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2013年08月26日
2013年9月例会の開催ご案内
2013年9月例会は以下のように開催いたします
開催日 2013年9月18日(水)
場所 東京文化会館第二中会議室(いつもの会議室と異なります)
時間 18:30~20:00
会費 1500円
発表者 山本紀久雄
テーマ 「東海遊侠伝」・・・その二
次郎長が海道一の大親分になった背景には、本人の性格や行動パターンが影響している。幼少のころから餓鬼大将、人の下になることを嫌い、無頼の本性を持ちつつ、「逃げの次郎長」と言われるほどで、喧嘩になっても、形勢不利とみれば、さっと逃げ、一対一で斬り合いになっても、相手が強いとみれば、間髪を入れず刀を引く。
また、もめごとでも、頭を下げなければならない、と見極めると、恥も外聞もなく謝ってしまうというオポチュニスト・日和見主義ともいえ、その場の状況で行動を決めて行くタイプ。
このような次郎長が博徒業界でのし上っていく実態を見て行くと、そこには「世の混乱期における情勢判断に優れていた」という能力が光ります。
この情勢判断力、これは今の時代でも、妥当に生き抜くために重要不可欠なものでしょう。次郎長の行動から今の時代の生き方へ通じるものを探ってみたいと思います。
3.2013年10月例会
開催日 2013年10月16日(水)
場所 東京文化会館第一中会議室
時間 18:30~20:00
会費 1500円
発表者 山本紀久雄
テーマ 「東海遊侠伝」・・・その三
2013年7月開催結果
2013年7月例会は、以下のように発表がなされました。
①永島豪郎氏 「鉄舟は王羲之の書からいかに学んだか?」
鉄舟の書法は「書法に就て」(鉄舟随感録)で自ら述べているように、
●十一歳時に高山で岩佐一亭から学び
●江戸に戻って王羲之を真似ること凡十余年
●護国寺で弘法大師の書に接し、以後大師の手蹟から学び
●結果として「書か画か判然すべからず」という鉄舟流を確立した
では、この鉄舟流とは、どのような書法から影響を受けているのか。?
それを永島氏は、具体的に鉄舟書「北別極延覧閑吟暢幽情」(ほくべつえんらんをきわみ かんぎんゆうじょうをのぶ)を事例に緻密に分析・紐解かれ、その結果、以下の如く一字一字が異なる書家の書体からそれぞれ影響を受けていると判断されました。
この永島氏の鉄舟書に対する検討・分析アプローチ方法、従来の鉄舟書研究分野では見られなかった新鮮なもので、鉄舟研究に大きな一石を投じるものであります。永島氏のご努力に深謝し、ご賢察に感謝申し上げます。
①木下雄次郎氏
木下氏からは、上記鉄舟書「北別極延覧閑吟暢幽情」一幅をご持参いただき、解読され、書かれた意図を次のように解説されました。
「北へ別れ行くを遥かまで見送りながら、静かに詩吟を口ずさめば心の奥深く沁み込んでくる。ポイントは延です。身をひく、引き下がるの意味があります。覧は古覧と書いて、往時を偲ぶといいます。往時を偲んで身を引くを、遥か彼方まで、静かな気持ちで送りだしたのは、誰か。江戸から見て北。水戸へ慶喜候を送ったように推測します。
なお、北には別の意味があるとのご意見もありましたので、調べてみますと、逃げる、背くの意味がありますので、当初、榎本武揚、もしくは幕府の落武者を送ったと思ったのですが、混乱の中、静かに送れないので、静かに心にしみるから、やはり慶喜候の送りのような気がします。
最期の最期まで、忠義をつくす気持ちがあらわれています。ここまでの忠義をつくした家臣はみあたりません。そんな鉄舟の心の奥底を示す書です。
藤原印がありますので、明治天皇侍従となった以降に書いたとすれば、誰かに裏切り者と言われた人へ、自分の忠義を語るために書いたようにも思われ、反論することなく、一筆で応えた鉄舟らしい書と眺め感じ入っています」
このように今回も見事な解説で、いつもながら感服するばかりでした。
②山本紀久雄
「東海遊侠伝」に描かれた幕末時の清水次郎長、道楽で身をもちくずし、喧嘩の果てに博徒家業になり、斬った張ったの無宿者、子分も少なく、縄張りも僅かで、インチキ博打を打つ、当然ながら世間からの評判はよくなかった。
また、時は幕末、ペリー来航もあって幕府崩壊へ向かう政情混乱期、支配秩序の隙間を縫って無宿者の博徒が堂々と世に躍り出た時代、次郎長と並び称されるか、次郎長を超えていた実力派の博徒が多く輩出した。
飯岡助五郎、笹川繁蔵、国定忠治、津向文吉、竹居安五郎、勢力富五郎、黒駒勝蔵等であるが、これら有力実力派の大親分博徒を抑え、次郎長が明治維新以後「海道一の親分」と称されるまでに大変化したわけです。
その大変化要因は、一にも二にも鉄舟の知遇を得たことであるが、明治天皇侍従で、当代一流の人物である鉄舟が、何故にこのように次郎長を贔屓にしたのか。
その第一回目の分析を時代背景と絡めて発表いたしました。
明治天皇の侍従としての鉄舟・・・其の八
明治天皇の侍従としての鉄舟・・・其の八
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
