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2005年05月10日

「現代に生きる武士道 2」

4月の例会より
1.事務局のご案内
1)鉄舟の扁額の読み方に関する問い合わせがあり、永島さんに解読していただき、回答をいたしました。
2)新しい参加者
本林さんが参加されました。今後ともお時間があるときはご参加よろしくお願いいたします。
3)ぬりえ美術館より
●香港の雑誌”NEXTMAGAZINE”に都電荒川線の特集があり、その中にぬりえ美術館の記事が掲載されていたそうで、香港のおもちゃデザイナーの方が来館された。
●童謡の会の方からのニュース。TBSラジオの安住アナウンサーが、「現在、ぬりえが話題となり流行しているようだが、それのもとになっているのは、ぬりえ美術館というものができたからである」とラジオで発言されていたそうです。そのように言っていただけて、嬉しく思いました。

二見さん発表4月(1)
新渡戸稲造 略伝  (一八六二〜一九三三)について
「武士道」の著で有名である新渡戸稲造の略歴
台湾総督府の高官   第一高等学校校長  東京帝国大学教授
東京女子大学初代学長 国際連盟事務局事務次長 勅撰貴族院議員
太平洋問題調査会理事長を歴任した。死後 勲一等瑞宝章が贈られた。

●幼年時代
新渡戸稲造は文久二年の(一八六二)九月一日 岩手県盛岡で生まれた。南部藩上級武士の子。曾祖父伝蔵は儒学者、兵法家。祖父の伝(つとう)は十和田湖周辺の荒野の潅漑工事を何と二〇年かけてやりとげた。
父の十郎は お留守居役として江戸に詰め、南部藩の勘定奉行であったが、無実の中傷を受け、蟄居させられた翌年、四十八歳で亡くなった。
幼年期、かかりつけの医者から英語を兄道郎と一緒に教わった。剣術と共に槍と柔術の稽古を受けた。父の十郎は、自宅の敷地に柔術の道場を構えていたという程武道に熱心であった。  
●青年時代
明治四年(一八七一)、稲造九才。母のせきは、兄道郎と弟稲造を東京で学ぶのが一番であると判断し、亡き夫の末弟で銀座通りに洋服店を営んでいた太田時敏がいる東京に送り出した。明治八年(一八七五)稲造一三才。二年前に政府によってできた難関の東京外国語学校の入学試験に合格した。
●札幌農学校入学
稲造は一六才の明治一〇年(一八七七)に札幌農学校に希望を抱いて二期生として入学した。祖父、父と続いた開拓精神を引き継ぐためであった。札幌農学校は「少年よ 大志を抱け」で有名なあのウィリアム・クラーク博士が校長であった学校。  
二十二人の二期生のうち、新渡戸稲造、内村鑑三、宮部金吾、他四名が入信した。
明治十四年(一八八一)札幌農学校を卒業し開拓使に入った。開拓使は解散し、農商務省に管轄を移された。札幌事務所では稲造は仕事がなく、明治十六年(一八八三)退官を願い出た。
明治十六年(一八八三)九月 東京大学に入学した。しかし、大学の授業に飽き足ら、やめてアメリカに行く事にした。
●留学時代
明治十七年(一八八四)当初は田舎にあるアレゲニー大学に入学したが、一週間後友人の佐藤昌介から都会にあるジョンズ・ホプキンス大学に来いと誘われて直ぐに転校した。
稲造は、渡米二年後には、持参した資金も底をつき、勉学継続が困難となり、その上目も悪化し、精神的に疲労のきわみに達し、とうとう病で倒れてしまった。友人佐藤昌介の推薦状のお陰で、ホプキンス大学を辞めて、ドイツに農業経済学の習得に、留学を命ぜられた。
明治二十年(一八八七) 政府派遣留学生として アメリカを発ち、欧州を廻りボン大学に到着した。ボン大学に十四ヶ月滞在し、ベルリン大学、次にハレ大学に移った。
こうしてドイツで文学修士と哲学博士を取得した。三十八ヶ月ぶりにアメリカに戻った。

投稿者 Master : 2005年05月10日 23:45

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