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2011年06月28日

高山市の山岡鉄舟翁顕彰会命日法要及び講演会

岐阜県高山市に昨年発足いたしました「山岡鉄舟翁顕彰会」の本年度の事業として、鉄舟両親菩提寺である宗猷寺において、今年も7月19日に執り行います。

「山岡鉄舟翁顕彰会・命日法要及び講演」内容と、ご参加要領は以下でございますので、よろしくお願いいたします。

1.山岡鉄舟 命日法要及び講演
  日 時 7月19日(火) 午前10時 ~ 午前11時   命日法要
                 午前11時 ~ 午前12時   山岡鉄舟研究会(東京)
                                   会長 山 本 紀久雄氏 講 演

2.ご参加について
  参加費は、1,500円(参加費は、当日宗猷寺へご持参下さい。)
  
  申込先
  ①〒506-0025 高山市天満町5-1(高山商工会議所内)飛騨・高山観光コンベンション協会気付
    「山岡鉄舟翁顕彰会 事務取扱 駒 屋」℡ 0577-36-1011・FAX 0577-36-1014

  ② 山岡鉄舟研究会(東京) 高山世話人  水 口 武 彦 ℡090-5616-4773

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2011年06月27日

2011年7月例会のご案内

7月開催内容と、8月9月の休会及び「山岡鉄舟伊万里県権令就任140年記念特別展」のご案内を申し上げます。

2011年7月例会内容
開催日 2011年7月20(水)
場所  東京文化会館第一中会議室
時間  18:30から20:30・・・通常より30分延長
参加費 1500円
発表者は佃為成氏、原島早智子氏と山本紀久雄が担当いたします。

①佃為成氏・・・「東北地方太平洋沖地震は“予知”できなかったのか?」

佃氏は 新著(サイエンス・アイ新書)で主張されている
  ●今度の地震を十数年前に予言した研究者がいた話
  ●今度の地震の前兆現象の数々
  ●これからどこで超巨大地震や直下地震が発生するか

など皆さんの最大関心事をご発表いただきます。
佃氏は地震予知という面から「人の生き方・人生の予知」についても探求されておられますので、含蓄ある内容を皆様ご期待願います。

(佃氏略歴)
熊本県出身。東京大学理学部卒。東京大学地震研究所助教授を経て、
現・日本女子大学非常勤講師。専門分野:地震学、地震予知論。
著書:『大地震の前兆と予知』『地震予知の最新科学』『東北地方太平洋沖地震は“予知”できなかったのか?』など多数。

②原島早智子氏・・・墨田区で文化財調査を担当されていた原島さんが、日本で最初の女医から助産婦として活躍した「村松志保子」研究冊子を発刊されました。

墨田区長からも感謝されている原島さんの研究内容についてご発表いただき、地域の歴史調査についていろいろ原島さんから学びたいと思います。

③山本紀久雄・・・東日本大震災時の日本人行動と武士道との関連、更に、鉄舟が茨城県知事、佐賀県知事となった背景理由と現地での行動内容に見られる鉄舟という人物の偉大さについて考察いたします。

 
3.8月と9月の休会について
8月は例年通り夏休みです。
9月は東京文化会館の節電休館により、二カ月続けて山岡鉄舟研究会は休会いたします。
10月19日に東京文化会館で、皆さんとお会いしたいと思います。

4.「山岡鉄舟伊万里県権令就任140年記念特別展」のご案内
先日、鉄舟研究で伊万里市と佐賀市に参りましたところ、添付の新聞記事が掲載されました。早速、担当の学芸員とお会いし、いろいろお話を伺いましたが、その際、皆さんに開催についての告示と資料提供の協力依頼を受けましたのでご案内いたします。
佐賀新聞2011.6.22.jpg

鉄舟が何故に茨城県と伊万里県(佐賀県)知事に就任するに至ったのか、これについて多くの方から質問を受けておりますので、7月20日の例会で解説いたますのでお楽しみにお願いいたします。

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2011年6月例会開催結果

2011年6月例会開催結果

①まず、水野靖夫氏のご発表は「戦後の漢字制限政策」でした。
   戦前からの漢字制限の経緯と、戦後GHQから漢字廃止の見解が出され、そのGHQの考え方は
   ●戦争に敗れたのは文化レベルが劣っているから。
   ●日本の伝統・文化や実情無視。欧米人の考え方の押しつけ。
   ●漢字を覚えることは、生徒に過重な負担。他の数学・自然科学・人間社会などを学ぶ時間がなく    なる。
 等から漢字は完全に廃止されるべきだとの、強硬な主張がなされたのです。

また、その結論に導くために、驚くべき事に無作為に選ばれた15歳から64歳までの1.8万人に対し「日本人の読み書き能力調査」という漢字テストが昭和23年8月に行われました。

結果は平均点が78点という高得点のため、GHQは主張を取り下げたのですが、漢字廃止に迎合した日本人もいたという事実に再び驚きました。

漢字制限の経緯を知る事は、日本国の基本であるべき言葉と漢字の重要さを確認することであり、また、漢字を捨ててもよいという日本人がいたという驚愕の歴史事実確認でもあります。
水野氏のお話を伺って、更に、鉄舟の生き方を通じて日本精神を多くの人に伝えなければという想いを強くもちました。

