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2008年10月17日

2008年10月例会の記録

2008年10月15日
時代の変化が京都で現出化した
山本紀久雄

1.ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館(V&A)で「山岡鉄舟書展」開催

日本コーナーに25福の書が並んでいます。見事なものです。写真撮影自由ですので、撮影してきました。この書はすべて二松学舎大学の寺山旦中先生の持ち物です。
2001年にもこの博物館で寺山先生が書を書くプロモーションをされました。

2.筆禅道・・・故寺山旦中先生が主唱された筆で禅を行ずる意味

由来は鉄舟が大悟され「余、剣・禅の二道に感ずる処ありしより、諸法皆揆一なるを以て書も亦其の筆意を変ずるに至れり」と覚他されたこと、つまり、剣と禅で自覚するところがあって書の筆勢が変わったことから。

山岡鉄舟も国際化されているということですね。鉄舟の書は宇宙ですから、文字は我々にも読めません。でも力強さはイギリス人でも他の国の人でもわかります。常に前向きな勢いのある生き方が書からわかります。

山岡鉄舟のホームページに「山岡鉄舟の書を訪ねる」というページを作成しました。最初に自宅から近いさいたま市常泉寺に行きました。

明日から広島と大阪に出張し、帰りに静岡県の富士市「鯛屋旅館」に行きます。鉄舟と次郎長がしょっちゅうきて泊まって酒飲んだ旅館だそうです。
12月にお話したいと思います。

世の中変わりましたね。時代は現実状況として出てきます。新聞の報道にあるように1,000円も株価が上がって、その前は下がって、ようやく止まりました。これが世界中で起きています。
この代表例として、アイスランドのお話をいたします。
アイスランドは、人口が30万人です。20年くらい前は25万人でした。GDPが1兆2千億円で、日本の1/400です(日本のGDPは500兆円)。アイスランドでは主要な銀行が国のGDPの6倍もの資産を持っており、他の銀行の資産もあわせると10倍くらいになります。
ところが、このアメリカのサブプライム問題で、銀行のお金が回らなくなりました。アイスランド政府は、国のGDPの10倍も資産がある企業の面倒を見られません。面倒を見ようと思ったらお金を借りなくてはなりません。アイスランドの首相はあちこちに交渉し資金注入を行おうとしています。今はロシアと交渉しています。

このアイスランドの問題を世界に置き換えてみましょう。
世界全体のGDPがあり、その中で実体経済が行われています。例えばリンゴ1個を100円で買う、といったことです。
実はこれの6倍も7倍もお金の世界が広がっています。実体経済とお金の世界がイコールなら問題ありません。昔はこれらはイコールでしたが、実体経済の市場とお金の市場のバランスが崩れました。これが、サブプライムをはじめとする今の問題です。
どうしてそうなったのか。
それを説明するのは大変です。例えば、パソコンの中にどうしてメールが入ってくるか。どうしたらキーボードで「A」と打つと画面に「A」が表示されるのか、これが説明しきれないように、そういうものだと理解してください。
金融が大きくなりすぎて、金融の信用収縮が起き、世界中に問題が起きて、今のようになっています。

時代はいつか具体的になっていきます。一番分かりやすい例がアイスランドで説明できます。その点において、日本は蚊帳の外です。日本は全体のGDPよりも金融の世界の合計金額が少ないのでリカバリーすることができたのです。

余談ですが、ローンというものをどう考えていらっしゃるでしょうか。
この中にもローンがある方もいらっしゃいますよね。ローンを払えないと家を差し押さられるでしょう。家を出て、差し押さえられた家を売っても返済額に届かなければ、残った返済額を一生持って歩くでしょう。
実は、このシステムは、日本の常識、世界の非常識なのです。
ところが、アメリカで家を買うと、いくらでもお金を貸してくれます。ローンが払えなくなったら家を出て行けば良く、ローンは自分には付いて来ません。ローンは全部銀行の責任で、銀行は証券会社に売り、証券会社はサブプライムローンとしてあちこちにばらまいたのです。モラルハザードですね。家を買ってお金を払わない人がどんどん出てきた、というのがサブプライムローン問題です。時代の状況は必ず具体的な問題として表出するのです。

