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2013年04月27日

東都よみうり新聞社「東京村.com」に掲載される

東都よみうり新聞社「わが町リポーター」の原島さんが、4月20日史跡巡り例会を投稿していただき、4月25日に同紙に以下のように掲載されました。

山岡鉄舟研究会が錦糸町・両国散策

山岡鉄舟研究会(山本紀久雄会長)主催の江戸無血開城「鉄舟・海舟ゆかり史跡めぐり」が4月20日、錦糸町・両国周辺で開催され、吉良邸跡、北斎生誕地、力士始祖神社の野見宿祢神社、落語と禅の三遊亭圓朝旧居跡、世直し江川大明神ゆかりの地などを巡りました。

 説明にあたった矢澤昌敏氏と、初参加の史学家・松島茂氏は、女性講談の田辺一乃さんの一言「これらの史跡・人物を 新観光講談に!」の声に「大賛成!」。

 最後は、ちゃんこ鍋を囲んでの懇親会でした。参加者の中には、清川八郎のご子孫、齋藤わか奈さんもおり、多彩な顔ぶれでした。

                                      わが町リポーター 原島花華

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2013年04月26日

2013年5月例会のご案内

2013年5月例会のご案内

開催日  2013年5月15日(水)
場所   東京文化会館第一中会議室
   時間   18:30~20:00
会費   1500円
発表者  永冨明郎氏
テーマ  吉田松陰
『遥かなり三宅島=吉田松陰「留魂録」外伝』を2012年に出版された永冨 氏は、その他にも多     く 著されている作家です。
    今までと異なった角度から吉田松陰を分析し解きほぐしご発表いただきます。

2013年6月例会
 6月例会は東京文化会館会議室の都合で2013年6月18日(火)に開催いたしますので、よろしくお願 いいたします。

   開催日  2013年6月18日(火)
場所   東京文化会館第一中会議室
   時間   18:30~20:00
会費   1500円
   発表者  木下雄次郎氏・・・掛け軸をお持ちいただき解説賜ります
          山本紀久雄・・・・「東海遊侠伝」を分析いたします

投稿者 Master : 06:23 | コメント (0)

2013年4月開催結果

2013年4月開催結果

4月例会開催は「鉄舟・海舟所縁のお江戸史跡巡り」を4月20日(土)に開催しました。あいにくの冷たい小雨の天候でしたが、30名のご参加をいただき、皆さん元気に本所・両国界隈の史跡を歩き終えました。

矢澤昌敏氏の緻密な事前調査と詳細な資料と地図にもとづく解説、併せて、元墨田区立緑図書館職員の松島茂氏から補足説明を賜り、5月15日例会でご発表される永冨明郎氏からも補説をいただき、さらに、講談師田辺一乃さんによる吉良邸での一席など、史跡多き墨田区の魅力をじっくり、存分に堪能いたしました。
また、寒い中、歩いた後は「相撲茶屋 ちゃんこ 江戸沢」で懇親会を楽しみました。
ご参加の皆様にお礼申し上げますと共に、次回の矢澤氏による江戸史跡巡り企画をお楽しみにお待ち願います。

              国技館前にて
歩いたコース
●伊藤左千夫牧舎兼旧居跡(小説「野菊の墓」の作者)⇒ (京葉道路) ⇒ 新燧社(シンスイシャ)跡(国産マッチ発祥の地) ⇒ 【入江町】勝海舟旧居跡(勝海舟揺籃(ヨウラン)の地?) ⇒ 山岡鉄舟旧居跡 ? ⇒ (三ッ目通り) ⇒ 【三笠町】新徴組屋敷跡 ⇒ (蔵前橋通り・区役所通り) ⇒ 【吉岡町】栗本鋤雲(ジョウン)旧居跡 ⇒ 三遊亭圓朝旧居跡 ⇒ (南割下水:北斎通り) ⇒ 葛飾北斎生誕の地 ⇒ 野見宿禰(ノミノスクネ)神社 ⇒ 津軽家上屋敷跡 ⇒ 江川太郎左衛門屋敷跡(英龍終焉の地) ⇒ 岡内重俊旧居跡 ⇒(北斎通り・清澄通りを南下し、京葉道路を横切り)⇒ 【亀沢町】勝海舟生誕の地 ⇒ 尺新八(セキシンパチ)の共立学舎跡 ⇒ 【松坂町】吉良邸跡・本所松坂町公園(吉良邸正門跡・鏡師:中島伊勢住居跡・吉良邸裏門跡) ⇒ 回向院 ⇒ 【元町】与兵衛鮨発祥の地⇒ 旧両国橋・広小路跡 ⇒ (一の橋通り)⇒【横網町】百本杭の跡 ⇒ 御蔵橋跡 ⇒ 舟橋聖一生誕の地 ⇒ 本所:御米蔵跡(御竹蔵跡)⇒ JR総武線:両国駅西口●




