑞宝章受章、後に勲一等旭日大綬章、正二位に叙せられた。つまり、海舟の生涯の終りでは正二位勲一等伯爵という高位高官にのぼった。福沢が指摘したのはこの事実であった。
だが、この高位高官として権力中枢にいたことが、明治時代初期に発生した各地での騒乱、特に西南戦争に大きく影響していると、江藤淳が「海舟余波」(文芸春秋)で指摘しているので紹介したい。
「明治七年(1874)の佐賀の乱以後、熊本神風連の乱、萩の乱、秋月の乱、西南戦争と、士族の叛乱があいついだが、これらはすべて官軍側の内部抗争にすぎなかった。明治前半の最大の反政府運動である自由民権運動ですら、本質的には薩長に対する土肥の挑戦にほかならなかったともいえる。
この間にあって、最大の潜在的野党である旧幕臣グループは、戊辰以来三十年間、慶喜とともに異常なまでの沈黙を守りつづけた。そこに海舟の『苦学』が作用していたのである。
最初の、そしておそらくは最大の危機は、明治十年(1877)の西南戦争のときにやって来た。海舟と西郷はもとより相重んじた仲であり、江戸開城のために反対の陣営に属しながら協力しあった間柄である。もし海舟が旧幕臣を煽動し、海軍にも働きかけて西郷と呼応したならば、どのような事態が生じていたかは容易に想像し得るところであろう。しかし海舟は起たなかった。起たないどころか連日連夜奔走して、旧幕臣が叛軍に投ずるのを未然に防いでまわった」
その状況を巖本善治の「海舟余波」(女学雑誌社)では、
「明治十年の時などは、毎晩々々出て、十二時頃に帰ったほどだ。古道具屋をひやかしたり、古着屋で買ったり、アチラにやり、コチラにやりして、平和を維持した。どうして、警視などで、ゆくものかイ」
と書かれているが、それを江藤淳が次のように解説している。
「この『アチラにやり、コチラにやりして』には、彼が政治資金を巧妙に操作して、旧幕臣の生活を支えたことが暗示されている。海舟の政治資金は、おそらく岩崎がその最たるものであり、この岩崎との結びつきの背景には彼と坂本竜馬との関係が潜んでいるものと思われる。その結果、旧幕臣からは、叛軍に投じた者はもちろん、警視庁抜刀隊に参加する者すら出なかった。整然と統制され、力を抑制して、官と薩のあいだの中立勢力たる旧幕臣グループの隠然たる力を示すこと。これこそ明治十年の危機にあたって海舟が試みたことであり、かつよくなしたことであった」
この江藤説は、なるほどと思う。旧幕臣である元旗本達にとっては、戊辰戦争は不本意な結果で、自分たちの保持する戦力を十二分に発揮できずに終わったことを悔しいと思っているはず。だから、いつか官軍に対して何かの機会に遺恨を晴らしたいという輩一派がいると考えるのが当然で、それが一連の騒乱が続いている時に、どちらかの側に属し、意趣返しの謀反を起こし得ることは十分に想像できる。
前号で紹介したが、福沢諭吉が「痩我慢の説」を海舟と榎本に送った際に添えた「福沢諭吉の手簡」に「なおもってかの草稿は極秘にいたしおき、今日に至るまで二、三親友のほかへは誰にも見せ申さず候」とある。
「二、三親友」・・・それは福沢の見解に同調する旧幕臣がいたことを明かしている。
それは木村芥舟(嘉毅)と栗本鋤雲である。木村芥舟は咸臨丸で渡米した際の提督であり、栗本鋤雲は徳川昭武の補佐役としてフランスに渡り、後に外交面で活躍したが、この二人とも明治政府からその能力を評価され、出仕の誘いがあったが、幕臣として幕府に忠義を誓い謝絶している。
この栗本が「痩我慢の説」を一読し快哉を叫び、全編にわたって線を引いたり、感想を書き込んだりしていたが、とうとう黙っておれなくなり、ついに知人に見せてしまい、内容が外部に漏れたので、福沢もそれなら仕方ないと、十年後の明治34年(1901)一月一日から時事新報に掲載を始めたのである。
いずれにしても、木村芥舟と栗本鋤雲と同様、幕末時の対応に不満意識を持っていた旧幕臣は少なからずいたわけで、何かのキッカケによって爆発へのエネルギーに変化する恐れは高かった。それが、明治初年に発生した各地での騒乱に乗じて爆発したならば、鉄舟の命がけの行動によって実現した海舟・西郷会談によって切り拓かれた明治維新という成果は、国家の大騒乱に変わり、徳川家と明治天皇との関係がおかしくなり、旧幕臣たちの立場は悪化したであろう。
それを恐れた海舟は、全力を尽くして、旧幕臣グループを整然と統制され中立勢力に収めるために動いたのである。後に海舟はこう語っている。(「海舟語録」明治三十一年十月七日で)
「江戸を明け渡したからそれで治るなどといふことがあるものか。畢竟(ひっきょう)*、己が苦学の結果で、三十年間かうなって居るではないか」
と語っている。
この「苦学」とは何か・・・。それは、明治新政府をつつがなく運営していくにあたって、謀反を起こす可能性のある旧幕臣グループを問題化させないよう「なだめ」「まとめていく」ために、あらゆる行動を採ったことを「苦学」と言ったのではないかと考える。
では、この苦学を展開し「まとめていく」行くために必要条件とは何か。まず、一番に必要なのは資金であろう。その金は岩崎弥太郎から手当てを受けることができた。次に、その政治資金を使うべき自分の立場が問題となる。
明治政府内に何も権限を持たない状態では、多分、その資金を支出したとしても、有効には機能しないであろう。つまり、在野にいたのではダメで、時の権力の中枢に近ければ近いほど、使ったカネが生きてくる。これは、企業内の政治力学を考えてもわかる。平社員よりは上級幹部の行動の方が影響大きいことは当然だ。
だから、旧幕臣グループを統制するには、政権中枢と強いパイプを持っていることが必要となる・・・このように考えた海舟は、福沢に代表される批判は承知の上で、高位高官の地位を築いたのであろう。そのことを江藤淳が次のように語っている。
「朝に仕えるなら、それはかならず高位高官に任じられるのでなければならない。つまり子爵より伯爵がよく、下僚に甘んじるよりは薩長の顕官と『竝立』って枢密顧問官に列せられるほうがよい。なぜなら位階が高ければ高いほど彼の旧幕臣グループへの統制力は強まり、それだけこのグループの力は隠然と充実するからである」と。
さらに言えば、明治天皇の侍従としての鉄舟が、旧幕臣を「まとめていく」海舟に協力した事は容易に想像がつく。天皇の身近に仕えているということは、何にも勝る重しである。
さて、最初に戻って、②ついて検討してみたい。
海舟は福沢の批判について次のよう氷川清話にある。
「福沢がこの頃、痩我慢の説といふのを書いて、おれや榎本など、維新の時の進退に就いて攻撃したのを送って来たよ。ソコで『批評は人の自由、行蔵は我に存す』云々の返書を出して、公表されても差し支えない事を言ってやったまでサ。
福沢は学者だからネ。おれなどの通る道と道が違うよ。つまり『徳川幕府あるを知って日本あるを知らざる徒(ともがら)は、まさにその如くなるべし、唯(ただ)*百年の日本を憂ふるの士は、まさにこの如くならざるべからず』サ」
これは海舟の自負であり、偽らざる気持であって「批評家に局に当たらねばならない者の『行蔵』、つまり、混乱の幕末から江戸無血開城、そこから連続する政治に対応してきた『出処進退』の実践と苦しさがわかってたまるか」と率直に述べたものだろう。
また、この感覚は、政治という実践舞台で、諸問題に具体的対応を担当している者にしか分からないものであろう。マスコミや一般人は政治家が動いた結果としての事象から批評する。結果として問題点のみが指摘される傾向になる。これは現在の菅政権にも当てはまることであって、菅政治の総決算は後代が定めていくと考える。
話は海舟に戻るが、海舟の国家感はペリー来航の嘉永六年(1853)から経る歴史の中で形成されてきた。長崎での海軍伝習所や幕府内の要職経験を通じ自らの能力を磨き、かため、咸臨丸渡米で国際感覚を身につけ、それを人に伝える中から、幕府体制に対する考え方が定まってきて、それを反幕府勢力の中心人物である西郷にまで伝えた結果が、徳川幕府の崩壊につながっているのである。
つまり、福沢が「敵に向かいてかつて抵抗を試みず」と批判した行動の源には、この一連の歴史から醸成されてきたといえる。
こんな事例がある。明治維新を遡る四年前の元治元年(1864)の大坂、西郷は当時大問題であった兵庫開港延期について、幕府軍艦奉行であった海舟に意見を求めたところ「この問題は、加州(注 加賀)、備州、薩摩、肥後その他の大名を集め、その意見を採って陛下に奏聞し、更に国論を決する」という答えに西郷は唸り、その意味する重大さに驚愕したことかがあった。
なぜなら、この発言は、日本政治の最重要問題処理を、有力諸侯に主体となって当たらせるとい発言であり、これは有力諸侯を国政運営の中心に位置させるという構想につながっており、言外に「幕府には政権担当能力がない」ということを明かしているのだ。
これは当時、とうてい幕臣から発する言葉でない。だが、これを聞いた西郷にとっては、眼を輝かせる見識であり、これを突き詰めていくと、一種の「共和政治」となり、幕府内では反発が強いものだからこそ、薩摩側からみれば一層「その通りだ」ということになる。
この会談を境に薩摩は幕府を見限る方向に動き出したのであって、元治元年時点で、海舟が一度幕府を見放し、それを西郷という類稀なる戦略家に伝えたからこそ、明治維新につながったと考えられるのである。
作家の海音寺潮五郎は、大坂会談時の海舟発言を分析し「勝という人は、終始一貫、日本対外国ということだけを考えて、勤王・佐幕の抗争などは冷眼視、といって悪ければ、第二、第三に考えていた人である」(西郷隆盛 学研文庫)と解説しているが、その通りであろう。
そのような海舟であるから、福沢から批判されても揺るがないのである。所詮、海舟と福沢は生きる世界が異なり、立場の相違は大きく、すり合わせは出来ない生き方哲学の持ち主同士だった。
次は、榎本武揚に対する福沢諭吉の批判である。
実は、福沢の「痩我慢の説」は榎本への批判から始まったものである。その発端経緯を「福沢諭吉 国を支えて国を頼らず」(北 康利著・講談社)から紹介する。
「十九世紀に別れを告げ新たな二十世紀を迎える明治三十三年(1900)の大晦日、後々まで語り継がれる一大イベントが慶応義塾で開催された。『世紀送別会』がそれである。
教職員、学生総勢五百余名が午後八時に参集。諭吉は「独立自尊迎新世紀」と大書した書を一同に披露し、万雷の拍手を浴びた。
そして、大きな話題となった世紀送迎会の翌日から『時事新報』に掲載された『痩我慢の説』は、世間をさらに驚かせる。それは、新政府の重鎮である榎本武揚や勝海舟に対する痛烈な批判だったからである。
きっかけは十年前にさかのぼる。
静岡へ出かけた折、清見寺(せいけんじ)(静岡市清水区興津)に立ち寄り、境内の『咸臨丸殉難諸氏記念碑』を見る機会があった。
咸臨丸は太平洋横断の後、非武装の運搬船として使われていたが、清水港停泊中に新政府軍の攻撃を受け、多数の死傷者を出した。
新政府軍の目を気にして、誰も海上の死骸を引き上げようとしない。腐乱するままに放置されているのを見かね、侠気を出して埋葬したのが有名な清水次郎長である。清見寺の碑は、この凄惨な事件の十七回忌を記念して建てられたものであった。
この悲劇は諭吉もよく知るところだけに、感慨深げに碑文へと目をやった。撰文はあの榎本武揚である。ところが、そこに〈食人之食者死人之事〉という一節を目にした瞬間、色白の彼の顔が見る間に朱に染まっていった。
この文章は〈人の食(禄)を食(は)む者は人の事に死す〉と読み、この場合、幕府から家禄をもらっていた者は幕府のためなら死をも辞さない、という意味になる。
幕府の重臣でありながら新政府に仕え、高官に上った榎本がよくもしゃあしゃあと書けたものだ、という怒りと同時に、何人もの懐かしい顔が浮かんでは消えた。
かつて謹慎を命じられていた諭吉を助けてくれた中島三郎助などは、五稜郭落城の二日前、長男、次男ともども壮烈な戦死を遂げていた。木村嘉毅もまた、最後の幕府海軍所頭取として敏腕を振るったが、維新後は幕府に殉じて新政府からの仕官の話をすべて断り、隠居して芥舟と号し、試作などで静かな余生を送っている。
一方の榎本はと言うと、向島に数寄を凝らした別荘を構え、贅沢三昧の生活を送っていることを知らぬ者はいない。
(木村さんのような人間にしか、あの文章を書く資格はない!)
東京に戻っても怒りは収まらない。この文章を書いたのが、自分の助命した榎本だということが余計に腹立たしかった」
この清見寺で見た碑文の経緯については、福沢が「痩我慢の説」の中で自ら書き述べている。
しかし、ここで最後の「自分の助命した榎本だ」というところ、これは榎本が五稜郭落城降伏後捕らえられていたものを、福沢が時の官軍参謀長であった黒田清隆に直に面会し、赦免するよう説得熱弁をふるったことが功を奏し、牢から出されたものであるが、その背景には福沢の妻お錦が絡んでいることに触れなければならず、清見寺の碑については鉄舟を抜きには語ることができない。次号に続く。
痩我慢の説と鉄舟・・・その二
痩我慢の説と鉄舟・・・その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
明治24年(1891)に福沢諭吉は「痩我慢の説」を書き、勝海舟と榎本武揚を批判したことは前号で紹介した。
その中で海舟に対する指摘を、福沢の言葉を持って総括すれば以下の二点になるだろう。
① 敵に向かいてかつて抵抗を試みず、ひたすら和を講じてみずから家を解きたること。
② 維新の朝にさきの敵国の士人と並び立って得々名利の地位に居ること。
この①について触れる前に、②を考えてみたい。確かに海舟の明治新政府における地位は華やかである。
明治五年(1872)海軍大輔となり従四位に叙せられ、翌明治六年(1873)には参議海軍卿、明治八年(1875)四月に元老院議官となるが即日辞表を呈出し、十一月に依願免官となって、その後は赤坂氷川町の隠居となった。
明治二十年(1887)に伯爵、翌明治二十一年(1888)枢密顧問官に任じられ正三位、明治二十二年(1889)憲法発布の年に勲一等瑞宝章受章、後に勲一等旭日大綬章、正二位に叙せられた。つまり、海舟の生涯の終りでは正二位勲一等伯爵という高位高官にのぼった。福沢が指摘したのはこの事実であった。
だが、この高位高官として権力中枢にいたことが、明治時代初期に発生した各地での騒乱、特に西南戦争に大きく影響していると、江藤淳が「海舟余波」(文芸春秋)で指摘しているので紹介したい。
「明治七年(1874)の佐賀の乱以後、熊本神風連の乱、萩の乱、秋月の乱、西南戦争と、士族の叛乱があいついだが、これらはすべて官軍側の内部抗争にすぎなかった。明治前半の最大の反政府運動である自由民権運動ですら、本質的には薩長に対する土肥の挑戦にほかならなかったともいえる。
この間にあって、最大の潜在的野党である旧幕臣グループは、戊辰以来三十年間、慶喜とともに異常なまでの沈黙を守りつづけた。そこに海舟の『苦学』が作用していたのである。
最初の、そしておそらくは最大の危機は、明治十年(1877)の西南戦争のときにやって来た。海舟と西郷はもとより相重んじた仲であり、江戸開城のために反対の陣営に属しながら協力しあった間柄である。もし海舟が旧幕臣を煽動し、海軍にも働きかけて西郷と呼応したならば、どのような事態が生じていたかは容易に想像し得るところであろう。しかし海舟は起たなかった。起たないどころか連日連夜奔走して、旧幕臣が叛軍に投ずるのを未然に防いでまわった」
その状況を巖本善治の「海舟余波」(女学雑誌社)では、
「明治十年の時などは、毎晩々々出て、十二時頃に帰ったほどだ。古道具屋をひやかしたり、古着屋で買ったり、アチラにやり、コチラにやりして、平和を維持した。どうして、警視などで、ゆくものかイ」
と書かれているが、それを江藤淳が次のように解説している。
「この『アチラにやり、コチラにやりして』には、彼が政治資金を巧妙に操作して、旧幕臣の生活を支えたことが暗示されている。海舟の政治資金は、おそらく岩崎がその最たるものであり、この岩崎との結びつきの背景には彼と坂本竜馬との関係が潜んでいるものと思われる。その結果、旧幕臣からは、叛軍に投じた者はもちろん、警視庁抜刀隊に参加する者すら出なかった。整然と統制され、力を抑制して、官と薩のあいだの中立勢力たる旧幕臣グループの隠然たる力を示すこと。これこそ明治十年の
危機にあたって海舟が試みたことであり、かつよくなしたことであった」
この江藤説は、なるほどと思う。旧幕臣である元旗本達にとっては、戊辰戦争は不本意な結果で、自分たちの保持する戦力を十二分に発揮できずに終わったことを悔しいと思っているはず。だから、いつか官軍に対して何かの機会に遺恨を晴らしたいという輩一派がいると考えるのが当然で、それが一連の騒乱が続いている時に、どちらかの側に属し、意趣返しの謀反を起こし得ることは十分に想像できる。
前号で紹介したが、福沢諭吉が「痩我慢の説」を海舟と榎本に送った際に添えた「福沢諭吉の手簡」に「なおもってかの草稿は極秘にいたしおき、今日に至るまで二、三親友のほかへは誰にも見せ申さず候」とある。
「二、三親友」・・・それは福沢の見解に同調する旧幕臣がいたことを明かしている。
それは木村芥舟(嘉毅)と栗本鋤雲である。木村芥舟は咸臨丸で渡米した際の提督であり、栗本鋤雲は徳川昭武の補佐役としてフランスに渡り、後に外交面で活躍したが、この二人とも明治政府からその能力を評価され、出仕の誘いがあったが、幕臣として幕府に忠義を誓い謝絶している。
この栗本が「痩我慢の説」を一読し快哉を叫び、全編にわたって線を引いたり、感想を書き込んだりしていたが、とうとう黙っておれなくなり、ついに知人に見せてしまい、内容が外部に漏れたので、福沢もそれなら仕方ないと、十年後の明治34年(1901)一月一日から時事新報に掲載を始めたのである。
いずれにしても、木村芥舟と栗本鋤雲と同様、幕末時の対応に不満意識を持っていた旧幕臣は少なからずいたわけで、何かのキッカケによって爆発へのエネルギーに変化する恐れは高かった。それが、明治初年に発生した各地での騒乱に乗じて爆発したならば、鉄舟の命がけの行動によって実現した海舟・西郷会談によって切り拓かれた明治維新という成果は、国家の大騒乱に変わり、徳川家と明治天皇との関係がおかしくなり、旧幕臣たちの立場は悪化したであろう。
それを恐れた海舟は、全力を尽くして、旧幕臣グループを整然と統制され中立勢力に収めるために動いたのである。後に海舟はこう語っている。(「海舟語録」明治三十一年十月七日で)
「江戸を明け渡したからそれで治るなどといふことがあるものか。畢竟(ひっきょう)、己が苦学の結果で、三十年間かうなって居るではないか」
と語っている。
この「苦学」とは何か・・・。それは、明治新政府をつつがなく運営していくにあたって、謀反を起こす可能性のある旧幕臣グループを問題化させないよう「なだめ」「まとめていく」ために、あらゆる行動を採ったことを「苦学」と言ったのではないかと考える。
では、この苦学を展開し「まとめていく」行くために必要条件とは何か。まず、一番に必要なのは資金であろう。その金は岩崎弥太郎から手当てを受けることができた。次に、その政治資金を使うべき自分の立場が問題となる。
明治政府内に何も権限を持たない状態では、多分、その資金を支出したとしても、有効には機能しないであろう。つまり、在野にいたのではダメで、時の権力の中枢に近ければ近いほど、使ったカネが生きてくる。これは、企業内の政治力学を考えてもわかる。平社員よりは上級幹部の行動の方が影響大きいことは当然だ。
だから、旧幕臣グループを統制するには、政権中枢と強いパイプを持っていることが必要となる・・・このように考えた海舟は、福沢に代表される批判は承知の上で、高位高官の地位を築いたのであろう。そのことを江藤淳が次のように語っている。
「朝に仕えるなら、それはかならず高位高官に任じられるのでなければならない。つまり子爵より伯爵がよく、下僚に甘んじるよりは薩長の顕官と『竝立』って枢密顧問官に列せられるほうがよい。なぜなら位階が高ければ高いほど彼の旧幕臣グループへの統制力は強まり、それだけこのグループの力は隠然と充実するからである」と。
さらに言えば、明治天皇の侍従としての鉄舟が、旧幕臣を「まとめていく」海舟に協力した事は容易に想像がつく。天皇の身近に仕えているということは、何にも勝る重しである。
さて、最初に戻って、②ついて検討してみたい。
海舟は福沢の批判について次のよう氷川清話にある。
「福沢がこの頃、痩我慢の説といふのを書いて、おれや榎本など、維新の時の進退に就いて攻撃したのを送って来たよ。ソコで『批評は人の自由、行蔵は我に存す』云々の返書を出して、公表されても差し支えない事を言ってやったまでサ。
福沢は学者だからネ。おれなどの通る道と道が違うよ。つまり『徳川幕府あるを知って日本あるを知らざる徒(ともがら)*は、まさにその如くなるべし、唯(ただ)百年の日本を憂ふるの士は、まさにこの如くならざるべからず』サ」
これは海舟の自負であり、偽らざる気持であって「批評家に局に当たらねばならない者の『行蔵』、つまり、混乱の幕末から江戸無血開城、そこから連続する政治に対応してきた『出処進退』の実践と苦しさがわかってたまるか」と率直に述べたものだろう。
また、この感覚は、政治という実践舞台で、諸問題に具体的対応を担当している者にしか分からないものであろう。マスコミや一般人は政治家が動いた結果としての事象から批評する。結果として問題点のみが指摘される傾向になる。これは現在の菅政権にも当てはまることであって、菅政治の総決算は後代が定めていくと考える。
話は海舟に戻るが、海舟の国家感はペリー来航の嘉永六年(1853)から経る歴史の中で形成されてきた。長崎での海軍伝習所や幕府内の要職経験を通じ自らの能力を磨き、かため、咸臨丸渡米で国際感覚を身につけ、それを人に伝える中から、幕府体制に対する考え方が定まってきて、それを反幕府勢力の中心人物である西郷にまで伝えた結果が、徳川幕府の崩壊につながっているのである。
つまり、福沢が「敵に向かいてかつて抵抗を試みず」と批判した行動の源には、この一連の歴史から醸成されてきたといえる。
こんな事例がある。明治維新を遡る四年前の元治元年(1864)の大坂、西郷は当時大問題であった兵庫開港延期について、幕府軍艦奉行であった海舟に意見を求めたところ「この問題は、加州(注 加賀)、備州、薩摩、肥後その他の大名を集め、その意見を採って陛下に奏聞し、更に国論を決する」という答えに西郷は唸り、その意味する重大さに驚愕したことかがあった。
なぜなら、この発言は、日本政治の最重要問題処理を、有力諸侯に主体となって当たらせるとい発言であり、これは有力諸侯を国政運営の中心に位置させるという構想につながっており、言外に「幕府には政権担当能力がない」ということを明かしているのだ。
これは当時、とうてい幕臣から発する言葉でない。だが、これを聞いた西郷にとっては、眼を輝かせる見識であり、これを突き詰めていくと、一種の「共和政治」となり、幕府内では反発が強いものだからこそ、薩摩側からみれば一層「その通りだ」ということになる。
この会談を境に薩摩は幕府を見限る方向に動き出したのであって、元治元年時点で、海舟が一度幕府を見放し、それを西郷という類稀なる戦略家に伝えたからこそ、明治維新につながったと考えられるのである。
作家の海音寺潮五郎は、大坂会談時の海舟発言を分析し「勝という人は、終始一貫、日本対外国ということだけを考えて、勤王・佐幕の抗争などは冷眼視、といって悪ければ、第二、第三に考えていた人である」(西郷隆盛 学研文庫)と解説しているが、その通りであろう。
そのような海舟であるから、福沢から批判されても揺るがないのである。所詮、海舟と福沢は生きる世界が異なり、立場の相違は大きく、すり合わせは出来ない生き方哲学の持ち主同士だった。
次は、榎本武揚に対する福沢諭吉の批判である。
実は、福沢の「痩我慢の説」は榎本への批判から始まったものである。その発端経緯を「福沢諭吉 国を支えて国を頼らず」(北 康利著・講談社)から紹介する。
「十九世紀に別れを告げ新たな二十世紀を迎える明治三十三年(1900)の大晦日、後々まで語り継がれる一大イベントが慶応義塾で開催された。『世紀送別会』がそれである。
教職員、学生総勢五百余名が午後八時に参集。諭吉は「独立自尊迎新世紀」と大書した書を一同に披露し、万雷の拍手を浴びた。
そして、大きな話題となった世紀送迎会の翌日から『時事新報』に掲載された『痩我慢の説』は、世間をさらに驚かせる。それは、新政府の重鎮である榎本武揚や勝海舟に対する痛烈な批判だったからである。
きっかけは十年前にさかのぼる。
静岡へ出かけた折、清見寺(せいけんじ)*(静岡市清水区興津)に立ち寄り、境内の『咸臨丸殉難諸氏記念碑』を見る機会があった。
咸臨丸は太平洋横断の後、非武装の運搬船として使われていたが、清水港停泊中に新政府軍の攻撃を受け、多数の死傷者を出した。
新政府軍の目を気にして、誰も海上の死骸を引き上げようとしない。腐乱するままに放置されているのを見かね、侠気を出して埋葬したのが有名な清水次郎長である。清見寺の碑は、この凄惨な事件の十七回忌を記念して建てられたものであった。
この悲劇は諭吉もよく知るところだけに、感慨深げに碑文へと目をやった。撰文はあの榎本武揚である。ところが、そこに〈食人之食者死人之事〉という一節を目にした瞬間、色白の彼の顔が見る間に朱に染まっていった。
この文章は〈人の食(禄)を食(は)む者は人の事に死す〉と読み、この場合、幕府から家禄をもらっていた者は幕府のためなら死をも辞さない、という意味になる。
幕府の重臣でありながら新政府に仕え、高官に上った榎本がよくもしゃあしゃあと書けたものだ、という怒りと同時に、何人もの懐かしい顔が浮かんでは消えた。
かつて謹慎を命じられていた諭吉を助けてくれた中島三郎助などは、五稜郭落城の二日前、長男、次男ともども壮烈な戦死を遂げていた。木村嘉毅もまた、最後の幕府海軍所頭取として敏腕を振るったが、維新後は幕府に殉じて新政府からの仕官の話をすべて断り、隠居して芥舟と号し、試作などで静かな余生を送っている。
一方の榎本はと言うと、向島に数寄を凝らした別荘を構え、贅沢三昧の生活を送っていることを知らぬ者はいない。
(木村さんのような人間にしか、あの文章を書く資格はない!)
東京に戻っても怒りは収まらない。この文章を書いたのが、自分の助命した榎本だということが余計に腹立たしかった」
この清見寺で見た碑文の経緯については、福沢が「痩我慢の説」の中で自ら書き述べている。
しかし、ここで最後の「自分の助命した榎本だ」というところ、これは榎本が五稜郭落城降伏後捕らえられていたものを、福沢が時の官軍参謀長であった黒田清隆に直に面会し、赦免するよう説得熱弁をふるったことが功を奏し、牢から出されたものであるが、その背景には福沢の妻お錦が絡んでいることに触れなければならず、清見寺の碑については鉄舟を抜きには語ることができない。次号に続く。
2011年12月23日
痩我慢の説と鉄舟・・・その一
痩我慢の説と鉄舟・・・その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
福沢諭吉は明治二十四年(1891)、「痩我慢の説」で勝海舟と榎本武揚を正面切って批判した。徳川幕府と明治政府の両方に要人として仕えたことへの士道・士魂からの批判である。だが、鉄舟も同様に明治天皇の侍従として仕えたが、福沢から批判されなかった。それらの背景について今号以下で検討してみたい。
さて、この検討に入る前、鉄舟の長女である松子女史に、鉄舟の駿府での住居について直接確認している牛山栄治氏の記述を紹介したい。(「定本山岡鉄舟」新人物往来社)
牛山栄治氏は鉄舟の高弟である小倉鉄樹の薫陶を受けた人物である。
「私は鉄舟の長女である松子女史から直接きいたことがある。松子さんは文久二年(1862)正月十二日生まれであるから、明治二年には数え年八歳でよく覚えていられた。
『静岡に来てからの住居は材木町で、旧幕時代十分一と呼ばれた安倍川の岸にあった大きな徴税の役所を買いとったもので、洪水のときなど家の下まで水がおしよせて来たのを覚えています』
といっていた。
明治五年に『壬申戸籍』(注:編製年の干支「壬申」から「壬申戸籍」と呼び慣わす)と言われる新たな戸籍が出来ているが、このときの鉄舟の住居は、駿河国安倍郡安西方七番屋敷となっているから、これは松子女史の話の通り、いまの材木町あたりを言っているのであろう。
このあたりは賤機山(しずはたやま)公園の西に隣接している静岡の中心地に近く、荒れ川で有名な安倍川に近いので、洪水には水もおしよせたであろうが、鉄舟屋敷は静岡藩では重要位置にあったのである。敷地は広大で、現在の井宮町六番地の赤石製材株式会社や疋田ガソリンスタンドの位置、水道町一番地の佐藤電気商会の位置にもおよぶといい、そこに『鉄舟屋敷跡』という碑が建っている。(注:この碑は老朽化し撤去されたままになっていたが、2010年四月に新しい記念碑が、静岡・山岡鉄舟会と地元の水道町町内会によって静岡市葵区水道町1-4に建立された)
ここで鉄舟はどんな家族といっしょに住んでいたのであろうか。壬申戸籍によると、養父山岡信吉一家がいる。信吉は天保三年(1832)七月二十日生れで、山岡静山の弟であり、高橋泥舟の兄で、鉄舟より四歳年長であるが、生来の唖であったので一応静山の家督はついだものの、鉄舟を養子に迎えたのであるから、鉄舟の養父となっていたのである。
鉄舟の家族としては、夫人英子(天保十一年四月九日生)と、長女松子、長男直記(慶応元年二月二日生)、二男静造(明治三年五月四日生)、三女しま(明治七年四月八日生)、四女多以(明治八年五月十一日生)が戸籍にはのっている。三女、四女は鉄舟が東京に出てから生まれたのでここに住んでいたのではない」
もう一つ面白い記述がある。牛山栄治氏は第二次世界大戦時の極東国際軍事裁判、東京裁判ともいうが、この裁判で日本側の弁護人に、ジョージ・ヤマオカという日系米人がいたが、これが鉄舟の曾孫であったという。(「定本山岡鉄舟」新人物往来社)
「鉄舟屋敷には、日本の石油開発の創始者になった石坂周造が、明治三年に第三回目の入獄から出牢して身を寄せ鉄舟の付籍となっていたが、鉄舟夫人英子の妹圭子を後妻にしたのでこの石坂夫婦が同居している。
この石坂には、嘉永五年三月二日に先妻との間に生まれた長男宗之助がいたが、この宗之助を鉄舟は長女松子の婿養子にして同居し、これが東京に出てから明治十六年十一月二十六日に長女まさと、明治十九年一月十四日に長男英一を生んでいる。
宗之助は温順な人柄であるが、石坂が石油会社を創立すると、八年間もアメリカのペンシルヴァニア州に留学させられ、石油採掘と精製について研究し、帰朝してからは鉄舟の養子になり、不振な石坂の石油事業にまきこまれて苦労していたが、鉄舟が死んだ明治二十一年に鉄舟の後を追うように死んでいる。
このとき長男英一は三歳になったばかりであったが、米国の知人が養育を引きうけてアメリカに連れていった。
英一はその後時計商として成功したというが、いつとはなく山岡家とは音信が絶えていた。大東亜戦が終わった後の、昭和二十一年五月三日から東京市ヶ谷台の旧陸軍省大講堂に、国際法廷が設けられて、東条英機元首相以下、A級戦争犯罪人二十八被告の極東国際裁判が開かれた。
この裁判は勝者が敗者を裁くという無理な裁判で、日本側の弁護人清瀬一郎など悲壮な努力をつづけていたが、この日本側の弁護人の中に、日系米人で、ジョージ・ヤマオカという人がいた。名刺には日本名で山岡譲治と添え書きがしてあった。
昭和二十二年七月十九日の鉄舟忌に、筆者は谷中全生庵の法要に出てこのジョージ・山岡に紹介された。彼は当時丸の内中通り、成富弁護士の事務所を借りていたがフランス人を妻にもち、その日も可愛い金髪の少女を連れていた。
このジョージ・山岡が山岡英一の子供であると鉄舟研究家の安部正人が断定してつれてきたのであるが、当人は親の家は元静岡県士族であるくらいの知識しかなく、鉄舟の曾孫であると言われてもあまり感激もない様子だったが、それでも当時としては大金の金二十万円を全生庵に寄進し、また千葉県勝浦に住んでいた鉄舟孫の龍雄君を度々訪ねて、魚釣を楽しんだという」
さて、本題である福沢諭吉「痩我慢の説」による勝海舟と榎本武揚への批判に入りたい。
福沢諭吉は天保5年(1835)生まれ、明治34年(1901)六十六歳で逝去。中津藩士、幕臣を経て新聞時事新報の創刊・発行者、東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長、慶應義塾創設者であり「学問のすすめ」「文明論の概略」「西洋事情」その他多く名著を残し、明治日本社会に大きな影響を及ぼした啓蒙思想家である。
また、興味深いことに明治維新の年(1868)には三十三歳であって、福沢の前半は江戸時代、後半が明治時代と維新を境にして半分ずつの人生を送っている。
「痩我慢の説」は二十世紀を迎えた1900年(明治三十三年)の、翌年の1901年(明治34年)一月一日から時事新報に掲載が開始された。しかし、実際に書かれたのは、これより十年前の明治二十四年(1891)であった。
福沢ほどの人物が、新聞紙上で特定の人物を名指しで、それも明治政府の重鎮として存在感を示していた二人を批判するということ、それにはそれなりの背景と理由があるわけで、これについては後述するとして、まずは明治24年に書き終え、二人に送った際の手紙と、二人からの返書を見てみよう。(「日本の名著33福沢諭吉」中央公論社)
「福沢諭吉の手簡」
拝啓つかまつり候。のぶれば過日痩我慢の説と題したる草稿一冊を呈し候。あるいは御一読もなし下され候や。その節申し上げ候とおり、いずれこれは時節を見計らい、世に公にするつもりに候えども、なお熟孝つかまつり候に、書中あるいは事実の間違いはこれあるまじきや、または立論の旨につき御意見はこれあるまじきや、小生の本心はみだりに他を攻撃して楽しむものにあらず、ただ多年来、心に釈然たらざるものを記して世論に質し、天下後世のためにせんとするまでの事なれば、当局の御本人において云々のお説もあらば拝承いたしたく、何とぞお漏らし願いたてまつり候。要用のみ重ねて申し上げ候。
匆々(そうそう)頓首。
二月五日 諭吉
・・・・様
なおもってかの草稿は極秘にいたしおき、今日に至るまで二、三親友のほかへは誰にも見せ申さず候。これまたついでながら申し上げ候。以上。
「勝安芳の答書」
古より当路者、古今一世の人物にあらざれば、衆賢の批評に当たる者あらず。計らずも拙老先年の行為において御議論数百言、御指摘、実に慙愧に堪えず、御深志かたじけなく存じ候。
行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与(あずか)らず我に関せずと存じ候。各人へお示しござ候とも毛頭異存これなく候。おん差し越しの御草稿は拝受いたしたく、御許容下さるべく候なり。
二月六日 安芳
福沢先生
拙、このほどより所労平臥中、筆を採るに懶(ものう)く、乱筆御海容を蒙りたく候。
「榎本武揚の答書」
拝復。過日お示し下され候貴著痩我慢中、事実相違の廉(かど)ならびに小生の所見もあらば云々との御意、拝承いたし候。昨今別して多忙につきいずれそのうち愚見申し述ぶべく候。まずは取り敢えず回音かくのごとくに候なり。
二月五日 武揚
福沢諭吉様
では、福沢はどのような批判を「痩我慢の説」で展開したのであろうか。その要点と思われるところを拾ってみる。(「日本の名著33福沢諭吉」中央公論社)
まずは勝海舟に対する批判から紹介したい。
「自国の衰頽(すいたい)に際し、敵に対してもとより勝算なき場合にても、千辛万苦、力のあらん限りを尽くし、いよいよ勝敗の極に至りて、はじめて和を講ずるか、もしくは死を決するは、立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称すべきものなり。すなわち俗に言う痩我慢なれども、強弱相対していやしくも弱者の地位を保つものは、単にこの痩我慢によらざるはなし」
「しかるにここに遺憾なるは、わが日本国において今を去ること二十余年、王政維新の事起こりて、その際不幸にもこの大切なる痩我慢の一大義を害したることあり。すなわち徳川家の末路に、家臣の一部分が早く大事の去るを悟り、敵に向かいてかつて抵抗を試みず、ひたすら和を講じてみずから家を解きたるは、日本の経済において一時の利益を成したりといえども、数百千年養い得たるわが日本武士の気風を傷(そこの)うたるの不利はけっして少々ならず。得をもって損を償うに足らざるものと言うべし」
「国家存亡の危急に迫りて勝算の有無は言うべき限りにあらず。いわんや必勝を算して敗し、必敗を期して勝つの事例も少なからざるにおいてをや。しかるを勝氏はあらかじめ必敗を期し、そのいまだ実際に敗れざるに先んじて、みずから自家の大権を投棄し、ひたすら平和を買わんとて勉めたるは者なれば、兵乱のために人を殺し、財を散ずるの禍をば軽くしたりといえども、立国の要素たる痩我慢の士風を傷うたるの責めは免るべからず。殺人、散財は一時の禍にして、士風の維持は万世の要なり。此を典して彼を買う、その功罪相償うや否や、容易に断定すべき問題にあらざるなり」
「然りといえども勝氏もまた人傑なり。当時、幕府内部の物論を耕して旗本の士の激昂を鎮め、一身を犠牲にして政府を解き、もって王政維新の成功を易くして、これがために人の生命を救い、財産を安全ならしめたるその功徳は少なからずと言うべし。
この点につきてはわが輩も氏の事業を軽々看過するものにあらざれども、ひとり怪しむべきは、氏が維新の朝にさきの敵国の士人と並び立って得々名利の地位に居るの一事なり」
「氏の尽力をもって穏やかに旧政府を解き、よってもって殺人・散財の禍を免れたるその功は、奇にして大なりといえども、一方より観察を下すときは、敵味方相対していまだ兵を交えず、早くみずから勝算なきを悟りて謹慎するがごとき、表面には官軍に向かいて云々の口実ありといえども、その内実は徳川政府がその幕下たる二、三の強藩に敵する勇気なく、勝敗をも試みずして降参したるものなれば、三河武士の精神に背くのみならず、わが日本国民に固有する痩我慢の大主義を破り、もって立国の根本たる士気を弛めたるの罪は遁(のが)るべからず」
この福沢諭吉の論旨になるほどと思う。立国の精神に立てば、あくまでも戦うことが必要で、一旦退く癖を国家政治が身につければ、外交問題で敵国から圧し込まれるばかりになってしまうという懸念を強調していることに同感する。
今の日本政府要人には、福沢が述べている痩我慢がなく、外交問題を目先にとらわれた安直な解決手段を弄しているような気がしてならない。政府要人は福沢の「痩我慢の説」を熟読玩味すべきであろう。
だかしかし、鉄舟の行動をつぶさに検討し、この連載を続けている者としては、福沢の言い分は筋が通ってはいるが、何か現実味が薄いという感を持たざるを得ない。
海舟という人物への好き嫌いは別として、海舟の成し遂げた業績は、鉄舟という際立った実践行動力をもった人物から命を賭する武士道精神を引き出し、共に能力の全てを傾注し、江戸無血開城をまとめ上げ、幕末から明治維新への混乱期を最小限の紛争にとどめ、日本国を近代化へと道筋をつけた最大の功労者であろう。また、この間、海舟も鉄舟も何度も刃の下をくぐる危機を経験してきている。
これに対し、福沢は同時代を学者・教育者としての道を歩んできた。福沢の教育観は、数と理をもととして、自然の法則に重きをおく科学的・合理的精神と、他方、独立自尊をモットーとし、いやしくも卑劣なことは絶対しないという精神、この二つの原則に立つものであった。
福沢は大坂に生まれ、父の死で大分県中津に移り住んで19歳まで育った。中津での幼少期の出来事としては、神罰を恐れず、稲荷神社の神体のお札を捨ててしまうという行動をとったこと、これは集団と伝統からの拘束を嫌い、自由でありたいという思考をもっていたことを表している。
その後、長崎でオランダ語を学び、大坂に出て緒方洪庵の適塾で三年間の修業で、後年の思想の礎と教育者としての性格形成を成したといわれている。
23歳で江戸に出て、25歳には海舟が艦長の咸臨丸でアメリカへ、その際に海舟と福沢はあまり仲が良くなかったといわれ、次に26歳で幕府の遣欧使節団翻訳方としてヨーロッパへ、32歳の慶応三年幕末動乱期には日本を留守にし、幕府の軍艦受取委員の随行として再度アメリカへ渡航している。
翌慶応四年四月32歳のときに蘭学塾を慶応義塾と改称、芝新銭座(有馬家中屋敷の一部、現在の東京都港区浜松町1丁目、神明小学校あたり)に開設し、彰義隊壊滅の日も「いかなる変動があろうとも、慶応義塾が存する限り、わが国に学問の命脈の絶えることはない」と通常の授業を続けたことは有名である。
このように福沢は、政治的なものへは傍観者的であり、政治とは独立した学問的な合理性を重んじたのであって、幕末政治に深く関わっていた海舟や鉄舟とは大きく立場が異なる。当然ながら後年、海舟は福沢の批判について反論したが、これは次号にお伝えしたい。
2011年11月22日
駿府・静岡での鉄舟・・・其の三
山岡鉄舟 駿府・静岡での鉄舟・・・其の三
山岡鉄舟の立場は慶応四年(1868)三月以降急変した。
上野寛永寺大慈院に謹慎・蟄居している慶喜から命を受け、駿府の西郷との交渉に向かった時の身分は、慶喜護衛を担当する精鋭隊頭格にすぎず、俸禄は百俵二人扶持で御目見以下の御家人であった。
それが、徳川幕府が瓦解し、上野彰義隊の壊滅後の徳川宗家を継いだ家(いえ)達(さと)に新政府から新たに禄高七十万石が示された慶応四年五月には、
「勝安房守、織田和泉守、山岡鉄太郎、岩間織部正に若年寄幹事役被仰付。御政治向に関するご用向は、すべて取扱い候、その意を得らるベく候」(慶応四年五月二十二日江湖新聞)
とあるように若年寄という破格の立場になった。
若年寄とは老中に継ぐ幕府政治の要職である。だが、この当時、幕府政治に携わっていた老中や若年寄の旧大名は藩地に戻ったので、それら大名に代わって徳川藩の者が若年寄に就いたのであるが、その中に鉄舟がいたという事実は重要である。
それは、幼少より自らを鍛え続けた鉄舟の生き方が、自らの素質を見事に顕現化させ、幕府崩壊という混乱期の困難な時代に立ち向かえることができる人物に育てたことを示している。
さらに、徳川藩が静岡藩に変わった明治元年(1868)には、勝海舟と共に幹事役となっている。これは国立公文書館内閣文庫の「駿河表之召連候家来姓名録」から明らかで、明治二年(1869)正月作成の「役名便覧」でも海舟と一緒に幹事役と記されている。
その次は、明治二年(1870)九月で、新たに静岡藩権大参事・藩政補翼として名簿に記載されている。権大参事とは幼い藩主家達の年齢から考え、事実上の県知事に当たる立場と考えて間違いないが、この職務には九名が任じられそれぞれ役割を分担した。
政治掛は浅野次郎八、軍事掛は服部綾雄、会計掛は河野九郎、郡政掛は織田泉之、刑法掛は冨永雄造、公用兼監正掛は戸川平太、藩政補翼が鉄舟、藩政補翼兼御家令は大久保一翁、公議人は妻木務である。
ここで当時の状況について少し触れておきたい。
明治二年六月、二百七十四大名に版籍奉還が行われ、土地と人民は明治新政府の所轄するところとなったが、各大名は知藩事(藩知事)として引き続き藩(旧大名領)の統治に当たり、これは幕藩体制廃止の一歩となったものの現状は江戸時代と同様であった。
一方、旧天領や旗本支配地等は政府直轄地として府と県が置かれ、中央政府から地方長官として府には府知事、県には県知事がおかれた。これが明治元年末には九府三十県となっていた。このように地方行政を三つに分割統治していたので、これを府藩県「地方三治制」という。
この府藩県制の中、特に静岡藩は複雑な要因を内蔵していた。その最も大きなものは徳川家臣とその家族の大量移住である。前号で見たように家臣の静岡での生活は激変し、特に衣食住問題への対応は厳しく苦しかった。
権大参事としての鉄舟は、徳川家を頼って駿府に移住してきた家臣達に対し、最大の配慮を図るべく対応したが、一気に増えた移住者によって食料が不足し、それが一般民衆の生活まで影響し、難しい困難な政治運営とならざるを得なかった。この対応策として進めたのが牧ノ原などの荒蕪(こうぶ)の開墾である。今の牧ノ原茶畑であり、これについては後日詳述する。
第二には禄高七十万石にするために、幕府直轄地であった三河国御領と旗本領以外の、駿河国・沼津、小島、田中(藤枝)三藩と、遠江国の掛川、相良、横須賀(掛川市の一部)、浜松の四藩、計七藩が千葉に移った後にも移住者を当て込み、そこに新たに奉行を配置し政治を行ったが、この地でも同様の問題が生じた。
第三には討幕軍が静岡地区を通過する際に現出したように、駿府地区特産のお茶が諸外国へ輸出され、未曽有の好景気をもたらした幕府支持層と、幕藩体制下で疎外されていた遠州報国隊、駿州赤心隊、伊豆伊吹隊などの、神職中心の倒幕運動層との間に発生した殺傷事件問題である。
これらの静岡藩政治に鉄舟は全力を尽くし、奮闘したわけであるが、この時の鉄舟を助け働いたのは高橋泥舟であり、井上清虎であり、中条金之助、松岡万、村上忠政らかつてからの仲間であった。
高橋泥舟は志田郡田中の奉行、中条金之助と松岡万も奉行として多くの移住者を受け入れ、井上清虎は浜松兼中泉奉行となり晩年に第二十八国立銀行の頭取となった。
しかし、ここで不思議なことは、江戸無血開城を一緒に成し遂げた海舟が、明治二年九月の静岡藩役職名簿に権大参事として名がないどころか、他の役職にもついていない。名簿から名前が消えているのである。どうしたのであろうか。
実は、海舟は明治二年四月に静岡藩に退身書を提出し東京に戻って、同年七月に新政府から外務大丞に任命されていた。しかし、大丞は大官ではあるが、局長級の階級であることが理由と思われるが、海舟は直ぐに辞退している。次に再び同年十一月に兵部大丞を任命されたが、これも即日辞退し、十二月に静岡に戻っている。
しかし、翌明治三年(1870)三月には太政官より東京に来るべく旨が出され、六月に東京に行ったが、同月に再び静岡に戻っている。
このように海舟は、静岡と東京を行ったり来たりであるから、当然のごとく静岡藩での役向きには適せず、明治五年(1872)には東京赤坂氷川町の広い元旗本屋敷を買い取って転居し、静岡からは完全に去ったのである。
また、この年の五月に海軍大輔に任ぜられ新政府入りし、翌六年(1873)に参議兼海軍卿の栄職についた。
このような海舟の行動、当初から静岡藩での役割は毛頭考えず、新政府での立身出世だけを狙っていたのであろうか。それとも海舟を新政府が強く求めたのであろうか。
この海舟の身の処し方に対し、福沢諭吉が明治二十四年に「痩せ我慢の説」で批判したことは有名であるが、この件について語るには、一筋縄で計れない海舟という人物と、激変時代で遭遇した複雑な背景環境の分析、併せて福沢から一緒に批判された榎本武揚についても触れなければならず、榎本を述べるためには侠客の清水次郎長について、次郎長を取り上げると鉄舟との関連を詳しく検討しなければならないので、後日、改めて詳しくお伝えする。
しかし、事実としていえるのは新政府の人材不足と、徳川幕府には有能な人材が多くいたということであって、そこに新政府が目を付け、静岡から多くの人達が新政府に引き抜かれたということである。
その一例として渋沢栄一を挙げたい。渋沢栄一は埼玉県の農家出身であるが、縁あって一橋慶喜に仕え、慶喜の弟である昭武がフランス・パリ万国博覧会に将軍の名代として出席する際に随員として渡仏し、万博視察とヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行して、各地で先進的な産業・軍備を実見したように、当時としては稀有の体験を持った人物であって、その後の活躍によって日本資本主義の父といわれ、多種多様な企業の設立・経営に関わった大物財界人である。
この渋沢がフランスから帰国し、静岡に在住している時に、新政府から強く求められ仕官した経緯について、自叙伝「雨夜譚」の中で語っているので紹介したい。なお、「雨夜譚」を雨夜譚(あまよがたり)*(岩波文庫)とも雨夜譚(うやものがたり)(日本図書センター)とも読むが、まずはパリから静岡に向かった理由からである。
「当時朝廷に立って威張って居る人々は何れも見ず知らずの公家か諸藩士か、又は草莽(そうもう)*から成り上がった人ばかりで、知己旧識というは一人もいない。熟(つらつ)ら既往の事を回顧してみると、幕府を倒そうとして様々苦慮した身が反対に倒されて、亡国の人になって殆ど為すべき道を失ったのだから、残念でもあるが又困却もした。さればといって、目下羽振りのよい当路の人々に従って新政府の役人となることを求むるのも心に恥ずる所であるから、仮令(たとい)当初の素志ではないにもせよ、一旦に前君公(慶喜)の恩遇を受けた身に相違ないから、寧(いっ)そ駿河にいって一生を送ることに仕よう、又駿河にいって見たら何ぞ仕事があるかもしれぬ、若し何にもする事がないとすれば農業をするまでの事だと、始めて決心をしました」(日本図書センター刊、以下引用同じ)
次に、得意の商業活動に居所を見出した経緯についてである。
「この先き静岡に住居するには、農商いずれの業に従事したら宜いかという一段に至っては、頗(すこぶ)るその採択に苦慮しましたが、その頃新政府から諸藩へ石高拝借ということを許されました。これは御一新に付いて金融に著しき窮迫を告げた所から、凡(およ)そ五千万両余の紙幣を製造して、軍費その他の経費を支えたが、その紙幣は民間の流通があしきゆえ、それを全国に流布させんが為め、諸藩の石高に応じて新紙幣を貸し付け、年三歩の利子で十三箇年賦に償却するという方法でありました。・・・中略・・・静岡藩への割付総額は七十万両程であって、その年の末までに新政府から交付せられた金高は五十三万両だということは、自分が駿河へ往くと直に人から聞いて居ったに依って、前にもいう通り、商業にて聊(いささ)*か効能を顕わしたいと様々工夫して居た際であるから、この石高拝借の事に付いて一つの新案を起こしました」
渋沢はこの政府紙幣を資本とし、これに徳川幕府がパリ万国博に出品した物産の売上金を加え、さらに静岡の商人からの出資も入れ、官民合同の合資会社ごときものを設立したのである。
「詳細に方法を認めて、計算書までも添えて平岡(勘定頭)の手へ差し出したのは、明治元年の歳末でありました。明くれば明治二年の春、平岡は右の方法書に拠って終に藩庁の評議を決して、静岡の紺屋町という処に相当の家屋のあったのを事務所として、商法会所という名義で一の商会を設立し、地方の重立った商人十二名に用達を命じ、恰も銀行と商業とを混淆したような物が出来ました。自分は頭取という名を以てその運転上の主任になって業務を執ることになった」
この頃は全国各地で静岡と同様の原始的な会社企業が設立されていたが、殆どはうまく運営できなかった。だが、渋沢はフランスで学んだ企業経営の知識を活かし、参加した商人たちを巧みに指導し、設立後の運営を順調に推移させた。
渋沢自身は、以下述べるように、設立後まもなく新政府に引き抜かれたが、静岡商法会所は後に常平倉と改称され、県内物産の輸出、士族の授産事業、青田貸しという農村金融など手広く営業して、明治六、七年頃には負債を解消した。
このように成功させた渋沢は後に、日本の産業資本のほとんどの分野に巨大な足跡を残すのであるが、その下地はこの静岡商法会所の成功にあったといえよう。
その渋沢を新政府への引き抜きであるが、そのキッカケを「雨夜譚」で次のように語っている。
「諸事追々整理して来たから、今二三年を経たならば堅固で有益なる商業会社が成立するであろうと予め企望をして、精々注意して居ました。処がその歳の十月二十一日に、朝廷からの御用とあって、その頃太政官に弁官といって大弁、中弁、小弁という官職があったが、その弁官から自分に宛てた召状が来て、早速東京へ出ろということであると、藩庁から通達を受けました」
この通達に対し、渋沢はようやく商法会所の目途がついた時であり、新政府に仕えたくないと藩に申し出たが、藩としては朝旨によるお召で、断れば有用の人材を隠蔽するということになり、藩主に御迷惑をかけることになるから、とにかく一応出京するよう命令され、やむを得ず新政府に出向いた。
この時に渋沢を引き抜くよう動いたのは、新政府の民部省を握っていた大隈重信であった。この当時の民部省は、後に大久保利通が支配した内務省の前身になるもので、現在の内政全般を担当する国内行政の元締めみたいな役所だった。
大隈は大きな仕事を遂行するために貪欲に人材を求め、政府の有能な人物はすべて民部省に集まるといわれていた。
大隈は後に立憲改進党を創設し、総理大臣になり、早稲田大学を創立、明治時代の開明主義者の大物で、人に偏見をもたず、包容力が大きく、理想の高い大隈のもとには、尾崎行雄、犬養毅、高橋是清等のそうそうたる逸材が集まって、民部省は最も活動的で野心ある若者があこがれる役所だった。
その大隈が渋沢をこう言って説得したと「実業の世界・明治四十三年四月号」に掲載されている。(「徳川家臣団・第二編」前田匡一郎著)
「いまの日本は、幕府を倒して王政に復したのである。しかし、それだけで我らの任務は未だ全うしたとは言えない。さらに進んで、新しい日本を建設するのが我々の任務である。だから、今の新政府の計画に参与している者は、すなわち八百万(やおよろず)*の神達である。その神達が集まって、これからどういう具合に日本を建設しようかとの相談の最中である。何から手をつけてよいのかわからないのは君ばかりではない。皆わからないのである。
今のところは、広く野に賢材を求めてこれを活用するのが何よりの急務である。君もその賢材の一人として採用されたのだ。すなわち八百万の神達の一柱である。君が慶喜公の鴻(こう)恩(おん)を思い、公にために尽くしたいと言うのは無理もない話であるが、なにも側にいないとて尽くそうと思えば充分尽くすことができる。商法会所の経営も宜しかろう。しかし、その仕事は僅かに静岡県の一部に限られている仕事である。我々がこれからやろうと言う仕事はそんな小さなものではない。日本という一国を料理する極めて大きな仕事である。
どうか君も折角八百万の神達の一柱として迎えられたのだから、この大きな仕事のために、是非骨を折ってもらいたい」
大隈は演説の名人で、日本の雄弁術の元祖といわれる人物である。その大隈からこのような殺し文句で説かれては、渋沢ともいえども抵抗できない。この時の心境を「雨夜譚」で語っている。
「大隈大輔のお説を聴くと、成程尤も千万な意見であるし、強(た)ってお断り申す適当の返辞も出来なかったので、一応宿に戻ってなお熟孝する旨を答えてその場は別れたのであった。さて、宿に戻って種々(いろいろ)考えて見ると、大隈さんの議論が正当であり、私の我儘を通すべきでないように考えられたので、ここに初志を翻して明治政府に仕える決心をなし、その後三度大隈大輔を訪問して、御説諭に従い明治政府に御仕え申す決心をした事を御返辞したのであった」
この時に渋沢とともに民部省に引き抜かれたのは前島密で、少し遅れて杉浦譲が加わった。この三人によって多くの大事業が遂行され、大隈はこの三人を常に掘り出し者だったと述懐していたという。
さて、海舟についても同じような雄弁で新政府に引き抜いたのであろうか。それとも海舟には幕府崩壊後も日本国のために意図する何かがあったのだろうか。次号に続く。
2011年10月12日
駿府・静岡での鉄舟・・・其の二
山岡鉄舟研究
駿府・静岡での鉄舟・・・其の二
江戸から駿府への徳川家臣団移住は、慶応四年(1868)から明治元年へと、新しい年号に変わった十月、この一ヶ月で全員の移住を完了させよと命令が新政府からなされていた。しかし、十月二日から十二日まで明治天皇の東上、その間は徳川家移住が中止、また、家屋・家具等の整理処分に時間がかかり、実務的に一カ月では無理で、陸路は翌年まで続き、海路は十月と十一月の二カ月にかけて行われた。
移住に陸路と海路のどちらを選ぶかはお金次第であった。お金のある者は陸路、または個人で船を雇った。この雇船は商いのため江戸に立ち寄る帆前船を清水港までチャーターしたもので、お金がない者は徳川家がチャーターした大型船での移住となった。
この移住の状況、今の時代につながることも多いので、当時の記録からいくつかみてみたい。最初は陸路。それを幕末時に御徒(おかち)であった山本*政(まさ)恒(ひろ)(七十俵五人扶持)の日記からひろってみる。
