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2008年11月29日

第五回 山岡鉄舟全国フォーラムが開催されます!

第五回 山岡鉄舟全国フォーラム
今年は明治神宮内の道場「至誠館弓道場」にて行います。
明治神宮神楽殿での参拝もあります。
明治神宮権禰宜・佐藤氏による「明治天皇」講演、そして山本紀久雄氏による鉄舟研究発表など、盛りだくさんの内容です。
是非ご参加ください!

詳しくはこちらをクリック >>>>>

投稿者 lefthand : 09:28 | コメント (0)

2008年11月14日

貧乏生活その三

貧乏生活その三
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

鉄舟の貧乏は家庭に悲劇をもたらした。妻英子が最初の子を生んだが、乳が出ないので栄養不良で亡くなってしまったのだ。鉄舟は立派で丈夫な体であるから問題がないかもしれないが、赤ちゃんは母からしか栄養が摂れない身。その母である英子が栄養不足では赤ちゃんは育たない。鉄舟夫婦の食生活は、鉄舟自ら次のように述懐しているように酷かった。

「何も食わぬ日が月に七日位あるのは、まぁいい方で、ことによると何にも食えぬ日がひと月のうちに半分位あることもあった」(小倉鉄樹著『おれの師匠』島津書房)

その赤ちゃんの出産は真冬だったが布団も十分にない。鉄舟は自分の着ていた着物を脱いで、英子に掛けてあげ、鉄舟は褌一本で英子の枕元に座り、看護しながら座禅を組んでいる。目を覚ました英子がビックリして
「それでは風をひきます。せめて羽織だけでも着てください」
というので
「そうか」
と、裸に羽織を着たが、英子が再び寝てしまうと、またそっと羽織を英子に掛けてあげる。また、英子が、ふっと目を覚まし、裸で座禅を組んでいるのを見て起き上がろうとするのを
「心配するな。裸の寒稽古をしているのだ。禅では寒中裸修行は当然だ」
と笑い飛ばす。

後年、鉄舟は弟子の小倉鉄樹に述懐している。

「こんなおれになんだって惚れて夫婦になる気になったものだろう。寝ている妻の顔を眺めては我知らず不憫の涙がこぼれたことがある」(『おれの師匠』島津書房)

 貧乏の話には事欠かない。

 鉄舟は出かけることが多く、一度外出すると二三日戻らないことが多々あった。
英子は、家財道具を売り飛ばし、畳まで売ってしまい、八畳の間に残った三枚の畳だけのがらんどうの家、その上、食べるものもなく、その後生れた赤ちゃんがひもじさに乳房にしがみつくのを、あやしだまし縁側に出た。

夫は今頃どこで何をしているのだろうか、寂しく夕闇の空を眺めていたところ、突然、塀の外から一つの包みが抛りこまれた。

 何だろうと包みを開けてみると、中には蕎麦のもりが三つ入っている。不思議なことがあるものだ。どうしたのだろうかと思い、食べてよいのだろうかと躊躇いつつ、包みを持って家の中に入り、お腹が空ききっている身、天の与えだと、押し頂いて食べてしまった。

 それも醤油がないので、水で喉を潤しながら食べてしまった。三日間何も食べていなかったので、そのうまさは何ともいえないほどだった。

 翌日、鉄舟が帰宅した。
 「昨夕、友人と家の前を通ったのだが、用事の都合で寄れなかった。きっとおまえが腹を減らして居るだろうと思って、蕎麦屋で食べ残したもりを包んで、通りがけに外から抛り込んだが食べたか」
と言われたときには、鉄舟の心のうれしさで胸がいっぱいになってしまって、英子は涙ぐむばかりだったという。これも小倉鉄樹が書き残している。(『おれの師匠』島津書房)

 また、英子は家の敷地内に野菜をつくったりしていた。さらに、近所の空き地や森に生えている草、食べられそうなものを採っては食べていた。これを見て近くに住んでいる人たちは、鉄舟の家の周りは草も生えないと揶揄するほどであった。