 
 なお、最大の史跡巡り関心事である「山岡鉄太郎生誕地」はどこか? 「俺の師匠」(小倉鉄樹)によれば
 「師匠の生まれたのは天保七年六月十日、本所大川端四軒屋敷の官邸である」
とあります。それを古地図で見ますと四軒屋敷は以下となります。
 
上の古地図は「復元 江戸情報地図」(朝日新聞社)です。この上に⇒したところが「御蔵奉行」であり、古地図の下地に現代の地図が描かれていて、それを見ることでおおよその位置が分かるようになっています。コピーでは鮮明に分かりませんが「国技館北」と「新藤写真製版」とあるあたりとなり、ここが鉄太郎の生まれた四軒屋敷跡と判断できます。

投稿者 Master : 06:10 | コメント (1)

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の四

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の四

天皇という存在や制度について、極力ふれないというのが司馬遼太郎の方針であるが、山崎正和との対談では明治天皇をテーマに取り上げ、その中で鉄舟について語っている。(司馬遼太郎対話選集4 近代化の相克)
「あの人(明治天皇)の好きな人は、山岡鉄舟、元田永孚(えいふ)(注 ながざねともいう)、西郷隆盛、乃木希(まれ)典(すけ)で、きらいなのは山県有朋、黒田清隆です。要するに男性的な人物が好きだったようですね」

また、別の講演の中でも次のように語っている。

「山岡鉄舟はミスター幕臣といってよい存在でした。非常に立派な人で、侍の鑑というような感じだった。たいへん自律的な、自分を完全にコントロールできた精神の人です」

 さすがに司馬遼太郎の鉄舟像は正鵠を射ている。

明治天皇と鉄舟の縁は、明治五年(1872)六月に侍従となったことからはじまり「天皇は、多くの賢臣から薫陶を受けている。しかし、統治や統帥、知性や教養の全体を覆うバックボーンは、西郷隆盛や、その推輓(すいばん)で侍従となった幕臣、山岡鉄舟の存在に負うところが多いのではないか」(山内昌之東京大学教授)といわれるように、明治天皇に対する貢献は大きいと思われるが、それを具体的かつ客観的に解説することはかなり難しい。

つぶさに今まで世に出ている鉄舟関連諸資料を検討しても、明治天皇の輝かしい名声に見合う業績に、鉄舟が具体的に関与していたという証拠になるものは少なく、伝説的な逸話が殆どである。

また、2012年2月1日、NHKで放映された「歴史秘話ヒストリア」でも、天皇と相撲をとったことと、アンパンを献上した件が「明治天皇教育」のエピソードとして紹介されていたが、これで明治天皇への貢献が十分説明できたのか、疑問が残る。

したがって、これから展開していく「明治天皇業績への貢献」に関与する鉄舟の検討は、今まで誰もが取り上げていない難しいことへの挑戦であり、それだけに研究アプローチを妥当に採らねばならないと思っている。

そこで、まず、最初は、鉄舟が侍従になる前の明治天皇と、明治五年六月以降の天皇について、その変化を分析してみることからはじめたい。変化の内容を確認することで、明治天皇への鉄舟の関与を検討してみたいからである。

明治五年までの明治天皇については、以下の五項目から検討整理してみる。
① 少年時代の天皇
② 天皇即位
③ 東京への遷都
④ 海外事情の把握
⑤ 侍読、元田永孚の影響

初めは① 少年時代の天皇である。

十五歳で天皇になられた当時について、いくつかの資料から確認してみたい。
最初は、慶応四年(1868)閏四月一日、イギリス全権公使のハリー・パークスを、大坂の東本願寺別院で引見した際のアーネスト・サトウの記述である。

 「ハリー卿が進み出て、イギリス女王の書翰を天皇(ミカド)*に捧げた。天皇は恥ずかしがって、おずおずしているように見えた。そこで山(やま)階宮(しなのみや)の手をわずらわさなければならなかったのだが、この宮の役目は実は天皇からその書翰を受取るにあったのである。また、陛下は自分の述べる言葉が思い出せず、左手の人から一言聞いて、どうやら最初の一節を発音することができた。すると伊藤(注 伊藤博文)は、前もって用意しておいた全部の言葉を翻訳したものを読みあげた」(明治天皇 ドナルド・キーン著 新潮社)

 この明治天皇に対するサトウの描写は、まだ十分に慣れていない状況に直面した少年君主の神経過敏な様子を伝えている。

なお、パークスを謁見した場所は京都御所ではないことに注目したい。明治天皇はそれまで御所以外を体験したのは、幼年時代、蛤御門の変の砲弾を避け、前関白の近衛忠煕によって連れ出された鴨の河原だけであった。

戊辰戦争親征の途とし、大坂に向かったのは三月二十一日、官軍の最高司令官の立場からで、三月二十三日に大坂の東本願寺別院を行在所にした。

この御所を離れた意義は高かった。パークスだけでなく、この当時の政局を動かしている維新の志士たちが拝謁できたからである。御所内に止まっていては古いしきたりが壁となって、謁見は難しかった。

