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2012年10月30日

2012年11月例会のご案内

山岡鉄舟研究会2012年11月例会のご案内をいたします。

11月例会は都合で第二水曜日の11月14日(水)に開催となりますので、よろしくお願いいたします。

開催日 2012年11月14日(水)・・・第二水曜日です
場所  東京文化会館第一中会議室
時間  18:30から20:00
会費  1500円
発表者 木下雄次郎氏と山本紀久雄

①木下雄次郎氏
木下雄次郎氏から、以下のように掛け軸ご発表コメントをいただいております。

「11月は、東郷平八郎の、明治38年ころのバルチック艦隊撃破の後のものだと思われる掛け軸と、同掛け軸入手の際、明治天皇御製のコピーが同包されており、この歌が天皇を支えた全閣僚・長老をひれ伏させる程の高き格調、位取りされた魅力あるものであり、ここから様々なことが見えてきますので、併せて皆様にご紹介いたします」

木下氏の掛け軸への姿勢、それはこの書は「我々に何を伝えようとしているのか」という問いから発
し、その背景を推考し、当時の歴史事実を追及する「掛軸とのコミュニケーションストーリー」に基づき展開されますので、皆様ご期待いただきたいと思います。

②山本紀久雄

11月は「明治天皇すり替え説」「明治天皇の引きこもり・ウツ状態とそこからどのように回復されたのか」についてふれ、鉄舟が明治天皇の心の深化に如何に影響を与えたのかについて、引き続いて解説いたします。

12月は第三水曜日の19日(水)18:30分から、東京文化会館第一中会議室にて開催いたしますので、よろしくお願いいたします。

                                                       以上

投稿者 Master : 10:17 | コメント (0)

2012年10月開催結果

10月27日(土)に「鉄舟・泥舟・静山所縁のお江戸史跡巡り」を開催し、東京メトロ丸ノ内線の茗荷谷駅13:30に30名の方、石川、新潟、静岡からもご参加いただきました。

早速に播磨坂・小石川鷹匠町の鉄舟・泥舟旧居跡に向かいます。


 
矢澤昌敏氏が事前に作成された緻密な解説資料と、山岡家・高橋家の系図、それと江戸時代の古地図に基づき、的確な説明が現場でなされ、ご参加の皆さんから「素晴らしい、参考になる」という称賛の言葉です。
さらに、天候にも恵まれ、歩いた文京区の史跡は、都心でありながら、静かで緑豊かな環境が続き、さすがに「文の京」なのかと納得しました。

(傳通院での記念撮影と、歩いたお江戸史跡巡りコース)


【播磨坂】 桜並木 ⇒ 【小石川鷹匠町】 高橋泥舟・山岡鉄舟旧居跡 ⇒ 極楽水 ⇒ 宗慶寺 【吹上坂】⇒ 【小石川金杉水道町】 小野鉄太郎旧居跡 ⇒ 手塚良仙旧居跡 【三百坂】 ⇒ 浪士隊結成の地「処静院の跡」 ⇒ 傳通院(処静院跡の石柱、清河八郎の墓:貞女阿蓮の墓、祥道琳瑞和上の墓など) ⇒【善光寺坂】 幸田  露伴宅跡・沢蔵司稲荷 ⇒ 【白山通り~蓮華寺坂】 ⇒ 【小石川指ヶ谷町】蓮華寺(山岡鉄舟建立山岡家累代の墓:静山)
以上のコースにおまけとして、傳通院では「千姫の墓」、眠狂四郎・円月殺法の「柴田錬三郎の墓」、丸山福山町の「樋口一葉終焉の地」もご案内いただき、皆さん大満足の歴史散策のひと時でした。
 
     傳通院・千姫の墓               
傳通院・柴田錬三郎の墓
なお、ご希望の方での懇親会も和気あいあい、史跡巡りの話題で楽しく過ごしました。
今回の史跡巡りを企画され、周到な事前準備をしていただきました矢澤氏に深謝申し上げ、併せて、ご参加の皆様のご協力に感謝いたします。

