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2008年09月23日

9月例会記録(2) 1/2

「時代環境を取り入れ、逆境をのがれた清河八郎」
山本紀久雄氏

高橋さんの話を聞いていたら、日本人には「ファ」(音階)がないそうです。我々の習慣ですよね。時代の中で生きていくのは習慣で生きていますね。
鉄舟に対して関心を持ち、今日たくさんの方がお見えになっています。今の時代、鉄舟の生き方、哲学が求められていて、そこに気づかれた方です。我々も一歩近づいて行き、鉄舟のような習慣をつくりたいと思っています。
清河も同じ人間ですが、清河としての習慣・生き方があり、その生き方が成功に導き、そして暗殺されました。

1.水戸の鉄舟展
1.胴乱
鉄舟が西郷のところに行くときに、勝海舟から預かった手紙を入れて走ったという胴乱が展示されていました。トンボが2匹描いてあり、素材は牛革と書いてありました。

2.和宮の家政取締
鉄舟は和宮の家政取締で、静寛院の宮から頂いた重箱が展示されています。

3.尊攘遺墨
6月9日に全生庵に行ってきました。尊攘党・虎尾の会(こびのかい)の発起人の言葉が書いてある文章は全生庵に保管されていると『俺の師匠』書いてありました。尊攘遺墨を見せていただき、広げたら15メートルくらいあり、いっぱい名前が書いてありました。尊攘遺墨と思われるものがたくさんあり、調べていますが、該当するかどうかわかりません。

2.和宮降下に対する孝明天皇の立場
和宮は、公武合体のときに家茂将軍にお嫁に来ました。当時、尊王攘夷が倒幕に結びついてしまい、既に開国しているところに、幕府をいじめようと長州が中心となって「攘夷をしろ」と言ってきました。開国反対が倒幕になってきました。「尊王」のところは、孝明天皇の意思に反して条約を結んだということで、尊王に反していると幕府をいじめました。
井伊大老を継いだ安藤老中が、天皇家と幕府が結びつき一体化すれば、攻撃される筋合いがなくなると考えたのが、公武合体です。結婚した途端に「尊王」は追求できなくなり、世の中は静まりました。攘夷は、既に開国しているからできっこありません。
公武合体で和宮がほしいと言い出したのは幕府側で、孝明天皇は許婚がいた和宮の嫁入りには反対したというのが通説です。有栖川宮と婚約が整っており、和宮も関東に行くのは困ると孝明天皇に申し出ており、孝明天皇も困っていました。

一昨年、鉄舟全国大会で講演していただいた北海道大学の井上勝生先生が、幕末維新の新説を出しています。ある限られた条件の中で述べられていることが多い中、それに井上先生は挑戦されています。明治維新からついこの間までいろんな資料が出てなく、特に孝明天皇に関しては研究が遅れていまして、和宮について孝明天皇は反対したのが通説だけれども、孝明天皇と慶喜は非常に緊密な関係がありました。慶喜は家茂将軍のときに京都に在住していました。孝明天皇は和宮に「家茂将軍の元に行かなければ尼になりなさい。もし納得しなければ生母観行院と兄の橋本実麗(はしもとさねあきら)を処分する」と秘かに関白に指示しているということが書かれていて、孝明天皇の幕府に対する政治スタンスを知ることができます。天皇は大きく一転して、幕府側に偏っている、と述べ、その後の孝明天皇の亡くなった要因に引っかかるのではないかという暗示まで書いてあります。

孝明天皇は、慶応2年の12月天然痘にかかり、一時小康状態のあと急死します。36歳でした。死因は天然痘、もうひとつは砒素による中毒説というのもあるんですね。孝明天皇が亡くなった途端に岩倉具視と薩長連合が出ます。仮に孝明天皇が健在であれば、たとえ岩倉と薩長が連携しても天皇を奪取する宮廷クーデターは無理だったでしょう。当時から毒殺説が囁かれておりましたが、この毒殺説は消えることはないだろうと北海道大学の井上先生が書いておられます。

3.元治元年(1864)の四国艦隊下関砲撃によって、持ち去られた大砲はどこに?
今日の日経新聞の夕刊に、山口長府が出ておりますね。功山寺の境内、尊攘堂で高杉晋作が決起したことによって時代が動いた、そういう場所なんですね。7月30日に行ってきました。