このところ明治天皇に関して固い内容でお伝えしてきたので、今回は少し毛色の変わった刺青についてふれてみたい。
大阪市では2012年2月、児童福祉施設の男性職員が、子どもたちに腕の入れ墨を見せて威嚇していたことが発覚した。
橋下徹市長が問題視し、職員約3万4千人を対象に調査を実施した結果、113人が「入れ墨をしている」と申告し、そのうち98人が頭部や手足など「見えやすい部位に入れ墨がある」と回答した。 局別では環境局が75人で最多で、業種別にみると現業部門が107人だった。どうして、現業部門にはこれほど入れ墨職員が多いのか。
大阪在住の財界人はこう話す。「今回、問題となっている現業部門ですが、その根っこの部分には共通の原因が潜んでいます。それは反社会的勢力との密接なつながりです」と。
つまり、ヤクザなどの反社会的勢力と、つながりのある市職員がいるということを示唆している。
大阪で入れ墨(刺青)が多いということについては、時代は遡る131年前の明治14年(1881)12月27日の東京日々新聞で、既に以下の報道がなされている。(異史・明治天皇伝 飯沢匡著)
「英国両皇孫が刺青遊ばされ、大阪では刺青大流行で彫師多忙」
と見出しがあり、本文記事は
「さきに英国両皇孫殿下の花繍(ほりもの)(入れ墨)せられし事を聞き及び、文明国の王族さまがなさることだ、身体髪膚を毀傷せぬなどの、近い国の唐人の寝言は聞くにはおよばぬ抔(など)と、国に禁令のあるをもかまはず、大坂の下等(かとう)勇み連は同府下西町の彫徳、宗右衛門町の彫市、難波新地の彫安、天満川崎の彫政などといふ昔時名を得し花繍師の方へ押しかけ、仮令(たとえ)、御法度でも開明の真似ならわるくはあるまいと、無法を云いて頼みに来る者多しと、よしや文明国のする事なりとも、是らは真似ずもあれかし、殊に法のゆるさざるものをや 」
この新聞記事に書かれた「下等勇み連」の「下等」について、飯沢匡氏が「私の幼童のころは二言目にはこの『下等な』がお叱言となって私の耳に届いたものであった。『下等な言葉』『下等な行い』『下等なふるまい』等々。してはならないことの上には必ずこの『下等』がついたのであった」と解説している。
この飯沢匡氏見解を受け入れ、前述の大阪在住の財界人の発言と併せて考えれば、大阪に入れ墨が多いのは頷け、大阪市職員も同じ類と想定でき、明治以来の背景が今日まで伝わっているのではないかと推測している次第である。
さて、東京日々新聞の記事は、明治14年来日した英国皇太子(のちの英国国王エドワード七世)の第一王子アルバート・ヴィクター親王と、第二王子ジョージ親王(のちのジョージ五世=映画「英国王のスピーチ」のジョージ六世の父)のことである。
両王子来日前にロンドンの駐英日本大使から「最高の刺青師を用意されたし」と打電あり、何かの間違いではないかと再度返電し、やっと真意が判って大騒ぎしたという話が残っているが、「彫物師は約三時間かけ、腕一杯に身をくねらせる赤と青で描かれた一匹の大きな竜を彫った」(明治天皇 ドナルド・キーン著)とあるように、二人の王子が刺青をしたのは事実である。
ここで大阪市の職員がしている「入れ墨」と、英国両皇孫がした「刺青」という二つの用語を使い分けていることを説明したい。
「入れ墨」とは江戸時代に前科者の意味で身体に針を使って刺し、そこに墨を入れ、痕跡を残すことから使われている。一方の「刺青」とは、人類学的にいうと「身体変工」の部類に入るのであって、これは全く自らの肉体に墨を入れ装飾するものであって、「墨」を皮膚の下に入れると青く見えることから「刺青」と称している。
明治三年(1870)には太政官令によって入れ墨刑は廃止となり、明治五年(1872)には同じく太政官令によって入れ墨自体が禁止され、既に入れ墨を入れていた者に対しては警察から鑑札が発行された。だが、禁止令は無きに等しかった。
明治初年に来日した欧米人は、刺青を一種のジャポニズム・日本趣味の美として認め、馬丁に見事な刺青をさせるようになったので、横浜では刺青業が盛況となって、その背景には欧米では刺青は恥ずべきものでないという実態があって、それは今日まで伝わっている。その現象をベアトが写真に撮って残している。(1870年頃のベアト写真)
現在では、昭和二十三年(1948)の新軽犯罪法の公布とともに解かれたので禁止ではない。
ここまでは単に大阪市職員と英国両皇孫の因果関係を推測したまでだが、刺青によって明治天皇が巻き込まれた外交大問題が、十年後の明治二十四年(1891)五月に発生した。
大津事件であって、巡査津田三蔵が、来日していたロシア・ニコライ皇太子(のちの皇帝ニコライ二世)に突如斬り付け怪我をさせた事件である。
明治天皇は直ぐに京都に出向き、ホテルで加療中のニコライ皇太子を見舞いしようとしたが夜間のため断られたので、翌朝、再度、お見舞いと謝罪をホテルに出向き表し、ロシア艦艇で治療するとのことなので、港まで同行して誠意を示し、帰国時には船内で食事を共にして見送った。しかし、この際の日本側は、天皇がそのまま船で拉致されるのではないかという危惧を持ったが、明治天皇は最大の誠意を示すべく船に入られたのである。