毎日読み書きしている漢字について、知らないことが多くあるという事実をご教示頂いた、漢字博士の水野氏に深く感謝申し上げます。

② 山本紀久雄からは、武士道を知らない日本人が多い事実と、反対に外国人は映画「ラスト・サムライ」から武士道をある程度知っている事実、それをアメリカ・サンフランシスコとブラジル・サンパウロでディスカッションしてきた結果からお伝えしました。

日本人が武士道を理解し得ない背景には、江戸時代の文字を読めないという実態に陥っている事が関連している、つまり、江戸期の優れた精神文化体系中心ともいえる武士道資料が、翻訳でしか読めないという事が影響しているのではないか、という考察を行いましたが、これについては今後とも研究して参ります。

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2011年06月07日

彰義隊・・・その五

彰義隊・・・その五
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

 鉄舟が彰義隊解散を命じるための交渉相手として向かったのは、上野輪王寺宮の公現法親王の陪僧・覚王院であった。

 ここで疑問なことは、彰義隊には隊長以下幹部がいる。頭取は当初は渋沢成一郎だったが、渋沢が屯所を置くべき場所の見解相違から離脱し、直参旗本三千五百石の本多邦之輔となり、その後本多が辞任し、小田井蔵太と池田大隅守(七千石)の二人が隊長(頭取)となり、天野八郎は副頭取である。このように彰義隊は組織化された一大勢力であるから、当然に鉄舟が交渉相手として向かう場合、これら彰義隊幹部であらねばならない。

だが、実際には覚王院との交渉にならざるを得ない結果となった、その背景を解明していきたいが、その前に官軍・新政府軍側において、権力の位置づけが変更されたこと、それは西郷の権威失墜ということであるが、これが彰義隊攻撃につながるものであるから、これをまず検討したい。

閏四月八日・九日の両日、岩倉、小松、西郷、大久保らが、京都の三条実美大納言邸で、徳川処分に対する二案の検討会議を行った。

第一案は「禄高は百万石限り、地所は駿河の国、家名相続人は田安亀之助」
第二案は「禄高と相続は一案と同じ、地所は江戸城と武蔵の国、海舟と大久保を召す」というものであった。

会議は紛糾した。十日になっても続けられたが結論が出ず、三条が関東大監察使として西郷を伴って江戸に向かうことになった。

当然に第二案は西郷が提案したものであって、西郷が官軍・新政府軍の中で重要な位置づけの状態であったならば、第二案は西郷の権威で通ったであろう。

だが、三月十二日十三日の両日、芝・高輪の薩摩屋敷において、海舟と西郷とで取り仕切り、江戸無血開城を成し遂げた当時の権威は、既に西郷にこの時なく、大勢は第一案の方向に動いて、ひとり孤立している実態を、三条大納言邸は明らかにしたのであった。

会議は西郷の面子を立て、結論は現地視察を行ってから決めることにし、佐賀藩の江藤新平を伴って江戸に向かった。江藤は新たに大総督府軍監となり、江戸民政をつかさどる江戸鎮台判事に任じられ、同行したのである。

江戸に着いた三条と江藤が見たものは、西郷が海舟の意を斟酌し、江戸市中治安取締りを彰義隊という敗者側に与えた結果として、官軍側と様々なトラブルを発生させ、混乱状態を引き起こしている実態であった。

官軍・新政府軍としては、一日でも早く江戸での権力構造を固め、会津中心に結束された奥羽列藩同盟への対処に動きたいのだが、現状では安心して東北方面に進攻できない。

そこで、三条と江藤は、彰義隊をすぐにでも討伐すべきという意志から、長州藩の大村益次郎を軍防事務局判事として、江戸につれてくる人事をうったのである。

この人事は、大総督府から軍防事務局への権力移行となり、江戸市中の治安権力を西郷から大村へ手渡したという意味になる。

大村の投入は、海舟に対する対応も一変した事を意味する。海舟は彰義隊を慶喜の江戸復帰実現のための取引材料として、最大限利用しようと賭けをうったことは前号で述べた。江戸治安維持には慶喜が必要だという主張である。

しかし、これはもともと危険極まりない賭けである。彰義隊が海舟の手で統制可能だという条件下でのみしか成功しない。ある程度の混乱は生じることは慶喜復帰に必要条件であるが、彰義隊が海舟から離れ収拾不能状態に陥ってしまっては、海舟の政治力が喪失したことになり、取引は成り立たなくなる。今やこの状態に海舟は陥っていた。そのことをこれは閏四月二十九日の『海舟日記』が示している。

「此頃彰義隊の者等、頻りに遊説し、その党倍多く、一時の浮噪(ふそう)軽挙を快とし、官兵を殺害し、東台に屯集ほとんど四千人に及ぶ。その然るべからざるを以て、頭取已(い)下に説諭すれども、あへてこれを用ひず。虚勢をはって、以て群衆を惑動す。あるひは陸奥同盟一致して、大挙を待つと唱え、あるひは法親王を奉戴して、義挙あらんと云ふ。無稽(むけい)にして着落なきを思わず。有司もまた密に同ずる者あり。はなはだしきは、君上の御内意なりと称して、加入を勧むる者あり。是を非といふ者は、虚勢を示して劫(おびやか)さむとす」
この頃の彰義隊は、海舟のいうことなぞは無視する状態に陥っていたのである。

このような中、大村は着々と武力解決への準備を始めた。五月一日に、田安中納言と彰義隊にあずけていた市中取締の任を解き、巡邏警備の権を官軍の掌中に収めたのである。この結果は当然ながら、官軍・新政府軍の態度が一変する。

