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2012年02月24日

2012年3月例会案内

2012年3月例会

東京文化会館を離れ、3月17日(土)18日(日)の二日間の特別合宿例会として、新潟県阿賀野市出湯(でゆ)温泉の川上貞雄氏邸にて開催いたします。宿泊は川上邸の隣に位置する日本秘湯を守る会の清廣館です。

ご参加お申し込みをいただきました14名の方には、具体的内容を郵送にてご案内申し上げますので、よろしくお願い申し上げます。

2012年4月例会のご案内

2月に引き続き「鉄舟は明治天皇に何を教育したか・・・その二」をテーマに、山本紀久雄が発表いたします
  
開催日 2012年4月18日(水)
場所  東京文化会館第一中会議室
時間  18:30から20:00
発表者 山本紀久雄
テーマ 鉄舟は明治天皇に何を教育したか・・・その二

2月に続いて、鉄舟が明治天皇の侍従として「何故に明治天皇治世に貢献出来たのか」について検討いたします。


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2012年2月開催結果

2012年2月開催結果

鉄舟は明治天皇に何を教育したか・・・その一」につきまして山本紀久雄が発表いたしました。
まず、2月1日の NHKテレビ番組について皆さんとディスカッションいたしました。

次に、明治天皇を人格面、文化的素養面、軍隊統率者面の三方向から検討し、いずれにも優れた天皇であられた背景要因として、二つの改革 ①廃藩置県 ② 宮廷改革について分析し、鉄舟に対する三人の評価、東京大学・山内昌之教授、司馬遼太郎、高島鞆之助(陸軍大臣)を述べました。

なお今回、鉄舟が明治天皇にどのような影響を与えたのかを研究をしてみましたが、今までの研究が逸話中心で、山内教授の「明治天皇の統治や統帥、知性や教養の全体を覆うバックボーンは、山岡鉄舟の存在に負うところが多い」という指摘の背景分析が十分に成されていないことに改めて気づきました。

その意味で、当会の鉄舟研究は新しい分野に入ったと認識しておりますが、大事なところですので4月例会に渡って発表することにいたします。

投稿者 Master : 09:28 | コメント (0)

2012年02月18日

「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の三

山岡鉄舟研究「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の三
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

 福沢諭吉は「痩せ我慢の説」で勝海舟と榎本武揚を批判した。海舟への批判については、前号で分析したので、今号は榎本武揚について検討したい。

福沢と榎本は遠い親せき筋にあたる。その縁は福沢の妻「お錦」の関係からである。
 文久元年(1861)、福沢は中津藩士・土岐太郎八の次女「お金」と結婚した。お金は以前は「おかん」という名であったが気に入らず、両親に頼んで「お金」に変えたが、今度は字がしっくりこず、福沢との結婚後は「お錦(きん)」*と書くようになった。 このお錦の実家である土岐家と、榎本の母の実家である林家は遠い縁戚筋であった。

明治二年(1869)五月、五稜郭の戦いで榎本は降伏し、戊辰戦争が終ったが、この当時、榎本の母は息子の消息が分からず、必死で尋ね歩いていた。

ここで榎本が、函館五稜郭で降伏するまでの経緯を簡単に振り返ってみたい。明治元年(1868)榎本武揚は、徳川慶喜を水戸から清水港に護衛搬送したが、その翌月の八月、新政府軍(官軍)に引き渡すことになっていた幕府軍艦八隻をもって、陸奥に向かって脱走した。これは、榎本が徳川家の成行き、慶喜の駿府への移転を見届けてから脱走を図ったものであるが、この艦隊に咸臨丸が含まれており、この咸臨丸が座礁、台風に翻弄され清水港まで漂流し、辿り着き、乗組員が官軍に殺傷されこと、それが前号で紹介した清水の清見寺にある『咸臨丸殉難諸氏記念碑』と碑文〈食人之食者死人之事〉につながっていて、ここを訪れた福沢が碑文を読んで、怒り心頭に達し、「痩せ我慢の説」を書くキッカケとなったのである。

さて、八月に陸奥に向かった榎本艦隊は、途中台風にて一部艦船を失ったが、ようやく仙台に入った。だが、奥羽越列藩同盟の敗退により、十月には旧幕府軍と奥羽諸藩脱走兵らを乗せ、反新政府軍団として蝦夷地に向かい、函館を占領、五稜郭を拠点としたのである。

榎本は、函館占領後すぐ、函館在住の各国領事や横浜から派遣されてきた英仏海軍士官らと交渉し、この軍団が榎本を総裁とする「交戦団体」(国家に準じる統治主体)であることを認めさせ、各国に明治政府との間の戦争には局外中立を約束させた。

これは榎本の持つ国際法を活かした外交交渉の成果であるが、これに見られるように、榎本の外交国際感覚は、後に、ロシアとの国境交渉に特命全権大使として臨み、樺太・千島交換条約の調印を成し遂げたように、当時から優れた国際感覚を身につけていた。

この函館五稜郭を拠点とする「交戦団体」に対し、翌明治二年五月、新政府軍が総攻撃を行い、土方歳三が戦死、十八日に至って「交戦団体」の首脳である四名、総裁の榎本、副総裁の松平太郎、陸軍奉行の大鳥圭介、海軍奉行の荒井郁之助が、新政府軍の陣営に赴いて降伏を告げ、生きのびた将兵の赦免を請うたのである。

降伏後、榎本は政権首脳とともに、辰之口牢獄(現・パレスホテルあたり)に収監されたが、この経過を知らない静岡在住の榎本の母は、息子の消息を知ろうと何度も東京の親戚に手紙を出して、必死の捜索をしていた。しかし、多くの親戚は、みな自分に危険が及ぶ可能性があると思い、梨の礫であった。

その状況がお錦を通じて福沢に伝わって、福沢は母に同情し、榎本は辰之口牢獄に入っており、生命は無事であることを母に伝えたのである。

すると母と姉が福沢を頼って上京してきて、福沢の屋敷に泊まり、牢屋にいる息子に弁当や必要と思われるものを差し入れし、面会したいとすがる親心に、福沢は「この母を身代わりにして殺してくれ」というような鬼気迫る「哀願書」を下書きしてあげ、新政府に願いださせた。