朝廷側から幕府は、和宮さんをもらうために約束してしまったんですね。わき目も振らず、夢中になって目先のことだけを約束すると大変なことになってしまいます。開国して、外国と貿易して横浜も大変な港になっているのに、外国と縁を切って鎖国体制に戻すのが攘夷です。和宮さんをもらうために幕府は「攘夷するか?」と聞かれ「します!」と言い切ってしまいました。矛盾しています。ここで外国に出て行けと言ったら戦争になります。
朝廷からは、家茂は上洛して孝明天皇に何月何日を期して攘夷するか宣言しなさいと責められました。江戸城では大変な議論があったわけです。攘夷すると言ったけれど、常識に考えたならば外国と貿易しているわけです。生糸が優れていて輸出しており、幕府は関税収入があります。どうして攘夷ができるのか、鎖国ができるのか、というのが慶喜の意見です。そういうけれども約束したではないかという意見もありました。
朝廷の手として、岩倉具視が朝廷側に「天皇陛下は反対かもしれないけれど、和宮を幕府に出せば、幕府に征夷大将軍として任せているが大事なことはすべて相談しにきなさいという朝廷政治に戻せます」という説得が効いて、孝明天皇が承諾して、和宮を嫁に出しました。

いつ攘夷するのか朝廷から責められ、とうとう家茂将軍が上洛することになりました。
家茂将軍が上洛する10日ほど前に、清河が画策した浪士組ら二百数十人が京に行きました。
朝廷から言われた江戸幕府は、議論を戦わせました。一橋慶喜は、開国しているんだから、鎖国したら戦争状態になると言い、政治総裁の松平春嶽が、ここは一応、公の論として攘夷にしておいて、そのあと開国しませんか、とやりあいました。一度和宮の条件があるから、春嶽の意見で攘夷を宣言しに行きました。
朝廷に「攘夷します」「文久3年5月10日にやります」と言ったその日に、長州藩は沖合を通る外国船に鉄砲を撃ったわけです。長州としては当然のことです。5月10日にアメリカの商船を、外国に宣言していないのに大砲で撃ち、22日はフランス軍艦、26日オランダ軍艦を攻撃しました。当然のことながら、外国は反撃します。翌年アメリカ・フランス・イギリス・オランダの四カ国の四国艦隊が、長州に上陸してめちゃくちゃにして、長州砲60門を全部持ち去りました。 

持ち去られた砲台はどこにあるのか?
前にお話したのは、パリのアンバリッド(ナポレオンのお墓があるところ)にあると、フランスの文学研究者の高橋さんが本に書いています。庭に行くと毛利藩の紋章がついた砲門があって、多くの観光客がなぜ日本の砲台がここにあるのか興味深そうに見ています。山口県はフランス政府に返してくれと何回も要望しているわけですが、フランスは戦争で捕獲したものを返したことがないわけです。まだ返していないという話をしました。
ところが、パリに行ったときにアンバリッドの庭を探したが、どこにも砲門が見当たりません。いろいろ調べたら実は昭和59年に日本に戻っていました。高橋さんの本が書かれたのが昭和58年でした。
下関市立長府博物館に行き、長州砲を見て、説明を聞きました。昭和59年の山口新聞のコピーまでいただきました。
直木賞作家古川薫さんの著書『長州砲流離譚』に、パリに行って長州砲を見つけて、外務大臣だった安倍晋太郎(安倍元首相のお父さん)が努力して、砲門が山口県に戻ってきた経緯が書いてありました。その代わり、長府の国宝級の鎧をフランス・アンバリッドに貸与する相互貸与で砲門は戻ってきました。一年契約だが、双方申し出がない限り永久に貸与です。古川薫さんは、砲門は3門あるが、あと2門見当たらない、どこに消えているかそれが気がかりだとおっしゃっていたので、今度調べてきますと古川さんに手紙を書きました。過去にあった場所の連絡が来ました。アンバリッドの管理局に正式アポイントを取って調査してこようと思います。事実確認しておかないと、鉄舟の研究の一環として絡んできます。

投稿者 staff : 11:03 | コメント (0)

9月例会記録(2) 2/2

「時代環境を取り入れ、逆境をのがれた清河八郎」
山本紀久雄氏

4.伏見寺田屋事件に清河がいなかったわけ
島津久光は斉彬の弟ですね。息子が藩主になって、その父親で、身分も位もない久光が藩兵を連れて京に来ると聞いて、久光が尊王攘夷を進めるためであろうと清河は日本全国に檄を飛ばしました。
久光は幕府に幕府の政治改革をするために朝廷に指示してもらって、自分も一緒に江戸に行く予定でした。安政の大獄でつかまった人を解放してほしい、そういう話でした。