五月二日の『海舟日記』は次のように記されている。
「市中取締ならびに巡邏、官兵にて仰付けらるに付、此方にて心得るに及ばざる旨、督府より御達」
考えてみれば、大総督府から「江戸鎮撫万端」を委任受けたのが、閏四月二日であったから、彰義隊は一ヶ月間のみの治安維持活動であった。またそれは、海舟が慶喜復帰の取引を行った期間であり、復帰という賭けに負けた期間でもあった。

しかし、これは海舟から見た期間である。既に見たように官軍・新政府軍は京都三条大納言邸で開かれた三日を要した閏四月十日の会議で、西郷の位置づけが変わっていたのであるから、海舟が彰義隊を慶喜復帰の切り札として実質的に使えたのは、閏四月二日から十日までの僅かな日数にすぎなかったということになる。海舟には分からなかったが、海舟の賭け、それは海舟の官軍に対する政治力が根源であるが、西郷の権力喪失と共に消えたのである。

さて、彰義隊が江戸市中取締の任を解かれたことは、上野山中に大きな衝撃となり、彰義隊士は激怒した。だが、隊士よりさらに憤激したのは、寛永寺の僧侶たちであり、それらを仕切っている覚王院であった。

五月八日の『海舟日記』に
「彰義隊戦争の企てあると聞く。官軍これを討たんといふ説紛々、隊長へきびしく説諭す」とあり、同じ日に
「彰義隊沸騰、風聞には、法王(公現法親王)を奉じて一戦せんといふ説あり。笑うべし」ともあり、五月九日には
「彰義隊東台に多人数集り、戦争の企てあり。官軍これを討たんといふ。その因て来たるところ、法王(公現法親王)三月中駿河に出駕、大総督へ辛うじて御面会、君上の御嘆願については、種々御尽力もありしにや、終に、君上単独軍門に降られなば、寛奥の御処置にも及ぶべき様、御約もありしに、我輩同月十五日、参謀(西郷)に引合、これらの御事力を奮って止めしかば、陪僧覚王院その功の成らざるを憤り、東帰後もっぱら戦争をすすめしかども、御採用なし。これより愚背を煽動して党を集め、法王を取立て政を復せんといひて小人輩を誘ふ。ついに今日の事にいたるなり」

つまり、海舟は、彰義隊の隊士共が自分の指示に従わないのは、バックに覚王院がいて、覚王院は当初から主戦論であって、その主戦論の根拠は、官軍東征の際、上野輪王寺宮の公現法親王を通じ、直接有栖川大総督に行った和平工作が失敗し、海舟・鉄舟連合に名をなさしめたという怨念・遺恨から発しているという理解であった。

さらに、覚王院の背後には、先々帝仁孝天皇の猶子、明治天皇の叔父となる皇族の公現法親王が存在しているのであるから、覚王院が強力にバックアップしている彰義隊は、独立した徳川家とは異なる新たに大きな政治勢力となったことを意味し、その勢力下に徳川家の家臣である彰義隊士達が移るという事態になる。

これは海舟にとって許されることではない。そこで鉄舟をもって、覚王院を説得し彰義隊解散させるために、上野山中の寛永寺へ向かわせたのであった。

以上の経緯が一般的に認識されている内容である。

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彰義隊・・・その四

彰義隊・・・その四
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

江戸城無血開城後、鉄舟と海舟の信頼関係は一段と深まった。
それを証明するのが、慶喜亡命計画である。いざという場合、慶喜の生命と名誉を守るため、イギリスに亡命させようとする海舟の腹積もり、それを鉄舟にだけ明かしていた。

慶応四年(一八六八年)三月二十七日の「海舟日記」、「此日、英公使パークス氏幷(ならびに)海軍惣督キップル氏を訪ふ。此程之趣意を内話す。英人、大に感ず」とあるように、英国公使と会談し、この会談の内容について「解難禄三五」(勝海舟全集1 講談社)で「密事を談じ、此艦をして一カ月滞船なさしむるを約す」と付記している。

 この「此艦」とは、当時横浜に入港中であった英国軍艦アイアン・デュークのことであり、パークスが同艦を一カ月停泊させる密約を、海舟が鉄舟に次のように語っている。

「実はいよいよとなると浜御殿の裏にバッテーラ(バッテーラとはポルトガル語で小舟を意味する)を備えて、慶喜公を乗せて英吉利の軍艦にお乗せ申すという計画がある」(海舟余波 江藤淳)

 ここでいう「いよいよとなると」というタイミングとは、何事かが突如官軍側に起こって、西郷との間で取り決めた慶喜の処置、それは水戸への退隠であり、命の保証であるが、それらが叶わぬ事態が発生した場合という意味であって、この重要な「密事」を鉄舟にだけ打ち開けていること、そこに海舟の鉄舟に対する人物評価が顕れている。鉄舟の主君慶喜への忠誠心を本物と的確に認識していたからである。

 さらに、もうひとつ指摘できるのは、当時の鉄舟がおかれた政治的立場の変化である。江戸城無血開城という偉業を成し遂げたことで、回りからの眼が違ってきた状況を「おれの師匠 小倉鉄樹」は次のように述べている。

 「此頃は師匠は勝さんと全く同格に政治向の事にも関与するやうになった。五月二十日伊豆守御渡=『勝安房守・織田和泉守・山岡鐵太郎・岩田織部正』右幹事被仰付、御政治向へ関係いたし候・・・・」(慶応四年五月二十二日江湖新聞)