この「哀願書」が牢役人の心を動かしたのか、何とか母子の面会が許され、次の目標は赦免に向かった。

そこで福沢は、文久元年十二月に遣欧使節竹内下野守に従い、翻訳方として渡欧した際に同行し、その後も密接な関係にあった松木弘安、明治になって外交官として活躍した後の寺島宗則であるが、この寺島から薩摩出身の官軍参謀長である黒田清隆を紹介受け面会したのである。

その黒田に向かって、福沢は榎本のために熱弁をふるった。

「榎本は新政府に対し反乱した人物であるが、命だけはとらぬようにした方が国家のために得である。この写真を参考までに差し上げるので、じっくりご検討お願いしたい」というようなことを述べ、アメリカの南北戦争で勇名を馳せた南軍のロバート・リー将軍の写真を渡した。

南北戦争もアメリカ国内の戦い、いわば戊辰戦争と同じ国内戦争、南軍が敗退したがリー将軍は助命されている。遺恨をのこさないよう、敗者への対応は寛大にすべきだという趣旨で黒田を諭したのである。

この黒田への福沢の説得が功を奏し、榎本は赦免されることになった。榎本は福沢に感謝し尽くしても、し尽くせないと思われたが、しかし、ここで意外な結果を生むことになる。それを北康利著「福沢諭吉 国を支えて国を頼らず」(講談社)から引用しよう。

「釈放される少し前、榎本は恩知らずな手紙を姉・観月院に出しているのだ。

〈お借りした本は福沢程度の学者が翻訳したものですから、私がわざわざ読むほどのものではありません。それにしても、彼が無遠慮にいろいろ言っているのが耳に届いてきて、高慢ちきだと一同大笑いいたしました。(中略)もうちょっと学問のある人物かと思っておりましたが、案外だとため息をつき、これくらいの見識の学者でも百人余の弟子がいるとは、わが国もまだまだ開化が進んでいないと思い知るべきでしょう〉

そこには信じがたい忘恩の言葉が並んでいた。諭吉のような身分の低い者が自分を助けてくれるなどとは片腹痛いということだったのかもしれないが、それにしても謙虚さや感謝の心のかけらもない」
このような過去の伏線経緯もあって、清見寺の碑文を見た瞬間、福沢は怒ったのである。

では、福沢はどのような批判を「痩我慢の説」で展開したのであろうか。その要点と思われるところを拾ってみる。(『日本の名著╱33福沢諭吉・痩せ我慢の説』中央公論社)

≪勝氏と同時に榎本武揚なる人あり。これまたついでながら一言せざるを得ず。この人は幕府の末年に勝氏と意見を異にし、あくまでも徳川の政府を維持せんとして力を尽くし、政府の軍艦数艘を率いて函館に脱走し、西軍に抗して奮戦したけれど、ついに窮して降参したる者なり。このときに当たり、徳川政府は伏見の一敗また戦うの意なく、ひたすら哀を乞うのみにして、人心すでに瓦解し、その勝算なきはもとより明白なるところなれども、榎本氏の挙はいわゆる武士の意気地すなわち痩我慢にして、その方寸の中にはひそかに必敗を期しながらも、武士道のためにあえて一戦を試みたことなれば、幕臣また諸藩士の佐幕党は氏を総督としてこれに随従し、すべてその命令に従って進退をともにし、北海の水戦、函館の籠城、その決死苦戦の忠勇はあっぱれの振舞いにして、日本(やまと)魂(たましい)の風教上より論じて、これを勝氏の始末に比すれば年を同じゅうして語るべからず。

しかるに脱走の兵、常に利あらずして勢いようやく迫り、また如何ともすべからざるに至りて、総督をはじめ一部分の人々はもはやこれまでなりと覚悟を改めて敵の軍門に降り、捕われて東京に護送せられたるこそ運のつたなきものなれども、成敗は兵家の常にしてもとより咎(とが)むべきにあらず。新政府においてもその罪をに悪(にく)んでその人を悪まず、死一等を減じてこれを放免したるは、文明の寛典と言うべし。氏の挙動も政府の処分もともに天下の一美談にして間然すべからずといえども、氏が放免ののちさらに青雲の志を起こし、新政府の朝に立つの一段に至りては、わが輩の感服すること能(あた)わざるところのものなり≫

≪氏は新政府に出身してただに口を湖するのみならず、累遷立身して特派公使に任じられ、またついに大臣にまで昇進し、青雲の志、達し得てめでたしといえども、顧みて往時を回想するときは情に堪えざるものなきを得ず。当時決死の士を糾合して北海の一隅に苦戦を戦い、北風競わずしてついに降参したるは是非なき次第なれども、脱走の諸士は最初より氏を首領としてこれを*恃(たの)み、氏のために苦戦し、氏のために戦死したるに、首領にして降参とあれば、たとい同意の者あるも、不同意の者はあたかも見捨てられたる姿にして、その落胆失望は言うまでもなく、ましてすでに戦死したる者においてをや。死者もし霊あらば必ず地下に大不平を鳴らすことならん≫

≪古来の習慣に従えば、およそこの種の人は遁世出家して死者の菩提を弔うの例あれども、今の世の風潮にて出家落飾も不似合いとならば、ただその身を社会の暗所に隠して、その生活を質素にし、いっさい万事控え目にして、世間の耳目に触れざるの覚悟こそ本意なれ≫

≪これわが輩が榎本氏の出処につき所望の一点にして、ひとり氏の一身のためのみにあらず、国家百年の謀(はかりごと)において士風消長のために軽軽看過すべからざるところのものなり≫

この「痩我慢の説」による榎本への批判についても、筋が通っており成程と思う。
しかし、いくつかの疑問が残る。その第一は福沢がアメリカ南軍のリー将軍の例を持ち出し、
助けるよう黒田清隆を諭した事実の意図である。

当時の新政府は人材不足であった。それまでは徳川幕府の長い政治体制下で、薩摩・長州藩等は幕府政治に深く関与していなかったので、実際に日本国政治を担当するようになって、様々な問題対応能力において大きな齟齬をきたしていたので、優れた人材は喉から出るほど欲しかった。