投稿者 Master : 10:04 | コメント (1)

鉄舟県知事就任・・・其の四

山岡鉄舟研究 鉄舟県知事就任・・・其の四
          山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

前号の終りに「鉄舟は戦略を明確にして行動する」人物とお伝えした。

この戦略を目的・目標という言葉に言い換えれば、誰でも当然に持っているものだろうと思って、今までいろいろなところで、実際に何人かに尋ねてみると「漠然と生きているので・・・」という回答を多々受け、驚いている。

これは日本人の大問題であると感じていたが、2011年8月31日の民主党両院議員総会で、野田佳彦新首相が語った「皆さんはミッドフィルターになってほしい。私を含めてセンターフォアードになりたい人はたくさんいるが、この党に今一番必要な役割は、一人ひとりのかけがえない能力が存分に発揮できる組織だ」「全体を見渡して、戦略的にパスを回せるミッドフィルターの集団が必要です」という発言を聞くと、政治家はFW気質の人が多い、つまり、首相や大臣になりたいという戦略・目的・目標を持った人物の集まりだという事になるので、少し政治家に違った感覚を持ったところだ。

このように政治家や意欲ある一般人が、積極的に生きようと戦略意識を持つことは大事で重要なことだが、これらと同じレベルで鉄舟の戦略を考えるととんでもない間違いになる。鉄舟の戦略思考は一般に認識されているものと根本的に異なっている。これを、まず補足解説したい。

それは、鉄舟と今の人達とでは、戦略構築する以前に、人間哲学思想へのアプローチに格段の開きがあるという事である。人間としての鍛え方が違い過ぎ、器に差があり過ぎるといってもよいが、比較する基準において雲泥の差がある。

どのような隔たりがあるのか、それを妥当・適切に解説するのは難しいが、あえてこの難しさの中味を解説するとしたら、本連載タイトルの「命も要らず、名も要らず、金も要らぬ」に戻らねばならない。

西郷隆盛の「南州翁遺訓」に

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹(しまつ)に困るもの也。此の仕抹に困る人ならでは艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。去れどもかような人は、凡俗の眼には見得られぬぞと申さる・・・」(荘内南州会)

これは具体的には鉄舟のことを述べたのである。慶応四年(1868)三月駿府における江戸無血開城会談時に、西郷が鉄舟と初めて接し、鉄舟という人間力に驚嘆し、それを書き述べたものである。

その西郷の驚きをひとつ一つ解説してみたいが、まずは「命もいらず」である。

鉄舟は当然に命を捨てる覚悟で、官軍が充満している道中を駿府まで赴いた。だが、この不惜(ふしゃく)身命(しんみょう)(身命を惜しまない)は鎌倉時代からの武士道であり、特に幕末時の混乱期では、多くの武士が命をかけて行動していたし、西郷の回りにいる志士の多くも同様であったので、西郷はあまり驚かなかっただろう。鉄舟の必死覚悟は当時では特異なものでないという意味である。

しかし、武士が「名もいらず」という事は、武士にとって普通レベルではない。何故なら、武士とは名を惜しむのが当たり前の行為なのである。「人は一代、名は末代」「名こそ惜しけれ」というように、武士は名・名誉に執着するのが当然の常識であって、鉄舟の「名もいらず」は武士にとって「考えられない」奇矯な指針である。

さらに、「官位も金もいらぬ」という事も、武士にとって生半可な境地でない。本来武士は、戦うための士であるから、戦場で命をかけて戦うのは、例え、戦地で自分が死んでも、その死に方によっては論功行賞に影響し、所領確保又は増地という期待に結びつき、子孫が引きたてられ、家門繁栄の成否に跳ね返る。それゆえ「官位も金もいる」のが武士であるから、鉄舟は別格なのである。

このように武士が「名を求め」「官位と金を求める」事は常識であった。同じように政治家も首相・大臣になる事を目指しているのは常識的であり、「漠然と生きている」多くの一般日本人と比較すれば立派といえるだろう。