この十三年後に日露戦争となるのだが、当時のロシアは世界の大国であり、小国であった日本が大国ロシアの皇太子を負傷させたのである。些細なことで言いがかりをつけ、戦争を仕掛け、植民地支配するということは、当時の列強大国の常套手段であったので、日本国内は、一般庶民の間でも「ロシアが攻めてくるぞ」と大激震が走った。
学校は謹慎の意を表して休校。神社、寺院、教会は皇太子平癒のための祈祷。吉原はじめ盛り場での鳴り物の禁止。ニコライの元に届けられたお見舞い電報、一万通超。
山形県金山村(現・金山町)では、「津田」の姓及び「三蔵」の命名を禁じる条例を可決した。すべてはロシアの気持ちを静めるためである。当時、二十六歳の女性「畠山勇子」が日本の恥辱として喉を突いて自害したほどであった。
では、何故にロシア皇太子ニコライが来日したのか。ニコライはサンクトペテルブルグ→トリエステ→ボンベイ→セイロン→シンガポール→ジャワ→サイゴン→バンコック→香港→広東→上海という六カ月に渡る船旅を経て長崎に上陸したのだが、それが刺青目的であったというのである。
「ニコライは右腕に竜の刺青をした。彫りあげるのに夜九時から翌朝四時まで七時間かかった」(明治天皇 ドナルド・キーン著)とあり、「長崎市摂津町、野村幸三郎・又三郎の両名は連日、皇太子殿下御乗船に御召入られ両腕に龍の刺文を施されギリシャ親王殿下及士官数名も各右両人に托し刺文せられ皇太子殿下よりは弐拾五円、ギリシャ親王よりは壱円を下賜せられ其他士官二名よりは八円を与えたる由」(長崎県立図書館資料・異史・明治天皇伝 飯沢匡著)とあって、ニコライがギリシャ親王と一緒に刺青をしたのは事実である。
ところで、明治時代における日本の刺青は世界的に評価が高く、明治十四年の英国王子に刺青したのは彫師の彫千代であるが、当時、欧米人の間では彫千代が有名で、当時NYの新聞が「刺青界におけるシェイクスピア」と称賛したという。
この彫千代らが触媒となり、日本の刺青の技は英国に伝えられ、英国社交界では19世紀後半刺青が流行した。中でも明治三十九年(1906)に明治天皇にガーター勲章奉呈のため、英国国王名代で来日したアーサー・コンノート殿下も日本で刺青しているほどである。
刺青目的で来日したニコライ皇太子に斬りつけた大津事件で、明治天皇が大変ご苦労されたことを、大阪市職員の入れ墨問題と絡めてお伝えした次第である。
本題に戻るが、少年天皇として即位した明治天皇は、その存在の非凡さ、それは威厳と慈愛に満ちたイメージを持ちつつ、数多くの国内外の問題と危機に対処した治世によって、当時の日本国民に納得感を与えられ存在になられたわけであるが、しかし、そこまでの過程では「心の修行」を成さねばならなかったいくつかの背景要因が存在していた。
これについて前号で
1.王政復古の実現、
2.父孝明天皇の思想を受け継いでいない、
の二項目を検討したが、今号でも続けたい。
先般、三笠宮寛仁(ともひと)様が薨去(こうきょ)された。また、その際に皇室の構成が左のように新聞紙上に掲載された。
これを見ると寛仁様の皇位継承順位は第六位とあり、悠(ひさ)仁(ひと)様は第三位となっているが、ここでふと疑問を持った。
明治天皇がお生まれになった時は祐宮(さちのみや)であり、九歳になられた時に親王宣下され睦(むつ)仁(ひと)親王となられている。つまり、誕生時点では親王でなかったのである。親王とは皇位継承権を持つ人物のことである。
かつては、天皇の子女の称号として皇子及び皇女が使われていたが、律令制では天皇の子及び兄弟姉妹が親王(女性形「内親王」は令の条文にはない)と改称され、平安時代以降は親王宣下をもって親王とする慣習となり、たとえ天皇の子供であっても親王宣下を受けない限り親王にはなれなかった。
逆に世襲親王家の当主などの皇孫以下の世代に相当する皇族であっても、天皇・上皇の養子・猶子となることで親王宣下を受けて親王となることもあった。
例えば、孝明天皇の祖父に当たる百十九代光格天皇は、下図の系図のように百十八代の後桃園天皇が二十二歳で崩御されたので、六代さかのぼる百十三代東山天皇の弟筋の曾孫(ひまご)で、典(のり)仁(ひと)親王(慶光院)の六男であるにもかかわらず、本家に戻って即位している。
このような継承が何故になされたのか。それは天皇に皇子が誕生しない、というよりお生まれになっても亡くなられる比率が高く、孝明天皇の父である百二十代仁孝天皇は四十七歳で崩御されるまでに十五人の子供を産ませたが、十二人が三歳までに亡くなり、育ったのは孝明天皇と徳川十四将軍家茂に嫁いだ和宮とほか一人(桂宮を継いだ淑子(すみこ)内親王)にすぎない。
実は明治天皇も同様であった。明治天皇は十七歳で明治元年(1868)十二月、一条美子・昭憲皇太后と結婚されたが、天皇より三歳年上であった皇后は、子供ができず、典(す)侍(け)から生まれた子供も明治六年の二人は即日死亡、八年生まれの第二皇女は翌年に、十年生まれの第二皇子も翌年に亡くなった。
明治十二年(1879)八月に誕生した第三皇子は、明宮(はるのみや)嘉(よし)仁(ひと)親王と命名されたが、虚弱で本当に育つのだろうかという深い心配があった。