今からお話する清河八郎が活躍した時代、文久二年はすごい時代に始まりました。

3.清河八郎献策の浪士組が京都に向かったわけ  ※5へ

4.当時の京都の政治社会状況

(1)文久二年(1862)七月初旬、長州藩が従来路線の「航海遠略策」から大きく一転させ、「破約攘夷」という攘夷実行路線に藩是を決定した。

文久2年6月に薩摩の島津久光が1,000人の兵隊を引き連れて京都に上がってきました。
朝廷に幕府の改革を申し出るためでしたが、それを誤解して清河は、久光は幕府を倒すために京都に来たと尊攘志士に檄を飛ばし、日本中から尊攘志士を集めました。
しかし、実際は違いました。
久光が立たないならと自分たちがやろうと、尊攘志士たちは寺田屋に集まって相談していたら、それを察知した久光が腕の立つものを寺田屋に送り、薩摩藩同士で戦いが起きました。それが寺田屋事件です。

その後、久光は江戸に行き話しをつけました。薩摩藩の力が京都で、日本全体で力をつけてきました。薩摩が力をつけると困る藩が出ます。民主党が力つけると自民党が困るみたいなものです。長州藩が京都を牛耳っていましたが、薩摩藩によって力を落としました。
「航海遠略策」も長州藩が出していました。井伊大老が外国と条約を締結し、締約の翌年に横浜は開港しています。住んでいる外国人を追い払い鎖国するのは国際条約上出来ないでしょう。できないなら、認めておいて徐々に力をつけて、力を付けたら外国人に出てもらいましょうという順序立てた攘夷をしよう。長州の長井雅楽はそう考え、「航海遠略策」を出しました。穏やかな策だから、それに幕府も孝明天皇も乗ったわけです。
乗った結果、即攘夷できなくなってしまったので、幕府を「早く攘夷しろ」と追い詰められません。ですから長州藩は「航海遠略策」を一転させ、修好条約を破棄し、攘夷一本で行くと、藩主出席のもとに藩の方針を決めなおしました。航海遠略策は素晴らしいと認めていたのに長井雅楽は責任を取って切腹させられました。

(2)この頃から京都では尊攘過激派による天誅という暗殺、脅迫が発生。

(3)天誅の第一弾は同年七月、幕府派の九条関白家家臣、島田左近。

島田左近は孝明天皇の妹・和宮を家茂に降嫁させた人物で、暗殺されました。
岩倉実相院で、事務係が260年間書いていた日記が平成10年に見つかりました。
その『京都岩倉実相院日記』には島田左近の殺され方が書かれてあります。その無惨さは、京都所司代が誰の死体か分からないほどでした。

(4)公武合体運動を進めた岩倉具視、千種有文、富小路敬直、久我建道と、女官の今城重子と堀河紀子は「四奸二嬪」とされ、一部廷臣や尊攘過激派に脅迫され、ついに官を辞し、頭を丸めて京都郊外に住む身となった。岩倉邸には幕府派浪士の片腕が投げ込まれるほどだった。九条関白も辞職し、同じく頭を丸めて謹慎した。

文久二年の当時の岩倉は謹慎しないと殺されてしまう、そのくらいでした。

(5)当時の脅迫者について中山忠能は次のように述べている。「かれらは長薩藩士でなく、浮浪烏合の者で、勤王問屋といわれている。まったく勤王を名として、今日を暮らし、その説が追い追いに伝染している」(開国と攘夷 小西四郎)

中山忠能は明治天皇のお祖父さんです。
「勤皇」と言えばなびくくらい力をつけたので、縦横無尽に動いていると書いています。

(6)ところが、近年、明らかになったのは、「四奸二嬪」に対する排撃と天誅は、驚くべきことに摂家の近衛家から薩摩藩への依頼によってなされていたのである。だが、近衛家も、九条家の動向には疑心暗鬼、九条家側の配下による暴力におびえきっていて、公卿政争は、幕府側(前関白九条ら)と薩摩派(関白近衛ら)の陰惨きわまる暗闘にも発展していたのである。(幕末・維新 井上勝生)

(7)次の天誅標的は同年八月の目明し文吉であった。安政の大獄の際、志士の逮捕に当たった者であり、屍は三条河原にさらしものにされた。

目明しを殺されては、部下の岡っ引きも同僚の目明しも恐ろしくて動けなくなります。そうなると町中盗賊が捕まえられなくなります。

(8)同じ八月に、外国貿易を行っていて、以前から天誅を加えると脅迫されていた、葭屋町大和屋庄兵衛の店を浪士が襲い放火した。

火が出ても怖くて所司代も来ません。他に火が回らないようにするだけです。

(9)さらに十一月、井伊大老の謀臣長野主善の妾たかが、隠れ家を襲われ捕われ、三条大橋の柱に縛り付けられ、生き晒しにされた。捨て札に「この女、長野主善妾として、戊午(安政五)年以来、主善の奸計あい働き、まれなる大胆不敵の所業をすすめた」とあった。