御徒とは徒士・歩行とも書き、御目見以下の軽格武士御家人で、職掌は将軍近辺の警護である。この日記は原題を「政恒一代記」、それが「幕末下級武士の記録」(昭和六十年・時事通信社)として出版され、この中に東京出立前の家屋敷処分状況が記されている。
「無禄移住を願出たり。因て江戸持地面は其儘上地し、家屋は売方多く買い手少なきを格外の下落也。三年前に建直し、瓦家にて建坪二十余坪の家作、漸くにて代金弐拾円にて売渡」
政恒の住所は下谷三枚橋通仲御徒町大縄地(現・JR御徒町駅近辺)で約二百坪の敷地、政恒は多少絵心があり、自宅を絵図で遺している。これを見ると池があり築山もあって庭木も大きい。これを移住までに「悉く焚木に使用した」と記しているが、現代では豪邸となる立派な邸宅が、江戸時代の軽格武士御家人の住むところであった。
今の御徒町あたりは雑然と建て込んでいる街並みであるが、古地図を見れば御徒屋敷が整然と区画され並んでいる。
この当時の江戸は、素晴らしい調和のとれた景観都市であった。それを証明するのがイギリス人写真家「フェリックス・ベアト」の写真である。撮影したのは慶応元年(1865)から2年(1866)頃で、江戸市中をパノラマ写真として残している。特に海舟と西郷が江戸無血開城を談じた愛宕山から撮影した江戸景観は見事である。今、愛宕山から眺めると、当時の景観は望むべくもなく、ベアトと同じ位置から見た現代の東京の街並み、それに貧しさと哀れさを感じる。
このような無秩序景観になっていった始まりが、徳川家臣の駿府移住という要因から発生したと推測される。家臣の家屋が一斉に売りに出され、不動産市場の需給バランスが一気に崩れ、売り手不利で安く買いたたかれ、それを購入した江戸市民は、時間経過の中で何度か転売しつつ、その度に土地は細かく区分所有されていき、都市景観の調和美が失われていった、と政恒日記から推測され、東京の現状を成程と思った次第である。
更に、政恒に日記から移住の途中状況を見てみたい。
「明治二年(二十九歳)正月家族引纏め東京出立、川崎・藤沢・小田原・三嶋・吉原・由井・江尻の七宿へ泊し、駿府研屋町米商山本屋吉右衛門方に止宿す。予の家族は、かん・よし(七歳)・万平(五歳)・文次郎(二歳)さだ都合六人なり。因て元大御番京都へ在勤の時用ひし長持の駕籠を求め、夫へ夜具・蒲団三組を敷入れ、子供三人を乗せ、屋根へは下駄・傘・おまる等を乗せ、其他の者は歩行し、足の労れし時は駕籠を雇ひし也」
家族六人が七泊もして荷物を持って陸上を徒歩で移動したのであるから、随分お金がかかったであろう。現代の引っ越しからは考えられない状況である。
移住では家族間の悲劇も発生した。四百俵の平賀家の事例である。(「徳川家臣団第三編」前田匡一郎著)
「内匠(勝成)の妻は三枝左兵衛の娘で左兵衛が朝臣(新政府)になったので、父も内匠も大層立腹して、三百年来の徳川家の御恩を忘れたる不忠不義の武士のこんな娘は我が家には置けぬと早速離縁を申渡し、妻は女の子の幸を連れて泣く泣く三枝家へ帰った」
徳川家が禄高七〇万石では従来の生活ができないのであるから、朝廷・新政府へ仕えるよう強く勧奨し、それを受け入れた結果は夫婦別れという悲劇を生みだしたのだ。
さて、海路であるが、これについては大正十五年(1926)静岡民友新聞に「府中より静岡へ」という記事が坂井闡(せん)という人物により連載され、その中にチャーター船の様子を述べた明治三十四年の
「塚原渋柿園」(明治期の小説家)による回想が紹介されている。(「徳川慶喜静岡の三十年」前林孝一郎著 静岡新聞社)
「移住者を清水湊まで運んだのはアメリカの『飛脚船』ゴールデン・エージ号という船であった。長さは七十~八十間(約二百五十~二百九十メートル)、幅十二~十三間(約四十五メートルほど)の大船で品川沖の台場付近に停泊していた。乗船希望者は本願寺あるいはその付近の民家を借りて待機していたがその数は約二千五百から二千六百人に上がっていた。
むろん、その中には婦人や子供、一人では動けない老人なども含まれていた。当然のことながら持ち込み荷物は最小限に制限されていたが、みな新生活への不安から一品でも多く持ち込もうとして必死だった。出発当日は朝早くから数十隻の小船が動員された。小船は陸と船を数百回も往復したが、乗り組みがすべて完了したのは夕方六時を回っていた。
船はパンク状態で甲板はテントを張って『野営』の状態、船内も『すしを詰めたというより目刺し鰯を並べた』ような状態だったという。約二里(八キロメートル)も小船に揺られたうえに、貨物船特有の石炭のにおいにやられて船内あちこちで嘔吐するものが出た。病人の呻き声、子供の泣き声、そしてそれをなじる水夫の怒鳴り声で、船内は『牢屋どころか地獄』を思わせる様相であった。
特に困ったのは用便であった。これだけの人数に対応するだけのトイレのあろうはずもなく、船底に四斗樽を十四、五も並べて代用した。しかし男性はともかくとして女性はと言えば元旗本・御家人の奥様、お嬢様たちである。たいそうな難儀をしたが、偶然にも船内に持ち込まれていた『おまる』が引っ張り凧になった。
また樽にたまった汚物を船外に捨てようと樽を吊り上げたが、途中で綱が切れ、乗客がこれを頭から浴びるなどというハプニングも起こった。二日半かかって清水湊に到着したが、この間亡くなった人は四、五人、出産も五、六件あった」
このような塚原の回想内容は、その後各文献でしばしば引用され、一般的にこれが海路移住の全てであったかのように伝わっている。これは大変な誤解であることを指摘したい。
外国船による大量輸送は九回行われた。これは東京都立公文書館の資料により概略確認できる。(徳川家臣団第三編)
1. 十月二日 横浜亜国商人所持蒸気飛脚船ニーヨルク 千三百八十八人
2. 十月八日 オーサカ 千四百八十一人
3. 十月十一日 アテレイン 四百十一人
4. 十月十五日 アテレイン帆前船キングフィルツリプテ 千七百五十人
5. 十月二十四日 ヤンシー 二千二十八人
6. 十月二十八日 ヤンシー 千八百九十三人
7. 十一月三日 クルリュー 四百八十四人
8. 十一月五日 ヤンシー 千四十七人
9. 十一月九日 ヤンシー 八百十四人
合計 九便 一万千二百九十六人
この便船の区分けは、基本的に百俵以上(御目見)と未満(御家人)に分けたようであるが、これは当初の基本方針であって、実際は様々に乗船したらしい。
なお、上の九便リストに塚原が回想したゴールデン・エージ号が見当たらない。本人の記憶違いと思われるが、人数の多さから推察して十月二十四日五便のヤンシーではないかと考えられる。
次に、十一月五日のヤンシー千四十六人に乗船した新庄萬之助直義の記録を紹介したい。新庄は両番格(御小姓と御書院の両番を勤め得る家格)の四百石であるが、母と妹を残し、父と二人で駿府に移住するため本願寺に入った。(徳川家臣団第五編)
「此院にて長崎人にて何某作太郎とて御雇外国船の通訳をなす者に逢ひけり。其者の言に自分は少し病気にて爰(ここ)に居残り居るが、自分の乗り居るヤンシューと云える船は雇船中最大なるものゆえ其船に乗る方船暈(めまい)に罹る事少なからんとの事に他の船の出るにも係らず其船の来るを待ち、十一月五日ヤンシューに乗込、作太郎周旋にて上等の一室を借り受けたり。
船長の名をバチラと云ひ支那人のボーイ多く徘徊しチュデヤートと云ふ語を盛に誦す。其何を意たるを解する能はず。船中は板壁塗料及石炭の匂ひにて人々頭痛を感ず。父は之が為に炊出しの握飯を喰ひ得ざりしが余は別条なかりし。船は日没後に出帆し、日出前清水港に着す。軈(やが)て日出れば三保の松原は近くして緑に富士山は遠くして白し、其外見馴れぬ山海の景色に少しは紛るる事を得たり。是れ実に十一月六日の朝なりき」
このように一日で順調に海路移住した事例も記録に見られる。事実は様々な角度から検討しないといけないと思う。
一方、受け入れる駿府の住民には町触れが出されていた。
「このたび約千人ほどが東京を出発した。そのうちに当地へも到着することになるが、各町内で宿泊場所を提供してほしい。見苦しい住居でも構わないということである。到着次第、各町内へ宿割りをするので、不都合が生じないように取り計らって欲しい」
清水港に到着した移住者は、とりあえず近在の民家や寺院の本堂を借りて住みつくことになったが、彼らは「お泊まりさん」と呼ばれた。
駿府には六百九十四人、浜松七百二十一人、掛川七百一人、遠州横須賀六百八十二人、田中六百五十人、相良七百六十人、中泉七百二十九人、小島三百九十九人、三州赤坂六百二十八人、三州横須賀六百六人。いずれも一家の当主の人数である。一家五人と想定し従者も考慮に入れると、駿府周辺には約五千の人口流入があったと考えられる。
当時の駿府の戸数は四千四百七十六戸、人口は二万千四百六十六人であるから、四分の一に当たる人口の流入があったわけで、急激な人口増加であった。
先に触れた塚原の親は元二百三十俵取りの与力で、江戸市ヶ谷に四百余坪、大小合わせて十一間という屋敷を構えていた。
しかし、移住後、両親が清水に確保できた家は六畳に三畳の二間、三尺四方の台所に竈が一つ、天井はなく屋根は板葺で、半分は朽ちていた。これでも「壊れた厩に住んでいる人たちに比べればましなほう」と母親が語っていたという。
それでも屋根さえあれば雨露はしのげたが、問題は食糧の確保である。無禄移住という無収入を承知で覚悟してきたのであるから藩は養う義務はない。しかし、藩も見るに見かねて、暮れの十二月に無禄移住者に扶持米を支給することにした。
三千石以上の家臣に毎月五人扶持、これが最高扶持で最低は毎月一人扶持であった。一人扶持とは玄米一斗五升支給で、白米にして一割減であるから一日四合ほどになる。これは一家に支給される量であるから、家族の人数を考えればとても足りない。食糧が尽きて一家七人が餓死したとか、村人が哀れんで麦粥を与えたところ、一気に数杯も平らげたあげく、にわかに苦しみ息絶えたというような話が伝えられている。
瀬名村の農家に間借りした市田家は元千二百石、その子剣三郎が山に入り、たまたま椎茸の栽培地に入り込み、椎茸を思わず袂に入れたところを「泥棒」と連呼され、かっとなって刀を抜いて農民を切ってしまった。この事実を自供した剣三郎を藩庁も許すわけにいかず切腹となった。剣三郎は十九歳であった。
このような悲劇は数限りなくあるが、六十五年前の戦後、日本国民の多くは同様の食糧難に陥った。この時、筆者は田舎で親と一緒に山や川の土手で食べられる物を漁った経験があるので、徳川家臣の駿府移住は他人事ではなく感じ、深く身につまされる。
だが、全員が困ったわけでなく、地元の経済活況に関わった事例もある。静岡市伝馬町はJR静岡駅近くで、江戸時代は参勤交代の宿場町として旅人で賑っていた。しかし、幕末になってさびれる一方であった。ここに隣の鷹匠町に「お泊まりさん」が入って来た。
このお泊まりさんは貧乏幕臣とは違って、邸を与えられたそれなりの身分の者たちであった。そこで、伝馬町は町の繁栄を協議して遊郭をつくることを藩庁に届け出た。慶応四年六月のことであるから、お泊まりさんがまだ実際に移住してこないタイミングであって、如何に伝馬町はお泊まりさんに期待したことが分かる。結果は、その後芝居小屋や湯屋もでき、旅籠屋は遊女屋に代わって繁栄した。
これは戦後の進駐軍目当ての同様商売で荒稼ぎしたものと重なるが、いずれにしても一概に悲劇ばかりではなかったということを認識したい。
ところで、山本政恒のその後であるが、
「家族を伴って浜松に移住、浜松奉行井上八郎の配下に入った。やがて払い下げ金を得て、裏早馬町に敷地およそ六百坪、建坪五十坪の家屋を購入することができた。当初は、藩から『役持』(手当て金)が唯一の収入であったが、これだけでは生活できないので、屋敷内の掃除にために雇い入れた農民に農作業を教わり、耕した農地から相当の収入を得ることができるようになったという。
明治五年(1872)十月、浜松県監獄の下級役人、のち捕亡吏(警察官に相当)となったが、二年後、自分の不注意から囚人を取り逃がし、免職となってしまった。その後は張り子面作りの内職で生活せざるを得なかったが、職を得るため単身上京、翌年四月に印書局取片付け方として、さらに五月に熊谷県に職を得てやっと安定した生活を送れるようになったのだった。下級役人または警察官となるというのが、無禄移住した旧幕臣のたどった平均的なコースであった」(「徳川慶喜静岡の三十年」)
ところで、この静岡移転に伴い、徳川家臣は以下の四つに分けられたことは前号で述べた。第一は脱走して反政府活動に走った者、第二は朝廷・新政府に仕える者、第三は暇乞いして農工商になる者、第四は藩臣として無禄でも徳川家に残る者である。
この身の振り方から指摘できるのは藩側からの「リストラ」が行われなかったことである。現在の日本、企業経営が厳しくなると社員の首切りリストラが、まず、最初に行われることが多くなっている。しかし、徳川藩は70万石に合わせるような家臣の首切りは行わなかった。駿府に来る者は全員受け入れている。
これは関ヶ原の合戦後、西軍だった上杉家が会津から米沢への四分の一に減封され、その際「リストラ」は一切しなかったこと、それが平成22年のNHK大河ドラマ「天地人」主人公直江兼続によって語られたことは記憶に新しいが、これより過酷な実質四百万石から七十万石へと八割以上の減封であった徳川藩が、家臣の「リストラ」を実施しなかったことを高く評価したい。
徳川藩は武士道経営を貫いたと理解し、このような政策を決定し実行した藩経営に鉄舟が参画していたことを再認識したい。
鉄舟は慶応四年・明治元年に幹事役として海舟と二人で名前を並べ、同年九月には権大参事の藩政補翼となり、徳川から静岡藩となった政治に重要な役割を負う立場に栄進していた。
2011年09月18日
駿府・静岡での鉄舟・・・その一
駿府・静岡での鉄舟・・・その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
彰義隊が壊滅された慶応四年五月十五日から九日後に、徳川宗家を継いだ田安家の亀之助(後の徳川家(いえ)達(さと))に徳川家の禄高が示された。駿河国一円と、遠江国・陸奥国を含めて七十万石であった。
徳川幕府は世上領国八百万石とも言われている。八百万石ならば十分の一以下になり、旗本八万騎とも言われている幕臣は生活ができない事になってしまう。
では、この八百万石と八万騎、果たしてその実態はどの程度か。そのことを海舟が次のように解説している。
「世間云ふ、徳川氏政府の領国八百万石ありと。又、其実を察するものは冷笑して云ふ、是れ虚称其大に誇るなりと。余案ずるに、両説、共に其一を知て、また其二を知らざるなり。其全く蔵入となるべきの地は実に四百余万石にして、此中蔵米を以て給する旗下、家人(けにん)、数万家あり。政府の用度、自己の費途に充(あ)つるものは、僅々の数のみ。故に、万一非常の変に逢えば、金穀欠乏して、給せざるものあるに至るなり。而して家臣中、万石以下の知行を有する輩、其禄高三百余万石あり。此二つの者を合算すれば、七百余万石に到る。八百万石の概称、蓋(けだ)し是より出づ。
世間又云ふ、徳川氏の旗下総数八万騎と。是は、石高八百万石より誤称するが如し。旗下士の称あるものにして其禄万石に及ばざるもの、実数三万三千余のみ。然れども、世に八万騎と称するもの、またその原因あり。譜第(ふだい)の臣下にして万石以上の禄を食(は)むもの、即ち世俗に譜代大名と称する輩百数十家、是等の家臣、昔時は皆旗下の隊に編成せしものなれば、是を通算する時は、其数八万前後に及ぶべし。此輩、今皆華族に列す。其実は徳川氏の臣僕にして、万石以上を食みしものなり。嗚呼、是等の華族、朝恩殊遇、奕(えき)世(せい)*忘失すべからざるなり」(「勝海舟全集6吹(すい)塵録(じんろく)Ⅳ」講談社)
この吹塵録という記録について、国立公文書館は次のように説明している。
「勝海舟は、早くから古い書物を写し古老の話を聞き書きするなど記録の収集と保存に意欲的な人でした。
長年にわたって書写した幕府の記録類(公文書)や私記(私文書)、随筆、談話の類をまとめたのが『吹塵録』。明治17年(1884)にその草稿を見た松方正義(まつかた・まさよし 1835-1924)の尽力で、同20年に大蔵省から編集費用が支給されることになり、同年末に完成。同23年(1890)に大蔵省から『吹塵余録』と合わせて刊行されました。冒頭、大蔵大臣官房の名で、「本省先キニ幕府財政ノ実況ヲ記スルノ書ナキニ苦ミ之ヲ勝伯ニ謀ル伯為メニ此書ヲ編シ名ツケテ吹塵録ト曰フ」と、本書刊行の趣旨が述べられています。
収録されているのは、貨幣・鉱山・人口・治水・社寺・皇室・災害・蝦夷地等の史料および関係法令などで、幕府の財政経済史料集として貴重です。本書の編纂には、勘定所等で実務を担当した旧幕臣十数人が協力しました。『吹塵録』『吹塵余録』で全45冊。書名は、中国の伝説的帝王黄帝(こうてい)の「吹塵の夢」の故事(大風が天下の塵垢を払う夢を見て風后という賢相を得た話)に因んでいます」
海舟という人物は誤解を受けやすいところがある。先日も群馬県に関係する企業幹部とお会いしたら、海舟は大嫌いだ、自分は小栗上野介派だと、息巻いていました。
だが、国立公文書館に保存されている貴重な当時の記録、それは「陸軍歴史」「海軍歴史」「吹塵録」「開国起源」であるが、これを編纂した業績を高く評価すべきだろう。海舟は幕臣であって、明治政府では枢密顧問官でもあり、伯爵でもあったので、その経歴・経験を持って国家に協力したのであり、海舟にしかでき得ないと思う。
「陸軍歴史」とは陸軍史、「海軍歴史」は海軍史、「吹塵録」は財政・経済史、「開国起源」は外交史で、国家として大事にすべき幕府時代の貴重な歴史記録である。巷間喧伝されている江戸無血開城時の活躍ばかりではない。こういう事が案外知られていない。
さて、禄高七十万石は決定したが、与えられた陸奥国は戦争中であって、徳川藩への引き渡しは事実上できず、そこで改めて遠江国諸侯領と駿河国久能山領、三河国御領と旗本領を加え七十万石とした。
海舟の言う実質「七百余万石に到る」と比較しても十分の一であって、徳川家の経営が窮することに変わりはない。
また、七十万石にするためには、諸侯のいない三河国御領と旗本領以外の二国、駿河と遠江の領主が移封されることになった。
まず、駿河国の沼津、小島、田中(藤枝)の三藩と、遠江国の掛川、相良、横須賀(掛川市の一部)、浜松の四藩、計七藩は上総と安房(千葉県)に移った。ただし、浜名湖周辺の堀江藩一万石は除かれ、ここに駿府府中藩が成立した。
ただし、明治二年に静岡藩と改称されたので、以後、藩名は静岡を使用したいが、この府中というのは、天皇に対する不忠に通ずるということから改称されたとも言われている。
ここで慶応四年頃の駿府地区の人たちの動向を少し振り返ってみたい。官軍が駿府の地を江戸に向かって進軍していた当時、府中(静岡)から江尻(清水)まで駕籠に乗った旅人の耳に入ったのは、駕籠かきたちが口ずさんだ歌「行きは官軍、帰りは仏、どうせ会津にゃかなうまい」というものであったという。幕府の勝利に期待するものであったことは言うまでもない。
この背景には駿府地区特産のお茶産地としいう条件があった。日本の開国により諸外国への輸出は生糸とお茶が中心で、その産地は未曽有のブームを起こし、幕府の開港政策は茶産地の駿府住民に多大な利益をもたらし、幕府支持となって、官軍には批判的であった。
だが一方、立場の異なる側に立てば一変する。幕藩体制下の宗教政策により、僧侶が優遇され、神主は疎外されていたので、その不満を回復しようと遠江国の遠州報国隊、駿河国の駿州赤心隊、伊豆国の伊豆伊吹隊など、神職中心の倒幕運動が展開された。
このような両派の対立に加え、これらの地域は幕府の直轄地や旗本の知行所、多数の大名藩地が複雑に入り混じっていたので、複雑な動きを示していた。その状況を「民衆文化とつくられたヒーローたち」(国立民俗博物館)から引用してみる。これが今後の鉄舟と深い交わりをもった清水次郎長への理解にもつながるので。
「東照神君の地にして徳川幕府揺籃の地三河は、何故に次郎長のこよなき隠棲(いんせい)の地になったのか。本来は徳川幕府のモデル地区として最も法令が守られ、無宿や博徒が入り込む余地がない優等生の地でなければならないはずである。にもかかわらず他国者の博徒が潜入するのは、これを歓迎する根生えの博徒がいたからである。三河木綿の産出を背景に伊那街道の中馬(ちゅうま)輸送、三河湾、伊勢湾の海運の物流ルートに恵まれた三河は交通と産業の一大発展地であった。
ところが隣国尾張が尾張徳川藩六十二万石の一国支配であったのに対して三河は小藩が分立し、しかも大名の交代が非常に激しかった。江戸時代、常に七から十一の藩が分立し、五十二もの藩が生まれそして消えていった。中でも吉田藩(七万石)で十回、西尾藩(六万石)・刈谷藩(二万三千石)は九回領主が代わった。のみならず尾張藩、沼津藩などの飛び地や幕領が点在し、加えて六十余家に及ぶ旗本の知行所がばらまかれた。それらが入り組んで犬(けん)牙(が)錯綜の状況にあったのが三河国の支配であった。関八州をはるかに凌駕する支配の弱体は、より無宿や博徒を生み出すことになる。
皮肉にも徳川幕府発祥地という由緒が、大名や旗本に三河以来の地縁を求めて少しでもいいから飛び地を持つことを希望させた。しかも三河の譜代藩は東照神君に連なる名門の血筋であり、多くが幕閣枢要の職に就いて専ら江戸にあって幕政に腐心し、国元の治世を疎(おろそ)かにした。
三河の宿・町・河岸・湊など、いわば支配の隙間に縄張りを持つ博徒は、当然利害をめぐって抗争する。次郎長と結ぶ寺津間之助・型原斧八、これに対抗したのが宝飯郡平井村の平井亀吉である」
このように他国者の博徒が潜入する地域が三河国であり、この地が徳川家静岡藩となり、それが現清水市に居住した清水次郎長の動きに関係していたことがわかる。
ところで、この静岡移転に伴い、幕臣は以下の四つに身の振り方が分けられる事になった。
第一は脱走して反政府活動に走った者で、多くは東北から函館戦争に参加した。
第二は朝廷・新政府に仕える者である。新しい禄高七十万石では従来の生活は出来ないわけであるから、この道へ行くようしばしば勧奨された。
第三は暇乞いして農工商になる者、第四は藩臣として徳川家に残る者である。
これらの人数分けを「徳川家臣団・第一編」(前田匡一郎著)によると、勝海舟の記録(「海舟別記」巻1)を引用し次のように記している。
「明治初年徳川旧家臣団の始末
徳川氏旧家臣 凡そ三万三千人 内、分離左の如し
静岡行 一万五千人
朝臣 五千人
帰農 六百人
大蔵・外務附渡し 二百四十人
田安・一橋家従属 四千九百二十四人」
この人数を合計すると二万五千七百六十四人となるので、七千二百人ほどが第一の脱走した人数と推定される。
なお、いったん静岡に移住した幕臣であったが、その保有する知識と技能は新政府においても重要で、必要であったので、次々と新政府に呼び出され、相応の待遇を持って、各省へ出仕を命じられた。新政府諸官庁での幕臣の比重は高く、特に政策立案能力と政策実施部門には多く起用されている。
次に触れなければならない事に、慶喜の静岡移転がある。慶喜は慶応四年四月十一日の江戸城の官軍引渡しと同時に、水戸の弘道館へ移住した。しかし、この水戸は恭順するにはふさわしい土地とは言えなかった。奥羽越列藩同盟が成立し、新政府に抗することなり、奥羽方面に近い水戸では危惧される事態が予測された。その状況を「徳川慶喜公伝4」渋沢栄一著が次のように述べている。
「公思へらく『東北の諸藩一旦王師に抗したれども、心定まらば順逆の理を覚りて、ゆくゝ降伏に至らんは必定なり、其時に至らば、会津に加はれる水戸の党人等は其倚(よ)る所を失ひ、必ず水戸に復帰して積怨を霽(は)らさんとすべし、余は謹慎の身、如何にして其党禍を防ぐべき、寧(むし)ろ予(あらかじ)め難を避けて謹慎の実を全くするに如かず』と、旨を勝安房に授けて、駿府移住を大総督府に内請せしめ給ふ」と。
また、家達君の後見松平確堂より請願したと、次のようにも記している。
「慶喜朝命を奉じ、去る四月水戸表へ退去謹慎罷(まか)り在りしに、近日奥羽の形勢容易ならず、既に官軍の進発ともなり、常州(常陸国)近国も動揺の由に承りぬ、慶喜に於いては素より一身を顧みず謹慎すれども、兵若し水戸附近に迫らば、恭順の障害ともなりて、慶喜の素志を遂げざるにみならず、私どもに於いても深く恐懼に堪へざる所なれば、慶喜を駿府に移転仰付けられ、さしむき宝台院にて謹慎罷り在るやう御許されを蒙りたし」と。
このような慶喜の静岡移転については、もう一つの説がある。
勝海舟の「幕末日記」慶応四年七月十二日に
「山岡鉄太郎来訪、前上様駿河表へ引移御免の事、督府より仰せ渡さる。是、山岡氏尽力に因る所」とあり、続いて同月二十五日には、格別の思し召しにて、慶喜から金子百両を賜った鉄舟が海舟邸に持参した旨が書かれている。
鉄舟が慶喜の駿府移転に関わったことは明白であって、江戸が東京と改称された七月十七日から二日後の七月十九日に、慶喜は水戸を出発、銚子から榎本武揚の指揮する軍艦蟠龍にて二十三日駿河清水港に到着し、直ちに静岡の宝台院に入った。
慶喜が静岡に移転した翌月の八月九日、徳川家達は江戸を出発し、十五日に駿府に着いた。まだ五歳の幼児であり、静岡までの道中は見る物すべてが珍しく、お付きの老女に問いを発し続けたという。また一方、錦切れをつけた官軍兵士が、家達一行に対し嫌がらせをするなどの狼藉を受け、お付きの者たちが涙したとも言われている。
駿府に着いた家達は、宝台院にて慶喜に挨拶し、直ちに駿府城に入った。城中では旧幕臣が出迎えたが、家達とは殆どが初対面であった。海舟、鉄舟も家達を迎えるため駿府に来ていたが、江戸に残務があるので江戸、いや東京に戻った。
九月八日、慶応四年を明治元年とし、今後は天皇一代に年号ひとつ「一世一元」となり、
十月中に徳川家臣団は駿府への移住を完了させよとの命が出された。
この移住方法手段が大変であった。一つは陸路であるが、品川宿を例にとると、幕臣の駿府への移住、駿河と遠江から移住する七藩の千葉行き、それに加えて官軍の東上とが交錯し大混乱状態であった。もう一つの移住方法手段は海路である。これは更に大変であった。
この状況は次号で述べたいが、ここで鉄舟の駿府での住居址の紹介をしたい。以前にあった記念碑が老朽化して撤去されたままになっていたが、二千十年四月に新しい記念碑が、静岡・山岡鉄舟会と地元の水道町町内会によって建立された。現在の静岡市葵区水道町1-4である。ご関係方々のご努力に謝意を表したい。
2011年08月17日
彰義隊壊滅・・・その二
山岡鉄舟 彰義隊壊滅・・・その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
慶応四年(一八六八年)五月十四日、鉄舟は西郷から彰義隊攻撃決定の連絡を受けた。その当時のことを明治十六年三月になって「覚王院上人と論議之記」として次のように記している。当時の鉄舟の気持ちが率直に表現されているので、それを口語体でお伝えする。
「五月十四日、東叡山に進撃するとの決定があった。西郷参謀は私を招き、ほろりと一滴の涙を落して、慰めの言葉をいってくれたのである。
『朝廷を重んじ、主家に報いようとするあなたの誠忠は、よくわかっています。いま、暴徒を攻撃するのが、あなたにとって快いものでないということもわからぬわけではありません。深くお察しします。どうか悲しまないで下さい』
わたしは厚く感謝して帰った。
その夜、わたしは寝ることができなかったのである。このようなことになってしまった原因を考えてみれば、わずか数人の人間が方向を誤ったというだけのことから、三千余人が屍をさらすのである。突き刺されるような痛みを感ぜずにはいられなかった。そう思うと、わたしは、夜がふけているのもかまわずに上野へ行き、彰義隊の隊長はどこにいるかとたずねた。すると、ある者がいうには、隊長は昨夜すでに奥州へ向けて去ったのだという。その他の隊長をたずねてみたが、どこにいるのかわからなかった。
そのなかに越後榊原(高田)藩の藩士が集まっている神木隊(しんぼくたい)というのがあり、その隊長の酒井良祐という人物を説得したところ、酒井はわたしの赤心を理解し、解散させようと四方に奔走したのである。しかし先鋒の部隊が、突然に黒門の前に畳の楯を築き、戦闘の準備をはじめてしまった。
右を説得していると左が進み、左を鎮めたかと思うと右が出る。雑踏狼藉のありさまは、いちいちことばに尽くせないほどであった。わたしは慨嘆して退いてしまったのである。
夜明け、わたしはまた上野の仲町に行った。天台の浄地も、たちまちのうちに修羅の悪場に変わっていた。わたしは恨みと歎きで見ていることができずに立ち去った。
田安門の中の徳川邸へ行こうと思い、本郷壱岐殿坂にくると、官軍の半小隊ばかりがわたしの馬を囲んだ。これは尾張藩の隊であり、そのなかには、わたしの知っている早川太郎がいた。その早川がいう
『先生、どちらへ行かれるのですか』
『徳川の邸へ行こうと思うんだが・・・』
『だめでしょう、道がふさがっています』
『きみは官軍だ、わたしを案内して徳川邸に送ってはくれまいか』
『急いでいます、お送りできません』
そこで、わたしは道を変えて家に帰り、轟々たる砲声を空しく聞いて茫然としているばかりであった。
日暮れどき、上野の伽藍は灰になってしまっていた。嗚呼」
彰義隊攻撃は大村益次郎が指揮をとっていたが、各参謀から上野に籠る人数の多さから激戦が予想されるので夜襲攻撃が提案された。
だが、大村益次郎はそれを言下に一蹴し、
「錦旗を奉じての戦いだ。白昼、堂々の戦いをする」
と述べ、攻撃の配置は以下のように手配した。
① 薩摩兵が湯島天神から黒門口正面を進み決戦を挑む。
② 肥後兵は不忍池畔から、因州(鳥取)兵は切通坂から黒門口の敵に向かう。
③ 長州、肥前、筑後、大村・佐土原の兵は根津・谷中方面から上野の山を側面攻撃する。
④ 上野から東北に当る三河島方面は、わざと開けておいて敵の逃走口とする。逃走口がないと敵は死力を尽くして戦うので損害が多い。
この攻撃計画を西郷に見せた時の、有名な逸話が残っている。
西郷は諸藩の配置計画をじっと見ていたが、
「これは、薩摩兵を皆殺しにする配置ですな」
と静かに言った。黒門口が上野の大手門であり、そこが最大の激戦地になることは全員が知っている。その地が薩摩兵のみに任されている事の指摘であった。
西郷の指摘にその場にいた参謀どもが真っ青になった。西郷が異をとなえれば、薩長は割れる。その恐れで一瞬の恐怖が走った。
大村は、しばらく、じっとして、その後に扇子を開いて閉じて、黙ったまま上を向いていたが、やがて言った。
「そうなるでしょう。薩摩兵と貴殿を殺すつもりです」
この一言で、再びその場が静まりかえって、灯りが消えたようになり、参謀たちはそろって顔を下にし、面を上げられなくなった。
西郷は、一言も論駁せず、大きな眼で大村を見入り、ゆっくりと座を立ち去った。
五月十五日未明、官軍各藩兵は大下馬下(二重橋)に集合し、所定の攻撃口に向かって進んだ。
ちょうど季節は梅雨時期、この日も激しい雨と風が強かった。その雨の中で上野戦争は火ぶたを切ったのである。
この戦いを説明しだすと、年内いっぱいかかってしまう。そこで詳細は彰義隊に関する資料で補っていただくとして、戦況を一瞬にして官軍側勝利に導いた状況をお伝えしたい。
午前中の戦いは彰義隊が優勢で、諸門とも官軍を寄せつけず、接近しても官軍は潰走させられた。
苦戦の戦況を一変させ、彰義隊が一気に崩れた理由に二説ある。
一つは、一般的に流布されているアームストロング砲の威力である。
午後一時ごろ、本郷台(加賀藩邸)からおこったアームストロング砲の砲声、これは江戸城の御用部屋にいる大村から佐賀藩の伝令に指示が行われた。
「アームストロングの大砲、もはやよろしかろう」といい、伝令は騎馬で本郷台に向かった。
この当時の佐賀藩は諸藩に卓越して産業技術能力を持っていて、驚くべきはアームストロング砲を二門持っていたことである。ただし、これは佐賀藩が製造したのか、それとも製造はしたが実際のアームストロング砲と同等のものだったか、又は英国製であったかについては議論が分かれているが、大村からの伝令を受けた佐賀藩は射撃を開始した。
事前に吉祥閣に照準が定められていた。古地図で吉祥閣を確認すると、黒門口から根本中堂、今は大噴水広場となっているが、この根本中堂へ向かう手前、左に朱塗りの堂に大仏殿があって、その前くらいの位置に文殊楼という山門があり、吉祥閣と書した勅額が朱塗りで掲げられていた。ここを照準にアームストロング砲が発射された。
その威力について、当時山王台で射撃指揮していた彰義隊幹部の阿部弘蔵が次のように語っている。
「樹木を裂き、石塔を砕き、社堂に中(あた)*り、隊士人夫などのこれが為に斃(たお)るるを目撃して憤慨に堪えざリしが」
阿部は砲兵の専門家だけに、この砲弾が椎ノ実形の「破裂弾」であったことを明記している。
これで彰義隊は動揺し、士気を落とし始めたその時に、薩摩兵が主力を黒門口に前進させ、防御を突破したという。
これが一般的に流布されているアームストロング砲による勝利である。
常に世には異説がある。それを伝えるのが「真説上野彰義隊 加来耕三著 NGS出版」である。
「これまで世に出された彰義隊関連の書物は、例外なく上野戦争の勝敗の要因に、このアームストロング砲の脅威を掲げている。
―――撃ち出された当初、命中率は悪かったが徐々に上野山内に落ちるようになり、その威力の前にはわずかばかりの火器と、多くを白兵戦に頼る彰義隊は敵でなく、その破音一発、多くの隊士を恐怖させ敗走させたというのだ。
たしかにアームストロング砲の命中率は徐々に上がっている。だが黒門口に一発の砲丸すら当たった形跡がないように、不忍池を越えて二、三の子院を破壊したとしても、その実、彰義隊が夜までもちこたえられないほどの脅威ではなかった。
ここに大村の最後の切り札が登場する」
と述べ、それは覆面部隊だという。
「彰義隊は天野の方針で、その氏素性、前歴をなんら咎めることなく、“来るものは拒まず”式に隊士を入隊させてきたため、当然のことながら大総督府からの間諜が多数紛れ込んでいたことは想像に難くない」
と同書で何人か遺されたスパイの談話を紹介している。
また、彰義隊の菩提寺である東京都荒川区の円通寺住職の乙部融朗氏の談話も紹介されていて、ここに大村の覆面部隊作戦が語られている。
「官軍の歴史では、大砲を撃ち込んで鎮圧したように書いてあるものもありますが、現在、円通寺に残っている黒門(注 上野寛永寺から同寺に移設されている)を見ても、大砲が当たって壊れたような個所はありません。ただし、小銃の弾痕はかなりたくさん残っています。黒門は上野の山の最前面にあるので、大砲でいちばん先に撃たれて当然のはずですが、円通寺の黒門が事実を証明しています。この弾痕の面積密度から、西軍の撃った弾数が計算できます。また、戦闘時間と小銃の数との積も、当時の小銃発射時間の間隔から求めることができます。正面攻撃では、落としてしまう自信がなかった。
それで、大村益次郎は卑怯な戦術を用いました。秘密にコトをおこなうため、手勢の長州兵を川越街道を通って江戸を離れさせ、日光街道の草加へ大迂回をさせ、前の日の十四日には千住の宿に泊まり、翌五月十五日戦いの当日の昼ごろ、会津の援兵と称して上野の山に、今の鴬谷駅のあるところにあった新門から入りこんで、文化会館の北寄りのところにある磨鉢山という古墳のところまで来たときに会津の旗をおろして、代わりに長州の旗を掲げ黒門口を中から撃ったので、山内は大混乱。こうして死ぬまで戦うつもりが、潰走しなければならなくなり、雨の中、昼を少し過ぎたころには、あっけなく崩れてしまいました。これが戦いの模様でありました」
この円通寺住職の主張が公にならなかったのは、その事実確認が消されたためであるといい、当時、この覆面部隊についてかわら版が発行されたが、官軍がこれを回収してしまったため世に明らかにならなかったが、一枚だけ残り、そのコピーを住職が保有しており、それに基づく発言であり、著者の加来耕三氏がコピーを見て、それを同書で紹介しているが、確かにかわら版には覆面部隊のことが書かれている。ただし、官軍が「卑怯な戦術を用いた」とは書いてはない。
このかわら版コピーに加え、加来耕三氏は「中外新聞外篇」之二十巻(慶応四年五月刊行)に、「官兵東叡山屯集の彰義隊を攻むる事」として、その中に次の記述があったと書いている。
「―――始め彰義隊の方大に勝利の様子相見え候処、八ツ頃官軍の大兵黒門前に寄来り、山内彰義隊の一手裏切の由にて、諸方の戦ひ、一際(ひときわ)劇敷、時に又会と相記し候旗押立候て援兵来り候様子の処、右は偽兵にて忽ち発砲、其内、山内中堂坊より煙(けむり)*焔盛に立昇り、遂に山内山外の彰義隊皆崩立ち候て、口々の官兵一度に攻入、山王山に働居候彰義隊を挟撃鏖殺(おうさつ)いたし候由。七時頃に至り全く戦い終る」
この加来氏の記述のように、アームストロング砲を合図として、上野山内に入った覆面部隊が行動したのだろうと思われるが、彰義隊のような主義主張がバラバラな混合軍隊では、裏切りが出たという情報が流されると、収拾がつかなくなるだろう。
したがって、大村の作戦として覆面部隊が考えてあったならば、この戦法が最も効果的であったと思われる。
会津からの援兵については司馬遼太郎も「花神」で次のように触れている。
「午後になって戦勢がやや逆になった。乱戦中、彰義隊のあいだで、『会津から援軍が到着した』とか、『応援の同志二千が官軍をとりまいている』といったふうの虚報がとんだ」
だが、「花神」での結論は
「この勝敗未分の戦況を決定的に変えたのは、午後一時ごろ、本郷台(加賀藩邸)からおこったアームストロング砲の砲声であった」
としているので、覆面部隊説はとっていない。
ここでアームストロング砲について検討しないと、彰義隊壊滅の要因が解明できない。この砲は、イギリスのウィリアム・アームストロングが1855年に開発した大砲の一種。マーチン・ウォーレンドルフが発明した後装式(砲の後ろから弾を込める)ライフル砲を改良したもので、装填時間は従来の数分の一から、大型砲では十分の一にまで短縮された。砲身は錬鉄製で、複数の筒を重ね合わせる層成砲身で鋳造砲に比べて軽量であった。このような特徴から、同時代の火砲の中では優れた性能を持っていた。
1858年にイギリス軍の制式砲に採用され、その特許は全てイギリス政府の物とされ輸出禁止品に指定されるなど、イギリスが誇る新兵器として期待されていた。しかし、薩英戦争の時に戦闘に参加した21門が合計で365発を発射したところ28回も発射不能に陥り、旗艦ユーリアラスに搭載されていた1門が爆発して砲員全員が死亡するという事故が起こった。その原因は装填の為に可動させる砲筒後部に巨大な膨張率を持つ火薬ガスの圧力がかかるため、尾栓が破裂しやすかったことにある。そのため信頼性は急速に失われ、イギリスでは注文がキャンセルされ生産は打ち切られ、過渡期の兵器として消えていった。
廃棄されたアームストロング砲は輸出禁止が解除され、南北戦争中のアメリカへ輸出された。南北戦争が終わると幕末の日本へ売却され、戊辰戦争で使用された。中でも江戸幕府がトーマス・グラバーを介して35門もの多数を発注したが、グラバーが引き渡しを拒絶したために幕府の手には届かなかった。
これがアームストロング砲の概要であるが、司馬遼太郎は彰義隊壊滅の主要因をこの砲としているが、加来氏の反論もある。
そこで、彰義隊が壊滅された旧暦慶応四年五月十五日、新暦では七月四日(平成二十二年)になるが、この暑い盛りの日に上野公園内を探索してみた。
まず、戦火を免れた寛永寺本坊表門に行ってみた。寛永寺はことごとく焼失したが、輪王寺宮法親王が居住していた寛永寺本坊表門のみ戦火を免れ、明治11年、帝国博物館(現、東京国立博物館)が開館すると、表門として使われ、関東大震災後、現在の本館を改築するにともない、今は日本学士院の向かいの両大師堂の隣りに移建され、門には皇室の菊の御紋が印されている。
この門を子細に見ていくと、確かに銃弾の跡がいくつも残っていて、激しい戦いが行われたことが分かるが、彰義隊幹部の阿部弘蔵が、椎ノ実形の「破裂弾」であったことを明記したアームストロング砲が当たったと思われる傷跡はない。
西郷隆盛銅像と彰義隊の墓の先に清水観音堂があり、堂内に明治期の画家五(ご)姓(せ)田(だ)芳(ほう)柳(りゅう)の描いた「上野戦争図」が掲示されているが、その絵の隣りに実物の砲弾が展示されている。これが椎ノ実型の砲弾であり、これが本郷台から発射されたアームストロング砲とすれば、大きさから見て木製の寛永寺本坊表門なぞは一発で破壊されたであろう。
ここで大村益次郎という類稀なる人物の特性、それは優れた計画性にあるが、その資質から考えるなら、薩英戦争の情報は入手しているので、英国旗艦ユーリアラス号の爆発事故は当然に把握していたであろうから、事前に佐賀藩のアームストロング砲を試射したはずで、その結果、アームストロング砲の実力を判断した上で、覆面部隊投入を考えたと理解するのが自然だと思う。
大村は必ず彰義隊を壊滅させるために、複数の作戦を組み合わせできる優れた人物であるから、司馬遼太郎が決めつけているアームストロング砲だけに頼らず、勝利するためには、敵の裏をかくということは戦法として当然にあり得るわけで、彰義隊がそれらを予測し対応をとらないことの方が問題である。戦争に負けてしまっては何もならないのだから。したがって、覆面部隊が最も効果的であったと、実際に上野公園を探索してみて感じているところである。
いずれにしても上野戦争で彰義隊は壊滅した。これで江戸での官軍の権威は回復した。そのタイミングを見計らったように、徳川家への処分通告がなされた。
「徳川亀之助を駿河国府中の城主に仰付けられ領地高七十万石下賜せらる」(徳川慶喜公伝4)
禄高七十万石は、親藩尾張藩の六十一万九千五百石よりわずか八万五千石多いだけで、加賀の前田、薩摩の島津に次いで、諸侯のうちで第三位に位置する禄高だった。
これは幕臣の生活の問題となる。また、徳川家臣の官位はこの日をもって停止された。彰義隊の壊滅は徳川家と家臣たちを駿府での困窮生活へ向かわせた。
2011年07月20日
彰義隊壊滅・・・その一
山岡鉄舟 彰義隊壊滅・・・その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
鉄舟が上野の山に行き、彰義隊解散交渉をした相手は、上野輪王寺宮の公現法親王の陪僧・覚王院であったが、覚王院の強い信念である対官軍主戦論により、和平路線には全く聞く耳を傾けず、何回もの交渉が無駄骨に終わった。
その覚王院との交渉経過について、鉄舟は明治16年3月「覚王院上人と論議之記」で詳細に述べている。この内容は省略するが、さすがの鉄舟も苦しい胸の内を、その中で次のように述べている。
「予は屡々(しばしば)西郷海江田両参謀に面接して情実を縲述(るいじゅつ)し覚王院に論示する事、口酸を覚ふに至りて未だ寸効を見ず。且つ彰義隊の予に遇ふ、或は無状(むじょう)(無礼)を以てす。隊長等に談ずれば面前に首肯して退けば否(しか)らず」
当時の鉄舟は「大目付」であり、その立場から覚王院に口をすっぱくするほど説得したが頷かず、返って彰義隊士は鉄舟に無礼な振る舞いを見せるし、隊長たちもその時は承知と言うが別れると知らん顔をする、という困難な状況を披瀝している。
では一体、この覚王院という人物はどういう立場で彰義隊に位置づけられていたか。それを司馬遼太郎は大村益次郎を描いた「花(か)神(しん)」の中で
「彰義隊の理論的指導者である覚王院義観は、説得に来た山岡を逆に罵倒した」
と書いている。理論的指導者だというのである。
一般的に僧侶が理論的指導者となる場合、陥りやすいのは名分論である。僧侶は元々漢学中心に学ぶ。そうすると道徳上、身分に伴って必ず守るべき本分論に強くなり、そこから理論武装し主張する傾向が強くなる。覚王院は特にこの傾向が強かった。
続けて「花神」で覚王院に次のように述べさせている。
「『いまの朝廷はみとめない』と、いった。あれ(朝廷)は薩長にまどわされたもので朝廷ではない、という。さらに、わがほうにも錦(きん)旗(き)が日光におさめられており、輪王寺宮という法親王もいる。むしろ当方が朝廷である、と覚王院の議論はすさまじい。
覚王院はたしかに、「上野朝廷」であると信じていた。山岡が後年覚王院がいった内容を手記(覚王院上人と論議之記)したが、それによると、この僧は一種の伝説的なことをとうとうと述べている。『神君が』と、覚王院はさかんに家康をもち出し、家康がすでにこんにちあることを予想して、そのときのために錦旗を用意し、宮さまをひとり関東に置き、『朝廷が無茶をやれば、輪王寺宮をもって天皇に代え、万民を安んじようとされた』というのである。つまりは上野の彰義隊こそ官軍である、ということになる」
その上、覚王院の口ぐせは「かならず勝つ」というものであったが、その根拠は「江戸を死守していれば、必ず奥羽列藩同盟が大挙来襲して江戸を回復する」と説き続け、情勢にうとい旗本の子弟で固まった彰義隊士を鼓舞したのである。
彰義隊士は、この覚王院の口ぐせに加え、一般的に流されていたマスコミ情報によって奥羽列藩同盟来襲を信じていたのは事実であった。これが五月十五日の壊滅に大きく関わってくるのである。
ところで、現代に生きる者にとっては全く信じられないが、当時の江戸におけるマスコミ情報はすべて佐幕・反薩長であって、旧幕府から脱走した兵が、各地で連戦連勝している記事で占められていた。
これも「花神」に書かれているのであるが「宇都宮大合戦」という記事が「内外新報」の閏四月三日に以下のように掲載された。
「脱走方が城へのりこみ、幕軍のシンボルだった日の丸の旗に東照神君の旗数十本を押したて『はなばなしく合戦致し候。脱走方勝利』とあり、関宿での戦闘も脱走方の勝利で『その人数幾万人これあり候や』と、その勢力が日に日に大きくなっていることを告げている」
さらに閏四月二十九日の「此花新書」という新聞では、
「下谷坂本あたりを官軍の武士が錦切れをつけて通りかかると、町角で遊んでいた幼童が『おじさんは、錦切れをつけておいでだから官軍かえ』ときくと、武士はそうだと答えた。幼童はこの武士と遊ぼうと思い『おじさんが官軍なら、坊は会津だから、坊におしたがい』といった」
と報道されている。
このようなマスコミ情報の背景には、官軍が軍事的に弱くモラルも悪く、会津という言葉で代表される旧幕府方に正義があり、さらに軍事的にも強大だと信じていたことからの記事掲載であり、加えて博学で金主である覚王院が「かならず勝つ」と言いつづけていたのであるから、江戸っ子気質の人のよい彰義隊士は信じ、結果的に誤った情報に固まった集団になっていた。
今の東京は地方から雑多人種が集まっているから、純粋の江戸っ子という人たちは目立たないが、江戸時代は人の移動が少なかったので、江戸の町には江戸っ子気質が溢れ鮮明だった。
その江戸人の気質は、一般的に、気が弱く、根気がなく、見栄坊で、いささかニヒルというのが定説である。礼儀正しく、粋でおしゃれなところ、向こう意気の強さ、これらは見栄を張るところから来ているのであるが、上は旗本から、下は裏長屋の住人まで、江戸っ子には共通するところがあった。いわば騙されやすい気質が江戸っ子にあったと思う。
もう一つ大きな重要で本質的な問題は、当時の日本政治が江戸で行われていなかった、ということである。
徳川将軍十四代将軍家茂が、文久二年(千八百六十二)に孝明天皇の妹和宮を正室に迎え、翌年の文久三年(千八百六十三)三月上洛したあたりから、幕末の複雑な政治の舞台は京大阪になっており、家茂が第二次長州戦争の敗報を聞きながら、慶応二年(千八百六十六)に大坂城で没し、慶喜が十五代将軍に継いだのも江戸ではなかった。
つまり、慶喜が鳥羽伏見の戦いで敗れ逃げ帰るまで、幕末の江戸城には将軍が留守であったのであるから、江戸は政治の表舞台ではなかった。結果として、時代の先端情報は京大阪から、時間軸に遅れて来る情報によって、江戸在住の武士と市民は理解するしかなかった。
これが江戸に住む人々を情報音痴の状態にさせた決定的な要因であり、旧幕府方有利という偽情報を報じるマスコミ情報を受け入れる結果となったのである。
この彰義隊が本質的に持っていた情報に対する問題点、これは現代でも通じる教訓であろう。現地、現場、現実を確認せず、一般マスコミ情報のみから物事を判断し、行動することの怖さを教えてくれる。
さて、軍防事務局判事として江戸に入った長州藩の大村益次郎は、鉄舟による覚王院説得が失敗したことの報告受けるや、彰義隊を壊滅すべく攻撃することを決めたが、ここで困ったことはその軍資金がないことだった。
大村益次郎という人物は、長州藩の村医者の息子であって、緒方洪庵の適塾で洋学を学び、塾頭を務め、シーボルトにも師事、幕府の蕃書調所教授、講武所教授方を務めた経歴から推測できるように現実派である。冷静に物事を判断する能力に長けていた。
その有能さを買われて、大村は「徴士」となったのである。この当時、新政府が京に出来たが、有能な役人が不足したので諸藩から差し出されたのが「徴士」である。
その冷静な頭脳で計算すると、彰義隊を壊滅すべく攻撃することになると五十万両という巨額の資金が必要になる。
ところが、新政府にはこの金がなかった。それもあって彰義隊への攻撃決定は延ばしていたが、その時、何と二十五万両もの大金が飛び込んできた。カモネギが来たのである。
それは大隈八太郎(後の重信)である。大隈も「徴士」で外国事務局判事であって、幕府が米国に発注し横浜港に停泊しているストーン・ウォール(甲鉄船)が、幕府転覆で内乱になって、米国公使が「双方に渡さない。かたがついてから引き渡す」と言っていたが、どうしても榎本武揚が率いる幕府艦隊に対抗するためには入手する必要があり、その交渉を兼ねて、京で有り金をかき集め二十五万両をつくり、江戸に着いたのであったが、この大隈から大村は二十五万両を取り上げてしまうのである。
残りの二十五万両は、江戸城の西の丸に入り込み、宝蔵にあった銀器、屏風などを持ち出し、横浜の西洋人に売り払い五万両、後の二十万両は越前藩より新政府の御用金取次(会計係)に出仕していた三岡八郎(後の由利公正)に手当てさせ、それが届いたので、合計五十万両が揃ったのである。
こうして最大の課題であった戦費ができ、ようやく大村は彰義隊への攻撃計画に取りかかった。
大村が同時代の人々より優れていたのは、その計画性である。目的達成に必要な調査と、それに基づく準備を徹底し、彰義隊壊滅のための計画を独りで作り上げた。
計画の第一は、情報の共有化と一元化であって、戦況ニュースというべき戦陣新聞「江城日記」を毎日発行しだした。記事は大村自ら書き、木版の彫師を江戸城内に留め置き、刷らせ、部数は千部、これを前線の兵士と諸藩に配った。ここのところが彰義隊の情報管理と雲泥の差である。
さらに、大村は「いっさい火事を出さない」という計画をつくるため、江戸の過去の大火について調べ抜いた。幕府の蕃書調所教授、講武所教授方を務めたことから、江戸には土地勘があり、毎夜、畳の上に江戸地図を広げ、風向きによってどこが焼けるか、どのように逃げるかについて検討した。
これは海舟が、官軍が江戸攻撃するならば、ロシア軍がモスクワに火を放ってナポレオン一世の野望をくじいたと同じく、官軍進撃の退路を火で断つ作戦を用意していたように、彰義隊にも知恵者がいて、上野攻撃と共に背後から火攻めを行うだろうとの推測から、その防止策を考えるためであった。
特に研究したのは「明暦の大火」であった。俗に振袖火事といわれるもので、明暦三年(千六百五十七)の正月十八日午後二時ごろ本郷丸山の本妙寺からおこった火事で、本郷丸山は上野から遠くないので参考になり、江戸の大半が焼け、焼死者十余万人を出したもので、この火事の広がり経路を地図に描き、検討した。
しかし、この検討結果は、明暦の大火は正月であり、その時は八十日も雨が降らず江戸中が乾いていたので、大火がおこったことを知り、彰義隊攻撃は五月半ば、今の季節では梅雨時に当るので、その心配はかなり薄いと考えたが、用意周到な大村は計画を練り上げていた。
次に大村が実行したのは地図である。地図の印刷を行った。上野周辺の道路図で、大村自らこれも描き、江戸城内の職人に刷らせ、配布した。
もう一つの周到な準備はアームストロング砲の配備である。このアームストロング砲は佐賀藩が所有していた。この当時の佐賀藩は諸藩に卓越して産業技術能力を持っていた。蒸気船も造れるし、工作工場、化学工場もあり、長崎警備という経験から新旧の要塞砲をもっており、中でも驚くべきはアームストロング砲を二門持っていたことである。
後装式砲(後ろから弾を込める)ライフル砲を改良したもので、伝説的に語り草になっている砲だが、これを佐賀藩が製造したのか、それとも製造はしたが実際のアームストロング砲と同等のものだったか、又は英国製であるのかについては議論が分かれている。
だが、アームストロング砲という名称の砲が佐賀江戸藩邸にあり、藩公の鍋島閑叟の意向は「この砲の威力は猛烈であり、同民族を殺傷するために使いたくない」というもので封印されていたが、大村は建物の破壊にのみに使う、という条件で佐賀藩邸から持ち出し、不忍池をへだてた加賀藩邸に配置した。
これで彰義隊攻撃の準備は整ったので、最後の仕掛けを講じた。開戦日の五日前に「太政官布告」を制札場に掲げた。
「来たる某日までの間に上野山内の賊徒を追討すべくおおせ出(いだ)さる。ついては焼打などに備えるため、家財など取り片づけおくべきこと」という布告であり、これは当然に彰義隊に伝わり、上野の山から出張っていた彰義隊の陣地、湯島や上野広小路であるが、そこに畳を積み上げ堡塁を造りだした。
しかし、来るか来るかと昼夜待機し、警戒していた彰義隊士は、官軍が動かないのを見ると、警戒を解き始め、いつしか上野の山に引き上げてしまった。
これは大村の作戦であった。彰義隊士を上野の山に集めさせる、攻撃の範囲を絞らせる、戦場を限定させる、ということを狙ったものであり、まんまと大村の策に嵌り彰義隊士は上野の山に籠ってしまったのである。
これを見た大村は「明日未明攻撃」という指示を、諸藩の指揮官に通告したのが五月十四日の午後であった。
いよいよ上野戦争が始まる。
2011年06月07日
彰義隊・・・その五
彰義隊・・・その五
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
鉄舟が彰義隊解散を命じるための交渉相手として向かったのは、上野輪王寺宮の公現法親王の陪僧・覚王院であった。
ここで疑問なことは、彰義隊には隊長以下幹部がいる。頭取は当初は渋沢成一郎だったが、渋沢が屯所を置くべき場所の見解相違から離脱し、直参旗本三千五百石の本多邦之輔となり、その後本多が辞任し、小田井蔵太と池田大隅守(七千石)の二人が隊長(頭取)となり、天野八郎は副頭取である。このように彰義隊は組織化された一大勢力であるから、当然に鉄舟が交渉相手として向かう場合、これら彰義隊幹部であらねばならない。
だが、実際には覚王院との交渉にならざるを得ない結果となった、その背景を解明していきたいが、その前に官軍・新政府軍側において、権力の位置づけが変更されたこと、それは西郷の権威失墜ということであるが、これが彰義隊攻撃につながるものであるから、これをまず検討したい。
閏四月八日・九日の両日、岩倉、小松、西郷、大久保らが、京都の三条実美大納言邸で、徳川処分に対する二案の検討会議を行った。
第一案は「禄高は百万石限り、地所は駿河の国、家名相続人は田安亀之助」
第二案は「禄高と相続は一案と同じ、地所は江戸城と武蔵の国、海舟と大久保を召す」というものであった。
会議は紛糾した。十日になっても続けられたが結論が出ず、三条が関東大監察使として西郷を伴って江戸に向かうことになった。
当然に第二案は西郷が提案したものであって、西郷が官軍・新政府軍の中で重要な位置づけの状態であったならば、第二案は西郷の権威で通ったであろう。
だが、三月十二日十三日の両日、芝・高輪の薩摩屋敷において、海舟と西郷とで取り仕切り、江戸無血開城を成し遂げた当時の権威は、既に西郷にこの時なく、大勢は第一案の方向に動いて、ひとり孤立している実態を、三条大納言邸は明らかにしたのであった。
会議は西郷の面子を立て、結論は現地視察を行ってから決めることにし、佐賀藩の江藤新平を伴って江戸に向かった。江藤は新たに大総督府軍監となり、江戸民政をつかさどる江戸鎮台判事に任じられ、同行したのである。