過激派は久光が武力によって幕府を倒すと、日本中の尊攘派が300人くらい集まったが、久光が京に来てみたら違ったということがわかりました。尊攘派たちは、やり場がなくなって、伏見の寺田屋に集まって、自分たちで決行しようということで、相談をしていました。それを知った久光は、薩摩の過激派と親しい腕の立つ藩士を送り込み、攘夷討ちしても良いといいました。
その中にいた田中河内介は、明治天皇を育てた乳母係です。後年、田中河内介はどうなっているか、一角の人物だから今頃は立派な男だろうと問われたとき、「伏見寺田屋事件で、薩摩から舟で大阪に行く途中に惨殺され、遺体は小豆島に流れ込みました。そのときの責任者は大久保利通です。」と告げられ、大久保は顔を上げられなかったところまで前回お話しました。

田中河内介は、公家中山家に仕えていた人物で、伏見寺田には居たけれど、肝心要の世の中に激を飛ばして煽り立てた清河はいませんでした。なぜ居なかったのかお話します。
本間精一郎という越後出身の豪商の息子がいました。当時は浪人とは言わないで「浪士」と言いました。浪人は元武士だった人ですが、幕末ですから、お金がある人は勝手に刀をさして浪士と言いました。江戸で清河と勉強仲間だった本間は清河にしばらくぶりに会って川下りに誘いました。藤本鉄石を誘って、芸者さんを連れて、川くだりして酒を飲みました。川から大海に出るところに船番所があり、名前を書くように言われますが本間は酔っ払っている、世の中を変えてやろうと気合も入っているから、いい加減な名前を書きました。幕府の役人が怒りましたが、本間は口が立つので、やり込めて帰ってきました。しかし幕府の役人はカチンときており、本間がどこに住んでいるから探って、捕まえようとしました。本間は慌てて清河の居た薩摩屋敷に匿ってほしいと転がり込みましたが、幕府から薩摩屋敷に問い合わせが正式にくる、薩摩屋敷にいる清河は薩摩役人との間に入って板挟みになる、そんなつまらないことで、失ってはいかんと薩摩屋敷を出て、他の屋敷に移りました。その、清河が知らない間に伏見寺田屋事件が起き、清河はつまらない理由で、その場にいませんでした。清河は何かそこで、大きなことをしでかすようだけど、何か弱点があることを暗示していることなんですね。

5.清河が長い逃亡生活から逃れるためにうった時代条件活用の謀策
伏見寺田屋から生き残って江戸に来たわけですが、幕府から岡っ引き殺害事件で、追われていました。
島津久光は上京し、安政の大獄で捕まった人を許してあげなさい、と幕府に改革を申し出ました。その一環で大赦の動きが出てきました。清河は鉄舟にいわれて、自分の罪を許してほしいと幕府に申し出て、結果的には許されました。

清河八郎の流れを見ていると、ひとつの生き方のルールがあるんじゃないかと気がつきました。我々にしても現代の時代に生きています。今、経済が大変な状況ですね。株は下がり、石油は上がり、金も下がり、お金はどこに行ってしまったのでしょうか。時代の変換期があり、幕末もそうでした。時代の変化を見つけて、変化をどう取り組むか、変化という条件を活用することが大事なことです。
脳力開発の専門家として昔から学んで参りましたが、条件とは使うもの、目の前にある変化を自分にどう取り込むか、変化を自分に有利に取り込めるか不利になるかは本人の実力次第です。
時代を勉強しながら変化を自分の中にどう取り込むかというのが生き方で、変化を自分に取り込まないとその人は博物館に行ってしまいます。時代に生きるのはそういうことです。