 当時の鉄舟の住まいは小石川鷹匠町である。現在の地下鉄丸の内線茗荷谷駅から歩いて近い小石川五丁目辺り、桜並木が綺麗な播磨坂へ春日通りから入ったすぐのところ、昭和四十一年までは竹早町といった辺りであるが、ここには下級の旗本屋敷が並んでいた。

 当時の切絵図(安政三年)を見ると、幕府からの拝領屋敷である高橋泥舟の家と山岡家は並んでいて、山岡家の敷地面積は図面上から判断すると高橋家の約1.5倍ある。高橋家の敷地は百四十坪といわれているので、この1.5倍であるから二百十坪となり、今の感覚では広い敷地である。

 比較のために町奉行所配下の町方与力の屋敷を見てみると、北町与力の谷村猪十郎の天保八年当時の屋敷図面が残っていて(天保撰要類集128)、敷地面積は三百二十坪あり、道路に面した部分を医師二人に貸している。当時の与力は屋敷の一部を医師、学者、儒者、剣道指南、手習い師匠などに貸すことが多かったが、これは支給される禄高だけでは生活が苦しかったことと、人に貸せるほど広かったことを意味している。

 与力の禄高は現米取で大体百六十石から二百三十石で敷地は三百二十坪、それに対し鉄舟の切米取百俵二人扶持はこれより少ないが、この両者の禄高を勘案し考えると、山岡家の敷地が二百十坪というのはほぼ妥当な広さではないか思う。

 この二百十坪の敷地で、英子は慣れない家庭菜園をし、周りの空き地や森で草を採って食べていた。

 このような英子の自然の草花採集による食料調達を、可哀想で不憫と思うか、それとも別の考えを持つのか、それは当時の状況を整理してみないと簡単には判断が出来ない。

 まず、江戸時代の小石川鷹匠町辺りは、どのような環境下であったのだろうか。ちょっと寄り道になるが、当時の鉄舟自宅辺りの自然実態を探ってみたい。
 
高橋家と山岡家の所在地辺りの切絵図(安政三年)を見ると、両家の左下側に「伝明寺」があり、今でも存在している古刹であり、ここは別名「藤寺」とも呼ばれている。

「藤坂は箪笥町より茗荷谷へ下るの坂なり、藤寺のかたはらなればかくいへり」(改撰江戸志)。ここで詠われて藤寺とは伝明寺のことであり、その謂れは慶安三年(1650)閏十月二十七日、三代将軍家光が鷹狩りの帰り道、伝明寺に立ち寄り、庭一面に藤があるのを見て「これこそ藤寺なり」と上意されたことからである。(東京名所図会)

さらに、この伝明寺の傍らの坂からは、富士山が望まれ、坂下の谷からは清水が湧き出ていて、一帯は湿地で、河童(禿)がいたので富士坂とも禿坂ともいわれた。

詩人の太田水穂が「藤寺のみさかをゆけば清水谷 清水ながれて蕗の薹もゆ」と詠ったように、明治時代でも豊かな自然が溢れていて、地下鉄丸の内線茗荷谷駅名が示すように、ここは小日向村の畑地で茗荷畑だったところである。

このように山岡家の周りは自然が溢れ、そこには食せる草花が多かったのである。

現在、日本のカロリーベースの食料自給率は39%(2006年)で、先進国ではスイスの40%に次ぐ低さで輸入に頼っているが、その主要輸入先としての中国が問題である。

既知の如く中国では水源不足であり、有害物質の投棄による水質汚染の拡大があり、加えて食材生産に大量抗生物質投入や農薬の過剰使用など行われていることから、消費者は中国産の購買を敬遠しつつある。しかし、外食や大手食品メーカーでは、中国産食材抜きでは事業が成り立たないのが実態で、中国産食品の二〇〇六年輸入額は九千三百五十億円と前年比で八%増となっている。

このように日本人は安全性を心配しつつ、中国産の食材を食べ続けなければいけない状況下にある一方、メタボリックシンドロームなど飽食が問題となるほどのグルメ化で、テレビやレストランの「究極のグルメ」などが話題を呼び関心事となっている。