江戸に着いた三条と江藤が見たものは、西郷が海舟の意を斟酌し、江戸市中治安取締りを彰義隊という敗者側に与えた結果として、官軍側と様々なトラブルを発生させ、混乱状態を引き起こしている実態であった。
官軍・新政府軍としては、一日でも早く江戸での権力構造を固め、会津中心に結束された奥羽列藩同盟への対処に動きたいのだが、現状では安心して東北方面に進攻できない。
そこで、三条と江藤は、彰義隊をすぐにでも討伐すべきという意志から、長州藩の大村益次郎を軍防事務局判事として、江戸につれてくる人事をうったのである。
この人事は、大総督府から軍防事務局への権力移行となり、江戸市中の治安権力を西郷から大村へ手渡したという意味になる。
大村の投入は、海舟に対する対応も一変した事を意味する。海舟は彰義隊を慶喜の江戸復帰実現のための取引材料として、最大限利用しようと賭けをうったことは前号で述べた。江戸治安維持には慶喜が必要だという主張である。
しかし、これはもともと危険極まりない賭けである。彰義隊が海舟の手で統制可能だという条件下でのみしか成功しない。ある程度の混乱は生じることは慶喜復帰に必要条件であるが、彰義隊が海舟から離れ収拾不能状態に陥ってしまっては、海舟の政治力が喪失したことになり、取引は成り立たなくなる。今やこの状態に海舟は陥っていた。そのことをこれは閏四月二十九日の『海舟日記』が示している。
「此頃彰義隊の者等、頻りに遊説し、その党倍多く、一時の浮噪(ふそう)軽挙を快とし、官兵を殺害し、東台に屯集ほとんど四千人に及ぶ。その然るべからざるを以て、頭取已(い)下に説諭すれども、あへてこれを用ひず。虚勢をはって、以て群衆を惑動す。あるひは陸奥同盟一致して、大挙を待つと唱え、あるひは法親王を奉戴して、義挙あらんと云ふ。無稽(むけい)にして着落なきを思わず。有司もまた密に同ずる者あり。はなはだしきは、君上の御内意なりと称して、加入を勧むる者あり。是を非といふ者は、虚勢を示して劫(おびやか)さむとす」
この頃の彰義隊は、海舟のいうことなぞは無視する状態に陥っていたのである。
このような中、大村は着々と武力解決への準備を始めた。五月一日に、田安中納言と彰義隊にあずけていた市中取締の任を解き、巡邏警備の権を官軍の掌中に収めたのである。この結果は当然ながら、官軍・新政府軍の態度が一変する。
五月二日の『海舟日記』は次のように記されている。
「市中取締ならびに巡邏、官兵にて仰付けらるに付、此方にて心得るに及ばざる旨、督府より御達」
考えてみれば、大総督府から「江戸鎮撫万端」を委任受けたのが、閏四月二日であったから、彰義隊は一ヶ月間のみの治安維持活動であった。またそれは、海舟が慶喜復帰の取引を行った期間であり、復帰という賭けに負けた期間でもあった。
しかし、これは海舟から見た期間である。既に見たように官軍・新政府軍は京都三条大納言邸で開かれた三日を要した閏四月十日の会議で、西郷の位置づけが変わっていたのであるから、海舟が彰義隊を慶喜復帰の切り札として実質的に使えたのは、閏四月二日から十日までの僅かな日数にすぎなかったということになる。海舟には分からなかったが、海舟の賭け、それは海舟の官軍に対する政治力が根源であるが、西郷の権力喪失と共に消えたのである。
さて、彰義隊が江戸市中取締の任を解かれたことは、上野山中に大きな衝撃となり、彰義隊士は激怒した。だが、隊士よりさらに憤激したのは、寛永寺の僧侶たちであり、それらを仕切っている覚王院であった。
五月八日の『海舟日記』に
「彰義隊戦争の企てあると聞く。官軍これを討たんといふ説紛々、隊長へきびしく説諭す」とあり、同じ日に
「彰義隊沸騰、風聞には、法王(公現法親王)を奉じて一戦せんといふ説あり。笑うべし」ともあり、五月九日には
「彰義隊東台に多人数集り、戦争の企てあり。官軍これを討たんといふ。その因て来たるところ、法王(公現法親王)三月中駿河に出駕、大総督へ辛うじて御面会、君上の御嘆願については、種々御尽力もありしにや、終に、君上単独軍門に降られなば、寛奥の御処置にも及ぶべき様、御約もありしに、我輩同月十五日、参謀(西郷)に引合、これらの御事力を奮って止めしかば、陪僧覚王院その功の成らざるを憤り、東帰後もっぱら戦争をすすめしかども、御採用なし。これより愚背を煽動して党を集め、法王を取立て政を復せんといひて小人輩を誘ふ。ついに今日の事にいたるなり」
つまり、海舟は、彰義隊の隊士共が自分の指示に従わないのは、バックに覚王院がいて、覚王院は当初から主戦論であって、その主戦論の根拠は、官軍東征の際、上野輪王寺宮の公現法親王を通じ、直接有栖川大総督に行った和平工作が失敗し、海舟・鉄舟連合に名をなさしめたという怨念・遺恨から発しているという理解であった。
さらに、覚王院の背後には、先々帝仁孝天皇の猶子、明治天皇の叔父となる皇族の公現法親王が存在しているのであるから、覚王院が強力にバックアップしている彰義隊は、独立した徳川家とは異なる新たに大きな政治勢力となったことを意味し、その勢力下に徳川家の家臣である彰義隊士達が移るという事態になる。
これは海舟にとって許されることではない。そこで鉄舟をもって、覚王院を説得し彰義隊解散させるために、上野山中の寛永寺へ向かわせたのであった。
以上の経緯が一般的に認識されている内容である。
彰義隊・・・その四
彰義隊・・・その四
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
江戸城無血開城後、鉄舟と海舟の信頼関係は一段と深まった。
それを証明するのが、慶喜亡命計画である。いざという場合、慶喜の生命と名誉を守るため、イギリスに亡命させようとする海舟の腹積もり、それを鉄舟にだけ明かしていた。
慶応四年(一八六八年)三月二十七日の「海舟日記」、「此日、英公使パークス氏幷(ならびに)海軍惣督キップル氏を訪ふ。此程之趣意を内話す。英人、大に感ず」とあるように、英国公使と会談し、この会談の内容について「解難禄三五」(勝海舟全集1 講談社)で「密事を談じ、此艦をして一カ月滞船なさしむるを約す」と付記している。
この「此艦」とは、当時横浜に入港中であった英国軍艦アイアン・デュークのことであり、パークスが同艦を一カ月停泊させる密約を、海舟が鉄舟に次のように語っている。
「実はいよいよとなると浜御殿の裏にバッテーラ(バッテーラとはポルトガル語で小舟を意味する)を備えて、慶喜公を乗せて英吉利の軍艦にお乗せ申すという計画がある」(海舟余波 江藤淳)
ここでいう「いよいよとなると」というタイミングとは、何事かが突如官軍側に起こって、西郷との間で取り決めた慶喜の処置、それは水戸への退隠であり、命の保証であるが、それらが叶わぬ事態が発生した場合という意味であって、この重要な「密事」を鉄舟にだけ打ち開けていること、そこに海舟の鉄舟に対する人物評価が顕れている。鉄舟の主君慶喜への忠誠心を本物と的確に認識していたからである。
さらに、もうひとつ指摘できるのは、当時の鉄舟がおかれた政治的立場の変化である。江戸城無血開城という偉業を成し遂げたことで、回りからの眼が違ってきた状況を「おれの師匠 小倉鉄樹」は次のように述べている。
「此頃は師匠は勝さんと全く同格に政治向の事にも関与するやうになった。五月二十日伊豆守御渡=『勝安房守・織田和泉守・山岡鐵太郎・岩田織部正』右幹事被仰付、御政治向へ関係いたし候・・・・」(慶応四年五月二十二日江湖新聞)
加えて「大抵の仕事は勝と相談し、又勝からも相談を受けて、勝にやらせた。勝は、師匠が幕府の大難を美事に片付けて以来、心から師匠を信頼し、大小となく師匠に相談し、師匠も亦勝の才略を知っていろいろ献策する所が尠(すくな)*くなかった。だから勝の仕事の大半は山岡の方寸から出たもので、それが勝の才気に依(よ)*って完成されたのである」
この内容、少々鉄舟贔屓に偏っていると思われるが、いずれにしても政治的立場への重しが深まっていたことは事実である。
彰義隊の結成は、慶喜への忠誠心から、二月十二日に慶喜が寛永寺・大慈院に謹慎したことがきっかけとなって、一橋家の家臣である渋沢成一郎、天野八郎等十七人が、雑司ケ谷の茗荷屋に会したことから始まった。(『徳川慶喜公伝』四 平凡社)
この集りの最初は「尊王恭順有志会」と名乗ったように、尊王と恭順がイデオロギーであるから、慶喜が寛永寺に籠った目的と同じである。ところが「身命を抛(なげう)ち、君家の窘辱(きんじょく)を雪(そそ)ぎ・・・・」(『徳川慶喜公伝』四)とあるように、慶喜が謹慎という行動で目的を遂げようとするのに対し、それとは全く反対の動きであって、言葉の独り歩きのような感じであるが、その後も会合を重ね、二月二十三日に浅草本願寺に屯所を定め、この時に「彰義隊」と名乗った。
「彰義隊」とは「義」を「彰(あらわ)す」という意味で、頭取には渋沢成一郎、副頭取は天野八郎が就いた。なお、彰義隊については、慶喜の「将棋廻り」という説もある。
「『彰義隊』の文字は以前は慶喜公の御将棋廻りで、夫(そ)から後に義を彰すと云ふ事にあった。旧(ふるく)は御将棋廻りの者であると云ひました」(『史談会速記録』幕末気分 野口武彦)
この将棋廻りとは、武将が陣中で腰を掛ける床几(しょうぎ)の回りのことで、将軍の周囲を固める者、転じて親衛隊とでもいった意味ではないかと思われるが、後に捕らえられた天野八郎は、獄中で綴った遺書「斃休録」の末尾で、わが身を将棋の香車の駒になぞらえてこんな感慨を書き残している。
「予、昔年(せきねん)より槍印其の外、物の印に『香車』を用ゆ。これ一歩も横へ行き、跡(後)へ引くの道なきを表するの証なり。東台(上野山)に一敗すと雖も、職業(使命)を尽くして他に譲らず。府下に潜伏して今日に至る。決して『香車』に恥ぢず。天地何をか恐れん。盤石動かすべし。我が赤心転(まろ)*ばすべからず」自分はただまっすぐ進むしか能のない将棋の駒だというのである。(『幕末気分』 野口武彦)
さて、この時の官軍・新政府軍は、その権力基盤が確立できるかどうか、それが最大の課題であったが、現実には厳しい状況下にあり、大きく見て三つの不安要因を抱えていた。
一つは、軍艦の引き渡しに応ぜず、江戸湾に居座って、睨みを利かせている榎本武揚が率いる幕府艦隊の存在。二つ目は会津中心に結束された奥羽列藩同盟の動き。三つ目が江戸の治安であった。
特に、江戸市中の治安は、江戸無血開城によって幕府の威信は失われ、町奉行所の取締りパワーも減じ、治安は乱れに乱れていた。辻斬りが横行し、夜間の通行は危険で出歩く者はなく、町々は無法状態化し、集団を組んだ盗賊が豪商を襲い、金品強奪、家人を殺傷する事件が続発していた。
このような状況下で結成された彰義隊は、その活動の内容を「同盟哀訴申合書」書き、趣旨は「同盟決起、公(慶喜)の冤罪を条(じょう)陳(ちん)し、闕下(けつか)(天皇)に哀訴せんとする」ものを幕府側に提出した。 最初は、この「同盟哀訴申合書」を幕府側は却下したが、彰義隊に加入するものが多くなり、松平確堂の意向で隊名を公認することにし、府下の巡邏と治安維持を命じた。屯所が上野寛永寺に移されたのはこの時である。
隊員は喜び、早速に丸提灯に朱の色で「彰」あるいは「義」の一字を筆太で書き入れ、それを持って数名ずつ上野の山から江戸市中を巡察するようになった。
その結果、犯罪は激減し、安心を得た市民たちは、感謝の念を表すために、彰義隊屯所を訪れ、金品を差し出す等が増え、彰義隊と市民の間は良好な関係となっていった。
これを見つめていた新政府は、幕府側に治安維持の命を発したのである。そのことを海舟日記の閏四月二日に次のように記している。
「江戸鎮撫万端の儀委任候間、精勤あるべく大総督宮御沙汰候事」
新政府は明らかに宥和策を採ってきたのであるが、そのタイミングを捉えて、またもや政治家海舟が動いた。閏四月五日、慶喜江戸復帰という大胆な策を願い出たのである。
ここで閏四月について説明しないと、これからの日付展開が混乱してくる。ご存じのように江戸時代は太陰太陽暦であるから十二カ月は三百五十四日で、太陽暦より一年で十一日ほど短い。このずれは十一日×三年=三十三日となるから、三年に一度、一年のどこかに一カ月を挿入して十三カ月としないと、季節とずれが生じてしまう。そこでこの挿入された月を閏月ということになる。慶応四年はその年に当たり、四月と閏四月の二つの四月が発生しているのである。
従って、四月十一日に江戸城明け渡しが行われ、この日の暁に慶喜は上野寛永寺から水戸へと下ったのであるから、この閏四月には江戸にいなかったのである。
さて、海舟は閏四月五日江戸城西の丸に上り、慶喜江戸復帰を求めた。理由は明快であって、次のように提言した。
「此上府下の静謐(せいひつ)・生霊の安寧を謀らせ給はんことは、臣等が力の及ぶ所にあらず、慶喜恭順の至誠能く士民を感化せしむるものなれば、願わくは慶喜に退隠を命じて之を府内に還住せしめられなば、府下の衆庶は必ず其謹恪恭順に薫陶せられて、令せずして安靖(あんせい)ならん」加えて「此議聴かれざれば、皇国の首府を始めとして、人心の動揺は止む時なかるべし」(『徳川慶喜公伝』四)と切言したのである。
つまり、慶喜が江戸から追放されたため、治安が悪化し、今の幕府体制では手に負えない、という一種の強迫を行ったのである。
江戸城西の丸で対応したのは、大総督府参謀の海江田武次であり、海江田は即答をうながす海舟に対し、京都にお伺いしないと回答は出来ないと保留した。
だが、翌閏四月六日にいたって、大総督府は金十五万両を旧幕臣に分配するよう指示がなされた。このことは、新政府側がいかに江戸の治安に困惑しているかという証明であった。
ところで彰義隊は、四月十一日に慶喜が水戸に去ると、屯所を置くべき場所の見解相違、上野は要害の地でないという持論を持つ渋沢成一郎が離隊し、武蔵飯能に向かい振武隊を組織したので、頭取は本多邦之輔になった。
この際に、彰義隊は編成を新たにし、一組を二十五人、組ごとに組頭、副長、伍長を置き、二組を連ねて頭取一名を置いた。このようにして本隊は約五百人、附属隊を合わせると総勢千五百余人に達した。(『徳川慶喜公伝』四)
この附属隊というのは、諸藩からの脱藩者や加入者がそれぞれ勝手に参加した部隊であったが、その概要を「幕末気分」で以下のように書き述べている。
「たとえば『純忠隊』は、何とあの竹中丹後守(重固(しげかた))が変名で隊長になっている。竹中は、鳥羽伏見での敗戦責任を問われて登城禁止の処分を受けていたが、汚名返上を図ったのであろう。もっともこの不運な人物は知行所が美濃にあって、いちはやく官軍に接収されていた。帰ろうにも帰る場所がなく、仕方なく腹を括ったという面もある。『遊撃隊』は、幕府講武所の剣士隊で、やはり鳥羽伏見の雪辱戦のつもり。『万字隊』は関宿藩脱藩者、つまり佐幕派の一隊。何と藩主の久世広文までが加わっていた。藩は勤皇派に乗っ取られたのである。『水心隊』も結城藩で同様の事情。『神木隊』は高田藩榊原家の脱藩組。多彩といえば多彩、ありていにいって寄せ集めの軍勢が天下の彰義隊の現実だったのである」
このように上野の山に結集されてくる状況を、彰義隊メンバーより喜んだのは、輪王寺宮と一緒に駿府でコケにされた覚王院であった。
官軍によって傷つけられたプライド、その仕返しする時が来たとばかりに、この覚王院は全面的に彰義隊をバックアップし、ますます彰義隊はその存在を強めていった。
結果として「自ら官軍と彰義隊との境界が立ちますやうな訳で、浅草門から柳原の橋々を経て、昌平橋まで内外の境界が立ちまして、皆内廊だけが官軍の往来と云ふゆうな訳でございました」(『史談会速記録』幕末気分 野口武彦)とあるように、外堀と神田川を境界線にして官軍地区と彰義隊地区が出来ていたように、江戸市中に「治外法権」が発生している状態だった。
さらに「錦片(きんぎれ)とり」というのが流行った。新政府軍の兵士は出身が異なり、服装もそれぞれであるから、身分証明の意味で小さな錦の布切れを袖に縫い付けていた。それを彰義隊が奪うことが盛んに行われ、その延長で事件が続発した。
最初は谷中三崎町の路上、薩摩藩士と彰義隊が遭遇し、言い合いとなり、お互い抜刀し、薩摩藩士が三人惨殺され、これを多くの江戸市民が見ていたが、町役人に対し口をつぐみ、事件の糾明は行われなかった。
次は上野三橋町で筑前藩士が彰義隊と口論となり、筑前藩士一人が殺害された。これについても誰もが口にせず、この事件も不問に終わった。同じく広小路で佐賀藩士二人が殺害された。これも不問に終わった。
さらに大事件が発生した。白昼、鳥取藩の弾薬が彰義隊によって奪われたのである。これまでの殺害事件は、お互いの口論からの斬り合いであったが、今回は新政府に対する敵意が顕わになったもので、奥州の戦地に運ぶための弾薬数十荷が、上野の山下の坂本で強奪されたのである。
この状況は徳川側にとって憂慮すべき事態であった。閏四月二日に「江戸鎮撫万端の儀委任」を受け、その任務を彰義隊に命じたことが裏目に出て、彰義隊の新政府に対する敵視は一層募るばかりであって、これは慶喜江戸復帰、それと家名の存続は受け入れられたが、まだ定まっていない城地と禄高決定にも影響しかねず、大きな懸念材料になってきた。
そこで、この危機に登場するのは鉄舟である。彰義隊に上使として赴き、覚王院と対決するのである。
彰義隊・・・その三
彰義隊・・・その三
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
慶応四年(一八六八年)三月十四日、高輪薩摩屋敷における西郷と海舟の第二次会談で江戸城攻撃は回避された。
だが、十五日に上野輪王寺宮の公現法親王の陪僧・覚王院が駿府から戻り、一通の書状を提出したことから、海舟は肝をつぶすことになった。
その書状とは
「先ず将軍単騎にして軍門に到り降るにあらざれば、寛典の御処置に及ばず。然れども将軍これを為す能はざる時は、田安殿名代にてしかるべきか。これ大総督の御内命なり」
と書かれた有栖川宮大総督からの命令書であった。
この内容、普通に考えればおかしい。既に三月九日に行われた西郷と鉄舟会談で、和平条件が概ね決定し、十四日には江戸高輪薩摩屋敷で正式会談が執り行われている。
それなのに、この書状が提出されたことにより、和平交渉はうまくいかなかったという噂が江戸城内に広がりはじめ
「覚王院当帰後、其周旋之行届かざるを憤て、専ら一戦をすすめてやまず、漫(みだり)*に有司に会して、戦を主とす」
と海舟日記(三月十六日)にあるように、やはり江戸城は攻撃されるのか、というムードが広がり慌しくなってきた。
この気配に海舟は怒り狂った。再び同日の海舟日記を見ると
「我是を聞いて、かつ怒りかつ恨む。法親王は唯其のご寛典を懇願あられて足りなむ。何ぞ我主を辱(じょく)*するの挙を御内願あられしや。ここに二人あり。一物を買はんとするに、一は百金を出さんといひ、一は三百金を出さんといはば、その人三百金に与えて以て百金を以てする者に与えざるべし。法親王と総督の御内談、ここにいてでては、我輩の小臣切歯断腸すとも彼決して用いざるべし。今日のこと上下ともに力を用いる者なし。止(やむ)なんか、といって激論す。また参謀に書を送りて是を支(ささ)ふ」
と記されている。この最後の一行は、海舟が急いで西郷に書状を送り、第二次会談決定の再確認を求めたことを示しているが、このようなことは二元外交をした結果から生じた問題で、全く一瞬としても目が離せないと、溜息をついている海舟の顔が浮かぶ。
では、どうしてこのような二元外交交渉、誰の指示で輪王寺宮は駿府に向かったのか。それはいずれも慶喜の嘆願依頼であった。
これより以前、慶喜の同様嘆願で和宮及び天璋院から使者が、官軍に向かったが成功せず、輪王寺宮に出向くよう慶喜から再三の懇願があり、当初は固く固辞したが、重ねての願意によって、とうとう二月二十一日、慶喜の謝罪書と諸大名からの嘆願書を持ち、御輿にて上野寛永寺を出発した。
官軍が充満する東海道中、輪王寺宮の御輿と随従する覚王院や僧たちは、大変な困難・難儀を被りながら、ようやく三月七日に駿府城で有栖川宮大総督と会うことができた。
だが、謝罪書と嘆願書を一読した大総督は
「慶喜の朝廷に対する叛逆は明白であり、その大罪に対して追討の勅命が発せられたのである。それで兵を江戸に向けて進めている。今になって許しを請うても、どうにもならない」
と冷ややかな口調で述べ、しばらく駿府に留まるよう輪王寺宮に伝えた。
五日後の三月十二日、有栖川宮は駿府城で輪王寺宮に対し次のように申し述べた。
「ただ一通の謝罪書だけを提出して罪を許して欲しいというのは言語道断である」
「それでは、どのようなしたらよろしいのでしょうか」
「それについては、参謀がお伝えする」
と言い残し座敷を出て行った。
残された輪王寺宮と覚王院は、これは無礼な対応ではないかと内心憤りながら、うながされるままに別室に入ると、そこに参謀の宇和島藩士林玖十郎がいて、江戸に戻った覚王院が提出した先の書状内容が伝えられたのであった。
この結果を受けて輪王寺宮は、これは京に上って天皇に直訴するしかないと覚悟し、再び、有栖川宮と会い、その旨伝えた。すると有栖川宮は声を荒げ
「天子様から東征大総督に任じられ、錦の御旗を授けられた身である。すべては私がとりしきっている。宮は江戸にもどられよ。それも直ちに・・・」
と甲高い声で言い放った。目に険しい光があり、蔑みにみちた顔と声で命じられたことに、輪王寺宮は屈辱を受け、みじめな気持で、駿府城を去ったのであるが、宿所で待っていた覚王院以下の僧たちは、この経緯を聞き、激怒した。
特に、覚王院は
「宮様が、わざわざ江戸からひとかたならぬ苦難をお忍びになられて来られたのに、同じ皇族の身としてそれなりの御回答があると信じていたが・・・・」
と怒りは凄まじかった。この時の激昂憤激が、その後、彰義隊をバックアップするエネルギーとなって燃え上がることになっていくのである。
一方、輪王寺宮の交渉結果を聞いて、覚王院とは異なる次元で海舟は怒り狂った。
その怒りの意味は「素人が出て行って何をしでかしてきたのか。折角に政治専門家の俺が進めた鉄舟路線の成果を帳消しにしようとしているのか」という想い、それが三月十六日の海舟日記に如実に表現されている。
海舟が輪王寺宮の交渉を素人とけなす意味は明らかである。それは覚王院が怒った言葉に明らかである。「宮様がわざわざ江戸から、ひとかたならぬ苦難をお忍びになられて参ったのに・・・」という発言、この言葉には徳川方が陥っている立場への覚悟が薄い。
鳥羽伏見の戦いはどちらが先に仕掛けたかどうか、それは別として、今や慶喜は敗軍の将として白旗を掲げ、謹慎している身である。ならば、負け戦での交渉事には、それなりの環境条件を整えて、ある一点に的を絞って交渉に向かうのが、玄人の仕事だと海舟は思ったに違いない。
輪王寺宮と覚王院は、慶喜の嘆願書を持参し、皇族としての身分ある立場で、駿府まで出向き、同じ皇族の一員である有栖川宮に切々と訴えれば何とかなる、そのように思っていたのであろう。
しかし、ここで欠けているのは、相手陣営の分析である。征討軍の指揮官として、実質的に権限を持っているのは誰かという絵解きである。表向きは有栖川宮が大総督であるが、実際の指揮官は西郷であるという認識に欠けていた。
その一点に関して、海舟の判断は的確で、鉄舟に西郷への添書を持参させたのであるが、仏寺奥深く身を置く輪王寺宮と覚王院では、そのあたりの判断は難しく無理もなかったが、結果として和議交渉はうまくいかなかった。
さらに、輪王寺宮一行は、官軍で満ち溢れている東海道筋を、誰の先導もなく敵陣を突破したのであるから、道中大変な困難・難儀を被ったことが、交渉時にも影響したであろう。それは覚王院の「ひとかたならぬ苦難をお忍びになられて参ったのに」発言に表れている。それは当然であろう。敗者側は戦地で被害を受けるものであり、皇族でありながら、実に屈辱的な待遇の連続であったこと、それが覚王院の激昂憤激につながっている。
対する鉄舟は、海舟の下に置かれていた、薩摩藩士益満休之助を先導役に立たせるという手際よさであった。
もうひとつ、最も重要なことは、政治的交渉には参謀が必要だということである。ただ単に真っ正直にぶつかっていくという戦術もあるであろうが、ここは歴史を決める江戸無血開城という一大舞台である。そのためには、手練手管を知り尽くしたスペシャリストからの助言が必要不可欠であろう。
その点でも、鉄舟は事前に海舟という政治専門家と接し、それなりの助言を受け、和平交渉の妥結点を見出すことに成功している。
ところで、輪王寺宮が有栖川宮と会ったのは、三月七日の駿府城であり、その後再び会見したのが十二日の駿府城である。では、鉄舟が西郷と駿府で会談したのはいつか。それは三月九日である。
ということは、同じ時期に、同じ駿府にいて、同じ目的の交渉を行っていて、その結果は大きく異なっていたということになる。
交渉の仕方が問題だった。つまり、輪王寺宮は海舟がいう素人交渉だったという指摘、一方、鉄舟はその武士道精神による胆力ある優れた判断行動力で駿府会談を成功させた、というのが世に伝わっている通説であるが、ここでそれに対する反論異説を紹介したい。
それは「覚王院義観の生涯――幕末史の闇と謎 長嶋進著 さきたま出版」である。この中に次のように述べられている。
「薩摩藩邸焼きうち事件の時、逃げ遅れて逮捕された益満休之助は、なぜか勝海舟の家に居候をしていて、山岡鉄太郎が『駿府駆け』をした時、官軍の中を突破する案内役をするのである。益満が西郷吉之助の腹心であり、江戸市中撹乱、挑発作戦の中心人物であるということを、勝海舟は知らなかったのであろうか。
覚王院は、これらの全く理解することのできない『謎』を解くべく、間諜の世話になった。その間諜とは志方鞆之進という男で、この当時は、細川家(肥後藩)の家臣となっていた。幕府側と朝廷に通じている。
岩倉具視とは、まだ百五十石ぐらいの貧乏公卿時代からの知り合いであったので、岩倉の間諜の中にも通じ合う仲間がいる。志方は、単に金にさえなれば同志をも裏切るという男でなく、正義に血を燃やす慷慨の士であった。覚王院とも以前から懇意で、真如院によく出入りしていたという。・・・中略・・・
ひそかに京都方面に出かけていた志方鞆之進が、真如院の覚王院のもとに帰ってきたのは、二十日以上過ぎた頃であった。
志方の報告の概要である。
駿府城会談のすべてを背後で演出していたのは、貴僧のご推察のどおり京都にいる岩倉具視である。すべては、『神道復活、廃仏、輪王寺宮の格下げ』が狙いである。
大政奉還がなされ、武家政治である徳川幕府は倒れた。鎌倉幕府以前の天皇制を復活させるには、当然、神道の復活が必要であった。
徳川幕府は仏教をもって、統治してきた。特に徳川家康は、天台宗東叡山寛永寺を天海僧正に建立させ、代々、輪王寺宮を法親王としてお迎えし、特殊な格式をもたせ、宗教界に君臨させてきた。岩倉具視にとって、輪王寺宮は目の上のタンコブである。そこで、慶喜の助命嘆願のため京都に上る輪王寺宮の使命を邪魔しようと、西郷吉之助と勝海舟に間諜を送った。輪王寺宮と有栖川宮大総督が駿府城会談を行う前後に、急遽打った手が、山岡鉄太郎の『駿府駆け』であった。
勝海舟が薩摩藩邸焼きうち事件で捕えられた西郷の腹心・益満休之助を自宅にかくまっていたのも、その時に備えていたのである。輪王寺宮が京都へ行くことを強く拒絶したのもこのためである。輪王寺宮が京都に行き、幼い明治天皇と謁見すれば、輪王寺宮が大きな功績をあげることがわかっていたので、これを許すことはできなかった。
東征軍の実質的大将は西郷吉之助である。有栖川宮は、この間のいきさつを知る由もなかった。
覚王院は志方からこの事実を知らされても呆然とするばかりで、誰にも語ることはなかった。後に、彰義隊の天野八郎とあとあとのことを考えて、範海大僧正にだけはもらしたことがあるという」
この内容、なかなか面白い記述であって、覚王院の立場から推察すれば考えられるものであろう。
さて、話は江戸に戻るが、覚王院がもたらした一通の書状によって、江戸城内は戦いもあり得るという雰囲気が出てきた。
しかし、海舟はこの事態を予測していたかのように、この時までに一番暴発しやすい要素を、事前に江戸から遠ざけていた。
三月一日、甲州鎮撫を願い出た新選組の近藤勇と土方歳三の願いを容れ、金五千両・大砲二問・小銃五百丁をあたえて、甲府へ向けて出発させた。これは陸軍総裁の職権をもってした公然の行為であった。
また、歩兵差図役古屋佐久左衛門と京都見廻組の今井信郎等が、徹底抗戦を唱え、信越方面の鎮撫を行いたいという請願を聞き入れ、両名を昇進させ、歩兵六百名と大砲三門をあたえて、信州中野郷代官所勤務を命じた。これも公然たる命令で行ったものであった。
このように海舟が陸軍総裁として、軍資金と兵器を与え江戸から厄介払いしたのであるが、この背景には別の意図が隠されていたという石井孝氏(維新の内乱 至誠堂)の指摘がある。
「勝の脱走公認政策は、たんに消極的な厄介払いにとどまるのではなく、かれらを放ってゲリラ戦をやらせ、政府軍との交渉を有利にみちびこうとする底意があったのではなかろうか。江戸開城後も勝は、江戸の治安が保てないことを口実に、政府軍から譲歩をかちとろうとしていることからも推測できるであろう」
この最後のところ、これは二月二十三日に正式結成された彰義隊を、官軍側との駆け引きに十二分に活用しようとした事を指摘している。次号からいよいよ彰義隊の実態に入っていく。
2011年04月04日
清河暗殺その三
山岡鉄舟研究 清河暗殺その三
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
文久三年(1863)三月、上洛した将軍家茂は朝廷から攘夷をいつ実行するのかという、攘夷期限を明示するように執拗に厳しく責めたてられた。
朝廷が督促する攘夷という内容は、通商条約を破棄し、在留の外国商人を追い返し、貿易を中止し、それをいつ外国側に通告し、実現させるのか、というもので実態的には無理難題で、現実味がないものであったが、これが勅意であった。
とうとう四月二十日になって、将軍は攘夷期日を五月十日と答え、その旨を諸大名に通知して、ようやく将軍は江戸に六月に戻ることができた。
清河が実質リーダーである浪士組は、将軍が攘夷期日を定める前に、関白鷹司輔(すけ)煕(ひろ)から攘夷の達文が下されており、それを旗印として江戸に戻り、攘夷の一番乗りを果たそうと「横浜焼き討ち」を計画していた。その決行予定日は四月十五日であった。
しかし、決行二日前の十三日に清河は暗殺された。幕府は事前に清河の計画をつかんで、綿密な仕掛けで斬ったのである。
では、「横浜焼き討ち」が四月十五日であることを、どのようにして幕府はつかんでいたのか。
それは、「村摂記」(『未刊随筆百種第三巻』編者三田村鳶魚 中央公論社)にあるように「内命を受けたる頭は、窪田冶部右衛門、刺客は、佐々木只三郎、永峰良三郎(後に弥吉)高久左次馬等にてあと二人は記憶せず」と記述されているように、窪田冶部右衛門による密告だ、と推測するのが妥当であろう。
では、ここで疑問が生じるのは、清河が浪士組一同に「横浜焼き討ち」決行日を明示していたかということである。
「横浜焼き討ち」は清河にとっては義挙、幕府にとっては暴挙で、正面切って宣戦布告して行う戦いではなく、相手の隙をつく仕掛けをもって急襲するものである。また、攘夷派の攻撃に対して幕府は横浜を警戒態勢下にしているのだから、攻撃日を浪士組員に伝えることは決行間際のタイミングにするか、目的を明示しないまま行進していく途上で命令する等、細心の注意をもって秘密裏に計画する。だから、事前に決行日を知っていたのは、清河が心を許した僅かな人数に過ぎないであろう。
このように考えてくると、確かに窪田冶部右衛門は浪士組の頭の一人ではあるが、清河の腹心ではなく、決行日を把握していなかったと考えるのが妥当である。
そこで、窪田冶部右衛門はどうやって決行日情報を入手したかが問題である。そのヒントとして、ここに神奈川奉行所組頭である窪田の息子、泉太郎が登場する。
攻撃する側の清河の思考回路を想定すれば、焼き討ちするには、当たり前であるが、そこの地理状態を知らねばならぬわけで、そのためには横浜を事前に視察調査する必要があるが、簡単に旅するような感覚で横浜に行けたのであろうか。それは無理であった。
横浜は、もともと東海道神奈川宿から南にはずれた一漁村であったところで、幕府は神奈川開港の際、街道の要衝地を開くことを嫌って、ここに外国施設を集中させたという経緯があったので、結果として、長崎の出島のごとき対応を図っていた。
ということは、横浜に通じる道筋に関門という番所、安政六年(1859)から翌年にかけて子安・台町・芝生・石崎・暗闇坂・吉田橋の6か所と宮ノ河岸渡船場に設けられ、さらに、掘割りによって居留地が分離されると、西の橋、前田橋、谷戸橋の3か所にも設置され、役人が通行人や荷物の改めを行っていたので、簡単に横浜を事前視察することはできなかった。
そこで、清河は窪田冶部右衛門の息子・神奈川奉行所組頭である泉太郎に目を付けたのである。また、泉太郎は組頭であって、奉行の次に位する重要な役職であるから、ここから紹介受ければ横浜視察はできるだろう。
早速に清河は、得意とする策略、それは冶部右衛門を通じて「視察する正当性ある」ものであるが、その策をもって泉太郎への紹介状を書かせることに成功し、これを持参し鉄舟と斎藤熊三郎(清河の弟)、西恭介の四人で横浜に出かけたのである。四月十日のことであった。
この横浜視察では、鉄舟がひとつの事件を起こしている。そのことが中村維隆(草野剛三)自伝に次のように書かれている。
「窪田泉太郎は外国人との親交があったので、そのにおいが身についていた。室内の装飾はもちろん、御馳走として出たバターや洋菓子類がそうであった。鉄舟はそれを見ると『けがらわしい、こんなものが食えるか』と、出されたものを引ったくり、床の上に叩きつけると、翌日は早々に江戸へ引き上げた」(『維新暗殺秘録』平尾道雄 新人物往来社)
これを述べた草野剛三は横浜に同行していなかったので、状況を割り引いて考えなければならないが、鉄舟がこのような行動をとったと伝えられている。
この鉄舟の振る舞い、今までの鉄舟とはずいぶん異なる奇異な感じを受ける。鉄舟は物事をじっくり考え、人前で乱暴をするような性格ではない。だが、横浜での行動は大人げなく、芝居がかっているように感じる。わざとらしさが窺え、敢えて無理した所業に思えるのである。
これは大事なポイントである。普段の鉄舟ではない。何かある。多分、それは鉄舟が何らかを伝えるための芝居ではなかったのではないか。
横浜に来た我々清河一行は、外国人が嫌いで、外国人が滞留しているところに見学に来るような人種でない、つまり、頑強な攘夷派であるということを明らかにするサイン表示ではなかったか。そう考える背景根拠は、鉄舟が根っからの幕臣であることである。
ここで改めて清河の行動目的内容を確認したい。清河は「横浜に押し出し、市中に火をつけて、そのごたごたに乗じて、外国人を片っ端から斬りまくり、黒船は石油をかけて焼き払い、すぐに神奈川の本営を攻めて、軍資を奪い、厚木街道から、甲府城に入って、ここで、攘夷、しかも勤王の義軍を起こそうというのである」(「新撰組始末記」子母澤寛)であった。
この中の神奈川本営(奉行所)襲撃は何を意味するか。それは倒幕の蜂起軍となることにつながり、勤王の義軍を起こすということは、幕府と対峙することに直結する。
つまり、清河の本心は「攘夷」でなく「倒幕挙兵」にあることを、この頃に至ってようやく鉄舟は見抜き、そうであったからこそ愚にもつかない所業を行って、神奈川奉行所組頭・泉太郎にシグナルを送ったのではないかと推察する。
本来、鉄舟には幕府を裏切る気持ちは毛頭ない。元々攘夷とは当時の殆どの日本人が同様の気持ちを持っていたわけで、将軍家茂が朝廷に攘夷を約するために上洛した時でもあり、攘夷が時の大勢であったから、清河と親しくし、清河を保護し助け、清河の仲間となって今日まで歩んできたが、倒幕となると事は異なる。三河譜代小野家六百石旗本の血筋が蘇ってくる。
この幕臣に戻ったことは京都でもあった。清河が京に着いた夜、浪士組全員を新徳寺に集め、朝廷に上書を奉じ、勅諚を賜った一連の経緯の際、そのことを清河から知らされた鉄舟は、悩みながらも浪士取扱いの鵜殿に報告、鵜殿は老中の板倉勝静に伝えたことがあった。その時と同じ幕臣の気持ちを再び蘇らせたである。
鉄舟が倒幕に与しないことについて、藤沢周平が「回天の門」(文春文庫)で、鉄舟と清河の会話を通じて次のように述べている。
「やはり、横浜焼き討ちは攘夷でなく倒幕挙兵なのですな?」
「そう、倒幕だ」
八郎は言いきった。並んで歩いている山岡の顔を見たが、暗くて山岡の表情は見えなかった。ただ重苦しい溜息を洩らすのが聞こえた。
しばらく無言で歩いてから、山岡が言った。
「だとすると、おれは今度のくわだてには加われません」
「むろんだ」
八郎はいつかのように、幕府と手を切れとは言わなかった。いたわるような口調で、しかし明快に言った。
「君と松岡は脱けてくれ。いずれ、そう言うつもりだったのだ。このあと君は、われわれのやることを見とどけてくれるだけでよい」
藤沢周平も述べているように、鉄舟は横浜行きの前に、清河の倒幕挙兵に賛せず、行動を共にしないという決意をしていた。
さて、結果として清河は「横浜焼き討ち」決行計画二日前に暗殺されたが、幕府による暗殺隊に中に窪田泉太郎がいたことは重要である。神奈川奉行所の組頭が何故に参加していたか。この背景を解明することが、清河が斬られるまでのストーリーに関わってくる。だが、その解き明かしの前に清河が斬られた場面を述べたい。
清河については、多くの人たちが暗殺場面を取り上げているが、いろいろ読み比べてみた結果、やはり、司馬遼太郎の「幕末」(文春文庫)でお伝えしたい。
その日、清河は朝から頭痛を病んだ。文久三年四月十三日である。
ここ数日来、山岡家とは一つ家同然の隣家高橋泥舟の屋敷に寝泊りしていたが、泥舟の妻女が、
「風邪でしょう。きょうは外出はおやめなさいしまし」
と心配してくれたが、
「いや、まずい日に約束してある。先方が折角酒を買って待っているそうですから」
そう言い残して出かけた。行先は、麻布上之山藩邸のお長屋である。かつて清河とは安積良斎の塾で同学だった金子与三郎という儒官をたずねるためであった。
金子のほうではこの日、清河が訪ねてくることは数日前から連絡を受けており、酒を置いて待っていた。
約束の刻限からすこし遅れて清河がやってきた。
用件はわかっている。攘夷連名名簿に血判署名することである。すでに清河はその懐中の帳簿に五百人の署名をあつめており、日を期して挙兵し、まず横浜の外交施設を襲撃することになっていた。むろんその挙兵と同時にこの軍団は王権復興の倒幕軍に早変わりするのである。
「古い学友だ。いまさら蝶々(ちょうちょう)せずとも私の気持はわかってくれるだろう」
「わかっている。加えていただく」
金子は快く署名血判し、あとは妻女に酒を出させ、徳利をさしのべた。その徳利の口が猪口にあたってカチカチ鳴ったことに清河は気づかない。
そのころ、藩邸の裏門あたりをしきりと往き来している数人の武士がある。
裏門からの道は一筋に赤羽橋まで伸び、橋のたもとによしず張りの茶店があり、そこでも数人の武士が、茶を飲んで屯している。いずれも二、三百石取りの直参の風体であった。
そのなかで首領株の佐々木唯三郎だけが、陣笠をかぶっている。あとは講武所教授方速見又四朗、高久保二郎、窪田千太郎、中山周助。
四ッすぎ、清河は藩邸を辞した。
清河も佐々木同様、檜に黒羅紗をはった陣笠をかぶっている。
したたか酔っていたが、たしかな足どりでしかしやや歩みを落して麻布一ノ橋をわたり切ると、不意に横あいから、
「清河先生」
と佐々木唯三郎が声をかけた。
「ふむ?」
「佐々木です」
と、ここからが唯三郎が工夫しぬいた兵略だった。すぐ会釈をするふりをして陣笠をとった。
清河もやむをえない。右手に鉄扇をにぎったまま陣笠のひもに指をかけた。
とたん、背後にまわっていた速見又四朗が抜き打ちをあびせた。ほとんど横なぐりといってよく、清河は左肩の骨を割られて前のめり、一歩踏みだしてつかに手をかけようとしたが、右手首に通した鉄扇のひもが妨げて抜けない。
「清河、みたか」
致命傷は、佐々木の正面からの一太刀だった。右首筋の半分まで裂き、その勢いで清河の体は左へ数歩とんで横倒しになり、半ば切れた首がだらりと土を噛んだ。
土に、酒のかおりがむせるように匂っていたという。
これが司馬遼太郎の描いた清河の暗殺場面である。さすがに描写が真に迫り、斬られた場景を想起させるに十分であるが、ひとつだけ疑問が残る。
それは、清河はかつて佐々木唯三郎と講武所で手合せしたことがあり、その時は佐々木が、清河によって目がくらみ立ち上がれないほど打ちのめされたことがあった。
それほどの清河が、佐々木の工夫しぬいた兵略であったとしても、あまりにあっけない斬られ方、そこに何か感じるのである。
それと、どうして清河は幕府から狙われていることを分かっていたのに、何故に一人で麻布上之山藩へ金子与三郎を訪れたのだろうか。それまでは必ず数人が護衛として常に同行していたのに・・・。
これら疑問の背景には、思わぬ清河の心情変化覚悟があった。次号で述べたい。
2011年03月11日
彰義隊・・・その二
山岡鉄舟 彰義隊・・・その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
鉄舟が西郷と駿府で、江戸無血開城会見をしたのは慶応四年(一八六八)三月九日である。実はこの日の夜、もうひとつ江戸で重要な会見が密かに行われていた。それは勝海舟陸軍総裁と、英国公使館通訳官アーネスト・サトウとの会談であった。
アーネスト・サトウとは、文久二年(一八六二)九月、生麦事件発生の六日前に来日、以後、幕末から明治時代にかけて、通産二十五年間にわたり日本に駐在し、日本人と日本語で口論するというほどの語学力で、自ら「薩道(サトウ)愛之助」と称するほど大の日本好き。日本人女性の武田兼と結婚、二男一女をもうけた。また、人一倍強い好奇心と行動力で、日本国内を精力的に駆け巡り、情報を収集した人物である。
そのサトウが海舟との会談を、次のように日記に書き記している。(アーネスト・サトウ坂田精一訳『一外交官の見た明治維新(下)』岩波文庫)
「三月三十一日(旧暦三月八日)に私は長官(英国公使ハリー・パークス)と一緒に横浜に帰着し、四月一日(旧暦三月九日)には江戸に出て、同地の情勢を探ったのである。
私は野口と日本人護衛六名を江戸に連れて行き、護衛たちを私の家の門のそばの建物に宿泊させた。私の入手した情報の主な出所は、従来徳川海軍の首領株であつた勝安房守であった。私は人目を避けるため、ことさら暗くなってから勝を訪問することにしていた」
このサトウと海舟の会談について「海舟日記」には三月九日と日付は立てているが、全く記していない。(『慶応四戊辰日記』勝海舟全集1講談社)
これはサトウとの会談が、かなり政治的なものであったことを暗示する証拠であり、会談目的は英国公使のパークスが、官軍及び西郷に対して持ちえる影響力を、海舟が利用しようとしたことは明白であろう。
その利用第一目的は、サトウを通じて英国ルートから和平工作を図ろうとしたことであるが、その他にもいくつかの保険的手当てがあったはずである。
それは、まず、駿府に向かった鉄舟への保険である。海舟がはじめて会った鉄舟について「旗下山岡鉄太郎に逢ふ。一見その人となりに感ず」(『慶応四戊辰日記』三月五日)と、今まで大久保一翁から「海舟の命を狙っているひとり」という風評とは全く異なる人物像に接し、西郷との会見が成功する可能性に賭け、西郷への添書を渡し、期待を持って送りだしたが、当然のことながら鉄舟に徳川家のすべてを託すというほど楽観的にはなり得ない。
さらに、西郷への保険もあった。鉄舟の駿府行きが成功し、江戸城攻撃を取りやめることを西郷が引き受けたとしても、西郷一人に徳川家の命運を預けてよいのかという不安である。つまり、西郷は大総督有栖川宮の代理であるが、代理ということは、その背後に最終決定権者が存在するということであり、そこの段階でひっくり返る可能性もあるだろうという危惧である。
この虞(おそれ)は、西郷という人物と元治元年(一八六四)九月に大坂ではじめて会って以来、海舟と西郷は理解しあえる関係にはなっていたが、今の西郷の立場は、攻撃軍の総帥であり、実際に江戸城攻撃を旗印に進軍してきているわけで、過去の面識で得た感触とは異なる人物となっている可能性が高い。
そのためにも、フランス公使レオン・ロッシュに対して事実上の外交断行を宣言し、英国との関係を構築したのであって、英国のルートからその影響下にある官軍の薩長にパイプを通そうと動いたのであった。
さて、三月十日、徳川側に一条の燭光が射し込んだ。勿論、鉄舟の西郷との会見成功の知らせが届いたことである。三月十日の「慶応四戊辰日記」は次のように書いている。
「山岡氏東帰。駿府にて西郷氏に面談。君上の御意を達し、且 総督府之御内書、御処置之箇条書を乞ふて帰れり。嗚呼(ああ)山岡氏沈勇にして、其識(しき)高く、能く君上之英意を演説して残す所なし、尤(もっとも)以て敬服に堪(たえ)たり」
これは鉄舟を称賛することで、自らの政治力を誇っているとも理解できる。それは同日の次の日記との対比からわかる。
「此(この)程(ほど)より、法親王(上野輪王寺宮の公現法親王)ならび一橋殿、参政服部筑前、河津伊豆等、駿府或(あるい)は箱根に御出張、御嘆願之事ありしが、各(おのおの)*一つも御採用とも聞へず、独り山岡氏行くに当て、総督府に達し、参謀等此御書付を渡せり。帰府後、諸官驚懼(きょうく)して、またいふ所なし」
鉄舟のみが成功した。どうだ「俺が送った鉄舟の実力をみたか」と言わんばかりの内容である。これでいよいよ江戸無血開城へ向かって、西郷と最後のつめができることになった、という気持ちが正直にあらわれている。
その西郷が鉄舟との駿府会談を終え、江戸・高輪薩摩屋敷に入ったのは三月十二日である。海舟は早速、使者に一書を持たせて連絡をとった。
既にこの時点で、官軍の司令部は池上本門寺にあり、東海道の先鋒は品川宿に、東山道軍は板橋に、甲州街道軍はすでに内藤新宿にあって、三方から江戸を包囲していた。海舟は急ぐ必要があったである。
海舟の申し出を受け、翌十三日に第一次の西郷・海舟会談が行われた。この日のことを海舟は日記に「高輪薩州之藩邸に出張、西郷吉之助に面談す」(『慶応四戊辰日記』三月十三日)と書き、後日、この事を「氷川清話」で次のように解説している。
「そこでいよいよ官軍と談判を開くことになったが、最初に、西郷と会合したのは、ちょうど三月の十三日で、この日は何もほかの事は言わずに、ただ和宮の事について一言いったばかりだ。全体、和宮の事については、かねて京都からおれのところへ勅旨が下って、宮も拠(よんどころ)ない事情で、関東へ御降嫁になったところへ、図らずも今度の事が起こったについては、陛下もすこぶる宸襟(しんきん)を悩まして居られるから、お前が宜しく忠誠を励まして、宮の御身の上に万一の事のないやうにせよとの事であった。それゆえ、おれも最初にこの事を談(はな)したのだ。『和宮の事は、定めて貴君も御承知であろうが、拙者も一旦御引受け申した上は、決して別条のあるやうな事は致さぬ。皇女一人を人質に取り奉(たてまつ)るといふごとき卑劣な根性は微塵も御座らぬ。この段は何卒御安心下されい。そのほかの御談は、いづれ明日罷(まか)り出(い)で、ゆるゆる致さうから、それまでに貴君も篤と御勘考あれ』と言い捨てて、その日は直ぐ帰宅した」
このように、海舟は江戸無血開城という最大戦略目的の本会談を、翌十四日に持ち越したわけであるが、これはかなりおかしいと言わざるを得ない。
海舟の本音としては、直ぐにでも鉄舟が持ち帰った和平条件について、正式なつめと回答を得たかったに違いない。何故なら、上野寛永寺では慶喜がこの会談に息を潜めて注目しているはずであり、江戸住民も同様であったからである。
しかし、和宮の件だけで終えた海舟は、西郷を愛宕山に誘い「江戸市中が焼け野原にならずに済み申した」とさり気なく述べただけ。これに対し西郷も「「命もいらず、名もいらず、金もいらず、といった始末に困る人」と鉄舟に対する最大の評価を述べただけ。
それだけで二人は、この日別れたのであったが、実は、この日は海舟にとっても、西郷にとっても正念場であった。この日、両軍にとってきわめて重要な会談が、横浜で開かれていることを両者は知っていたのである。
それは、東海道先鋒総督府参謀の長州藩士・木梨精一郎と、英国公使ハリー・パークスとの会談である。
木梨精一郎が西郷の命を受けて、先鋒総督府のある沼津から出発したのは三月十一日である。木梨参謀は二つの使命を帯びていた。
ひとつは「横浜表(おもて)外国人応接」であり、もうひとつは「江戸討入下知」である。この二つの使命は相互に結びついていた。つまり、木梨参謀は西郷と示し合わせて江戸に向かい、江戸城攻撃を予想しての、対外交渉を担当しようとしたものであった。(参考『維新の内乱』石井孝 至誠堂新書)
つまり、この木梨参謀の行動が意味することは、江戸城攻撃を決定すべきかどうかの最終決定を、英国公使ハリー・パークスとの会談結果如何で判断しようとしたものであったと推察でき、既にみたように海舟が仕掛けた「西郷への保険」、つまり、西郷は官軍の最終意思決定権限を持っていないという虞が当たっていたことを意味する。
そこで、ここでパークスが、当時の日本国内時局をどう判断していたか、それを検討する必要があるだろう。
パークスが兵庫(神戸)から横浜に戻ったのは、サトウの日記にあるように三月八日である。横浜という江戸に近い地に戻ったパークスは、官軍の江戸攻撃という状況に対して、外国人の安全保障の対策を立てる必要があったが、パークスの脳裡には官軍のエネルギーが「攘夷」にあるということについて深く認識していた。
そのように認識に至った背景に、最近のいくつかの事件発生があった。まず、一月十一日には、官軍に所属する備前藩兵が、行列を横切ったアメリカ水兵に発砲射殺、英・米・仏三国軍と交戦した神戸事件であるが、これをサトウは次のように日記に書いている。
「二月四日(旧暦一月十一日)、この日早朝から備前の兵士が神戸を行進しつつあったが、午後二時ごろ、その家老某の家来が、行列のすぐ前方を横ぎった一名のアメリカ人水兵を射殺した。日本人の考えからすれば、これは死の懲罰に値する無礼な行為だったのである」(『一外交官の見た明治維新(下)』)
二月十五日には、同じく官軍の一翼を占める土佐藩兵が、十一人のフランス軍艦デュプレックス号乗組員を殺害した堺事件が起きていた。また、パークス自身も京都で暴漢に襲われたという経験を持っていた。
このような官軍関係による排外的テロ行為、それは「攘夷」思想から発するものであることを知り抜いていたので、横浜でも同様事件が発生することを恐れたパークスは、横浜に帰着後すぐに列国代表会議を招集し、横浜全域を列国の共同管理に置くという非常措置をとったのであった。
そのパークスがサトウを伴って、江戸に入ったのは横浜に戻った翌日の三月九日である。既に述べたように、この九日の夜、サトウは赤坂氷川町の海舟邸を訪ね密談している。ということは、サトウを通じて幕府側の和平要求条件を知り、その後も情勢分析しているのであるから、鉄舟と西郷の駿府会談成功についてもパークスは理解していた。
そのパークスは木梨参謀との会談で、次のように発言したのである。
「慶喜が恭順の意を表して謹慎している以上、慶喜を死におとしいれる道理はないから助命されたい。江戸城を受け取りさえすれば、朝廷の目的は貫徹するはずである。万国公法の道理にもかなったことである」(『維新の内乱』)
ここで言う「万国公法」とは国際的世論のことであり、当時の外国人の間での評判であり、それを持って圧力を木梨参謀にかけのである。加えて次の発言もした。
「戦争をはじめるということになれば、居留地の安全にも関係するので、政府から外国へ正式の通知がなければならないのに、そんなこともない。これでは日本は無政府の国というものである」(『維新の内乱』)
これは慶喜が叛乱鎮圧を列国使臣に通告して出兵した、鳥羽伏見のことを前提に述べたもので、官軍側が如何に外交に無知であったかが明らかで、パークスは最後通告として
「横浜については、英仏両国の軍隊で警備にあたらせているから、さよう御承知置きいただきたい」と述べた。この発言の意味することは、江戸城攻撃で官軍が進撃し、横浜を通過する場合、英仏両国軍と戦うことになるということを示唆していた。
これでは官軍は江戸城を攻撃出来ない。正に、海舟が仕掛けた「西郷への保険」が功を奏したことを意味している。この時の海舟という人間が動いた、政治的布石は見事というしかない。
このパークスとの会談結果を西郷も、海舟も知った上で、そのことをお互いおくびにも出さず、第二次会談を高輪薩摩屋敷で開き、江戸城攻撃は回避されたのである。
しかし、海舟の前に再び大問題が発生した。それは上野輪王寺宮の公現法親王による工作の失敗と、公現法親王の陪僧・覚王院が駿府から帰ってきて、肝をつぶすような情報をもたらしたことである。この覚王院が彰義隊の背後で大きな力を発揮していくのである。
2011年02月08日
彰義隊・・・その一
山岡鉄舟研究 彰義隊・・・その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
上野公園前交差点に交番がさりげなく立っている。この交番から始まる坂道が、上野台一帯を占めていた上野寛永寺への旧黒門口であり、上がりきった山王台には西郷隆盛銅像があって、そのすぐ後ろに彰義隊の墓がひっそりとある。
西郷像には通り過ぎる誰もが目を向けていくが、彰義隊墓所には気づかず通って行く。今もって勝者と敗者の姿を表しているかのように・・・。
上野寛永寺内に籠った彰義隊は、慶応四年(一八六八)五月十五日、新政府による攻撃で、たった一日で壊滅した。
その勝者側である西郷隆盛銅像が立っている場所は、彰義隊が大砲を持って最も激しく抵抗し戦ったところであり、彰義隊の墓石には鉄舟によって「戦士の墓」と書かれている。
だが、鉄舟の名は刻まれていない。しかし、鉄舟はこの彰義隊の戦い、いわゆる上野戦争に深く海舟とともに関わっていた。
今号以下では、彰義隊が生まれ、それが時の政治情勢の中で翻弄され、敗者となることによって、明治時代という黎明期へつながった経緯と、海舟と共に鉄舟がその渦中でどのような働きをしたか、それを探っていきたい。
彰義隊の誕生は、慶応四年一月十二日徳川慶喜が、鳥羽伏見の戦いで大敗し、大坂湾から幕府戦艦の開陽で、11日夜半品川沖に到着し、十二日払暁上陸し江戸城に入ったことから始まる。
この時鉄舟は、慶喜が浜離宮から江戸城へ向かう出迎え者として、騎馬にて先駆したことは「徳川制度資料」(大正十五年 小野清 仙台藩士)の記述から次のようにすでに紹介した。
「出迎者山岡鉄太郎、これに継ぐところの五騎の第一、前京都守護職会津藩主松平肥後守容保。第二、前大将軍徳川内大臣慶喜公。第三、前所司代桑名藩主松平越中守定敬(さだあき)。第四、老中松山藩主板倉伊賀守勝(かつ)静(きよ)。第五、老中唐津藩主小笠原壱岐守長行(ながみち)なり。慶喜を出迎える。海舟は西丸大手門外下乗橋にて出迎え」
この慶喜が謹慎の意をもって、二月十二日上野寛永寺大慈院に引き籠り、髭も月代(さかやき)も剃らずにひたすら恭順の態度を示し続けながら、一方では複数のルートを通じて、外交交渉に乗り出していた。
第一に、先代家茂夫人の和宮と先々代家定夫人の天璋院のパイプ、第二は、寛永寺の貫主の上野輪王寺宮・公(こう)現法(げんほう)親王(しんのう)を動かしての嘆願、第三は、海舟を通じた鉄舟の駿府入り、結果として第三のラインによって鉄舟が江戸無血開城を成し遂げたのであるが、この第二の嘆願ラインが、上野の山の彰義隊に決定的な事柄をもたらすのであるが、これについては後に詳説したい。
まず、この上野輪王寺宮の公現法親王について触れたいが、その前に当時の上野の山を振り返ってみたい。
今は春の花見と国立博物館、国立西洋美術館、上野動物園で知られているが、江戸時代は寛永寺が上野台をすべて占めていた。
上野台は江戸城の北方約一里(四キロ)の地点にあり、かつては崖下に迫る江戸湾に突き出た岬であった。その頃の海岸であった台地から貝塚がいくつも発見されている。向かい合った本郷台からは弥生式土器が出土している。昔は、上野台は忍(しのぶが)岡(おか)*、本郷台は向(むこうが)岡(おか)と呼ばれていた。