明宮親王については改めてふれたいが、ここで気づくのは誕生と共に親王宣下されていることである。悠仁様も明宮親王と同じく誕生と共に親王宣下されている。
だが、明治天皇は誕生時点では祐宮であって、親王宣下は九歳のとき睦仁親王になられている。天皇の子供は、それまでは単に皇子・皇女にすぎず、正規に「親王」ないし「内親王」宣下を受けるまで、皇位継承権を主張できなかったのである。
大正天皇である明宮親王のあたりから、皇室の皇子・皇女に対する規定が全面的に改められたのであるが、これは、第一皇子・第二皇子が次々と亡くなり、次の第三皇子の健康に不安があって、新しい制度が導入されたのである。
即ち、皇子は生まれると同時に親王であり、親王としての名前を授かる。ということは育ちさえすれば、皇位継承権を持つということになったわけである。
長々と親王宣下について述べてきたが、ここに明治天皇の大きな悩み、というより国家としての大問題で、天皇から子供が多く誕生しても育たないということは、皇位継承が難しい環境下になることを意味することになる。
明宮親王の健康について「明治天皇紀」は以下のように記されている。誕生二十日余の条に「誕生の際より」として始まるものである。
「嘉仁親王誕生の際より全身に発疹あり、昨(九月)二十三日瘡痂(そうか)(かさ病)消散せるを以て腰湯を奉仕せるが爾後不快なり。(午後皇后が御産所に行啓したが)其の頃より親王腹部に痙攣の発するあり、漸次胸膈を衝逆す、八九時に至りて最も強盛なり、又痰喘のため一層の苦悶あり・・・(『紀』十二年九月二十四日条)」(明治大帝 飛鳥井雅道)
親王の病気の記述は、不思議にも天皇や皇后が皇子を見舞ったり、呼ぼうとしても面会出来なかった時に限って記述される。逆にいえば、身体の状態がよいと思って会う段取りになると、病気が悪化するために記述せざるをえなかったと読んでも、それほど深読みではないだろう。(明治大帝 飛鳥井雅道)
明治天皇の治世期間中、第一子から数えて合計十五人の皇子・皇女が誕生し、五人が成人となられたが、皇子が明宮親王一人であるということは、どう考えても明治天皇は不運すぎた。
(明治天皇 笠原英彦著)
明治二十二年(1889)発布の「帝国憲法」で天皇は、「国家の元首」「統治権の総攬(そうらん)*者」(統合して一手に掌握する)ことと規定され、政務をとり、陸海軍を統帥する立場としてされたが、果たして明宮親王が憲法に規定された権威に耐え得る身体であるのか、客観的に見て厳しい状況であったが、他に継承すべき皇子はいなかった。
どうしてこのように多くの子供が宮廷で亡くなるのか。
その理由は幼児期の育て方に帰する、と考えられる。明宮親王の御用掛筆頭は、侍従長たる徳大寺実則だが、実質的には天皇の外祖父・中山忠能と嵯峨実愛(明治後に正親町三条から改姓)が実権を握っていて、一時期は中山邸で育てられた。
つまり、明治天皇は自らの後継者である息子の教育を、旧勤皇公家に任せてしまったのであり、医者は漢方医でコンデンス・ミルクを飲ませることも反対したほどだった。
この反省から明治天皇は、明宮親王が結婚し皇孫殿下、即ち昭和天皇であった裕仁親王が明治34年(1901年)に誕生された時は、育て方と教育を一新し、大正天皇をとばして昭和天皇に期待を寄せるというより、昭和天皇にかけたというべき行動が見受けられた。
それが乃木希典を学習院長に任命した背景であり、裕仁親王の教育を乃木に任せたのではないかと考えている。
乃木希典については、明治天皇と鉄舟との関係のまとめで詳しくふれたいが、精神家として西郷⇒鉄舟⇒乃木のラインが明治天皇のバックボーンに深く関与しているのである。
いずれにしても、明治天皇は子供に恵まれなかった。今の時代は不測の事態が起こらない限り、大体子供は両親より長生きするのが一般的であり、明治天皇の事例は現代感覚ではちょっと考えられない境遇であるが、実際に親より早く子供を亡くされた方の悲しみは激しいものがあり、明治天皇はその子供を十人も亡くされているのである。
この状況から、侍従の藤波言忠はついに次のように直言するほどであった。
「只今の向にては、来年頃は又々御葬式の御供つかまつるべし」(明治大帝 飛鳥井雅道)
この指摘を受けるまでもなく、相次ぐ皇子・皇女の誕生後すぐ亡くなるということは、明治天皇の気持ちを暗くさせる最大要因であったが、その一方「国家の中心」として多忙な国事を冷静に勘案し遂行せねばならぬ立場を考えれば、その心中はいかばかりであっただろうか。
天皇とは我々一般人とは別次元の存在である。
そのことを先般薨去された三笠宮寛仁殿下が、櫻井よし子氏との対談で、万世一系を取り上げ述べておられるので紹介したい。(文藝春秋 平成十八年二月号 )
「天皇様というご存在は、神代の神武天皇から百二十五代、連綿として万世一系で続いてきた日本最古のファミリーであり、また神道の祭官長とでも言うべき伝統、さらに和歌などの文化的なものなど、さまざまなものが天皇様を通じて継承されてきたわけです。