しかし、その「究極のグルメ」が伝えるメッセージ内容をよく見てみると、結局「採りたて」「つくりたて」「焼きたて」「本物」「無農薬生産」などであるが、これを改めて考えてみれば、何のことはない江戸時代から戦前までは、普通に食されていたことである。

別にグルメとして騒ぐことではなく、六十七年前までの一般人が食する食材はこの内容どおりであり、それが安い価格であった。今は本物の豆腐といって一丁何百円もするのを、ありがたく高い価格で買っているが、昔ならば全部本物で、それは普通の価格で売っていた。

その上、冷蔵庫もなかったし、毎日、行商が取り立ての魚やしじみ、作りたての豆腐や納豆、それは防腐剤も着色剤も使用していないのであるから、今から考えると幸せな食生活をしていたことになり、そこに原点を持つ日本食が、今や世界的ブームとなっている。

京都の老舗料亭「菊乃井」の社長村田吉弘氏が、先日「KAISEKI」を出版した。英文の日本料理本で、フランスで「ベスト・シェフ・ブック・イン・ザ・ワールド」という世界料理本賞を受賞した。

日本料理が海外で評判になるに連れて、外国人による日本料理店の展開が増え、まゆをひそめたくなる“日本料理”に出合うことが多くなって危機感を覚えたことと、いままで日本料理全体を網羅した紹介書がないことから、今回の出版なったと発言しているが、日本料理の興隆は江戸時代からであった。

徳川幕府体制が確立した「島原の乱」以後、国内で戦いがなくなり、安定化してくると急速に食べ物の種類が増えてきた。寛永二十年(1643)の将軍家光時代に出版された「料理物語」には、魚90種、獣7種、鳥18種、青物77種などの食材によって作られた料理が多彩になってきている。

弘化三年(1846)の山東京山の随筆「蜘蛛の糸巻」によると、江戸で最初の飲食店は天和の時代(1681~1683)の頃に浅草にできた「奈良茶飯」の店とのことであり、随分繁盛したらしい。
またもや横道に入るが、この「茶飯」は元来、奈良の寺院食であった茶粥からきたもので、茶を煮出した汁で煮た飯であり、これを即席に作るのが所謂茶漬けであった。

因みに、茶粥とは今のかゆではなく、今の飯が当時かゆと呼ばれて、今のかゆは当時姫がゆと呼ばれていたので、今の茶飯は昔の茶粥に当たる。(樋口清之著「史実江戸四巻」芳賀書店)

「徳川禁令考」、これは明治27年(1894)に幕府遺蔵の書を中心に、司法省が編纂した江戸幕府の法令集102巻で、前聚は公家・武家・寺社・庶民・外国関係の法令を編年収録したもので、後聚は司法警察関係の資料であるが、その中で文化元年(1804)には、江戸で食べ物商売している店は総数で六千百六十軒あったという。

しかも、この数は吉原・堺町・葺屋町・木挽町の芝居茶屋と、その日稼ぎの振り売りは除外したものである。江戸の人口は文化十三年(1816)に501,161人(「新編日本史図表」第一学習社)であるから、八十一人当たりに一軒の食べ物屋があったということになる。この数は決して少なくないと考える。

つまり、江戸時代は外食産業が盛んであったということであり、これらの店がいずれも「採りたて」「つくりたて」「焼きたて」「本物」「無農薬生産」などの食材を使用していたのであるから、今の時代に生きる我々より「究極のグルメ」であったと推察でき、食生活は江戸時代の方が幸せであったと思う。日本料理の原点は安全だったのである。

話は鉄舟に戻るが、英子は百俵二人扶持という禄高で不足する生活を、屋敷の庭や、恵まれた周りの自然環境から採取できる自然の食べ物で補っていたが、これだけでは当然限界があり、何も食えない日が続く生活をしていた。