清河八郎はそこが優れていました。清河の過去を振り返ると、山形から出てきて、頭が良いから学者になろうと思って勉強しました。革命家になろうとしたのは、井伊大老が暗殺された桜田門外の変がきっかけです。殺した人物が名もなき、禄高も少ない、自分と大して変わらない浪士だったということを知ったときからで、清河は学者を辞めて、改革に走りました。
虎尾の会をつぶそうとした岡っ引きを殺し、逃亡生活に入りましたが、逃亡生活をチャンスとしました。幕府は孝明天皇を辞めさせる、そういう噂を用意して、餌として全国回って歩き、自分を日本中売り歩きました。これが条件活用です。
大赦を幕府は受け入れる余地があるとわかった瞬間、時代が変わった、許されなかったものが許されるようになった、とわかったとき、清河は、幕府が困っていて、幕府が喜べること、それで自分が幕府を取り込めることを考えました。
浪士が溢れ、悪いことをする、天誅と言って人を殺す、外国人を殺す、幕府は手を焼いていました。幕府が集めて、浪士隊にして、幕府の中に入れるという案を考えました。鉄舟も賛成して参加しました。清河は条件活用に優れていました。

話は変わりますけれども、将軍家茂と福田首相と似ているんじゃないかな。
家茂は和宮の旦那さん。攘夷決行で家茂は上洛したが、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四国艦隊が兵庫沖から大阪湾に入って、港を開かないなら武力で開かせると示威行動をしました。天皇陛下は兵庫開港はやだと言っていました。幕府で兵庫開港を決めたときに慶喜が出てきて、もう一度朝廷に持っていきました。それを見た家茂将軍は征夷大将軍を辞めた、後任は慶喜で良いではないかと言ったそうです。

山本レターで申し上げたんですが、四国艦隊から持ち去られた長州砲のいきさつを調べたときに、本を読んでもアンバリッドにあると書いてありましたが、インターネットで調べると下関市立長府博物館にあるとわかりました。情報としてわかっても皆さんに話すことがありません。現場に行って、結果がわかります。
インターネットをヒントにして突き詰め、考える行動に入ります。インターネットが普及して、すべてわかるかのようになっています。「クローズアップ現代」ではインターネットは早いしデータがそろっているので考えなくなっていると言っていました。インターネットは新聞とか、井上先生の和宮さんの論は載っていません。インターネットも重要ですが、あくまでも入り口ですから、自分自身の考え、研究してやっていかないと事実・真実は出てきません。
山岡鉄舟についても書かれていますが、しかしあの説明で鉄舟がわかるでしょうか。不十分だからこういう会をしています。山岡鉄舟という人間がどう必要になっているのか、今の時代と結びつけて研究しなければなりません。

脳が疲労するとうつ病か痴呆になります。脳が疲労するというのは何も考えないことです。頭を使うと脳疲労が起きないので、山岡鉄舟会で脳疲労の病気対策になりますからぜひがんばっていただきたいと思います。

【事務局の感想】
清河八郎の生き方を追いながら、孝明天皇に関する新説やフランスと戦った長州藩の大砲の追求の話やなぜ寺田屋事件に清河がいなかったのかなど、今月も山本鉄舟研究ならではの発表していただきました。時代の変化を自分の中にどう取り込んで生きていくかという問題では、これからも山岡鉄舟研究会は皆様のお役にたつものと思います。


以上

投稿者 staff : 11:00 | コメント (0)

2008年09月15日

さいたま市常泉寺

鉄舟の書を訪ねる
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

新しい企画として鉄舟の書を訪ねる旅をしたいと思います。
日本各地や世界のどこかにも鉄舟の書は数多く存在しています。
その鉄舟の書を、存在する場所に訪ね、その背景を探る企画です。



そこで、皆様にご協力お願いしたいのです。
鉄舟の書が存在しているところをご存じの方、
また、実際に鉄舟書を保有されている方は多いと思います。

その情報を山岡鉄舟研究会にご連絡いただき、皆様のご協力、
ご参加のページで進めたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。

最初は、地元さいたま市の常泉寺です。

埼玉新聞の2008年8月8日に以下のように掲載されました。
「さいたま市見沼区染谷の曹洞宗『常泉寺』の本堂正面には、江戸無血開城に尽力した山岡鉄舟(1836~1888年)直筆の山額(横一㍍二十七㌢、縦五十二㌢、厚さ四㌢)が掲げられている。鉄舟は剣、禅、書の達人として知られた」

山額の文字は「瑞谷山」(ずいこくさん)「正四位山岡鐵太郎書」とある。
明治初期、常泉寺が火災で本堂を焼失した際、鉄舟が住職に協力して本堂再建をし、その際に書いたもの。