世界に類を見ない日本固有の伝統、それがまさに天皇の存在です。私は天皇制という言葉が好きではありませんから、仮に天子様を戴くシステムと言いますが、その最大の意味は、国にとっての振り子の原点のようなものではないかと考えています。国の形が右へ左へさまざまに揺れ動く、とくに大東亜戦争などでは一回転するほど大きく揺れましたが、
いつもその原点に天子様がいてくださるから国が崩壊しないで、ここまで続いてきたのではないか」
このように皇族が認識していると天皇は、万世一系という重い歴史を背負っている立場である。また、孝明天皇までは国民に「見えない」存在であったものが、明治天皇は新時代となって「見える天皇」となられた。
したがって、明治天皇の心中は、相次ぐ皇子・皇女の死亡という子を失う親としてとの悲しみと、唯一の継承者が持つ虚弱性に悩みつつ、国民には「強い国家元首」としての姿を見せ続けなければならないという乖離・相克に耐え忍ばねばならなかったわけで、その克服のために「心の修行」の必要性を痛感していた。
そこに明治天皇のおそば近くに、大悟を目指して命がけで禅修行中の鉄舟が存在していた意義があった。
因みに三笠宮寛仁殿下が、鉄舟と明治天皇に関しても述べられているので紹介する。(文藝春秋 平成十八年二月号 )
「私は司馬遼太郎さんの本が好きでほとんど読んでいますが、明治天皇のエピソードがたびたび出てきます。
私が好きな話のひとつに山岡鉄舟が天皇様を相撲で投げ飛ばしたというものがあります。
山岡は賊軍である幕臣出身ですが、その人柄を見込まれて明治政府に侍従として取り立てられ、天皇様のご養育係をつとめました。
そして天皇様がまだ少年の頃、山岡に相撲を挑んだところ、山岡はいとも簡単に転がしてしまう。わざと負けてあげて『お強いですね』と持ち上げる手もあるのですが、山岡は将来、きちんとした君主に育っていただきたいという心を込めて、あえて投げ飛ばした。
さすが剣と禅の達人であった山岡です。山岡のような家来がいたことで、明治天皇は偉大な君主になられた。お若き時のよき体験であっただろうと思います」
このエピソード、鉄舟が明治天皇の「心の修行」に与えた影響の重さを物語っていると考える。
次号では、明治天皇が直面した政治的大問題にふれ、そこでも「心の修行」面で鉄舟がかかわっていることをお伝えしたい。
明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の七
明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の七
最初にパリのアンヴァリッドの長州砲について訂正したい。前号でアンヴァリッドに保管されている長州砲二門、その一門が長らく所在場所不明だったので、筆者がアンヴァリットの学芸員と館内を半日かけて探し、軍関係の管理地におかれていることを確認、この大砲を「十八封度礮(ぽんどほう)嘉永七歳次甲(きのえ)寅(とら)季春 於江戸葛飾別墅鋳之(べつしょにおいてこれをいる)」、弾の重さが十八封度礮(約8.2キログラム)とお伝えした。
しかし、以下のアーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新」(坂田誠一訳)」の記述から、長州砲を研究している大阪学院大学の郡司健教授が、大砲の弾の重さは二十四ポンドではないかという疑問を出された。
「第七砲台では、大砲が大きな車輪の砲架に乗ったまま砲座の上に装備され、旋回軸で操作されるようになっていた。砲身は青銅製で、ひじょうに長く、二十四ポンドの記号がついていたが、その実三十二ポンドの弾丸を発射していた。これらの大砲には、一八五四,年に相当する年号が記されていた。江戸で鋳造されたものであることは明らかだった」
そこで、この確認をすべく、下関市立長府博物館の田中洋一学芸員が二千十年九月アンヴァリッドに赴き、筆者が見つけた大砲を調べたところ「二四封度礮・・・」と砲身に刻まれていることを確認、アーネスト・サトウの記述通りの二十四ポンド砲であると確認されたのである。
さて、明治天皇の侍従となった鉄舟は当時、どのような状態であったか。文久三年(1863)十二月末に蟄居処分が宥免され、浅利又七郎義明と立ち合い、見事な完敗を喫し、その後もどうしても浅利に勝てなく、この壁を超えるには「心の修行しかない」と禅修行に没入邁進していた時であった。
侍従になってからの禅修行は、三島の龍択寺に参禅し、星(せい)定(じょう)*和尚についた。当時、宮内省は一と六がつく日が休みだった。そこで十と五の日に夕食をすますと、握り飯を腰に下げて、草鞋(わらじ)がけで歩いて行った。この参禅は三年続いた。(「おれの師匠」小倉鉄樹)
この話を普通の人は嘘だと思うだろう。東京から三島まで三十余里(約120㎞)、途中に箱根越えがある。龍択寺で参禅が終わると、休息する間もなく、また、東京へ引き返す。こんなに歩けるわけがないと、一般の人々は思うだろうが、鉄舟は実際に歩いた。鉄舟の健脚は有名であった。
星定和尚は、三年目に鉄舟に「よし」と初めて許しを与えた。ところが鉄舟は、まだ自分は不十分であると思い、和尚の「よし」に納得せず辞し、箱根に差し掛かった時、ふと山の端から出た富士山を見て、覚(おぼ)えず「はつ!」と、豁然(かつぜん)大悟した。