しかしながら、ここで最大の疑問が浮かぶ。

貧しくて食えなければ、そこから脱皮するために何かをする、お金を稼ぐために何かをする。これが当たり前の一般的な行動手段であるが、鉄舟の場合、その当たり前のことをしていない。

鉄舟は後年、小野道風に比せられたほどの書家でもあったから、自宅屋敷で書道塾を開いて収入を図るということも、剣の達人であるから剣術指南をするという方法もあったであろうが、それらの収入の道を図った記録も、また、考えた気配が一切ない。

これをどのように理解したらよいのか。普通人の考え方では理解不可能だろう。

明治維新を成立させた江戸無血開場、その対官軍交渉は静寛院宮(14代家茂夫人)、天璋院(13代家定夫人)、輪王寺宮公現法親王による打開工作も通ぜず手詰まって、官軍先鋒は品川まで迫り、江戸城総攻撃は必至となり、そうなれば江戸市中は戦火の坩堝となる時に、最後の奇策として鉄舟の投入であった。

この普通人では不可能と思える江戸無血開城交渉を、鉄舟は単身で駿府に乗り込み、実質の官軍総司令官西郷隆盛と会見し成功させたのであるが、その偉業の背景には、敢えて若き時代に極度の貧乏に耐え忍んだ生活、これが、必ず関係しているはずである。

そのことについて次回検討したい。

投稿者 Master : 10:23 | コメント (0)

2008年11月08日

10月例会記録(1)

明治維新と西洋音楽事始 第3話
「唱歌の事始と十字架の影」
 高橋育郎氏

今日は第3話ということで、「唱歌の事始と十字架の影」というテーマでお話ししたいと思います。


唱歌の事始は、まさに生みの苦しみがあった。
近年1980年代に、フェリス女学院図書室長、手代木俊一氏により研究が始められ、それを受けて山口芸術短大の安田寛氏が世界中を歩いて手代木俊一氏との共同研究の形で研究をすすめ、1993年に発表した。暗黒の話だが、この発表によって、謎のベールは少しずつ解きあかされていった。

唱歌は賛美歌で使っているものが多かった。アメリカからメーソンという音楽教育の大家を日本に呼んだ。メーソンは本音をいうと、日本に賛美歌を教えて、日本をキリスト教の国にする野心があった。メーソンは日本から要請されたときに内心非常に喜んだ。あわよくば日本をキリスト教の国にする絶好のチャンスを与えられたと思った。しかし、おおっぴらにしたら帰されるので慎重にしていた。

明治維新になって、世界に門戸を開放し、来年は開港150年目。西欧文化は急激に吸収され文明開化がもたらされたが、こと宗教に関しては鎖国時代と同じような考えで、特にキリスト教に対しては警戒の手を緩めなかった。アメリカなど西洋の列強にとってはキリスト教の国にしようと野心があった。そういった目には見えない戦いがあった。

明治4年に岩倉使節団が列強の各国を見てまわって見聞を広めた。
小学校を見て驚いた。中学校があり大学があり、教科もあり、音楽も体操もあった。音楽に合わせて体操するなんてものは日本にはない。教育の進み具合は日本では想像もつかない教育だった。刺激が強くて日本も教育の近代化をしなくてはならないと思った。

明治5年、学制が布かれ、学校を作り、寺子屋方式ではなく近代化しようとした。
明治19年に(森有礼文部大臣)学校令が布かれて小・中・高・大学といった学校が揃って、教科もほとんど確立した。
学制が始まった頃には師範学校を作り、先生を出さないといけない。師範学校の中に師範学校の付属の小学校を作る。小学校の教育はそのくらいに始まった。明治19年に小学校も全国的に広がった。その中に音楽を入れたようだった。教科の名前は「唱歌」、中学は「奏楽」と名前を変えた。しかしどういう風に教えていいかノウハウが全くなかった。