西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允などの維新を担う武士達は、それまで誰も直には天皇に拝謁したことがなかった。伊藤博文のみは通訳という立場から身近に出られたが、その他の中心人物たちは明治天皇を全く知らない。

いったい、新天皇はどういう人物なのか。折角、徳川幕府を倒して新政府をつくったが、天皇の器量によってはおぼつかないことになる。これが維新を進めた当時の中心武士層の最大関心事であった。 

その中で最初に拝謁できたのは大久保利通である。同じ年の四月九日、東本願寺の行在所で明治天皇御前に召された際の日記に次のように書いている。

「余一身の仕合(しあわせ)*、感涙の外これなく候。・・・藩士にては始めての事にて、実は未曾有の事と恐懼(きょうく)奉り候。二字(二時)ごろより・・・大飲に及び相祝し候」(ドナルド・キーン)
大久保は嬉しさのあまり、同藩の仲間と祝杯をあげ

「おい、みんな安心しろ。玉は大した方だ。前途多望な若様でいらっしゃる。浮世絵の殿様のように、ぞろりとしておられるのではと、心配したら大ちがい。色が浅黒く、ずんぐりと肥えて、熊の子のようにたくましくあられる。きたえようで、きっと大物になられる」と述べたという。(明治天皇 木村毅著 文芸春秋)

さらに、横井小楠は、同年五月二十四日に家人に宛てた手紙で、天皇に拝謁した時の印象を次のように記している。

「御容貌は長が御かほ、御色はあさ黒くあらせられ、御声はお(ママ)きく、御せ(背)もすらりとあらせられ候、御気量を申しあげ候へば、十人並にもあらせらるべきか。唯々、並々ならぬ御英相にて、誠に非常の御方、恐悦無限の至に存じ奉り候」(ドナルド・キーン)

サトウの記述は別として、維新の志士達が直に拝謁し「今度の天皇はなかなかおエライぞ」という自己判断をしたことが、その後の新政治を進める上でのエネルギーになったことは間違いない。

その意味で明治天皇は、英邁君主としての素質を少年時代から持っていたといえる。さらに、天皇の記憶力は抜群であった。

「宮中の種々なる儀式、典礼、其他歴史の事実に至るまで、一として御精通遊ばされざる事なく、微々たる者までも一度拝謁を賜ひし者は、決して其名を御忘れ遊ばすと云ふ事がない」と後に海軍中将有地品之允が語っている。

この天皇の記憶力については、昭和天皇も抜群であったと侍従であった入江相政が述べている(城の中 入江相政著 中央公論社)ので、天皇としての素質のひとつだろう。

このように天皇としての素質面では問題なきことが確認されたが、まだ若き時代であり、君主としての天分発揮は当然に後日になる。
 
② 天皇即位

 慶応四年八月二十七日、明治天皇の即位の礼が執り行われた。当初は前年十一月に予定されていたが、国内情勢不安定のため大がかりな式典の挙行を先に延ばしていた。

 この即位礼の儀式の様子は「明治天皇紀」に、ぎっしりつまった活字で五ページ以上にわたり極めて詳細に記述されている。

 ところで、この儀式には古来の伝統にそぐわない新しい試みが成されていた。神祇官判事の福羽美静が建言したものである。それは地球儀を即位の中心に据えることであった。この地球儀は徳川斉昭(水戸烈公)が孝明天皇に献上したものであり、その意図は孝明天皇が世界の大勢に関心をもたれるように仕向けることであったが、この地球儀が即位大礼の中心に据えられたという意義も高い。攘夷思想を排除し、外国との関係強化を、新時代の中心にすることを明確に示したものである。

 また、即位の大礼の前日、天皇と国民との間の絆を強める措置として、天皇の誕生日である九月二十三日を国民の祝日とし「天長節」と定めた。「天長」とは「天長地久」という熟語からで、天地が永久に続くごとく、天皇の長久を願う意味である。

天皇の誕生日を祝日にする歴史としては、すでに宝亀六年(775)に見られたが、この慣例は長年にわたって中断されていたものを復活させたのである。

なお、天長節は、明治六年(1873)に太陽暦が採用されて以来、十一月三日と定められた。

 九月八日には、年号が慶応から明治に改元され「一世一元の制」が定められた。なお、明治元号の出典は前号で述べた通りであるが、これで初めて明治時代という新しい世が正式にスタートしたのであるが、これらの変化について少年天皇が自ら意志を表明し、意図的な指示をしたという記録はない。

③ 東京へ遷都

江戸から東京への名称変更は八月四日に「海内一家東西同視」という配慮から「東の都」として東京が命名されていた。

その東京への遷都は簡単には決まらなかった。理由はいろいろあった。一番の理由は、八月十九日の榎本武揚率いる幕府軍艦脱走であって、東国が鎮圧されていないため時期尚早というもの。