上野台から見て、東方向は下谷車坂町から多くの寺が立ち並び、その先に浅草があり隅田川に広がっている。西方向は不忍池であり、その向こうは向岡の金沢藩加賀前田上屋敷と水戸藩中屋敷である。
南方向には今は暗渠(あんきょ)*となっているが忍川が流れていて、三味線掘りを経て神田川に注がれていた。忍川には端麗な橋が三本かかっていて三橋といい、それを渡ると下谷広小路の盛り場になる。北方向は金杉から三河島村、町屋村へと田園地帯が続く。
上野台の山上はだいたい平坦で、標高は約二十メートル。広さは約三十万坪の丘陵である。江戸時代の初めは伊勢津藩主・藤堂高虎、弘前藩主・津軽信牧、越後村上藩主・堀直寄の三大名の下屋敷があったが、寛永二年(一六二五)に江戸城鎮護のため、京都の比叡山延暦寺になぞらえて、寛永寺が創建され、山号を東叡山と称した。
開基は徳川家康のブレーンの一人だった天界大僧正である。江戸城から鬼門に方角にあたるので、この地が選ばれ、根本中堂を中心に数多くの壮麗な寺院が立ち並んでいた。
根本中堂の西側には慶喜が謹慎した大慈院、彰義隊が作戦本部をおいた寒松院などを含めた十八の子院、東の下谷方向に十八の子院、これを三十六坊と唱えた。
寛永寺には全部で八つの門があった。下谷広小路に面する南の門が黒門で正門、これを起点として時計の針回りで地図(復元江戸情報地図 朝日新聞社)を確認すると、清水門、谷中門、東門、坂本門、屏風坂門、車坂門、新黒門と続き、そのいくつかが上野戦争で激戦地となった。
江戸城守護の清浄の地という寛永寺はではあるが、参拝客目当ての門前町が形成されると、繁華街の盛り場として江戸屈指の場所となった。今でも花見の上野公園として有名であるが、当時も上野といえば花見であった。毎春、身動きできないほどの人出、だが、山上は清浄の地だから、肉食を禁じていた。その分を山麓の繁華街が請け負って、山下は水茶屋と見世物で賑い、寺社地の側ではどこでも色街が栄えるように、ここも同様であり、客は武士も町人も出家もいた。
貫主は天海が没した後、弟子の毘沙門堂門跡・公海が二世貫主として入山する。その後を継いで三世貫主となったのは、後水尾天皇第三皇子の守澄法親王であり、日光山主を兼ね、天台座主を兼ね、以後、幕末の十五世公現法親王に至るまで、皇子または天皇の猶子が貫主を務めた。貫主は「輪王寺宮」と尊称され、水戸・尾張・紀州の徳川御三家と並ぶ格式と絶大な宗教的権威をもっていた。
寺領は一万石、小さな大名並であり、資金を大名貸しに回し、その利鞘で大きく稼いでいた。
また、寺社は寺社奉行の支配下であって、罪人が逃げ込むと町奉行は勝手に踏み込めない地区であり、まして寛永寺の公現法親王は宮家の後光がさしていた。
この威光を利用すべく慶喜が謹慎場所として寛永寺を選んだのも頷け、その通りで、慶喜は公現法親王というルートから、第三の官軍対策外交を展開したが、慶喜によって動いた各ルートは、お互い自分たちがしている工作以外のことは知らなかった。これも後日、彰義隊に絡んで大きなトラブルになっていく。
さて、彰義隊の結成は、一橋家以来の家臣が、二月十二日に慶喜が大慈院に謹慎したことがきっかけとなった。慶喜への忠誠心から、同日、渋沢成一郎、天野八郎等の同志十七人が、雑司ケ谷の茗荷屋に会した(徳川慶喜公伝・4)ことから始まったが、この経緯に入るためには当時の政治情勢をもう一度振り返ってみる必要がある。
一月十一日、大坂城から品川沖に到着し、十二日払暁上陸し江戸城に入った慶喜を迎え、江戸城は大混乱に陥った。連日、小栗上野介らの主戦派と、恭順派とが喧々囂々(けんけんごうごう)の議論を闘わせたが、結果として慶喜は恭順路線をとり、和平政策で徳川家の存続と地歩を確保しようとしたのであった。
二月七日、幕府歩兵の一部が脱走し、歩兵奉行だった大鳥圭介に従って北関東に集結した。二月二十六日には、朝敵にされ、新政府軍と戦う松平容保が会津に帰国、桑名藩主の松平定敬は新潟・柏崎の飛び領地に向かった。
これらの動きの前、一月二十三日に海舟は陸軍総裁に任命されていた。海舟は慶喜が江戸城に戻った後、突如として一月十七日に海軍奉行並の命を受けていたが、新たに陸軍を預かることになった。これは今までの海舟履歴からしてあり得ないことであった。いうまでもなく海舟は咸臨丸でサンフランシスコに行ったように、ずっと海軍育ちである。
陸軍は元来、海舟の政敵たちの牙城であった。その中核には陸軍奉行並小栗上野介がいて、歩兵奉行の大鳥圭介がおり、さらにその背後にはフランス公使のレオン・ロッシユと教法師(宣教師)メルメ・デ・カション以下の軍事顧問団がいる。
その上最悪なのは、第一次長州征伐以来、陸軍は連戦連敗であり、まさにその劣等感がとぐろを巻いているような部隊であった。
このような陸軍を海舟が抑えられるか。それがこの人事の要諦であった。何故なら、慶喜が恭順を実行に移すために必要な第一歩は、なによりもまず幕府内の主戦派の抑制でなければならなく、それを行うのが海舟に課せられた最大の役目であった。
しかし、実は、もっと重要な要素、海舟が陸軍総裁にならなければならない必然性が存在した。それは官軍側に送る外交シグナルである。主戦派を抑え、恭順派によって幕府内を握らしたというサイン、それが慶喜にとって必要だったからである。
さらに、この人事の背景には、もうひとつ国防に対する認識があった。それは、この時期、日本にとって守るべきは内乱であり、海外からの脅威ではないということ、つまり、海防ではなく、幕府対官軍の全面衝突という戦いと、幕府内の対立抗争という二つの争い、それは内乱であるからして当然に陸軍を抑えるという戦略となり、そのためには恭順派の代表的人物の海舟が任命されることは、ほとんど不可避の人事であった。また、それは海舟が事実上幕府の全権を背負ったという意味につながる。
陸軍総裁の海舟は、手早く対策を講じていった。就任した三日後の一月二十六日、フランス軍事顧問団のシャノワン参謀大尉が、数人のフランス陸軍士官を引き連れて海舟を訪れた。その目的は明らかである。主戦論を展開したのである。
シャノワンの主張は「今まで我々が伝習訓練してきて、幕府陸軍士官は熟練しており、士官兵隊みな勇気あり、戦えば必ず勝つだろう。意を決し戦うべきである」というものであった。
この頃、幕府とフランスの間は以前と比較し冷却化していた。小栗上野介が画策した銀六百万両の借款は拒否され、軍艦の貸与も立ち消えになっていた。だが、ロッシュ個人としては、フランス勢力伸長の可能性をあきらめていなかった。
そこで海舟は逆手をとって、シャノワンが帰るとただちに自らロッシュの所に出向き、軍事顧問団の解雇を申し渡したのである。
このような行動、その迅速さが海舟の特徴であるが、驚いたのはシャノワンである。協力する旨を海舟に伝えたのに、答えは解雇である。そこでシャノワンは翌日の一月二十七日に、再び海舟と会い解雇撤回の要請を行ったのであるが、海舟は揺るがず「要するに、なにがおころうと自分の身一つに引受ける。お前さんの御親切はかたじけないが、もはやこれまでと思ってくれ、というわけである。これは事実上の対仏断行宣言にひとしく、この瞬間から少なくとも幕仏間の特殊関係は存在しなくなった」(海舟余波 江藤淳著 文芸春秋)と伝えた。
この決断の背景には、海舟の持つひとつの時流判断があった。そのことは陸軍総裁に就任した直後の幕閣の会議で、主戦の場合の戦略について、すでに次のように述べていたことで分かる。
「およそ興廃存亡は、気数に関す。また人力の能くすべき所にあらず、今もし戦に決せば、上下一死を期すのみ」(勝海舟全集第九巻 改造社 海舟余波)
これが海舟の見通しによる天下の形勢だった。客観的な戦力分析をすれば、幕府の方が官軍より優勢かもしれない。しかし、刻一刻と時局が動き、その場その場で具体的戦術展開を行っていかねばならないが、その際の行動を結果的に左右するのは時流をつかんでいることである。つかんでいる方が勝つだろう。それも眼には見えないが、時代の大きな流れだ。そういったものが欠けていたからこそ、幕府が鳥羽伏見で大敗したのではないか、それを「気数に関す」と海舟らしい表現で述べたのであり、政治家としての炯(けい)眼(がん)*である。
この海舟の「決断」について「海舟余波」は以下のように解説している。参考になるので紹介したい。
「『決断』というものが、マクロの状況とミクロの状況を重ねて二つに切るような性質のものであることは明らかである。対仏断行は幕府内主戦派に対する抑圧であるのと同時に、国際的には英国に対する接近を意味する。もはやフランスの力を背景としない幕府方は、英国にとっての軍事的脅威ではなく、薩長の武力を行使してまで粉砕する必要のない相手である。つまりこの場合、英国は必然的に対立者の役割から仲介者の役割に移行し得る。そしてもし英国を仲介者として駆使することができれば、その影響下にある薩長にパイプを通す必要条件だけはととのうのである」
陸軍総裁として任命された海舟が政治家として動いたのは、まさにこれを意図していたのである。次号に続く。
2011年01月18日
大悟後
山岡鉄舟研究 大悟後
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
鉄舟が大悟したのは、明治十三年(1880)三月三十日、四十五歳。この時に小野派一刀流十二代浅利又七郎から、一刀流祖伊藤一刀斎のいわゆる「夢想(無想)剣」の極意を伝えられ、同年四月、鉄舟は新たに無刀流を開いた。
その後、明治十八年(1885)三月に一刀流小野家九代小野業雄忠政から「一刀流の相伝」と、小野家伝来の重宝「瓶(かめ)割(わり)刀」を授けられ、それ以来「一刀正伝無刀流」を称することになった。
つまり、二つの流派に分かれていた一刀流が、鉄舟によって再び統括されたのである。
ここで少し一刀流についてつかんでおきたい。そうしないと「二つの流派」や、浅利又七郎からの「夢想剣」、小野業雄忠政からの「一刀流の相伝・瓶割刀」について理解ができない。
まず、最初は一刀流を創始した伊藤一刀斎について触れたい。
伊藤一刀斎とは戦国時代から江戸初期にかけての剣客である。しかし、一刀斎の経歴は異説が多く、どれが正しいか拠り所がないが、ここでは「剣と禅」(大森曹玄著)を参考にしたい。
一刀斎は、通称を弥五郎と呼び、伊豆の人とも関西の生まれともいわれ、生国も死処も明らかでないが、身の丈は群を抜き、眼光は炯炯(けいけい)として、いつもふさふさした惣(そう)髪(はつ)をなでつけ、ちょっと見ると山伏かなにかのような風態で、実に堂々とした偉丈夫だったという。はじめ鐘捲(かねまき)自斎について中条流の小太刀と、自斎が発明した鐘捲流の中太刀を学び、両方ともその奥儀を極めたうえ、さらに、諸国を遍歴修行して諸流の極意をさぐり、また、有名な剣客と仕合をすること三十三度、そのうち真剣での勝負が七回で、一回も敗れたことがなかったという。
それらの体験から一刀流を創始したが、老年になってから秘訣を神子上(みこがみ)典膳に授け、自身は仏道に帰依して行方を晦(くら)ましたので、一層その人物像が神秘化されている。
一説には、一刀斎が徳川家の師範に神子上典膳を推挙したのを、船頭から取り立てた高弟の善鬼が恨みをいだいて憤激したので、両人を立ち合わせて勝った方に仕官を斡旋することにした。
結局、悪弟子の善鬼は敗れて死に、典膳が小野次郎右衛門と改名して将軍の師範になったのだが、それ以来、一刀斎は剣に望みを断って仏門に入り、諸国の霊場を回遊したのだという。
次に、「二つの流派」に分かれたとはどういうことか。
伝わるところでは、流祖伊藤一刀斎の次が神子上典膳(小野次郎右衛門忠明)、以下、忠常、忠於、忠一、忠方、忠喜、忠孝、忠貞、この後が鉄舟に伝えた小野業雄忠政であるが、忠方の時、次の忠喜に瓶割刀を与え、中西子(たね)定(さだ)に一刀斎自記の伝書を相続させたことにより両派が生じ、中西派も一刀流正統を称し、その系譜に浅利又七郎があり、浅利から鉄舟が夢想剣極意を伝えられたのである。
また、夢想剣については、一刀斎が剣の妙旨を授けてもらうべく、鎌倉の鶴岡八幡宮に祈って満願の日になっても、依然として神示はなく、失望した一刀斎は拝殿を降り帰りかけた。そのとき、物陰に黒い影がチラリと動く気配が感じられた途端、無意識に手が動き、刀が鞘走って、その影を斬りすてていた。
いや影を見た、というよりは感じたのと、斬ったのとがほとんど同時といってよいほどに間髪を容れない心・手一如の速さだった。
後年、この時の体験を回顧して「あれこそ自分が八幡宮に祈って得られなかった夢想の場である」と気づき、夢想剣と名づけたと伝えられている。
さらに、瓶割刀とは、一刀斎の愛刀であったと伝っているものであり、一刀斎が三島神社の従者であった頃、神社に賊が押し入った際、瓶に潜んだ賊を瓶ごと切り伏せたことから「瓶割」との異名が付いたといわれ、神子上典膳(後の小野忠明)を筆頭に、代々、一刀流小野家に受け継がれてきた。
この伊藤一刀斎を主人公にした小説が、好村兼一氏によって二〇〇九年九月「伊藤一刀斎」(廣済堂出版)で出版された。著者の好村氏は一九四九年生まれ、パリ在住の剣道最高位の八段という人物である。二〇〇七年に「侍の翼」で小説家としてデビューした際、縁あってパリでお会いしたことから親しくなり、二作目の「伊藤一刀斎」についていろいろご教示いただいた。
というのも鉄舟が明治十八年に「一刀正伝無刀流」として統括し、その際に「一刀正伝無刀流十二箇条目録」として「二之(にの)目付之事(めつけのこと)、切落之事(きりおとしのこと)、遠近之事(えんきんのこと)」など十二箇条を取り上げているが、剣については素人の身、この目録に書かれた剣技について、剣道八段の好村さんに助けてもらったわけである。
十二箇条の全部を説明するのは大変なので、好村さんが「一刀斎が築いた一刀流剣術は現代剣道の根幹を成しており、極意『切落し』は今なおそこに生き続けている」と高く評価する「切落之事」のみに触れたいが、その説明は好村さんの小説の中で、鐘捲自斎と弥五郎(一刀斎)の手合せ場面を紹介することでしたい。
「二本の竹刀が強くぶつかり合って、弥五郎の竹刀は斜め下に弾かれ、次の刹那(せつな)、自斎の竹刀先が突き込まれる。
『おっー』
かろうじて右に飛(と)*び退(すさ)*りかわすと、二の太刀が頭上目がけてきた。
――今だー
弥五郎は怯(ひる)まず、よける代わりに上から鋭く切落す・・・・。弾かれたのは、今度は自斎の竹刀であった。」
この場面から分かる通り、「切落し」とは、相手が剣を打ち込んでくる瞬間、間髪を容れず、こちらも真っ向から剣を振り下ろすことであるという。実戦の経験がないので苦しい説明だが、概略ご理解いただけたと思う。
ところで、鉄舟は何故に二つに分かれていた一刀流を「一刀正伝無刀流」としたのであろうか。
これについては、鉄舟長女の山岡松子刀(と)自(じ)が、小倉鉄樹の弟子にあたる牛山栄治氏に次のように語ったと「定本 山岡鉄舟」(牛山栄治著)にある。
「父は思うところがあって大悟した後、無刀流の一派を開きましたが、浅利先生の剣もまだ本当ではないところがあると、たえず工夫をこらしていました。晩年(明治十七年)のことですが、一刀流六代の次に中西派とわかれ、小野派の正統をついだという業雄という人が上総にいることを探し出し、自宅におつれして、その剣技を研究していましたが、これが正しいのだとさとる箇所があり、自分の研究と照らして満足したようでした」
加えて、大正十五年(1926)「東京日日新聞」(現 毎日新聞)に「五十年前」として連載された記事がある。これが「戊辰物語」(岩波書店)に収録されていて、山岡松子刀自はこの中で次のように述べている。なお、大正十五年の五十年前とは明治九年(1876)、翌年が西南戦争であった。
「小野派一刀流の祖小野次郎右衛門の末孫で同名の老人が江戸川辺で困り切っていたのを鉄舟が探し出して道場に据え、良く一刀流の組太刀の型を使わせました。この人は剣術となると空ッ下手でしたが型は大変上手で何でも知っているとの事でした」
なお、戊辰物語談話者の略歴が同書に掲載されているが、山岡松子刀自については、次のように書かれている。
「山岡鉄太郎の長女で故山岡直記子爵の姉君である。写真師某に嫁したが、死別し、その後は筑前琵琶などを弾いて暮らしていられたが、鉄舟そっくりのお顔で、娘時代には自ら竹刀をもって道場に出られた事もあるとの話であった。六十六歳」
最後の検討は、何故に鉄舟は大悟後、無刀流を開いたかである。そのことを「剣術の流名を無刀流と称する訳書」(明治十八年五月十八日)に、
「無刀とは心の外に刀なしと云事にして、三界唯一一心也。一心は内外本来無一物なるが故に、敵に対
する時、前に敵なく、後に我なく、妙応無方、朕迹(ちんせき)(兆しと跡形)を留めず。是、余が無刀流と称する訳なり」と述べている。
これについて大森曹玄は「剣と禅」の中で、以下のような見解を展開している。
「一刀流仮名字の伝書には、こうある。『一刀流と云ふは、先一太刀は一と起て十と終り、十と起ちて一と納るところなり。云々』。山岡鉄舟翁はそれを解して『万物太極の一より始まり、一刀より万化して、一刀に治まり、又一刀に起るの理有り』と、いっている。
一刀流の『一』がそのような窮極的な意義をもつものだとすれば、それはさらに深められ、その根源を突きつめてゆくとき、必然的に『無』に到達することは、大極は無極という易の道理から推しても、または禅のゼの字でもかじったものには朝飯前の問題である。一刀流は、かくて当然無刀流に展開すべき必然的因子を、はじめからもっていたといえる」
さらに続けて
「“無刀”という言葉に深い哲学的あるいは禅的な要素を含蓄させて用いたのは鉄舟先生がはじめてであって、その点では非常な見識というべきである」とも述べている。
以上、随分と固い難しいことを検討してきた。このあたりでやわらかいエピソードにしたい。
鉄舟が大悟した時、京都の滴水和尚は門下の江川鉄心の家に滞在していた。鉄心は鉄舟と同時代に修行した滴水門下の錚々たる一人である。
大悟した鉄舟は直ちに馳せ参じ、入室して見解(けんげ)を呈した。すると老師はにこにこして耳を傾けた。虫の居所が悪いと、鉄拳が飛んでくる厳しい激しい老師である。その老師が鉄心に向かって「鉄舟居士にビールでも差し上げてください」と言った。
鉄舟はこの頃から胃をおかしくしており、医者から日本酒はやめて、少量のビールにするように言われていたのである。
酒屋から取り寄せたビールを鉄心が出すと、鉄舟はたちまち一ダースを飲んでしまった。まだ欲しそうだったので、半ダース出すと、これも見る見るうちに飲みほし、意気まさに天地を圧する気概であった。
滴水和尚が「もうよいだろう。少し加減した方が胃によい」と注意すると、鉄舟は「少し過ぎましたかな」と笑いながらグラスを置いたのであった。
この姿を見ていた鉄心は「おれも、どうかあのくらいな悟りをひらきたいものだ」と人に語ったという。
最後に大変困った経験をお伝えしたい。
筆者は、このところ鉄舟の講演依頼が増えているが、先日、講演後に質問を受けた。
それは「人間が大悟するということは、全身の細胞が生まれ変わるのではないか。そうならば、鉄舟が五十三歳で、それも胃がんで亡くなるのはおかしいのでは」というもの。
この質問、一瞬、なるほどと思えるところがある。確かに人間の大悟とは、今までの自分から、あるレベルの境地への段階にシフトするものであろう。
そうであるなら、その境地へのシフトする過程で、細胞が良変化を遂げているはずである。そうでなければ、前号で紹介した林成之氏からのヒント、悟ったということは、自分自身が持つ能力、それが余すことなく、最大限に発揮される状態だろう。逆に考えれば、すべてを成し遂げられる人間力が、大悟によって備わるのであるから、細胞は変化しているはずだ、と推測できる。
しかし、筆者はその質問者に対して次のような回答をした。
「大悟したとしても、人間ですから、寿命があり、それはその人が生まれ持ったものではないでしょうか」と。
いずれにしても、大悟についての検討は大変難しい。このあたりで大悟のことから離れ、次回からは再び幕末から明治維新に戻りたい。まだまだ鉄舟が活躍した場面は多い。
2010年12月15日
大悟する
山岡鉄舟研究 大悟する
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
鉄舟が大悟へのきっかけをつかんだのは、平沼銀行(現横浜銀行)を設立した豪商の平沼専蔵のビジネス体験話からであり、それを一言でまとめれば、「損得にこだわったら、物事は返ってうまくいかないという、心の機微を実践の中から学び、この実践を通して事業を成功させた」というものであった。
これに鉄舟は深く頷き、「専蔵、お主は禅の極意を話している」というと同時に「解けた」と叫んだのである。
しかし、このような平沼専蔵が語った内容を冷静に考えてみると、特別なことではなく、一般的によくいわれることではないか。つまり、「欲にくらませては、返ってうまくいかない」ということであり、これは巷間よくいわれることで、特に改めて感じ入り、感動するほどの内容ではないだろうと、思われる。
だが、鉄舟は、この一般的と思われる専蔵の話に深く感動したのであった。
何故に鉄舟は、この普遍的で、事例として世間によくある内容から、一般人が決して辿りつけない大悟という境地、そこへのきっかけと、なし得たのであろうか。
鉄舟も一人の人間である。この素朴な疑問を検討しておかないと、鉄舟は偉大な人物だから、当たり前の普通のことからヒントを得られたのだ、という解説で終わってしまう。
先日、北京オリンピック開催時に、金メダルの北島選手を含む水泳日本選手団を指導した林成之氏(日大医学部付属板橋病院救命救急センター部長)からお話を聞く機会があった。
林氏は、脳細胞の基本的機能からみると、他人の話を感動して聞けるようになれば、頭がよくなるし、記憶にも残る。物事を肯定的にとらえ、好きになる感情は脳にはとても大切だ。また、脳細胞が働かないのは、インプットに問題がある場合が多いと語られました。
成程と思います。林氏の主張は、人から受ける内容を、自らのものにできるかどうかは、受け止める自分サイドに鍵がある、ということを述べているのです。
どのような素晴らしいことを聞いたとしても、それを受け入れる自分自身のセンサーが鈍っていては、その情報は何ら役立たない。逆にいえば、大したことではない内容でも、求め続けていることに少しでも関係していれば、重要なヒントとしてこちらに入ってきて、結果として自らのものにできる。
平沼専蔵の体験話は、鉄舟にとって林氏の教えに当たるものではないか。すでに見てきたように、鉄舟は浅利又七郎との立ち合いから、以後17年間も浅利が日夜のしかかってきていた。今まで立ち合った剣の相手とは全く異なり、心の中まで浅利に斬り込まれ、気持を切り刻まれる状態にあった。
その状態から抜け出すため、禅僧につき、公案を受け、それを寝ても覚めても考え続けていた。そのようなとき、平沼専蔵が訪ねてきたのである。
平沼は別段、鉄舟が苦しみ求めていることを知り、それを助けようと、敢えて意図的に語ろうとしたのではないであろう。日頃から感じていた自らの体験を普通に語ったにすぎないであろう。しかし、その何気ない体験話が、鉄舟にとっても素晴らしいヒントになった。求め続け、考え続け、何とかしたいと足掻き、もがき苦しんでいたからこそ、普遍的でよくある事例でも、鉄舟には感動話として受け止められ、その感動が強い刺激となって、深く脳細胞にインプットされたのであろう。
つまり、感動して聞けば脳に肯定的に入ってくるという脳細胞の構造に合致し、それが大悟へのヒントになったのである。
では、大悟とは何か。これをある程度明確化しておかないと、抽象的な検討に終わってしまう。
大悟とは完全な悟りといい、迷いを去って真理を悟ること、と広辞苑にある。では、悟りとは何か。同じく広辞苑に、理解すること、知ること、気づくこと、感ずることとあり、仏教でいう迷いが解けて真理を会得することとある。
また、認知科学では、人間の知覚というのは、徐々に潜在意識に深く入って行き、知覚→意味付け→納得→悟りになると考えているらしい。
しかし、この悟り、悟った状態を、言葉で完全に表現することは不可能であるともいわれている。確かに、この連載を目にする読者の全ての人は悟っていないわけであるから、いくら論理的に検討しても、悟りの状態を体験的に理解することはできないであろう。
そこで、再び、林成之氏の講演内容から引用したいのであるが、林氏は冒頭「私は、人間が能力を最大限に発揮するための方法論を述べる」と語った。
これをヒントとしたい。自分自身が持つ能力、それが余すことなく、最大限に発揮されれば、誰でも素晴らしい人生を送れるはず。
能力を最大限に発揮していないから、多くの人は課題・問題をもって、不十分な環境下におかれているのではないか。また、他人に対する影響力も少なく、結果として思い通りの人生になっていないのではないか。
では、鉄舟は大悟した後、どのような状態になっていたのだろうか。それを鉄舟の身近で内弟子として同じ屋根の下で過ごした小倉鉄樹が次のように語っている。
「とにかく。かうして完成せられた後の師匠(鉄舟)は、一段と立派なものになって、實に言語に絶した妙趣が備わったものだ。性来のたいぶつが、磨いて磨き抜かれたのだから、ほかの人の、形式的の印可とはまるでものが違ふ。師匠が稽古場に出て来ると、口を利かずにだゞ座っているだけだが、それでもみんながすばらしく元気になってしまって、宮本武蔵でも荒木又右衛門でも糞喰へといふ勢ひだ。給仕でおれなぞが師匠の傍に居ても、ぼっと頭が空虚になってしまってたゞ颯爽たる英気に溢れるばかりであった。客が来て師匠と話をしてゐると、何時まで経っても帰らない者が多い。甚だしいものになると夜中の二時三時頃までゐた。帰らないのは師匠と話をしてゐると、苦も何もすっかり忘れてしまって、いゝ気持になってしまふものだから、いつか帰るのをも忘れてしまふのである」(「おれの師匠」島津書房)
この小倉鉄樹の語り、大悟後の鉄舟という人物の豊かさ、素晴らしさを示していて、大悟するということは、具体的にこういう状態になれるものだと判断できるし、鉄舟が本来持っている能力が最大限に発揮されて様子が、正直に素直に伝わってくる。
このような姿であったのだから、明治の女の子が手毬歌で遊び
「下駄はビッコで 着物はボロで 心錦の山岡鉄舟」
と歌った意味背景がよく理解できる。大悟によって鉄舟の人物像が、小倉鉄樹の感想通りに、時の民衆の間にまで沁み渡っていっていたのである。
その証明のもうひとつ、それは鉄舟亡きあと、墓前で殉死する人が相次いだのである。明治21年(1888)という明治の中頃、封建時代の江戸時代ならまだしも、近代国家としての体裁と国民意識が変革していた時、殉死という主君の後を追う臣下のように自殺するということの意味背景、それを考えると鉄舟の持つ人間性がひときわ異彩を放っていたことが分かる。恐ろしいまでのすごさである。
さて、前号に続く大悟への瞬間である。
平沼専蔵からヒントを受け、それから五日間、昼は道場で、夜は座禅三昧に集中した。燈火は消し、障子越から入る月明かりが部屋に入ってくるだけ。
肩の力を抜き、静かに長く息を吐く。折り返し吸う。臍下丹田に入っていく。いつしか今までと全く異なる心境になりつつあった三月二十九日の夜、ふっと三昧からわれに帰ると、ホンの一瞬かと思ったのに、すでに夜は明けなんとする頃になっている。気持はいつになく爽やかで、清々しく、すっきりしている。
鉄舟は座ったままで、剣を構えてみた。すると、昨日まで際(きわ)*やかに山のような重さで、のしかかってきた浅利又七郎の幻影が現れてこない。
「うむ、これはつかみ得たか」と頷きつつ、道場に向かい、木刀を握った。
すると、立つは己の一身、一剣のみ、浅利の姿は全く消えている。四肢は自由に伸び、気は四方に拡がって、開豁(かいかつ)無限である。
ついに浅利の幻影を追い払い、「無敵の極意」を得ることができたのだ。
この瞬間を鉄舟は次のように表現している。
「専念呼吸を凝らし、釈然として天地物なきの心境に坐せるの感あるを覚ゆ。時既に夜を徹して三十日払暁(ふつぎょう)とはなれり。此時坐上にありて、浅利に対し剣を振りて試合をなすの形をなせり。然るに従前と異なり、剣前更に浅利の玄身を見ず。是(ここ)に於いてか、窃(ひそか)かに喜ぶ、我れ無敵の極処を得たりと」
鉄舟が自らの剣において、極意をつかみ得た瞬間を書き述べた「剣法と禅理」の感動場面である。
鉄舟は湧きあがる気持ちを抑えつつ、門弟の籠手(こて)田(だ)安定(やすさだ)を呼び起こした。
籠手田は肥前平戸藩出身、心形刀流の免許皆伝で滋賀県・島根県・新潟県知事を歴任し、鉄舟晩年の「山岡鉄舟武士道」を口述記録した人物であり、ちょうど母屋に泊まっていたのである。
「籠手田、立ち合ってくれ」
道場の中程で、鉄舟と木刀を持って構えた籠手田、いきなり膝をつき剣をおき、
「だめです。ご勘弁願います」と叫んだ。
「どうした!!」
「長い間、先生のご指導を受けてまいりましたが、今日のような刀勢の不可思議を見たことがありません。到底、先生の前に立つことができません。このようなことが人力で為し得るものでしょうか」
と驚嘆するばかりである。
それならば、と鉄舟はすぐに浅利又七郎を招いて、試合を願った。
浅利は喜んで承諾し、鉄舟のもとに参り、木刀を持ち、互いに一礼して相対した。
道場はシーンと静まり返っている。浅利の切っ先が揺れ、右に回り、左に回って機を窺うが、鉄舟は正眼に構え、逆に浅利の切っ先を抑え、じりじりと一歩、二歩、追い込み始める。以前は、常に鉄舟が、じりじりと押され、羽目板まで追い込まれ、押し返すことができない状態だった。
それが鉄舟の気迫がすさまじく、浅利が押されて羽目板まで追いつめられた。
「参った」
と、さすがの浅利が木刀をおき、容(かたち)を正して、
「貴殿は、すでに剣の極致に達せられた。到底前日の比でなく、私も遠く及びません。一刀流の秘伝をお伝えしたい」
このように述べて、流祖伊藤一刀斎のいわゆる無想剣の極意を伝えたのである。明治十三年三月三十日、鉄舟四十五歳のことであった。
鉄舟はこの時の心境を次のようにを詠んだ。
学剣労心数十年 剣を学び、心を労すること、数十年
臨機応変守愈堅 機に臨み、変に応じて、守り愈々(いよいよ)堅し
一朝塁壁皆摧破 一朝塁壁(るいへき)みな摧破(さいは)す
露影堪如還覚全 露影堪如(ろえいたんじょ)として、還(かえ)って全きを覚ゆ
(剣を学び、心を労して数十年。相手次第で臨機応変、自由に変化して、負けることがなくなった。堅い塁壁も一朝ことごとく摧破され、痕跡もなくなった。そういう絶対の境地に達してみると、瑞々しい白露が己にこだわることなく、相手を意のままに映し出しているように、私の気分も滞ることなく、自由闊達、どこにも欠けたるものがなくなってしまった)(「春風を斬る」神渡良平)
この年の四月、鉄舟は「聊(いさ)さか感じる所」(剣法と禅理)あって、新たに無刀流という一派を開いた。これについては次回にしたい。
2010年11月10日
大悟へのきっかけ
山岡鉄舟研究 大悟へのきっかけ
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
鉄舟は禅修行において何人かの師匠についている。
安政二年(1855)二十歳の時から慶応二年(1866)頃までの十年間は、芝村・長徳寺の願翁和尚に師事した。
しかし、同和尚が鎌倉・建長寺、続いて慶応三年に京都・南禅寺の住職として転じたため、西郷との駿府会談時には特定の禅師を持たなかったが、明治二年(1869)頃に京都・天竜寺の滴水和尚による、東京での座禅会に出席したことから、同和尚に一時師事した。
宮内庁に出仕するようになった明治五年(1872)からの三年間は、三島の龍択寺星定和尚に師事し、その後、明治十一年(1878)頃から大悟する明治十三年(1880)までは、再び滴水和尚に師事したが、この他に相国寺の独園和尚、円覚寺の洪(こう)川(せん)*和尚にも教えを受けてきた。
この禅修行の経緯を振り返ってみてひとつの疑問が浮かぶ。それは師事する禅師を結構代えていることである。記録に残っているだけで五人、その他にもっといたであろう。
一般的に考えれば禅という自らの内部修行であるのだから、それまでのこちらの経緯を把握している同一人物に師事する方が、互いの心境について継続して分析でき、理解し合え、さらに心の奥深く確認できると思われるので、あまり師匠を代えない方がよいのでないかと、かねてより不思議に思っていた。
この疑念について、「春風を斬る」(神渡良平著 PHP出版)で次のように鉄舟に語らせている場面に出合った。
「人間は生まれ育つ過程では大変両親のお世話になる。しかし、ものごころ付いて、人生の意味を問い始め、私はこの人生で何をしたらいいのかと思い悩むようになったとき、もはや両親では満足できなくなる。“肉体の親”を超えて、“魂の親”を渇仰(かつぎょう)し始めたといえる。その時、人間は自分の疑問に答えてくれる人を訪ねて、何千里でも旅をする。
また、魂の師は一人ではない。参禅しているうちに、ああ、わしはこの老師から学ぶことは終わったなということを感じ、自然に卒業の時がやってくる。そして次に老師として仰ぐべき人は誰かと捜し求めていると、ピーンと閃くものがある。わしにとって、二番目の星定老師との出会いがそれだった。そして卒業のときがやって来て、次の師匠が現れる。それが滴水老師だった。
あの人ほど、厳しい人はなかった。鉄拳で殴られたことも何度もあった。老師が人間の甘さに対して厳しかったお陰で、わしは大悟することができたのだ」
この解説、これは鉄舟の剣修行と同じだと思う。鉄舟は剣修行において、自らを超える師を求め続け、出会えば弟子入りしている。それは井上清虎であり、山岡静山であり、浅利又七郎である。鉄舟の修行というものは、剣でも禅でも同じスタイルを貫いていたのだ。
だが、その修業において、浅利又七郎には苦しんだ。剣で立ち合い完敗し、以後、どうしても勝てない。義兄の泥舟から剣の技ではなく、心の問題だと指摘され、その通りと気づいたのであるが、日々の夜、自宅で座禅、眼を閉じると、たちまちすぐさま又七郎がのしかかって来て、圧迫され、心が乱れてどうしょうもない。
今までの剣の相手とは異なり、心の中まで又七郎が斬り込み、気持を切り刻む。神渡良平氏が指摘する“魂の親”を渇仰するといえる段階になっていたのであろう。
そのような毎日から、鉄舟は禅修行に向かい、老師を求め続けて、最終的に滴水和尚に師事し、浅利又七郎の幻影から抜け出すことができ、ようやく大悟できたのであるが、その過程は自分の内部との凄まじい葛藤とであった。
だが、その激しい戦いから抜け出し、大悟へきっかけをつかんだのは、滴水和尚から受けた公案による修行からではあったが、直接的にはたまたま訪れてきた一人のビジネスマンが述べた会話からであった。
滴水和尚に最初師事したのは明治二年頃、その際、眼鏡を例えに次の教えを受けていた。
「現在の貴公は、このことを問題とするところまで進んできているので、もし眼鏡という障害物を取り去ることができるならば、たちまち望み通りの極致に到達できるに違いない。まして貴公は、剣と禅との二つの道、ともに心境著しい人物である。眼鏡を無用と捨て去れば、いったん豁然(かつぜん)として大悟することができ、活殺自在神通(じんつう)無碍(むげ)という境地にいたるであろう。要するにただ無という一字につきる」と。
しかし、「無」の字に徹するという諭しの意味について、以後十年間、一日たりとて忘れず、日夜精考したが、どうしても体得できず、奥歯に物が詰まったような感じで、臍(ほぞ)おちせず、自得できない。要するに釈然としないのである。
そこで明治十一年頃、再び滴水和尚のところへ伺い、「無」という公案が解けず、未だ浅利又七郎の幻影から抜け出せず、悩みぬいていることを正直に伝えた。
滴水和尚は鉄舟から悩みの内容を聞くと
「それは幽霊というものだ」
といい、五位兼中(けんちゅう)至(とう)の頌(じゅ)(偈(げ)・仏教教理)、つまり、
「両刃、鋒(きっさき)を交えて避くるを須(もち)いず、好手、還って火裏の蓮に同じ、宛然として自ら衝天の気あり」
を工夫してみるようにといわれた。
このような禅問答、専門家でないと意味が分からないが、鉄舟研究で著名な大森曹玄(山岡鉄舟 春秋社)は次のように解説している。
「兼中至というのは、正即ち平等の本体と、偏即ち差別の現実とが、一如に兼ね合わさっているところで、専門語で”明暗双々底“などという境地である。
(注 明暗双々とは、昼と夜、表と裏、差別と平等、現実と理想、創造と破壊、自と他、個と普遍、ことわりとはたらき、清と濁、色と空等々の二項が対立することなく一水に融合した宛然たる禅の一境地)
それはあたかも名人と名人とが太刀を交えているように、どちらが勝れ、どちらが劣るというものではない。正がそのまま偏、偏がそのまま正だというべきで、そこを体得したものは、火の中にあってもしぼまない蓮華のように天を衝くような格外の働きがある、といった意味のことである。
両刃交鋒云々という言葉の意味は、簡単にいえば相手と刃を交えたら、その刃を避ける必要はない。いやしくも“好手”即ち名人といわれるものならば、火に入ってもしぼまないような衝天の気迫が、自らになければならないといったようなことである」
大森曹玄の解説でも難しい。もっと砕くとこうなると思われる。
「剣の名人同士が太刀を交えると、どちらが勝れ、どちらが劣るということはないから、迂闊に動けない。そうした名人とは、火中にあってもしおれることがない蓮の花と同じで、天を衝くような勢いがある」
という意味となるが、これについても頭では何となく理解できるものの、体得までに至らない。体で覚えなければ五位兼中至の頌は身につかない。
鉄舟は再び、寝ても覚めても考え始めた。
食事中にふと動きが止まり、箸を両手に持って、両刃が鋒を交えるように形を工夫したり、煙草を吸いながらキセルとキセルを構えさせ工夫したり、あるときは夜中にガバっと突然起き、夫人の英子に木刀を持たせて立ち向かわせたりしたので、英子は鉄舟が気が狂ったのではないかと、滴水和尚に訴えたこともあったほどであった。
このような毎日が三年過ぎた頃、たまたま、豪商の某が訪ねてきたことが大悟へのきっかけになったと、
「剣法と禅理」(明治13年)で書き示している。
この豪商某とは、横浜の貿易商・銀行家の平沼専蔵といわれている。平沼専蔵は天保7年(1836)、埼玉県・飯能に生まれであるから鉄舟と同じ年。
子供の頃丁稚として江戸に出て来たが、どうしても剣を修行したく、千葉道場の武者窓から稽古を眺めていて、それが縁で入門し、そこで鉄舟と知り合い、気が合って親しくなった頃、鉄舟は専蔵が剣より商売が向いていると気づき、
「これからはもう武士の世の中でない。商売の時代が来るだろうし、もう来ていることをお前は仕事を通じて分かっているだろう。今の商売でお前の能力を発揮させた方がよい」
といい、横浜の石炭店を紹介した。
専蔵はメキメキ頭角を現し、番頭になって、その後独立し、糸商に転じ、明治20年(1887)、平沼銀行(現横浜銀行)を設立した人物である。
この平沼専蔵、ちょくちょく鉄舟のところに出入りしていた。貧乏な鉄舟は専蔵からお金も借りるという仲であったが、ビジネスで成功した専蔵に、そのコツをある日聞いてみた。専蔵は語った・
「私がまだ青二才だった頃、商売がうまくいって四、五百円ばかりのお金ができました。それを元手にもっと儲けようと商品を仕入れましたが、今度は相場が下がり気味になってしまい、何とか早く売り抜けようと気ばかり焦りました。
すると取引先は私の焦りにつけ込み、買いたたきます。その時、心臓がドキドキして落ち着かず、非常に迷いました。
しかし、どうでもなれと思って放り投げておくと、再び、相場が上がり始め、先の取引先が原価の一割増しで買いたいといってきました。
ところが、私は逆に強気になっていましたから、突っぱねると、さらにもう五分高く買うといいます。その辺りで妥協すればよかったのに、欲を出し、もう少し、もう少しと売り惜しんでいると、相場が下落してしまい、結局二割以上の損失を被りました」
鉄舟は、始めは何となく聞いていたが、途中から身を乗り出し始めた。これは滴水和尚から受けた公案につながっていると閃いたからである。
「損しましたが、そのおかげで商売のコツをつかみました。つまり、大事業をしようと思ったら、損得にビクビクしていてはダメなのです。儲けようと思ったら胸がドキドキするし、損してはならないと思ったら萎縮してしまい、とても大事業はできません。
そこで、それからというもの、私はまず、心の明らかな時、気持が整理できている時、そのようなタイミングに前後のことをよく考えておき、いったん仕事に入ったら最後、決してその是非に執着せず、やるべきことをやることにしたのです。損得にこだわったら、返ってうまくいかないという心の機微を実践の中から学びました。これを実践していると、どの事業も成功し、おかげさまで人から本当の商人といわれるようになりました」
鉄舟は頷き
「専蔵、お主は禅の極意を話している」と叫ぶと同時に「解けた」とも叫んだ。この時の心境を「剣法と禅理」で次のように述べている。
「この豪商との談話は前の滴水の両刃鋒を交えて避くるを須いず云々の語句と相対照し、余の剣道と交へ考ふる時は其妙味言ふ可からざるものあり。時に明治十三年三月二十五日なり」
文久三年、浅利又七郎に出会ってから十七年、日夜苦しみぬいてきたが、ようやく平沼専蔵の語りから、何か悟りへの契機が見えてきた。
それは「勝敗にこだわったら、その瞬間すでに負けている。柳の枝は風に任せて揺れ動いているから、折れることはない。相手が押せば引き、引けば出る・・・流れのままに動く。負けてもいい、勝ちを譲ろうとすると、いつまでも負けない。そのうち相手が焦り乱れてきて、つい隙ができる。そこを打ち込めば、勝負が決まる」ということでないか・・・。
そうか。そのように悟った瞬間、鉄舟は道場の中央に立ち、木刀を握って剣先に悟りをのせてみた。
剣先の先から何が見通せるか。剣先の向こうに道場の片隅の明かり見える。しばらくするとその明りが、剣先に乗り移ってきた。道場は大きな一つの世界となって、自分がその空間のすべてに融け込み、すべての存在が剣先に帰一して、次第に、剣前に敵なく、剣後に我なしが体中に広がってきた。
何かが自分の内部から湧き上がってくる。もう少しだ。宇宙に近づいている。
それから五日間、昼は道場で、夜は座禅三昧に集中した。燈火は消し、障子越から入る月明かりが部屋に入ってくるだけ。
肩の力を抜き、静かに長く息を吐く。折り返し吸う。臍下丹田に入っていく。いつしか今までと全く異なる心境になりつつあった。大悟への瞬間である。次号へ続く。
2010年10月12日
大悟への道
大悟への道
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
鉄舟の偉大な業績は、駿府における西郷隆盛との会談を成功させ、江戸無血開城を事実上成し遂げたことであるが、このことは幕末時における鉄舟の人間力が、官軍の実質的リーダーとして最強の権限者であった西郷をも、説得できるほどになっていたという意味を持つ。
鉄舟が謹慎蟄居を解かれたのが文久三年(1863)の年末、それから慶応四年(1868)三月の駿府行きまでの約四年間、鉄舟の政治的行動は明確になっていないというより、歴史の表舞台に現れていない。
だが、この期間は鉄舟にとって自らを鍛える素晴らしい時間であったはずだ。
剣の修行は九歳から始め、禅修行は長徳寺の願翁和尚に二十歳で参じ、「本来無一物」という公案を授けられ、以後、約十年にわたって参禅修業を続けた。しかし、この間、清河八郎との攘夷運動への関わりもあり、十分なる修業はできなかった。
だが、謹慎蟄居が解かれた後に、浅利又七郎との出会いから「昼は諸人と試合をなし、夜は独り坐して其呼吸を精考す」(剣法と禅理)という毎日であったから、鉄舟の人間力は格段に向上したと思われる。
その証明ともなる資料を紹介したい。
それは仙台藩士であった小野清が、大正十五年に出版した「徳川制度史料」である。この中で、将軍慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れ、敗軍の将として江戸に戻った際、鉄舟が警固として重要な職務を担っていたと書き示している。(出典 徳川300年ホントの内幕話 徳川宗英著 だいわ文庫)
「正月十二日巳の刻頃(午前十時)、八代洲河岸林大学頭の楊溝塾を出て、芝口仙台藩邸(注 上屋敷・汐留辺り)に行く。幸橋門(注 新橋第一ホテル辺り)に至れば、武家六騎門内に入り来る。
近寄りて見れば、その先駆者は知り合いの山岡鉄太郎なり。これに継ぐところの五騎は、いずれも裏金(うらきん)陣笠(じんがさ)、錦の筒袖、小袴の服装なり。とりわけ、その第二騎の金(きん)梨子地(なしじ)鞘(ざや)、金紋拵(こしらえ)の太刀を佩きたる風貌、すこぶる注目せらる。六騎徐々馬を駆りて西丸を指して行く。予、路傍に立ち、目送これを久しうす。
後に知る。これ、徳川慶喜公。六日夜大坂天保山沖にて開陽艦に乗じて東帰し、遠州灘にて台風にあい、黒潮付近まで航して今暁浜館(注 浜離宮)に上陸し、今、鉄太郎に迎えられ江戸城に還入するものなることを。
しかしてその六騎なる者、曰く、先駆・出迎者山岡鉄太郎、これに継ぐところの五騎の第一、前京都守護職会津藩主松平肥後守容保。第二、前大将軍徳川内大臣慶喜公。第三、前所司代桑名藩主松平越中守定敬(さだあき)。第四、老中松山藩主板倉伊賀守勝(かつ)静(きよ)。第五、老中唐津藩主小笠原壱岐守長行(ながみち)なり。勝安房守義邦は、鉄太郎浜館に先発せしのち、西丸大手門外下乗橋に出て、ここに公一行を迎うという」
続けて同書に「武家治世の終焉に遭遇し、東帰して江戸城に入る前将軍と幕僚をこの目で見たことは、じつに千載一遇のことで、一人無限の感に打たれた」とある。
「徳川300年ホントの内幕話」の著者徳川宗(むね)英(ふさ)氏は、徳川御三卿(田安・一橋・清水家)の田安徳川家十一代当主にあたる。慶喜の後を継いだ徳川宗家十六代は田安家の家(いえ)達(さと)であり、その現一門当主である宗英氏は徳川家の内情に詳しい。
その徳川宗英氏が、鉄舟が慶喜護衛の第一駆者として記された、小野清なる仙台藩士の「徳川制度史料」を引用していることを事実と認識し、この前提に考えれば、幕末時において鉄舟は幕府内で相当知られた人物になっていたと判断できる上に、従来から言われている、上野・寛永寺に謹慎蟄居した慶喜公から、鉄舟が駿府行きを命じられた際、初めて慶喜公と接点が生じたという通説、これを覆すことになる非常に興味深いものである。
寛永寺の前すでに、浜離宮で慶喜公と対面していたことになる。
さて、禅修行に戻るが、願翁和尚は長徳寺から鎌倉建長寺、続いて慶応三年に京都南禅寺の住職として転じていたので、西郷との駿府会談時には特定の禅師を持たなかったが、明治に入って、三島の龍択寺星定和尚に参じる前、鉄舟は京都天竜寺の滴水和尚による、東京での座禅会に出席したことがあった。
ここで滴水和尚と称する逸話を紹介したい。
まだ宜(ぎ)牧(ぼく)という名であった岡山の曹源寺で修行していた雲水の頃、儀山(ぎざん)老師が風呂に入ったが熱すぎるので、宜牧にうめてくれるよう頼んだ。宜牧は手桶で水を入れ、手桶に余った水を何気なく地面に撒いた。その途端、儀山老師の叱責が飛んだ。
「その水を手桶に入れろ」
これに宜牧は参った。地面に滲みこんでしまった水は地上にない。以後、宜牧はこれを公案として受けとめ日夜考え続けた。ある日儀山老師が諭された。
「水一滴といえども、宇宙の命を宿している。水を使う用がすんだとしたら、何故に草木の根もとに撒かなかったのか。草木を思いやる心が欠けていたから叱ったのだ。頭で考えるな。頭でっかちになるのではない」
公案を頭で、知識から解こうとしていた宜牧に対する指導であった。この諭しを宜牧は真剣に受けとめ、以来、滴水と名を改め、一滴の水にも命を感じられるようになろうと修行した結果、天竜寺を任されるほどの名僧になった。
そのような逸話を聞いていたので、鉄舟は滴水和尚に一度会いたいと思い、座禅会に参加したのであった。滴水和尚は文政五年(1822)生まれであり、鉄舟より十四歳上である。
座禅会が終わって、鉄舟が長年引っかかっていることを訊ねた。それを「剣法と禅理」で次のように書いている。
「余、嘗て滴水に参じ禅理を聞く。先ず吾れ、剣法と禅理とを合せ、その揆一(きいち)(同じ)なる所を細論す」、つまり、剣法と禅理は一つのものでないかという考えを詳しく述べ、滴水和尚の見解を質した。
これに対し滴水和尚は次のように諭したと「剣法と禅理」にあるが、表現が堅苦しいので、読み砕いたもので紹介したい。
「貴公の言うことは正しい。しかし、自分の考えから遠慮なく批評すれば、現在の貴公は眼鏡を通して物を見ているようなものだ。たしかにレンズは透き通っているから、さほど視力を弱めることはない。しかし、もともと肉眼に何の欠点もない人は、どんなよいレンズであろうとも、普通物を見る時に使う必要がないばかりか、使うことが変則で、使わないのが自然だ。
現在の貴公は、このことを問題とするところまで進んできているので、もし眼鏡という障害物を取り去ることができるならば、たちまち望み通りの極致に到達できるに違いない。
まして貴公は、剣と禅との二つの道、ともに心境著しい人物である。眼鏡を無用と捨て去れば、いったん豁然(かつぜん)として大悟することができ、活殺自在神通(じんつう)無碍(むげ)という境地にいたるであろう。要するにただ無という一字につきる」
こうして滴水和尚は鉄舟を励まし、無の字に徹するよう求めた。
再び、鉄舟の求道が始まり、寝ても覚めても、滴水和尚の公案を解こうとした。
この滴水和尚、その指導が厳しいことで有名であった。鉄舟も見解を呈する時、答えようが悪いと拳骨で殴ることもしばしばであり、「おれの師匠」によると鉄舟も
「おれは滴水和尚の嗔(しん)拳(けん)で、厳師の有り難いことが、身に沁みた」
と語り、滴水和尚も
「鉄舟のような者は復(また)といない。わしが鉄舟に接した時は、一回一回命がけであった。わしは鉄舟のために反って磨かれた」
と称賛していたほどであった。
滴水和尚の厳しさを伝えるものとして、面白い事例が「おれの師匠」に書かれているので紹介したい。
鉄舟と同じく禅に熱心なのが、鳥尾小弥太である。
鳥尾小弥太(1847~1905)は長州出身、戊辰戦争では鳥尾隊を編成して各地を転戦し、数々の戦功をあげた。明治三年兵部省に出仕、陸軍少将兵学頭、軍務局長、大阪鎮台司令長官を経て中将、その後政治家となり枢密顧問官を務め、子爵に叙せられた人物である。
鳥尾は禅の修行をして、人に褒めそやされたので、いささか増上慢(ぞうじょうまん)になっていた。坐禅とは内省の学問であるから、人に褒められても自惚れてはいけないが、鳥尾はいい気になってしまい、一世の大居士のつもりで、師家を試そうとした。
ある日、鳥尾は滴水和尚を目白台の自邸に招待し、得意然として
「私に公案があるのですが、あなたひとつやってみませんか」
と和尚に問いかけた。滴水は鳥尾が自惚れているのを知っているから、こいつの鼻を折ってやれと思いつつ、鳥尾にあわせて、
「それはおもしろかろう。出してみなさい」
と言った。そこで鳥尾が口を開こうとすると、滴水は立ち上がって蹴飛ばした。
「何をする」
と怒って身を起こそうとすると、また蹴飛ばした。こうして蹴飛ばしを数回続けたので、鳥尾はとうとう縁側から転げ落ちてしまった。その状況を見ていた植木職人がびっくりし、
「や! 坊主が御前様を殺すぞ」
と、手に手に植木道具を持って駆けつけ、まず、鳥尾を助け起こし、次に滴水に打ってかかろうとした。
鳥尾はさすがに職人どもを抑え、座敷に上がり、滴水を座らせ、自分も威儀を正した。そこで滴水は懇々と諭した。
「お前なぞ、まだ禅の何たることもよく分かっていないのに、いっぱしの大家気取りになって、手製の公案なぞを振り回すなんて、とんだ心得違いだ。以後、慎め」
鳥尾は表面上これに服したが、腹の中では今の仕打ちが無念でたまらない。諭しを納得していない。
滴水と食事してから、一緒に庭に出て自慢の庭園を案内した。滴水は数寄を凝らした庭園に興味を持ち、いろいろ鳥尾と庭の話を交わしていると、コトンコトンと音がするので、滴水が鳥尾に
「ありゃ、何の音ですか」
と聞いた。この問いに鳥尾は喜んだ。自慢の庭園をさらに自画自賛すべく、
「あれは水車です。絶えず回っていますから、風流でよいのですが、あの音が座禅の邪魔をしていけません」
と我褒めするようにこぼした。滴水は鳥尾に対してすかさず言った。
「衆生 顚倒(てんとう)、己に迷って、物を逐う(おう)」
外物を追ったら、人間が卑しくなるという指摘である。さすがに鳥尾は禅を修行している。意味をすぐに理解した。黙って頭を下げるしかなかった。
重ね重ねの失敗に、鳥尾は以後、滴水に真剣に師事するようになった。
鉄舟でさえ引きずりまわし、ギュッと締め付ける滴水和尚だから、鳥尾程度では鯱(しゃちほこ)立ちしたって、足もとへも寄れたものでない、と「おれの師匠」にある。
もうひとつ禅師家について紹介したいものがある。
司馬遼太郎の「播磨灘物語」は黒田官兵衛を語ったものだが、その中で秀吉が備中高松城水攻めの最中、織田信長が本能寺の変によって倒れ、それを秘め伏せ毛利家と和睦を結ぶのであるが、毛利家を代表する交渉者は安国寺恵瓊(えけい)であった。
恵瓊は当代の高僧である。まだ四十の半ばの身ながら、京都の臨済宗本山東福寺の退耕庵の庵主であった。退耕庵の庵主といえばやがて東福寺の総帥となる地位であり、日本中の禅僧のなかでの序列は数人のうちの一人といっていい。その恵瓊について次のように司馬遼太郎が「播磨灘物語」で書き示している。
「安国寺恵瓊は、官兵衛と小六が出てくるのを待ちつつ、杯をかさねた。時も時だし、場所である。酒を出されても飲まないのが普通だが、恵瓊にはちょっと物事のけじめの厳格でないところがあり、なに酔わなければいいだろうとたかをくくってしまう。なまじいの禅をやった男のわるい癖である。
禅であるかぎり、悟りを開かねば田舎の一ヶ寺のあるじさえなれない。恵瓊もまた恵心のもとできびしく修行してやがて印可を得た。悟道に達したということになるが、一般に悟りというのはあるいは得ることができても、それを維持することが困難なように思える。生涯、それを維持するために精神を充実させつづける必要があるが、ふつうは、俗世間のおもしろおかしさのために、ただの人間以下にもどってしまうことが多い」
司馬遼太郎の指摘する通りではないかと思う。
では、鉄舟はどうであったのだろうか。まだまだ大悟までは厳しい修行が続くが、その姿を次回も続けたい。
(田中達也氏収集資料)
東京日日新聞が、戊辰戦争から60年経った昭和3年に『戊申物語』と題した連載を掲載しました。これは明治維新の動乱を経験した高村光雲たちからの聞き書きをもとに、当時の庶民感情などを紹介したものです。
東京日日新聞編『戊申物語』から引用します。
「…海上遠州灘でひどい暴風に遭って苦しみつつ、十一日開陽丸は浦賀へ入った。翌日将軍は金子二百両を出して小舟を雇い、これで浜御殿へ入り、ここで一先ず休憩。その日は青空ではあったがひどく寒い。将軍家は直ちに馬上江戸城へ向かった。勝安房守が御殿まで、次いで山岡鉄太郎が馬を飛ばして出迎えた。丁度巳の刻頃、つまり今の午前十時、立派な武士が六騎肥馬をつらねて芝口近く幸橋門へかかった。劈頭(へきとう)、駒の轡をしめて眼光炯々四辺をにらめ廻しつつ来るのが山岡鉄太郎。ついで第二騎、少しおくれて第三騎、錦の筒袖に、たっつけの袴、裏金の陣笠をかむり金梨地鞘に金紋拵えの太刀をはき、風貌おだやかな武家、また少しおくれて第四騎、第五騎、六騎とも実に立派なる武士ばかりであった。
…いずれも京都を落ち、淋しく江戸入りの人々であった。勝安房守はこの時はじめて伏見鳥羽の戦報を聞いた。なお詳細の説明を願ったが、すべて顔色土の如く、ただわずかに板倉伊賀守のみが、ぽつりぽつりとそれを語り得るにすぎなかった(目撃者、旧仙台藩士小野清翁)」
出所は同じ仙台藩士・小野清ですが、新聞連載の記事だけに当時は割と有名な出来事であったのではないかと思われます。
『徳川制度史料』の中で、小野清は、鉄舟と知り合いであったと書かれています。
これについても、『戊申物語』に記述があります。
その部分を引用します。