 加えて「大抵の仕事は勝と相談し、又勝からも相談を受けて、勝にやらせた。勝は、師匠が幕府の大難を美事に片付けて以来、心から師匠を信頼し、大小となく師匠に相談し、師匠も亦勝の才略を知っていろいろ献策する所が尠(すくな)*くなかった。だから勝の仕事の大半は山岡の方寸から出たもので、それが勝の才気に依(よ)*って完成されたのである」

 この内容、少々鉄舟贔屓に偏っていると思われるが、いずれにしても政治的立場への重しが深まっていたことは事実である。

 彰義隊の結成は、慶喜への忠誠心から、二月十二日に慶喜が寛永寺・大慈院に謹慎したことがきっかけとなって、一橋家の家臣である渋沢成一郎、天野八郎等十七人が、雑司ケ谷の茗荷屋に会したことから始まった。(『徳川慶喜公伝』四 平凡社)

 この集りの最初は「尊王恭順有志会」と名乗ったように、尊王と恭順がイデオロギーであるから、慶喜が寛永寺に籠った目的と同じである。ところが「身命を抛(なげう)ち、君家の窘辱(きんじょく)を雪(そそ)ぎ・・・・」(『徳川慶喜公伝』四)とあるように、慶喜が謹慎という行動で目的を遂げようとするのに対し、それとは全く反対の動きであって、言葉の独り歩きのような感じであるが、その後も会合を重ね、二月二十三日に浅草本願寺に屯所を定め、この時に「彰義隊」と名乗った。

「彰義隊」とは「義」を「彰(あらわ)す」という意味で、頭取には渋沢成一郎、副頭取は天野八郎が就いた。なお、彰義隊については、慶喜の「将棋廻り」という説もある。

 「『彰義隊』の文字は以前は慶喜公の御将棋廻りで、夫(そ)から後に義を彰すと云ふ事にあった。旧(ふるく)は御将棋廻りの者であると云ひました」(『史談会速記録』幕末気分 野口武彦)

 この将棋廻りとは、武将が陣中で腰を掛ける床几(しょうぎ)の回りのことで、将軍の周囲を固める者、転じて親衛隊とでもいった意味ではないかと思われるが、後に捕らえられた天野八郎は、獄中で綴った遺書「斃休録」の末尾で、わが身を将棋の香車の駒になぞらえてこんな感慨を書き残している。

 「予、昔年(せきねん)より槍印其の外、物の印に『香車』を用ゆ。これ一歩も横へ行き、跡(後)へ引くの道なきを表するの証なり。東台(上野山)に一敗すと雖も、職業(使命)を尽くして他に譲らず。府下に潜伏して今日に至る。決して『香車』に恥ぢず。天地何をか恐れん。盤石動かすべし。我が赤心転(まろ)*ばすべからず」自分はただまっすぐ進むしか能のない将棋の駒だというのである。(『幕末気分』 野口武彦)
 
 さて、この時の官軍・新政府軍は、その権力基盤が確立できるかどうか、それが最大の課題であったが、現実には厳しい状況下にあり、大きく見て三つの不安要因を抱えていた。

 一つは、軍艦の引き渡しに応ぜず、江戸湾に居座って、睨みを利かせている榎本武揚が率いる幕府艦隊の存在。二つ目は会津中心に結束された奥羽列藩同盟の動き。三つ目が江戸の治安であった。

特に、江戸市中の治安は、江戸無血開城によって幕府の威信は失われ、町奉行所の取締りパワーも減じ、治安は乱れに乱れていた。辻斬りが横行し、夜間の通行は危険で出歩く者はなく、町々は無法状態化し、集団を組んだ盗賊が豪商を襲い、金品強奪、家人を殺傷する事件が続発していた。

 このような状況下で結成された彰義隊は、その活動の内容を「同盟哀訴申合書」書き、趣旨は「同盟決起、公(慶喜)の冤罪を条(じょう)陳(ちん)し、闕下(けつか)(天皇)に哀訴せんとする」ものを幕府側に提出した。 最初は、この「同盟哀訴申合書」を幕府側は却下したが、彰義隊に加入するものが多くなり、松平確堂の意向で隊名を公認することにし、府下の巡邏と治安維持を命じた。屯所が上野寛永寺に移されたのはこの時である。

 隊員は喜び、早速に丸提灯に朱の色で「彰」あるいは「義」の一字を筆太で書き入れ、それを持って数名ずつ上野の山から江戸市中を巡察するようになった。

その結果、犯罪は激減し、安心を得た市民たちは、感謝の念を表すために、彰義隊屯所を訪れ、金品を差し出す等が増え、彰義隊と市民の間は良好な関係となっていった。

 これを見つめていた新政府は、幕府側に治安維持の命を発したのである。そのことを海舟日記の閏四月二日に次のように記している。

「江戸鎮撫万端の儀委任候間、精勤あるべく大総督宮御沙汰候事」
 新政府は明らかに宥和策を採ってきたのであるが、そのタイミングを捉えて、またもや政治家海舟が動いた。閏四月五日、慶喜江戸復帰という大胆な策を願い出たのである。
 