二番目の理由は財政難であった。東京行幸には莫大な費用がかかるが、その手当てがなされていない、とういうより官軍にはお金がなかった。それに加えて、京都市民からの危惧である。京都から東京に正式に遷都されるのではないかという不安で、その心配に対し遷都ではなく行幸であると発表されていた。

しかし、この当時の東京は寂れていた。それをサトウは次のように表現している。
「出入りの商人や商店主がこれまで品物を納めていた諸大名は、今やことごとく国もとへ立ち退いてしまったので、人口も当然減少を免れなかった。江戸は極東(ファーイースト)*の最も立派な都市の一つであったから、それが衰微するというのは悲しいことだった。江戸には立派な公共建築物こそないが、町は海岸に臨み、それに沿って諸大名の遊園地が幾つもあった。城は、素晴らしく大きな濠をめぐらして、巨大な石を積み重ねた堂々たる城壁を構えていた。絵のように美しい松並み木が日陰をつくっており、市の中にも田舎びた所が多く、すべてが偉大という印象を与えていた」(一外交官の見た明治維新・下 アーネスト・サトウ著 岩波文庫)

 東京遷都の発案者である江藤新平は、旧幕府軍艦を恐れて天皇の東幸が延期されれば、新政府は信を内外に失うばかりでなく、将軍と諸大名が去った東京は寂れ果て、江戸市民は主人を奪われたも同然の思いをしており、一日も早い東京行幸が必要だ、という力強い雄弁に加えて、大久保利通の賛成と、岩倉具視の政治的判断があわさって、問題のお金は幸いにも大半を、三井次郎右衛門を始めとする京大阪の富商が請け負ったことから、九月二十日に天皇は東京へ出発した。岩倉具視、中山忠能、伊達宗城、池田章政(岡山藩主)、木戸孝允を筆頭に、供は三千三百余人にのぼった。

 この大掛かりの東京行幸中、天皇はどのような行動を民衆に示したのだろうか。明治天皇紀に記されているいくつか紹介する。

 熱田近くで米を収穫する農民から稲穂を取り寄せ、農民に菓子を賜り、その労をねぎらったり、静岡沿岸では始めて太平洋を見たり、大井川では天皇のために板橋が架けられて渡り、富士山を仰ぎ見て、箱根越えし、東京に入ったのは十月十三日で、最初の休憩は芝高輪で「では、泉岳寺はこのあたりであるな」と赤穂浪士討ち入りに関心を示した。

 天皇を迎えた江戸市民であったが
  上方のゼイ六どもがやってきて、
  トンキョウなどと江戸をなしけり
 と、東京への改称が気にくわない落首を書き  
  上からは明治などというけれど、
  治まる明(おさまるめい)と下からは読む
 と、年号変わりに対する落首など、これが当時の東京市民の気持ちを表していた。

 そこで、十一月四日、天皇は東京行幸の祝いとして東京市民に大量の酒をふるまった。下賜された酒は、約二千九百九十樽で、加えて、各町に錫(すず)瓶子(へいし)(銀製の徳利)とするめが下賜され、市民は二日間にわたって家業を休んで楽しんだ。
 
この振る舞いに対する、漢詩人・大沼枕山の七言絶句である。
「天子遷都寵(ちょう)華(か)ヲ布ク         天子が遷都し寵華を賜った
 東京ノ児女美花ノ如シ          東京の子女は花のごとく美しい
 須(すべから)ク知ルベシ鴨(おう)水(すい)ハ鷗(おう)渡(と)ニ輸スルモ 鴨水が鷗渡に及ばぬことを知って
 多少ノ簪(しん)紳(しん)家ヲ顧ミズ        公家たちは家のことなぞどうでもよくなった
 
「寵華」とは天皇が賜った酒のこと、「鴨水(京都の鴨川)」は今や、京都の公家たちにとって「鷗渡(東京の隅田川)」ほど魅力がなくなり、先祖伝来の京都の家を忘れてしまった、というのである。(ドナルド・キーン)

酒を振る舞うなどの融和策発案は、少年君主には難しいのではないかと思われ、側近たちの考えからであろう。

④ 海外事情の把握

維新の志士達が直に拝謁し「今度の天皇はなかなかおエライぞ」という自己判断をしたことは既にふれた。そうなると天皇の教育への関心が一層高まる。

それまでの教育は、中国や日本の古典の学習、それと馬術である。天皇が乗馬に対する興味に目覚めたのは慶応三年であった。女官に囲まれて育った身体を鍛えるためだったが、以来、天皇は乗馬に憑かれたように熱心になった。これについては後で詳しくふれることになる。

新しい時代の君主たるべき教育として、明治四年(1871)に教科科目に「西国立志伝」の講義が加わった。これはサミュエル・スマイルズの「自助伝」(Self-Help)の翻訳である。

さらに原書講読としてドイツ語を始めるにいたった。講師には独学でドイツ語を学んだ加藤弘之が選ばれた。当時、日本にはドイツ語の教科書はなく、美濃紙に木版刷りでつくった。その挿絵を見られたい。(木村毅著)