「…あさり河岸の桃井(もものい)道場士学館の先生は、春蔵直一の長男で、家芸の鏡新明知流(きょうしんめいちりゅう)よりは小野派の一刀流をよく使った(小野翁談)。左右八郎直雄(そうはちろうただお)、三十そこそこで丈六尺二寸の壮漢、講武所にも師範して元気のはち切れそうな剣客だった。この門人の上田右馬之允(うえだうまのすけ)というものがこの松田(注:料理屋)へ、よその子供をつれてある時御飯をたべに行った。何しろ一ぱいのお客、子供がうっかりして四人づれの武士の刀をちょっと蹴りつけた。飯を食って戻ろうとした四人づれが右馬之允の羽織の襟をつかんで「真剣勝負をしろ」といってきかない。先ほどからわび抜いていたところなので、右馬之允は相手にもせず、子供の手を引いて笑いながら大きなはしご段を下りて一足かけると「ヤッ!」といって四人一斉に鋭く斬り下ろした。ところが、右馬之允はよほど出来ていたと見えて、「ウム!」といって足を段にかけたまま斜めに振り返ると真先の一人を居合で払った。その武士は深胴をやられて梯子段をころがり落ちて死に、上田は血しぶきで真紅になった。
残る三人は、子供をかばいながらまたたく間に斬り伏せてしまったが、息一つはずませてはいなかったということで、この人の帰る時は、松田の前は山のような人だかりであった。この斬り合いの様子をきいて、山岡鉄太郎なども門人を集めて、からだを斜めにして不利な立場にあり、斬り下ろされる瞬間にこれを払う型を教えたりして感心した(鉄舟長女、山岡松子刀自談)。同じく左右八郎の門弟だった小野清翁はこの「上田」を「細川」と記憶しているといっている」
つまり、小野清は鉄舟と同じく、小野派一刀流の門人だったということです。同じ道場に通っていた剣の仲間だったということでしょう。
これらのことから、慶喜は鉄舟とすでに面識があり、西郷との談判に鉄舟が推薦されたとき、慶喜の頭の中に鉄舟が具体的に思い描かれたため、素直に受け容れたのではないでしょうか
2010年09月08日
修禅への道
修禅への道
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
文久三年(1863)、鉄舟二十八歳、謹慎解け、浅利又七郎義明と立ち合いし完敗。直ちに弟子入り、以後、毎日のように浅利又七郎の許に出向き、稽古の日が続いた。
浅利又七郎を実際に見た人の話によると、晩年であったが、すらりとした痩躯で、巨躯とか、エネルギッシュというような感じは少しもなかったという。
浅利道場での稽古、浅利又七郎が木刀を下段に構え、ジリジリと攻めてくる。鉄舟は正眼に構え、又七郎の剣尖を抑え押し返そうとするが、少しも応ぜず、盤石の構えで、まるで面前に人無きがごとく、ヒタヒタと押してくる。
既に、浅利道場で鉄舟に敵う者は又七郎以外にはいない。それはすぐに明らかになった。だが、そのたった一人の敵手、又七郎に、鉄舟の豪気をもってしても、どうしても勝てない。又七郎の下段の構えを崩せず、一歩退き、二歩下がり、ついに羽目板まで追い込まれてしまう。
そこで、再び、立ち合いを所望、元の位置まで戻って木刀を構えるが、またもや同じことで、たちまち追い詰められてしまう。完全に気合負けである。
このようなことを四五回繰り返したあげく、ついに溜まりの畳の上に追い出され、仕切り戸の外まで追いやられ、ピシャリと杉戸を閉めて、又七郎は奥へ入ってしまうこともある。手も足も出ないとはこのことである。
昼の浅利道場での稽古を終え、日課としている夜の自宅で座禅、眼を閉じると、たちまちすぐさま又七郎がのしかかってくる。圧迫され、心が乱れどうしょうもない。そのことを明治十三年に記した「剣法と禅理」で次のように語っている。
「是より後、昼は諸人と試合をなし、夜は独り坐して其呼吸を精考す。眼を閉じて専念呼吸を凝(こら)し、想ひ浅利に対するの念に至れば、彼れ忽ち(たちま)余が剣の前に現はれ、恰も(あたか)山に対するが如し。真に当るべからざるものとす」
人は悩んだ時、相談する相手は、やはり信頼する人物になる。今まで鉄舟が最も敬愛した師は山岡静山、その弟で義兄となる高橋泥舟は隣家に住んでいて、静山亡き後の最も近しく親しい仲であり、何事も話せる。ある日、苦しい胸中を、正直に伝えてみた。
「義兄上、どうした訳でしょう」
「うーむ。鉄さんがそれほどになるのだから、浅利又七郎は大物だ」
「自分の何かが、欠けているのだと思っているのですが」
「剣の技を磨くだけでは無理かもしれない」
「剣の稽古だけではダメということですか」
「そう思う。心の修行で立ち合うしかないだろう」
「そうですか。そうか・・・。やはり修禅によって立ち向かうしかないのか」
鉄舟は頷き、なるほどと思い、今までの禅修行を思い起こし、剣に比べ、追究が甘く未だしだったこと、それが、又七郎の下段の構えを打ち崩せない理由だとすぐに飲み込む。こういうところが鉄舟という人物の素晴らしさである。気づきが素直で、問題解決に向かって決して逃げず、前向きに対応する。
禅修行によって大悟に達した鉄舟の境地について、近代の名僧と名高い京都・天竜寺の滴(てき)水(すい)和尚は「鉄舟は別物じゃ」といい、同じく京都・相国寺の独(どく)園(おん)和尚も「ありゃ、一世や二世の人じゃない」といったくらいで、その境地は遠く褒貶(ほうへん)の域を超脱して、禅宗の師家という師家が誰でも鉄舟に敬意を払っていたという。(『おれの師匠』小倉鉄樹)
鉄舟が禅に取り組む気持ちになったのは、父親の小野朝右衛門からの教えにより、十三歳の時だったという。(『父母の教訓と剣と禅に志せし事』元治元年1864)
「苟(いやしくも)も斯道(しどう)(人の人たる道)を極めんと欲せば、形に武芸を講じ、心に禅理を修練すること第一の肝要なりと仰せられたり。故に余は爾後斯(こ)の二道に心を潜めんと欲するに至れり」
なお、大燈国師(大徳寺開山1282- 1337)の遺誡(ゆいかい)(訓戒を後人に遺すこと)を見て感心してからだという説もある。(『おれの師匠』)
いずれにしても少年時代、禅に志し、始めて禅寺に参じたのは二十歳の頃、芝村(現・埼玉県川口市)長徳寺の願翁和尚であった。
願翁和尚は早速「本来無一物」という公案を授け、つぎのように補足した。
「貴公は剣の達人だそうだが、試合の際、相手が凄まじい気魄と技でぐんぐんと迫ってきたら、どのような心境になるかな。多少でも気おくれしたり、恐怖心がおき、動揺するようではダメじゃな。もしこの本来無一物ということが、本当に体得できれば、たとえ白刃が迫ってきても、動ずることなく、冷静に、あたかも平らな道を歩くように平気でいられるであろう」
このように言われても、まだ、二十歳の青年剣士である。すぐさま本来無一物の境地なぞになれるものでない。無とは何か。この根本問題を問い、それを体得し理解するのは相当に難しい。
しかし、その難しい「本来無一物」を求めて、毎日、昼は浅利道場で稽古、夜は自宅に坐して思量を深め、思うところあれば願翁和尚の許に参じ、疑問を願翁膝下に質すこと、これを約十年間一日も倦むことなく続けたが、どうしても霧の中にあって、向こう側がはっきり見えない。
「一進一迷、一退一惑、口これを状すべからざるものあり」と述懐している。(『父母の教訓と剣と禅に志せし事』)
鉄舟とは恐ろしき人物だと思う。二十歳で禅寺に参じ、修行を志す人は多々例があるだろう。だが、禅僧に師事、授けられた公案を十年間一日も倦むことなく続けるということ、そのようなことをできるのは、よほどバカでなければできない。
鉄舟は自らを「鈍根」と称している。が、この称する通りに徹することは至難であろう。正に「鈍根」という自らの特性を貫かせたことが、バカを別物にしたと思う。
先日、比叡山、高野山、大峰山で千二百日の荒行体験を重ねた、経営コンサルタントの方からお話を聞く機会があった。
山奥に入って、一人、雪降るなか、大きな岩に向かって座禅を続ける。肩に膝に雪が積もってくる。それでも朝から夕方まで座り続ける。何日も続けたある日、自分が岩の背後に聳え立つ杉の大木に乗り移っていることに気づいた。そこで、杉の大木に向かって、つまり、自分に向かって問いかけた。このような苦しいことをする意味は何か。もうそろそろ解答を示してほしいと。
そうすると、杉の中にいる自分がひとこと答えた。それは「想魂錬磨」だと。
これが千二百日の荒行体験を続けた結論だったという。想いを磨き、魂を磨くこと。想いがすべてで、想いが定まったら練り磨くしかない。
想いが実現しないのは、磨き方、練り方が不足しているからだ。本当に想い磨き練れば、何事もできるし、達成できる。
以後、この解答で、経営コンサルタント業務を進めているという。これになるほどと思い、鉄舟はこれなのだと理解した。
道を定めたら、道に迷わず、道を外さず、道を求めて、道を極める、これを鉄舟は実行し続けたのだ。
ところが、このように日々修行し続けても、相変わらず「愈々(いよいよ)修むれば、愈々迷う」という状態で、暗闇からなかなか抜け出すことができなかった。
宮内省に出仕するようになった頃になって、三島の龍択寺に参禅し、星(せい)定(じょう)和尚についた。この三島の龍択寺通いは有名な話である。
当時、宮内省は一と六がつく日が休みだった。そこで十と五の日に夕食をすますと、握り飯を腰に下げて、草鞋(わらじ)がけで歩いて行った。(『おれの師匠』)
この話を普通の人は嘘だと思うだろう。東京から三島まで三十余里(約120㎞)、途中に箱根越えがある。龍択寺で参禅が終わると、休息する間もなく、また、東京へ引き返す。こんなに歩けるわけがないと、一般の人々は思うだろう。
しかし、鉄舟は実際に歩いた。鉄舟の健脚は有名で大変なものだった。このようなエピソードがある。参禅の帰途、夜になって山道を歩いていると、雲助が十四、五人、焚き火を囲んで暖をとっている。明治初年であるからまだ山道は物騒だが、修行に張り切っている鉄舟には夜も昼もなく、泊まれという宿屋の主人を振り切って山に入ったのだ。
雲助を避けて通るのも返って危ないと思い、「タバコの火を貸してもらいたい」と焚き火に近づいた。
「さあ、おあんがなさい」
というので、一服して暖をとり、立ち去ろうとすると、
「旦那、夜、箱根山を越すからには、ここの掟をご存じでしょうね」
一人がドスをきかせた。
「ああ、よく存じておる。ここはお前たちの縄張りだが、この山道でわしに追いついたら望み通り何でも進上しよう」
言うや、スタコラ駈け出した。三四人立ちあがって追いかけてきたが、足の速い鉄舟には追いつくことができなかった。
龍択寺には三年通った。
龍択寺に着くと、すぐに星定和尚の部屋に入って見解(けんげ)を呈する。この当時の心境を「自分の誠心が足りないためか、それほどまでにやっても、まだ豁然(かつぜん)たるところまで至らない。けれども十年一日の如く怠りなくやってきたので、十年の昔に比べれば、その上達は幾倍といってもよいくらいだ」(『父母の教訓と剣と禅に志せし事』)と述懐しているが、ある日、星定和尚が初めて鉄舟に「よし」と許した。
だが、鉄舟はとんと「よし」とは思わない。内心「なんだ、つまらぬ。こんなことでよいなら、三年通ってバカをみた」と、辞去して箱根に差しかかると、山の端からぬっと富士山が現れた。
この一瞬「はっ」、豁然として悟るところがあった。機縁というのは妙なものだ。何かの時に悟りがくる。
喜びの余り、鉄舟は直ちに踝(くびす)を廻(めぐ)らして、星定和尚のもとに走り戻った。
和尚は鉄舟の姿を見ると、にこにこして
「今日は、お前が、間違いなく、帰ってくるだろうと、待っていた」と言った。和尚には鉄舟の心機一転悟りの様子が分かっていたのだ。
その悟りの境地を鉄舟は次のように詠んだ。
「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿は かはらざりけり」
この詠みは、鉄舟がよく富士山を描く自画像に書いている。
この当時、鉄舟に対して「あいつは徳川の直参だったのに、今は踝を返して宮中に仕えている。かつては忠節の鉄舟と言われたはずだ。節操がない野郎だ」という陰口を叩く声があった。
人からの蔭口は無視しているものの、鉄舟も人の子、やはり心を曇らせていたが、富士のお山はどうなのか。晴れた日も、曇った日も、変わることなく爽やかに気高く聳えている。それに対して、人は自分の都合に合わせて、雨の富士はよくねぇ、霧の中では見えねぇ、なぞと勝手にぼやいている。
富士山はいつも変わらないのに、見る人の心のあり様でお山に対する評価を変えている。そう思った瞬間、悟りの境地に達したのであった。
こうして大道を会得した鉄舟は、このあと、天竜寺の滴水和尚、相国寺の独園和尚、円覚寺の洪(こう)川(せん)和尚らについて仕上げをめざした。
独園和尚に会った時、若気の至りで、鉄舟は「本来空」のおのれの禅哲学をとうとうと弁じたという。黙ってしゃべらしていた独園和尚は、ぷかぷか煙管(きせる)をくゆらせていたが、その煙管をちょっと取り直すと、いきなり鉄舟の頭を打った。
「何なさる」
憤然とする鉄舟に、独園和尚はただ一言、
「無という奴はよく怒るもんじゃな」と言った。
以来、鉄舟は独園和尚についた。
小石川鷹匠町(現・小石川五丁目)時代の鉄舟、毎夜自宅で二時頃まで座禅していた。貧乏であるから、家はひどく、壁や天井は破れ放題、畳は家中で三枚しかなく、鉄舟が座っている畳はすり切れて、シンが出ているという有様だった。
その上、生来の殺生嫌いのため、鼠が昼夜の別なく大っぴらに出てくる。だが、不思議に鉄舟が座りだすと、鼠が一匹も出てこなくなる。英子夫人がそのことを指摘すると
「おれの座禅は鼠の案山子だなぁ」
と笑ったという。これは事実であり、鉄舟の禅は本物に向かいつつある証明であった。
次回も鉄舟の禅修行が続く。
2010年08月20日
大きな壁
山岡鉄舟 大きな壁
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
「下駄はビッコで 着物はボロで 心錦の山岡鉄舟」
時は明治の中ごろ、往来で女の子たちが鉄舟を謳う手まり歌で遊んでいる。
今は子供が戸外で遊ぶことが少なくなったが、戦前までは路地で手まり歌を歌いながらまりをつく少女の姿が見られたものだ。手まりは、当初は、芯にぜんまい綿などを巻き、弾性の高い球体を作り、それを美しい糸で幾何学的に巻いて作られた江戸時代からの玩具。
これが明治の中期頃からゴムが安価になり、よく弾むゴムまりがおもちゃとして普及し、正月だけでなく通年の遊びとなっていた。
その手まり歌に鉄舟が登場したという意味は、鉄舟の人気が民衆の間で、いかに高かったということを証明するものであり、多分、時期は明治十五年(一八八二)、宮内省を辞し、翌年、邸内に春風館道場を開いた四十六・七歳ころであろう。
この当時、赤坂離宮に仮皇居が置かれていた。明治六年五月五日の火事により皇居は丸焼けになったことから移転し、鉄舟邸から仮皇居は至近距離であった。
鉄舟邸について「今の赤坂離宮のあるところが舊紀州家の屋敷跡、其の横の大きな榎のある所に、明治七八年頃から師匠の邸があった。紀州家の家老の家なので宏大なものであった」(『おれの師匠』小倉鉄樹)とあるように、鉄舟の屋敷は四ツ谷仲町3丁目、今の学習院初等科のある新宿区若葉一丁目あたりである。
さて、文久三年(一八六三)十二月、鉄舟は謹慎宥免となった。二十八歳。八ヶ月間の謹慎中を、鉄舟はわが身の修行と受け止め、自らの奥底を訪ねる旅を送ってみて、改めて分かったことは「自分の道は剣だ」ということへの再確認と、それを続けてきた今までの生き方への得心であった。
顧みれば以前、槍の山岡静山に師事し、ひととき槍術を志した頃にも、確認したことがあった。
「おれはな、御隠居(高橋義左衛門)にも紀一郎(山岡静山)どのにもいわれたのだ。お前はずいぶん稽古するが槍よりは先ず剣をやれ、槍はやっても免許から奥にはすすめんとな。はっはっ、その通りだ、その言葉をおれがこの頃井上先生(井上清虎)から血嘔吐を出す程にひっぱたかれてな、やっと解りかけて来ているんだ。凡そ武芸は技ではねえ、だから稽古だけではどうすることも出来ねえものがあるんだ。おれは今になってはじめて剣を遣うのが面白くなってきた」(『逃げ水』子母澤寛)
この鉄舟の語りは、自分の無意識にあるもやもやとしたものに、はっきりとした輪郭を与えられたことを示している。静山という稀有の槍の名人に出会うことによって、槍への限界能力を悟らされ、もともと潜在的に剣に志向していたのだと、改めて思い知らされ、目覚めさせてくれ、それ以来一直線に剣に励んできた。
改めて、これを謹慎によって確認できたタイミングに、またもや高山以来の師である井上清虎が、鉄舟の生涯を決めた剣客と会わせてくれた。小野派一刀流の浅利又七郎であり、立ち合って静山以来の惨敗を喫することになった。
井上清虎が最初に導いてくれたのは山岡静山であった。安政二年(一八五五)鉄舟二十歳、すでに千葉周作の玄武館道場において、鉄舟と五分で立ち合える者がいないという状態になって、鉄舟に驕慢な感じが表れ、自信が態度に表れ、それを嗅ぎ取った井上が、静山と立ち合わせてくれた。
静山に竹刀を構えたものの、足が一歩も出なく、間合いが詰められず、身動きできず、逆に、たんぽ槍の穂先が真槍の鋭さをもって、にじりじりと迫り、とうとう背中が道場の羽目板につくところまで圧された。何んとか打開したいと「エイー」と諸手突きを、静山の喉元めがけ打ち込んだ。
その瞬間、息が止まった。体が反転した。自分の体がどうなったか分からない。気がつくと道場の床に這いつくばっていた。しかし、必死に立ち上がり、低い姿勢から静山に向って体当たりしようとした瞬間、再び、穂先が喉元に突き刺さった。どうしようもできない速さの突き。巨体がのぞけり、どうと倒れ、道場内に大きく響き渡った。
「参りました」意識が朦朧で、喉を突かれ、声にならない声で、両膝を折った。完膚無き負け。敗北感が全身をおおった。
それまでこのような徹底的な敗北感、その感覚を味わったことはなかった。九歳のときに真影流久須美閑適斎の道場で剣術を習い始め、高山に移ってから井上に師事し、江戸に戻って玄武館道場に入門し、すぐに鬼鉄と称される腕前になっている。その自信が完全にたたき落とされた。
この立ち合いによって、静山に傾倒・心酔し、結果として静山亡きあと山岡家の養子となったのであった。
この静山以来の惨敗を喫した人物が、小野派一刀流の浅利又七郎であり、鉄舟が長い年月目標とした人物である。
さて、その浅利又七郎とはどのような剣客であったのか。
浅利又七郎には二代あって、初代は浅利又七郎義信、次代が又七郎義明であり、この二代目の義明が鉄舟の前に大きな壁として立ちはだかったのである。
初代の義信から述べたいが、この浅利又七郎を調べてみて、鉄舟に関する書籍・資料に必ず登場する重要な人物であるのに、意外に研究がなされていない。初代義信は、若狭小浜藩酒井家に仕えたので、先日、福井県小浜市の教育委員会・文化遺産活用課に伺い、小浜市のパンフレットに掲載されている「剣豪・浅利又七郎」について説明を受けようとしたが、学芸員と思える若い担当者があらわれ、詳しい資料はない、このパンフレットに記載されている以外のことは分からないということ。
そこで、国会図書館などでいろいろ調べてみたが、確かに明確に書かれた資料は少ない。しかし、いくつかの資料を検討していくと、次の通り分かってきた。因みに、小浜市のパンフレットは重大な誤りがあり指摘した。
初代浅利又七郎義信は、安永七年(一七七八)下総松戸宿の農家に生まれ、少年時代は又七といい、家が貧しかったので、毎日のように江戸に出て、浅蜊を売って生計を立てていた。その帰途、下谷練塀町(今のJR秋葉原駅近く)の中西忠兵衛道場に立ち寄り、剣術の稽古を見るのを楽しみにしていた。
そのような光景を見ていた三代目中西忠兵衛子啓が内弟子にした。又七はみるみるうちに腕を上げ、並いる先輩剣士たちを追い越して、中西道場の高弟にのしあがり、若狭小浜藩酒井家江戸屋敷詰師範として任じられ、その際に、初心忘れるべからずと、浅蜊の虫偏を取って、浅利又七郎義信を名乗ったという。
しかし、もうひとつ説があって、又七郎は浅蜊屋の息子として生まれたが、浅蜊屋を嫌って紺屋の奉公に行き、この頃から剣術に熱心となり、剣術が道楽の米問屋を営む糠屋の手代に代わり、主人の相手をしながら腕を上げ、主人の計らいで江戸の中西道場に入門したという。どうもこちらの方が信憑性あるらしい。
なお、この初代義信はかの北辰一刀流・千葉周作と深い関係がある。幕末当時、江戸で有名な剣術道場としては、北辰一刀流・千葉周作の玄武館、鏡新明智流・桃井春蔵の士学館、神道無念流・斎藤弥九朗の練兵館、この三道場を称して江戸三大道場と称し「位は桃井、力は斎藤、技は千葉」と評されていた。
千葉周作は奥州出身で、父に連れられて江戸に向かう途中、松戸に住みつき、浅利又七郎義信の道場に入門し剣を修行し、気に入られて義信の姪と結婚し、夫婦養子となったが、組太刀について独創の組型を案出し、それに反対する義信と意見が衝突し、親子の義を絶って、江戸で新たに北辰一刀流・玄武館道場を開き大成功した。
剣法に「守・破・離」ということがある。「守」はまもる(・・・)で、その流派の極意を守ること。「破」はやぶる(・・・)で、必ずしも極意になじまず、定法を一段破って修行すること。「離」ははなれる(・・・・)で、破よりさらに一段も二段も立ち勝った、新境地に達するをいう。
すなわち、未熟は守り、連熟は破り、新境地は当然離れることで、周作は工夫熱心で独創の組型を案出したのだが、古法を守る義父に反対され、別れ江戸に向かったのである。
だが、これを浅利家側の話によると、周作はいかにも才物で、あらゆる方面に如才なく、養父の妾まで籠絡したので、浅利家を不縁になり、中西道場からも破門された。そこで江戸に出て、奥州生まれであり、千葉家の守り本尊が北辰妙見であることから、新たに北辰一刀流と名付けたとのこと。
何れが真実かは分からないが、周作の玄武館は、簡易な言葉を使い、合理的な練習法を編み出し、それまで八段階に定められていた一刀流の修行段階を初目録、中目録、大目録の三段階に簡略化するなどの工夫をしたので「他流では目録を取るまで三年かかるところを、北辰一刀流では一年でもらえる」と評判になり、多くの門弟を獲得し、当時、門人三千余人といわれたことから敷衍して考えれば、組太刀の見解相違が真実ではないだろうか。
なお、鉄舟は千葉周作の玄武館道場で修行し、周作の後に浅利家の養子となった二代義明に負けたことから、後日詳述するが大悟に達することができ、明治中期「民衆に最も高き人気」という存在になれたのであるから、初代義信と周作の別れが鉄舟人生につながっている。人との因縁は分からないものである。
義信は嘉永六年(一八五三)七六歳で死去したが、千葉周作を離縁した後、四代目中西忠兵衛子正の次男を養子とし、二代目浅利又七郎義明とした。鉄舟と立ち合った当時、義明は四十二歳の男盛りであった。
義明の試合ぶりというのは変わっていることで有名であった。じっと竹刀を構えていて、相手の隙を見つけると、静かに
「拙者の勝ちですな」
と言う。できる相手は、大抵、その時に頭を下げる。
しかし、相手が「何を、バカな」と反発すると、容赦なく打ち込み、突きを入れてくる。
鉄舟も突きが得意技である。鉄舟と義明の立ち合いは、少し違った形をとった。
義明が下段につけて構えた。鉄舟は正眼に構え、得意の突きで打ち込もうとした、その瞬間、義明の竹刀の先がさっと上り、鉄舟の喉元に向けられ、その形のままに、義明は、
「突き・・・」
と言った。
実際に突きを受けたわけでない。だが、鉄舟は一歩も前に出られなくなっていた。喉元に竹刀が食らいついていて、切っ先を外そうと右に回ると、右についてくる。左に避ければ左についてくる。後ろに退くと、またもぴったりついてくる。
いつの間にか、じりじりと押され、羽目板まで追い込まれ、押し返すことができない。
「参った」
鉄舟が叫んだ。
面当てを取ると、実際には竹刀が全く当たっていないのに、喉首が激しい突きを喰ったかのように痛む。
これは、到底、自分なぞが敵う相手でない。二十歳で山岡静山に完膚なき敗北を期して以来の完敗である。上には上があるものだ。鉄舟は完全に頭を下げ、
「弟子にしていただきたく、入門をお許し願います」
と、浅利道場に通うことになったが、このことを明治十三年に記した「剣法と禅理」で次のように述べている。
「果して世上流行する所の剣術と大に其趣きを異にするものあり。外柔にして内剛なり。精神を呼吸に凝(こら)し*、勝機を未撃(いまだうたざる)*に知る。真に明眼の達人と云ふ可し。
是より試合をするごとに遠く其不及(そのおよばざる)*を知る。爾後修業不怠(おこたらず)*と雖も、浅利に可勝(かつべき)*の方法あらざるなり」
以後、鉄舟は、浅利又七郎と立ち合うたびに、遠く及ばざるを確認するだけの日々が続き、浅利が大きな壁として聳え立ち、それを克服するために次の修行段階に入ることになる。
2010年07月10日
山岡鉄舟 謹慎解ける
山岡鉄舟研究 謹慎解ける
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
鉄舟の謹慎の日々は続いた。
本当は木刀・竹刀を構え、道場で稽古するように、庭で素振りをしたいところだが、それは許されない。一室に座るのみしかない。したがって、座る目の前には書見台があるだけ。そういう環境に陥ってみると、その書見台が自分の稽古相手であって、それに集中でき、没頭できる新しい自分を発見でき、今までとは異なる自分に気づく。
振り返ってみると、今までの剣に対する道は、若き時から、厠の中でも、寝床の中でも、相手を想定し、工夫が浮かぶと、飛び出し、飛び起き、試してみる。さらに、道を歩いていても、傍らの建物から竹刀の音が少しでもすると、すぐに飛び込んで行き、稽古を所望するという剣一筋の毎日だった。
また、高山から江戸に戻って入門した玄武館は、江戸随一の人気道場であり、優れた剣客も多く、例えば、水戸藩に高禄で抱えられた高弟海保帆平、新撰組の藤堂平助や山南敬助、盟友となった清河八郎等がいて、稽古相手には不自由しなかったので、思う存分に修行でき、メキメキと腕を上げ「鬼鉄」と称されるまでになった。
しかし、今はそのような稽古はできず、書見台と向き合うのみだ。書見台上には上古時代からの刀剣の歴史、江戸時代以前の古流剣法から続く諸流派教本、甲陽軍鑑などの軍学書、孫子兵法等の兵書、佐藤一斎の言志四録などの学識書、王羲之の十七帖等の書法帖など、明るいうちは書見台に向かい、暗くなると坐禅に入る。
このように世間と切り離された日々を送ってみると、今までに無き経験だが、自分自身の内部により深く入っていけるような気がしてならない。これまでの人生でも、思考することになるべく時間を取ってきたつもりだったが、それは生活の中心に剣という存在をおき、その合間に取り入れたものであった。
しかし、今は違う。静思することしかできないのである。異なる環境下になってみてわかったのだが、改めて自分とは何者なのか、自分の奥底には何が存在しているのだろうか、つまり、自分探しの旅をしているような気がしてならず、これまでとは違う感覚に浸ることができた。
謹慎の日々、正式には一切の来訪者は認められないが、裏門からの内密の出入りは大目に見られている。日が経つにつれ、裏門からそっと訪ねて来る者が増え、それらの人々が、次々と起きる時代の変革をもたらしてくれる。
陽の光が強くなり、若葉が濃く茂る頃が過ぎ、梅雨がやって来たある日、鉄舟のすぐ下の弟、旗本酒井家に養子に出した金五郎が息せき切って飛び込んできた。謹慎していることも忘れたかのように、激しく入って来て
「兄上!!」
と大きな声を発した。金五郎は玄武館道場の若手の中では、相当な遣い手になっていて、体つきも兄に似て立派になってきている。
「何だ、慌ただしいぞ」
と静かに書見台から眼を放して金五郎を見つめた。
「兄上、やりましたよ、長州が」
「何を」
「攘夷ですよ、この十日、下関で外国船を砲撃して追っ払ったのです」
「うーん、そうか、五月十日が攘夷実行の日だったな・・・」
文久三年五月十日(乙卯)は太陽暦で1863年 6月 25日にあたり梅雨時であった。
この攘夷期限、これは将軍家茂が朝廷から「一体いつから攘夷をやるのか、はっきりその期日を誓え」と攻めに責めたてられ、とうとう苦し紛れに「五月十日」と言上した日限であったが、その日に横浜から長崎を経て上海に行く途中の米国商船を、さらに、二週間ほどして仏通信艦を、その三日後に蘭軍艦を砲撃し、オランダ側は死者と重傷者を出す被害を受け、長州藩は大いに気勢を上げた。
なお、この商船と通信艦への砲撃は、当時の近代国際法に違反しており、弁護できない行為であったという見解があることを付言しておきたい。(井上勝生著「幕末維新」)
だが、長州藩の優勢は、これが最後であった。六月一日、横浜から下関に向かった米海軍が、下関海峡で長州藩の軍艦二隻を撃沈させ、四日後の五日には、仏軍艦が陸戦隊を上陸させ、砲台を占拠し破壊させた。
七月二日には、英艦隊が鹿児島湾で薩摩藩と戦った、いわゆる薩英戦争が勃発した。鹿児島市街が焼失被害を受け、イギリス側も多数の死傷者が出て、二日後に鹿児島湾を去って行った。
このような薩摩藩と長州藩による外国との戦争行為は、結局、内外に幕府の統制が利かなくなっていることを示すことになった。
金五郎の情報はまだ続く。京都では薩摩と長州の主導権争いが深刻化、薩摩が会津と組んで長州を京都から追い出した八月十八日の政変によって、朝廷内では公武合体派が再び勢力を握り、公家の急進派の一部は大和で天誅組として挙兵したが失敗。これに参加していた藤本鉄石が戦死した。この藤本とは、清河八郎も少年時代教えを受け、鉄舟も高山から伊勢神宮参りへ向かった道中で教えを受けた人物であった。
さらに、新撰組隊長の芹沢鴨が暗殺され、近藤勇が隊長になったことも、鉄舟と関係があっただけに感慨深き事件であった。
ここで翌年の元治元年(1864)にも少し触れたい。六月には京都河原町三条の旅館池田屋に集まった約30名の尊王攘夷激派を新撰組が襲撃し、多数の死傷者が出た。
池田屋事件に反発した長州藩の尊王攘夷派は、奇兵隊に続いて武士と庶民混成で結成された遊撃隊などを率いて上京する。
七月、御所外郭西側の蛤門で長州藩と薩摩藩、会津藩が戦い、慶喜が戦場で指揮をとった。この蛤御門の変(禁門の変)で、長州藩が撃退された。この時、二万八千軒が焼失し、下京の町々はほとんど全焼「鉄砲焼け」が後代まで語られることになった。
また、この蛤御門の変の半月後である八月五日、前年に下関海峡で欧米諸国に攘夷砲撃をした長州藩に対して「いかなる妨害を排除しても、条約を励行し、通商を続行する」という欧米の決意を示すために、英・仏・蘭・米の四カ国の軍艦十七隻、砲二百八十八門、兵員五千名余の大艦隊が、周防灘から英艦隊の最新鋭アームストロング砲百十ポンド巨砲によって、四キロ以上離れた長州藩の砲台を正確に命中させた。
さらに、上陸した陸戦隊は、奇兵隊が中心の長州藩諸隊と、激しい銃撃戦で戦ったが、奇兵隊はゲベール銃、対する四カ国軍は新鋭のミニエー銃(ライフル銃)で、命中率、威力とも問題にならない差があり、砲台のすべてを占拠された長州藩の完敗に終わり、ほとんどが旧式の青銅製カノン砲であった長州藩の大砲は捕獲され持ち去られた。
この戦争で、仏艦隊に捕獲されたものが、現在、パリのセーヌ河畔のナポレオンの墓所として有名な、アンヴァリット(廃兵院)に展示されていることと、このうちの一門が下関市立長府博物館に戻っていることを二〇〇八年十月号で以下のようにお伝えした。
「山口県が長州砲の返還をしばしばフランス政府に交渉したが、世界各国とも戦利品を敗戦国に返した事例はなく難航。そこで直木賞作家の古川薫氏が、昭和五八年(1983)当時の安倍晋太郎外務大臣に働きかけ、ようやく長府毛利家に伝わる紫(むらさき)糸(いと)威(おどし)鎧(よろい)をアンヴァリットに貸与して、相互貸与という形で天保一五年(1844)製の長州砲一門が、昭和五九年(1984)に戻った。
この里帰りの経緯については、古川薫氏の『わが長州砲流離譚(りゅうりたん)』に詳しく記されている。だが、同書によれば、アンヴァリットにはまだ二門の長州砲が残されていると書かれ、そのうちの一門の行方が不明で心配だ、ということも記されている。そこで、古川氏に連絡を取って、筆者が再度現地に行き、確認してくることになった」
今年の三月三十日、アンヴァリットの学芸員とようやく連絡がとれ、現地で長州砲を再確認してみた。一門は門を入ってすぐの庭に展示されている。これは古川氏も分かっている。問題はもう一門である。まだ若き長身の学芸員が、もうひとつ日本の大砲があると言い、建物の中に入って二階の通路に案内してくれたが、そこにあった大砲は1876年製という明治維新(1868)の8年後である。記録を見るとカサゴンという人物の手を経て入手とあると言う。確かに漢字で「百目玉」とは書いてあるが、長州砲ではなく、発射する装置の部分が破損欠けている。
これは長州砲でないと言うと「もう他にはない」と断言する。ご存じのとおりこういう時のフランス人は強硬である。シラクやサルコジ大統領の外交を見ればわかる。しかし、ここで引き下がっては折角のアンヴァリット訪問目的が達しない。ねばりに粘る。古川氏から受けた手紙と写真、それと昭和五九年の山口新聞記事などを使って何回も説明し、どこかにあるはずだとしつこく追及する。
こちらの剣幕にとうとう学芸員は考え込み始め、では、一緒に館内を探してみようと歩きはじめる。多分、普通の展示場ではないだろうと推測し、倉庫や鍵の掛っていて入れない場所を回って歩いたうちの一か所、ここは軍関係の管理地だから入れないというところ、そこの鍵がかかっている柵の間から覗くと、遠くに長州砲らしきものが見える。これだと叫ぶと、学芸員は慌てて事務所に鍵を借りに行く。ここには自分も入れないところだと言いながら。
鍵が来て開けて入り、走りたい気持ちを抑えつつ大砲のところに行くと、嘉永七年の文字が見える。やはりあったのだ。学芸員もびっくり。知らなかったのだ。アンヴァリットには九百門の大砲があるというが、その記録に欠けていたのだ。
早速に記録化を依頼すると、この「砲身の文字は何と書いてあって、どういう意味だ」という質問を受ける。長州砲に彫られた文字は薄れて判読が難しい。日本に戻ったら古川氏に確認して連絡すると約束しアンヴァリットを失礼した。
後日、古川氏から連絡受け送付したものが「十八封度礮(ぽんどほう)嘉永七歳次甲(きのえ)寅(とら)季春 於江戸葛飾別墅鋳之(べつしょにおいてこれをいる)」である。
十八封度礮とは、大砲の弾の重さであり、約8.2キログラムで、葛飾別墅とは現在の東京都江東区南砂二丁目付近に存在した、当時の長門萩藩(長州藩)松平大膳大夫(毛利家)の屋敷を指し、佐久間象山の指導のもと、屋敷内で大砲の鋳造を行ったのである。
今回の調査証明のため、長州砲を囲んで学芸員と写真を撮り、古川氏に報告できほっとしたところである。
話は鉄舟謹慎に戻る。
謹慎後七か月経過した文久三年十一月十五日の夕刻、突然、火の見櫓の警鐘が乱打された。泥舟と鉄舟は二人揃って、高橋宅の二階に上がって見ると、江戸城の方向が真っ赤に燃えている。これは大変だ。お城が火事だ。二人は眼を合わせた。どうするか。お互い謹慎の身で、屋敷から一歩も外に出られない身である。だが、二人が同時に叫んだ。「駆けつけるぞ」と。
この当時、幕臣が最も恐れたのは、かつて慶安の昔にあった由比正雪一党の、江戸城の内外に火を放ち、城を乗っ取るという策謀であった。幕末時は特に攘夷運動の激化で危険を感じていたのである。
二人が支度していると、松岡万や高橋道場の門弟たちがやってきた。いずれも「こんな時こそ、禄米を受けているご奉公だ。謹慎中でも黙って座視できないだろう。お咎めは覚悟の上で、市中取締りのために出動するはずだ」と、期せずして、同じ考えを持って駆け付けたのである。
この時の状況を泥舟が次のように述べている。(参考:泥舟遺稿)
「この夜の装束は、下に白無垢を重ね、上には黒羽二重の小袖、黒羅紗の火事羽織を被り、黄緞子の古袴で、栗毛の馬にまたがった。鉄舟は、三尺の大刀を佩(お)び、槍を持ち、馬の左に、松岡は長巻をたずさえて、馬の右に付き添った。いずれも幽閉のためあごひげと髪の毛が茫々で鐘馗(しょうき)のようだ。
一行はまず、寄合肝煎(よりあいきもいり)*の禄高五千石の佐藤兵庫邸に行き、兵庫に面会するや言い放った。『我らは今日、お城の炎上只事ならず、君上の大事にも及ぶべしと心得、幽閉の禁を犯して君上を警衛せんと欲して、あえて出馬つかまった。しかれどもわれ、ほしいままにこれをなさば、肝煎の役柄に対してお咎めあらんかと存じまして、一応、お断りに来るなり。しかしてわれは今日、禁を犯せる上は、直ちに割腹の命あるものと心得、その仕度も調えてきたり。我が禁を犯せし義は、もとより肝煎の落ち度でなく、まったくのわれの所為なれば、よろしくこの意を言上あられたし』
これに対し、兵庫はしばし黙然としてわれの顔を見ていたが、ハラハラと涙を流して言った。『今に始めぬ貴下の誠忠、まことに感ずるに余りある。さりながら貴下の身、もし大事におよばば君上も股肱(ここう)の忠臣を失わることになる。貴下、今日のことはこれを思い止まりて、邸内に帰り謹慎せられよ。忠を尽くすは今日に限らぬであろう。予は、不肖ながら貴下の御為悪しくは取り計らいもうさぬぞ』
われは応じた『もっともの事なり。君上に尽くすは今日にも限るまじ。未来無限の日月あるべし。さりながら老少不定の世のならい、又という日は期すべからず。いわんやわれ既に心を決し来たれり。今生きて還るの心なし。後日の事を論ずるに暇(いとま)*あらんや』と突き放し、門外に出るや、馬に乗ってお城を目指した。
この一隊がお城の周りを何回も見回った。その異風の装束を見て、その場にいた人々が驚愕した。火の手は午後十時になって、ようやく収まった。ホッとして大手前の酒井雅楽頭(うたのかみ)の番所に暫時休憩を申し出たが、この番所は江戸市中で最も厳しき所だが、われらの威勢を恐れて何も言わなかった。
鎮火し夜も明けたころ、われらは引き上げたが、帰途、一橋門に差しかかると、講武所奉行の沢左近将監の一隊に出会った。左近はわれらを見て、馬を進めてきた。われらも馬を進め、双方が止まり、左近は大音声をあげ『勢州(当時われは伊勢守のためこのように呼ばれていた)、貴殿、いまお城を警衛して帰邸せらるると覚ゆるぞ。よくこそ禁を犯してこの挙におよばれた。われ、これを知らずして曩(さき)に貴下を罵ったのが悔しいぞ。幽閉の身であるのに、かかる火災時に、君上を警衛するとは、さすがに忠臣と聞こえたる勢州じゃ』と大いに讃嘆された。
われは答えた『われ君上のためには、すでに身を犠牲に供したり。今日は殊に幽閉の禁を犯し、この挙に及びたれば、何時、割腹を命ぜられんも期しがたしと心得、予めその仕度して出馬せしなり。しかるに未だその命に接せざれば、かく帰邸の道につきしなり。後刻にいたらば定めし御処分もあるべければ、貴君との面会ももはや只今限りと覚ゆるぞ。わが亡き後は、貴君らよろしく君上を保護したまわれ』と粛然と述べた。左近はこれを聞き、感激のため、馬上にうつ伏して頭を上げられなく、声を呑んでむせび泣いた。われは一礼して別れ、自邸に戻ってひたすら御沙汰を待った」
馬上で頷いた左近は、その足で閣老・参政に対して「高橋こと、閉門謹慎の制禁を犯しましたが、ひとえに誠忠奉公の心からであり、何とぞ御寛大なご処置を」と訴えたという。そのためか、泥舟と鉄舟にはお咎めの上使は、結局、やってこなかった。不問に付されたのである。
ところで、西丸御殿の造営工事が始まったのは、年が明けた元治元年正月、七月に完成し将軍家茂が入ったが、これが江戸城最後の建築であり、明治維新後の明治六年(1873)の炎上まで存在したものである。因みに江戸城の火災は結構多い。防火対策上最重要拠点としてとして警護されていたのに、家康の時代から数えて三六回の火災が発生している。七年に一回という多さである。
さて、十二月十日、高橋泥舟に謹慎宥免(ゆうめん)の沙汰があり、老中の許に出頭すると「二の丸留守居役席、槍術師範を命ず」の沙汰であった。元の職務になったわけである。
続いて、十二月二十五日に鉄舟、松岡万などにも謹慎宥免の沙汰が下った。
「ありがたい。これで外出ができる」と自由になった喜びに叫んだが、八ヶ月間の謹慎は鉄舟の心に大きな変化を与えていた。謹慎という状況を、わが身の修行に切り替え、自らの奥底を訪ねる旅に変えてきた鉄舟には、目指すものが微かながら見えてきたのであり、早速にその第一歩を踏み出したが、それはとてつもなき大きな壁にぶつかることになり、その壁が一生を貫く目標になったのであった。
2010年06月17日
新たなる環境化へ
山岡鉄舟研究 新たなる環境化へ
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
清河八郎が暗殺された翌日に、幕府当局は関係者の処分を行った。主な処分者の内容は以下であった。
高橋伊勢守(泥舟)・・・御役御免の上蟄居
山岡鉄太郎・・・・・・ 同じ
松岡 万・・・・・・・ 同じ
窪田冶部右衛門・・・・御役御免の上差控・・・後に小普請入り
いずれも御役御免であるが、泥舟、鉄舟、松岡は蟄居、窪田は差控えである。
蟄居とは「自宅の一室に謹慎、外出は許されない」処置であり、差控は「自宅に謹慎ではあるが、行動はあまり制限されない、外出も可能」というもので、蟄居よりは処罰が軽く、加えて、小普請入とは御役御免なのであるから当然で、窪田に対する処罰は実質無罪と同じであった。
それを証明するように、窪田は二カ月後函館奉行に再登用され、その後すぐに神奈川代官となり、続いて西国郡代に就任している。
このような窪田の登用を考えると、やはり「村摂記」(『未刊随筆百種第三巻』 編者三田村鳶魚 中央公論社)に記されていたように、清河暗殺は窪田冶部右衛門の協力によって行われたものであり、同じ浪士組幹部であったため、表面上一時的に処罰めいた処分をしたが、実際は論功行賞としての人事が行われたと考えるのが妥当であろう。
ここで今まで分析がなされず、書き残した事を追記したい。窪田の息子の泉(千)太郎についてである。神奈川奉行所で奉行の次の組頭という幹部である泉太郎が、何故に清河暗殺の場面にいたかということである。
横浜には外国施設が集中し、長崎の出島のごとき対応になっているので、横浜に通じる道筋には関門・番所が設けられ、通行人改めや荷物の検査を行っている。したがって、簡単には横浜を事前視察することはできない。そこで、清河は窪田冶部右衛門を通じ、泉太郎への紹介状を書かせ、清河と鉄舟他二名で横浜視察に出かけることができた。四月十日のことであった。
この視察で鉄舟がひとつの事件を起こしたが、それは鉄舟から泉太郎に送ったサインであったとの推察はすでに触れた。
そのサインとは「清河は頑強な攘夷派の大物である」というものであったが、それを受け泉太郎は父親冶部右衛門に通告し、具(つぶさ)に清河について調べ抜いた結果、清河の視察目的が「横浜焼き討ちを」であることを知り、驚愕した。
仮に、これが実行された場合、親子共々処分は免れなく、罰せられ、お家断絶になる可能性大だ。ならば、積極的に防止策に参加するしかない。幕府が計画している清河を亡きものにすることへの協力、それが「村摂記」に記された内容であった。
さらに、泉太郎には、より確実に事前視察させた失点を挽回させるため、組頭という要職でありながら、清河に手を下すことへ直接参加させたものと推察する。
因みに、清河を横浜に入れてしまったことを比喩して考えれば、パレスチナの過激派リーダーを、イスラエル側陣地に入れてしまったことと同じだと思えば、事の重大さが理解できる。
さて、清河暗殺の犯人が、佐々木只三郎他であったと判明するのは、ずっと後のことであるが、不思議にこれら暗殺参加者は、終わりを全うしていない。
そのことを泥舟が次のように書きのこしている。(『泥舟遺稿』島津書房)
「因みに記す、正明(清河)を要撃したる連類者は、一も其終を克(よく)したるものあることなし、金子與三郎は、薩邸打拂の時流(ながれ)丸(だま)に当たりて死し、佐々木只三郎も、伏見の役に流丸に斃(たお)れ*、速見又四朗も同じく流丸に当たり、一時その瘡(きず)平癒せしと雖も(いえども)其後その跡瘡と変し、之れが為めに死す、高久某(高久保二郎)は公用を帯び、早追(昼夜兼行で早駕籠を飛ばした使者)にて凾嶺(箱根)を越ゆる時、俄然背に疼痛を覚え、日ならずして死し、永井某(永井寅之助)は自宅に於て頓死す、獨(ひとり)窪田冶郎(部)右衛門は幸ひに天壽を以て終るが如しと雖も、子孫先だちて死し、今は一家斷絶して、祀らざるの鬼となれり、古来有為の士冤(うらみ)を呑んで死する者皆曰く、死して知ること無くんば則ち己む、苟(いやしく)も知ることあらば、要(かならず)唯獨り死せずと、此言信ずるに足らずと雖も、匪(ひ)謀(ぼう)を遂ぐるものゝ終を克くせざる事、今古一轍に帰す、亦以て殷譼(いんかん・戒めとする前例)(鍳となすべき而巳(のみ)」
また、窪田泉太郎も鳥羽伏見の戦いにおいて最後を遂げている。(『窪田冶部右衛門の賦』西沢隆治)
上記のように、泥舟が清河暗殺者の境遇について語っている背景には、清河という人物を高く評価していたという事実がある。そのことを清河との初対面での印象を次のように記していることで分かる。(『泥舟遺稿』)
「鐵太郎(鉄舟)正明を率ひ来りて予に見へしむ、予初めて正明に面し、其風采を熟視するに、天性猛烈にして、義気強邁、身材(体)堂々として、威風凛々たり、音聲鐘の如くにして、眼光人を射る、予一見して超凡の俊傑なるを知る」
いずれにしても泥舟と鉄舟は、清河暗殺を機に謹慎蟄居となった。
しかし、この謹慎蟄居に関して泥舟と鉄舟が別なる見解を遺していることについて触れておきたい。どちらも通説とは異なるが・・・。
まず、泥舟遺稿によれば、泥舟は様々な局面で幕府に建言したが、いずれも用いられず辞職したが、逆心の疑いありとして無期限の幽閉を命じられたとある。
次に、鉄舟については「おれの師匠」(小倉鉄樹)に次のように書かれている。
「どうして山岡が謹慎申し付けられたかといふと、それはかういう譯なのである。
御殿山にどこかの公使か忘れたが(多分英国だったと思ふが)公使館が設けられた。ところが世の中が物騒なので、麾下(きか)*の旗本三百人程にその守護を仰付けた。攘夷熱の盛んな折柄、毛唐人の警護は心外千萬であるといふので、一同申し合せて公使館の警衛に行かなかった。すると「幕府の命令を聴かぬ不届き者は切腹を申付ける」という厳命があった。それをきくと一人減り二人減って段々残る人数が少なくなって来た。『愈々明日は切腹である』となったらその前夜まで残ったのが僅か六十人ぎりになってしまひ、切腹当日は山岡一人になった。
『愈々おれ一人か』と山岡は朝から身を淨め、衣装を着替へて上使の来るのを待ち受けた。やがて上使が見えた。山岡はそれを上座に招じ、慇懃に挨拶して断罪の旨を承った。切腹と覚悟をきめていたところ、案外にも『殊勝に付き切腹を免じ謹慎を仰付ける』とのことであった。かうして山岡の門前は青竹で囲はれ、山岡は一歩も外へ出ることが出来なく、同志の連中は夜陰を図って裏口から出入していた」
さて、泥舟と鉄舟は謹慎蟄居となり、行動は制限された。勿論、外出は厳禁。日課の剣にもふれない。月代も髭を剃ることも遠慮しなければならないので、たちまちのうちに二人とも頭髪はぼうぼうとなり、髭は伸び放題となった。
こういう逆境におかれた時、人はその本性が出るものである。
どうしてこのような境遇になったのか、そのことを嘆き、憂い、そうなったことを自分以外の要因に求め、不満を述べ続け、挙句の果てに自暴自棄に陥り、酒浸りとなる。
また、得てしてこういう生活状態になると、いつも気持ちが落ちつかないので、心中穏やかならず、不満がさらに講じ、結局は身体の変調となって、自分自身を失っていく。
しかし反対に、今の逆境に立ちいたったのは、何か自分自身へシグナルを送ってくれたのだと受け止め、だからこそ、それに正しく対応することが必要だと気づき、今までできなかったことをしてみようと考えつくと、順調時に見えなかった自分のことが分かっていく。つまり、自分自身を内観視することにつながるのである。
鉄舟は当然に後者であって、少年時代から思考と行動を一致させようと修行してきた人間であり、そのプロセス経緯を記録として次のように書きのこしてきた。
① 嘉永三年(1849)十五歳 修身二十則
② 安政五年(1858)二十三歳 心胆錬磨之事
③ 々 宇宙と人間
④ 々 修心要領
⑤ 安政六年(1859)二十四歳 生死何れが重きか
⑥ 万延元年(1860)二十五歳 武士道
⑦ 元治元年(1864)二十八歳 某人傑と問答始末
⑧ 々 父母の教訓と剣と禅とに志せし事
⑨ 明治二年(1869)三十三歳 戊辰の変余が報告の端緒
この後、明治に入ってからも記録は続くが、上記の⑥「武士道」から⑦「某人傑と問答始末」の間、約四年間であるが、この期間何も書きのこしていない。
この空白の期間は何を意味しているか。それは、清河と知り合い、清河を中心として結成した尊王攘夷党、別名「虎(こ)尾(び)の会」ともいう勤王鎖国論者同士の秘密結社をつくった以後、清河が暗殺された期間までと一致している。
つまり、この四年間は攘夷運動の中で行動の期間であったのであり、謹慎蟄居を受けて再び思惟の時間になって、最初に書き示したのが「某人傑と問答始末」であったのである。
ということは、この「某人傑と問答始末」の内容が、清河暗殺に関する総決算的な心情を述べていると思われる。
その通りで、「某人傑と問答始末」の中で鉄舟が議論している相手は、氏名を明示していないが、清河であると推察されているが、その概要は以下である。
「このごろ、人傑として名声の高まっている人物がいて、その人物が鉄舟に向かって、貴君の心が君のため、国のため、人のために身命を賭している覚悟になっているかどうか疑わしいと迫ってきた。
これに対し、君のため、国のため、人のために尽くすということは、自負心であり、自惚れに過ぎないと答えると、彼の先生は大いに怒って、それはどういうことだと問い詰めてきたので、次のように答えた。
人間にはこの世において行わなければならない仕事がある。そのことについて、君のため、国のためなどと、もったいをつけるのは、ただの口実に過ぎない、もっともっと踏みこみ、虚心坦懐にその理の意味を理解すれば、君のため、国のため、人のためなどと洒落ごとを言う気にならないはずだ。
こう述べると、彼はうなずいた。さすが名士といわれるだけのことがあり、何か大事なことを悟って、それ以後はずいぶん親切な対応に変わった。
だが不幸なことに、抱負が遠大に過ぎ、また勝気な精神のため、俗世界から非難され、ついに刺客によって殺されてしまったのである」
この記録から考えられることは、清河という人物を高く評価しつつも、さらに深く清河を考察すれば、やはり何か無理があったと言いたいのであろう。
いずれにしても、謹慎蟄居の日々が続いた。
しかし、鉄舟のような人物には、逆境から這いあがらせる事件が顕れて来るものであって、その事件に対してどういう態度で対応するか。それは鉄舟が持っている本来の判断力にかかってくる。
事件は文久三年(1863)十一月に発生した。江戸城二の丸炎上である。お城が燃えているのであり、直参旗本であるならば、直ちに火消しに馳せ参じなければならない。
だがしかし、今は謹慎蟄居を命じられている身であった。屋敷から一切外部に出られない環境下、鉄舟と泥舟はどう対応したのだろうか。人は事件時の対応でその本性が出るものである。次号に続く。
2010年05月21日
清河暗殺その四
山岡鉄舟研究 清河暗殺その四
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
清河八郎が暗殺されたのは、横浜を襲撃し攘夷決行と倒幕への狼煙をあげようとした、文久三年(1863)四月十五日の二日前の十三日、年僅かに34歳であった。
場所は麻布の出羽三万石上山藩上屋敷で金子与三郎と会い、退去し、屋敷前の一の橋を渡りきったところ、大和郡山藩十五万石下屋敷の前であった。
当時は、その屋敷や家の前の道路などで変死人があると、一番近い家のものが、役人が出役するまで、これを監視する義務があったので、大和郡山藩が見張っていた。
上山藩士の増戸武兵衛が、明治になって史談会で次のように述べている。
「七ッ頃すなわち今の午後四時頃に表門の方で人殺しがあるというから出てみた。一の橋を渡って一間か二間ほど行きますと、立派な侍が倒れて首が右に落ちかかって転がって居りました。その様子は左の方の後ろから横に斬られたものと見えて、左の肩先一、二寸ほどかけて右の方首筋の半ば過ぎまで見事に斬られております。その上に顎の下までに更に一刀痕があります。多分倒れた後で一刀添えられたものと見えます」(「山岡鉄舟」小島英煕)
この史談会発言内容、当時の大事件であったのであろう、鮮明に清河暗殺場面を想像させるリアルさがある。
「刀、脇差は立派なものでした。羽織は黒で甲斐絹の裏付きで右手に鉄扇を持って居りましたとみえ、右手をのべてその側に棄ててありました。髪は総髪でした。そこに大勢よって誰だろうと言うている中に、中村平助という者は、これは清河八郎のようであると申しました。私もなるほどと感じました。その訳は後で申します。・・・・
私は必ず金子が関係していると思いました。その訳は、その少し前に、ある夕、金子を訪ねたら、これから丸の内の小笠原閣老に行くと申しました。その頃金子は刺客に狙われているという噂でしたから、一人の夜行を援護するつもりでついて行きました。着いたのは夜の五つ頃(午後八時)です。
閣老はまだ殿中より帰らず、小笠原の重役の多賀隼人という人を訪ねました。金子の用向は小笠原の娘を当藩主の奥方に貰うという打ち合わせでした。・・・中略・・・・金子が言うに、実は清河八郎を暗殺しようという者もあるが、どういうものかと問うた。多賀は一寸考えて、至極よかろうと答えた。金子は暗殺といえば西国か水戸のものでもなければ出来ないことのように思っているが、今度のは幕府の御家人だそうですと、幕臣にも弱い者ばかりでないという意味を含ませ、多賀を喜ばしむるような語気にとれました。私は側に聞いていて、近日中、浪士組に何か騒動があるだろうと思っていたが、そのうちに清河が金子にきて帰りに右の事が起こったのだから、金子の話の結果があらわれた事だと思いました」
この暗殺は大変な騒ぎとなって、同志の一人石坂周造にもたらされ、その後の経緯を「石坂周造翁遺談」で次のように語っている。(「新撰組始末記」子母澤寛)
「直ちに四ッ手駕籠の大早というものを雇って赤羽に馳せつけました。見ると有馬(注筑後久留米藩有馬中務大輔頼咸(よりしげ))の足軽と松平山城守(注 出羽上山藩)の足軽とが警護してなかなか側へ近付けませぬ。遠くすかして見ると、八郎が朝別れる時の檜木で編んだ陣笠を被って、羽織の紋も八郎の紋でありましたから、それへ進もうとした所が、なかなか警吏が寄せつけませぬ。そこで自分は一策を考えて、其警吏に向い、彼処に倒れて居る者は清河八郎というものと承って居る。彼れは拙者の為めに仇で、君父の仇は倶に天を戴かず、拙者が害すべきものを何者が害したか、実に遺憾の至り、屍と雖も一刀恨みをせにゃならぬ。妨げをすれば汝らも倶に斬るぞ。と自分が長剣を抜きました。
さて、その時分の人物は弱いもので此勢い恐れて先ず左右へ開きました。そこで、ずっと進んで、八郎の首を引立てて見ると、未だ討手は上手な者でないと見えて、首が一寸程も喰付いて居ります。酒臭かった。
自分の目のつけるのは、決して先方の首ではない。五百名の連名帳が官吏の手に落ちれば、即ち、自分はじめ五百名の者の勤王者が連鎖される。是はどうしても、自分の命を捨てるまでにも取って来にゃならぬというのが私の望みでござります。
なれども警吏が見ておりますから、先ず斬り残してある首を撥(はじ)きまして、そうして其羽織に包んで居る中に、自分の附属の者(浪士組)が、ぞろぞろ後ろ鉢巻で押込んできて来ました。両藩の足軽どもは、其勢に恐れて皆逃げて終った。
それから当人の懐中を探すと、感心な男でござりまして、平生は頓(とん)と金子(かね)などを持って居った風もござりませぬが、胴巻を調べて見ますと、百両以上の用意金もござりまする。それからまあ連名帳も無事でござりまするから、それで自分は誠に安堵をして、是さえ手に入れば、外に望む物はない。なれども、八郎の首を、どうも此大道に棄置くは如何にも遺憾でありますから、羽織を脱がして、其羽織へ包んで、附属の者に持たして、山岡鉄太郎へそれを送りました」(石坂周造翁遺談)
「山岡はこの首をすぐに砂糖漬にして押入れへかくしたが、どうも臭くていけない。毎日毎夜、家のまわりを、町方の目明しが、うろうろしていて離れない。旗本の山岡へは、うっかり踏み込めないが、充分睨んでいる事は明瞭だから、山岡も、故意(わざ)と今度はゴミ箱へ埋めた。やはり臭い。
