« 6月明治神宮 至誠館 館長 稲葉稔氏 講演記録 2 | メイン | 6月明治神宮 至誠館 館長 稲葉稔氏 講演記録 4 »

2007年07月14日

6月明治神宮 至誠館 館長 稲葉稔氏 講演記録 3

鉄舟の武士道論について
講義するというのではなく、このように考えているというお話をします。

鉄舟の武士道論は20代の頃の武士道論があります。明治維新のときは、尊王攘夷の精神は明らかですが、いかに実行するか、何をしたらいいかの考えについては大変革の中で明らかでなく、悶々としていた時代のように思います。

官軍側に対して一意恭順することを徳川慶喜が決めます。幕府には海軍力もありましたし、徳川が反旗を翻して、静岡に大砲を持っていき戦えば官軍側を分断することはできたかもしれない状況でした。
しかしここで戦いを始め、長くなり外国の勢力が入ってくれば、清国のように植民地化されてしまいます。それを避けんがために維新を行っているのに、国力が分裂して植民地化されては意味がありません。
しかし最高責任者である徳川慶喜は、この思いを官軍側に徹底することができません。いろいろのルートを通じて官軍側に使いを出すが、生半可な使者は、その使命を果たすことが出来ませんでした。

慶喜は江戸城を離れ、謹慎します。慶喜についていたのは、槍の名人であった高橋泥舟です。官軍に恭順の意思を伝えたいので、泥舟に交渉に行ってくれといいます。 しかし他の人々は恭順論に反対で、慶喜奪還を狙い恭順を抑えている状態です。泥舟がそばにいるから慶喜を人質にできないのであって、もし慶喜が恭順の意思のない徳川側に拉致されてしまえば、慶喜を祭り上げて戦争が始まります。 泥舟を交渉に行かせれば、自分が危なくなる、でも使者が必要であることを泥舟に相談したら、弟の鉄舟なら使命を果たしうるだろうと進言します。慶喜は、“それならば、泥舟お前から鉄舟に使者に行くよう頼んでくれ”と泥舟に言います。しかし泥舟は、“殿様の命令を伝えるならば、あなた自身が鉄舟に直接に命令して、行かせないと恭順の意は通じない”と諫言します。ここは大事なところです。そこで、慶喜は鉄舟を呼び、鉄舟に直接に話をすることになります。

慶喜が恭順の意を伝えるための使者になってくれと頼むと、鉄舟はその使命の重さに「心身共に砕くる」思いをするが、その動揺を顔に出さず、逆に将軍の恭順の真意を確かめる挙に出る。
“それは本気か?”と問い返します。殿様である慶喜に一幕臣の鉄舟が問う。このように2人で真剣にやりあう中で、鉄舟のその責任は死より重い覚悟が固まります。
ただ単に家来だから殿様の言うことを聞くだけではありません。直接に心と心のぶつかりあいの中で、使者としての心が出来上がるのです。これで鉄舟が使者になり西郷隆盛との談判の舞台が出来てきます。

そうした舞台が整っていくには、いろんな人たちが関わっていますが、その中で最も重要なのは、当時の皇女和宮で素晴らしい働きをします。皇女和宮は孝明天皇の妹で徳川家茂に嫁ぎます。最初は、この人が徳川に行ったことは、皇室と徳川が合体したほうが日本は強くなるという公武合体論が盛んだったときでした。その後、安政の大獄で吉田松陰が暗殺され、門弟筋が長州を倒幕でまとめると流れが変わり今度は「倒幕」の力が強くなって行きました。 
公武合体の勢力が弱くなり、倒幕の勢力が強くなると、徳川に嫁いだ皇女和宮の存在は公武合体の犠牲者という形になります。倒幕のための朝廷軍が追って来て、征討軍参謀の西郷隆盛らが江戸まで攻めようと静岡まで来ます。
ここで外国の王室・王女であれば他国へ逃げてしまうところですが、和宮は板ばさみで悩み苦しみますが、徳川に嫁いだものとして、もし戦いとなれば、徳川と共に倒れるしかないと覚悟を決め、官軍にその旨を伝えます。
官軍側は何とか和宮だけを無事に江戸城から引き出せないか、ということが悩みの種でした。徳川を全て倒そうとした決断が、和宮だけは助け出したいとの思いから、その間に隙が出来ました。その隙に鉄舟が一騎当千の気概を持って間髪を入れず入り込んで、交渉・判断する余地が出来た。このような舞台裏があります。
この辺のやりとりは興味つきないところですが、この辺でやめて、剣豪の修行者としての鉄舟に移ります。

投稿者 Master : 2007年07月14日 14:15

コメント

コメントしてください




保存しますか?