特に欧米滞在経験のある人材は、諸外国との外交問題、国内体制の近代化に必要不可欠であり、その代表的人物として渋沢栄一を2011年11月号で挙げた。渋沢は、慶喜の弟である昭武がフランス・パリ万国博覧会に将軍の名代として出席する際に随員として渡仏し、ヨーロッパ各国で先進的な産業・軍備を実見した。当時としては稀有の体験を持った人物であり、新政府に抜擢され、その後の活躍によって「日本資本主義の父」といわれ、多種多様な企業の設立・経営に関わった大物財界人となった。

これに対し、榎本はジョン万次郎に英語を学び、十九歳で蝦夷地に赴き樺太探検にも従事し、長崎海軍伝習所での蘭学による西洋の学問や航海術・舎密学(化学)などを学び、その基礎的な学力をもって文久二年の27歳から、慶応三年(1867)32歳までオランダに留学し、ハーグで蒸気機関学、軍艦運用の諸術として船具・砲術と、機械学・理学・化学・人身窮理学を学んだ。

続いて、デンマーク対プロシャ・オーストリア戦争が勃発すると、観戦武官として進撃するプロシャ・オーストリア連合軍と行動を共にし、ヨーロッパの近代陸上戦を実際に目撃した最初の日本人となった。その後も国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学び、幕府が発注した軍艦「開陽丸」で帰国したように、当時の近代化先端国である欧州の国々について全体像を体系的に学び経験してきた人物であって、榎本に比肩する人物は当時の日本では存在していなかった。

さらに、辰之口牢獄では牢名主となって、本の差し入れも許されるし、書きものもできたので、家族に手紙を出し、家族を通じて外国の技術書・科学書を数多く差し入れてもらい、片っ端から読破、外国新聞も読んでいた。

兄の勇之助宛への手紙で、様々な日用品の製造方法、石鹸・油・ロウソク・焼酎・白墨といったものを教え、その製造のための会社を起こすことを勧めている。加えて、鶏卵の孵化機の製法、養蚕法、硫酸や藍の製法といったものにまで言及し、一部はその製造模型まで、獄中で造ったのである。

この榎本の獄中での態度、一般的に考えてかなり違和感が残る。戦争で敗者となった側のトップであるから、戦争犯罪人として極刑を予測し、その日に備えての心を安らかにするために精神統一など、いざという時に見苦しい死に方をしないために備えるというのが、日本人の通常ではないか。先の大戦での日本政府指導責任者の多くは、このような精神的世界に向かい、従容として死に向かったと聞いている。武士道精神による達観した最後であったと思う。

榎本の場合は、これらとは全く異なる。当時、大村益次郎などは強く厳刑を主張していたように、極刑が下されるのではないかという憂慮される環境下で、榎本の関心事は精神世界に向かうのでなく、技術者といえる分野に関心が向かい、具体的な提案まで行っているのである。戦争を指導した人物とは思えない。

五稜郭での戦いなぞすっかり忘れ去り、関心は日本の近代化というところに向かって、そのために欧米で得て持ち帰った自らの知識と体験を、獄中でありながら明治という時代が必要であろうと思うことを提案し、それも多方面分野に渡っていることから考えると、榎本は「万能型」人間ではないと推測できる。

確かにその通りで、その後の活躍を見ると、東京農業大学の設立、電気学会・工業化学会等の会長歴任、各国との外交交渉、晩年にあらわした地質学の論文等から考え、「万能型」テクノクラートであった。

さらに加えて分析してみると、辰之口牢獄での行動から判断されるのは、この人物は何か一般人とは別次元基準で生きているということである。

実は、福沢はこの榎本の実体、何か通常の日本人とは異なる次元、知識の幅と深みを併せ持つ「万能型」テクノクラートであることを、事前に理解していたからこそ、榎本は日本の近代化に欠かせない人材だと、リー将軍の事例を黒田清隆に示したのではないかと思われる。

ところが、清水を訪れ清見寺で〈食人之食者死人之事〉を見たことで、赦免前の恩知らずな手紙のことを思い出し、併せて、新政府内での華やかな栄進出世ぶりを考えると、これは、敢えて一言批判を述べないといけないという覚悟につながり、批判としての「痩我慢の説」を展開したのではないか。そのように推測する。

さて、もう一つの疑問は重要である。榎本は何故に〈食人之食者死人之事〉という揮毫、幕府から家禄をもらっていた者は幕府のためなら死をも辞さない、という意味になる文言を、どうして咸臨丸殉難諸氏記念碑に書き込み、刻んだのかということである。

榎本が幕臣であったことは当時の誰もが熟知しているのであるから、普通感覚ならこのような文言は書けないし、書かないであろう。福沢でなくとも怒るのが当たり前である。

だが、堂々と衆人が集まる寺社の境内に揮毫している事実。榎本は、それほどの非常識人なのであろうか。それとも何かの意図があって行ったのか。

これについては福沢への返書に「事実相違の廉(かど)ならびに小生の所見もあらば」とあるのみで、他には何も残さずに世を去ったので、何が背景にあるのか榎本の記録からは出てこない。筆者が分析してみるしかないが、そのためには、清見寺境内の『咸臨丸殉難諸氏記念碑』が建てられたその咸臨丸事件から見ていかねばならない。

ここで鉄舟と次郎長が登場する。清水の次郎長、後に東海道一の大親分として世間に知られるようになった、そのキッカケはこの咸臨丸事件からである。

ここで改めて、咸臨丸のことを思い起こせば、この艦はまことに数奇な運命にもてあそばれている。長崎の海軍伝習所で訓練を始めた幕府は、嘉永六年(1853)にオランダに軍艦を発注した。当時、ロシアとトルコの戦争のため、中立国のオランダは外国向けの建艦を控えていたため、四年後の安政七年(1860)にようやく長崎港に現れた。

この咸臨丸を有名にしたのは、日本人初の太平洋横断を成し遂げたことからであった。その後、幕府の軍艦として活動していたが、既に述べたように榎本が新政府軍に引き渡すことになっていた幕府軍艦を率いて、陸奥に向かって脱走した際も、艦隊に咸臨丸が含まれており、暦では八月でも閏年なので、もう秋に入っていて、台風に遭遇し、観音﨑で暗礁に乗り上げ、それまで回天丸に曳航(えいこう)されていたが、曳綱を断って、風浪のままに漂流し大マストも切り倒すまでになり、常州那珂港沖から三宅島近くを流され、二十九日にようやく下田港にたどりついたのである。