ここで閏四月について説明しないと、これからの日付展開が混乱してくる。ご存じのように江戸時代は太陰太陽暦であるから十二カ月は三百五十四日で、太陽暦より一年で十一日ほど短い。このずれは十一日×三年=三十三日となるから、三年に一度、一年のどこかに一カ月を挿入して十三カ月としないと、季節とずれが生じてしまう。そこでこの挿入された月を閏月ということになる。慶応四年はその年に当たり、四月と閏四月の二つの四月が発生しているのである。

 従って、四月十一日に江戸城明け渡しが行われ、この日の暁に慶喜は上野寛永寺から水戸へと下ったのであるから、この閏四月には江戸にいなかったのである。

 さて、海舟は閏四月五日江戸城西の丸に上り、慶喜江戸復帰を求めた。理由は明快であって、次のように提言した。

 「此上府下の静謐(せいひつ)・生霊の安寧を謀らせ給はんことは、臣等が力の及ぶ所にあらず、慶喜恭順の至誠能く士民を感化せしむるものなれば、願わくは慶喜に退隠を命じて之を府内に還住せしめられなば、府下の衆庶は必ず其謹恪恭順に薫陶せられて、令せずして安靖(あんせい)ならん」加えて「此議聴かれざれば、皇国の首府を始めとして、人心の動揺は止む時なかるべし」(『徳川慶喜公伝』四)と切言したのである。

 つまり、慶喜が江戸から追放されたため、治安が悪化し、今の幕府体制では手に負えない、という一種の強迫を行ったのである。

 江戸城西の丸で対応したのは、大総督府参謀の海江田武次であり、海江田は即答をうながす海舟に対し、京都にお伺いしないと回答は出来ないと保留した。

 だが、翌閏四月六日にいたって、大総督府は金十五万両を旧幕臣に分配するよう指示がなされた。このことは、新政府側がいかに江戸の治安に困惑しているかという証明であった。

ところで彰義隊は、四月十一日に慶喜が水戸に去ると、屯所を置くべき場所の見解相違、上野は要害の地でないという持論を持つ渋沢成一郎が離隊し、武蔵飯能に向かい振武隊を組織したので、頭取は本多邦之輔になった。

この際に、彰義隊は編成を新たにし、一組を二十五人、組ごとに組頭、副長、伍長を置き、二組を連ねて頭取一名を置いた。このようにして本隊は約五百人、附属隊を合わせると総勢千五百余人に達した。(『徳川慶喜公伝』四)

 この附属隊というのは、諸藩からの脱藩者や加入者がそれぞれ勝手に参加した部隊であったが、その概要を「幕末気分」で以下のように書き述べている。

 「たとえば『純忠隊』は、何とあの竹中丹後守(重固(しげかた))が変名で隊長になっている。竹中は、鳥羽伏見での敗戦責任を問われて登城禁止の処分を受けていたが、汚名返上を図ったのであろう。もっともこの不運な人物は知行所が美濃にあって、いちはやく官軍に接収されていた。帰ろうにも帰る場所がなく、仕方なく腹を括ったという面もある。『遊撃隊』は、幕府講武所の剣士隊で、やはり鳥羽伏見の雪辱戦のつもり。『万字隊』は関宿藩脱藩者、つまり佐幕派の一隊。何と藩主の久世広文までが加わっていた。藩は勤皇派に乗っ取られたのである。『水心隊』も結城藩で同様の事情。『神木隊』は高田藩榊原家の脱藩組。多彩といえば多彩、ありていにいって寄せ集めの軍勢が天下の彰義隊の現実だったのである」

 このように上野の山に結集されてくる状況を、彰義隊メンバーより喜んだのは、輪王寺宮と一緒に駿府でコケにされた覚王院であった。
官軍によって傷つけられたプライド、その仕返しする時が来たとばかりに、この覚王院は全面的に彰義隊をバックアップし、ますます彰義隊はその存在を強めていった。

 結果として「自ら官軍と彰義隊との境界が立ちますやうな訳で、浅草門から柳原の橋々を経て、昌平橋まで内外の境界が立ちまして、皆内廊だけが官軍の往来と云ふゆうな訳でございました」(『史談会速記録』幕末気分 野口武彦)とあるように、外堀と神田川を境界線にして官軍地区と彰義隊地区が出来ていたように、江戸市中に「治外法権」が発生している状態だった。

 さらに「錦片(きんぎれ)とり」というのが流行った。新政府軍の兵士は出身が異なり、服装もそれぞれであるから、身分証明の意味で小さな錦の布切れを袖に縫い付けていた。それを彰義隊が奪うことが盛んに行われ、その延長で事件が続発した。

最初は谷中三崎町の路上、薩摩藩士と彰義隊が遭遇し、言い合いとなり、お互い抜刀し、薩摩藩士が三人惨殺され、これを多くの江戸市民が見ていたが、町役人に対し口をつぐみ、事件の糾明は行われなかった。

 次は上野三橋町で筑前藩士が彰義隊と口論となり、筑前藩士一人が殺害された。これについても誰もが口にせず、この事件も不問に終わった。同じく広小路で佐賀藩士二人が殺害された。これも不問に終わった。

 さらに大事件が発生した。白昼、鳥取藩の弾薬が彰義隊によって奪われたのである。これまでの殺害事件は、お互いの口論からの斬り合いであったが、今回は新政府に対する敵意が顕わになったもので、奥州の戦地に運ぶための弾薬数十荷が、上野の山下の坂本で強奪されたのである。