これを筆者が訳すると
  ドイツ語授業 第一課
  天皇―日本帝国アカデミー
  ドイツ語 初級用
大学 ナンコウ
江戸 1870年
となるが、このDaigaku Nankόとは、南殿のことではないかと考えられる。つまり、紫宸殿のことであり、紫宸殿とは内裏において天皇元服や立太子、節会などの儀式が行われた正殿のことで南殿、前殿ともいわれる。

なお、江戸をJedイエドと書いてあるのは、当時の外国人が日本人の発声から聞いて、それをローマ字で当てはめていたからで、長崎についてもNangasakiナンガサキと綴っていた時期があったことから分かり、加藤弘之もそれに従ったのであろう。

外国の皇族との交際も行われるようになってきた。明治二年九月、イギリス・ヴィクトリア女王第二王子のエジンバラ公が来日し皇居内で会見された。

さらに、外国事情の入手のひとつとして明治二年十一月、徳川慶喜の弟である水戸藩主の徳川昭武に謁を賜った。一年間のフランス留学から帰国した昭武に、天皇は外国事情を尋ねたのである。昭武の報告は天皇にとって未知のものであった。それ以来、天皇は昭武を頻繁に召している。

これは外国事情の把握であり、明治天皇が自らの意志として行動されたことは、新時代の君主として、攘夷から開国へ踏み切った姿を明確に示している。

⑤ 侍読、元田永孚の影響

 侍読として最も重要な存在である元田永孚は、明治四年五月に初めて天皇の御前に伺候した。既に五十二歳となっていた。

 元田永孚は文政元年(1818)、熊本で生まれ、家系は中流の武士階級で、二十歳になるまで横井小楠など多くの学者に学び、朱子学の学者として、熊本藩主細川護久の侍講として仕えたが、藩重臣の推薦と、三条実美の承認を得て、天皇の侍読に選ばれたのである。

 元田への天皇の信任は厚く、明治天皇に多くの感化を与えたといわれている。特に、晩年の明治天皇が示した態度を分析すると、幕末時代に佐久間象山が唱えた「東洋の道徳と西洋の科学の結合」が特徴づけられると判じているが(ドナルド・キーン)、これは元田からの影響が大きいと思われる。

 この元田については、鉄舟の侍従との関連で次号でもふれたい。何故なら、元田は侍読、鉄舟は侍従、その職務が異なり、侍読は天皇に学問を講義する立場であり、その意味である程度明確な役割であるが、侍従とは何をもって仕える職務なのかよくわからない。そのところを整理しないと鉄舟の明治天皇への貢献検討を進めることが出来ない。

さらに、侍従という立場を経験した人物はほんのごく僅かで、特殊な職業であるから、検討には一工夫の必要があると思っている。次号へ続く。

投稿者 Master : 06:01 | コメント (0)

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の三

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の三

慶応から明治へ、一世一元の改元は、明治天皇が即位した慶応四年(1868)八月二十七日の翌月九月八日になされた。この「明治」という出典は「易経」の中に「聖人南面して天下を聴き、明に嚮(むか)いて治む」という言葉の「明」と「治」をとったものである。聖人が南面して政治を聴けば、天下は明るい方向に向かって治まるという意味である。

この元号提案者は松平春嶽(慶永)とも、または、清原(儒学の家柄)、菅原(学者の家系)両家堂上の勘文、これは朝廷の質問に答えて吉凶を占って提出する意見書であるが、その中の二・三の候補から、籤によって選んだともいわれている。いずれにしても、この明治という改元によって封建時代から近代化へ、日本は見事に変換したわけで、改元は大成功であった。

さて、明治天皇がどのような天皇であられたのか。勿論、明治時代の治世者として偉大な業績を遺されたのであるから、その業績の数々を具体的に挙げるのは簡単だろうと思われるが、これが意外と難しい。この難しい理由は後ほどとし、まずは、明治天皇がいかにバランスのとれた君主であったかを三つの側面からお伝えしたい。

最初は人格面である。明治15年(1882)にチャールズ・ランマン(日本公使館勤務)がその著書「Leading Men of Japan」で次のように書いている。

「ヨーロッパの君主や王族の多くと違って、明治天皇は放縦に身をまかせるということがなく、もっぱら精神を教化することに喜びを見出している。知識を求めるにあたって労を惜しまず、個人的不自由も厭わない。まだ若いにも拘らず(注 当時二十歳)、枢密顧問官の会議には頻繁に出席する。(中略)行政部門をよく訪れ、天皇の出席が望ましいあらゆる公務にも常に顔を出す。科学や文学にいそしむ一方で、専門的な研究に毎日数時間をあてるなど自分を厳しく律する習慣を持ち、それに厳格に従っている。性格においては賢明、断固たる決意の持主で、進歩的かつ向上心に燃えている。治世の最初から天皇のまわりには帝国きっての賢い政治的指導者が配され、これが当然のことながら天皇自身の成長にも役立っている。かくして今世紀の日本の王冠は、偉大なる尊敬に値する人物の上に輝いている」続けて「偏見から自由で、国家の繁栄の増進に有益と思われるあらゆるものを外国から採り入れる熱意ある向上心のある持主」と称え、ピョートル大帝に驚くほどよく似ていると明言している。(明治天皇 ドナルド・キーン著 新潮社)