下田港の名主と小田原藩は、咸臨丸が港に入ったことを新政府に届け出た。新政府は肥前藩海軍に「徳川の脱艦、下田港漂着につき、処置すべし」との命を下し、追捕のために軍艦三隻と柳川藩士他数十名乗せて、咸臨丸逮捕に向かった。

咸臨丸は新政府が追捕に向かっているとは知らず、下田から清水港に入り、駿府藩に「脱走の途次、清水港へ漂流」の旨届け出た。駿府藩では大騒ぎである。榎本が脱走したことも大騒ぎであったが、そこに脱走したはずの咸臨丸が徳川の本拠地に戻って来たのである。

この騒ぎに現れたのが鉄舟であり、次郎長であった。次号に続く。

投稿者 Master : 14:39 | コメント (0)

 痩我慢の説と鉄舟・・・その二

山岡鉄舟研究 痩我慢の説と鉄舟・・・その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

明治24年(1891)に福沢諭吉は「痩我慢の説」を書き、勝海舟と榎本武揚を批判したことは前号で紹介した。
その中で海舟に対する指摘を、福沢の言葉を持って総括すれば以下の二点になるだろう。
① 敵に向かいてかつて抵抗を試みず、ひたすら和を講じてみずから家を解きたること。
② 維新の朝にさきの敵国の士人と並び立って得々名利の地位に居ること。

この①について触れる前に、②を考えてみたい。確かに海舟の明治新政府における地位は華やかである。

明治五年(1872)海軍大輔となり従四位に叙せられ、翌明治六年(1873)には参議海軍卿、明治八年(1875)四月に元老院議官となるが即日辞表を呈出し、十一月に依願免官となって、その後は赤坂氷川町の隠居となった。

明治二十年(1887)に伯爵、翌明治二十一年(1888)枢密顧問官に任じられ正三位、明治二十二年(1889)憲法発布の年に勲一等瑞宝章受章、後に勲一等旭日大綬章、正二位に叙せられた。つまり、海舟の生涯の終りでは正二位勲一等伯爵という高位高官にのぼった。福沢が指摘したのはこの事実であった。

だが、この高位高官として権力中枢にいたことが、明治時代初期に発生した各地での騒乱、特に西南戦争に大きく影響していると、江藤淳が「海舟余波」(文芸春秋)で指摘しているので紹介したい。

「明治七年(1874)の佐賀の乱以後、熊本神風連の乱、萩の乱、秋月の乱、西南戦争と、士族の叛乱があいついだが、これらはすべて官軍側の内部抗争にすぎなかった。明治前半の最大の反政府運動である自由民権運動ですら、本質的には薩長に対する土肥の挑戦にほかならなかったともいえる。
この間にあって、最大の潜在的野党である旧幕臣グループは、戊辰以来三十年間、慶喜とともに異常なまでの沈黙を守りつづけた。そこに海舟の『苦学』が作用していたのである。

最初の、そしておそらくは最大の危機は、明治十年(1877)の西南戦争のときにやって来た。海舟と西郷はもとより相重んじた仲であり、江戸開城のために反対の陣営に属しながら協力しあった間柄である。もし海舟が旧幕臣を煽動し、海軍にも働きかけて西郷と呼応したならば、どのような事態が生じていたかは容易に想像し得るところであろう。しかし海舟は起たなかった。起たないどころか連日連夜奔走して、旧幕臣が叛軍に投ずるのを未然に防いでまわった」

その状況を巖本善治の「海舟余波」(女学雑誌社)では、

「明治十年の時などは、毎晩々々出て、十二時頃に帰ったほどだ。古道具屋をひやかしたり、古着屋で買ったり、アチラにやり、コチラにやりして、平和を維持した。どうして、警視などで、ゆくものかイ」
と書かれているが、それを江藤淳が次のように解説している。

「この『アチラにやり、コチラにやりして』には、彼が政治資金を巧妙に操作して、旧幕臣の生活を支えたことが暗示されている。海舟の政治資金は、おそらく岩崎がその最たるものであり、この岩崎との結びつきの背景には彼と坂本竜馬との関係が潜んでいるものと思われる。その結果、旧幕臣からは、叛軍に投じた者はもちろん、警視庁抜刀隊に参加する者すら出なかった。整然と統制され、力を抑制して、官と薩のあいだの中立勢力たる旧幕臣グループの隠然たる力を示すこと。これこそ明治十年の危機にあたって海舟が試みたことであり、かつよくなしたことであった」

この江藤説は、なるほどと思う。旧幕臣である元旗本達にとっては、戊辰戦争は不本意な結果で、自分たちの保持する戦力を十二分に発揮できずに終わったことを悔しいと思っているはず。だから、いつか官軍に対して何かの機会に遺恨を晴らしたいという輩一派がいると考えるのが当然で、それが一連の騒乱が続いている時に、どちらかの側に属し、意趣返しの謀反を起こし得ることは十分に想像できる。

前号で紹介したが、福沢諭吉が「痩我慢の説」を海舟と榎本に送った際に添えた「福沢諭吉の手簡」に「なおもってかの草稿は極秘にいたしおき、今日に至るまで二、三親友のほかへは誰にも見せ申さず候」とある。

「二、三親友」・・・それは福沢の見解に同調する旧幕臣がいたことを明かしている。
それは木村芥舟(嘉毅)と栗本鋤雲である。木村芥舟は咸臨丸で渡米した際の提督であり、栗本鋤雲は徳川昭武の補佐役としてフランスに渡り、後に外交面で活躍したが、この二人とも明治政府からその能力を評価され、出仕の誘いがあったが、幕臣として幕府に忠義を誓い謝絶している。
この栗本が「痩我慢の説」を一読し快哉を叫び、全編にわたって線を引いたり、感想を書き込んだりしていたが、とうとう黙っておれなくなり、ついに知人に見せてしまい、内容が外部に漏れたので、福沢もそれなら仕方ないと、十年後の明治34年(1901)一月一日から時事新報に掲載を始めたのである。