道場の板を上げて、その真下へ埋めたがこれもいけない。最後には遂々(とうとう)裏の大きなグミの木の下へ五尺も掘り下げて埋めておいた。ゴミ箱から首を引き出そうとして髪をつかんだら、ずぶりずぶりと抜けて来て、どうにも手のつけようがなかった。(山岡松子刀自談)」
「鉄舟は、この首を、伝通院の子院処(しょ)静院(せいいん)の住職に頼んで、窃(ひそ)かに同寺内へ埋葬し、墓も建ててやった。今、伝通院内に、妾阿(めかけお)蓮(れん)の墓と共にあるのが、それである。明治二年、更に郷里荘内清川村に改葬した。
屍は、柳沢候(注 大和郡山藩)の手により、その頃、大名の勤番武士及び引取人のない無縁者を葬る事になっていた麻布宮村町正念寺に葬ったが、この寺は、明治二十年廃寺となったので、今は訪ぬる由もない」(「新撰組始末記」子母澤寛)
このように清河は暗殺された。だが、暗殺された当日を辿っていくと、日頃の清河らしからぬいくつかの行動があり、疑問が生じる。
これまで清河の行動を分析してきたが、その内容を一言で述べれば「清河らしい」ということ、つまり、頭よく事前の思考力は優れているものの、行動は強引極まりないものであった。藤沢周平が「回天の門」で、清河の性格を「ど不敵」述べているがその通りである。
「ど不敵とは、自我をおし立て、貫き通すためには、何者もおそれない性格のことである。その性格は、どのような権威も、平然と黙殺して、自分の主張を曲げないことでは、一種の勇気とみなされるものである。しかし半面自己を恃(たの)む気持が強すぎて、周囲の思惑をかえりみない点で、人には傲慢と受けとられがちな欠点を持つ。孤立的な性格だった」
このような強腰性格の男であったが、暗殺された四月十三日当日は、いつもの清河でなく、強気の言動を発するものの、それが何かに囚われおり、どこかに固執していて、そのこだわりは死出の山を越えるためのものであった、そのような気がしてならないのである。
その一つは、何故に金子与三郎のところに一人で出かけたかである。清河は浪士組の頭として何かと目立ち、その行動も疑問を持って見られている。したがって、清河を狙う者がいても当然であるから、いつも身辺警備については配慮しており、鉄舟の家や隣家の高橋泥舟宅に泊まり込んでいたのもその理由からであり、清河が外出する時は、大抵何人かの者をつけて出すように気をつかっていた。
その清河が、この日鉄舟宅を出る際、ちょうどやって来た石坂周造と出会った。当然に石坂は一人で出かけることを危惧した。鉄舟は昨夜から戻っていなかった。
「一人で出掛けるのですか」
「うむ、上山藩上屋敷まで金子与三郎を訪ねて」
「大事決行の日も迫っている。他出はやめられないですか」
「もう約束してしまっている」
「では、私がついていきます」
「君は金子を知らんだろう。ついてきてはおかしい」
「おかしくてもいい」
と石坂は執拗に迫ったが、清河は受けつけなかった。これが第一の疑問である。
第二の疑問点は、何故に朝風呂に入ったかである。清河は十一日横浜視察から戻った時に風邪をひき、そのまま寝込んでいたが、十三日の朝、清河は朝早く起きると近所の風呂屋に行った。
朝風呂は、この頃の江戸ッ子が最も好んでおり、どの風呂屋も早朝から営業していたが、風邪ひきには風呂がよくないことは誰でも知っている。
そのいけない風呂に入って、身を清めたことが第二の疑問である。
第三は、風呂から戻った後のことである。風呂上りの、手拭いを下げたままで隣の高橋泥舟宅へ庭から入って行った。登城の支度をしていた泥舟が
「何だ。朝風呂とは、ご機嫌だな」
「ええ、今日は久しぶりに上山藩上屋敷まで金子与三郎を訪ねていきますので、病み上がりの格好ではまずいと思いまして」
「金子与三郎というと、あの儒者のことか」
「ご存知でしたか。金子とは安積塾の同窓でして、著述物も預かってもらっている仲です」
「いつか小笠原殿のところで会ったことがある。大分親しげに見えたが」
「金子が小笠原殿とは知り合いとは知りませんでした」
「気をつけた方が良い。小笠原殿と金子に何かの関係があるかもしれない」
「はぁ、十分気をつけます」
と清河が言いつつ、泥舟の妻女お澪(みお)に白扇を求めた。
「どうなさるのです」
「なに、風呂に入っている間に、二、三首浮かんだので・・・」
清河はすらすらと三首の和歌を書き流した。その一首が
「魁(さきが)けてまたさきがけん死出の山 迷いはせまじすめらぎの道」
また、もう一首は
「砕けてもまた砕けても寄る波は 岩角をしも打砕くらむ」
であった。
どちらも辞世ともよめるものであった。
「何だ・・・。これは・・・。不吉だ。今日は出かけないことだ」
と厳しく言い残し、泥舟は登城するため玄関を出て行ったが、そのすぐ後に清河はお澪が必死に止めるのも聞かず、約束だからやはり行くと出かけたのであった。
ここで清河の立場になって考えてみたい。
清河は、若き時から儒者をめざし故郷を出で、江戸で一流の学者となるべき勉学時に、桜田門外の変に出遭った。これを機縁に攘夷・勤王に走り、日本国中を遊説し、多くの人物と交り合ってきた。その後、江戸に戻ってきて、四月十一日に横浜を視察したのであるが、その衝撃は大きなものであった。
横浜では、日本人と欧米人がビジネスとしての交易を盛んに行っており、それは輸出入の実態としてすでに国の中に組み込まれていて、日本という国は世界と付き合っているという事実、その認識を現場で持った時、清河に大きな疑問がわきあがったのである。
今まで追求してきた国体としての攘夷、それは概念価値として立派であっても、その実現は世界と向かい合っている日本の実態にそぐわない方向に行くのではないか。
また、仮に横浜襲撃が成功したとしても、その結果は諸外国と全面的な戦争になり、日本の現状では負けることが必定であろう。
そうなってしまえば清国の二の舞になる。自分の攘夷という行動結果が、かえってこの国を焼く業火になるのではないか。
横浜で見聞きしたことが、清河の腸に深く刃を刺し込み、それが風邪という体調変化と化し、熱で冒された脳裡に、はじめて自分に対する疑問が浮かんできた。
どうすればよいのか。ここで横浜焼き討ちをやめてしまっては、浪士組を攘夷倒幕に持っていくことは消えるし、もう同志は走りはじめている。
横浜での実態から新たに目覚めた清河の心中に、生まれてはじめて矛盾・混乱・ジレンマのうめき声が発しだしたのである。
その時に金子与三郎から、会いたいと言ってきたのである。金子の思想は穏健な公武合体論であった。そのため、尊攘派、佐幕開国派の両方につき合いがあり、その金子から時勢のことで相談があるので、誰も連れずに一人で来られるかという誘いがあったのである。
清河はこの誘いに乗る決心を選択した。金子の罠かもしれない。しかし、その罠にのってみようと決めた。多分、金子が今の自分の矛盾・混乱・ジレンマに決着をつけてくるだろう。
焼き討ちをやめ、虎尾の会の志をのこすには・・・それには今の自分を投げ出すしかないだろう。清河は気持ちを整理して、金子に会うことを決めたのである。
清河八郎は希代の策士といわれてきた。だが、その策士は、最後に日本という国の未来を考えたのだと思う。
さすがに鉄舟が刎頸の交わりをした清河八郎だと思う。鉄舟ほどの人物が本心から付き合った清河である。
清河は、自らの処置を、自らで決着をつけたのである。
清河暗殺は、鉄舟と泥舟を歴史の舞台からいったん身を引かせることになった。
2010年04月19日
清河暗殺その三
山岡鉄舟研究 清河暗殺その三
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
文久三年(1863)三月、上洛した将軍家茂は朝廷から攘夷をいつ実行するのかという、攘夷期限を明示するように執拗に厳しく責めたてられた。
朝廷が督促する攘夷という内容は、通商条約を破棄し、在留の外国商人を追い返し、貿易を中止し、それをいつ外国側に通告し、実現させるのか、というもので実態的には無理難題で、現実味がないものであったが、これが勅意であった。
とうとう四月二十日になって、将軍は攘夷期日を五月十日と答え、その旨を諸大名に通知して、ようやく将軍は江戸に六月に戻ることができた。
清河が実質リーダーである浪士組は、将軍が攘夷期日を定める前に、関白鷹司輔(すけ)煕(ひろ)から攘夷の達文が下されており、それを旗印として江戸に戻り、攘夷の一番乗りを果たそうと「横浜焼き討ち」を計画していた。その決行予定日は四月十五日であった。
しかし、決行二日前の十三日に清河は暗殺された。幕府は事前に清河の計画をつかんで、綿密な仕掛けで斬ったのである。
では、「横浜焼き討ち」が四月十五日であることを、どのようにして幕府はつかんでいたのか。
それは、「村摂記」(『未刊随筆百種第三巻』編者三田村鳶魚 中央公論社)にあるように「内命を受けたる頭は、窪田冶部右衛門、刺客は、佐々木只三郎、永峰良三郎(後に弥吉)高久左次馬等にてあと二人は記憶せず」と記述されているように、窪田冶部右衛門による密告だ、と推測するのが妥当であろう。
では、ここで疑問が生じるのは、清河が浪士組一同に「横浜焼き討ち」決行日を明示していたかということである。
「横浜焼き討ち」は清河にとっては義挙、幕府にとっては暴挙で、正面切って宣戦布告して行う戦いではなく、相手の隙をつく仕掛けをもって急襲するものである。また、攘夷派の攻撃に対して幕府は横浜を警戒態勢下にしているのだから、攻撃日を浪士組員に伝えることは決行間際のタイミングにするか、目的を明示しないまま行進していく途上で命令する等、細心の注意をもって秘密裏に計画する。だから、事前に決行日を知っていたのは、清河が心を許した僅かな人数に過ぎないであろう。
このように考えてくると、確かに窪田冶部右衛門は浪士組の頭の一人ではあるが、清河の腹心ではなく、決行日を把握していなかったと考えるのが妥当である。
そこで、窪田冶部右衛門はどうやって決行日情報を入手したかが問題である。そのヒントとして、ここに神奈川奉行所組頭である窪田の息子、泉太郎が登場する。
攻撃する側の清河の思考回路を想定すれば、焼き討ちするには、当たり前であるが、そこの地理状態を知らねばならぬわけで、そのためには横浜を事前に視察調査する必要があるが、簡単に旅するような感覚で横浜に行けたのであろうか。それは無理であった。
横浜は、もともと東海道神奈川宿から南にはずれた一漁村であったところで、幕府は神奈川開港の際、街道の要衝地を開くことを嫌って、ここに外国施設を集中させたという経緯があったので、結果として、長崎の出島のごとき対応を図っていた。
ということは、横浜に通じる道筋に関門という番所、安政六年(1859)から翌年にかけて子安・台町・芝生・石崎・暗闇坂・吉田橋の6か所と宮ノ河岸渡船場に設けられ、さらに、掘割りによって居留地が分離されると、西の橋、前田橋、谷戸橋の3か所にも設置され、役人が通行人や荷物の改めを行っていたので、簡単に横浜を事前視察することはできなかった。
そこで、清河は窪田冶部右衛門の息子・神奈川奉行所組頭である泉太郎に目を付けたのである。また、泉太郎は組頭であって、奉行の次に位する重要な役職であるから、ここから紹介受ければ横浜視察はできるだろう。
早速に清河は、得意とする策略、それは冶部右衛門を通じて「視察する正当性ある」ものであるが、その策をもって泉太郎への紹介状を書かせることに成功し、これを持参し鉄舟と斎藤熊三郎(清河の弟)、西恭介の四人で横浜に出かけたのである。四月十日のことであった。
この横浜視察では、鉄舟がひとつの事件を起こしている。そのことが中村維隆(草野剛三)自伝に次のように書かれている。
「窪田泉太郎は外国人との親交があったので、そのにおいが身についていた。室内の装飾はもちろん、御馳走として出たバターや洋菓子類がそうであった。鉄舟はそれを見ると『けがらわしい、こんなものが食えるか』と、出されたものを引ったくり、床の上に叩きつけると、翌日は早々に江戸へ引き上げた」(『維新暗殺秘録』平尾道雄 新人物往来社)
これを述べた草野剛三は横浜に同行していなかったので、状況を割り引いて考えなければならないが、鉄舟がこのような行動をとったと伝えられている。
この鉄舟の振る舞い、今までの鉄舟とはずいぶん異なる奇異な感じを受ける。鉄舟は物事をじっくり考え、人前で乱暴をするような性格ではない。だが、横浜での行動は大人げなく、芝居がかっているように感じる。わざとらしさが窺え、敢えて無理した所業に思えるのである。
これは大事なポイントである。普段の鉄舟ではない。何かある。多分、それは鉄舟が何らかを伝えるための芝居ではなかったのではないか。
横浜に来た我々清河一行は、外国人が嫌いで、外国人が滞留しているところに見学に来るような人種でない、つまり、頑強な攘夷派であるということを明らかにするサイン表示ではなかったか。そう考える背景根拠は、鉄舟が根っからの幕臣であることである。
ここで改めて清河の行動目的内容を確認したい。清河は「横浜に押し出し、市中に火をつけて、そのごたごたに乗じて、外国人を片っ端から斬りまくり、黒船は石油をかけて焼き払い、すぐに神奈川の本営を攻めて、軍資を奪い、厚木街道から、甲府城に入って、ここで、攘夷、しかも勤王の義軍を起こそうというのである」(「新撰組始末記」子母澤寛)であった。
この中の神奈川本営(奉行所)襲撃は何を意味するか。それは倒幕の蜂起軍となることにつながり、勤王の義軍を起こすということは、幕府と対峙することに直結する。
つまり、清河の本心は「攘夷」でなく「倒幕挙兵」にあることを、この頃に至ってようやく鉄舟は見抜き、そうであったからこそ愚にもつかない所業を行って、神奈川奉行所組頭・泉太郎にシグナルを送ったのではないかと推察する。
本来、鉄舟には幕府を裏切る気持ちは毛頭ない。元々攘夷とは当時の殆どの日本人が同様の気持ちを持っていたわけで、将軍家茂が朝廷に攘夷を約するために上洛した時でもあり、攘夷が時の大勢であったから、清河と親しくし、清河を保護し助け、清河の仲間となって今日まで歩んできたが、倒幕となると事は異なる。三河譜代小野家六百石旗本の血筋が蘇ってくる。
この幕臣に戻ったことは京都でもあった。清河が京に着いた夜、浪士組全員を新徳寺に集め、朝廷に上書を奉じ、勅諚を賜った一連の経緯の際、そのことを清河から知らされた鉄舟は、悩みながらも浪士取扱いの鵜殿に報告、鵜殿は老中の板倉勝静に伝えたことがあった。その時と同じ幕臣の気持ちを再び蘇らせたである。
鉄舟が倒幕に与しないことについて、藤沢周平が「回天の門」(文春文庫)で、鉄舟と清河の会話を通じて次のように述べている。
「やはり、横浜焼き討ちは攘夷でなく倒幕挙兵なのですな?」
「そう、倒幕だ」
八郎は言いきった。並んで歩いている山岡の顔を見たが、暗くて山岡の表情は見えなかった。ただ重苦しい溜息を洩らすのが聞こえた。
しばらく無言で歩いてから、山岡が言った。
「だとすると、おれは今度のくわだてには加われません」
「むろんだ」
八郎はいつかのように、幕府と手を切れとは言わなかった。いたわるような口調で、しかし明快に言った。
「君と松岡は脱けてくれ。いずれ、そう言うつもりだったのだ。このあと君は、われわれのやることを見とどけてくれるだけでよい」
藤沢周平も述べているように、鉄舟は横浜行きの前に、清河の倒幕挙兵に賛せず、行動を共にしないという決意をしていた。
さて、結果として清河は「横浜焼き討ち」決行計画二日前に暗殺されたが、幕府による暗殺隊に中に窪田泉太郎がいたことは重要である。神奈川奉行所の組頭が何故に参加していたか。この背景を解明することが、清河が斬られるまでのストーリーに関わってくる。だが、その解き明かしの前に清河が斬られた場面を述べたい。
清河については、多くの人たちが暗殺場面を取り上げているが、いろいろ読み比べてみた結果、やはり、司馬遼太郎の「幕末」(文春文庫)でお伝えしたい。
その日、清河は朝から頭痛を病んだ。文久三年四月十三日である。
ここ数日来、山岡家とは一つ家同然の隣家高橋泥舟の屋敷に寝泊りしていたが、泥舟の妻女が、
「風邪でしょう。きょうは外出はおやめなさいしまし」
と心配してくれたが、
「いや、まずい日に約束してある。先方が折角酒を買って待っているそうですから」
そう言い残して出かけた。行先は、麻布上之山藩邸のお長屋である。かつて清河とは安積良斎の塾で同学だった金子与三郎という儒官をたずねるためであった。
金子のほうではこの日、清河が訪ねてくることは数日前から連絡を受けており、酒を置いて待っていた。
約束の刻限からすこし遅れて清河がやってきた。
用件はわかっている。攘夷連名名簿に血判署名することである。すでに清河はその懐中の帳簿に五百人の署名をあつめており、日を期して挙兵し、まず横浜の外交施設を襲撃することになっていた。むろんその挙兵と同時にこの軍団は王権復興の倒幕軍に早変わりするのである。
「古い学友だ。いまさら蝶々(ちょうちょう)せずとも私の気持はわかってくれるだろう」
「わかっている。加えていただく」
金子は快く署名血判し、あとは妻女に酒を出させ、徳利をさしのべた。その徳利の口が猪口にあたってカチカチ鳴ったことに清河は気づかない。
そのころ、藩邸の裏門あたりをしきりと往き来している数人の武士がある。
裏門からの道は一筋に赤羽橋まで伸び、橋のたもとによしず張りの茶店があり、そこでも数人の武士が、茶を飲んで屯している。いずれも二、三百石取りの直参の風体であった。
そのなかで首領株の佐々木唯三郎だけが、陣笠をかぶっている。あとは講武所教授方速見又四朗、高久保二郎、窪田千太郎、中山周助。
四ッすぎ、清河は藩邸を辞した。
清河も佐々木同様、檜に黒羅紗をはった陣笠をかぶっている。
したたか酔っていたが、たしかな足どりでしかしやや歩みを落して麻布一ノ橋をわたり切ると、不意に横あいから、
「清河先生」
と佐々木唯三郎が声をかけた。
「ふむ?」
「佐々木です」
と、ここからが唯三郎が工夫しぬいた兵略だった。すぐ会釈をするふりをして陣笠をとった。
清河もやむをえない。右手に鉄扇をにぎったまま陣笠のひもに指をかけた。
とたん、背後にまわっていた速見又四朗が抜き打ちをあびせた。ほとんど横なぐりといってよく、清河は左肩の骨を割られて前のめり、一歩踏みだしてつかに手をかけようとしたが、右手首に通した鉄扇のひもが妨げて抜けない。
「清河、みたか」
致命傷は、佐々木の正面からの一太刀だった。右首筋の半分まで裂き、その勢いで清河の体は左へ数歩とんで横倒しになり、半ば切れた首がだらりと土を噛んだ。
土に、酒のかおりがむせるように匂っていたという。
これが司馬遼太郎の描いた清河の暗殺場面である。さすがに描写が真に迫り、斬られた場景を想起させるに十分であるが、ひとつだけ疑問が残る。
それは、清河はかつて佐々木唯三郎と講武所で手合せしたことがあり、その時は佐々木が、清河によって目がくらみ立ち上がれないほど打ちのめされたことがあった。
それほどの清河が、佐々木の工夫しぬいた兵略であったとしても、あまりにあっけない斬られ方、そこに何か感じるのである。
それと、どうして清河は幕府から狙われていることを分かっていたのに、何故に一人で麻布上之山藩へ金子与三郎を訪れたのだろうか。それまでは必ず数人が護衛として常に同行していたのに・・・。
これら疑問の背景には、思わぬ清河の心情変化覚悟があった。次号で述べたい。
2010年03月10日
山岡鉄舟 清河暗殺その二
山岡鉄舟 清河暗殺その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
清河八郎は、文久三年(1863)四月十三日の午後三時ごろ、江戸麻布の出羽三万石上山藩の上屋敷を退出し、一の橋を渡りきったところで暗殺された。
佐々木只三郎以下の暗殺チームによってである。その経緯は別途述べたいが、幕府はその翌朝には、残された浪士組の宿舎を取り囲むため、荘内、小田原等六藩の兵二千名を動員した。この時を待つように周到な準備をしていたのである。
この頃、浪士組は京都から戻った二百数十名に、江戸で新たに加わった百六十名程、計約四百名となっていたが、浪士組人数の五倍にあたる二千名を動員したこと、これが京都から帰ってくる途中の中山道で、清河を暗殺できなかった理由を意味している。
京都を出る直前、清河暗殺隊として、旗本の中で屈指の使い手である佐々木只三郎他六人が投入されたのであるから、一対一でも、また、策を弄し、取り囲み、斬ることは可能であった。だが、それを実行し得ず、暗殺したのは江戸に戻ってからであった。
理由は、清河を道中で暗殺することは危険性が高い、と幕府が判断したからである。
その一つの理由は、道中で清河を斬った場合、一緒に江戸まで戻りつつある清河を頭と仰ぐ仲間たちが、おとなしく帰順し、捕縛され、そのまま江戸に戻るとは考えられず、凄絶な死闘が繰り広げられることになり、幕府側もかなり傷を負うことになる。
さらに、清河を斬った後、残りの浪士組メンバーがどのような行動にでるか、それが向背不明であって、反乱ということも予想される。確実に相手を抑えつけ、反攻の戦意を失わせ、混乱を起こさないためには、通常相手の三倍から五倍の人数を要するだろう。
仮に、その人数を動員しようとするならば、道中であるゆえに、幕府の名において中山道筋の藩から兵を出させることになるが、浪士組二百数十名を考慮すると、最低でも千人余の兵が必要になる。
しかし、当時の諸藩における兵の動員力は、十万石大名でもせいぜい千人であった。家康から家光の戦国気分がさめやらぬ時代では、十万石大名で二千名の兵を優に動員できたが、二百五十年も続いた天下泰平の結果、各藩動員兵力は半減してしまっている。
したがって、浪士組に対応する兵力の動員には、一藩では無理で、数藩に依頼することになり、それも騒ぎが起きてから老中に報告、それから街道筋の藩主に動員協力を指示することになり、そのための手続きが煩わしく、かつまた、実際に兵士が動員されるまでには時間を要するであろうから、その間、騒乱は続き、かえって幕府の権威を落とすことにつながる。このような見通しを持ったのであった。
結局、中山道において清河暗殺は無理であった。高橋泥舟浪士取扱いの役目は道中の乱暴狼藉を少なくし、無事に江戸に着くことを目的とし、暗殺隊の佐々木只三郎他六人は、江戸に戻ってから、その時のための念入りな計画をつくるため、中山道を清河と共に歩いたのであった。
ところで、この当時幕府には、この清河をどうしても暗殺しなければならない、新たな強い背景が発生していた。
清河が幕府に対し浪士組献策を行い、そこから進めて来た一連の行動は、結局、体制と権力は利用するが、幕府を無視して朝廷から勅諚を賜ったことを含め、成果は自分の益にするものであって、結果として清河の存在自体が憎しみをもたれ、それが清河の身に翳してくるのは当然で、暗殺命令が幕府体制側から出され、京都出発時に六人の刺客が放たれた理由であった。
だが、しかし、江戸に戻ってみると、もっともっと重要な外交問題が関係しており、清河暗殺は焦眉の急となっていた。
それは、清河を生かしておくと、生麦事件から発した国際的な大問題にもつながっていくからであった。
生麦事件とは、島津久光が幕政改革を目指し、勅使大原重徳とともに江戸に向かい、その目的をほぼ達し帰国の途中、東海道生麦村を通りかかった際に発生したイギリス人殺傷事件である。文久二年(1862)八月のことであった。
イギリス本国は激怒し、文久三年の年明け早々イギリス外務大臣ラッセルから賠償金支払いと、これを拒否する場合は横浜港の艦隊が武力行動に出るなどの厳しい通告がなされ、幕府は進退窮まっていた。
というのも、朝廷からは攘夷実行を督促され、生麦事件に関するイギリスからの要求は一切拒否すべき
と朝議されたほどであったから、イギリスに賠償金を支払って艦隊からの攻撃を避けることもできず、しかし、イギリスに賠償金を支払わなければ、イギリス艦隊の攻撃に対し、勝算はないものの応戦することになる。
イギリス艦隊との戦力差を知る幕府は、結局賠償金の支払いを受け入れることになったが、支払い条件などで頑強に抵抗し、期限を延ばしに延ばし、イギリスも延期に応じたが、戦争開始の噂が巷間に流れ、幕府も一方では勝算なきものの、諸藩に合戦準備を命じ、家族たちを国許や知行地に避難させ始め、その動きに江戸市中や横浜は大混乱に陥っていた。
この当時の外交交渉について「幕末・維新」(井上勝生著)は次のように表現している。
「外国奉行は、要求に応じられない『真の問題』は攘夷派大名の反対があるからだと説明する。英仏の外交部は、攘夷派大名を倒すために軍事援助の用意があると申し出た。外国奉行竹本正雅は、即座に『幕府は自分の手でかれらを屈服させたいし、且つ屈服させるつもりである』と拒否する。
激しい応酬があった日英仏の外交交渉の様子は、英仏外交文書を駆使した萩原延壽の大作『遠い崖』に再現されている。江戸と横浜を往復し、戦争回避の外交交渉に孤軍奮闘した外国奉行竹本は、当時は目立たなかったが、有能で誠実な幕臣であった。そのころ、江戸での外交の現場にいた旧幕府外国掛出身で、のちに明治政府の外交官になる田辺太一は『幕末外交談』で、そのように回顧している」
もう少し苦しい幕府の外交交渉をつづけたい。
「一八六三(文久三年)五月、ようやく賠償金支払い交渉が分割払いでまとまってゆく。そこに朝廷から届くのが攘夷実行の勅であった。そのため、突然、償金支払い停止が、幕府からイギリス側に通告される。イギリス外交部は、海軍の手に事態をゆだね、横浜は緊張の極に達した。幕府側は、事態をありのままに説明し、イギリスは、事態の解決の見通しと期限を問い、再度、英仏共同の軍事援助を提案するが、幕府はやはりことわった。
攘夷実行期日の前日(五月九日)、幕府は、朝廷の制止を無視して賠償金全額を一度に支払い、そして、横浜鎖港の外交交渉にはいることを宣告した。
生麦事件償金支払いを知った京都の孝明天皇が『震怒(しんど)』し、自筆の勅書を幕府に発する。『皇祖神に対したてまつり、申し訳これなく』、『たとえ皇国、一端、黒土になりそうろうとも、開港交易は決して好まず』、と。開港交易は、皇祖神(天皇の先祖)に対して申し訳ないという。日本の一部(江戸)が『黒土』(焼け野原)になっても、開港は拒めと。続く文章では、『不心得の儀、唱えそうろうもの』には、『きっと沙汰』あるべしと。『不心得』とは、江戸の外国奉行竹本らのことである。ついで、戦争が始まることを予期し、風(かぜ)日祈宮(ひのみのみや)(伊勢市。蒙古襲来に神功があったとの伝説をもつ)に神助を祈った。かつて堀田が言った『正気の沙汰とは存じられず』という事態が繰り返されたのである。
イギリス艦隊七隻が、本国外務省訓令に従って、鹿児島湾に入る。七月初旬、暴風雨のなか二日間、砲撃戦がつづいた。旧式砲ながら薩摩藩砲兵は、実戦を想定しなかったイギリス側に戦死者十三名という損害を与えた。
一方、イギリス側は、110ポンド・アームストロング砲を含む砲撃で圧倒的威力を示し、鹿児島市街を焼失させる。アームストロング砲は後装施条式の巨砲で、イギリス海軍は、薩英戦争で初めて実戦に使用した。戦況自体は、イギリス軍の被害も大きく、勝敗不明という評価も出るほどである」(幕末・維新)
文久二年八月に突発した生麦事件は、一年経過後の文久三年には、上記のように激しく、苦しい、厳しい外交交渉の連続となっていたが、まさに、その途中に浪士組が京都から江戸に帰着したのであった。
江戸に戻った清河の目的は明確である。それは「虎尾の会」の盟約書に記していた横浜の外国人居留地の焼き討ちであり、その先に攘夷挙兵という壮大な企みであった。
ここで冷静になって考えてみたい。幕府は生麦事件の後始末で苦しい外交交渉を強いられている。朝廷からは賠償金の支払いは拒否するよう勅命があり、一方では戦争回避をしなければならない。結局、幕府は賠償金支払いの方向で解決しようとしているとき、清河が目的としている「横浜焼き討ち」がなされたら、その成否は別として、外国人に被害が発生したとしたら、どのようなことになったであろうか。
清河の狙う実行内容は「大挙して横浜に押し出し、市中に火をつけて、そのごたごたに乗じて、外国人を片っ端から斬りまくり、黒船は石油をかけて焼き払い、すぐに神奈川の本営を攻めて、軍資を奪い、厚木街道から、甲府城に入って、ここで、攘夷、しかも勤王の義軍を起こそうというのである」(「新撰組始末記」子母澤寛)であった。
もし、これが実行されていたらどうなったか。結果を最小限に見積もっても、生麦事件の解決は賠償金支払いというレベルを超え、他のこと、それは日本側が不利になり、さらに外交関係の紛擾と軋轢が激しくなったであろうことは容易に予測つく。
次に、清河が狙うターゲットとした横浜に住む外国人からみた情勢を、アーネスト・サトウ著「一外交官の見た明治維新」(第七章 賠償金の要求)からいくつかひろってみたい。
まず、賠償金の交渉で英仏と会談時に「イギリスとフランスの代表から、攘夷派の横浜襲撃に対する防御策を講ずることを申し入れて、日本側の承諾を得た」と記されているが、これは幕府から何かの事前サインがあったことを意味している。
さらに、「この時分は、浪人という日本人の一種不可思議な階級がいだいている目的と意図について、よほど警戒すべきものがあった。この浪人というのは、大名へ仕官をせずに、当時の政治的な撹乱運動へととびこんできた両刀階級の者たちで、これらは二重の目的を有していた。
その第一は、天皇を往古の地位に復帰させること、否むしろ、大君(タイクーン)を大諸侯と同列まで引き下げること。
第二は、神聖な日本の国土から『夷狄』を追い払うことであった。彼らは、主として日本の西南部の出身者であったが、東部の水戸からも輩出していたし、その他のあらゆる藩からも多少は出ていた。五月の末には、浪人が神奈川襲撃をたくらんでいるという風説があったので、神奈川にまだ居残っていたアメリカ人も何がしかの『騒動に対する補償金』をもらって、余儀なく住居を横浜に移さなければならなくなった」。
これは外国人たちが襲われることを予期しており、その情報が幕府から伝えられたことを意味している。
また、「六月の初めに、六人の浪人どもがこの土地に潜伏しているという情報があったので、別手組(江戸の公使館に護衛兵を出す団体)が、訓練された若干の部隊とともに横浜へやってきて、野毛山の下に新築された建物内に駐屯した。その時から一八六八年の革命(注:明治維新)のずっと後まで、われわれは断えず日本の兵士の厄介になっていた。私は、この別手組の中に数名の顔なじみの者がいるのに気がついたが、それは前述のように、私が江戸に行っていた間に親しくなった者たちであった」と、幕府が護衛をつけた事実を述べ、清河を頭とする「横浜焼き討ち」情報を、事前に幕府はつかんでいたことを証明している。
アーネスト・サトウがいう「五月の末」を、五月三十一日と考えれば、旧暦四月十四日(庚寅)となり、同じく「六月の初め」を、六月一日と考えれば、旧暦四月十五日(辛卯)となる。清河が横浜襲撃と予定したのは四月十五日である。幕府は清河を危険人物として十分に監視していたからこそ、その動向について詳しく把握していたのである。
しかし、ここで幕府にとって困る厄介な問題があった。清河の動向はつかんで警戒し、身柄を拘引逮捕したいのであるが、表向き難しいのである。
それは、清河には朝廷・関白鷹司輔煕から達文が下されていたからである。
「イギリスからの三カ条の儀申し立て、いずれも聞き届け難き筋につき、そのむね応接におよび候間、すみやかに戦争に相成るべきことに候。よって、その方引き連れ候浪士ども、早々帰府いたし、江戸表において差図を受け、尽忠粉骨相勤め候よう致さるべく候」というものである。
清河は忠実に朝廷の指示を実行しようとするのであるから、正規の召し捕りを行って、勾留することは難しいのである。従って、当然の策として秘密裏に抹殺するしかなかった。しかし、この抹殺は権力によるテロ行為であって、テロは本来国家権力がとるべき手段ではないが、朝廷に絡んでいる場合はテロしかなかったのであろう。その分だけ幕府は慎重に実行計画をつくりあげていた。
それが清河を斬った翌日には、直ちに浪士組人数の五倍にあたる二千名、それも幕府直轄兵の多くが京都に駐留していたので、計画的に荘内・小田原等六藩から動員された状況から判断できる。
清河八郎という一介の素浪人が、幕府にとって国の行方を左右するほどの国際問題上重要人物になっていたのである。
次号では幕府の手堅い動きと、それに対する鉄舟の動向、清河暗殺の状況についてふれたい。
2010年02月04日
清河暗殺その一
山岡鉄舟研究 清河暗殺その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
「村摂記」なるものがある。一橋家の家臣で、慶喜の小姓であった村井鎮、後に久五郎と言い摂津守ともなったが、これが明治になって、その体験を回想し記述した書である。
もともとこの書には名前がついていなかったが、三田村鳶魚が「村摂記」と名付けたものであって、この中に清河暗殺について次のように記述されている。(未刊随筆百種第三巻 編者三田村鳶魚 中央公論社)
「時の御老中もなんとも手のつけかたがないから、頭のうちに清川にも恐れず、可なり議論もある者一人に秘密に命じて、清川を打果たせしむることになった、其頭の門人に剣術体術ともにすぐれた人を五人選抜して」とあり、特記事項として「左の人名は本文に掲ぐべからず」とした上で、「御老中は小笠原壱岐守、当時図書頭と云ふ、頭は、松平上野介、前主税之助と云ふ、高橋伊予守、精一郎と云ふ、山岡鉄太郎、内命を受けたる頭は、窪田冶部右衛門、刺客は、佐々木只三郎、永峰良三郎(後に弥吉)高久左次馬等にてあと二人は記憶せず」と記述されている。
「村摂記」で明らかになったのは、浪士組の頭として泥舟と鉄舟などに加えて、窪田冶部右衛門という人物がいて、この窪田が清河暗殺の命を受け動いたということであるが、この窪田は今まで浪士組に関わる諸資料に、ほとんど登場しなかった人物である。
一体、窪田冶部右衛門とはどのような人物であったのか。
その前に、清河暗殺に関して、誤解を与えかねないような記述があるので少し触れてみたい。まず、最初にこの「村摂記」を引用した野口武彦著の「幕末パノラマ館」(新人物往来社)を見てみたい。
「この回想には『左の人名は本文に掲ぐべからず』と特記した上で、老中は小笠原壱岐守、頭は高橋精一郎(泥舟)、山岡鉄太郎(鉄舟)だったと当時の機密が漏らされている」とあるが、ここで「村摂記」の引用が切られている。つまり、「内命を受けたる頭は、窪田冶部右衛門」という部分が抜け落ちているのである。
また、この野口氏の見解を引用したものに小島英煕著の「山岡鉄舟」(日本経済新聞社)があり、そこでは次のように記されている。
「野口武彦神戸大学教授によれば、慶喜の小姓役だった村井久五郎が『村摂記』にこういうことを書いている。・・・途中略・・・『左の人名は本文に掲ぐべからず』と特記して、老中は小笠原壱岐守、頭は高橋精一郎(泥舟)、山岡鉄太郎(鉄舟)だったという。にわかには信じられない話で、真実は闇の中だが、もし関与したとすれば、高橋だろうか。政治の暗闇を思わせる話だが」
ここで重要なことは、清河暗殺に高橋(泥舟)が関わっているのではないかという推測を小島英煕著が述べている点である。もしかしたら鉄舟をも疑ったかもしれないような書き方である。
しかし、実際の「村摂記」による記述は、明確に「内命を受けたる頭は、窪田冶部右衛門」と記述しているのであるから、全く泥舟と鉄舟は関わっていない。
それを証明するのは清河暗殺後の処分である。暗殺事件後勘定奉行から取り調べを受けたが、泥舟・鉄舟と松岡万は勘定奉行所で行われた。つまり、現代でいえば警察署に出頭して事情聴取されたのである。
だが、窪田は中条金之助の邸で事情聴取されたのであって、現代の政財界人が任意で「某所にて」というものに似ている。
さらに明確なのは処罰結果である。
高橋伊勢守(泥舟)・・・御役御免の上蟄居
山岡鉄太郎・・・・・・ 同じ
松岡 万・・・・・・・ 同じ
窪田冶部右衛門・・・・御役御免の上差控・・・後に小普請入り
まず、この御役御免であるが、浪士組は新徴組に改編しようとしていたことでもあり当然の処罰であるが、問題は蟄居と差控の内容である。
蟄居とは「自宅の一室に謹慎、外出は許されない」が、差控は「自宅に謹慎ではあるが、行動はあまり制限されない、外出も可能」というもので、蟄居よりは処罰が軽いのであり、加えて、小普請入とは御役御免なのであるから当然で、どうもこの窪田に対する処罰は実質無罪と同じと思われるのである。
この処罰後、しばらく泥舟と鉄舟は幕府から干され、時代の歴史から隠れるが、窪田は二カ月後函館奉行に再登用され、その後すぐに神奈川代官となり、続いて西国郡代に就任しているのである。
このような窪田の動向から推測できるのは、やはり「村摂記」にあるように、清河暗殺には窪田冶部右衛門が絡んでいて、浪士組幹部処罰の手前、表面上一時的に処罰めいた処分をしたが、実際は論功行賞としての人事が行われたと考えるのが妥当と思われる。
では、窪田冶部右衛門とはどのような経歴か。それを佐倉藩家老で、明治二三年貴族院議員になった西村茂樹が次のように述べている。
「窪田冶部右衛門といへるは元肥後熊本の藩士なりしが、故ありて藩を出で幕府の士となれり。其居宅は、江戸巣鴨にあり、其邸地の広さ数萬坪ありて周囲に杉を植付け(杉数四萬本ありと云う)其外、梅、柿、桃を多く植え、梅は千本、柿は其実十三駄(注 駄とは牛馬一頭が積む荷物)を得という。其他は尽く麦畑と為し、一家皆耕作を事とし土着武士の風を行う。
窪田、武芸に長じ、慷慨勇壮の士なり。邸内に七十間の馬場ありて日々乗馬を為し、孫娘の十三四才なるがありしが其娘にも乗馬を学ばしむという。常に幕府初め諸藩の士気の衰敗し士風の惰弱になれるを慨し、やく腕して時勢を談ず。又軍具足を制作することに長ず、(中略)窪田の子は西洋銃陣の法を学び、幕府の歩兵奉行となり、備前守と称す。明治元年鳥羽の戦に戦士す。」(窪田冶部右衛門の賦 西沢隆治著)
このような窪田について書かれていることから推測すると、窪田冶部右衛門はかなり特異な御家人であったと思われる。なお、窪田の子泉太郎は後日鉄舟と絡む人物であり、この経緯は次回でお伝えしたいが、もう少し同書を敷衍して窪田という人物をみてみたい。
まず第一は、御目見え以下の御家人として七十俵五人扶持という身分なのに、大名の下屋敷に匹敵する広大な土地に住み、耕作に従事し半農半士の生活であることである。
次に、具足の製作に長じていたようで、この技術力をもって具足の修理から仕立てまでの内職を手広く行っていた。時代はペリーが来航してから、それまでは具足は正月用の飾りものであったのが、急に手入れを行い、新しく作る必要性が発生し、この突如訪れた具足整備ブームによって、窪田家は内職の域を脱する家内工業的な忙しさとなった。当時は皮等をいじるのは下賤の仕事として、卑しく思われていたが、全く気にしないで引き受けていたことも、窪田の特異性を示す。
加えて、窪田は武芸に長じていた。剣術、槍術、柔術、馬術、水練、鉄砲という武士のたしなみはすべて練達していた。窪田の邸には、親交の深かった川路聖謨(かわじとしあきら)の孫たちや、坂本竜馬を斬ったとされている今井信郎も柔術の稽古に通っていたという。
その窪田の武芸はとうとう講武所にも認められ、すでに五十一歳になっていたが、教授方になり、御家人から御目見得以上の旗本となり、奥詰に出世したのである。
幕末時の奥詰とは、文久元年(1861)に創設された、将軍警護を預かる親衛隊で、総員六十名ともいわれ、講武所の教授方を務めた武芸名誉の旗本・御家人から選任したものである。時の将軍家茂から奥詰衆への信頼は厚く、設置以降必ず将軍の上洛に随行し、長州征伐でも、奥詰は小姓・小納戸といった将軍の身の回りの世話をする者と共に近侍しており、その信頼の厚さは数多い武官の中でも群を抜いていた。
この窪田の手引きによって、実際に清河暗殺が実行されたのは江戸に戻ってからであった。だが、浪士組が京都から江戸に戻るべく出立しようとした矢先、幕命によって新たに浪士組取締として着任したのが佐々木只三郎他であり、いずれも講武所教授方で、旗本の中では屈指の使い手という暗殺チームであったが、どうして江戸への道中で暗殺を実行しなかったのだろうか。道中であるから清河と接する機会は多かったと思われるのに・・。
これについていくつか紹介したい。
まずは司馬遼太郎著の「幕末」からである。
「途中、中山道馬篭の宿の本陣島崎吉左衛門方に入った時、佐々木は、山岡鉄太郎の部屋に余人がおらず山岡が独り坐禅を組んでいるのを見きわめてから、そばににじりよった。
『山岡さん話がある』
『なんだ』
『隣室を確かめてよいか』
『その必要はない。隣りは無人だ。相談というのは、清河を斬ることだろう』
『知っていたのか』
『いや、知らん。あんたが不意に浪士組取締になったのはそんな含みだろうと思った。差金は板倉(伊賀守・老中)さんだな』
『ご想像にまかせる。とにかく、八郎奇妙なり、とさる閣老が申される。あの清河がこのさき江戸に入れば、希代の策士だ。勅諚を笠になにをやりだすか。おそらく江戸、神奈川で攘夷騒ぎをまきおこして、あわよくば天下の一角に旗をあげようとするだろう』
『しかし』
山岡は口をつぐんでから、やがて、
『あんたに八郎が斬れるかね』
『斬れる』
『一人で?』
と、山岡はこわい顔をしてみせた。
『いや、兵略は答えるすじではなかろう。ただ相談役としてあんたに一言申しておくべきだと思って罷り越した。ただしこのこと、くれぐれも清河に明かしてくださるな』
『ご心配には及ばん。口のかたいことだけがわしの取り柄だ。ただし言っておくが、清河をわしはあくまでかばうよ。あれは百世に一人という英雄だ。ただ惜しいことに背景を持たぬ。われわれには大公儀という背景がある。薩長の縦横家たちにも藩の背景がある。そこへゆくとあの男はたった一人だ。一人で天下の大事をなそうとすれば、あちらをだまし、こちらをだまし、とにかく芸がこまかくなる。いますこし、あの男が英雄らしくなるまで生かしておいたらどうだろう』
『上意ですよ』
『あんたは板倉閣老の家来かね。われわれ直参で上意といえば将軍家がおわすだけだ』
もう一つ紹介したい。子母澤寛著の「逃げ水」である。
京都から江戸に中山道を十一里下って、第一夜を近江武佐の本陣丸屋一室で迎えたときの、泥舟と鉄舟の会話である。
「謙三郎(泥舟)は声を落して山岡へ耳を貸せというような格好をした。
『新任の出役六名、ちと穏かならん面つきだ。気をつけよ』
『は、わたしもあの時からそれは感じた。六人悉く眼光に殺気がある。隙あらば清河さんをやる気だろう。ね、兄上―――』
とこんどは山岡が謙三郎の耳元へ、
『周防守様から命じられて―――』
といったら、
『これっ』
と謙三郎は激しい声で、
『滅多なことは云うものではねえ』
『は』
『斬っても、斬られても、道中、事があっては、わたしの責が果たせぬ。充分に見張らなくてはならない。旅宿は、殊に眼をはなせんよ』
『承知した』
『江戸へ行って、総人数を確と引き渡した上では、何があろうと、わたしの関せんことだがね。尤も、清河も心得のある人間だ。もうその辺は感づいているだろうな』
いずれにしても、中山道では清河暗殺は未遂に終わったが、それにはもう一つ時代が持つ重要な理由が隠されていたのである。次回に続きたい。
2010年01月15日
新将軍誕生
山岡鉄舟 新将軍誕生
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
武士など支配特殊階級を除く江戸時代の人口は、幕府が調査を始めた享保六年(1721)で2606万人、最も少ない時で寛政四年(1792)の2489万人、最も多い時で天保五年(1834)の2706万人で(新編日本史図表)、きわめて安定的に推移していた。
武士を含む総人口は、江戸時代後期(1720 年頃)から明治元年(1868 年)までの150 年で、3,100 万人から3,400 万人強へと1.1 倍になった(第一生命経済研レポート 2005.6)と言われているので、この両者人数差の四・五百万人程度が武士など支配特殊階級と推察される。
この階級の中で、幕末期にどの程度の人間が日本の行く先を考え、それに向かって行動したのであろうか。
殆どの武士達は大勢順応主義であって、波のまにまに漂う生き方を送ったのではないかと思う。ただただ、わが身わが家大事に、なるべく傷がつかなきことを祈って、あとは成り行きに任せようとする生き方で、多分、これが90%を占めていたであろう。
残りの10%が真剣に考えていたと思うが、この中でも多くの人間は大勢を批判し、打開策を講じようとしたものの、封建制度の中でどっぷり浸かっていたのであるから、過去からの道徳基盤規準の範囲内で行動せざるを得なく、これが10%の九割方あったと推測する。
残りの10%の一割方、人数でいえば四・五万人程度の人間が、新時代構築に向け、居面打開を図るため、生死を賭してそれぞれの路線上で行動したと思う。
その路線の違いによるぶつかり合いが、幕末時の京都を舞台に政治対決を闘ったのであり、
それは、
①正常期の幕府優位体制への復帰を志向する将軍譜代結合、
②幕府を排除し朝廷と有力外様大名集団、
③孝明天皇と結合した一会桑グループ
であった。
では、清河八郎はどの路線に属していたのだろうか。
清河はどの路線にも入らず、別物で破格のものであったと述べるのは司馬遼太郎である。
清河が浪士組を京都新徳寺に集め、尊王攘夷の志を直接天皇に上書する内容を読み上げたことは前号で述べたが、その上書の最後に以下の文言が付されていた。
「万一皇命をさまたげ、私意を企て候輩、これ有るにおいては、たとい有司(注 役人)の人たりとも、いささか容赦なく譴責(けんせき)仕りたく、一統の決心御座候間、この段威厳を顧みず言上仕り候」
この文言の意味は、皇命に反すれば、幕府の高官役人、つまり、京都守護職であろうが、京都所司代であろうが容赦せずとがめるという意味であり、この上書に朝廷から「上書を嘉納する旨と、攘夷にはげむべきこと」と関白鷹司(たかつかさ)輔(すけ)煕(ひろ)から勅諚を賜ったのであるから、見方を変えれば幕府より上位機関を樹立させたのであり、
このことを持って司馬遼太郎は
「ついに清河の野望が達せられた。清河はこの瞬間、事実上の新将軍になった。あとは浪士組の名において天皇を擁しさえすればよく、その手は、むかし木曾義仲をはじめ織田信長、豊臣秀吉などの歴代の覇王がやってきたところである」と記している。(幕末・奇妙なり八郎 文春文庫)
出羽(山形)庄内・清川村の酒造業斉藤家の長男である清河が、野望としていた「回天の一番乗り」、つまり、天下の情勢を変えるための手段を持ち得、司馬遼太郎が言う新将軍となったわけであるから、一大事件であり、時代を覆すほどの意味ある清河の策であった。
しかし、この成果の見返りは大きい代償となって清河を襲ってきた。それは、組織力を持つ権力側から見れば、不遜で頭が高い体制無視の行動であり、加えて、清河が採った方策は、体制と権力は利用するが、その見返りは自分の益にするものであって、結果として清河の存在自体が憎しみをもたれ、それが清河の身に翳してくるのは当然であった。
つまり、暗殺命令が体制側から出されることになったのである。
だが、徒手空拳の清河には策を講じるしかなかった。上書を再び提出したのである。それは、その時、外交大問題になっていた生麦事件に関する建白であった。
生麦事件とは、島津久光が幕政改革を目指し、勅使大原重徳とともに江戸に向かい、その目的をほぼ達し帰国の途中、東海道生麦村を通りかかった際に発生したイギリス人殺傷事件である。
島津久光の行列と行きあったイギリス人は四人共騎馬であった。騎乗のまま向かってくる四人に、薩摩藩士が手振り身振りで、下馬し道を譲るよう指示したが、これを「わきを通れ」といわれたと思いこみ、わきに寄ろうとしたが四間(7.2メートル)幅の道は狭く、さらに、道に面して民家の生垣があるので、それ以上は寄れず、一瞬馬の足が乱れ、四人の一人リチャードソンの馬が、久光の駕籠が位置する小姓組の列の中に踏み込んでしまった。
その時、供頭の奈良原喜左衛門が走ってきて、長い刀を抜くと同時にリチャードソンの脇腹を深く斬り上げ、刀を返し爪先を立てて左肩から斬り下げた。野太刀自顕流の「抜」と称する得意技である。リチャードソンは騎乗のまま逃げたが、少し離れたところで落馬し、薩摩藩供目付海江田武次によって「楽にしてやる」ととどめを刺された。
もう二人、マーシャルとクラークにも、小姓組の者たちがそれぞれ抜刀し、斬りかかり、深手を負わせたが、アメリカ領事館に逃げ駆け込み、ヘボン博士の手術で命は助かり、もう一人の女性マーガレットは、帽子を飛ばされたが逃げ切ることができた。
これが生麦事件の概要であるが、イギリス本国は激怒し、文久三年(1863)の年明け早々イギリス外務大臣ラッセルから以下の三カ条が申し入れされた。
それは、生麦事件についてイギリス国女王をはじめ政府の最高首脳部が激怒していることが、長々とつづられた後に、以下の三カ条の要求であった。
① 十分に誠意のこめられた謝罪書を、イギリス女王に提出し、賠償金十万ポンドを支払うこと。この二項目の回答は本日より二十日間猶予をあたえるが、これを拒否する場合は横浜港の艦隊が武力行動に出る。
② 薩摩藩に対しては、艦隊を薩摩に派遣し、リチャードソンを殺害し他の者に重傷を負わせた薩摩藩士を捕え、吟味の後、イギリス海軍士官の眼前で首を刎ね、殺傷されたイギリス人の親族に賠償金として二万五千ポンドを支払うこと。
③ これを薩摩藩主が拒否した場合は、提督が全艦隊に対し「相応と思う強劇なる措置」を指令する。
さらに、末尾には殺人を容認した者として、久光処刑を要求すると書き添えられていた。
幕府閣僚たちは、イギリス側の要求について、ある程度覚悟はしていたが、予想以上の厳しいものであることから混乱、落着きを失い、善後策を講じはしたが、雄藩薩摩藩に対して指示できず、また、指示しても無視され、通告された期限が近づくに従い、イギリス艦隊の攻撃に対し、勝算はないものの応戦することになるであろうから、諸藩に合戦準備を命じ、家族たちを国許や知行地に避難させ始め、その動きに江戸市中は大混乱に陥った。
ところで、生麦事件発生当時の日本側の感覚はどうであったのであろうか。
まず、幕府は怒り狂う各国外交官たちに、ひたすら恐縮するばかりで窮地に立ちいたったが、当事者である島津久光は、幕府を無視し、仮名の足軽「岡野新助」なるものが殺傷し、同人は行方不明であるとの届を老中板倉勝静に提出し、行列をそのまま進めて行った。
また、江戸の薩摩藩屋敷では、今回の藩士の処置を当然とし、賞賛する声が高く、さらに、東海道筋の庶民も「さすがに薩州さま」と歓呼し、京都の薩摩藩邸に久光が到着した際には、久光の行列を見ようとして多くの男女がむらがり、薩摩藩を賞賛する声がしきりであり、朝廷も「生麦事件に関するイギリスからの要求は一切拒否する」という朝議をしたほどであった。
このようなタイミングに、またしても清河は以下の上書を奉ったのである。
「私ども儀、微賤ながら尽忠報告のため罷り出で候えば、かく外国御拒絶の期なり候上は、関東において何時戦争相はじまり候もはかりがたく候間、すみやかに東下、攘夷の御固めにお差しむけ下さるべく・・・」
浪士組を、攘夷の固めとして江戸に帰すよう、命令を頂きたいと願ったのである。これに対し、関白鷹司輔煕から達文(たっしふみ)が下された。
「イギリスからの三カ条の儀申し立て、いずれも聞き届け難き筋につき、そのむね応接におよび候間、すみやかに戦争に相成るべきことに候。よって、その方引き連れ候浪士ども、早々帰府いたし、江戸表において差図を受け、尽忠粉骨相勤め候よう致さるべく候」
確かに、関東ではイギリス艦隊の攻撃によって戦争になるという騒動で、またしても清河の策は時宜にかなっていたが、実は、清河の腹の中には別の謀略が潜んでいた。
それは「虎(こ)尾(び)の会」の盟約書に記していた横浜の外国人居留地の焼き討ちであり、その先に攘夷挙兵という壮大な企みであった。
今まで最終目的をここにおき、手の込んだ細工を弄して、浪士組を編成し、京都まできて、勅諚を賜ったのであるから、それを御旗に目的を果たすためには、江戸に帰らないといけない。そのための上書であり、その回答が達文であった。
この達文は浪士組責任者の鵜殿浪士取扱から、将軍家茂に付き従い上京した老中板倉勝静に報告され、板倉はこれら清河の策を見通せなかったことに怒りと憎悪を持ち、
「それにしても、清河をこのままに捨ておけんな。いずれは始末せねばならぬ男だ。京都におくと危険だろう。江戸に返すことにしたい」と、達文を逆に利用して、京都から清河を追い払い、心中に清河を屠る決心を固めたのである。
それ以後の経緯と、新撰組誕生、及び同時に清河八郎暗殺の内命が芹沢以下に伝えられたことは前号で述べた。(永倉新八口述記録「新撰組顛末記」新人物往来社)
さて、その清河暗殺について、同じく「新撰組顛末記」に記されているので紹介したい。
「ある日八郎(清河)が山岡鉄太郎とただふたり、当時土州候の旅館にあてられた大仏寺へでかけることが芹沢の耳にはいった。そこで好機逸すべからずというので十三名は二手にわかれ、芹沢は新見、山南、平山、藤堂、野口、平間の六人とともに四条通り堀川に、近藤は土方、沖田、永倉、井上、原田の五人を同行して仏光寺通りの堀川にいずれも帰途を擁して目的をはたそうと待ち伏せる。永倉の組ではもし待ち伏せしているところへ清川らが通りかかったら永倉がまず飛びだして山岡を後方へ引き倒し『お手向かいはいたさぬ暫時御容赦!』というを合図に、近藤ら五名は清川を斬ってすてるという手順であった。
夜はふけて人通りもまれに水を打ったような京の巷、清川、山岡の両人はなに心なく四条の堀川を通りかかった。とみた芹沢は刀の柄の目貫をしめし足音をしのばせて清川のうしろから抜打ちしようと鯉口まで切ったがふと山岡の懐中に御朱印のあることに気がついてハッと身をしりぞいた。
御朱印というのは将軍家から山岡と松岡万にあたえられた『道中どこにても兵を募ること苦しからず』とあるもので、山岡は江戸発足の当時から天鵞絨(ビロード)の嚢(ふくろ)にいれ肌身離さず持っている。御朱印に剣をかざすは将軍家に敵対するとおなじ意味に当時の武士は考えていたものだ。これがため芹沢はついに剣を抜かずにしまったので清川はあぶない命をまっとうした。また近藤や永倉らがいまかいまかと待っていた仏光寺通りへは清川が通りかからなかったのでこれも無事にすむ。会津候はますます清川を暗殺せよと焦慮するのであった」
ここで言う会津候とは幕府側からの指示と読みかえた方がよいが、いずれにせよ京都では清河暗殺が失敗したのである。
ところで、浪士組が江戸に戻るべく出立しようとした矢先、江戸から幕命によって新たに浪士組取締として六人の旗本が着任した。佐々木只三郎他であって、いずれも講武所教授方で、旗本の中では屈指の使い手である。
勿論、これは幕府による清河暗殺の実行部隊である。次回は清河暗殺とそれに鉄舟がかかわる動きについてふれたい。
2010年01月05日
山岡鉄舟研究・・・新撰組誕生その三
山岡鉄舟研究 新撰組誕生その三
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
浪士組一行は、文久三年(1863)二月二十三日京都に入った。ちょうど等持院の足利三代木像を梟首するという事件が発生したタイミングで、京都がテロ続発する無政府的状態であり、幕府の権威が地に落ちている実態を改めて知ることになった。
浪士組の本部を壬生村の新徳寺におき、ここで鵜殿浪士取扱いの訓示を受けた後、その日はそれぞれ定められた宿舎、鵜殿や鉄舟以下幕府側は郷士前川壯司宅に入り、他の浪士たちはそれぞれ分散して指定された宿舎に入ったが、落ち着く間もなく、浪士たちには再度本部に集まるよう呼び出しがあり、その日の夜、再び新徳寺に集められた。
何事かと本堂に集まった浪士たちの前には無人の円座があり、それを大蝋燭が煌々と照らしていた。誰によって自分たちは集められたのか、あの円座には誰が座るのか、それを訝しげに見つめていると、やがて清河が入ってきて、円座にぴたりと座ると一瞬ざわめきが広がったが、静まるひと時を待っていたかのように、清河が語りだした。