喜びのあまり、鉄舟は直ちに戻ったら「今日は間違えなく帰って来るだろうと待っていた」という。和尚は鉄舟が大悟のレベルに達し、それを自ら気づくことを見抜いていたのだった。
その際の心境を表したものが次の和歌であり、鉄舟はよく富士山の自画像に書いている。
晴れてよし 曇りてもよし 富士の山
もとの姿はかはらざりけり
しかし、この三島通いで到達した大悟は、まだ「大道」(人のふみ行うべき正しい道・広辞苑)段階であって、仕上げとなる悟りの境地に達する大悟までには、天竜寺の滴(てき)水(すい)和尚、相国寺の独(どく)園(おん)和尚、円覚寺の洪(こう)川(せん)和尚などについて修行を続け、終に滴水和尚から印可を受けたのが明治十三年(1880)三月三十日であった。
ここに鉄舟の大悟・心地の開拓が完成したのだが、侍従となったタイミングはちょうどこの大悟への過程中であった。
つまり、侍従就任時の年齢が三十七歳、大悟したのが明治十三年の四十五歳、侍従を辞したのが明治十五年(1882)の四十七歳であるから、最も精神的に鍛え上げ、心の完成期を迎えた十年間を、明治天皇のお傍近くで過ごしたことになる。
ということは、明治天皇はこの十年間の鉄舟の修行を身近で見ていたわけで、その観察プロセスの中から、何か重要な意義・価値を受けられたに違いないと容易に推察できる。
ここで侍従とはどのような職務であるのか振り返ってみたい。また、戦前の天皇に仕えていた側近はどのような配置になっていたのかも見てみたい。
明治二十二年(1889)発布の「帝国憲法」で天皇は、「国家の元首」「統治権の総攬(そうらん)者」と規定され、政務をとり、陸海軍を統帥し、側近として元老、内大臣、宮内大臣、侍従長、侍従武官長といういくつかの層が配置されていた。
主として政務にかかわったのは元老と内大臣であり、皇室いっさいの事務につき天皇を輔弼し、華族を監督、皇室令の制定などをつかさどったのは宮内大臣で、陸海軍を統帥する軍務を補佐したのが侍従武官長であり、これは日清戦争を機に設けられた。
戦後の新憲法では、宮内省は廃止され宮内庁となり内閣府に位置づけられ、元老、内大臣、宮内大臣、侍従武官長はなくなり、侍従長のみが戦前と変わらずのこっている。
侍従の制度は「大宝令」、これは四十二代文武(もんむ)天皇時代の大宝1年(701)制定の時から天皇家と共に存在し「常侍規諫(じょうじきかん)、拾遺補闋(しゅいほけつ)*」、つまり「常に天皇の側近にあって、誤りを正し、諌め、過失を補う」のが役目とされ、侍従長とは侍従を監督する長として明治四年(1871)に設けられた。
2012年5月号で紹介した、昭和天皇時代の侍従長であった入江相政著「城の中」(昭和三十四年 中央公論社)に、
「二十何年の間には、御意見と意見が合わなくて、激論になったこともある。陛下も元来非常に大きな声だし、私も決して小さいほうではない。わきで冷静にきいていたら、さだめし相当な騒音だっただろう。私はほとんど遠慮なんかしていない。ずいぶんふてぶてしいやつだとお思いになったろうし、今でもおもっていらっしゃるかもしれない。しかしそういうことがあっても、全くただその場かぎりのことで、後までひっかかりになったようなことは一度もない」
とあるように、侍従とは、常に天皇と親しく接し、遠慮なく天皇に物事を発言できる側近であって、御意見番であり相談相手であるということがわかる。
そのような職務である侍従として鉄舟が、当時二十歳代であった明治天皇の身近に仕えたということは、必然的に天皇は必死に修行している大悟前と、大悟後について、その比較を含め詳しく見つめていたであろう。
人間が大悟するということは、普通人ではなりえない境地であるから、ここで改めての解説と分析は出来ない。したがって、ここは鉄舟の身辺近く内弟子として過ごした小倉鉄樹の言葉を借りたい。
「とにかく。かうして完成せられた後の師匠(鉄舟)は、一段と立派なものになって、實に言語に絶した妙趣が備わったものだ。性来のたいぶつが、磨いて磨き抜かれたのだから、ほかの人の、形式的の印可とはまるでものが違ふ。師匠が稽古場に出て来ると、口を利かずにだゞ座っているだけだが、それでもみんながすばらしく元気になってしまって、宮本武蔵でも荒木又右衛門でも糞喰へといふ勢ひだ。給仕でおれなぞが師匠の傍に居ても、ぼっと頭が空虚になってしまってたゞ颯爽たる英気に溢れるばかりであった。客が来て師匠と話をしてゐると、何時まで経っても帰らない者が多い。甚だしいものになると夜中の二時三時頃までゐた。帰らないのは師匠と話をしてゐると、苦も何もすっかり忘れてしまって、いゝ気持になってしまふものだから、いつか帰るのをも忘れてしまふのである」(「おれの師匠」島津書房)
この小倉鉄樹の語りは、大悟後の鉄舟という人物の豊かさ、素晴らしさを示していて、大悟するということは、具体的にこういう状態になれるものだと判断できるし、鉄舟が本来持っている能力が最大限に発揮されている様子が、正直に素直に伝わってくる。
このような姿であったのだからこそ、明治中期の女の子が路地裏で遊んだ手毬歌で
「下駄はビッコで 着物はボロで 心錦の山岡鉄舟」
と時の民衆の間にまで沁み渡っていたわけである。