いずれにしても、木村芥舟と栗本鋤雲と同様、幕末時の対応に不満意識を持っていた旧幕臣は少なからずいたわけで、何かのキッカケによって爆発へのエネルギーに変化する恐れは高かった。それが、明治初年に発生した各地での騒乱に乗じて爆発したならば、鉄舟の命がけの行動によって実現した海舟・西郷会談によって切り拓かれた明治維新という成果は、国家の大騒乱に変わり、徳川家と明治天皇との関係がおかしくなり、旧幕臣たちの立場は悪化したであろう。

それを恐れた海舟は、全力を尽くして、旧幕臣グループを整然と統制され中立勢力に収めるために動いたのである。後に海舟はこう語っている。(「海舟語録」明治三十一年十月七日で)

「江戸を明け渡したからそれで治るなどといふことがあるものか。畢竟(ひっきょう)*、己が苦学の結果で、三十年間かうなって居るではないか」

と語っている。
この「苦学」とは何か・・・。それは、明治新政府をつつがなく運営していくにあたって、謀反を起こす可能性のある旧幕臣グループを問題化させないよう「なだめ」「まとめていく」ために、あらゆる行動を採ったことを「苦学」と言ったのではないかと考える。

では、この苦学を展開し「まとめていく」行くために必要条件とは何か。まず、一番に必要なのは資金であろう。その金は岩崎弥太郎から手当てを受けることができた。次に、その政治資金を使うべき自分の立場が問題となる。

明治政府内に何も権限を持たない状態では、多分、その資金を支出したとしても、有効には機能しないであろう。つまり、在野にいたのではダメで、時の権力の中枢に近ければ近いほど、使ったカネが生きてくる。これは、企業内の政治力学を考えてもわかる。平社員よりは上級幹部の行動の方が影響大きいことは当然だ。

だから、旧幕臣グループを統制するには、政権中枢と強いパイプを持っていることが必要となる・・・このように考えた海舟は、福沢に代表される批判は承知の上で、高位高官の地位を築いたのであろう。そのことを江藤淳が次のように語っている。

「朝に仕えるなら、それはかならず高位高官に任じられるのでなければならない。つまり子爵より伯爵がよく、下僚に甘んじるよりは薩長の顕官と『竝立』って枢密顧問官に列せられるほうがよい。なぜなら位階が高ければ高いほど彼の旧幕臣グループへの統制力は強まり、それだけこのグループの力は隠然と充実するからである」と。

さらに言えば、明治天皇の侍従としての鉄舟が、旧幕臣を「まとめていく」海舟に協力した事は容易に想像がつく。天皇の身近に仕えているということは、何にも勝る重しである。

さて、最初に戻って、②ついて検討してみたい。

海舟は福沢の批判について次のよう氷川清話にある。

「福沢がこの頃、痩我慢の説といふのを書いて、おれや榎本など、維新の時の進退に就いて攻撃したのを送って来たよ。ソコで『批評は人の自由、行蔵は我に存す』云々の返書を出して、公表されても差し支えない事を言ってやったまでサ。
福沢は学者だからネ。おれなどの通る道と道が違うよ。つまり『徳川幕府あるを知って日本あるを知らざる徒(ともがら)は、まさにその如くなるべし、唯(ただ)*百年の日本を憂ふるの士は、まさにこの如くならざるべからず』サ」

これは海舟の自負であり、偽らざる気持であって「批評家に局に当たらねばならない者の『行蔵』、つまり、混乱の幕末から江戸無血開城、そこから連続する政治に対応してきた『出処進退』の実践と苦しさがわかってたまるか」と率直に述べたものだろう。

また、この感覚は、政治という実践舞台で、諸問題に具体的対応を担当している者にしか分からないものであろう。マスコミや一般人は政治家が動いた結果としての事象から批評する。結果として問題点のみが指摘される傾向になる。これは現在の菅政権にも当てはまることであって、菅政治の総決算は後代が定めていくと考える。

話は海舟に戻るが、海舟の国家感はペリー来航の嘉永六年(1853)から経る歴史の中で形成されてきた。長崎での海軍伝習所や幕府内の要職経験を通じ自らの能力を磨き、かため、咸臨丸渡米で国際感覚を身につけ、それを人に伝える中から、幕府体制に対する考え方が定まってきて、それを反幕府勢力の中心人物である西郷にまで伝えた結果が、徳川幕府の崩壊につながっているのである。
つまり、福沢が「敵に向かいてかつて抵抗を試みず」と批判した行動の源には、この一連の歴史から醸成されてきたといえる。

こんな事例がある。明治維新を遡る四年前の元治元年(1864)の大坂、西郷は当時大問題であった兵庫開港延期について、幕府軍艦奉行であった海舟に意見を求めたところ「この問題は、加州(注 加賀)、備州、薩摩、肥後その他の大名を集め、その意見を採って陛下に奏聞し、更に国論を決する」という答えに西郷は唸り、その意味する重大さに驚愕したことかがあった。

なぜなら、この発言は、日本政治の最重要問題処理を、有力諸侯に主体となって当たらせるとい発言であり、これは有力諸侯を国政運営の中心に位置させるという構想につながっており、言外に「幕府には政権担当能力がない」ということを明かしているのだ。

これは当時、とうてい幕臣から発する言葉でない。だが、これを聞いた西郷にとっては、眼を輝かせる見識であり、これを突き詰めていくと、一種の「共和政治」となり、幕府内では反発が強いものだからこそ、薩摩側からみれば一層「その通りだ」ということになる。

この会談を境に薩摩は幕府を見限る方向に動き出したのであって、元治元年時点で、海舟が一度幕府を見放し、それを西郷という類稀なる戦略家に伝えたからこそ、明治維新につながったと考えられるのである。

作家の海音寺潮五郎は、大坂会談時の海舟発言を分析し「勝という人は、終始一貫、日本対外国ということだけを考えて、勤王・佐幕の抗争などは冷眼視、といって悪ければ、第二、第三に考えていた人である」(西郷隆盛 学研文庫)と解説しているが、その通りであろう。