ピョートル大帝(1672~1725)とは、ロシアのツァーリ。スェーデンとの戦争で勝利し、ヨーロッパ大国の地位を確立し、バルト海への出口を獲得、ここに新しい首都サンクトペテルブルグを建設し、国家名称をロシア帝国に昇格させ、ロシアを東方の辺境国家から脱皮させたその功績は大きく「ロシア史はすべてピョートルの改革に帰着し、そしてここから流れ出す」とも評されている人物である。

しかし、ドナルド・キーン氏は同書でランマンに異論を唱える。

「人格の上でこの二人には類似するところなぞ何一つなかった。片や粗暴で残忍とさえ言えるロシアの君主、片や誠実で極めて控えめな日本の君主である」と。

このように人格面ではピョートル大帝を否定しているが、ランマンは国家を近代化へ導いたという業績、その共通性をもって、似ていると評したのであろうと推測する。

次は、明治天皇の文化的素養である。これも外国からの評価から紹介したい。

明治天皇崩御のとき、各国のマスコミは挙げて業績をたたえ、哀悼の意を表しているが、ドイツのアンツァイゲル紙は「日本天皇の詩的宮廷」と題し、歌道に深い教養をお持ちと伝えている。(明治天皇 渡辺茂雄 時事通信社)

「そもそも日本における古来の伝統は、今日のような現代的な社会にあっても、なおその勢力を維持し、『ミカド』の宮廷をして、ミューズ(詩神)の居所たらしめ、天皇の宮廷は、あたかもトルバドール派詩人の時代におけるルネーの宮廷のごとく、いずれもみな詩人にして、詩歌をもって談話するも、廷臣にとっては決して不自然とは思われない・・・」

明治天皇は「幼少よりきわめて健康で活発な少年であり、いじめっこの風貌さえあり、相撲も一番強かった」ので、父君孝明天皇は万一行きすぎることがあっては、という心遣いから六歳の時に「今日から毎日歌をつくるように―――歌はたけき心をなごやかにするものだ」と仰せになり、その時から毎日孝明天皇に歌を差出して添削を受け、孝明天皇崩御後も歌道に励み、その生涯に十万首に及ぶ和歌を詠んでいる。

明治二年(1869)の歌会始第一回では、華族や役人のみの歌であったが、明治七年(1874)には一般国民の歌も募られるようになり、そのうちの優れたものを選歌にするようになったのは明治十二年(1879)からであった。

平成二十四年の歌会始は一月十二日、皇居・宮殿「松の間」で行われた。今年のお題は「岸」で、天皇、皇后両陛下や皇族方のお歌のほか、1万8830首の一般応募(選考対象)から入選した10人の歌が、古式ゆかしい独特の節回しで披露された。天皇陛下のお招きで歌を詠む召人は詩人・小説家の堤清二さんが務めた。

天皇陛下は2011年5月6日に東日本大震災のお見舞いで岩手県を訪れ、ヘリコプターで釜石から宮古まで移動した際に、上空から見た被災地の印象を詠まれ、皇后陛下は、俳句の季語を集めた歳時記に「岸」の項目がないことをとらえ、季節を問わずに、あちこちの岸辺でだれかの帰りを待つ人たちに思いを馳せられたという。

ドイツのアンツァイゲル紙が「日本天皇の詩的宮廷」と述べたのは、このように国民との結びつきを高く評価したのである。

また、明治天皇の和歌について、昭和を代表する二人の歌人が次のように高い評価をしている。まずは、北原白秋である。

「歌聖としての明治天皇は、その御風格において、まことに大空のごとく広大であらせられた。いかにも帝王の御製であり、御歌柄であらせられた」

斎藤茂吉も次のように述べている。
「明治天皇は和歌を好ませたまひ、且つ歌聖にましました。その歌詞の堂々たる、御心のままの直ぐなる、さながらを詠じたまひて、豪(すこし)も巧むことあらせられず、これ御製の特色と拝察したてまつるのである」

これらの発言は、明治天皇の和歌を通じた文化的教養の高さを証明するものであろう。

三つ目の側面は、江藤淳氏が言う「軍服を召した、けいけいたる眼光を光らせる写真」、つまり、前号で紹介したヒュー・コータッツィがいう、エンペラーとはラテン語のエンペラート「軍を率いる者」が語源であるが、それにふさわしい軍人としての一面である。実は、明治天皇は戦争に格別の関心を寄せている。