近代音楽の生みの親は先に話した伊沢修二であり、ボストンから招聘したメーソンであった。伊沢は政府の要請で米国の教育学と学校の実態をみるためボストンの師範学校に留学した。伊沢はほとんど教科をクリアしていたが、音楽だけができなかった。なぜ難しいかというと音階が日本のものとヨーロッパのものでは違う。音が聞き取れなかったり、音程が取れなかったり苦労した。「日本は地球の裏側で環境がまるっきり違い、音楽を理解するのは大変だから免除する」といわれた。伊沢は非常に悔しがった。なぜなら、伊沢は長野県の高遠藩出身で5歳くらいから西洋音楽の鼓手をやっていて、行進曲など練習した。
第一、日本を代表してきている身だ。簡単に引き下がるわけにはいかない。そんな気概があった。
伊沢は音楽を身につけるのに苦労していた頃、メーソンと劇的に出会った。偶然なようだが、実は森有礼によって内々、道筋はつけられていた。

伊沢はメーソンと出会って、音楽を理解すると、文部省に唱歌が重要な学問になると答申を出して、認めさせた。文部省に音楽取調掛が設立された。伊沢は帰国すると掛長になった。音楽取調掛は東京芸術大学の前身になる。音楽取調掛にメーソンを招聘し、伊沢と組んで教科書をつくり、つぎに師範学校で音楽を教える役割を担った。

教科書の選曲に非常な苦労があった。明治13年に唱歌集第一集を出した。小学校の教科書といっても和綴じの和紙で、文字も毛筆で草書体であり、今の人には読めないようなものだった。
まずは、おたまじゃくし・音階に慣れるように単純な歌から始まった。ドとレとミだけの狭い範囲の音階練習が繰返され、子どもは一向に興味はそそられない。「唱歌校門を出ず」とまでいわれた。家に帰ってきても学校で習った歌はやらないで、あいかわらずわらべ歌で遊んでいた。第一集半ばあたりからメロディらしいメロディが出てきた。「蛍の光」「庭の千草」「美しき」などのいまも愛唱歌として歌われている歌が出てきて、広く歓迎されるようになった。

日本の音階はドレミソラの5音(5声)、西洋はドレミファソラシドの7音(7声)で、5声音階の日本の歌に近いのはスコットランドやアイルランドの歌に多かった。
表向きはアイルランドの「民謡」などが「日本人の耳に親しみやすいだろう」とアイルランドの歌を取り入れたが、実は教会で歌われている賛美歌であり、これをカモフラージュしながら歌集に入れたのだ。

しかし、愛唱歌といわれた「見わたせば」「結んで開いて」「あまつみくには」「うつくしき」などは賛美歌だった。唱歌の編纂者は、賛美歌であることを隠した。賛美歌であることを気づかれないよう、大変な気苦労をしたのである。歌詞は儒教の教えにして、賛美歌であることをカモフラージュしていた。

メーソンは日本をキリスト教の国にしようと宣教師と手を組んで企んでいる、地下活動のように宣教師と時々会っている。そうした密告があった。そして15年、第2集の唱歌集の編纂を始めた時、突如解任され、志半ばで帰国を余儀なくされた。しかし唱歌集は16年に第2集、17年に第3集と続き、伊沢の手で編纂発行され、第3集をもって完結した。勿論,メーソンの意向は残っていた。

唱歌集が出たころ文部省を牛耳っていたのは田中不二麿で、彼も貢献者のひとりだった。13年、唱歌集が出たあと、田中は旅行中に突然解任された。

森は留学生のとき洗礼を受けており、伊沢も洗礼を受けた。伊沢ら留学生の監督官、目加田種太郎も、唱歌にたずさわった関係者の多くはクリスチャンだった。留学して外国で近代的なものを身につけて洗礼を受ける。そういう人は開明派、洋学派と呼ばれた。

それに対して日本の教育の中心は儒教、宗教は神道と仏教でこれは明治維新後も引きずっている。儒教派の最高位は元田永ざねだった。元田は明治天皇の侍従であり、開明派を嫌った。(元田は、井上毅と23年発布の教育勅語を起草 鉄舟との関わりは表面には二人の関係が出てこない。明治天皇に日常的に接触しているから教育勅語のはなしなど、これからの研究でわかってくると良いと思っている)