 この状況は徳川側にとって憂慮すべき事態であった。閏四月二日に「江戸鎮撫万端の儀委任」を受け、その任務を彰義隊に命じたことが裏目に出て、彰義隊の新政府に対する敵視は一層募るばかりであって、これは慶喜江戸復帰、それと家名の存続は受け入れられたが、まだ定まっていない城地と禄高決定にも影響しかねず、大きな懸念材料になってきた。

 そこで、この危機に登場するのは鉄舟である。彰義隊に上使として赴き、覚王院と対決するのである。

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 彰義隊・・・その三

彰義隊・・・その三
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

慶応四年(一八六八年)三月十四日、高輪薩摩屋敷における西郷と海舟の第二次会談で江戸城攻撃は回避された。
だが、十五日に上野輪王寺宮の公現法親王の陪僧・覚王院が駿府から戻り、一通の書状を提出したことから、海舟は肝をつぶすことになった。

その書状とは
「先ず将軍単騎にして軍門に到り降るにあらざれば、寛典の御処置に及ばず。然れども将軍これを為す能はざる時は、田安殿名代にてしかるべきか。これ大総督の御内命なり」
と書かれた有栖川宮大総督からの命令書であった。

この内容、普通に考えればおかしい。既に三月九日に行われた西郷と鉄舟会談で、和平条件が概ね決定し、十四日には江戸高輪薩摩屋敷で正式会談が執り行われている。

それなのに、この書状が提出されたことにより、和平交渉はうまくいかなかったという噂が江戸城内に広がりはじめ
「覚王院当帰後、其周旋之行届かざるを憤て、専ら一戦をすすめてやまず、漫(みだり)*に有司に会して、戦を主とす」
と海舟日記(三月十六日)にあるように、やはり江戸城は攻撃されるのか、というムードが広がり慌しくなってきた。

この気配に海舟は怒り狂った。再び同日の海舟日記を見ると
「我是を聞いて、かつ怒りかつ恨む。法親王は唯其のご寛典を懇願あられて足りなむ。何ぞ我主を辱(じょく)*するの挙を御内願あられしや。ここに二人あり。一物を買はんとするに、一は百金を出さんといひ、一は三百金を出さんといはば、その人三百金に与えて以て百金を以てする者に与えざるべし。法親王と総督の御内談、ここにいてでては、我輩の小臣切歯断腸すとも彼決して用いざるべし。今日のこと上下ともに力を用いる者なし。止(やむ)なんか、といって激論す。また参謀に書を送りて是を支(ささ)ふ」

と記されている。この最後の一行は、海舟が急いで西郷に書状を送り、第二次会談決定の再確認を求めたことを示しているが、このようなことは二元外交をした結果から生じた問題で、全く一瞬としても目が離せないと、溜息をついている海舟の顔が浮かぶ。

では、どうしてこのような二元外交交渉、誰の指示で輪王寺宮は駿府に向かったのか。それはいずれも慶喜の嘆願依頼であった。

これより以前、慶喜の同様嘆願で和宮及び天璋院から使者が、官軍に向かったが成功せず、輪王寺宮に出向くよう慶喜から再三の懇願があり、当初は固く固辞したが、重ねての願意によって、とうとう二月二十一日、慶喜の謝罪書と諸大名からの嘆願書を持ち、御輿にて上野寛永寺を出発した。

官軍が充満する東海道中、輪王寺宮の御輿と随従する覚王院や僧たちは、大変な困難・難儀を被りながら、ようやく三月七日に駿府城で有栖川宮大総督と会うことができた。

だが、謝罪書と嘆願書を一読した大総督は
「慶喜の朝廷に対する叛逆は明白であり、その大罪に対して追討の勅命が発せられたのである。それで兵を江戸に向けて進めている。今になって許しを請うても、どうにもならない」
と冷ややかな口調で述べ、しばらく駿府に留まるよう輪王寺宮に伝えた。

五日後の三月十二日、有栖川宮は駿府城で輪王寺宮に対し次のように申し述べた。
「ただ一通の謝罪書だけを提出して罪を許して欲しいというのは言語道断である」
「それでは、どのようなしたらよろしいのでしょうか」
「それについては、参謀がお伝えする」
と言い残し座敷を出て行った。

残された輪王寺宮と覚王院は、これは無礼な対応ではないかと内心憤りながら、うながされるままに別室に入ると、そこに参謀の宇和島藩士林玖十郎がいて、江戸に戻った覚王院が提出した先の書状内容が伝えられたのであった。

この結果を受けて輪王寺宮は、これは京に上って天皇に直訴するしかないと覚悟し、再び、有栖川宮と会い、その旨伝えた。すると有栖川宮は声を荒げ
「天子様から東征大総督に任じられ、錦の御旗を授けられた身である。すべては私がとりしきっている。宮は江戸にもどられよ。それも直ちに・・・」
と甲高い声で言い放った。目に険しい光があり、蔑みにみちた顔と声で命じられたことに、輪王寺宮は屈辱を受け、みじめな気持で、駿府城を去ったのであるが、宿所で待っていた覚王院以下の僧たちは、この経緯を聞き、激怒した。

特に、覚王院は
「宮様が、わざわざ江戸からひとかたならぬ苦難をお忍びになられて来られたのに、同じ皇族の身としてそれなりの御回答があると信じていたが・・・・」
と怒りは凄まじかった。この時の激昂憤激が、その後、彰義隊をバックアップするエネルギーとなって燃え上がることになっていくのである。