(10)天誅は京都町奉行所の与力、同心、その手先や関係者にも及んだ。結果として奉行所全体が士気沮喪し、治安機能が喪失していった。

このとき、治安を司る政府はどうするでしょうか。
守りを固めるしかないですね。
ところが、町奉行はダメ、目明しは殺されてしまい閉じこもってしまっています。
こんなとき、誰を連れてくるでしょうか。
それは、力が強いものを連れてくるでしょう。それが、会津藩です。ここで、戊辰戦争の際に会津が徹底的にやられる原因が出てきます。会津は昔から武の藩です。松平容保を連れてきて京都所司代にします。親藩ではないが、力が強いので、その力を借りました。

(11)翌文久三年(1863)二月には、平田国学(平田篤胤の主張した尊王国学)の有力門人が中心となって、等持院の足利三代木像を梟首するという事件が発生した。岩倉実相院日記に「足利氏のように朝廷を軽んじて、自分のしたい放題のものは、たとえ今の将軍であっても、このように梟首するのだ」と斬奸状が記録されているように、これは幕府を侮辱したものであるから、京都守護職が犯人を逮捕しようとしたが、町奉行永井尚志や与力等は、在京の諸藩・浪士を逆に激昂させるだけだと、反対するほど消極的であった。だが、何とか逮捕した結果は、長州藩はじめとして外様諸藩が猛然と抗議を広げ、在京の浪士も同調するなど無政府的状態となっていた。幕府の権威は地に落ちていた。

5.京都に向かった浪士組の実質リーダーは鉄舟。問題は芹沢鴨だった

清河八郎はそういう時代の流れを掴んでおり、諸藩の状況も、京都のことも知っていました。
自分の罪が消えるとわかったときに、市中にいる浪士を集めて警備隊を作る提案を幕府にしました。幕府としても、困っていたときに解決案が提示され、タイミングがピタリと合いました。
どんなに良いことをしても、会社で良い案を作っても、タイミングが合わないとダメです。タイミングを見すぎると遅すぎます。

ものを見るときには、時代の流れを見ます。
私は時流研究家を専門にしております。いつもは時流研究家として、時流の話をしています。努力しなくてもうまくいく場合がありますが、努力を越えた時流が来ることもあります。そのために、力は蓄えておかなければなりません。

清河八郎はお金をもらって浪士組を作りました。家茂将軍が上京する際に、治安の悪い京都に行き、護衛してほしいと頼まれました。
清河は浪士組を提案したときに、幕府から旗本にならないかと言われたのを断ったので、幕府から疑いを持たれ浪士組から外されました。浪士組を提案したのは清河ですが、実際は山岡鉄舟がリーダーとして、京都に向かったわけです。

一番の問題は芹沢鴨でした。芹沢は天狗党の出身で、300匁(1.1キロくらい)の鉄扇を持っていました。鹿島神宮の太鼓の音がうるさいと太鼓を破ったり、自分の部下でも気に入らないと首を切ってしまうし、捕まったら牢屋で、小指を切ってその血で「俺はおかしくない」と書いたといいます。

浪士組は中仙道(中仙道:蕨・浦和・大宮・上尾・桶川・鴻巣・熊谷)から京都に向かいました。本庄宿で宿割りの池田徳太郎と近藤勇(翌年には新撰組の組長になっていたが、このとき宿屋の配置係だった)が、芹沢鴨の部屋割を忘れていました。謝罪しましたが、芹沢は夕方になったら材木を集めて道路の真ん中で火を焚き出し、池田徳太郎と近藤勇が三拝九拝して火を止めたという話が残っています。(『新撰組始末記』子母澤寛)

このような芹沢鴨に、鉄舟もさすがに頭に来て、京都に入る前に「浪士組を脱退して江戸に帰る!」と言いました。浪士組の実際の中心は鉄舟で、鉄舟が帰ってしまったら浪士組がばらばらになってしまい、自分と幕府の関係が悪くなる。そうなれば自分の将来はないと思い、芹沢は謝りました。そういうことなどあり、浪士組はようやく京都に入りました。
浪士組から新撰組が分かれ、新しい展開がありますが、これは次回話します。


ロンドンで行われた鉄舟の書の展示会は、大変格式があるところで行われました。
鉄舟の書が文化として受け入れられ、高く評価されたと感じました。

日本は、150年経って世界に評価されています。では、150年前の日本はどういう国だったのでしょうか?
現在、漫画・アニメーション・歌舞伎など、日本の文化が認められています。パリでは源氏物語をモダンに描いた今西さんの絵画がユネスコ本部に展示されています。