「瑞谷山」は山号である。常泉寺は寺号。

「瑞」とはめでたいこと、めでたいしるし。「谷」は水のあるなしにかかわらず、山間のくぼんだ所を意味する。
「正四位」(しょうしい)と記名していることから、鉄舟が「正四位」に叙せられたのは明治十五年(1882)であるから、それ以後のものであろう。

下記の写真は常泉寺で出される煎餅である。煎餅に「瑞谷山」と書かれている。因みに味はあまり甘くなく、程よいバター味で、食べた後味が大変よろしい。

なお、常泉寺内には「広島・長崎の火」が燃え続けている。原爆投下された後の焼跡の火である。その設置の経緯を書いたものも境内に掲示されている。

投稿者 Master : 15:13 | コメント (6)

2008年09月11日

鉄舟の新婚時代・・・貧乏生活その一

鉄舟の新婚時代・・・貧乏生活その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

安政二年(1855)に、鉄太郎(鉄舟)20歳と山岡英子16歳は結婚した。まだ少女からぬけ出たばかりの面影を残す英子と、ボロ鉄、鬼鉄と称された無骨な大男、その二人の新婚生活は尋常一様でなかった。
初夜の翌朝、鉄舟は、昨夜の初めての経験で、夫の前で恥ずかしく顔をあげられない気持ちの英子に向かって、やさしい情緒的な言葉をかけるのでなく、懐からお金を差し出した。
「俺はこれしか持っていない。これで何とか次の禄米が出るまで頼む」と投げ出したのが、僅かのお金であった。

飛騨高山の代官であった父を亡くし、その際に鉄舟に残された遺産は三千五百両という大金であった。この三千五百両という金額、これについては、いろいろ条件をあげて試算した結果、今の金額に換算し、億円単位となる大金であることは既に述べた。(2007年8月掲載号) 

この大金は、剣術師範の井上清虎の勧めもあって、弟たちを養子に出す持参金に使った。当時の旗本・御家人は生活に困窮している者が多く、身元確かで多額の持参金のある子どもは、引き取り手が多く、五人の弟に各五百両をもって養子に出し、兄の小野鶴次郎にも渡し、鉄舟は残り百両だけ手許に置いた。

したがって、百両というお金が、英子との結婚に際し持参金として、ある程度使ったとしても、まともならば相当額残っていたはずである。だが、初夜の翌朝ぶっきらぼうに投げ出したお金はほんの僅かであった。

弟達の世話から解放された鉄舟は、剣に、女に、そのお金と若さをぶつけてしまい、結婚する時にはもう僅かしか残っていなかったのである。

一生を金銭に恬淡として生きた鉄舟であるから、これは考えられる事態ではあったが、これからの生活を暗示させる初夜の翌朝の事件であった。

鉄舟は粗雑な人物ではなく、家庭では大声をたてるようなこともなく、英子をいたわり、やさしく接するので、この点では申し分なかったが、金銭と家庭内経営については、全く無関心、無責任ともいえる人物であった。

山岡静山も金銭には欲がなかった。槍一筋の道を貫いて、道場の束脩(入門料)と僅かな指南料で、細々と家計を維持してきた山岡家である。

山岡家は本来、元高百俵二人扶持であるが、鉄舟の弟子であった小倉鉄樹は、その著書「『おれの師匠』島津書房」で、当時の山岡家の経済状況について「山岡家はその当時は没落してたしか二人扶持金一両という足軽身分である」と述べ、注釈として「鉄舟先生長女松子刀自は当時五十人扶持だったかと聞いていると言われた」とも記している。

このような経済状況下の山岡家に入婿した鉄舟は、静山に輪をかけた金銭に無頓着さであったので、日に日に生活は困窮化していった。

ここで少し気になるのは、鉄舟は御城勤めをしなかったのかと言うことである。静山は勘定方として御城勤めをしていた。その後を継いだのであるから、普通ならば勘定方の一員となったはずである。

しかし、鉄舟に関する文献の数々を調べても、勘定方として御城勤めをしていたとの記録はどこにもない。ただ一つだけ南條範夫の小説「山岡鉄舟」に「鉄太郎が山岡家当主として、御勘定方に隔日勤務をすることとなった」と記されているだけである。

鉄舟が一度も御城勤めなきままに過ごしたとすれば、結婚した翌年の安政三年(1856)に新しく設置された講武所の世話役に就任した時、これは実質的には準教官であるが、この時が始めて公的な仕事としての勤務となる。