「お疲れのところ集まっていただいた趣旨について説明したい。そもそも今回の上洛目的は何であったのか。将軍を警備するためという理由であったが、よく考えていただきたい。将軍が上洛するのは何ゆえか。それは尊皇の誠意を示し、朝廷に攘夷を宣するためである。われわれ浪士組も尽忠報国の志ある者は来たれという、募集に応じて集まった草莽の英才であるが、その行動目的は尊皇の誠意を示し、攘夷を実行することである。ならば、将軍と同じ目的であり、そうならばわれらの尽忠報国の志を、出来得べくば上聴に達することが叡慮に奉じることではないだろうか」
将軍と自分達浪士組を対等の地位におく、強引極まる論理である。だが、清河の弁舌には鬼気迫るものがあった。今まで多くの修羅場をくぐり抜けてきた清河のすべてが、この一瞬に凄まじい激流エネルギーとなって、本堂内を漲り通り過ぎ、その迫力に誰も口を聞けず、次の清河の姿を見入った。
「ここに、今申したわれわれの志をしたためた上書がござる。お読みいたそう。よろしいか」と、鋭い視線で一同を眺め渡し、読み上げ始めた。
「謹んで上言奉り候。今般私ども儀上京仕り候儀は、大樹公においてご上洛の上、皇命を尊戴し、夷賊を攘払するの大義、ご雄断遊ばされ候御事につき・・・私どもも同じくただ尊攘の大義のみ相期し奉り候・・・これは幕府のお世話にて上京仕り候えども、禄位等は相受け申さず候。ただただ尊攘の大義のみ相期し候、これ我ら一統の決心にて御座候、この段威厳を顧みず言上仕り候」
つまり、将軍警護ということで上京はしたが、まだ具体的に幕府に命で行動に服していなく、我らの本来使命は尊王攘夷であるから、直接に天皇に上書を奉ることを許可願いたい、という要旨であるが、これが長文となって朗々と読み上げられるので、その文中に尊王攘夷の趣旨とともに、倒幕に転じられる字句が慎重に加えられていることを聞き取れるはずもなく、ただただ圧倒され、反論する余地もなく、清河が読み終わっても、浪士たちは茫然とし、粛然としたままであった。
だがしかし、しばらくすると一人だけ清河に対して野太い声での発言があった。それは芹沢鴨であった。
「奉書はともかくとして、そうするといったいわれわれの身分はどうなるのか」と。この無遠慮な声ではっと気づき同調する者が、芹沢の周囲から上がり、近藤勇の一派もうなずき、微妙な雰囲気になりかけたが、
「ただいまの意見は上書を奉ることに反対ではないと理解する」と、あくまでも強腰で進める清河によって、朝廷に上書を奉ることについてこの場は終わった。
翌日、清河が選んだ六名が、受け付けられなければ腹を切る覚悟で上書を学習院の国事参政取次役に提出、予想通り壁は厚かったが何とか受理され、その結果は二十九日に知らされたが、その際、何とこの年に関白となった鷹司(たかつかさ)輔(すけ)煕(ひろ)から
「上書の言、叡聞に達し、主上は叡感斜めならず、なお言上したき場合は、学習院に参上せよ」との言葉とともに、勅諚を賜ったのである。
勅諚には「上書を嘉納する旨と、攘夷にはげむべきこと」と記した簡単な文言だったが、清河にとっては望外の首尾であった。
何故ならば、これによって浪士組は勅命を受けた真の尊王攘夷党に変身し、勅諚という錦の御旗を持ったゆえ、幕府が簡単に手を出せない存在となってしまい、清河はこの二百名余を実質的に自らの配下として握ることになったからであった。
ところで、ここまでの間、清河は鉄舟に対しても、一連の行動を相談せず報告もしなかったが、決死の六名が学習院に向かった後、前夜の顛末を含めて伝えた。
さすがに鉄舟は驚き、強引なやり方に一瞬沈痛な顔つきとなったが、結末を鵜殿に報告、鵜殿は老中の板倉勝静に伝えたのである。
板倉は驚き、怒り、清河に対する不信感をさらに増したが、勅諚を握られていては何とも致し方ない。
「それにしても、清河をこのままに捨ておけんな。いずれは始末せねばならぬ男だ。京都におくと危険だろう。江戸に返すことにしたい」と独り言のように述べ、
「清河を江戸へ追いやるが、二百名をすべて与えることはない。党というものは、必ずその中に不平の者がいるはずだ」
「確か、芹沢鴨や近藤勇などが異論を持っているようで」
「それだ。京都に残ってあくまでも将軍警護に励みたいという者を切り崩すのだ」
「弱音を吐くようでございますが、こうなりますとそれがし一人では荷が重く、しかるべき人物を頭株にお加えいただきとうございます」
この申し出に板倉は苦笑しつつ、すでに頭の中にはある人物を思い浮かべていた。
それは将軍に伴って上洛した奥詰槍術師範の高橋謙三郎(泥舟)であった。早速、泥舟を諸太夫に任じ、伊勢守とし、新たに浪士取り扱いとしたのである。
一方、鵜殿は内々京都残留者を募り、予測どおりそれに応募してきたのが芹沢、近藤等十三名であった。
二月二十九日、浪士組は全員新徳寺に集められ、席上、江戸への帰還が伝えられたが、異議を申し出たのが芹沢であり、近藤であった。
この経緯については、新撰組幹部生き残りである永倉新八が口述した記録「新撰組顛末記」(新人物往来社)に以下のように記されている。
「芹沢鴨以下十三名の同志に江戸帰還を反対された清河八郎はいかり心頭に発し、『お勝手に召されい』とばかり、畳をけって席を立った。十三名はその足で鵜殿鳩翁をたずね委細を話すと鵜殿も芹沢らの意見にしごく同意し『そのしだいは拙者から会津候へ伝達するであろう』ということとなり、会津候すなわち松平肥後守は『この十三名は当藩であずかる』と芹沢らをあずかることになった。そこで八木の邸宅の前へ『壬生村浪士屯所』と大きな看板をかかげ十三名はここに独立した。同時に清川八郎暗殺の内命は会津候から芹沢以下に伝えられたのである」
ここに京都守護職である会津藩のお預かりとして、新撰組が誕生し、幕末史を血で染めるテロ集団がスタートしたのであった。
このように近藤勇や芹沢鴨のグループが、会津藩を頼って浪士組を離脱したわけであるが、ここで検討しなければならないのは、何故に会津藩が京都に在勤しており、会津藩が新選組をお抱えにしたかである。
それは、会津藩が「京都守護職」に任命されたからであるが、この新たに設置された京都守護職という機関は、文久二年(1862)六月、島津久光とともに幕政改革の勅使として大原重徳が派遣された結果、七月に一橋慶喜が「将軍後見職」に、松平慶永が「政治総裁職」となり、この二人の決定により八月に「京都守護職」が設置されたのである。
その経緯を渋沢栄一編の『昔夢会筆記/徳川慶喜公回想談』(平凡社)、これは明治も終わりに近い頃、かつて一橋家の家臣であった渋沢栄一が中心になって、まだ元気だった慶喜を囲んで、幕末当時の事情を聞くための座談会を開いてまとめたものであるが、その中で慶喜は次のように語っている。
「京都の方は昔から所司代で間に合うのだ。けれども所司代は兵力が足らない。ところで浪人だの藩士だのが大勢京都へ集まり、なかにも長州だとか薩州だとか、所司代の力で押さえることはできかねる。そこで守護職というものができたんだ。その守護職のできた最初の起こりというものは、所司代の力が足らぬから兵力を増そう、そこで兵力のある者をあすこに置こうというのが一番最初の起こりだ。それで肥後守が守護職になった」
しかし、この慶喜の発言と異なる別の背景があったことが、徳富蘇峰著『近世国民史/文久大勢一變』(民友社)によって述べられている。
「元来井伊家は、其の封を江州彦根に享けて以来、京都の保護を、其の任務の一としてゐた。然るに外交問題の発生以来、水戸斉昭が、頻りに京畿の防備の不完全なるを痛論し、・・・(途中略)・・・主上にも井伊家の防備にては御安心あらせられず。殊に萬延元年三月三日井伊直弼の横死以後は、猶更らのことにて、京師の防備は、刻下の急須なる問題となって来た。加之(しかのみならず)京都には諸浪士入り込み、随分血醒(ちなまぐさ)き仕業も出で来り、愈々其の安寧秩序を維持するに、武装的實力を必要とする場合となって来たから、守護職の制定は、一日も忽(ゆるがせ)にす可からざる事となった。
折しも島津久光が、大兵を率ゐて上京したから、朝廷にては薩藩をして、此の任に當らしめんとの思召(おぼしめし)が無いでも無かったが、それには薩藩と相對の地位を占むる長藩では固(もと)より懌(よろこ)ばず、さりとて幕府に於ても、之を薩の一手に任ずるは、尤も危険としたる所にして、斯(か)くて幕府とは切っても切れない関係ある會津が、其撰に中りたるは、當然過ぎる程當然であった」
また加えて、蘇峰は同じ『近世国民史/尊皇攘夷篇』で次のように補足している。
「惟(おも)ふに幕府が會津藩主を、京都守護職に任じたるは、當時の政策としては、尤も機宜に適したるものであった。會津藩は薩長二藩に對抗する程の實力を有しなかったが、それでも各一藩に對しては、互角の勝負をなす可き位置を占めた。第一其の資望は、所謂(いわゆる)る幕府御家門の一であれば、固より申分は無かった。藩祖正之以来尊皇奉幕を、唯一の目標としたれば、公武合體(がったい)は、傳家の政綱と云ふも可なりだ。加之従来文武を奨励し、特に北方の強として聞こえたれば、誰も其の武を侮るものは無かった」続けて
「松平容保は明けて文久三年正月二日始めて参代し、小御所に於て龍顔を拝し、天盃を賜った。且つ傳奏を以て、前年幕府に建白し、勅使待遇の禮を改め、君臣の名分を明らかにしたる功を叡感あらせられ、特に緋の御衣を下賜せられ、戦袍(せんぼう)(注:陣羽織)若しくは直垂(ひたたれ)(注:武家の礼服)に製す可しとの御沙汰を被った」さらに
「松平容保は、始めて天顔を拝したが、爾来彼は孝明天皇より少からざる御信頼を忝くし、専ら輦轂(れんこく)(注:天皇の乗り物)の下にありて、安寧秩序の維持に任じ、誠心誠意その對揚につとめた」
このような蘇峰の記述は何を意味しているのだろうか。
それは、京都守護職という幕府によって新設された機関が、一方で幕府の命を受けつつも、同時に朝廷の命令・指示も不断に直接受領する存在になっていたという事実実態であった。つまり、朝廷と幕府の結合と融合を第一目的とするために、幕末期における特有の新しい政治機関が誕生していたという実態認識と、孝明天皇が松平容保へ強い信頼をおいていたという事実であり、さらに、これは会津藩が京都守護職という立場を通じ、朝臣化への動きにつながっていったと思われるのである。
このことが一般的にあまり理解されていないが、これを鋭く指摘しているのは前国立歴史民俗博物館館長である宮地正人著『歴史の中の新選組』(岩波書店)である。
「将軍後見職の一橋慶喜も、一八六四(元治元年)年三月、“禁裏守衛総督摂海防禦指揮”に、朝廷から直接に任命されたように、幕府の指揮圏から離れ、朝臣化の途をたどることとなる。さらにその直後の四月11日京都所司代に、京都守護職会津藩主松平容保の実弟で桑名藩主の松平定(さだ)敬(あき)が就任するに至り、ここにおいて、時の世に『一会桑』と称せられる、京都の朝廷と江戸の幕府を政治的に媒介する“京都朝幕政権”とでも表現しうるものが成立してくるのである。
従って、幕末期の政治過程は、
① 正常期の幕府優位体制への復帰を繰り返し執拗に志向する、私の用語でいえば『将軍譜代結合』といいうる政治集団、
② 幕府を排除しつつ朝廷と諸大名(特に有力な外様諸大名)との直接結合を狙う、長州や薩摩などの外様諸藩の政治集団、そして
③ 孝明天皇とのしっかりとした結合の中のみ、幕府の唯一の活路が見いだせるとした一会桑グループという、三つの政治集団の複雑で錯綜した政治闘争の過程にほかならない」と。
このあたりの理解がないと、慶喜の江戸無血開城におけるすっきりしない行動心理背景と、官軍が会津藩攻撃を徹底目的とした背景がつかめないと思う。
いずれにしても、新撰組の誕生の背景には、このような新しい政治動向関係が複雑に絡み合っていたことを理解したい。次回は清河が江戸に戻り非業の最後をとげ、それに鉄舟がどう関わっていたかについてふれたい。
2009年11月10日
新撰組誕生その二
新撰組誕生その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
徳川幕府が、安政五年(1858)に米英仏蘭露の五カ国と修好通商条約を結んで150年に当たる2008年、この記念として各国で様々なイベントが開催され、そのひとつとしてロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館(V&A)で「山岡鉄舟書展」が開催されたが、こちらは鉄舟没後120年も併せてであり、期間は二〇〇八年九月三日から十二月十四日まで開催された。鉄舟も国際的に認識されつつある。
早速にV&Aを訪ねてみた。同館はロンドンのサウスケンジントン駅から歩いて10分。
世界中から蒐集された膨大なコレクションが所蔵展示されている。
正面玄関を入り、ホールを右手に行くとJAPN展示室があり、そこを入って右側壁面全部に鉄舟書が展示されている。真ん中あたりに展示されている「龍虎」大書が眼に飛び込んでくる。鉄舟の書はロンドンでも異彩を放つ迫力である。
鉄舟のほかに海舟と泥舟の書もあり、最後に故寺山旦中先生の書も展示されていることから分かるように、二松学舎大学教授であられた寺山先生所蔵書によっての開催である。
寺山先生は筆禅道、これは筆で禅を行ずる意味であるが、その由来は鉄舟が大悟され「余、剣・禅の二道に感ずる処ありしより、諸法皆揆一なるを以て書も亦其の筆意を変ずるに至れり」と覚他されたこと、つまり、剣と禅で自覚するところがあったら、書の筆勢が変わったということであるが、この後継者が寺山先生で、二〇〇一年にもV&Aで寺山先生所蔵の書展を開催していたことから、今回も展示されたのである。
さて、本題に戻って清河八郎であるが、その動きを跡付けていくと、方向転換・転向に当たり、ひとつの原則に則っていることに気づく。それは時代の変化を見逃さず、それを活用するということである。と前号で述べ、その事例として、幕末時の巷には浪士が溢れ、犯罪または、天誅という名のもとに問題を起こしている、そこに目をつけた浪士組結成献策提案であったことをお伝えした。
では、何故に結成したばかりの浪士組が、寛永年間の三代将軍家光の入洛以来二百数十年ぶりの家茂上洛に先立って、京都に先行することになったのか。
それは、時の政治が朝廷に移り、京都では凄まじいまでのテロが続発していた、という現実状況をつかまないと理解できない。少し遠回りになるが、そのあたりをお伝えしたい。
島津久光が一千余の藩兵をひきいて京に乗り込み、朝廷の承認を得て幕府改革を目指すべく大原重徳とともに江戸に向かったのが文久二年(1862)六月であるが、この久光出兵は公武合体論、つまり「航海遠略策」を認識したものであった。
「航海遠略策」とは長州藩の長井雅楽が説いたもので
「京の朝廷は条約の即時破約を仰せ出されているが、一旦外国と結んだ条約を理由もなく破棄すれば、たちまち戦争になるだろう。そうなれば数百年太平に慣れた武士を戦に使ってもどれほどの戦力になろうか。戦争というのは十分の勝算をもってやるのが古今の名将の道である。軽々しく戦いをおこして無策の戦争をし、国を敗亡させた例は古来かぞえきれない」
と長井は攘夷の愚を説き、さらに続けて
「皇国のためには、京都、関東ともこれまでのわだかまりを氷解して、朝廷のほうから改めて航海を開き、武威を海外に揮い、外夷の脅迫をおしかえす方策を関東に命じれば、ご威光も保たれ、関東もこの勅命にしたがって列藩に命令を下すだろう。そうなれば国是遠略は天朝から出て、幕府がこれを実行に移すという、君臣の位次も正しくなり、たちまち海内一和となり、海軍を整備し、士気が奮いたてば、五大洲を圧倒するのは容易であろう」
というもので、孝明天皇も幕府も最もであると、これに飛びついたのである。
だが、この動きに危機感をもったのが長州である。これでは攘夷は不可能となる。あくまで攘夷を実行せねばならない。そのためには我が長州藩から出した説ではあるが、これを破棄し、主唱した長井雅楽を切腹させ、尊攘路線に戻すべきであると、京都三条河原町の藩邸で、藩主毛利敬親出席の下に御前会議を開き、従来路線の「航海遠略策」から大きく一転させ、「破約攘夷」という攘夷実行路線に藩是を決定したのが七月初旬であり、これによって京都での主導権挽回を図ろうとしたのであった。
また、この路線変更は表向き孝明天皇の叡慮を奉じたものであった。天皇は攘夷策を「断然」堅持すると繰り返して言明されていた。幕府が攘夷策を捨てるならば、その時は「決心」して、天皇自ら攘夷の親征を行うと表明するほどだったが、この叡旨を実行すべく藩論を統一した長州は「幕府が独断で締結した条約はあくまで拒絶され、破約攘夷を幕府に申し付けられますように」と、急進派公家三条実美らと組んで、強烈な巻き返しを始めた。
この長州藩の動きによって、抑圧されていた尊王攘夷派が表舞台に登場し始め、朝廷は幕府に攘夷実行の勅使として三条実美・姉小路公知の二人を江戸に派遣したのが同年十一月。将軍家茂は江戸城で勅旨を受け取り、「破約攘夷」を奉ずるべく上洛を了承し、勅使は「臣家茂」と署名した奉書を持って京都に帰った。将軍上洛は徳川家が天皇の下にあることを天下に示す狙いであり、また、この動きの背景に長州藩がいることは天下周知であって、これは京都における尊皇攘夷運動の主導権を長州が握ったことを意味した。
ところで、長州藩が「航海遠略策」から「破約攘夷」に一転させた頃、文久二年夏あたりから京都では天誅という暗殺、脅迫がしきりに起きるようになっていた。尊攘過激派による巻き返しを狙ったテロである。
テロに狙われたのは、安政の大獄などで幕府のために活躍し、尊攘派の怨みをかった者や公武合体運動、とくに和宮降嫁に関係した公卿などであった。
天誅の第一弾は同年七月、幕府派の九条関白家家臣、島田左近であった。犯人は薩摩藩士田中新兵衛らであり、左近の首は四条大橋に梟首された。その経緯が「妾宅で行水しているところを襲われ、耳を切り、鼻をそぎ、目玉をくりぬき、両手の指を引き裂き、舌を引き抜いた後、首を切りちぎった胴体を路上に放置、何者の死体か分からないまま検視が済んだが、その後四条大橋に梟首された」という惨い殺され方が、京都市左京区の岩倉実相院の日記、これはこの寺の歴代門主に仕えた坊官が二百六十年にわたって書きついだものであるが、この中に書かれている。
また、公武合体運動を進めた岩倉具視、千種有文、富小路敬直、久我建道と、女官の今城重子と堀河紀子は「四奸二嬪」とされ、一部廷臣や尊攘過激派に脅迫され、ついに官を辞し、頭を丸めて京都郊外に住む身となった。岩倉邸には幕府派浪士の片腕が投げ込まれるほどだった。九条関白も辞職し、同じく頭を丸めて謹慎した。
当時の脅迫者について中山忠能は次のように述べている。
「かれらは長薩藩士でなく、浮浪烏合の者で、勤王問屋といわれている。まったく勤王を名として、今日を暮らし、その説が追い追いに伝染している」(開国と攘夷 小西四郎)
ところが、近年、明らかになったのは、「四奸二嬪」に対する排撃と天誅は、驚くべきことに摂家の近衛家から薩摩藩への依頼によってなされていたのである。だが、近衛家も、九条家の動向には疑心暗鬼、九条家側の配下による暴力におびえきっていて、公卿政争は、幕府側(前関白九条ら)と薩摩派(関白近衛ら)の陰惨きわまる暗闘にも発展していたのである。(幕末・維新 井上勝生)
次の天誅標的は同年八月の目明し文吉であった。安政の大獄の際、志士の逮捕に当たった者であり、屍は三条河原にさらしものにされた。
同じ八月に、外国貿易を行っていて、以前から天誅を加えると脅迫されていた、葭屋町大和屋庄兵衛の店を浪士が襲い放火した。
さらに十一月、井伊大老の謀臣長野主善の妾たかが、隠れ家を襲われ捕われ、三条大橋の柱に縛り付けられ、生き晒しにされた。捨て札に「この女、長野主善妾として、戊午(安政五)年以来、主善の奸計あい働き、まれなる大胆不敵の所業をすすめ」とあった。
天誅は京都町奉行所の与力、同心、その手先や関係者にも及んだ。結果として奉行所全体が士気沮喪し、治安機能が喪失していった。
翌文久三年(1863)二月には、平田国学(平田篤胤の主張した尊王国学)の有力門人が中心となって、等持院の足利三代木像を梟首するという事件が発生した。
岩倉実相院日記に「足利氏のように朝廷を軽んじて、自分のしたい放題のものは、たとえ今の将軍であっても、このように梟首するのだ」と斬奸状が記録されているように、これは幕府を侮辱したものであるから、京都守護職が犯人を逮捕しようとしたが、町奉行永井尚志や与力等は、在京の諸藩・浪士を逆に激昂させるだけだと、反対するほど消極的であった。だが、何とか逮捕した結果は、長州藩はじめとして外様諸藩が猛然と抗議を広げ、在京の浪士も同調するなど無政府的状態となっていた。幕府の権威は地に落ちていた。
この実態を清河はよく知っていた。全国を歩き、その地の状況を記録し、多くの志士と激論を交わし、島津久光の上京を機として事を図ろうと画策したわけであるから、京阪地区の混乱は当然熟知しており、それを把握していたからこそ浪士組を発想したのである。
また、幕府中枢部も同様に京都における混乱状態は十分に把握し、問題視していたからこそ清河の献策について、時宜を得たものとして受け入れ、無政府状態の京都に将軍家茂が上洛するのであるから、事前に将軍警備強化目的で浪士組を派遣したのである。だが、もうひとつの理由は清河に対する不信感である。
浪士組という時を得、的を射た献策に納得し、幕府内からはこの機会に清河を幕臣に取り立ててはどうかという声が上がり、清河に対し浪士募集の補助役として重用したいと伝えたが、清河はきっぱり断ったことは前号で述べた。
この結果は、やはりこの男は油断ならぬ、幕府に対し何かを仕掛けるのではないかという警戒心をもたせ、浪士組組織体制から清河を外すことにつながったが、加えて、出自も明らかでない二百数十名もの浪士混ぜこぜ部隊が江戸にいては、何かの問題を起こすのではないかという懸念もあったので、京都へ先行させたのであった。
さて、浪士組は板橋を通って中仙道を木曽路に向かった。この道中、問題は芹沢鴨である。芹沢は神道無念流の免許で、力量人にすぐれ、平素「尽忠報国の士芹沢鴨」と彫った三百匁(約1.1キロ)の鉄扇を握って、何か気に喰わないと、喉が裂けるほどに怒号したという。常陸芹沢村の郷士で、元天狗党である。本名は木村継次、短気で我儘で乱暴で、ひとかどの人物ではあるが扱いにくい。
天狗党時代、潮来の宿で、何かいささか気に喰わぬことがあるといって、部下三名を土壇場(斬罪を執行するために築いた壇)に並ばせ、片っ端から首を斬ったり、鹿島神宮へ参詣して、拝殿の太鼓があまり大きくて目障りだといって、鉄扇で叩き破るなど、その行状の悪さに事欠かない。
道中は板橋、蕨、浦和、大宮、上尾、桶川、鴻巣、熊谷、深谷を経て本庄宿に着いた。道中の宿割りは取締付池田徳太郎の手伝役として近藤勇が担当していたが、本庄宿に着いた時、どうしたわけか芹沢の宿手配を忘れしてしまっていた。
池田も近藤もしまったと思い、すぐに芹沢のところへ「芹沢先生、拙者の粗忽で申し訳ない。他の宿を手配するのでしばしお待ち願いたい」と詫びをいれた。だが、芹沢は横向いたまま「いやご心配は無用。宿無しの拙者に考えがござる。今夜は篝火を焚いて暖をとる。その篝が少し大きいかもしれないが心配なさるな」と言い、日が暮れるとすぐに木材を手当たり次第集め、それを宿の真ん中道で天にも上るような焚き火をしだした。火の粉は本庄宿中に飛び散って、住人はいつ火事になるか心配で、水桶を提げてはらはらして火を見つめるばかりである。
この一件は、池田と近藤が三拝九拝して、ようやく芹沢をなだめたが、その後も我儘はやめない。さすがに鉄舟はこれに勘弁なりかねて、あと四日で京都に入る中山道五十三番目の加納宿に入った時に、芹沢に向かって「拙者は、ここで辞職し江戸に帰るので、なにぶんよろしく」と挨拶した。
これには芹沢も面食らった。この浪士組の実際のリーダーは鉄舟である。浪士取扱いの鵜殿鳩翁は高齢でもあり、駕籠でついてくるだけである。浪士取締役には虎男の会同志であった松岡万や池田徳太郎、石坂周造、村上正忠と、清河の実弟熊三郎らが幹部として携わっていたが、仲間から一目置かれている鉄舟が実質的に責任者である。
その鉄舟に辞められては浪士組がうまく機能しなくなり、その結果は幕府との関係もまずくなる、とさすがに芹沢は判断し「拙者の我儘についてさような事を仰せられるならば、拙者は今後充分行動を慎む」と、鉄舟を引きとめたのであった。(新撰組始末記 子母沢寛)
次号は清河の謀略によって、浪士組から新撰組が誕生する経緯を述べたい。
2009年10月10日
新撰組誕生その一
新撰組誕生その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
最初に訂正を申し上げたい。二〇〇八年二月号で、元治元年(1864)八月五日に行われた、いわゆる四国艦隊の下関攻撃によって奪われた長州の大砲について、翻訳家・日仏文化交流研究者の高橋邦太郎氏(1898年-1984年)が書かれた「パリのカフェテラスから」から、以下のようにお伝えした。
「四国艦隊の下関攻撃で長州藩の大砲六十門が捕獲され、このうち二門が戦利品として、フランスに持ち帰られ、今なお、パリのセーヌ河畔のナポレオンの墓所として有名な、アンヴァリット(廃兵院)前の広場にさらしものになって、パリを訪れる観光客は毛利侯の紋章を好奇の目を輝かして眺めている。山口県では、この大砲の返還をしばしばフランス政府に交渉したが、ナポレオン一世以来、戦利品を敗戦国に返した事例のない理由で容易に承知しない」
先日、パリに行ったついでにアンヴァリットに立ち寄り、広い庭に展示されている各国から捕獲した大砲を全部チェックしてみたところ、日本の大砲は見当たらなく、建物内回廊にある大砲も調べてみたが、長州砲は見当たらない。見落としたかと思い翌日も行き、再確認してみたがやはりない。
そこで、いろいろ調べてみたところ、何とすでに日本に里帰りしていることが判明した。戻っている場所は下関市立長府博物館。早速訪問し、学芸員の方から詳しく事情をお伺いしたところ、直木賞作家の古川薫氏の努力と、一九八三年(昭和五八年)当時の安倍晋太郎外務大臣による交渉によって、長府毛利家に伝わる紫糸威鎧をアンヴァリットに貸与して、相互貸与という形で天保一五年(1844)製の長州砲一門が、一九八四年(昭和五九年)に戻っていたのである。
この里帰りの経緯については、古川薫氏の「わが長州砲流離譚 毎日新聞社刊」に詳しく記されている。だが、同書によれば、アンヴァリットにはまだ二門の長州砲が残されていると書かれ、その実在有無と保管状況が心配だ、ということも記されている。そこで、古川氏に連絡を取って、筆者が再度現地に行き、確認してくることになった。次回はアンヴァリットの管理当局に正式なアポイント取って聞いてみるつもりである。
下関市立長府博物館に保管されているのは「荻野流一貫目青銅砲」である。砲身の長さ1.6メートル、内径8.7センチ、砲身に郡司喜平冶信安作と銘があり、唐草模様の装飾がほどこされている。
さて、清河八郎に戻りたい。
つまらない理由で、伏見寺田屋事件に巻き込まれず、生き残った清河は、文久二年(1862)江戸にもどり鉄舟と再会、その後水戸に向かい、そこで大赦嘆願書「幕府に執事に上る書」を書き上げ、鉄舟を通じ政治総裁松平慶永(春嶽)に提出した結果、文久三年(1863)一月、北町奉行浅野備前守から、正式の赦免の沙汰がおりることになった経緯は前号でお伝えした。
実は、この正式赦免がおりる前、同様に多くの者からも大赦願いが提出されており、幕府内でも捨て置きがたく、検討の動きが出始めていたことを鉄舟から聞いた清河は、突如として一つの謀策を閃かした。その閃き着想原点は幕府の懐に飛び込むことであった。
清河の動きを跡付けていくと、方向転換・転向に当たり、ひとつの原則に則っていることに気づく。それは時代変化という条件の活用である。
例えば清河は、桜田門外の変を契機として国事に奔走しはじめたのであるが、これは、世の中の変化はもはや儒者となって世に尽くすことではなく、動乱の中から新しい仕組みを作り上げていく時代だと認識したこと。
その契機は、井伊大老暗殺事件を自らの手で分析整理し、美濃紙二十枚にも及ぶ「霞ヶ関一条」を書き上げたとき、時代は変わっている、名も身分もなき者、自分と同じような出自の者、それが天下を動かし、変えることが出来る時代になっているのだと認識した途端、今まで目指していた学者を捨て、時代の改革者に向かおうと、自己変革を起こしたのであるが、これは時代・時流の変化という条件を活用した転換であった。
さらに、文久元年(1861)五月、虎尾の会を潰し、清河を逮捕する口実をつくる罠だった岡っ引き殺害事件から、全国逃亡の旅に出たのであるが、これを機会として京都で田中河内介を知り、中山忠愛の親書を受け、「廃帝」の噂を広めつつ九州各地を遊説し、島津久光の上京を機に、三百人ほどの尊攘志士を京都に集めた手腕である。それは「薩摩藩出兵」という事実条件を、自分に都合よく利用したものではあるが、時代・時流をチャンスとしてとらえるという、条件活用力に優れていることを示している。
今回もそうである。大赦嘆願という動きが出て、幕府とつながりができそうな環境条件下になったと認識した途端、一つの謀を浮かべたのである。
幕府が関心持つであろうこと、つまり、幕府が困っていることで、それを解決することによって、幕府の懐に飛び込める策、それは、浪士の募集であった。
巷には浪士が溢れていた。仕官していない武士は、何かを求めて世に生きようとしているが、それが幕末という時代情勢下、犯罪または、天誅という名のもとに問題を起こす浪士たちに幕府は手を焼いていた。これに目をつけたのが清河の「浪士募集」策だったのである。
この「浪士募集」策を、鉄舟を通じ松平上総介から、自分の意見として幕府閣僚に献策してもらったのが同年十月。松平は家康の六男忠輝の後胤である名門であり、講武所の剣術師範役並出という立場からの見解であり、かつ、浪士を集めて取り締まり、非常の用に役立てるという趣旨も時局に合致しているので、政治総裁松平慶永、老中板倉勝静が受け入れることになったのである。
これを見た清河はさらに次の手をうった。それは翌月十一月の「急務三策」献策であった。「攘夷の勅命を報じること」「天下に大赦をほどこすこと」「天下の英才を教育すること」の三つであり、これは大赦令と浪士募集の両者を画策するものであり、これを政治総裁松平慶永と関白近衛忠煕に建白書として提出したが、その冒頭は次の如くであった。
「臣聞く。国家の将に興らんとするや、必ず大なる機会あり。その将に亡びんとするや必ず此の機会を失う。機会は勢いなり。勢いの至るは至るの日に至るにあらず。必ずや善積して然るのみ。一日これを失えば必ず他人の有となる。深く察せざるべからざるなり。故に敢えて当今『急務三策』を陳ぶ」(山岡鉄舟 小島英煕 日本経済新聞社)
唸るばかりの鋭さと、時流をとらえたタイミングである。ここに清河の本来姿が顕れている。それは理論家としての本質である。もともと学者を目指した本質が出ていると思う。頭で説得するという性向であろう。
結果は同年十二月に、幕府は大獄関係者の釈放に手をつけ始め、松平上総介に対し、正式に浪士募集が下命された。松平はすぐに水戸にいる清河に使いを出して、江戸に来るよう伝えた。この時点では、鉄舟から浪士募集策の発案者が清河であることを聞いていたので、実務推進の協力を求め、早速に打ち合わせをもつためである。
このとき、幕府内からは、この機会に清河を幕臣に取り立ててはどうかという声が上がり、清河に対し浪士募集の補助役として重用したいと伝え、召し出しを年末暮れにしようとしたが、清河は丁重ではあるがきっぱり断った。しかし、これは清河という人物に対し、やはり油断がならぬ男だという警戒心を幕府首脳に与えたが、清河は意に介さなかった。
何故なら、すでに清河の心中には次の謀策が芽生えていたからである。これは最も親しい鉄舟にも漏らせない密計であった。その訳は、清河には「たとえ渇しても、幕府の水は飲めない」という強い執着した一念と積怨があり、鉄舟が幕臣である限り口を滑らすことができない筋書きであったが、これが清河の命を落とすことに通じる結果となるものであった。
浪士組結成には、責任者の浪士取扱いとして松平上総介と、子普請組隠居の鵜殿鳩翁が任命された。鵜殿とはペリー再来航時、日米和親条約締結の際の応対係を命じられた海防掛で、安政の将軍継嗣問題においては一橋慶喜(徳川慶喜)を支持し、井伊大老に反抗して左遷させられたという気骨ある老練な幕吏である。
浪士取締役には、鉄舟と虎男の会同志であった幕臣松岡万が就任、同仲間の池田徳太郎、石坂周造、村上正忠と、清河の実弟熊三郎らが主要メンバーとして参加した。
浪士の応募条件は「公正無二、身体強健、気力荘厳の者、貴賤老少にかかわらず」とあるがほとんど無条件で浪士を取り込み始めた。
こうして集めた浪士は多士済々であった。浪士とは主家を去り、禄を離れた武士であって、本来浪人と称していたはずだが、この頃になると町人や地方の豪族の子弟などで剣を学び、書を読むようになった連中が、国事を語り攘夷を論じ、勝手に苗字を名乗り、刀を帯び、武士の仲間入りをしてしまうことが多くなっていて、幕府はこれらを取締する力を失っていた。時代は時の階級制度を崩しつつあったのである。これを証明するように、集まった顔ぶれは異彩の人材であふれていた。
例えば、芹沢鴨は水戸藩を脱藩し、天狗党に加わって暴れまわっていた人物。松前藩の浪人永倉新八、松山藩の脱藩者原田左之介、仙台の浪人山南敬助などもいた。
百姓出身もいた。代表的な存在は近藤勇である。小石川の天然理心流試衛館道場主だが、もとは武州の農民三男である。近藤と同志の農民四男の土方歳三もいて、ご存じのとおり後に新鮮組局長、副長として活躍するが、幕末史に一瞬の光彩を放った新鮮組の産みつけは、清河の策謀によりなされたといえるのである。この詳しい経緯は次号にお伝えしたい。
中には無頼漢もいた。山本仙之助であり、甲斐の祐天として知られたばくち打ちである。子分二十余名を連れて応募してきた。
まさに玉石混合の混ぜこぜであり、文久三年(1863)二月四日小石川伝通院の子院処静院に集まった人数は二百人を突破した。当初、清河が計画した人数は五十名である。予定していた手当金で間に合わなく、当然、責任者の松平上総介は問題として清河を責めたが、押し切られ、責任をとって松平は浪士取扱い辞任することになった。
浪士組は将軍家茂の二月十四日上洛に先立って、京都に先行することになった。ただし、この度の将軍家茂上洛には幕府内で激しい議論が闘わされていた。
前年の六月、幕府への勅使として大原重徳が派遣され、一橋慶喜を「将軍後見職」に、松平慶永を「政治総裁職」という幕政改革とともに、「将軍が上洛し国内一和、攘夷決行を議す」ことを伝え、十月には三条実美、姉小路公知を勅使として、再び攘夷を督促してきた。
朝廷の矢つぎ早の攘夷督促の背後には、京都における長州、土佐の尊攘勢力がけしかけていたのであるが、幕府内では既成事実である開国を、一変鎖国攘夷に転じるのは、外国に対する信義を失い、戦争状態になる愚挙であるという意見と、朝廷からの攘夷を天下の公論とし、一時は攘夷を実行した後、改めて開国を論じられるべきとの論とが真っ向から対立した。
それは一橋慶喜と松平慶永の対立であったが、最終的に、ともかく攘夷一本にまとまり、将軍上洛を文久三年の春に実現し、勅諚の攘夷日程、方策について上洛の際に委細申し上げると、奉答書を出したのであった。
将軍の上洛は、寛永年間の三代家光の入洛以来二百数十年ぶりのことである上に、この度の上洛は京都に尊攘派が待ち構えている。
新たに徴募した浪士組は、将軍上洛の護衛として、京都に先行すべく二月八日江戸を出発、中仙道を選んだ。
浪士組は一班三十名で七班、それに取締付きが加わって二百数十名。その隊員の中に清河の名はなかった。その清河は隊伍に加わらず、鉄扇を手に、隊の後になり、先になり悠然と歩いて行く。
しかし、隊のすべての者がいつの間にか「あれが清河か」と、浪士組募集の発案者であることを知るところとなったが、隊に加わらず、かつ、離れずに道中を進める清河を訝しく見つめるのであった。
だが、玉石混合の混ぜこぜ隊では、起こるべくして当然のいざこざが発生する。それは暴れ者の芹沢鴨によって引き起こされ、これを鉄舟が処理するのであるが、その経緯と京都に着いてからの清河の謀略と、そこから発生した新撰組誕生については次回お伝えする。
2009年09月10日
尊皇攘夷・・・清河八郎その六
尊皇攘夷・・・清河八郎その六
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
薩摩藩の島津久光が藩兵千人を率いて上京したのは、前藩主島津斉彬の意図を継ぐもので、兵力をバックに幕府に改革を迫るものであったが、その行動は周囲に大きな波及効果をもたらした。
それは、周囲にいまにも「攘夷」が決行されるかのような雰囲気を生じさせ、それに乗じた清河八郎の檄文攻勢によって、続々と京都に尊攘志士達が集合したのである。
しかし、これほどあからさまな誤解はなかった。久光の意図を冷静に推察すれば「攘夷」を実行しそうな気配はなかったのだが、時勢にはそのような履き違いをおこさせ、尊攘志士達が沸き立ってしまうことを抑えきれない何かが存在していた。
結果は伏見寺田屋事件となって、薩摩藩同士の斬りあいになり、そこにいた他藩士と浪人が捕縛され、その後、殺害された事例として田中河内介のことを前号でお伝えした。
これについて読者から以下のコメントが寄せられました。
「もう30年ほども前のことですが、宮崎に居りましたときに、明治維新関係の古い秘話本を読んで、日向市のある港に維新三志士が葬られていることを知りました。信用できる書籍だとは思っておりませんでしたので、半信半疑のまま、探索を始めました。地元出身の神職さんの誰に聞いても知らないと言うのです。
当時薩摩の港は日向では細島です。薩摩の支藩がありました。実地調査しかないなと現地で聞きまわると、何と当時墓守をしていたお宅に直ぐにたどり着いたのです。かつて網元をしていたそのお宅は清掃の行き届いた!古いお宅で、品のいいおばあさんが対応してくれ、時計を見ながら、『ご案内しますが、しばらくお話しましょう』と言うのです。三志士が斬殺された当時の言い伝えを話してくれたのです。
それは単なる斬殺ではありません、惨殺です。住民に見られないよう船上で縄付きのまま、何十手もの太刀を受け、切り刻まれての殺害でした。
なぜか。秘密保持のためです。士分の全員が刀傷を入れ、秘密を共有することで保持したのです。そして船上から海へ破棄され、見つけた網元によって小島の小さな墓になりました。
そろそろ参りましょうと案内されてみると小島に渡る白州が細く続いていました。干潮で無ければ渡れない島なのです。時計をわざわざ見られた意味がはじめて分かりました。今は文化財に指定され整備されているようですが、当時『ここをわざわざ調べ、お参りされたのは貴方がはじめてです』とおばあちゃんに言われました。墓は海賀宮門、中村主計、千葉郁太郎とありました」
読者のご指摘通りで、海賀宮門は秋月藩士、中村主計は京都浪人、千葉郁太郎は河内介の甥で、三人は確かに薩摩藩によって殺されました。三人が船上で田中河内介の殺害について、薩摩人の不信義を追求したからという理由のようですが、実際は最初から殺すつもりでした。
伏見寺田屋事件は薩摩藩士同士の斬りあいですから、他藩士と浪人は本来関係ありません。ですから、その場にいたということだけで、薩摩藩が殺す理由は成り立たなく、さらに、海賀宮門は秋月藩士ですから、藩に送り届ければよいのに殺しました。
これは薩摩藩の幕末維新史の汚点であり、その後、三人が維新三志士と称されるようになったことも、何かやりきれない気持ちにさせられる。
ところで、本来、清河は寺田屋にいたはずで、いたならば同じ運命となったはずである。だが、諸国に檄文を飛ばし嗾け煽り立てた本人は、つまらない理由で寺田屋にいなかった。
ある日、大坂薩摩屋敷の二十八番長屋に本間精一郎が訪ねてきた。本間は越後寺泊の豪商の長男で、武士にあこがれ家を出て、お金が潤沢である上に、いっぱしの志士きどりで、弁舌が立ち、一部に人気があったというが、言うことが激烈であるわりには、言行が伴わないというので嫌われているところもある人物だが、清河は江戸の安積艮斎塾で一緒だったこともあり親しくしていた。
その本間が清河を舟遊びに誘った。それを受けた清河は折角だからと、少年時代に深い感銘を与えてくれた藤本鉄石や、二十八番長屋にいた数人と宇治川に浮かんで、海に出ようとして舟番所にさしかかると、船頭が番所に名前を届ける必要があるので、名前を書くよういわれた際、もうすでに芸妓に三味線をひかせて派手に飲んでいたので、つい「酔いに乗じて悉く奇名を記す」(清河著「潜中紀事」)とあるように、勝手な変名を名乗り、多分、「荒木又右衛門とか後藤又兵衛とか言うよう名を書き連ねた」(海音寺潮五郎「寺田屋騒動」)と思われる。
これでは番所役人も黙っていない。公儀幕府役人のプライドがある。馬鹿にするなと、問い質す番所役人に対し、本間が舟を降り番所に乗り込み、得意の弁舌でやり込めるという失態を演じてしまった。
舟遊びを終えたこの日は、それぞれ止宿先に戻ったが、これが問題にならないわけはなく、本間のところに役人が張り付き、調べだし、捕縛の可能性も出てきたので、逃げ場として清河のいる大坂薩摩屋敷の二十八番長屋に転がり込んできたのである。
しかし、役人の追及が続き、本間が薩摩屋敷にかくれたことをつきとめ、問いただしてきたので、清河と親しい柴山愛次郎と橋口壮介も困って、軽率行動を厳しく責めてきた。藩と役人の間で板ばさみになっている柴山と橋口の立場も考え、清河は
「申し訳ない。迷惑をかけたのであるから、ここを出て行く」
と述べ、京都三条河原町にある医者の飯居簡平宅に移った。飯居宅は長州藩邸にも近く、薩摩藩屋敷の同志が決起するときは、長州藩邸にも連絡があるので、それを待ちつつ飯居宅にいたところに、伏見寺田屋事件が発生したのであった。
清河はつまらないことで寺田屋にいず、死なずにすんだが、このつまらないことが大業を成し遂げ得ず、生涯を終えたことに通じていると思う。
清河は、元来「相手の意表に出て鼻をあかす」という面があった。これは出羽庄内という田舎の酒造業出身という武士でないという劣等感と、その裏返しの気持ちから、人一倍負けたくないという感情が強く入り交じって、時に意表に出て、それが結果としてやり過ぎになる傾向があった。
それが舟遊びでも顕れた。酒に酔ったとはいえ、本間精一郎の醜行を止めえず見逃し、かえって役人何するものぞ、と同調した一面につながったのである。
この薩摩屋敷退去によって、全国逃亡生活から、田中河内介を知り、中山忠愛の親書をもち、九州各地を遊説し、久光の上京を機に、念願の倒幕一番乗りという、晴れの舞台になる可能性もあった寺田屋、そこに参じることができなかったのであるが、今回はこの性癖ゆえに助かったのである。
さて、久光の目的は幕府の改革であった。その改革の要点は、さきに安政の大獄で処分されたままになっている公卿や大名の罪を許すこと、つまり、大赦を行うこと、ついで、一橋慶喜を将軍後見職とし、前越前藩主松平春嶽(慶永)を大老につけることなどであって、これを島津家と縁戚にあたる近衛忠房を通じて朝廷の承認をとりつけ、文久二年(1862)五月、江戸へ派遣する勅使として、岩倉具視に劣らぬ剛直さで「鵺(ぬえ)卿(きょう)」と呼ばれた大原重徳を差し下してもらうことになった。
幕府は抵抗したものの、とうとう押し切られる形で一橋慶喜を将軍後見職に、松平慶永を「政治総裁職」につけた。「政治総裁職」という役職にしたのは、大老は譜代大名がつくもので、徳川家の親戚である家門筆頭の越前松平家に相応しくないという理由からであったが、これらの動向は清河にとってまだまだ運が残っていることを示していた。
それは一連の改革の中で出された大赦の動きだった。うまくいけば文久元年(1861)五月、虎尾の会を潰し、清河を逮捕する口実をつくる罠だった岡っ引き殺害事件、この結果、清河は全国逃亡の旅に出たのであるが、これがご赦免になるかもしれないという希望だった。
文久二年八月、清河は江戸に戻り、ひそかに、小石川鷹匠町の山岡鉄舟を訪ねた。
「無事でしたか」
鉄舟は清河を懐かしそうにみて、すぐに英子が用意した酒を飲みながら、逃亡を始めた文久元年五月以来の状況を語り合い、幕閣の変化と、それによって希望が出てきた清河の大赦について語り合った。
この時、幕閣は大きく変わっていた。安藤老中と久世老中は辞職し、安政の大獄で辣腕をふるった京都所司代酒井忠義も罷免されていた。代わって幕閣を動かしているのは、備中松山藩主板倉勝静、山形藩主水野忠精、竜野藩主脇坂安宅の三閣僚と将軍後見職一橋慶喜、政治総裁松平慶永という目をみはるような変化だった。
「大赦を掛け合うには、今が好機だ。幕府はこれまでのように尊王攘夷について、無闇矢鱈に弾圧できない状況になっている」
「そう思う。ご赦免の請願書を書いてみようと思っている」
清河は水戸に向った。水戸では逃亡中に立ち寄ったときとは、雲泥の差の歓待を受ける羽目になった。清河が来る、という噂はすぐに広まり、多くの人物が清河の前に現れて、寺田屋の件を語り、策は直前で破れたものの、清河の呼び掛けで三百人ほどの尊攘志士が京都に集まったことを賞賛するのであった。
水戸にいる間に清河は「幕府に執事に上(たてまつ)る書」を書き上げ、鉄舟に送り、政治総裁松平慶永の手許に届けるように依頼した。
結果は清河に対し、文久三年(1863)一月、北町奉行浅野備前守から、正式の赦免の沙汰がおりることになった。
この日清川は、出羽庄内藩江戸留守居役黒川一郎に付き添われて、麻裃に身なりを改めて奉行所に出頭し、次の示達を聞いた。
「御家来にて、出奔致し候清河八郎召捕方の儀、先達相違し置き候ところ、右者此の上召捕に及ばす候間、なおまた此段申し達し候事」
同じ日に、浪士取扱いの松平上総介から、次のような伺書が奉行所に出された。
「出羽庄内 清河八郎
右者有名の英士にて、文武兼備尽忠報国の志厚く候間、御触れ出しの御趣旨もこれあり、私方へ引取り置き、他日の御用に相立て申したく此段伺い奉り候」
この二通の公式文書で、清河は晴れて赦免の身になると同時に、松平上総介に身柄を引取られることになったが、これは一種の軟禁状態におく意味合いがあった。
松平上総介とは、鉄舟も関与している講武所の剣術師範役並出であり、直心影流を学び男谷下総守と同門で、他にも伊庭軍兵衛に心形刀流を学び、柳剛流にも通じている剣客である。
ここで、ちょっと寄り道になるが柳剛流にふれてみたい。あまり馴染みのない流派である。柳剛流は武州北足立郡蕨の農家生れの岡田総右衛門奇良を流祖とし、特徴は上段から長大な竹刀をふりかぶって思い切り振り落とし、面にきたなと思っていると、そのまま相手のすねを狙い撃ちする剣法。それも一撃ではなく、はずされれば二撃、三撃と相手がかわし切れなくなるまで続け、相手の体勢が崩れたところを狙い打つので、幕末の剣豪たちが軒並み総崩れで敗退したという。その後、何度も苦杯を喫してようやく対策を編み出し、撃退できるようになったというが、撃退法もかなりの修練を要するもので、幕末の著名な剣豪たちは柳剛流を相手にするのを大変嫌がったという。
それを示すように、千葉周作もその著書の中で、
「柳剛流は足を多く打ってくる流派である。相手が足を打ってきた場合、足を揚げようとしては遅れてしまい、多分打たれてしまう。早くするためには、踵で自分の尻を蹴るような気持ちで足を挙げるとよい。また、太刀先を下げて止めるのもよい。この場合も受け止めようとするのではなく、切っ先で板間土間をたたく気持ちで止めるべきである」と述べているが、この柳剛流の名手が松平上総介であった。
その上、松平上総介の家柄は名門だった。松平は家康の六男忠輝の後胤で、わずか二十人扶持の捨て扶持であったが、白無垢を着て登城すると、譜代大名の上席に付く格式を備えていた。
ここに目をつけたのが清河である。松平上総介に身柄を引取られ、一種の軟禁状態という条件を有利に活用しようと、愈愈その「意表に出る」能力を発揮したのである。さすがは伏見寺田屋事件を潜り抜け、生き残ったしぶとさといわざるを得ない。
2009年08月10日
尊王攘夷・・・清河八郎その五
尊王攘夷・・・清河八郎その五
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
2008年のNHK大河ドラマ「篤姫」は高い評価で終わりました。
天璋院篤姫は第13代将軍家定の御台として、家定死後は第14代将軍家茂に嫁いできた、孝明天皇の妹・和宮(静寛院宮)とともに、徳川家を守ろうと江戸無血開城を成功させるストーリーでしたが、史実とドラマのフィクションとを巧みに編集整理され展開されたことが、評判を高めた要因でしょう。
また、本土最南端の薩摩の地で、桜島の噴煙を見ながら、錦江湾で遊ぶ純朴で利発な一少女が、将軍家の正室となり、3000人もの大奥を束ねるという、ただならぬ人生の歩み、それが多くの視聴者に受け入れられてきた背景でもあります。
過去の歴史が今の時代に共感されるためには、現代人からの認識、理解、共鳴、同感が条件であるが、この点で「篤姫」は成功し、現代に篤姫を蘇えさせていると思う。
現代に歴史を蘇えさせているのは、ドラマだけでない。各地に造られている史跡もそのひとつである。読者から群馬県の草津温泉に、清河八郎の石塔があるとご連絡いただいた。
確かに、草津温泉の湯畑を囲む石の柵・石塔に清河八郎の名が刻まれている。草津が町制百年を記念して、草津を訪れた著名百人を選んだ中に清河が入ったのである。滞在したのは文久元年(1861)お盆の時期で、江戸を追われ全国各地を逃亡する途中、しばし草津の湯で疲れを癒したのであろう。
ここで清河の人相を、手配された人相書きから確認してみたい。
「酒井左衛門尉家来出羽荘内清河八郎歳三十位。中丈、江戸お玉ヶ池に住居。太り候方。顔角張。総髪。色白く鼻高く眼するどし」とあり、人相書きは荘内藩領内一円に布告とともに出され、清河の父は謹慎、実家の商売である酒販売が禁止された。
だが、すでに清河は京都で田中河内介と出会い、中山忠愛の親書と田中の周旋状を持ち、勇躍、下関から小倉、久留米を経て肥後に向っていた。
肥後での清河は「ど不適」という性格どおり、何者も恐れず、自らが認識している時代情報分析と方向性を強烈に展開していった。つまり、キーワードである「廃帝の噂」の強調と、もはや「尊王攘夷ではなく倒幕王政だ」という新しい主張であった。
この清河の過激とも思える論弁に対し、当然反発もあったが、平野次郎、宮部鼎三、河上彦(げん)斎(さい)、真木和泉など、九州各地の著名尊攘志士達に対し大きな影響を与えた。
さらに、薩摩藩の動向を掴むため、つまり、島津久光が一千余の藩兵をひきいて京都に乗りこむという噂の確認のため、京都から同行した虎尾の会同志で、薩摩出身の伊牟田尚平と、清河に共鳴した平野次郎を薩摩に潜入させた。
伊牟田と平野はそれぞれ別ルートで、苦労して間道から薩摩に入ったが、二人ともすぐに見つかって捕縛され、所持していた中山忠愛の親書と田中の周旋状などすべて取り上げられた。厳罰を覚悟したが、思いがけず御納戸役の大久保一蔵が出てきて、旅費として十両ずつ渡し、親書などの趣旨はよく検討する旨の発言を受け釈放された。
実は、これが久光を清河が認識する齟齬のはじまりだった。倒幕王政という思惑を持って、二人が薩摩入りしたにもかかわらず、処分を受けなかったことを、清河は自分に都合よく理解し、独り合点し、翌文久二年(1862)一月に京都の田中のもとに戻ったのである。
九州遊説の成果を聞いた田中が質問を発した。
「どのような思惑で、薩摩の島津久光は上京するのだろうか」
「それは朝廷に倒幕の勅諚を乞いに来るためでしょう」
「どうして、そのように断定できるか」
「それは平野と伊牟田の薩摩入り時の対応で分かります」
「うーむ。それはどういうことか」
「二人が倒幕王政の趣旨を述べたのに、処罰されず、かえって旅費を差し出されたことです」
「旅費程度のことでは断定できないだろう」
「旅費を渡したのが、久光の側近である大久保一蔵であったということが重要です。それと、藩内に二人を処分し難い何らかの理由、それは薩摩上層部が幕府に対して好意を持っていないと考えられることと、さらに、藩内の過激尊攘派が強い勢力を持っていると想定できるからです。倒幕の勅諚目的上京はまちがいないと思います」
このような会話をしているところに、肥後から宮部鼎三が訪ねてきた。清河が肥後を去った後、肥後人の間で清河が展開した背景について議論が続き、その根拠を確かめるべきだということになり、その確認のために宮部が上京してきたのであった。
そこで翌日、宮部を歓迎する名目で、中山忠愛、田中と清河が酒席をもった。その酒宴の最中に田中の家から使いが来て、坂下門外の変が知らされた。
それを聞いた田中が「廃帝の古例を調べさせたのが襲撃された原因だ」と叫んだ。
この叫びは、肥後で清河が強調したことが、事実だと立証する形となり、酒席はにわかに活気を帯び、宮部はすぐに肥後に戻って、同志にここで確認した状況を伝えるということになった。
さらに、突然、薩摩藩士の柴山愛次郎と橋口壮介も清河を訪ねてきた。いずれも薩摩過激尊攘派の中心人物である。用件は久光の上京が決定したことを知らせるものであった。
急き込んで上京目的を尋ねる清河に、二人は語った。
「故順聖公(斉彬)のご意志を継ぎ、勅命を頂いて幕府に改革を迫るためです」
「倒幕ではないのですか」
「もし順聖公が生きておられれば、今の情勢なら、そういうことも考えたかも知れんが、久光公では・・・」
「というと、やはり幕府改革ということなのか・・・」
清河はしばし黙したが、すぐに
「しかし、この機会を逃す手はない。絶好の好機だ」
「その意味は・・・」
「薩摩藩が出兵上京という噂、それが事実となったことが大事なのです。これで同志を日本国中から集められる理由がつきますから」
「分かった。我々もその深意に沿って動く」
清河と柴山、橋口の三人は、それ以上語らなくても、お互いにある意味を了解しあい、共通認識を持ち合ったのである。その共通認識とは、清河が「薩摩藩が出兵する」という火種を武器に、日本各地に檄をとばし、尊攘派を京都に集合させることであり、薩摩藩士の柴山、橋口はその動きを受けて、一気に藩内を反幕府体制に持っていくことであった。
早速、清河は田中と相談し、檄文つくりに取りかかった。清河はこれまでのすべてをこの檄文に没入させ、田中と連盟にし、遊説先の九州は勿論、尊王攘夷に心寄せる諸国のあらゆる知人に送ったのである。
清河はこの檄文に対して、勝算があった。時代は、公武合体という妙な政治停滞によって出口がふさがれ、変化を求めるエネルギーが、噴出しようとうねって何かを探している。そのうねりに、この檄文が火をつけ、発破となるであろうと。
結果はその通りであった。全国各地から続々と京都に集まった、三分類に分けられる志士達は、その数三百名にも及んだ。
一つは薩摩藩士たちである。柴山愛次郎と橋口壮介を中心とした薩摩過激尊攘派であり、屯ったのは中の島のはたご屋魚田である。
二つ目は長州藩士たちで、これは長州藩蔵屋敷に入っていた。長州は関が原の役で、西軍の主将に祭り上げられたが、実際には毛利輝元が大坂に居座って出兵しなかったのに、家康は毛利家を百二十万石から三分の一という三十六万石に削ったので、もともと幕府に対しうらみを持っている藩で、薩摩過激尊攘派と連絡をとり、貧乏な薩摩藩士に経済的援助を行うなどで反幕勢力と通じあっていて、久光上京を聞くと、藩をあげて動いてきた。
三つ目は大坂薩摩屋敷である。これは勿論、清河と田中の連名檄文によって上京した志士達であって、当初田中の屋敷に入っていたが、たちまち巣窟と化し、京都所司代の監視が厳しくなってきたので、清河と昌平黌書寮で顔見知りの薩摩藩士堀次郎の斡旋により、薩摩藩邸に移りたいと交渉・了解を受け、大坂薩摩屋敷の二十八番長屋に入ったのである。
さて、肝心の久光であるが、文久二年四月大坂に入ると、直ちに以下の訓令を下した。
1.諸藩士や浪人らへ私的に面会してはならない。
2.命によらずして、みだりに諸方へ奔走してはならない。
3.万一、異変が出来しても、敢て動揺せず、命令のないうちはその場に駆けつけてはならない。
4.酒色を相慎むべきこと。
この趣は以前からしばしば申し渡してきたことではあるが、これからも益々守るべし。もし違背する者は容赦なく罪科に処するであろう。
この訓令と同じ趣旨のものが、薩摩を出立する際にも出していたが、これらから考えても久光が倒幕など念頭にないことが明らかであり、実際に朝廷に差し出した建白書には、安政の大獄で処分された公卿や一橋(慶喜)、尾張(慶勝)、越前(慶永)などの謹慎を解くべきという、幕府改革に通じる内容のものであった。