日本文化が世界に認められているのは、明治維新をうまく繰り抜けたからです。明治維新のときに国内大騒乱になっていたら150周年なんて祝えないわけです。

現在、アメリカもイギリスもフランスもスイスも大変です。フランスではルノーのゴーン社長が4,000人の退職者を募集しました。日本は現在、そういうことはないでしょう。素晴らしい国です。危機的状況だ、と騒ぎ立てるメディアもありますが、世界は危機でも日本はそんなことはありません。

また、日本は昔と比べて物騒になったといいますが、世界中が物騒になっています。昔と比較したら今は悪いかもしれませんが、世界と比較したら比較優位です。過去の日本と比較し、世界と比較し、総合判断すればいいのです。ですから、日本は素晴らしいと申し上げているのです。

150年前、日本人のある一部が大論争をした結果、時代の転換期に必要な世界観を説いた人がいました。
しかし、それに対して、徳川家譜代として260年間生きてきた人がいます。鳥羽伏見の戦いで、ちょっと争っただけで負けたけど、まだまだ軍事力は残っているのに、一度も戦争もしないで江戸城を無血開城しても良いのかという筋論があります。志道です。
侍の道を大事にする人から見れば、一度も戦わないで負けてしまうなんてとんでもない話です。
戦うべきではないか。
相手は16歳の少年天皇を冠にしているにすぎないではないか。
海軍では、無傷の新しい軍艦をたくさん持っていて、戦争できるのに・・・と。

薩摩藩には薩摩の志道があり、薩摩の殿様の言うことを聞きます。長州藩も志道があります。徳川の志道もあります。
しかし、いざというときにやるのが武士ではないか、という考えを捨てさせた人がいます。
その人は、一体どうやって捨てさせたのでしょうか。

こういうことです。
日本国内ならおっしゃる通りだが、それは日本国内の話であり、ペリーが来てからは外国との関係になっているのではないか。枠組みに諸外国が入り世界観が変わっているのだ。日本が成長するためには、思想を変えないと成長が立ち止まってしまう、と説いたのです。
それを行ったのは、勝海舟でした。

勝海舟は、江戸城を無血開城して、日本全体として、日本の中の争いを捨てて、日本を大きくしませんかと、新しい枠組みの世界観を説いたのです。
改革は少数であり、前例がありません。新しいことは未来だから問題点がいっぱいあります。古いことは問題がなくなっています。勝海舟の世界観は問題だらけですが、世界がどういう方向に向かっているのかを知っています。改革を成功させるには、いろんな手を使い説き伏せることが必要です。改革するために、条件を整えることが行動の基準です。

改革には、勝海舟のように世界観を変えようと提案するプランナーと、実行してくれる人が必要です。
そこに突如として出たのが山岡鉄舟です。
世界観はないけれど、理解することはできます。宇宙から世界を考えていました。鉄舟の持っている行動力・意志力が必要とされたわけです。慶喜から指示されて、海舟を経て西郷に会い、西郷隆盛に話をつけてきました。鉄舟と西郷隆盛との交渉は、正式なものではありませんでした。しかし、西郷隆盛と鉄舟の交渉がなければ、江戸無血開城はありえませんでした。
勝海舟は思想を提示しました。鉄舟はそれに従ってぶれることなく行動したのです。鉄舟は明治天皇の侍従になったときも生き方はぶれていません。
そこがキーポイントです。
思想家と行動リーダーと、二人のリーダーが必要なのです。

世界も同じです。今、アメリカは大統領選挙です。新しい大統領がどちらになるにしても、混乱しているアメリカ経済のシステムを新しい世界観で、ハッと思わせるものを出せるかどうかです。これが出来ないとアメリカの未来はありません。
日本は、それを出せない首相が過去に2人いました。残念です。

鉄舟を学ぶということは、今の時代と通じることは何か、ということを学ばないと意味がありません。


【事務局の感想】
鉄舟の生きざまを現代に生きる私たちがどう活かしていくか。そのヒントとして、山本氏は「ぶれない」ということを示されました。
ぶれない生き方とはどのようなことなのか。
それは、時流をつかみ、おのおのの生き方の指針にとりいれていくことのように思います。
このことは、『鉄舟全国フォーラム』にてさらに明らかにされることでしょう。
鉄舟全国フォーラムをお楽しみに。

以上

投稿者 lefthand : 2008年10月17日 09:01

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