ここで講武所について少し触れたい。講武所とは、幕末に幕府が設置した武芸訓練機関である。旗本、御家人とその子弟が対象で、剣術をはじめ洋式兵学、砲術等を教授した。

相次ぐ外国船の来航や、列強の近代的軍備に刺激された幕府が、幕政改革の一環として開いたもので、最初築地に講武場として発足したが、まもなく講武所として改組し、万延二年(1861)に現日本大学法学部図書館のある水道橋三崎町の地に移転した。慶応二年(1866)には廃止となり、陸軍所に吸収されて砲術訓練所となった。

講武所は総裁の下に、教官としてその道の大家がずらりと並んだ。

剣術は、男谷精一郎、榊原健吉、伊庭軍兵衛、井上清虎など。槍術は、勿論、高橋泥舟など、砲術は、高島秋帆などであったが、ここで名前を挙げるとキリがないほどの人材が投入された。

鉄舟を講武所世話役として推薦したのは、飛騨高山時代からの剣術の師井上清虎であった。講武所での鉄舟は、すぐに例の強烈な突きで鬼鉄と恐れられる存在なった。

それを証明する逸話が残っている。講武所の稽古が形式的で生ぬるいのに憤慨した鉄舟は、あるとき木剣を構え講武所道場の一寸ばかりの欅羽目板めがけ「えいっ」と、得意の諸手突きを入れた。すると、木剣は一寸欅板を突き抜けるというすごい話が伝えられている。正に「鬼鉄」と言われる所以であり、玄武館の鬼鉄から、講武所の鬼鉄となり、同時にこの異名が江戸市中に広まった。

この当時、鉄舟が講武所の中で、師として尊敬したのは教授頭の男谷精一郎と言われている。
男谷精一郎は直心影流の達人で、当時、剣神と呼ばれていた。直心影流は本来他流試合を禁止いたが、男谷はその禁止を破って、盛んに他流試合を行い、諸国の剣士との試合を一度も拒んだことがないと言われているほどである。

この男谷精一郎と勝海舟は従兄弟同士である。海舟の父小吉は男谷家の三男として生まれ、小吉は勝家に養子に行き、海舟が生まれたのである。海舟はこの男谷精一郎の高弟である島田虎之助から剣を学んだが、一介の剣士から開明政治家として名を成した始まりは、男谷からの忠告からであったと言われている。

その忠告とは「これからは蘭学を学び、西洋の事情に通じなければダメだ」という一言で、赤坂溜池の福岡藩屋敷内に住む永井青崖に弟子入りし、必死の勉強を行って、幕府に海防意見書を提出し、老中阿部正弘の目にとまり、幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから念願の役入りを果たし、人生の運をつかむことができたのである。

その後、江戸無血開城時に鉄舟が勝海舟と交わることになった背景に、鉄舟が講武所世話役として男谷精一郎に私淑したことも無縁ではない。

鉄舟は男谷から剣を学んで鬼鉄の名を世に知らしめ、海舟は男谷の忠告で蘭学を志したことから世に出た。その男谷と絡む因縁の二人が、江戸から明治への橋渡しに協力しあったことを考えると、人は何か見えない縁で結ばれていると考えざるを得ない。

さて、鉄舟の新婚時代に話を戻したい。

鉄舟は金銭に恬淡として、収入も少ない。熱心になるのは自分の修行だけであり、その上、修行仲間が山岡家に食客として訪れてくるので、その食事の負担が英子の肩に掛かってきて、貧乏生活は日に日に深刻になっていった。

この当時の貧乏話はいくつも伝わっているが、その一つを紹介したい。

ある日、鉄舟の友人である関口隆吉が訪ねてきた。

「御免、御免」
と声をかけたが、誰も出てこない。狭い家なので声は通っているはずだし、気配から見て、家の中に誰かいる様子なので、さらに、大声で声をかけると、
「はい」
と、襖の陰から英子が顔だけ出したが、頬を赤らめて、うつむく。
どうしたのか、何かあったのかと、覗き込んだ関口が、慌てて首を引っ込め、
「や、また来ます」
と、逃げ帰ったことがある。英子はたった一枚の浴衣を選択して、乾く間、襦袢一枚だったので、玄関に出られなかったのである。