そのような海舟であるから、福沢から批判されても揺るがないのである。所詮、海舟と福沢は生きる世界が異なり、立場の相違は大きく、すり合わせは出来ない生き方哲学の持ち主同士だった。

次は、榎本武揚に対する福沢諭吉の批判である。

実は、福沢の「痩我慢の説」は榎本への批判から始まったものである。その発端経緯を「福沢諭吉 国を支えて国を頼らず」(北 康利著・講談社)から紹介する。

「十九世紀に別れを告げ新たな二十世紀を迎える明治三十三年(1900)の大晦日、後々まで語り継がれる一大イベントが慶応義塾で開催された。『世紀送別会』がそれである。
教職員、学生総勢五百余名が午後八時に参集。諭吉は「独立自尊迎新世紀」と大書した書を一同に披露し、万雷の拍手を浴びた。
そして、大きな話題となった世紀送迎会の翌日から『時事新報』に掲載された『痩我慢の説』は、世間をさらに驚かせる。それは、新政府の重鎮である榎本武揚や勝海舟に対する痛烈な批判だったからである。

きっかけは十年前にさかのぼる。
静岡へ出かけた折、清見寺(せいけんじ)(静岡市清水区興津)に立ち寄り、境内の『咸臨丸殉難諸氏記念碑』を見る機会があった。
咸臨丸は太平洋横断の後、非武装の運搬船として使われていたが、清水港停泊中に新政府軍の攻撃を受け、多数の死傷者を出した。
新政府軍の目を気にして、誰も海上の死骸を引き上げようとしない。腐乱するままに放置されているのを見かね、侠気を出して埋葬したのが有名な清水次郎長である。清見寺の碑は、この凄惨な事件の十七回忌を記念して建てられたものであった。
この悲劇は諭吉もよく知るところだけに、感慨深げに碑文へと目をやった。撰文はあの榎本武揚である。ところが、そこに〈食人之食者死人之事〉という一節を目にした瞬間、色白の彼の顔が見る間に朱に染まっていった。

この文章は〈人の食(禄)を食(は)む者は人の事に死す〉と読み、この場合、幕府から家禄をもらっていた者は幕府のためなら死をも辞さない、という意味になる。

幕府の重臣でありながら新政府に仕え、高官に上った榎本がよくもしゃあしゃあと書けたものだ、という怒りと同時に、何人もの懐かしい顔が浮かんでは消えた。

かつて謹慎を命じられていた諭吉を助けてくれた中島三郎助などは、五稜郭落城の二日前、長男、次男ともども壮烈な戦死を遂げていた。木村嘉毅もまた、最後の幕府海軍所頭取として敏腕を振るったが、維新後は幕府に殉じて新政府からの仕官の話をすべて断り、隠居して芥舟と号し、試作などで静かな余生を送っている。

一方の榎本はと言うと、向島に数寄を凝らした別荘を構え、贅沢三昧の生活を送っていることを知らぬ者はいない。

(木村さんのような人間にしか、あの文章を書く資格はない!)
東京に戻っても怒りは収まらない。この文章を書いたのが、自分の助命した榎本だということが余計に腹立たしかった」

この清見寺で見た碑文の経緯については、福沢が「痩我慢の説」の中で自ら書き述べている。
しかし、ここで最後の「自分の助命した榎本だ」というところ、これは榎本が五稜郭落城降伏後捕らえられていたものを、福沢が時の官軍参謀長であった黒田清隆に直に面会し、赦免するよう説得熱弁をふるったことが功を奏し、牢から出されたものであるが、その背景には福沢の妻お錦が絡んでいることに触れなければならず、清見寺の碑については鉄舟を抜きには語ることができない。次号に続く。

投稿者 Master : 13:55 | コメント (0)

痩我慢の説と鉄舟・・・その二

痩我慢の説と鉄舟・・・その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

明治24年(1891)に福沢諭吉は「痩我慢の説」を書き、勝海舟と榎本武揚を批判したことは前号で紹介した。
その中で海舟に対する指摘を、福沢の言葉を持って総括すれば以下の二点になるだろう。
① 敵に向かいてかつて抵抗を試みず、ひたすら和を講じてみずから家を解きたること。
② 維新の朝にさきの敵国の士人と並び立って得々名利の地位に居ること。

この①について触れる前に、②を考えてみたい。確かに海舟の明治新政府における地位は華やかである。

明治五年(1872)海軍大輔となり従四位に叙せられ、翌明治六年(1873)には参議海軍卿、明治八年(1875)四月に元老院議官となるが即日辞表を呈出し、十一月に依願免官となって、その後は赤坂氷川町の隠居となった。

明治二十年(1887)に伯爵、翌明治二十一年(1888)枢密顧問官に任じられ正三位、明治二十二年(1889)憲法発布の年に勲一等瑞宝章受章、後に勲一等旭日大綬章、正二位に叙せられた。つまり、海舟の生涯の終りでは正二位勲一等伯爵という高位高官にのぼった。福沢が指摘したのはこの事実であった。

だが、この高位高官として権力中枢にいたことが、明治時代初期に発生した各地での騒乱、特に西南戦争に大きく影響していると、江藤淳が「海舟余波」(文芸春秋)で指摘しているので紹介したい。

「明治七年(1874)の佐賀の乱以後、熊本神風連の乱、萩の乱、秋月の乱、西南戦争と、士族の叛乱があいついだが、これらはすべて官軍側の内部抗争にすぎなかった。明治前半の最大の反政府運動である自由民権運動ですら、本質的には薩長に対する土肥の挑戦にほかならなかったともいえる。
この間にあって、最大の潜在的野党である旧幕臣グループは、戊辰以来三十年間、慶喜とともに異常なまでの沈黙を守りつづけた。そこに海舟の『苦学』が作用していたのである。

最初の、そしておそらくは最大の危機は、明治十年(1877)の西南戦争のときにやって来た。海舟と西郷はもとより相重んじた仲であり、江戸開城のために反対の陣営に属しながら協力しあった間柄である。もし海舟が旧幕臣を煽動し、海軍にも働きかけて西郷と呼応したならば、どのような事態が生じていたかは容易に想像し得るところであろう。しかし海舟は起たなかった。起たないどころか連日連夜奔走して、旧幕臣が叛軍に投ずるのを未然に防いでまわった」