ところが、鉄舟は違った。県知事という名誉と、官位に就く事で収入増になる事に全く興味と関心を持たないのである。というより最初からそのような意識がないのである。

鉄舟が目指したものは、今までの武士道として成り立たせてきた支柱たるべき指針・考え方・良識を否定し、常識化されていた道徳概念指針を取り払い、解放し、もっと広々とした、天下の公道にまでシフトさせ、普遍性ある理念道徳に格上げしたいというものであった。

言いかえれば、古来より伝わってきた武士という狭い仲間集団の道徳意識を、国民道徳というべき「日本人として生きる道」へ敷衍させたいというのが、鉄舟が目指す「生涯戦略」であったと考えている。

実は、ここが西郷隆盛の「敬天愛人」思想と通じ合うところであり、その思想的共感が駿府会談成功の背景にあり、西郷が明治天皇の教育掛・侍従として鉄舟を推戴した本旨であった。

また、鉄舟が侍従として皇室という国体枢機の核心に居つつ、明治十三年の大悟境地に達することで、明治二十年(1887)の「鉄舟武士道講話」につながっていくのである。

この「鉄舟武士道」は、明治33年(1900年)新渡戸稲造が著した「武士道」(日本版)、これは前年に米国において英語で出版したものだが、これとも全く異なるもので、「人間完成」という視点からは「鉄舟武士道」の方が日用に資するのではないかと思っているが、これについては鉄舟という人物をさらに追及してからお伝えすることにしたい。

さて、県知事就任を固辞する鉄舟に、大久保利通が茨城県知事(参事)を引受けさせようとした背景には一つの前提と二つの背景があった。

まず、最初は前提である。周知の通り、大久保の盟友は西郷である。同じく薩摩藩の下級武士階級出身であり、幼少よりの同志であり、幕末維新の新時代を共に切り開いてきた仲であって、当然のことながら駿府の西郷・鉄舟会談による江戸無血開城への偉業は、西郷と鉄舟の個人的な人間力によって成された事も知り抜いている。

つまり、大久保は西郷を通じ鉄舟の人間力について通じていたわけで、これが政治的内紛による「難治県」をまとめる人材として鉄舟が最適だと判断した前提であった。

背景には二つあった。

その一つは「難治県」実験シミュレーションであった静岡県の動きをつぶさに検討した結果、鉄舟を再認識した事である。

もう一つは因縁であり、大久保は次のように説得した。

「茨城県を特に貴殿にお願いしたいというのは、ご承知の通り水戸は旧幕時代以来の内紛を未だに解消できず、どうもうまく運営されていない。そこで、慶喜公とも徳川宗家とも特に縁故の深い貴殿にご出馬願いたいという事にしたわけです」

ここまで当時、飛ぶ鳥落とす勢威を持つ大久保から懇切に諭されては断る事はできない。

「では、承知いたしました。水戸に参ります」
「お引き受けいただけますか。助かります」
「但し、条件がございます」
「何でしょう」
「現在の内紛をとりまとめれば、辞めさせていただきませんか」
「どうも、それは何とも・・・。分かりました。そういう事にいたしましょう」
「では、お引き受けいたします」

鉄舟が水戸に入ったのは、茨城県が設立された日であった。明治四年(1871)七月十四日の廃藩置県によって成立した「水戸県」「笠間県」「宍戸県」「下館県」「下妻県」「松岡県」の六県が、同年十一月十三日に合併して「茨城県」となり、各県の旧石高から考え茨城県の中心は旧水戸藩領であって、県庁は水戸におかれた。

現在の茨城県体制になったのは、新治県の大部分と常陸六郡を合併した明治八年(1875)五月である。

鉄舟が水戸の県庁に着任した後の行動、その具体的な資料を水戸市の図書館・博物館等で調べてみたが見つからない。記録としてはないのかも知れないが、鉄舟関係の書籍では水戸での活躍ぶりが書かれているので、何か別に確証がある資料があるのかもしれない。その中から「山岡鉄舟 幕末・維新の仕事人」(佐藤寛著)によって紹介する。