森有礼が文部大臣になった。元田は森を政敵とみて、任命した時の総理、伊藤博文に森みたいなも激しく詰った。

森有礼も伊沢修二も目加田も、儒教の教育をうけて育った者で、根は立派な日本人であり政治家であったが、元田が思うような売国奴などで決してなかった。多分に誤解を受けていたといえる。

そして、1889(明治22年)2月、大日本憲法発布の日の朝、森有礼は自宅の玄関を出るとき、壮士西田文太郎に刺され、病院に運ばれ、翌日死去した。
横井小楠(よこいしょうなん)も同じような理由でその前に刺されている。
新聞には数行の記事に止まり、こんなにもセンセーショナルな事件にも関わらず、闇のうちに葬られ、真犯人は黒幕に覆われ分からないまま今日に至る。

唱歌の大部分は賛美歌だったのだ。である。

最近になって分かったのが唱歌集第五十三番の「仰げば尊し」は伊沢修二が作曲したといわれている。ほかにも第四十四番の「皇御国」(すめらみくに)が伊沢である。
以上

投稿者 staff : 11:51 | コメント (0)

9月例会記録(1)

「明治維新と西洋音楽事始」                 
高橋育郎氏

来年は横浜開港150年、この開港は明治維新に通じる大事なものです。井伊直弼が開いた。西洋の列強に追いつけ追い越せと西洋文明を積極的に取り入れた。
学校を開いて、教育を重要視した。国民誰しも文字が読めて、計算ができるようにやっていこうというのが大きな前提だったんですね。明治5年、学制を発布します。小学校、中学校を全国津々浦々、ものすごい勢いでつくっていったんですね。


カリキュラムの中に、唱歌という教科を入れたんですけど、西洋音楽を誰も知らないんですね。教え方のノウハウを知っている人もいなかった。中身がわからないから、「当分これを欠く」とした。いつ唱歌が始まるのかわからない状態で学校が始まった。
小学校は唱歌、中学校は奏楽という名前になった。どちらも音楽です。唱歌がいつ頃始まったのかというと、伊沢修二という優秀な人が現われた。残念ですが、あまり名前が知られていません。日本の音楽界に貢献した、忘れてはならない人物で、私にいわせれば「日本の音楽の父」です。彼は高遠藩出身で、1867年に藩の貢進生に選ばれた。大学の南校(現在の東京大学)に学んで、卒業してすぐに文部省に入って、愛知師範学校の校長になりました。学校を作っても教える先生がいなくては仕方ない。そこでいち早く師範学校をつくった。
そしてフレベール(幼児教育)に傾倒した。伊沢修二は、師範学校取調べが第一の目的で留学。目賀田種太郎(勝海舟の娘が奥さん)が監督官でアメリカ・ボストンのブリッジウオーター師範学校に入った。
優秀でしたが、こと音楽は難しい。理由があります、異文化ですよね、日本の音楽と西洋の音楽は根本的に全然違う。音の構成が7つの音階、それに対し日本は、ドレミソラで「ファ」と「シ」がない五声音階。それがアメリカに行ってドレミファソラシドを、いきなりやらせられるので難しかった。
全然違う環境で育ったのだから、習得するのは無理だろう、特別に免除してやろうと校長に言われて、彼は非常に悔しがった。彼は5歳くらいから軍楽隊に入って鼓手(たいこ)をやっていたので、音楽の素養はあるとプライドもあった。日本を代表して行った留学生ですから。目的は全般的な学校の教育学というものを学ぶためではあったが、音楽に特別興味を抱きはじめ、音楽の効用に気づき、重要視しはじめ、何とか習得したいと思った。
そうした熱意を持ち始めているとき、メーソンという、アメリカの小学校の教材を作っている音楽教育学者の第一人者と会う。会うについてはいろいろ話がありましてね。森有礼がアメリカに行っており、音楽は誰が優れているか事前に調べるとメーソンの名前が出る。
実はメーソンも日本人に音楽を教えたかった。伊沢も音楽を身に着けたいと熱意があって、その熱意が偶然という遭遇を生んだといえる。これらの話しは来月にまわします。このメーソンとの出会いは、日本の音楽界には実に画期的な重大なことだった。
伊沢は毎週メーソンの家に通って、「ドレミファソラシド」も音がとれるようになった。当時の人は苦労したんですね。「ファ」の音が少し上ずったり、しっかり音程がとれない。現代人には信じられないような話ですね。