夏冬一枚きりの着物で、冬は夏物の裾にボロ綿を縫いこんで、冬物に見せかけたこともあったらしい。とにかく酷い貧乏であったことは事実である。

しかし、鉄舟という人物は極貧の生活に負けず、明るく、どこか子どもっぽい、つまらぬことにやせ我慢をはるという、自分の性格を正直にごまかさずに生きていた。

そのエピソードの一つを小倉鉄樹が次のように紹介している。(『おれの師匠』島津書房)

若い時のこと・・・たぶん二十一歳頃のこと、友人と某氏に招かれてご馳走になった。その席上主人が一杯機嫌で自分の健脚を自慢し、
「おれは明日下駄履きで成田さんにお参りして来るつもりだが、誰か一緒に行くものはないか」
と、一座を見回した。
江戸から成田までは十七、八里ある。それを下駄で一日に往復しようというのだから誰も辟易して返事する者がなかった。

主人はそれと見て、
「どうだ、どうだ」と一人一人訊くのであった。
師匠は主人の傲慢さが癪に障ったので、主人から訊かれると、
「成田なんかなんでもない」
と言った。

「むゝ? 貴公行くつもりか、そいつは面白い。それじゃ明日の朝夜が明けたら直ぐに出発するからそれまでおれのところに来い」
と、約束した。

それからまたいろいろと話がはずんで解散したのは夜の一時過ぎであった。

翌朝山岡が眼を覚ますと、雨がざつゝと雨戸を打って風も加わっている。けれども乗りかかったら屹とやる主義なので、天候なんか眼中に置かず、足駄を履いて、某氏を訪問した。

ところが某氏は昨夜の飲み過ぎで、手拭で頭を縛り、
「とても頭が痛くて行かれぬ」
と閉口していた。

「そうですか、そんなら私だけ行って来ましょう」
と、すたゝ雨の中を出て行った。

其の日の夜十一時頃に再び某氏を訪れた山岡は、足駄の歯がめちゃゝに踏み減って、全身泥の飛沫にまみれていた。

「今、帰って来ました」
と、玄関で挨拶した時には、某氏もさすがに恥ずかしくて、まともに山岡の顔が見られなかった。

今の時代、このような無茶をする人はいないだろうし、バカな行いだと批判するだろう。
だが、鉄舟のこういう捨て身でやりぬく気概があったからこそ、江戸無血開城という一大業績を成り立たせたのだと思う。

人間力の差といってしまえば、それまでだが、今の時代に鉄舟がいたとすれば、どのような気持ちで現代の状況を判断するだろうか。次号もエピソードを続けたい。

投稿者 Master : 10:18 | コメント (0)

9月例会の感想

秋晴れに恵まれた9月の吉日、鉄舟例会が行われましたので、ご報告いたします。
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今月は初めて参加される方が7名もおいでくださいました。ありがとうございました。とても嬉しいです。
山岡鉄舟を、そして山岡鉄舟を学ぶことを、時代が求めているように思えました。ちょっと考えすぎですか…。

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今回も、先月に引き続き高橋育郎氏に、「明治維新と西洋音楽」の第2回をお話しいただきました。
今回は「唱歌の誕生」と題し、唱歌が教育にどのように取り入れられていったかが語られました。
「学生」の制定とともに、小学校には「唱歌」という科目が創設されましたが、当時音楽を教えられる人材がなく、唱歌はしばらくの間教えられませんでした。
そこに登場したのが、「伊坂修二」でした。
高橋氏は、彼こそが日本の西洋音楽普及の祖であるとおっしゃっています。
詳細は講演記録をお楽しみに。


続いては、山本紀久雄氏の鉄舟研究です。

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今回も、清河八郎を追います。
伏見寺田屋事件の現場に、なぜ清河はいなかったのか。
その謎が明かされました。
このことには、本間精一郎というお金持ちのボンボン浪士が関わっていました。
彼との船遊びが、清河を事件から遠ざけたのです。
詳細は講演記録をどうぞ。


時代は常に変化していきます。
その変化にどう対応するか、すなわち、変化をどう自分に取り込むかによって、自分の生き方が変わってくるのです。
清河八郎は、そんな時代の変化条件を活用できる人物でした。
ひとつは、学者を志して上京したが、革命家に目覚めた瞬間。
ひとつは、全国で攘夷を謳ってまわり、多くの志士を京都に集結させたこと。
ひとつは、浪士隊を結成することにより、自分や志士たちを正規軍として承認せしめたこと。
清河は、時代の変化の瞬間を捉え、活かす術に長けていたといえるでしょう。
ただ、それがよかったかどうかについては、後の彼の運命が語っているのではないでしょうか。