「新茨城県が成立する前日に辞令を受け取ると、着任日を県庁に連絡することなく、鉄太郎(鉄舟)はすぐに出発した。参事決定の人事は県庁に当然知らされていただろうが、新参事が突然にふらりとやってくることは想定していない。鉄太郎は、秘書官を連れることもなく、朝の出勤時に地味な身なりで新参事と称して一人で登場した。このときの職員たちの驚きを想像するだけで痛快である。

ところが、典事、権典事など、現在でいえば局長クラスの幹部職員はそんなに早く出勤はしない。

『幹部たちは出勤していないが、どうしたのか』

鉄太郎の大きな目玉でギラリとにらまれた職員たちは、幹部の自宅に走ったに違いない。昼近くに出庁してきた増山典事をはじめ幹部たちを一喝して、その日は終了した。そして翌朝から、幹部一人一人を部屋に呼んで行政担当部門の現況報告を求め、びしびしと質問をする。しかし、けっして矢継ぎ早に表面的な数字などを追及するタイプではない。

過酷な状況下での静岡藩で得た実務経験から、ポイントをはずすことのない本質に迫る質問であっただろう。そしてすぐにその場で指示を与えていく。鉄太郎には新生日本国の新茨城県のあるベき姿が見えている。慶喜の出生の地であり、尊皇の発祥の地でもあるにもかかわらず、薩長土肥に比べて新政府内での位置が低いことにふがいなさも感じている。

しかし、面白くないのは幹部職員たちである。“よそもの”のスピーディな事務進行によって、自分たちの畑を荒らされるような思いである。

増山一派は、初日の一件も含め、仕返しのタイミングを探った。そして、近く催される歓迎会の宴席で大酒を飲ませ、新参事に失態を演じさせようと考えた。鉄太郎より自分たちの方が酒は強いと自負していたのである。

一方の鉄太郎は、内紛の原因究明とその対策のために調査を開始した。そこで、水戸の事情に詳しい石坂周造から知らされた一人の男に到達する。水戸藩内の抗争で退いていた山口正定のことである。彼の評判が良いことを確認すると、自分一人で会いに行った。人物を確かめ、施政についての考え方も聞いた。そうして彼に惚れこんだ鉄太郎は、この男の県政復帰のタイミングを図っていた。

歓迎会が水戸市内の料亭で開かれた。待っていましたとばかりに増山陣営は交代で鉄太郎に大酒攻勢をかける。とうとう一升の大盃を持ち出し、酒豪を誇る増山典事と一対一のバトルになった。三杯目を鉄太郎が飲み干し、その返杯に口をつけたとき相手は気を失って倒れた。

翌日、増山典事が出勤してきたのは昼過ぎだった。鉄太郎はこのタイミングを待っていた。遅刻を大喝し、その場で典事の職を解任、そして権参事に山口正定を据える発令を行ったのである。職員たちはこれらの人事断行に度肝を抜かれた。

水戸藩低迷の原因は内紛である。普通ならばその内紛のバランスに乗って、あるいは内紛にメスを入れると称して、自派の権勢を拡大することを考える。そこで名声を高めてさらに中央行政の階段を上がろうとする。そんな姿勢が見え隠れすると人々が心服することはない。

野心のない鉄太郎の出した答えは単純明快、内紛のガンを大きくしているトップを排除したのである。
鉄太郎の断固とした方針のもと、旧怨を捨てた山口権参事の仕事ぶりに職員の間にも共感が広まってきた。こうなれば、県庁の風土はがらりと変化する。これを見届けると、鉄太郎は参事辞任の確認を行うために東京に出張した」