であるから、必然的に明治天皇も鉄舟から「何か」を、それは「精神的なもの」であろうが、多くの影響を受けたはずである。
また、践祚(せんそ)(皇嗣が天皇の位を承け継ぐこと)されてから十五年にかけての明治天皇の状況を振り返ってみれば、「心の修行」という精神的な分野に高い関心を持たざるを得ない環境下にあった。
では、明治天皇が「心の修行」を必要とした背景とはどのようなものであったか。それらについていくつかに分けて検討してみたい。
1. 「王政復古」の実現
我々は、明治天皇が歴代天皇と大きく異なる特異性についてしっかり理解しないといけない。それは歴代天皇が考えても見なかった「王政復古」を実現させたことである。
この「王政復古」、もし仮に孝明天皇がご存命であったならば、「倒幕と王政復古を目指す人々の前に立ちはだかり、なおも妨害し続けたなら、維新の実現は極めて難しいことになったに違いない。あるいは、その実現は不可能でさえあったかもしれなかった」(明治天皇 ドナルド・キーン著)とあるが、その通りであろう。
その孝明天皇は、慶応二年(1866)十二月二十五日に、断末魔の苦しみの内に三十五歳という若さで突然崩御された。
先般、三笠宮家の長男、寛仁様がご逝去された。(2012年6月6日)野田首相は「国民と飾ることなく親しく接せられる殿下に、引き続き積極的なご活動を望んでいたところ、思いもむなしく薨去(こうきょ)されましたことは、誠に痛惜の思いに堪えません」と謹話を発表したが、新聞社によっては「亡くなられた」という言葉使いが見られた。
戦前はこういう場合には必ず薨去を用いた。「薨」という字は、皇族に限らず平安時代の「殿上人」即ち「三位」以上の位階を持っていると使えたわけで、天皇の崩御と使い分けられていて、戦前の宮廷記事で誤りを犯すと記者たちの首が飛んだものだが、さすがに野田首相は薨去を使って慎重な配慮である。
ところで、明治天皇の即位の礼が執り行われたのは、慶応四年(1868)八月二十七日である。孝明天皇が崩御されたのは慶応二年十二月二十五日であり、践祚の式は慶応三年(1867)一月九日であったから、天皇即位の礼はかなり遅れている。即位の礼という大規模儀式の前に成されなければならないことが多々あり、加えて国内情勢不安定のためだった。
その成されなければならぬ中で極めて重要なものは、いままでと国体の歴史を変える慶応三年(1867)十二月九日の「王政復古の大号令」である。
家康によって始まった徳川将軍家の系統が終りを告げ、建武中興以来五百余年ぶりに天皇親政が復活したのが「王政復古」で、これを発した日の夜、朝廷内の小御所で天皇出御のもとで開かれた会議の様子は、この当時の明治天皇を分析する上で欠かせない重要なものである。
会議は冒頭、議長格の中山忠能が「王政の基礎」を確定し、「更始一新の経綸」を施すため、公議を尽くすべしと開会を宣し、山内容堂が口火を切った。
「二三の公卿、幼(よう)沖(ちゅう)(幼い)の天子を擁して、権柄を窃取せんと欲するの意あるに非(あら)ざるか。天下の乱(らん)階(かい)(乱の起こるきざし)をつくるものなり」と非難し、徳川家を公平に扱うべきという見解を述べた。
これに対し、岩倉具視は天皇の御前における会議である。言葉を慎まれよ、と次のように容堂を叱責した。
天皇は「不世出の英材」であり、「今日の挙は悉く宸断(しんだん)(天子の裁断)に出(い)ず。妄(みだ)りに幼沖天子を擁し、権柄を窃取せんとの言を作(な)す。何ぞ其れ亡礼の甚だしきや」と応酬して、議論の流れを転換したというエピソードは有名であるが、この会議の間、明治天皇は一言も発言せず、御簾のうしろで聞いていただけであった。
この一言も発しないという意味、それをどのように理解したらよいのか。
①単にまだ十六歳という年齢を理由として考えるか
②それとも御叡慮(えいりょ)として自らの意思を伝える政治的思考力と発言技術が未だしというべきなのか
③または、成人後の治世で一貫して示された「自ら明確な指示はしないという、君主としてわきまえた態度」ということをこの時点で既に発揮したのか
多分、これらが相互重なって密接に影響していたかもしれないが、十六歳という年齢を考慮すれば③という後年に示された態度を、この時点での行動と結びつけるのは少し無理があると考える。③という段階に至って偉大な明治天皇として評価が定まってきたわけで、それには鉄舟を含めた多くの功臣達の影響によって「心の修行」が成された結果であると考えたい。
ここでひとつ面白い、ちょっと考えられないことを紹介したい。この小御所会議の結果、倒幕派の「徳川家の辞官・納地」の主張はこの会議で受け入れられたが、以降も公議政体派の巻き返しは激しく、結局「慶喜の辞官」については「前(さきの)*内大臣」という称号を許すことになり、「納地」にしても朝廷からの命令ではなく、自主的に「政府御用途」に差し出すといった形式がとられることになった。
この間において、徳川慶喜は自ら積極的な外交攻勢をかけてきた。それは、大政奉還に至る自己の正当性を説き明かす文書を朝廷に提出し、外国公使六カ国を大坂城で引見し、依然として日本の外交権の保持者であることを内外に誇示する行動であって、倒幕派はとうとう手詰まりに陥った。