今回の山本氏の研究で、ダーウィンが語ったといわれている有名なあの一文を思い出しました。
「最も強いものが生き残るのではなく、最も賢いものが生き延びるわけでもない。生き残るのは変化に敏感なものだけである」

鉄舟をこれに照らし合わせるとどんな分析ができますかね。
今後の研究が楽しみです。

来月もお楽しみに。

(田中達也・記)

投稿者 lefthand : 06:59 | コメント (0)

2008年09月08日

山岡鉄舟展を見てきました

茨城県・茨城県立歴史館にて「茨城県初代知事・山岡鉄舟展」が行われています。
(2008年8月30日〜9月28日)
そこで、水戸を中心に「鉄舟を訪ねる旅」をしてきましたのでご報告いたします。
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『幕末と明治の博物館』
茨城県・大洗町
幕末の志士として活躍し、明治天皇の宮内庁長官を務めた田中正顕(みつあき)伯爵が、明治天皇の御下賜品や明治維新の志士、元勲達の書画などを展示した博物館。
幕末の水戸藩、または水戸出身の人物を中心に、明治維新を紹介されていました。
鉄舟の書が一幅ありました。
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『四時行楽吾輩亦 風月主人』鐵舟居士書
(季節が春夏秋冬を遊び楽しむように、私もまた風月を迎えて楽しむ)
(書は幕末と明治の博物館ホームページより転載)

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『茨城県立歴史館』
茨城県・水戸市
「茨城県初代知事・山岡鉄舟展」開催中。
東京谷中・全生庵所蔵の鉄舟の墨蹟や書簡など多数が紹介されていました。

全生庵にて同展示会が開催されます。
2008年11月1日(土)〜10日(月)
 →詳細は全生庵のホームページをご覧ください。

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『弘道館』
茨城県・水戸市
国指定重要文化財。
徳川光圀(義公)は、水戸藩士の教育のため、藩校の建設を計画したが、「大日本史」編纂で多忙を極め果たせず、徳川斉昭(烈公)が継いで、開館したものです。
悠然とした建物のたたずまいは素晴らしかったです。また、展示資料も見応えがありました。
隣接する三の丸小学校は、弘道館を意識したとても素敵な建物でした。勉強したくなること間違いなしでした。

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『鹿島神宮』
茨城県・鹿嶋市
ちょっと足を伸ばして、鹿島神宮に詣でました。
朱塗りの荘厳な楼門をくぐると、本殿・拝殿が横にあります。
奥に広がる広大な鹿島の杜は、樹齢数百年はあろうかと思われる大きな杉に囲まれた、霊験あらたかな場所でした。

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『香取神宮』
千葉県・香取市
鹿島神宮とともに東国三社のうちのひとつ、香取神宮にも詣でました。
香取神宮の本殿はとても壮麗でした。軒下のカラフルな装飾に目を奪われたかと思えば、萱葺屋根に雑草が青々と生えており、そのコントラストが社に荘厳さを与えているように感じました。素敵な建物だなあ。

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『伊能忠敬記念館と佐原の古い町並』
千葉県・香取市
日本全土の測量を成し遂げた伊能忠敬記念館の見学と、周辺の町並を散策しました。
古い商家が立ち並び、川沿いには柳の並木が続きます。江戸情緒ただよう素敵な風景です。

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『小御門神社』
千葉県・香取郡下総町
別格官幣社。
鉄舟直筆による手水舎があります(下)。
祭神:藤原師賢公は、内大臣藤原師信の御子。
   花山院と号した後醍醐天皇の側近。
祭神のお墓が背後にあり、お墓の前に建つ神社という、とても珍しい神社だそうです。訪問時は宮司様がご出張中とのことでお話を伺えませんでした、残念。


(クリックすると拡大します)
『清素』正四位山岡鐵太郎書(?)

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ゆったりとさまざまなところをまわった、鉄舟三昧の旅でした。
これだけいろいろなところを訪ねても、何かしら鉄舟に関連するものやことが見つかるのは、どういうことでしょうか。
鉄舟という人間の大きさを、あらためて想う旅になりました。

(田中達也・記)

投稿者 lefthand : 16:40 | コメント (0)