これが佐藤寛氏による展開内容である。その他の鉄舟関係書籍もほぼ同様のストーリーである。

ところで、鉄舟が後を託した山口正定という人物、天保十四年(1843)生で、藩内が党派の抗争にあけくれている間、山口は終始不偏不党であり、廃藩後は閑居していたが、鉄舟に認められ権参事に任じられたのが二十八歳。後に宮内庁の侍従となり侍従長を経て狩猟局長官に昇進、明治二十九年(1896)に男爵となっている。

水戸藩出身者としては、皇后大夫香川敬三とともに宮内庁の高官として明治三十五年(1902)死去するまで、三十年間宮中にあった経歴が示すように有能であったと思われるので、鉄舟の判断は間違ってはいなかったと思っている。

いずれにしても、名にもお金にも官位にも拘泥しない鉄舟であるから、当初に定めた「内紛に一応の目途がたてば辞める」という戦略目標を達成し、水戸県知事在籍二十日あまりで辞任を申し出ようと東京に戻った。

ところが、この時、大久保利通は政府が派遣した岩倉具視団長の遣欧使節団に参加していたので不在である。そこで大久保大蔵卿の留守を預かる井上馨大輔(たゆう)、この職位は大蔵省の副大臣にあたるが、その井上馨に辞任を申し入れた。

「井上さん、茨城県での約束任務は終えましたので、参事を辞任したいと思います」
「山岡さん、そんなことを大久保卿が留守の間にいわれても困ります」
「いや、大久保さんとは内紛に目途がつけば辞めると約束し、了解いただいております」
「しかし、せめて後任を決めるまでは・・・」
「後任なら大丈夫です。権参事の山口正定がいますから。彼は公正な立派な人物です」
「うーん。これは困った」

と井上が唸っていたが、何事か思いついたらしく、急に態度を変えて

「よろしい、山岡さんの辞任を受け入れましょう」
「ありがとうございます」
「しかし、いずれそのうち、また何かお願いする事があるかもしれません。その際は、是非、ご協力願いたい」
「分かりました」

と鉄舟は差し迫った事とは考えずに井上の許から退出した。

それから十日程経った十二月中旬のある日、井上から呼び出し状が届いた。

「やぁ、山岡さん、過日は失礼した。ところで水戸の疲れはとれましたかな」
「お陰で、元気しております」
「実は、茨城県をおやめになる際に、いずれお願いしたいという事で来ていただいたわけです」
「何でしょう」
「それは、九州の伊万里県の権令(県知事)をお願いしたいのです」
「いゃ、それは・・・」
「山岡さん、約束ですぞ。手助けすると」
「どうしたのですか、伊万里県は」
「新任参事が追い出され、県内が不穏なのです」

鉄舟は年末の十二月二十七日に伊万里に単身赴任した。

ところで、野田新首相の「どじょうがさ、金魚のまねすることねんだよなあ」が評判を呼んでいる。相田みつおの引用である。

これに加えて、野田首相の発言「思惑でなく、思いを」「下心でなく、真心で」「論破でなく、説得を」等に、我が意を得て、バンザイの気持ちで大変感動したという手紙が筆者に届いている。

首相が毎年変わる機能しない政治、政治家達の内輪もめと、角突き合わせ、エコノミストの表紙に「日本化」と揶揄される現状、全ては日本国内の政治的内紛から発している事で、それを憂える国民から筆者のところまで悲憤慷慨として伝わってくるのである。

今こそ鉄舟に匹敵するレベルの人物が必要だと思うが、それは所詮無理であるから、出だし評判高き野田新首相に頑張ってもらうしかないだろうと思っているが、同じ尊皇攘夷思想を持ちながら、水戸藩は幕末低迷し人材払底、長州藩は新時代を切り開く人材を多数輩出。その差は何か。多分、時代を見抜く眼、時流の捉え方に要因したはず。

鉄舟が伊万里へ赴任する前に、そこを一度整理しておくことが、今の政治家及び一般人に対して参考になると思われるので、それを次号で述べ、伊万里県へと展開したい。

投稿者 Master : 09:37 | コメント (0)