その状況を巖本善治の「海舟余波」(女学雑誌社)では、

「明治十年の時などは、毎晩々々出て、十二時頃に帰ったほどだ。古道具屋をひやかしたり、古着屋で買ったり、アチラにやり、コチラにやりして、平和を維持した。どうして、警視などで、ゆくものかイ」
と書かれているが、それを江藤淳が次のように解説している。

「この『アチラにやり、コチラにやりして』には、彼が政治資金を巧妙に操作して、旧幕臣の生活を支えたことが暗示されている。海舟の政治資金は、おそらく岩崎がその最たるものであり、この岩崎との結びつきの背景には彼と坂本竜馬との関係が潜んでいるものと思われる。その結果、旧幕臣からは、叛軍に投じた者はもちろん、警視庁抜刀隊に参加する者すら出なかった。整然と統制され、力を抑制して、官と薩のあいだの中立勢力たる旧幕臣グループの隠然たる力を示すこと。これこそ明治十年の
危機にあたって海舟が試みたことであり、かつよくなしたことであった」

この江藤説は、なるほどと思う。旧幕臣である元旗本達にとっては、戊辰戦争は不本意な結果で、自分たちの保持する戦力を十二分に発揮できずに終わったことを悔しいと思っているはず。だから、いつか官軍に対して何かの機会に遺恨を晴らしたいという輩一派がいると考えるのが当然で、それが一連の騒乱が続いている時に、どちらかの側に属し、意趣返しの謀反を起こし得ることは十分に想像できる。

前号で紹介したが、福沢諭吉が「痩我慢の説」を海舟と榎本に送った際に添えた「福沢諭吉の手簡」に「なおもってかの草稿は極秘にいたしおき、今日に至るまで二、三親友のほかへは誰にも見せ申さず候」とある。

「二、三親友」・・・それは福沢の見解に同調する旧幕臣がいたことを明かしている。

それは木村芥舟(嘉毅)と栗本鋤雲である。木村芥舟は咸臨丸で渡米した際の提督であり、栗本鋤雲は徳川昭武の補佐役としてフランスに渡り、後に外交面で活躍したが、この二人とも明治政府からその能力を評価され、出仕の誘いがあったが、幕臣として幕府に忠義を誓い謝絶している。

この栗本が「痩我慢の説」を一読し快哉を叫び、全編にわたって線を引いたり、感想を書き込んだりしていたが、とうとう黙っておれなくなり、ついに知人に見せてしまい、内容が外部に漏れたので、福沢もそれなら仕方ないと、十年後の明治34年(1901)一月一日から時事新報に掲載を始めたのである。

いずれにしても、木村芥舟と栗本鋤雲と同様、幕末時の対応に不満意識を持っていた旧幕臣は少なからずいたわけで、何かのキッカケによって爆発へのエネルギーに変化する恐れは高かった。それが、明治初年に発生した各地での騒乱に乗じて爆発したならば、鉄舟の命がけの行動によって実現した海舟・西郷会談によって切り拓かれた明治維新という成果は、国家の大騒乱に変わり、徳川家と明治天皇との関係がおかしくなり、旧幕臣たちの立場は悪化したであろう。

それを恐れた海舟は、全力を尽くして、旧幕臣グループを整然と統制され中立勢力に収めるために動いたのである。後に海舟はこう語っている。(「海舟語録」明治三十一年十月七日で)

「江戸を明け渡したからそれで治るなどといふことがあるものか。畢竟(ひっきょう)、己が苦学の結果で、三十年間かうなって居るではないか」

と語っている。

この「苦学」とは何か・・・。それは、明治新政府をつつがなく運営していくにあたって、謀反を起こす可能性のある旧幕臣グループを問題化させないよう「なだめ」「まとめていく」ために、あらゆる行動を採ったことを「苦学」と言ったのではないかと考える。

では、この苦学を展開し「まとめていく」行くために必要条件とは何か。まず、一番に必要なのは資金であろう。その金は岩崎弥太郎から手当てを受けることができた。次に、その政治資金を使うべき自分の立場が問題となる。

明治政府内に何も権限を持たない状態では、多分、その資金を支出したとしても、有効には機能しないであろう。つまり、在野にいたのではダメで、時の権力の中枢に近ければ近いほど、使ったカネが生きてくる。これは、企業内の政治力学を考えてもわかる。平社員よりは上級幹部の行動の方が影響大きいことは当然だ。

だから、旧幕臣グループを統制するには、政権中枢と強いパイプを持っていることが必要となる・・・このように考えた海舟は、福沢に代表される批判は承知の上で、高位高官の地位を築いたのであろう。そのことを江藤淳が次のように語っている。

「朝に仕えるなら、それはかならず高位高官に任じられるのでなければならない。つまり子爵より伯爵がよく、下僚に甘んじるよりは薩長の顕官と『竝立』って枢密顧問官に列せられるほうがよい。なぜなら位階が高ければ高いほど彼の旧幕臣グループへの統制力は強まり、それだけこのグループの力は隠然と充実するからである」と。

さらに言えば、明治天皇の侍従としての鉄舟が、旧幕臣を「まとめていく」海舟に協力した事は容易に想像がつく。天皇の身近に仕えているということは、何にも勝る重しである。

さて、最初に戻って、②ついて検討してみたい。

海舟は福沢の批判について次のよう氷川清話にある。

「福沢がこの頃、痩我慢の説といふのを書いて、おれや榎本など、維新の時の進退に就いて攻撃したのを送って来たよ。ソコで『批評は人の自由、行蔵は我に存す』云々の返書を出して、公表されても差し支えない事を言ってやったまでサ。
福沢は学者だからネ。おれなどの通る道と道が違うよ。つまり『徳川幕府あるを知って日本あるを知らざる徒(ともがら)*は、まさにその如くなるべし、唯(ただ)百年の日本を憂ふるの士は、まさにこの如くならざるべからず』サ」

これは海舟の自負であり、偽らざる気持であって「批評家に局に当たらねばならない者の『行蔵』、つまり、混乱の幕末から江戸無血開城、そこから連続する政治に対応してきた『出処進退』の実践と苦しさがわかってたまるか」と率直に述べたものだろう。