「天皇は、この戦争(普仏戦争1870年7月~71年5月)に格別の関心を寄せた。陸軍士官だった高島鞆之助は、回想している。天皇は、手元に届いた普仏戦争の戦況報告をつぶさに調べ、両軍が採った戦略について、しきりに侍臣たちに質問を浴びせたものだった、と。高島によれば、この戦争が終って間もなくドイツの軍隊が横浜港に寄稿した際、艦長は天皇に一枚の写真を献上した。それは普仏戦争の写真で、『砲烟天に漲り、殺気大空に満ちて一見血湧き肉踊る物凄さ』を写し出していた。ドイツ海軍士官の艦長は、よろしければ写真について説明いたしましょうか、と申し出た。天皇は直ちに許可を与えた。写真が撮影された日の両軍の戦略はもとより、戦争の結末に到るまで天皇は非常な興味をもって説明に耳を傾け、『龍願殊の外麗しく御聴取りになった』と、高島は書いている」

「天皇は明治五年(1872)四月七日、ドイツ弁理公使から普仏戦争凱旋祝祭の写真の説明を受けている。言うまでもなく、天皇が一外国人をこのような目的で御前に召すなど前例のないことだった」(明治天皇 ドナルド・キーン)

普仏戦争でフランスが敗れたことから、それまで日本陸軍はフランス式を採用していたが、この時以降、日本陸軍はドイツ方式を導入した。明治天皇の普仏戦争に対する情報収集分析結果が影響したと考えるのは容易である。

しかし、践祚されたころは、おはぐろをつけて薄化粧していた少年天皇であったわけで、その変化は国家君主として、軍の統率者として、その適性が十分あることが推測できるであろう。

このように明治天皇は、人格的にも、文化的にも、国家君主としても、バランスのとれた治世者であったことが各方面からの証言で認識できるが、そのような治世を成すには封建時代と一線を画す環境変化が前提要件として必須であった。その必須変化を招いたものは二つの改革、廃藩置県であり、これと同時に成された宮廷改革であった。

廃藩置県について、伊藤博文はその成果を欧米視察団として赴いたサンフランシスコで次のように演説している。

「数百年のあいだ強固に成立していた封建制度が、一発の弾丸も放たず、一滴の血も流さずに、一年のうちにとりはらわれた。世界のどこの国で戦争しないで封建制度を打破したであろうか」と。

確かに、このように大見得きった通りで、廃藩置県によって、個々の領地を治めていた大勢の封建領主を辞めさせ、代わって明治天皇が日本国で唯一の支配者となったわけで、近代国家への大きな道筋をつけたことは間違いない。

しかしながら、天皇の周りの環境変化も同時になされなければ、既にみたようなバランスとれた君主としての地位を、固められなかったことも容易に推測できるし、恐らく、廃藩置県と同じ月(明治四年七月)に断行した宮廷改革の方が、明治天皇にはより一層大きな影響を与えたと判断している。

改革が実行されるまでの宮廷には、数百年来の前例、旧例、古例という仕来たりが横たわっていて、五カ条の御誓文として「旧来の陋習を破る」という基本方針が出されが、宮廷だけは明治維新を成し遂げた功臣達でも、どうしょうもなく困難で、これでは若き明治天皇への教育が進められないと歎いていた。

木戸孝允は日記で、その必要性を何度も書き述べているし、岩倉具視もまた、若き天皇の周囲に適切な相談相手が必要であることを痛感し、岩倉は三条実美に宛てた書簡の中で「君徳」の培養が肝要であることを強調し、今や維新の初めにあたり天皇は年若く経験に乏しい、ゆえに「輔導の任一日も闕(か)くべからず」と述べ、公家、諸侯、徴士の中から篤実謹厳なる者、器識高遠なる者、または、和漢洋の学識ある者を選抜し、天皇の侍臣ないし侍毒に当てるべきであると勧めている。
この状況について、ドナルド・キーンは同書で次のように述べている。

「この時期まで、宮廷に仕えることが出来たのは堂上華族だけだった。古来からの系統を受け継ぎ、もっぱら先例、格式を墨守するのが彼ら堂上華族の身上だった。天皇が私生活を営む大奥もまた同様に、公家出身の女官が取り仕切っていた。その多くは、前の治世から延々と居残っている者たちだった。これら女官たちは融通の利かない保守主義のかたまりで、天皇に対する影響力を駆使してあらゆる変革の機先を制した。

政府重臣は三条実美や岩倉具視のような公家さえこの現状を嘆き、その改革を試みようとしていた。しかし、数百年来の慣習を一朝にして改革することは至難の業だった」

ここに登場したのが西郷隆盛であった。

「廃藩置県実現のため東京に来ていた西郷隆盛は、今こそ改革の時であると決意した。『華奢・柔弱の風ある旧公卿』を排斥し、『剛健・清廉の士』を天皇の側近に据えるべきである、と西郷は考えた。これを木戸孝允、大久保に謀り、さらに三条、岩倉に進言して英断を迫った。七月四日、決定が下された。薩摩藩士吉井友実が宮内大丞に任じられ、宮内省と内廷の改革の責任者となった.」(同書)