これを打破したのが、西郷の指示による「江戸市中での強盗放火による撹乱」であって、これらの蛮行被害にたまらず、幕府側は薩摩藩邸へ砲撃を行い、これが誘因となって慶応四年一月三日の「鳥羽伏見の戦い」につながったわけであるが、この間にこの危機的状況を茶化すかのような珍事が出来した。
それは孝明天皇の一周忌法要の費用捻出問題である。王政復古の大号令が出され、その夜に徳川家に対する処分について激しい議論がなされた二十日後の十二月二十九日に一周忌法要が無事執り行われたが、実は朝廷にはこの費用を賄う財政力はなかった。
会計事務を司る山陵奉行戸田忠(ただ)至(ゆき)に岩倉は「内大臣徳川慶喜に頼んで都合されればよい」と戸田へ示唆した。驚いたことに慶喜の辞官を要求していたはずの当の岩倉が、慶喜のことを未だに「内大臣」と呼んでいる。
戸田は大坂城に赴き、慶喜に事情を説明し、金「若干万両」の献金を依頼した。戸田にとってはこの時ほど、ばつの悪い思いをしたことは無かったに違いない。大坂城中は、王政復古推進派に対する怒りで渦巻いている。このような時に敵方に渡す金の都合などつくはずもない。慶喜は気が進まなかった。しかし、戸田は何度も訴えるように嘆願した。
ついに慶喜は、勘定奉行に命じて金千両を献じ、残りは京都の代官に命じて幕府直轄領の貢納金から出すことを約束した。
ようやく幕府費用によって、孝明天皇の一周忌法要が滞りなく執り行われたわけであるが、これは幕府と朝廷が鳥羽伏見で火蓋を切るまさに四日前の十二月二十九日であったという際どいタイミングであった。
しかし、ここで顕れたのは慶喜の孝明天皇に対する気持ちである。多分、孝明天皇がご存命ならば、大政奉還するような立場に追い込まれず、まして王政復古や倒幕という「錦の御旗」なぞは考えられないと、慶喜は心中歯ぎしりしていたであろうし、だからこそ孝明天皇の崩御に対する悲しみと苦しみを強く慶喜は持っていたので、自らの立場が厳しく問われているにも関わらず法要費用を献じたのだと推測する。
2. 孝明天皇の思想を受け継いでいない
孝明天皇は感情が激しく、その気持ちがありのままに顕れている書簡が多く残っている。したがって、孝明天皇の分析はそれほど難しくないと言われている。
その書簡から明確なことは、既によく知られているように「けがれた夷狄(いてき)(外国人)を一歩でも神国日本に入らせない」という本心からの攘夷思想家であったことである。
この孝明天皇の皇子である明治天皇は、当然のことながら父孝明天皇から教育を受けている。具体的には和歌で、和歌の指導を通じて人間形成と天皇学を授かったはずで、そのことを山岡荘八の「明治天皇」は次のように述べている。
「父の帝が睦仁親王の和歌の指導だけは、おんみずからなされたが、これこそ明治大帝が、父の帝から直接授けられた最も大切な『天皇学――』の一つであったのかも知れない。
大帝もまたそれを敏(さと)*くご感受なされておわしたゆえ、東京遷都の年から『御歌始めの儀』を再興なされて、その伝統は今日に及んでいる。いや、それ以上に、大帝の御生涯に詠じられた御製の総数が、あのご繁忙なご政務の座にあって十万首にも及んでいるという超人的な事実が、何よりもこれを雄弁に語り残している。
おそらく大帝は、その一首一首を詠じられるたびごとに、父の帝を想い、訓えを想うてご反省なされたのではなかろうか・・・。
とにかく明治大帝とそのご生涯の御製と、父の帝のご影響とは切りはなして考えることの出来ない密接な関係をもっている」と。
このように大和民族伝統の詩形であり、神話の昔から人間形成の必須条件として伝承されている和歌を通じ、明治天皇は父である孝明天皇から指導を受けていたのであるから、当然のごとく「孝明天皇の強い意志である攘夷思想」を受け継いでいると思われるだろう。
しかし、これを全く受け継いでいないのである。
慶応二年末に孝明天皇が崩御されたが、翌慶応三年には未だ慶喜は将軍として大坂城にいた。この当時の外交最大課題は孝明天皇が拒否していた兵庫開港であった。
慶喜は「四海同胞一視同仁」(天下の人は兄弟のごときもの、親疎の別なく平等に仁慈を施すべし)の古訓に倣い、新しい治世の始まりにあたって国を一新しなければならない、という上書をもって兵庫開港問題について朝廷説得を何度も試みた。
この結果、さしもの朝廷も、列強の脅威を無視できず、五月二十四日、摂政二条斉敬は慶喜に書を送り、将軍及び諸侯の意見に鑑み、兵庫開港は勅許せざるを得ず、と応えた。
この間の慶喜と朝廷との交渉事に「恐らく年少の明治天皇は、これら朝廷の決断にほとんど、或いは全然関わっていなかった」(明治天皇 ドナルド・キーン著)とあるように、年齢を要因として裁断を下すことが出来なかったという指摘は、裁可をするための「心の修行」が今後必要だということを示唆している。
いずれにしても、兵庫開港勅許は「攘夷ではなく開国」であるから、明治天皇は孝明天皇の思想を受け継いでいないことになる。
次号でも明治天皇が「心の修行」を成さねばならなかったいくつかの事件についてふれて、鉄舟との関わりを検討していきたい。