また、この感覚は、政治という実践舞台で、諸問題に具体的対応を担当している者にしか分からないものであろう。マスコミや一般人は政治家が動いた結果としての事象から批評する。結果として問題点のみが指摘される傾向になる。これは現在の菅政権にも当てはまることであって、菅政治の総決算は後代が定めていくと考える。

話は海舟に戻るが、海舟の国家感はペリー来航の嘉永六年(1853)から経る歴史の中で形成されてきた。長崎での海軍伝習所や幕府内の要職経験を通じ自らの能力を磨き、かため、咸臨丸渡米で国際感覚を身につけ、それを人に伝える中から、幕府体制に対する考え方が定まってきて、それを反幕府勢力の中心人物である西郷にまで伝えた結果が、徳川幕府の崩壊につながっているのである。

つまり、福沢が「敵に向かいてかつて抵抗を試みず」と批判した行動の源には、この一連の歴史から醸成されてきたといえる。

こんな事例がある。明治維新を遡る四年前の元治元年(1864)の大坂、西郷は当時大問題であった兵庫開港延期について、幕府軍艦奉行であった海舟に意見を求めたところ「この問題は、加州(注 加賀)、備州、薩摩、肥後その他の大名を集め、その意見を採って陛下に奏聞し、更に国論を決する」という答えに西郷は唸り、その意味する重大さに驚愕したことかがあった。

なぜなら、この発言は、日本政治の最重要問題処理を、有力諸侯に主体となって当たらせるとい発言であり、これは有力諸侯を国政運営の中心に位置させるという構想につながっており、言外に「幕府には政権担当能力がない」ということを明かしているのだ。

これは当時、とうてい幕臣から発する言葉でない。だが、これを聞いた西郷にとっては、眼を輝かせる見識であり、これを突き詰めていくと、一種の「共和政治」となり、幕府内では反発が強いものだからこそ、薩摩側からみれば一層「その通りだ」ということになる。

この会談を境に薩摩は幕府を見限る方向に動き出したのであって、元治元年時点で、海舟が一度幕府を見放し、それを西郷という類稀なる戦略家に伝えたからこそ、明治維新につながったと考えられるのである。

作家の海音寺潮五郎は、大坂会談時の海舟発言を分析し「勝という人は、終始一貫、日本対外国ということだけを考えて、勤王・佐幕の抗争などは冷眼視、といって悪ければ、第二、第三に考えていた人である」(西郷隆盛 学研文庫)と解説しているが、その通りであろう。

そのような海舟であるから、福沢から批判されても揺るがないのである。所詮、海舟と福沢は生きる世界が異なり、立場の相違は大きく、すり合わせは出来ない生き方哲学の持ち主同士だった。

次は、榎本武揚に対する福沢諭吉の批判である。

実は、福沢の「痩我慢の説」は榎本への批判から始まったものである。その発端経緯を「福沢諭吉 国を支えて国を頼らず」(北 康利著・講談社)から紹介する。

「十九世紀に別れを告げ新たな二十世紀を迎える明治三十三年(1900)の大晦日、後々まで語り継がれる一大イベントが慶応義塾で開催された。『世紀送別会』がそれである。
教職員、学生総勢五百余名が午後八時に参集。諭吉は「独立自尊迎新世紀」と大書した書を一同に披露し、万雷の拍手を浴びた。

そして、大きな話題となった世紀送迎会の翌日から『時事新報』に掲載された『痩我慢の説』は、世間をさらに驚かせる。それは、新政府の重鎮である榎本武揚や勝海舟に対する痛烈な批判だったからである。

きっかけは十年前にさかのぼる。

静岡へ出かけた折、清見寺(せいけんじ)*(静岡市清水区興津)に立ち寄り、境内の『咸臨丸殉難諸氏記念碑』を見る機会があった。

咸臨丸は太平洋横断の後、非武装の運搬船として使われていたが、清水港停泊中に新政府軍の攻撃を受け、多数の死傷者を出した。

新政府軍の目を気にして、誰も海上の死骸を引き上げようとしない。腐乱するままに放置されているのを見かね、侠気を出して埋葬したのが有名な清水次郎長である。清見寺の碑は、この凄惨な事件の十七回忌を記念して建てられたものであった。

この悲劇は諭吉もよく知るところだけに、感慨深げに碑文へと目をやった。撰文はあの榎本武揚である。ところが、そこに〈食人之食者死人之事〉という一節を目にした瞬間、色白の彼の顔が見る間に朱に染まっていった。

この文章は〈人の食(禄)を食(は)む者は人の事に死す〉と読み、この場合、幕府から家禄をもらっていた者は幕府のためなら死をも辞さない、という意味になる。

幕府の重臣でありながら新政府に仕え、高官に上った榎本がよくもしゃあしゃあと書けたものだ、という怒りと同時に、何人もの懐かしい顔が浮かんでは消えた。

かつて謹慎を命じられていた諭吉を助けてくれた中島三郎助などは、五稜郭落城の二日前、長男、次男ともども壮烈な戦死を遂げていた。木村嘉毅もまた、最後の幕府海軍所頭取として敏腕を振るったが、維新後は幕府に殉じて新政府からの仕官の話をすべて断り、隠居して芥舟と号し、試作などで静かな余生を送っている。

一方の榎本はと言うと、向島に数寄を凝らした別荘を構え、贅沢三昧の生活を送っていることを知らぬ者はいない。

(木村さんのような人間にしか、あの文章を書く資格はない!)

東京に戻っても怒りは収まらない。この文章を書いたのが、自分の助命した榎本だということが余計に腹立たしかった」

この清見寺で見た碑文の経緯については、福沢が「痩我慢の説」の中で自ら書き述べている。

しかし、ここで最後の「自分の助命した榎本だ」というところ、これは榎本が五稜郭落城降伏後捕らえられていたものを、福沢が時の官軍参謀長であった黒田清隆に直に面会し、赦免するよう説得熱弁をふるったことが功を奏し、牢から出されたものであるが、その背景には福沢の妻お錦が絡んでいることに触れなければならず、清見寺の碑については鉄舟を抜きには語ることができない。次号に続く。

投稿者 Master : 13:46 | コメント (0)