 責任者となった吉井友実は、思い切って女官たちを総免職する強硬策をとった。吉井は総免職を申し渡した明治四年八月一日のことを次のように述べている。

 「今朝女官総免職、ひるすぎ皇后御小座敷へ出御、大輔萬里(までの)小路(こうじ)*殿お取り次ぎにて典侍以下新たに任命、中には等を下げられた人もあり・・・右おわりて皇后入御、判任官、命婦、権命婦の分は余書付をわたす。これまで女房の奉書などと、諸大名へ出せし数百年来の女権、ただ一日に打ち消し愉快極まりなし」(明治天皇 渡辺茂雄)

さらに翌年五月、再び宮廷改革が実行された。これで典侍以下女官三十六人―――いままで大奥という牙城のなかに勢威をはっていた連中の大部分は罷免されてしまい、爾来、宮中奥向きのことはすべて皇后のもとに統一されることとなり、何百年かつづいた積弊は一掃されたのである。

この結果は、今後は公家であると士族であるに関わらず侍従に任じられることになり、新たに侍従として選ばれたメンバーは以下の通りであった。

鹿児島藩 高島鞆之助 村田新八
長州藩  有地品之允
越前藩  堤 正誼
熊本藩  米田虎雄
土佐藩  高谷佐兵衛
佐賀藩  島 義勇
旧幕臣  山岡鉄太郎
 
 いよいよ鉄舟の登場であるが、これら選ばれた侍従達が明治天皇に大きな影響を与えたことについて、渡辺茂雄が同書で次のように書いている。

 「いずれも戦場往来のえりぬきかの猛者ばかり、彼らがあたらしく女官や公卿にかわって君側に奉仕することになったのだから、いままでとは月とすっぽんのちがいである。いかに天皇の周辺が、剛毅闊達の気にみちてきたか、およそ想像できよう」と。

 西郷隆盛も宮廷改革について、その成果を叔父椎原與三次に宛て書簡で述べている。
「いろいろ変革が行われた中でも、なにより喜ぶべきことは、天皇ご自身の身辺にかかわることである。これまでは華族でなければ御前に出ることは出来なかったし、たまたま宮内省の官員であっても、士族は御前に出ることは出来なかった。しかし、これらの弊習はとごとく改められ、侍従でさえ士族から召し出されるようになった。公卿、武家、華族の分け隔てなく官員は選ばれることになり、特に士族出身の侍従を天皇は好まれるようで、実に結構なことである。天皇は後宮にいることをひどく嫌われ、朝から晩まで表御殿に出ておられる。和漢洋の学問に励まれ、侍従等と共に会読なされるなど、寸暇もなく修業に打ち込むあまり、服装もこれまでの大名などよりいたって身軽で、勉学の励まれようは人並み以上である。今や天皇は昔日の天皇にあらず、見違えるように意欲的になられたこと、三条、岩倉の両卿でさえ認めている。元来が英邁の質で、極めて壮健であられ、このような天皇は近来では稀であると公卿たちも言っている。天気さえよければ毎日でも馬に乗り、二、三日内には御親兵を一小隊ずつ召されて調練する予定で、今後は隔日に調練をなさるとのことである。大隊を率いて自ら大元帥をつとめられるとの御沙汰があり、なんとも恐れ入る次第で、ありがたいことである」(明治天皇 ドナルド・キーン)

 このように西郷の書簡は、見事な明治天皇の変化を書き述べている。

  また、東京大学の山内昌之教授は「明治天皇がローマ賢帝との共通性」(2011.3.31)の中で、次のように述べている。

「天皇は、多くの賢臣から薫陶を受けている。しかし、統治や統帥、知性や教養の全体を覆うバックボーンは、西郷隆盛や、その推輓(すいばん)*で侍従となった幕臣、山岡鉄舟の存在に負うところが多いのではないか。宮中を女官中心の内裏の雰囲気から変え、西欧のように武芸から学問にまで通じる活動的な青年君主に育てた人物は、まずこの2人であろう」と。

その通りと思うが、山内教授が指摘する明治天皇への鉄舟影響を具体的に述べるためには、明治天皇という立場の分析、それは当然に今上天皇とは大きく異なるわけで、その解説が必要であり、併せて、他の侍従との違いを検討しないと十分な理解が得られないだろう。

なお、2012年2月1日に、NHKは「西郷隆盛と山岡鉄舟の相棒物語」を放映した。

この放映内容になるほどと思い、同番組で鉄舟の業績を「江戸無血開城」と「明治天皇教育」と見做したことには同意するが、それを聴視者に十分納得できるものに編集していたか、という視点からは疑問を感じる。

特に、明治天皇の業績の数々を具体的に挙げ、それと関わる鉄舟について述べることはかなり難しく、簡単にはいかない作業であるが、その壁にNHKもぶち当たったので、今回の中途半端な放映になったと思っている。

しかし、この検討をしないと鉄舟を妥当に理解できないわけで、次号以下でそのところを掘り下げいきたい。

投稿者 Master : 05:52 | コメント (0)