一方、輪王寺宮の交渉結果を聞いて、覚王院とは異なる次元で海舟は怒り狂った。
その怒りの意味は「素人が出て行って何をしでかしてきたのか。折角に政治専門家の俺が進めた鉄舟路線の成果を帳消しにしようとしているのか」という想い、それが三月十六日の海舟日記に如実に表現されている。

海舟が輪王寺宮の交渉を素人とけなす意味は明らかである。それは覚王院が怒った言葉に明らかである。「宮様がわざわざ江戸から、ひとかたならぬ苦難をお忍びになられて参ったのに・・・」という発言、この言葉には徳川方が陥っている立場への覚悟が薄い。

鳥羽伏見の戦いはどちらが先に仕掛けたかどうか、それは別として、今や慶喜は敗軍の将として白旗を掲げ、謹慎している身である。ならば、負け戦での交渉事には、それなりの環境条件を整えて、ある一点に的を絞って交渉に向かうのが、玄人の仕事だと海舟は思ったに違いない。

輪王寺宮と覚王院は、慶喜の嘆願書を持参し、皇族としての身分ある立場で、駿府まで出向き、同じ皇族の一員である有栖川宮に切々と訴えれば何とかなる、そのように思っていたのであろう。

しかし、ここで欠けているのは、相手陣営の分析である。征討軍の指揮官として、実質的に権限を持っているのは誰かという絵解きである。表向きは有栖川宮が大総督であるが、実際の指揮官は西郷であるという認識に欠けていた。

その一点に関して、海舟の判断は的確で、鉄舟に西郷への添書を持参させたのであるが、仏寺奥深く身を置く輪王寺宮と覚王院では、そのあたりの判断は難しく無理もなかったが、結果として和議交渉はうまくいかなかった。

さらに、輪王寺宮一行は、官軍で満ち溢れている東海道筋を、誰の先導もなく敵陣を突破したのであるから、道中大変な困難・難儀を被ったことが、交渉時にも影響したであろう。それは覚王院の「ひとかたならぬ苦難をお忍びになられて参ったのに」発言に表れている。それは当然であろう。敗者側は戦地で被害を受けるものであり、皇族でありながら、実に屈辱的な待遇の連続であったこと、それが覚王院の激昂憤激につながっている。

対する鉄舟は、海舟の下に置かれていた、薩摩藩士益満休之助を先導役に立たせるという手際よさであった。

もうひとつ、最も重要なことは、政治的交渉には参謀が必要だということである。ただ単に真っ正直にぶつかっていくという戦術もあるであろうが、ここは歴史を決める江戸無血開城という一大舞台である。そのためには、手練手管を知り尽くしたスペシャリストからの助言が必要不可欠であろう。
その点でも、鉄舟は事前に海舟という政治専門家と接し、それなりの助言を受け、和平交渉の妥結点を見出すことに成功している。

ところで、輪王寺宮が有栖川宮と会ったのは、三月七日の駿府城であり、その後再び会見したのが十二日の駿府城である。では、鉄舟が西郷と駿府で会談したのはいつか。それは三月九日である。

ということは、同じ時期に、同じ駿府にいて、同じ目的の交渉を行っていて、その結果は大きく異なっていたということになる。

交渉の仕方が問題だった。つまり、輪王寺宮は海舟がいう素人交渉だったという指摘、一方、鉄舟はその武士道精神による胆力ある優れた判断行動力で駿府会談を成功させた、というのが世に伝わっている通説であるが、ここでそれに対する反論異説を紹介したい。

それは「覚王院義観の生涯――幕末史の闇と謎 長嶋進著 さきたま出版」である。この中に次のように述べられている。

「薩摩藩邸焼きうち事件の時、逃げ遅れて逮捕された益満休之助は、なぜか勝海舟の家に居候をしていて、山岡鉄太郎が『駿府駆け』をした時、官軍の中を突破する案内役をするのである。益満が西郷吉之助の腹心であり、江戸市中撹乱、挑発作戦の中心人物であるということを、勝海舟は知らなかったのであろうか。

覚王院は、これらの全く理解することのできない『謎』を解くべく、間諜の世話になった。その間諜とは志方鞆之進という男で、この当時は、細川家(肥後藩)の家臣となっていた。幕府側と朝廷に通じている。

岩倉具視とは、まだ百五十石ぐらいの貧乏公卿時代からの知り合いであったので、岩倉の間諜の中にも通じ合う仲間がいる。志方は、単に金にさえなれば同志をも裏切るという男でなく、正義に血を燃やす慷慨の士であった。覚王院とも以前から懇意で、真如院によく出入りしていたという。・・・中略・・・
ひそかに京都方面に出かけていた志方鞆之進が、真如院の覚王院のもとに帰ってきたのは、二十日以上過ぎた頃であった。

志方の報告の概要である。
駿府城会談のすべてを背後で演出していたのは、貴僧のご推察のどおり京都にいる岩倉具視である。すべては、『神道復活、廃仏、輪王寺宮の格下げ』が狙いである。
大政奉還がなされ、武家政治である徳川幕府は倒れた。鎌倉幕府以前の天皇制を復活させるには、当然、神道の復活が必要であった。

徳川幕府は仏教をもって、統治してきた。特に徳川家康は、天台宗東叡山寛永寺を天海僧正に建立させ、代々、輪王寺宮を法親王としてお迎えし、特殊な格式をもたせ、宗教界に君臨させてきた。岩倉具視にとって、輪王寺宮は目の上のタンコブである。そこで、慶喜の助命嘆願のため京都に上る輪王寺宮の使命を邪魔しようと、西郷吉之助と勝海舟に間諜を送った。輪王寺宮と有栖川宮大総督が駿府城会談を行う前後に、急遽打った手が、山岡鉄太郎の『駿府駆け』であった。