この状況を受けて、総勢三百名にも及ぶ三分類の志士達は何回かの会合を持ち、最終的に久光を頼らず、決起する企てを決め、薩摩過激尊攘派と大坂薩摩屋敷の二十八番長屋の志士達は、ひそかにその決起集結地である伏見の寺田屋へ向った。その際、長州藩は伏見に向う淀川の船の費用などを協力し、事の勃発を今か今かと藩邸で待つ態勢でいた。
だが、しかし、この企みは久光の耳に入ることになってしまった。久光が知るまでには、様々な背景経緯があるが、いずれにしても久光はこの薩摩藩士が参加している計画を暴挙と断定し、非常な怒りをもち、特に長州藩がバックアップしていることに不快感をもったが、まず自藩士のことであると思い直し指示を下した。
「首謀者をここに連れてまいれ。わしが自ら説諭するであろう」
「もし、おとなしく命を奉じることなく、拒みましたら、いかがいたしましようか」
「その時はいたし方なし。臨機の処置をとれ」
この臨機の処置とは「上意討ち」にせよという意味になるわけで、その使者として九名の武技に優れた者を選び寺田屋に向かい、結果は説得できず戦いとなった。これが世に名高い「文久二年四月二十三日の伏見寺田屋事件」である。
この事件で討手一人と寺田屋にいた薩摩藩士六名が死亡、二人が負傷し、生き残った薩摩藩士と、田中河内介や真木和泉などは京都の薩摩藩邸に収容され、以下の処置となった。
「薩摩藩士で暴発に加担した者は国許に送り返す。他に藩籍ある者はそれぞれの藩に引き渡す。田中河内介その他の浪人などは、薩摩で預かって、国許送還の薩摩藩士とともに薩摩に連れて行く」
だが、田中河内介は薩摩行きの船の上で殺害され、死体は海中に遺棄され、後日、小豆島に流れ着いたといわれている。
後日談であるが、田中は権大納言中山忠能に仕えた諸大夫であり、明治天皇の生母は忠能の娘中山慶子であったため、田中は幼少時の祐宮のお守役をつとめたことから、天皇は田中のことを記憶にあり「河内介爺はどうしただろうか」と案じていたので、側近が「田中はしかじかのことで、薩摩藩によって殺されました。その際の当局者は内務卿大久保利通でございます」と言上したが、大久保は下を向いたままだったという。
しかし、ここでおかしいのは、伏見寺田屋にいるはずの清河八郎がいなかったことである。寺田屋にいたならば田中と同じ運命になったであろう。しかし、清河は悪運というか、幸運というか、つまらない事件で大坂薩摩屋敷を出る羽目になり、結果として伏見寺田屋事件に関与しなかったのである。
次回は、その経緯と、伏見寺田屋事件後江戸に戻り、急転、幕府から大赦を受け、鉄舟とともに再び京都に赴くことになることをお伝えしたい。
2009年07月16日
尊皇攘夷・・清河八郎その四
尊皇攘夷・・清河八郎その四
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
清河八郎が江戸を追われ、全国各地の逃亡先で出会った中に、京都の田中河内介がいた。田中は但馬出石の医師の第二子であったが、京都に遊学している間に、権大納言中山忠能に召し抱えられ、中山家の家臣である田中近江介の家を継ぎ、諸大夫となった。
諸大夫とは、公卿に次ぐ家柄で、朝廷から親王・摂関・大臣家などの家司、つまり、事務を司る職位で、四位・五位の官人である。
ここで権大納言中山忠能(1809-88)に触れなければならない。後日、鉄舟と同じく明治天皇を囲む酒飲み仲間となった人物であり、明治天皇の外祖父である。
祐宮(明治天皇)の生母は忠能の娘中山慶子で、嘉永五年(1852)9月22日に、中山家敷地内に設けられた、浴室と厠のついた二間だけという質素な産所で誕生したが、この産所を建築する際に、借金をしなければならないという貧しい中山家であった。
いまでもこの産所は京都御所を取り巻く御苑の北の端に、板塀で仕切られた屋敷跡があって、その庭の一角に残っている。明治天皇がこのような質素な産所で生れたのは、宮中の慣習によるものであった。出産は建物を穢す、と古くから信じられていたからであり、代々、天皇の御子は宿下がりした生母の家近くで生まれるのが普通であった。
明治五年、鉄舟が明治天皇の侍従番長として宮中に出仕するようになって、明治天皇と鉄舟については多くの逸話が残っている。後日詳しく展開する予定であるが、ここでは中山忠能との関係を、侍従高島鞆之助の語ったものから紹介したい。
「御酒量も強く、時々御気に入りの侍臣等を集めて御酒宴を開かせられしが、自分は酒量甚だ浅く畏れ多き事ながら何時も逃げ隠れる様にして居た。所が彼の山岡鉄舟や中山大納言(忠能)の如きは却々の酒豪で、斗酒猶辞せずと云ふ豪傑であったから聖上には何時も酒宴を開かせ給ふ毎に、此等の面々を御召し寄せになっては、御機嫌殊に麗はしく、勇壮な御物語りを御肴として玉杯の数を重ねさせ給ふを此上なき御楽しみとせられた」(『明治天皇』ドナルド・キーン著 新潮社)
このように、鉄舟と中山忠能は明治天皇の「御気に入りの侍臣」であり、酒宴の常連メンバーであった。
さて、時は文久元年(1861)に戻るが、当時の中山忠能は、それまで祐宮の外祖父として威勢をふるい、外国との条約勅許にも強硬に反対したが、一転、皇女和宮の降嫁では推進斡旋役に回ったことから、尊攘派からにらまれ、逼塞せざるを得ない状況下にあり、対外的には子息の中山忠愛が動き、ここに清河は目をつけていた。
清河と田中河内介の出会いは、田中と旧知である虎尾の会同志の北有馬太郎から、田中が剛毅な性格で頑固な尊王論を持ち、京都では知られた人物であると聞いていたので訪ねたのである。
清河は誘われるままに、田中の屋敷で一泊し、得意の弁舌で尊皇攘夷・倒幕論を説きながら、噂話であるがという前提つきで「皇女和宮を人質にとって孝明天皇に条約勅許を迫り、天皇があくまでこばめば廃帝を断行する、そのために和学者の塙次郎に古例を調べさせている」と切り出したところ、田中の反応は予想以上に多きいものだった。
「怪しからんことだ。それが本当なら、言うも憚る不逞なことだ。しかし、その噂はどこから出たものか」
「水戸です」
「水戸? なるほど水戸か」
「水戸藩内には、この噂に憤激し、安藤信正老中を刺そうとする動きがあります」
「そうだろう。この噂を聞いて水戸が黙っているはずはない」
「しかし、それがしは安藤老中を討ち果たしても時代は変わらないと思います」
「なぜた?」
「それは今まで二百数十年、天下を仕切ってきた幕府の骨組みは意外にしたたかで、容易には倒れないと考えるべきで、井伊大老が首を斬り取られても、すぐに安藤に代わり、その安藤が井伊を上回る狡知をもって、皇女和宮の降嫁により事態をうやむやに収めようとしている動きを考えれば、他の方策が必要だからです」
「うーん。そうかも知れん。そこで、そこもとに打開策があるのか」
「ございます」
「話されい」
「ご承知の通り、九州は元々勤皇の土地柄です。九州に下り、有志に義挙を説き、同志を募り糾合し、京に上がります」
「そのようなことが、貴殿に出来るか。それに一人では無理だろう」
「その通りです。そこで田中様にお願いに来たのです」
「何か」
「それは、大納言中山忠能卿のご子息中山忠愛卿は英邁な方と伺っています。田中様のお力で一度お会わせいただき、忠愛卿から親書を賜りたいのです。それと田中様は九州の尊攘志士と親しいとお伺いしております。それがしを、かの地の志士達に周旋する書状を書いていただきたいのです」
「親書や周旋状をどういうように使うのか」
「九州に参り、青蓮院宮の密使と偽って呼びかけます」
「青蓮院宮を騙るなぞ、穏やかならぬことだ」
「いや、順序が前後するだけでしよう。京に糾合した同志によって、京都所司代を討ち、青蓮院宮を奪い奉って尊王倒幕義軍の総帥に頂く、というのがそれがしの企てで、その後に諸国の尊皇攘夷の士に呼びかけるなら、天下の草莽の志士達は一斉に宮の下に集まり、倒幕の一大義軍が出来ます」
「うーむ・・・。危険な策だが・・・。もしかしたら出来るかもしれないな。よし、周旋状を書き、中山忠愛卿に会えるようにしよう」
「ありがとうございます。九州の説得は必ずやり遂げて見せます」
ここに現れた青蓮院宮とは、伏見宮邦家親王の第四子で、のちに孝明天皇の養子になり、京都郊外粟田口の青蓮院に住んでいた。朝廷が政治の表面に出るようになって、孝明天皇の諮問に応える形で、条約勅許問題では、最も強硬な反幕姿勢を打ち出し、尊攘派公卿の中心的存在となり、井伊大老ににらまれ、慎みを言い渡され、相国寺内に幽閉される身分となっていたが、諸国の尊攘派志士達からは、ひとつの拠り所とされていた人物であった。
その青蓮院宮の密使と偽るためにも、祐宮の外祖父として権威のある中山忠能の子息忠愛から、親書を書いてもらう必要があったのだ。実際に田中の斡旋で忠愛とも会え、親書を書いてもらうことが出来、田中の周旋状を持ち、勇躍して九州に向ったのであるが、それを可能にしたのは田中を説得できたことであり、説くための切り札は「廃帝」の噂であった。
では、「廃帝」の噂が当時事実として存在したのか。これを検討してみたいが、そのためには、井伊大老の後を継いだ安藤信正老中に触れなければならない。
井伊大老後の政治は安藤・久世広周政権となって、この政権が行ったことは、皇女和宮と第十四代将軍家茂との婚儀を整えることで、いわゆる公武合体政策の推進であったが、この結果は尊攘志士から狙われることになり、文久二年一月の坂下門外の変となった。
だがしかし、かねてから、この事あろうと安藤側では屈強な藩士を警護に当てていたので、襲撃した水戸浪士六人全員斬り伏せられ、安藤の生命に別状なかった。だが、警護の一瞬の隙から駕籠の外から刀で貫かれ、頭部と背部に傷を負った。
その後、この傷は思いのほか日がたつにつれて深くなっていった。まず、第一の傷は非難する声の高まりである。安藤が武士にあるまじき、後ろ傷を負ったということである。駕籠の後ろから刺されたので、後ろ傷を負うのは当然であるが、戦わずして背後から斬られたように聞える非難である。
次の傷は、三月になって全快したので、再登城しようとしたところ、幕府大目付、目付衆がこぞって反対したことであり、これらの雰囲気を感知した安藤は、自ら願い出て老中を辞任してしまった。
なお、これら動きには薩摩藩も同調した。薩摩藩主島津忠義の父久光が一千余の藩兵をひきいて、京都に乗りこみ朝廷に差し出した建白書には、安政の大獄で処分された公卿や一橋(慶喜)、尾張(慶勝)、越前(慶永)等の謹慎を解くべきというものから、安藤老中を速やかに辞めさせるようにとも、書き込んであったほどである。
このように述べてくると、安藤の評判はいたって悪いということになりそうだが、実はかなりの有能な人物であったらしい。
そのことを述べているのが福地桜痴である。福地は天保十二年(1841)生れの幕臣、明治になってからはジャーナリストとして活躍し、その著書に幕末政治家(岩波文庫)がある。そこに安藤について次のように書いている。
「英国オールコック公使を説きて、英国が五ヶ年間の開市延期を承諾し、これに対する報酬は、輸入物品中幾分の減額に止まらん事を談判し、その坂下御門の変に、頭部および背部に負傷して病牀にあるを顧みず、創を包み傷みを忍びて英公使を引見し頻りにその尽力を望みたりしかば、英公使も安藤が憂国心の厚きに感じて、しからば自ら英国に請暇帰朝して、事情を詳細に外務大臣に具陳し、日本のために竹内等(筆者注 欧州使節として派遣された竹内下野守)を助け、以てこの談判を都合よく帰着せしむべしと請合い、果してまず英国をして、第一に延期承諾の覚書に調印するに至らしめたり。これ実に安藤が特別の功労あらずや」
と書き、このような外国との交渉成果は、明治時代であるならば、勲一等に叙せられるほどだと高く評価しているし、その他多くの識者も安藤を認めている例は多いから、確かに有能であったのだろう。
この安藤老中が「廃帝」を図っているというのである。では、その出所はどこか。それは坂下門外の変の斬奸趣意書の中に次のように書かれていた。
「このたび皇妹御縁組の儀も、表向きは天朝より下しおかれ候ようにとりつくろい、公武合体の姿を示し候えども、実は奸謀威力をもって強奪し奉り候も同様の筋に御座候ゆえ、この儀必ず皇妹を枢機として、外夷交易御免の勅諚を推して申下し候手段にこれあるべく、その儀かなわざる節は、ひそかに天子の御譲位をかもし候心底にて、すでに和学者どもへ申しつけ、廃帝の古例を調べさせ候始末、実に将軍家を不義に引き入れ、万世の後まで悪逆の御名を流し候よう取計い候所行にて、北条、足利にもまさる逆謀は、われわれども切歯痛憤の至り、申すべき様もこれなく候」(『幕末閣僚伝』徳永真一郎著 PHP文庫)
この斬奸趣意書は坂下門外の変を陰で指導したという、宇都宮の儒者で尊攘家の大橋訥庵が書いたといわれているが、この結果、和学者の塙次郎が暗殺されるという事態となった。塙次郎は「群書類従」の編纂で知られる盲目学者の塙保己一の四男で、父の死後に家を継ぎ、幕府の和学講談所で史料編集と国史研究にあたっていた。
坂下門外の変があった文久二年の年末、自宅に戻ったところを襲撃され斬られ、首を麹町九段目の黒板塀の忍び返しの上にさらされた。犯人は長州の伊藤俊輔(博文)と山尾庸三であった。
伊藤博文は後の首相・初代韓国統監であり、かつて千円札に肖像が印刷された人物。山尾庸三はロンドンに留学し工学関係の重職を務め、後に初代法制局長官になっている。幕末時の異常・非常混乱事態下とはいえ、暗殺犯が後日、日本のトップリーダーになっているということ、何か割り切れない気持である。
さて、清河は京都で成功した「廃帝」の噂を武器に、勇躍九州へ向い、その結果続々として尊攘志士達が上洛、合わせて薩摩藩島津久光が一千余の藩兵をひきいて乗りこみ、幕末風雲の動きは京都で一段と激しさを増す。次回は清河の九州遊説と薩摩藩の動向をお伝えしたい。
2009年06月10日
尊王攘夷・・清河八郎その三
尊王攘夷・・清河八郎その三
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
桜田門外の変を契機として、清河八郎は国事に奔走しはじめた。お玉が池の清河塾机上から儒書が消え、土蔵に出入りする武士たちが増え、その中から清河を含む14名の同志によって「虎(こ)尾(び)の会」が結成された。時期は安政六年(1859)または万延元年(1860)といわれている。
「虎尾の会」は尊王攘夷党であり、「虎尾」とは「書経」の「心の憂慮は虎尾を踏み、春氷を渡るごとし」より起った言葉で、「危険を犯す」という意味のとおり、後に出てくるように結成後多くの危機に遭遇している。
発起人は清河八郎以下次のメンバーであった。
薩摩藩 伊牟田尚平 樋渡八兵衛 神田橋直助 益満休之助
肥前有馬 北有馬太郎
川越浪士 西川錬蔵
芸州浪人 池田徳太郎
下総 村上正忠 石坂周造
江戸 安積五郎 笠井伊蔵
幕臣 山岡鉄太郎 松岡万
また、盟約書は次のように書かれていた。
「およそ醜慮(しゅうりょ)(外国人)の内地に在る者、一時ことごとくこれを攘わんには、その策、火攻めにあらずんば能わざるなり。しかして檄を遠近に馳せ、大いに尊王攘夷の士を募り、相敵するものは醜慮とその罪を同じうし、王公将相もことごとくこれを斬る。
一挙してしかるのち天子に奏上し、錦旗を奉じて天下に号令すれば、すなわち回天の業を樹てん。もしそれ能わずば、すなわち八州を横行し、広く義民と結び、もって大いにそのことを壮んにせん。いやしくも性命あらば、死に至るもこの議をやすんずるなし」
清河が主張する尊王攘夷思想を盛り込んだもので、この中に「火攻め」とあるのは、横浜の外国人居留地の焼き討ちを意味している。
この当時の尊王攘夷志士達は、しきりに横浜の外国人居留地の焼き討ちを狙っていた。
例えば長州藩の桂小五郎も、万延元年に品川沖停泊中の軍艦丙辰丸で、水戸藩の有志と会し、幕政改革を意図した次の盟約を結んでいる。(寺田屋騒動 海音寺潮五郎)
「幕府の要路の大官を殺すか、横浜の外人居館を焼き討ちすれば、天下震動して、幕府は戦慄するであろうから、この役目は水戸人が引き受ける。長州人は幕府に建言して、幕政を改革して、安政の大獄の裁判を撤回させる役目を引き受ける」
この盟約は、水戸藩内の混乱で実行にいたらなかったが、「火攻め」の対象は常に横浜の外国人居留地であった。
その要因は天皇の勅許を得ない日米修好通商条約の調印と、この結果生じている国内経済の混乱、外国人の日本人への侮蔑行動、つまり、夷狄に屈服して、神国をその蹂躙にまかせる幕府は、もはやたのむに足らない。
加えて、違勅調印を攻撃すれば、幕府は安政の大獄によって弾圧を加えてくる。このような幕府の政策を変更させ、なんとか天皇の意志を奉じて、攘夷をしなければ、日本は滅亡するのではないか。この危機感が多くの人々に浸透していった結果が、「虎尾の会」の盟約書であり、桂小五郎のそれであった。
この「虎尾の会」に薩摩藩の益満休之助がいたことの事実は重要である。
これから八年後、鉄舟と益満は東海道を駿府へ向って急いでいた。東征軍参謀西郷隆盛と会見するためであったが、その道中は官軍で満ち溢れていた。その中を駿府まで通過する通行手形は、薩人益満の薩摩弁であった。独特の薩摩訛りは他国者に真似できない。益満がいたからこそ通行を邪魔されずに、慶応四年三月九日西郷と「江戸無血開城」の談判が出来たのであった。
その駿府行きの鉄舟と、益満と慶応四年の再会は、赤坂氷川神社裏の勝海舟邸であった。一介の旗本に過ぎず、それまで一度も政治的立場に立ったことがない鉄舟が、将軍徳川慶喜から幕府存亡危機を救う外交交渉に向かうよう命を受け、政治的立場の上層部に相談しようと、何人かの幕府上層部人物を訪れ、相談し指示を仰いだのであるが、皆、単独で駿府へ行くことなどは無謀であり、不可能であるからといって相手にしてくれない。そこで、最後に、今でいえば当時の首相の任にあった、軍事総裁としての海舟のところに向かったのであった。そこに「虎尾の会」以来の旧知、益満がいたのである。
ところで、清河を毛嫌いしていたのは海舟であった。海舟は清河と同型の人物ではないかと思う。清河の才気に国際的要素を加え、ひとまわり大きくし、純情さを一味少なくし、手練手管の芸を加えた人物、それが海舟であると思う。人は自分と同型を好まない傾向があるような気がするが、鉄舟は清河が暗殺された五年後、清河と同型の海舟と莫逆の交わりを結ぶことになった。それも鉄舟と清河が初めて会った瞬間に親しくなったように、海舟も鉄舟と出会い、ひとこと言葉を交わした瞬間、与(くみ)する仲になった。時間軸を隔てて同型の清河と海舟との深い交わりは、鉄舟という人物の一面を示していると思う。
氷川神社裏の海舟邸に益満がいた理由は、海舟日記(三月二日)で明らかである。
「旧歳、薩州の藩邸焼討のをり、訴え出でしところの家臣南部弥八郎、肥後七左衛門、益満休之助らは、頭分なるを以て、その罪遁るべからず、死罪に所せらるゝの旨にて、所々に御預け置れしが、某申す旨ありしを以て、此頃このひと上聴に達し、御旨に叶ふ。此日右三人某へ預終はる」
つまり、対官軍用の工作要員として、牢から引き出し受け入れたもので、鉄舟が訪れる三日前の三月二日という絶妙タイミングである。さすがに政治的能力の高い海舟ならであるが、それよりも鉄舟と益満とが同志として盟約を結んでいた仲であったことを、海舟が熟知していたことの意義は深い。
歴史とは偶然の重なりで、偉大な業績を積み重ねていく。益満と鉄舟の出会いは清河の「虎尾の会」。時が移って、益満が鉄舟の通行手形となるのは海舟邸での出会い。
もし仮に、若き益満と鉄舟が、横浜の外国人居留地の焼き討ちを図りつつ、お玉が池の清河塾土蔵の中で「豪傑踊り」をし合った仲間でなかったならば、果たして駿府行きの道中はあれほどスムースに成し得たであろうか。二人の阿吽の呼吸が効を奏したのだと思う。
一般的に「江戸無血開場」と清河は無関係とされているが、鉄舟と益満のつながりを考察すれば、清河も因子のひとつとして絡んでいたと断じざるをえない。
ここで「豪傑踊り」を説明しないといけないだろう。
「虎尾の会」の中に幕臣の松岡万がいた。この松岡が夜になると辻斬りに出た。また、薩摩の伊牟田尚平は始末に終えぬ乱暴者で、その他のメンバーも所在無さにいろいろ悪さをしに市中を出歩く。
そこで鉄舟が考えた乱暴・悪さ予防対策が「豪傑踊り」であった。まず、鉄舟が真っ裸になって、褌まで外して土蔵の真ん中で四斗樽の底を叩き出す。すると土蔵の中にいる全員が鉄舟を取り巻いて、これも真っ裸になって「えいやさ、えいやさ!」と拳固を振り回して踊りだす。みんなが踊り疲れると酒を飲む。酒が回るとまた鉄舟が樽を叩きだすので、再び踊りだす。こうして踊り疲れてごろごろその場に寝てしまって朝になる。というのが「豪傑踊り」であった。
この「豪傑踊り」の意義は高い。それは鉄舟が持っていた懸念への対策だった。外国人居留地の焼き討ちを実行させ、日本国内に騒乱を起こすことへの杞憂。徳川幕府体制内に身をおく立場として、実行をさせることの理非。さらに、情報が集中している江戸の真ん中に生き、開国はやむなしという認識を持ちつつ、その流れに反逆することの是非。
後年、静岡の金谷・牧の原台地で、お茶畑開墾頭として功績のあった中条景昭も「豪傑踊り」に加わっていたが、当時を回顧して次のように語っている。(おれの師匠 小倉鉄樹)
「今になって思えばまるで山岡に馬鹿にされてゐたようなものだ。なにせ山岡が志氣を鼓舞するのだと云って眞先に素ッ裸になって樽を叩き出すのだから、それに乗って皆が裸で踊り出したのだ。まさか裸体じゃ辻斬にも出られるものじゃない」
清河も鉄舟の意図を分かりつつ、この「豪傑踊り」に巻き込まれ、妻のお蓮に「山岡の考えは姑息すぎる」と愚痴をこぼしている。(回天の門 藤沢周平)
鉄舟は分かっていたのだ。仮に清河を首謀者とした浪人集団が事を起しても、国家体制という時代改革への行動には火がつかないと。
改革に対する読みの冷静さは鉄舟だけでない。
維新の三傑の一人、大久保利通も若き頃から次のように述べている。(寺田屋騒動)
「浪人運動では力が知れている。ろくなことは出来はせん。何として、藩全体でやることを考えなければならん。老公は見込みはないが、もう六十九というお年だ。長くなか。あとはきっと久光様が政治後見になりなさる。・・・中略・・・こちらとしては、うまく説きつけて天下のことに目ざめさせればよかのじゃ。それには先ず近づくことじゃ」
大久保利通はわかっていた。有志としての個人集団では、一時の成功や快があっても、時代を転換させるという大事業はできない。薩摩藩という七十七万石の総力を結集するしかない。そのためには久光をいだいて進めるしかない。この冷静な感覚が維新の三傑と称される人物となった基因であろう。立場と事例が異なるが、「虎尾の会」の鉄舟に通じる。
そろそろ清河が、何故に大坂薩摩屋敷に滞留し、伏見寺田屋事件に関与するような、天下の一流志士として認められたかについて触れたい。それは江戸から逃亡することになった事件に関わっている。
まず、その遠因には水戸の天狗党が絡んでいる。天狗党も横浜を襲撃するつもりで、軍資金を集めているらしいと聞きつけた清河が、文久元年(1861)一月に水戸行きを決行した。結局、天狗党とは会えずに江戸に戻ったのだが、この行動が幕吏に目をつけられることにつながり、清河塾には得体の知れない連中が、頻繁に出入りしているとにらまれ、監視されることになった。
塾の近くに信濃屋というそば屋があった。そこからそばを取り寄せて食べていたが、そのそば屋の亭主が奉行所と裏でつながっている岡っ引で、昼間は清河塾を見張り、夜になると土蔵の下に下っ引を忍びこませていたのである。このあたりが個人集団の弱さである。逐一奉行所に伝わって、首謀者の清河への対策が講じられつつあった。
書画会というものが当時盛んであった。料理屋が会場となって、客は祝儀の金を包んで行き、その場で揮毫される書や画を譲り受け帰るという催しであった。
文久元年五月、清河はひとつの書画会に出席した。水戸藩の関係者が出席すると聞いたからであった。だが、水戸藩士が居たにはいたが、政治談議は出来ず、もっぱら飲み食いに終始し、清河は少し悪酔いし、帰り道で異様な職人風の若者に絡まれることになった。
書画会のあった両国から甚左衛門町(今の日本橋人形町あたり)に来たとき、手に棒を持ち、構え、清河の行く手を執拗に塞いだり、避けるとその方向に素早く寄ったりして、明らかに清河を狙って嗾(けしか)けてくる。
何かの意図を含む挑発だと分かりつつも、棒が清河の体に直接向ってきたとき、無声の気合と共に腰をひねって刀が光り、すっと鞘の中に納まり、男の首が飛び、傍らの瀬戸物屋の店先に落ちた瞬間、その時を待っていたかのように、二三十人の捕り方が清河を囲んだ。明らかに仕掛けられたのだ。「虎尾の会」を潰し、頭領の清河を逮捕する口実をつくる罠だった。
それ以後の清河は全国を逃亡することになる。水戸から越後奥州路へ、さらに木曽路から京都、中国、九州まで。この逃亡遍歴は、結果的に清河を一流の志士として全国的に認めさせる旅となった。
禍変じて福であり、その切っ掛けは「廃帝」の噂であった。幕府が「皇女和宮を人質にとって孝明天皇に条約勅許を迫り、天皇があくまでこばめば廃帝を断行する、そのために和学者の塙次郎に古例を調べさせている」という噂を入手したとき、清河の内部に戦慄が走った。これは使える。使わなければならない。
それ以後の清河の動きに対し司馬遼太郎が、「幕末の風雲は、この清河八郎の九州遊説から開幕したといってよい」(幕末・奇妙なり八郎)と述べているほどであるが、その経緯については次回にお伝えしたい。
2009年05月10日
尊王攘夷・・清河八郎編その二
尊王攘夷・・清河八郎編その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
幕末維新の時代は、日本の歴史の中で、戦国中期以後の時代とならび、英雄時代といってよい時期で、さまざまな型の英雄が雲のごとく出た。
その中で特によく知られているのは維新の三傑としての西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允である。幕府側にも幕末三舟の鉄舟、海舟、泥舟が存在し、また、異色ではあるが、清河八郎も同様であり、その他にも多くの英雄といえる人材が輩出したからこそ、あのような偉大な改革が遂行されたのである。
その山形・清川村の酒造業の息子の清河が、江戸で儒学者を目指していたのに倒幕思想へ転換し、「回天の一番乗り」目指し、薩摩藩大坂屋敷に逗留するほどの人物になり、伏見寺田屋事件や幕府の浪士組から新撰組の登場にまで絡んでいき、最後は幕府によって暗殺されるのであるが、今号は何故に学者から倒幕思想へ人生目的を戦略転換させたか、その過程で鉄舟とどう関わっていたのか、それを検討してみたい。
清河は学問を志し、江戸神田三河町に「経学、文章指南、清河八郎」塾を安政元年(1854)十一月に開いたが、その年末に火事で消滅したことは前号で述べた。
そこで、次の塾として薬研堀の家屋を購入したが、これも安政二年(1855)十月の大地震によって壊れ、塾開設をあきらめざるを得なくなって、この前は火事で、今度は地震、自分の将来へ一抹の不安を暗示しているのではないかと、一瞬脳裏に宿ったが、それを打ち消すかのように郷里で猛烈な著述活動を開始した。
清河の多くの著述の大半はこの時期になされた。
「古文集義 二巻一冊」(兵機に関する古文の集録)
「兵鑑 三十巻五冊」(兵学に関する集録)
「芻蕘(すうじょう)論学庸篇」(大学贅言(ぜいげん)と中庸贅言の二著を併せたもので、芻蕘とは草刈りや木こりなどの賤しい者を意味し、自分を卑下した言葉で、この本の道徳の本義を明らかにし、後に大学・中庸を学ぶ者に新説を示したもの)
「論語贅言 二十巻六冊」(論語について諸儒の議論をあげ、独特の説を示したもの)
「芻蕘論文道篇 二巻一冊」(尚書・書経を読み、百二篇の議論をあげ、独特の説を示したもの)
「芻蕘武道篇」(兵法の真髄を説いたもの)
その他に論文もあり、これらの著述でわかるように、清河の勉学修行は並ではない。だが、この猛烈なる漢学の勉学が生涯の運命を決めた、と述べるのは牛山栄治氏である。
「清河は漢学によって名分論(道徳上、身分に伴って必ず守るべき本分)から結局は維新の泥沼にまきこまれて短命に終わり、勝海舟などは蘭学の道にすすんだために時代の波に乗っている。人の運命の分れ道とはふしぎなものである」(牛山栄治著 定本 山岡鉄舟)
清河の薬研堀塾を諦めさせた安政の大地震は、攘夷運動にも大きな影響をもたらしている。既に検討したように、日本の攘夷論の大本山は水戸藩であり、その藩主は徳川斉昭(烈公)であって、この当時の斉昭は幕府の海防参与に任じられて、猛烈に過激な攘夷論を主張していて、それを強力に支えていたブレーンは藤田東湖であった。
ともすれば暴走しがちな斉昭を操って適当にブレーキをかけ、どうにかこうにハンドルを切らせていたのであるが、この東湖が安政大地震で倒壊した家屋の下敷きになって圧死したのである。東湖を失って、斉昭の言動はバランスを欠いたところが目立ち始め、これが幕末政治の混乱に拍車をかけたともいわれている。
また、東湖の死が、東湖を攘夷運動の先達と仰いでいた志士達に与えた影響も大きかった。例えば西郷隆盛は江戸から鹿児島に送った手紙で
「さて去る(十月)二日の大地震には、誠に天下の大変にて、水戸の両田(藤田・戸田)もゆい打ち(揺り打ち?)に逢われ、何とも申し訳なき次第に御座候。とんとこの限りにて何も申す口は御座なく候」(野口武彦著 幕末の毒舌家 中央公論新社)
と悲嘆したほど、東湖の死はその後の歴史に影響を与えたが、ここで不思議なことは水戸藩だけが地震による死者が多いことである。
ご存知のように水戸藩は徳川御三家である。尾張六十万石、紀伊五十五万石、これに対し水戸藩は二十五万石と禄高に差があり、将軍の身辺を守る役目という意味から「定府の制」という藩主の江戸在住が義務付けられていて、これが一般に「天下の副将軍」といわれている所以であるが、その代わりに将軍の後継ぎは出せないという差別化が、屋敷の立地条件でも表れていた。
尾張藩上屋敷は市ヶ谷(現在、防衛省)であり、紀伊藩上屋敷は赤坂(現在、迎賓館)であったように、いずれも台地のしっかりした岩盤の上に位置する地形である。それに対し水戸藩上屋敷は本郷台地と小日向台地に挟まれた谷間地(現在、水道橋の後楽園)で地盤は軟弱である。この地形の差が安政大地震に表れたのである。
幕府への被害状況届出を見ると、尾張・紀伊藩邸の被害は建物の大破程度、比べて水戸藩邸の被害を「水戸藩資料」から見れば、「邸内の即死四十六人、負傷八十四人に及べり」とあり、塀と下級武士の住居をかねていた表長屋が一面に倒壊し原型をとどめず、江戸在住の重臣たちが住む内長屋も潰れ死傷者が出て、その一人が東湖で、梁の下敷きになったのである。(幕末の毒舌家)
後に将軍継嗣問題で争うことになった、井伊大老の彦根藩上屋敷は外桜田にあった。現在の憲政記念館あたりで、後楽園とは江戸城を挟んで対峙する地形であるが、彦根藩は堅固な地形で、届出も「怪我いたし候と申すほどの義はこれなく候」と全く被害軽微であった。いずれにしても当時の攘夷論をリードしていた水戸藩は大きな打撃を受け、その後の藩内混乱に走っていくのである。
さて、清河は大地震の余波が収まった安政四年(1857)四月に、妻お蓮と弟の熊三郎をつれて学者になるべく再び江戸に出た。お蓮は元々遊女であったため、素封家の斉藤家長男に嫁として迎えることは大反対を受け、ひとかたならぬ悶着があったが、ようやく結婚でき、熊三郎は千葉道場に入門するためであった。
江戸でこの年の八月、清河は駿河台淡路坂に塾を開いた。しかし、塾には思ったほど門人は集まらなかった。最初に開いた三河町塾は大勢の門人に囲まれ繁盛したのに、今回は少ない。その変化に遭遇し、その中に何か時代の流れ、それは、世の中が険しくなってきている、じっくり学問をする雰囲気が少なくなっている、日本全体が殺気立っている。
このような感覚を清河は持ったが、この時点ではあまりそれらを気にせず、学問と千葉道場での剣に励んだのであるが、ここで鉄舟との出会いがあったのである。
清河と鉄舟は、会った瞬間から気が通じ合い、お互いを理解し、その後の同志としてのつき合いが始まったのである。
その要因としては、まず、清河の学問研鑽力と、日本諸国を重ねて旅し、それを記録し、実態を把握し、それらを相手に伝える能力、それらが鉄舟に大きな魅力として、清河に惹きつけられたに違いない。何故なら、鉄舟は幕臣として行動が制約されていたからであるが、だが、もう一つ本質的な一致があったと思う。出会った瞬間に、互いが同一の性格・性向を持つ人間であると理解し合えたのである。
鉄舟は既に検討してきたように、飛騨高山の少年時代、宗猷寺の鐘を和尚が冗談に「欲しければあげるから持っていきなされ」と言ったことから徹底的に頑張る性情、また、江戸から成田まで足駄の歯がめちゃゝに踏み減って、全身泥の飛沫にまみれ一日で往復するという、酒席で某人と約束したことの実行など、一度言い出したらきかない強い性格である。
清河も同じで、前号でふれた「ど不適」な性格と、江戸で学問を学ぶためには家出してしまうという強さ、この似通った性格の二人が出会いの瞬間に、お互いを認め合い、通じ合えたのではないかと思う。
さらに、清河の塾は変事をくり返した。折角開いた淡路坂の塾が、二年後の安政六年(1859)、隣家からのもらい火で焼けてしまうのである。清河は迷信などを信じない強い性格であるが、一度ならず二度までも塾が焼失し、もう一度は大地震で壊れたことを思うと、清河が目指している文武二道指南の道を何かが妨げているような気がしてならなかった。
しかし、何事によらず始めたことは徹底するのが清河の性癖である。その年の六月に、今度はお玉が池近くに移転した。その家には土蔵があった。この土蔵がこれからの清河の変化に大きく影響を与えていくとは知る由もなく、土蔵で著述活動に励んだが、ふと、筆をとめるたびに世間での大騒ぎ、それは「安政の大獄」であるが、橋本左内や吉田松陰の死刑など、井伊大老の強行政治の行く末はどうなるのか、それを考えることが多くなっていった。
井伊大老は結局、翌安政七年(1860)三月三日雪の日、桜田門外の変で倒れるのであるが、井伊大老を刺殺し首をあげたのは、関鉄之助以下の水戸浪士に、薩摩藩士の有村冶左衛門を加えた十八人の壮士であった。
この事件は世間に一大衝撃を与えた。天下の大老が登城途中に首を奪われたのである。そのころの落書に次のものがある。(青山忠正著 幕末維新奔流の時代)
「去る三日、外桜田にて大切の首、あい見え申さず候間、御心あたりの御方これあり候はば、御知らせ下さるべく候。
三月十四日 彦根家中」
それまでであったならば、こういう落書を張り出しただけで、御政道誹謗の罪に問われるのであるが、幕府も動転しており取り締まりもなく、加えて、このような落書・狂歌が多く出回り出したことは、幕府政治の行き詰まりを示すものであった。
幕府は大老が変死するという大変事が起ったのは不祥だと、三月十七日に万延元年と改元したが、清河にも強い衝撃を与え、桜田門外の変の記録を土蔵で書き始めた。
それは「霞ヶ関一条」と名づけた美濃紙二十枚にも及ぶ、水戸浪士の井伊襲撃のあらましであり、これを故郷に送る綴りであったが、清河自身が精力的に現場に出向き、知人を訪ね、事件の風聞を聞き集め、関係する資料を分析し、事件の全体をまとめたものである。
その綴りをつくる作業中、清河は新鮮な驚きともいえる感慨に、何度も筆をとめざるをえなかった。
それは、水戸浪士の禄高一覧表であり、胸に迫ってくるものがあった。幕府の最高権力者として、安政の大獄を指導し、世の中を恐怖に震え上がらせた井伊大老を倒し、その座から引きずり下ろしたのは、雄藩諸侯でなく、歴とした士分の者でない。二百石が最高の禄高で、多くは軽輩か部屋住み、士分外の者たちであり、祠官、手代、鉄砲師もいたのである。一生うだつの上がらない、日陰の暮らしを余儀なくされるであろう名もなき人たちであったこと、それが清河の心底深く、楔として打ち込まれたのであった。
時代は変わっている。名も身分もなき者、自分と同じような出自の者、それが天下を動かし、変えることが出来る時代になっているのだ。
今までは、学問に励み、剣を磨き、江戸で文武二道の塾を開き、名をあげることが清河の戦略目標だった。世の中が攘夷だ、尊王だと騒いでいる時勢については十分に知っていたが、その動きと接することは、自らの戦略目標達成に差しさわりがあるので、つとめてその動きの外に立とうとしていた。
しかし、水戸浪士の禄高一覧表から目をあげた清河の心は、もはや塾で人を教える時代ではないかもしれない。そういえば看板を掲げても人が集まらなくなっていた。これが時代の証明なのか。動乱の世になったのだ。新しい世の中の仕組みが求められているのか。
清河の志が変わった瞬間であった。
次号は清河が薩摩藩大坂屋敷に逗留するほどの人物となり、伏見寺田屋事件に関わっていく経過について検討したい。
2009年04月13日
尊王攘夷・・清河八郎編その一
尊王攘夷・・清河八郎編その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
尊王攘夷論が日本国中に跋扈したのは、嘉永六年(1853)から明治維新(68)が成立するまでの十五年間であり、その後はピタッと消え失せたのであるが、この尊王攘夷の風雲の始まりは「清河八郎の九州遊説から開幕したといってよい」と述べるのは司馬遼太郎である。(幕末・奇妙なり八郎 文春文庫)
さらに、司馬遼太郎は同書で「幕閣老から八郎奇妙なり」と評せられたと述べ、清河が天子に上書したことをもって「奮怒せよ、と無位無官の浪人のくせに天子まで煽動した幕末の志士は、おそらく清河八郎をおいていないだろう」と書いている。
この点を突いて評論家の佐高信は「言葉尻をとらえるようだが、私は『無位無官の浪人』を賛辞としてしか使わない。私自身もその一人であることを誇りに思っている。ものかきは本来そういうものだと思うが、司馬は違うようである」と批判した。(山岡鉄舟 小島英煕著 日本経済新聞社)
清河八郎を主題に取り上げたものに「回天の門」(藤沢周平著 文春文庫)があり、この中で同郷の想いもこめて藤沢周平は次のように語っている。
「清河八郎は、かなり誤解されているひとだと思う。山師、策士あるいは出世主義者といった呼び方まであるが、この呼称には誇張と曲解があると考える。
おそらく幕臣の山岡鉄舟や高橋泥舟などと親しく交際しながら、一方で幕府に徴募させた浪士組を、一転して攘夷の党に染め変えて手中に握ったりしたことが、こうした誤解のもとになっていると思われる。
しかし、それが誤解だということは、八郎の足跡を丹念にたどれば、まもなく明らかになることである」と。
このように清河の評価は分かれるが、幕末の複雑化・混沌化した尊王攘夷の中、清河はどのような役割を果たしたのか。また、その果たすまでの経緯はどのようなものであったのか。それを今号と次号で追ってみたい。それが鉄舟の理解にもつながるからである。
山形新幹線の終点駅新庄から陸羽西線に乗り換え、三四十分で清川駅に着く。駅から歩くと十数分のところに一つの神社がある。清河神社である。鳥居近くに縁起が掲示されていて、これによると創立は昭和八年(1933)で、御祭神は「清河八郎正明公」、由緒沿革に「幕末の激動期に尊皇攘夷を唱え、天下に奔走し維新回天の先覺者として大義に殉じ、明治四十一年特使を以って正四位を贈られる」と書かれている。
清河は天保元年(1830)出羽(山形)庄内・清川村の酒造業斉藤家の長男として出生した。名前を斉藤元司といい、同家は大庄屋格で士分として十一人扶持を与えられている。
余談となるが、清河八郎が亡くなり、妹辰の息子正義が跡を継ぎ、正義は七男四女の子沢山で、四女栄の夫が作家の柴田錬三郎である。(山岡鉄舟 小島英煕著)
元司は七歳で祖父から孝経の素読を受け、ついで論語の素読も受け、十歳で鶴岡の母の実家から清水郡治の塾と伊達鴨蔵の塾に学ぶ。しかし、従順な子どもでなく、十三歳で退学し、清川に戻って関所の役人畑田安右エ門に師事したが、十四歳ごろから酒田の遊郭通いを始めるという早熟な子どもであった。
元司の性格は「ど不敵」であったと藤沢周平が「回天の門」で解説している。
「ど不敵とは、自我をおし立て、貫き通すためには、何者もおそれない性格のことである。その性格は、どのような権威も、平然と黙殺して、自分の主張を曲げないことでは、一種の勇気とみなされるものである。しかし半面自己を恃(たの)む気持が強すぎて、周囲の思惑をかえりみない点で、人には傲慢と受けとられがちな欠点を持つ。孤立的な性格だった」
元司の頭脳は明敏で、師の畑田安右エ門を驚かせたが、この頃、斉藤家に藤本鉄石が立ち寄り、長逗留することになった。
藤本鉄石(1816-63)とは岡山藩士、脱藩して長沼流軍学を学び、一刀新流の免許を受け、諸国を遊歴し、私塾を伏見に開き、文久二年(1862)に真木和泉ら尊攘派と倒幕を計画、翌年天誅組を組織し挙兵したが惨敗、和歌山藩陣営に斬りこんで戦死した人物であって、鉄舟とも後日縁が生じた人物である。
その縁とは飛騨高山時代の鉄舟が、嘉永三年(1850)十五歳の時、父の代参で異母兄の鶴次郎(小野古風)とお伊勢参りに出発したが、その旅の途中で鉄石と出会い、林子平(1738-93)「海国兵談」の写本を借り写し終え、海外情勢を説いてくれた人物であった。
その鉄石が弘化三年(1846)、元司が十七歳のときに斉藤家に滞在したのである。鉄石が鉄舟と出会う四年前である。元司も鉄石から大きな影響を受けた。それはアヘン戦争のことであり、世界には大国の清を簡単に打ち負かす力を持った国々があるという国際情勢であり、長沼流軍学・一刀新流の免許を持つという文武二道の鉄石の生き方であった。
これらの影響もあって、江戸遊学の願いをもち、父に申し出たが、当然ながら跡取りであることから激しく叱られ、とうとう十八歳で家出をして江戸に向った。
元司はいいにつけ、悪いにつけ徹底しなければやめない性格であり、自分自身が押し流されるまでもの集中力をみせ、それが学問にも、遊蕩にもあらわれるのだが、鉄石から広い世界を知った結果は、江戸へという家出になったのである。
江戸で神田お玉が池の儒者、東条一堂塾に入門する頃になって、ようやく事後承諾という形で遊学を認められ、故郷から訪ねてきた伯父たちと一緒に旅に出た。京都、大坂から中国路を岩国まで行き、四国の金毘羅参りし、奈良、伊勢を回った。元司はその後も全国各地を歩き回ることになるが、その最初の旅であった。
最初の江戸遊学中に、斉藤家の跡継ぎを予定した弟の熊次郎が突然に病死となり、帰郷を余儀なくされ、しばらく家業を手伝うことになったが、ここでまたもや放蕩の虫が騒ぎ始め、酒田の遊郭通いが激しさを増し、それがゆきつくところまでいくと、突然の如く、再び学問への望みを志し、父から三年間の許しを得て、今度は京都に向った。だが、京都では良師に巡り会えず、九州の旅に出た。
九州では小倉から佐賀へ、長崎でオランダ船を見物し、オランダ商館に入って異人を近くに見るという経験を踏み、島原、熊本、別府、中津を経て小倉から江戸に戻ったのである。
江戸では、東条一堂塾に入りなおし、東条塾と隣り合わせの玄武館千葉周作道場に入門した。当時、江戸で有名な剣術道場としては、北辰一刀流・千葉周作の玄武館、鏡新明智流・桃井春蔵の士学館、神道無念流・斎藤弥九朗の練兵館、この三道場を称して江戸三大道場と称し「位は桃井、力は斎藤、技は千葉」と評されていた。これに心形刀流・伊庭軍兵衛の練武館を加え、四大道場という場合もある。
元司は二十二歳という当時の剣術修行としては晩学であったが、その分熱心に千葉道場で汗を流して東条塾に帰ると、深夜まで学問に励んだ。
その頃、元司はひそかに、諸国から英才が集まる、幕府の昌平黌に入りたいという気持ちを強く持ち始めた。昌平黌に入るためには、昌平黌の儒官をつとめる学者の私塾に入って推薦を受けなければならない決まりがある関係上、安積(あさか)良(ごん)斎(さい)塾に入った。また、千葉道場の初目録を受けることができ、これは通常三年掛かるところを一年で受けたもので、千葉周作から非凡との誉め言葉を貰うと共に、心中に江戸で文武二道を教授する塾を開けたら、という望みを浮かべたのであったが、ここで父と約束した三年という期間が過ぎ、故郷清川村に戻ったのである。
だが、嘉永六年(1853)のペリー来航から始まった幕末の複雑化・混沌化世情の中で、元司はまたもや江戸へという気持ちを抑えきれなくなり、父へ申し出、ペリーが再来航した安政元年(1854)に江戸に戻り、元司は二十五歳になっていたが、念願の昌平黌にはいることができた。
このときに斎藤元司から「清河八郎」に名前を変えている。清河とは、勿論、故郷清川村の地名をわが名としたのである。なお、この名前については神田三河町に私塾を開設したときに改めたという説もある。
しかし、氏名を改め、気持ちを新たに入った昌平黌は、清河にとって意外に収穫の少ない学問所だった。諸藩から集まった秀才たちは、あまり勉学に力を入れず、集まると天下国家を論ずるという風で、遊びも激しかった。清河はこの雰囲気に馴染めなかった。
さらに、昌平黌の講義そのものが期待するほどのレベルではないことに気づき、失望を味わい、再び東条塾に戻って、昌平黌は自然退学という形になり、東条塾を手伝う、つまり、通い門人に素読をさずけるということを行いながら、自分の中に何かが醸成し、形つくられていくのを感じた。それは、自分の塾を開くことであった。
故郷の父に相談し、開塾の許しを得ると、神田三河町に武家の貸地があったので、ここに建坪二十一坪の新築を行って「経学、文章指南、清河八郎」の看板を掲げた。安政元年十一月であった。
いざ開塾してみると、いたって評判がよく、清河を慕って昌平黌からも、東条塾からも転じてくるものがいて、賑やかな好スタートを切ったのであった。
この評判のよさは容易に推測がつく。当時の儒学者は書籍上の講義だけであったろう。ところが清河は違った。十八歳の家出から始まり、既に日本各地を回っており、長崎では異人オランダの状況も見聞きしたという実践行動は、清河の語り口に従来の儒学者を超えたものがあったはずである。
これは吉田松陰の松下村塾も同様である。松蔭と清河は同年である。松蔭は二十歳まで長州を出たことがなかったが、二十一歳のときの九州半年間の旅に続いて、江戸、東北、ついには安政元年三月、下田に停泊中の黒船に乗り込もうとするほどの行動力をみせた。松蔭の方針は「飛(ひ)耳(じ)長目(ちょうもく)」(遠方のことを見聞することができる耳や目)で「ただ情報を集めるだけでなく、行動せよ」と門下生に教示したことが、明治維新の志士達を育てたのである。
なお、松蔭の松下村塾開設は二十七歳であったが、清河塾は二十五歳での開設という早さであった。
だが、好事魔多しである。この塾は年末の二十九日に、神田三河町一帯を襲った火事で、あっけなく消滅してしまった。
これが今後の清河の姿を暗示する事件であったが、本人は不運とも思わず、父への金策願いも兼ねて故郷に戻ったのである。
戻ってみて、十八歳の家出から二十五歳までの七年間、両親に孝養を尽くさなかったことを悔やみ、母を連れて半年間、周防岩国まで旅をした。北陸から名古屋に出て、お伊勢参りをして、関西から四国、周防を回って江戸を経て戻る大旅行であった。
江戸滞在中、訪ねてくる友人・知人が皆、清河塾の再開を奨めるのを聞いた母は、自分の息子の出来映えを理解し、塾開設にむけて資金援助を申し出たので、早速に薬研掘に売家を見つけ手金を払って、三月二十日から続いた旅を終えるべく九月十日に清川村に戻った。
ここで読者の方々が、少々不思議な感じをもたれかもしれない。清河の旅の道程について詳しく述べたからである。清河は記録を詳細に記していた。鉄舟にはこのような記録はなく、それが研究者に苦労を強いるところだが、清河は違った。
なぜなら、清河は少年時代からよく日記を書き、それが現在でも「旦起私乗(たんきしじょう)」三冊、「私乗後編」三冊、「西遊紀事」一冊、計七冊が遺っていて、「旦起私乗」は生年より十七歳頃までの父母より聞いたこと、十八歳からは日録となっていて、清河八郎記念館に保管されている。また、「西遊紀事」は母を連れた旅の半年間の記録であるが、これが「西遊草」(清河八郎著 小山松勝一郎校注 岩波文庫)として出版されている。
もうひとつ大事な特徴は、清河の旅の多さである。この時代、基本的に目的のない旅は本来許されていなかったはずで、それは農民の離散を招く恐れから農業生産の低下をもたらすことに通じ、年貢の減少につながるからであった。商工業者にとっても同様であり、また、住所不定の輩が増えることは治安の問題を引き起こすことにつながるので、江戸では無宿人狩りが頻繁に行われていた。とにかく人の移動を自由にするということは、住所不定の人間を増やすことにつながるからである。
だから旅は本来難しいはずだが、清河が旅した回数は当時としては異常に多い。例外的であろう。松陰も旅をしたが、松蔭は武士であった。清河は士分とはいえ出自が異なる。その出自を埋め合わせるような旅の多さであり、その旅の記録を残すという勤勉な行為、その結果は清河の頭脳に各地の実態が刻み込まれ、それと学問と剣術が加わり、攪拌され、多分、清河は当時の最先端人間になっていたであろう。
つまり、時代の動きを体現していたのであり、それが、幕臣として動きの不自由な鉄舟や泥舟をとらえた真因であろう。次回も清河分析がつづく。
2009年03月07日
尊王攘夷・・・その二
尊王攘夷・・・その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
前月では、鉄舟に影響を与えた人物である清河八郎を取上げ、何故に山形・清川村の酒造業の息子である清河が、尊王攘夷の著名急進派志士と称され、雄藩の大坂薩摩藩邸に滞留するほどの人物となったのか。この検討のため当時の政治状況を振り返ってみた。
今月は、清河はじめ著名な人物が争って唱え行動した尊王攘夷運動とは何か、つまり、尊王という意味、攘夷とはどういう内容か、この理解なくしては当時の政治状況を理解できないので、改めて考察してみたい。
まず、尊王ではなく、一般的に尊皇と書く事例が多い。
これは昭和初期ごろから、本来は尊王であるものを、尊皇に変わったと指摘されている。(小西四郎著 開国と攘夷 中公文庫)その通りで、これは徳富蘇峰が「元来尊王と云うが、記者は故ら尊皇と改めた」と昭和八年に述べたことからである。(徳富蘇峰著 近世日本国民史49巻 民友社)
本論では尊王を採り、以下、小西・徳富著を参考に検討をつづけたい。
尊王攘夷というのは、癸丑(みずのとうし)・甲寅(きのえとら)から丁卯(ひのとう)・戊辰(つちのえたつ)、つまり、嘉永六年(1853)・安政元年(1854)ごろから慶応三年(1867)・明治元年(1868)までの、志士間における、通り言葉であった。
つまり、米使ペリーが、艦隊を率いて浦賀に来航した嘉永六年から、明治維新までの十五年間が尊王攘夷の嵐が吹き荒れ、複雑化・混沌化した期間で、この尊王攘夷を風靡させた始まりは、水戸烈公(斉昭)の弘道館記にある「王を尊び、夷を攘ひ、允(まこと)に武に、允に文に」の一句からである。
また、この尊王攘夷という文言の淵源を遡ると、中国・東周(紀元前770~前221年)末となり、当時、諸侯が跋扈(ばっこ)して周王を無視したので、特に、尊王の大義を掲げたことからである。
この尊王論が日本で強力に主張されるようになったのは、ペリー来航によって外国との交渉が始まったあたりからで、それまでは、表面的に幕府は朝廷を尊敬したが、実際は完全な統制化においていて、一般の尊王認識は薄い実態だった。幕末時の外交問題を通じて天皇の存在が改めて認識され、ここに尊王論が浮かび上がってきたのである。
ペリーが持参した米大統領の手紙の宛名は「日本皇帝陛下」と記していたが、その後、将軍はあくまで天皇の臣下であることが一般にわかってきて、対外的に皇帝と称するわけにいかなく、そこで考えられたのが「大君(たいくーん)」(Tycon)であり、これは既に朝鮮との間で「日本国大君殿下」と使われていたので、これが一般的となって、天皇は「帝」と称されるようになった。
尊王論は水戸藩の学者によって主導された。
藤田幽谷は「将軍が天皇を尊ぶならば、大名もまた将軍をあがめ、大名が将軍をあがめるならば、藩士もまた大名をうやまうであろう。こうして、上下関係は緊密にたもたれ、国内は一致協力態勢がとれる」と主張し、その子藤田東湖は「すべて人々はその直属の主君に対して忠誠を尽くすことが必要であり、将軍が天皇を尊ぶべきであって、この階層をのりこえて、例えば大名や藩士が直接朝廷に忠義を尽くすような行動をとることは行ってはならない」と述べている。
このような尊王論は、封建的な上下関係を強固にするための主張であって、現在の秩序を維持するための論拠であった。
この尊王論が攘夷論と結びついて尊王攘夷論となり、やがて次第に反幕的色彩を持っていくのであるが、その検討に入る前に攘夷という文言の淵源をみてみたい。
攘夷も周時代である。周時代は、夷狄(いてき)との交渉が頻繁であって、「詩経」魯頌(ろしょう)に「戎狄(じゅうてき)是れ膺(う)ち、荊舒(けいじょ)是れ懲らす」、即ち「西北の蛮族を討ち、南の荊族・舒(楚のこと)をこらしめる」とあるように、これが「攘夷の已む可からざる所以」を語った始まりである。
しかし、この攘夷という語源と異なった活用を日本人は行っていくのであるが、これについては後述するとして、まず、日本人が持っていた攘夷思想について考えてみたい。
元々日本人はその本質からして決して攘夷傾向でなく、日本人の開放的感覚は、世界でも少ないのではないかと思われる。外国人を排斥する傾向は、日本人より中国人や欧米人の方が強く、日本人は攘夷なぞというより、外国人を優待し、海外品を受け入れる傾向が強いのではないか。
この感覚は、日本上古の歴史を見ても明らかである。当時、中国・韓国その他地域から移民を受け入れたばかりでなく、これを奨励し歓迎する傾向にあった。上古時代は中国・韓国・インド、いずれも日本より文化的に先進国であった。
したがって、自然にその先進国と先進国民を崇敬した。これがあまりに甚だしくなったので、それを矯正するために、聖徳太子はことさらに国民的自覚を促したほどである。さらに、近世史の始まりである信長・秀吉・家康の如きも、決して攘夷傾向でなく、鎖国傾向でもなかった。
では、何故に、徳川幕府が鎖国制度を採ったか。それにはキリスト教布教活動の活発化が、種々の問題を引き起こすなどの理由があったほかに、外国との通商が、自国内に混乱を起すと判断していたからであった。
ペリーの第二回目来航時、交渉に当たった幕府全権代表の林大学頭復斎が、ペリーが交易によって「国々富強にもあいなり」と通商を要求したことに対し「外国の品がなくとも日本は十分」と述べ拒否している。これは隣国の清国がアヘン戦争によって貿易港を増やされ、その結果清国の輸入が増加し、その支払いの銀が増え、結果的に銀貨の値が高くなり、清国人の暮らしを厳しくしている事例を承知していたのである。
つまり、外国との交易が行われれば、日本から輸出する物品、茶や生糸が国内から出て行き、その分、国内で品薄となり、値上がりを招くことになり、釣られて他の物品も値上がりすることになって、人々の暮らしは苦しくなったのであるが、このことを幕府は既に理解していたし、事実その通りの状況となった。
その上、通商を求める外国の態度にも脅威を抱いた。それはロシアの北方からの侵入であり、ペリーが許可無く浦賀から品川まで入って来たという、日本の主権を脅かし、恫喝・威嚇する態度での交渉、これらが攘夷思想を強化させたことにつながった。
既に述べたように、この当時、日本の攘夷論の大本山は水戸藩であり、その藩主は徳川斉昭(烈公)であった。この斉昭という人物、文政十二年(1829)八代藩主斎(なり)脩(のぶ)が逝去し、その跡継ぎとして斎脩の弟の敬三郎が九代目藩主斉昭として就いた。斉昭が藩主になるに当たっては、すんなりと収まったわけでなく藩内で跡継ぎ抗争があり、それがその後の水戸藩の混乱を助長させ、斉昭が四十五歳(弘化元年1844)のとき隠居謹慎となり、慶篤が十三歳で家督相続し、斉昭の謹慎が解けるのは嘉永二年(1849)で、五年が経っていた。
この間、斉昭を支えた人物は会沢正志斎、藤田幽谷とその子藤田東湖などであったが、いずれも攘夷論者として著名であって、その影響を受けて斉昭は強固な攘夷論を唱導して、攘夷論者から巨頭