留学が終わりに近づいた明治11年4月に目加田と連名で「学校唱歌ニ用フベキ音楽取調事業ニ着手スベキ見込書」という見込み書を作って、文部大臣の田中不二麿に送った。そこに音楽の効用を熱心に書いている。
帰国後すぐに東京師範学校の校長になる。文部省に音楽を教える先生を要請する学校を早急につくるよう要請。すなわち音楽取調掛の設置を上申して認められ、彼は御用掛に任命された。これが後に東京音楽学校、今の芸大に繋がる。
・東西二様の音楽を折衷し、新曲を作る事。
・将来国楽を興すべき人物を養成する事。
・諸学校に音楽を実施する事。この2項を核にした。

唱歌は児童から始めることを最良・最速の方法と言っている。子どもの頭は柔軟で、集中力があって、記憶力がある。そういう年頃に教え込むのがよいといっている。

今日は時間がすごく短いので、あまり話せませんが、唱歌集を作って、そこから音楽を学校教育に導入する。そのあと音楽の専門学校である東京音楽学校の設立し、日本の音楽を世界に共通する水準まで高める。そのために、一つひとつ段階を踏んで積み上げ、理想を実現していく。そうした目的意識をもって望んだのだ。
1880(明治13年)メーソンを日本に呼び、学校での実技の指導、教科書作りから始めた。選曲はメーソンが伊沢修二の協力のもと、これに宮内省楽人、上真行、奥好義、辻則承、芝葛鎮らが、文学者では稲垣千頴、佐藤誠実、加部巌夫らと組んで、「小学唱歌集」3部作を明治14、16、17年にわたり刊行した。ところが明治15年にメーソンは帰国してしまう。それはなぜだろうか、これはまた来月に回したいと思いまして、今日は半分まで行ったところで時間になりました。ありがとうございました。

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2008年11月02日

全国フォーラムが開催される明治神宮の夜間ライトアップに行ってきました

11月29日に行われる「第五回・鉄舟全国フォーラム2008」の会場である明治神宮で、
『明治神宮復興50年記念 夜間ライトアップ』
が行われましたので、行ってまいりました。

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JR原宿駅を降り、明治神宮正門へ。
まず目を奪われたのが、鮮やかな提灯のディスプレイです。
左から右へ波のように色彩が変わり、とても華やかでした。

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門をくぐり、中へ。
参道はブルーの足元照明で、まるで穏やかな海の上を歩いているよう。
ところどころライトアップされている木々が暗闇の中に浮かび、厳粛な雰囲気に包まれていました。

鳥居をくぐり、本殿方面へ。
参道はとても幻想的で、すべての木々や建物がひっそりと佇んでいる中を、砂利の音だけが聞こえてきます。万物の精霊が静かに見守ってくれているような心持ちがしました。

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拝殿に到着し、参拝。
この日は事前の内覧会にもかかわらず、たくさんの人が訪れていました。

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昼間とはまた違う神社の顔を見ることができ、とても素晴らしい経験をいたしました。
身も心も清められたように感じ、感無量の訪問でした。

11月29日にはここで「第五回・鉄舟全国フォーラム」を開催いたします。
拝殿での参拝、明治神宮権禰宜・佐藤様の講演、そして山本氏の鉄舟研究発表と盛りだくさんの内容で皆さまのお越しをお待ち申し上げております。

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是非足をお運びくださいますようお願い申し上げます。

投稿者 lefthand : 13:56 | コメント (0)