勝海舟が薩摩藩邸焼きうち事件で捕えられた西郷の腹心・益満休之助を自宅にかくまっていたのも、その時に備えていたのである。輪王寺宮が京都へ行くことを強く拒絶したのもこのためである。輪王寺宮が京都に行き、幼い明治天皇と謁見すれば、輪王寺宮が大きな功績をあげることがわかっていたので、これを許すことはできなかった。

東征軍の実質的大将は西郷吉之助である。有栖川宮は、この間のいきさつを知る由もなかった。
覚王院は志方からこの事実を知らされても呆然とするばかりで、誰にも語ることはなかった。後に、彰義隊の天野八郎とあとあとのことを考えて、範海大僧正にだけはもらしたことがあるという」
この内容、なかなか面白い記述であって、覚王院の立場から推察すれば考えられるものであろう。

さて、話は江戸に戻るが、覚王院がもたらした一通の書状によって、江戸城内は戦いもあり得るという雰囲気が出てきた。

しかし、海舟はこの事態を予測していたかのように、この時までに一番暴発しやすい要素を、事前に江戸から遠ざけていた。

三月一日、甲州鎮撫を願い出た新選組の近藤勇と土方歳三の願いを容れ、金五千両・大砲二問・小銃五百丁をあたえて、甲府へ向けて出発させた。これは陸軍総裁の職権をもってした公然の行為であった。

また、歩兵差図役古屋佐久左衛門と京都見廻組の今井信郎等が、徹底抗戦を唱え、信越方面の鎮撫を行いたいという請願を聞き入れ、両名を昇進させ、歩兵六百名と大砲三門をあたえて、信州中野郷代官所勤務を命じた。これも公然たる命令で行ったものであった。

このように海舟が陸軍総裁として、軍資金と兵器を与え江戸から厄介払いしたのであるが、この背景には別の意図が隠されていたという石井孝氏(維新の内乱 至誠堂)の指摘がある。

「勝の脱走公認政策は、たんに消極的な厄介払いにとどまるのではなく、かれらを放ってゲリラ戦をやらせ、政府軍との交渉を有利にみちびこうとする底意があったのではなかろうか。江戸開城後も勝は、江戸の治安が保てないことを口実に、政府軍から譲歩をかちとろうとしていることからも推測できるであろう」

この最後のところ、これは二月二十三日に正式結成された彰義隊を、官軍側との駆け引きに十二分に活用しようとした事を指摘している。次号からいよいよ彰義隊の実態に入っていく。

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2011年06月05日

2011年6月例会案内

6月の例会は次の通り開催いたします。

開催日 2011年6月15日(水)
場所  東京文化会館第一中会議室
時間  18:30から20:00
参加費 1500円

発表者 
① 水野靖夫氏・・・昨年11月に「新常用漢字」が内閣告示された経緯を含め「戦後の漢字制限政策」について考察頂きます。今の社会制度に大きく影響する漢字政策の流れを水野氏から学びたいと思います。

② 山本紀久雄・・・東日本大震災時に顕在した世界中から称賛されている日本人の行動、その原点には武士道が存在すると考えられる。では、世界の人々は日本の武士道をどのように理解しているか。アメリカ・サンフランシスコとブラジル・サンパウロで地元の方々とディスカッションしてきた結果を含め、鉄舟武士道考察を行います。
次の写真はロスアンゼルスのブティックに掲示された「日本への援助募金」ポスターです。6月3日現在でも呼びかけています。

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2011年7月例会
7月は20(水)18:30~20:00に開催いたします。
   会場は東京文化会館第一中会議室です。

発表は原島早智子氏と山本紀久雄が担当いたします。
① 原島早智子氏・・・墨田区で文化財調査を担当されていた原島さんが、日本で最初の女医から助産婦として活躍した「村松志保子」研究冊子を発刊されました。
墨田区長からも感謝されている原島さんの研究内容についてご発表いただき、地域の歴史調査についていろいろ原島さんから学びたいと思います。

② 山本紀久雄・・・鉄舟研究の発表。

8月と9月の休会について
8月は例年通り夏休みです。
9月は東京文化会館の節電休館により、二カ月続けて山岡鉄舟研究会は休会いたします。

投稿者 Master : 05:31 | コメント (0)

5月開催結果

5月18日は、まず矢澤昌敏氏から「幕末三舟の墓所と江戸の風景」について、先般、現場を視察された矢澤氏ならではの、大変興味深い考察をご発表いただきました。幕末三舟というネーミング・ブランド誕生の背景から、現在の旧跡写真と文献など、矢澤氏ならではの緻密な分析による展開で、深く感謝いたします。

山本紀久雄からは、山岡鉄舟と西郷隆盛の二人、全く異なる修行プロセスを経て、両者ともに大人物として評価される境地に達した経緯と、現代日本人作家として世界で最も人気がある村上春樹が、その著書1Q84で展開する「あの世と現世」の展開、それは村上春樹が「生死のあわい」を特殊な訓練によって体得したからであり、鉄舟、西郷と共通するものがあるという研究結果を発表したしました。

投稿者 Master : 05:28 | コメント (0)